#荒井由実デビューの日
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「スウィート・ホーム」の衝撃的なデビュー以降、「クリーピー 偽りの隣人」「スパイの妻」など カルト的な人気を誇る作品を連発し続けている黒沢清監督の最新作「Cloud クラウド」が本日より公開中。 クリーニングの作業場で働く傍ら、転売ヤーとしてサラリーの何倍もの利益を上げている主人公が 大量のアンチに目をつけられ、命を狙われる恐怖を描く。 主演は「花束みたいな恋をした」「ミステリと言う勿れ」の菅田将暉。 共演は古川琴音、奥平大兼、岡山天音、松重豊、荒川良々、窪田正孝。 人と距離を取りながら黙々と働く吉井良介(菅田将暉)の秘密の副業は、転売ヤー。 ラーテルのハンドルネームを使い、レアな商品を次々に買い付けては高額で売り捌く。 ハズレを引けば在庫の山、アタリを引けば数百万から1千万円の利益をあげて生活をしている。 吉井と付き合っている秋子(古川琴音)は、彼のやっていることをうっすら理解しつつも さほど興味はないようで、深入りもしないし手伝おうともしない。 そんな秋子が、吉井にはかえって心地良いようだった。 ある日、買い付けた商品の置き場に困った吉井が群馬の山奥に一軒家を借りて 暮らすと告げると、秋子も喜んで付いて来ることになった。 荷物番や運搬助手など雑務全般の手伝いとして若い青年の佐野(奥平大兼)を雇い、3人での生活がスタート。 早速大きな買い付けを成功させ、意気揚々と出品に励む吉井だったが ある日の夜、窓ガラスに何者かが異物を投げ込んだのを境に生活が一変する。 ネットワークの世界を題材にした黒沢監督の代表作「回路」から23年。 インターネットの登場によって世の中がこの先がどうなるのか、多くの人がアカルイミライを想像する一方で 漠然とした不安や警戒心を抱く人も少なくなかった2001年に頭をタイムリープさせてみて、 2024年は夢に見ていた通りの世界になったと言��るだろうか。 予想を超える便利さや快適さを手に入れた反面、 予想を超えるネガティブな感情の溜まり場になってしまったような気もする。 昔なら誰かと酒を酌み交わしながら愚痴ったり、こっそり日記に書いて発散していた 不満やストレスの新たな受け皿となったインターネットは 憎悪を共有し増幅するツールとしての機能も持ち合わせてしまった。 会ったこともない人達が同じ攻撃対象を通して連帯し、クラウド上で憎しみを膨れ上がらせていく。 ついには殺意にまで発展したラーテルアンチ達の狂気を、「そんなバカな」と笑うことすらできない。 世の中は、もうそんなところまで来てしまっている。 アイドルのチケットや発売間もないゲーム機など、品薄の商品を見つけては法外な値段で売り捌く転売ヤーは ネット民から特に嫌われる職業の筆頭であろうし、転売されたものが希少なものであるほど 高額を理由に手が出せない人の怒りは天井知らずに累積していく。 今は開示請求も容易になり、一線を超えた行動に対する防衛手段は増えたが では、発信者の特定をチラつかせて手を出せなくなった人の憎悪はどこに行くのかと言えば 強い遺恨を残したまま水面下へと潜り、より狡猾に、より凶暴な手段で襲いかかることもある。 実際2018年には、ネットでやり取りしただけの相手をターゲットにした刺殺事件も発生し、 ネット界隈が騒然としたのを良く覚えている。
映画「Cloud クラウド」割に合わない仕事(*ネタバレ有り)|黒沢清 菅田将暉 奥平大兼 - 忍之閻魔帳
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BTS Sugaのワールドツアーは究極のポップス転覆 / The Atlantic 翻訳
アメリカでグループ初となるソロコンサートを開催、アーティストとしての個性を強烈に宣言した。
Story by Lenika Cruz
フォグマシーンの柔らかな吐息に包まれたステージから、フードを被った4人の人物が舞い降りてきたかのようだった。その肩には、黒をまとった体が乗っている。雨と稲妻が背後のスクリーンに真っ白に映し出される。ようやく、その男が地面に横たえられた。その後には、まるで死からの復活を思わせるような光景が待っていた。スポットライトが彼を見つけ、歓声が上がり、ついに彼は動き出した。そして、マイクを口に当てた。
このロックスター、ラザロの正体はミン・ユンギ。グラミー賞にもノミネートされ、チャートを席巻している韓国のグループ、BTSのラッパー兼ソングライターのSugaとして広く知られている。しかし、その夜ニューヨーク州ロングアイランドにあるUBSアリーナのステージには、彼のバンドメンバーは誰もいなかった。なぜなら、この日は彼のソロワールドツアーの初日だったからだ。昨年の夏以降、メンバーは各々の兵役義務遂行に向け、個人活動に集中してきた。BTSで初めてソロツアーを行うSugaはグループ作品よりも暗く、生々しく、パーソナルな音楽制作のために2016年につけた名前、Agust Dとしても公演を行っていた。先月、Agust Dの3部作の完結編となる強烈なスタジオアルバム『D-Day』をリリースした。このアルバムで社会批判やトラウマの黙想、名声、精神疾患、孤独、そして許しについて語っている。
同じくD-Dayと題されたSugaの現在進行中のツアーは、彼の作品を初めて本格的にショーケースするものだ。完売したアメリカでのツアーは、まるで10年以上の歳月を経て作り上げた芸術的個性の宣言のようだった。コンサートはフロントマンのエネルギーと作家��義的な華麗さで爆発していた。しかし、彼の最も際立った功績はポップミュージックが持つ共感を生み出す潜在的な力を受け入れながらも、その非人間的な作用に立ち向かっていることだ。
水曜日の夜、カリフォルニア州オークランドで幕を閉じた全米ツアーの全11公演は雷雨の中、道路に横たわるSugaの姿で終わるショートフィルムからスタートした。これはBTSとしてデビューするまでの練習生時代、生活費を賄うためにソウルで配達のアルバイトをしていた時に、車にはねられたことにちなんでいる。この事故で肩に傷を負った彼はBTSが世界的な名声を得た後も、この怪我に悩まされ続けた。この映像の後に命を落としたかのような実物のSugaがステージに担ぎ込まれる展開は、スムーズでありながらも衝撃的であり、何日も会場の外で待ち続けるファンを持つポップスターの人間的な脆さを再認識させるものであった。
初日のUBSアリーナ、そしてアメリカ最終日のオークランド・アリーナで私が観たSugaの公演は、ポップ・コンサートの常識を覆すものだった。ある面では子供の頃に日本の作曲家である坂本龍一の曲をサンプリングして自分のビートを作っていた技術に長けたラッパーによるダイナミックなヒップホップショーだった。Sugaは『Haegeum』でこの夜の空気を作った。タイトルは韓国の弦楽器と解禁を意味する。「溢れ返る情報は想像の自由を禁ずると同時に思想の統一を求める」「資本の奴隷 カネの奴隷 憎悪と偏見 嫌悪の奴隷 / YouTubeの奴隷 Flexの奴隷」とSugaは韓国語でラップする。Haegeumの耳に残るストリングスと、心地よく荒れたベースが空気を振動させた。この曲はすべて韓国語で書かれたものだが、観客は歌詞を大声で彼に歌い返した。反骨精神に満ちた『Daechwita』、初期のファンに人気の『Agust D』、『Give It to Me』と激しいラップ曲で序盤を駆け抜ける彼は催眠状態にあるかのようだった。
観客がまだ落ち着かないうちに、Sugaはアコースティックギターを取り出した。ギターにはBTSの他の6人のメンバーからのメッセー���や絵が描かれていた。パンデミック期間中にギターを習得した彼のアンプラグド・バージョンの『Seesaw』は、振り付けやバックダンサー、凝ったセットを伴う過去のパフォーマンスとは一線を画すものであった。序盤の盛り上がる曲で見せた力みのない威勢が、静かなシンガーソングライターモードのSugaへと移り変わっていった。その後、アップライトピアノの前に座り、2020年のBTSの楽曲『Life Goes On』の自作バージョンを披露した。特に感極まる瞬間は、歌手のWoosungと亡き坂本龍一が参加した楽曲『Snooze』のソロパフォーマンスだった。2022年後半にSugaと坂本が唯一対面した時の映像が、前もって大型スクリーンに流れた。グランドピアノで曲を演奏する年上のミュージシャンと喜びを抑えようとする若者。Snoozeは、坂本にとって最後のコラボレーション作品のひとつになった。坂本を敬愛し、苦闘する若きアーティストを慰めるためにこの曲を書いたSugaにとって曲中の坂本の存在は、とりわけ心に響くものだろう。
BTSの活動で、できなかった試みをD-Dayで再三にわたり実践するSugaの姿は、実にスリリングだった。 そう、彼は依然として熟練したエンターテイナーなのだ。何万人もの観客の心をつかむ術を熟知している。BTSのコンサート中盤の爽快なラップメドレーで見せるとおり、息をつく様子もなくラップをしながらステージを飛び回れる人なのだ。そして、ロサンゼルスの2公演ではアメリカ人歌手、MAXとHalseyをゲストに迎え、それぞれのコラボレーションを披露した。その一方で、彼の破壊的な選択も際立った。コンサートに散りばめられたショートフィルムは、デヴィッド・リンチの夢の論理とグラインドハウス映画の粗い質感を思わせる。ポップアイドルのSuga、影のAgust D、そして人間ミン・ユンギという3つのアイデンティティーのストーリーが描かれている。このコンサートにおける究極の芸術的意図は、それぞれの自己を観客に明瞭に示すと同時に、それらがすべて共存していなければならないのだと認識させることにあるようだ。BTSのソロ曲である『Interlude: Shadow』やBTSの他のラッパーたちとの曲のヴァースを披露する姿を見て、彼は自分の過去を否定しているのではなく、むしろ誇りに思っているのだと確信した。なにしろ、その過去が彼を韓国の青瓦台、アメリカのホワイトハウス、国連総会、そしてグラミー賞の舞台にまで導いたのだから。
もうひとつの魅力的な演出があった。公演全体を通じて、舞台の一部がチェーンで天井に引き上げられ、Sugaのパフォーマンスできるスペースが次第に狭くなり、より慎重に舞台を進行させる必要があったのだ。 アンコール前の最後の曲『Amygdala』では、寂しげな四角い床に立っていた。周囲には炎が燃え上がり、まるで恐ろしい牢獄のようだった。アルバム D-Dayの核となる、このエモ・ラップトラックには、Agust Dのオルター・エゴの起源が記されている。交通事故、母親の心臓手術���父親の肝臓がん宣告など、彼の人生を決定づけたトラウマに言及し、それらがいかに彼を形成したかを語っている。曲の最後のフレーズで、力尽きたように地面に倒れ込むとフードをかぶった人物たちが戻ってきて彼を運び去った。ただし、今回は全身真っ白な服を着ていた。まるで浄化されたかのようだった。彼のカタルシスが完了したのだ。
アンコールの頃には舞台装置がすべて取り払われ、下に隠れていた機材が露わになった。 消火器、電気コード、発火装置などが散乱していた。Sugaはもう観客の頭上に立つことなく、地面の高さからファンの目の前で最後の数曲をパフォーマンスした。時にはファンの携帯電話を手に取り、自身の姿を撮影してみせた。最後の瞬間は、ほろ苦かった。ほとんどの観客は、6月下旬にあるソウル公演でツアーが終了した後、Sugaが少なくとも18ヶ月間の兵役に就くことを知っていたからだ。その現実がコンサートを一時的な別れのように感じさせた。ファンが持つライトスティックの輝きが、まるでひとつの波のようにアリーナ全体を駆け巡った。 時折、野生的なエネルギーに駆られた観客が吠え始めるとSugaは驚いたり笑ったりしていた。オークランドでは観客に向かって、BTSの他のメンバーと一緒に戻ってくること伝え、ファンにもう少しだけ待って欲しいと頼んだ。
ツアー初日の夜、もうひとつのサプライズが待っていた。私は最後の曲は感傷的なものなのか、軽快なものかだと思っていた。 ところが、Sugaは不気味なビデオカメラの輪の中に入っていき、その真ん中に立った。つぶやきはじめたのは『The Last』のヴァースだった。第一作目のミックステープに収録されているこの曲は、彼の最高傑作であり、私が最も好きな曲のひとつだ。そして、このところ私が聴くのに苦労している曲でもある。The LastでSugaは、強迫性障害、鬱、社交不安について語っている。低く控えめな表現から徐々に切迫していき、最後には叫び声と泣き声の間のような声へと変化していた。数年前、この曲を初めて聴いたとき、私は自分自身の絶え間ないパニック障害による発作と息苦しい死への渇望を思い出した。この曲は私の心に刺さり、歓迎すべき欠片になったのだ。
ここ数年、Sugaは成長、自己愛、不安や苦しみを肯定することをテーマにした音楽を多く作ってきた。 コンサートの序盤、彼は英語で「あまり怒りを抱えずにパフォーマンスしたい」と語り『SDL』、『People』、『People Pt.2』といった曲に焦点を当てた。これらの曲は人生の試練を前にして冷静に考え、許し、謙虚でいられる人物像を描いている。ひどい苦しみから解放され、自分なりの癒しを見つけられたときの安堵感を私もよく知っている。だから、The Lastの出だしの歌詞(「有名なアイドルラッパーその後ろに、弱い俺が立ってる 少し危険だ」)を聴いたとき、私は凍りついた。彼は一体何をしているのだろうか。 監視システムのように並んだカメラ、その映像が映る彼の頭上のスクリーン。彼が見せる苦しみを貪るように映し出す。つまり私もまた、彼の苦しみを貪っているのだ。
しかし、すぐに理解できた。23歳のときと同じように息もつかせぬ情熱でラップしているが、単なる激高ではなく時間とともに和らいだ怒りでパフォーマンスしているのだと。その感情の力強さや真摯さに陰りはないが、それを発信する側が受けるダメージは少ないのだ。今の彼は炎の中に立って熱を感じながらも、その炎に飲まれることはない。若き日の自分に回帰することなく、当時の自分と心を通わせられる。
そして、魔法が解けた。曲が終わった瞬間、客席の照明がつき、彼が舞台袖に無言で歩いていくのが見えた。別れの挨拶も、長々とした感謝の言葉も、歓声を上げる観客に手を振ることもない。後ろを振り返ることさえもしなかった。初日の夜、突然の退場に衝撃を受けた人々は戸惑いの表情を浮かべた。このフィナーレを観客との静かな対決、愛されてやまない芸術家による大いなる自己主張と捉えることもできるかもしれない。けれども、もしそれが対決であったなら、それは見下しているのではなく、むしろ信頼に基づくものだ。観客が不快感に耐えられるだけの知性を備えており、彼が見せたものに気分を害したり、恐怖を感じたりしないのだという信頼だ。
完璧なエンディングだった。闇と神話作りから始まったコンサートが明かりの中で、さらけ出すように終わったのだ。他の誰かに運ばれきてスタートさせた公演をSugaは自らステージを去ることで終わらせたのだ。これ以上、何を望むというのか。彼は私たちに何もかも見せてくれたのだから。
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 7月5日(火) #赤口(己未) 旧暦 6/7 月齢 6.0 年始から186日目(閏年では187日目)にあたり、年末まであと179日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 今朝は昨日よりは湿気も少なくムシムシ 感はなく程よい曇り加減が過ごし易 いですよね🤚台風も大した事ない感 じで関東に来る前に温帯低気圧に変 わるみたいですよね😅💦明日から 雨予想ですが、もしかすると七夕の 夜には晴れちゃうんじゃないかなっ て気がしてますけど🤚後2日です㊗️ . 今日一日どなた様も💁お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋 モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #萬代屋設立(現在のバンダイナムコ). 1950(昭和25)年7月5日(水)赤口.東京都台東区菊屋橋に萬代屋(現在のバンダイナムコ)を設立した。 当初は萬代産業の余りの布切れで作った人形を販売していたが、翌年の3月にはオリジナル商品第1号「リズムボール」発売した。 「B26ナイトプレイン」が50万個以上の売上でヒットになり同社は、ブリキのおもちゃをメーカーとして有名になります。 しかし、この「B26ナイトプレイン」の販売で、昔からある玩具会社の反発や悪い噂話が絶えなかったそうです。 1955(昭和30)年には「保証玩具」第1号の「1956年型トヨペットクラウン」を発売し、業界初の品質保証制度を実施しました。 萬代屋は、子会社のポピーを設立するなどして経営を安定させ数多くのおもちゃを製造していき、1983年にはポピーなどの グループ子会社を8社吸収して、新生「バンダイ」と社名も変わり新しくなったロゴも現在でも引き継がれて居ます。 2005(平成17)年には、ナムコと共同持株会社バンダイナムコホールディングスを設立、経営統合する。 . #赤口(シャッコウ・シャック). 「火の元や刃物に注意すべき日」と言われており、凶や死のイメージが付きまとうため、お祝いごとでは次で紹介する「仏滅」より避けられることが多いです。 この日は午の刻(午前11時ごろから午後1時頃まで)のみ吉で、それ以外は1日大凶となります。 . #大明日(ダイミョウニチ). 民間暦でいう吉日の一つ。 通例、甲辰・甲申・乙未・乙丑・丙辰・丙午・丁卯・丁未・戊辰・己卯・己酉・庚戌・辛未・辛酉・辛亥・壬午・壬申・癸巳・癸酉の一九日とされるが、異説もある。 この日は、建築・旅行・婚姻・移転などすべてのことに大吉であって、他の凶日と重なっても忌む必要がないともいう。 . #神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #原付ヘルメット着用義務(#道路交通法改正). . #荒井由実デビューの日. . #江戸切子の日. . #ビキニスタイルの日. . #穴子の日. . #名護の日. . #農林水産省発足記念日. . #セコムの日(7月5日、6日). . #プラチナエイジの日. . #長城清心丸の日(毎月5日). . #みたらしだんごの日(毎月3,4,5日). . #ベネズエラ独立調印記念日. . #アルジェリア独立記念日. . #カーボベルデ独立記念日. . #アルメニア憲法記念日. . #ツィリルトメトジェイの日(チェコ). . #在外スロバキア人の日(スロバキア). . . ■今日のつぶやき■. #無くて七癖有って四十八癖(ナクテナナクセアッテシジュウハックセ). 【解説】 癖が無いように見える人でも何かしらの癖があるもので、癖があるといわれる人ならば、尚更多くの癖があるものだと云う事から。 「七」は「無くて」の「な」に音を合わせ、調子を合わせたもの。 「四十八」は、相撲で「四十八手」というように、十分多いことを表す。 人は誰しも多かれ少なかれ癖があると云う事。 . . 2006(平成18)年7月5日(水)先負. #永野絵梨奈 (#ながのえりな) 【女優】 〔東京都〕 . . (at 日暮里駅) https://www.instagram.com/p/Cfmvx3Eh7jvFoJj8VFj84pfNvL8O7LxzCt0kQ00/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#赤口#萬代屋設立#大明日#神吉日#原付ヘルメット着用義務#道路交通法改正#荒井由実デビューの日#江戸切子の日#ビキニスタイルの日#穴子の日#名護の日#農林水産省発足記念日#セコムの日#プラチナエイジの日#長城清心丸の日#みたらしだんごの日#ベネズエラ独立調印記念日#アルジェリア独立記念日#カーボベルデ独立記念日#アルメニア憲法記念日#ツィリルトメトジェイの日#在外スロバキア人の日#無くて七癖有って四十八癖#永野絵梨奈#ながのえりな
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Easycome 『Easycome』
1973年11月20日、荒井由実のファースト・アルバム「ひこうき雲」がリリースされた。当時無名の新人であった荒井由実であったが、そのデビュー作は最先端の機材を備えた「アルファ・スタジオ」にて一年の歳月をかけて録音された。無名の新人にここまで"かけた"のは、ディレクター有賀恒夫に、この一枚が今後何十年も聴かれることになるという確信があったからだ。デビュー・アルバムといえども、それほどまでに音楽シーンにおいて意義深いものになる可能性が秘められている。
2015年に結成されたEasycomeのファースト・フル・アルバムが2019年7月17日、満を持してリリースされる。これまでに2枚のミニ・アルバム「風の便りをおしえて」「お天気でした」をリリースしているが、今回のフル・アルバムでバンドとして勝負を仕掛けに来ていることは明らかだ。
レコーディングとミックスは関西のミュージシャンの作品を数多く手掛けるMORG(http://morg.jp/)、angie(@HSanjiko)、そしてマスタリングはマドンナ,坂本龍一,宇多田ヒカル,松任谷由実など一流アーティストの作品を手がける世界的プロデューサー/エンジニアのGoh Hotodaを迎えている。
一曲目の「旅気候」のイントロを聴いた時点でその音の良さに驚く。インディーズバンドでここまで音に拘っているバンドは中々いない。太鼓の小気味良い鳴り、ふくよかでありながらしっかりと音の輪郭を残したキック、金物のクリアさ、細やかなアクセントまでしっかりと耳に届くベース、バッキングとリードのバランス��取れたギター、ツボを押さえたコーラスワーク…そしてアンサンブルの中で最も存在感を放つヴォーカル。どのパートも全く埋もれていない。耳を傾ければしっかりと個々のサウンドが聞こえてくるが、全体を俯瞰して聴けば見事に曲として調和が取れている。
ミツメ、シャムキャッツ、ネバヤン、Yogee New Wavesといった昨今の日本のインディロック界隈を連想させるサウンド感に加え、しっかりとその奥にある、まさにユーミンやはっぴいえんどなどといった70年代の日本のフォーク・ロックのエッセンスも感じられる。
ここにEasycomeとしてのオリジナリティを与えているのは間違いなくVo.ちーかまの圧倒的な歌唱力だろう。一聴して「良い!」と思うに違いない。伸びやかで、純朴さと色気が共存する歌声に引き込まれる。
コーラスの入れ方もとても良い。1番2番でコーラスのメロディを変えていることで、繰り返されるセクションの色味が少しずつ変わっている。
加えてEasycomeの美味しいところに、歌詞がある。どの曲もメッセージの中心をズバリと言い当てずに、その周囲を描写していくことで結果的にその中心を浮き彫りにさせているように感じる。
https://m.youtube.com/watch?v=zXqgqnygdtY
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「電車に乗った猫に目的地なんてない 走る雲窓の外に見つけて追いかけて」
「待ち合わせに遅れそうでも気にする仲じゃない 本当は良くないんだろうな」
https://m.youtube.com/watch?v=2eMEQaTcXeA
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「さよならいつかは手を振って君を見送るだけさ」
「飾ることのない僕らが明日を知っているんだ」
風景描写や心情表現から各楽曲の状況は察せるものの、芯のところは殆ど言わない。どこか煙に巻く感じがある。意図的なのか、結果としてそうなっているのかは分からないが、それがサウンドのポップネスと良いコントラストになって、楽曲に奥行きが生まれていると感じた。暖かく、懐かしく、そして少し胸が締め付けられる、そんな楽曲になっている。
そしてそれを全くストレスなく聴かせるバンドサウンド。バンドメンバーの技術力の高さがうかがえる。
私はギタリストなので、特にアルバム全編にわたるGt.落合のプレイにどうしても耳が向けられる。「旅気候」では、ギターソロ前のワウが左右に振られていたりと、芸が細かい。またアルバムを通して、コードに即したスタッカート気味なフレージング、コードアルペジオ、歪ませすぎないサウンドでの単音プレイ、ボトルネック奏法、ここぞというタイミングで挟まれるソロプレイ…Gt.落合もSPICEでのインタビューで「憧れのギタリスト」と公言している、鈴木茂(はっぴいえんど、ティン・パン・アレーのギタリスト。ユーミンのアルバムにギターとして参加し、それ以降も日本のポップスにおいて数多くの作品にクレジットを残している)の影響を随所に感じるプレイが光る。作曲を行う彼の感性がこのバンドの大黒柱となっていることは間違いない。
ヴォーカルや楽器のピッチ・バランス、音量バランスの調整、アルバム全体のマスタリング、演奏のクオリティ…全てが極めて高いレベルで作り込まれている。とても綺麗に整理されている。ポップスはこうでなくっちゃいけない。日常に溶け込んでも何の違和感もない。大衆の生活に寄り添える美しさが「Easycome」にはある。
願わくばこの『Easycome』がこれから何年、何十年と聴く者の日々に寄り添い、生活の中で響き続けていってほしい。
参考
https://easycome-band.jimdo.com/
http://morg.jp/
http://www.flakerecords.com/rcminfo.php?CODE=27879
http://www.flakerecords.com/rcminfo.php?CODE=26246
https://twitter.com/Easycome55?lang=ja
FREE MEDIA MAGAZINE SPICE vol.28 2018.9.14
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10月27日のツイート
ギャラクシーエンジェルとかいう原作とアニメの内容がなにひとつ一致しない作品 : ゴールデンタイムズ blog.livedoor.jp/goldennews/arc… GAアニメの功績者挙げるなら井上敏樹だけではなく荒木哲郎、浅香守生、大橋誉志光、高柳滋仁、里見哲朗は最低限挙げてほしい。井上氏は実は脚本あんま書いてないよ。
posted at 01:42:37
10年前こんなツイートしてたわ。 twitter.com/misttimes/stat…
posted at 01:21:31
楽屋での会話、RAMさんもRAMさんだしゆかりんもゆかりんだと思った。
posted at 01:19:50
AUDIO GALAXY Vol.551 youtu.be/eJC6F0QLc88?t=… 4:11~ RAM RIDERさんの*Meet Me?*現地での話。
posted at 01:18:57
「小見川千明と同じ事務���」「ソウルイーターの音響製作会社からオーディションの案内が来るようになった」「HIROMANの音響監督がソウルイーターの音響監督と同じ音響制作会社所属」 みかこし声優デビューのきっかけの時点で読み物として既に面白い。 originalnews.nico/390865
posted at 01:03:23
RT @mikakokomatsu: 人生を振り返る取材をして頂きました!たっぷり! twitter.com/nico_nico_news…
posted at 00:57:31
自分の場合、好きな歌を歌っている歌手の言動が酷すぎて今も歌は好きだけど二度と聴くまいと誓った曲や、社員の言動が気に食わなくて不買を決めた会社があるけど、他人に強要するつもりもない。
posted at 00:44:48
それで番組聴くのやめるのであればやめるのは自由。だけど他人に同調を求めるのは駄目だ。
posted at 00:42:39
私見だけど、今回の件はラジオ終了の件差し引いてもプライベートはプライベートなので降板云々する必要は全く無いと思ってる。こむちゃで触れる必要も無いし、せいぜい番組冒頭で一言謝れば良いレベル。今まで図太く生きてきたのであればその図太さを徹底的に貫いてほしい。
posted at 00:38:05
今月はスーパーで調達した「9種のお好み最中」。 #ゆかりの日 pic.twitter.com/dmt6yRrRz4
posted at 00:28:50
10月27日。松来未祐さんが早世されて7年が経ちました。
posted at 00:03:15
RT @usarin_marutama: (…きこえますか…きこえますか…フォロワーの…みなさん…今…あなたの…心に…直接…呼びかけています…毎月27日は…ゆかりの日…もなかを食べて…ゆかりんを祭る日…です…)
posted at 00:01:01
コール無しの今、入国された方、コールが復活した��、また新たな驚きを体験できる事になるのだな。
posted at 00:00:40
from TOJHO(@misttimes) - Twilog https://ift.tt/N1gorC3 via https://ift.tt/PdoAuEq
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afrontier 15th Anniversary
モーション・ブルー・ヨコハマ発のジャズイベント「アフロンティア」による15周年記念のスペシャルライブ&DJイベント!アフロンティアに縁ある新旧選りすぐりの精鋭バンド、DJが一同に集結する。今回、モーション・ブルーはもちろん、隣接するTUNE、バルコニーも会場として開放。準スタンディング・スタイルで、店内を自由に行き来しながら、極上の音楽をたっぷりと楽しむことができる、開放的でラグジュアリーな空間をご用意。秋の夜長に、赤レンガ倉庫で繰り広げられる「音楽好きな大人のためのパーティー」を心ゆくまで堪能してほしい。 【Live @Motion Blue yokohama】 [Fontana Folle] Alvin(vo)、Ryuji Iida(g)、Yuki Lee(b) Guest:佐々木大輔(tp,fl)、會川直樹(ds)、山野友佳子(p,key) [河野祐亮ピアノトリオ] 河野祐亮(p)、座小田諒一(b)、木下晋之介(ds) [細川玄 Jazz Quintet] 細川玄(tp)、早坂勇真(tb)、堀越昭宏(p)、清水玲(b)、村上広樹(ds) Guest:中村智由[native](sax) 【DJ @Motion Blue yokohama】 TOJO[afrontier]、Jun Morita[afrontier]、大塚広子[key of life+] 【Live @TUNE】 [山内洋介(13souls)&Outrage Soul Band] 山内洋介(g)、土本浩司(b)、中村新史(key)、橋本現輝(ds) 【DJ @TUNE】 Takeshita[afrontier]、木村勝好[in the mix, POSSIBILITY]、 kiki[Mucho Mucho Mambo!] 【VJ】 Tasuke 【Organizer】 isao osada 開催日時:2018年9月30日(日) 開催時間:4:00p.m~9:30p.m Special Live Set at Motion Blue yokohama [5:00pm / [Fontana Folle] [6:35pm / [河野祐亮ピアノトリオ] [8:10pm / [細川玄 Jazz Quintet] Special Live Set at TUNE [5:55pm / 7:30pm [山内洋介(13souls)&Outrage Soul Band] ミュージックチャージ:¥4,500(税込) ※別途2ドリンクチケット(¥1,000)をご購入いただきます。 開催場所:Motion Blue yokohama 231-0001 神奈川県横浜市中区新港1丁目1-2 横浜赤レンガ倉庫2号館3F 045-226-1919 http://www.motionblue.co.jp/ 予約受付先:モーション・ブルー・ヨコハマ 電話予約 (045-226-1919) ※11:00a.m.~9:00p.m. WEB予約(http://www.motionblue.co.jp/)※公演当日の14:00まで ※スタンディング形式の公演となります。(一部を除く) ※ミュージック・チャージ(エントランス・フィー)はインターネット予約のお客様以外は 店頭で受付時にお支払いいただきます。(クレジットカード利用可) ※ご入場時にドリンクチケット(¥1,000/2枚)を別途ご購入いただきます。(現金のみ) ※インターネット予約の際には無料のアカウント登録が必要になります。 登録がお済みでない方は、「マイページ」より事前にご登録いただくことをおすすめいたします。 ※なお、ウェブサイトからのご予約の際はクレジットカードが必要となります。 ご利用可能なクレジットカード⇒VISA、MASTER、JCB、AMEX、DINERS ※小学生以上18歳未満の方は、保護者同伴の上22時までご入場頂けます(条例による)。 ※制服、ユニフォーム等でのご入店はお断りしておりますので、あらかじめご了承下さい。なお、未就学児、乳幼児のご入店は堅くお断り申し上げます。 公演のご予約はMotion Blue yokohama公式サイトから http://www.motionblue.co.jp/artists/afrontier/ afrontier公式サイト https://afrontier.com/news
出演者紹介 (LIVE)

Fontana Folle (フォンタナフォッレ) ミステリアスな多国籍メンバーが紡ぐ、躍動する新世代のボーカルジャズ。ニコラ・コンテ、ジャザノバ、ジャミロクワイが溶け込んだような新サウンドがここに誕生。 2016年結成。日本、アメリカ、ブラジル、イタリア、東南アジアで音楽を吸収してきた多様なバックグラウンドならではの新たなボーカルジャズ像を提示するトリオ。ジャズ、ラテン、R&Bを飲み込んだ豊かなサウンドの中でSadeやGeorge Michaelを彷彿とさせるセクシーで中性的なボーカルが音楽を彩る。 2017年4月に1st EP "PRIMA"を全国リリース。結成1年にして渋谷最大のジャズクラブJZ Bratへの二度の出演、Blue Noteグループの名門Motion Blue Yokohamaへの初出演も果たす。 2018年はMotion Blue Jakartaでの公演を中心にしたジャカルタツアーを敢行し、日本とアジア、アジアと世界を音楽で繋ぐバンドとしての大きな一歩を踏み出している。 Fontana Folle 公式サイト http://fontanafolle.strikingly.com/
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山野 友佳子 -Yukako Yamano- <Fontana Folle's guest> 3歳からヤマハ音楽教室でピアノを習い始める。東京音楽大学付属高等学校~同大学へ進学し本格的に音楽を学び始める。18歳からジャズを習い、演奏活動を開始。その後、自身のオリジナル楽曲の演奏活動も開始。ジャズピアノを清水 絵理子氏に、クラシックを小高 明子氏、稲田 潤子氏に師事。また、学内にてペーテル・ヤブロンスキー氏の公開レッスンを受講。2015年6月にオリジナル曲を収録した2ndアルバム、『2nd Stage』納 浩一(ba)藤��� 学(ds)をリリース、完売。2015年9月~2016年4月、『読売プレミアム』よりコラムを連載。現在多くのライブハウスやフェスティバルに出演、アジア各国・ヨーロッパ・アメリカでの海外公演や海外のアーティストと共演するなど、幅広い地域とジャンルで活動を展開している。その他、KORG Cafe Style認定講師、リー・エバンス協会研究員、"Vocal School DADA"ピアノ講師。 山野 友佳子 公式サイト http://yukakoyamano.com/

河野祐亮 ピアノトリオ Yusuke Kono Piano Trio GospelやHiphopのサウンドが香る”NY JAZZ”スタイルのピアノトリオバンド。 リーダーの河野祐亮は2011年にNYへ渡り、名門The New School Jazz And Contemporary Musicにスカラシップ合格し入学する。2014年秋に帰国し『河野祐亮ピアノトリオ』を結成。2015年にSAPPORO CITY JAZZのコンペティションでグランプリを獲得。名実ともに日本一のジャズバンドに輝く。 2016年7月から初の海外ツアーであるヨーロッパツアーを行い、世界三大ジャズフェスティバルの1つ『ウィーンジャズフェスティバル』(オーストリア)、ヨーロッパを代表するクラブ『ロニースコッツ』(イギリス)へ出演し喝采を浴びた。そして2017年にはメンバー3人で渡米し、本場NYのジャズシーンでいま大活躍するサックスプレイヤーWalter Smith Ⅲと、ビブラフォニストWarren Wolfをゲストミュージシャンに迎えブルックリンの「The Bunker」スタジオでレコーディングを行う。一流のプレイと河野のオリジナル楽曲の魅力が合わさった、珠玉のニューアルバム『Be with us』が8月30日に発売。 また、このアルバムのためにクラウドファンディングを企画。目標金額であった100万円をわずか2週間で達成し、まさにファンと力を合わせて完成させた1枚である。ディスクユニオンをはじめとする全国CDショップにて発売され、TowerRecords 都内店舗では初回入荷分がすべて完売、Amazon でも JAZZ 部門第 5 位(2017 年 9 月 3 日時点)という快挙を成し遂げた。また、このCDのリリース記念として行われた 2017年11月23 日の東京・渋谷「JZ Brat」でのライブでは、1st・2nd それぞれ定員 100 名の入れ替え制にもかかわらず、チケット完売・キャンセル待ちも発生。一夜にして200名の動員を達成する大盛況のライブとなった。 河野祐亮 公式サイト https://yusukekono.com/
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細川 玄 (GEN HOSOKAWA) ジャズトランペット奏者、作編曲家として25年以上プロとして活動中。 『細川玄ジャズクインテット』を率いてブルーノート系列のジャズクラブ、モーションブルーヨコハマには15年以上継続出演中。他全国で演奏を展開している。代表作CDソロアルバム『Motion for jazz Frontier』(Impartment Inc.)はジャズ系DJをはじめ、各方面から絶大な支持を獲得した。現在もロングセラーとなっている。これまでに30タイトル以上のCD作品にトランペット演奏また作曲アレンジなどを提供。TVCMなどのBGM作曲作品提供オンエア実績も多数。商業音楽での楽曲制作曲数は延べ70,000曲に及ぶ。 2018年より自身がプロデュースするミュージックスクール『セプテンバーミュージックスクール』を主宰。25年に渡るアーティスト活動、商業音楽活動を経て後進にリアルな情報と、音楽で生きてゆくためのリアルな必要スキルを伝授している。プロも学びに来る本格的な完全個人レッスン音楽教室をスタートさせ人気を博している。 個人レッスンの他にも荒川区が運営しているジャズビックバンドの指導、コンダクターなども務めている。地域コミュニティーへの音楽活動への推進やアマチュア音楽活動の普及に尽力している。荒川区の歌『あらかわ~そして未来へ』のジャズビッグバンドアレンジも手掛けた。現在バンドテーマ曲として演奏され、地元の方々から愛されている。 演奏家としては正統派ジャズミュージシャンとして定評があり、作曲家としては類稀なるメロディーメーカーとして各方面から高評価を獲得し現在に至る。 細川玄 公式サイト http://genn.la.coocan.jp/
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中村 智由 (native) 大学卒業後よりプロのサックス奏者として演奏活動を開始。ダンスホールやジャズクラブでの活動を経て、1999年に自身がリー��ーのジャズバンド"native"を結成。nativeでは、ドイツ、中国など海外での公演、サマーソニックへの出演、海外レーベル含む10枚のアルバムをリリースし、大手CDショップのセールスランキングにチャートインするなど2000年代のクラブ/ジャズシーンを牽引する。演奏活動と並行しサウンドプロデュースも行っており多数のカバーアルバムを制作。生音中心の都会的でクールな表現を得意としている。 native 公式サイト http://www.cnative.com/

山内洋介(13souls) 鳥のさえずりの如く歌うことを信条とし、海とサーフィンを愛する 湘南生まれのギタリスト山内洋介。 2009.08にデビュー作「Six strings with love」7インチをリリース。全国のDJの耳に響き、無名のアーティストにもかかわらず、スマッシュヒッツ。これを受け、60’sの黒人ミュージシャンのセッッションをイメージした二枚目の7インチをリリース。DJ MURO mix CD「MIX SHOW NIGHT CHANNEL issue 02」に収録され即完売。一気に話題のアーティストへ。 2011.7.06 1st Album「BRAND NEW OCEANS」をリリース。インディーズインストとしては異例の大ヒットを記録。7.20 Motion Blue yokohamaにて、『BRAND NEW OCEANS』のワンマン、リリースパーティが開催。当日は入場制限、1st setから立ち見が出るほどの動員数で、多くの観客を魅了した。同アルバムは2013渋谷TSUTAYAバイヤーが選ぶ今年のベストディスクに選ばれる。 2012.07 2nd album 『GOOD TIMES (I SAY) 』が発売。全国のタワーレコードを中心に、大展開。大きな反響を得る。後に2017年、ギターマガジン3月号、国内JAZZ FUNKのギタ��ストとして本誌を飾り、主催ライヴを大いに沸かせた。 2017 13souls 3rd album 『Rough&Beautiful』をクラウドファンディングにより制作。山内洋介の呼びかけにより、多くの人々の資金援助を得て、大反響を得る。同年、ギターマガジン12ヶ月号にてギタリスト 山内洋介がピックアップ、特集される。人気アパレルブランド、JOURNAL STANDARDとDeliciousのコラボ企画に楽曲提供。 正に13souls山内洋介の存在そのものが現代のレアグルーヴと言えよう。今、最も注目すべきアーティストの一人である事に間違いはない。 山内洋介 Facebookページ https://www.facebook.com/13souls-816172288405353/
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出演者紹介 (DJ, VJ, Organizer)

TOJO (afrontier) 90年代前半にDJとしてのキャリアをスタート。都内クラブ、カフェやライブハウスなどで活動後、2003年、トランペッターでありオーガナイザーでもあるオサダイサオ氏に見出され、Motion Blue yokohamaを拠点としたクラブジャズイベント『afrontier』に、JUN MORITA、Takeshitaと共に参加。『afrontier』のレジデントDJとして、国内外のアーティストと多数共演。Blue Note TOKYO関連イベント、来日アーティストのフロントアクトや数々のリリースパーティーに抜擢される。その他サルサやUKジャズダンス等のダンスイベントから、カフェやレストラン、ホテルのラウンジイベントまで、活動の場は多岐にわたる。また、ジャズミュージシャンやダンサーを相手にその場で選曲をするなど、セッションの経験もあり、アーティスト側からの信頼も厚い。近年はバレアリック・シーンとの交流もあり、シーンを代表する来日アーティストのサポートDJとして出演もしている。リイシュー・シリーズ【EXTRAVAGANZA!】から2016年5月にリリースされた『Randy Weston’s African Rythms / Niles Littlebig』のライナーノーツを担当。ジャズやエキゾチックな音を基調に、時空間を横断するクロスオーバーなDJスタイル。ドラマティックでストーリー性のある選曲を得意とする。 http://tojoafrontier.jugem.jp/

森田潤 (afrontier) DJ、モジュラー・シンセ奏者。ソロ・アルバムLʼARTE DEI RUMORI DI MORTE (SPF-004)ɸonon 2018年発売。ワールド・ミュージック、ジャズ、エレクトリック・サウンドなどに幅広くコミットし、クラブやホテルでプレイするほか海外にも遠征。クラブ・ジャズ系”afrontier”、ワールド・ミュージック系”Séduction Tropicale”、エクスペリメンタル系"WHOLE LOTTA SHAKIN’ GOIN’ ON”、ハウス系”Perfect Love Affair”等、多くのイベントにレギュラー参加。blackmadras名義で楽曲製作も行い、OMAGATOKIやVillage Musicからリミックス作品も発表。バンド形態のOmega f2;kは13年にポニーキャニオンより���ビュー曲をドロップ。DVD作品"THE DECLINE OF THE ORGY”を発表。また、レア・ヴァイナル復刻のマスタリング・エンジニアとしても評価され、ホセー・アントニオ・メンデス等の再発盤がベスト・セラーになっている。2018年には芥正彦企画/演出によるノイズ・オペラ「カスパー」に参加。

大塚広子 (DJ/音楽ライター/プロデューサー) ジャズをメインにDJ歴20年。アナログレコードにこだわった1960代以降のブラックミュージックの音源発掘から、現代ジャズ、クラブミュージックまで繋ぎ、ワン&オンリーな“JAZZのGROOVE”を呼び起こすDJ。徹底したレコードの音源追求と、繊細かつ大胆なプレイで全国的な現場の支持を得て、ニューヨーク、スペインの招聘、東京JAZZ、2度のFUJI ROCK FESTIVAL、Blue Note JAZZ FESTIVAL in JAPAN等出演。クラブシーンのみならず老舗ジャズ喫茶やジャズライヴハウスで、評論家やミュージシャンとのコラボレーションを積極的に行い、柔軟なセンスで音楽の楽しみ方を提示している。DJ活動の他、メディアでの執筆、選曲監修、伊勢丹新宿店をはじめ企業の音楽イベントプロデュース、自身のレーベルKey of LIfe+を主宰。現在生まれる音楽を審美眼を活かした切り口でまとめあげたコンピレーション(PIECE THE NEXTシリーズ)や、気鋭ミュージシャンを束ねたプロデュース・ユニット(RM jazz legacy)のディレクション、リリース活動なども行う。DeAGOSTINIジャズレコードコレクション(2016年創刊号及び、書店PR文)、朝日新聞(2017年7月「ジャズと私」コーナー)、読売新聞(2018年2月「くらし家庭記事」)などに掲載、執筆。ジャズ及び、アナログ・レコード普及におけるオピニオンリーダーとしても活躍。 http://djotsuka.com/

Takeshita (afrontier) 90年代後半から青山BLUEなどの都内クラブやカフェ・レストランetcを中心にイベント企画及びDJ活動に精力的に取り組み、2003年からはMotion Blue yokohamaにてジャズイベント『afrontier』のレジデントDJとして参加、活動範囲を全国区へと広げた。ラテンを中心とした新旧ワールドミュージックからジャズ、現行のダンスミュージックを現場によって使い分けている。Eddie Palmieri, Larry Harlow, Jorge Benjour, Joyceの来日公演サポートをはじめ、国内外のミュージシャン/DJとの共演歴も多く、第一ホテル東京ラウンジなど商業施設のBGM選曲なども手掛けてきた。 https://afrontier.com/

木村勝好 '90年代の終盤にキャリアをスタート。現在、青山ZERO、渋谷FAMILYといった都内のクラブフロアでプレイする他、ジャズクラブやホテルのラウンジ、レストランなど、あらゆる場所、シチュエーションに良質の音楽を届け、響かせている。ダンスミュージックの分野では、ASHREY BEEDLE、DJ KRUSH、菊地成孔他、国内外の名だたるDJやアーティストを、自身がレギュラーを務めるパーティー『in the mix』に招聘。そこでのフロントアクト・共演を経て吸収した幅広い感性は、まさに自らが提唱する「FREE FORM HOUSE MUSIC」そのものといえ、現在も変化を続けている。そのジャンルを横断しつつまとめあげる起伏と情感に富んだプレイスタイルを、是非とも体感してほしい。 http://mixcloud.com/masayoshikimura/

Kiki (Mucho Mucho Mambo!) サルサバンドに明け暮れた大学時代から、無類のラテンクラシックス好き。60-70年代のグルーヴィなラテンをベースに、現在進行形のサルサまで、ラテンの様々な味わいを表現すべく、音源捕獲&模索の日々を送る。都内及び横浜、大阪のクラブ、バー、ラウンジで活動中。ラテンを愛するすべてのダンサーに贈るパーティ「Mucho Mucho Mambo!」レジデントDJ。

TASUKE 1974年生まれ。ディレクター・アートディレクター。 主に映画・テレビ番組のオープニングタイトル映像のディレクションをメインワークとする。VJとしては2000年から、VJユニットNitro Movieのメンバーとして、キャリアをスタートする。2002年からtasuke名義で南青山のloopで行われていた「VORTECHS」のレギュラーVJをはじめ、代官山UNIT・Motion Blue Yokohaha・ageHaでプレイ、国内外の様々なアーティストと共演。2007年にはドイツのカッセルでDJピエールがオーガナイズするイベント、Tokyo NightにゲストVJとして出演。現在は2002年からオサダイサオがオーガナイズするジャズイベント、afrontier���レギュラーVJとして第1回から出演している。

isao osada (trumpet, producer) 80年代初頭からプロのトランペッターとして音楽活動を始める。93年にCLUB JAZZ UNIT『O.M.U』のファーストアルバムをリリース、欧州14ヶ国を始め米国にて発売される。以降インターナショナルジャズフェスティバルへの出演、ヨーロッパライブツアーを行う傍ら、ミスターチルドレンのツアーサポート、数多くのレコーディングにソロプレイヤーとしても作品を残すなど、ジャンルにとらわれることなく精力的に活動。2002年からは自身のバンド演奏を行っていた横浜赤レンガ倉庫のジャズクラブ「Motion Blue yokohama」にて『afrontier』のイべント・オーガナイザーとしても活動。2008年には同イベントのコンピレーションCD『isao osada presents "afrontier" 12 colours to 7 seas』をリリース。近年はホテルを全館使用した新たなイベントスタイルをプロデュースする等活動の幅を広げている。 公式サイト http://www.isaoosada.com/
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かがやき
扉が開く。 君は僕を見る。一度は止めた足を踏み出して、今度は立ち止まることなくベッドのそばまで来る。君は僕を見下ろす。しばらくそうして、固い床にひざまずく。投げ出された僕の手をとると、「ごめんなさい」と言う。「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も言う。何度も、何度も、声が輪郭を失っても続ける。 大丈夫、僕はそう言いたかった。喉が痺れて動かなかった。ただはっきりとした意識で、大丈夫、と僕は言おうとした。大丈夫、大丈夫だよ、ほたる。何度も、何度だってくり返し言おうとした。 僕は首だけを動かして、君を見る。手の骨の稜線を祈りのような涙が伝うのに、その感覚は少しもない。せめて握り返せたらと思うのに、それさえできない。 もう、君に何もできない。 僕は、死んでしまいたいと鮮やかに思った。
浅い眠りと夢を行き来するうちにひと月が過ぎて、たくさんの事実が頭の上を通り抜けていった。そのうちに、少なくとも数ヶ月や数年で死ぬことはないとわかると、僕は全身不随のこの体を広い世界に適応させるための努力を始めた。幸いにも首から上の機能は損なわれなかったので、人とのコミュニケーションに問題はなかった。問題を首から下と心に絞ることができたのは、まったく、幸いなことだった。 君が訪れたのは、ちょうど僕がテスト用の電動車椅子に初めて乗ったその日だった。 いくつかの注意を終えて(特に、今は一人で動かさないように)看護師が去ると、「少し、痩せたみたいだね」と僕は笑ってみせる。久しぶりの君は記憶にある形よりも痩せて、むしろやつれていて、苦労をかけてしまったなと思う。 君は「はい」と答えた。 「ちゃんと食べたり動いたり、大事だと思うよ」と僕は続ける。「彼とはうまくやってる?」そう訊ねながら、新しいプロデューサーとの関係があまり順調でないことは知っていた。 君はまた、「はい」と答えた。 君の様子を、僕はだいたい聞いていた。引き継ぎやお見舞いで病室を訪れる人は少なくなかったし、あまり僕がしつこく訊ねるから、みんなそれぞれに確信をぼやかしながら君のことを話してくれていた。 だけど、ぼやけた景色も周囲がはっきりとすれば形は見えてくる。嵐の海に小舟を想像するようなやり方で、病室のベッドの上からでも君のことはよくわかった。 君は、事故の翌日からレッスンルームに姿を見せた。誰もが驚き不安に思う中で、君はなにごともないかのように着替えやストレッチを始めて、誰よりも早く準備を終えた。当たり前みたいにレッスンを済ませると、「お疲れさまでした」と帰っていった。必要なこと以外は何も話さなかった。君のひと月は、万事がそんな様子だった。 君のデビューはもう、ふた月後に迫っている。 君のせいじゃないよ。僕のことも、君を傷つけたたくさんのことも、ぜんぶ君のせいじゃない。事故は防ぎようがなかった。靴ひもはちぎれるし、プロダクションだって倒産する。君は優しい。優しすぎるから傷つく。もう少し、うす目で見るみたいに世界と付き合うといい。僕は、ほら、こんな体になってしまったけどそんなには悲観してないんだ。生きている。だって、生きて君と言葉を交わすことができる。ただ、君にもう何もしてあげられないのがつらい。今だって、この車椅子を自由に動かせたなら階段から飛び降りてしまいたいのに舌を噛む勇気もなくて情けない。 僕は「どうしたい?」と言う。「ほたる。君は、どうしたい?」 君は「わかりません」と答える。やっとその目に感情を取り戻したかと思うとすぐにうつむいて、そういうふうにまっすぐ心を伝えた。「何も、わからないんです。ごめんなさい。私は、本当に、何も……ごめんなさい。ごめんなさい」 言葉は、その終わりには嵐に呑み込まれてかたちを失う。それでも、感情は荒波に逆巻く渦のようにはっきりと映った。 そして、僕は見た。君の背にのしかかる無数の影を、油絵具の黒と黒でべっとり塗り分けられたその巨大な黒いかたまりを、君の肩に手をかけては絶えず耳もとで呪いの言葉を囁く悪霊を、僕の姿を、見た。 「そう、かもしれないね」と僕は言う。そのとき僕にはすべきことがわかっていて、それがまた、君にしてあげられる最後だということもわかっていた。 指先が、痛みだした。離断した神経を伝わないはずの痛みを、まぼろしの痛みを今、僕は右のひとさし指に感じていた。 「大丈夫だよ。ほたる」と僕は言う。君と過ごした一瞬一瞬がちりばめられた宝石のようにかがやくから、奥歯を強く噛んで意志をつないだ。 そうして、僕たちは約束をする。
君は扉を開くと、この空間の広��に驚いたみたいに足を止める。病院のリハビリテーションルームはプロダクションのレッスンルームの数倍の広さを持っていて、「お疲れさま」という僕の声をだらだらと反響させた。 扉が閉じられると、僕たちは二人きりになる。このひと月で一通り動かせるようにはなった車椅子で君を導いて、「悪いけど、操作はお願いするよ」と小さ��スピーカーと繋げたMP3プレイヤーを示した。君は少し困惑して、レッスンウェアの袖口を何度か確かめながら、やがて画面に触れる。 そこからは、君のための歌が流れはじめる。 僕たちの、最後のレッスンが始まる。 一度目、僕はじっと君を見ていた。君は何度も僕を確かめて、そのたびに歌詞や振り付けを間違えた。 二度目、僕は車椅子を動かしていろいろな位置、角度から君を見つめた。君はもう、満足に歌うことさえできなくなった。 僕は、ひとさし指にぴりぴりとした痛みを感じはじめた。 三度目のリピート再生が始まると、君は床に座り込んだ。「できません」と言って僕にやめるよう懇願する肩には黒い影たちが、決して低くはない天井まで届くほどに折り重なっていた。 「やめて、どうする」僕は訊く。幻肢痛を辿って目には見えないひとさし指を君へ伸ばす。 「わかりません」と君は答える。 「なら、どうしてレッスンを続けた」 「それしか、ないんです。私にはそれしか、アイドルだけが」 「それをやめて、どうする」 「わかり、ません」 「じゃあ、続けよう。大丈夫だよ、僕を信じて」と僕は言う。そうして裂けるほどに痛む指で、君の耳元で今も囁き続ける悪霊に触れると、彼とまったく同じ言葉を口にする。「がんばれ、ほたる」 君は顔を上げて、目を見開いて、僕を見つめた。もう、三度目の再生は終わろうとしている。僕は君を見返した。そうしながら、心の中でくり返した。がんばれ。がんばれ、ほたる。 四度目、君は立ち上がった。立ち上がると、君の歌を歌った。君のダンスをして、レッスンを終えた。プレイヤーを止めて、僕をまっすぐに見ながら「もう、大丈夫です」と言った。 僕はちゃんと、君に呪いをかけることができたとわかった。 これは、正しいおこないだろうか。僕にはわからない。少なくとも、この悪魔のような行為を肯定することなんてできない。それでも、僕は教えたかった。君には力がある。数多の過去を、不幸を、背負い背負わされた呪いを力に変えるような特別が君にはあると、示したかった。 君は傷ついていた。壊れてしまいそうだった。傷はやがて癒える。時間には、そういう機能がある。それに、君にはすばらしい友達がいる。僕ではないプロデューサーがいて、何より、君を愛してやまないファンたちがいる。傷は必ず塞がる。そうしたら、君はもっと強いたましいを持つ美しいひとになれるだろう。 壊れてしまわなければ、君は大丈夫だ。 僕は守りたかった。心から、君が大切だった。君は応えてくれた、立ち上がってくれた。ありがとうと、僕は伝えたい。君が許してくれるのなら、名前を呼ばせてほしい。僕たちの最後、ひと月後の舞台まで、すべてをあかしてくれるその瞬間まで、僕のアイドルと君を呼んでいたい。 僕は、なにもかも全てを込めて「ほたる」と君の名前を呼んだ。 君が「はい」と言って力強��頷くと、指の痛みはふっと消えた。
その日、僕の席は二階関係者エリアの最前に設けられた。病院や支えてくれる家族、プロダクションにまでかなりの無理を言って、彼らは僕の願いを押し通させてくれた。その場所からは舞台のすべてを眺めることができて、同時にそこに立つ人の表情さえ確かめることができた。 今、舞台には君と同期のアイドルが立っている。今日はプロダクション主催のツアーの一公演で、新人アイドルのデビューには充分すぎるくらいに恵まれているし、同時に、重圧はいつその膝を折ってもおかしくないほどだろう。それでも彼女は、堂々と舞台に立った。産声をあげたばかりなのに、その振る舞いは紛れもなく彼女というアイドルそのものだった。 もうすぐに、彼女が舞台を終えれば、君の出番がやってくる。 僕は今日、君に会わなかった。楽屋へ行くには物理的な障壁も大きかったし、何よりも、恐れていた。あの日した僕のおこないは、間違いではなかっただろうか。この瞬間の君にとって、どんな意味を持つだろうか。君は舞台の裏、袖の暗闇であの影におし潰されてはいないだろうか。 僕は、信じれば良かった。それはいつだって、どんな奇跡を起こすより難しい。 彼女の出番が終わると、会場は束の間暗転する。予定通りに君が舞台に姿を見せると、僕のひとさし指は突然激しい熱を持った。事故の瞬間と同じ、稲妻のような痛みにうめき声をあげて、僕はいまだ暗いままの舞台を見る。君の背中から沸き立つあの影は今やホールの天井にまで届いて、飽和して、降り注いだ。暗澹たる影は、瞼の裏より深い闇は会場の誰もに滴りながら、誰にも見えない。凝縮されたその呪いは、僕にだけ見える。 僕は絶望した。決定的に間違えたと思った。君のような少女がどうしてこんなものに耐えられるだろう。僕はどうして、そんなことを考えたのだろう。君は壊れる、間違いなく、次の瞬間には失われてしまう。だから、指を伸ばした。錆びた刃物をひかれるような幻肢痛は今や耐え難く、それでも僕は動かないひとさし指を舞台へ伸ばした。僕に、首から下は動かなくなってしまった、誰もができることさえ少しもできない無力な僕に、何ができるだろう。それでも、君を守りたかった。もう、僕のアイドルと呼べなくてもいい。ただ、この舞台を降りてからも君が笑ってさえいられたら、それだけでいい。 すべては、君が舞台に上がってからのできごとは、一瞬だった。 僕の指先は何かに触れた。触れると、包み込まれた。それがあまりに優しくて息を呑む。その感覚を辿った先には、君がいた。舞台の君はマイクを両手でしっかり包んでいて、同じように僕の指先を包んでくれていた。君は顔を上げる。大きく息を吸うと、「見ててください」と言った。その声は、僕にだけ聞こえた。 光が、あまりにまぶしい光がまたたいて、僕は目を閉じた。一瞬の後に開いた目に映るすべては、かがやきだった。 天の闇は透明な光の粒子になって、あるいは白鷺の羽根のように降り注いだ。地には純白の花���が、暖かな風に合わせて波打った。その中心で君は、背中の影を巨大な光輪に変えて最初のステップを踏んだ。 やがて僕には、君の歌が聞こえはじめる。永遠に続く春のような、人生でいちばん幸せな夢を見た朝のような、そういう歌だ。君が求めた歌。君が求めた衣装、それは艶のある黒を基調にしながらむしろその上部にある白の清廉を主題としていて、君が好きな臙脂色、君が大好きなスズラン飾り、何より君の少女を息づかせるレースカチューシャ、君のためのすべてがいま、君を鮮やかに彩った。 君はその一挙手一投足で、一声ひとこえで、君自身の命に降り積もった数多の呪いを祝福に塗り変えた。 僕は、僕の指は気がつけば君の歌に合わせてリズムを刻んでいた。そんなはずはないのに、神経の通わない指が、まぼろしの指ではなく現実のひとさし指が君と一緒になって踊っていた。僕は君が起こしたその奇跡をしばらく眺めて、また舞台を見た。歌と歌の合間、ちょうどその瞬間に君と視線を重ねた。君は言った。「大丈夫です」と、声ではないかたちで確かにそう言った。だから僕は「がんばれ」と言った。「がんばれ、ほたる」その声は、もう呪いではなかった。君という命への祝福は、この舞台へのエールは君に届いて、君は「一緒ですよ」と答えた。 その瞬間から、僕は舞台にいた。舞台から、君の目に映る景色を確かに見つめた。そこには真っ白な光があって、君を愛してやまない心があって、君の幸福へ手向けられた祈りがあって、そして、それは天と地のはざまに咲く無限の花だった。 僕はその光景を君と、また多くの人とともに見ていた。かつて君を担当したプロデューサー。倒産したプロダクションの人たち。いつか君と同じ夢を見た少女。君と笑い合った子や、舞台を去った彼女。君に憧れた人、君を蔑んだ人、君を救いたいと願ったその人。君の舞台を見て、君の歌に触れて、君のダンスに夢を見ながら、諦めていった人。夢を捨てなければならなかった人。道なかばで倒れた人や、目にたっぷりと涙をたくわえたまま舞台を去っていった人。そして、不慮の事故で全身不随となり君と歩く未来を失った、僕。 そうか、と僕は思う。君は、連れていってくれる。たくさんの終わってしまったものを背負って、それでも、君は飛べる。高くたかく舞い上がって、その場所から見える景色をぜんぶ僕たちに見せてくれるんだ。 君は、アイドルだった。そういうふうに、君は願うままアイドルでいられるんだと、僕は確信をした。 それなのに、僕はもう君に何もできない。 それなのに、僕はもう死にたいと思わない。 だから、僕は君に言う。「ありがとう」と言って、拍手をおくる。まぼろしの拍手は客席からの拍手と混じり合って、現実のものになった。僕は少しも動かない指を見ると、もうあの痛みが起きることはないんだろうなと思って、安堵のため息をついた。 舞台からは、君の声が聞こえた。「ありがとう。本当に、ありがとうございます」と何度も、やがて声が輪郭を失っても、君は何度も、何度だってその言葉をくり返した。
いつの間に、だろう。夏が来ていた。 顎でする操作にもすっかり慣れた車椅子で、僕は君を病院の中庭へエスコートする。君はおそるおそるという様子で木陰のベンチへ��を下ろすと、「ここで、ですか?」ともう一度訊ねた。 「誰もいないよ」と僕は言う。実際、こう暑いと病院にいる人はふつう外に出たがらない。 君は、少し迷う。それから、君の歌を僕に聞かせてくれる。 僕は、君の歌を聞きながら視線をおろした。膝の上できちんと重ねた指が、右のひとさし指がひとりでに踊るのがおかしくて、笑った。そういうふうに、君とする最後のダンスを僕は楽しんだ。 君が歌を終えると、「ありがとう」と僕は言った。「未来のトップアイドルの歌をこうして独占するなんて、悪い気がするよ」 君は「そんなこと」と言って、笑った。 君が笑った。困ったみたいに、だけど出会った日よりも少しだけうまくなった笑顔を、見せてくれた。 君が笑う。それだけで、世界のすべては優しい色を帯びる。あまねくものごとの一つひとつが、淡いかがやきを放ちはじめる。 だから、僕は「笑ってくれたね」と言う。「いちばん、よく似合うよ」とせめてもの笑顔をおくる。 君はまず、驚いていた。自分の表情を確かめるみたいに手のひらで頬をむにむにと挟むと、涙を流しはじめた。 それでいい、と僕は思う。君は笑えるようになった。そうやって、過去は過ぎていく。去っていく。一時間は一日になり、一週間、一ヶ月、君が僕を思い出すことは少なくなって、少しずつ、確かに忘れていく。 それでいいよ、と僕は言いたかった。僕がこの日遠くへ行くように、君にも僕を去っていってほしかった。 だけど僕たちは、僕や君と出会ったすべての人たちは、また出会う。それは舞台の上、液晶モニタを隔てて、誰かが君の名前を口にしたとき、眠る前や君の好きなスズランの花を見かけた街角。 君のことを思うすべての瞬間に、僕たちは出会うだろう。君はそうやって、何もかもを連れたまま誰よりも高く飛ぶのだろう。 ほたる、飛んでいけ。そこからの景色を、少し滲んだかがやきを僕たちに見せてくれ。 僕は「幸せに」と言った。「君は幸せになれるよ。僕は、みんなが、わかってる」 君は頷いた。何度も、何度も頷いてくれた。 やがて涙がおさまると、君は新しいプロデューサーのもとで動き出すユニットや、最近できた友達のことを聞かせてくれた。 それからずいぶん長いあいだ、僕たちは君の未来について話した。
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イズミズム最終回
突然ですが、この連載は今回で最終回です。先日、森山編集長と打ち合わせの際に、彼の方から「ちょっと仕切り直しをしてはどうか」という意見が出た。実を言えば僕自身が(読者の皆さんもきっとそう思っていることと思うが)、この連載が途中から相当に迷走している、なんだか非常に息苦しい袋小路に入りつつある、ということは強く意識していて、正直に言うと、この申し出は渡りに船(?)だった。「イズミズム」は、当初に考えていたコンセプトから、あれよあれよという間に外れていってしまい、僕は自分が何をしたいのか、何をしなければならないと思っているのかは分かっているつもりでいながら(それは今でもそう思っている)、それをどうやったらいいのか、どうやれば上手くできるのか、をどうしても思いつくことができなかった。要するに、僕は失敗したのだと思う。それは潔く認めなくてはならない。今回もこの文章の右の方にある筈の連載開始時の内容紹介文は、休載を挟んだ連載第五回以降はまるっきり形骸化してしまっているのだが、にもかかわらずレイアウト上はずっとその勇ましい文章が冒頭に置かれ続けていることが、ある意味ではこの連載の「失敗」を何よりも証立てている。
うわあ。なんとも恥ずかしい告白になってしまっているが、しかしその一方で、僕にはこの「失敗」(?)が、ある意味では不可避であったとも思うのだ。それはつまるところ、僕がやろうとしたこと、やりたかったこと、やるべきだと思っていたこと、それ自体があらかじめ孕み持っていたどうしようもない難しさのせいだったのだと、これは言い訳でも開き直りでも何でもなく、そう思う。しかし、そのことをちゃんと説明すること自体が、やはりどうしようもなく難しい、のだ。これでは堂々巡りだけれど、しかし実際、この「イズミズム」とは、その「難しさ」について考えようとした連載だったのである。 前回は予定を変更して、七月末に僕が企画した「批評家トライアスロン」なる試みについてレポートじみた文章を書いてみた。そこでは書かなかった(書けなかった)ある事実と反省に関しては、どこかでまたあらためて述べる機会があるかもしれないが、実は急遽内容を変える前の(今回同様に)〆切ギリギリの極限状況下で、僕は別の内容を途中まで書きかかっていたのだ。それについては実際の原稿の冒頭にも少し書いてあるが、以下に書きかけだったテキストをほぼそのままコピペしてみよう。
現在、この国の文化=思想=批評の状況には、いわば「ニュー“ニューアカ”」とでも名付けられるような現象/事態が出来している、と僕には思える。「ニュー“ニューアカ”」(以下めんどくさいのでニュニュアカと略す)は、「八〇年代」に起こった「ニューアカ」すなわち「ニュー・アカデミズム」の「反復」であり「持続」でもある。いや持続してるなら反復しないし、とか思われるかもしれないが、この少々矛盾(?)した言い方の意味については後で記すつもりだ。 まず簡単に「ニュー・アカデミズム」の解説をしておこう。「ニューアカ」とは八〇年代の前半に、当時京都大学経済学部助手だった(現在は助教授)浅田彰の著書『構造と力』のベストセラーを契機に出版界から巻き起こった、現代思想のサブカルチャー化と、知識人・大学人のポピュリズム的受容の、ほとんど社会現象にさえなった一大ブームと、その構成メンバーを指す。浅田と並ぶ人気を誇っていたのが、やはりベストセラーとなった『チベットのモーツァルト』の中沢新一だ。他には、のちに政治家への転身を果たしたりと迷走していくことになる栗本慎一郎などもいたが、もちろん重要なのは、浅田や中沢よりも上の世代ではあるが同時期に本格的な活動を開始したと言っていい柄谷行人と蓮實重彦だろう。現在に至るまでの流れを思えば、つまるところ「ニューアカ」とは、結果として「柄谷ー蓮實ー浅田」の三位一体の制度(?)を形成した現象だったとさえ言うことが出来るのではないかと思う。 ところで、あらためて考えてみると、「ニューアカ」には幾つかの特徴があった。以下、少し説明してみる。
*「ニューアカ」とはその名の通り「新アカデミズム」であって、「反アカデミズム」でも「超アカデミズム」でもなかった。浅田は京大、柄谷、蓮實、中沢は東大卒だ。もちろん他の構成メンバーの学歴はまちまちではあったが、少なくとも「ニューアカ」の権威性と信頼性は、明らかに東大と京大というこの国の「アカデミズム」の最高峰のそれに依っていた。前述のように浅田は現在も京大所属だし、周知のように蓮實重彦はのちに東大総長にまで昇り詰めることになる。
*にもかかわらず、実際には必ずしも「ニューアカ」は、それぞれの専門領域における研究それ自体によって評価されたわけではなかった。経済学が専門である浅田の『構造と力』はフランスのポスト構造主義の解説本 (その内容は現在であれば新書で刊行されていた筈だ)だったし、仏文学者の蓮實もフランス現代思想の紹介や文芸評論、とりわけ映画批評の分野で注目を集めた。学部は経済学で修士は英文学だった柄谷は夏目漱石を論じた文章で文芸批評家としてデビューし、『マルクスその可能性の中心』を文芸誌に連載した。つまり「アカデミズム」と言いつつも、彼らはいずれも語義通りの「アカデミック」な領域で頭角を現したわけではなかった。それゆえ「ニュー」と呼ばれたのだ、と言うことも出来る。「アカデミズム」に属していた者が「アカデミズム」の「外部」で/に「知」を発信した、と言うことも出来るかもしれない。
*「ニューアカ」の思想的バックグラウンドは基本的にはもともと「左翼」的なものだったと言える。柄谷は元ブントだし、蓮實も東大のいわゆる「造反教官」のひとりだった。だが「左翼」的ではあっても、それはそのまま「反体制」を意味してはいなかった。むしろ「ニューアカ」は、バブル経済の上昇気流にあった「八〇年代」においては、日本という「国家」に対して、親和的とまでは言わないまでもかなり現状肯定的だった。本来はいわゆる「68年的」な思想であった筈の「(ポスト)構造主義」を使って「八〇年代ニッポン」の繁栄を説明しようとする無理に、当時は誰も気付かなかった(気付いても何も言えなかった)。ところが「ニューアカ」の多くは「九〇年代」に入ると、変節とも転向とも表立っては呼ばれることなく、すなわち公的には一貫性を維持したまま「左旋回」する。これはだから正確には「旋回」ではなかったのだが、スタンスとしてはかなり鋭角的に「反国家・反体制」化したように見えたことは確かだった(このあたりについては仲正昌樹の『ポストモダンの左旋回』を参照)。
このような「ニューアカ」の特徴は、ほぼ二十年を経て「ニュニュアカ」によって「反復」されている。だが、その前にもう少し、続く「九〇年代」のいわば「ポスト・ニューアカ」についても触れておかねばならない。端的に「ポニュアカ」は「ニューアカ」に対する相対化というか異和の表明というかルサンチマンの発露というか、大体そのようなものとして登場した。その代表的な論客を、やはり現在との関わりにおける重要度に従って三人挙げるなら、これは疑いなく宮台真司、大塚英志、福田和也ということになるだろう。宮台は「ニューアカ」に対抗する戦略について度々語っているし、福田は柄谷・浅田とは良好��関係を保ちつつ、蓮實に対しては初期から徹底して批判的だ。大塚も湾岸戦争以後の旧「ニューアカ」勢の政治的言動の変節を執拗に批判していた。もちろんこうした個別的なことだけではなく、思想や批評が一種のブームになることによって、さまざまなことが可能になった時期には間に合わなかった彼ら「ポニュアカ」が、多くの意味でいわば「反ニューアカ」的スタンスをいささか露骨なまでに身に纏うことで世の中に出てきたことは確かで、受け入れる側もそのような存在として歓迎したり反撥したりしたのだった。これはある意味で単純きわまる「振り子の原理」のようなものだと思うのだが、しかし現実はしばしば単純な原理によって動くことがある。 書いてあったのはここまでだったのだが、この続きとしては、次に「ニューアカ」と「ポニュアカ」と「ニュニュアカ」のすべてを繋ぐ類いまれな存在として「東浩紀」という人について触れた上で、いよいよ「ニュニュアカ」のことを書くつもりでいた(もちろんもっと丁寧にやろうとするなら、たとえば松浦寿輝や丹生谷貴志や四方田犬彦のような人達や、渡部直己やスガ秀実のような人達や、あるいは笠井潔や加藤典洋や、あるいは椹木野衣や山形浩生や、そして大澤真幸についても当然触れるべきなのだが、それではさすがに字数がまるで足らないと思っていた。ニッポン批評史をやりたいわけでもないし)。 僕が「ニュニュアカ」という言葉で括ろうと思っていたのは、たとえば北田暁大や鈴木謙介、もっとも徴候的には稲葉振一郎のような人のことだった。本誌と同じ版元の長谷川裕一論『オタクの遺伝子』、ちくま新書の『「資本」論』、やはり太田出版からの『マルクスの使いみち』(松尾匡、吉原直穀との共著)、『モダンのクールダウン』(NTT出版)、立岩真也との対談本『所有と国家のゆくえ』(NHK出版)と、このところ立て続けに本を出している稲葉氏は、63年生まれ、一橋大卒で東大大学院博士課程単位取得退学、現在は明治学院大学社会学部教授だ。東大時代の付き合いなのか(彼らの一読者でしかない僕はこの辺の関係性をよく知らない、誰のこともよく知らないけど)、山形浩生とは旧知の仲のようで、インタ−ネットの稲葉氏のブログにはよく山形氏が登場する。ちなみに太田出版はもちろん「ニューアカ」の最後の牙城となった柄谷行人・浅田彰責任編集による「批評空間」の第二期の版元でもあり、『モダンのクールダウン』の元になった「片隅の啓蒙」が現在も連載されている雑誌「インターコミュニケーション」は、ICC(インターコミュニケーション・センター)同様、その成立と初期のコンセプトに浅田が深く関与していた(が、ご存知の方も多いように山形浩生は浅田彰に何度か極めて痛烈で痛快な批判を向けたことがある。稲葉氏が浅田彰的存在に対して何らかのスタンスを提示するようなコメントを発しているのかどうかは寡聞にして知らない)。ここ最近の「インコミ」には東浩紀と旧GLOCOMグループが度々登場し、最新号では稲葉氏と東氏の対談が、浅田彰と岡崎乾二郎の対談とともに巻頭に掲載されている(僕はこの二つの対談の並べ方は、タイトルの付け方と共にとても嫌味で最高だと思ったのだが、そのこともここで述べたいこととすごく関係があるけれど、とりあえずは置く)。 僕は稲葉振一郎氏の言説について、何事かを述べたいわけではない(し、さしあたり述べられるとも思っていない。述べてよいとも思えない。だが、これまた「何故、述べてよいと思えないのか?」ということも実は重要な問題なのだ。というか、本当はこんな韜晦をやたらと連発することで何かを語ろうとしている節もあるのだが。ただちょっと思ったことは、博覧強記というべき稲葉氏の論述の先にあるものは、そのすぐれて懇切丁寧な啓蒙的態度とある意味では相反するような、恐ろしく大文字のざっくりとした「問題」という気がして、それは氏自身もよく言及されているSF的な、というかほとんど空想科学的な荒唐無稽ささえ感じられて、それが僕にはなんだか、氏とほぼ同世代の椹木野衣が一時期やたらとフーコーの「人間の終焉」にこだわっていた、やはりほぼ同世代である僕にはしかし非常に不可思議な、こう言ってよければ大言壮語と重なる時がある)。そうではなくて、たとえば現在の「文化=思想=批評シーン」(「文学シーン」とか何でも「シーン」を付けるのはよくないと磯部涼が言ってたけど、「シーン」で括れるくらいどれもこれもちっちゃい、っていう事だよ)における「稲葉振一郎」の役割というか必要性のようなものが、僕の受け取り方では往年の「ニューアカ」の「反復」であり「持続」であるものとしての「ニュニュアカ」を、とても鮮明に示していると思うのだ(ところで63年生まれといえば、年齢的にはむしろ「ポニュアカ」に近いのだが、「○○アカ」の区分は世代ではない、ということは言わずもがなのことである)。 稲葉氏は『経済学という教養』や『マルクスの使いみち』などで、自らの想定読者層に対して「人文系ヘタレ中流インテリ」というタームを与えている。その意味については両書のそれぞれ序説の部分で述べられているが、「経済学という「教養」」や「片隅の「啓蒙」」という言葉に如実に現れているように、氏には人文的な専門知とでも呼ぶべきものを、アカデミックな研究者だけの愛玩物に留めておくのではなく、それに正当で健康な興味を抱く「素人」に��しても開いてゆくべきだ、という一種の信念のようなものがあると思える。彼らはアカデミシャンでも専門家でもありえない、それゆえに「ヘタレ」なのだが、しかし「教養」への意志や「啓蒙」への志向性は持ち合わせているぐらいには「インテリ」であるというわけだ。それはいわば「新書」的な「知」へのベクトル、とでも呼ぶべきもの���と思う。コアな理論書でもテキスト=教科書でもない、不特定の「他者=素人」に向けた「教養」への導線としての「新書」。そしてそれは、嘗ての「ニューアカ」が纏っていたものと似てはいないだろうか。 浅田の『構造と力』が典型的だが、「ニューアカ」のひとつの本質は、多くの場合、地理的・言語的な障壁によって未だ知られていない何らかの「知」を「紹介」したり「整理」したり「解説」したりする行為のカジュアル化、すなわちファッショナブルな「啓蒙」ということであった。「ポニュアカ」には、総じてそのような親切さは微塵も存在していない。彼らは「ニューアカ」の突破もしくは反転を企図していたのだから(たとえば宮台真司は「専門知」も「大衆知」も更に極限化することによって「ニューアカ」との差異を披瀝した)。また、東浩紀も(『動物化するポストモダン』は講談社現代新書だが)「新書」的な姿勢とは実のところ無縁なタイプであると思う。彼は明らかに、あくまでも個人的な主題を公(共)的な主題へと短絡させる剛腕を持った、ある意味では古典的な意味での「哲学者」だ。だが稲葉氏には明らかに「新書」的なベクトルがある。それはたとえ「片隅」ではあっても「啓蒙」はありうべきである、という、もう一度言うと「信念」によって支えられていると僕には思える。そして、彼に代表されるような論客がそれなりの存在感を発揮しつつある現状を、さしあたり「ニュニュアカ」と呼んでみたい、ということなのである。 さて、ところでしかし、ここでやはり意地悪な問いを発さなければならない(そして、この問いこそがこの最終回のテーマ?なのだ)。「人文系ヘタレ中流インテリ」は、本当に存在しているのだろうか?。そこにいるのは、実際には「人文系ヘタレ中流インテリになりたい人たち」でしかないのではないか? 興味深いことは、「ポニュアカ」の方々の著書の方が、「人文系ヘタレ中流インテリ」よりも、ずっとポピュラーな「一般読者」に対して開かれているということで(それは彼らが良くも悪くも「ニューアカ読者」の外側に自らの購買層を設定してゆくしかなかったという事実を示してもいるが)、それは書かれた内容の高度さとはあまり関係がなく、いわばプレゼンテーションの違いなのだが、そんな「ポニュアカ」を経て「ニュニュアカ」が、敢て「読者」のスクリーニング的なことを標榜していること、そうせざるを得ないということの意味が、僕には気になる。 稲葉氏の著書は、あからさまに啓蒙書的形式を持つ『経済学という教養』を除くと、実のところけっしていわゆる「入門」的な中味ではない。そこで述べられていることを十全に理解するためには、読む以前に一定以上の「教養」が必要であり、それは(矛盾するようだが)いわゆる「新書」的なヤワさとは異なっている。つまり、そこには稲葉振一郎オリジナルの「哲学」というか「思想」が込められているのだが、しかし氏は「読者」がそこに辿り着くまでに経由すべき「教養」の有無をもはや無視することができない(この一種の自信の無さが「ポニュアカ」との決定的な違いだと思う)。だが一方では、それを真に直視してしまうと、ほとんど書く動機が損なわれかねないほどの危険性が存していることにも、恐らく気が付いているのだ。 そこで「人文系ヘタレ中流インテリ」が登場する。それは一見、揶揄のようないでたちをしてはいるが、実はそうではない。稲葉氏が設定しているような「人文系ヘタレ中流インテリ」は、おそらく数としては相当に少ない。それは「ニューアカ」の時代よりも減っているし、減り続けている。おそらく文字通りの「人文系ヘタレ中流インテリ」にカテゴライズされるような「読者」は、自らをそう同定しはしないだろう。居るのは、「人文系ヘタレ中流インテリ」というレッテルに、かなり倒錯的なものではあれ、一種のエリーティズムを感じてしまうような、いわば永遠の「人文系ヘタレ中流インテリ予備軍」なのだ。そして煎じ詰めれば「ニュニュアカ」とは、そうした「読者」に対してチャームを発揮する「知」なのだと思う(これは稲葉氏の言説や存在の意義とは何ら関係がない、念のため)。 「ニュニュアカ」が「ニューアカ」の「反復」であり「持続」でもある、ということの意味は、「ニューアカ」自体が、実はそういうものだったのではないか、ということなのだ。「ニューアカ」の時代に「わかりたいあなたのための〜」といった枕が付いた現代思想の「入門」書があった。また(これも太田出版だが)柄谷・浅田など「ニューアカ」勢による『必読書150』には「これを読まなければサルである」というオビ文が刻まれていた。これらは「読者」の「知」的な劣等感/優越感を露骨に刺激するようにできていて、「わかりたい」は「わかってると思える」に、「これを読まなければサルである」は「これを読めばサルではない」に読み替えられる。だが、それはどこまでいっても、たかだか「サルではない」ということでしかない。サルよりはましだと思うかもしれないが、それはようやくヒトになれただけで、もしかしたら、ただそう錯覚し得ているだけかもしれない。サルであることに無意識でいられるサルと、サルではないと思い込むことを(誰かに?/自分に?)許されただけのサルの、どちらが幸福だろうか?。 つい筆が走ったが、「持続」というのは、「ニューアカ」→「ポニュアカ」→「ニュニュアカ」の言説の担い手ではなくて、それらを「サルではない」と思いたい「人文系ヘタレ中流インテリ予備軍」に提供し続けている、いわば仕掛人的存在(端的に言うと「編集者」)が、三つのカテゴリーを通じて、現実としてほとんど変わっていない、という事実を指している。もちろん例外はあるが、それは実際に同じ人物か、もしくは同一の系列に属していることが極めて多い(ことは知っている人は知っていることだ)。彼らによってその時々の「アカデミズム」から人員がピックアップされて、「○○アカ」が生まれていく。そして、もっともクラい思いにさせられるのは、「ニュニュアカ」的なるものの台頭が起こっているとして、それは「啓蒙」の成果として「人文系ヘタレ中流インテリ」が増大しているからではなく、むしろ「人文系ヘタレ中流インテリ予備軍」と更に外側の「人文系ヘタレ中流インテリ予備軍の予備軍」の絶対的で不可逆的な縮小が、あるポイントを経過してしまったがゆえに、いわばあぶり出しのようにして、そうなっているのではないか、ということなのだ。 もちろん、それはそういうものなのだし、ずっとそうだったのであって、今更どうこう言うようなことでもないし、そもそもお前ごときが云々すべきことでもない、という意見はあるだろうし、僕もそれはもっともだと思う(正直ほんとうに)。そして、だから僕は、この連載を今回で終えることにしたのだ。最終回だというのに、やっぱり上手く書くことができなかったと思うし、むしろ更にもっと混乱したままになってしまったとも思うが、とりあえずここで筆を置きたいと思う。でもこれは終わりではない。ありがとうございました。
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オフ・コース『僕の贈りもの』
オフコースの1stアルバム。今ではニューミュージックの代表的なバンドとして君臨しているオフコース(当時の表記はオフ・コース)は当時2人組。初めてリサイクルショップのジャンクレコードの棚でこの���を見つけた時、オフコースがフォーク・デュオであったことにまず驚いた。しかもあの小田さんがロン毛である。1969年に3人組でデビューしたものの鳴かず飛ばずで、メンバーを入れ替えたり増やしたりしても上手く行かず、結局オリジナルメンバーであった小田和正と鈴木康博の2人が残り、ようやく出したのがこのアルバムだった。実は超苦労人。
でもそれは、このアルバムが後世にこの形で残ったことを考えれば結果としてよかったように思う。本作は2人組で再スタートを切ってからの自作曲でまとめられており、加藤和彦や東海林修らによって提供された初期のシングル曲は一切収録されなかったからだ。東芝カレッジ・フォークの系譜に属する最初期オフコースの楽曲は、彼らか本作以後に積み重ねていく世界観とはまったく別モノ。おかげでその無名時代のシングル盤は現在万単位の高値で取引されているが、自分たちのスタイルを確立できぬままにまとまりのないアルバムを出してしまうくらいなら、こっちのほうがずっといい。 アルバム録音以前の紆余曲折についてはもっと書きたいことがあるが、話がそれるので本題に戻ろう 。
本作が彼らのデビューアルバムとして大きな価値になっているのは、小田、鈴木による自作曲で占められていることに加え、アレンジも自らが行なっていることだ。3人組だったアマチュア時代からピーター・ポール&マリーやブラザース・フォアといったモダン・フォークをコピーして実力をつけていったのだから、コーラス・アレンジはお手の物だっただろうが、重実博(ベース)やアリスの矢沢透(ドラム)のサポートを借りて、ベーシックなリズムアレンジは彼らだけでおこない、ストリングスとブラスのアレンジだけを青木望に依頼している。
駆け出しの若いグループがデビュー作でこうしたこだわりを持っているのは非常に珍しく、“自分たちの音”を出すこと(歌謡曲もこなすスタジオ・ミュージシャンではなく、自分たちで出す音)にこだわっていたのはこの時期、バンド形式のアーティストや、弾き語りを信条とするフォーク系のアーティストを別にしたら、オフコースのほかにないんじゃないだろうか。彼らは出自こそフォークではあるが、本作で目指したものはレコード帯にある「日本のカーペンターズ」というキャッチコピーを出すまでもなく、王道のポップスであることは明らかだ。音楽と真摯に向かい合い、妥協��許さない小田と鈴木のスタンスは、その後のオフコースの作品すべてに感じる魅力になっている。
そして、本作の都会的で品の良いサウンドに仕上がっているのは、彼らが品の良い音作りの下地があった東芝音楽工業のエキスプレス・レーベルに所属していたことも大きい。ミックスなどの技術的な面で洋楽的なポップスの音作りに追いついていなかった当時の状況を考えると、分厚い多重コーラスが瑞々しいタイトル曲「僕の贈りもの」や、軽やかなブラスセクションが入った「歩こう」のサウンドがこの時期に実現できているのはまったく幸運、奇跡と言ってよい。要所要所で曲を彩る小田と柳田ヒロ、羽田健太郎が弾くフェンダーローズの音色も本作の大きなサウンドの特色だ。また、「ほんの少しの間だけ」は聖歌のようなコーラスのアレンジ、文語体の混じった歌詞が相まった荘厳な曲で、聖光学院というミッションスクールで育った彼らの音楽的なルーツを垣間見ることができる。
ちなみに当時のレーベル・メイトは元フォーク・クルセダースの加藤和彦、北山修、はしだのりひこのソロ作品を中核に、荒井由実、ハイ・ファイ・セットといったシティポップ系から、アンダーグラウンドの香りをおびたジャックスや浅川マキ、チューリップやアリスや甲斐バンド、りりィ、杉田二郎など。日本のニューミュージックを牽引していた筆頭のレーベルだったと言っていい。
オフコースのレコードを追いかけていて面白いのは、小田さんの今とまるで変わらないスタンスを40年の時を超えて再確認できること。そしてもう1人のオフコース、鈴木さんの足取りを追えたこと。作品を重ねるごとに変わること、いくら作品を重ねても変わらないこと。2人の作る密度の濃い音楽の対話には、永遠に飽きさせないなにかがある。
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 7月5日(月) #赤口(甲寅) 旧暦 5/26 月齢 24.7 #三隣亡 年始から186日目(閏年では187日目)にあたり、年末まであと179日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤 夜が来ない朝はありませんし、朝が 来ない夜はない💦 睡眠は明日を迎える為の☀️未来への スタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . という訳で😅💦29週目の月曜スタートw 結構、しっかりな雨が降ってます✋ 雨雲レーダーで予想を拝見してますが 止みそうもありませんね。。。_| ̄|○ それに今週は💦今週もですか❓天気 予報に☔マークが続きます(o゚д゚)マジ? 七夕もあまり期待できそうにねいね✋ . 今日一日どなた様も💁♂お体 ご自愛なさって❤️ お過ごし下さいませ🙋♂ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #原付ヘルメット着用義務(#道路交通法改正). 1986(昭和61年)年7月5日、道路交通法改正がありまし��。 原動機付自転車のヘルメット着用が義務化される。 尚、同年の1月1日には、3車線以上の道路における原動機付自転車の二段階右折が義務化されました。 . #三隣亡. 九星の俗信の一つ。 この日に建築をすれば火事を起こし、近所隣をほろぼすといって忌む日。 さんりんぼ。 . #荒井由実デビューの日. 1972年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実(現:松任谷由実)としてデビュー。 6歳からピアノに11歳から三味線を習い始め14歳にはベースを始める。 中学時代から作詞作曲を始め1971年には作曲家デビューを果たし加藤かつみ(元ザ・タイガース)へ提供。 「愛は突然に...」であり、この作品は14歳の頃に作った楽曲だった。 . #江戸切子の日. 東京カットグラス工業協同組合が制定。 江戸切子の文様の一つ「魚子(ななこ)」から「なな(7)こ(5)」の語呂合せです。 . #ビキニスタイルの日. 1946(昭和21)年のこの日、フランスのルイ・レアールが、世界で最も小さい水着としてビキニスタイルを発表しました。 この発表の4日前に、アメリカがビキニ環礁で原爆実験をしたため、そこからヒントを得てビキニという言葉が使われたという説があります。 . #穴子の日. 穴子のトップシェアを誇る、大阪に本社を置く株式会社グリーンフーズが制定。 日付は穴子の旬が夏であり、ビタミンAやカルシウムが豊富で夏バテに効果的であることと、7と5で穴子の「なご」の語呂合わせになることから。 . #名護の日. 沖縄県名護市の「名護の日制定推進ネットワーク会議」が2009年に制定。 「ナゴ」の語呂合わせ。 . #農林水産省発足記念日. 1978(昭和53)年、「農林省」が「農林水産省」に改称されました。 . #セコムの日(7月5日、6日). 日本で初めての警備保障会社として1962年に創業し、日本に「安全産業」を創出したセコム株式会社が、創立50周年の記念の年の2012年に制定。 . #プラチナエイジの日. 一般社団法人プラチナエイジ振興協会が制定。 . #長城清心丸の日(毎月5日). 生薬主剤の滋養強壮薬「長城清心丸」(中国名・牛黄清心丸)を、より多くの人に知ってもらおうと、輸入元の愛知県名古屋市に本社を置くアスゲン製薬株式会社が2001年に制定。 . #みたらしだんごの日(毎月3,4,5日). 「みたらしだんご」とは砂糖醤油の葛餡をかけた串団子のことで、この商品を製造する山崎製パン株式会社が制定。 . #ベネズエラ独立調印記念日. . #アルジェリア独立記念日. . #カーボベルデ独立記念日. . #アルメニア憲法記念日. . #ツィリルトメトジェイの日(チェコ). . #在外スロバキア人の日(スロバキア). . . ■今日のつぶやき■. #案ずるより産むが易し(アンズルヨリウムガヤスシ) 【解説】 お産する前は本人も周囲の人も色々と心配することが多いが、終わってみると案外たやすく済んでしまうものであると云う事から。 出産に限らず、物事は事前にあれこれ思い悩むよりも、実際はそれほど難しくないと云う事。 あまり取り越し苦労をするなという慰めの意味で使われることが多い。 始める前はあれこれ心配をするものだが、実際にやってみると案外たやすく出来るものだと云う例え。 . . 1973年(昭和48年)7月5日 #小杉竜一 (#こすぎりゅういち) 【お笑いタレント】 〔京都府京都市右京区〕 《ブラックマヨネーズ》 . . (牧野記念庭園) https://www.instagram.com/p/CQ60xu1nPdBEoFtPbczIARdeHm9PCAG6f3xOVI0/?utm_medium=tumblr
#赤口#三隣亡#原付ヘルメット着用義務#道路交通法改正#荒井由実デビューの日#江戸切子の日#ビキニスタイルの日#穴子の日#名護の日#農林水産省発足記念日#セコムの日#プラチナエイジの日#長城清心丸の日#みたらしだんごの日#ベネズエラ独立調印記念日#アルジェリア独立記念日#カーボベルデ独立記念日#アルメニア憲法記念日#ツィリルトメトジェイの日#在外スロバキア人の日#案ずるより産むが易し#小杉竜一#こすぎりゅういち
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【画像】フォロワーが絶賛する理由とは?松任谷由実の手料理がコチラ!!!!
松任谷由実 セレブな自宅テラスの自作ランチに「グラスに目が行く」「レストラン?」 – デイリースポーツ 松任谷由実 セレブな自宅テラスの自作ランチに「グラスに目が行く」「レストラン?」 デイリースポーツ (出典:デイリースポーツ) 松任谷由実 夫はアレンジャー・松任谷正隆で、彼女の音楽プロデューサーを務める。 立教女学院高等学校、多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。 雲母社取締役、苗場プリンスホテル名誉総支配人(期間限定)。1972年、荒井由実の名でEMIミュージック・ジャパンからデビューし、1976年の結婚以降は松任谷由実 124キロバイト (2,870 語) – 2021年4月1日 (木) 05:11 (出典 img.news.goo.ne.jp) セレブにしかできなさそうな食卓ランチですね。 (出典…

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アルコール依存症に苦しんだ過去から復活、フランス漫画界から高い評価を受ける高浜寛。今年は、手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。自分の仕事を「過去に生きていた名もない人たちの足跡を掘り起こして、その人を生かすこと」という。天草島の緑深い山あいの家で、話を聞いた。(取材・文:長瀬千雅/撮影:宮井正樹/Yahoo!ニュース 特集編集部)
異色の作家の受賞
今年4月、『ニュクスの角灯(ランタン)』(リイド社、全6巻)で、第24回手塚治虫文化賞のマンガ大賞を受賞した。年間通じて最も優れたマンガ作品に贈られる賞で、最終候補作にはベストセラー作品『鬼滅の刃』も挙がっていた。
もともと「地味な作風」(本人談)で、高い画力と物語作りのセンスから玄人筋では評価が高かったものの、一般的な知名度が高かったわけではない。選考委員の一人で仏文学者の中条省平もこの作品を、「高浜寛という作家を、知る人ぞ知る異色の存在から、もっと大きなスケールの、普遍的な物語の面白さと感動とをあたえてくれるマンガ家へと脱皮させ」たと評した(2020年5月20日付「朝日新聞」夕刊より)。
「40歳をすぎて、私も中堅の自覚ができてきました。自分のことばかりではなく、全体のことを考えていく責任が出てきていると思います。その世代なりにあげていかなければいけない成果があるとも思いますし」
たかはま・かん/熊本県天草生まれ。筑波大学芸術専門学群卒。著書に『イエローバックス』『まり子パラード』(フレデリック・ボワレとの共著)、『泡日』『凪渡り――及びその他の短篇』『トゥー・エスプレッソ』『蝶のみちゆき』『SAD GiRL』『エマは星の夢を見る』『ニュクスの角灯』『愛人 ラマン』など。ほぼ全ての作品がフランス語訳され、イタリア、スペイン、ドイツでも多くの作品が出版されている。今月28日に、『扇島歳時記』第1巻が発売される
主な舞台は、19世紀末の長崎とパリ。西南戦争で親を亡くした美世は、「私なんか」が口癖で、自分の意見を言うことに慣れていない。長崎の輸入道具屋で働き始めた美世が店主の百年(ももとし)をはじめ、まわりの大人たちの導きで、人生を切り開いていく。随所に、豊かな線で表現される当時の衣装や習俗が挿話として登場する。
しかしこれが単に美世の成長物語にとどまらないのは、百年の恋人、ジュディットの存在だ。パリの高級娼婦であるジュディットは社交界の花形だが、生活は荒れていて、アルコールに依存している。物語の終盤、美世との出会いによって、ジュディットが「光の方へ」歩き出す勇気を得るシーンが美しい。
作家性が強く、扱う題材も地味だった初期作品群と比べて、この作品は娯楽としてのマンガの楽しさにあふれている。
「エンターテインメントですよね。みんなに『少女マンガだ』って言われます。ラストのドタバタも少女マンガらしい。若い人を励ますような気持ちで描いたかな」
その気持ちの裏側には、アルコール依存に苦しんだ、若いころの経験がある。
「若いころは家族と離れて、北関東の学園都市で生活していたので、問題を相談できるような年上の女性が少なくて、健康なほうにいけなかった。幸いにしてサポートしてくれる人たちと出会うことができたし、考え方も成熟してきて、かつての自分がなぜ生きづらかったのかがいまはわかる。そうすると、同じように苦しんでる若い人たちのことが見えるようになってきて」
フランス漫画界との出会い
もともとマンガ家になろうとは思っていなかった。大学2年生のとき、飲み会でさらっと描いたマンガを面白がった友人が、あるメジャー青年誌に持ち込んだ。
「私の知らない間に見せにいく約束を取り付けてきた。面白いけど上質紙に描いてあるから、ケント紙に描き直して持ってきませんかと言ってもらって、持っていったら賞を取ったんですよね」
担当編集者がつき、デビューを目指して準備を始めるが、途中で編集長が代わり、作品が採用されなくなった。
「私は、老人を主人公にしたりして、なにげない日常のストーリーを描いていた。でも、編集部から売れるものを描いたほうがいいと言われて。売れるものってなんだって聞いたら、若者が主人公でとか、恋愛要素があったりとか、ひと夏の成長物語だったりとか。当時はそういうものにあまり興味がなかったんですよね」
「対極のところに行ってみよう」と、青年誌「ガロ」に持ち込むと一発で賞を取り、掲載が決まった。大学卒業目前の冬のことだ。
マンガアシスタントの経験はない。そのころ、フランス人マンガ家フレデリック・ボワレが「ヌーベルまんが」を提唱し、バンドデシネ(フランス語圏のコミック)とマンガの中間のような作品を発表していた。高浜は、日本に住んでいたボワレにメールを送った。
「『ヌーベルまんが』は、『日常を描く』という活動だったんですよね。SFとか、非日常的なものではなく。そのとき���私はそうだそうだと思って、私もマンガ家だし、チャンスがあったら誘ってくださいって言ったんです。そうしたら、何か一緒にやりませんかという話になって」
「海外でも評価されるマンガ家」と形容されることがあるが、より正確には、日本とフランスのハイブリッド。フランス語圏ではバンドデシネ作家として受け入れられている
高浜は、ボワレとの合作『まり子パラード』を描き上げる。そして、出版社を探すためにフランスの国際的なマンガマーケットであるアングレーム国際マンガ祭に持ち込んだ。大手出版社カステルマンが興味を持ち、ボワレとの共著だけでなく、高浜自身に描くチャンスを与えてくれた。
「あとはずっとカステルマンで描いてて、気心の知れた人が別の出版社に移籍するとそっちでもまた仕事をくれるようになって。常に何か仕事をしているような感じになりました」
アルコール依存症に
若くて才能のある作家の登場にフランスのメディアも注目し、渡仏するたびにいくつもの雑誌やテレビの取材を受けた。その中には、ファッション誌の「ELLE」など、高浜自身が憧れて読んでいたような有名な雑誌もあった。
「がんばったらその先にあるような世界がいきなりやってきて、しかも思っていたのと違ったから、パニックになってしまったんですよね。長旅で疲れた頭で、同じような質問に何度も答えて。知らない人ばかりで気も使うし、通訳をはさんで何日も何日も、テレビやって雑誌やってラジオやって。そのたびにお酒を飲んでた。そうしないとこなせなくて」
日本でも、「ガロ」で描いた短編が高く評価された。「ガロ」が休刊したあとは、「マンガ・エロティクス・エフ」などのオルタナティブなマンガ雑誌で連載を持ち、締め切りに追われて徹夜が続く。
お酒を手放せなくなっていたころ、あるアート誌の取材を受けた。いつものように徹夜明けで、アルコールをキメてから出かけていった。掲載号が発売されたとき、自分の写真にショックを受けた。
「1ページまるまるの写真は、すごいむくんだ顔をしてて��適当に着ていった服の胸元がけっこう深く開いてて、こんな服着ていかなきゃよかったとか、いろいろ思ったりしましたね。別のときは、頭がハゲかけたこともあったし。20代の女性としては『これは厳��い』と思いました(笑)」
不眠にも悩まされ、睡眠導入剤を服用するようになった。だるくてだるくて、起き上がれない。1日に2時間ぐらい仕事ができればいいほうで、連載が続けられなくなった。
「まだ準備ができていないうちに、過大な評価をされてしまったんですね。少女時代が終わって、女性としての人生が始まったばかりのころに」
崩れていく自分を観察
お酒と薬をやめることができたのは、32〜33歳のときだ。何年も深い底をただよう間には、発作的に薬を過剰摂取して救急車で運ばれ、一命を取り留めたこともあった。いっぺんにやめられたわけではなく、当初は薬をやめてもお酒はやめられず、むしろ増えたときもあった。
「最終的にはちょっと幻覚みたいなのを見たときに、もうこれは浮上しなければまずいと思って。そこからパタッとやめて上がってきたんですけど」
自立への第一歩として、親元を離れ、熊本市内に家賃1万2000円の激安アパートを借りた。自助グループと病院に通い、うなぎ屋でアルバイトをしながら、『四谷区花園町』という作品を描き上げた。
2013年に『四谷区花園町』を刊行。翌年に『蝶のみちゆき』を描き上げ、さらに翌年、『ニュクスの角灯』の連載をスタートさせた
「(アルコール依存から回復する前とあとでは)180度変わりましたね。その前は一人では立てない状態、そのあとは一人でちゃんと立ってる状態。以前は、何かに依存しないと立てなかった」
高浜は、「お酒を飲んだ自分」を観察したことがある。
水底で暮らした長い年月を経て、断酒に成功したのが2011年ごろ。それからお酒は一滴も口にしていなかったが、2016年の熊本地震に遭い、古いアパートは全壊。翌月に住む場所は見つかったが、しばらくして半年ほどスリップ(再飲酒)した。
「どんなふうに崩れていくのかを、興味を持って観察している自分がいたんですよね。最初の1、2カ月は仕事ができていたけど、3カ月、4カ月と経つうちに、長編の構成を頭の中でキープすることが困難になってくるんです。パースがゆがんで絵もうまく描けなくなる」
『愛人 ラマン』執筆へ
スリップから抜け出したころ、大きな仕事が高浜のもとに舞い込んできた。フランスの作家マルグリット・デュラスの自伝的小説『愛人 ラマン』の漫画化だった。
旧知のフランス人のエージェントから「小説の漫画化をやってみない?」と提案された。「『愛人 ラマン』はどうかという話になったとき、私も『それしかないよね』という感じだったんですよね」
デュラスの『愛人 ラマン』が日本でベストセラーになったのは、1992年のことだ。ジェーン・マーチ、レオン・カーフェイの主演で映画化もされている。デュラスが仏領インドシナ(現在のベトナム)で過ごした少女時代を振り返る。貧困家庭の白人の少女と裕福な中国人青年との性愛は、センセーショナルだと話題を呼んだ。
デュラスは1996年に亡くなったが、フランス文学に詳しい野村昌代(アンスティチュ・フランセ東京メディアテーク主任)によれば、「フランスでは現在も評価が高く、その恐るべき才能、作品のクオリティーの高さから、よく読まれている」という。
高浜は高校生のころ、デュラスにはまってよく読んでいた。
「(小説の)少女とあまり変わらない年齢で読んだんですね。面白かった。『自分たちのことが書かれている』と思って読んでいました。『少女が年をとるとこうなるんだ』というのを見せられたような気がして。なんとなく自分もその呪いにかかったような感じがしました」
40歳をすぎて読み返すと、違う感想を持った。
「あの少女のことを、自分よりも経験があって、大人の世界を知っていて、しらけた感じで生きてるんだと思ってたけど、ほんとうは絶望的な状況に置かれていて、そのせいであんなにはすっぱでつっぱってたんだってことが、いまわかったという感じでしたね。当時はよくわからなかった」
高浜版『愛人 ラマン』は今年1月にフランスで発売された。翌月日本語版を刊行。高浜が描く少女はやせていて目の下にクマがあり、とても美少女には見えない。映画でジェーン・マーチが演じた、未成熟な色気がただよう少女ともまた違うキャラクターだ。最初から最後まで、登場人物のほとんど誰も笑顔を見せず、うだるような暑さの中で、行き場のない思いと苛立ちが沈殿していくさまが、オールカラーの独特な色彩で表現されていく。
「つらい状況って、どうやって耐えるか、どのくらい耐えればいいのかがわからないから、怖い。人が亡くなったときは心の痛みはこれぐらい続くんだ、でも耐えていれば絶対に薄れていくんだとか、そういうことを教えてくれる人を見つけるのが難しい。昔だったら、母親がいて父親がいて、祖父母がいて、両親が機能しなくてもおじさんおばさんとか、いろんな大人が身近にいたからなんとかなったけれども、いまはそういう環境のほうが珍しくなっている」
「単純に希望を持つことって大きいですよね。で、希望を持ってる人のそばにいるっていうことも大きいかもしれない。誰か牽引力のある人がそばにいれば、その人に引っ張られてみんないいほうにいくってこともあるだろうし。でも都会ではなかなかそうなりにくい気がします」
山あいの仙人のような暮らし
昨年、仕事場を熊本市内から天草に移した。山あいの一軒家に夫と二人で住み、マンガを描く。犬2匹と猫3匹、山羊2匹を飼い、井戸の水を飲む。
「(コロナの影響は)ここにいる分にはあまり感じないですね。もともと週に1、2回、町へ買い物に出るくらいで。DVDを借りに行ったりはしますけど」
「山に住まないといけない」と思った理由をこんなふうに話す。
「このあたりは植林された山じゃなくて、原生林が残っているんです。過去に健康を害して仕事ができなくなった経験があり、それを元どおりに修復するのにとても時間がかかったので、最初から害になる要素の少ないところで暮らしたいと思いました。それに、町にいると絶対必要なわけではない、細かな予定が入りすぎてしまう。仙人みたいな人は必ず山に住むでしょ?」
月の半分は、「月刊コミック乱」と「トーチweb」に連載中の新作「扇島歳時記」の執筆に集中する。主に使うのはシャープペンシル。基本的にペン入れはせず、黒鉛の芯の硬軟を自在に操って、ニュアンスに富んだ線を描く。
連載中の「扇島歳時記」の舞台は、『ニュクスの角灯』から10年ほどさかのぼった長崎。共通する人物も登場する
もともと、描きたいことはどんどん浮かぶほうだ。アルコール依存から回復してからは、生まれ故郷の天草と、自身のルーツがある長崎を、歴史をさかのぼって丹念に取材している。
「扇島歳時記」のために長崎・出島の詳細な見取り図を作成し、『ニュクスの角灯』では大浦慶という実在した女性実業家を登場させるなど、フィクションの中に綿密に取材したノンフィクションを巧みに織り交ぜる。
「最近はもう、マンガ家といっても歴史マンガ家なので。歴史マンガ家のすることは、過去に生きていた名もない人たちの足跡を掘り起こして、その人を生かすこと。歴史を調べていると、向こうから飛び込んでくるんです。人知れず亡くなった人とかが、描いてほしいとメッセージを送っているのかもしれない」
「扇島歳時記」のノートの1ページ。絵や演出のうまさに定評があるが、本人は「取材してシナリオをつくる作業が好き。絵を描くのは2番目」と言う
次回作の構想を楽しそうに話す姿を見ていると、描けない時期があったとは思えない。「描けないことは苦しかったですか」と聞くと、少し考えて、「待たせていることがしんどかったですね」と答えた。カステルマン社が「描き下ろしで」と依頼してくれた中編は、描き上げるのに5年かかった。
どの時代を描いていても、高浜の作品には「いま」がにじむ。『愛人 ラマン』で描かれた少女の絶望は「いまもあまり変わらないと思う」と言う。
「20年前よりも状況が悪くなっているかもしれません。どこか依存症みたいな子がたくさんいますよね。ツイッターを見ていると、いろんな人の不安定な情緒がぽんぽんぽんぽん目に入ってくる」
ただ、そこで感受するつらさや病みを、そのまま作品にしようとは思わない。
「そういうのを描けばいまの人たちの共感を得られるのかもしれないけれども、私はそれが必ずしも良いことだとは思わないんです。それより、過去に生きていた人たちがどういうふうに健康的な暮らしをしていたかとか、どういう考え方をしていたかとか、そういうことを描いたほうが、読んでくれた人が本当の意味で前向きになれるんじゃないかと思っています」
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てな訳で、親友で歌手の「清水まり子」から「好きなボーカル4人あげて、次の4人に回してくださいませ」という SNSのバトンが届いたよ。 「清水まり子」がどんな人かというと、1994年「父娘坂(おやこざか)」でデビュー。30万枚!のヒットとなり、現在までに14枚のシングルをリリースしている立派なメジャー演歌・歌謡曲歌手。男気バリバリ、飲めば豪快な大トラに変身、ところがなかなかの美人とくるから始末が悪い。 で、当人が好きなボーカルは、松田聖子、マドンナ、ティナ・ターナー、グロリア・エステファン。思いの外センスが良いぞ(失礼!)。 私は以前から演歌歌手の歌唱力をリスペクトしていて、彼女のような実力派に洋楽のポップス、カントリー、ソウル・ミュージックをカバ−して欲しいなと思ってたんだ。デビッド・フォスターがプロデュースしたマドンナの名曲「ユール・シー」をまり子が歌うと・・・。 カルロス・サンタナが様々なアーチストと共演したアルバム「ヴェリー・ベスト・オブ・サンタナ」に収録されたティナ・ターナー版「ザ・ゲーム・オブ・ラブ」は、大ヒットしたミッシエル・ブランチ版よりキーが低くて激渋だけど、まり子版ならその中間で、大人っぽくまとまるだろうなぁ・・・。 グロリア・エステファンの曲なら「ヒー・ウィ・アー」を英語とスポルトガル語の両方でまり子の声で聴いてみたいなぁ・・・。 個人的にはデビー・ブーンの名曲「ユー・ライト・アップ・マイ・ライフ」(恋するデビーというメチャクチャな邦題をつけられた曲)や、ダイアン・ウォーレンが作曲したリアン・ライムスの大ヒット曲「ハウ・ドゥ・アイ・リヴ」、ベッド・ミドラーが歌う「ローズ」、ナタリー・コールの「ミス・ユー・ライク・クレイジー」も歌って欲しいんだ・・・。 うん、きりがないからこのへんでお仕舞にしよう。 さて、ここからが本題。音楽命!NMNL(ノー・ミュージック・ノー・ライフ)の私に4人を選べとは。邦楽男女、洋楽男女それぞれあげても16人しかいないというのに、たったの4人かよぉ。 悩んでも仕方がないので、山下達郎、竹内まりや、デヴィッド・ポメランツ、ビリ−・ジョエルの4人を!でないとこの先何日迷っても答えが出ないよ。 山下達郎はシュガー・ベイブの頃からのファンで、ユーミンが荒井由実だった頃のヒット曲「ルージュの伝言」のバックコーラスでハイトーンで叫んでいる頃から大好き。最新作「レシピ」でも衰えぬ歌声を聴かせてくれています。 竹内まりやは、ソングライターとしてもシンガーとしても尊敬に値する才能あふれる天才。最近では1984年のアルバム「ヴァラエティ」の収録曲「プラスチック・ラヴ」が海外で再評価されたり、ドラマや映画とのタイアップ曲「カムフラージュ」「天使のため息」「真夜中のナイチンゲール」もたまらない。特に好きなのは1980年のアルバム「Miss M」に収録された「シークレット・ラヴ」。リズムセクションに若き日のデヴィッド・フォスター(P)、ジェイ・グレイドン(G)、TOTOのメンバーであるスティーヴ・ルカサー(G)、ジェフ・ポーカロ(D)、デヴィッド・ハンゲイド(B)を、コーラスにはビル・チャンプリンを起用するなど贅沢の極みなんだけど、彼女の少しかすれた低めの声と演奏とのマッチングが素晴らしいのです。 デヴィッド・ポメランツは、バリ−・マニロウのヒット曲「ザ・オールド・ソング」の作曲家で、ゴールドアルバム18枚、プラチナアルバム22枚を生み出した凄腕。この方はシンガーとしても優秀で、前出の「ザ・オールド・ソング」をセルフカバーしてるんだけど、切なく響くハイトーンがたまらなく良いのですよ。 そして、全世界で1億5000万枚以上のレコード・セールスを記録しているビリ−・ジョエルの説明は不要ですね。中でも「ニューヨークの想い」「ストレンジャー」「素顔のままで」「オネスティ」「ザンジバル」が収録された1976〜1986年頃の歌声が一番好きなのですよ。 と、私の好きなボーカル4人はこんなところです。 それでは、以下の4名様にこのバトンをお渡ししますのでサラリと(そんなに簡単に言うなって?)宜しくお願いいたします。 ○編集者でライターの池田美樹ちゃん ○フードビジネスデザイナーでライタ−の嶋啓祐さん ○室戸ドルフィンセンター長で打楽器奏者で中学の同級生の松島弘くん ○記者でライターで帰国子女のほしなあやちゃん よろしくね〜。 #NMNL #山下達郎 #レシピ #竹内まりや #シークレットラヴ #デヴィッドポメランツ #ザオールドソング #ビリ−ジョエル #ニューヨークの想い #ストレンジャー #素顔のままで #オネスティ #ザンジバル (大和市つきみ野) https://www.instagram.com/p/B_nit2WnVAo/?igshid=d3b7q73de970
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MAGAZINE - 2017.10.26
Debonaireインタビュー インタビュー、構成:与田太郎 デボネアが活動を休止してから20年、まさかこうして彼らのアルバムをリリースできるとは思ってもみなかった。これは昨年のペニー・アーケードの再発が大きなきっかけとなっている。ペニーの再発にともなう一連の出来事により80年代後半から小さくスタートした日本のギター・ポップ・シーンの情景を再考することができたし、なによりもよかったのは久しく会っていなかった友人やミュージシャンともう一度音楽の話をする機会を作ってくれたことだろう。今回のデボネアの未発表曲集もその流れからリリースにたどり着いた作品であり、また過去2作のアルバム制作を担当したスタッフとしてようや���自分が思い描いたデボネアの作品を25年越しにかたちにすることができたと思っている。

海外のシーンは過去の作品の発掘や再発などを通して、今に至るシーンの文脈やサウンド、テーマの流れを若い世代に提示する。そういった循環がまた新しい刺激となり先端で生まれている音楽に受け継がれてゆく。僕は日本でもそういった提案をすることが必要なのでないかと思っていた、キリキリヴィラも最初のリリースはライフ・ボールの残した音源のコンピレーションだったのだ。 デボネアは現役当時から多くを語らないバンドだった、またリリースした作品も部外者には意味不明なこだわりが多くその実像は当時ですら相当わかりにくかったはずである。 インタビューに入る前に僕が見てきた当時の状況や彼らとの出会いなどを説明しようと思う。
Disc 2に収録された90年のライブはデボネアの初期メンバーの貴重なライブ音源だが、僕がデボネアを知った91年の夏頃のライブではドラムとベースが変わり、サウンドもワウ・ギターを使ったインディー・ダンス・スタイルの曲がレパートリーに入っていた時期になる。僕はこのライブ盤の1年後あたりにデボネアに出会っている。まず当時の状況を説明したいと思う。当時はイカ天、ホコ天ブームもありインディーズも80年代中旬のキャプテンやナゴムを中心とした時期以降、2回目のブームをむかえていた頃である。中学、高校と洋楽、とくにパンク、ニューウェーブからネオアコにはまり国内のバンドではルースターズやじゃがたらを追っかけていた僕にとって当時の状況はあまり歓迎できるものではなかった。しかし大きな変化の予兆のようなものを感じたのが89年フリッパーズ・ギターのデビューだった。彼らのデビュー・アルバムを聴いた僕はこう思った、『日本にもこういう音楽をやる人たちがいるならなにか新しいことをはじめることができるかもしれない』と。その翌年、90年の10月頃、僕は会社に自分のレーベルを作らせて欲しいと上司に伝えた、当時はまだおおらかな時代で22~3歳のアルバイトあがりの若者に社長は「好きにやってみろ」と言ってくれた、これには今でも感謝している。 そんなことから90年の秋には自分のレーベルであるWonder Release Recordsからリリースするバンドを探し始めた。その時僕の頭にあったイメージはCreation、Rough Trade、Factoryなどのイギリスのレーベルであり前年89年の冬に見たストーン・ローゼズや夏に見たプライマル・スクリームであったことは言うまでもない。そして翌91年の1月にヴィーナス・ペーターの結成から3回目か4回目のライブを見たことで一気に動きはじめた。ヴィーナス・ペーターがレーベル第一弾となり、同年5月にクラブ・チッタで開催された『Remix Night』で共演したシークレット・ゴールドフィッシュがすぐに第二弾となった。同年代のバンドが自分と同じような音楽を聴き、そしてその同時代の音楽を作ろうとしていることに僕はなにか運命めいたものを感じたし、それからの2~3年間がどれだけ楽しいものだったかは説明しようがない。もちろん自分の若さゆえの失敗や数々の問題はあったけれど、それ以上に、あの時代は純粋に夢を追いかけることができた時期だった。 デボネアの話に戻ろう。シークレット・ゴールドフィッシュは当時大阪で活動しており、彼らの最初のライブはデボネアとの共演だった。リーダーのイズルくんが僕に大阪にデボネアといういいバンドがいるから見たほうがいいよ、と教えてくれた。また同じぐらいのタイミングでヴィーナス・ペーターのギターで元ペニー・アーケードだった石田さんもデボネアのことを教えてくれたんだと思う。そこで早速デボネアのライブを調べて京都のビッグ・バンというライブハウスへ行ったのが彼らとの最初の出会いとなった。ちょうどヴィーナス・ペーターのアルバムが発売になる前後でDJはKIHIRAくん、サイド・ディッシュが共演だった。もう『スクリーマデリカ』は発売になっていて『ラブレス』と『ノーウェア』の発売直前のころ。これはついこの前(2017年9月)にデボネアのメンバーにインタビューしてわかったことだけど、実は90年の終わりか91年の初めの頃にとくに告知をすることもなくバンドは一度解散することをメンバーは決めていた。その後ボーカルの中井とギターの楠木で新しいバンドを始めるつもりがバンド名をつけるのが面倒だったようで、デボネアの名前はそのままになったそうだ。 はじめて彼らのライブを見た時に感じたのは、僕と本当に同じように音楽を聴いているバンドだ、ということだった。関西にこんなバンドがいたのかという驚きと、素のメンバーのあまりにも強力な大阪弁に面食らいつつもリリースのオファーをした。たしかその後2回ほど話し合いをして、デボネアの盟友であったサイド・ディッシュと共にワンダー・リリース内にクリア・レコード(Clear Records)というレーベルを作ることでメンバーとも合意した。 大変だったのはそれからだった。80年代から活動していた彼らから見れば、東京から来てレーベルをやっている奴など簡単に信用できるわけがなかったのだ。アルバムに先駆けてリリースした12インチはまだよかったのだが、アルバムのレコーディングについてはこちらは費用を負担するだけで、事前にはまったく内容も教えてもらえず92年にリリースになった1stアルバム『Eternity One』は完全なアコースティック・アルバムだった。バンドで録音をしてアルバムを作りたかった僕はマスターが届いた時、あっけにとられた。いくら東京と大阪で離れているとはいえ、さすがに事前にアルバムの内容ぐらいは教えてほしかった。彼らのステージを見て、彼らにとってもかなりいいデビュー・アルバムができると思っていただけに衝撃は大きかった。しかも『Eternity One』自体は素晴らしいアルバムだったことでさらに複雑な心境にならざる得なかった。もうひとつ残念だったのはワンダー・リリースで92年の1月に渋谷のオンエアーでヴィーナス・ペーター、シークレット・ゴールドフィッシュ、デボネア、サイド・ディッシュの4バンドによるレーベルのショウケース・イベントを行った。フリッパーズの登場から解散の間に盛り上がったギター・ポップやインディー・シーン、中でも大きく注目されたヴィーナス・ペーターとシークレット・ゴールドフィッシュがいたこともあり会場は満員となった。僕はこのイベントがデボネアとサイド・ディッシュにとって東京でのお披露目として重要なライブだと思っていたし、タイミングも最高だった。しかし、なんとデボネアは楠の怪我によりバンドでの出演ができなくなってしまった、これは本当に残念だった。それからも僕はデボネアの2ndアルバムを94年にリリースするがバンドの活動は徐々に下火になる。それでも2003年に『Eternity One』を再発したのは、やはりこのアルバムが素晴らしかったからだ。 デボネアと出会って25年目となった2016年、中井が大阪でバーをやっていると聞き、ほぼ20年ぶりに彼に会いに行った。そこでペニー・アーケードの再結成ライブにデボネアとして出演を依頼したら、しばらくして東京なら1回ぐらいやろうかなという返事があり、2017年2月25日の下北沢QUEでほぼ30年ぶりにペニー・アーケードとデボネアの共演が実現した。実は中井のやっているバー『Mile High Club』で朝まで当時の思い出を語り明かした時に聴かされたのが80年代から90年代前半までのデボネアの膨大なデモやライブ音源だった。その時僕は、こんな音源あるならあの時に教えてくれよ!と叫んでしまった。言ってもしょうがないことではあるが、本当に面倒くさがりにも程がある。そこで聴かされた大量の音源を送ってもらい、そこからセレクトしたのが今回のアルバムだ。88年のデモ音源や90年代に埋もれた曲、お蔵入りになった12ミックスや中井のMTRで作ったデモまで、これでようやくデボネアというバンドの全体像がわかるのではないだろうか。最初の7インチはペラペラの音だったけど、今回はリマスターしたことでレコードよりもいい音になっている。ブーミンホールでのライブは「Map To Our Paradise」のバンドでの演奏を聴くことができる。この曲は前述の渋谷オンエアーでのライブで中井と当時のドラムだった堂森が2人で弾き語りをやった曲で、最初の12インチ『Happy Now?』のカップリングでもある。 前置きが長くなった、以下のインタビューは9月に中井の店『Mile High Club』で中井尚志、楠健、寺島和弘のオリジナル・メンバー3人が揃っておこなわれた。酔ったオッサンの昔話そのまんまだけど、これはメンバーの素の姿そのもの、出会った時から変わらないデボネアの姿である。

ー今回のCDに収録されたブーミンホールでのライブで演奏してる曲のデモ録音とかはないの? 楠 ない曲けっこうあるな。 ー「Another Sun」とかすごくいい曲なんだけど、ないんだ。このライブは90年の8月で、俺が初めてデボネアを見たのが翌91年の夏だったけどメンバーがもう変わってたよね?ドラムとベースが変わったのはいつ? 楠 このライブのだいぶ後だったはずやけど。 寺 91年の夏は俺ももうおらんわ。 中 ほんまはな一度解散してんねん。一回やんぴってなって、ケンとふたりで仕切り直してやろと思ってんけどまたデボネアって名乗ってしまったからややこしくなってんねん。 ー解散しようかってなったのは90年の暮れぐらい? 中 けど90年の暮れぐらいにビッグバンでやってるやん。あんとき寺島やってるやんな。 寺 やってるな。 ーじゃあ解散は91年の春ぐらい? 中 暮れのビッグバンはサイド・デッシュと一緒のやつやろ?マンチェやろうとした時や、あのヘロヘロやった時。 楠 あー、「ゼア・シー・ゴーズ」やった時や。 中 『エターニティー・ワン』はいつ? ーあれは92年の春かな。二人が抜けた理由はどんなこと? 中 抜けたんじゃなくて解散や。 ーそういうことなんだ!それが91年の春だよね。 楠 いや、もっと後なんじゃない。 ーでも俺91年の夏にビッグバンで堂森くん(2人目のドラマー)がドラムのデボネア見てるよ。 中 いやあのサイド・ディッシュとのライブは寺島やんな。 寺 いや、覚えてないなー。 ーそん時ベースは? 中 東泉(2人目のベーシスト)? 楠 いや、東泉はもっと前にやめてるやろ。 中 そうや、東泉がやめた時点で俺もやる気のうなったしな。 ーじゃあベースは? 楠 栃尾(3人目のベーシスト)かな? 中 栃尾は堂森とセットやからな、もしかしたらコウちゃんかもしれん。サイド・デッシュのベースの子。 楠 あったあった!そんなこと!たぶんビッグバンはそうやわ。 ーそん時紀平くんがDJだったよね? 中 おったおった、紀平とマメちゃん。 ーそれ見て俺はCD出そうって言ったんだよ。 中 よう言うたな、あんなヘロヘロのライブで(笑)。 ーあの時、こういう音楽やってるってだけで俺はうれしかったけどね。 中 ほんまあのころの記憶がないねん。 楠 そうやな。 ー俺が91年の6月か7月にヴィーナス・ペーターとシークレット・ゴールドフィッシュでビッグバンに行った時にケンちゃんとショウちゃんに会ってるんだよ。その時もう堂森くんいたよ、「こいつが新しいドラムや」って紹介されたような。 中 『ハッピー・ナウ?』の12インチはいつ? ーあれは91年の12月ぐらいじゃないかな。 楠 てことは夏には堂森もおったかもな。 中 辻褄あえへんな(笑)、ちょっとまってな。(奥にテープを撮りに行く) 中 90年や、90年の12月や。コウちゃんベースでドラムは寺島やわ。最後にサイド・ディッシュとデボネアが合体して「ゼア・シー・ゴーズ」やってるわ。最悪や、これ見てるの? ーそれは見てない、俺が見てるのは91年の夏が最初、その時もサイド・ディッシュが一緒だよね。 中 そうや、しょっちゅう一緒にやってたしな。 ー91年にもう一度バンドをやろうと思ったのはどうして? 楠 なんでやろな?(笑)ほんま覚えてないわ。 ーシークレット・ゴールドフィッシュとはどうやって知り合ったの? 楠 ビッグバンやな、マンチェ・ナイトみたいなイベントで、あれ、そん時はもう金魚やってたかな? 寺 まだやない? ーシークレットがラッシュの前座やったのは? 寺 それはもっと後や。 ーそうか。 寺 あればクアトロのオープンの時やったよね?大阪の。 楠 そうやな。 ー当時はみんな外タレの前座やってたね。 中 サイド・ディッシュもポッピーズ(Pop Will Eat Itself)の前座やってたな、クアトロで。 楠 俺はシャックの大阪の前座やれんかった理由がまだわからん、東京でやってるのに。 寺 イズルが金魚はじめたころは俺らはビッグバンを卒業しようとしてたころやろ。 ーそう、シークレット・ゴールドフィッシュは91年の春にはアルバム作ることが決まってて、俺はイズルくんとヴーナス・ペーターの石田さんにデボネアの話を聞いて、ライブを見に来たんだよ、それが夏ぐらい。そのあと9月か10月に一度大阪に来てレコーディングの話をしたよね、たしか天狗か白木屋みたいな居酒屋で。そのあと『ハッピー・ナウ?』のレコーディングしてるんだよね。 中 もう92年になってんちゃう?91年の12月に川崎チッタでワンダー・スタッフの前座やった時にはまだなんにも出てなかったし。あいつら誰や?って言われてたよ。 ーワンダー・スタッフの前座は3日間、ヴーナス・ペーター、シークレット・ゴールドフィッシュ、デボネアだったね。あればH.I.Pから話が来たんだよ。そのあと『ハッピー・ナウ?』が出て、夏に『エターニティー・ワン』がでるんだけど、なんで『エターニティー・ワン』はバンドで録音しなかったの? 中 当時、栃尾と堂森もたぶんサポートみたいな感じやってん、あんま覚えてないんやけど(笑)、そんでケンと二人でアルバム作ろうってなって。 ーなんでバンドの録音じゃなくなったの? 中 井出ちゃん(当時のデボネアのプロデューサー、マネージャー)がアコースティックで行こうって言ったんじゃないかな。当時アンプラグドがメチャ流行ってたし(笑)。タイミング的にもバッチリやって(笑)、そんな気がする。 ーほんと、25年以上たっても言うけど、俺がマスター聴くまで知らされてなかったっておかしいよね!俺はライブで見てた演奏を録音すると思ってたし、いきなり『できたでー』ってアコースティック・アルバム渡されて…。バンドで録音しようとはしなっかたの? 中 まるっきりしてないな。アンプラグドっていうコンセプトだけ決めて、それから曲をアレンジし直して。 ーファースト・アルバムなのにわざわざわかりにくくしようとしたのはなんで? 中 いま思うとカッコええな!(笑)。「ハッピー・ナウ?」をあんなバンドでシングル出しといて(笑)。こんなバンドいたら買うてまうは、俺(笑)。 ーそれがデボネアっていえばそれまでなんだけど。 中 普通通りやってないとこがな。でも、今でも聴けるのは良かったと思うで、変にマンチェにしてないしな。 ーそうだね、たしかにいま聴いてもいいからね。だから2003年に再発もしたんだけどね。でも当時はバンドの録音聴きたかったよ、ほんと。 中 だからそれは『エターニティー・ツー』で実現するつもりやってん。 ーアルバムが発売になってすぐ堂森くんはやめるよね?そのあとライブはやってた? 中 そうやな、あいつ金沢の出身で、就職で帰ったんじゃなかったっけ?92年はしばらく俺とケンの二人でライブやってたと思う。二人で東京行ったやん。 ー二人で東京ってあったっけ? 楠 インクスティック鈴江とか。 ーあー、あったね!あの時は二人だったのか。その後またドラムとベースがはいるよね。 楠 高原とベンやな、ベンはニューエスト・モデルのドラムやってん。 ーそれいつ頃?93年ぐらい? 楠 『タングルド・アップ』はいつ?93年の暮れぐらい?そもそもベンと高原はどうしてやることになったんや? 中 あれは吉田くん繋がりで、吉田くんは今サイコババっていう名前で有名なシタール奏者なんやけど、彼がシャックの前座のときのベースでドラムは寺島や。 寺 俺はやってないよ。 中 えー、じゃあ誰やねん? 楠 俺も覚えとらん。 中 シャックはバンドでやったもんな、まるで記憶ないわ(笑)。

ーほんと覚えてないね(笑)。シャックの時の前座は俺も見てたからなー、誰がドラムだったっけ? 中 寺島じゃない? 寺 俺は違うよ。 ー堂森くんは渋谷オンエアでワンダー・リリースのレーベル・イベントの時に、ショウちゃんの横でタンバリン叩いてたのが彼と会った最後だったと思う。ケンちゃんが事故で出れなくなった時。 楠 あったあった!そんなこと! 中 じゃあシャックの時のドラムは誰や? ー92年だよね。 楠 12月23日やわ。 ーまあシャックの時のドラムは置いといて、93年にもう一枚アルバムを作ることになって、ドラムとベースを探したってことだよね。それで高原くんとベンくんを吉田くんに紹介してもらったってこと? 中 そうだったかな?でも正式なメンバーっていうわけでなく、レコーディングの���めのサポートで。そのレコーディングすら俺が半分叩いてるしな。 ー『タングルド・アップ』は俺も絶対バンドで録ってくれって言ったんだと思うけど、なんであんなに音悪いの? 中 井出ちゃんに聞いてもらわんと。 ーなんか狙いがあったの? 中 なんかあったんちゃう。 楠 いや、あれでもまだましなほうやで。最初ぜんぶ片チャンによしたりモノにしたり、アレコレやりすぎてたよね。 中 あんとき卓の上にガーンとビートルズのCD積んであったやん、あん時のエンジニア、キダちゃんっていう人やな。ずーっとビートルズ聴いてたしな。 ーあのレコーディングは8チャンネルのマルチ? 楠 16トラックやったよ、高槻のサブロックっていうスタジオで。 ーマルチはもうないよね? 中 ないなー、あればもう一回ミックスしたいよな。 楠 俺あん時の録音してすぐにラフ・ミックス聴いたけど、CDより音いいよ(笑)。 中 俺それ持ってへんよ、帰りの車で聴くようやな。こんどちょうだい(笑)。 楠 ショウちゃんは持ってるやろ。ヨダちゃん、それもいる? ーもういいわ(笑)。ほんと俺はデボネアのCDを2枚作ったんだけど、どっちもいきなりマスターが届いただけじゃん。 楠 ほんまひどい話やね(笑)、いまから思えば。 ー当時の2枚もほんとはもっと良くできたと思うけど、俺は今回の再発でかなり満足したよ(笑)、なんせ今回はほぼ全部自分でできたしね。 楠 そうやな、今回「ハッピー・ナウ?」とかムチャ音よくなってるよな。 ー『タングルド・アップ』が出て、94年以降はどんな活動してたの? 楠 まだベンと高原やね、東京もシェルターとかでやってるしな。 中 そうやな、最後の音源は95年やもんな。 ーそれはどこ? 中 Queや、自分の企画やろ。 ーQueならそうだね、どんなバンドが一緒にでてたんだろう? 楠 まったく覚えてないなー、こないだのペニー・アーケードのときがはじめてかと思ったぐらい(笑)。 ー95年か、でも95年なら俺もまだUKPにいたからやっててもおかしくないね。 楠 ヴィナペ? ーヴィーナス・ペーターは94年に解散してるからないな、沖野くんのソロかな?96年はどうしてた? 楠 まだやってるな、菅野っていうドラムやったけど、覚えてない? ーとくに解散っていう宣言もなくやめたってこと?どうして? 楠 なんとなくやなー、あとショウちゃんがケガしたっていうのもあったな。 ーそうだね、俺も95年からはデボネアと疎遠になってるね。ダンス・ミュージックにはまりはじめたのが95年の夏だし。 中 ケガしたのは93年やで、『タングルド・アップ』作ってすぐかな。 楠 えー、そうなんや。俺の記憶も相当あやふやになってるわ。あ、思い出した、東京でシアター・ブルックと一緒にやってるよ。 ーあー、それはあるかも。俺その時期にシアター・ブルックのアルバム1枚作ってるから。 楠 そうなんや、そんなら多分シアター・ブルックやわ。 ー96年ぐらいに、ショウちゃんスタジオで働いてなかった? 中 俺がやってたんや、オーナーで、そのスタジオ。 ーそうなんだ。 楠 居抜きでやってたんや。俺らがずっと付き合ってたギター屋のオッサンがやってて、それをショウちゃんがそのまま譲ってもらって。 ーなるほど、ケンちゃんは? 楠 俺ももう普通に働いてた。 ーギターも弾かずに? 楠 96年あたりならそうやね。 ーそれから20年かー。 楠 そうや!俺ほんまに20年ギター触ってなかったもん。こないだのペニー・アーケードのときまで(笑)。 中 俺は触ってんで。 ーショウちゃんのスタジオはいつまで続いたの? 中 94年から2010年ぐらいまで、この店をはじめるまでやな。

ーそうか、ちょっと話を戻すけど『ぼうしレーベル』は知り合いだったの? 中 いや知り合いちゃうよ。 楠 そうや、当時俺らは知り合いじゃなかったよ。 ービッグバンでのアノラック・パーティーは呼ばれたってことなんだ。 楠 そう、それまで知らんかった。 ーたまたま関西でやるからぼうしレーベルの山内さんが声かけてくれたんだ。 楠 そうそう、アッコちゃんやな。 寺 そう山内さん! ーデボネアはb-flowerと知り合いじゃあないんだ。 楠 当時はまったく知らんかったよ。 中 俺らほんまに友達おらんねん。もともとつるんでたバンドもほぼいなかったし、90年以降にサイド・ディッシュと金魚(シークレット・ゴールフィッシュ)ぐらいやな。 ーそうなんだ、アノラック・パーティー以前はどんなところでライブやってたの? 楠 ファンダンゴかな。 ーどんなバンドと一緒にやってた? 楠 もう適当、ライブハウスが決めるような。 ーじゃあ、話もしないし…。 楠 そうやな、楽屋でどうもってぐらい。 中 どうもも言わんかった。 ーアノラック・パーティーが88年だよね、そのあともしばらく一緒にやるバンドも特にいないんだね。サイド・ディッシュとはどこで知り合ったの? 中 喫茶店や、メリーチェインが流れてたわ。 楠 それでこんなん好きなんや、俺らバンドやってんけど、みたいな。それでもむこうも俺らもバンドやってるいうて。 ーサイド・ディッシュは最初から二人? 中 最初3人やってん、破天荒なやつがいてな。 楠 そう、メチャクチャなやつがおって。 ーそれが89年ぐらい。 楠 いや、最初は薄田くんが紹介してくれたんやわ。彼がウッドストックいうレコード屋にいて、俺らもサイド・デッシュも常連やったしな。そこに俺らのプロデュースをしてくれた井出ちゃんもおった。で、サイド・ディッシュがバイトしてた喫茶店はそこから徒歩1分。 ーアノラック・パーティーがあって、サイド・ディッシュとも知り合って、シークレットが出てきてちょっとしたシーンみたいになってきたんじゃない? 楠 いやいや、そんなんないよ。大阪はまったくなかった。特に俺らと話しをしたいっていうやつはほとんどおらんかったんじゃないかな。そうや!ラフィアンズ知ってる?あとはポートっていうバンドぐらい。 ーラフィアンズは知ってる。 中 ラフィアンズは最高やったで、再発したらええやん。 ーラフィアンズはどこから出てた? 中 当時は自主のテープしかないな、90年代はグランジとかオルタナとかになってまって。80年代のラフィアンズはええよ、もろスミス。 ー俺はもうグランジっぽくなってるラフィアンズしか知らない。 中 ぜんぜんちゃうよ。 ーそういう意味ではまったく孤立してたデボネアに声かけてくれたぼうしレーベルありがたいね。 楠 そうやね、多分ジャンゴ繋がりなんやろうな。 ー91~92年あたりの関西はネロリーズやb-flowerがいたと思うけど、一緒にはやってないんだ。 楠 b-flowerは機会がなかったなー、ネロリーズは何回かやってるよ。それもジャンゴ繋がりやな。 ー彼女たちは当時高校生だったよね。 寺 そうやね。 楠 その時期でも大阪はシーンみたいにはなってなかった。 中 俺らが知らんだけちゃうの?友達いなかったしな。 楠 80年代はD'fとかかな。 ーおー、D’fは俺も好きだったよ。D’fの再発って俺がやってるんだよ。 楠 え、UKPからD'f出てんの?知らんかった、ほんま? ーD'fと一緒にライブやってるの? 楠 一回だけやってる、俺らの大学の学園祭。あれ何年? 中 89年ちゃう。 楠 いやー、もっと前やろ、87年ぐらいのはずやわ。 ー87か88年で活動休止してるんじゃないかな? 楠 そのころやな。 ー俺D’fの大ファンだったんだよ、ライブ見れなかったけど。 中 ルースターズやらブルー・トニックやらな。 ーそうだね。フリッパーズのデビュー・アルバムは当時聴いた? 中 俺買うたで。 ーどうだった? 中 素晴らしい思ったわ、ほんま。いまでも愛聴盤や。 楠 当時あんなレコードつくるやつおらんかったしな。 中 そうな、自主制作レベルじゃなしにな。こんなんがちゃんとレコード会社から出てるっていうのが衝撃的やったわ。 ーそうだね。ほんとに驚いたよね、このレコードは。 ー紀平くんと知り合ったのはビッグバン? 楠 そうやな。 中 楽しかったなー、あの時期は。ほんでイズルらともその流れで知り合ったはずや。毎週おったからな、ビッグバンに。 ー楽しかったね、東京もそうだったよ。とにかくレコード屋とちいさなクラブね、たまにクアトロで外タレ。 ー当時は来日公演も多かったしね。 中 いまはもうへたすりゃ大阪もやらんで東京だけも多いしな。
ーショウちゃんが最初に見たコンサートってない? 中 俺、シン・リジー。 楠 俺はAC/DCや。 寺 俺ウルトラ・ヴォックス。 ーえ、ウルトラ・ヴォックスって79年ぐらい? 寺 80年かな。 ー中学生だよね、会場どこ? 寺 厚生年金。 ーそれって『ヴィエナ』のとき?「ニューヨーロピアン」がヒットした? 寺 そう、その時。ミッジ・ユーロのウルトラ・ヴォックス。 中 おれはその前にミッジ・ユーロ見てんで、シン・リジーで。 ーえ、ミッジ・ユーロってシン・リジーにいたことあるの? 中 シン・リジーにゲイリー・ムーアが入って『ブラック・ローズ』っていうアルバムだしてすぐの来日、直前でゲイリー・ムーアが抜けて、代役でミッジ・ユーロが弾いたのよ、俺は当時ミッジ・ユーロ知らんかったけど(笑)。 ー『ブラック・ローズ』ツアーでゲイリー・ムーアいないんだ!詐欺だね。 中 79年のこと、証拠もあるよ。 ー昔のチケットとってあるんだ!すごいね、これ写真とらせて。
中 これが最初の外タレ、その前にペドロ・アンド・カプリシャスは見てるけど(笑)。
ーそうか、クラッシュの来日見てるんだもんね。
寺 俺もジャムは見てるよ。 中 俺も見てるよ、当時知り合いちゃうけど、おったな同じ場所に(笑)。 ーコクトー・ツインズも見てるのか!すごいね。
中 84~5年からは同じやろ。

ースミスの登場からはそうだね。当時大阪で輸入盤を扱うお店はどこだったの? 楠 ウッドストックやね、あと新星堂。もし俺らが東京おったらどえらいことになるよ。 中 そうや!大阪でもこんなんあん��りおらんやろう、マニアックなやつ。 楠 俺らがはじめて東京でヴィニール行った時の興奮状態ときたら!あれはいまだに忘れられんわ。 中 あれは大阪ではありえへんねん、あんなレコード屋があるのが奇跡や。もう店内でケンとレコードの奪い合いよ。 楠 そうやったね、どっちが先に見つけるか。 ーそうだね、ヴィニールができて新宿レコードもウッドストックもUKエジソンもぜんぶなぎ倒していった感じはあったね。 中 あの公園の向こうっ側やろ、ウッドストックの向かい。 ーそうそう、はじめはね。 中 俺はいまでもレコードの話が一番楽しいねん。 楠 当時もな、東京でライブがあると前乗りしてレコード屋やからな。 中 ヨダちゃんには悪いけど、ライブよりもレコード屋の方が大事やったわ(笑)。 楠 そうやったな、ヴィニールの前に車止めて店開くのまってたわ。 中 そんで開店したらレコードの取り合いや。俺あれまだおぼえてる、シャックの『ハイ・ライズ・ロー・ライフ』の冊子のついてるやつ!ジャンケンして俺が勝ったやん。 楠 あー、あのプレスリリースのついてたやつな!思い出した!俺はあれ、3日はくやしくて寝られんかった(笑)。 中 俺が買うてん、うれしかったわー。ほんまレコードの話が一番楽しいな! 楠 ほんで『ジャスト・ア・ガール』の話かいな? 中 その話してやりいな、ヨダタロウその話知らんし(笑) 楠 あー、そうやな。ペイルの『ジャスト・ア・ガール』の7インチは当時誰も持ってへんかった。 中 そうや、存在も知らんかった時にやな。 ーそうか、ヴァージンじゃなくてクレプスキュールだから。 楠 そん時や、俺がレンタル・レコードで見つけてしもうて(笑)。なんやこれ、こんなシングルあったか〜思うて、そんでお店に売ってくれいうて直談判して、5千円出すいうて。いまでいうたら5千円は普通やけど、あの頃あの年で5千円は大変なことよ。そんでなんとか譲ってもらって、みんなこんなん知ったら驚くだろうな思うて、みんなに今日すごいの手に入れた〜って自慢して。みんな、うわ〜なにこれってなってん。そんでそれからちょっとしてやな…。 中 俺が難波の新星堂に行ってん、もうレコードの販売やめるいうて安売りしててん、全部100円でええわみたいな。そしたらそこに『ジャスト・ア・ガール』が出てきてん(笑)。しかも新品やで!これケンが5千円だしたやつや!って。 ー新星堂は当時クレプスキュールの流通やってたね、それで。 楠 しかもあのシングルオリジナルと再発ともう一種類の3タイプあって、オリジナルはジャケットの星が型押しや、次が印刷でそのあとなにもない白になるんやけど。 中 俺が100円で買うたやつは黒の印刷やったんけど、ケンのは型押しのファースト・プレスや。よかったな(笑)。けど俺が100円で買うてきたあと、ケンが一週間ぐらい口きいてくれへんかった(笑)。 楠 『ジャスト・ア・ガール』って聞くだけでいややったわ。 中 けどイギリスいくとあれはなんぼでもあったわ、普通に2ポンドぐらいで売ってたな。マイケル・ヘッドにサインしてもろうたしな。あの人まだ俺らのこと覚えてるんちゃうかな。 楠 覚えてるやろう、それは。 中 シャックの1stはほんと腐るほど聴いたな、88年やろ。 楠 俺はデボネアの元ネタがありすぎてあんまり��けへんねん(笑)。 中 そうやな、アルバム聴いたら思い出すこといっぱいあるな。 ー88年はローゼズが『エレファント・ストーン』だすじゃない、聴いてた? 中 もちろん、88年にシングル買うてたな。 楠 この頃から7と12両方買うようになってん(笑)。 中 またいうけど、東京はほんま違ったわ。 ーなにが? 中 レコード屋、レコードの話が一番楽しいわ(笑)。 ーそうだね、俺もあんなにしょっちゅうレコード屋に行った時期はあとにもないよ。 中 俺らはニュー・オーダーのコレクターやってん、そのおかげでマンチェの時期に打ち込みに抵抗がなかってん。 ーあー、俺が一度ショウちゃんの家に行った時もニュー・オーダーのコレクション見せられたね。でもほんとに特殊な集団だよね?デボネアの周辺だけでしょ、そういう話してんの。 中 友達おらんからな。 ー大阪にはモッズシーンはなかったの?東京は80年代後半から90年代前半にかけて新宿ジャム周辺のモッズ・シーンとギター・ポップ・シーンが合流していくような感じだったんだけど。 中 大阪にモッズ・シーンはないな、ファンション的な人らはおったとおもうけど音楽はないと思う。 楠 アメ村あたりにベスパ乗ってるやつらはいたけど、音楽の人たちじゃあないな。 中 あいつら昔の曲しか聴けへんもん。 ーそうなんだよね、確かに。89年だったら『ゼア・シー・ゴーズ』聴くのが正しいもんな。89年、90年、91年はいつも話題のレコードが出てたじゃない、とにかく毎週チェックしないといけないぐらい。 中 楽しかったわー、毎日が(笑)。とにかくケンの髪型がすごかったで、ロンゲ(笑)。毎月誰かが来日公演してたしな。 ーそうだね、ライド、マイブラ、プライマル、メリーチェイン、シャーラタンズ、インスパ、マンデイズ、ティーンエイジ・ファンクラブ、ラーズ、ローゼズ、ジーザス・ジョーンズ、ラッシュ、セント・エチエンヌ、ペイル・セインツやノースサイドまでね。 中 そうやな全部見たよ、ほんまによかった時期は89年と90年やな。
ー90年はイギリスに行くよね、どんなライブ見た? 中 見た見た、見倒したよ。アイシクル・ワークス2回とか(笑)。しょうもなかったー、異様に男臭かってん。俺らが思ってるアイシクル・ワークスじゃなかってん。バンド・オブ・ホーリー・ジョイとかファティマ・マンションやライラック・タイムも見たな。ライラック・タイムはオール・アバウト・イブの前座やってん。あとバイブルのフロントの2人がやっててメチャ良かってん、あれが『エターニティー・ワン』に影響してるわ。 楠 あれはほんまに感動した、バンドはもうなくなってんけど2人でミーンフィドラーに出ててな。 中 あとハウス・オブ・ラブも見たな、キルバーンで。エブリシング・バット・ザ・ガールのロイヤル・アルバート・ホールは爆睡やった。ブリクストンでスティッフ・リトル・フィンガーズあれは怖かってん、道で車が燃えてた(笑)。 中 あの時町中ライドのポスターだらけや、まだアルバムも出てないのに。 ーシングル2枚だけでいったよね。 中 あの頃のロンドンにまたいきたいわー。 ーどれぐらい行ってたの? 楠 俺は3ヶ月 中 俺は半年ぐらいおったな、当時のマネージャーの横井から帰ってこい言う電話がきて。その一週間後ぐらいにシャックのライブがサブタレニアンであってん、見ずに帰ったわ、よう覚えてる。 ー帰国の理由がミスチルの収録されたコンピレーションのレコーディングね、スウィッチの。 中 そう。 楠 まあそのおかげで「オールモスト・リーチド」がちゃんとレコーディングできてよかったんちゃう。当時は好きやなかったけど、今聴くと『タングルド・アップ』よりよっぽどマシやで(笑)。
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大森立嗣 × 佐々木ののか「映画『タロウのバカ』を語り尽くす夜」 映画『タロウのバカ』公開記念
『さよなら渓谷』『セトウツミ』『日日是好日』など様々な話題作を手掛けてきた大森立嗣監督の最新作『タロウのバカ』が全国順次公開中です。
タロウ、エージ、スギオ。 壊れゆく世界(社会)を生きる3人の少年たちの刹那的な輝きを描く、獰猛な青春映画。
大森立嗣監督が本来はデビュー作として構想していた渾身のオリジナル脚本によるもので、公開後、賛否両論が巻き起こっている問題作です。
大森立嗣監督と文筆家の佐々木ののかさんをゲストにお迎えし、『タロウのバカ』について、一緒に深く語り合えるトークイベントを実施します。
ぜひご参加ください!
【出演者プロフィール】 大森立嗣(おおもり・たつし) 1970年、東京都出身。 大学時代に入った映画サークルがきっかけで自主映画を作り始め、卒業後は俳優として活動しながら荒井晴彦、阪本順治らの現場に助監督として参加。 その後、荒戸源次郎に師事し、「赤目四十八瀧心中未遂」(03)の参加を経て、2005年「ゲルマニウムの夜」で監督デビュー。 第59回ロカルノ国際映画祭コンペティション部門など多くの映画祭に正式出品され、国内外で高い評価を受ける。 近年も精力的に製作を続け、「日日是好日」(18)では、第43回報知映画賞監督賞を受賞する。 その他の監督作として「まほろ駅前多田便利軒」(11)、「さよなら渓谷」「ぼっちゃん」(13)「まほろ駅前狂騒曲」(14)、「セトウツミ」(16)、「光」(17)、「母を亡くした時、 僕は遺骨を食べたいと思った。」(18)がある。
佐々木ののか(ささき・ののか) 文筆家・ライター。 「家族と性愛」をメインテーマにしたエッセイや取材記事の執筆を生業にしている。 そのほか映像のディレクションや映画・演劇のアフタートーク登壇、文章を転写した服の制作など、ジャンルを越境して自由に活動している。 Twitter @sasakinonoka note
時間 _ 20:00~22:00 (19:30開場) 場所 _ 本屋B&B 東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F ▼入場料 ■前売1,500yen + 1 drink order ■当日店頭2,000yen + 1 drink order それぞれ税別
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THE REBIRTH OF MIYAGI KOGYO PROJECT
新生MIYAGI KOGYOをデビューさせよう!!
ワールドフットウェアギャラリー全店開催
(神宮前本店・銀座店・GINZASIX店)
http://www.wfg-net.com
現在開催中のTHE REBIRTH OF MIYAGI KOGYO PROJECT(2017.10/1~10/31)では、お陰様でたくさんのお客様から様々な貴重な”声”を頂いています。頂いたすべての”声”は、開発に携わる宮城興業とWorld Footwear Galleryにて、目を通させて頂き、新生MIYAGI KOGYOの誕生に役立たせさせて頂きます。
開催中のプロジェクトを通して、私たちは、もっと多くのMIYAGI KOGYOファンの方とお話しがしたいと思いました。そして、より多くの声をお聞かせ頂きたいと考えました。
10月1日から10月31日までのプロジェクトで頂いた”声”は、まずは来年の春を目標とする新生MIYAGI KOGYOの第一弾に反映をさせて頂き、引き続き、さらに多くの声を頂きながら、順次誕生していくモデルへも反映させて頂きたいと考えています。
引き続き、ぜひ皆さんの様々なご意見や思いをお聞かせください。
なお、現行モデルにつきましては、人気のモデルは在庫数が残りわずかになっております。お客様のサイズに見合うご希望のモデルが無い場合もありますが、何卒ご了承ください。また、10月31日以降に関しましては、第二弾、第三弾の新生モデルへの反映としまして、現行モデルをお買い上げ頂けないお客様からも、ぜひ多くの”声”を頂きたいと思います。どうぞ足をお運び頂ければ幸いです。1人でも多くのMIYAGI KOGYOファンの方のご来店をお待ちいたします。
THE REBIRTH OF MIYAGI KOGYO PROJECT
ワールドフットウェアギャラリー全店開催 (神宮前本店・銀座店・GINZASIX店)http://www.wfg-net.com
<対象>
- 以下、ご来店頂いたすべてのお客様対象 -
①現行モデルおよび新モデルへの様々なご意見頂き、新モデルへ反映させて頂きます。
②モデル名の命名権!? みなさんからモデル名を募集します!!
- 以下、現行モデルをご購入頂くお客様対象 -
①現 MIYAGI KOGYO のモデル達を最後に購入頂けるチャンス。もちろんサイズにも限りがありますので、本当に!本当に!お早めに!! (店舗により取扱商品が異なります)*
②期間中、対象のモデルがPROJECT価格(¥15,000引き)になります。
③来年の新生 MIYAGI KOGYOの8%OFFチケットがもらえる!!
<概要>
国産革靴ブームを牽引してきたMIYAGI KOGYO…
今ここに来て、宮城興業とWorld Footwear Galleryは、ファンの皆さまと共により高みを目指したMIYAGI KOGYOを2018年デビュー致します。
より皆様のご期待に応えられますようにラスト(木型)や素材そのものから見直し、新たなモデルを発表致します。
その新生MIYAGI KOGYOを誕生させるに���たり、その誕生前夜祭を開催致します。日本製革靴ブームの火付け役となった、数々の名作が手に入るのもこれが最後となり、MIYAGI KOGYOブランドの対象商品がプロジェクトイベント価格となります。また、新生MIYAGI KOGYOが誕生した際にお使いいただける8%OFFチケットの配布、皆様からモデル名の募集と、内容も盛り沢山です。
ワールドフットウェアギャラリーでは常に時代の先端を行く靴を皆様に提供していきたいと思います。そして、それは常に皆様の求めるものに寄り添ったものでいたいと考えております。このイベントは皆様の声が直接反映されるイベントです。ぜひお見逃しなく!
THE MIYAGI KOGYO
日本屈指のシューメーカー宮城興業
宮城興業株式会社は1941年に宮城県仙台市にて創業しました。その後山形県南陽市で再建しました。1964年には、イギリスのA.Baker&Sonsと技術提携するなど、積極的に本場の技術を取り入れ成長してきました。現在は約80名で日本屈指のシューメーカーとしての立場を確立しています。現場の若手の中にはヨーロッパで修業を積んできた者もおり、多くは独立を目指しています。彼らには就業時間外なら工場の機械、部材が自由に使えるという環境が整えられており、夜遅くまで作業に励んでいます。 受け継がれた技術の集大成ともいえるものが2007年に自社の名前を冠したブランド、 ‘’MIYAGI KOGYO/ミヤギコウギョウ’’です。 親指側は真っ直ぐで小指側がカーブする「インサイドストレート」という足の形に忠実なフォルムを採用しており、見た目が細いわりには足に無理のない設計となっています。
“ミヤギコウギョウ”とワールドフットウェアギャラリー
“MIYAGI KOGYO/ミヤギコウギョウ”はワールドフットウェアギャラリーと宮城興業の協力で立ち上げられたブランド。当時宮城興業の東京駐在だった荒井弘史氏に「1930代のアメリカ靴みたいに」というリクエストで木型を削ってもらうことから始まりました。荒井氏はインポート靴に深い関心はなかったが、オーソペディックシューズ(足の治療や機能補助に使われる整形外科靴)の研究に熱心で、それが活かせたようです。 ブランド名について、WFGの下請けという形ではなく欧米のメーカーのような形で宮城興業の名前を出したネーミングしようというWFGの意見に対し、宮城興業側は「宮城興業」という名を使うのに抵抗がありました。そこで、カタカナとアルファベットの「ミヤギコウギョウ」「MIYAGI KOGYO」というブランド名が採用されます。

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“MIYAGI KOGYO/ミヤギコウギョウ”のデビュー
MIYAGI KOGYOが圧倒的な人気を得た理由として、同ブランドの代表的な3モデルの大きな役割がありました。以下の3モデルには数々のMIYAGI KOGYOの人気の理由が詰まっています。
① BENIBANA “ベニバナ”(ストレートチップ)
② KAKITSUBATA “カキツバタ”(ダブルモンク)
③ FUJIBANA “フジバナ”(Uチップ)
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ベニバナは古いアメリカやイギリス靴を彷彿させるようなコンパクトなキャップサイズとエッグトウが、ディテールに奥深さを与え、シンプル極まりないデザインであるストレートチップに華を添えました。 インサイドストレートのラスト「AR76D」を使用することにより、見た目もすっきりとした清楚な印象になっています。細身な印象ですが、人間の足に沿った作りになっているので、非常に履き心地の良いものになっています。 嗜好性だけでなく、実用性に富んでいるところが人気を確かなものとする要因の一つです。 (※ラストAR76Dは現:荒井弘史靴研究所の代表である、荒井弘史氏が当時設計したラスト)

カキツバタはダブルモンクがまだ日本の一般のビジネスシーンに浸透する以前から展���が始まりました。ベニバナと同じ「AR76D」ラストによって、コンパクトで美しい曲線とバックルのバランスの良さが、人気を博し、ダブルモンクのデザインが世の中に広く出回る一端を担ったと私たちは自負しております。

フジバナは日本の職人の手仕事がいかんなく発揮されたモデルです。 つま先に施されたスキンステッチは(イギリス某有名ブランドの看板モデル)の作りに比肩するものです。 スキンステッチは熟練の職人による手仕事でなければ作れません。ここに日本靴への再発見を見出すことができたのです。
以上代表3モデルを元にMIYAGI KOGYOが支持された理由を3点にまとめました。
・本場のアメリカ靴、イギリス靴に見られるようなディテールの奥深さと時代を牽引する力
・履き心地の良さという実用性の高さ
・嗜好性と実用性を実現させた日本の職人業への再発見
これらの点は、靴好きの審美眼にかない、デビュー間もない頃より、幾多のファッション雑誌に「インポートシューズに比肩する日本製本格靴」として、大きく取り上げられました。また、それでいて価格面で良心的だったことも、時代を動かす力となりました。 このMIYAGI KOGYOブランドの誕生は、生粋の靴愛好家の目線を、日本製へと動かしました。つまり日本靴ブームへの火付け役となったのです。 そして今なお、はるばる遠方からMIYAGI KOGYOの靴をお求めになっていらっしゃる方も多いのです。
今、この3モデルを代表とするこれまでのモデルは役目を終えようとし、MIYAGI KOGYOは次世代への扉を開けようとしています。
ぜひ皆様のお声をお聞かせください!!
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