#身に着けるアウトサイダーアート
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黒い花園、鴉天狗、(意味なし鴉天狗)何処に行こうか、、、

空想的世界で天狗になってた僕、ある意味、意味なし鴉天狗、現実の自分が見えてなかった、絵画も思わしくなく、これから画家で生きてくのは無理と判断して作業��に通ってます、でも作業所は思いのほか楽しく、嬉しくて通ってます、僕は妄想も落ち着き、現実の世界に戻り生きてる、生きる楽しさは絵画で成功だけではなく普通?の障��者として生きるこれも楽しいときずいた、と思う?思います!、僕は精神障害の症状が悪いとき草間彌生さんとかバンクシーさんみたいになれると、思ってました、今考えると世間知らずで馬鹿でした?なにも現実を知らずに生きていました、今は現実、等身大の自分がある程度見えてきました、、僕は何処に行くではなく作業所で働きながら精神障害者として老後が生きていけるといいなと思ってます。 https://www.borderlessart.or.jp/ https://artnowa.org/ #障がい者アート #アート #芸術 #イラスト #絵 #絵画 #アウトサイダーアート #アールブリュット #Art #paint #picture #SDGs #福祉 #社会貢献 #CSR #障害者 ----------------------- 新作アートをFacebookでチェック! ----------------------- 日本最大数の障がい者アートが掲示される 障がい者アート専門ギャラリー「アートの輪」の作品は 毎日アートの輪フェイスブックページで公開中です! 「いいね!」いただければ新作がチェックできます! コチラから→ https://www.facebook.com/BAOArtNoWa Read the full article
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* 【🌈ごきげんなアウトサイダー展 〜キラリと愉快な仲間たち〜①🌈】 * 終わりました 終わってしまった 最高に楽しい、ヒリヒリした3日間でした 準備もゴオーーて何回も脳みそ🧠ぱっかーーんなりながらやったけど、楽しかったです * 皆が愛情を注ぎ込んで繋いでくださった、大切なバトンを、下手なりに繋げたと思います * アウトサイダーアートの作家さん、 一緒にお店番や搬入出してくださったおふたり、 事業所の皆さん、 作家さんの御家族、 駆け付けてくださった皆様、 応援してくださった皆様、 お客様、 わくさん、 そして、私、、 * 皆で毎日、毎時間変化させながら、作って行ったこの空間が、愛おし過ぎて、全部写真と動画で、残しました でも、何よりも、胸に響くこの熱い気持ちが、本当に本当に、ダイヤモンドなんか比べ物にならん位、輝いてます * あっという間に消えたけど、 形あるものより、やっぱり見えない大切な事にフォーカスしていたいな、、 * 初めての試みばかりで、不安で不安で、吹き出物や口角炎?ヘルペス?、身体には謎の湿疹、そしてイベントと初被りの生理ちゃん * はっきり言ってこんなにしんどい準備は、初でした笑 * ても、皆さんが沢山連絡くださ���、あと、はるちゃん(馬場悠斗さん)の原画やグッズを見て、スイッチが一気に入りました 遅いけど😂 * ほんまは、暖簾のデザインもしてたし、サコッシュもパッチワークバージョンのお洒落なやつも考えてたし、配慮の足りない部分や自分の未熟さ、、 出来なかった事は、あり過ぎるけど、安堵の気持ちが大きくありました * 3日間、あっという間やったなあ、、 * 終わる時は、おセンチにもなったけど、搬出の目まぐるしさであわあわしたので、それも消え、あわあわが、安堵から新しいスタートを切ったんだという想いになってます * 私は、大学の実習で出会った、ひとりの自閉症の人の絵に衝撃を受け、夢を持ちました * そして、馬鹿ほど紆余曲折し、試行錯誤はまだしてるけど、夢が叶いました * 20年弱かかったけど、 沢山馬鹿にされたけど、 死ぬ程辛かった時もあったけど、 今は、 夢って叶うんだて思ってます * 皆さん、わくさん 本当に本当にありがとうございました❣❣ * * * Kirari Kirameku 美香 * #カルチャーターミナル #OCAT #Kirari_Kirameku #障害✖️art✖️fashion #アウトサイダーアート #ごきげんなアウトサイダー展 #キラリ煌めく #きらり煌めく #難波イベント #大阪イベント #原画販売 #身に着けるアウトサイダーアート #アウトサイダーアートの商品開発 #アウトサイダーアートの商品化 #アウトサイダーアート #outsiderart #大阪ハンドメイド #障害者アート #障害者アートの商品開発 #障害者アートの商品化 #アールブリュット #大阪 #Osaka #個性的アクササリー #個性派アクササリー #障害 #自閉症 #autism #アートアクササリー #artaccessories #アウトサイダーアートアクササリー (OCAT) https://www.instagram.com/p/CSB9k_1FXWC/?utm_medium=tumblr
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PAPA by François Halard
フランス人フォトグラファー、フランソワ・アラール(François Halard)の作品集。2016年に亡くなった父親のイヴ・アラール(Yves Halard)の最期の日々を、南フランスの町レ・ヴィニェールにある自宅で��影。本作では、普段の作者とは異なるアプローチによって共に過ごした数々の瞬間が捉えられている。世界で最も卓越した建築写真家の一人と評されている作者だが、本作においては私的な環境、空気感を追求した。優れた室内装飾家として名を馳せたイヴは、アンティーク家具から玩具まで様々な物を収集するコレクターでもあり、同じ室内装飾家で比類ないセンスの持ち主であった妻のミシェルと共に、自分たちの世界を作り上げていった。作者はいつもの手法を捨て、被写体に寄り添って撮影をした。枯れゆく肉体や、年齢と知性が刻まれた弱々しい表情を写し出した静謐な写真には、親愛の情と敬意がにじみ出ている。作者によるフランス語の序文と、ライターのアイデー・トゥイトゥ(Haydée Touitou)による英訳を収録。
父は私の近くにいるために、プロバンスに移り住みました。
ここ数年で私たちはお互いを受け入れるようになっていました…
私がアルルに滞在する時はいつも、父はアヴィニヨン駅に迎えに来てくれました。私は彼を訪ねてレ・ヴィニェールにある大きな家に行ったものです。父は自宅ではほとんどいつもトラクターに乗っていました。赤いニット帽を被り、オレンジのスニーカーを履き、Tシャツを着て。寒い季節には、義母の遺した虫喰いのミンクのコートを手放そうとしませんでした。
93歳になるまで父は自分の本や玩具、そして木々を身近に置いておきたがりました。父は晩年になってから300本以上の木を植え、玩具をとても大切にしていて決して誰にも触らせませんでした。
父は写真を愛していました。レミ、アナイス、バスティアン、アリゼ、私、それに飼犬のティナとヴァロンタン、父は私たち皆を写真に撮ったものです。父のイメージとオブジェに対する愛は私にも受け継がれています。父は数えきれない程、ものを持っていました。職業は室内装飾家でしたが、色やものを何よりも大切にしていました。エットレ・ソットサス(Ettore Sottsass)のランプ、フィリップ・スタルク(Philippe Starck)のガーデンノーム、ルイ15世のソファ、アウトサイダーアート、宗教美術の彫刻家だった祖母を偲ぶ宗教的な物の数々。そして布、たくさんの布…彼はさまざまな様式や違った時代の組み合わせを楽しんでいました。そうやって彼は、特別な精神を生み出したのです。それは父イヴと母ミシェル・アラールの精神とも呼ぶべきものでした。
93歳になった父は“猫”と呼んでいた猫の傍で、自宅で死にたいと言っていました。私は最期の日々を父の側で過ごしました。ちょうどイースターの前のことでした。私は買ったばかりのライカのデジタルカメラで撮影した写真を彼と共有することができました。
私はそれまで家族を撮影したことはほとんどなく、特に両親は撮らないようにしていました。父を撮ることなどまずなかった。しかし私は、彼がどんな人間だったのかを痕跡や記憶として残しておきたいと思いました。そうするとリチャード・アヴェドン(Richard Avedon)が自分の父親を撮った写真がすぐに思い浮かびました。ニューヨークのメトロポリタン美術館で初めて見た時、その力強さに深く感動したのを覚えています。それから数年後、レ・ヴィニェールで自分自身も父のポートレイトを撮影していたのです。でも私のやり方は彼のものとは違っていました。
この写真に、親愛と敬意を込めて。
– フランソワ・アラール 2019年、アルルにて
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2022年7月17日
大森靖子(&THEピンクトカレフ)の曲に「背中のジッパー」があるけれど、この曲の、 「着ぐるみの中の心は どれほど育っているだろう はじめて嘘ついた時の 少女の面影」 とか、 「試しにわたしの背中の 透明なジッパーを 下ろして中を覗いても そこにはなんにも無かった」 という歌詞でいつも泣きそうになるのは、着ぐるみのその外皮ばかりを成長させていて、その内側には何もないような気がするから。きみが知っているみたいに、ディズニーランドの着ぐるみを剥いでその中を覗いたのなら、そこにはただ完璧な空虚が、無限に広がり続ける宇宙みたいにあるだけだし、姫草ユリ子もまた膨張していく、そして私はといえばそのどれでもなくただ肉塊に近く、中身のない完璧な空洞としての人形はむしろひとつの完成されたものとして「なること」を欲望される。「暴かれるほどの秘密も 必殺の決めゼリフも まだ用意していないから ちょっとだけ おあずけ(背中のジッパー)」 *** 京都駅の近くでやっているブライアン・イーノ展に行った。印象的な展示は二つあるけど、一つは『The Ship』という、かなり暗い空間の中で音楽が流れていて、微細な光に照らされているという展示。中央にはいくつも椅子があるから、そこに座って聴いていてもいいし、あるいは(みんな靴を脱いでいるので)中央から離れた、周りの暗い空間の床に座って聴いてもいいし、ぐるぐる歩き回っていてもいい。音楽の流れるその空間をどのようにして体験するかは鑑賞者次第だし、何十分も微細な光に照らされた暗闇の中で(他の鑑賞者の人たちと一緒に)ただ音楽を聴き続けるのは瞑想的ですらある。あと、スピーカーはそれぞれ別の音を出していて、環境音だったり重低音だったりをそれぞれが鳴らす。 もう一つ印象的だったのは、「Face to Face」という展示で、これは暗闇の中に三つのディスプレイがあってそこに三人の人間の顔が映し出されており、アンビエントな音楽が流れている空間なのだけど、その人間の顔というのがピクセル単位で変化しているらしく、(じっと見てみていてもその変化を感じ取ることはできないので、変化なんてしていないようにも見えるけれど))少し目を離したりしてもう一度視線を戻すと、何だか違う顔になっていることが分かり、気づくとさっきまで男性だったはずの顔が女性になっていたり、大人だったはずの顔が子どもになったりしている(年齢、人種、性別)が微細な変化の中で越えられていく。私たちは1ピクセルの変化そのものを捉えることはできないけれど、そのまとまりを絶えず捉えることができる。 パンフレットによれば、 「特殊なソフトウェアを使い、画像は1つの本物の顔から別の顔へと、ピクセル単位でゆっくりと変化してゆきます。これが、実際には存在しなかった人々、中間的な人間など、一人一人の本物の顔の間に「新しい人間」の長い連鎖を生み出し、毎秒30人ずつ、36,000人以上の新しい顔を誕生させることができます」 ということらしい。そういえば、顔、というキーワードで思い出す何年か前の展示があって、それはクリスチャン・ボルタンスキーという現代アーティストのインスタレーション。名前は忘れてしまったけれど、ホロコーストに犠牲者の顔の白黒写真がただひたすらに並んでいる靴箱(記憶が曖昧なので何かが間違っているかも)、というような展示で、そこには抹殺された(そして完全に歴史から失われてしまうかもしれなかった)「顔」がある。言うまでもなく「顔」というのはレヴィナスのラインであり、たしかデリダもボルタンスキーを論じていた気がする。そして、ブライアン・イーノがどうかは知らないけれど、「顔」性という意味で思い出されるものがある。
***
最後に、この日記を漢a.k.a.GAMIの「紫煙 feat.MAKI the MAGIC」を聴きながら書いているのだけど、同時にルイス・ウェインが描いた猫のことを考えている。彼の描いた猫には漫画的な「かわいい」猫もいるけれど、やっぱり有名なのは統合失調症患者としての彼が描く猫。ルイス・ウェインのその病状の悪化とともに猫はどんどん幾何学的でサイケデリックな模様(万華鏡のような)へと変化していき、最後にはもはや猫ですらない何かになってしまうこと。 そして、それは何だか深淵をのぞき込むようで、アウトサイダーアートとしては、ヘンリー・ダーガーのように、(ある意味)キャッチ―だけど、実際には統合失調症の進行とともにそう��っていった、というよりかは、織物(タペストリー)から影響を受けてそうなったという説もあるらしくて、資料に当たってみたいな、と思う。
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3月
大阪のこと、ハタナカさんのこと
(書いていたら、すごく長くなってしまった・・・)
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3月20・21日は大阪、410さんへ。大阪は、ずっと好きな場所。
20代のころ、縁あって8年ほど関西に住んでしました。
兵庫、大阪、京都、関西を転々と、4回くらい引越しをした気がします。
いつも誰かとシェアをして暮らしていて、美術の大学に行き、映像や音楽をやりながら、知的障がいの施設で働きながら、そんな日々でした。
(その頃から、アートと、人との関りについてすごく考えていました。アウトサイダーアートや、アール・ブリュットと言われているものがすごく好きで、その流れで福祉の仕事をしばらくしていました。福祉の仕事は、学ぶことが本当に多かったです。結局、体力が持ちませんでしたが、今でも何かの形で関りたいと思っています。)
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まさか、セラピストという形で、大阪に戻ってくるとは、想像もしなったので、自分でも驚いています。
初の関西で、僕のことなんか、誰も知らないんじゃないかなぁと、不安でしょうがなかったのですが、410さんも、ワークショップやミニセッションに参加された皆様も、暖かく迎えてくれて、ほんとうに嬉しかったです。
今までやって来たことが、違う場所でも受け入れてくれて、こんなに幸せなことはありません。たくさんの出会いと、気付きを与えてくれました。
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410さんも、とても心地のよい空間で、3泊もさせてもらいました。
春分の日の、はじまりのときを大阪で過ごせてことを嬉しく思います。
この仕事をはじめて、大変なことも沢山ですが、人と出会い、繋がっていけることが、何よりの喜びになっています。
こんな機会を作ってくれた、Ogawaさんと、410のてらさかさん、かなこさんに感謝いたします。
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終わったあとは、久しぶりのカンテに行ってカレーを食べて、かなこさんに髪も切ってもらって、ほとんど中崎町から出なかった大阪3日間でしたが・・・満喫しました。
また、夏至の頃に、410さんで、展示とライブも予定しています。どうぞ、よろしくお願いたします。
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3月月末は、ハタナカイクヨさんの、ケータリングのお手伝いでした。
メニューを作ったり、当日のサービスをしたり。大きな仕事だったので、ホイスコーレの人たちも、ずらりと揃って、こんなに集まることなんてないんじゃないかなぁ。彼女の人柄のよさだなぁと思います。
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大きな仕事を、向き合ってやり通した彼女。改めてすごいパワーを感じました。 そして、それをサポートしているヒデさんも、すごい。二人は、絶妙なバランス。僕らもそうだけれど、夫婦や、パートナーって、ほんとうに絶妙なバランスだなと思います。宇宙ってすごいな。
イクヨさんは、まだ葉山に来てから、まだ1年しか経っていないのに、人脈も、お仕事も、次々と拡がっていますね。葉山によばれた感じ。歩むべき道へと着実に進んでいますね。
1年前に出会ったときは、まだ沖縄に住んでいて、倒れかけだったなぁ・・・。
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イクヨさんは、今月から、金沢文庫にある、Asaba art Squareで、月3回のランチ担当をするそうです。Asabaさんは、僕の大好きな場所。(住宅街の中に、突如現れる、外国のコミュニティーのような景色に驚かされます。)
Ogawaさんに出会う前、Asabaさんで、ネイティブアメリカンのホピ族のワークショップに行き、ホピ族のメディスンマンと出会ったことが、セラピストになっていく、はじまりだった気がしています。
そんな場所で、イクヨさんがランチを作るなんて、とても嬉しい。毎週でも通いたいな。彼女も、これから次のステージに行くんだな。
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最近、ひとつ時代が切り替わっていくような感じがしています。
占星術では、7年ごとに1つの星座を移動する天王星が、5月に火のエレメントを持つ牡羊座から、地のエレメントを持つ牡牛座へと、移動していきます。 そんなことも、関係しているのかもしれませんね。
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牡牛座は、自分自身の感覚(目に見えない感覚ではなくて、肉体的に感じる感覚。5感、シュタイナーでは12感覚)を大切にしていく星座。地は、物質的な形あるものを表すエレメントです。
わたしの感覚を信じ、ゆるぎないものにして、そして何かの形にしていく7年間になっていくのかもしれませんね。
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「7」という数字も、とても興味深く、シュタイナーでも7年ごとに、生まれ変っていくという考えがあります。(チャクラも7つですし、ブッタが生まれてすぐに7歩あるいた、なんていう逸話もありますね)
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2011年の震災からも、7年。ひとつのターニングポイントですね。
次の7年周期へと、移っていく。そんな狭間で揺れ動く、私自身の感情も、また大切にしてい��たいと思います。
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ビービー弾よ飛んでゆけ
君のシャツ、パタパタたなびいてる。パリパリに糊のきいた素敵なシャツ。見栄の形が型紙とされているそれを、あたしは黙って見てる。
君は胸を張ってあたしの前をずんずん歩く。ここどこ? 既に分かんない。地理は君の賢い頭に全部インプットされてて、あたしは女という名のオマケだ。あたし、ちゃんと立場を理解してる。だからあたし千鳥足で、君の回転する足に引きずられてく。これが正しい図式です、そうでしょ? 神様��
君、がっしりあたしの手首掴んじゃって、そんなことしなくても逃げないってば。でも君はそういう意味であたしを捕まえてるんじゃなくて、男と女って立場を身に染みて感じたいがため、ポーズをとってるだけなのね。
ああ、こうして見ると世の中にはなんとポーズが多いことよ。腕を組む。女が男の腕をぎゅっと握ったりなんかして。彼氏は彼女をエスコートしたりするんだ。指を絡め合う。お互いの指先の神経がこすれて、ひっそりオーガズムに達したりしてさ。スケベなんだ、人間ってやつは。そして彼みたいに手首を引くことも。ポーズは男のプライドの形。
男のプライドってやつを感じると、あたしは粉々にしてやりたくなる。ご褒美のために媚びを売るなんて、とてもじゃないけどできない。あたしが欲しいのは宝石や洋服じゃなくって、彼らの歪む顔と涙なのだ。
あーあ、背広を着た体格のいい男の人が、ぐしゃぐしゃになって泣いてるところを見たいな。できればあたしを想って泣けばいい。赤い目を隠そうとする手を薙ぎ払って、眼球をべろべろ舐めてあげたい。鼻水、だらしなく開いた口、喉仏がしゃくりあげるのを、いつまでも見つめていたい。
もっと泣いてほしいがためにあたしは、あることないことでっちあげて、彼らの内臓をキュウキュウと締め上げようとするかもしれない。もし罠に引っかかり、あられもなく声を上げて泣いてくれたとしたなら、もう私は満足だ。ご褒美として、優しい理想の女神様となってさしあげましょう。コドクな疾風に冷えきった頭を撫で、誰も触らない唇に触れ、手足を温め、荒れ野という背中を抱きしめてあげましょう。
もし彼らがあたしを想って泣いてくれるのなら、あたしは何でもしてあげるんだ。キスでも、妊娠でも、フェラチオでも。それが懇情の別れでも。
君はいつでもツンケンしている。それはヨウショウキのカテーカンキョーがぱっとしなかったからだとも、世の中に嫌気がさしているからだとも、ただ我が侭なだけだとも言える。まあとにかくツンケンしてるんだ、君ってやつは。
あたしはそのツンケンが嫌いじゃない。ツンケンしてる君は必死で自分を大きく見せようとしてるけど、それって真逆だよ。あたしは君の鼓膜に揺れるポピー畑を眺めるのが好き。毒を孕みながら気弱げに震えている赤い花。君の脆い変装を透かして、その花畑を見るのが好きなの。
君はあたしをどこかに導こうとして、やたらに手首を引っ張るんだけど、その後ろ姿がぼわぼわに逆立ってて、まるで威嚇してる子猫みたいなんだよ。無理すんなって、とあたしは呟く。
君からすればあたしは純情で、儚げで、得体の知れない穴を持つ、れっきとした「女」なわけなんだけど、あたしからすればその考えっててんで的外れなんだな。
あたしの心は鉄砲玉だ。弾丸は重力を無視してビュンビュン飛んでくよ。Aカップの胸や、渦巻き状の耳の穴や、いけすかないお尻の形や、子宮内膜を突っ切っ��、どこでもないところを旅するんだ。あたしは心では、男でも女でもないんだよ。一つのところに収まろうとしたって、欲望がはみ出ちゃうんだもの。でも君の前では女である方が弱さをねっちり観察できるから、大人しくしてるんだ。ふふ。
君の肩って広いな。あたし、羨ましい。いいな、風を切って歩けてさ。この世をどこまでも見下ろすことができそうだよ。
君の温かい手が好き。あたしを求めて彷徨う、図体の大きい羊みたいで。こっちへおいで、と誘導しながら、ふいに逃げたりしてみるんだ。そうすると君はムキになってあたしを追い回そうとしてくるからさ。あたしはそこに寂しさの片鱗を感じて、嬉しくなるんだよ。
君の太い首に首輪をつけて、一日中うなじにキスしていたい。君の肌がキスマークで真っ黒になるまでさ。あたしが帰った後に鏡を見て、ぎょっとすればいいんだよ。
君の唇って柔らかいな。噛み切ってその血をごくごく飲みたいよ。痛みで君の目に涙がにじむのを黙って見守っていたいんだ。あたしにだけそうするのを許してくれる? あたしにだけ。
君はあたしがこんな妄想していることを知らない。さっきから引かれてる肩が痛くて、あーあ、関節がはずれちゃうよ、って独りごちる。あたしが今、ぽっきり半分に折れておっ死んだら、君はどんな反応をするのかなあ。あたしが死ぬ瞬間まで、君はあたしだけのものであってほしいんだ。
君の目の前で別の男の人と喋ってあげる。君って意外と嫉妬深いんだな。でも実は嫉妬を楽しんでる節があるのを、あたしは知っている。だって君って真性のロマンチストだもの。
だからあたしはキズナという綱をぶった切るようにして、親しげに彼らと話してあげる。君に見せたことない笑顔だって見せてあげる。君の怒りで握られた拳、可愛いな。それで思いっきりあたしを殴って、一生消えない傷を作ってよ。
でも君は意気地無しだからそーゆーことしないよね。分かってる。君ってぶっとんだものに心底惹かれるくせに、自分がそうなるのは怖いんだもんね。
君は言う。
「お前を見ていると分かる。ぶっとぶっていうのは、多くの何かを捨てることだ」
あったり前じゃん。だからあたしはもう、どこにも帰れないんだ。
あー、あたしの唯一の居場所で下僕で神で芸術品である君。ずっとあたしの展示物であってよ。泥にまみれて、無様な、あたしを楽しませるアウトサイダーアートになって。あたしが望むままに姿を変えながら、あたしを憎んでギリギリ歯ぎしりしてよ。あたしは君の手首に錠をかけて動けないようにしてあげるから、君は必死に抜けだそうとあがいて唸り声をあげてね。
あたしの零したワイン飲みなよ。くらくらしてきた頃にガソリンで火をつけてあげるね。瞳孔に青白い炎が乱反射して、舌がきらきら燃えてくの、綺麗だろうなあ。二人でフランベされちゃおうよ。でっかいでっかいフライパンの上で。
ね、あたしの脇腹に八重歯を突き立てて、バーコード振ってよ、お願い。あたしは牧場の牛になって、番号で呼ばれたりしちゃうんだ。そしたら君にとってあたしは牛という概念でしかなくてさ、屠殺するために鉄砲で撃つこともできちゃうんだ。ばっきゅーん。その場面を想像して、君は興奮するかな。だって君の手であたしを合法的に殺せるんだよ。あたしの首がポーンと飛んでさあ、目玉がひっくり返ってさあ、全身の力が抜けてくのを見届けることができるんだよ。
だけどそれでも君は、あたしに操られているんだ。殺してほしいと願ったのはあたしだから。あたしだけの君。あたしだけの君。
けれど本当に面白いのはさあ、頭から爪先まであたしに支配された君がさあ、怒りに我を忘れてガバッと立ち上がってさあ、あたしの頭を床にガンガン叩き付けたりし始めるところなんだよね。君は自分に付けられた首輪をあたしに付け変えたりしてさあ、リードを持って地面を引きずり回しながら、よくも今までこんな目に遭わせやがって、なんて怒鳴るんだよ。あたし嬉しくて嬉しくて、ますます笑っちゃう。
つまり君は妥協して、あたしに縛られてたってことだよ。それを愛と感じてくれてたってことだよ。
あたしは君を嬲れば嬲るほど自分の力を確かめることができるけれど、本当は胸の早鐘を止めてくれるもっと大きな力を、ずっと待ってるんだ。それは柔らかい優しさやその場しのぎの慰めではなくて、限りなく暴力に近いものなんだ。
あたしは鉄砲玉になってビュンビュン飛んでいく。あたしは君をいたぶってけらけら笑ったりしてるけれど、いつからか弾丸と一緒に体も心も、どっかに置き去りにしてしまったみたいなんだ。自分勝手にしか生きられないあたしの精一杯の愛情表現は、君があたしを忘れないように、一生残る傷跡をつけること。けれどあたしは心の底では、そんな痛みを自分に与えてくれる誰かを、ずっと待っているんだよ。
ねえ君。あたしに首輪を付けてよ。そしてあたしを、あたしだけのあたしにしてよ。あたしだけの君ではなくて、君だけのあたしにしてみせてよ。あたしを隅々まで支配して、羊水の温度を思い出させてよ。その時初めてあたしは、君と腐るほど泣いて、笑うことができるんだ。
君だけのあたしになりたい。君から心底泣かされてみたい。君に何もかもぶち壊してほしい。このあるんだかないんだか分からない体も。空洞の内臓も。咽の奥に住む、ぶるぶる震えている得体の知れない生き物も。あたしが毛嫌いしてやまない、あたしのことも。
あたしは君と芯から芯から一緒になってしまいたいんだ。もう怯えたくない。この世の全てに。全てを。全てから。全てにて。
君はあたしの頭蓋骨の中身なんてまるで知らずに、ドーナツ屋の前で立ち止まる。
「うまいんだ、ここ」
と自慢げに言って、自動ドアの向こうへ消える。あたしは思いっきりクリーム乗ったの食べよう、できれば苺ジャムも(君の血に似てる)と呟いて、財布のお金の勘定をし始める。
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About The Exhibition by The Curator 2/19 2017
Ms. Shino SUGIMOTO
"Art Brut? Outsider Art? Or...? Its inherent creativity." Perhaps this title is slightly puzzling. Art brut, in French, literally means "raw art." Customarily, it refers to art created through pure impulse that is not bound by teachings of what is considered traditional Western art education. In 1945, an artist by the name of Jean Dubuffet challenged the label, which was previously referred to as "Art by those with mentally handicapped people" and replaced it with art brut. At that time, this was considered a significant antithesis to the values that surrounded Western art. In English, this type of art is called outsider art, but since the word outsider has a discriminatory nuance, it is more commonly referred to as art brut in Japan. As such, it has been over 70 years since art brut's advocacy came to light and it is a widely recognized theory in today’s art history. Therefore, this exhibition is not here to deny this theory, as their art is genuinely art brut, a "raw art."
Then why the "?" In Japan, institutions for the people with intellectual disabilities have very active art programs and therefore, many have the image of art brut = art by those people. But that is exactly the opposite of what Dubuffet had originally intended. That is because art is not judged on the artist's characteristic, but rather belongs in a place where it transcends all notions of able or disordered/disabled, ethnicity, nationality, and religious faith.
The reason why I decided to put on this exhibition is solely based on the fact that I was moved by the artists' creative approach and existence, which is both so strong and free. There is a sense of restlessness that is common to all these pieces. This could feel comforting to those of us who find it unsettling to be in a world where things are considered correct when they fit in a box. Their art’s warmth, gentleness and liberating expression may also appeal to us. Some of the artists featured in this exhibition may not recognize the fact that they are actually creating art. But when I witness their sincere and impulsive creative process, I am naturally left with a big question in my mind about what art really is.
Also, I want to get a message across to a wider audience that it is almost impossible for their work to see the light of day without others stepping in to help along with this process. Unlike what has traditionally been considered "art by the disordered" in Japan, an important purpose of this exhibition is to provide a medium where their art can be sold with its proper monetary value. By being given its relevant value, their art is prevented from being squandered or dissipated. At the same time, we ideally want to create a healthy market where people can come to enjoy art.
It is not surprising that during Dubuffet's time, it was necessary to advocate for raw art as it was considered to be outside of academia. But today, I question the need to even discuss academia vs. anti-academia. With the 2020 Tokyo Olympics and Paralympics upon us, Japan is aspiring to realize a society which is truly diverse. Through exhibitions such as this, regardless of being able or disordered, art can heighten everyone's awareness to lead us to a framework unique to Japan where everyone has a place to shine. I cannot help but believe that their art, produced with so much energy, has that power to realize that kind of world.
Lastly, I also need to confess that it was my personal mission that started the process of putting on this exhibition. My brother is mentally disordered and it has naturally led me to this place where I have come to know both worlds of art and welfare. This endeavor was like opening Pandora's box where I would entrust their art to be a part of market principles. But throughout the 18 months of preparations, I have come to know many who share in this mission and have given me so much courage along the way. For that, I would like to take this opportunity to express my deep appreciation to everyone.
『アール・ブリュット?アウトサイダーアート?それとも?—そこにある価値』少しややこしいタイトルでしょうか?アール・ブリュットとは、フランス語で『生の芸術』。一般的には西洋美術の正規の教育を受けず、従って文化や因襲にも縛られず、アーティストの創作に対する無垢な衝動から生み出される芸術を言います。1945年にジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet)という画家が、それ以前は『精神障害者の芸術』と呼ばれていたものを、この言葉に置き換えました。これは、その当時の、アカデミックな西洋美術一辺倒の価値観への強烈なアンチテーゼでした。英語では、アウトサイダーアートと呼ばれていますが、アウトサイダーという響きが差別的であるということで、日本ではアール・ブリュットと呼ばれることが多いようです。このように、アール・ブリュットは提唱されてからすでに70年以上の歳月を経ており、今日では美術史の中の一つの概念として広く認知されています。ですから、この展覧会もアール・ブリュットを否定するものではありません。彼らの作品は、紛れもなく『生の芸術』、アール・ブリュットなのですから。
では、なぜ『?』なのか。日本では、知的障がい者が利用する福祉施設での創作活動が活発なことから、アール・ブリュット=障がい者アートと思われている方が少なからずおられるようです。ですがそれは、デュビュッフェが意図したこととは実は逆の方向に向かうものです。そもそも『芸術』とは、アーティストの属性で評価されるものではなく、障がいのある無しも、人種も、国籍も、宗教も、すべてを超越したところにあるものだからです。
そして、私がこの展覧会を企画した理由は、彼らの作品の属性云々とは別の次元で、作品の持つ強度と自由で何ものにも縛られない彼らの創作に対する姿勢や存在そのものに魅せられたからに他なりません。彼らの作品に共通するある種の落ち着きのなさが、型にきちんとはまることを是とする世の中に違和感を感じている人には、寧ろ心地よく感じるかもしれないし、醸し出される優しさや温かみ、自由な表現に惹きつけられるかもしれない。今回の出展アーティストの中には、自分が作品を作っているのだという認識すらない方もおられます。けれども、彼らの切実で衝動的な創作の現場に立ち会うとき、私の中に芸術とは何かという大きな問いが自然と立ち上がってくるのです。
さらに、この展覧会を通して、第三者の深い関与なしには、彼らの作品が世にでることは現実的に難しいのだということも広く知って頂きたいのです。今まで日本でなされてきたような『障がい者による作品』の展示ではなく、作品本位の適正な価値付けがなされ、販売につなげていくことがこの展覧会の大きな目的です。価値付けがなされることで作品の散逸や滅失が防がれるのと同時に、一般の人が楽しめるアートの健康的な市場が育っていくことが理想です。
確かに、デュビュッフェが生きた時代はアカデミズムの周辺にある『生の芸術』を唱える必要性があったのでしょう。しかし、もはやアカデミズム対非アカデミズムの概念を持ち出すことにそれほど意味があるのでしょうか。いま日本は、オリンピック・パラリンピックを目前に、多様性のある社会の実現を目指しています。この展覧会のような試みが継続されることで、障がいをもつもたないに関わらず、芸術を通して共感し意識を高めあいながら、誰もが社会の中で輝くことのできる日本独自のスキームをお示しできないか?現代の日本で活発に制作されている彼らの作品は、そんな世界を実現するための力を宿している、私にはそう思えてならないのです。
最後に、私の実の兄が知的障がい者であることから、私自身が当事者であること、アートの世界と福祉の世界、両方を知る私がここに至ったことはある意味必然で、彼らの作品を市場の原理に委ね、パンドラの箱を開けることになるかもしれない展覧会の開催は、やはり当事者が担うしかないという独りよがりの使命感が端緒であったことを告白します。ですが、この1年半の準備期間を通して、その価値観を共有出来るたくさんの仲間に出会えたことは、私に大きな勇気を与えてくれました。この場を借りて心からの感謝の意を表したいと思います。
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好きよあなたが殺したいほど愛しても三分の一も伝わらない
一体どうやったらお前を殺せるんだろう。 一体どうして俺はお前にこんなに執着するんだろう。 お前は前回の個展で、「この人に案内を出さないわけにはいかないだろう」と言って、名指しで俺に来てくれと言った。 その意味がわかっているのか? あのリプライが無かったら、俺は新宿まで行く移動費と移動時間を使ってコンビニで菓子を買い込んでガルパンのDVDを見るという無意味で有意義な週末を過ごせるはずだった。 しかしそれでも俺はお前の個展を見に行った。 その意味がわかっているのか? 名指しで俺を招待したんだ。よりにもよって、先の展覧会をボロクソ批判したこの俺を。 言ってしまえば俺はあの時、お前を見直してたんだ。 あの文章も読んで、俺の連投ツイも読んで。それを受け止めているお前を見直したんだ。 「そこまで言うなら」と、俺は個展を見に行ったんだ。 「そこまで言うからには、きっと一味違うんだろう」そう思ったんだ。 俺を名指しで招待するからには、前回のグループ展なんかよりも余程いいものを、俺がぎゃふんと言うようなとんでもないものを作ったのだろうと、そう思ったんだ。 勝算があるから。俺を招待したんだと思ったんだ。 負け戦なんかに招待するはずがないと思ったんだ。 勝つか負けるかわからない、自信がないのに、招待なんかするはずないと思ったんだ。 だから俺はわざわざ見に行ったんだ。 きっとお前は俺を打ち負かしてくれるんだと信じて。 きっとお前は、俺を殺してくれるんだと信じて。 俺はお前に、殺されたかったんだ。 お前は俺に期待をさせたんだ。 俺はお前に期待をしてたんだ。
それなのにお前は期待を裏切った。 自分で招待をして呼んでおいて。自分から喧嘩を売っておいて。 それでそのうえ、噛みつかれたら、俺を無視して逃げたんだ。 だから今度こそ、俺はお前を――。
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しばらくぼんやり考えていて脳ミソのメモリを食いまくってる考えがあらかたまとまったので投下して吐き出してすっきりしてデフラグをしよう作戦。
以前アーティスト気取りメンヘラゴミカス野郎の個展を見に行って(だって向こうが来いって言ってきたんだもん)、

それをボロクソに中傷したとき(ここ http://twilog.org/he_tale_bass6/date-161010/asc の中盤あたりからあるので暇で暇で仕方なくかつ今日のこの文章を楽しみたい人は是非読んでみてください)。俺は「この批判という名の中傷を拒絶するな。向き合って、俺を殺してみろ」って言ったんですが。
そしたら、俺が全く別口で性癖の話題になった時の「リョナは理解不能」という発言を引っ張り出して「性癖が違うならわかりあえない」と言い出しやがりましてね。あまつさえ、俺が全身全霊の軽蔑を込めて書いた言葉を勲章かなんかのように言ってやがりまして。
ふざけんじゃねえよ、せっかく俺が書いた文章をまさか性癖の違いだけで逃げようなんざいい度胸じゃねえか、と思いまして、それがぐるぐる頭の中を巡っていたのですね。 というわけでリョナを芸術と言い張って作品(笑)を作る人間に向けた文章を書こうと思います。性癖という最後の絶対的な障壁を超えることが目標です。見てろ、俺は何度だってお前を殺してやる。
まず言っておかなければならないのが、自分は確かにリョナを理解できないけど。自分は痛みやらを共感しやすい人間というか、「人が痛がってる姿を見ると自分も痛みを感じるから見れない」ていうアレでして。 そういうわけで「女の子が流血したり痛がってるのを見て『うわぁ……痛そう……なんでそんなひどいことするの……うわぁ……』って言いながらマスをかく」のは、確かにミリも理解できないけど。 一方で、腕や脚が一本くらい欠損してるくらいだと全然平気なんですよ。 いや勿論街中で見かけたら「ん」とはなるけど、そのくらいで済んでて。シルヴィちゃんで普通にシコれるし。
ちょいと自分語りを一つ。実は地元で兄の同級生に(先天か後天か知らないけど)左腕が肘までしかない人がいまして。でもその人も、兄含めたクラスメイト達も、そんなことほとんど気にしてなかったし(勿論普通学級)、その隻腕の人は中学では野球部に入り、右手にサウスポー用グローブを付け、左の二の腕にバットを寝かせ右手でスイングし、あまつさえ二塁手として内野ゴロをグラブトスで捌き、他の健常者に混じって野球をしていて。 そうやって、隻腕でもまったく普通に生活をしていたので、四肢の一つくらい無くとも別に僕らとはなんら変わりないんだなぁと、そういうことをぼんやりと思いながら生きてきたのであります。 地元の知り合いにそういう人がいただけでなく。自分が小学一年だった時分には、担���の計らいで聾学校の生徒との交流授業なんかがあったりして。「この人達は、耳が聞こえないかもしれないけど、耳が聞こえないだけの普通の人なんだなぁ」と幼心に発見をしたことを何となく覚えていて。 そしてあるいは、時間は飛ぶが大学に入って同じ学部で、未熟児だったために脚が発達せず車椅子に乗っている人と友達になったり。同じ授業を割と多めに取っていたから、彼の車椅子を押しながら教室に向かったことも何度もあったし、それは障碍者だからというよりも、単に友人として「せっかくだし上り坂くらい車椅子押してやるよ」という感覚であり。それは背の低い友人のかわりに棚の高いところにある本を取ってあげるのとなんら変わりはなかった。というかそもそも進学先が、車椅子に乗ったり白杖を突いたりしている人がちらほらいるような大学だったので、その辺に関しては他の人よりはわりかし見慣れているというか耐性があって。 まぁ自分はそういうバックボーンがあるのです。僕にとって、車椅子と、弱視の人のための眼鏡との間に、なんら本質的な差異は存在しないのです。
なぜこんな長大な自分語りをしたのか。なぜ俺はリョナは無理だが欠損は大丈夫だと表明したのか。左腕がなくとも野球をする知り合い。車椅子で大学に通う友人。彼らと触れ合ってきた俺にとって、欠損そのものに衝撃はない。だから、絵を見てるときに不意に手足の欠損した人物が現われても、そこに驚きは無いし、欠損という属性しか他の作品との差異がない絵ならば、それこそ俺には響かない。お前は俺がリョナ趣味を持たないからお前の絵を理解できなかったのだと思ったのかもしれないが、そうではない。俺はリョナ属性で評価を変えないからこそ、お前の絵の浅薄さを見破ったのだ。好きの反対は嫌いではなく無関心だとはよく言ったものだ。
さて、では作品を見ながら解説していこう。前回ちらりと書いた『A beautiful world』を例に挙げる。

ビューティフル・ワールドと銘打っただけあって、描かれた舞台は一面の花畑。ストレートすぎるのでジョークか皮肉かもしれない。そしてそこに佇むモノクロの人間たち。その人間たちは、腕や脚が無かったり、眼帯をしていたりする。 この時点で――隻腕や隻脚の人間を見た時点で――うっ、となる人間が大体なのかもしれない。あるいはそういう反応を期待してこの作品は描かれているのかもしれない。隻腕や義足といった、直視に耐えがたい特徴を持った人達。何があったのかを聞けるべくもなく。できれば目を逸らして生きていたかった。しかし見てしまった以上。知らないまま���バイアスの無いままではいられない。だが、そういった人間たちが、偏見も無く、一緒になって平和に暮らす世界になったなら。それこそが美しい世界だ。……ストレートにみればそういう解釈がまず第一に浮かぶだろう。――そして言ってしまおう、そういう道順で解釈をさせる、その一歩目がまずもう既に姑息なのだと。
俺は欠損については幼少から見慣れている。欠損を持ってなお普通に生活する人の姿を。だから俺にとって。「腕や脚の無い人が偏見もなく健常者と一緒に暮らす世界」は、理想でもなんでもなく、ただ「当然」で「普通」で「当たり前」の世界なのだ。わざわざ美しい世界だと言い直す必要がないのだ。 無論、実際の世界がどうなっているかは別だ。俺の周りこそが特殊な環境で、それこそ隻腕の人間が最初からいたからそれに対する理解が深まっていた、そういうのがデフォルトな場所に運よく所属していただけかもしれない。しかしここで問題としたいのはそこではない。つまり。隻腕や隻脚に、良かれ悪かれ偏見を持っている人間を、この絵を見て多少なりともショックを受けるような人間を、この絵は想定し対象としている、そのこと自体が。作者にある種の偏見が存在することを示唆しているのだ。
俺はこの絵を逆立ちしたって描けないだろう。なぜなら欠損や車椅子になんら思うところがないからだ。欠損や車椅子の人間が健常者と共生してる世界を俺は「わざわざ」ビューティフルとは言わない。なぜならそれが普通でデフォルトだからだ。……ここまで言えばもうわかるだろう。このような風景をわざわざ『A beautiful world』と銘打った作者こそ、欠損に対して偏見があり、そしてこの絵は作者と同じように欠損などに何かしらの偏見を持っている人間を想定して描かれ、あるいはその偏見を助長するはたらきを持ってしまっている。たとえそのベクトルが「欠損に対する目をあらためよう!」だとしても、その裏には「欠損に対してある種のよくない偏見がある」ことが内包され、前提とされている。 そう、この絵は偏見に依存しているのだ。もしこの世界が、欠損や障碍やそういったものに対する偏見が一切ない美しい世界だったら、この絵はわざわざ描かれるまでもなかったはずであり、そもそも価値を持たなかったはずなのだから。そうではないという現状を、意識的であれ無意識であれ、作者は利用してこの絵を描いているのだ。
この絵に限らない。wall-hand氏は欠損のみならず流血やら残虐表現を得意技としてかなり多用している。それらは確かにかなりショッキングな表現ではあるが、しかし逆に言ってみよう、もしも欠損や流血がもっとカジュアルなもので、インパクトもなくショッキングでもない表現になっていたとしたら、それらの手法を使ったのだろうか? 義手や車椅子や白杖が、眼鏡と同じくらい普及し珍しくなくなった世界で、これらの絵は通用するのだろうか? そうなってしまったら困るのは、俺ではなく、wall-hand氏の方なのだ。 そう、欠損や流血がショッキングな表現であるということに、全面的に依存しているのはお前だ。 お前は欠損や流血やリョナが特殊性癖であることを利用して絵を描いているのであり、むしろそれらが特殊性癖なまま固定され、ショッキングなままであることを願ってさえいるのではないか。それを助長しようとしているのではないか。 世界と戦うんだ、理解されたいんだと言って作品を作りながら。本当はお前は、理解されたくないんじゃないのか。 だから俺はこう言おう。リョナ属性のある作品は最初から破綻しているのだ、と。
一旦トリックがわかってしまえば、それが欠損だろうと流血だろうと問題ではない。大体、アウトサイダーアート(笑)はこのトリックに全面的に依存している。欠損、流血、目玉や臓器、あるいは根本的な作品の大きさ、そういった見た目にインパクトのあるショッキングな題材や属性を画面全体に押し出し、観客の目を惹きつけようとする。それらに慣れてない人が相手ならなおさらだ。初見のインパクトと驚きはその作品の印象に大きく寄与する。万一それを見慣れている人間が相手でも、リョナに理解のある人間なら大目に見てもらえるし、なんなら性癖の話で盛り上がることもできるだろう。実に巧妙でよくできたトリックだ。スベる確率が低い、出し得のコマンド技である。
だから俺は嫌いなんだ。リョナが苦手だからではない、ましてリョナに理解があるからでもない。リョナ属性、リョナ要素が無ければ見てられない程度の作品が、見た目のインパクトだけで印象になり話題になってしまう。属性が属性だけで消費されてしまう。それで評価だと勘違いされてしまう。なんならその要素によって、本来表現できるはずだった切実さや誠実さを伴なったテーマが、相対的に背景に押しやられてしまう。もっと上手いやり方があっただろうに、全部持っていかれてしまう。
リョナは無理でも肢体欠損程度なら気にならない俺にとって第一の疑問がこれである。では今度はもう少しリョナラーに歩み寄って考えてみようか、しかしそこでも俺はリョナ要素のある作品に疑問を持たざるを得ない。そもそもメンヘラどもが隻腕隻脚隻眼の人間("""なぜか"""少女であるパターンが非常に多い)の絵を描く、その行為そのものが、非常に疑わしく感じられるのだ。
言ってしまえば「お前はその被写体を『肢体が欠損してるから』という理由だけで絵に描いたのではないか?」という疑問。それはつまり、「この人がもし五体満足だったら、お前はこの人を絵に描こうと思ったのか?」という疑問である。
これと類似の試論はすればするほど疑念が深まっていく。「ここに一人の健常者がいたとして、今ここでこの人の腕を切り落としたらお前は絵を描き始めるのか?」「腕が欠損してるからこの絵を描いたということは、腕が欠損してなかったらこの被写体の人間には価値はなかったのか?」「あなたは私のことが好きなの、それとも私のメガネが好きなの? じゃあメガネとセックスしてればいいじゃない!」 そう、この仮定が真であった場合に導かれるのは、被写体本人ではなく、その人の『属性』しか目に入っていないという、被写体に対して不誠実極まりない態度なのだ。
いや、そういうのも美術として割り切った場合のアプローチとしてはアリかもしれない。しかしそれを徹底する場合、つまりは「被写体その人には全く興味がなく、その属性だけを追い求める」という態度を貫徹する場合には。例えば眼鏡フェチなら被写体一人がありとあらゆるシチュエーショ��で眼鏡をかけているところを網羅するだけでは足りなくて、幼児や未就学児から老婆に至るまで、勿論男性も含めて、被写体の領域を拡大し、眼鏡以外のありとあらゆる要素をばらけさせる必要がある。そうでなければ「お前は眼鏡フェチって言ってるかもしれんけど、妙齢の美少女が眼鏡をかけているのしか好きじゃないんだろう?」という反論が生まれ、美術と銘打ったはずがただの性癖博覧会へと堕してしまう。しかもそれは「眼鏡をかけていなかったらその人を作品にしようとは思わなかった」という不届き極まる潜在意識とも共存しうる。貫徹せずに先細りし中折れした中途半端な思想は、作品の浅薄さに繋がり作品の寿命を縮めるというのに。そうなれば被写体のみならず作り手も受け手も、対象とする範囲がどんどん狭くなり、ごく限られた愛好家しかいなくなってしまう。いや、同人サークルの主催として同好の人達とわいわいやりたいだけなら、それでもいいとは思うんだけど、ね。
しかし多分そうではないのだろうし(だって芸術家名乗ってるんだろ、芸術家は世界と戦うんだって言ってただろお前http://seikan313.wixsite.com/wall-hand-works/3rd )、もう一度言うが自分が問いたいのは「お前はその被写体を『肢体が欠損してるから』という理由だけで絵に描いたのではないか?」という疑問、ないしは被写体に対する誠実さなのだ。繰り返しになるが、例えば俺が交通事故で脚の一本でも吹っ飛ばした直後に「あなたの絵を描かせてくれませんか?」ってオファーが来たらブチギレる。俺にとっては、欠損も車椅子も眼鏡もとい弱視も個性の一つではあるがその人の本質ではないという考えなので、そういう風に属性が付与された瞬間に興奮しだすのはちょっとこう、個人としてはとしてはともかく芸術家としてはどうなんだ、と感じるのだ。俺にとってすずさんは右手があってもなくてもすずさんだし、シルヴィちゃんでシコるのにケロイドの有無は重要ではないのだ。
そして残念なことに、このwall-hand氏の絵と作風からはそういう疑問を抱かずにはいられない。ちょっと作品群を見てもらえばわかるかと思うが、そこに描かれる人物はまるで「子供の落書きのような」……横長の楕円に、ごく簡単な線で描かれた白目と口、それらはどの絵を見ても全て同じ人間のように、不気味なほど一様に同じ微笑みをたたえており、体の向きが変わろうと首だけは真正面のこちらだけを向いていて、というか体の向きや姿勢が変わることすらほとんどなく、関節がどこにあるかも見えず、顔つきや体つきの凹凸や盛り上がりはおろか一切の遠近がわからない……ひとことで言えば「デッサン力が皆無」なうえに、「人物が全員同じ顔をしている」絵なのだ。



「人物が全員同じ顔をしている」。この時点でその人物や絵は必然的に「付与された属性の差分を比べる」といった性質を帯びることになる。ここで着目される差分というのは、髪型や髪の色や服装といった、人物そのものから乖離され還元されたパーツのことであり。そしてここでは欠損ですらそういった属性の一つに堕してしまう。最初に懸念した通り、人物そのものではなく、欠損といった属性を描きたいという動機しか感じられなくなってしまうのだ。
勿論、欠損を属性ではなく、その人ないし被写体の美の本質として取り扱うことも描きようによっては十分できるはずだ。ミロのヴィーナスなど「この像には両腕が無いからこそ美しいのだ」なんて批評文が高校の国語の教科書に採用されているくらいである。大学の先輩が「あの批評書いたやつは絶対欠損フェチだよ、それを隠しながらあんな文章を書いたんだ」と言っていたが。それは逆に、やりようによっては属性やフェティシズムを一般的な美へと一段階上げることも可能であるということの証左だ。しかし、彼の「子供の落書きのような絵」に、その魅せ方や技量を求めることは、残念ながらできない。
いいではないか、欠損だって髪型や服装や眼鏡といったカジュアルで付け外しの可能な属性の一つに過ぎないのだ、そういう価値観の転換をこそ狙っているのだ……。そういう言い分があるのかもしれない。それこそ先に分析した『A beautiful world』に限っては確かにそういう解釈が可能だ。しかし、欠損やリスカや流血といったグロテスクな要素を持った彼の作品群において、そういった要素は大抵の場合作品のテーマや根幹を為しており、作中人物にとっては切実なものとして現われ、それをことさらに強調している。表現としては取り外しの可能な属性に過ぎないものを、作品のテーマとして取り上げようとすること。……それは例えば連作という形を取るなどして、表現の差分とテーマの差分が一致するよう場合には有効かもしれないが。一枚絵としてスタンドアロンで成立すべき作品の場合には矛盾であり悪手でしかない。『A beautiful world』はそれが偶然にも一致した奇跡的な一枚だが、他の絵はそうはいかない。(そして『A beautiful world』においてその試みが初めから破綻していることは先に述べた通りである)。彼の絵はあらゆる意味でちぐはぐなのだ。個々の作品テーマは誠実で切実なものでありながら、絵的にはそれらを差分や属性といった付随的な要素として記号的表現で取り扱うことしかできない。
彼のリョナ的作品は最初から不誠実と軽薄の塊であり、手詰まりであるのだ。「欠損そのものを描く」となると「欠損という属性そのものを描く」ことになりその被写体を蔑ろにしてしまう。「欠損は初めから属性に過ぎないのであって、眼鏡と同様カジュアルなものだ」と言い張るにはそれら属性さえも軽薄に描かねばならない、そして被写体の切実さは捨象せねばならない。唯一の方法として、被写体に誠実に向き合い、その被写体の人となりを為しているような欠損を描くためには、欠損を属性ではなく、むしろその美の根幹をなすような表現をせねばならないのに、それらを差分としてしか描くことのできない彼の「子供の絵のような」技量やスタイルではそれを望むべくもない。そしてそもそも根本的に、鑑賞者や世界が持っている欠損に対する偏見に向けた挑戦を描くことそのものが、その偏見を助長し浮かび上がらせ強化することにつながってしまう。あるいは、欠損や流血で、絵的にショッキングでインパクトのある表現で、切実さや誠実さを表現しようとする行為、そのものが不誠実でまったく逆効果であるという問題。
これらを踏まえてもう一度。俺からの最終試験だ。 お前は本当にちゃんとものを考えているのか。 お前は自分の限界をちゃんと理解しているのか。 世界と戦うんだ、理解されたいんだと言って作品を作りながら。お前は理解を拒むことを助長しているのかもしれない、そのことに気付いているのか。 世界から理解されたいと言いながら。本当はお前は、理解されたくないんじゃないのか。
***********************
本当にわかってんのか? 俺はお前を全否定してるんだぞ? お前の作品がクソだから攻撃してるんじゃあない。 自分から喧嘩を売っておいて、自分が不利になったら理解を放棄し拒絶して逃亡し、自身にフィードバックもせず、自分の作品と向かい合い反省することさえもしない、お前の態度がクソなんだと言ってるんだ。 そんな人間の作った作品に心を動かされることなんて、絶対にありえない。 お前がその考えを改めない限り、俺がお前の作品に心を打たれることは絶対にありえない。 もっと言えば。作品には作者の思考や姿勢が否応なくにじみ出るものであるから。お前のそんな浅薄で軽薄な思想しか下敷きにしてないとしたら、お前がその考えと姿勢を改めないかぎり、お前は俺の心を、人の心を動かせるような作品を、絶対に作りだすことはできない。 お前の作品も、お前の主題も、お前の技術も、お前の思考も、お前の性癖さえも。 お前の何もかもがクソだって言ってるんだ。
逃げるんじゃねえ。 俺に向き合え。 俺はお前を殺す。だ��らお前も、俺を殺してみろ。
*****************************************
2016/02/04 追記
お返事いただきました。リンクだけ貼っておきます。https://note.mu/seikan313/n/ne8d58eb223ba
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国際研究フォーラム、ストリーミング配信中
http://art-soin-citoyennete.com/colloque-scientifique/
現在(現地時間23日10時30分より/日本時間23日17時30分より)、ナント国際会議センター「シテ・デ・コングレ」にて国際研究フォーラムが開催中です。以下のページでストリーミング配信されています!ぜひご覧ください。
「障害のある人の文化芸術とケアと権利」
2017年10月23日(月)
10:30 – 12:00(日本時間|23日 17:30〜19:00) 開会セッション「プレゼンテーション・未解決問題・今後の展望について」
議長: • パスカル・マッシオ氏
挨拶: • ジョアンナ・ロラン氏|ナント市長 • 渡邉 芳樹氏|元・駐スウェーデン日本国特命全権大使
登壇者: • フィリップ・スドロー氏|ナント大学病院部長 • 久保 厚子氏|全国手をつなぐ育成会連合会 会長、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた障害者の文化芸術活動を推進する全国ネットワーク会長 • マリー=フランソワーズ・ピレ氏|UNAFAM 精神障害者家族と友の全国連合会 • ラシェル・ボシェ氏|ナント大学病院精神科部長 • パトリック・ギガー氏|リュー・ユニック館長
12:00 – 13:30 昼食
13:30 – 14:50(日本時間|23日 20:30〜21:50) 総会「芸術作品とはなにか? 」
「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、目に見えないものを見えるようにするものである」パウル・クレー 芸術作品とはなにか?この問題を考察する上で複数の可能性があります。芸術作品とは、感受性にあふれた人間が生み出す、利便性とは相反する審美性を備えた創作物です。作家たちは感性に従い、自らの内面性や他人とは異なる性質などを表現します。それは、息をしたり、生活したりすることとまったく同じで、内から湧き出る必要性に答えているのです。さまざまなテクニックを用いて、メッセージや疑問、感情を届けています。
議長: • クリスチャン・ペール氏 • ラシェル・エヴェン氏
登壇者: • クリスチャン・ベルスト氏|ギャラリー経営者・芸術品収集家 (フランス) • ブリュノ・ドゥシャルム氏|映画作家・芸術品収集家( フランス) • ピエール=ジャン・ガルダン氏|ナント・ボザール美術高等学校校長 • 保坂 健二朗氏|東京国立近代美術館
15:00 – 16:30(日本時間|23日 22:00〜23:30) フィードバック「芸術作品とはなにか? 」
議長: • カトリーヌ・ポルシェ氏 • パスカル・クレック氏
登壇者: • エリック・ペイ氏|アトリエ・ジャン・ヴィエー(フランス) • レ・ザンパシオン - モントリオール(ケベック - モントリオール) • 末安 民生氏|一般社団法人日本精神科看護協会 会長 • 小林 瑞恵氏|社会福祉法人愛成会 副理事長 アートディレクター • 田島 光浩氏|社会福祉法人南高愛隣会理事長
2017年10月24日(火)
09 00 – 10:20(日本時間|24日 15:00〜16:20) 総会「アール・ブリュット、コンテンポラリーアート、市民のアートの多元性」
21世紀初頭、さまざまなかたちのアートがありきたりなシンクレチズム(混合主義)の中で同居する現在は、面白い時代と言えるでしょう。大昔は「狂人」、少し前までは「精神病者」、そして現在は「精神の健康に問題がある」という風に、精神障害者たちの呼称の変化に伴い、彼らが生み出した芸術も色々な衣装を次々と着せ替えられるように変化しました。こういった精神障害者の芸術に対するコンセプトの変化や発展は、障害に関わらず、誰しもが精神的な問題に悩まされる可能性があると気づいたことと時期を同じくしています。 市民のアートは、患者が病院に、作品が美術館に監禁されていた時代に終止符を打ち、精神障害を抱える人々の市民権を取り戻す作用があります。 昔も今も、良くも悪しくも、芸術と精神病は常に影響を与え合うものです。市民権とは、閉じ込められていた患者や作品を解放するための兆しです。しかし、その作用はいつまで続くのでしょうか?
議長: • アンドレ・ギゴ氏 • パトリック・ギガー氏
登壇者: • ロランス・デュパン氏|アール・コンヴェルジョンス(フランス) • ジャン=リュック・ロラン氏|精神科医、CCOMS リール市WHOコラボレイティングセンター長 • サラ・ロンバルディ氏|ローザンヌ・アール・ブリュット・コレクション館長(スイス) 北山 修氏|精神科医・臨床心理士
10:30 – 12:00(日本時間|24日 15:00〜16:20) フィードバック「アール・ブリュット、コンテンポラリーアート、市民のアートの多元性」
議長: • デルフィーヌ・ポルシュレ・ロッツ氏 • ファティマ・メラル氏
登壇者: • フォリ・キュルチュール(ケベック) • マディ・アンドレアニ氏 • パスカル・ガイヤール氏 • アソシエーション・セーヌ・ウヴェルト • 中島 諒人氏|鳥の劇場 芸術監督 • 沼田 里衣氏|大阪市立大学 都市研究プラザ テニュアトラック特任准教授
12:00 – 13:30 昼食 13:30 – 14:50(日本時間|24日 20:30〜21:50) 総会 「創造性・症状・芸術制作」 なにかを表現したいという切実な思いに押され、人はしばしば、その緊迫した気持ちをほぐす解決策を審美的なエモーションの中に見出そうとしてきました。クリエイティビティとは、日常的な囚われから逃れるためにどうしても必要なものであり、「存在することへの苦痛を保留し和らげる」手助けをしてくれます。自己を取り戻すための作業において、 芸術の創作活動が症候を象徴的なものへと移行させてくれるのです。アートとは自己のセラピーでありうるのか?という問いかけについて語り合います。
議長: • カトリーヌ・ポルシェ氏 • ジル・ヴィドン氏
登壇者: • エレン・コラン氏|マックギル大学人類学部・精神医学部准教授(ケベック) • クロード・ブルマション氏|ダンサー・振付師(フランス) • 藤原 章夫氏|文化庁 文化部長 • 北村 成美氏|ダンサー・振付家
15:00 – 16:15(日本時間|24日 22:00〜23:15) フィードバック「創造性・症状・芸術制作」
議長: • デルフィーヌ・ポルシュレ・ロッツ氏 • ロール・モワザン・ロワゾ氏
登壇者: • ピエール・ルロワ氏|映画監督(フランス) • 魲 万里絵氏|アール・ブリュット作者、田端 一恵氏|社会福祉法人グロー、国立美術館運営委員 • ジュリー・ユルバン氏、トマ・シャルル氏|アトリエ・スラム・ミュージック
16:30 – 18:00(日本時間|24日 23:30〜25:00) 閉会セッション 「共存・デミスティフィケーション(脱神秘化)・デスティグマタイゼーション・民主化について」
議長: • パスカル・マッシオ氏
登壇者 : • ジャン=マルク・エロー氏|元・フランス首相 • 三日月 大造氏|滋賀県知事 • ジャン・ノダン氏|マルセイユ大学精神学教授 • アンドレ・ギゴ氏|ナント大学教授・哲学博士 • ソフィー・レヴィ氏|ナント美術館館長(フランス) • 野澤 和弘氏|毎日新聞論説委員
<登壇者プロフィール>
André Guigot アンドレ・ギゴ
ナント在住の教授・哲学博士。Milan社(Essentiels Milan、Pause Philoシリーズ)から多数の書籍、Vrin社から専門的な哲学書を出版している作家でもあり、哲学はもちろんのこと、演劇、小説、エッセーといった異なる執筆スタイルを持つ。スポーツや自然から現象学、倫理から歴史、政治まで、彼の著書で繰り返し語られるテーマには、思考の奥底にある過激さや歯に衣着せぬ物言い、誠実さ、そしてたっぷりのユーモアが見受けられる。
Patrick Gyger パトリック・ギガー
フランス国立現代芸術センター「リュー・ユニック」館長/スイス出身キュレーター・作家。1999年から2010年まで、ユートピアをテーマに掲げるスイスの美術館「Maison d’Ailleurs」の館長、2001年から2005年にかけては、ナントで開催される 国際的なSFの祭典「Les Utopiales」のアートディレクターを務めた。2011年1月に、フランス国立現代芸術センター「リュー・ユニック」館長に就任。
Laurence Dupin ロランス・デュパン
2013年に、友人やアーティスト、ジャーナリスト、医師たちと共に立ち上げたアソシエーション「Arts Convergences(アール・コンヴェルジョンス)」の会長を務める。このアソシエーションは、ハンディキャップを抱えながらも才能あふれる人々のために、コンテンポラリーアート分野への扉を開くことを目的とし、毎年ビデオ・アート・コンヴェルジョンス賞も運営している。
Jean-Luc Roelandt ジャン=リュック・ロラン
精神科医/リール市メンタルヘルス教育・研究のためのWHOコラボレイティングセンター長。1978年から、病院や閉鎖病棟での治療の場にアーティストを介入させるというアプローチをはじめ、現在はリールの街に完全に組み込まれた地���のケアシステムを作り上げた。文化省と厚生省、市の国民評議会の「Santé et Culture, Musique et Perspectives de soins(健康、文化、音楽とケアの展望)」というミッションにも参加。また、厚生省のために、フランスにおけるメンタルヘルスの改変に関する2つの報告書を作成し、 科学・芸術雑誌 「Journal des fous」も共同創刊している。
Sarah Lombardi サラ・ロンバルディ
美術史家/ローザンヌ・アール・ブリュット・コレクション館長(2013年3月就任)。モントリオール、ニューヨーク、ローザンヌ、ブリュッセルで、フリーランスのコミッショナーとして活動したのち、2007年から2011年にかけてアール・ブリュットのコレクションを中心としたキュレーターを務め、海外や美術館で多くの展覧会を企画した。現在の美術館館長に就任して以来、ビエンナーレにも出展した「アール・ブリュット ラ・コレクション」と題した新たなシリーズを設け、同館が所有するコレクションの価値を高めることに力を注いだ。これらの展覧会では美術館所蔵の作品を紹介している。
Catherine Porcher カトリーヌ・ポルシェ
心理学者。ナント大学病院で思春期の問題を抱える患者たちのための特別ケアユニットに従事するかたわら、自殺願望のある人々のためのケアと予防を手がけるトレーナーでもある。患者たちが自己を取り戻し、自らの可能性を発見し、外の世界との対話を豊かにしていく上で、ケアの現場に芸術を取り入れることは患者にとって明らかに有益で、ためになることだと確信している。
Gilles Vidon ジル・ヴィドン
精神科医/フランス精神科リハビリテーション委員会設立者・会長。
Ellen Corin エレン・コラン
モントリオール・ダグラス病院名誉研究員/マックギル大学人類学部・精神医学部准教授。彼女の研究は、患者やその家族、住民、コミュニティーグループ、医療従事者たちそれぞれの認識と知識における異文化の違いや分野の多様性を考慮し、メンタルヘルスのサービスはまず社会的かつ文化的な環境に置かれるべきだという考えをベースにしている。
Claude Brumachon クロード・ブルマション
フランス人ダンサー/コンテンポラリーダンス振付師。1992から2015年まで、 CCNNナント国立コレオグラフィー・センターの監督を手がける。肉体を隅々まで探求した人間味あふれる振付で、パートナーのバンジャマン・ラマルシュと共に、芸術作品と観客との密な関係を保ち続けている。定期的にナント病院の精神科を訪れ、患者たちにダンスのワークショップを提案している。
Pierre Le Roy ピエール・ルロワ
映画監督。複数のドキュメンタリー作品や短編映画を監督し、自身のイメージを投影した衝撃的なキャッシュ&トラッシュ&ロックな短編作品『Voilà, quoi』を撮り終えたばかり。精神病を患っていることや自身のセクシュア��ティー、ありのままでいることの難しさや違いを他人に受け入れてもらうことの難しさを告白する作品となっている。さまざまな年代にわたり撮り続けてきた異なる映像を通じて、自身が歩んできた人生の道のりに明快でユーモラスな視線を投げかけている。
Jean-Marc Ayrault ジャン=マルク・エロー
フランス第五共和政第20代首相
Jean Naudin ジャン・ノダン
マルセイユ大学精神学教授/マルセイユ・サント・マルグリット大学病院部長/哲学博士/フランス国立科学研究センターUMR6578パーマネント研究員。精神科医ルードヴィヒ・ビンスワンガーにインスパイアを受けた視点から、健康の哲学に関心を寄せている。
Sophie Lévy ソフィー・レヴィ
ナント美術館館長。かつては、フランス初のアール・ブリュット・コレクションを所有する、リール・ヴィルヌーヴ=ダスク・アウトサイダーアート(アール・ブリュット)近現代美術館の館長も務めた。
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えぐいかわいいのでけたーー♡ 明日、22日㈭、 Oh!my CAT にお持ちします😺😺😺 * * * 1枚目の、イヤリングです でかいです きらきら揺れます にゃんこがポップ且つシュールです 理想なイヤリングが出来た (シャンパン色のパーツは、フランスimportです) (こちらは、アウトサイダーアートは使用しておりません) * 私の尊敬する作家のおひとりの方が、何個もまとめて作品を作っていくと、それはもう作業になってしまい、作品とは呼べないし、気持ちの入った作品にならない、と仰っていて、、 * 私は、ひどく共感しました * だから、今回は、グッズもありますが、正直、物量少なめです * でも、心を一生懸命込めて、作りました❣❣ * アウトサイダーアート使用してない作品は、来週は並べないので、ぜひ、明日、覗いてくださると嬉しいです♡ 皆で楽しい時間を共有しましょう😉🌈 * 第4木曜日は 10人の作家による猫を テーマにした作品の展示販売。 『Oh! my CAT』 OCATにかけて ずっとやってみたかった企画です。 猫モチーフ好きさん。 あつまれー! Mieちっく @teramaemie TANA @chibitana perori @perori330 rumnet @rumnet カマダマミコ @63tasu88 藤岡さくら @sakurafujioka ※22日のみの参加 ムラバヤシケンジ @kenzi_murabayashi オカジマサエ @eyescream_o ameno @amenostore きらり煌めく @kirari_kirameku_by_mika 『Oh!my CAT!』 7/22thu.㊗︎ 8/26thu. 11:00-19:00 OCAT1階カルチャーターミナル (1階総合案内所横) @culture_terminal ・ カルチャーターミナルは 2ケ月限定のさまざまな文化が交差する たのしいスポットです。 『カルチャーターミナル』 7/1-8/31 🏢OCAT1階総合案内所横 @ocat_official ⏰11:00-19:00 ⚠️水曜日とお盆(8/12-17)休み #猫好きさんと繋がりたい #カルチャーターミナル #猫文化 #Kirari_Kirameku #Kirari_Kirameku情報 #障害✖️art✖️fashion #身に着けるアウトサイダーアート #アートアクセサリー #artaccessories #猫 #猫モチーフ #猫モチーフアクセサリー #カルチャーターミナル #OCAT #難波イベント #大阪イベント #大阪ハンドメイド #ハンドメイドアクセサリー #handmadeaccessories #個性派アクセサリー #個性的アクセサリー #猫イヤリング #個性派イヤリング #個性的イヤリング #個性派ファッション #大きめイヤリング #派手ファッション #カラフルファッション #大ぶりアクセサリー #ohmycat #大阪 (OCAT) https://www.instagram.com/p/CRl9zjIs_nl/?utm_medium=tumblr
#猫好きさんと繋がりたい#カルチャーターミナル#猫文化#kirari_kirameku#kirari_kirameku情報#障害✖️art✖️fashion#身に着けるアウトサイダーアート#アートアクセサリー#artaccessories#猫#猫モチーフ#猫モチーフアクセサリー#ocat#難波イベント#大阪イベント#大阪ハンドメイド#ハンドメイドアクセサリー#handmadeaccessories#個性派アクセサリー#個性的アクセサリー#猫イヤリング#個性派イヤリング#個性的イヤリング#個性派ファッション#大きめイヤリング#派手ファッション#カラフルファッション#大ぶりアクセサリー#ohmycat#大阪
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春の桜と幸せな子猫のアミュレット#Peach Fuzz

テーマ:春(桜祭り) デザイン:コンセプト重視、障がい者アート 派生レイアウト:正方形、ポストカード、円形(食器)、縦、横、16:9、 ターゲット層:女性全般、ファミリー層 メインカラー:2024年、PANTONE社がトレンドに選んだ「PEACH FUZZ」 デザインカラー:落ち着きがあるベージュ 作品を高める10個の要素 1. 縁起が良いもので桜祭りを祝い幸運を呼ぶお守りの���うな作品、吉祥模様、曼荼羅、法輪(あまり前面に出ないよう可愛いイラストやカリグラフィー模様を使いデザインのバランスを図る) 2.愛の大切さを伝える為、猫の両親が元気に春の桜の中を歩く子供の姿を見つめている。ストーリー性を盛り込む。 3.女性が好む動物、猫、蝶、自然をデザインに取り入れる 4.4月の宝石ダイヤモンドが描かれている、カットはラウンドブリリアントカット。 5.穏やかなカラーとデザインで癒し効果を図る、精神病者の本人が落ち着くと言っているので効果あり? 6.対比のバランスが良い、各要素のバランスやサイズ感で子供に綺麗に見える大きさを学習させたい、カラーはアクセントが桜の2色で4.6%。 7.各サイズのバランスを取ることで他のデザインと相性と組み合わせた時の相乗効果を図る。 8.吉祥文様は「亀甲花菱・桜」と「市松文様」、女性の着物を意識している。 9.偶然だが中央は花菱に似ている形をしている、花菱内に桜を描いているがそこはネイルアート、ネイルシールなどを意識してデザインしている。 10.各要素がベクターデータなので好きなところを選んで2次利用出来る、私自身も各パーツを前掛けに利用出来ないか、皿に利用出来ないかと考察しながら作っています。 作品の利用を考えて下さっている方のみ、詳しい説明が知りたい点を回答します。 それでは、最後までお読みいただきありがとうございます。 以上のコンセプトとパラアーティストの制作物であることが本作品の付加価値だと思います。 パラアーティストHKを応援して下さる方がいらっしゃいましたら、 BLOG:https://hk-sdgs-art.blogspot.com/ のチェックや各SNSなどフォローして頂けると幸いです。 ベクターデータで作成されている為、画像サイズが変更されても良質なデータを提供することができます。 https://www.borderlessart.or.jp/ https://artnowa.org/ #障がい者アート #アート #芸術 #イラスト #絵 #絵画 #アウトサイダーアート #アールブリュット #Art #paint #picture #SDGs #福祉 #社会貢献 #CSR #障害者 ----------------------- 新作アートをFacebookでチェック! ----------------------- 日本最大数の障がい者アートが掲示される 障がい者アート専門ギャラリー「アートの輪」の作品は 毎日アートの輪フェイスブックページで公開中です! 「いいね!」いただければ新作がチェックできます! コチラから→ https://www.facebook.com/BAOArtNoWa Read the full article
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視覚障がい者(さむらいとの戦いの為に)瞳を傷ついた、鬼息子の血の涙、鬼母さん、侍に切り捨てられ、おっかあ、おっかあ、と鬼の息子は泣きました

差別される障がい者、嫌われるビラン(尊い悪役)(悲しみの尊い障がい者)社会で排除されるでも愛する者がいる、この鬼のように母を侍から命がけで守る、村人達は作物を食べる鬼親子を侍に始末するのを村人は頼んだでも村人は鬼親子の姿にいつしか愛着をもち自分たちの間違ったことに村長や村人達がきずいた、その後、村の一番深い谷にで鬼は身を投げた、悲しむ村人は鬼親子像作り村神様にした。 https://www.borderlessart.or.jp/ https://artnowa.org/ #障がい者アート #アート #芸術 #イラスト #絵 #絵画 #アウトサイダーアート #アールブリュット #Art #paint #picture #SDGs #福祉 #社会貢献 #CSR #障害者 ----------------------- 新作アートをFacebookでチェック! ----------------------- 日本最大数の障がい者アートが掲示される 障がい者アート専門ギャラリー「アートの輪」の作品は 毎日アートの輪フェイスブックページで公開中です! 「いいね!」いただければ新作がチェックできます! コチラから→ https://www.facebook.com/BAOArtNoWa Read the full article
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私は生まれた

私の幼い頃から親しんだ生まれ故郷の土を使用し、木工用ボンドで土を粘土状にして半立体作品にした。大きさはF4。ベニヤ板の上に綿布を使い工業用ゼラチンで接着し、粘土状の土の吸着と耐久を図り、仕上がりにマットニスを塗った。自身のルーツの生まれ故郷から始まる私自身の内的世界への出発を表現。 https://www.borderlessart.or.jp/ https://artnowa.org/ #障がい者アート #アート #芸術 #イラスト #絵 #絵画 #アウトサイダーアート #アールブリュット #Art #paint #picture #SDGs #福祉 #社会貢献 #CSR #障害者 ----------------------- 新作アートをFacebookでチェック! ----------------------- 日本最大数の障がい者アートが掲示される 障がい者アート専門ギャラリー「アートの輪」の作品は 毎日アートの輪フェイスブックページで公開中です! 「いいね!」いただければ新作がチェックできます! コチラから→ https://www.facebook.com/BAOArtNoWa Read the full article
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お腹のすいた人

どんなに高価な服を身に着けていようと、お腹が空いていたらだめです。 https://www.borderlessart.or.jp/ https://artnowa.org/ #障がい者アート #アート #芸術 #イラスト #絵 #絵画 #アウトサイダーアート #アールブリュット #Art #paint #picture #SDGs #福祉 #社会貢献 #CSR #障害者 ----------------------- 新作アートをFacebookでチェック! ----------------------- 日本最大数の障がい者アートが掲示される 障がい者アート専門ギャラリー「アートの輪」の作品は 毎日アートの輪フェイスブックページで公開中です! 「いいね!」いただければ新作がチェックできます! コチラから→ https://www.facebook.com/BAOArtNoWa Read the full article
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女性の美しさに憧れて

僕は同性愛者ではなくて、普通に女性が好きです、どうしても女性的な格好を、要するに少年の頃ある人からお前は醜いと暴言を吐き捨てられたことが僕のトラウマになりました、子どもながら自分自身はみにくいと自分自身を思う様になりました、美しいクラスの女の子達を見てると心がときめきましたあんな風に綺麗になりたい可愛くなりたいと思うようになりました、だから僕は今でも美しくなりたい白鳥のように綺麗に、でも僕自身はみにくい、醜い男悪夢のような毎日です、僕は少年の頃ろは化粧をして女性服を着たこともあります、自負自身ではないようで心から喜び沸き上がりました、でも今はもうそんなことも出来ない、惨めです、だから芸能人の美しい人を見ると(テレビとか雑誌とか)自分自身が惨めです、僕は自分自身を美術作品にしたかったそう思いながら生きていたかったです、僕は普通に女性と結婚したいし付き合いたかったです、でも性的行為は無理ですそれは少し恐ろしいと思う、詳しくは言えないけど女性と性的行為、はしたくないです、いえ出来ないですこんな不細工な中年男と性的行為する女性はいないだろうけど?僕はいつまでも純粋に女性憧れていたいです、ただ純粋に、美しくなりたいです https://www.borderlessart.or.jp/ https://artnowa.org/ #障がい者アート #アート #芸術 #イラスト #絵 #絵画 #アウトサイダーアート #アールブリュット #Art #paint #picture #SDGs #福祉 #社会貢献 #CSR #障害者 ----------------------- 新作アートをFacebookでチェック! ----------------------- 日本最大数の障がい者アートが掲示される 障がい者アート専門ギャラリー「アートの輪」の作品は 毎日アートの輪フェイスブックページで公開中です! 「いいね!」いただければ新作がチェックできます! コチラから→ https://www.facebook.com/BAOArtNoWa Read the full article
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投影症候群的自我境界線、精神障害患者アーティスト写実絵画作品

投影症候群思考本能的苦しみ、病気により(精神障害)自我自分自身が曖昧になる?要するに自分自身は愛(心とは自分自身だということ、僕はパーソナル障害者?自分自身を深く分析、僕なりにしたこともありました、でも答えは精神医療的分析分野は僕の精神科医さんに委ね、僕自身は他者を愛するあるいは母さん、家族愛と自己分析の末に見つけたこと!投影症候群症状で僕は妄想系精神障害です、他者と世界は僕になにを必要としてるか?それは自分自身を愛し家族を大切な者を純粋に愛すること、僕は僕だと言うことです!僕は僕を愛し自己愛精神障害地点から少しづつ離れ自分自身だけを愛するのではなくこの世界全て、光、愛、自然界、生物、全ての存在を自分と他の存在を平等に他者の存在を認めると言うことにたどり着きました、全て愛する自分自身だけを愛するのではなく、他者、他の存在全てを愛すると言うことです、そう大切な何者かをと言うことです、それが他者を愛すると言うことです、それが、愛だと気づきました、愛!この世界は自分自身より大切な者それを命懸けで守る!大切に思うそれが愛すると言うこと!大切な人達が教えてくれました、愛を僕にです、本当ありがとう! https://www.borderlessart.or.jp/ https://artnowa.org/ #障がい者アート #アート #芸術 #イラスト #絵 #絵画 #アウトサイダーアート #アールブリュット #Art #paint #picture #SDGs #福祉 #社会貢献 #CSR #障害者 ----------------------- 新作アートをFacebookでチェック! ----------------------- 日本最大数の障がい者アートが掲示される 障がい者アート専門ギャラリー「アートの輪」の作品は 毎日アートの輪フェイスブックページで公開中です! 「いいね!」いただければ新作がチェックできます! コチラから→ https://www.facebook.com/BAOArtNoWa Read the full article
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