#記憶力ないからこそ残しときたいことがありすぎてなに言うてるからわからんtumbler
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naga-segoto · 2 years ago
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やべえ、ねみい、もう限界来そうやあって思ってた最後あたり。玉さんも心配してくれて?切りたくて?ほらもう寝なよって言うてくれるところを、でももうちょっと話しましょって引き伸ばしまくって4時間玉さん。脳みそは動いてるけど目はもう開いてへんくらいの時に、俺以上の俺おらんからちゃんと捕まえといてくださいよ的なこと言うたら、「廉は廉だよねえ、俺以上の玉さんはいないかもねって俺も言っとくかなぁ」って。あしらわれるけどそれでいいし、それがいい。わかりづらいけど相思相愛な俺と玉さんでした。そんなことないわって怒られても無視しよ。絶対次は1ヶ月、1ヶ月半くらいに玉さんの予定抑える!3ヶ月空いたら人見知りされたから。初電話から4ヶ月記念日8/4は玉さんの映画公開の日!マイエレメント、一緒にレイトショーしてくれるかは玉さんの気分次第。花粉症の話も、コナンの話も、骨折の話も、味噌の話も、恋バナも全部楽しかったー。
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itokawa-noe · 2 years ago
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パレスチナ料理を食べてきました(中編):高橋美香さんのスライドトーク
 ★追記:申し訳ありません。tumblerのアカウントを持っていないと記事が途中までしか読めないようなので、noteに記事を移植しました。こちらからお読みいただけますと助かります…
この記事は「パレスチナ料理を食べてきました(前編):申し込みから入店まで」のつづきです。
「パレスチナ料理を食べてきました(後編):いただきます!」へとつづきます。
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●スライドトーク
 美香さんはご自身で撮られた写真をスライドに映しながら、ヨルダン川西岸地区の、ヘブロン、ビリン、ジェニン難民キャンプという三つの地域についてお話をしてくださいました。以下の文章は、伺った内容の一部を私の視点でまとめたものです。
・記憶や理解の不足を補うために、ネット上の記事や美香さんの著書『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版)を参照しました。当日のお話とは若干の差異があることをご了承ください。
・写真を共有しなければ伝わりにくい話や美香さんご自身の言葉で聞いていただきたいエピソードは除きました。後日アーカイブが公開されるそうなので、そちらをぜひ観てください!!!
 よろしくお願いいたします。
 
【はじめに】
 「今起きていることは10月7日に唐突にはじまったことではない」というお話から、トークは始まりました。私の記憶を文字に起こすかわりに、同じ内容について美香さんご自身が書かれた文章を引用します。
"パレスチナの状況がきちんと日本に伝えられることは少なく、空爆や「テロ」のときだけ一時的に注目されてその部分だけを切り取られて、まるで「突然起きたものごと」のように報じられるということが少なくありません。根本的な問題である占領・封鎖・入植・人権侵害といった「問題」を押しつけられたまま、公正な解決もなされず、そのなかでひとびとのいとなみが続いていること、ましてや、そのいとなみがどんなものであるのかということが報じられることは少ないように思います。" (高橋美香『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版)p43より)
「『パレスチナ』と言われて、みなさんがイメージする地図はどれですか?」
 問いかけとともに映しだされたのは、4つの地図でした。
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(当日使用された画像と同じ内容を示す図をhttps://altertrade.jp/archives/11771 から転載しました)
 緑色の部分がパレスチナの領土です。イスラエルによる侵攻が進むにつれて面積が減り、現在はすっかり狭くなった土地が、さらに虫食い状態になっています。
“虫食いの主な原因が入植地と分離壁の建設です。入植地は国際法では違法とされているにもかかわらず、今や西岸地区では200の入植地に70万人のイスラエル人が住むまでに拡大しています。” (https://altertrade.jp/archives/11771 より)
 この分離壁によって分断された街のひとつが、ヘブロンでした。
・分離壁:「パレスチナ人テロリストの侵入を防ぐ」という名目でイスラエルが建設した高い壁。多くの場所で、境界線を越えてパレスチナに入りこみ、その土地を奪っている。
・入植地:イスラエルが占領地に建設する国際法違反のユダヤ人のための住宅など。
(高橋美香『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版)p6より)
【へブロン】
 ヘブロンという地名には聞き覚えがありました。今回のランチトリップの前日に参加した「<パレスチナ>を生きる人々を想う学生若者有志の会」主催のデモで、ヘブロン出身の方のスピーチを聞いていたのです。
「子どもの頃の自分は、人が大人になる前に死ぬのを当たり前のことだと思っていた。パレスチナから出て初めて、外の世界ではそうでないことを知った。ガザの子どもたちは今も、人が大人になる前に死ぬのが当たり前なんかじゃないことを、知らずにいる」
 この言葉が頭から消えず、帰りの電車でヘブロンについての記事を読みました。その土地で暮らす人たちが入植者によって自由と尊厳と命が奪われつづけてきたことを知りました。
 ですが、美香さんの写真と言葉を通じて知る占領と入植の実態は、私の漠然とした想像を遥かに超えるものでした。
 上述の記事にも出てきたシュハダ通りの写真を、美香さんは見せてくださいました。栄えていたというかつての面影はどこにもなく、今はゴーストタウンと化しているとのこと。通りに面した店は軒並み閉店に追いやられ、もともと一階建てだった建物の上に建て増しする形で作られた二階に、入植者が住みつきました。一階と二階のあいだには、二階から投げ捨てられるゴミへの対策として金網が張り巡らされています。
↓は参考画像です。美香さんが見せてくださったのと似た状況を撮った写真を(https://x.com/O_toshihiro/status/1719027240498085921?s=20)からお借りしました。
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 屋上に設置された生活用水を溜めるための貯水タンクを銃撃して穴を開ける、台所に火炎瓶を投げ込むなどといった入植者による暴力の例が、写真とともに次から次へと挙げられました。こうした命に関わる“嫌がらせ”がひっきりなしに行われている。それがヘブロンの日常なのだそうです。
【ビリン村】
 ビリン村と、後述するジェニン難民キャンプは、美香さんが長期にわたって取材されている土地です。ビリンではアブーラハマ家、ジェニンではアワード家の一員として生活をともにしながら、日々の暮らしを撮りつづけてきました。
 ビリン村のアブーラハマ一家は、農業やヤギの放牧、養蜂などを生業としています。土地に根づいた暮らしはしかし、入植者によって破壊されました。一家の畑がトラックで踏み荒らされるのを、イスラエルの兵士は止めなかったどころか守るようにエスコートしていたそうです。
 村の土地を断ち切る形で鉄条網の分離壁がはりめぐらされ、その向こう、壁を通して見える目と鼻の先に、入植地が作られました。
 週に一度、毎週金曜日に、この分離壁に反対するデモが行われるようになりました。壁の前に立って声を上げる住民に向かって、銃弾、催涙弾、家畜の排泄部と化学薬品を混ぜた汚水が飛んでくる。デモの参加者は昼のあいだに記録され、夜中に兵士が家に押し入ってきて連行されたり、逮捕には及ばずとも嫌がらせを��けたりするそうです。催涙弾のガスを吸いすぎて亡くなった方の話や、本人はなんの暴力もふるっていないにも関わらず「言動が周囲の暴力を誘発する」として17ヶ月のあいだ収監された方の話など、耳を疑うような話がつづきました。
 かつて鉄条網だった分離壁は、今ではコンクリートの巨大な壁になっています。命を賭けてデモをしたところで堅固な壁は壊せないという諦念から、デモの参加者はめっきり少なくなったそうです。
 そんななか、今も毎週デモに参加している人の一人がイランさんです。イランさんはイスラエル人。マイクとスピーカーを持ってやってきて、デモを妨害する兵士たちに向かってヘブライ語で「これが国を守るということか?」と呼びかけるのだそうです。
 「少数ではあるけれど、そういう人もいます」美香さんは仰いました。「イスラエル対パレスチナという構図では、とらえきれないものがあります」とも。
 ビリン村の話のなかで特に心に残ったのは、アブーラハマ家の息子ハムディさんの言葉です。
「よそからここを訪ねてくる人たちはみんな、金曜日のデモだけ見て帰ってゆく。ミカは日常の暮らしを撮れ。そうでないと、なぜみんなが命がけでデモをやるのかわからないだろう」
 そうした日常の話もここに書けたらよかったのですが、美香さんが親しい家族や友人のこととして話してくださったものを私が文字にすると、大切なものが薄まってただの情報になってしまいます。ですのでそちらはぜひ、アーカイブや美香さんのご著書でふれてみてください。ビリン村での日々については『パレスチナ そこにある日常』(未来社)に書かれているそうです。
(できることなら、この文章を読んでくださっているあなたの脳内のスクリーンに美香さんの写真を投影したいです。人物を撮ったものは特に、撮られる側のみなさんが自然なやわらかいお顔をされているものが多くて、すごくよいんですよ。たとえば、ハムディさんがお母さんを抱きしめてキスするところを撮った一枚。ハムディさんとお母さんのあいだの、そ��から撮られるおふたりと撮る美香さんのあいだの、おたがいを大切に思う気持ちが伝わってきて、大好きです。本の表紙になっているので、よかったらこれだけでも見てください)
 入植者のトラックによって土地を踏み荒らされたアブーラハマ一家ですが、その後長い時間をかけて畑を作り直し、家畜小屋を建て、客人にコーヒーをふるまうためのしつらえを整えたとのこと。生い茂る緑にかこまれて飲むコーヒーは、とてもおいしそうでした。
 あの畑は今、どうなっているのだろうか。そろそろ見にゆかなければ。ビリン村の話を、美香さんはそんな言葉で結ばれました。
【ジェニン難民キャンプ】
 ジェニン難民キャンプは、イスラエル建国によって追放された76万人の���レスチナ人の住居のひとつとして、1953年に作られました。当初は布製のテントだった「仮住まい」は、時とともにコンクリートの建物へと姿を変え、現在はひとつの街のようになっています。
 この地域はシオニストのあいだで「テロリストの温床」と目され攻撃に晒されつづけてきました。わけても2002年の第2次インティファーダの際には、イスラエル軍の侵攻によって多くの人が殺されました。こちらの写真は、そのとき破壊された建物の瓦礫や自動車の残骸を集めて作られた、馬のモニュメントです。
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(画像は https://note.com/yuki_phototabi/n/n1e4d6e2f0f91 からお借りしました)
 馬はキャンプの入り口に立って当時の記憶を伝えていましたが、去る10月末、イスラエル軍によって運び去られました。
 ここジェニンで、美香さんはアワード家の人たちと生活をともにしました。狭い家にみんなで雑魚寝、朝は毎日「だれか、朝食のパンを買うための1シェケルコインを持ってない? ポケットのなかとか布団の下とかに?」とごそごそ探しまわるところからはじまる、そんな一家ですが、美香さんが出そうとする自分のぶんの生活費は決して受け取ろうとしなかったそうです。
 こちらのアワード家とその周辺の人たちにまつわるエピソードを、美香さんはごくごく近しい大切な人たちのこととして、生き生きと語ってくださいました。なかでも忘れ難いのが、アワード家の次男のムハンマドさんと、その親友マジドさんの話です。
 幼馴染のふたりは、大人になってからもトロピカーナというレストランでともに働いていました。仕事が終わったあとはいったん各々の家に帰るのですが、シャワーを浴びて着替えてからまた落ちあい、つれだって遊びに出かけるのが日課だったそうです。「ほんとうにね、朝から��までずっと一緒で。ムハンマドとマジドは兄弟よりも仲がいいんですよ」ちょっぴり飽きれるような、とびきり眩しいものをみるような、そんな表情で美香さんは話してくださいました。
 現在、ムハンマドさんはトロピカーナとは別の店で働いています。マジドさんとの思い出があちこちに残った職場に勤め続けるのが辛くて、仕事を変えなければならなかったためです。
 マジドさんは、キャンプに侵入してきたイスラエル兵に射殺されました。ただその場に居あわせたがために、銃撃に巻きこまれて亡くなったのです。
 マジドさんだけではありません。別の幼馴染のハムザさんも、「キャンプを占領者から守るために」と戦闘員になり、殺されました。マジドさんやハムザさんのような直接的な形ではないものの、一家のお父さんのイマードさんもまた、第二次インティファーダの際にイスラエル軍から受けた尋問と暴行に心と身体を蝕まれ、数年の後に亡くなっています。大切なものを守るために戦闘員になった若者たちは「テロリスト」の烙印を押され、その捜索過程で身内が殺されることも珍しくないそうです。(戦闘員の親戚の家にミサイルが撃ち込まれて破壊された様子を、スライドで見ました)
「ジェニン難民キャンプにも日常はあります。でもその日常のなかで、一人、二人、三人、ぽつんぽつんと死んでゆく。殺されてゆくんです」
 静かに語る美香さんを前に思い出したのは、前日のデモで聞いたスピーチでした。
「子どもの頃の自分は、人が大人になる前に死ぬのを当たり前のことだと思っていた。パレスチナから出て初めて、外の世界ではそうでないことを知った。ガザの子どもたちは今も、人が大人になる前に死ぬのが当たり前なんかじゃないことを、知らずにいる」
 自分がこの言葉の意味を抽象的にしかとらえられていなかったことを、突きつけられました。
 長男のカマールさんが「武装組織の戦闘員となった友達を支援した」という罪で逮捕された際の、アワード家の話です。本人の身の安否は言うまでもなく、カマールさんのまだ幼い子どもたちが家に残されたという意味でも、一家の大事な稼ぎ手を失ったという意味でも、事態は二重三重に深刻です。ところが、お母さんのマハさんが美香さんに向かって嘆いたのは、ニワトリの餌代のこと。「もう、どうすればいいのよ! カマールが『自分が餌代を稼ぐから』って言うから飼いはじめたのに」
 生活だ、と思いました。家族が逮捕されようと続いてゆく生活がここにある。マハさんたちのように、暴力に晒されながらも日常を続けている人たちがいる。糧を得るために働き、死んでゆく命があれば生まれてくる命もあり、瓦礫をどかした裏庭に植えたオリーブやレモンの苗木は子どもたちの背丈とともに伸びてゆく。そうした一日一日のつみかさねが、銃撃で、空爆で、断ち切られる。ジェニンではそれが当たり前のことになっている。
 今一度、はじめに引いた美香さんの言葉を、その続きを加えて引用します。
"パレスチナの状況がきちんと日本に伝えられることは少なく、空爆や「テロ」のときだけ一時的に注目されてその部分だけを切り取られて、まるで「突然起きたものごと」のように報じられるということが少なくありません。根本的な問題である占領・封鎖・入植・人権侵害といった「問題」を押しつけられたまま、公正な解決もなされず、そのなかでひとびとのいとなみが続いていること、ましてや、そのいとなみがどんなものであるのかということが報じられることは少ないように思います。空爆の犠牲者も、「テロリスト」と一方的に断罪されるひとびとも、ただの数ではなく、名前も顔もない「テロリスト」でもなく、わたしたちと同じ時代に生きた個性あるひとびとなのだということを忘れたくありません。" (高橋美香『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版)p43より)
「10月7日以���、西岸でも260人ほどの人が殺されています。しかしそれは、ほとんどニュースになりません」
 ヘブロン、ビリン、ジェニン。三つの地域を、そこに暮らす人たちの営みを、美香さんのガイドを通じて知った今、この事実が今まで以上に重く胸にのしかかります。
 ここには書きませんでしたが、美香さんが子どもたちと自由劇場で人形劇を観たときのお話も、そこに至るまでの経緯もふくめ、聞けてよかったです。アーカイブで、たくさんの方に聞いてほしいです。
▶︎「パレスチナ料理を食べてきました(後編):いただきます!」へつづく
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shimartmistletoe-blog · 8 years ago
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木下令子さんの制作
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 今年の2月、梅が咲き始めた頃。 木下さんやいろんな年代の作家が集まっているアトリエ一帯へ。去年、佐渡島のジャンマルクさん夫妻が営むビストロから取り寄せたbioワインを一本持って、梅見と称したアトリエ訪問。小佐渡(佐渡島の南側)岩首の棚田に世阿弥の彼岸ボートを建てた寺田佳央さんも一緒に食べ物を持ち寄って。
 2015年に佐渡島を訪れた翌年、このtumblerの投稿にて紹介したミルク倉庫で初めて木下令子さんに会いました。島や旅に興味を持っている人だと今井俊介さんからの紹介。その時は初対面だったのもあって、あまり詳しく話せず間が空いてしまったけれど、ようやく一年後にアトリエを訪れてゆっくり話をする機会につながりました。
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 驚いたのは、木下さんは美術大学の受験で三浪していたときに始めたアルバイト先で、佐渡島出身の方に出会っていたこと。木下さんは美大受験のために地元九州から単身東京へ。三浪目のはじめは予備校へは行かず、初めて花屋でアルバイトをしながらその先をゆっくり考えることになる。そんな時に出会ったのが佐渡から来た方で、お世話になって仲良くなったとのこと。だからこのtumblerサイトに興味を持ってくれていた。  もともと旅好きで色んな島を訪れたことがあった。幼い頃の話を聞くと、お父さんが車や旅が好きで、家族みんなで旅行をしていたことが大人になっても身体感覚として馴染んでいることが言葉の端々から窺える。美大へ入ってからも東京を拠点に様々な地へふらりと旅たつ。そんな自身を舟のようだと言う。旅の目的地へ着くまでの道のり、交通手段などゆっくりあれこれと選ぶことが好き。その過程を想像することが楽しいのだと。
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 アトリエには大きな窓がある。光がたくさん入る空間。陽射しの移ろいを眺められる場所。このアトリエへ移ってきてから制作が大分変わって、環境からの影響を紙・平面の上へ取り込むようになった。ここ数年取り組んでいるのは、写真の印画紙を支持体にしてエアガンでスプレー彩色しながら、自然感光して日々変化していく色との対話。紙にできた皺やかすかな折り目などが色の粒子の溜まり場となり、光とともに色層を成していく。色が言葉で表せない深みや陰影は、その変化にかかった時間や印画紙の記憶からにじみ表れてくる。  絵の具の色だけではなく、自然の光と時間の作用を「色」として取り込んでいる、とても興味深い試み。この光や影、色との対話は、ある瞬間まで作品として完成するかしないか分からない。ある瞬間は自分の色・意思だけではない、自然の光と印画紙のやり取り、それまでの経過すべてが揃ったときに無言でそっと挙手するような一瞬。
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 絵を描くということは、そもそも不可能な夢や希望を孕んでいる。見えたもの、見えないものをそこに留めたい。時間さえも。この地上にある限り、そこに留まって変わらない物はなにもないのに。自分でさえ生まれている以上はいつか死ぬ。描いてどうする、留めてどうする、残してどうする、という諦めをどこかに秘めながら、絵を描く人は描くことを問いながら大真面目に描き続けているように、私は思う。だから惹かれる。仲間として?…そう、たぶん仲間として。
 木下さんのアトリエにあるたくさんの紙片は、壁が長い年月、壁自身の表面を通りすぎていく陽を受け止めながら少しずつ日焼けして肌の色となるように、自ずから生きて内側から描いているように見えた。そこへ人・木下さんがやってきて、そっと息を加えるような、そんな出会いと作業の繰り返しが積み重��っている。不可能な夢に果敢に挑むというよりは、不可能を受け入れはじめた自然と人との新しい関係のような。諦めを受け入れることで、より絵の可能性が拡がっているような。蒸気のような空気が、あちこちに散らばっている紙片から光合成のように生じているような気がした。
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 その制作に取りかかるまでは、自分で全て決めていく作業が多かった。予備校では受験に受かるために、様々な技法を試みてはある程度の完成度へもっていく。言い換えれば、ある程度見せられる作品が描けるようになる。それはもちろん、予備校の先生が生徒のもっている質を見極めて引き出してくれたり、自分でも悩んで内面にあるものを自覚して質を高めていくので「嘘」ではない。けれども、いちど完成度をたかめてしまうと、美大へ入ってから燃え尽きて(巷では燃え尽き系と言うらしい?)絵を描くことをやめてしまったり、そこに依存して抜けられなかったり、またそこから抜け出そうとかなりの時間と格闘することになる。
 木下さんはかなりトンがった生徒だったみたい。目の前にいるホワンとした印象の女性とは大分ちがう過去がある。私は二浪で木下さんは三浪。美大では現役~3、4浪と年齢の異なる人がいるのは当然で、(私の学年には30代の社会人も居た)同じ一年生といえども歳を重ねている分「私は先生の言いなりにはならない」みたいな意識もどこかにあったりする…ような気がする。木下さんもそれまでに習得した絵の描き方とは違うこと、美大に入ったことでキャンバスから解放されてゼロから自分の表したいことを探そうと、パフォーマンスなど異なるジャンルのカリキュラムをとりながら別の美大へもぐったり旅に出たり…アクティブにもがいていた軌跡を聞くと、私も自分の学生時代を思い出しているようで懐かしくなった。思い返すとかなり恥ずかしい、生意気で無謀なことをやらかしていた時代。けれどもそういうもがきや失敗、恥ずかしいことがなければ、今も無い。それは多分、美大に入らなくても誰もが経験すること。
 過去の作品ファイルを見せてもらうと最近の印画紙の仕事とは異なり、糸や空間を使ったインスタレーションが多い。今とは見え方は違っていても、自然環境や風景を取り込んで一体になりたい感覚は繋がっているように思う。そういう感覚……ものすごく大雑把に言うと「女性性」なのではないかとも感じる。大きなもの、母のようなもの、日常や旅の行程の全体…… そういう所と��り離さない感覚。女だから女性性とい���わけではなくて、性差に関係なく一人の人間の中にある女性性。糸の話を聞くと、子供のころ自宅でお母さんが裁縫の仕事をされていたとのことで、身近なモチーフだったのだと納得。
 ある時期までの制作は、自分で決めていないと不安だったという話があったような。自分が主体であって、表すことすべて操作して行っている感覚。それは旅の行程を把握して決めておく安心感にも通じるのかな?なんて思う。その一方で、旅には予想外の出来事が多い。それを受け入れられるようになってきたのが、最近の仕事(制作)になってきているのかな?とも感じる。
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 木下さんのアトリエ訪問から時間がすぎて、個展会場でまたゆっくり話をすることができた。アトリエで観た作品たちがフレームに入って壁に居る。アトリエの時とは少し違う顔。息をして休んでいるような表情から、永遠の休みか、ここではないどこかへ旅立ってしまったような顔。けれども離れて行った寂しさは無く、色や皺の陰影が自信をもってそこに留まっているような。
 アトリエで見せてもらった、展示空間でも目立たないところに掛けられていた木の作品。木の輪切りに写真が投影されたもの。木そのものの年輪や色、形の上へ柵のようなイメージがプリントされ、時とともに樹液がにじみ出ている。学生の頃に試みた作品。物そのものの記憶と自分が出会う接点をとても大切にする原点のような作品。出会わなければほとんどが知らない存在である中、自分と出会ってしまったものとの偶然と必然を愛おしむような、ある種の果てない欲のような感覚がギュっとそこに集まっている。
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 「ほんとうに悲しいことは語れない」と木下さんは言う。語れないけれど作品には滲み出る。ほんとうは語りたいのかもしれない。作品の色味や陰影が代わりに語っている。受験の頃の絵から始まって、トンがった学生時代の空間の制作や旅、そこからまた印画紙の平面へ戻ってきた昨今の仕事。その過程には様々な予想外の感情の起伏がある。印画紙の、言葉で言い得ない色の移ろいを見ていると、なんとなく、また印画紙から蒸気がうっすらと立ち上がり、平面から拡散していくようにも見えた。
 描くこと。作ること。
 色んな方々��制作について話を伺ってくると、年月を重ねることが大切なのだと気づかされる。最初は若さや力任せで進めても、習得した技術がどんなに素敵でも、それだけでずっと同じには続かない。生活や自分の身体、それをとりまく環境、社会との関わりで、自分自身も変化していく。その変化の横には他者の存在があって、好きになったり嫌いになったり、悩んだり、喜んだり、泣いたり、消え入りたくなったり、希望を探したりしながら心の皺を刻んでいく。その皺の濃淡が制作へ還っていく。描くこと、作ること、表すこと、語ることの距離は、年月とともにより密接につながっていく。
 
 つくることは誰より本人が救われるものであってほしい。生きるために息をするのと同じぐらいになったとき、それが他の誰かにも伝わっていく。作品はその間で、いつだって静かにウトウトしながら、窓を開けられるのを待っている。
2017.4.18  泉イネ
木下令子
1982     熊本生まれ 2009     武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻油絵コース修了 2012   ホルベインスカラシップ奨学性
【個展】 2017    「ゆるやかな仕掛け」switch point / 東京 2016    「 2015    「 日のなかの点」清須市はるひ美術館  / 愛知 2014    「折りを手繰れば、」Artist Residenc ProjectVol.11  H&R ROPPONGI / 東京 2014「 浮きの下の魚」新藤君平企画 Gallery Barco / 東京   
【グループ展】 2017 spring fever 駒込倉庫 /東京 2013   「ダイ チュウ ショー -最近の抽象- 」府中市美術館市民ギャラリー / 東京
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