#重巡洋艦熊野沈没
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herbiemikeadamski · 3 years ago
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(^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 11月25日(金) #赤口(壬午) 旧暦 11/2 月齢 1.2  年始から329日目(閏年では330日目)にあたり、年末まであと36日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 48/53週目もラストスパート金曜日😅💦 ってか本来は「第四コーナー金曜日」 なんでしょうかね🤣😆🤣ラストスパート は「ラストスパート土曜日」?っての やっぱり変かなぁ~⤵️⤵️⤵️って事で 今週はやっぱり中日が休みだった ので、早いですよね✋以外に業務 もその方が効率が良い気がするw 今週は順調な進捗状況です✋って か、いつもですけど🤣😆🤣さてと 「後ひと踏ん張り」デスネヨネ😅💦 やっぱりラストスパート金曜日のが🙆 . 今日一日どなた様も💁‍♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #重巡洋艦熊野沈没(ジュウジュウヨウカンクマノチンボツ).  1944(昭和44)年11月25日(金)赤口.大東亜戦争(第二次世界大戦)の真っ最中での戦史  である。  フィリピン・ルソン島イバ沖、北緯15度44分58秒 東経119度47分57秒で14時30分頃に、米空母  タイコンデロガの艦載機30機余りによる空襲が迫り、米軍艦船から魚雷5本・爆弾4発が命中  すると熊野は傾斜が増し左舷(サゲン)へ��覆し15時15分には沈没しました。  日本軍乗組員脱出者は、F6Fヘルキャット1機、TBFアベンジャー2機の機銃掃射を浴びせされた。  無情にもアメリカ軍機は救助も行わず、そのまま放置して立ち去るのである。 .  日本軍は、桟橋から派遣された内火艇やカッターボートでの救助が始めるが、沈没までに99名  が戦死、沈没時の戦闘で熊野の人見艦長・真田副長・鳥越主計長以下399名が戦死した。 .  当時生存者は636名(准士官以上51名、下士官兵554名)であったが、490名は陸上部隊に  編入されたという記録が残る、その後の陸戦(マニラの戦い)で、更に497名が戦死した。  重巡洋艦「熊野」は、同年の10月25日(水)大安.から始まったサマール沖海戦で米軍駆逐艦  による魚雷1本が艦首に命中したのを機に、米軍の砲撃を幾度も受けたが、ほぼ1ヶ月の  間も沈まずに居たから当時は敵味方から「沈まない戦艦」と恐れて居たそうとあります。  最期は、2時間の間に魚雷23発を放たれて力尽きた巨大な最上型二等重巡洋艦は海底へ。 . #赤口(シャッコウ・シャック).  六曜の一つ。  陰陽道の八嶽卒神が支配する日であり、公事・訴訟・契約などの凶日とされる。  「六曜」の中で「仏滅」の次に縁起が悪い日です。  この日は、陰陽道の「赤舌神(しゃくぜつしん)」という恐ろしい鬼神が支配する日とされます。 「火の元や刃物に注意すべき日」と言われており、凶や死のイメージが付きまとうため、お祝い事  では「仏滅」より避けられることが多くです。  この日は午の刻(午前11時ごろから午後1時頃まで)のみ吉で、それ以外は1日大凶となります。 . #大明日(ダイミョウニチ). 民間暦でいう吉日の一つ。  この日は、建築・旅行・婚姻・移転などすべてのことに大吉であって、他の凶日と重なっても忌む必要がないともいう。 . #神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #天恩日(テンオンビ).  天の恩恵をすべての人が受ける日。 民間暦でいう吉日の一つ。 . #戦艦長門竣工(センカンナガトシ��ンコウ).  1920(大正9)年11月25日(木)、大日本帝国海軍の戦艦「長門」が竣工した。 . .  #憂国忌.#OLの日.#ハイビジョンの日.#ecuvo.(えくぼ)の日. #先生ありがとうの日.#バイラルの日.#いいえがおの日. #ランジェリー文化の日. . . #ダブルソフトでワンダブル月間.#プリンの日(毎月25日). #生命保険見直し月間(1日から30日). . . #女性に対する暴力廃絶のための国際デー. #スリナム独立記念日.#インドネシア教師の日. . . ■本日の成句■. #生まれながらの長老なし(ウマレナガラノチョウロウナシ). 【解説】 生まれたときから人に尊敬される経験や学識をもっているものはいない。 そうなるには長年にわたって修業を積み重ねることが必要だと云う事。 . . 2000(平成12)年11月25日(土)先負. #福本莉子 (#ふくもとりこ) 【女優、タレント】 〔大阪府〕. . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/ClW6l7ESmuvFnp0ef-0MXHHCB29NqlD7HhLmcA0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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muramasa309 · 7 years ago
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雪風(ゆきかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。
一等駆逐艦陽炎型の8番艦。
太平洋戦争(大東亜戦争)当時の主力駆逐艦(睦月型駆逐艦、吹雪型駆逐艦、初春型駆逐艦、白露型駆逐艦、朝潮型駆逐艦、陽炎型駆逐艦、夕雲型駆逐艦、丙型島風)約60隻の中で、雪風は唯一終戦まで生き残った駆逐艦である。
日本海軍の駆逐艦は激戦区に投入され非常に損耗率が高かったが、雪風は第16駆逐隊や第17駆逐隊の姉妹艦(初風、天津風、時津風、浦風、磯風、浜風、谷風)、第27駆逐隊の時雨等と共にスラバヤ沖海戦から坊ノ岬沖海戦(戦艦大和特攻)まで16回以上の主要な作戦に参加した。
その中でも雪風は戦果を上げつつ一度も大きな損傷を受ける事なく終戦を迎え奇跡の駆逐艦と呼ばれた。
戦中より雪風のその��運ぶりは広く知られ、呉の雪風、佐世保の時雨と謳われた。
終戦後、雪風は日本海軍解体に伴い除籍後中華民国に賠償艦として引き渡され丹陽と改名、同国海軍の主力艦として活躍したが、1971年(昭和46年) 12月、台湾にて解体された。
レイテ沖海戦の雪風
1944年(昭和19年)7月。本土帰投後、雪風は因島ドッグでスクリューを交換して各部を修理すると再び対空兵装の強化を行い、25mm単装機銃10挺・13mm単装機銃4挺を増設した。
この頃、第二戦隊(司令官西村祥治少将)の扶桑、山城が第二艦隊(司令長官栗田健男中将)に編入されることになり、第17駆逐隊の雪風、磯風、浜風、浦風は扶桑、山城を護衛して9月22-23日に日本を出発、10月4日にリンガ泊地に到着した。
10月20日以降のレイテ沖海戦における第17駆逐隊は第二艦隊第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)第2部隊(指揮官鈴木義尾少将、第三戦隊金剛、榛名、第七戦隊熊野、鈴谷、利根、筑摩、第十戦隊矢矧、浦風、雪風、浜風、磯風、野分、清霜)に所属し、第三戦隊(司令官鈴木義尾少将/兼第2部隊指揮官)の戦艦金剛、榛名の直衛として参加した。
しかし雪風はターボ発電機の歯車が欠損し、出力の少ないディーゼル発電機のみで海戦に参加している。
10月22日、栗田艦隊はブルネイを出撃した。
レイテ湾突入までに、米潜水艦の襲撃とアメリカ軍航空隊の猛攻により重巡2隻(愛宕、摩耶)が沈没、重巡2隻(高雄、妙高)と駆逐艦2隻(長波、朝霜)戦場離脱、戦艦武蔵航行不能《沈没》という被害を受けた。
僚艦浜風は被弾して速力が低下し、清霜と共に武蔵の護衛として分離した。
 10月25日、午前7時45分、栗田艦隊はアメリカ軍護衛空母部隊と遭遇する。
この海戦で栗田艦隊将兵は、指揮官・参謀・将校・そして雪風問わず、全員が小型の米護衛空母を大型の正規空母と誤認した。
日本戦艦部隊(大和、長門、金剛、榛名)が砲撃する最中、雪風ら第十戦隊はアメリカ艦隊に突撃した。
アメリカ軍駆逐艦三隻が栗田艦隊へ反撃に出て熊野を撃破したが第十戦隊は駆逐艦ホエールを戦艦部隊との挟撃により撃沈、さらに矢矧と十七駆逐隊は駆逐艦ジョンストンおよび護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツを撃沈した。
第十戦隊は敵空母部隊へ酸素魚雷20本以上(矢矧7本、雪風・浦風4本、野分不明、磯風のみ8本)を発射するが、10kmという遠距離��撃であり、1本も命中しなかった。
雪風側は「アメリカ軍正規空母1隻撃沈、新型空母1隻大火災、駆逐艦2隻撃破、主砲462発発射(残98発)、機銃1万発発射、魚雷4本発射(残12本)」と報告している。
本隊の合流命令に従いに転進した雪風は、沈没した米駆逐艦ジョンストン (USS Johnston, DD-557) から脱出したアーネスト・E・エヴァンス艦長や乗組員を乗せた救命ボートの近くを通過した。
雪風の寺内艦長は咄嗟に救命ボートに向けて機銃掃射を行った兵(照準を合わせるため2射したのみで命中せず)を止めている。
ジョンストンの乗組員は、当時の状況について「日本の一駆逐艦がすぐ近くを通過したが我らに危害を加える事はなかった。
その駆逐艦の艦橋に立つ一人の将校が我らに敬礼するのを認めると、エヴァンス艦長は涙と共に答礼を返した」と、戦後米公刊誌に発表したとある。
この後、雪風はアメリカ軍機の攻撃で航行不能となった重巡洋艦筑摩の救援に向かうことになったが、大和より「雪風は原隊に復帰し、野分は筑摩の救助に当たれ」との命令があった。
姉妹艦野分は沈没した筑摩乗組員を救助すると退避行動に移ったが、戦艦ニュージャージーを含むアメリカ艦隊に捕捉されて撃沈された。
野分は生存者なし、筑摩は水上偵察機搭乗員と砲塔員1名だけが生存者となった。
一方、雪風は魚雷誘爆により航行不能となった重巡洋艦鈴谷の救援に向ったが、救助活動開始寸前に鈴谷は大爆発を起こし、雪風は難を逃れた。
出力の少ないディーゼル発電機のみでレイテ沖海戦を戦い抜いた事について、寺内艦長は「あの海戦で心配したのは燃料の事だけ。敵機が攻撃した時だけ機関の出力を上げ全速力を超える。攻撃が終わったら中速くらいまで落として燃料を節約した」と述べている。
雪風が長門から燃料補給を受けたのはレイテ沖海戦が終了し、ブルネイに帰還する前日(10月27日)であった。
雪風機関科員は定期保守の間隔が短いディーゼル発電機(クランク・シャフト)の保守点検を戦場でも行い、三人の兵曹が手元に工具と消耗品を取り揃えて随時分解、修理作業を行った。
メインのターボ発電機は大和の金工場に修理を依頼したが復旧せず、そのまま呉に帰港した。
呉では司令部の将校5、6名が雪風の電気室、補機室の検査に訪れディーゼル発電機のみで戦闘ができた事について確認調査を行っている。
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muramasa309 · 7 years ago
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利根(とね)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。利根型重巡洋艦(二等巡洋艦利根型)の1番艦。 その艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従い、関東地方を流れる利根川からちなんで名づけられた。 この名を持つ帝国海軍の艦船としては4隻目。 艦前部��主砲塔4基を集中し後部を飛行機発進甲板・水上偵察機待機所とした、第二次世界大戦当時としては珍しい艦型である。 艦名は海上自衛隊のあぶくま型護衛艦「とね」に継承された。
重巡洋艦であるにもかかわらず河川名が付けられた理由は最上型重巡洋艦(当初は軽巡洋艦であり、改装後も書類上は二等巡洋艦)5番艦として計画されたためである。 後に再設計により重巡洋艦となるが艦名はそのまま使用された。
20.3cm主砲2連装4基8門を艦首に集中配置することによって艦尾を空け、水上偵察機搭載能力を増した独特のシルエットを持つ1万t級の重巡洋艦として就役する。 艦橋が中央部にあるため、舵を取る時の感度は抜群で操艦しやすい艦だったと伝えられている。
1942年(昭和17年)6月上旬、第八戦隊は第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将の指揮下、南雲機動部隊(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《飛龍、蒼龍》、第三戦隊第2小隊《榛名、霧島》、第八戦隊《利根、筑摩》、第十戦隊《長良、谷風、浦風、浜風、磯風、風雲、夕雲、巻雲、秋雲〔燃料補給部隊護衛〕、嵐、野分、萩風、舞風》)としてミッドウェー海戦に参加する。
この時、利根(利根飛行長、武田春生大尉)のカタパルトが故障し利根4号機(甘利一飛曹、大熊一等飛行兵)の発進が30分遅れ日本海軍敗北の一因となったとする説がある。
後年の研究では、筑摩1号機(黒田信大尉《旧姓都間。海兵66期》搭乗)は米軍機動部隊の上空を飛んでいたが、雲量のため発見できなかった(第一次攻撃隊隊長友永丈市大尉が「第二攻撃の要ありと認む」を発信する前)。
また利根4号機の発進が遅れたからこそアメリカ艦隊を発見できたのであり、定時に発進していたら逆に発見できなかった可能性が高いと言われている。
また土井美二中佐(当時の第八戦隊参謀。利根座乗)は利根4号機のコンパスが狂っており、このためアメリカ艦隊を発見できた可能性を指摘している。
1944年(昭和19年)3月2日、第七戦隊(利根、筑摩)は南西方面艦隊麾下の第十六戦隊司令官左近允尚正少将(青葉座乗)指揮下でバンカ泊地を出撃。 重巡3隻(青葉、利根、筑摩)、軽巡2隻(大井、鬼怒)、駆逐艦数隻(敷波、浦波、天霧)等でインド洋方面通商破壊作戦(サ号作戦)に従事する。 日本軍の船舶不足を補うため、連合国軍の商船を拿捕することを作戦目標としていた。
中央が青葉、右が利根、左が筑摩という横一列陣形で索敵中、3月9日午前11時30分にイギリスの武装商船ビハール号(ベハー号)と遭遇した。 拿捕を試みた利根はアメリカ巡洋艦に偽装して接近。 ビハール号武装射程圏外の距離9000mで軍艦旗を掲げ停船命令を発したがビハール号は救難信号を発信しつつ逃走を試み、拿捕を諦めた利根は同船を砲撃により撃沈することにした。
沈没現場ではビハール号の生存者115名を救助した。 戦闘詳報によると104名または129名となっている。 3月15日、利根はバタビアに入港。サ号作戦部隊における戦果はビハール号の撃沈のみであった。
サ号作戦を指揮した南西方面艦隊は捕虜処刑命令を出しており、黛治夫大佐(利根艦長)は捕虜35名をバタビアへ送ったものの、サ号作戦終了と部隊解散により残80名の処遇が宙に浮いてしまった。 第十六戦隊の指揮下を離れ、3月18日にジャワ島バタビア(ジャカルタ)を出港してシンガポールへ回航。 当時利根乗組員(黛艦長、天野軍医長、小勝上等兵曹)によれば、後部甲板に応急の木甲板を設置。 捕虜を「涼しい場所へ移す」という名目で艦内から後甲板へ一人ずつ連れ出し、選抜した利根武芸部員(有段者含む)が捕虜80名の処刑を実行した。 当身と木刀で気絶させたのち斬首・とどめに刺殺という方法で、3月19日午前零時から約3時間かかったと云う。
1944年10月25日、レイテ沖海��において利根はサマール沖海戦に参加。 護衛空母から発進した戦闘機や雷撃機の妨害に悩まされる中、408発の主砲弾を発射、うち7発を敵艦に命中させた。 利根はカサブランカ級航空母艦19番艦ガンビア・ベイの至近距離まで進出し、砲撃でガンビア・ベイを撃沈した。 沈没地点北緯11度31分 東経126度12分 / 北緯11.517度 東経126.200度。 利根は漂流するガンビア・ベイ生存者達の至近距離を通過したが、機銃掃射することなく、利根乗組員は敬礼して米兵を見送った。 戦後、黛治夫(利根艦長)はガンビアベイ生存者会に、同艦の奮戦を称える手紙を送っている。
一方、米艦隊の反撃により、第七戦隊では重巡3隻(熊野、鈴谷、筑摩)が落伍。 第二艦隊長官栗田健男中将から反転命令がでると、黛艦長は第五戦隊司令官橋本信太郎少将(重巡羽黒座乗)に「現状、砲撃中の敵空母を追撃すべき」を意見具申しようとしたが、最終的に断念した。 つづいて酸素魚雷の誘爆により大火災となった鈴谷より白石第七戦隊司令官を受け入れる。
第七戦隊旗艦となった利根では午後1時40分頃、爆弾1発が後部に命中し一時舵故障となるが復旧に成功した。 本海戦における戦死者は19名(愛宕乗員2名を含む)、負傷者81名(黛艦長を含む)と記録されている。
1945年(昭和20年) 1月6日、利根艦長は黛治夫大佐から岡田有作大佐(出雲型装甲巡洋艦2番艦磐手艦長)に交代。 2月18日、舞鶴港を出港し、20日に呉到着。
3月19日、利根は海軍兵学校練習艦として呉にて停泊中、アメリカ第58任務部隊による空襲で至近弾1発を受け、三番砲塔が使用不能となった。 江田島湾の津久井茂沖合に錨泊したのち、大破着底した場合に備えて能美島の海岸付近に移動し、松や小枝などで偽装を施した。
7月24日、第38任務部隊によって再度空襲を受け、左舷中央部に直撃弾を受ける(呉軍港空襲)。 7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により左舷後部に直撃弾2発と至近弾6発を受けた。 左舷後部の直撃弾は1000ポンド爆弾で、地上施設破壊用の瞬発信管であり、利根の水平装甲板を貫通せずに爆発したが被害は甚大であり、至近弾もあいまって大浸水をきたした。
一時は左舷に20度以上傾斜したが、対岸の海軍兵学校などからも応援を呼んでダメージコントロールに努め、転覆を防ぐため注水作業を実施。 利根は7月29日に着底し、そのまま終戦を迎えた。 8月15日、岡田(利根艦長)は呉鎮守府附となり、利根艦長の任務を解かれた。
アメリカ軍による調査実施後、利根は同年11月20日に除籍された。 1947年(昭和22年)4月7日から播磨造船所呉船渠により解体に着手。 同年9月30日、解体完了。利根の解体をもって呉地区沈没艦の解体は完了した。
ビハール号事件に関する戦争裁判により、捕虜の処刑を命令した左近允尚正中将(サ号作戦時指揮官《当時少将、第十六戦隊司令官》は死刑(1948年1月21日、執行)。 黛治夫(利根六代目艦長)は捕虜の処刑を実施したものの、捕虜助命に努力していたことや秋津洲艦長時代の行動を考慮され懲役(重労働)7年(服役4年)の判決を受けた。
また原鼎三中将(利根初代艦長)はミャンマーにおける民間人殺害の責任を問われ、BC級戦犯として処刑された。 大西新蔵中将(利根二代目艦長)は、第八艦隊参謀長時代に発生した峯風型駆逐艦9番艦秋風での民間人虐殺容疑でB級戦犯に指定されるが、起訴却下に終わった。 岡田為次少将(利根四代目艦長)は戦犯としてラバウルにて処刑された。
現在、能美島(江田島湾)の利根着底場所付近には、慰霊碑が建てられている。 また慰霊碑に隣接して「軍艦利根資料館」があり、利根の舵輪、副碇、信号燈、コンパスなどの遺品(装備品)や���密なミニチュア模型などが展示されている。
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The sunken Japanese heavy cruiser Tone at Kure, Japan.
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muramasa309 · 8 years ago
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神通は日本海軍の軽巡洋艦。 1943年(昭和18年)1月16日、同日附で神通は呉鎮守府部隊から第二水雷戦隊に編入される。 
ガダルカナル島から日本軍を撤退させたアメリカ軍は小休止状態にあったが、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサー指揮の下、3月にカートホイール作戦を立案して作戦準備を行っていた。 アメリカ軍の次の目標はニュージョージア島のムンダ飛行場であった。 まず6月30日にレンドバ島を上陸占領、重砲陣地を築きムンダ一帯を射程に収めた。 
日本軍はコロンバンガラ島に戦力を集めて態勢を整え、しかる後レンドバ島のアメリカ軍に対し逆上陸を行う事を企図する。 
そのため駆逐艦による鼠輸送を実施するが、米艦隊に迎撃されて7月5-6日のクラ湾夜戦が生起。
海戦には勝利したものの、新鋭秋月型駆逐艦5番艦新月及び睦月型駆逐艦8番艦長月が沈没、新月の沈没時に第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将以下第三水雷戦隊司令部全滅という代償を支払った。 
そこで重巡鳥海艦長有賀幸作大佐が暫定的に増援部隊の指揮をとった。
同時に三水戦司令官後任として伊集院松治大佐(当時戦艦金剛艦長)が任命され、7月10日に着任すると旗艦を川内型1番艦川内に定めた。 
しかし準備が整うまでの間、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将:旗艦神通・駆逐艦清波)、および第七戦隊(司令官西村祥治少将:熊野、鈴谷)を南東方面部隊に編入させ、コロンバンガラ島への輸送作戦従事を命じた。 なお神通と共に出撃した駆逐艦複数隻(雪風、浜風、三日月)等は一時的に伊崎司令官の指揮下に入っただけで、第二水雷戦隊所属艦ではない。 
二水戦所属(神通麾下)の駆逐艦は清波のみであり、他の二水戦麾下艦は損傷して修理中か別方面の作戦に投入されていた。 1943年(昭和18年)7月11日、ラバウルには川内・三日月・夕凪・鳥海・雪風・浜風・谷風・夕暮が所在し、戦力は整いつつあった。 
12日3時30分、神通以下コロンバンガラ島警戒隊(清波、雪風、浜風、夕暮、三日月)・輸送隊(皐月、水無月、夕凪、松風)はラバウルを出撃、ブカ島を��てクラ湾に接近する。 
13日、警戒隊旗艦の神通はコロンバンガラ島沖海戦に参加、警戒隊は三日月-神通-雪風-浜風-清波-夕暮という単縦陣であった。 対するアメリカ艦隊はウォルデン・L・エインズワース少将を指揮官とする巡洋艦3隻・駆逐艦10隻で、日本艦隊より優勢であった。 戦闘序盤、神通はアメリカ艦隊に対し探照灯照射を実施したため、アメリカ艦隊の格好の目標となった。 
アメリカ軍の軽巡洋艦2隻ホノルル(USS Honolulu, CL-48)、セントルイス(USS St. Louis, CL-49)、ニュージーランド軍の軽巡洋艦リアンダー(HMNZS Leander) からの砲撃、雷撃が集中して炎上した。 
艦橋への直撃弾で伊崎司令官や佐藤艦長は戦死、指揮官不在と艦尾への被弾で操舵不能となった。 
神通は、アメリカ軍からは「溶鉱炉のように燃え続けた」と観察されながらも、なお14cm砲で反撃を続けたが、最終的にアメリカ軍駆逐艦の発射した魚雷が神通の右舷後部に命中、大爆発を起こした艦体は中央部分で前後に分断され神通は沈没した。 神通艦長佐藤寅治郎大佐および第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将を含む482名のほとんどが戦死した。 一方、神通の探照灯照射がアメリカ艦隊を神通に引きつけたため、配下の駆逐艦隊には有利となった。 
日本艦隊が23時13-16分に発射した酸素魚雷はリアンダーを大破させ、0000時に各艦(雪風、浜風、清波、夕暮)が発射した魚雷はセントルイス、ホノルル、グウィンに命中して大破させた(グウィンは自沈処分)。 
また神通以下警戒隊がこの海戦でアメリカ軍の眼をひきつけた結果、本来の任務であるコロンバンガラ島輸送作戦は成功した。 終戦後にチェスター・ニミッツ(当時太平洋艦隊司令長官)は米艦隊(エインズワース少将)の問題として『レーダーに映ったもっとも大きな目標(クラ湾夜戦では新月、本海戦では神通)への攻撃に偏った』。
神通に拘った結果、『敵艦隊(二水戦)に近寄り過ぎた上に射撃開始の時機を逸し、ために雷撃のチャンスを敵に与えた』事を指摘している。 戦闘後、輸送を終えた第22駆逐隊(皐月、水無月)は反転して神通遭難現場に向かうが生存者を発見できず、7時35分に救助を打ち切って帰投した。
基地航空隊も神通生存者を捜索したが発見できず、また出撃した艦爆6・零戦32機も撤退する米艦隊を発見することが出来なかった。
伊号第一八〇潜水艦は21名の神通乗組員を救助した他、数名がアメリカ軍に救助された。 この後、外南洋部隊は西村祥治少将指揮下の第七戦隊(熊野、鈴谷)と第三水雷戦隊を基幹とする夜戦部隊を編制したが、7月18-20日に駆逐艦3隻(夕暮、清波、初雪)を喪失、損傷艦多数(熊野、水無月、夕凪、松風、望月)を出し、以後日本海軍の水雷戦隊は急速に消耗していった。 一般に軽巡洋艦は、戦時・平時を問わず様々な役割��求められる。 その中に、来るべき艦隊決戦に於いては水雷戦隊の旗艦として先頭に立ち、敵警戒艦艇の排除を行って味方駆逐艦の雷撃を援護することも含まれていた。
神通は水雷戦隊の旗艦として、最期までこの任をよく果たした。 
同年9月10日、神通は川内型巡洋艦、帝国軍艦籍からそれぞれ除籍された。
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