#自己肯定感が欲しい
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tanakaeri · 2 years ago
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無限の可能性
未知の可能性を信じていただきたい 困難な出来事に出会うと「もう頑張れないのではないか」「自分を否定」することや「言い訳」を考えてしまう事がある。 自分の可能性を、引き出せずに、何度も似たような試練と向き���う事さえある。 自分の力や能力、魅力を引き出せるタイミングや環境、はとても重要だと感じています。もう、しんどいと思う事もいいではないですか。 全ての感情も、自分の一部ですから 愛してあげたいですし、労わってあげたいですね。 人の本能は、危険を察知すると動き出すものです。私たちの、本能は優れています。 ご自身を大切にしてくださいませ。 くれたけ心理相談室 田中絵里年末年始のカウンセリングご予約状況をご確認いただけます。
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danzoku · 8 months ago
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褒められて嬉しいと嬉しいを分けろ
褒められて嬉しいことばかりしていると
褒められるのが嬉しいだけになる。
褒められの嬉しいと
ただの嬉しいを分けるべき。
自分の喜びを他者の評価に委ねてはいけない。
自分の評価は
自分でするんだ。
自分が嬉しい。
それを大切に。
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megane-yarou · 1 year ago
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人並みの社会性があれば承認欲求はあるのが当たり前。他人の承認欲求にいちいち文句言ってる人は「(本来ならもっと承認を得られるべき自分より)たいしたことないのに承認を欲しがってるやつが気に食わない」という低い自己肯定感由来のルサンチマンを抱えており、わしらには救えぬものなのじゃ。
Xユーザーの八月さん
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ayami04 · 5 months ago
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さて。1夜も2夜も明けまして、お誕生日お祝いしてくれたみなさんありがとうございました!下手っぴながら、みんなからもらったメッセージを纏めてみました。
この1年は楽しいことがほとんどで、だけど苦しくて仕方ない時もあって、でもそんな時に救ってくれた存在は絶対に確実にみんなだったなあって思いました。
そしてそして、苦しくて仕方なかった時助けてもらった2曲。1曲目は言わずもがなSnowManのお兄様方の曲。2曲目はあなた達に出逢ったからこそ聴いて好きになった曲。下手っぴな動画に失礼します、という形で使わせていただきました!(笑)
(1番上に動画つけたいのに言うこと聞いてくれないので一番下にあります。拗ね。)
ここからは個別にみんなへのお返事書いていきます!
潤くん
改めて、お誕生日お祝いしてくださってありがとうございます!俺だってあやみちゃんと仲良くなりたいんだよ!って感情伝えてくれたのがすごくすごく嬉しくて、可愛らしくてニンマリしてしまいました(笑)お酒は好き同士だし、本当に飲み会しなきゃですね!ぜひ!それから、賢人と私の兄妹喧嘩のようなものに時々巻き込んでごめんなさい(笑)俺の方が!私の方が!と、負けず嫌いな私たちがこれからも度々、潤くんに絡み散らす可能性があると思いますが、特には反省しないと思うのでこれからもよろしくお願いいたします!お祝いとっても嬉しかったです!
はなちゃん
今年もお祝いしてくれてありがとう!はなちゃんに祝ってもらったのは何度目だろう?随分と長い付き合いになってきたよね。今ではもう懐かしくもある、電話したこと覚えてる?あの時、久しぶりに女子会できたー!ってすごくテンション上がったの覚えてます(笑)実は一般さんとは繋がっていなかったんだけど、はなちゃんは繋がる前に話しかけてくれて今まで繋がってなかったのを繋がるのは不安があるのは当たり前だってすごく丁寧に接してくれて。この子ならって思ったし、あの時から変わってないのははなちゃんだけが居られるこのポジション。これからも変わらないから私の特別を埋めていてね。お祝いありがとう!
なのかちゃん
お祝いのメッセージありがとう!なのかちゃんとは半年以上は経つと思うんだけど、お互いにちゃんとは覚えてないよね(笑)移行する時も、どんな時も必ず声をかけてくれていたし、そんななのかちゃんだから今でもこうして仲良くできてるって思ってるよ。この前のキャス、楽しかったね!またお邪魔させてほしいなあ。女の子だらけの女子会キャスもきっと盛り上がるからいつか絶対しようね!いつもそばにいてくれて、こうしてお祝いしてくれてありがとう。
かずくん
お誕生日のお祝いありがとう!かずくんとも長くなってきたよね!電話も1度だけだったけどまたしたいね。最近は、前ほど頻繁に話せていないけどつい最近、二人できゃーきゃーしたよね(笑)久しぶりに沢山話せてめちゃくちゃ幸せでした!かずくんがくれる言葉の一つ一つはすごく優しくて、頑張らないと!って奮起させてくれるよ。かずくんにしかない独特の優しい雰囲気にいつも助けられてます。これからは私も助けられるように沢山そばにいさせてね!
ゆうたくん
ゆうたくん、ギフトまで贈ってくれてありがとう!ゆうたくんとは実はそんなに長くないのに気づけばこんなに仲良くなってました(笑)好きなものが似ていたり、話すことが好きだったり、話し始めると止まらなかったり。そういう似てる部分が多くて電話しようよ!とかお酒飲もうよ!ってフッ軽に決まっちゃう私たちだから仲良くなれたんだろうなあ。ギフトにも書いてくれてたけど、今年は私も絶対のみにいきたい!2人で旅行とかもしちゃおっか。楽しみだね!いつもありがとう。
賢人
今年もお祝いありがとう!賢人こそ、この世界で1番の長い付き合いだから何度目のお祝い?って言われると数えるのさえ大変そうになってきたよね(笑)賢人は、いつだって自分よりも人で、自分の気持ちの変化よりも人の気持ちの変化への方が敏感で。そんな賢人がいま幸せに笑ってくれていることが何よりも私は嬉しくて幸せだよ。弄られすぎると拗ねてぷいってしちゃったり、褒めてよ!ってするところも可愛いなって本当は思ってるよ(笑)心が折れそうだったり、自己肯定感あげたい時はいつだって言ってね。私がよいしょ!って持ち上げてあげる(笑)今年も変わらず私の大切な存在でいてくれてありがとう!
そうたくん
そうたくんとも随分と長くなってきました!色々とあって連絡を取り合わない時期も正直あったけど、それでも見てくれていたこと、今だってタイミングで手を差し伸べてくれたこと、絶対ずっと一生忘れない、おばあちゃんになっても。いつもぱぱー!って言うとどうしたー!って聞いてくれて、苦しいよー!ってすると、うちの娘に…!って怒ってくれて(笑)そうやって面白おかしく聞いてくれることと、真剣に聞いてくれるとこ、使い分けがすごく上手くていつもメンタル安定させてくれてます。これからもそうたくんは私にとって唯一無二。失えない存在です。今もこうして離れずにいてくれる事、当たり前ではないから、ずっと感謝してます。ありがとう!
つばさちゃん
つばさちゃんとはもう何年でしょうか(笑)お互いにわからなくなってきたねえ。けど、あの頃と変わらず、私の1番の女の子の友達。2人ともずっと変わらないのは変なところ乙女(笑)何事も全力投球しかできない不器用なところもお互いにあるのかも。いつもいつも激しめに女子会してしまう私たちだよね(笑)つばさちゃんにはなんでも聞いて聞いてってできるから心地良いです。私のお誕生日なのにやっぴーとのツーショ��ぶところも面白いつばさちゃんらしいです(笑)これからもそんなつばさちゃんを大切にさせて欲しいから、つばさちゃんこそ何があっても、どんな時でもたくさん話しかけてね。お祝いありがとう!
なべぽん
お祝いありがとう!なべぽんに言われて思い返したら、ひかるくんのキャスでしか会わなかった頃懐かしい(笑)すぐ特殊なあだ名つける私だけど、なべぽん!って言った瞬間にあやぽん!って返してくれてめちゃくちゃ嬉しかったのはすごく覚えてるよ。確かに、なべぽんたちのキャスはボケが大渋滞したりボケるつもりない人が無意識ボケになってたり、突っ込みながら私も笑いが止まらなくて本当に大好きな空間です(笑)タイミングがあった時にはキャスにも来てくれて、交流を沢山持ってくれるから濃く過ごせたなあって思う1年でした。ゲームもまたしたい!ゲラだらけの笑い倒れ会、楽しみにしてます(笑)こちらこそよろしくね、素敵なお祝い本当にありがとう!
れんくん
お祝いメッセージありがとう!どれくらい前なのか私もわかりません(笑)出会った当初はれんくんも言ってる通り、ひたすらに口説かれてました。(語弊)もちろん、女の子扱いをしてくれてるからって分かってたのでご安心を!(笑)けど、私が「本当に目黒くん頭おかしい。」って言っても、ありがとうございます!ってお礼言われてたの今考えても面白くて笑えちゃう。私が冷たくあしらうのが一連の流れみたいになってて、文字では冷たく言ってたけど本当は笑い転げてた。でもそんな時も経て、今ではお互いのキャスに行きあって、友達紹介したり繋がってもらえて本当に良かったって思ってるよ。私のお友達はみんなれんくん大好きだから、これからも私のキャスでは思う存分暴れてね(笑)お祝いしてくれてありがとう!
ひかるくん
今年もお祝いしてくれてありがとう!何度目だろうって思ったんだけど、この前Twitterを遡った時に私、SASUKEを4度暴れ狂いながら見てる記録があったので、恐らくそれくらいには祝ってもらってるみたい。強火岩本担は今年も健在なので強火っぷり振りかざしていきます(?)キャスでは、私が突っ込むだけでひかるくんがめちゃくちゃ笑ってくれるので、いつもノリノリで突っ込んでます(笑)いつも言ってくれる、キラキラしてたあやみちゃんって言葉、今ではひかるくんっていう素敵なお友達がいるから私は毎日キラキラ出来てます。何度か言ったことがある、ひかるくんが素敵な人だから周りの人もみんな素敵だねって言葉、言う度にあやみちゃんもそこに入ってるんだよって言ってくれたよね。私からひかるくんにお返しするなら、私の毎日を輝かせてくれているのはひかるくんももちろんその仲間の1人なんだよってことです。いつもありがとう!ゲームもまたしたい!それから毎年言ってる気がしますが、今年こそひかるくんに会う旅に出かけます!(笑)人見知りするひかるくんも観察しようと思います。この1年も毎日笑顔でいたいから、そこに欠かせないひかるくんが今日も一緒にいてくれることに感謝です。ありがとう!
ジェシー
今年も1番ふざけたお祝いはあなたでした(笑)「マリリン・モンポー」気に入りすぎじゃない?あと凍えてはいる、お肉は食べてます!それからチョコボッ��スにもお祝い入れてくれてありがとう!ジェシーのボケに突っ込むのは出会った時からの役目だと思ってるのでお安い御用です(笑)随分と長く会ってないから今年は会えそうだし楽しみだね!ずっとずっと言ってた一緒にお酒飲むのもいよいよ出来そう。次は私もジェシーも気をつけようね、色んなことに(笑)お水とかはめちゃくちゃ用意しておくね。あの頃のことも今ではめちゃくちゃ懐かしくて私たちの鉄板ネタだけど、次は体調に異常のないくらいにしようね(笑)ジェシーのいつもふざけてるけど、本当は誰よりも優しいところ本当に大好きだよ。いつも支えてくれてありがとう!
じゅりくん
お祝いありがとう!最後を狙ったじゅりくん、柔太朗に負けました(笑)けど、その気持ちがめちゃくちゃ嬉しかった!もう2年前にもなるんだね、長い。あの当時は複数人の電話で話すことがほとんどで、今では電話するなら2人の方が多いかも?あの当時と色々と変わってきたよね、いい意味で。本当にお互いにいろいろあったし、傷ついたこともあったし、だけどそれも全部今こうしてじゅりくんといるためだったなら余裕の試練かな(笑)じゅりくんのことを大切にするのは私にとって当たり前で、それ以上にじゅりくんは私を大切にしてくれてると思ってるよ。メンタル死んでたら電話してくれるし、負の感情に負けて自分をディスってても「あやみちゃんはいつでも可愛いよ」って優しく自己肯定感上げてくれて、こうしてここにいられるのもその優しさのおかげだよ。これからもお互いを過剰なくらい大切にしていこうね(笑)いつもありがとう!
柔太朗
出会って初めてのお誕生日!お祝いありがとう。去年には柔太朗のお誕生日もお祝いできて嬉しかったなあ。出会ったころ懐かしいね。2人でずっと人のキャスで茶番してたの懐かしい(笑)私も、誰かのお友達って思うとそんなに深くなっちゃいけないって思うことがあるから、お互いに遠慮してたよね。だけど、最近は8時間も電話したり、朝の7時まで話してたり。話すこと苦手っていう柔太朗がたくさん喋ってくれて私の方こそ毎日幸せだよ。楽しい。自分のこと大切にして欲しいって優しすぎる素敵な言葉、めちゃくちゃジーンと来ました。でも、私が大切に出来てなくても柔太朗が大切にしてくれてるからオールオッケーかな?(笑)でも、どうしても苦しくて立ち上がれない時は柔太朗呼ぶね。ぽちゃん!ってすぐ駆けつけてくれる柔太朗がすごく頼もしいです。まだ話したことないこと沢山あると思ってるから、これから沢山の時間一緒に過ごして話していこうね。飲みにも行こう!飲み電話もしよう!酔いすぎないように!(笑)確かに勝手に飲み始めるのは私たちあるあるだけど。しよう!私も大好きだよ、とっても。これからも柔太朗の甘やかし担当おまかせください!ありがとう。
やっぴー
今年の誕生日、1番のお祝いはやっぴーでした。俺へのメッセージまだ!?ってなるのを狙って最後にしてみました。まだ!?!?ってなってた?(笑)去年もお祝いしてくれたなあって思い出したよ。画像でお祝いしてくれて、それは真面目なのにその後すぐのカカオふざけてたこと。もうね、本人が自分の誕生日忘れてるし、色々カオスだったよ、あの電話は。日付超えてから電話してるくせにね(笑)私もこの1年、やっぴーのそばにいて支えられたことがすごく嬉しかったし、危うい私を止めてくれたやっぴーの言葉は今でも忘れないよ。���お前が泣く結果だけは本当に無理だから」って言われて、ここまで言わせてまで私がしたいことはこれじゃないって思えたし、大切に思ってくれてありがとうって気持ちでした。本当に兄妹だよね!(私が姉でも良くない?)子供みたいにむかつく!!とか言ったかと思えば、お互いのこと思って喋ると口悪かったりとか、とにかくめちゃくちゃなさのぽーだけど、私が出逢いたかった佐野勇斗は間違いなくあなたです。私の方こそ出逢ってくれてありがとう。これからもこのポジション誰にも譲るなよ!(口悪)今年もお祝いしてくれてありがとう!
てわけで、みなさんへのお返事書かせて頂きました!喋り始めると止まらない私なのでめちゃくちゃ長いですが…!読んでくれてありがとう。それから、私へのお祝いに時間を割いてくれたこと本当にありがとう!幸せな1年の始まりをくれたのはみんなです、これからもよろしくね!
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painpainpain1990 · 1 year ago
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誰かに期待しないって決めたけれど、本当は自分に期待しないようにすることの言い訳かもしれないね、自分に期待しないことは諦めではなくて、ひとつの生き方で、それはそれとして肯定していいような気もしてきたよ、毎日を普通に過ごすこと、特別な人間ではなくても自分らしさは生きていく中で確立できる、それを受け止めてわたしは始まる
わたしのことをわかって欲しいと思う気持ちももうない、それは寂しいことではなくて、人間の営み上当たり前のことなんだとわかった、わかってもらえたらそりゃ嬉しいけれど、私だけが私の好きを大切にできていれば充分だ、私のことを大切にしたい、自己肯定感が低い私のこと
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moko1590m · 23 days ago
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「多くの人を犠牲にして少数が利益を得る構造=いやがらせのためのシステム」として、以下のような分類と呼称ができます。タイプ別に紹介します。
 
🏛 分断型:「分割統治」システム
目的:人々を争わせて支配を強化
対立煽動型  → 民族・世代・性別・思想で争わせる(例:ネット右翼とリベラルの対立、ジェンダー論争)  【呼称例】「ぶつけ合い装置」
評価序列型  → 学歴・偏差値・年収などで人をランクづけ、互いに競わせる  【呼称例】「序列ピラミッド」
責任転嫁型  → 貧困や不安の原因を「自己責任」にすり替える  【呼称例】「自己責任スライド」
 
🧠 精神収奪型:「やりがい搾取」系
目的:タダ働きや従順を精神で正当化
やりがい幻想型  → 「好きなことだから」「やりがいがあるから」で低賃金・長時間労働を正当化  【呼称例】「夢搾取機」
奉仕感情強制型  → 教員・看護師・介護士などに「使命感」を押し付け、待遇改善を回避  【呼称例】「美談の檻」
全人格投入型  → 仕事に「自己実現」まで求めさせ、休むことを罪悪にさせる  【呼称例】「生き様型奴隷制」
 
🕊 生きがい搾取型:「存在価値の収奪」
目的:人生そのものを搾取の土台にする
「居場所」依存型  → コミュニティ参加を強制し、所属感で操作(ブラック部活、過剰な宗教・家族圧)  【呼称例】「居場所中毒」
承認欲求操作型  → SNSや組織の中で「いいね」や賞賛を餌に行動を操る  【呼称例】「承認経済装置」
貢献信仰型  → 「誰かの役に立ってる感」を与えることで搾取(ボランティア疲弊など)  【呼称例】「貢献カルト」
 
🧾 契約・制度型:「抜けられない契約」
目的:ルールで縛って逃がさない
正社員地獄型  → 解雇されにくい代わりに長時間・無理な従属を強いる  【呼称例】「安定という罠」
奨学金奴隷型  → 若者に高額の教育ローンを背負わせ、労働に縛る  【呼称例】「学費の首輪」
住宅ローン型  → 家を買わせて逃げられなくする  【呼称例】「ローン監獄」
 
🧳 格差再生産型:「抜け出せない格差」
目的:格差を固定し、再生産する構造
教育格差型  → 貧困家庭ほど教育機会が奪われ、貧困が連鎖  【呼称例】「逆ピラミッドの牢獄」
居住地格差型  → 貧困層が住む地域は公共サービスも雇用機会も悪化  【呼称例】「地理的カースト」
情報格差型  → 情報へのアクセスや活用能力が収入・教育に比例して差がつく  【呼称例】「知の遮断壁」
 
🪧 支配権維持型:「権威主義・監視」
目的:支配体制を絶対化し、異論を排除する
「大義」の盾型  → 国益・安全・愛国心などを理由に異論を封殺  【呼称例】「大義の仮面」
監視社会型  → AI監視・同調圧力で自由な言動を封じる(例:中国、SNS炎上文化)  【呼称例】「透明牢獄」
エリート無謬型  →「専門家」「経営者」は常に正しいという信仰で支配を肯定  【呼称例】「正しさ独占装置」
 
💸 消費・依存型:「依存させて搾取」
目的:人間を消費サイクルに閉じ込める
中毒製品型  → アルコール、加工食品、ギャンブル、SNSなどで中毒性を利用  【呼称例】「消費回転ドア」
自己改善地獄型  → 自己啓発、ジム、資格、整形、商品などを「理想の自分」のために買わせ続ける  【呼称例】「理想奴隷装置」
安心課金型  → 保険、学資、災害、老後など「不安」を煽って商品を売る  【呼称例】「不安商法」
 
必要があれば、これらを図式化したり、具体例(日本や世界)に展開した一覧表も作成できます。どの構造が一番気になるか、深掘りして考察も可能です。
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kennak · 1 month ago
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他人事じゃなさすぎるので書く。 うちは小6息子がLD &ADHD。小2の終わりに診断出た。 小さい頃から文字を書きたがらないし、書けるようになっても書くのにとても時間がかかった。読むのはまあまあできるけど、読み飛ばしたり、文頭だけ読んで文末を想像してるとしか思えない読み方をしていた。 就学してからはカタカナを一向に覚えない。教えても教えても忘れちゃう。漢字も覚えない。見開きのページ両面いっぱいに、同じ漢字を30回書かせるとするじゃん?次のページめくって、今書いた漢字なんだった?というと、思い出せないわけ。 夫に相談すると、俺もそんなもんだった、気にしすぎ、と笑われるところから始まり、それでもおかしいと言��と、やがて「お前は息子を障害者にするのか!!」と怒り出した。 夫はほっといて、市に相談。読み書きスクリーニングという検査を受けた。結果はおそらくLD。でも確定するにはウィスク検査という知能検査を受けて、知的障害がないことを証明して初めて確定になるとのこと。学習障害は”知的障害がないのに”勉強ができないことが条件とのこと。 それでウィスクの予約を受けるんだけど、これがまあ初診予約が半年後、検査はさらに数ヶ月後、結果はそっから1ヶ月後とか言われるわけ。だからウィスクも合わせて受けるとなるとかなり早めに動いた方がいいんだよね。 私はどうしても数ヶ月以内に結果知りたくて、周辺自治体まで範囲を広げて片っ端から電話したら、たまたま空きの出たところへ滑り込み4ヶ月後には知能は年齢相応で知的障害がないので、LDですねと結果が出た。ついでにADHD診断のおまけがついた。 夫とはその間も喧嘩ばかりだったけど、あなたが認めなくても、息子が困ってることは変わらない、私は息子の困ってることを親として助けたいだけ、もっと息子に合った学習法があるなら知りたいだけ、というのを伝えていったら、だんだん何も言わなくなっていった。 実は、夫も息子と同じ傾向があった。読み書きが不得手で、夫は自営業だけど、申告書類だの申請書だの書き物は全部私に代筆させてた。ただのめんどくさがりと思ってたし、本人もそう振る舞ってたけど、息子を支援してるうちに徐々に打ち明けてくれた。実はそうじゃないと。字が思い出せないことがあり、恥ずかしいし自分でも認めたくなかったと… 小学生のころ知的障害を疑われ支援級に入れられ、親に泣かれたことがあったという。すごくショックだったようだ。 夫にとっては息子の特性を認めることは、否応なしに自分の特性と向き合うことだった。だから反発も戸惑いも、私よりずっと大きかった。でも夫は克服した。息子が可愛いからだ!息子可愛さで自分の障害まで認めてしまえる。子供は偉大だ。 そうして、私と夫と息子の3人、力を合わせてみんなで読み書きに取り組むようになった。 例えば息子は、一つ、二つ、三つ、などの読み方や、ついたち、ようか、むいか、などの読み方のイレギュラーをなかなか覚えられない。 母子で苦労してると、夫が横から「実は俺、今だにそれ分かってない」と告白してくる。 すると、えーパパもできないの?40過ぎてできないなら、今できなくても仕方ないね!となる。他にも夫は自分の経験から、いろんなアドバイスをしてくれる。息子も、自分だけじゃないと励まされるし、何より将来の見通しというか、ロールモデルとして夫の存在はめちゃくちゃ大きい。 読み書きが不得手でも、得意分野できちんと社会生活を営んで、真っ当に生きてる夫の姿が、将来への不安を軽くする。 夫が同じ特性を持ってるということは、子供にとってむしろ強みなのだ。 学習にはもちろんプロの手も借りた。 放デイの受給者証を取得したが、読み書きの指導ができる放デイは一つもなかった。あらゆる機関に相談していると、やがて大学の先生がやってるLDの支援教室を見つけて通えることになった。息子に合ったやり方で宿題を出してもらい、家庭で取り組むのだ。カタカナを完璧にマスターするところから初めて、今は小2の漢字を頑張ってるところだ。 ちなみに読み書き以外の知的に問題はないので、算数や理科などは年齢相応に取り組んでる。そこも息子に合わせたやり方に家庭で調整しながら、自主学習してる。 もちろんつまずきは数えきれないほど合った。特に、ADHDの併発は学習を阻害して大変だった。 学校の理解が今ひとつな年があって、その年の息子は学習どころじゃないくらい荒れて、不登校寸前になった。具体的にはその年の担任の先生と管理職から、だらしなく勉強のできない子と見做された息子は、たびたび叱責を受けてしまったのだ。大いに荒れた。小3の頃だった。 LDの大きな問題として、学習のつまずきから学習意欲の減退、自信喪失、自己肯定感の欠如、そこからいじめ、不登校などの二次障害がある。息子も見事にその道を辿りかけた。 泣いたり怒ったり学校と話し合いを重ねて、小4でまた担任が変わると学習意欲も戻ってきた。立ち直すのには丸一年かかった。その間はお勉強どころではなかった。 支援級に移籍して、療育へも通った。相談支援を受けながら、学校にお願いして環境調整や合理的配慮もやっていった。 やがて顔つきが穏やかになり、小5になるとやる気いっぱいな息子が帰ってきた。得意分野で表彰されるなどもして、学習支援も進んだ。修了式で学年を代表し6年生の抱負を読むくらい、充実した学校生活だった。 ところで息子の支援をしていく中で、私自身もADHDの傾向があることが分かった。LDが夫の遺伝なら、ADHDは私の遺伝だったのである。このことは私もショックだったし、自分のせいで…となる夫の気持ちがよく分かった。 息子への対応も、自分の上手くできないところは息子にうまく教えられないこともわかった(計画的な見通しの立て方や、感情の切り替えや、整理整頓など…)。 上手く支援できずに苦しむ私に、夫は「お前は何で息子の特性を許せるのに、自分の特性は許せないの。同じじゃないの?許してやれよ。頑張ってるよ」と言ってくれた。 夫は、息子の特性を認め、許し、愛す中で、自分の特性も許してきたのだ。私にも同じことができるはずだと励ましてくれた。 そのうち夫婦でも「俺、これ読めない」とか「私どうしてもこれ苦手」とか言い合うようになった。 そうすると、お互いにそうかそうかと引き受けることができる。 これまでももちろんフォローはしてたけど、お互いに”何でこれくらいできないの?”という気持ちは隠せなかった。でも今はそんなことない。 交際5年で結婚して、出産して10年以上経っても、相手のことなんて意外とわからないものだ。家族の中に深く許し合える関係が生まれた。これも息子のおかげである。 以上のように、我が家はLDの息子を通して自分のことがわかり、夫のことがわかり、息子のことが分かるようになったから、診断は悪いことばかりではないよ。それに診断がついたらSNSでも書籍でも、困りごとの対策が見つけやすくなる。 我が子と同じ子はごまんといるというのは、孤独を癒してくれるし心強さが生まれる。 こんなところにこんなに仲間がいたのか〜!となる。 息子に遺伝子の説明をしたとき、あなたはお母さんの設計図が半分、お父さんの設計図が半分渡してあるんだよと言ったら、息子は「良い設計図をもらった」といってくれた。 今もそれに励まされてる。 これから思春期だからぜんぜん油断もできないし、まだ小6だから子育ての難関もこれからだけど… とりあえず、診断は怖くないと言うことを伝えたかった。
他人事じゃなさすぎるので書く。 うちは小6息子がLD &ADHD。小2の終わりに..
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shiki-n · 1 month ago
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2025/05/14
本日は対面授業×2 一つはいつも通り面白かったんだけど、もう一つが今日のはいまいち私に刺さらなくてぬーーん。って感じだったし、見せられた映像すべて点滅が激しくて目が痛かった。
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削除されているから自分で検索した時に見つけられなかったのだろうか……。やっと例の映像を見ることができました。
ボコボコにコメントでも叩かれてるのかな?と思っていたのですが、コメントを読んでも肯定的な意見ばかりだし、個人的にも何が駄目なんだろう?って感じだったので(最後の方の危ないデータはアウトじゃないか?とは思いつつ)何が誰の怒りに触れるかわからないな……😔と思いました。
これは前にも書いた気がしますが、テーマとしてお守りとか宗教関連は深すぎて自分には絶対に扱えないし、絶対に避けたいポイント。
プレゼンの時に割とメインでお守りについて話していたのは、私の 「アイテム持ってると気持ち的に強くなるよね」 という話をただの個人的な意見ではなく他の人もそうである証拠が欲しくて、何か例は無いだろうか……と考えていたところ、安心アイテムといえばお守りではないか?と思いつき話しました。一番は自分の主張の証拠が欲しいという気持ちで、あとは「安心するアイテム」として共通する部分もあり一度調べておくのが良いだろうと。
★テーマとしては「心理的武装」で、好きな物持ち歩いてると安心するし強くなった気分になるよね.ᐟ.ᐟと言うところで、宗教的な意図は無くラッキーアイテム、安心アイテムなので、四葉のクローバーとか、人からもらった寄せ書きとかのほうが正しかったかもしれない。(プレゼン前、先に思いついたのが手元にあったお守りだった)
四葉のクローバーとかそういう一般的なラッキーアイテムについて1から調べてみよう📖
ラッキーアイテムの一例として、私のアイテムを���介すると、休み期間中のブログに載せていた、自作のうさぎちゃんのぬいぐるみとか、受験期に先生からもらったメッセージカードとかです。メッセージカード、高3からずっと持ち歩いててもうボロボロになってしまったけど、取り出したくなくてずっと持ち歩いてる。定期券と一緒に。
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このうさぎちゃん達は私が去年忙しすぎて心に余裕がないのと、年末は客層が悪化するのでそれを乗り切るために自作し、バ先の制服のポケットに入れて揚チキタイムを乗り切ったアイテムです。
こんな感じで「やだな~~~😭」という出来事を乗り切る為のラッキーアイテムを制作したい。
そして本日は見ようと思ってた推し活の調査資料を2つ見た!!🔥
推し活に対して使う時間・使う金額が大きいほど、自己効力感とか、精神的���康への影響が大きいそうです。
自己効力感とは、Wikipediaによると……
【自己効力感(じここうりょくかん)またはセルフ・エフィカシー(self-efficacy)とは、自分がある状況において必要な行動をうまく遂行できると、自分の可能性を認知していること】
推し活をしていると自己効力感があがるという結果をみると、好きなアイテムを持ち歩くことが心理的武装になるというのは間違っていないのではと思います。
プレゼンの時にも出てきた課題点、ぽっと出のキャラじゃ持ってても効果ないよな~~。の所。今すぐ慌てて決めるのは、ありきたりで面白く無くなってしまうので、急ぎで決めるポイントではないと思いますが………どうしたらいいものか。
私だけに効果のあるアイテムを作るんだ‼️にしてしまうと、じゃああのうさぎちゃんでいいじゃないかとなってしまうし。
と、今日はこんな感じてした。
”まとめ?”
テーマとして大事なのは「心理的武装」で、持ってると安心する一般的なラッキーアイテム(🍀のような)であるということ。
好きな物持ってると安心するし強くなれます💪と言う事を伝える手段として、好きなキャラクターデザインを活かしたい。
やらなきゃいけない事として、キャラのどの要素が安心材料になるのか、ラッキー感が出るのか。(色なのか、形なのか、素材なのか)
どんな形にして持つのが一番効果的か(ステッカーなのか、ぬいなのか、カードなのか)を考えていかなきゃいけない。
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あと今日は途中放棄していたポートフォリオを見返してたらここに全身絵欲しいな~。と思ってきたので描き始めました(そういうことしてるからいつまで経っても完成しないし途中で飽きる)かわE~~~~🫶
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winterain66 · 11 months ago
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近況 24.7.20
何を話すにしたって(こうやって丸括弧による留保をつけなければ)語り出すことに躊躇いを覚えるようになっていて、思うこと、発したかった言葉、たくさんあったはずなのに、喉まででかかった何かを飲み込んで外側からみた沈黙を保つうち、すべて身体の筋肉は衰えつづけているのでしょう。
「分断の時代」としきりに言われた季節は過ぎ去って、今ここから見える悲惨な光景からしてみるとあの頃は、本当には分断などされていなかったようにすら思えてしまう。そう名づけてしまった言葉によって両端は再び交わることすらなくなってしまったのかしら。
どちらにも属していたくない、とずっと感じている。どちら側にも属していたくない。大きな声をもちたいとおもわない。思えない。「いつか、大人になったら。いつか、世界がもっと良い方へ代わったら」そう願い続けていた子供時代の僕と変わらない私がここにある。何も変わりはしないのだ、と、しづかな諦めをもっている。
残さなければならなかったものは失われ、代わりにのっぺりとした空虚な広告が建った。
「無かったことにさせたくない」と繰り返し唱えながら書き残す、その行為とは無関係に、失われていくものばかり。ばかりばかりと、決めつける、私の悲観症は相変わらずです。いつか喜びの唄を、と願いつづけるペンはなかなか動いてくれません。
"Sexy to somebody, it would help me out
Oh, I need a reason to get out of the house
And it's just a little thing I can't live without"
__Clairo 「Sexy to Someone」
僕には家を出る口実が必要だ。その意味をあれこれ考え続けて、「社会のなかで私がどこに立てばよいのだろう」とその場所を思案し続けるベッド上での、台所でのあるいはスーパーマーケットでの日々。
そんな大層な理由なんてなくても良いと、変わらないClairoの歌声と、個室の中からより開けた場所でならされるバンドサウンドから、何よりも、そのささやかに素晴らしい決意のような歌詞に感銘を受けてしまった。
"sexy to someone"
現代風にひとことで言ってしまえば、「承認欲求」とか、「自己肯定感」とか呼ばれ嘲られるような事かもしれない。けれど、きっと僕たちの人々と共にありたいという気持ち(欲動)は、本来的には良くも悪くもないもので、「誰かにとって魅力的でありたい」というこのフレーズを口ずさみながら、とりあえず、家を出て、(とっても暑い)街を歩いてみようと思えた。
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oyasumi-blue · 2 months ago
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4.10(木)
嫌味とかではなく仲良い人に「自己肯定感が高い」と昔言われたけど、全然で、私ずっと自分に自信ないんだな。その証拠に何年も変わらず自己肯定感を高める本ばかり読んでるもん。
親のことは大好きだけど、しゃしゃって調子乗った人間になって欲しくないゆえの謙遜だったと今なら分かるけど、ブスとか可愛くないと言われた幼少期からの刷り込みが消えない。昔より今の自分の容姿や写真をだいぶ好きになれたけど、それでも容姿に自信がない、ずーっとずっとないんだ。
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themirdad · 3 months ago
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「最高の不自由を生きる』——動物的自由を超えて
・洗脳と自由のパラドックス
人は生きる限り、何らかの価値観に影響を受け、それに基づいて行動する。家庭、教育、社会、宗教、文化、国家──これらは私たちの思考や生き方を無意識のうちに形作っている。
この影響を「洗脳」と呼ぶならば、完全にそこから自由になることは、悟りのような超越的な境地に至らない限りほぼ不可能と言える。
この『洗脳状態』は、一見すると安心感や社会的な連帯感をもたらすが、その代償として、深い思索や自己への問いかけを阻害する要因ともなりうる。安全で快適な環境がもたらす「満足感」は、一種の精神的停滞を招き、変革への原動力を弱める。たとえば、現代のメディアや教育システムは、一見すると客観的で普遍的な真理を提示しているように見えるが、その多くは特定の価値観や枠組みに基づいており、一面的な見解を「唯一の正解」として刷り込む作用を持つ。
こうした状況下で、「洗脳を拒否する」ためには、既存の枠組みを批判的に検証し、自らが信じるべき価値を積極的に選択する必要がある。これは、単なる反発ではなく、自己の内面に根ざした真の自由を追求するプロセスと言える。
しかし、ここで重要なのは、単なる反抗ではなく、何を受け入れるか、何を選び取るかという意識的な行為である。
ただ無自覚に洗脳され続けるのではなく、「意識的にどの価値を選ぶか」を考えること。そして、それこそが人間として自らを高める道のひとつではないか。
周囲から無自覚に洗脳されることも、単なる反発によってすべてを否定することもせず、『より良い価値を選び取る』という構え。
それが、現時点でできる最良の選択だろう。
ミルダッドが説いたように、人間は自らの「牢獄」の看守であり、その鍵は自分自身の手の中にある。すなわち、洗脳を全く拒絶することはできなくとも、自らがどの洗脳を選び、内面化するかで「生きる自由」は大きく変わるのだ。単に既存の枠組みに従う(というより自動機械)のではなく、意識的に「より良い洗脳」を選ぶことで、自分自身の本質を磨き、内面の自由を手に入れる。そのための試みこそが、我々人間にとっての自由への道、主体的な生の探求といえるだろう。
・どの価値を選ぶべきか?
では、「より良い価値」とは何か。それは単なる快適さや都合の良さではなく、自分自身をより深く理解し、世界との関わり方を豊かにするものでなければならない。私はその価値を、仏教やヨーガ、その他多くの宗教や思想から���らし合わせ、「エゴを超え、より自由で、より創造的な方向へと向かうこと」とする。
また、ただ「エゴを捨てよ」と言うのは簡単だが、実際にはそれ自体が新たなエゴの温床になりかねない。「私は利他的である」「私は高尚な道を歩んでいる」と自負することが、かえって自己満足や承認欲求につながることもある。
あるいは、老子の説く「無為自然」や禅における「無心」を誤解し、それを単なる放任や本能のままの生にすり替えてしまうこともある。実際には、それは「意識的な超越」とは異なり、単に受動的な無自覚へと堕する危険を孕んでいる。
動物は完全に無為自然・無心の境地に達している。赤子も同じだ。しかし彼らの説く「無為自然」や「無心」の境地がそれらと異なることは自明だろう。言葉にすることは容易くないが、あえて説明するならば、動物や赤子は無意識的な無心(環境に従順)であり、我々凡人はエゴに支配された選択(快楽や恐れに従う)である。
無論動物の生き方は、一つの完成形だ。
しかし、人間はそれを意識的に選択する可能性を持つ。
そして老子や禅でいうところの無為自然や無心の境地とは、それらを更に超え、意識的な無心(全てを超越しながら世界を生きる)の境地ということができる。
・エゴを意識し、より良い方向へ使う
仏教の「無我」の教えによれば、そもそも固定された「私」というものは存在しない。私たちの存在は縁によって成り立ち、常に変化し続けている。しかし、それを理解したからといって、すぐに無我の境地に至るわけではないし、エゴを完全に手放せるわけでもない。だからこそ、エゴを敵視するのではなく、「意識的に利用する」という発想が求められる。
たとえば、『人の役に立ちたい』という気持ちが芽生えたとき、その奥にある『人から認められたい』『自分は善い人間でありたい』という願望を冷静に見つめる。そして、それを抑圧するのではなく、「より良い価値を生きるためのエゴ」として活かす。
重要なのは、その行為が深い内省を伴い、意識的に選択されたものであるかどうかだ。たとえそれが道徳的なものであれ、社会的なものであれ、宗教的なものであれ、自己満足や盲目的な従属ではなく、「主体的に選ばれた価値」として生きられるかが問われる。
これは、ヨーガの「カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)」にも通じる考え方だ。つまり、「結果に執着せず、ただ適切な行為を選び、それを淡々と実践する」という態度。我々凡夫にとって今為すべきことは、「エゴを持たないこと」ではなく、「エゴを自覚し、より良い方向へと昇華すること」なのだ。
・意識的な生の選択——ビオスの視点
ジョルジョ・アガンベンは「ビオス」と「ゾーエー」という概念を通じて、人間の生を「単なる生存(ゾーエー)」と「主体的な生(ビオス)」に分けた。現代社会では、管理された生存(ゾーエ)が優先され、主体的な生の選択が抑圧される傾向にある。
この視点から考えるならば、「意識的に洗脳を選ぶ」とは、「どのように生きるか(ビオス)」を選び取る行為��のものだ。与えられた価値観を無自覚に受け入れるのではなく、「どの価値を採用し、どの価値を手放すか」を能動的に決定すること(その決定も別角度からの洗脳であるという意識しながら)。
これはミルダッドの思想とも響き合うが、彼の説く悟りのような完全なる超越ではなく、あくまで「現実の只中において、いかに意識的に生きるか」という問いである。
※尚、あくまでアガンベンはビオスを社会的生と位置付けた。
・ニーチェの超人——価値の創造者として生きる
ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、従来の価値体系の崩壊を指摘したが、これは時代ごと、否刹那ごとに新しい神(ニーチェのいう一神教的な神のみでなく凡ゆる社会的洗脳を含む)、"広義の神"を殺すこと。そして「新たな価値を自ら創造する存在」として「超人(Übermensch)」を提示した。「超人」とは、盲目的に価値を受け入れるのではなく、自らの生を主体的に設計する者のことだ。
この超人の思想は、単に「洗脳を拒否する」のではなく、「どの価値を選び、それをどう超えていくか」を意識することに繋がる。私たちは社会の中で生きている以上、何らかの価値観に影響を受ける。しかし、それを無批判に受け入れるのではなく、「自分にとって本当に価値のあるものは何か?」を問い続け想像すること。そして不屈の精神力と絶対的な生の肯定。それこそが、超人としての生き方なのだ。
またニーチェから強い影響を受けたバタイユ、そのバタイユと長い交流のあった岡本太郎は「芸術は爆発だ」と語り、既存の価値観を破壊し、生命の爆発的な創造を肯定した。彼の言う「爆発」とは、単なる衝動的な行為ではなく、生命を全力で表現すること。この生き方は洗脳を選択するという段階を超え、創造へとジャンプする表現であり、「まったく新しい生を創造する」という方向性だ。
・自らを超える意志——選択する力の重要性
ここまでを総合すると、私たちが目指すべきは、ただ無自覚に無為自然といって流されるのではなく(流れられるのは仏陀のみであるから)かといって無自覚に自身の価値観を確固たるものとして見るのでもなく、常に自らの内面と向き合い、何を信じ、どのように生きるかを自らの意思で決定するということだ。
これは、単なる自己満足や反抗ではなく、厳しい自己研鑽と内省の結果として生まれるものである。ミルダッドが説いたように、人は常に自らの内に秘めた可能性を持っている。しかし、その可能性に気づき、現実の中で実践するためには、意識的な選択と努力が不可欠である。
・結論—より良い価値を生きるという選択
今まで述べてきたように完全に洗脳から自由になることは難しい。しかし、無自覚に流されるのではなく、「どの価値を選ぶか」を意識的に決定することはできる。そして、その選択の基準は、単なる快適さや社会的承認ではなく、「自分自身をより深く理解し、より豊かに生きるための価値」であるべきだ。
私たちは、自らを高めることを求めながら、同時に今できる最良の生き方を選ぶことができる。未来の超越を夢見るだけでなく、今この瞬間に自身が過去に受け取ってきた社会的洗脳から何を選ぶかを意識すること。それこそが、「より良い価値を生きる」という選択であり、現実の中でできる最も確かな一歩なのだろう。
そして動物(完全な無知)と超人の間にある我々人間は、凡ゆる洗脳から脱却するために、「意識的に」生きることが必要だ。これは、一見すると世間一般で言われる「自由」とは正反対の道のように思える。
しかし人間における自由や自分軸というものは、洗脳され切った価値観や好き嫌いを無自覚なまま「これがワタシだ」と自身を無闇矢鱈に曝け出すことではない。そうではなく、「これが私の価値観だ」と思う価値観は如何に形成され、本当にそうなのか。果たしてそうあるべきなのか。と常に自己に問いかけ、内省し、より良い価値を生きようとする選択である。
畢竟するに、最高の生き方とは、単なる目標達成ではなく、生そのものを目的とすることである。
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dg-nt · 4 months ago
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🎂Happy birthday to Mio🎂
本日の主役はこの子!写真も凄く主張してますね。2日前にアピールが凄く笑った。年に一度の日を絶対に祝って欲しいこの子。そんな所がかわいいポイントの1つ!ところで、見て見て。わたしらしくない画像にしてみたよ!ピンク!ハート!ふわふわ!って。当たり前にかわいいよね!!かわいいよね??(圧)自己肯定感を高め合える関係で、何も言わずそばに居てくれる関係で、どんな感情も出し合える関係です。みおちゃんは「ねえ、聞いてー」ってわたしとお話すると多少の負の感情は消えるそう。それはわたしも同じでダーッと言いたいことをひたすらに話した後に第三者がどこでツボってるの?って話をわたしたち2人ならひたすら笑えるんだよね。素を見せ過ぎてイラッ厶カッて感情も出したりしますが、それはあなただからってのが大きいなと思う。わたしの為に言ってくれてる、それを分かってるからこそ、なんて言うの?反抗期ってやつ???わかってるし!!!って(笑)こんなわたしともう3年半?くらい?一緒に居てくれて、しかも近い距離で。ありがとうね!!これ普段から伝えないとなんだろうけど、伝えられていません。だからしつこいくらいに今日は言っちゃう。ありがとうありがとうありがとう!!!わたしがしんどいぞって時、寂しいぞって時こそ直接駆けつけてくれたり、予定ギチギチなのに駆け付けようとしてくれたり、そんな優しいところがあって、一緒に居たらお腹よじれるほど笑って、食べて、そんな負の気持ちをスっと消してくれる天才だと思うんだよね。凄いよ!キミ!だから、みおちゃんのそんな存在にわたしもなりたいな、なれてたら良いなと思ってるんですけど、多分なってると思います!(自信ヤバッ)めっちゃ似てる所があり、全く似てないところもあり、好きなものが似てたり、いちばん似てたらギクシャクするであろう好きなタイプは全くもって似てないから喧嘩になりません。ありがとうございます。みおちゃんの好きなタイプはイマイチわかんない未だ分からない。恋愛の仕方も違って、ん?って思ってもお互い一旦何言っても聞く耳持たないから満足するまでいけ!が私たちスタイル。それでお互い慰め合ってんの。きゃわいいだろ。親友って言うのかな。いつだかみおちゃんも言ってくれてたんだけど、確認しあったことは無いんだよね、わたしたちって親友だよね?って。でも多分これが俗にいう親友なんだと思う。わたしの親友面白くて可愛くて最強じゃん!!なんか親友って言ったら一期一会思い出した!!!あーー懐かしっ!ってことは置いといて……。どんなわたしをも受け止めてくれるみおたん‪ ☺︎‪‪今日も今日とて大好きです!これからもたくさん笑ってふざけまくってギクシャクもして慰め合って楽しくお酒飲んでたくさん食べて、いひひってして、声出ないくらい爆笑して過ごしてこうね!改めてお誕生日おめでとう!今年も何卒!来年も何卒!ずっとずーっと何卒おぉぉお!!!!
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crydayz · 8 days ago
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嘘、か
私はいつも嘘ついてたかもな
私が絵を好きになった人がたまたまメンヘラだったのではなく
私はメンヘラの中から絵が上手い人を無理矢理探していただけなのかも知れない、と
つまり私は本当は絵の上手さよりもメンヘラ性を重視して付き合う人を選んでいるだけなのではないか、と
否。これは何も私の求めるものと矛盾しない
何故なら絵とはロマン。ロマンは無駄
無駄な行為を続けるには負荷が必須で負荷を常態化させる上でメンヘラ的な人を身近に置くことは極めて合理的で…
いや。ここにも欺瞞が
本当に私にとって絵はロマン(無駄)か、という事だ
生きる上で普通に不可欠ではないか
必要不可欠で実利のあるものにロマンはない
つまり私はまったくロマンを追えてない
イコール私は絵を描く為にメンヘラと付き合っているわけではない…
認めたくない。自分が損得抜きにただメンヘラが好きなだけのドMだなどと
ままならぬ飢餓と社会性にクリティカルな問題抱えた、対話が成立しそうでギリ成立しないヒステリックな人を許して愛せる自分が大好きなだけのエゴイストだなどとは
こんなメチャクチャな人を許せてる自分カッケェ、という自己愛が主体でそこに他者愛なんてほとんどない
実は人の事をすぐに怒って悔い改めさせようとする人々の方がよほど他者愛が深いのではないか
そして私はその他者愛を唾棄すべき不快なものと思っている。だから他者を心の底から愛せない
そうか。でも死に行かんとする他者に対し痛みは感じる。痛みは感じるがその痛みを止める為に相手の決意を捻じ曲げてでも助ける事は相手の為ではなく自分の為。そんなものは他者愛であるはずがない
何もかもただ自分の為にやっている
他人の気持ちに寄り添ったフリをするのは、それをしている自分を格好いいと思っているから
他人の為に自己犠牲できる人を格好いいと思っているから
これを解体したら本当にわけがわからなくなる
自己犠牲は格好いい。これが私の欲望の最小単位ということにしておきたい
そこに嘘があったとしても私はそこから先を見たくはない
なあんだ、自己犠牲べつにかっこよくもなんともねぇや、という視点を手に入れたくない…
みんな、なんで自己犠牲フェチじゃないんだ
「人を助けて死ぬのって気持ちいいね」って、どうして思わねぇんだよ
ああ、気持ちいい。これは気持ちいい事の筈なんだ
自己保存欲求という本能を抑えてでも実践する理性的・社会的な他者愛的行動
あ、そっか。ヒーローに憧れてんだこれ
そして元気な人を助ける程のパワーがないからハードル下げてメンヘラ選んでる
ん。別にそれ分かった所で欲が無くなることはないな
私の中のヒーロー実践欲を満たす為にはメンヘラの横暴さに耐える事が必然なのだ
そしてヒーローになりたいという欲は他者にとっての規範や有益な存在でありたいという欲望
その欲があまりに綺麗事のお為ごかしに満ちていて恥ずかしいから、皮肉や露悪やヒステリーでカモフラージュしている
いや、邪気眼であり厨二だろ、これは
そして私はただの一度も、他人のことを救えた事がない。誰にも希望を与えられていない
つまり私はまだまだ飢餓の中にいる
飢餓から逃れたいという欲が苦しすぎるから、「飢餓を求める欲がある」という事にして問題解決を先送りにしている
そんな欲求あるわけない
私は今すぐすべての責任を放棄し身勝手に氏にたいのだ
生きることは飢餓の肯定に他ならぬ
我々は神によって不条理で不自由な欲望与えられた餓鬼(グール)に過ぎない
娘は言った。飽きると言う感情が苦しいと
理性はそれをずっと楽しみたいと願い続けているのに感情がそれを無価値とレッテル貼りしてしまう。その浅はかな感情自体が嫌いなのだ、と
新しい刺激を貪欲に求める身体が嫌なのだ、人間の仕様そのものが嫌なのだ、と
おお、娘よ。それは私が32歳くらいでようやく向き合う事になった人間の本質だ
なぜそれをもう持っている。何処で見つけた?
かわいい。なんて可愛い生き物なんだ
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nagatzki · 6 months ago
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クワロマンティック/クワセクシャルを誤解していた話──僕の「愛についての考え方」に名前がついた。
*この記事では、鉤括弧つきの「彼」を、明治以前の男女を分けない用法で使っています。英語で言えば「they」に相当します。
*よく性欲と恋愛感情を混同されがちな「好き」という気持ちについて、【ロマンティック=恋愛感情】/【セクシャル=性欲・「性的な惹かれ」】に分けて文章を書いています。
たまには今の状況でも、久しぶりに書いておこうと思う。
2025年、新年は明けたものの昨年亡くなった2人の祖母の喪中だし、ガザでの攻撃や死は続いていて「happy new year」感をあまり感じられない1/3ド深夜。
ふと、3年前に書いた日記、ないし独白を読み返していた(https://is.gd/xXqJ0t: 2022年)。
その独白は、こう締め括られていた。
「どれも誰かに直接伝えたいってものではないのだけど、ただもしかしたら———ほんとうに誰でも嬉しい———誰かがを見つけてくれるかもないところに、僕から見た世界の断片を置かせてほしいのです。
見つけてくれた人はありがとうね。」
まるで、未来の自分に宛てた手紙みたいだった。
見つけたよ、僕。
やはり自分の真の理解者であり、自分を最も愛することができるのは自分なのだなと思った。
自己愛の強いINFPらしいかもしれない。──まあ人間を16種類にしか分けられないなんてわけないけど。。。
過去の自分、または未来の自分に宛てて、今の近況も書き記しておきたいなと思った。
そういうわけで、この文章を書いているmy new year…
今から書くのは、2022年の独白の後の、2023年および2024年を軸とした状況や、僕の変化についてだ。
僕はこれを書いている2025年に30歳になるが、三十路を迎える時期になってもまだまだ自分の心──ジェンダーやセクシュアリティは複雑怪奇で、滔々と変化し、興味が尽きない。
それでは自分に向き合う「自己理解パーティ」を今宵も開催しよう。
2022年に書いた独白に登場した、僕が最後に「狭義の恋愛感情」を抱いてしまった人は、今はもう話す機会はない。
「彼」との関係性が上手くいかなかった当時は、鬱病や失業も相まって、自傷や自殺の衝動に駆られるほど辛かったが、今となってはさほど引き摺っていない。
(それよりも10年ほど前の傷痕の方が疼く。
10年前の傷とは、例の独白でも書いた、当時「好き」だった人に深く深く傷つけられたことである。)
僕が最後に好きになった人と上手く行かなかった悲しみが、その(独白に出てきた)女の子と触れ合ったことによって、なんだかぜんぶどうでもよくなったのは、たぶん本当だった。
セクシャルな経験を男性だけでなく、身体の同じ女性や、あるいは性別の曖昧なひとともしたことは、僕の心を豊かにしたと思う。
よく考えたら、あまり意識してこなかったが僕はパンセクシャルだ。
また、上記の「彼」など、性別の曖昧なひとにロマンティックな���持ちを感じたこともあり、たぶん僕はパンロマンティックでもあることに、ごくさいきん気がついた。
あまり困ったことがなかったから、自分の中で意識されてこなかったように思う。
たぶんそれは、そもそも僕は恋愛では、相手の性別やセクシュアリティにかかわらずほとんど満たされたことがなかったからでもある。
僕は、これまで「狭義の恋愛感情」によって幸せになることはなかった。これからもおそらくないだろう。
むしろ今の僕が幸せや安心感を感じられるのは、友情などを含んだ広い意味での好きな人たちとの関係においてだと感じている。気づかなかったが、おそらく過去もそうだったのだと思う。
もともと僕は、恋愛感情を非常に強く感じる質(たち)である。
恋愛漫画で見るような、好きな人に対して切なくて、会いたくて仕方なく感じるような恋愛感情を、僕は「狭義の恋愛感情」と呼んでいる。
それに対して、「狭義の恋愛感情」以外に「広い意味での好き」もあると気づき、数年前から「広い意味での好き」を大事にしたいと考えるようになった。(おそらく2019年頃)
ところで、クワロマンティック/クワセクシャルというセクシュアリティがあるのをご存知だろうか。
僕は、クワロマンティック/クワセクシャルという言葉を1〜2年ほど前に知って以来、「友情と恋愛感情を区別できない」心のあり方だと誤解してきた。
そうではなくむしろ本流は、「クワロマンティックは「恋愛感情と友情が区別できない」という状態のみならず、むしろ「区別したくない」という態度や主義でもあり得るのだ。」そうだ *1。
*1 https://lgbter.jp/noise/0183/
ずっとクワロマンティック/クワセクシャルのことを、「友情と恋愛感情を区別できない」のだと勘違いしていたので、それ以外の感情との境目がかなりはっきりしている「狭義の恋愛感情」を持つ自分には当てはまらないと思っていたが、むしろこちらの説明はしっくりくることに気がついた。
確かに僕は、「狭義の恋愛感情」を感じはするものの、それ以外の「広い意味での好き」──愛情や、友情や、一緒にいてくれることへの感謝や安心感、はたまた言葉に言い表せない輪郭の曖昧な「好き」たちを、愛したいと切望してきたからだ。これは、僕の愛についての考え方であり、態度である。
過去、自身の感情と理性を分離して心を苦しみから守ってきたせいか──僕はセクシュアリティは考え方ではなく、感じ方の問題だと思っていたが、クワロマンティック/クワセクシャルの現在地点を正しく理解したことで、考え方も自分のセクシュアリティとして受け止めていいのだという地点に到達することができた。
僕はポリアモリーにも属しているし、非独占愛者でもあるから、よく考えればそのこともわかるものだった。
ポリアモリーは単に人を複数好きになる心の状態だけでなく、複数の恋人を持つ「ライフスタイル」であるとも理解される。
僕は「狭義の恋愛感情」を、同時に2人以上に抱いたことはない。
しかし、これまで自分はポリアモリーというラベルを、「モノガミーに限定されないリレーションシップを構築するライフスタイルに肯定的であるという態度や主義を示すもの」として使っていた。
このことをうまく認識できていなかったが、今回言語化することができた。
翻って、クワロマンティック/クワセクシャルは、ライフスタイルとして捉えることもできるだろう。
すなわちそれは、恋愛感情や性的惹かれ、また恋愛/性的価値に重きを置かないリレーションシップを構築することだ。
今までクワロマンティック/クワセクシャルという言葉を得ていなかったが、僕は、実はこのようなライフスタイルをすでに実践していたと思われる(!)。
例えば以前、他に「狭義の恋愛感情」を抱いていた人がいたが、その恋は叶いそうもなく、その状態で他の人と付き合っていた。付き合った「彼」のことは「広い意味での好き」であり、少しの間だが生活をともに送った仲だった。「クワロマンティック/クワセクシャル」な選択だったと言えるかもしれない。
また、今現在の僕は、「普通に飲んだり麻雀したり博物館に行ったり、映画館に行って映画を見たりするのと同じように、〈コミュニケーションや遊びの一形態としてのセックス〉もする友人」というリレーションシップ/親密圏を持っている。それも信頼と友情のある2〜3人前後の友人と。
この関係は年単位の長期的な継続性のあるもので、その時々で人間関係も変化したり、関わる人数も変わったりする。
でも、何らかの約束を結んだわけではない、あくまでただの「友人」だ。
これが「セフレ」ではなく「友人」なのは、セフレが「セックスが(主)目的の関係」なのだとしたら、それに対し、友人とは、セックスがなくても成立する友情関係のことだと捉えられると思うからだ。セックスないしセクシャルな触れ合いは僕(たち)にとって、ともに楽しめる遊びの一つに過ぎない。別に今もセックス以外のこともして遊ぶし、もしセックスがこの世になければ僕たちは他の遊びをするだけだ。そんな関係もこの世には存在している。
これは、極めて「クワセクシャル」的な関係なのではないだろうか。友情と性行為が違和感なく共存している関係だ。
むしろ「違和感がない」どころか、僕にとっては友情や友人関係は、安心できるリレーションシップにとって必要不可欠な要素だと感じている。「友人」とは、僕にとっては「対等な人間関係」の一形態と了解している。
恋愛的/性的に搾取されたりしたりする関係ではなく、対等な人間・友人としてのリレーションシップが確立してると感じられるからこそ、僕は安心して性行為ができるのだ。
そしてセクシャルなだけでなく、ロマンティックに通じるような、とりわけ人としての愛情や親密さを感じられる友人もいることが嬉しい。
一方で、僕にとっての恋愛/性愛関係とは、相手にロマンティック/性的な搾取や傷つけることをしてしまったり、されたりするものだった。僕はいつも、対等な恋愛/性的関係を構築・維持するのは非常に難しいと感じる。それは、そもそも好意というものが他者への要求と変換されることで攻撃性を含み、付き合うなどの性愛の関係性が「要求」することを正当化するからだろう。(しかしとにかく恋愛が厄介なのは、この要求が退けられると、他者への攻撃性がダメージとなって自分に跳ね返ってくることだと思う。)
だから僕も他人をたくさん傷つけてきたし、たくさん傷を負ってきた。
こうして文章に書き起こしてみると、一体化しようとしない距離感のある「対等な友人関係」というのは僕の中においてはかなり大事な要素であることを改めて認識させられた。
この感覚は、僕が非所有愛者であることと相関関係があるように思う。僕は、パートナーシップを結ぶことで、相手や自分が束縛されたり所有されたりすることで自由や可能性を失うことが、非常に非常に嫌なのだ。パートナーシップは多くの場合、制約や束縛といった所有を伴うが(なお、それはポリアモリーでも同様である)、一方で友人関係はそのような束縛や所有を前提としていないことが、他者と自らの自由を愛する僕の居場所としてとても心地いい。
どこかで聞いた言葉だが、「いいパートナーシップは、いい恋人や夫婦であるだけでなく、いい友人でもある」、みたいなことを聞いたことはないだろうか。
【ロマンティック=恋愛感情】や【セクシャル=性欲ないし性的惹かれ】と、友情はそれぞれ共存し得るのだ。
それどころか恋愛や性的関係においても友情や友人関係は、相手を尊重し対等な他者としてみなす役割として重要だと思う。
Twitterではたまに(最近も)、男女の友情は成立するか、というツイートがバズってその議論がTLを埋め尽すことが定期的にある。
この「素朴な」問いは、現実に男女での友情が成立いるひとたちを無視してしまっている。
さらに、恋愛感情or性的惹かれを友情とトレードオフのものとしてしまっており、現実に友情と恋愛感情や性的惹かれが同居している状態のことも不可視化している、ということは指摘しておきたい。
僕が、性的に搾取されるのではなく、2022年から友人と、友人としてのまま性的な接触やコミュニケーションを取るということを始めてから(件の女の子も含めて)、特に2023年、2024年にかけて、友人(たち)と親密さや愛情を感じられる密接な時間を少しずつ重ねてきた。
友人たちにはすごく愛されていると感じる。
他者の所有を前提とした恋人関係ではないので、互いに所有することも、何の義務も負わない。なんて自由で、そしてなんて幸せなんだろう。
2019年ころ、ある人に「あなたはどんなリレーションシップが理想?」と聞かれた時に、それまで「理想のリレーションシップ」など考えたこともなく何も思いつかなかった自分に、5年の年月をかけた現在の到達点を教えてあげたい。いつかたどり着くよ、と。
広い意味での「愛」のある関係は、恋愛関係だけじゃない。
そう気づかせてくれたのは、クワロマンティック/クワセクシャルという言葉とその概念だった。誤解していた僕に、この意味を正しく教えてくれた友人には感謝しかない。
ジェンダーやセクシュアリティについての言葉による細かい分類は本質的にそこまで意味はないとはいえ、言葉によって概念が確立されると自分がそれに当てはまるかどうかなどの言語化につながるから、非常に重要ではあるとも改めて思う。
僕がずっと大事にしたいと考えてきた「広い意味での好き」── 「狭義の恋愛感情」以外の愛情や、友情や、一緒にいてくれることへの感謝や安心感、はたまた言葉に言い表せない輪郭の曖昧な「好き」たちという、僕の「愛についての考え方」に、クワロマンティック/クワセクシャルという名前をつけることができたのだから。
2025年、1/3深夜に。
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shumi-suimin · 7 months ago
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2024.12.1 22:26
昨日はなんだったんだろう。夫は疲れていたんだろうか。
昨日ベッドに入る時間が30分ほどずれて、私が後からベッドに入った。
いつもわたしの方とは逆を向いて寝ていて、昨日もいつも通りで、離婚の話が出る前からこの向きのままこっちを向かなくなったんだよな、と思いながらベッドに入ったら、起きていたようで、くるっとこちらを向いてわたしにハグをした。
その瞬間、一日感じた寂しさと、夫からハグをしてくれた喜びがぶつかって、ぼろぼろと泣いてしまった。泣いているわたしをみて、また強めに抱きしめてくれた。
頭ではわかってる、離婚した方がいいし、それが2人のためなんだとよくわかってる。だけど、どうしても気持ちが追いつかない。好きだし、今までとても楽しくて幸せだったから、どうしても寂しくて、悲しくて、そういう気持ちが頭の整理に追いつかないと話した。
そのまま、いつも仲が良かった数ヶ月前のように、わたしが夫の頭を包み込むようにして眠った。そして明け方、夫がトイレに行って戻ってきたときもわたしは目が覚めて、ベッドに戻る夫に向かって腕を広げて、またわたしの腕の中に迎え入れた。そのまま2人ですーっと眠ってしまった。
翌朝、夫は、トイレのとき結構目が覚めてたのに、睡眠ちゃんの腕枕だと不思議と寝ちゃうんだよねと言っていた
夫にハグされて嬉しくて泣いてしまったと友達にLINEしたら、友達はとても怒っていた。睡眠ちゃんの気持ちをなんだと思ってるんだ、気持ちがないというならハグもできないと思うのに、なんでそんな気持ちがあるようなことをするんだと。
次に泣いていないときにハグされたら、なぜハグをしてくるのか聞いた方がいいよと言われた。
今日は午前中と夜に、お互いの次のパートナーについて話をしていた。
引っ越した後の半年後くらいに、ご飯言って近況報告しようよと言われた。そうだね、それはとても楽しそうだね、と答えたら、でも出会いがあって会えないくらいがちょうどいいか、と言われて、また泣いてしまった。
もう会えないなんてこと言わないで、やっぱり気持ちが追いつかないから、と伝えて、また泣いた。夫は少し慰めた後に、また疲れてしまったようで午後はずっと寝室で休んでいた。
夜、またお互いの次のパートナーや注意点について話した。
夫からわたしへは、睡眠ちゃんは頑固で変わらないところを好きになってもらったほうがいいね。と言われた。でも人としてとてもできてると思うよ、素直で、駆け引きをしてこなくて、そういう人としてずるくないところ、とてもいいと思うよ。と言われた。
夫が何度も早く帰ってと言っていたのに、そこが変わらなかったから頑固と言われた。たしかに頑なに変えられなかった。だけど、それは、数年前に夫との喧嘩の中で、夫の金銭感覚の弱さや将来への蓄えの重要性が感じられず、かつ自己肯定感が低いわたしにとって、自信満々の夫の姿はコンプレックスをくすぐられて、わたしも自信を持てるものが欲しいと思うようになって、その二つが相まって仕事へのアクセルを踏んだ。
これをわたしの自信にするんだ、というのと、
これを頑張って地位を築けば、子供ができても、家族みんなでいろんな選択肢を持てるはずだ、と。
その思いが強すぎて、ちょっと早く帰るなんてできなかったし、実際調整できないくらい忙しかった。
夫から昔、好きなことやってるなら愚痴るなと言われてから仕事の愚痴が言えなくなって、それを吐き出すための外の時間も必要になった。
だから、ただこの生活をしたくて頑固だったわけではないと思うし、夫ではない人だったらきっと変わっていくんだと思う。
この話は、今後機会があったら夫にちゃんと伝えたい。できれば離婚前に。自分の好きな生活がしたいという頑固さではなくて、2人の幸せの方向を信じ込んだ頑固さだったんだと。
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moko1590m · 1 month ago
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ニーチェ的「末人(おしまいの人間)」の特徴と、現代的類似形態の詳細
1. 適応過剰性と主体性の喪失
権威(国家、企業、上司など)に従順で、自発性に乏しい。
社会制度や通念に対して疑問を持たず、内面化して生きる。
安全・安定を最優先にし、挑戦や創造には消極的。
自己決定を恐れ、他者の評価やルールに依存。
2. 上下関係の内面化
上には媚び、下には高圧的になる傾向(権威主義的性格、アドルノらが論じた)。
上下関係を自然なものとみなし、抑圧を再生産。
弱者に対して連帯せず、むしろ攻撃する(スケープゴートを求める)。
3. 形骸化した美意識
形式や規範に固執し、本質を見失う。
個性や創造性よりも、既存の「正しさ」「整い」に価値を置く。
「美」はファッションやマナー、インテリアなどの型に還元されがち。
4. 表面的なポリコレ(政治的正しさ)の遵守
内発的な倫理観ではなく、外的規範に合わせるためのポリコレ実践。
その遵守自体が自己肯定感や優越感の源となる(道徳的ナルシシズム)。
他者にもその規範を強制し、逸脱者を排除する傾向。
5. 希望の喪失と抑圧的自己認識
世界を変える可能性や自己変容の可能性を信じない。
自虐的・自己卑下的な語りをするが、そこに妙な誇りがある。
抑圧された自我を正当化する言説(「これが現実」「大人になるってそういうこと」)を反復。
6. 不自由なプライドと支配欲
無内容な「正しさ」や「常識」を盾にプライドを保つ。
自身の狭い経験や価値観を普遍化し、他者に押し付ける。
教訓・説教・忠告の形式で他人を支配しようとする。
7. 快楽の均質化と怠惰な幸福
「心地よさ」「無難さ」「便利さ」が幸福の基準。
不快や混乱、対話や変化を避ける。
消費社会的な快楽(娯楽、買い物、SNS)に閉じこもる。
8. 過剰な自己保存本能
生命や社会的立場の維持が最優先で、「生の昂揚」は軽視される。
ニーチェがいう「生の意志(Wille zum Leben)」に従っているが、「力への意志(Wille zur Macht)」を欠く。
9. 規範の内面化による監視社会的性格
自分の内に「監視者」を住まわせて、自己検閲・自己管理を行う。
他者の逸脱に敏感で、それを咎めることで自我を保つ。
「世間的正しさ」を無自覚に武器化する。
10. 意味の貧困と深みの喪失
深い問いや形而上学的関心を「非生産的」として切り捨てる。
宗教・哲学・芸術が、単なる趣味や装飾に矮小化される。
内的対話が失われ、自己の深みに潜る能力が減退する。
近代批判の系譜との関連
フロムの「自由からの逃走」:自由を恐れ、権威に服従する性格傾向。
マルクーゼの「一元的思考」:技術的合理性が全てを覆い尽くし、対抗的想像力を失う。
アドルノの「権威主義的パーソナリティ」:ナチズムを可能にした心理的傾向として分析。
ライヒの「性の抑圧とファシズム」:リビドーの抑圧が支配構造に適応的性格を生む。
現代の「末人」的傾向を加速する社会的要因
SNSによる承認欲求の制度化(「いいね」による快楽回路)
教育における標準化と評価主義(偏差値、就職偏重)
経済的不安定さと過剰労働(自発性・余白の欠如)
文化の商業化と表層化(深層的意味への関心の喪失)
規範の過剰供給と自己責任論の蔓延
このような人間像は、ニーチェが超人(Übermensch)という概念で対比的に語るように、**「生の肯定」「創造的価値の創出」「自己変容」**という方向性とは真逆の位置にあります。
必要であれば、こうした「末人」状態からの脱出のヒント(例:生成変化、アセンブリックな生のあり方、東洋思想との接続など)についても整理できます。ご希望があればお知らせください。
4o
You said:
ニーチェの「末人」と同様の分析を行った思想家・学者など、できるだけ多数教えてください。
ChatGPT said:
ニーチェの「末人(der letzte Mensch)」という概念に類する人間像の分析や批判を行った思想家・学者は、20世紀以降の哲学、社会思想、精神分析、文化批評において多数存在します。以下に代表的な人物をジャンルごとに整理し、簡単な解説を添えてリスト化します。
◆ ニーチェの「末人」的主題を引き継ぐ思想家・学者リスト
1. 実存主義・ニヒリズム批判の系譜
思想家   主な概念・著作   関連する「末人」的分析
マルティン・ハイデガー『存在と時間』「ダス・マン(世人)」=平均化された匿名的存在としての人間像。自己を生きる代わりに他者の視線や世間に流される。
ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』『存在と無』「実存は本質に先立つ」:自由から逃れ、役割や肩書きに安住する人間への批判。
アルベール・カミュ『異邦人』『シーシュポスの神話』不条理を直視せず、習慣の中に逃げる人間の姿(=末人的)を描く。
2. フランクフルト学派・社会心理の批判
思想家    主な概念・著作    関連する「末人」的分析
テオドール・アドルノ『権威主義的パーソナリティ』『否定弁証法』権威に従順で他者に攻撃的な性格構造=ファシズムを支える「末人的」性格。
マックス・ホルクハイマー『道具的理性の批判』理性が自己保存と効率だけを目的とするようになった現代人=末人。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』『生きるということ』自由に耐えきれず権威に逃げ込む「逃走する人間」=末人の心理。
ハーバート・マルクーゼ『一次元的人間』消費社会が人間の欲望や想像力を均質化し、批判精神を失わせる。
3. ポスト構造主義・現代思想系
思想家    主な概念・著作    関連する「末人」的分析
ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』実体なき「イメージの支配」に取り込まれる人間像=自己喪失型の末人。
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』『シミュラークルとシミュレーション』現実よりもコピー(シミュラークル)を消費する人間=意味喪失の末人。
ジル・ドゥルーズ & フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』など欲望をコード化され、定型的な役割を演じる主体=脱創造的「末人」。
スラヴ��イ・ジジェクポストマルクス主義・ラカン理論消費社会における「空虚な欲望」と「享楽の命令」に従う主体=「末人」的存在。
4. 宗教・倫理・東洋思想との関連
思想家    主な概念・著作    関連する「末人」的分析
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』形式的信仰や制度に埋没し、本質的な魂の渇望を見失った人間への批判。 
梅原猛『仏教大学講義』など経済的合理性や制度に埋没する現代人=仏教的な意味での「迷い」の極致。
中村雄二郎『術語集』『共通感覚論』技術的合理性に染まる現代人が、感性・共感を失う危険性を示唆。
5. 精神分析・文化批判・社会理論系
思想家    主な概念・著作    関連する「末人」的分析
ヴィルヘルム・ライヒ『ファシズムの心理構造』性の抑圧が支配体制に順応する性格を生み出す=「末人」的心理の構造分析。
アーサー・ケストラー『機械の中の幽霊』科学文明の発達と人間性の崩壊の乖離を批判。
ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール』マスメディアによる認識の管理に無自覚な現代人=末人型の大衆。
6. 日本の思想家・文化批評家
思想家    主な概念・著作    関連する「末人」的分析
柄谷行人『マルクスその可能性の中心』『探求』資本制の内部に無自覚に同一化する主体の批判。
宮台真司『14歳からの社会学』など「終末的社会」の中で思考停止する大衆=末人化した現代人の診断。
中沢新一『野生の科学』『芸術人類学』近代的合理主義に押しつぶされた、野生的感性や創造性の喪失=末人的。
栗本慎一郎『意味と生命』『パンツをはいたサル』「意味への感受性」の衰退を嘆く。脳の変容と社会構造との関係を指摘。
補足:文学・芸術における「末人」的表現者
フョードル・ドストエフスキー(『地下室の手記』の主人公)
カフカ(『変身』『審判』などの不条理で抑圧的な主人公像)
三島由紀夫(『豊饒の海』など、戦後日本人の精神的空洞化への批判)
村上春樹(空虚で自閉的な語り手たち)
必要であれば、特定の思想家の議論を掘り下げたり、比較表にしたり、また「末人」から脱却する思想や実践(生成変化・スピノザ・仏教思想など)との接続も可能です。お知らせください。
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