#谷村新司『男と女に戻る時』
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)12月27日(水曜日)参
通巻第8070号
AIは喜怒哀楽を表現できない。人間の霊的な精神の営為を超えることはない
文学の名作は豊かな情感と創造性の霊感がつくりだしたのだ
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わずか五七五の十七文字で、すべてを印象的に表現できる芸術が俳句である。三十一文字に表すのが和歌である。文学の極地といってよい。
どんな新聞や雑誌にも俳句と和歌の欄があり、多くの読者を引きつけている。その魅力の源泉に、私たちはAI時代の創作のあり方を見いだせるのではないか。
「荒海や佐渡によこたう天の川」、「夏草や強者どもが夢の跡」、「無残やな甲の下の蟋蟀」、「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。。。。。
このような芭蕉の俳句を、AIは真似事は出来るだろうが、人の心を打つ名句をひねり出すとは考えにくい。和歌もそうだろう。
『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山』(持統天皇)
皇族から庶民に至るまで日本人は深い味わいが籠もる歌を詠んだ。歌の伝統はすでにスサノオの出雲八重��にはじまり、ヤマトタケルの「まほろば」へとうたいつがれた。
しかし人工知能(AI)の開発を米国と凌ぎを削る中国で、ついにAIが書いたSF小説が文学賞を受賞した。衝撃に近いニュースである。
生成AIで対話を繰り返し、たったの3時間で作品が完成したと『武漢晩報』(12月26日)が報じた。この作品は『機憶(機械の記憶)の地』と題され、実験の失敗で家族の記憶を失った神経工学の専門家が、AIとともに仮想空間「メタバース」を旅して自らの記憶を取り戻そうとする短編。作者は清華大でAIを研究する沈陽教授である。生成AIと66回の対話を重ね、沈教授はこの作品を「江蘇省青年SF作品大賞」に応募した。AIが生成した作品であることを予め知らされていたのは選考委員6人のうち1人だけで、委員3人がこの作品を推薦し
「2等賞」受賞となったとか。
きっと近年中に芥川賞、直木賞、谷崎賞、川端賞のほかに文学界新人賞、群像賞など新人が応募できる文学賞は中止することになるのでは? 考えようによっては、それは恐るべき時代ではないのか。
文学の名作は最初の一行が作家の精神の凝縮として呻吟から産まれるのである。
紫式部『源氏物語』の有名な書き出しはこうである。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
ライバルは清少納言だった。「春は曙、やうやう白く成り行く山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(清少納言『『枕草子』』
「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経るひとありけり」(道綱母『蜻蛉日記』)
額田女王の和歌の代表作とされるのは、愛媛の港で白村江へ向かおうとする船団の情景を齊明天王の心情に託して詠んだ。
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕こぎ出いでな」(『万葉集』)。
「昔、男初冠して、平城の京春日の郷に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。」(『伊勢物語』)
▼中世の日本人はかくも情緒にみちていた
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)
『平家物語』の書き出しは誰もが知っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」。
『太平記』の書き出しは「蒙(もう)竊(ひそ)かに古今の変化を探つて、安危の所由を察(み)るに、覆つて外(ほか)なきは天の徳なり」(『太平記』兵藤祐己校注、岩波文庫版)
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』)
古代から平安時代まで日本の文学は無常観を基盤としている。
江戸時代になると、文章が多彩に変わる。
井原西鶴の『好色一代男』の書き出しは「「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
上田秋成の『雨月物語』の書き出しはこうだ。
「あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々」。
近代文学は文体がかわって合理性を帯びてくる。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある」(夏目漱石『坊っちゃん』)
「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば」(森鴎外『舞姫』)。
描写は絵画的になり実生活の情緒が溢れる。
「国境の長いトンネルをぬけると雪国だった」(川端康成『雪国』)
谷崎潤一郎『細雪』の書き出しは写実的になる。
「『こいさん、頼むわ』。鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子を見ると、自分で襟えりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら、『雪子ちゃん下で何してる』と、幸子はきいた」。
「或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ばんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました」(芥川龍之介『杜子春』)
▼戦後文学はかなり変質を遂げたが。。。
戦後文学はそれぞれが独自の文体を発揮し始めた。
「朝、食堂でスウプをひとさじ吸って、お母様が『あ』と幽(かす)かな声をお挙げになった」(太宰治『斜陽』)
「その頃も旅をしていた。ある国を出て、別の国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた」(開高健『夏の闇』)
「雪後庵は起伏の多い小石川の高台にあって、幸いに戦災を免れた」(三島由紀夫『宴のあと』)
和歌もかなりの変質を遂げた。
正統派の辞世は
「益荒男が 手挟む太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて今日の初霜」(三島由紀夫)
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(同)
サラダ記念日などのような前衛は例外としても、たとえば寺山修司の和歌は
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや。」
わずか三十一文字のなかで総てが凝縮されている。そこから想像が拡がっていく。
こうした絶望、空虚、無常を表す人間の微細な感情は、喜怒哀楽のない機械が想像出来るとはとうてい考えられないのである。
AIは人間の霊感、霊的な精神の営みをこえることはない。
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(注意: つらい内容が含まれます) ヨギタ・リマエ、BBCニュース 丘の上、木々の合間に、ミャンマー軍キャンプの廃墟がある。眼下に、特徴的なハートの形で地元で有名な、絵のように美しい湖が見える。足元には、地雷の薬筒や使用済みの弾丸が散乱している。兵舎があった場所では、散らばるトタン屋根の隙間から、黄色い花をつけた野草が顔を出している。キャンプの一角には、急いで掘られた塹壕(ざんごう)がある。 赤、白、青の横じまの中央にサイチョウという鳥が描かれた旗が、曇り空の下で風になびいている。ミャンマーの西部チン州で同国の軍事政権と戦う、民族武装組織「チン民族軍(CNA)」の旗だ。 CNAは7カ月前、地元の武装住民グループとともに、インドとの国境貿易の町リクホーダルにあるこのキャンプと、チン州の他の地域からミャンマー軍を追い出した。チン州の武装勢力は、2021年のクーデターでミャンマーのぜい弱な民主主義を粉砕した軍事独裁政権と戦ってきた。その彼らにとって、前例のない成果だった。 国軍がこの地域で支配権を失ったのは初めてだ。BBCは今回、同国西部で反政権勢力の躍進を目にするという、めったにない機会を得た。 リクホーダルでの勝利は、決して簡単ではなかった。武装勢力は1年以上にわたり、何度も攻勢をかけた。一部の家族は、耐え難い犠牲を払った。 画像説明,武装抵抗運動に加わったラルヌンプイさん ラルヌンプイさんはダンスが大好きな17歳だった。彼女のソーシャルメディアのアカウントは、人気映像のダンスをまねる彼女の動画でいっぱいだった。 「彼女はいつも自信たっぷりに踊っていた。でも、着飾ることには興味がなかった。兵士に憧れ、国のために命を捧げた兵士についての歌を一日中聴いていた。勇敢で強く、怖いもの知らずだった」。ラルヌンプイさんの母ラルサントルアンギさんは、そう話す。 クーデターが起こると、ラルヌンプイさんは両親を説得し、家族が暮らすハイムアル村で武装住民運動に加わった。その理由を、学校で手書きした英作文の中で、次のように説明していた。 「ミャンマーはいま、壊れている。(中略)ビルマ兵は私にとって敵だ。情けがないからだ。(中略)私の将来は国民防衛隊にあって、私はそれが好きだ」 2022年8月、彼女の村の武装住民らは他のグループとともに、リクホーダルの軍キャンプに攻撃を仕掛けた。 「私たちは13日間���続で、相手側にドローン(無人機)の雨を降らせた。爆弾のほとんどは私が作った。私が部隊で一番の溶接工だったので」と、ラルヌンプイさんの父ラルジディンガさんは言う。彼はクーデター前はトラック運転手だったが、ハイムアルで何人かと国民防衛隊を組織するようになった。 この時の攻撃では、軍キャンプを奪うことはできなかった。双方に犠牲者が出た。 ミャンマーの地図 2022年8月14日、ミャンマー軍は報復攻撃としてハイムアル村を急襲した。住民の話では、民家十数軒に火が放たれた。私たち取材班は、そのような家屋の残骸をたくさん目にした。ミャンマー軍は、北部と西部で抵抗勢力を抑え込むため、何万軒もの民家を焼き払ったと非難されている。 この報復攻撃で、17人が軍に人質に取られた。ラルヌンプイさんと、弟のラルルアトマウィアさん(15)も含まれていた。その後、この2人を除いて全員が解放された。2人の父親に軍が仕返しをしたのだと、家族は考えている。 2日後、ハイムアルの外れにある森の浅い墓の中に2人の遺体があるのを、村人たちが発見した。 どちらも残忍な拷問を受け、銃床で殴り殺されていた。ラルヌンプイさんはレイプされていた。弟の胸、腕、性器には熱湯によるやけどの跡があった。BBCは、遺体の詳細な写真と検死報告書を確認している。 BBCはこの件でミャンマー軍に質問を送っているが、まだ回答はない。 ラルヌンプイさんの弟ラルルアトマウィアさんはまだ15歳だった 「子どもたちに何が起こったのか、考える勇気がない」。父ラルジディンガさんはしばらく黙った後、言葉を探すように言った。「子どもたちは殉死者だ。私よりずっと立派だった」。 少しの間を置いて、彼は続けた。子どもたちのことを愛情をこめて語る、誇らしい父親の姿だった。「息子は私より5センチ背が高くなっていた。話し好きで、家の手伝いを何でもいやがらずにやった」、「2人は切っても切れない仲だった。人が集まっているところに娘が行けば、みんな楽しく笑顔になった」。 母ラルサントルアンギさんは、涙を拭いながら末娘のハダシちゃん(4)を抱きしめ、こう話した。 「夫には、子どもたちの死で落ち込まないように言っている。これは私たちだけの問題ではない。将来の世代も自由は必要だ。何の権利もなく、軍の言いなりになるような、そんな状態で暮らすのは正しくない。命をかける価値がある戦いだ。私は自分の子どもたちを誇りに思っている」 私たちはミャンマー滞在中、戦闘服に身を包んだ人たちに会った。半自動小銃などの銃器を携えている人もいた。ただ、職業軍人ではない。野蛮な紛争に直面し、見事なまでに意を決している農民、学生、一般住民たちだ。 国民防衛隊のヴァラ司令官は、ハイムアルの眼下に広がる緑豊かな谷を指さしながら、ミャンマー軍はこの全域から撤退し、最も近い基地でも直線距離で50キロ以上離れていると笑顔で説明した。現地の墓地では、ピンクと白の造花で覆われた新しい墓へと私たちを案内した。 「軍事政権と戦って死んだ人たちのものだ」と、ヴァラ司令官は義理のきょうだいの墓のそばに倒れている花束を戻しながら言った。私たちは、ラルヌンプイさんとラルルアトマウィアさんの墓も見つけた。 私たちが会った住民らのほとんどは、ハイムアルの南にあるチン民族軍のヴィクトリア基地で訓練を受けていた。私たちは、緑深い森と山間部を通る、曲がりくねったでこぼこ道を進み、同基地を訪ねた。 そこでは、制服を着た何百人もの若者が新兵となって、広々とした平原を行進していた。 行進が終わると若者たちは、「私たちの祖国、愛する土地、私たちは血と命をかけてそれを守る」と歌う。 そして、武器の訓練へと続く。銃声が響く。 全員18歳以上だと説明されたが、もっと若く見える人も多い。2011年のミャンマーの民政移管で、大勢が自由を味わった。それだけに、もはや軍事政権は受け入れられないと考える10代の若者たちが、それぞれの夢を捨てて、抵抗運動に加わったのだ。 サン・ダール・リンさん(19)は教師を目指していた。 「クーデター後の最初の1年は、それほど悪くなかった。けれども、やがて軍が私たちの村を砲撃し始めた。私たちの家は壊されて、村に入って来た兵士は家を燃やし、人や動物まで殺した。私たちはジャングルに逃げた。かなりの人数がいたので、ジャングルがそのまま村になった」 「おじは無残に射殺された。私は軍が大嫌い。自分の国と国民を守るため、CNAに加わった」 私たちは行く先々で、ミャンマーの若者たちが革命の波に巻き込まれているのを目にした。 ビルマ国家のために働いていた何千人もの人たちもまた、支持する対象を変えた。 ヴァンラルペクタラさん(22)はかつて警官だった。 母親のモリー・キアンさんは、息子が警察で訓練を受けていたころの古い写真を3枚差し出すと、「彼はそこそこの月給をもらっていた。私たちは幸せで満足していた。そうしたらクーデターで政府が倒され、彼は抵抗運動に参加することを決めた」と説明した。 モリーさん自身は青春時代を軍事政権下で過ごした。「当時は楽しい日なんて1日もなかった。軍がとても怖かった。だから私は息子の決断を支持した」。 息子ヴァンラルペクタラさんは2022年3月に抵抗運動に参加。その6日後に殺害された。 モリーさんは胸と首を指さしながら、「息子はこことここを刺された」と言った。「残忍に襲われた。片足は切り落とされていた」。さらに話を続けようとしたが泣き崩れた。「この話をするのはつらい」。 ヴァンラルペクタラさんが死んだ時、彼の妻は妊娠していた。もうすぐ1歳半になる男の子は現在、遠く離れた難民キャンプで暮らしている。 軍が村から追い出されたときの気持ちを尋ねると、モリーさんは拳を突き上げた。「とてもうれしい。でも完全な勝利が見たい」。 彼女の次男も国民防衛隊の一員となっている。 国軍に比べれば弱い複数の反政権勢力が、この紛争の流れを変え、はるかに強力で装備の整ったミャンマー軍を守勢に立たせた。それができたのは、一般国民の幅広い支持があるからだ。 「最初は軍が勝っているように見えた。しかし、戦争であれ政治であれ、国民の支持がなければ誰も勝てない。軍は武器では優位かもしれないが、民衆を味方につけられていない」。チン州の反政権グループが設立した並行政権の「首相」に指名されている政治家、パ・サンさんはこう話す。彼はアウンサンスーチーさんが率いる国民民主連盟(NLD)のメンバーでもある。 並行政権は、チン州全域の80%近くを掌握していると主張する。しかしミャンマー軍は、州都を含め戦略的に重要な町のほとんどを今も支配している。 それでも、反政権勢力には勢いがある。今週初めにはトンザンという町を奪った。 チン民族軍のフテト・ニー広報官画像提供,AAKRITI THAPAR/BBC 画像説明,チン民族軍のフテト・ニー広報官 「ここは私たちの土地だ。ビルマ軍の土地ではない。私たちは勝利を収めつつある。この土地の隅々までよく知っているからだ」。チン民族軍のフテト・ニー広報官はそう言う。 民族軍側が戦果を挙げている理由は、ほかにもある。国内各地の反政権勢力が協調し、軍が力の入れどころを選ばなくてはならない状況を作っているのだ。チン民族軍によると、自分たちはカチン独立軍やカレン民族解放軍、カレンニー軍と協力関係にあるという。 反政権勢力が直面する最大の課題は、グループ同士の内紛だ。チン州だけでも数多くの派閥が活動しており、その多くは従来から敵対している。 前出の政治家パ・サンさんは、結束を維持するのは可能だと主張。クーデター後に軍によって投獄されたアウンサンスーチーさんが率いる、選挙で選ばれた文民政府を代表する国民統一政府(NUG)の下で活動することに向けて、将来的な計画があると話す。 「私たちは鋭意、法律と憲法を作成している。NUGの一員として、チン州から大臣2人と副大臣1人を出す予定だ。ミャンマー軍が敗北を認めるときに向けて、あらゆる準備をしている」 私たちが会った人たちには、明らかな共通点があった。自分たちは勝てると、全員信じているのだ。 「もう、それほど長くはかからない」とパ・サンさんは言う。「こういう予測をするのは良くないが、私たちがあと2〜3年以上戦うような、そんなことにはならない。そう信じている」。 (追加取材:アアクリティ��サパル、サンジェイ・ガングリー) (英語記事 The devastating cost of fighting Myanmar's military dictatorship)
【ルポ】 ミャンマー軍事独裁政権と戦う人たち その途方もない犠牲 - BBCニュース
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負���韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟���祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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大谷恵美子さんと笹川竜司が凪ちゃん殺しの主犯格 大谷さんがずっと小柳さんやった そっちが本名で整形 相当整形出雲大社がずっと言っていた この話は伊勢の金がした 金は福山勇の子供 イサムはひらしのおとうと 近藤は国会議員で滋賀の代議士サニーは近藤の息子 それが長谷川 あれがワニ園を持ってるぞ それがあのバッドボーイの元ネタになっていて 近藤先生は国会議員で息子は自衛隊にならんね そしたら 坂井や高島がいうことを聞くじゃなか そして長谷川は麻薬のブローカーなので笹川とは知り合い 秀和にも2キログラムが送られてくる あれはスピード 本当か?マリファナじゃなかか? おいたちおんなじものをあんたから買ってるがマリファナだぞ 木箱いっぱいはいっとったって言ってるが コンテナいっぱいの間違いじゃなかね? それを船の流通に紛れ込ませて ベネズエラから買ったって言ってるが本当は メキシコだぞ そしてこれこそ大泥棒と言われていた マリファナの流通にならんか ほらマフィアがイエスって言った 受取人が鈴木千穂ってどういうことだ 笹川? 千穂が日本財団の遺産を受け取るからって言ったんだろうが 向こうはそんなこと聞いていないと言っている ただ運搬しているところを横取りされたからFODを出せって全部に行って吐かせているところだぞ これが三回目だろうが 最初が入院前 それが五回目って誰かが言ってきたイギリスの船長が千穂に連絡をしてきた時が最初だぞ イギリスが私たちに聞いてきた 千穂がなんでマリファナがいるんだって聞いてきたぞ それで日本だってすぐわかったぞ それが流通流かなんだそれを笹川がネコババした だがその主犯がなぜか鈴木秀和になったことから その家に潜伏している可能性が高くなってそれで二階にいる話は事実だろう? 受取人を鈴木秀和にしているからだぞ 三階に逃げることもあるようだね? 近所の家から地下にも逃げるそうじゃないか?坂井の家な出口があるのは確かめたよ 笹川だから日本財団が手を引いたんだ 今日は上原も何も言ってこないし 中村も何もない 本田も何も言わない なぜだかわからないのなら聞いてごらん🐊 なぜか🐊がチラチラしてる 松本先生と日本財団とはね そして学校の近くのハッカーがいわさとはね?! それが私を辞めさせた張本人か それで大谷が笹川と女の調達で取引していたことは 城原の四年の専科が途中から来たので 最初から笹川の女を仕向けたってことになるのかな? あれが灰色の車で生化学薬品を排気から垂れ流して 急性気管支炎が室見が丘の三丁目に異様に増えてそれがマラリアだったんだ 何でそんなものがこんなところに それがおかしいとしか言えないから 百日咳って言ってた 学校にも病原体を持って行ったために本当は大変だった 医者は言えなかったんだけど その女がそれで指名手配になるのは わかるだろう 千穂におかしな病原体がついているのがつくもからの報告があり それが城原の女が三丁目の集会所から仕掛けたことから あのあたりマラリアが出てるんだ それで死亡者が出たことは 警察と つくもたちが知っている 千穂のところで病原体が巻かれたぞっていう話があってそれが三菱が作ったって言ってその女が誰か?車は跡がつかないように向こうがしてきた それでその女が誰かって話になったら 大谷の女だったり笹川の女だったりすることから 小柳恵美子の整形前の顔で押さえさせた それで笹川が松本ヨシヒトで相当整形で間違いないんだろ? お腹がないから激しいセックスはできないんだ 体は年取っている 顔は若いが それで東京歯科大卒業だったが後から暇つぶしに 東京理科大に行ったんだろう? それでポレトレの先輩で後輩ってわけにならんね? そしてお前が作ったフュージョンこそが特殊詐欺と拉致監禁の元ざさえ 西研二は唐津のブローカーお前たちの チズちゃんが金持ちなもんか 研二が持ってるだけだぞ シンジケートの手伝いで それが吉田と一緒に資産家隠しを笹川と一緒に唐津でやってることから 研二が幸枝に 笹川を紹介しない話はなくなるな? 麻薬もやるが笹川は相当毒好き それで貴族毒は笹川が楓の件から貴族毒を手に入れられた その遊びに若い頃夢中にって 日本財団を相当太らせてきたことから 貴族毒の元締めを松本こと笹川がやっていたんだ 笹川は笹川はそれで由理に誰から毒を渡すのかわかるよな? 長谷川からにならんね?サニーさんの友達は翔也 とっても仲良しで滋賀まで追いかけて 相当金持ちで美容院を少々とブローカーがメインの仕事なんて教えないでYouTubeやっているんだ今でも そして池上ひなの男が誰だか問題にならんか それが金だぞ 金が顔が綺麗だからひなが騙されて東京まで追いかけて そこで夜の仕事をさせられて 結局男を取る仕事に金がさせた それが誰かわからんか笹川じゃなきゃおかしいだろう竜司が銀次郎って言ってるから 金ちゃんが笹川じゃなきゃおかしいじゃないか しかも東京で福祉の仕事をしていて それで夜の仕事までお世話できる若社長さんっと言ったら日本財団が絡んでるのがわからんか? しかもセックスに麻薬を嗅がせたためにヒナは怖くなって部屋から飛び出して警察に行ったのは一人プレイより3人プレーが楽しくないかって他の男を呼び出したからなんだ 普通は黙って応じているのに 複数人は嫌だったらしい それでヒナちゃんが妊娠したって誰かが心配して離れたがそれが笹川だから手が出せないが由理が相当困っているので可哀想だから 佐賀のヤクザが笹川にたてついて ヒナちゃんを中絶させるために働きかけたけど 内情は笹川は子供が欲しくなかっただけよ その方が��白いから そして日本財団は真剣に鈴木家のノーベル賞の話から離れてシンジケートとやり合っていることをここに書いておくが お前たちの根城が室見ヶ丘になって金武倉庫って名前を変えて 私立自衛軍の武器倉庫に指定しているって 日本財団が教えたぞ そして出雲大社にやまぎしもどきの自衛隊が潜伏していてこうしんてんの入り口を守っているそうじゃないか? ではなぜ学校の先生たちが嫌がらせをするのかわからないかい 近藤国会議員はヤクザのしりあいが笹川ということから政財界の闇取引のバイパスなんだだからみんなから重宝がられて大事にしていることから 地方創生の頭の後ろにいるんだ そして長谷川は福岡に自宅があり出先が熊本さんじゃなくて福岡さんと言えば由理さんの家のお隣にならんね? 元々車がいるからあんな片田舎で車の修理庫だけ置いておけば 車の洗浄は誰にもバレないで夜中でもできますになっている 看板も出していないしガレージだけの本当に大きいところ だけどあの家にまで車をたくさん隠したことから置き場に困って とうとう廃車を壊す話になって近場だとまずいから福岡に戻してスクラップする話をしている サツがこの間盗難者を見つけて消したことから佐賀県警に内定者を15人も作って黙らせている そして毒は福岡さんからだと言いたいがそれだとユリは飲まないので お金持ちの男がいいに決まってるじゃないの それが笹川にならんね よく保険の友達が来るって自宅に ユリちゃんはサニーさんに会ったことがあるって言ってたでしよ?サニーさんのいうことを聞けば金持ちになれるからって それで翔也が相当金持ちってずっと言ってるから騙された そして長谷川が毒をどこからって言ったら笹川からの指示になるのはわかるだろう 美間坂家には西研二の方から 日本財団が入らせられて 長谷川が持っていかなくても 日本財団の顔で通るのは西研二が金の話をしないわけないじゃないか? それでいうことを聞いているんだぞ 羨ましがらせて 珠美が相当儲かっているのを間近で見ているから みわもそうとうもうかった かおりも相当儲かった だからゆりも幸枝も金欲しさに千穂に毒を指示通りにやったんだぞ 2025/04/30 そしてなんでこんなに狙うのかお前が千里眼持ち出先を見通すから為替がよく反応するのでお前の言動を知りたがった池上慎二たちがその情報をもとに儲け話をさせてやっている池上慎二たちに それを日本財団もしているからこうやってお前を捉えては携帯電話をダメにして情報だけを抜き取って儲け話をしようとしているんだ為替が動くから株が動くから2025/04/30 今回は近藤が動いたので地元の地方創生が関わったからお前が大変だったんだぞ そして長谷川は近所じゃないか だから近所の人間に口を聞いてその家に潜伏させたり金をとらせていうことを聞かせてきたんだ それが稲津にならんか そういうことでつながってきただろう? 2025/04/30 そして日本財団は福祉に強いことから 医者も相当靡くしょっちゅう裏金献金が日本財団から流れることから 肥前精神医療センターには長谷川から金を流させた そして新しく地方創生から佐賀の教員も受付に入れているぞあそこはどれだけあの緑の制服の事務局長が金をもらってあるのかわからないぞ それで新保に連絡がつかない話にはならないだろう2025/04/30
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2020-05-14 (木) ✡☪
👑 No.1
【📷💕フォト 【◎】д=) ギャラリー📷💕】
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【いかりやさん💜台詞】
地べたを這いずり回ってんだ
文句も言わず 命令通りにな
*:..。oƒ *:..。oƒ *:..。oƒ *:..。oƒ *:..。oƒ *:..。oƒ *:..。oƒ
ੈ✩ キビシイ..(((;꒪∆꒪\˚💦 ✨
❥❥» ランキングボート終了 🎤
撮影日:2020-05-13 (水)
🏥ナイチンゲール 🚑
〖検索🌟情報〗
5月12日はナイチンゲールデーです。この記念日は、伝記��画 「白衣の天使」 などでも知られる、看護婦のフローレンス・ナイチンゲールの功績を称え、ナイチンゲールの誕生日をナイチンゲールデーとして制定しました。
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
ੈ✩ 小さい方のマーガレット蕾(並んだ萩の成長) ⋆͛♡̷♡̷⋆
ੈ✩ 咲き終わりチューリップ(球根) ♪ૢ
by 酒井法子『月明かりの下』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 やがて花は芽吹いて 咲いては散ってゆくけど ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 めぐりゆく季節を越えて 変わらないものがあるの ♪゛
ˣx✖ˣ♡✖ˣx♡xˣ✖xˣ♡ˣx✖ˣx♡xˣ✖♡ˣ✖xˣ
by 永井真理子 『boy』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 すこしの休みと太陽と 小さな恋があればいい ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 色褪せないささやかな明日を迎えて ♪゛
⏳♪♪★☆★⏳♪★☆★♪⏳★☆★♪♪⏳
by 裕木奈江『いつでも』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 持て余した時間は 少しずつ ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 眠気へと変わる ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 なんでもない その言葉や ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 しぐさに 一喜一憂して♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 現実とは離れたその人の ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 理想像描く ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 いつでも いつでも ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 あなたに··· 初めて··· ♪゛
⏳♪♪★☆★⏳♪★☆★♪⏳★☆★♪♪⏳
by 天月-あまつき-『Fairytale,』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 別れの刻はすぐにやってきて ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 話したかったことも半分くらいで ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 「せわしない日だったね。」 って笑い合う ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 二人は再会の環に思いを馳せた ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 一人では輝けない私からね ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 御伽話の続きがあるの 聞いておいて ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 久しぶりね ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 重なり合う鼓動が命の瞬きを教えてくれてる ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 誰の愛を受けても消えないでしょう ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 あと数秒で離れていく星を見送るなら ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 例え何千年経っても会えるから ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 そういう話しよ 約束ね ♪゛
▤ ▥ ▦ ▧ ▤ ▥ ▦ ▧ ▤ ▥ ▦ ▧ ▤ ▥ ▦ ▧ ▤
by 大塚愛『CHU-LIP』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 彼と暮らすと癖が似てくる ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 離れられないのよ そうゆうこと ♪゛
⏳♪♪★☆★⏳♪★☆★♪⏳★☆★♪♪⏳
by 谷村新司『男と女に戻る時』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 二人で過ごす 時が何故か ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 淋しくて 胸が痛くなる ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 愛になれすぎ 気付かぬ間に ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 目の前の君さえ 見えない ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 見つめ直そうお互いに ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 男と女に戻って ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 別れるのも愛し直すのもいい ♪゛
⏳♪♪★☆★⏳♪★☆★♪⏳★☆★♪♪⏳
by 岡村孝子『青い月』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 心のドアをふいに開いた あなたの言葉 ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 深く静かな私の海に小石を投げて ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 もしもこの恋を受け止めたら ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 どんな場所へたどり着くの ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 いっそこの恋を踏み出したら ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 永遠という時間の河を ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 どこまでもあなたと二人で ♪゛
🌊〰♬。.🌊〰♬。.🌊〰♬。.🌊〰♬。.🌊〰♬。.
by 研ナオコ『月がのぼれば』 ♪̊̈♪̆̈
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 月がのぼれば キスをする ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 草の匂いを かぎながら ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) ただひとことを 言うまえに ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 熱い涙をそっと わたしにこぼしたわ ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 純情だから あのひとは ♪♪"
✩⃛ೄ✯ ✳✩⃛ೄ
by 裕木奈江『時を旅して』 ♪̊̈♪̆̈
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) すみれ色の風が吹く ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 遠くで 夏の音 ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 触れた指の軽さが ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) あなたの 地図ね ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 帰れないまま怯えてる ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 君はどこで同じ空 ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 同じ雲を 見てるの ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 星の夜を見上げて ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 泣いてみたけど ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 君のまなざしは消せない ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 恋心はいつの日も ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 淡いものと 人は言う ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 季節が街を変えて 通り過ぎても ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 変わらないものもあるのね ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 悲しくて 眠れない夜 ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) ただひとり 探す夢の中 ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 追いかけた あなたは遠くて ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 失ってはじめて知った 恋と… ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 君がくれた花のカゴ ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 窓辺に 咲いてるよ ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 2人で過ごした 時を旅して ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 今君を むかえに行くよ ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) いとしい人 今日からは ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) あなたの腕の中 ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) ワルツを奏でる ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 出逢った日から ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 心に決めた人だから ♪♪"
• 🌛 •┈💫⭐︎┈┈💫⭐︎┈┈💫⭐︎┈┈💫⭐︎┈• 🌛 •
by 天童よしみ『珍島物語』 ♪̊̈♪̆̈
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) ふたつの島を つないだ道よ ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) はるかに遠い 北へとつづけ ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) ねえ とても好きよ 死ぬほど好きよ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) あなたとの 愛よとこしえに ♪♪"
✩……✩……✩……✩……✩……✩……✩……✩……✩
┇ 🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹 ┇
ੈ✩ 食べないヨモギ(蓬)新芽 ✩°̥࿐୨୧
❥❥» よもぎ(蓬)(ღ˘⌣˘ღ)iloveyou
《花言葉》
幸福・平和
平穏・静穏・夫婦愛
決して離れない・不安
ଘ♡ଓ*:゚+。.໒꒱°*。⋈。♡:* :゚+。ଘ☆:゚+。⋈。
ੈ✩ イカリソウ(錨草)♪ૢ
《花言葉》
あなたを捕らえる・あなたをつかまえる
人生の出発・君を離さない・旅立ち
☁⌒☁¨☁⌒☁¨☁⌒☁¨☁⌒☁¨☁⌒☁¨☁⌒☁¨☁⌒☁¨☁⌒☁¨☁⌒☁¨☁⌒☁¨☁
by 山口百恵『いい日旅立ち』 ♪̊̈♪̆̈
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 岬のハズレに少年は魚つり ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 青いススキの小径を帰るのか ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 私は今から想い出を創るため ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 砂に枯れ木で書くつもり"さよなら"と ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) あぁ 日本のどこかに私を待ってる人がいる ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) いい日旅立ち 幸福を探しに ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 子供の頃に歌った歌を道連れに... ♪♪"
🌊〰♬。.🌊〰♬。.🌊〰♬。.🌊〰♬。.🌊〰♬。.
by 中島みゆき『海よ』 ♪̊̈♪̆̈
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 海よ おまえが 泣いてる夜は ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 遠い 故郷の 歌を歌おう ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 海よ おまえが 呼んでる夜は ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 遠い 舟乗りの 歌を歌おう ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 時はいま いかりをあげて ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 青い馬に揺れるように ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 心の荷物たちを ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 捨てにゆこうね ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 海よ わたしが 泣いている夜は ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 遠い 故郷へ 舟を運べよ ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 海よ お前は 覚えているか ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) この歌は 舟乗りの 夢の行方を ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 海よ お前は 覚えているか ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) そして 帰らない 小舟の数を ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) この歌は 舟乗りの歌 ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 若い 舟乗りの歌 ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 故郷の島を 離れ ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 今日もさまよう ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 海よ わたしを愛するならば ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 今宵 故郷へ 舟を運べよ ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 海よ わたしを愛するならば ♪♪"
(ღ•ㅂ•๐) 今宵 故郷へ 舟を運べよ ♪♪"
🌊〰♬。.🌊〰♬。.🌊〰♬。.🌊〰♬。.🌊〰♬。.
✂ (º∀º) ✂---------キリトリセン--------✂ (º∀º) ✂
by 大友裕子・葛城ユキ『ボヘミアン』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 あなたの愛が 今もぬけない ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 ボヘミアン ためらいがちのさよならと ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 “また来る“の 言葉残して立ち去った男 ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 ボヘミアン 自由に飛び回ることなど ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 忘れてた女に愛くれた人 ♪゛
✂ (º∀º) ✂---------キリトリセン--------✂ (º∀º) ✂
by 山口百恵『幸福の実感』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 すべてを賭けて愛せると ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 思った人が ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 今日は他人に見えるなんて ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 私 いけない女ですね ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 あなたの話す何気ない言葉の癖が ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 時々 すごく気になったり ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 そんな自分が怖いのです ♪゛
✂ (º∀º) ✂---------キリトリセン--------✂ (º∀º) ✂
by 柴田淳『幸福な人生』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 誰よりも 飢えていて ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 誰よりも幸せ ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 誰よりも無いものねだりの ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 私の人生 ♪゛
✂ (º∀º) ✂---------キリトリセン--------✂ (º∀º) ✂
by 谷村新司『幸福 -しあわせ-』♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 君ははじめて気付く ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 夜の戸張りに抱かれて ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 幸福··· それはささやかな ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 愛する人のぬくもり ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 やがて降る星の光に ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 君が抱かれて眠るまで ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 幸福··· それはひとときの ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 かけがえのないまどろみ ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 昇りくる朝日の中で ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 愛する人とみつめあう ♪゛
✂ (º∀º) ✂---------キリトリセン--------✂ (º∀º) ✂
by 池田聡『幸福』 ♪̊̈♪̆̆̆
(ღ•ㅂ•๐) 【歌詞】
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 すべてはもう 君の方へ ♪゛
(ღ•ㅂ•๐) 🎼 向かっているのに ♪゛
✂ (º∀º) ✂---------キリトリセン--------✂ (º∀º) ✂
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___ ✍ かきこ“〆(^∇゜*) 歌姫も母の日です。 🌷🌹🌺🌻🌼💐
さて、皆さん何処へ行くかだな・・・...φ(︶▽︶)φ....
密かに追跡調査~🤗な~んて、言わなくても歌の世界にいたらバレるね‼_φ( °-°)/
アイタタタ.......c⌒っ゚д゚)っφ メモメモ...
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「lightmellowbu presents 90年代シティポップ名曲ランキング」anouta若山セレクトの20曲
http://lightmellowbu.blog.fc2.com/blog-entry-158.html
タツロー/まりやという権威を頂に仰ぐ形(ヤマタツ・ピラミッド)にすっかり見慣れてしまったこの数年の「シティポップ・ランキング」.....これではイカンザキ、とそこに鮮やかな軛を打つべく(?)、今夏に堂々公開された「 lightmellowbu presents 90年代シティポップ名曲ランキング 」。bu員&moreで好き勝手選びそれを集計した形をとったため、その結果は選んだ本人たちが驚くくらいカオスなものとなり(現在も1位の「村井博」は入手困難という...私は何故か持っていました)、また来年に集計すれば来年に知った盤が幾つか入るような状況であることも間違いなく、これらから導き出せるのは「このランキングは中間報告、あるいはプロセスなので引き続き各々digや理解を進める以外に道はない」という、ある種「修羅の道」のような事実なのでした。来年も再来年も生きなければならない。
というわけで、自分がチョイスした20曲も年内に公開しておくべきであるはずなのでそうします。「90年代」というワードにかなり敏感になりつつ選びました、というのも91年はトレンディですが97年はトレンディではないのだから...94年以降の盤はかなり「おずおずと」ピックアップしているのが透けて見えるはずです。
「90年代シティポップ」という定義は真剣に考えると意外と難しい。例えば80��代に(タイアップのヒット曲である)「RIDE ON TIME」をチョイスするかの如く、「hello,my friend」「ラブストーリーは突然に」を選ぶのはアリなのか?ASKAやミスチルの「シティ感のある楽曲」の扱いは?等々。それらを選ばない理由があるとすれば「J-POPだから」という感覚的な種別がありそうですが、「J」と「CITY」のその感覚的な差がどこにあるのか、自分は経年と共にだんだん忘れていってます。「CITY」と「渋谷」もそう。2020年なりの根拠不明な「踏みとどまり」を、以下のランキングから感じていただけたらまあ面白いのではないでしょうか。

1.君と僕と彼女のこと / 坂本龍一 Feat.高野寛 作詞 大貫妙子 作曲・編曲 坂本龍一 (From Album「Sweet Revenge」1994)
歌詞中の「10年後」というキーワードが象徴するように、 70年代の「都会」80年代の「色彩都市」由来の都市感覚を引き継ぐ楽曲であるという強い思いから1位チョイス。クィアネスがニューヨークの所謂「カッコイイ」イメージを触媒としつつ、新鮮さ(と奥ゆかしさ)をもって綴られているのも90年代ならでは。
2.心から好き / 宮沢りえ 作詞 KIKUJI 作曲 山田直毅 編曲 難波正司 (From Single「心から好き」1992)
奇跡のような出来栄えにアイドル歌謡枠に入れることすら憚られるミッドナイト・アーバン・ジャム。音数少なめの打ち込みに「エロティックな関係」を充分に孕む歌声が乗り、スムース感触を持続させる。伊東たけしのサックスが切り込んでくる瞬間を固唾を呑んで待つ。
3.チャイナ・カフェ / 高橋徹也 作詞・作曲 高橋徹也 編曲 高橋徹也、上田禎 (From Album「夜に生きるもの」1998)
「10年代シティポップ」の20年先取りに聴こえる強曲。タイトなビートにサチモス的深夜不良感を含ませつつも、歌声には東野純直的な「90年代の実直さ」もどこか垣間見え、のっぴきならない。スガ槇原らのようなタレント的な個性が全編さほど現れず、故にどの時代に聴いても瑞々しい。
4.21世紀の恋人 / 谷村有美 作詞 神沢礼江 作曲 柴矢俊彦 編曲 西脇辰弥 (From Single「21世紀の恋人」1991)
ceroのラジオで5年くらい前にかかっていた。子供のころに耳なじんでいた「ふつうの曲」が、時間を超えて「取り戻せない輝き」として聴こえることに驚く。あの頃のブラウン管越しにはまだあった「未来としてのシティ感覚」。
5.湘南ドリーミング / 村田和人 作詞 安藤芳彦 作曲 村田和人 編曲 中村哲 (From Album「空を泳ぐ日」1990)
当時賛否両論あったという「村田×打ち込みアレンジ」だが個人的にはど真ん中、大成功、トレンディ。ジャケのような、デジタル・グラフィックのひとつ前くらいの「絵の中の青空」を感じる。
6.せつなかった日 / 上田まり 作詞・作曲 上田まり 編曲 浅野祥之 (From Album「room」1998)
レココレのシティポップ別冊でその存在を知ったレイト90sレアグルーヴ。ミーシャ宇多田前夜の中間期グルーヴィー楽曲はまだまだ未発見盤が多い。この路線でアルバム1枚統一させていれば…
7.はじまりのkissをして / 長沢有起 作詞 鮎川めぐみ 作曲 熊谷幸子 編曲 松本晃彦 (From Album「kiss and make up」1993)
90年代日本が誇るべき天才作曲家、熊谷幸子。大大傑作のファーストセカンドから1曲というのがどうしても選べず、同時期の提供曲からピックアップ。按摩のようにほぐれてゆくメロディに聴き手はただ身を任せるだけ。
8.What do you want me to do -どうして欲しいの- / 中原めいこ 作詞・作曲 中原めいこ 編曲 中村哲 (From Album「303 EAST 60TH STREET」1990)
まあ80年代の延長ですが...90年代に中原は沈黙してしまうので「すべり込み」とチョイス。チャキチャキしたニューヨーク感覚、ブギーとラテンの狭間をトレンディに縫合していく打ち込みアレンジ。元気。
9.Candy / 具島直子 作詞・作曲 具島直子 編曲 桐ケ谷"bobby"俊博 (From Album「miss G.」1996)
この曲を「シティポップ」と呼んでいいのかかなり長い間ためらいがあったし今でも迷いがあるけど、いい曲だしみんな好きだしと日和ってチョイス。多分真の再評価はあと10年後くらいにやってくる。
10.雨がやまない / SMAP 作詞 久和カノン 作曲 寺田一郎 編曲 長岡成貢 (From Album 「SMAP 007 ~Gold Singer」1995)
BTSの「関係性発露」がSMAPを源流にした意識下にあることは間違いなく、殊に「6人組時代」の上下感の希薄さは彼らにより近い。「ダイナマイト」の次に「Life Goes On」と言うか「セロリ」とくるか、これは好みの問題。
11.キミとボク / 鈴木蘭々 作詞・作曲 EPO 編曲 清水信之 (From Single「キミとボク」1998)
2021年はボサノヴァが来るのでしょうか。誰よりも「痛み」を分かるシンガー、EPOが90年代の内外状態と向き合って静かに放った(提供した)赦しのラブソング。ゲイを救う歌詞とも思う。
12.Everlasting Love / 麗美 作詞・作曲 堀川麗美 編曲 堀川麗美、萩田光雄 (From Album「夢はおいてませんか?」1991)
あまりにも出来がいい、どこを切ってもザッツ91年なブラコン・ミディアム。これをやりたいという確かな意思を感じる。もし麗美に「ユーミン時代」が無かったら、却って現在の評価は高かったのではないだろうか…
13.抱きしめたい / 米米CLUB 作詞・作曲 米米CLUB 編曲 中崎英也 (From Album「Phi」1993)
米米やドリをシティポップと言っていいのか...しかしこの曲は良い。カップスープのCM曲だったこともあって「トレンディ生活」モードが幼年の記憶と共に刻まれていて、なしくずし的にチョイス。
14.私達を信じていて / Cindy 作詞 康珍化 作曲 Cindy、鳴海寛 編曲 鳴海寛 (From Album「ANGEL TOUCH」1990)
この曲も「トレンディ生活」な温度極まりない(温度極まりない?)マイフェバリット。アゲすぎない上品さは同時期の中山美穂(Cindy、鳴海共にクレジット)ともすごく相性が良く、こちらもサブスクで必ず聴くこと。
15.RAIN DOLPHIN / 有賀啓雄 作詞・作曲・編曲 有賀啓雄 (From Album「umbrella」1992)
「雨が降る、テンテケンテケン」の出だしがすべてとも言えそうなレイニー・モワレ・おセンチミディアム。この感じをより色気方向に結びつけた藤井フミヤ「わらの犬」(有賀編曲)も入れたかった。
16.ヴィーナス / Original Love 作詞 木原龍太郎 作曲 田島貴男 編曲 オリジナル・ラヴ (From Album「結晶 SOUL LIBERATION」1992)
昔彼らを「ジナラヴ」と略すとTVでやっていて中学くらいまではそう呼んでいた。「クイズ!年の差なんて」で「ミスチルとは何の略でしょう」という問題が出たとき、加藤茶は「日本のスープ※」と答えていた。
17.COOL WATER / 浜本沙良 作詞 夏野芹子 作曲 山口美央子 編曲 有賀啓雄 (From Album「Truth of Lies」1995)
フォーライフから何か1���入れなければ、とbuのthaithefishさんフェバリットを。アルバムの1曲目が中原めいこ調ラテン・ポップスでこれが2曲目というのが面白いのですが、いつもこっちから聴いてしまう。
18.Love Popsy Love / いしだ壱成 作詞・作曲 いしだ壱成 編曲 中村哲、いしだ壱成、迫田到 (From Album「Simple Thing」1994)
何気に中村哲アレンジ3曲目。全然意識はしてませんでしたが…このアルバムはカトーマサカーで〆にかけるくらいに好きです。詳しくはトレ歌ブ第23回をご覧下さい。
19.新しい風 / 岩下清香 作詞 福士久美子 作曲 片寄明人、堀江博久 編曲 井上富雄 (From Album「眠らせないで」1996)
90年代シティポップ、と言った時にまず頭に浮かんだのは実はこの曲だった。buのinudogmaskさんミックス「Soul, Female, Mellow, Yellow」や片寄明人のシティポ始祖鳥的オムニバス「Mellow Best of J-AOR」に収録。
20.夏のおわり、近づいた空 / GWINKO 作詞 大山潤子 作曲・編曲 柿崎洋一郎 (From Album「I'M IN」1990)
この曲をサンプリングしたフューチャーファンクありましたよね(何だっけ…?)NJSとシティポップの結節点的な重要曲なので、今後もっと「名曲」扱いしてオムニバス等に収録してほしい。
※「ミスチル」と「みそ汁」をかけた
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Facebookで7日間ブックカバーチャレンジという、いわゆるバトンが回ってきたので今日までやっていました。
バトンが流行っていたあの時代、最初はノリノリでやっていたものの次第に面倒くささや少しのモヤモヤに飲み込まれ遠ざかっていきました。
正直なところ今でも少し苦手ですが、基礎疾患が多く厳重に引きこもる何も起きない日々……苦手なルールを排除してやってみようと思った訳です。
以下敬称略です。
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1
『寺山修司少女詩集』 角川文庫
著:寺山修司
とある病気で手術をし入院生活を送っていた時に常に持っていた詩集。短い詩も多いため音読をしたり書き写したりと、リハビリの供として大変お世話になりました。
『ヒスイ』という詩が作曲家の信長貴富によって合唱曲と独唱曲になっており、主メロがとても好きなのでいつか歌えないものかと思って楽譜を眠らせています。合唱になっている詩なら『飛行機よ』も好きです。曲がまた最高なんですよ、冒頭のアカペラがホールに響く気持ちよさ……いかんいかん、合唱ができない日々に悶々として合唱の話をしてしまう……。
2
『これは のみの ぴこ』 サンリード
作:谷川俊太郎 絵:和田誠
表題の「これは のみの ぴこ」から始まる壮大な言葉遊び(ネタバレになるので言葉遊びとしか言えません)……黄金コンビの���川俊太郎と和田誠による詩の絵本です。和田さんがレタリングしたのだろうと思うのですが、絵にぴったりのフォントが良いです。
四歳頃全文を暗記、今でも暗唱出来るというのが私の地味な特技です。ページを繰るごとに一文が増えていくこの絵本、繰り返し繰り返し読み聞かせをする側は大層地獄だったと思います。ごめんなさい。でもまあ、あくまでも絵本なのでそんなにお時間は取りませんから、うんざりせずに読んでください。全文暗唱出来るという地味な特技が出来るかもしれません。
3
『指輪物語』評論社
著:J・R・R・トールキン 訳:瀬田貞二・田中明子
映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原作で文庫版は全10巻にも及ぶ超大作ファンタジー小説です。全ファンタジー小説の始祖的な物語。前日譚の『ホビットの冒険』も含めた中つ国の物語がとても好きです。文字や地図に歴史、文化。その全てが著者による創作なのに、隙を感じさせないところが最高。この長さで挫ける人もいるとは思います……でも、面白いです!こんな時にファンタジーはいいかもしれませんね。
映画も好きで何度も観ていますが、小説版は映画を観たあとでも十分楽しめます。レゴラスはいいぞ!!もう、映画だけでもいいから!映画もめちゃくちゃ長いけど!!映画だったら、王の帰還でピピンが宰相の前で歌う曲がいいです。作業中に映画のサントラを流すと壮大な気持ちになれておすすめ!
4
『七色いんこ』秋田文庫
作:手塚治虫
手塚治虫といえば火の鳥、ブッダ、アトム……いろいろありますがあえての七色いんこです。漫画類が禁止されていた幼少期に祖父がぽんとくれたのが七色いんこ5巻でした。火の鳥は親と共に行った人の家に全巻あり貪るように読んでた気がします。ブッダは小学校の時教室にあったなあ。あれは何故だったんでしょう。
七色いんこの話に戻ります。なんと言っても、いんこがカッコいいんですよ。あとトミー。ルパン三世しかり、世界各地にある秘密基地、老若男女誰にでも変身出来るマスク……ロマンが溢れます。こういうの、憧れる時があると思うんですが、え?ないですか?またまたぁ。ラストに犬のタマサブローが主人公のお話があり、そこに私の推しのタコブネ(のようなもの)が出てきます。タコブネ、かわいいタコブネ……。
5
『学研の観察図鑑2 昆虫2・クモ』学研
監修:国立科学博物館 友國雅章
小学生時代、旅行でも持ち歩いていたポケット図鑑です。自然についてや、カメラやボードゲームについて教えてくれた方との思い出もたくさん詰まっています。これは○○アブ!あれは△△アブ!それはハエ!それはハチ!!とかやってましたね……。
幼少期に愛読書=図鑑の時期があると思うんですが、それが昆虫倶楽部という特殊な部活に入部したことも相まって相当長引いていたように思います。ビビりなので普通に害虫(Gとか)は嫌いですが、無駄に知識だけはモリモリあります。そういえば、昔ディスカバリーチャンネルでGの研究者がその身体能力について嬉々として語るとか見てたな……あいつら脚の動きがね、すごいんであんなに速いらしいっすよ。
6
『鳥の王さま ショーン・タンのスケッチブック』
著:ショーン・タン 訳:岸本佐知子
アニメーション作家でもある著者による画集です。眺めているだけで本当に幸せになれる本。去年、ちひろ美術館東京で開催された展覧会も見に行きましたし、翻訳されている絵本はかなり持っています。ちひろ美術館では展覧会の画集と『セミ』という絵本を買いました。可哀想で可愛いセミ。自由だ!セミ!
風景や人物スケッチは当然素敵なのですが、何より不思議生物達が可愛い。本当に可愛い。大してない語彙力が消滅します。眼福眼福……。いつかこんな絵が描きたいけれど、描けないだろうなあと思って寂しくなるくらいお気に入りです。この人の毒はゴーリーのような即効性はありませんがじわじわと優しく効く毒です。絵本『エリック』もいいぞ!(ゴーリーだったら『うろんな客』がいいぞ!)
7
『アヒルと鴨のコインロッカー』創元推理文庫
著:伊坂幸太郎
伊坂幸太郎の小説が好きでこれまたたくさん読んでいるのですが、ここは一番最初に読んだ本を。
新幹線の中で読もうと東京駅の本屋で手に取ったのがこれで、ここだけの話旅行より夢中でした。以来、伊坂幸太郎に限らず、ばらまかれた伏線達が最後に集合し結実するカタルシスの虜です。映画もいいよ。他におすすめするなら、初期作品は当然なんですが是非『フィッシュストーリー』を。短いのですんなり読めます。映画も最高。もうすっかり結末はわかってるのに何度も観ちゃう。斉藤和義の作った劇中歌も最高なんで。止まらなくなるので切り上げますね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上、ブックカバーチャレンジは終了です。
1、詩集
2、絵本
3、ファンタジー
4、漫画
5、図鑑
6、画集
7、ミステリー
このようにジャンル分けをし、思い出のあるものを中心に無理矢理絞り出しました。なのでちょっと中途半端な気もします。
図書館に行ったら上限冊数借りてきてしまうような、いわゆる本の虫には酷なバトンでした。他にもオーデュボンの祈りとかボッコちゃんとか儚い羊たちの祝宴とかぶらんこ乗り、エッシャーの画集、やっぱりオオカミ、ことわざ辞典、伝記類……はてしない物語ギリシャ神話ラブクラフト全集バスカヴィル家の犬青い鳥聖☆おにいさんオズの魔法使い怪盗探偵山猫不思議の国のアリス腕貫探偵おおきな木福家警部補……切りがないので解散!!
お付き合いくださいましてありがとうございました。最後に、今読んでいるのは
『不穏な眠り』文春文庫
著:若竹七海
探偵葉村晶シリーズ最新刊です。葉村晶シリーズ一巻目『依頼人は死んだ』は短編集なので入りやすくこのシリーズの醍醐味が詰まっていて、導入として最高です。ドキドキハラハラ……えっ……あ……うわあああああああああってなれます。
以上です。では。

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���初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、��ダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのに���わけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員���なった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた��60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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橋本環奈のクラスメイトに、小関裕太・瀬戸利樹ら注目の若手俳優集結!生徒を追い込む"最狂教師"に中村獅童!
橋本演じる樫村に密かに想いを寄せる、サッカー部一のモテ男・榊蒼汰役に、映画『春待つ僕ら』や NHK 連続小説「半分、青い。」など話題作への出演が絶えない小関裕太、クールな性格の持ち主でクラスメイトたちからは一歩距離を置く和田隼役に、ドラマ「偽装不倫」のピンク髪のボクサー・八神風太役で注目を浴びる瀬戸利樹、そして、生徒を絶望の淵へと追い込む担任教師・下部役には、京都南座「八月南座超歌舞伎」にて初音ミクと共演したことでも話題の中村獅童が務める。
また、生徒役のキャストには、小関演じる榊と同じくサッカー部に所属しキャンプテンを務める仲間思いの西園寺聖也役に、舞台「デスノート THE MUSICAL」の主演が決まっている甲斐翔真、同じくサッカー部所属で内気ながら優しい心を持つ藤春昴役に、ドラマ「あなたの番です」などの中尾暢樹、同じくサッカー部所属でムードメーカーの桐野玄役に、『JK☆ROCK』などの福山翔大、 野球部に所属し彼女思いの羽柴健太役に、雑誌「MEN'S NON-NO」専属モデルとしても活躍する中田圭祐、人と関わるよりも読書が好きなクールな図書委員・園田樹里役に、雑誌「NON-NO」の専属モデルとしても活躍する 山田愛奈、樫村と共にバドミントン部に所属する親友の小泉はるか役に、ドラマ「今日から俺は!!」などの 若月佑美、ダンス部に所属するクラスのお調子者・関克美役にドラマ「あなたの番です」などの前原滉、DJ 部に所属するノリが軽い山本英司役に、ドラマ「ルパンの娘」などの栗原類、身体が弱いながらもマネージャーとして健気にサッカー部を支える箕輪紀子役に、『凪待ち』などの恒松祐里らが務める。
今注目を集める若手キャストたちが、どんな演技バトルを繰り広げるのか?また中村獅童は、生徒たちを奈落の底に突き落とす“最狂教師”をどのように演じるのか?是非ご期待ください。
ーコメントー
◆榊蒼汰役:小関裕太 スリリング作品が大好物な上、原作が大好きなので、出演が決まった時は嬉しくて飛び跳ねました。 何を信じていいのか。何を疑わなければいけないのか。崩れて行く人間関係。1秒1秒のその人の選択するものによって未来が変わってしまう恐怖。 そんなスリリング映画を観終わった後僕はいつも、水一滴の美味しさ、生きることへのありがたみ、自分の悩んでいることのちっぽけさを感じます。 『シグナル100』の現場では、予測不可能な展開にリアルに怯える撮影の日々でした。 是非この映画を観に来てくださる皆様には、僕たち生徒36人の「生きよう」とする様を、一瞬も逃さず手に汗握りながらご覧いただきたいです。
◆和田隼役:瀬戸利樹 和田隼役を演じさせて頂きました。 この役は自分にとって挑戦でした!どう演じるか悩みに悩んで挑んだ役です。 自殺催眠にかけられた生徒が生き残りを賭け、足掻いている姿、人間の本性、必見です! 撮影中は狂気的な作品ということもあって刺激的な毎日を過ごさせてもらっていました。 それと同時に毎日学校で撮影だったので、どこか高校時代に戻った気分になりました。 僕にとって初めてとなる、心の中のどこか一部分に小さな狂気を宿しているような 役柄を是非見て頂ければと思います。
◆下部役:中村獅童 教師役というのは、あまり演じる機会がなかったのでとても新鮮でした。 下部の狂気じみた行動は、周りからみれば特異ですが、彼自身はそれが正義だと思っています。何を考えているのかわからない謎めいた不気味さを出せるよう努めました。 撮影現場は、橋本さんを中心に明るく活気があり、束の間でしたが良い刺激を受けました。 ストーリーがとても面白い作品なので、映画館の大きなスクリーンで是非ご堪能いただければと思います。
<バレー部> 何でも話し合える親友のふたり。学校内では常に行動を共にしている。 野島芽衣子役・工藤綾乃:『HiGH&LOW THE MOVIE』 君津早苗役・鈴木つく詩:SUBARU TVCM "Your story with"シリーズ「灯台」編 <不良少年グループ> 先生に楯突くこともある、クラスの問題児たち。 久保田純哉役・中島健: 『HiGH&LOW THE WORST』 堂上真一郎役・市川理矩:『花燃ゆ』 児玉力役・小出水賢一郎:『スマホを落としただけなのに』 <遅刻常習者の自由人> 明るい性格の持ち主だが、何度注意されても遅刻癖は治らず、先生たちには半ば諦められている。 吉川絵美役・三上紗弥:「覚悟はいいかそこの女子。」 <帰宅部> クラスの中ではあまり目立たない優等生グループ。 井沢学役・白石拳大:『いぬやしき』 森聡志役・安田啓人:ドラマ「不甲斐ないこの感性を愛してる」 米村麗華役・真崎かれん:『君は月夜に光り輝く』 渡辺望役・中島来星:ドラマ「西郷どん」 <イケてる女子グループ> クラスの中でも目立つ存在の女子グループ。みんな榊が好きで、あわよくば彼女の座を狙っている。 小宮山澪織役・北村優衣:『黒崎君の言いなりになんてならない』 朝比奈優子役・さいとうなり:『ホットギミック ガールミーツボーイ』 萩野里未役・宮下一紗:舞台「SECW(School entrance ceremony wars)~入学式戦争はモノガタリの始まり~」 佐々木萌香役・駒形咲希:『ハルチカ』 <ラグビー部> 責任感の強い爽やかコンビ。 加藤涼役・神田穣:ドラマ「クロスロード~声なきに聞き形なきに見よ~』 坂本紀人役・黒澤胤也:AbemaTVドラマ「1ページの恋』 <バスケ部> 明るくふざけてばかりいるやんちゃコンビ。 藤田陽太郎役・東啓介:劇場アニメ『薄墨桜 -GARO-』 日野匠役・宗綱弟:浅草軽演劇集団・ウズイチ メンバー <ダンス部> 関(前原滉)と水谷、江崎と小山内は、クラス公認のカップルで、ラブラブすぎて目に余ることも。 小山内夏生役・戸苅ニコル沙羅:ドラマ「相棒 Season16」 江崎大和役・吉田仁人: 『斉木楠雄のΨ難』 水谷雫役・山本彩加:NMB48メンバー <文化系女子グループ> クラスの中でも地味な部類の女子グループ。共通の趣味で毎日密かに盛り上がっている。 津島愛役・大森つばさ:ドラマ「ぬけまいる」 安西桃子役・河井つくし:舞台「some day」 鈴木みのり役・宮本夏花:AbemaTVドラマ 『1 ページの恋」
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続・こしろさま
1. 芙紗子(ふさこ)の家は森と田んぼの境界に建つ一軒家で、映画のトトロの女の子の家にちょっと似ている。 家から学校まで車道を歩けば30分。 田んぼの畦道(あぜみち)を抜けて近道すれば25分。 小学二年生の女の子が通うには少し遠いけど、村の子供にとってそれくらいの通学は当たり前のことだった。 このところ芙紗子が頑張っているのは自転車の練習だ。 裏の庭には古い農具を置いていた納屋があって、去年それを取り壊して芝生を植えたから、今は自転車の練習に頃合いの広場になっていた。 毎日学校から帰ると、ママに呼ばれるまで練習する。 ペダルを外した自転車で地面を蹴って走るのは、もうだいたい大丈夫。 明日は土曜だからパパに頼んでペダルをつけ直してもらおう。 家の前に自動車が止まった。初心者マークをつけた赤い軽ワンボックスカー。 女の人が降りてきた。 カーキ色のカーゴパンツにゆるゆるのTシャツ。髪の毛は肩上のボブカット。 琴姉ちゃん!? 芙紗子が走って行くと琴音はぎゅっとハグしてくれた。 「芙紗子ちゃんっ、久しぶりだね!!」 2. 室谷琴音(むろたにことね)は芙紗子と同じ室谷姓で、家では「文吾さんのところの琴音ちゃん」と呼んでいた。 村民の半分が室谷だから、苗字が室谷の人間はたいてい下の名前で呼ばれるのだった。 文吾さんは琴音の祖父で、芙紗子のパパの伯父にあたる。 つまり琴音は芙紗子の再従姉妹(はとこ)である。 今は東京で大学生になったけど、高校を卒業するまでは村にいて芙紗子の面倒をよく見てくれた。 「自転車の練習?」 「うんっ。今年中に乗れるようになるのが目標だよ」 「そうだ、芙紗子ちゃん宛の荷物、郵便局で預かってきたよ。『こしろさま』の瓶でしょ? これ」 「あ、届いたんだ!!」 それは前の週にママと通販サイトで選んだガラスの瓶だった。 『こしろさま』にお越しいただくための特別なガラス瓶。 「わざわざ済みませんねぇ」芙紗子のママが礼を言う。 「いえいえ。近くへ行くなら届けてくれって、東京の郵便局なら考えられないですねー、あははは」 しばらく笑ってから琴音は二人に報告した。 「実は私、今年の大祭で巫女をすることになって」 「あら」「本当!?」 「それで今から神社に挨拶に行くんだけど、芙紗子ちゃん、その瓶一緒に出しに行く?」 芙紗子は真新しいガラス瓶に自分の名前を書いた紙を入れた。 それを紙袋に入れて両手に抱える。 「きちんと挨拶してお渡しするのよ」 「分かってるよっ」 芙紗子はママに手を振って琴音の車に乗り込んだ。 3. 『こしろさま』は秋の大祭で子供だけがもらえる神様だった。 ガラス瓶に入った綺麗な女の子の姿をしていて、そのためのガラス瓶は自分で用意して神社に提出することになっていた。 提出を忘れた子供には神社側で確保した瓶を使ってくれるけど、古い酒瓶や牛乳瓶になるから、どの子も嫌がって出し忘れる子なんていない。 運転席でハンドルを握る琴音が言った。 「ネットで買ったガラス瓶かー。私らの頃は佃煮の空き瓶とかだったなぁ」 「買ってもらえなかったの?」 「ネットもなかったし、わざわざ買うなんて思いもしなかったもの。・・でも、どんな瓶でも『こしろさま』は来てくれたよ」 「ね」「ん?」 「琴姉ちゃんの『こしろさま』ってどんなお姿だった?」 「そうだねー。最後にもらった『こしろさま』は中学生くらいに見えたな。髪の毛が長くて綺麗だったよ」 「あたしが去年もらったのはね、お人形さんみたいに目の大きな子だったよ!」 「よかったわねぇ。今年はどんなお姿か楽しみだね」 「うんっ」 村から祠川(ほこらがわ)沿いに車で10分ほど。 瑞鳳山(ずいほうざん)の中腹に大祠(おおほこら)神社がある。 御祭神である『おしろさま』はその昔、洪水から村を守るために自ら人柱になったお姫様。 そして『こしろさま』はその『おしろさま』の分身と言われる。 「しろ」は「祠閭」と書いて「しりょ」が正しい読み方だけど、言いにくいので今の読み方に変わったらしい。 琴音は麓の駐車場に車を駐めた。 祠川にかかる石造りの神響橋(しんきょうはし)を渡り、鳥居をくぐって参道を登る。 ブナの森に囲まれた境内に神社の本殿があった。 4. 社務所に行くと白衣に紫の袴を履いた宮司がいた。 この人は橘秋人(たちばなあきひと)、75歳で長年にわたって宮司として神社を守っている。 「室谷芙紗子ちゃんね。・・はい。確かに預かりました」 橘は芙紗子からガラス瓶を受け取り帳面に記録した。 「『こしろさま』のお渡しはお祭りの日の夜7時だからご両親と一緒に来てくださいね」 「はい!」 芙紗子はちゃんと挨拶をして瓶を渡せたことに安心する。 「おーい、今年の巫女さんが来ましたぞ」 橘が振り返って呼ぶと、奥から和装で総白髪の老人がもっそり現れた。 「え? 村長さん!?」琴音が驚いた。 「大祭の打ち合わせでね、ちょうどいらしてたんですよ。・・村長、こちら助務に入ってくれる室谷さん」 「室谷琴音ですっ。よろしくお願いします」 室谷仁三(むろたにじんぞう)は室谷本家の長で、90歳を超えて今なお現職の村長だった。 「文吾んのとこの琴音さんか。綺麗になったもんじゃ」 「あ、ありがとうございます」 「学校は休んでも構わんのかね?」 「はい、ゼミの方は大丈夫です。就職も決まりましたし」 「おお、東京で就職かね?」 「はい」 「若い人は村を離れてゆくのぅ」 村長は寂しそうに呟いた。琴音は何も返せない。 「そうじゃ、琴音さん」 「はい」 「仕事を辞めて結婚するときは、村のもんの嫁になってくれませんかな」 「ええっ。それは、まだ何とも」 「それとも都会で気になる男がいますのか」 「村長! お気持ちは伝わったから、琴音ちゃんを困らさんで」 帰りの車中。 琴音はちょっと怒っているようだった。 「いくら過疎の村だからって、人の結婚のことまで決めないで欲しいわよねっ」 「琴姉ちゃん、東京で結婚するの?」 「分からないわよ。相手もいないんだし」 「えー? もうお付き合いしてる人、いると思ってた」 「もう、芙紗子ちゃんったら・・」 琴音の顔が赤くなる。可愛いなと芙紗子は思った。 「もし琴姉ちゃんがお嫁さんになって村に帰ってきてくれたら、あたしは嬉しいな」 「分かったわ」 琴音が笑って答えてくれた。 「お嫁さんになれるかどうか分からないけど、戻ってこれるように頑張る」 5. 半月後。お祭りの当日になった。 芙紗子はパパとママに連れられて神社にやってきた。 森の中を登る参道は人でいっぱいだった。 この辺りの村々だけでなく、近隣の各県からも見物客が訪れているようだった。 「有名になったものねぇ」 「こんな田舎で "奇祭" が続いているのが珍しいんだってさ」 「村の人間には普通のお祭りなのにねぇ」 パパとママが話している。 芙紗子には奇祭の意味が分からない。 本殿に近づくとお囃子の音。境内に立ち並ぶ屋台。 社務所の隣には絵馬やお守りを売る臨時の授与所が設けられていて、そこに琴音がいた。 巫女服をまとった琴音はとても綺麗で眩しくて、芙紗子もちょっと巫女さんになりたいと思ったくらいだった。 「琴姉ちゃん!」 「あら、芙紗子ちゃん」 「その服よく似合ってるよ」 「ありがとっ。芙紗子ちゃんが褒めてくれると嬉しいな」

「忙しそうだね」 「まあね。もう『おしろさま』にお会いした?」 「ううん、まだ」 「じゃあ行ってらっしゃい。少し並ぶかもね」 「うん」 琴音の言った通り、本殿の入り口には行列ができていた。 『おしろさま』の御神体は平時は何重にも囲まれた箱の中にあるけど、大祭の日だけは誰でも拝めるようになっている。 薄暗い本殿で芙紗子は両親と共に『おしろさま』に向かって両手を合わせたのだった。 6. 「ふっさこちゃーん!!」 本殿を出てすぐ声が聞こえた。 屋台に囲まれた広場にクラスの女の子たちが集まって手を振っていた。 「パパっ、行っていい!?」 「行っておいで。お小遣いは大切に使うんだよ」 「うん!」 芙紗子が入って女の子8人のグループになった。 村の小学校は1学年に1クラスだけ。そのクラスも男女合計14人しかいないから、クラスの女子全員が集まったことになる。 「何する?」「金魚すくい!」「やろうやろうっ」「勝負だねー」 金魚すくいの屋台へ向かって行こうとしたそのとき。 「ねえ、キミたち、この辺りの子?」 スマホを構えた男性に話しかけられた。 「ちょっとお話聞かせてもらっていいかな? あ、僕ユーチューバーの突撃大二郎です」 「はい、何ですか?」 「キミたちはこの神社の御神体のこと、知ってる? 箱に入った白い棒だけど」 「『おしろさま』ですか? 知ってます」 「そうそう。『おしろさま』って、実は人骨だって聞いたことある?」 「人骨って?」 「ヒトの骨のことだよ」 何だ、そんなこと。 「はい。昔のお姫様の骨です。他にもいろいろな女の人の骨がありますけど」 「おおぉ~っ!」 その男性は大げさに驚いて、スマホに向かって喋り始めた。 「何ということでしょう。地元の子供たちはまったく疑問に感じていない。この令和の時代に人骨を拝んでいるのです~っ!」 琴音が小走りでやって来た。後には村の青年団の若手も何人かいる。 「そこの方っ。子供たちに変な話を吹き込まないでください」 「なんだよ。あんた」 「あなた、さっき無断で『おしろさま』の写真を撮ってたでしょ? 撮影禁止って強く言われたはずですけど」 「いや、無断で、だなんて僕は何も」 男性はスマホで何か操作しようとする。 「え? 圏外!? どうして!!」 「この境内だけどうしてか電波が入らないのよねー。こっそりアップロードなんて無理ですから」 「くそっ」 逃げようとする男性を青年団が取り押さえた。 「はいはい、社務所でそのスマホ調べさせてもらいますねー」 「そんなぁ~」 男性が連れていかれるのを芙紗子たちは肩をすくめて見送った。 7. 日が暮れて、東の空から満月が上った。 秋大祭は必ず満月の日と決められている。 一旦帰った子供たちが再び集まって来た。 そこに観光客はいない。 昼間の『おしろさま』が公開なのに対して、夜の『こしろさま』は外部に告知しない秘密の儀式だった。 ろうそくが灯る本殿。 宮司が一人ずつ名前を読み上げ、読まれた子は前に出てお祓いを受ける。 「邪気払い、清めて祠閭の加護を受けよ」 そして巫女から黒布に包まれた瓶を受け取るのである。 大人たちが後ろで見守っている。 自分の子が『こしろさま』を受け取るとどの親もほっとした表情をするのだった。 これでまた一年間、子供たちは健やかに過ごすことができる。 「はい。芙紗子ちゃん」 巫女の琴音が黒布の包みを渡してくれた。 芙紗子は受け取った包みを両手で捧げ持つ。 二人はそっと微笑みあった。 8. ・・『こしろさま』は神様だから、大切に扱うこと ・・お会いするときは、一人だけで、礼儀正しくすること ・・人前にお姿を晒さないこと。写真に撮ったり、絵に描いたりもしないこと ・・瓶の蓋は絶対に開けないこと。開けたら罰(ばち)が当たると心得ること ・・一人で最後までお世話すること これが『こしろさま』をお預かりした子供が守るべき約束だ。 大人たちも理解しているから、『こしろさま』がいらっしゃる間は無闇に子供の部屋に入らない。 『こしろさま』に会えるのは本人だけで、たとえ家族でもタブーだった。 自分だけの部屋がない家では、子供が一人で会える環境を配慮する。 芙紗子も床の間がある和室を一人で使うことが許された。 夜はそこで眠っていい。 もちろん一人寝が寂しいときは、今までのように両親と一緒の部屋で寝てもいい。 「ずっと起きてないで、少しは寝なさいね」 布団を敷いてくれたママがそう言って和室を出て行った。 これも配慮の一つだ。 この村では、大晦日と『こしろさま』がいらっしゃった日だけ、子供が夜更かししても叱られない。 部屋には芙紗子と『こしろさま』の包みだけが残された。 深呼吸してから『こしろさま』の前に正座した。 「こんばんわ、『こしろさま』。室谷芙紗子です。開けさせていただきます」 黒布の結び目をゆっくり解いた。 あのガラス瓶が姿を現す。 御神水を満たして封印を貼った瓶。 そしてその中に裸の女の子が浮かんでいた。

肌の色が薄めの女の子だった。 長い髪が瓶の中に広がってゆっくり揺れている。 身体は芙紗子よりもずっと成熟していた。胸も脚も柔らかそう。 でも目を閉じて眠る顔は幼い感じで、芙紗子と変わらない年頃のようにも見えた。 ・・きれい。 芙紗子は両手で自分の胸を押さえた。 どき、どき。 心臓が大きく鳴っているのが自分で分かった。 9. 目を覚ますと青い光があふれていた。 ここ、どこ? そうだ、床の間のお部屋だ。 縁側に面した障子が光っている。 芙紗子は布団から起きて障子を開けた。 月光が地面を照らしていた。 山の稜線。近くの森のシルエット。 真夜中なのに世界がくっきり見えた。 背中に別の光を感じた。 振り返ると、枕元に置いた『こしろさま』の黒布の包みから光が漏れていた。 怖くはなかった。 『こしろさま』は神様なんだから怖いはずはないと思った。 芙紗子はその包みを両手で持った。 どき、どき。 『こしろさま』を大切に抱えて、縁側から裸足で外に降りた。 パパとママは眠っているのだろう。家の中は明かりが消えて真っ暗だった。 夜中に家の外へ一人で出るのは初めて、両親に黙って出るのも初めてだった。 どき、どき。 いつも自転車の練習をしている裏庭にやって来た。 芝生にパジャマのまま腰を下ろした。 どき、どき。 見上げると空に満月があって、そこから月光がシャワーのように降り注いでいた。 包みを前に置き、結び目を解いた。 金色の光が溢れた。 『こしろさま』が瓶の中で眩しいくらいに輝いていた。 どき、どき。 どき、どき。 どうしよう? どうしたらいいんだろう? 芙紗子はパジャマの胸元のボタンを外した。 パジャマを上も下も脱いで丁寧に畳み、それから下着も脱いでパジャマの上に置いた。 生まれたままの姿になって『こしろさま』の瓶を裸の胸に抱いた。 どうしてそんなことをしたのか分からなかった。 ただ、そうした方がいいと思ったのだった。

明るく輝く『こしろさま』が笑ってくれたような気がした。 10. 次の日、学校では『こしろさま』の話題でもちきりだった。 「すっごく小っちゃな女の子だった! 可愛くて可愛くて泣いちゃった」 「わたしのは大きなお姉ちゃんっ。胸大きくって色っぽいのーっ」 「ボクのもおっぱい大きかった。あれ巨乳って言うんだろ?」「やだ、えっちー!!」「何でだよー」 「芙紗子ちゃんは?」 「髪の毛がすごく多くて瓶の中にふわって広がってるの」「へぇーっ、いいなぁ」 クラスじゅうで報告しあう。 芙紗子も自分の『こしろさま』を説明したけど、外に出て服を脱いだことは恥ずかしくて言わなかった。 家に帰ると、琴音が来てママと話していた。 「琴音さん、東京へ帰るんだって」ママが言った。 「大祭も終わったし、大学に戻らないとね」 「そうなの? 寂しいな」 「またすぐに会えるわよ。・・それでどうだった? 今年の『こしろさま』は」 芙紗子は琴音を裏庭に連れ出して二人だけになった。 「『こしろさま』はね、すごく綺麗な美人さん。見ているだけでドキドキするの。・・実はね、」 芙紗子は昨夜のことを話した。 琴姉ちゃんには全部話そうと決めていた。 夜中に『こしろさま』が輝いて、一緒に外に出たこと。 そして『こしろさま』の前で裸になったこと。 「そうか、冒険したんだね。芙紗子ちゃん」 叱られるかもしれないと思っていたけど、琴音は全然怒らなかった。 「あたし、いけないことしちゃったかな?」 「いけないことじゃないよ。私は芙紗子ちゃんのこと、素敵な女の子だと思うな」 「どうして?」 「だって、『こしろさま』にお尽くししたいって思ったんでしょ?」 ああ、そうか。 芙紗子はあのときの自分の気持ちを理解した。 あたしは『こしろさま』にお尽くししたかったんだ。 『こしろさま』みたいに綺麗な裸になって。 「裸になるって、女の子だけにできるお尽くしの方法だよ」 「『こしろさま』に伝わったかな?」 「きっと伝わったわ。・・でも約束。芙紗子ちゃんのママやパパが見たらびっくりしちゃうし、もう裸になるのはやめようね」 「うん。約束する」 「でも、ちょっと羨ましいな」 「?」 琴音はいきなり芙紗子を抱きしめるとおでこにキスをした。 「ひゃん!」 「芙紗子ちゃんの冒険、私もしてみたかった!」 次の日、琴音は東京の大学へと戻っていった。 11. 芙紗子は毎日学校から急いで帰って『こしろさま』に話しかけた。 『こしろさま』はずっと眠っているけれど、たまに目を閉じたまま微笑んでくれた。 口元から小さな泡がぽこりと出て浮かび上がることもあった。 『こしろさま』の身体は本当に綺麗だった。 自分も服を脱いで寄り添いたいと何度も思ったけど、琴音との約束を思い出して我慢した。 やがて『こしろさま』の周囲が薄く白く変わる。 御神水が濁り始めたのだった。 『こしろさま』が瓶の中にいらっしゃる期間はおよそひと月。 絶対に変えられない決まりだった。 芙紗子はその姿を忘れないように見つめ続ける。 次の満月の夜。 ほとんど真っ白になった御神水の中に『こしろさま』は溶けるように消えた。 『こしろさま』との時間は夢のように過ぎて行ったのだった。 年が明け、春になり、芙紗子は三年に進級した。 自転車も上手に乗れるようになって、一人で遠くの友達の家に行けるのが嬉しかった。 12. 老人と老婆ばかり10人ほどが大祠神社に集まっていた。 村の長老と呼ばれる人たちである。 瑞鳳山の上に幾重にも重なる頭巾雲が現れ、二筋の鮮やかな紫色の光彩が目撃されたのはその前の週のことだった。 「何年ぶりかな。お告げがあったのは」村長の室谷仁三が聞いた。 「前のお告げは17年前でした」宮司の橘が答える。 「それで神託の名前は?」 「室谷琴音です。今は東京で働いておられます」 「文吾の家の孫じゃな。確か前の祭りで、」 「はい。巫女の助務をしてくれた娘さんです」 「あれはいい子じゃ。明るくて礼儀正しい」 「そうですね」 「・・納骨の方は大丈夫ですかな?」 役場で助役を務める老人が聞いた。 「それは問題ありません。室谷の血筋ですから確実に応じてもらえます」 「そうか、では、」 村長は一旦言葉を止めて、琴音の顔を思い出した。 村の者の嫁になって欲しい、などと余計なことを言ってしまったな。 「では、そのときのために万時準備の程頼みましたぞ」 13. 「ストーカー殺人、被害者は一人暮らしのOL」 ニュースが流れたのはその年の8月だった。 「都内在住の会社員・室谷琴音さん(22)が帰宅中に刃物で刺されました。室谷さんは病院へ搬送されましたが死亡が確認されました。 警察は自称ユーチューバーの○○○(27)を殺人の疑いで緊急逮捕。容疑者は半年間にわたり室谷さんにつきまとっていた模様です」 14. ごり、ごり。 橘は作業の手を止め、タオルで汗を拭いた。 人骨を削る作業。 橘はこの作業をたった一人で40年間やってきた。 もう80歳に近いから、あと何年続けられるか分からない。 今はまだ名目だけの禰宜(ねぎ:宮司の補佐役)である息子に引き継ぐ日も近いだろう。 自分がある日突然、先代宮司の父親から『こしろさま』の準備を命じられたときのように。 境内の古井戸『神鏡井(かみかがみい)』から湧く御神水を子供たちから集めたガラス瓶に満たす。 そこへ『おしろさま』から削り出した骨粉を耳かきに半量ずつ入れる。 蓋をして封印を貼り、黒布に包む。 これを日々祈祷すれば、次の満月の日までに瓶の中に『こしろさま』が現れる。 『おしろさま』の御神体は若い女性の大腿骨だった。 毎年、複数の大腿骨から少しずつ骨粉を削り出す。 そこで削られる合計量は大腿骨の長さ約2センチに相当する。 大腿骨の全長は平均40センチ。 つまり約20年で大腿骨一本分を消費する。 消費するには供給が必要だ。 求められるのは村で生まれ育った若い女性の大腿骨である。 村で生まれ村で死ぬ者がほとんどだった時代は、若い女性が亡くなればその片方の大腿骨を神社に納めてもらうのに困ることはなかった。 しかし今は都会に出て行って戻らない者がほとんどである。 でも神様はちゃんと道を与えてくれた。 不思議なことに次の大腿骨の候補者はお告げで知らされる。 お告げを得たら、その情報は村の長老の間で秘密裡に共有され「その時」に備える。 当人に危害を加えたり、まして殺人を犯す訳ではない。 ただ待っていれば「その時」が訪れるのである。 琴音のときは遠い東京での事件だった。 それでも、村へ遺体の搬送、葬儀、火葬前の大腿骨取り出しなど、滞りなく処置できたのはお告げを受けて準備が整っていたからだ。 琴音の大腿骨は洗浄して炭酸ナトリウム1%溶液で煮込む処置を施した。 こうすることで保存性の高い白骨が得られ、菰(こも)を巻いて乾燥させるよりずっと早く「使える」骨になる。 これは橘が骨格標本の製作方法を参考に始めた手順だった。 今の時代、科学の知識を活用することが重要と橘は考えている。 『こしろさま』のお姿は元の骨の主に似ると言われる。 だから橘は、同じ子供に同じ骨を2回使わないように注意して管理している。 今年の『こしろさま』はどんなお姿かな? 子供たちには毎年ワクワクする気持ちを楽しんでもらいたいじゃないか。 今年の大祭では誰かの『こしろさま』に琴音の姿が現れるだろう。 ごり、ごり。 作業を再開した。額に再び汗が流れる。 橘は無心に人骨を削り続けるのだった。 15. 琴姉ちゃん!! 『こしろさま』の包みを開けた芙紗子が驚いた。 六年生になって今年が最後の『こしろさま』だった。 ガラス瓶の中に浮かんで眠るショートヘアの女の子。 そのお顔は琴音にそっくりだった。 3年前の事件は衝撃だった。 お葬式では泣きに泣いて大人たちを困らせたけど、今は落ち着いて琴音のことを思い出せるようになっていた。 ねぇ、琴姉ちゃん。『こしろさま』になってあたしに会いに来てくれたの? 二階の窓に風が吹いてカーテンが揺れた。 芙紗子の家は改築されて念願の子供部屋を作ってもらえたのだった。 窓から丸いお月様が見えている。 考えてみれば今まで『こしろさま』がいらっしゃた夜に月が陰っていた記憶はない。 雲ひとつない夜空に必ず満月が輝いていて、世界を青白く照らしているのだった。 芙紗子は月光が好きだった。 部屋の明かりよりお月様の明かりの方がずっと素敵だと思う。 芙紗子は照明を消す。 『こしろさま』の瓶を持って窓際へ行った。 ガラス瓶を掲げて月光にかざすと、琴音にそっくりな『こしろさま』がふわりと金色に光った。 ・・大きくなったね、芙紗子ちゃん。 「琴姉ちゃんっ、やっぱり来てくれたんだね」 ・・今日は神社に来てくれてありがとう。 「え? 神社にいたの?」 ・・いたよ。これからもずっといるから、いつでも会えるわよ。直接お話しできるのはこれで最後だけどね。 「行くっ。お話しできなくても絶対に行くよ!!」 ・・待ってるわ。 『こしろさま=琴姉ちゃん』がきらきら輝いている。 綺麗だな。あたしもこんなに綺麗になれるかな。 「ねぇ、あの約束覚えてる?」 ・・『こしろさま』の前で裸にならないって約束? 「うん。あたしずっと守ってきたんだよ。でも、もう破ってもいいかな」 芙紗子は思い切って言った。 「あたし、琴姉ちゃんにお尽くししたい」 芙紗子は着ていた服を脱いだ。下着も全部脱いで裸になった。 2年生のときよりずっと身長が伸びて胸も膨らみ始めていた。 初々しい少女の身体を『こしろさま=琴姉ちゃん』に見せた。 ・・素敵な女の子になったね。芙紗子ちゃん。 「あたし、もう12歳だよ」 ・・そうだったね。もうすぐ大人になるんだ。 「だからね、もう知ってるんだよ」 ・・うふふ、何を知ってるの? 「女の子が裸でお尽くしするって、本当はエッチな意味だってこと」 笑い声が響き、『こしろさま=琴姉ちゃん』の身体が眩しいくらいに輝いた。 16. 深夜。 二階から階段を下りる足音がした。 芙紗子の両親はぐっすり眠っていて目を覚まさなかった。 玄関の扉がそっと開き、ガラス瓶を抱いた女の子の影がするりと出て行った。 天空に満月。 降り注ぐ月光を浴びて、全裸の芙紗子が『こしろさま』の瓶を抱いて踊る。 瓶の中には金色に輝く小さな裸の女の子。 二人の冒険の時間はもうしばらく続きそうだった。
~登場人物紹介~ 室谷芙紗子(むろたにふさこ) :8歳、小学2年生。ガラス瓶に入った神様『こしろさま』を受け取る。 室谷琴音(むろたにことね) :22歳、芙紗子の再従姉妹(はとこ)。東京の大学に通っている。 橘秋人(たちばなあきひと) :75歳、大祠神社宮司。 室谷仁三(むろたにじんぞう) :90歳、室谷一族の長で村長。 前回のお話 の約10年後の出来事です。 前はAIに描かせた挿絵に適当に文書をつけただけでしたが、今回はきちんとプロットを作成して少し長めのお話になりました。 神社の御神体である人骨の設定は作者の嗜好です。 グロの要素はないつもりですが、苦手な方がおられたら申し訳ありません。 あと、前回の主人公(一人語りの「私」)は本話の琴音さんです。もうお判りですよね。 挿絵は今回もAIに生成させました。 立ちポーズの巫女さんを描かせるのは簡単でしたが、水中に浮かぶ『こしろさま』は試行錯誤を繰り返しました。 手足のバランスやポーズが難しいのもさることながら、裸体絵なので Tumblr の規制に抵触しそうな絵を描きがちなのですよ。 それでも水中に広がる髪が美しく(よく見ると変な部分もありますが)描けたのはさすがAIです。こんなの自分では絶対に描けません。 大祠神社に纏わる部分は(ロケーションやいろいろな名称、お祓いの祝詞に至るまで)自然言語AIの ChatGPT に考えてもらいました。 こういう設定は下調べに手間取るので、AIがそれらしく適当に決めてくれるのは助かります。 例えば、宮司の橘さんが御神水を汲んだ境内の古井戸。ChatGPT によるその名前の提案と解説は次の通り; 古井戸の名前として「神鏡井(かみかがみい)」という名前を提案します。 この名前は、神聖な鏡を意味する「神鏡」と、水が湧き出る井戸を表す「井」を組み合わせたものです。 「神鏡井」は、古式の風情と神聖さを感じさせる名前で、神社の境内に佇む御神水を象徴的に表現しています。 この井戸から湧き出る水は清らかで、神職や参拝者にとって特別な存在とされています。 どうですか。命名の根拠は2行目だけ。 後の説明は雰囲気で押し切っていて、それでも「なるほど」と思わされてしまいそうになるのは流石ww。 テレビドラマでよくある広告コンペのプレゼンなどはもうAIに任せれば十分ですよね。 私も引き続き遠慮なくAIに頼らせてもらうことにします。 さて、『こしろさま』の連作はこれで終わりです。 次の発表までまた時間がかかると思いますが、ゆっくりお待ちください。 ありがとうございました。 [2023.8.10 追記] こちら(Pixiv の小説ページ)に本話の掲載案内を載せました。 Twitter 以外にここからもコメント入力できますのでご利用ください。(ただしR18閲覧可能な Pixiv アカウント必要)
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映画『宵待草』
Amazon Primeで神代辰巳監督、長谷川和彦脚本の映画『宵待草』(1974)を見ました。
久しぶりにーー何十年かぶりにーー見た映画ですが、やっぱりいいなあこれ。
私は好きですね。
なにより物語の中心となる男二人、女ひとりの3人組、高岡健二と夏八木勲と高橋洋子が愛らしくてたまりません。
特に高橋洋子のかわいさは特筆すべきものがあります。
時代は大正ーー夏八木勲は反政府テログループの一員で、成金の息子(父親役は仲谷昇。友情出演なんでしょうか、一瞬だけ登場します)で帝大生の高岡健二も同じグループの一員です。
要人暗殺のための武器を奪おうと彼らは憲兵の詰所(なのかな。とにかく憲兵たちがいるところです)を襲います。憲兵は二人しかいないので大丈夫だということでしたが、予想に反してうじゃうじゃ憲兵がいたため、彼らは必死で逃げます。
ほとぼりを醒ますためでしょうか、しばらくひなびた温泉地に出かけた高岡健二は、そこで謎の男(荻島真一)と出会い、一緒に芸者遊びをしますが、芸者と布団に入ってもセックスができません。高岡健二はセックスをしようとすると強烈な頭痛に襲われるという設定です。
彼はまたそこで華族の令嬢(高橋洋子)と知り合い二人で散歩をしますが、帰り道で縊死死体を見つけます。荻島真一の死体です。彼がなぜ自殺したのか、そもそも彼はどのような人間だったのかはわかりません。不親切と言えば不親切ですが、説明しないのが「粋」だということだと思います。
荻島の遺体を布団に寝かせた横で、令嬢お付きの書生が剣舞(なのかな)を披露します。弔いの儀式ということなんでしょうか。
そのあと高岡健二は高橋洋子を口説くそぶりを見せますが、書生が邪魔をするので、そのときは何も起こりません。
旅から帰った高岡健二と夏八木勲にテログループのリーダー(青木義朗)が要人暗殺の資金調達のため右翼の大物で華族の令嬢を誘拐しようと持ちかけます。もちろん(?)それは高橋洋子のことですが、この段階では高岡健二はまだそれを知りません。誘拐して初めてわかります。
夏八木勲は青木義朗に命じられ、身代金を受け取ったら高橋洋子を殺すつもりですが、高岡健二はそれをよしとしません。
身代金受け渡しのとき、高橋洋子の祖父(浜村純)は誘拐犯たちを殺すため刺客を用意し、高橋洋子に「国のために死んでくれ!」と言います。
あちゃー。
そこからは敵味方入り乱れての斬り合いーー高岡健二、夏八木勲、高橋洋子の3人はなぜか身代金の入った鞄を持って浜村純が乗ってきた自動車に乗って逃げることになります。
3人が鞄を開けると入っているのは現金に見せかけた新聞紙。がっかりして車から新聞紙の札をばら撒いているうち、映画の撮影現場に来ます。
青木義朗たちが彼らを追ってきたので、さらにそこから3人は気球に乗って逃げます。
なぜそんなところに気球があるのか、映画の撮影のために用意されていたのか、いろいろ疑問が湧いてきますが、一切説明はありません。
でも、いいじゃないですか。とにかく3人が楽しそうなので、見ているこちらも楽しくなります。
やがて気球に穴があき、彼らは地上に降りてきます。青木義朗たちがやってきますが、彼らもまたなんだかやたら楽しそうで、楽しそうに語り合い、楽しそうに斬り合い、青木義朗の手下3人は夏八木勲に斬り殺され、青木義朗も手傷を追います。
そこから3人は憲兵を襲って軍服とバイクを奪い、それを使って銀行強盗をします。
とんでもない展開ですね。でも3人が楽しそうなのでよしとします。
金を奪った3人は夏八木勲の実家に行きます。山狩りを逃れ、洞窟のようなところに隠れている3人のところに、夏八木勲の父親(殿村泰司)が饅頭を持ってやってきます。
夏八木勲が饅頭を食べようとすると、殿村泰司は饅頭を取り上げて頬張り苦しみ始めます。彼は夏八木勲に抜け道を教えて倒れて死んでしまいます。
警察に言われて、あるいはこのままだと自分たちの居場所がなくなると考えて息子を毒殺しようとしたが、できなかったということですね。
抜け道を3人で歩きながら、高橋洋子は「いいじゃない。親なんてどうだっていいじゃない」とひたすら言い続けます。
自分のせいで父親を死なせてしまった夏八木勲に対して、あまりと言えばあまりに酷な言葉ですが、高橋洋子はその言葉を自分自身に言い聞かせているようでもあり、夏八木勲を慰めるために言っているようでもあります。
夏八木勲もそれがわかったのでしょう、最初は怒っていますが、やがて高橋洋子を抱き上げキスをします。
この映画を見たのはもう数十年前ですが、この場面ははっきり覚えていました。これは日本映画史に残るべき名シーンだと本気で思います。
そのあと夏八木勲は3人で大陸に渡ろうと言って船の手配に行きます。うまく船長と話をつけたのですが、その帰りに何気なく手に取った新聞で青木義朗が要人を暗殺して(あるいはしようとして)捕まった(あるいは殺された)ことを知ります。
心中穏やかならざる夏八木勲は、浜辺の掘建小屋で彼を待っていた高橋洋子を押し倒します。それを見ていた高岡健二は彼女に「いいからやれ」と言います。
もちろん高岡健二と高橋洋子は恋人同士になっています。高岡健二はセックスをしようとすると頭痛に襲われるので最後までは行っていませんが、まあ恋人同士です。
それなのになぜ「いいからやれ」と言うのか。高橋洋子の気持ちはどうなるのかーー言い出せばキリがありません。
でも、私はわかるな、そういう気持ち。この映画は3人の男女の微妙な三角関係を描いたものです。これがわからない人はこの映画がわからないと言っていいだろうと思います。
そのあと今度は、高岡健二が高橋洋子を抱き上げ、別の小屋に連れて行ってそこで都々逸だか長唄だかを二人で口ずさみながらセックスをします。
「蝶々、蜻蛉が鳥ならば、シラミとるのも狩人で、花のお江戸の吉原で、春を売るのも商人か。親が裁判官で子が泥棒、検事・判事がおじさんで、そのまた従兄弟が弁護士で、今日の裁きはどうなるの」と楽しげに一緒に歌いながら裸で抱き合う二人のかわいいこと、かわいいこと。
それまで女性と同衾するたびに頭痛に襲われセックスをすることのできなかった高岡健二が「できた!」と言った瞬間は涙が出そうになりました。
珍シーンだとお思いですか。そうかもしれません。でもこれもまた日本映画史に残るべき名シーンだと、私は本気で思っています。
やがて夏八木勲は、自分だけのうのうと大陸に渡るわけにはいかないと思ったのでしょうか、高岡健二と高橋洋子にお前たちは大陸に渡れ、俺は東京に帰ると言います。
3人は一緒にさびれた駅まで行きます。3人はなんだかんだ話しながら、思い思いにでんぐり返りをします。
え? なぜでんぐり返り?
誰だってそう思いますよね。でも説明はありません。そこが「粋」です。
東京へ向かう夏八木勲を見送った高岡健二は、高橋洋子を浜辺に残して船長のところへ行きます。彼は船長に「乗るのは一人だ」と言います。
え? 高橋洋子は置いていくということですか。
「うーん」と思わないではありませんが、それが彼の選択なら仕方ありません。彼は一人で船に乗り込みます。
しかし、船には高橋洋子についていた書生とその仲間たちが潜んでいます。高岡健二は彼らに斬られてしまいます。
一方、東京に着いた夏八木勲は要人の乗った車に取りすがり、要人に向かって発砲します。彼が暗殺に成功したかどうかはわかりません。ただ、彼はその場で射殺されるか、あるいは捕まってしまうだろうと思えます。
そんなことは知らない高橋洋子は、戻ってくるはずのない高岡健二を待ちながら、浜辺ででんぐり返りをしています。
なぜでんぐり返りとはもう言いませんし、言わせません。
とにかくでんぐり返りをしています。
海に沈む夕日をバックにでんぐり返りをする高橋洋子の姿がストップモーションになるところでおしまい。
美しいじゃありませんか。
かわいいじゃありませんか。
数日前にもここに書きましたが、私は芝居や映画に使命があるとすれば、それは人間ってかわいいものだと観客に思わせることであり、それができている芝居や映画は名作だと思っています。
それほど有名な映画ではないと思いますが、『宵待草』は名作です。
是非ご覧ください。
追記: ネットを見ていると、『宵待草』の微妙な三角関係をジョージ・ロイヒル監督の『明日に向かって撃て』やロベール・アンリコ監督の『冒険者たち』のそれと比べている記事がありました。 なるほどと思いましたが、私は『明日に向かって撃て』も『冒険者たち』もそれほど好きではない……というか、私の中でこの2作に対する評価はあまり高くありません。 『宵待草』の方がはるかに優れた映画だと思います。
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大谷恵美子さんと笹川竜司が凪ちゃん殺しの主犯格 大谷さんがずっと小柳さんやった そっちが本名で整形 相当整形出雲大社がずっと言っていた この話は伊勢の金がした 金は福山勇の子供 イサムはひらしのおとうと 近藤は国会議員で滋賀の代議士サニーは近藤の息子 それが長谷川 あれがワニ園を持ってるぞ それがあのバッドボーイの元ネタになっていて 近藤先生は国会議員で息子は自衛隊にならんね そしたら 坂井や高島がいうことを聞くじゃなか そして長谷川は麻薬のブローカーなので笹川とは知り合い 秀和にも2キログラムが送られてくる あれはスピード 本当か?マリファナじゃなかか? おいたちおんなじものをあんたから買ってるがマリファナだぞ 木箱いっぱいはいっとったって言ってるが コンテナいっぱいの間違いじゃなかね? それを船の流通に紛れ込ませて ベネズエラから買ったって言ってるが本当は メキシコだぞ そしてこれこそ大泥棒と言われていた マリファナの流通にならんか ほらマフィアがイエスって言った 受取人が鈴木千穂ってどういうことだ 笹川? 千穂が日本財団の遺産を受け取るからって言ったんだろうが 向こうはそんなこと聞いていないと言っている ただ運搬しているところを横取りされたからFODを出せって全部に行って吐かせているところだぞ これが三回目だろうが 最初が入院前 それが五回目って誰かが言ってきたイギリスの船長が千穂に連絡をしてきた時が最初だぞ イギリスが私たちに聞いてきた 千穂がなんでマリファナがいるんだって聞いてきたぞ それで日本だってすぐわかったぞ それが流通流かなんだそれを笹川がネコババした だがその主犯がなぜか鈴木秀和になったことから その家に潜伏している可能性が高くなってそれで二階にいる話は事実だろう? 受取人を鈴木秀和にしているからだぞ 三階に逃げることもあるようだね? 近所の家から地下にも逃げるそうじゃないか?坂井の家な出口があるのは確かめたよ 笹川だから日本財団が手を引いたんだ 今日は上原も何も言ってこないし 中村も何もない 本田も何も言わない なぜだかわからないのなら聞いてごらん🐊 なぜか🐊がチラチラしてる 松本先生と日本財団とはね そして学校の近くのハッカーがいわさとはね?! それが私を辞めさせた張本人か それで大谷が笹川と女の調達で取引していたことは 城原の四年の専科が途中から来たので 最初から笹川の女を仕向けたってことになるのかな? あれが灰色の車で生化学薬品を排気から垂れ流して 急性気管支炎が室見が丘の三丁目に異様に増えてそれがマラリアだったんだ 何でそんなものがこんなところに それがおかしいとしか言えないから 百日咳って言ってた 学校にも病原体を持って行ったために本当は大変だった 医者は言えなかったんだけど その女がそれで指名手配になるのは わかるだろう 千穂におかしな病原体がついているのがつくもからの報告があり それが城原の女が三丁目の集会所から仕掛けたことから あのあたりマラリアが出てるんだ それで死亡者が出たことは 警察と つくもたちが知っている 千穂のところで病原体が巻かれたぞっていう話があってそれが三菱が作ったって言ってその女が誰か?車は跡がつかないように向こうがしてきた それでその女が誰かって話になったら 大谷の女だったり笹川の女だったりすることから 小柳恵美子の整形前の顔で押さえさせた それで笹川が松本ヨシヒトで相当整形で間違いないんだろ? お腹がないから激しいセックスはできないんだ 体は年取っている 顔は若いが それで東京歯科大卒業だったが後から暇つぶしに 東京理科大に行ったんだろう? それでポレトレの先輩で後輩ってわけにならんね? そしてお前が作ったフュージョンこそが特殊詐欺と拉致監禁の元ざさえ 西研二は唐津のブローカーお前たちの チズちゃんが金持ちなもんか 研二が持ってるだけだぞ シンジケートの手伝いで それが吉田と一緒に資産家隠しを笹川と一緒に唐津でやってることから 研二が幸枝に 笹川を紹介しない話はなくなるな? 麻薬もやるが笹川は相当毒好き それで貴族毒は笹川が楓の件から貴族毒を手に入れられた その遊びに若い頃夢中にって 日本財団を相当太らせてきたことから 貴族毒の元締めを松本こと笹川がやっていたんだ 笹川は笹川はそれで由理に誰から毒を渡すのかわかるよな? 長谷川からにならんね?サニーさんの友達は翔也 とっても仲良しで滋賀まで追いかけて 相当金持ちで美容院を少々とブローカーがメインの仕事なんて教えないでYouTubeやっているんだ今でも そして池上ひなの男が誰だか問題にならんか それが金だぞ 金が顔が綺麗だからひなが騙されて東京まで追いかけて そこで夜の仕事をさせられて 結局男を取る仕事に金がさせた それが誰かわからんか笹川じゃなきゃおかしいだろう竜司が銀次郎って言ってるから 金ちゃんが笹川じゃなきゃおかしいじゃないか しかも東京で福祉の仕事をしていて それで夜の仕事までお世話できる若社長さんっと言ったら日本財団が絡んでるのがわからんか? しかもセックスに麻薬を嗅がせたためにヒナは怖くなって部屋から飛び出して警察に行ったのは一人プレイより3人プレーが楽しくないかって他の男を呼び出したからなんだ 普通は黙って応じているのに 複数人は嫌だったらしい それでヒナちゃんが妊娠したって誰かが心配して離れたがそれが笹川だから手が出せないが由理が相当困っているので可哀想だから 佐賀のヤクザが笹川にたてついて ヒナちゃんを中絶させるために働きかけたけど 内情は笹川は子供が欲しくなかっただけよ その方が面白いから そして日本財団は真剣に鈴木家のノーベル賞の話から離れてシンジケートとやり合っていることをここに書いておくが お前たちの根城が室見ヶ丘になって金武倉庫って名前を変えて 私立自衛軍の武器倉庫に指定しているって 日本財団が教えたぞ そして出雲大社にやまぎしもどきの自衛隊が潜伏していてこうしんてんの入り口を守っているそうじゃないか? ではなぜ学校の先生たちが嫌がらせをするのかわからないかい 近藤国会議員はヤクザのしりあいが笹川ということから政財界の闇取引のバイパスなんだだからみんなから重宝がられて大事にしていることから 地方創生の頭の後ろにいるんだ そして長谷川は福岡に自宅があり出先が熊本さんじゃなくて福岡さんと言えば由理さんの家のお隣にならんね? 元々車がいるからあんな片田舎で車の修理庫だけ置いておけば 車の洗浄は誰にもバレないで夜中でもできますになっている 看板も出していないしガレージだけの本当に大きいところ だけどあの家にまで車をたくさん隠したことから置き場に困って とうとう廃車を壊す話になって近場だとまずいから福岡に戻してスクラップする話をしている サツがこの間盗難者を見つけて消したことから佐賀県警に内定者を15人も作って黙らせている そして毒は福岡さんからだと言いたいがそれだとユリは飲まないので お金持ちの男がいいに決まってるじゃないの それが笹川にならんね よく保険の友達が来るって自宅に ユリちゃんはサニーさんに会ったことがあるって言ってたでしよ?サニーさんのいうことを聞けば金持ちになれるからって それで翔也が相当金持ちってずっと言ってるから騙された そして長谷川が毒をどこからって言ったら笹川からの指示になるのはわかるだろう 美間坂家には西研二の方から 日本財団が入らせられて 長谷川が持っていかなくても 日本財団の顔で通るのは西研二が金の話をしないわけないじゃないか? それでいうことを聞いているんだぞ 羨ましがらせて 珠美が相当儲かっているのを間近で見ているから みわもそうとうもうかった かおりも相当儲かった だからゆりも幸枝も金欲しさに千穂に毒を指示通りにやったんだぞ 2025/04/30 そしてなんでこんなに狙うのかお前が千里眼持ち出先を見通すから為替がよく反応するのでお前の言動を知りたがった池上慎二たちがその情報をもとに儲け話をさせ���やっている池上慎二たちに それを日本財団もしているからこうやってお前を捉えては携帯電話をダメにして情報だけを抜き取って儲け話をしようとしているんだ為替が動くから株が動くから2025/04/30 今回は近藤が動いたので地元の地方創生が関わったからお前が大変だったんだぞ そして長谷川は近所じゃないか だから近所の人間に口を聞いてその家に潜伏させたり金をとらせていうことを聞かせてきたんだ それが稲津にならんか そういうことでつながってきただろう? 2025/04/30 そして日本財団は福祉に強いことから 医者も相当靡くしょっちゅう裏金献金が日本財団から流れることから 肥前精神医療センターには長谷川から金を流させた そして新しく地方創生から佐賀の教員も受付に入れているぞあそこはどれだけあの緑の制服の事務局長が金をもらってあるのかわからないぞ それで新保に連絡がつかない話にはならないだろう2025/04/30
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(注)、これは、本編となる別途作成予定ファイルの資料編です。1952年5月1日のメーデー事件から50年以上経った現在も、人民広場における戦闘状況、その前後の様子は、「藪の中」にあります。このファイルは、その真実解明のための第一次資料7篇と解説です。添付地図は4枚とも、『メーデー事件裁判闘争史』にあります。写真9枚は、『昭和史14』(毎日新聞社、1984年、絶版)、『グラフィック昭和史11』(研秀出版、1960年、絶版)、『メーデー事件写真集』(メーデー事件被告団、1967年、絶版)からの複写です。
〔目次〕
1、解説(宮地)
1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
2、資料編題名『広場における戦闘』 人民広場地図
3、広場の七人が語る〔真相〕
2、資料編
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
1、解説(宮地)
〔小目次〕
1、芥川竜之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
2、資料編題名『広場における戦闘』
3、広場の七人が語る〔真相〕
1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
この小説と、それを原作とした映画は、平安の乱世、都に近い山科の藪の中で、旅の武士が殺された事件をめぐるストーリーです。そして、その経過をめぐって、7人または4人が、それぞれの視点で語る〔真相〕をそのまま描いて、結論を出さないというユニークな構成になっています。
『藪の中』の7人が語る〔真相〕 登場人物は、木樵り(きこり)、旅法師、放免、媼(おうな)、多襄丸(たじょうまる)の白状、清水寺に来れる女の懺悔、巫女の口を借りたる死霊です。
『羅生門』の4人が語る〔真相〕 映画のシナリオは、それらを、多襄丸(三船敏郎)、真砂(京マチ子)、巫女の口を借りた武士(森雅之)、杣売り(そまうり、志村喬)に絞っています
いずれも、一つの事件について、関係者めいめいが主張する〔真相〕通りに、繰り返し描いています。しかし、かんじんなところでは、全員が食い違っています。人間、誰でも自分をかばうエゴイズムから、どこかで嘘をつき、結局、真実はわかりません。私(宮地)は、気に入った映画を繰り返し観るのがくせで、一番多いのは、エイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』の7回ですが、『羅生門』も5回観ました。黒澤明のダイナミックな演出や、宮川一夫の微妙な光と影を写し撮る撮影技術には、その都度引き込まれます。
1952年5月1日、サンフランシスコ講和条約発効から3日目、米軍占領終結後初の首都メーデー中央集会が、神宮外苑で開かれました。そこから5つのコースでデモ隊が出発しました。そのうち、日比谷公園で流れ解散する予定の中部・南部コースのデモ隊が、人民広場と呼ばれる皇居前広場に入りました。その広場で起きた事件が、メーデー事件です。
このメーデー事件の〔真相〕については、数百の記事、証言が語ってきました。このファイルは、資料編と解説であり、広場の7人が語る〔真相1~7〕を、結論を出さずに提出します。
2、資料編題名『広場における戦闘』
ただ、資料7篇とはいえ、それらの資料選択をした私(宮地)の価値判断をまったく出さずにおくわけにもいかないので、ここに、本編の骨子一部のみを書きます。この内容は、メーデー事件の全体像・真実を描くんだとする、大それた意図に基づくものではなく、私が50年後に主張する〔真相8〕に該当します。私自身を、『藪の中』の8人目として登場させるわけです。その視点は、ソ連崩壊後に発掘された朝鮮戦争をめぐるスターリン・毛沢東・金日成らの膨大な秘密暗号電報・公文書(アルヒーフ)データや、50年間で判明してきた後方基地武力かく乱戦争行動実態資料から、メーデー事件を、ソ連共産党・中国共産党の朝鮮戦争参戦軍事命令に完全従属していた日本共産党の広場突入軍事行動という一側面から捉え直すことです。ソ中両党の思惑とアメリカ「軍」・GHQの動向とを合わせて、国際的視野から、メーデー事件を位置づけることです。その詳細は、本編で分析します。
それを分析する上で、まず、メーデー・吹田・大須事件などの武装闘争を実践した主体は、徳田・野坂分派という分裂した共産党の一部なのか、それとも、“統一回復”をした日本共産党そのものなのかを、明確にしておく必要があります。1951年10月初旬、宮本顕治は、スターリンの「宮本らは分派」との裁定に屈服しました。国際派とは、スターリン直筆の「コミンフォルム批判」の即時無条件受諾=暴力革命路線への転換と武装闘争即時遂行を強烈に主張したスターリン盲従派だったのです。その国際的隷従体質が、国際派と呼ばれる所以(ゆえん)です。なかでも、宮本顕治のスターリン盲従・崇拝度は、あまりにも極端だったので、中央委員の80%、専従の70%、党員の90%が、彼に反発を抱き、国際派は、まったくの少数分派に転落していました。スターリンは、日本共産党を朝鮮戦争に参戦させ、後方基地武力かく乱戦争行動を展開させるために、もっとも熱烈に自分を信奉してくれている“愛すべき”宮本顕治ら10%少数派を切り捨て、ソ連NKVDスパイ野坂参三と徳田球一らの主流派に軍配を上げたのです。
スターリン崇拝者・宮本顕治は、やむなく、自分の少数分派=全国統一会議を解散し、主流派・軍事委員長の志田重男に、「新綱領(スターリンが直接書いた51年綱領)を認める」との自己批判書を提出しました。彼の屈服により、反徳田5分派はすべて主流派に屈服・復帰し、日本共産党は、“統一回復”をしました。
宮本屈服数日後の1951年10月16日、五全協は、軍事方針をさらに具体化し、武装闘争の実践に踏み出しました。それ以後、1953年7月26日の朝鮮戦争休戦協定成立日までの1年9カ月間の武装闘争とは、まさに、ソ中両党の軍事命令に隷従した“統一回復”日本共産党が、朝鮮戦争に参戦した後方基地武力かく乱戦争行動でした。
『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの動向、宮本顕治のスターリン盲従度
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』たった8字の宮本顕治の自己批判書
人民広場とは、皇居前広場のことで、日本国民は、米軍占領下でも、メーデーなどに40数回使っていました。ところが、吉田内閣とGHQリッジウェイ最高司令官は、スターリン・毛沢東・金日成ら3カ国共産党・労働党が仕掛けた朝鮮侵略戦争が勃発すると、その10カ月後の1951年4月27日、その兵站補給後方基地日本における治安維持のために、人民広場のメーデー使用を禁止しました。よって、それ以来、「人民広場奪還」スローガンは、東京・関東地方における正当な国民的要求になっていたのでした。
一方、アメリカは、日本を反共の永久的な不沈空母基地にするために、占領をやめ、独立させることのほうが上策との東アジア支配・米ソ冷戦戦略に転換しました。そこから、熱い朝鮮戦争最中にもかかわらず、1952年4月28日に向けて、単独講和条約締結の準備を進めました。その日本国内では、ソ中両党が出した朝鮮戦争参戦命令に盲従していた日本共産党の四全協・五全協による武装闘争・軍事方針とその遂行が勃発していました。それだけでなく、北朝鮮系在日朝鮮人45万人と、在日朝鮮人日本共産党員を中心とする祖国防衛隊(祖防隊)が、金日成らによる朝鮮侵略戦争を、祖国解放戦争ととらえて、総決起していました。当時、在日朝鮮人の活動家は、朝鮮労働党ではなく、日本共産党に入党し、共産党中央の民族対策部(民対)の指導下にありました。アメリカ「軍」は、朝鮮半島で、最終的にアメリカ兵3万4千人(アメリカ国防省発表数字)を戦死させる激戦を続けていました。片や、日本経済は、朝鮮戦争特需によって、急速に復興しつつありました。4月28日講和発効後の日本国内治安対策こそ、アメリカの日本占領「軍」と吉田内閣にとって、最重要課題の一つに浮上してきました。なぜなら、まさに、その3日後には、「人民広場奪還」をめざすメーデーが計画されていたからです。政府・警視庁とGHQは、日本共産党が、五全協軍事方針の最大の実践として広場突入軍事行動を決定し、3カ月前から周到に準備し、突入部隊の軍事訓練をしていることを、公安調査や中核自衛隊員・祖防隊員などの中から飼育したスパイ情報によって、刻々とつかんでいました。
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階
1952年4月末時点、朝鮮半島で、朝鮮侵略戦争を遂行しているマルクス主義前衛党「軍」は、朝鮮労働党人民軍10万人、中国共産党人民義勇軍のべ300万人、ソ連共産党空軍のべ1万数千人でした。後方基地にいるソ中両党従属下の日本共産党「軍」は、結成途上でした。それでも、都市部の中核自衛隊500隊1万人、独立遊撃隊、山村工作隊、在日朝鮮人の祖防隊数千人がいました。共産党の軍事指令が浸透する大衆団体には、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組、産別の金属労組、前進座、および、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)などがありました。
朝鮮侵略戦争を遂行中のソ中両党、および、その完全従属下にある日本共産党北京機関と中央軍事委員会にとっても、1952年メーデー「人民広場奪還」作戦こそは、6カ月前に決定した五全協の軍事方針を実行する最初で最大の後方基地武力かく乱戦争行動会戦に浮上したのでした。アメリカGHQ・吉田内閣・警視庁の7つの方面本部部隊数千人と、ソ中両党・徳田野坂の北京機関・日本共産党軍事委員会とは、それぞれ正反対の思惑を秘めて、五全協後の半年間、メーデー人民広場会戦に向けて、戦争作戦準備と戦闘体制を整え、5月1日、デモ隊鎮圧治安行動と広場突入行動とを激突させたのです。これら準備の詳細については、本編ファイルで分析します。
しかし、共産党の戦闘作戦は、敵=政府・警察軍と共産党「軍」だけによる人民広場会戦ではなく、メーデー参加の一般国民を、どれだけ、いかに巻き込むのか、それによって首都東京で革命的情勢をいかに人為的に醸成するのかという戦略目的を持つものでした。言い換えれば、共産党は、講和3日後に50万人が参加するメーデーこそ、共産党による一般人民利用の絶好の舞台であると設定したのです。なぜなら、共産党は、最初から、広場突入作戦を、自分たちの共産党「軍」だけでやり、警視庁の7つの方面本部部隊数千人との戦闘をやる意図・計画などをまるで持っていなかったからです。
5月1日の人民広場における戦闘の参加者と、その比率を確認します。
第一、共産党系大衆団体を合わせた日本共産党「軍」数千人
中核となる共産党員部隊は、中核自衛隊、独立遊撃隊、山村工作隊、祖防隊です。党中央軍事委員会が、馬場先門を突入入口とする中部デモ隊に配備した大衆団体は、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員、前進座などでした。そして、祝田橋を第2の突入入口とする南部デモ隊の先頭には、一般国民を広場突入に誘導する目的で、産別の金属労組、都学連一部、北朝鮮系在日朝鮮人組織の民戦2000人を配備しました。さらに、前進座には、陣太鼓10個以上を持ち込ませ、その鳴らし方で、広場突入または一時後退の合図とする指令を、各中核部隊に周知徹底させていました。前進座陣太鼓の後に設置した、広場突入指令のメーデー会場内秘密共産党本部には、東京都内5地区・三多摩地区軍事委員会から、各数名づつの軍事レポ要員(各戦闘部隊への連絡員)を配備しました。表にでる本部代表には、岩田英一を任命しました。
桜田門 二重橋
馬場先門
第二、人民広場に入った中部・南部コースのデモ一般参加者2万数千人
中央メーデー大会参加者は、50万人でした。デモ5コース中、日比谷公園で流れ解散予定の中部・南部コースのデモ一般参加者は、十数万人です。彼らは、東京地裁の使用許可決定が出ているのに、なお人民広場を使用させない政府の対応に怒りを持ち、人民広場奪還の要求を正当と認めつつも、大会実行委員会による抗議声明と広場進入をしないという決定に賛成していました。実力で、広場突入をすべきと考えた一般参加者は、日本共産党「軍」数千人を除けば、ほとんどいなかったでしょう。ましてや、彼らは、軍事委員会の広場突入作戦計画の存在などまったく知りませんでした。共産党の扇動・誘導部隊が突入したので、かつ、馬場先門・祝田橋において、警察が阻止行動を謀略的にほとんど行なわなかったので、自然発生的に人民広場に入ったというのが、一般参加者2万数千人の実態です。よって、警視庁の7つの方面本部予備隊が、警棒・催涙弾・ピストルで、3次にわたる違法な先制襲撃をしてくるなどとは、予想もしていませんでした。その激戦になることを予想し、準備していたのは、日本共産党「軍」数千人だけでした。ただ、違法な襲撃を受けた一般参加者が、それに怒って、投石・プラカードなどで反撃したのは、当然で、正当防衛の行為といえます。
第三、政府「軍」=警視庁7つの方面本部予備隊4100人
中部コースからの全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員が、馬場先門から突入しようとしたとき、馬場先門の阻止線に配備されていた警察隊は、450人でした。祝田橋阻止線の警察隊も120人でした。二重橋前の本部でも、210人でした。不思議なことに、馬場先門の警察隊長は、警視庁本部から「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通せ」との命令を受けていました。その裁判証言どおり、彼らは、若干の小競り合いを演技しただけで、さっと左右脇に引き下がって、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員らを、人民広場に“逆誘導”したのです。祝田橋でもほぼ同じでした。
中部コース隊が、人民広場に入っていった時点で、警視庁は、第3の桜田門から、続々と警視庁第2~第7方面本部予備隊を、広場に投入しました。全体で4千人以上の警視庁予備隊・約28個中隊は、警棒・催涙弾・ピストルなどで、完全武装していました。予備隊とは、現在の警察機動隊のことで、7つの方面本部は、この時すでに、その下に各4個中隊の首都治安維持・デモ鎮圧目的の機動隊を結成・配備していました。そして、警視庁本部の襲撃命令に基づいて、3次にわたる違法な先制攻撃という戦闘を遂行しました。そこでの攻撃対象は、日本共産党「軍」部隊と一般国民との区別をまるでしません。それは、まさに、警察側の全武器を使った無差別テロ襲撃でした。
政府・警視庁の意図・目的を露骨に示した証言があります。それは、田中栄一警視総監が、事件の翌日5月2日、東京都議会で行なった報告です(『メーデー事件裁判闘争史』闘争史編集委員会、1982年、P.173)。「各署それぞれ自己の勢力によって自衛体勢をとるということを建前にいたしまして、予備隊その他メーデーに直接関係のある、あるいは出発地、あるいは開催地などの署員を合算いたしまして、大体四千百名の勢力によってこの五つのメーデーを取締りするという計画を立てたのであります。そして皇居前広場にこれを導入いたしまして、やがてこの五つのメーデーが逐次解散をするとともに勢力を引き上げまして皇居広場にこれを注入いたしまして、そしてこの大集団を処理するという予定を立てておったのであります。ところがこのメーデーの行進がきわめて迅速であり、またそうしたために勢力を集中することが時間的に若干ずれが生じました」。
これは、政府・警視庁の意図と具体的な広場戦闘作戦が、「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通」し、「皇居前広場にこれを導入」し、「四千百名の勢力を、順次、皇居前広場に注入」し、「この大集団を処理するという予定」だったことを、翌日、誇らしげに報告したものです。彼らは、共産党「軍」の明白な朝鮮戦争後方基地武力かく乱戦争行動の目的とは別個に、講和条約発効3日後のメーデーにおいて、人民広場突入会戦を仕掛けた側を、わざと皇居前広場に導入しておいてから、完全武装の警視庁「軍」の3次にわたる先制攻撃によって、無差別の集団処理をし、それを通じて、日共の戦争犯罪を国民の前に暴露し、同時に、日本の治安体制を、独立3日目から一挙に打ち立てようという壮大な目的に基づく人民広場会戦にしたのです。
彼らは、警視庁本部に刻々と入る公安・スパイ情報を分析しながら、共産党「軍」が広場突入軍事作戦を決行してくれることを逆手にとり、首都の治安確立をし、かつ、警察予備隊=機動隊28個中隊に暴徒鎮圧大戦闘を初めて実体験させる上で、願ってもないような絶好のチャンス到来であるとして、待ち構えていたのでした。
さらにもう一歩踏み込んだ別の言い方をすれば、日本共産党「軍」は、広場突入会戦において、一枚上手の政府「軍」のわなに見事にひっかかったといえます。なぜなら、メーデー事件の全経過を見ると、政府・警視庁は、警視庁隊4100人を待ち伏せさせ、共産党「軍」を、2つの門の阻止線を空にして、人民広場に突入させるという逆誘導をしておいてから、解散警告なしに警棒を使った第一次先制襲撃をしたのです。そして、桜田門側から続々と注入した新武装部隊による催涙弾・ピストルを使った第二次包囲殲滅・広場追い出し襲撃に移行し、さらには広場外へも大追撃戦を展開して、大量逮捕の第三次掃討戦闘を遂行するという、3段階にわたる緻密な戦闘作戦を、事前に持っていたと推定できるからです。
それにたいして、志田ら共産党軍事委員会は、広場突入後の敵の出方、敵「軍」が3段階にわたって、日共「軍」殲滅作戦をするのではないかという想定をまるでしないままで、一般国民2万数千人を、“自分たちの戦争”の道連れにしたのではないかと推定できます。
戦争において、敵「軍」の侵略・突入作戦計画を事前に十分知りつつ、敵「軍」をして、先に戦争を仕掛けさせておき、国際・国内世論を味方につけ、それから、完璧な戦争システムで“正義の反撃戦争”に進むという手口は、アメリカ「軍」が得意とする常套手段です。第1のケースは、日本海軍によるパールハーバー突入・奇襲攻撃です。ルーズヴェルトが、日本「軍」の暗号電報解読などで事前に知っていて、突入をやらせ、「Remember Pearl harbor!」で、アメリカ世論を参戦に転換させる謀略作戦をとったということは、今や常識に近いでしょう。第2ケースは、スターリン・毛沢東・金日成の共謀による朝鮮人民「軍」10万人の38度線突破侵略戦争です。トルーマン・マッカーサーが事前にその情報を得ていて、先に侵略をやらせたことについては、萩原遼が『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋社)で、アメリカ側データの分析により、完璧に論証しました。
メーデー事件当日は、朝鮮戦争の真っ最中であり、かつ、3日前まで、アメリカ「軍」が日本を軍事占領していました。吉田内閣・警視庁だけでなく、GHQも、アメリカ「軍」がたたかって、5万人ものアメリカ兵が最終的に戦死した激戦状況において、日本共産党「軍」の広場突入作戦が、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動であり、かつ、それは、ソ連共産党・中国共産党による日本共産党への軍事命令に基づく一大会戦の性格を持つことを認識していました。そもそも、敗戦後40数回も使用してきた人民広場を、朝鮮戦争勃発の10カ月後に、使用禁止の占領軍命令を出したのは、GHQです。GHQは、人民広場使用または突入の政治的軍事的意味を、もっとも正確に理解していました。したがって、このメーデー事件めぐる動向は、アメリカ「軍」の常套手段としての第3のケースになるというのが、国際的視野から見た私(宮地)の見解です。この事件の背景には、GHQと政府・警視庁トップらによる、朝鮮戦争がらみの共同謀議が、メーデー当日前に成立していたと判断できます。
占領・行政・反乱鎮圧体験を豊富に持つ米日権力「軍」にたいして、日本共産党「軍」は、ソ中両党の完全従属下にあり、敗戦7年後で戦争拒絶の国民意識を自主的に分析する能力に欠け、中国共産党「劉少奇テーゼ」という植民地型の人民解放戦争スタイルを、発達した資本主義国日本でやれとの毛沢東・劉少奇の軍事命令に盲従した軍事方針で立ち向かったのです。人民広場における武器量・武装力の違いだけでなく、広場突入会戦の戦略・事前作戦計画・相手方の情報収集戦の段階から、共産党「軍」は、敵の出方のわなにはめられていたといえます。メーデー事件に関するGHQレポートが、アメリカ政府・国防省に送られ、保管されているはずです。それが発掘されれば、『藪の中』の真実解明に一歩近づくでしょう。
3、広場の七人が語る〔真相〕
以下の七人(組織)以外に、マスコミ報道、映像、メーデー参加者の発言、裁判における検察側・弁護側証人の証言、第一審・二審判決文という資料が膨大にあります。それらの内容は、概況的なものから、各個人の断片的な体験記など、それぞれ数百人が語る〔真相〕です。その中から、このファイルでは、広場の七人が語る概況的な〔真相〕のみを、資料編として抽出します。
ただ、芥川龍之介も黒澤明も、各自が主張する〔真相〕のうち、いずれが「真実」なのかを結論づけず、多面的な視点をそのまま提出して、小説・映画を終えています。『羅生門』の視点は、日本国内上映当時、不評でした。それにもかかわらず、ヨーロッパ近代個人主義の風土において、1951年、ベニス国際映画祭グランプリをとったのは、各自が主張する〔真相〕と、事件の「真実」とは異なり、真実は『藪の中』にあり、そのいずれかを絶対的真理と断定することを拒絶するという相対化思考がありました。メーデー事件は、この受賞の8カ月後でした。
私(宮地)も、メーデー事件から50年以上を経過した現在、別ファイルの本編において、〔真相8〕宮地健一『メーデー事件における広場突入軍事行動―志田・宮本が隠蔽した裏側の真相』を書いて、藪の中の「真実」解明の一員に参加する予定です。
2、資料編
〔小目次〕
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他
(注とコメント)、これは、共産党中央委員会発行の非合法機関誌『国民評論40号』(1952年7月1日)に、軍事委員メンバーが、ペンネーム大橋茂で発表した論文です。この全文を捜しましたが、私(宮地)の手元にまだありません。よって、大井廣介『左翼天皇制』(ぺりかん社、1976年、絶版)に載っている抜粋文(P.104~108)の全文を転載します。他1篇は、同じく、非合法機関誌『組織者11号』(1952年6月1日)に発表された論文の一部で、大井著書(P.108)にあります。この論文は、日本共産党が、広場突入を、まさに人民広場戦争と位置づけていたことを示す証拠文書であり、その内容は、共産党「軍」側が描いた広場突入会戦の生々しい戦記レポートといえます。
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『メーデー事件の軍事的教訓』 『国民評論40号』
中核自衛隊、行動隊による宣伝は会場内の空気を変え、全大衆を人民広場へみちびく雰囲気をつくりあげた。……このメーデー事件の全体をつうじて行動隊の宣伝活動がひじょうに大きな役割をはたしている。(中略)
○時四十分にデモがはじまった。中核自衛隊、行動隊等は大衆を人民広場へ導くために全力をつくした。日比谷にむかう南部、中部デモ隊のほかに、渋谷にむかう西部デモ隊は七千が渋谷へ、一万二千が人民広場へむかった。北部でも、愛労に指導され新宿にむかうものと人民広場へむかうものとに別れた。……デモ隊はアメ公帰れ、吉田を倒せ、戦争反対等のスローガンを叫び、自由党本部前では石を投げて攻撃し、パトロールカー、首相官邸前交番等へも石による攻撃を行い、革命的に行動した。(中略)
この大衆の人民広場への行動を弾圧するために、敵は周到な計画を立てていた。かれらは日比谷交叉点、GHQ前、丸ノ内署前に、丸ノ内署長の指揮する約三百名の警官を待機させ、馬場先門には三田署長の指揮する水上中隊、祝田橋入口には高輪中隊、桜田門には小田小隊等総数二百をあて、そのほか第一方面予備隊三箇中隊を出動させていた。それらの部隊ではデモ隊をそ止しえないことは明らかである。
かれらの計画は、この少数の警備隊によって、デモ隊を人民広場の中央にゆう動し、ここで包囲攻撃をすることにあった。かれらはそのために、第三方面予備隊四箇中隊、第四方面予備隊四箇中隊、第五方面予備隊四箇中隊、第六方面予備隊四箇中隊、第七方面予備隊三箇中隊を人民広場の周辺に待機させていた。しかも、これらの部隊には、ガス班長の指揮する約十名単位のガス班も数十組も組織していた。
デモ隊は、二時二十分頃日比谷交叉点および馬場先門で警官隊と小ぜりあいを行ない、この警官網を突破して馬場先門から二重橋前に到着した。ここで大衆は万歳を叫びアカハタをたてた。大衆は大会を開き、解散する準備をはじめていた。ところが、敵は皇居警護官約百名、第一方面予備隊三箇中隊、三田署部隊約二百名の他に、さらに第七方面三箇中隊を増強し、これを一つに集中した。かれらは乱暴にもコン棒をふるって攻撃を開始した。大衆はこれを二重橋前に押しつめた。敵と味方の間隔は数米しかない状態だった。
この対峠したなかで、デモ隊から「さがれ」という号令を叫ぶものがあった。大衆はうねるようにしてさがった。官憲は前進してきた。すると大衆は、これを引きずりこみ、プラカード等で攻撃を加えた。あわてた敵の指揮官は「警官隊さがれ」と叫ぶ、敵が後退する。デモ隊はふたたび包囲環を縮めた。このような前進と後退が数回くり返された。そのたびに敵は打撃を受けた。これはまったく創意的な戦術だった。
しかし、この時期は戦術的にはもっとも重要な時だった。敵の兵力は約九百、味方の行動実勢力は約五千とみられる。しかも敵は動揺し、味方の志気はたかかった。したがって、ここで集中した敵の力を分散させ、これを個別的に攻撃することは可能だった。ところが、この有利な条件を戦術的に運用することがなされなかった。弱い敵の集中にたいし、味方の体制も密集体形から変化させることができなかった。この結果敵はだいたい八十名よりなる一箇中隊を単位に最後まで組織的に行動することができた。かれらは全滅する条件にさらされ、指揮官自身があわてて発砲するようななかで、部隊として大きな被害を受けなかったのである。
いま一つ味方の弱点は、全体がデモ隊のなかに解消し、予備行動のための強固な遊撃部隊を組織していなかったことである。このために、敵の弱点を機動的に集中的に攻撃することができず、また敵の増強部隊にたいしてそなえることができなかった。
包囲された敵は、不法にも拳銃を発射し、ガス弾を使用した。第一方面の長岡第二、永井第四部隊が攻撃の主力になっていた。かれらはこの時五十発のピストルと六十八個のガス弾を使っている。デモ隊は勇敢にもガス弾を投げ返し、敵に損害をあたえたが、全体としては相当の犠牲を受け後退した。この後退した場合も敵を引きこみ、包囲することは可能だったが、密集体形のまま祝田橋通りを挟んで敵と対時した。この戦闘において味方の弱点は味方の部隊を大きく動員し、敵を包囲する体制に指揮することができなかったことである。
この対峠したなかで、デモ隊は敵にたいして、「お前達は何しに来たのか」「泥棒をつかまえろ」「アメ公の番犬」「どちらが悪いか考えてみろ」「税金つぶし」などと叫んで攻撃を加え、敵にたいする憎しみをバク発させていた。敵がコン棒を振るとデモ隊は石を投げて攻撃した。敵のなかからも「片っぱしからつかまえろ」「あいつをやれ」など号令をかけてきた。とくに、四十歳位の頭髪の薄い指揮官が六尺棒を振って大衆をなぐりながら指揮していた。見物している者もこの官憲の残酷さにあきれ、全体がデモ隊を支持していた。見物の大衆のなかから官憲にたいしてバ声や石つぶてが飛んでいた。先遣デモ隊は人民広場に入ってからこの時まで約一時間にわたって勇敢に闘い抜いたのである。このことは国民武装の可能性を事実によって示した。(中略)
先遣デモ隊がガス弾ピストルの攻撃を受け、祝田橋通りへ後退しつつある時、中核自衛隊の一部は後続デモ隊に急を知らせるために走った。後続デモ隊でも「人民広場へ」「仲間を孤立させるな」が大衆の声となった。社会民主主義者はこの大衆を押え先頭の速力をおとして先遣デモ隊を孤立させようとした。しかし大衆はかれらをツルシあげながら三時二十五分頃から続々と祝田橋を渡り人民広場へ入った。広場の大衆は熱狂してこれをむかえた。新しい部隊を加えてデモ隊は馬場先門通りをはさんで大きく二つの群に別れた。この時、敵もまた増強しつつあった。先ず第六、第七、第三各方面予備隊七箇中隊が桜田門より入り、第一方面予備隊と合流した。大衆は再び体勢を整え、風上へ風上へと向いながら二つの群が一つとなり敵を二重橋前に圧迫した。これによってデモ隊は第二の勝利をかちとった。この闘争の中で最も重要と思われる時機をつかんだのである。しかし、誰も敵を圧迫した重要なこの時に更に何を行なうべきかを大衆に示すことが出来なかった。デモ隊を指揮していた人々も、この瞬間に何をやるのか決断がつかず躊躇した。従って、大衆の意志と行動を一つの方向にむけることができなかった。この結果大きな戦術的な行動を組織する機会はにげ去ってしまったのである。
この時敵の兵力は、予備隊十五箇中隊を主力とする約千五百、味方は敢闘して結集しているもの約一万、同調的なもの約二万合計三万とみられる。従ってここで開いながら革命的な大会を持ち、解散することも不可能でないし、これを妨害し、攻撃する敵を第一回に敵を圧迫した時と同じように分断して攻撃することも可能であった。ところがこの大きな機会を失ない味方を守勢に立たす危険に陥ったのである。この闘争全体を通じてこの高揚した大衆を指導する能力と体制に欠けていた。これが決定的な弱点であった。この弱点をすくったのは、大衆の革命的な行動であった。敵は、再びガス弾とピストルでもって攻撃を開始した。中核自衛隊を中心とする大衆は、この攻撃に勇敢に抵抗した。石、プラカード、旗竿等を武器にして、敵を引きこんではこれを打ちのめし、反撃しては敵に打撃を与えた。敵も味方もここで大きな犠牲を出した。この闘いの中で見物に集まった大衆の数は数万に及び、益々増えつつあった。この大衆もデモ隊に声援を送った。
敵は祝田橋を占拠し、大衆とデモ隊を断ち切り、デモ隊を包囲する作戦であった。そのための行動が数回にわたってくり返された。しかし、これは成功しなかった。この包囲をゆるさなかったのは、デモ隊の勇敢な攻撃力と祝田橋から馬場先門に及ぶ見物している大衆の圧力であった。デモ隊は敵のピストルと闘いながら祝田橋通りを通り抜けようとする占領軍の車輌にもしばしば攻撃を加えた。味方は一つの密集部隊として攻撃しているのに対して敵は一箇中隊を単位として行動していた。このことは敵の弱勢を補った。この戦闘中に敵は更に第三方面四箇中隊、第四方面四箇中隊、第五方面四箇中隊、その他参議院警備中の予備隊等約十三箇中隊を増強した。その他四時過ぎには、各署から召集されたもの約二千名が加わった。この部隊を大きく横隊に組み両翼と中央の三方面から圧迫を加えてきた。大衆は、これを三回はね返した。
四時十五分頃デモ隊から流れでた一部が、日比谷公園側で占領軍の乗用車を襲い、これに火をつけた。これは、人民広場事件の政治的な性格を最もあざやかに示したものであり、大きな意義ある出来事だった。しかもこれは人民広場の中で闘っているデモ隊にとって行動の新しい方向を示したことになった。敵の圧迫によって、デモ隊の一部は祝田橋から電車通りへ退却した。これに続いて全デモ隊が見物の大衆に擁護されながら馬場先門と祝田橋から街頭に流れ出た。敵は残虐にもこの後退するデモ隊を背後からねらい打ちにした。特に見物の少い馬場先門寄りで最も残虐な攻撃を加えた。このためデモ隊には多くの犠牲者が出た。
占領軍の乗用車を焼きはらった経験は、すぐ一般化した。大衆は十五人位が一組にたり、次々と車を倒し、流れるガソリンに火をつけた。このため祝田橋から日比谷までの間に、米軍の自動車十三輌、警察の白バイ一台が焼きはらわれた。この事件の全体で八十三輌の事輌を襲撃している。もえあがる車輌を消火するために、丸ノ内、有楽町、永田町をはじめ各消防署から二十台の消防車と米国消防隊三隊が出動した。しかし大衆はこれを妨害し、ほとんど到着させなかった。デモ隊は丸ノ内一八二中隊の消防車を破壊し、中崎署長、長井司令補等十名をたたきのめした。有楽町一八二中隊のホースはほりに投げこみ、五中隊のホースは切断した。
この人民広場の事件で、敵は危篤四名・重傷七三名・軽傷七四三名・占領軍の負傷者四名と発表している。味方の死者、負傷者等正確な数字はわからないが千名近くにおよんでいる。この大闘争の中で国民救援会は大きな役割を果した。救援会救護班のトラックは、プラカードを立てて、ガス弾とピストルの飛ぶ中で負傷者を収容し、病院にはこんだ。見物の大衆は、カンパを行なってこの救援活動を援けた。
街頭に流れ出たデモ隊の一部は、日比谷公園や三信ビルの横に結集し、ここで小さなしかし鋭い闘いをくり返した。それは夜八時過ぎまでつづいた。(中略)
米帝と吉田の一味共は、この事件によって新しい敗北をなめた。これは全世界の平和勢力を勇気づけ、新しい国際的な実力闘争のノロシになろうとしている。日本の労働者階級は、この闘争によって、勝利の確信を固め、武装行動を目指す実力闘争を前進させつつある。この実力闘争、武装行動に守られ、広汎な国民の民族解放民主統一戦線は前進しつつある。われわれは、この闘争をいろんな角度から分析し、戦術的にも幾多の教訓をくみださねばならない。それによって発展しつつある闘争に役立てることが必要である。
『人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について』 『組織者11号』
日比谷公園の市街遊撃戦は前後三時間に亘って行われた。敵はジリジリと押してき、遂にその一角をすて日比谷映画附近から有楽町に至り、解散後も全都的に行われたものである。この闘争では、完全に敵をホンローした。敵はつかめないデモ隊に極度に神経を疲らせ、日比谷では映画見物帰りのアベック二組がなぐり倒され、中年婦人が意識不明に陥り、大衆の罵倒の的となった。(中略)
当夜デモ隊側でつかんだ彼我の損害は次の通り、
警官死亡三(うち一名は丸の内久保次席)重傷二八、負傷五三。堀へ投げこまれたもの六。ブル新カメラマン一名のばさる。
アメ兵、水兵二名、GI一、ガード一、堀へ投げこまる。高級車炎上十台、日比谷~馬場先門~都庁前のもの軒なみガラス破カイ。アメ公大型バスガラス破カイ(三台)。
自由党本部、明治ビルガラス破カイ。
デモ隊側死亡-都庁高橋正夫氏、東大一、法大一、をふくむ五名。うち一名はMPに射殺(当夜国救しらべ)。負傷者約三〇〇名(重傷多数を含む)。
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他
(注とコメント)、これは、警察庁警備局『戦後主要左翼事件・回想』(1967年、絶版)に載っている17事件の一つの「メーデー事件の概要」全文(P.132~134)です。別に、回想として、警察官3人の手記があります。それらの内容は、広場にいた警察官側からのメーデー事件です。共産党「軍」側から見れば、警視庁「軍」は敵であり、警察側から見れば、共産党「軍」と一般参加者は暴徒となります。他一篇は、警察文化協会『戦後事件史』(1982年、絶版)第7章「日本の独立―破防法の成立」にある「血のメーデー・検察側の見解」(P.362~367)です。
ただ、警視庁・東京地検側の『メーデー騒擾事件の総括』に関する極秘文書があり、そこには、メーデー事件裁判でも隠蔽した詳細なデータや、公安・スパイ情報が含まれているはずですが、現在まで、外部に漏れていません。これが、発見されれば、『藪の中』の「真実」にぐっと近づくのですが。というのも、『吹田・枚方事件の総括』に関する大阪府警・大阪地検の極秘文書が漏れ出て、枚方事件被告の脇田憲一が入手し、その秘密データも含めて、『吹田・枚方事件』を執筆・出版する予定になっているからです。
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『皇居前メーデー騒擾事件』
昭和二十七年のメーデーは、日米講和条約発効後初めてのメーデーであったが、当時は、破壊活動防止法反対闘争直後のことであり、また、朝鮮人団体は出入国管理法実に強く反対していたなどの情勢に加えて、厚生省が皇居前広場の使用を禁止したことなどもあって、革新系諸団体の気勢が大いにあがっていた。
大会は、午前十時三十分より明治神宮外苑において約一五万が参加して行なわれ、午後零時十分閉会、ついで五コースに分かれて会場を出発し、デモ行進に移った。当初、北部コースに編入されていた日本共産党員、学生、朝鮮人ら約三、〇〇〇人は、デモ出発の直前、急にコースを変更し、日比谷を解散地とする中部コースに加わってその先頭に立ち、途中、各所で投石やジグザグ行進などを行なって日比谷公園にはいった。
その後、この梯団は、気勢をあげながら皇居前広場をめざして不法デモに移り、これを阻止しようとした警察部隊に対し、竹槍(やり)、こん棒をふるって阻止線を突破し、さらにGHQ(連合軍総司令部)前で自動車一九台を破壊するなど、暴徒と化し、一気に皇居前広場に殺到した。さらに、三々五々、皇居前広場にはいった者もこれに合流し、暴徒の数は約四、〇〇〇人に達した。
午後二時三十五分ごろ、各所に配備されていた警察部隊は、急拠、二重橋前に転進集結し排除に当たったが、暴徒は、激しい投石を浴びせ、竹槍、こん棒などをふるって部隊に突入し、ついにけん銃を強奪するという事件にまで発展した。このような状況から警察側は、催涙ガスを使用するなどしてこれが鎮圧に当たり、遭遇戦さながらの状況を呈するに至ったが、暴徒の圧倒的勢力に押され、警察官に多数の重傷者が続出したため、やむを得ずけん銃を発射してこれを威嚇し、午後二時五十五分ごろ、一応、祝田橋通りまで制圧した。
一方、同時刻ごろ、南部コースの先頭梯団にいた朝鮮人約二、〇〇〇人が、日比谷公園から皇居前広場へ向って殺到し、祝田橋でこれが阻止に当たった警察部隊四八人全員に重軽傷を負わせてこ���を突破し、さきの暴徒と合流した。このため、暴徒の数は七、〇〇〇から八、〇〇〇人となった。膨張した暴徒は、ますます気勢をあげ、竹槍を構えた朝鮮人約二〇〇〇人を先頭に激しく投石を加えながら攻撃をかけてきたので、警察部隊は、再度、催涙ガスを使用して、一せいに前進、制圧を加え、彼我(ひが)入り乱れて激しい攻防を展開し、ついに午後四時十五分ごろ暴徒を皇居前広場から排除した。
排除された暴徒は、付近に駐車中の外国自動車および警察車両十数台を次々に破壊、または放火炎上させ、日比谷公園内外および有楽町駅付近、馬場先門外等の各所において小部隊の警察官を襲い、重軽傷を負わせるなどの残忍な暴力を振るい荒れ狂ったが、午後七時ごろに至ってようやく平穏に復した。
メーデー騒擾事件における被疑者の逮捕は六九三人にのぼったが、一方、警察官も八三二人が負傷(生命危篤八、重傷七一、軽傷七五三)したのである。
『血のメーデー』 検察側の見解
計画的に会場から 先鋭分子が誘導 秘密会議で決定
皇居前事件について佐藤検事総長は、「デモ隊がコン棒その他をもっていた点などからみて、一部のものの計画的犯行だと思う」むねを語っているが、検察当局はこの事件を左翼先鋭分子の仕組んだ“計画的暴行事件”の色彩が強いとみている。ではデモ隊の一部はどのようにして“デモ終点”の日比谷公園から皇居前広場へ誘導されたか――以下は当局の調べ、目撃者の話などから総合したそのいきさつである。
○警視庁の情報では、今回の事件は去る二十九日、東京工大内で日共系先鋭分子により秘密のうちに決定された予定の行動だという。それによると、同日午前十一時から午後六時の間に同大地下食堂で日共系青年祖国戦線の主催により「反戦権利擁護労働青年全国会議」が開かれ全学連、祖防隊、民青など四十四団隊、七十五名が集って「人民広場を労働者の実力をもって奪取しよう」との決議を行い、全国の日共系先鋭組合と各種団体に指令したという。
○この指令を裏書きするように、この日、外苑の中央会場では午前十一時半すぎ、組合代表の演説が後二、三人で終ろうとするころ、共産系組合員、全学連、日傭労務者とみられる一群の約二百名が中央ステージに殺到「人民広場へ行こう」と騒ぎはじめた。重盛議長が「この度は統一メーデーだから統一的行動をしよう」と説得に努めたが、聞き入れられず、演壇は一時、この一群の人たちに奪われ混乱した。しかし、日共幹部の岩田英一氏が両者の間に入って代表に一席演説させることで混乱は収まり、式は終了した。
○かくて〇時二十分、デモ行進に移ったが、この時に学生、朝連系団体とみられる一群は、外苑の道路にピケラインを張って「人民広場へ行こう」とアジリはじめた。渋谷コースを行進していた西部デモ隊のうち学生を主力とする約二百名の一団は、これと呼応するように、青山四丁目角に差しかかると隊列をはなれ、日比谷の方向へ転進、日比谷コースを進んでいた中部デモ隊も赤坂表町付近にさしかかったころ、全学連の約五千名がデモ隊の先頭を追い越して口々に「人民広場へ行こう」と叫んだので、デモ隊の足並みは乱れてきた。
○虎の門コースを進んでいた南部デモ隊も文部省にさしかかった午後一時半ごろ金日成氏の肖像をプラカードにかかげていた北鮮の一隊が「人民広場へ」と叫びつつジグザク行進に移り、警官隊と小ぜり合いを演じ、外人乗用車に石を投げたりしはじめた。このころ中部デモ隊も永田町付近で自由党本部に小石を投げ、正面窓ガラスを破ったが、先鋭分子ははじめから小石をポケットに相当用意していたと見られるという。
○赤坂表町付近で行進の先頭に抜けがけして行進のイニシアチブを握った都学連、北鮮人、日傭労働者などの一群は、二時ごろ日比谷公園に入ると一応音楽堂付近に集った。この時十五、六のグループに分れて整列していた全学連の五、六番目に並んでいた「民主青年西部地区」というプラカードの一隊が「人民広場へ行こう」という叫びをあげた。これをキッカケに、デモ隊はドッと公園外に流れ出し、馬場先門方面へと濁流のように押して行き、これが時間の経過とともに、ふくれ上がって行ったのである。
正しく血のメーデーとなってしまった。働く者の祭典であるはずが、暴行集団となってしまったことは、世界中の電波に乗った。中でもアメリカ人にすれば恩を仇で返される思いがしたことであろう。メーデーの歴史を汚した事件として記録されている。
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』
(注とコメント)、これは、メーデー事件裁判闘争史編集委員会編の822ページの大著(白石書店、1982年、絶版)から、事件の概要を書いた「序章」(P.12~16)の全文転載です。事件・裁判記録については、被告団長岡本光雄『メーデー事件―昭和史の発掘』(白石書店、1977年、絶版)があり、そちらでも事件概要を詳しく書いています。いずれも、被告・弁護団側からのメーデー事件と裁判闘争史です。検挙1232人、騒擾罪起訴被告261人でした。上記の解説でのべましたが、さらに区別すれば、これは、4種類の被告からなっています。
第一、広場突入軍事命令を遂行した日本共産党「軍」メンバーです。広場に入った3万人中、中核自衛隊員・独立遊撃隊員・山村工作隊員・日本共産党員である北朝鮮系祖防隊員や、それらが突入の指導をした大衆団体は、数千人います。しかし、被告261人において、彼らが何人いるのかは、共産党が公表しないので、分かりません。日本共産党は、広場突入軍事作戦計画の存在を、裁判開始時も、六全協後も、全面否認しました。日本共産党は、共産党員被告だけのグループ会議を秘密に開き、否認を指令しました。共産党「軍」の被告も、その軍事方針については、党中央命令に従って、完全黙秘しました。よって、広場突入軍事命令を出した党中央軍事委員は、誰一人逮捕も、起訴もされていません。
第二、共産党「軍」以外の共産党員で、たまたま人民広場に付いて行き、警視庁「軍」の3次にわたる違法襲撃に怒って、反撃し、逮捕・起訴された被告です。共産党中央委員会は、第一と第二の比率を当然知っています。なぜなら、共産党中央委員会・党中央法規対策部は、共産党員被告の秘密グループ会議を、20年7カ月間の裁判過程で、何回も招集しているからです。もちろん、被告団の共産党細胞指導部(LC=Leader Class)も、党中央法規対策部員と共産党員弁護士・国民救援会細胞とを合わせて、結成し、裁判対策を、一般被告団会議の前に決定していました。���の裁判グループ細胞結成は、吹田事件・大須事件においても、常識です。
第三、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)2000人と祖国防衛隊員(祖防隊員)たちで、逮捕された131人の内、起訴された日本共産党員です。彼らは、金日成らが仕掛けた朝鮮侵略戦争を祖国解放戦争ととらえ、朝鮮民主主義人民共和国国旗を先頭に、人民旗数百と金日成の写真プラカードを掲げ、第2の広場入口である祝田橋の先頭部隊の一つとして突入しました。彼らは、1955年の六全協まで、日本共産党員でした。同時期に、民戦は、朝鮮総連に組織転換し、それとともに、在日朝鮮人日本共産党員は、離党し、朝鮮労働党に入党し直しました。日本における朝鮮労働党組織は、学習組(がくしゅうそ)になりました。朝鮮総連も学習組も、本国の朝鮮労働党の直接指令を受けます。よって、1955年以降、メーデー事件裁判被告団は、その中に、朝鮮労働党員被告を含み、彼らは、朝鮮労働党の指導下で行動しました。
第四、共産党の広場突入「軍」に扇動・誘導されて、人民広場に自然発生的に入り、警視庁「軍」の3次にわたる無差別襲撃を受け、それに怒って反撃したが、広場突入作戦などまるで知らなかった一般参加者2万数千人の中で、逮捕・起訴された被告です。261人中、これら4種類の被告の比率は、共産党軍事委員会と六全協後の野坂・志田・宮本らごく一部幹部だけが知っています。メーデー事件の大弁護団も、グループ会議に参加する一部の共産党員弁護士以外は、これらの比率を知らされていないでしょう。
被告・弁護団の裁判闘争方針は、共産党「軍」の広場突入戦争作戦が現実に遂行されたのにもかかわらず、その存在を否認しつつ、騒擾罪無罪のたたかいをすることを強いられました。そこには、かなり無理がありました。なぜなら、メーデー人民広場突入事件の裏側の一側面は、政府・警視庁「軍」4100人の違法な先制襲撃という面だけでなく、ソ中両党の軍事命令に盲従した日本共産党「軍」が、まさに、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動として行なった最初の大会戦そのものだったからです。2つの『裁判闘争史』を読むと、その苦渋、停滞、被告団内の対立がにじみでています。共産党員以外の第四の被告たちは、警視庁「軍」の襲撃に怒るとともに、共産党「軍」の広場突入戦争作戦の存在と実態を明らかにせよと、共産党に強烈な批判と要求とを突き付けました。
私(宮地)の立場は、『裁判闘争史』の内容について、共産党の広場突入会戦遂行の諸事実問題とそれに関する記述以外では、『裁判闘争史』の見解と、騒擾罪無罪の判決内容を支持するものです。ただ、被告弁護団側が、4種類の被告を抱えて、被告団の統一を維持していくためには、「メーデー事件は、極左冒険主義の実践ケースではない」とする立場を貫かざるをえなかったことを理解します。といっても、それは、共産党が、広場突入軍事行動に関して、具体的な総括をし、それを公表すべきであるという前衛政党としての結果責任の取り方とは、別問題です。その結果責任には、“統一回復”共産党が、自分たちの朝鮮侵略戦争参戦のために、一般国民2万数千人を利用し、道連れにし、被告216人中の何人かを、20年7カ月間メーデー事件裁判の第四の被告にしたという道義的責任も含みます。これは、警察・検察側による弾圧、でっち上げ裁判という問題とは異なる、かつ、それに解消させることのできない共産党側の政治的道義的問題です。
私は、名古屋市生れ育ちで、大須事件の現場を熟知しています。また、愛知県の民青・共産党専従15年間において、大須事件の被告たち十数人を個人的に知り、話を聞いています。その裁判闘争においても、4種類の被告を含み、同様な問題が発生していました。大須事件検挙者は、日本人119人、在日朝鮮人150人でした。実刑判決確定で下獄した3人中、1人は在日朝鮮人でした。大須事件の共産党員被告だけのグループ会議が、私の共産党専従時代、所属する名古屋中北地区・愛知県委員会事務所の3階会議室で開かれるのを、私は何度も目撃しました。私は、騒擾罪判決が唯一確定した7・7大須事件も、5・1メーデー事件と6・25吹田事件と同じく、騒擾罪無罪であると確信しています。それだけでなく、3番目の事件として、警察・検察側による騒擾罪でっち上げの謀略性という面では、大須事件がもっとも悪質だと判断しています。大須事件の一端については、HPファイル『「武装闘争責任論」の盲点』で分析してあります。なお、下記文中の太字は、私(宮地)がつけました。
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一九五二年(昭和二十七年)五月一日――首都の労働者は第二十三回メーデーを迎えた。明治神宮外苑のメーデー会場から五つのコースに分れてデモが出発した。中部・南部二つのコースは日比谷公園を解散予定地としていた。いくつものデモ隊がそのまま日比谷公園を通り過ぎ、人民広場(皇居外苑広場)へ向かって進んだ。シュプレヒコールが湧きあがった。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
三日前の四月二十八日、「単独講和」と呼ばれ、その賛否をめぐって世論を二分した「平和」条約が発効した。七年に及ぶ占領は終った。だがアメリカ軍は帰らなかった。朝鮮戦争が続いていた。占領時代の抑圧政策もそのまま引きつがれていた。メーデー会場に人民広場を使うことは許されなかった。「独立」後最初のメーデー――禁じられていた言葉、いや「占領政策違反」という「犯罪」でさえあった、人民の叫びがほとばしり出た。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
午後二時二十分過ぎごろ、先頭のデモ隊が馬場先門に到着した。
この時馬場先門には約四百五十名の��官隊が配置されていた。二重橋へ向かう車道入口に阻止線を張った、わずか一個小隊三十数名の警察官もなぜか左右に開いた。デモ隊の前に人民広場への道がまっすぐに通じていた。車道一杯に広がり、スクラムを組んで広場へ入ったデモ隊は、広場へ入ったというその喜びのおもむくまま、やがて駈け足に変って行った。
二重橋前の砂利敷広場は、たちまち、万歳の声と打ち振られる赤旗、そして笑顔、握手、踊りの人波で埋まった。人びとは、二年間禁じられていたこの広場の土をその足で踏んだ。誇らかな満足感、解放感、ほっとした安ど感、疲労感。それぞれにかみしめながら、談笑し、歌い、あるいはひと息入れて、人びとは集っていた。
午後二時四十分。事態は急変した。
全く突如、警官隊が襲いかかったのである。馬場先門からデモ隊を追尾してきた警官隊が、デモ隊の先頭に回り込むやいなや、全体を二重橋側の堀際に押しつめるように、警棒をふりかざして殴り込んだ。一瞬にして起こる大混乱。警棒で頭を割られ倒れろ者、眼前に迫る警察官の形相におびえて後退する者、つまずき倒れる者。逃げまどう者の頭に、背にめった打ちされる警棒、傷つき倒れる者をさらに踏みにじる泥靴。
混乱するデモ隊の中に、二分後催涙ガス弾が、五分後拳銃弾が撃ち込まれた。数千のデモ隊は、多くの負傷者をかかえて、銀杏台上の島から楠公銅像島へ後退した(第一段階)。法政大の学生近藤巨士は、この時警察官に後頭部を強打された。五月六日未明、慈恵医大東京病院で、彼は二十二歳の生涯を閉じた。
午後三時過ぎごろ、新しいデモ隊が祝田橋から人民広場へ入った。中部コースの後続隊と、つづいて南部コースを行進してきたデモ隊である。
祝田橋上には約百二十名の警官隊がいた。一応阻止の隊形をとった警官隊と、デモ隊の先頭のごく一部との間で小ぜり合いがあった。だが、警官隊はすぐ広場の中へ引きあげてしまい、デモ隊の大半はなんの抵抗もなく祝田橋を渡った。中部コース後続のデモ隊の多くは、祝田橋を入ってすぐ右手の芝生、楠公銅像島に上がった。そこには、二重橋前で警官隊の襲撃に会い、追い散らされてきた人びとがいた。
そのころ、楠公銅像島上のデモ隊に対峠(じ)する形で、中央自動車道路をはさむ反対側の芝生、銀杏台上の島には、三個中隊約三百名の警官隊が隊列を整え、警戒配置についていた。つづいて祝田橋から入った南部コースのデモ隊は、この警官隊の前を通って中央自動車道路をまっすぐ行進し、やがて左折中央自動車道路に面した楠公銅像島上のデモ隊に対峙していた警官隊は、この時いっせいに引きあげ始め、二重橋前の砂利敷十字路付近に移動した。二重橋前砂利敷十字路……一九四六年(昭和二十一年)の第十七回メーデー以来、そこが大きな大衆集会の会場となった。つまり人民広場の中心であった。
楠公銅像島にいたデモ隊の中で、警官隊のいなくなった銀否台上の島へと移って行く動きが起こった。「解散集会だ。」「集会に集まろう。」呼びかけが伝わった。銀杏台の島に上がったデモ隊の一部も、銀杏台上の島の方へ移動し始めた。人びとは、この日人民広場へ入ることができたというだけで、満足だった。禁じられていた場所をとり戻した、という勝利感でもあった。目的はもうすぐ達せられる。しめくくりの解散集会だけが残っていた。
その期待で、デモ隊は、二重橋前砂利敷十字路をなかばとり囲むように、銀杏台上の島を中心に、右は銀杏台の島へ、左は桜田濠沿い砂利敷路面へと延びる形で、結集していった。祝田橋から人民広場へと入るデモ隊は、まだあとを絶たなかった。広場にはもう三万を越えるデモ隊の人びとがいた。一方、警官隊も続続と増強されていた。
三つの方面予備隊(当時、全都を七つの方面に分け、それぞれに警備実施を主任務とする予備隊がおかれていた。いまの警視庁機動隊にあたる)から動員された八個中隊約八百五十名が、二重橋前砂利敷十字路に横隊で整列し、その三分の一は桜田門方向に、三分の二は馬場先門方向に面する形をとった。L字型隊形である。後方二重橋の前に二個中隊約二百名が控えた。
二重橋砂利敷十字路に展開 ―→ 警官隊の攻撃開始 ―→ 警官隊の攻撃と
した警官隊のL字型隊形 とデモ隊の崩壊 デモ隊の抵抗
(これら3地図は、『メーデー事件裁判闘争史』P.193、195、199に掲載されたもの)
午後三時二十五分ごろ、再び警官隊の襲撃が始まった。警官隊の前に立った指揮官が、高くかかげた警棒を前に打ち振り、「進め」と号令した。L字型隊形のうち桜田門方向に向かっていた警官隊が、まず前面のデモ隊に殺到した。解散集会をめざして集まりつつあったデモ隊にとって、それは突如始まり、そして全く一方的なものであった。桜田濠沿いの砂利敷にいて、この突然の攻撃を受けたデモ隊は、たちまち蹴散らされた。理不尽な暴挙をまのあたりにしたデモ隊の一部は、警官隊に向かって進み、抵抗した。
だが、この時、密集するデモ隊の中へ催涙ガス弾が撃ち込まれた。攻撃開始前ガス班があらかじめ桜田濠に沿って進み、デモ隊の後方に回っていたのである。催涙ガスが急速にデモ隊の上をおおった。全警官隊がいっせいに警棒を振りかざして突進した。あちこちで拳銃も発射された。
デモ隊全体はまたたくまに総崩れとなり、潰走した。逃げまどう人びとの頭を割り、肩といわず腰といわず、全身を打ちのめす警棒。目をのどを痛めつける催涙ガス。誰かれかまわずに突きつけられ、そして発射される拳銃。倒れる人びとを踏みつけて、警官隊は進んだ。デモ隊の多くは再び楠公銅像島に逃げた。芝生の上のいたる所に負傷者が横たわり、これを介抱する人や、互いにかばいあう人たちの群れがあった。祝田橋から広場を出た人も少なくない。警官隊は銀杏台上の島を猛進し、中央自動車道路の線で停止し、再び隊列を整え直した。この間十数分である(第二段階)。
午後三時四十四分ごろ、日比谷公園に沿う都電通りの祝田橋近くで、一条の黒煙がのぼった。アメリカ軍人の自動車に火がつけられたのである。警官隊の攻撃を受け、広場から逃れ出た人たちのうちごく少数の者が、怒りのおもむくがままにとった行動でもあろうか。しばらくあとのことになるが、都電通りのもっと日比谷交差点寄りに駐車してあった十台近くの自動車が、同様ごく少数の人たちによって、ひっくり返され、火を放たれた。どれもアメリカ軍人の乗用車である。こうしたできごとの中でも、広場内への警官隊の増強がつづいていた。
午後四時。広場の中では、さらに残虐な警官隊の総攻撃が、いっせいに開始された。新たに広場に投入された二つの方面予備隊七個中隊六百名余を加え、警官隊は徹底した暴力で、デモ隊を一人残らず広場から追い出そうとしたのである。二度にわたる警官隊の先制攻撃は、非道な暴力に抵抗する力をさえ、デモ隊から奪っていた。デモ隊はもはやちりぢりにされた群衆であった。
警官隊は、ほんの数分間で、楠公銅像島の群衆を一掃し、その大半を日比谷濠土手に押しあげ、追いつめた。狭く逃げ場もない土手の上で、人びとは混乱し、警棒の乱打を浴び、無気味に向けられる銃口で脅かされながら、やがて最後に、警察官の悪ばを背に馬場先門から追い払われた。それは、文字どおり袋のねずみを追うむごたらしさであった(「掃討戦」)。
この総攻撃開始の直後、東京都の職員高橋正夫は、背後から拳銃弾で心臓を射ち抜かれ、即死した。二十三歳である。
警官隊は、広場から追い立てられ逃げ散った群衆を追って、組織的暴力を市街地にまで拡大した。ただの通行人も、アベックも、老人も、婦女子も、見さかいのない暴力の対象であった。警官隊の暴行脅迫は、日比谷公園、有楽町一帯、丸の内から東京駅付近に及び、午後六時ごろようやく終わった。
この日、警官隊が発射した拳銃弾七十発、投じた催涙ガス弾七十三発。デモ隊側のぎせい、死者二名、重軽傷千数百名である。一九五二年五月一日人民広場の内外で起こったできごと――メーデー事件そのものがまぎれもない政治的弾圧である。
そして、メーデー裁判は政治的弾圧の継続である。その日午後三時四十分ごろ、警視庁と東京地方検察庁は、デモ隊側の計画的集団犯罪として、この事件に騒擾(じょう)罪を適用すると決めた。人民広場の中で警官隊の組織的暴力がまだつづいている、その時である。疾風のように大量検挙が始まった。警官隊がその手で加えた傷害こそ、まずなによりの目印とされた。二週間で逮捕者は八百三十八名にものぼった。総検挙者数千二百三十二名。東京地方検察庁が騒擾罪で公訴を提起した被告人の総数二百六十一名である。
第一審・・・・・
東京地方裁判所は、当初、八合議部による分割審理方式を提示した。被告・弁護団はまずこれとたたかわなければならなかった。獄中被告の出廷拒否、合同面会など新しい経験を重ねながら、ともあれ刑事第十一部による統一審理方式がかちとられた(もつとも不幸ながら「分離組」と呼ばれる人たち二十余名がいた)。
第一回公判一九五三年(昭和二十八年)二月四日。判決まで実に十七年。その間公判を開くこと千七百九十二回。取調べた証人は、検察側五百四十九名(総論関係二百四十四名、各論関係三百五名)、被告・弁護側三百四十四名(総論関係二百七十一名、各論関係七十三名)、合計八百九十三名(延べ千三百二名)に達している。そして、十四人の被告たちが世を去っていた。判決言渡し一九七〇年(昭和四十五年)一月二十八日(「分離組」は二月十三日)。
判決は、二重橋前の第一段階における警官隊の実力行使を違法としたが、第二段階以降についてはデモ隊側に騒擾罪の成立を認めた。無罪百二十名。有罪百十七名(ただし十五名は騒擾罪以外で有罪)。一月二十八日統一して判決を受けたうちの有罪被告は、全員控訴を申立てた。その日の被告団総会は、無罪となった者もそのまま被告団にとどまり、ともにたたかうことを誓い合った。「分離組」で有罪となった中から三名の人たちが控訴を申立て、この被告団に加わった。控訴審における被告人は、結局百名になった。
第二審・・・・・
一九七一年(昭和四十六年)九月三十日東京高等裁判所第六刑事部に控訴趣意書が提出された。第一回公判同年十二月十四日。審理はかなり迅速に進んだ。公判回数二十二回。取調べた証人は、被告・弁寺側の請求した二十六名である。判決言渡し一九七二年(昭和四十七年)十一月二十一日。判決は、第二段階における警官隊の実力行使をも違法と断定し、騒擾罪の成立を全面的に否定し、騒擾罪については全員に無罪を言渡した(公務執行妨害罪などで十六名が有罪となった)。一九七二年十二月五日――騒擾罪全員無罪の判決は確定した。検察官が上告を断念したのである。
二十年七か月――たたかって、たたかい抜いてかちとった勝利である。被告・弁護団が一貫して主張したこと、それは「つくられた騒擾罪」ということである。本書は、「つくられた騒擾罪」とのたたかいの歴史である。
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
(注とコメント)、総評常任幹事会声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.20)にあります。労働界を二分する意見の分裂内容は、増山太助『血のメーデー』に書かれています。これは、〔真相6〕増山太助ファイルから抜粋しました。
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総評常任幹事会声明 1952年5月2日
五月二日総評は常任幹事会を開いて声明を発表した。その政治部長島上善五郎は第二十三回中央メーデー実行委員長であった。
「(一)第二十三回メーデーは、平和と民主主義を守る国民的行事として全国労働都市において未曽有の大動員をえて、日本民主化の主柱がいよいよ強大となったことを示した。
(二)しかるに中央メーデー行事解散ののち日本共��党分子がおこなった集団的暴力行為は遂に流血の惨事をまきおこした。このことについては総評労闘が何ら関知するところではないが、民主的労働組合の責任において甚だいかんにたえない。
(三)今次事件は民主的労働組合が営々としてつみあげてきた民主主義をいっきょ後退させ、反動ファッショ勢力を誘発するに至る危険があり、明らかに階級的裏切り行為と断ぜざるをえない。われわれは極左極右のいずれをとわず、かかる一切の暴力行為にたいし厳正な批判を加え、断固排撃するものである。
(四)わが総評は今日まで反動資本と共産党支配とに抗争する民主的統一戦線を強化拡大し、破防法案、労働法改惑などにあらわれた吉田政府の逆コースに対して整々たる三〇〇万の労闘ストをもってたたかってきたが、その間共産党勢力のシュン動を許さずいよいよ全国民の信頼をかちえてきたところである。
(五)しかして吉田政府は、必ずや破防法の必須を訴えるであろうが、すでに本事件はソウジョウ罪をもって対処しているのであって、みづから破防法の不要を証明しているではないか。
(六)いまや今次事件を口実として破防法案、労働法改悪等をもつて基本的人権をじゅうりんし総評の打ちだす労働運動を弾圧しようとするならば、いよいよ内外与論に訴え、さらに頑強な実力行使をもつて、これらを阻止するところまでたたかい、吉田政府の反動政策をあくまで追及し対決するであろう。
一九五二年五月二日 日本労働組合総評議会」
労働界を二分する意見の分裂
記者団に囲まれたメーデーの実行委員長、総評政治部長の島上善五郎は、「この事件はメーデー行事が終った後に共産党系分子と、その影響下にあると思われる一団によって行われた不祥事で、実行委員会としては関知しない。これは反労働者的行為である」「しかし、政府が、破防法をはじめとする露骨な弾圧政策をとり、とくに皇居前広場の会場問題について裁判決定を無視した態度は暴力行動に絶好の条件をあたえたもので、さらに警察の発砲、催涙弾の乱射は事態を激化させたもので、政府の反動政策強行には断乎反対する」と語った。なお、総評の高野事務局長は沈黙を守り、「民族感情の爆発だ」といった副議長の太田薫にたいし、炭労の諸富義高は、「予定した共産党の暴動演習だ」とくってかかったのが、労働界を二分する代表的な意見であり、民労連はもちろん、新産別も後者の意見に組した。
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
(注とコメント)、3つの資料を載せます。いずれも、日本共産党中央軍事委員会が準備・計画し、広場突入指令を出した事実について、完璧に隠蔽しています。そして、軍事委員会作戦・広場突入命令を、下記にある「一部の人」にすりかえる詭弁を使っています。
第一、日本共産党国会議員団声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.21)にあります。議員団の中に、党中央軍事委員会メンバーはいなかったので、彼らは、広場突入作戦を、事前に知らされていなかった可能性があります。
第二、メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会、その内容は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.285)に載っています。懇談会に出席した野坂参三答弁は、軍事作戦発令者による真っ赤なウソです。というのも、朝鮮戦争2年目の真っ只中において、後方基地武力かく乱戦争行動の最初で最大の戦闘となる広場突入会戦は、少なくとも3カ月前に決定されており、その最終的作戦計画決定権者は、志田重男一人であるはずがありません。朝鮮半島における激戦を指揮しているソ中両党のスターリン・毛沢東・劉少奇と、北京機関の徳田・野坂、日本国内軍事委員長志田らによる戦争作戦計画だったからです。しかも、この当時、暴露されていませんでしたが、野坂参三は、1945年以来のソ連共産党NKVDのスパイでした。野坂共産党第1書記・軍事委員長志田・指導部復帰者宮本顕治らは、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇らから、「六全協で、武装闘争の具体的総括をすることを禁止する。極左冒険主義と抽象的に誤りを認めることだけは許す」との命令に屈服していました。スパイ野坂第1書記は、当然のように、ソ中両党の利益・命令を上に置き、メーデー事件被告・家族をあざむいたのです。
第三、共産党の公認党史である『日本共産党の65年、70年、80年』(80年は、P.120)は、いずれも、この分量しか記述していません。しかも、メーデー事件と広場突入作戦との関連を隠蔽しています。そこから、まったくの第三者的で、広場突入会戦の戦争責任を放棄した書き方になっています。〔真相7〕石田雄ファイルにあるように、丸山眞男が、この事件を念頭に置いて、『戦争責任論の盲点』を書き、日本共産党が、戦前だけでなく、メーデー事件についても具体的な総括を公表して、前衛政党としての結果責任を果すべきと批判したという石田雄の推論は、さもありなんという説得力を持っています。
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日本共産党国会議員団声明 1952年5月1日
日本共産党国会議員団は、即日「本日の事件は人民広場の使用を吉田内閣が不法にも禁止したことから起こったもので事件の一切は吉田内閣が負うべきものである。今日の弾圧こそ破壊活動防止法案をすでに実行に移したもので、わが党は日本国民の自由の名において厳重に抗議する」旨の声明を発表した。
メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会 1955年10月24日
十月二十四日夜メーデー事件被告、家族と共産党との懇談会が産別会館講堂で開かれた。日本共産党から第一書記の野坂参三のほか松本三益、長谷川浩が出席した。
懇談会は、その名に比してはかなり激しく、メーデー事件の評価に関する意見、疑問、共産党に対する批判、不満が交わされる場となった。党員被告を名指しで非難したり、被告同士で論争する場面も見られた。二、三の人から、敵の挑発というだけでは納得出来ない、あの日のメーデーに極左冒険主義の方針があったのではないか、という疑問が出た。野坂らはこう強調した。メーデーに対する党の方針とメーデー事件と呼ばれているものとは客観的に区別して評価すべきである。党が騒擾事件を計画、指導したことは断じてない。「人民広場へ行こう」というのは広範な人びとの当然の要求であった。問題は、これを全体的行動に組織するという観点に立つのでなく、一部の人たちの行動に頼ろうとしたところにあり、極左冒険主義の誤りの影響と言ってよい。権力はこの弱点を利用し、挑発・弾圧を加えた。人民広場へのデモの正当性とともに、警官隊の攻撃に抵抗した行動の正しさも消えるものではない。
日本共産党中央委員会『日本共産党の80年』 2003年1月20日
(メーデー事件に関する全文)……六全協後における唯一の公的な事件評価記述
この闘争のさなかの五二年五月、いわゆる「血のメーデー」事件がおこりました。占領軍と吉田内閣は、五〇年六月いらい、「人民広場」とよばれた会場(皇居前広場)をメーデーその他の集会に使用することを禁止していました。この日、中央メーデーに参加したデモ隊の一部が、この不法な措置に抗議しながら、「広場」に行進しました。警察当局は、デモ隊を「広場」内に誘導したうえで、数千の武装警官隊をもって攻撃し、警官隊のピストルなどで二人が殺害され、千人をこえる重軽傷者がでました。
(『日本共産党の65年、70年』の上記同一記述から削除した文) ……削除の理由は不明
この事件は、占領支配と単独講和にたいする大衆的な怒りと抗議の一つの反映であった。
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
(注とコメント)、ここには、4つの資料を載せます。増山太助は、入党後、党中央文化オルグ・全国オルグを経て、関東地方委員、1950年初頭から東京都委員、「50年分裂」のときには、主流派内の東京都ビューロー幹部であったが、裏側で、武装闘争反対の活動を行なっていました。
第一、彼は、主流派に所属しつつも、当時の日本の情勢、労働運動の状況、国民の意識実態から、武装闘争を遂行することは誤りであると考え、ビューロー幹部5人を中心として、主流派非公然ビューロー内における非公然グループを作り、武装闘争実践を骨抜きにする面従腹背行動を組織し、展開していました。その組織・行動内容については、『武装闘争責任論の盲点』の「2派1グループの実態」で分析しました。
第二、武装闘争を行なった幹部たちについて、8人の人士群像を描きました。これは、HPに転載してあります。
第三、メーデー事件の概況を『血のメーデー』で描きました。これも、HPに転載しました。
第四、増山太助は、メーデー前日の東京都ビューロー会議にも出席して、人民広場突入作戦に猛反対しました。東京生え抜きのビューロー員も、全員が反対しました。激論の末、結局、他のビューロー員も含め、突入方針は否決され、人民広場使用不許可にたいする抗議だけにすることが全員一致で決定されました。その決定を裏切って、志田軍事委員長は、その深夜から5月1日早朝にかけ、規定方針どおり広場突入せよとの軍事委員会命令を徹底させたのです。当時の共産党組織は、4つに分かれていました。(1)北京機関と自由日本放送、(2)合法の臨時中央指導部(臨中)、(3)非合法の地下政治指導部ビューロー、(4)非合法の地下軍事委員会Yです。
非合法地下の都ビューロー会議で、広場突入軍事行動が否決されたのに、志田軍事委員長→非合法地下の東京都軍事委員会Yというルートで、広場突入軍事方針が決行されました。増山証言は、共産党が広場突入軍事行動を行なったことを証明する重要なデータの一つです。この資料は、増山太助『五〇年問題覚書(下の二)、―「柴又事件」の前後から「血のメーデー」へ―』(『運動史研究8』、三一書房、1981年、P.100~125)の内、「五」(P.120~125)を、一部中略して、ほぼ全文を転載したものです。このHPへの転載については、増山太助氏の了解をいただいてあります。
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第一、『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの実態=増山太助らの武装闘争反対グループ
第二、増山太助『日本共産党の軍事闘争』軍事闘争の先頭に立ち、指導した8人の群像
第三、増山太助『血のメーデー』メーデー事件の概況
第四、増山太助『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
ところで、五二年という年は、年頭から荒れ模様の情勢となった。スターリンは、元旦のメッセージで、日本人民の総決起をうながし、臨中は、これにこたえる声明を発表して呼応した。一方、占領軍と日本の支配階級は、四月二八日に予定された、単独講和・安保両条約の発効と、それにともなう総司令部(GHQ)の廃止にそなえて、つぎつぎと積極的な手をうってきた。労働者階級は、年末闘争にひきつづき、“占領終決”という画期を前にして、いよいよ“不屈な面魂”をもって決起しはじめた。一月一六日、賃金共闘は、弾圧法規反対で、総評と統一行動をとることを決定し、一八日には、労働法規改悪反対闘争委員会が代表者会議をひらいて、当面する情勢の分析と戦術をねった。
ところがその三日後の二一日に、突���、北海道で白鳥警部射殺事件がおきた。そして、これが敵側に利用されて、いっそう弾圧体制が強化され、「新たな従属・支配体制」を強める契機となった。だが、労働者階級は前進しつづけ、二六日には、総評、労闘、官公労共催の弾圧法規反対労働者総決起集会がおこなわれ、三万人を結集した。吉田首相は、三一日に、警察予備隊を切りかえて、防衛隊をあらたに設置するという、威嚇的な方針を言明。二月一三日には、安保条約に基づく日米合同委員会の設置が本決りとなった。そして、一五日から、日韓両国の正式会談が開始され、米・日・韓の防衛体制を強めながら、国内弾圧諸法規の整備に馬力をかけはじめたのであった。
一方、二〇日には、東大でいわゆるポポロ事件―ポポロ劇団発表会に私服警官が潜入―がおき、京大では第一次京大事件―小林多喜二祭に警官が潜入―が同時多発して、その摘発闘争・弾圧反対のたたかいが燃えあがった。さらに、翌二一日の反植民地闘争デーには、全国二六カ所で高揚した集会が決行され、激しいデモが敢行された。その結果、五七名もの検挙者を出したが、たたかいは持続する様相をしめした。なかでも、東京・南部の反植民地闘争デーの集会には、武器を持った労働者の集団が公然と姿をあらわし、一時、蒲田・椛谷地区を解放地区にした。政府は、二八日に、日米行政協定に調印、日米合同委員会を発足させた。二月末日現在、『アカハタ』弾圧以来の後継紙で発禁処分になった紙種が八一八に達した。まさに、彼我の攻防は目にみえてつばぜり合いの形になってきたので���った。
こうした状況のなかで、二月以降、五全協の「軍事方針」がつぎつぎと具体化され、下部に浸透していった。その代表的なものは、「中核自衛隊の組織と戦術」「軍事行動の前進のために」であり、「組織と戦術」のなかでは、「武力革命」の段階を三つに分け、第一段階では、軍事委員会の指導下に中核自衛隊を組織し、大衆闘争に武装行動の必要性を認めさせつつ、これを革命的闘争へひきあげていくこと。第二段階では、中核自衛隊の指導下に、広範な大衆を抵抗自衛組織に組織していくこと。第三段階では、大衆闘争を国民的規模にまで拡大し、抵抗自衛組織を人民軍に発展させ、武力革命に突入する、という構想をあきらかにしていた。そのために、『栄養分析表』で、(一)時限爆弾、(二)ラムネ弾、(三)火焔手榴弾、(四)タイヤパンク器、(五)速燃紙(硝化紙)などの構造や製法が、軍事委員会の単線指導で下部に流されていった。
前述したように、“単独”講和、「独立」ということは、軍事占領下にあって制約されていた政治的自由を、一定のカッコつきではあるが「国民のもの」にしなければならない、ということであるから、それ以前に、占領軍と日本政府は、革命勢力とその組織を出来るだけ弱体化させておかなければならない。そして、総司令部廃止後、かれらがいっきょに政治的進出をはかれないようにしておかなければならない。だから、この時期におこなわれた一連の弾圧措置は、朝鮮戦争前夜の軍事的予防措置とはことなり、「独立」を保持するための政治的予防措置であったわけだ。したがって、この措置のあとには、当然、党の合法的活動の拡大が予想されていたにもかかわらず、党中央は、むしろ、これを逆にみて、「サンフランシスコ体制と安保条約」による「占領制度の永久化・制度化」に「軍事行動」を対置して、突破しようとしたのであった。
三月に入ると、たたかいはにわかに激動した。一日、総評、労闘主催の弾圧法粉砕総決起大会が開催され、これには一〇万人の労働者が結集、全国的には延一千万人以上の労働者が、事実上ストライキをうって参加した。そして、わが国最大の政治的示威行動を展開した。これにたいし、政府は、二七日に、「治安維持法」の復活といわれた、破壊活動防止法案要綱を発表して対決し、また、これを撃って、翌二八日と三一日の両日、総評、労闘合同拡大戦術委員会が、破防法反対に、断固、ゼネストをもってたたかう方針を決定した。
こうした攻防のなかで、党の「軍事行動」は、いよいよ発動しはじめたのであった。関東地方では、神奈川県委員会が先頭を切り、三月一九日の未明、横浜の進駐軍物資集積所へ火焔ビンが投げ込まれ、二九日の夜八時には、吉河特審局長宅へ火焔ビン投入の襲撃がかけられた。これにたいし、国警は、二八日に、後継紙『平和と独立』の印刷所、配布所など、全国で一、八五〇カ所を捜査。二九日には、三多摩の山村工作隊にはじめて手入れがおこなわれた。これに反発して、三一日には、川崎の米軍資材置場、横浜市の「エリア・2」とよばれる進駐軍住宅付近に時限爆弾をしかける攻撃がおこなわれた。また、同日、総評、労闘は拡大戦術会議をひらき、破防法反対のゼネスト第一波を四月一二日、二波を一八日に決定して、対決の決意を表明した。
私は、この時期、宣伝・教育部門を担当していたが、破防法反対の宣伝活動に全力をあげ、このたたかいを広範な大衆自身のものにするために努力した。(中略)
しかし、四月から五月へかけて、私たちは、ビュー・ロー・キャップの枡井トメを中心に、連日、たたかいの指導に没頭していた。そして、四月一二日の破防法反対の第一波ゼネストには、三〇万人の労働者を結集、破防法案が国会に上程された翌日、一八日の第二波には、政府の恫喝をけって、一一〇万人がゼネストに参加するという、成果をおさめた。また同日、これに同調する都学連一五〇〇人の国会請願デモが組織され、全学連は二八日に破防法反対のストを決行した。いうまでもなく、この日、一九五二年四月二八日は、対日平和・安保両条約が発効した日であり、第二次世界大戦に敗北した日本が、七年間の占領から、沖縄を残して、一応とき放たれた日であった。だが、私たちは依然として潜行をつづけ、この二八日の前後には、メーデーの開催方法をめぐって、都ビューロー内部で深刻な討議をくり返していた。
五二年の中央メーデーは、前年同様分裂メーデーになったが、それだけではなく、会場も皇居前広場の使用が許可されず、結局、神宮外苑に押し込められてしまったことが、破防法反対闘争の高揚のなかで、戦闘的な労働者の憤激をよびおこした。そして、その怒りは、占領時代における軍事的・植民地的支配にたいする反抗のあらわれでもあり、同時に、日本が一応「独立国」になって、占領法規が効力を失った途端に、占領軍を肩代りして前面におどり出た、国家権力の暴力装置にたいする反抗でもあった。それだけではなく、その底流には、反革命戦争としての朝鮮戦争にたいするうっ積した怒り、とくに在日朝鮮人組織の抜きがたい不信と激怒があった。
中央メーデー準備委員会周辺の討論を反映して、都ビューローが討議をくり返した問題点は、戦後“革命期”に、“人民広場”と呼称されて、たたかう労働者・人民の“意志の確認”“決起”の場所となっていた皇居前広場を、「独立」を機に、実力で「奪還すべきだ」という意見にたいする賛否をめぐる問題であった。当初、キャップの枡井は、「占領下の制約はなくなった」「其のメーデーは人民広場で」の主張であり、組織部を担当していた浜武司や、労対の益子正教らもこれに同調していた。しかし、東京はえ抜きの他のビューロー・メンバーのほとんどが、これに反対する立場をとった。私は、メーデーの主力部隊である総評の意向を尊重すべきだと考えていたし、なかでも、「平和四原則」を守り、総評を“ニワトリからアヒル”に変えるために奮闘していた高野実ら左派の立場を強めることが、「独立」後の彼我の状況を有利に展開するポイントであると確信していたから、共産党が系列下の組合や全学連をつかって、「人民広場」に固執し、実力で“奪還”することには反対であった。これにたいし、枡井らは、「少なくとも、共産党の部隊は人民広場に入り、使用させなかったことの不当性を抗議すべきではないか」と主張しつづけた。
しかし、真剣な討論の末、しかもメーデーの前日に終日の討議をおこなった結果、全員の意見が完全に一致し、「人民広場には入らないこと」、「中央コースのデモ隊は、広場側を通過の際、シュプレッヒコールで人民広場使用不許可の不当性を訴えて、抗議の意思表示をおこなうこと」、「人民広場突入を強く主張する自労や学生部隊などをデモ隊の先頭に立たせず、後部に回し、市民を先頭に立てて、予想される敵の挑発から大衆を守るために、金属労働者や官公労の労働者たちによる統制を強めること」などを決定した。私たちは、この決定を生み出してホッとした。そして、「独立」後第一回のメーデーが、労働者、人民の血気さかんなメーデーになることを期待したのであった。
私は、メーデーの当日、会場にいけない無念さを晴らすために、メーデー終了後、妻と娘たちに会い、せめて家族水入らずの祝盃をあげる予定を組み、その連絡をとった。そして、その文面のなかに、「人民広場へは入らないことになった。僕の分もふくめて、先頭に立って堂々と行進して下さい」と書いた。ところが、周知のように、メーデーはいわゆる「軍事行動」を展開して、“血のメーデー”になった。先頭に立っていた妻と娘は、祝田橋よりはるか手前で警官に襲われ、妻は頭部を殴打されて三針ぬう重傷、娘は腰部を打たれて大きなアザをつくった。二人は通りがかりのひとに助けられ、傷の手当をして、私の友人の家に逃げ込み、かくまわれた。私がこのことを知ったのは、夕飯を食べないで待っていた夕刻近くであったが、私は、思いもよらない“血のメーデー”に驚き、家族がそれにまき込まれたことに愕然とした。同時に、「ついに、東京都委員会の決定は守られなかったのか」と残念に思い、ともかく現場近くまでいって情報をつかもうとした。そして、私が友人の家に駆けつけたときには、まだ、その周辺にも、この日の昂奮が無気味な余韻を残していた。みると、友人宅の戸棚のなかにかくれていた妻の顔は青ざめ、娘はおびえてふるえていた。私は二人を見守りながら、まんじりともせずに一夜を過したが、ひさしぶりに会う妻と娘に、こういう状態で会おうとは夢にも思わなかった。やたらと涙があふれ出て、複雑な怒りが全身に充満し、どうすることもできない感情にさいなまれつづけた。
翌日、東京都委員会は緊急ビューロー会議をひらき、善後策を協議した。まだ、現場の情報が十分収集できなかったが、何人かのビューロー員は、「あれほど慎重に討議して決めたのに……。なぜ、東京の党組織はああいう行動に出たのだろう」「これは、Yのひとり歩きではないか」と、Yを兼任していた枡井に、「おばさんだけは知っていたのではないか」と質問するひともいた。しかし、枡井も「知らなかった」といい、「ともかく、こうなったからには……、不当弾圧抗議の声明を出そう」ということになり、枡井が執筆することになった。その内容は、メーデーの日から放送を開始した、北京からの「自由日本放送」と趣旨が一致していたので、後日、枡井は得意気であった。この放送原稿は、NHKをレッド・パージになり、中国へ渡って「自由日本放送」の仕事にたずさわっていた藤井冠次の証言(『伊藤律と北京・徳田機関』)によると、伊藤律が書いたということであるから、枡井と伊藤律の評価は、だいたい一致していたことになる。
また、六全協後の東京都委員会の総括のなかで、私は、“血のメーデー”における「軍事行動」の責任���追及したが、そこであきらかになったことは、前日ひらかれた東京都委員会のビューロー会議終了後、浜武司が中央へよびつけられ、「人民広場へ突入せよ」と指示されたという。これを伝えたのは、志田の命をうけた沼田秀郷であることも、本人の証言によってあきらかになった。浜は、夜を徹して各地区を歩き、「中核自衛隊」の動員手配をおこない、「全く自分の責任で、当日の行動を組織した」と証言していた。
だから、私の推測では、中島誠が書いているような(『流動』一九七八年一一月号)「メーデーをきっかけに、『人民広場』を奪い返し、日本の首都のどまん中に一種の革命的状況をつくり出そうと計画し、動員を組織し、広場へのなだれ込みの順序、入り口の分担、隊列の組み方、そしてそこでの『戦闘』のやり方に至るまで何日も前から綿密に計画を練り、練習をも積み、『人民広場』での革命的状況をさらにどのようなものに展開してゆくかまで展望していた」というようなものではなかったと思う。もし、中央軍事委員会にそのような机上プランがあったとしても、“血のメーデー”は、党の「中核自衛隊」と党員を主力としてたたかわれたもので、大衆の蜂起を党が下から支えて、組織したものではなかった。だから、「革命的状況」を「展開」し、「展望」をきりひらくことは、全く不可能なことであった。
ついでに付記しておくと、この総括会議をおこなっていたときには、志田の「お竹事件」はまだ“闇”のかなたにあり、志田と官本顕治はアベックで全国の党大会に出席���ていた。したがって、この“協力体制”をくずさないために、「志田の政治的責任は追及すべきではない」というのが、反“主流派”のひとたちの共通した意見であった。つまり、このときには“分裂した一翼”の“極左冒険主義”について、“国際派”のひとたちも“関わらない”のではなく、“不問に付する”態度であった。
(中略) 血のメーデーにつづく「五・三〇事件」記念日の岩の坂、新宿、大阪吹田などの交番襲撃事件―火焔ビン闘争が多発して、ようやく盛りあがった大衆的な労働運動―破防法反対闘争に水をさす結果をもたらした。すなわち、破防法反対闘争の中心部隊を形成していた社会党や総評左派を動揺させ、右派単産幹部を狼狽させて、多数の部隊を脱落させた。(中略) こうして破防法は、七月四日の衆議院において可決成立し、二一日に公布され、同時に公安調査庁も発足したのであった。
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
(注とコメント)、これも、HPに転載してあります。石田雄現東大名誉教授は、メーデー事件当日、東大職組の一員として、人民広場に入りました。警察は、東大職組の2人を逮捕しました。丸山眞男は、広場にいませんでしたが、東大法学部教授会として、その対応にあたりました。日本共産党宮本顕治は、丸山眞男の『戦争責任論の盲点』にたいして、異様なほどの丸山批判キャンペーンを13回も展開しました。宮本顕治は、それによって、その丸山論文だけでなく、共産党批判をする丸山眞男の全学問業績の否定とその社会的抹殺を謀ったというのが、私(宮地)の判断です。共産党の丸山批判キャンペーンの実態と本質については、2つのファイルで分析してあります。
石田雄論文は、丸山眞男論文の一背景に、メーデー事件に関する日本共産党批判があったとする証言です。
――――――――――――――――――――――――――――――
石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
『共産党の丸山批判・経過資料』13回の丸山批判キャンペーン
『志位報告と丸山批判詭弁術』1930年代のコミンテルンと日本支部
以上 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
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ワクチン接種できるようになってきたけど、な7月(2021年7月の日記)
■2021/7/1 さぁ2021年も後半戦開始な木曜日。新たな気持ちでまた頑張っていきましょう。頑張っていきたい。頑張れればいいな。午後、学校から帰宅した娘がちょっと体調悪かったのか疲れてたのか、機嫌悪くて宿題とかやらせるのに一苦労。仕事やりながらだしどっと疲れる。夜、マリオンさんらがTwitter Space上半期映画・ドラマベストをやっていたので聴く。『インベスティゲーション』をすすめてくれた人がいたのでちょっとだけ話す。U-NEXT『爆裂都市 バースト・シティ』を見る。Netflix『全裸監督』S2E7を見る。
■2021/7/2 金曜日。いやー雨だ。コンビニに行く気もなくなる。でもヨーグルト買わないといけないので傘さしてコンビニに行ってお昼もいっしょに買ってきた。帰宅してから明日のための食パンを買い忘れたことに気づきショックを受ける。夜、娘を風呂に入れてあとは寝かせるだけだ、という段階で外からドーンドーンと音が。なんと横田基地が花火をあげている。雨なのに。マンションの通路に出て、屋根のあるところから30分間の花火を娘と見た。さすがに雨で見にくかったけど、それでもさすが花火だ。娘はとてもよろこんでいた。Amazon Prime Video『トゥモロー・ウォー』を見る。Netflix『全裸監督』S2E8を見る。これで完走。メインの役者陣はみんな良かった。とくに玉山鉄二。Apple tv+『リーシーの物語』E6を見る。
■2021/7/3 土曜日。どうやら前日の夜ぐらいに腰を痛めたらしい。前の病気の影響で僕は基本的に腰に痛みがある。毎朝、鎮痛剤を飲んでるぐらいには痛いし、もう死ぬまで走ったりする運動はできないだろう。がしかし、たまにそのレベルじゃない痛さになることがる。今がそうである。こうなると朝、昼、夜と鎮痛剤を飲んでなんとか過ごせる。早く治まってくれないだろうか。朝から娘を習い事に送る。束の間に自由時間。立川の「一福」でランチ。キノシネマ立川で『ザ・ジェントルメン』を観る。娘を迎えに行って買い物して帰宅。Netflix『バクラウ 地図から消された村』を見る。シネマコレクションbyKADOKAWA『大怪獣ガメラ』を見る。Apple tv+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S1E1を見る。
■2021/7/4 日曜日。まだまだ腰は痛い。午前中だけ時間があり映画を1本観れるチャンス。シネマシティで『ゴジラVSコング』を観る。極上爆音上映。帰りに西立川のパン屋でお昼を買って帰る。ちくわパン、うまい。午後は娘の勉強を見たり遊んだり。娘が動画を見てる間は僕も映画を見たり。合間に投票に行ったり。夜はche bunbunさんらの上半期ベスト Twitter Spaceを聴く。日本未公開映画をDigってる人たちの話は映画情報としてとても面白い。Netflix『悲哀の密林』を見る。U-NEXT『真・雀鬼』を見る。Apple tv+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S1E2を見る。STARZPLAY『ブラインドスポッティング』S1E2を見る。
■2021/7/5 月曜日。まだ腰は痛い。大丈夫だろうか。仕事もなかなか忙しい。なんとかお昼休みにスーパーで買い物。WOWOWオンデマンド『ザ・ゴールドフィンチ』を見る。Apple tv+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S1E3を見る。STARZPLAY『ブラインドスポッティング』S1E3を見る。 シネマコレクション by KADOKAWA『眠狂四郎 勝負』を見る。
■2021/7/6 火曜日。基本的に毎月第一火曜はけっこうな人数に対してミーティングで話す感じになる(オンラインですが)ので緊張する。そして発表時間に対して準備がとても大変。夜、僕モテYouTubeで予告編探偵回を見る。入江監督、名優、伯周さん、編集長でわいわいやってる感じが楽しい。Amazon Prime Video『J・バルヴィン~メデジンから来た男~』を見る。Apple tv+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S1E4を見る。
■2021/7/7 水曜日。朝からU-NEXT『16ブロック』を見る。追悼リチャード・ドナー。ここにきてRIJF中止の発表。いやー発表内容を読むとこいつはつらいな。うちの弟君も1日(ナンバーガール出る予定だった日)のチケットを取ってたはず。昼ごはんは揚げ玉豆腐だ。豆腐を200グラム食べるだけでけっこうお腹いっぱいになる揚げ玉豆腐。ヘルシーで素晴らしい。週一ぐらいで食べてる。Netflix『ロキ』E5を見る。Apple tv+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S1E5を見る。夜、映画見てる途中で寝てしまう。無念。
■2021/7/8 木曜日。お。ここ一週間かなり痛かった腰がやや良くなっている。嬉しい。午前半休を取りイオンシネマむさし村山へ。『ブラック・ウィドウ』鑑賞。お昼は『笑乃讃』でうどんを食べる。雨の中、自転車で急いで帰宅。午後からは仕事に戻れました。Netflix『刑事グロムvs粛正の疫病ドクター』を見る。U-NEXT『ビッグ・マグナム黒岩先生』を見る。
■2021/7/9 金曜日。うーむ急ぎの仕事が多くて忙しかった。上司と月一のミーティング。どうやら9月ぐらいから段階的に出社しての仕事に戻っていき、11月から本格的なオフィスでの仕事に戻ることになりそう。夜、予定時間より遅れに遅れたけどYouTubdeで「僕モテFRIDAY’」開始。上半期の日本映画振り返りって感じで楽しい。オンライン試写で『共謀家族』を見る。
■2021/7/10 土曜日。午前中に1本映画を観れるチャンス。立川へ。キノシネマ立川で『ライトハウス』鑑賞。村山章さんのツイートを見てパンフを買おうと思っていたらなんと完売。まじかー。お昼用にマックを買って帰宅。テキサスバーガーうまい。午後は娘の勉強とかをやらせつついろいろ映画を見たり。WOWOW録画『まともじゃないのは君も一緒』を見る。U-NEXT『大列車強盗団』を見る。Disney+『ラーヤと龍の王国』を見る。夜は僕モテ読者サミット。今回も長時間の映画の駄話。意外にも上半期で大きく見逃していたのはそんななかった感じ。『ペトルーニャに祝福を』は配信とかで見れる状態になったら見ようと思う。夜中の3時半まで参加してたけどさすがに寝なきゃいけないので離脱。また年末!
■2021/7/11 日曜日。いつも通り6時に起きれた。娘と午前中から実家へ遊びに行く。娘はちょっと早い誕生日プレゼント(ルイージのレゴ)をもらい楽しそうに遊んでいた。僕は昨夜遅かったのでさすがに眠かった。両親は2回のワクチン接種が終わりちょっと安心。弟ももうすぐ2回目とのこと。僕はいつになるのだろうか。夕飯までご馳走になり帰宅。帰りに虹が見えた。どうやらBluetoothイヤホンが壊れたようだ。スマホとペアリングしてくれない。これが思って以上に影響大。すぐにAmazonにオーダしたけど到着は火曜かな。Apple tv+『リーシーの物語』E7を見る。Apple tv+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S1E6を見る。U-NEXT『アトラクション 制圧』を見る。この映画、劇場公開時(カリコレ)に観ているんですけどほとんど内容忘れててショック。見てればもうちょい思い出してくると思ったのに。。STARZPLAY『ブラインドスポッティング』S1E4を見る。
■2021/7/12 月曜日。あーBluetoothイヤホンがないとこうも不便なのか。なんだか朝も昼も眠い。WOWOWオンデマンド『アトラクション 侵略』を見る。Apple tv+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S1E7を見る。
■2021/7/13 火曜日。まだBluetoothが届かない。不便だ。お昼にスーパーに買い物へ。あーこの時間で本来ならば30分のラジオとか聴けたじゃないか。うちの娘、先日受けた英検準2級、面接の方も見事合格。年内の試験で合格できれば、と考えてたやつが早くも受かってしまった。これで次は2級の勉強に移行(すでにはじめている)。英検2級になるとけっこう難しくて僕はぜんぜん受かる自信ないんですけど。幼稚園の頃から毎朝やってるヒアリングの勉強、週3で通ってる英会話、週1でのオンライン授業(for英検)、さら毎日やってる英検の勉強の宿題。これだけやってると小3でもここまでできるもんなんですね。夜、娘が寝てからラロッカさんとDiggin' Netflix収録。月一のことやりとりが楽しいです。Amazon Prime Video『ハピエスト・ホリデー 私たちのカミングアウト』を見る。
■2021/7/14 水曜日。午前半休でTOHOシネマズ立川立飛へ。『唐人街探偵 東京MISSION』完了。休暇を使わないとシネコンですら映画を観れない。ららぽーとのフードコートでお昼(うどん)を食べてから帰宅。帰宅するとついに立川市のワクチン予約のお知らせが届いていた。すぐに予約。8月中には2回目まで接種できるな。ワクチンなくならなければ。Netflix『プライムタイム』を見る。Apple tv+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S1E8を見る。
■2021/7/15 木曜日。忙しい。仕事が忙しい。郵便局とか行かなきゃなんですけど行く余裕がない。夜、藤元監督の監督ラジオを聴く。まだまだ面白い話が出てくる。ABEMAではじまった小林勇貴監督の新作ドラマ『酒癖50』E1を見る。「俺にできることはお前もできる」という思考は大嫌いで、プライベートでも仕事でもまぁまぁ遭遇する。自分もこれが出ないように気をつける。Apple tv+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S1E9を見る。
■2021/7/16 金曜日。もう7月も折り返しか。まじか。会社のいろいろサポートしてもらっている先輩が1週間休みのためいろいろ確認したいことができずまー大変。もう無理。僕もまとまった休みが取りたいが、通院やワクチン接種後のことを考えるとあまり休暇を使えない。夜はYouTube「僕モテFRIDAY」を見る。イシヤマさんとDiggin' U-NEXTを収録。次のお題作品も勢いですぐ決めてしまった。
■2021/7/17 土曜日。朝からいろいろつらい。100がんばり続けてもその後の1で失敗したら全否定されるような状況が続いていて、さすがにすべてを放り出したくなる。放り出さないけど。午前中に1本映画観れる時間があったのでキノシネマ立川へ。『プロミシング・ヤング・ウーマン』鑑賞。午後は娘に勉強やらせたり、英語の勉強につきあったり。夜、YouTubeで「9時ゆる」を見る。週末の楽しみ。Netflix『ミッチェル家とマシンの反乱』を見る。MyFrenchFilmFestival『ミスターX レオス・カラックス』と『女の子は無料』を見る。Apple tv+『リーシーの物語』E10を見る。これで完走。うーん、まぁまぁだったかな。Apple tv+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S1E10。これは満足。S2も見ます。
■2021/7/18 日曜日。今日はけっこう時間があります。午前中から上石神井へ。東京おかっぱちゃんハウスにてPodcast「Where were we!」の公開収録。生で岡部さんとナツノカモさんがPodcast収録してるところを見る。あえて積極的に告知をしていなかった(なぜだ?)けど、コアはウィスナーさん(「Where were we!」のリスナーをこう呼ぶ)は集まっていた。まるゆさんもきてた。トークの中でも云っていたけど、おそらく観客がいなかったら話さないような話が展開されていて面白かった。またやってほしいです。お昼を食べる時間が少なかったが、まるゆさんと近くの丸亀製麺まで行ってうどんを食べる。けっこう混んでて10分ぐらい並んで、10分ぐらいで食べた。おかっぱちゃんハウスに戻りナツノカモ「カモの観察会2021夏」。贅沢な時間だ。そして午前中とのギャップよ。ナツノカモ氏が年末に開催予定、と話していたある企画がとても面白そうかつ天才的アイデアでとても楽しみ。帰宅。暑い。娘と夕飯を食べる。今日は娘の誕生日なので食後に買ってあったアイスケーキを食べる。うまい。もう9歳か。いろいろ大変だと思うけど元気に育ってほしい。夜、娘が寝てからキンザザPodcastの収録にリモート参加。『ブラック・ウィドウ』と『ロキ』についてわいわい話す。『ロキ』についてはやはりうまく言語化できない部分が多い。自分でしゃべっておいて何を云ってるのかわからなくなる。誰かに説明してほしいけど、きっちり説明できる人いるのだろうか。けっこう遅くまで話したのでちょっとメールとかして寝る。
■2021/7/19 月曜日。まだ仕事が忙しいな。カモの観察会の振り込みにも行けず。申し訳ないです。スーパーにも行く時間がないから娘が寝てから遅い時間にコンビニで買い物。Netflix『フィアー・ストリート Part 1: 1994』を見る。Apple tv+『シュミガドーン!』S1E1を見る。監督がバリー・ソネンフィルド。
■2021/7/20 火曜日。午前中、昨日行け��かった振り込みに行く。早めのお昼を山田うどんで食べる。でも今日は小学校の終業式なので娘の帰宅が早い。急いで戻る。仕事の合間で娘のお昼を準備して、仕事の合間で宿題などをやらせ、仕事の合間でおやつを準備して、オンラインミーティングをしながら英会話に送り出す。いやーきびしい。明日から娘は夏休みか。去年とかどうしてたっけかな。思い出せない。夜、娘が寝てから、けんす君&なんすけ君とDiggin' Amazon Prime Video収録。終わってから近況などを話したり。あーもっと映画観たいな。STARZPLAY『ブラインドスポッティング』S1E5を見る。
■2021/7/21 水曜日。娘が今日から夏休み突入。仕事への集中力がますますなくなる。そんなの関係なくMeetingも多くて大変。合間に図書館に本を返しに行ったりもしてへとへとである。夜、U-NEXTで『聖なる犯罪者』を見る。
■2021/7/22 木曜日。おー。今日から4連休であります。まずは娘と実家へ遊びに行く。おばあちゃんに英検準2級に合格したこを報告して自慢げ。夏休みの宿題とかはやらせつつ動画とか見たいがなかなか集中できない。夕方、オンラインの英会話を娘のために繋げる。いつもは仕事中なのでチェックできていなかったけど、今日は45分ほどの授業をずっと聴いていた。本当にヒアリングに関しては僕より娘の方がはるかに上だと思う。娘は単語をまだまだ知らないけど、前後の文脈で内容を理解していってしまう。日本語の文章を聴いているのと同じ感覚なんだろう。このままうまく続けられるといいな。夕飯を食べて、寝る前には庭で花火をやって遊ぶ。夜は藤元監督の監督ラジオを聴いたりしていたら寝てしまったようだ。
■2021/7/23 金曜日。いつもよりちょっと寝坊したが午前中から娘の英語の勉強をやったり、宿題をやらせたり。Netflixで『フィアー・ストリート Part 2: 1978』を見たり。お昼は両親といっしょにスシローに行く。どんだけスシローに行くんだ。一度帰宅。娘を両親にお願いして僕は渋谷へ。イメフォで『ジャッリカットゥ 牛の怒り』鑑賞。4連休あっても観れる映画はこの1本のみ。Twitter TLでは映画の感想が続々と流れてきて正直うらやましい。僕がある程度映画館に行けるようになるには数年かかるかもしれないなぁと最近は考えている。それまで映画を好きな気持ちが続いているのか、という問題はあるけどそこはあまり心配していない。実家に戻り夕飯をご馳走になる。明日から家族で出かけるので車を借りて娘と帰宅。夜は『シュシュシュの娘』とインスタライブ、YouTube「僕モテFRIDAY」を連続で見る。久々の画伯登場、嬉しい。Apple TV+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S2E1を見る。
■2021/7/24 土曜日。午前中から家族で出かける。目的地は千葉の市原。五輪期間ということで1000円高い首都高を突破しアクアラインを使って海ほたるでお昼ごはん。車線規制とか心配だったけど、ここまで一切の渋滞なしで快適だった。市原ぞうの国へ。ちょうどぞうさんのショーがはじまるタイミングで到着。動物好きの娘は大変楽しかったようだ。ショーのあとはぞうに餌やりもできる。他の動物にも餌やりができて楽しい。猫とふれあえる部屋(+300円)でのんびりしていたら居眠りしてしまった。時間がきたので宿へ。サユリワールド(市原ぞうの国と経営は同じなのだろう)という動物園併設のグラピング施設。僕らが泊まるところはツリーハウス風の部屋で、梯子のような階段をのぼらないと部屋に行けない。足の悪い人とか小さな子供はムリだろう。秘密基地のような構造に娘のテンションは上がる。夜ごはんはおなじみのBBQ。食材とかは全部用意されているので僕らは焼いて食べるだけ。各宿泊施設も離れているし、シャワールームも個別。いわゆるグランピングというやつですけど、コロナ禍のレジャーに最適。去年は横須賀のグランピングに行ったけどそちらも良かった。BBQでおなかいっぱいになり、シャワーを浴びて、英語の宿題なども終わったのでベッドでごろごろする。娘も疲れたようですぐに寝て、僕はYouTubeで「9時ゆる」を見てから寝る。春本監督のオススメ映画回で、紹介された映画をメモメモ。
■2021/7/25 日曜日。いつもと同じ時間に起床。娘とトイレに行き(ツリーハウスにはトイレがついていない)、毎朝やっている英会話の動画を見る。娘が「外でやろう」と。ツリーハウスの外にはゆらゆら揺れる椅子が2つ置かれていてので、そこにノートPCを持ってきてやってみた。なかなか楽しい。朝食はなんとサユリワールドのきりんと一緒に。キリンがいるとこのすぐ横で朝食を食べることができ、食後はキリンにおやつ(バナナとにんじん)をあげることができる。あそこまで近くできりんを見たのははじめてだったし、キリンに手をなめられたのもはじめて。貴重な経験だ。おやつを追加購入、園内の他の動物にもおやつをあげることができる。園内の柵の外にカピバラや鹿、ラクダなどが歩いている動物園なのだが、まだ開園前の時間のため、見てまわっているのはグランピングの客のみ。しかもこの園、動物の入っている柵の中にも扉を開けて入っていけてしまう。動物園の人に「お子さんにはおやつのバケツ��持たせないようにしてください」と云っていた意味がすぐわかった。背の低い子供だとバケツごと奪われしまいそうである。ワオキツネザルの圧が強くて「バナナをくれー」という感じで近寄ってくる。てゆーかワオキツネザルに2回も背中に乗られた。もちろん着ていたTシャツは泥だらけ。すぐに着替えることになった。いやー楽しい経験でありました。10時にチェックアウトして、帰りはまっすぐ帰る。海ほたるに寄ったけどトイレとお土産購入のみ。そのあとは石川PAまですいすい。石川でお昼を食べて帰宅。実家に車を返しに行こうと思ったら娘も行くと云う。というわけで車を返しがてら両親にお土産を渡す。僕は1時間ほど横になって寝てしまった。夕飯前には帰宅。母が持たせてくれて炒飯を食べる。疲れたので娘と同じタイミングで寝てしまった。4連休、映画はほとんど観れなかったけど、娘は楽しめただろう。
■2021/7/26 月曜日。ちょっと疲れは残っているけどたっぷり寝たので気持ちいい。TwitterのTLをさかのぼり、杉田監督の『春原さんのうた』がマルセイユ国際映画祭のインターナショナル・コンペ部門にてグランプリを含む3冠とのこと。めでたい!ここ数日、杉田監督が更新していたTumblrの映画祭滞在記を読んでいて本当に楽しかったし、良い時間を過ごしているのだろうと思っていたけど、最高の結果までついてきてなんだかこちらまで嬉しくなってしまう。『春原さんのうた』、公開は来年だけどとても楽しみ。年内の日本の映画祭でも観れる機会などあるだろうか。仕事のメールをチェックしたが、4日休んでたわりにはあまりメールがたまっていない。ホッとする。月曜日はMeetingが多い。夜、WOWOWオンデマンドで『名もなき生涯』を見る。面白かったけど前日の疲れがまだあるのか数回寝てしまう。寝ては戻ってを繰り返して見たのですごい時間かかってしまった。ただでさえ尺が長い映画なのに。
■2021/7/27 火曜日。朝時間があったのでNetflix『フィアー・ストリート Part 3: 1666』を見る。午前中働き終わり、昼ご飯を食べてる時点で午後、娘の病院にいっしょに行く予定だと云われる。メモでは自分は行かないことになっていたのだけどそれを云ってもしょうがない急いで午後半休の準備。それほど忙しくない日で良かった。病院に行くまで1時間ほど時間ができたのでBSスカパー!で録画しておいた『LUGINSKY』を見る。今度行く予定の監督のトーク付き上映も楽しみだ。娘の病院へ行き、娘とスーパーで買い物をして帰宅。ちょっとだけ仕事のメールをチェックしたがすっごい急ぎのものはなさそうなので見なかったことにする。夜、WOWOWオンデマンドで『暗数殺人』を見る。キム・ユンソク、素晴らしいですね。録画したTVドラマとかも見たかったけど娘のベッドで横になったらそのまま寝てしまった。
■2021/7/28 水曜日。娘がいつもの時間に起きず朝から不機嫌。最近寝る時間を22時にしたのだけど、21時の方が良かったんじゃないだろうか。不機嫌でも英語やら宿題をやらせないといけない。在宅仕事をしながら。自分もオフィス勤務復帰が近づいてきているのだけど、いろいろ大丈夫だろうか。いろいろ不安である。夜は藤元監督の対談配信を見たり。U-NEXT『アンダードッグ 前編』を見たり。
■2021/7/29 木曜日。翌日に休暇をもらうこともあり凄まじく忙しい。定時でも仕事終わらず。子供の夕飯準備したりしつつまだ仕事。MCTOS『プライムタイム』回に参加。ヒラツカさんの考察にうなる。いやー参加して良かった。夜遅くにメール立ち上げてまだ仕事。在宅だとこういうのができちゃう。できてしまう。U-NEXT『ドゥーム・パトロール』S1E1を見る。
■2021/7/30 金曜日。早朝にメールを立ち上げてまだ仕事。海外から返信を待っていたやつとかあってバタバタ。でも仕事を休ませてもらって立川駅近くの病院へ。ついにワクチンの1回目を接種。ファイザー。サクッと終わった。帰りにマクドナルドでコーヒー飲みながらABEMA『酒癖50』だけ見る。帰宅。まぁ1回目は大丈夫だろうけど、副反応を心配して義母が一泊泊まりに来てくれた。娘はおばあちゃんが来て嬉しそう。そうめんをお昼に食べる。まぁ休暇なんですけど仕事のメールをいくつか返してしまう。いかんいかん。休もう。たしかに午後になるとワクチンを打った左腕が痛くなってきた。でも腕が上がらないということはない。夜、YouTubeで「僕モテFRIDAY」。伯周さんとかめりさ、毎週配信はけっこう大変だろうと思うけど正直面白い。コメント欄で読者さんけっこう集まっているのも楽しいし、画伯の話も面白い。STARZPLAY『ブラインドスポッティング』S1E6を見る。Apple TV+『テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく』S2E2を見る。
■2021/7/31 土曜日。朝一で検温したけど発熱はなし。腕が痛いだけです。娘の習い事には義母が送って��れるとのこと。ありがたい。自宅でゆっくりできたので午前中からU-NEXT『アンダードック 後編』を見る。コンビニに行ったり、お昼ご飯食べながらゲームの「返校」をすすめたり。3章がまぁまぁ複雑だったんですけど。なんか体調はぜんぜん大丈夫なのでMOVIX昭島へ。ちょっと観るをあきらめていて『竜とそばかすの姫』を鑑賞。僕はそんなにこの映画がうまくいってるとは思わないのですが、描こうとしているもの、題材は面白い。ネット空間、とかバーチャル、ではなくてはっきりとソーシャル・メディアの長短を描いている(描こうとしている)と思う。自分のTwitter TLのことを考える。あたりまえだけど自分がフォローしている人のツイートや、RTが流れているわけですが、このひとはなんでこんなことをツイートしているのだろう、なんでこんなに攻撃的なのだろう、こんなに怒っていてそれをツイートして何になるんだろう、という人がいる。たぶんそれが「正義」のようなものだと思っているのかもしれない。そういう人を理解できないし、理解する必要もないし、そんな余裕もない、と思っていたんですけど、なんかそういうソーシャル・メディアでの顔はやはりその人の一面であり、その人のそのスタンスにはなにか事情があるんだろうな、という想像をちょっとしてみようかな、という気持ちになった。そんなことをぼんやり思いながら帰宅。帰宅してまだ時間があったから、Diggin' Amazon Prime Videoの『J・バルヴィン~メデジンから来た男~』を編集して配信する。ここで話していたこともちょっと繋がる。夜、YouTubeで「9時ゆる」を見る。藤元監督、ポレポレでの3ヵ月ロングランお疲れさまでした。次は春本監督の『由宇子の天秤』っすねー。楽しみだし応援したい。ゲーム「返校 Detention」を短期集中プレイでクリア。なるほどなるほど。映画版も楽しみです。さて夏ドラマも出揃った感があるし、この前の僕モテ読者関西サミットでchihhieさんが「日本のドラマのことはツイートとか日記に書かないんですか?」って云われたことがちょっと気になったので、今期何を見てるかぐらいをここに書いておこう。空前の面白さと本数であった春ドラマに対し、夏ドラマはまぁ落ち着いているかな、と思っていたけどそんなことはないですね。夏ドラマも面白い。まずはこの日記でも何度か書いているけどABEMAの『酒癖50』。小林勇貴監督の新作ということで見てみたけど圧倒的に面白い。容赦ない。脚本は鈴木おさむ。実はある理由で鈴木おさむは好きではないのですがちょっと見直しました。地上波では安定の『孤独のグルメ』。がっつりコロナ禍を描く方向できたのは良いと思う。『ただ離婚してないだけ』、中村ゆり好きなんですよね。1話目から安里麻里監督の演出が圧倒的。話より演出の凄さ。入江組の助監督でもおなじみの角田恭弥監督演出回もあります。『初情事まであと1時間』、これはもう監督陣。橋口亮輔、三浦大輔、大九明子、谷口恒平ですからね。『お耳に合いましたら』、Podcast×チェンメシという題材も面白いけど、『サマーフィルムにのって』の監督・主演コンビ作品なのでもちろん見てます。『緊急取調室』は録画してるけどまだ1話も見ていないどうしよう。さらにWOWOWだと『男コピーライター、育休をとる。』、夏ドラマのヨーロッパ企画案件。山口淳太が演出、そして脚本は細川徹。あと『ひとりで飲めるもん!』、大政絢好きなんですよね。主に顔が。ドラマ前半のお仕事部分は面白くないんですけど、ドラマ後半のチェンメシひとり打上げ部分が最高なんですよね。大政絢がビール飲みながら「てんや」で天丼食べてるとこ見てるだけで最高。そう、実はこっちの方がチェンメシドラマとしては『お耳に合いましたら』より先行しているのです。こんな感じの国内ドラマを今期は見ています。あと古畑の再放送をついうっかり録画して見てしまっています。そんな感じで7月も終わり。
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【劇評】演劇が演劇であること
『ある晴れた日に』青春五月党 なばさま のぞむ

平成が終わる4月に始まった福島での暮らし。劇場の数も平日夜に出会える演劇の数も少なくなったけど、いわき芸術文化交流館アリオスの三面六臂の活躍と県南を中心とした高校演劇界隈の隆盛に加えて、柳美里の存在がシアターゴアーにはうれしい。
柳曰く、「道中目にする景色、耳にする声も、芝居の大切な要素だと、わたしは考えます」
朝、福島駅西口から路線バスに乗る。バスは飯舘村の道の駅までい館で5分間休憩し原ノ町駅へ向かう。原ノ町駅から常磐線で小高駅へ。ああ劇場で会うなと思うひとが車内にいる。あのとき浪江駅で折り返していた常磐線は2021年のいま全線開通している。(小高からも含めて)いろんなところから来たいろんなひとがLa MaMa ODAKAへ向かう。いい感じのカフェでいい感じのコーヒーを飲む。臨時開業中のフルハウスで本を2冊買う。軒先で柳がインタビューを受けている。広野町で本屋を開きたいと語る若い女性の声が聞こえる。元倉庫という(よりは現倉庫みたいな)アトリエに入る。「マナーモード設定の仕方がわからない方はスタッフがお手伝いします」というアナウンスを初めて聞いた。

隣り合う二つのベッドにふたりの男とひとりの女が眠っている。ふたりの男はあの日を境にした過去と現在の時間をそれぞれ生きていて互いの声は聞こえない。現在の男にとって(相馬弁を話す)過去の男は”ここにいない人”だから。現在のベッドで目覚めた女が次の場面では過去のベッドにもぐり込む。女にとって過去は過ぎ去らず、現在に潜在している。女だけがふたりの男のあいだを行き来し二重の時間を生きる。生きざるをえない。状況は女自身が選び取ったものではない。
開演前、砂利みたいなカーペットだと思っていたら本物の砂利だった。ごつごつした石ころのうえのやわらかいベッドのうえにしなやかな身体がある。テクスチャの混在が時間の混在と重なる。ベッドの上で、穏やかにセクシャルだが他愛なく日常的な身体たちのいちゃいちゃ(特にヨガの場面がどうしようもなくまぶしくてチャーミング)が繰り広げられる。見てはいけないものをみんなで見ることに共犯者のような連帯を感じる。石ころのじゃりじゃりが素足の痛みを伝える。足の裏で感じる痛みが自分の足で人生を歩いていくことの痛みと重なる。
女自身にも語りえないその痛みを現在の男が(女ではない他者が)十全に理解することはできない。(ヨガの英雄のポーズで)現在の男が手渡そうとする未来に女は飛び込むことができない。思い出と名付けるにはあまりにも生々しく過去の男の体温を感じるから。現在に耐えきれない女は逃げ込むように過去を再生する。何度も。女から過去の男へ投げかけられる言葉は宙吊りにされる。「どうして」「どうして」答えのない問いが舞台に降り積もっていく。「ゆっくり」「もっとゆっくり」祈りは、でも叶えられない。
過去からも現在からも離れた空間で女は重い疲労を感じる。男のぬくもりが残るシーツをまとった女がゆっくりと歩いていく。白い花を手にした女の姿は花嫁にも修道女にもみえる。プッチーニの『ある晴れた日に』の流れる部屋で女は待っている。再び戻ってくる過去といつか訪れる未来。どちらかを選ばないままで。

待つ/祈る/信じる。それは長い時間軸のなかで行われることに意味があるだろう。過去の男の不在を受け入れる/現在の男と未来を分かち合う。暴力的に切断された時間のなかで、女はまだしたくない選択を迫られる。選んだ結果を「自己責任」として引き受けることを強制される。選択しないことを選択する/待つことを主体的に選ぶ/ともに待ってくれるひとがいる。それらが女の、喪失とともにいまを生きるひとの救いとなることを信じて帰りの常磐線に乗り込んだ。
戯曲に多用される長音符や挿入される役者の(口語的ではなく)詩的な独白など、演劇としてのナイーブな手触りは90年代っぽい気がする。それは青春五月党の持続性、というか柳が自分にできることを理解していることを表しているのだと思う。アフタートークで登壇した蔭山陽太は90年代の青春五月党公演に通っていたと言う。当時をご存知の方がいればどんな手触りだったか聞いてみたい。
終盤、女と過去の男と現在の男とがひとつのテーブルで朝ごはんを食べはじめる。交わらないはずの時間の接近に劇場の空気が張り詰める。2011年3月11日の朝がやってきたことを過去の男が手にする福島民報紙が告げている。生きている身体たちが観客と同じ空間にいて、混在する時間を演じる。手元にある柳の小説『JR上野駅公園口』のサイン本には「時は過ぎない 事は終わらない」と直筆されている。喪失は去らない。喪失はいまここにいるわたしたちとともにある。
2019年10月に小高で行われた宮沢章夫との対談で柳は「演劇であることを迷い疑わない演劇は信頼できない」と(そこまで強い言葉ではなかったかもしれないが)言っていた。わたしの手が届く距離に”ここにいない人”がいた。ここにいないという在り方でたしかにここにいる人を目の前に立ち上げることのできるメディアは演劇以外にあるだろうか。
迷い疑ったあとでそれでもなお演劇であることを選んだ演劇だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・ なばさま のぞむ 司書資格は持ってないけど名刺に司書って書いてある。平成とともに千葉に生まれ、仙台を経由し福島在住。すきな作家は町田康、すきな理論はクィア理論。主に3000円以下の演劇しかみない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
青春五月党「ある晴れた日に」
作 柳美里 演出 前田司郎 出演 浅井浩介 長谷川洋子 前田司郎 日程 2019年10月30日(水)-11月7日(木) 会場 福島 La MaMa ODAKA 岩手 盛岡劇場 タウンホール 宮城 せんだい演劇工房10-BOX box-1 料金 一般 3000円 高校生以下 1000円 舞台美術 杉山至 照明 山口久隆 名古屋愛 吉田裕美 音響 中村大地(屋根裏ハイツ) 小道具 髙橋舞(趣味屋こめたろう.) 衣裳 富永美夏 相馬弁監修 佐藤和哉 舞台監督 鈴木拓(boxes Inc.) 松岡努 写真 新井卓 広報 遠藤眞有美 票券 佐々木一美 フードデザイナー 佐藤亜里紗 記録 大堀久美子 主催 青春五月党 共催 福島民報社 協力 河北新報社 岩手日報社 五反田団 飴屋法水 森幸彦 丹野純一 蔭山陽太 佐々木敦 くらもちひろゆき 額田大志 山口裕次 庄司智仁 松浦良樹 神﨑祐輝 佐藤仁美 千田優太 宮本一樹 萩原宏紀 村田青葉 佐藤和哉 柳朝晴 柳丈陽 アトリエヘリコプター 六尺堂 フルハウス ダイナー ボンズ せんだい演劇工房10-BOX 協賛 石川建設工業株式会社 株式会社北洋舎クリーニング 助成 公益財団法人仙台市市民文化事業団(仙台公演) 制作 boxes Inc.
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