#結婚式の歌
Explore tagged Tumblr posts
Text
ウェディングベル
6月です。
ジュン・ブライドです\(^O^)���
オリジナル曲【ウェディングベル】
作詞作曲:石川善一
youtube
#ウェディングベル#ウェディング#ハッピーウェディング#ジュン・ブライド#結婚式#結婚式の歌#披露宴#花嫁#オリジナル曲#オリジナルソング#作詞作曲#石川善一#花嫁の父#おめでとう#おめでとうございます#祝#めでたい#幸せをつかむ#新たな始まり#結婚指輪#優しさに包まれる#拍手#綺麗な涙#薬指#今までお世話になりました#シンガーソングライター#アマチュアミュージシャン#ミュージシャン#Youtube
1 note
·
View note
Text
ウェディングベル
6月です。
ジュン・ブライドです\(^O^)/
オリジナル曲【ウェディングベル】
作詞作曲:石川善一
youtube
#ウェディングベル#ウェディング#ハッピーウェディング#ジュン・ブライド#結婚式#結婚式の歌#披露宴#花嫁#オリジナル曲#オリジナルソング#作詞作曲#石川善一#花嫁の父#おめでとう#おめでとうございます#祝#めでたい#幸せをつかむ#新たな始まり#結婚指輪#優しさに包まれる#拍手#綺麗な涙#薬指#今までお世話になりました#シンガーソングライター#アマチュアミュージシャン#ミュージシャン#Youtube
1 note
·
View note
Text
二日後に友人の結婚式で歌う生徒さん。
歌が苦手で音痴で悩んでいるという生徒さんが体験レッスンに来ました。 社会人の男性の生徒さんは学生の時から、苦手で友人とカラオケに行くのを避けていたらしいのです。 話を聞くと二日後に友人の結婚式で歌のプレ���ントをしなくてはならないという話。 急遽、カラオケのレッスンを1時間する事になりました。 友人の結婚式で歌うのは、GReeeeN…

View On WordPress
#GReeeeN#JPOP#アニソン#オンラインレッスン#カラオケ#キセキ#ボイストレーニング教室#ボイトレ#リズム練習#リズム音痴#低い声#喉が痛い#地声#声がかすれる#声のトーン#声色#声質#大きい声#歌が苦手#結婚式で歌う唄#結婚式披露宴で歌う#腹式呼吸#自分らしい声#裏声#通る声#音痴#音程#高い声#高い声が出ない
0 notes
Text

鈴木 愛理は、日本の歌手、女優、モデル。所属事務所はアップフロントクリエイト、所属レーベルはzetima、UP-FRONT WORKS、Epic Records Japan。『Ray』専属モデル。 千葉県出身。血液型B型。身長161.8cm。 ウィキペディア
出生地: 岐阜県
生年月日: 1994年4月12日 (年齢 29歳)
両親: 鈴木亨、 丸谷 京子
音楽グループ: ℃-ute (2005年 – 2017年)、 ハロー!プロジェクト、 Buono! (2007年 – 2017年)、 あぁ!、 ハロー!プロジェクト・キッズ、 H.P.オールスターズ (2004年 – 2004年)、 4KIDS
兄弟姉妹: 鈴木貴之、 サイキ・スズキ
学歴: 慶應義塾大学環境情報学部 (2013年–2017年)、 慶應義塾大学
父はプロゴルファーの鈴木亨。母は元プロゴルファーの丸谷京子。プロゴルファーの娘であることから、MC等のトークで自らゴルフの話題を出したり、周囲からゴルフの話題を振られたりすることがある。『よろセン!』ではゴルフの授業を担当した。ゴルフに関しては弟の方が巧いとも述べている。出身地である千葉県に本社がある千葉銀行CMで親娘共演を果たしている。
ハロー!プロジェクトに入るきっかけは、モーニング娘。の舞台『LOVEセンチュリー〜夢はみなけりゃ始まらない〜』で、矢口真里が最前列にいた鈴木に向かってステージ上から手を振ったことがきっかけ。
Berryz工房の清水佐紀からは制服のおさがりをもらうほどの仲である。他に、グラビア雑誌『UP to boy』で共演した渡辺麻友とも仲が良い。
℃-uteの曲で一番好きなのは「美少女心理」。
好きな物は母が作った炊き込みご飯。
抹茶も好きでBerryz工房の熊井友理奈とよく一緒に抹茶を使ったスイーツを食べている。2人で組んだ非公式ユニット「抹茶ーず」は2012年11月26日に宇治商工会議所より「宇治茶♥大使」に任命された。2016年11月14日には「宇治市観光大使」にも任命された。
幼少の頃から歌うことが大好きで、歌手になることを目標としてきた。また、コルネットを吹くことができる。
嫌いなものは、ヘビと雷。雷が鳴ると机の下に逃げ込む。
仕事をきっかけにアニメにハマっており、『魔法少女まどか☆マギカ』『化物語』『ラブライブ!』が好きである。
日本武道館での初コンサートのライブ看板が、ミススペリングで「DUDOKAN」と表示される。このニュースは反響が大きく、DUDOKANがライブ当日のTwitterのトレンド入りした
新体操選手の畠山愛理とも親交があるが、畠山が鈴木誠也と結婚したため同姓同名となった。
233 notes
·
View notes
Text
六曜より大切にしたいものがあったから仏滅に結婚した。夫も「知らないけど、アメリカではいい日だよ」と言っている。
入籍日までは、仄かな恐怖と一緒に過ごした。今死んだらみんな悲しむよなという気持ち。職業柄もあるのだろうが、常に死がそこに見えていて、大切なものが増える度に死ねないな、死ねないなと身を固くしてしまう。誰かを悲しませないように、今日も生きることを続けている。あなたのために生きている。あなたがいつか生きる理由がわからなくなった時、わたしのために生きていて欲しい。と思っている。夫の祖母が入籍日のほんの数日前に亡くなった。わたしに報告した夫は泣くわけでもなく、ただ静かだった。理由を聞くと「94歳だよ。仕方ないよ」と話してくれた。素敵だと思った。わたしも死ぬことを許されるくらい大往生してからが良いなと思った。
結婚してからは大して変わらない毎日を過ごしながら、生活の合間で粛々と氏名変更をこなしている。夫は手続きするものがほとんどなく、呑気そうで羨ましい。戸籍謄本が出来上がらないので、金融口座の氏名変更ができないでいる。給料が入る金融口座の氏名変更ができないと職場にも書類を提出できなくて、旧姓のまま働いている。旧姓で呼ばれたり、新姓で呼ばれたり、マリッジブルーなんてものはなく、友人や職場の後輩がきゃあきゃあとわたしを新姓で呼んでいるのをどこか他人事のように聞いている。中高生の頃は、授業時間に好きな人の苗字と自分の名前をノートにこっそり繋げて書いて、うっとりとしていた。そんな気持ちこそないが、当���り前のように改姓を受け入れてしまっている自分に「へえ」と思いつつも、どこか晴れ晴れとしている。
結婚指輪も20歳くらいから決めていた彫金師の方に特別に作ってもらえることになった。とても嬉しい。育児の合間にゆっくりと制作してもらっているため、まだ手元にはない。とっておきのおまじないをかけてもらった指輪が出来上がる予定。
結婚式も妊娠についてはまだ何も考えていない。昨日、子を産んだ高校の時のクラスメイトに会った。「出産育児に対して何も後悔はないし、子は可愛いけれど産む前の生活には2度と戻れないのだなと思っている」と教えてくれた。まずは夫婦としてのふたりきりの生活を謳歌しようと思っている。日中働いて、夜はすすきのに酒を飲みにいき、たまに長く有給をとって旅行に出かけるような生活。今この文章は、ソウルへ向かう飛行機の中で書いている。夫は横で文庫本を読んでいる。旅行に行く時は必ず、旅のお供に新しい文庫本を買うような人だ。そういうところがいいなと思っている。プロポーズ前に決めた旅行が、図らずとも新婚旅行になってしまった。パスポートの名前は旧姓だし、左手薬指に指輪のない新婦と生レバーを食べたがっている呑気な新郎。
幸せって状態ではなく、感じる心だとどこかで聞いた。わたしは今、幸せなのだろう。幸せだと感じると同時に怖くもなる。夫と一緒に歳を取っていくのは楽しみであり、歳をとっていくと辛いことも多くなるのだろうと悲観してしまう。いつかどちらかが先に死んでしまうと死別が予定されている未来。夫に看取られたいと思う反面、夫を残すのは可哀想だとも思う。夫が死ぬ前にボケてしまいたい。願わくば、頑固なばあちゃんにならずに可愛くボケたい。幸せであるうちは、その幸せをいつか喪失する恐怖からは永遠に逃げられないのだろう。そんな恐怖とも、横でうたた寝をし始めた夫とも、今後とも仲良くしていこうと思う。
25 notes
·
View notes
Text
2024.09.28
10月に地元で会う約束をしているYから、彼女の好きな小説家のサイン本を買ってきてほしいと頼まれた。それで、今日の昼から池袋の本屋を回ったけれど、どの店でもとうに売り切れているようだった。時間を持て余して、大学図書館へ向かう。
大学時代の同級生と数年に一度出している同人誌の次号を、今年の12月に発刊することになった。私はもう短歌をやりたくなく、短歌以外に何を出せばいいのかも分からない。そのまま同人誌用には何も書かないで過ごしていたのだけれど、主宰が面白がったので、数日前に書いた自室の記録を加筆修正して寄稿することにした。卒業生カードで入館し、しばらく文章を直していた。こども園で働くFさんを幼稚園教諭と呼ぶことが正しいか分からず、「あなたの職業って何て書くのが正しい?」とメッセージを送る。正式には保育教諭というのだと教えてくれた後「カリスマ保育教諭とか?」とおどけた台詞を付け足すのがFさんらしかった。
ペンを持つ右手が疲れてからは散歩に出かけた。好きな本屋を経由して、自由学園明日館へ行った。正面入口に着くと「“本日は結婚式で貸し切りのため外観のみの見学”ですって、あらあ、おめでとうございます」と看板を読み上げている人がいた。その声色に少しの落胆も滲んでいないことが良かった。芝生や窓を眺めて、売店でポストカードを1枚買った。




明日館を出てから、Hと落ち合うまでを東京芸術劇場で過ごした。その場所で長い時間を過ごすのは、大学の入学式以来だった。地下1階から最上階までを目的もなく往復して、何枚か写真を撮った。最近はカメラを持つのが楽しくて、写真を撮っては投稿している。その頻度を自覚すると、自分の饒舌さに嫌気が差してくるので、記録しておきたい写真を一度に残すためにこれを書いている。この投稿は写真まみれです。


芸劇の椅子に座っていると、目の前のエスカレーターで降りてくるHと目が合い、手を振る。外では何かのお祭が開かれていて、その賑やかさから逃げるように東へ向かった。目的地とした喫茶店が閉まっているのを確認し、散歩に切り替える。テーブルと椅子を外に出しているミニストップを見つけ、カフェオレを買ってそこに腰かけた。テーブルを指差しながら「いい店知ってるんだよね」と自慢げに話すと「ダセ~」と笑われた。京都のお土産を渡した。Hと一緒に暮らすWさんの分も含めて、少し量の多いお香にした。



今日は曇り空で、街全体が白く見える日だった。電線や工事現場の壁が落書きのように浮いていた。途中、ワインの空き瓶を入口に並べている店があり、「テイクフリーかな」とふざけると「喧嘩用じゃない?」と返される。酒瓶を持って殴り合うジェスチャーをする。




都電荒川線の駅に行き着き、降りる駅も決めずに乗車する。「電車というよりは線路を移動するバスと呼ぶほうが近いね」と話しながら、googleマップ上で路線をなぞる。飛鳥山公園という場所に城のような山型遊具があることを知り、そこを目的地とした。


飛鳥山公園は、とても良い公園だった。目的としていた城は、遊具と呼ぶには気が引けるほど大きかった。かつて実際に走っていたらしいSLや子供用の船、頭を垂れた幾種もの動物たち、遊びきれないほどの遊具があった。すべり台よりも象が主体になっている遊具を見て、三崎亜記の『象さんすべり台のある街』という短編を思い出した。城の中で遊びたかったけれど、子供やその親たちが楽しそうにしているのを邪魔したくなく、また違う時間帯��様子を見たかったこともあって、「夜にまた来ましょう」と決めて公園を出た。




喫茶店で一杯ずつ酒を飲み、Hの喫煙のために王子駅まで歩く。Hが「めっちゃ良い公園だったな」と呟くので「過去形にしないで」と返すと、「めっちゃ良い公園であり続けるだろうな」と訂正してくれる。それがツボに入り、しばらく笑っていた。私と同じくHもこの街が気に入ったらしく、「ここは住み良いのかな」と引越しまで検討しているようだった。


日の暮れたころに公園へ戻ると、昼にいた子供たちは姿を消していて、代わりに大学生くらいの年頃の集団が点在していた。うち1つのグループが手持ち花火をしていて、遠くからその火を眺めていた。城の中へも入って、物見へ立ってみたり、すべり台で遊んでみたりした。ずっと楽しかった。もう営業終了していたけれど、小さなモノレールの駅もあった。“飛鳥山山頂駅”と看板の出ているのを見つけて、「下は“麓駅”なのかな」とHが言うのを確かめに行くと、“公園入口駅”と掲げられていた。冬にも来たいね、早朝も良いだろうね、ここで花見をしたら楽しいだろうね、と話をした。どの季節のどの時間にも、自分たちの楽しそうにしている様子が想像できた。


Hと別れて部屋に戻り、撮った写真を眺めていた。動物たちの写真を見て、新しい部屋でここへ来たいと思う。皆それぞ��好きな動物がいて、その動物たちと彼らとが近くにいるのを見たかった。「いつかみんなで行きたいです」とメッセージを書きながら、象は何頭かいたけれど、イルカはいなかったことを思い出す。オットセイはいた。城の写真も併せて送ると、Rさんから「籠城したい」と返信があり、それがRさんらしくて好きだった。



21 notes
·
View notes
Text

Tracklist:
「全部話しておきたいんだ」 ["I Want to Tell You Everything"] • ザナルカンドにて [Zanarkand] • プレリュード [Prelude] • ティーダのテーマ [Tidus's Theme] • Otherworld • 急げ!! [Run !!] • これはお前の物語だ [This Is Your Story] • 不気味 [Creep] • ノーマルバトル [Battle Theme] • 勝利のファンファーレ [Victory Fanfare] • ゲームオーバー [Game Over] • 夢も希望もありません [Out Of The Frying Pan] • 暗躍 [Leap In The Dark] • 海底遺跡 [Underwater Ruins] • チイはアルベド族 [Oui Are Al Bhed] • 敵襲 [Enemy Attack] • ブリッツに賭けた男達 [The Blitzers] • ビサイド島 [Besaid] • スピラの情景 [Spira Unplugged] • 祈りの歌 [Hum Of The Fayth] • 幻想 [Phantoms] • 試練の間 [The Trials] • 祈りの歌~ヴァルファーレ [Hymn - Valefor] • 召喚 [The Summoning] • 大召喚士の娘 [Braska's Daughter] • おやすみ [Good Night] • ユウナのテーマ [Yuna's Theme] • 萌動 [Movement In Green] • 異界送り [The Sending] • 嵐の前の静けさ [Calm Before The Storm] • 祈りの歌~イフリート [Hymn - Ifrit] • ルカ [Luca] • マイカ総老師歓迎 [Grand Maester Mika] • 不撓の決意 [Decision On The Dock] • The Splendid Performance • 対峙 [Face off] • Blitz Off • アーロンのテーマ [Auron's Theme] • ミヘン街道 [Mi'ihen Highroad] • ブラスDeチョコボ [Chocobo Jam] • 旅行公司 [The Travel Agency] • 通行を許可します [They May Pass] • シーモアのテーマ [Seymour's Theme] • 宵闇 [Twilight] • ジョゼ寺院 [Djose Temple] • 祈りの歌~イクシオン [Hymn - Ixion] • シパーフ乗るぅ? [Ridess The Shoopuf ?] • リュックのテーマ [Rikku's Theme] • グアドサラム [Guadosalam] • 雷平原 [Thunder Plains] • ジェクトのテーマ [Jecht's Theme] • マカラーニャの森 [Macalania Woods] • 霧海 [The Void] • 寺院楽隊 [The Temple Players] • シーモアの野望 [Seymour's Ambition] • 祈りの歌~シヴァ [Hymn - Shiva] • 迫りくる者たち [Pursuit] • 灼熱の砂漠 [The Burning Sands] • 危機 [Peril] • 明かされた真実 [The Truth Revealed] • 発進 [Launch] • 結婚式 [The Wedding] • 襲撃 [Assault] • 悲劇 [Tragedy] • 私は飛べる [Believe] • 浄罪の路 [Via Purifico] • 祈りの歌~バハムート [Hymn - Bahamut] • 審判の時 [Moment of Truth] • 父を殺めた男 [Patricide] • 素敵だね [SUTEKI DA NE (Isn't It Wonderful?)] • ユウナの決意 [Yuna's Decision] • ルールーのテーマ [Lulu's Theme] • 勇ましく進め [Bravely Forward] • 祈りの歌~ようじんぼう [Hymn - Yojimbo] • 極北の民 [Servants of the Mountain] • 祈りの歌~ロンゾ族 [Hymn - The Ronso] • 彷徨の炎 [Wandering] • いつか終わる夢 [A Fleeting Dream] • 祈りの歌~ユウナレスカ [Hymn - Yunalesca] • 挑戦 [Challenge] • 深淵の果てに [Beyond The Darkness] • 暗澹 [Gloom] • 祈りの歌~スピラ [Hymn - Spira] • 死人(しびと)が笑う [The Unsent Laugh] • シーモアバトル [Fight With Seymour] • 祈りの歌~マニア [Hymn - Anima] • 召喚戦バトル [A Contest Of Aeons] • 決戦 [Final Battle] • Ending Theme • 「思い出してください」 ["Please Remember"] • 素敵だね -オーケストラ・ヴァージョン- [SUTEKI DA NE (Isn't It Wonderful?) - Orchestra Version]
Spotify ♪ YouTube
#hyltta-polls#polls#artist: 仲野順也 [junya nakano]#artist: 浜渦正志 [masashi hamauzu]#artist: 植松伸夫 [nobuo uematsu]#language: instrumental#decade: 2000s#Video Game Music#Sequencer & Tracker#Ambient#Choral#Electronic#New Age#Orchestral Music#Cinematic Classical#Modern Classical
19 notes
·
View notes
Text

Version en Noir et Blanc,
花嫁人形という歌をご存知ですか?
「金襴緞子(きんらんどんす)の帯しめながら、花嫁御寮(ごりょう)は何故泣くのだろ」が歌い出しの日本の抒情歌で、今からちょうど100年前の大正12年に発表された曲だそうです。
金襴緞子と華やかで美しい織物のことで高価で綺麗な織物のことを表します。
大事な娘が花嫁さんとなり、嫁いで行く際に最高のコンディションで送り出した証なのでしょうね。
お支度&お着物一式:@菱田聖子さん
モデル:K子様
#バッハフォトグラフィー #photographybach#古典 #祝言 #結婚式 #結婚式前撮り #結婚式後撮り #レトロ婚 #神足町屋#japan#kyoto#wedding#京都写真家
##バッハフォトグラフィー #photographybach#古典 #祝言 #結婚式 #結婚式前撮り #結婚式後撮り #レトロ婚 #神足町屋#japan#kyoto#wedding#京都写真家#bachphotography#nihongami#バッハフォトグラフィー#日本髪#京都 kyoto#kimono#京都#着物
77 notes
·
View notes
Text
明るい部屋
2回目の結婚記念日だった。愛酒の日。若山牧水の、肝臓壊して死んだ歌人の生まれた日。結婚式を挙げた教会のそばに新しくブリュワリーができたときいて、そこでお祝いした。ビアフライトで一通りきこしめしたら店を出て、夜風の生温かい堤防に腰を下ろして、コンビニで買った缶ビールでもう少しやった。夜の海って何色かね、ときいてみたら、彼女は、黒っしょ、とこたえた。やっぱりそうかね。やっぱあれは、黒というほかないかね。
*
死にたい気持ちに丸をつける。窓の外から、若い女の叫び声と、まだ動いてるよという男のあざけるような声。俺は公衆トイレの男性用小便器に突っ立って用を足していた、四角い電灯が目の高さにあって、俺はまたひどく酔っ払っていて、焦点の合わない視界いっぱいに白い光のふちを、ごく小さな羽虫が這っていた。幾何学だ、と思った、四角形ABCDを移動する点Pだ、と思った。
*
写真撮るのが下手になった気がする。昔の方が上手かった気がする。ギターも下手になった気がする。昔の方が上手かったような気がする。
16 notes
·
View notes
Text
ハロー(´ー∀ー`)2025.4.12
職場に、出会った時から生理的に無理なババー(通称:S)が存在しているのですが、他にもたくさんストレス原因はあるんだけどこのSのストレスが今1番でかいんですね。
このSのストレスで精神削られて修復がかなり大変なのですが、この人の特徴として
・自分大好き自分語りオンパレード
・自分の家族大好き家族話オンパレード
・聞いてもいない事をペラペラ喋って止まらない
・途中で自分ばかり喋りすぎと気付いたのか逆に相手にも同じ事聞いてくるけど興味ないから全く返事を聞いてないし覚えていないからまた同じ事を何度も聞いてくる
・自分はまだ若いと思い込んでいて何でも若い子と張り合っているもしくは若い人と自分は変わらない位置だと厚かましい勘違いをしている
・自分がこの職場の中心だと思い込んでいる、自分のやり方で指図してくる、自分でやりかけた事を中途半端にして手を出した事を最後までやり遂げない挙句人に何でもかんでもさせようとしてくる
・仕事できない奴の愚痴をいちいち陰で逐一言ってくる(報告してくる)
・陰口言うくせに助けてあげて偽善者ぶるのに結局また陰口を周りに言ってくる
・新人が入ってくる度にどうあるこうあると愚痴を周りに言ってくる
もう本当に黙れって言いたい←
うんざりします。
この人の自分話も家族話もどうでもいいし、何より逐一の愚痴が苦痛すぎるのでそいつに話しかけられたらなるべく話を広げないようにしているし、その人に近寄らないようにしてるのに私に近付いてきてペラペラとどうでもいい事を喋ってきて賛同を求めるように話してくるので、不快しかありません。
先日そのSに私が平日に趣味活をする時間がないという話をすると
「えー?全くないとかそれはさすがにないと思うけど〜😒」
とか言われたんですよ。私には「独身のくせに自由時間がないとかおかしい、家族の為に家事してるとかでもないくせに」って言ってるように聞こえてめちゃくちゃムカつきました。
そもそも私が趣味活時間がないって言ってるのにそこに対してそれはないやろみたいに言ってくるのがまず意味わからんってなりました。人の話聞いてるのか?耳ついてないんか?そこで私が嘘ついたところで何のメリットもないけど?って感じだし、独身はいいよねみたいな僻みなのか既婚マウントなのかとにかく本当こいつ嫌いって毎日なります←
【嫌い】を毎日更新してくる人いるよね。
話せば話すほど嫌い←
Sを見てる私の目はいつも死んでいることでしょう😀←こんな目
嫌いな人、周りの人が変わることはほぼないので、自分が変わるもしくは関わらないようにするとか考え方を変えたり環境を変えるっていうことしか解決策はないと思うので。
とにかく今の私にできることは心の元気を取り戻す事だなぁと感じています。
大体が色々マイナスを引き摺りやすい性質なので、今年はマイナスを考える時間を減らしていきたいです。その一つとして本を読む時間を増やしたり運動の時間を増やしたり少しずつ変化させていってます。(それもあって趣味活の時間が減っているのもあるんだろうな)
4月は何か新しい事したくなりますよね。月一雑談配信の復活とメンバーシ��プ限定配信をスタートしようかなと考えています。メンバーシップ限定配信の中味は考えていないのですが、何か良いアイディア降りてこないかな←
ほんで考えてる間にまた半年とか経ちそう←
ところで先日受けた健康診断の結果が来ました。
🔸尿潜血1+…日常生活に注意して経過観察
🔸高血圧症…定期的に血圧を測定してください
🔸採血・好酸球高値…わずかに異常あり日常生活に支障なし
🔸心電図…RSRパターン(2年前の健診で不完全右脚ブロックと診断された事があり、再び右脚の電気の流れがわずかに障害されているという結果。そこまで気にしなくていいみたい、でも動悸など違和感の自覚はある為注意)
🔸腹部エコー…胆のうポリープ5ミリ(年一回の検査を)
🔸マンモグラフィー…乳腺量が多いためエコー検査を勧めます(2年前に乳腺エコーした事がありその時は異常なかった)
健康そのもの!!といった結果ではなかったけれどまぁまぁな結果でした。
子宮頚がん検査では子宮筋腫疑いのお話もあり、現在は年一の甲状腺腫瘍の通院もしているので引き続き健康には気をつけた生活を心がけていきたいものです。
すぐさま再検査❗️とか入院❗️手術❗️とかではないだけいいと思うし、平和に過ごせる事に感謝です。
このブログを書いている途中でワイヤレスキーボードが壊れてしまったので新しいものを注文しました(ついでに血圧計もw)
ワイヤレスって電池入れ替えるの面倒で、しかもなかなか繋がらない時とかもあるし誤作動かなりあってストレスだし充電式タイプはそれはそれでバッテリーの膨張とかいざ充電切れた時の充電時間もストレスだし捨てる時の事を考えると面倒でなんだかんだやっぱり有線が最強だよな!!って答えに辿り着きました←
ワイヤレスイヤホンも使おうとした時はいつも充電なくてストレスで結局有線使ってるし←
自分がつくづくアナログ人間だなーと感じます、はい。
ってことで映画や今期ドラマの感想コーナー🔻
「ウィッシュ」
ミュージカルだから正解なんだけど、個人的には歌多めなのがストーリーの邪魔になりました←
あとやっぱりディズニーは夢を見せてくれるって定義はもう滅び去っていて、現実の残酷な話って私には感じた。
王様が自分にとって都合のいい夢だけを叶えてあげ、障害になりそうな夢は全て奪って国民が��も夢を持たないようにしているあの世界は、今の日本が進もうとしている世界そのものだとも思えました。
とにかく王様がやべー←
そして王妃が簡単に王をポイ捨て←
スターが可愛いかったけどポケモン←
山寺さんディズニー作品出過ぎでキャラがかぶる事故←
そして個人的に福山雅治が苦手←
あの歌声がうねうねしてるのが本当に無理←
癖が強すぎてしんどい←
以上です
「ライオンキング」
フルCGで、めちゃくちゃ可愛かった☺️動物は癒されますね。ムファサパパが死ぬ所は号泣←
スカーってあんなに悪い奴だったっけ!?気持ちいいくらいに悪い奴だった!!!なので最後ハイエナに食べられたのはスッキリ。
プンバとティモンが面白かった!
そして「ライオンキングムファサ」も視聴途中でございます。
次は今期ドラマ🔻
「地震のあとで」
面白さを見出せず1話途中でリタイア
「子宮恋愛」
タイトルがXで炎上してたよね。子宮が恋をするとか意味わからん題材です。
私が思うにこういう性描写の多いドラマが増えてきたように感じるんだけど、これって少子化問題を危惧した国側の子供を産ませる為の誘導とか操作では??って感じるんだけど、みなさんはどう感じますか?
「彼女がそれも愛と呼ぶなら」
これも1話の途中でリタイア。高校生の娘がいて2人の彼氏と同棲してるなんて本当に気持ち悪いドラマです。その上3人目の彼氏なんて…本人達が納得してるならいいとは思う。
ただそれを見たいとは私は思わないですね。
こういう複数人の恋人とか不倫とか恋愛ものが多すぎてうんざりするよね〜
誰が求めてるの?って思う。
「夫よ死んでくれないか」
強い言葉のタイトルですが、これは面白かったです←
このドラマ、男性が見たら心が壊れてしまわないだろうか?相武紗季ちゃん可愛い
「対岸の家事」
専業主婦の苦悩、仕事と家事育児を両立している苦悩、育児休業を取得した男性の苦悩…など色んな家庭の問題がきっと現在子育て中の人や同じ境遇の人達にとっては参考になったりするドラマだと思われます。
多部ちゃんが専業主婦で働いてない自分がこれでいいのかとか世間から取り残された感じがして悩んでた中、専業主婦で肩身の狭い思いをしてないかと旦那に尋ねる場面があり、家の事を全部してくれて子供の面倒までみてくれる多部ちゃんに対して「シホだってちゃんと働いてるだろ?俺の給料は2人で稼いでるようなもんじゃん」って言ったんですよ。
全わたしが泣きました←
(お前独身だろ
こういう人と結婚できたら幸せだろうねぇ😭主婦業をなめてる全宇宙のモラハラ旦那にこのドラマを見ろ!!!と言いたくなりました←
こんな男性が存在するだけで地球の希望になります(ドラマだけど
今回は長くなったけどここでおしまいです
2 notes
·
View notes
Quote
そのじいさんが亡くなった。 昨年に父が亡くなり、私の実家は車を処分したので、実家に帰省するときはレンタカーを予約する。この連休もそうした。 ��いので、地元の自動車修理工場がフランチャイズでやっているインディーズ系レンタカーにしてみたら、受付してくれた事務の親切な女性は、レンタカー約款を読み上げる間中修理工場から爆音で流れてくる演歌のUSENに向かって突然「ああうるさいっ!」とブチぎれ、「あなたもうるさいと思うでしょう!?」と私に同意を求め、同僚に修理工場につながるドアを閉めさせると、「最後に乗っていたのは平成15年式のbB(みんなの地元のDQNがよく乗ってたやつ)です。令和になってもまだ乗ってました」というある意味SDGsでは? みたいなことを平気で言う私に、令和2年式フィットハイブリッドという、まさに隔世の感というほかない車の操作方法をとても丁寧におしえてくれた。 そんな調子で車を借りて帰ったところ、母に、「同じ町内会のじいさんと私を、車に乗せて買い物に連れて行ってほしい」と頼まれた。 正直、ちょっと嫌だった。母はよく知っている人に違いないだろうが、私はそのじいさんをほとんど知らない。まさにあいさつ程度のイチゲンじいさんであり、むこうも私を同じように思っているだろう。そのイチゲンじいさんを車に乗せて買い物に行く…気が重い。万一大事故になったらどうしよう、面倒だなあとか、そもそも知らない人が苦手…などと種々のことが頭をよぎったが仕方がない。年齢的にも立場的にもそんな子どもじみたことは言ってられないので、私は母の申し出を受け入れ、じいさんと母を買い物に連れて行った。母には一瞬「ええ…」みたいな顔をしてしまったが、じいさんの前では全力の快諾顔を心がけた。 実家の所属する町内会は、会の中でまた数ブロックにわかれているらしいが、母らのブロックだけ会費が余りがちのため、いちど寄合(=飲み会)でぱっと使おうということになったそうだ。じいさんはブロックの会計掛で、だから買い出しにゆくとのこと。90代のじいさんが町内会の財布のひもを握る、これが種々の法律の目的条文に言うところの「少子高齢化の進展」ってやつだなと思った。なお、飲み会の予定は明日とのこと。何もかも急だ。 母とじいさんは、かごいっぱいに酒やつまみを入れた後になって、急に予算に収まるか心配しだし、その場で減らそうとするので、「レジ通して予算越えた時点で減らしてもらったらいいですよ」と私は横から口を出した。買い物は予算ぎりぎりにおさまっており、母は、じいさんのことを「さすが!」と謎にほめ、じいさんもまんざらでもなさそうだった。 じいさんは先述の通り90代、母は70代なので、畢竟ひとり30代の私が荷をせかせかとトランクに積み、これで一安心と思いきや、ついでに寿司の予約にも連れて行ってほしいというリクエストが出た。一瞬「マジか…」と思ったが、乗り掛かった舟というかもうすでに乗っている船なので、ニコニコ笑って「いきましょう!」とうけおい、ナビに寿司屋の住所を設定して寿司屋に向かう、その道々、寄合は公民館ではなくじいさんの自宅でやることになっているという話になった。 じいさんは、「もう暑いから、たくさん人が入るとエアコンを入れないといけないかもしれない」と言い、私は「電気代とショバ代として、今日買った酒の数本くらいご自身で晩酌にされても罰は当たらないと思いますよ。余っても最後みんなで分けちゃうんでしょうから、今日先に飲まれたらいかがです? あ、私は絶対誰にも言いません」と真顔ですすめ、それをきいた母は助手席で、じいさんは後部座席で笑っていた。 寿司の予約がすんで車にもどったところで、私はじいさんに「ほかに寄りたいところはないですか?」ときいた。じいさんが大丈夫というので、家まで送っていき、大量の酒を玄関通り越して冷蔵庫の中までわっせわっせと運び込み、私はようやくそこでお役御免となった。 じいさんの家の下駄箱の上には「努力」と彫られた大きな飾り駒があった。それは木工をしていたじいさんが昔手ずから彫った工芸品だそうで、「努力」と書いた将棋の駒というまんがみたいな一品を掘れる人がこんなに近くにいることに、私はいたく感じ入ってしまった。マクロ組めるより努力って掘れるほうがぜんぜんいいな。 そしてその三日後、飲み会から数えれば二日後に、じいさんは亡くなった。布団の中で亡くなっていた。連絡がとれないことを案じた親戚がすぐにかけつけ、発見ははやかった。 その日にはもう私は実家から婚家に戻っていた。母から送られてきたLINEでじいさんの突然の訃報に接し、文字通りの突然の訃報ぶりにひどく衝撃を受けたが、母はLINEに「まあ~おとしにふそくはないでしょう」(原文ママ)とも書いて寄越し、その意外なドライっぷりにはちょっと笑ってしまった。 そうして私は、じいさんを買い物につれていくことを快諾し、道中ずっとにこにこして、精一杯ふたりを手伝ったことを、本当によかった…と思った。じいさんのために、というか、自分の精神衛生のために、よかった。すげなくした直後に死なれたら、すげなくしたという自己責任(良心の呵責と言い換えてもいいかも)を背負いきれない程度にはショックだったと思う。 それに、連休のよく晴れた日に、ちょっと妙な三人組ででかけたその買い物、なんだか私には結局楽しく思われたから。 死ぬということが、生きるということから決して遠くはな���てはいないように、死んでしまった人たちもまたそうである、と私は思う。つかずはなれず、なんとなく私の歩様にあわせて、今も隣を歩んでいるように思う。 最初に私をかわいがってくれた人を亡くしたのはまだ私が赤ちゃんの頃、母の親友のお母さん。とても愉快な人で、父との結婚を迷っていた母に、「母(はは)ちゃん、馬には乗ってみよ、人にはそうてみよ、よ」とはげました。そのうちこの世にやってきた私は、母以外の人に抱っこされると、せっかくやってきたこの世の終わりのように泣き叫ぶタイプの赤子だったのに、その母の親友のお母さんにだけはごく機嫌よく抱かれていた。そういう写真が残っている。私は、物心もつかないうちに、おしゃべりもできないうちにお別れした、母に伝えきいただけで自分では何にも覚えていない彼女のことを、いつもお守りみたいに心の中に持っている。赤ちゃんだった私に向けられたその無償の厚意を、つらいときの糧にしているようなところが今もある。 最初に友達を亡くしたのは小学一年のころ、友達は前歯が抜けていて、永久歯が生えてくる前にいってしまった。その子のお母さんは今になっても私に会うと、生きてたらあの子もこんなふうだったのかと思うという。私の節目、節目に、そう思うという。そのとき、友達がわたしの隣にいないという人はきっといない。 父親は私のことが大好きだった。父と母と私の三人で、あるいは父と二人で、父の運転する車でいろいろなところに出かけた。ときには父にさそわれて、その仕事についても行き、こんなに大���な娘さんがいるのと客先に驚かれ、父はにこにこしていた。 父は死ぬ間際までほそぼそと仕事を続け、わたしは彼が亡くなる直前にアポをとっていた客先の数件に、父が亡くなったことを知らせる電話をかけた。はじめて話をした先方は、私が電話をかけてきたことによほど驚き、父が亡くなったとの知らせにしばし絶句した後、あなたのことを先生はいつも自慢そうにしていたと言い、最後には先生がいなくなったら誰を頼みにしたらいいか、本当にお世話になりました、と泣き出した。私は、涙する相手に、○○さんのおかげでほんとうに最後の最後まで誰かの役に立たせてもらって、惜しんでまでもらえて、父はとても誇らしく、ありがたく思っていると思います、と言うしかなかった。でも父は、実のところ、そんなに殊勝な人間でもない上、けっこう変わってるよなというレベルでこだわりの少ない人でもあった。 父が亡くなる直前までLINEをやりとりしていた人たちに、そのままLINEで父の逝去を伝えようとしたのだが、父はLINEのトークをある程度の期間が経つとかならず全削除するという、こだわりのなさを通り越して、ややサイコパスのような一面をもっていた。 亡くなるひと月ほど前、父は、免許を返納することにしたというLINEをわたしに送ってきた。車という��のは私たちの思い出の多くを占めており、驚いた私が父に電話をかけると、「薄暮の時間帯に信号の見落としをした。今まで一回もそんなことはなかったんだから、もう潮時だと思った」と淡々と父は言った。あれだけ運転が大得意で、大好きで、アイデンティティの大部分をしめていたように見えたのに、引き際を悟ればもうしがみつない。その、ものに拘らない姿勢に私はいたく胸を打たれたし、これができない老人が多い以上、今もって、父の最も尊敬すべき美点の一つだとおもう。 ただ、電話を切ったあと、今までいろいろなところに連れて行ってくれて、たくさんの送り迎えをしてくれて本当にありがとう、と万感の思いをこめて送ったLINEも、父が、入院後(退院してくることはなかった)母とかわしあった感謝の思いを伝え合うLINEも、亡くなった時には父はすべて消しており、それを見て、私も母もあまりの父らしさに爆笑した。 (ついでに、父が亡くなる前々日まで、もはや執念のトークの削除を行っていたので、トークルームのどのあたりの人たちにまで逝去を伝えるトークを送るべきか見当もつかず、非常に頭を悩ませることになった) そんな感じの人だったので、この世に未練というものがあったとは到底思えない。退院の手筈を整え始めていた日の深夜の3時過ぎという、家族がやや油断している上に一番身動きしづらい、マジでどうしようもない時間にいきなり息を引き取ったため、父の死に目にあえなかった母。父の逝去からしばらくして、急に「お父さん、最後に私に言いたかったことなかったんやろか」としんみり言い出したので、私は反射的にげらげら笑って「あるわけないやん」と言ってしまった。死ぬ間際まで律義にLINE全削除を続けた男にそんな情緒があるとはちょっと思えなかったのだ。母もすぐにげらげら笑いだし「そうやね」と言った。 こんなふうに父のことを思い出しているとき、私はやっぱり父がすぐ側にいるように思う、フロアシフトを挟んだスカイラインの、運転席と助手席くらいの距離のところに。 生まれてから今日にいたるまで、誰かの死はいつでもそばにありつづけた。だから死んでしまった人たちも、同じようにいつでもそばにいるように思う。 生きてとなりにいる人のように声をかければ答えるわけではない、電話をかければ出てくれるわけでもない。そうだったとしても、生きている人とはほんの少しちがう居方で、それでもわたしのとなりにいてくれているのではないか、と、わたしはいつも信じる。 じいさんは、私が買い物に連れて行った翌日の飲み会の日、つまり亡くなる三日前、近所に住むばあさんに、私のことを「車に乗せて買い物に連れて行ってくれた。あの子はとてもいい子だ」と言ったそうだ。 それを近所のばあさんから母は伝えきき、今度はわたしにそれを教えてくれた。じいさんがそう言ってくれたから、近所のばあさんは私に「会ってみたい」と言っているらしい。 ありがとうじいさん。よくわかんないけどばあさんも、私に会いたいと思ってくれてありがとう。会おう。 私は今、私に会いたいと思ってくれる人がいるなら、��の人にとても会いたい。だから、次の帰省のときには、私は近所のばあさんに顔を見せに行くつもりでいる。 私の目にうつり、私が今生きている世界は、そのときには隣に、近所のじいさんがどうしたっていてくれる、そういう世界だ。
実家の近所に住むじいさんを車に乗せて買い物に連れて行った三日後
5 notes
·
View notes
Text

結婚式💒^ ^
なかなかバタバタで、
写真も撮れなかったーーと思ってたら
終わった後にまた戻ってこられたお二人の
写真をとれて、感謝🙏🙏
神様って優しい🥲✨🙏って
思いました^ ^
賛美とゴスペルがいっぱいの式で、
お二人が教会のみんなのことを考えていっぱい祈ってされた式。祝福が流れてきました。
glory to God!(^^)
そして、
さとぴのインドのダイジェストmovie
日曜の朝の8:30に完成して、
第二礼拝に間に合いました✨🙏
リバイバルナイトの後は急遽
姉の家に3名泊めてもらい、
さとぴは家で徹底作業。
昨日の夜はハードディスクが動かなかったり
色々とトラブルがありましたが、
教会の方々が祈って下さり、
完成しました^ ^
神様の働きなので、完成するのはわかっていたから平安だったとサトピーは言っておりました^ ^
個人的には派遣に行ってる時よりも、
さらに1週間、
ダイジェストを作ってる時の方が大変でした。
笑😂🙏www
次の派遣に行く時は、
ダイジェストのことも、証のことも
さらに1週間延ばして祈りきろうって
すごく学びになりました✨🙏
ウガンダも行ってほしいなと思いますが、
御心であれば^ ^
本人さとぴもアフリカに行きたいそう!
今回、姉がめいいっぱい3週間助けてくれて、
少し身体が大変そうですが、
神様がいやしてくださることを信じます。
今日も、姉も私も
なんとか生きてますってなってましたが。笑
いつも主にあって圧倒的な勝利です!!!
どんな時でも神様をみあげて
溢れるばかりのの感謝をささげ
神様が共におられるので
喜びの声をあげて
圧倒的な勝利をみました!
↑ 曲の歌詞ですねw (風のひびきら11集)
そして、今日はこころごすぺるのために
オーケストラの練習があったのですが
実は、
先週?たまたま子供のために
ある子供の音楽教室に行きました。
子供のクラスは人がまだいなくて、
開校してませんでしたw
でも、大人のためのバイオリンとか、
楽器のクラスがあるのをみて、
あー、久しぶりに先生にバイオリンを
習いたいなって思って。
そんなことを思ったこともなかったのに。笑
いつも小さい頃からお稽古が嫌いだったのにw
そうしたら、
そのまさに音楽を教えておられたプロの音楽の先生、そして今は牧師がオーケストラで教えてくださっていて、
あ、これ願いが答えられてるって
思いました。
先生がいるってなつかしい感じだーと
思いながら、
教会��恵みを感じました。
オーケストラもこれからフルオーケストラになるし、とても楽しみです!
姉もバイオリンを弾いていたので、
手が癒されてばね指も治って一緒にオーケストラに立てますように!祈ります^ ^
バイオリンもピアノに関しても、
つねに姉からの恩恵を受けていますw 
今日も神様に心から感謝します!
10 notes
·
View notes
Text
るんぺんパリ【RunPenParis】

自己紹介 2024年11月4日追記 6116文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を���強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは少しある
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している それは去年に末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 観光施設って感じ 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 今年は10月18・19・20(金土日) 19(土)は久しぶりに一人で一日中お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件回って、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて上野天神祭へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 夜の19時から同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったガキさんは すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので閉店の1時までカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の20(日)は上野天神祭に参加している同級生のオデに会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く紅梅屋でおみやげを結構買って 桔梗屋で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 俳聖殿のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 上野城のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく上野城をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった この子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 新天地には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 大きな化粧品店は更地になっていた 高校の時の知り合いが「クワトロNo.4」という バーを経営しているが、まだ入った事はない いつか行ってみたい気持ちはある ただダーツバーらしく 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど バーの扉って感じで雰囲気はあった 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で それにしても伊賀は狭いなと感じる
市部という地区だったと思う 近くに市部駅という無人駅がありその近くの 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 召し上げられた 小学校6年卒業までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きて���まっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 バスケ部の試合で名張の体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら右足のかかとがにヒビが入った その夏にはバスケ部をクビになり陶芸部に入った 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイ���に明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線のそういう女子には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。 高校生の頃はたくさん恋をしたが 自分が不器用だったので自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた 人を好きになることに迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくという感情で奥手に過ごしていった そのせいか、他校の女子からゲイだとウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時は楽しければなんでもよかった
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけでやっていて 週3回ぐらい夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
#runpenparis#art#paris#artist#artistreet#詩#vogue japan#るんぺんパリ#詩集#japan#アートブラッシュ#アート#アートワーク#アートギャラリー#アート作品#個展#自己紹介#伊賀#伊賀市#上野天神祭#140文字詩#写真#ぺん画#伊賀出身
2 notes
·
View notes
Text

「ある日本人研究者の報告書から。以下をお読みください。
まじめな投稿です。
『10年前、中国延辺朝鮮族自治州に日本時代を知る人たちのインタビューに行っていた。そのうちの一人の朝鮮族女性について書く。
李容淑(廣田淑子)さんは大正15年(1926年)生まれ。一人暮らしで、延吉のアパートのエレベータのない4階にお住まいだった。お会いした時は満88歳だった。70年間使っていなかった日本語だったが、よどみなくお話ができた。というか、日本語話者に70年ぶりに会えて、大興奮していたという感じだった。
お部屋にオルガンがあり、見ると日本時代の歌の楽譜がおいてあった。「待ちぼうけ」があったので、私がオルガン弾きながら、合唱した。彼女は、ぼつっと��この歌を心の中で、「いつか日本が戻ってこないかな、まちぼうけ」と1949年以降もこっそり歌ってた」と告白した。
旧満州国時代、龍井にあった明信高女卒で、日本語で小学校から高女まで教育を受けた。教科書も全部暗記した。死ぬまでに一度は東京、それも皇居前に行ってみたい、前の学年までは修学旅行で東京に行っていたのに、「大東亜戦争」で、行けなくなったのは返す返すも残念という。
女学校では、土曜の午後に家事実習というのがあって、割烹着をきて寿司、のりまき、みそ汁、カレーライス、錦糸卵などの作り方を教えてもらった。結婚後も、のりまきをお弁当に作ってもっていった。高女卒だから教えてもらったと鼻高々だった。
19~20歳から小学校の教師をして、日本の学校で教えてもらったそろばんやオルガンが役に立った。
日本人が去って、ソ連がきて外に出られなかった。その後「解放」があったが、その前後弟5人は「国づくり」と称して、みな北朝鮮に行って、その結果死んだ。李さんは結婚したので中国領に残った。
「解放」後、政治学習会が開かれて出席させられた。日本人は悪いといわなければならなかったが、心の中では「知っている日本人の普通の人はみんないい人ばかりだ」と呟いていた。悪いのは日本の政治家なのに。でもそれを話すと「反動分子」となるので黙っていた。
毛沢東万歳をみんなで叫ぶときに、心の中で「日本万歳」と叫んでいた。
日本時代は平和で安定していた。日本が負けてから混乱が起こり、母の妹の夫は、漢奸として銃殺された。綏芬河の牡丹江で警察やっていたから。でも日本式教育を受けた李さんは漢字を知っていてそろばんもできたので、なんとか小学校教員や会社の事務員として生き残ることができた。子どもにも恵まれた。
李さんはもう鬼籍に入られたのか。こういう語りが聞けなくなってもう10年。公式の歴史とは違う。いろんな複雑な思いがあり、李さんのことを論文にできず未消化のまま10年過ぎた。
以上は10年ぶりに出てきたフィールドノートからの抜粋である。延吉を我々が出発する朝、杖をついて見送りに来てくださった李さん。せめて日本に一度ご招待して差し上げたかった。自分の力の足りなさが恥ずかしい』
」
2 notes
·
View notes
Text
2024年6月1日土曜日
病院の待合室にて19
くちずさむ歌はなんだい?思い出すことはなんだい?(1)
「5/18(土)の午後か5/19(日)って空いてますか?徳島行ったら会えるなら安倍さんに会いたいです!」
「Tです」
Tくんからショートメールが来たのは4月の19日だった。彼と最後に会ったのは2018年に挙げられた彼の結婚式だったから、もう6年振りになる。その間一回だけ私が酔っ払って電話をかけたことがあるのだけど、連絡を取ったのはそれだけ。だから「Tです」とだけ書いてある2通目のショートメールが来たのは、こちらが電話番号を電話帳から消したりしていた場合に「誰だろう…」となるのを予め防ぐための措置だと思うのだが、私はあんまり電話帳をいじったりしないから、大抵、相手が誰かわかっているのである(と言いつつもこないだ前職の会社の人間の電話番号をあらかた消してしまった。理由は、私の兄貴が前職の会社ないしは会社の人間に電話をかけようとしたためです。兄貴というのは私の別人格ではないかと思っているなにかの、便宜上の名前です)。
「空いてるよー 会おうね」
という、私には珍しく窓を全部開け放った日本家屋くらい風通しのよい返事をして、私たちは会うことになった。5月の18日に会って、19日に別れる。18日は私が空港に迎えに行き、移動はそのまま私の軽自動車を使用する。ドライブしたり観光したりして、夜は徳島の歓楽街、栄町とか秋田町とかで飲むので、2人ともビジネスホテルに泊まる。帰りは私が空港まで送る。計画は以上である。前日になってもお互い「明日よろしくね」みたいなメールはしなかった。だって私たちが中学生の時は携帯電話なんて無かったんですよ。そんなもの無くても会えていたし、来なかった時は、なんか会えなかったな、マルサン寄って帰るか、くらいのことにしていたのである。まあでも、前日に軽い挨拶くらいはした方がいいのかもしれない。2人とも今年で40知っとるけのけだし。親しき中にも礼儀みたいなことで。まあいくら後悔したところで、しなかった事実は揺るがないけどさ。
無事に5月18日は訪れたようだったので、私は軽自動車を飛ばして、「踊る阿呆に飛ぶ阿呆、同じ阿呆なら飛びながら踊らにゃ損々、ってそれだと意味変わってきちゃうね」でお馴染みの徳島阿波おどり空港にやって来た。空港に入ると、彼が乗ってくるであろう10時55分着の便が、到着の掲示板に「順調だからたぶん時間通りに着くよ」みたいな情報と共に載っていたのだが、「福岡発」となっている。てっきり東京から来ると思っていたのだけど、それに対しては特になす術もないのでベンチで待っていた。すると中学生の頃から、全く変わっていないシルエットが、全く変わっていない動きと共に現れ、あのいわく言い難い独特な調子でこちらに手を振りながら走ってくるではないか。これはTくんに違いない。T氏来徳である。手には明太せんべいという福岡っぽさと味の間違いなさの最大公約数みたいなお菓子の紙袋を持っており、こちらに渡してくる。「ありがとう!よく来てくれたね!福岡から来たの?」と尋ねると、会社の出張で福岡に行っており、仕事が終わって福岡の親戚の家に泊まり、ついでに徳島に寄ったという。地理にお詳しい皆さんはなんとなくお気づきかも知れませんが、福岡→徳島→東京はあんまついで感のない行程である。しかしそれに気づかなかったことにより再会を果たせたので、本当に良かった。挨拶もそこそこに私の黄色いオンボロ軽四に乗ってもらって、当てもなく出発した。
徳島空港は、住所的には徳島市ではあるものの、その北の端の松茂という場所にあって、そこは私の前職の高知在住の先輩に言わせれば「もうほとんど鳴門」である。だから『くるくる鳴門』に行くことにした。道の駅の。近かったから。めっちゃ混んでた。車が順番に並んで待っているのを見るとさすがに焦る。しばらく並んで警備員の誘導に従って車を停め、中に入り外に出て、車に乗った。めっ混み。やめました。徳島ラーメン食べようね。鳴門病院という名前の、「鳴門になかったら嘘だろそんなのTDLだろ」と言うほかない病院のそばに、『三八』という、気合の入った漫才コンビの全国ツアーのタイトルみたいなラーメン屋があるのを私は知っていたので、そこに行った。
そのラーメン屋に入る頃にはもう、私たちは音楽の話をしていたと思う。私もTくんもかつて音楽をやっていた。人前でライブをしたりしていた。もう12年くらい前のことである。そもそも私とTくんは、静岡県は沼津市という街に住んでいた中学生の頃にバンドを組んでいた。それが高校2年生くらいの時に自然消滅してしまって、Tくんは自分のバンドを組んで音楽をやっていくようになった。私のほうはひとりでやっていこうとして曲を書いたりしていた。ふたりとも進学を表面上の理由にして上京したり。もう遥か昔のことである。私とTくんはバンドを組んだぐらいの頃からほとんど、音楽とそれにまつわる諸々の話しかしたことがない。だから…だから?だからなのかはわからないけど、すぐに音楽の話になってしまう。この日もそうだった。最近何聞いてるの?という話になってしまった。恐ろしい。何年も会っていなくても昨日まで一緒にいたみたいに話ができる友達、そんな凡庸極まりなくて、それでいてかけがえの無い友達がいたんだ、私にも。知らなかった。
Tくんがラーメンに続いてあまりにもスムーズに瓶ビールを注文したのを聞いて私は大笑いしてしまった。ずるい。運転しないからって。コップは二ついりますか?とか聞かないでいいから店員さん。Tくんのお父さんは車を運転する時にあろうことか缶ビールをドリンクホルダーに装填するようなドリーミーな人間だったけど、私は違うから。最近のTくんはSpotifyで音楽を聞いているようだった。まず聞きたい曲を聞いて、その後はSpotifyがこれも好きなはずだ!と次々に掛けてくれる曲を聞いているらしい。好きじゃない曲は(厳密にいうと好きじゃないミュージシャンは)飛ばすという。あまりにも12年前の続きだったせいか、何を話したのかあんまり覚えてないのだけど、この辺で我々はサニーデイサービスを褒め称えたと思う。サニーデイは素晴らしい。サニーデイのライブ見たい。今のサニーデイのライブ見たいよね。我々にそのように思わせてくれるサニーデイよ、ありがとう。三八を出た後セブンイレブンに行ったのだけど、Tくんはせっかくだからとコンビニのコーヒーを買っていた。かわいいやつめ。
youtube
この時点でまだ12時10分くらいである。やばい。中学生くらい時間ある。あの頃と違って油断すると飲み屋に入店しそうなので次の場所に行かなくてはならない。鳴門…鳴門鳴門…競艇場だ!

と思って行きました。初めて行った。入場料100円取られるの知らなかった。食堂に蛭子能収さんのイラスト付きのサイン色紙が飾ってあったのを、Tくんが見つけてくれた。最近…リニューアルした…のかな?内装がものすごく綺麗だった。でもいい感じにヨレヨレのおっさんがいっぱい座っており、生きた阿波弁がたくさん飛び交っている。Tくん聞こえるか。これが阿波弁だ。ようこそ徳島へ!
一応賭けてみることになった。Tくんはギャンブルはしないらしい。私はTくんを待つ間に空港から一番近いパチ屋で4500円分の景品を取ったんだけど、あれはギャンブルじゃないから…2人ともギャンブル初心者だね!破産しないようにしよう。
それにしても競艇についての知識がない。買い方もあんまりわからない。舟券を買うためのマークシートの塗り潰し方も相当手探りである。我々はわざとらしく声をひそめて相談しあう。「ねえ…ボックスってなに…?」「しらない…」「…なんて?」「…わかんない!」マークシートを券売機にぶっこむと600円寄越せと言うので支払う。券が出てきた。何もかもわからないので、舟に乗ってる人の名前を見て決めました。この日は女性のような名前の人ばかりが舟に乗っていました。理由は分かりません。

私は入場料も含めて1300円失くしてしまった。Tくんも同じくらい失くしていたような気がする。そもそも舟が何周するのかもわかっていないので、まだゴールしてないのに「なんだよー!くやしいー!」と言ったり、もうゴールしているのに「あるある!まだあるぞ!」と言ってたりしていて(主に私が)、地獄だった。Tくんは競艇用語を携帯で調べて教えてくれて優しかった。私はロレッタセコハンのアルバムに『まくり差し』というのがあったね、聞いたことないけど、という豆知識を挟み込んでいた。音楽の話やめてお前��調べろよな。そういうとこだぞ。楽しかった。
つづく
2 notes
·
View notes
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)3月28日(木曜日)
通巻第8193号 <前日発行>
建国250年を迎えるアメリカに祝賀ムードがみあたらない
半世紀前の希望と夢と活気は何処へ行ったのだ?
*************************
筆者が初めて米国にいったのは半世紀前、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、そしてハワイに立ち寄っただけの一週間の旅程だった。アメリカンドリームの神話は生きていた。人々は希望と夢を描き、また町の風景にも活気があった。あちこちに星条旗が並び建国200年の祝賀前祝いの空気は溌剌として、若者に元気があった。
爾来、五十回は米国各地、とくにワイントンとNYには取材で何回も訪れた。1983年米国教育関連シンクタンクの招きでカリフォルニアのクレアモント市に一ヶ月滞在し、連日の講義や討論会があった。
土日には別のプログラムが組まれていて、野球ナイター観戦、ディズニーランド、サンディエゴなどに行った。古き良き時代の「法と秩序」があり、男女間はモラルがあり、好景気で、治安も良かった。季節労働者としての移民は歓迎されていた。
アメリカは大国前として余裕があり、1984年にニクソン元大統領と独占インタビューに行った時は、「日本は経済力を武器につかえ、日本は巨大なインポテンツだ」と余裕のある指導者の言葉で、帰り際に「あの若いのに宜しく」と言った。「あの若いの」というのは中曽根のことだった。
現在のアメリカはどうか。
「世界一の大国」だったアメリカは価値紊乱の時代に直面し、モラルを含めた社会全体が落ちぶれ、衰退し、ウォール街と軍需産業とシリコンバレーに集中的な繁栄はあっても、大都会の一部は無法地帯、地方都市は寂れ、農村はくたびれ果て、そして何よりも人々の表情から活気が失せている。若者たちの眼に輝きがない。
先日も友人とアメリカ体験を話しあった。
「初めて行ったとき、希望と夢に溢れ町に活気があった。いま治安悪化、不安心理が社会全体を襲い、完全な分裂状態。大統領選挙は『シン南北戦争』ですね。2026年7月4日、アメリカ建国250年祭は『喪』につつまれるのでは?」
政治を見れば、老人ふたりが侃々諤々、自分だけを徹底的に称賛し、失敗はすべて相手の所為だと非難し、国家は機能不全、議会も世論も分裂状態。この趨勢のまま二年後には、2026年7月4日を迎える。建国250年の式典はトランプ主催となるか、他の人か?
社会は麻薬、凶悪犯罪、治安最悪などで不安心理が拡大し、平均寿命の低下と肥満率、学生の不登校、大學ローンの支払い不能、禁治産者。クレジットカード破産、鬱病の蔓延、不満の爆発による暴力行為、無差別殺人。
2023年にアメリカ人は665億ドルをギャンブルにつかった。アルコール関連の死亡事故は18%増加、スピード違反死亡事故は17%増加した。
鬱病は50 パーセント以上増加し、十代の自殺率は 48 パーセント増えた。とくに10歳から14歳の女の子の自殺は131パーセント増加した。
友人が三人以下という孤独な人間が増え、三分の一程度のアメリカ人が十人以上のトモダチをもつという統計がある。
けれども恋人不在、結婚するなど人生設計にプログラミングされていない。したがって劇的な出生率の低下、離婚は倍増。このうえにメディアンの左翼偏重が加わる。
このような状態は日本も同じである。
そして韓国、台湾、香港、シンガポールなどアジア諸国の出生率は日本よりも低い。中国は統計が出ていないが、出生率は韓国並みの0・7前後ではないか。
ペンタゴンは採用目標を達成できなくなった。
軍隊が女性の入隊増で本体の軍機能が麻痺しており、軍人家系から軍への応募が急減した。軍人たちが現在の軍のあり方に呆れたからだ。
「アメリカの若者はこれまで以上に兵役に就く資格が低下している」とフォート・ジャクソンの司令官パトリック・ミカエリス大将は軍関係のメディア『スターズ&ストライプス(星条旗)』に語った。陸軍参謀長のジェームス・マコンビル大将は、「軍務を志す若い男女はたくさんいるが、彼らは学力要件を満たしていないし、身体的要件も満たしていない」とした。
こうした現実を前提に近未来を予測するなら、まさに眼の前のリアルは米国衰退、国家分裂という最悪のシナリオへの「炭鉱のカナリア」だろう。だがアメリカのカナリアは歌を忘れている。
2 notes
·
View notes