Text
存在の謎
【2016年の読書の中で一番知的興奮を覚えた本】 ・宇宙の果てはどうなっているのだろうか。 宇宙に外はあるのだろうか。 宇宙が始まる前は何があったのか。 ・夜に眠る。朝起きる。 昨日の自分と今日の自分は一緒なんだろうか。 一緒である必要があるのだろうか。 ・時間は一方向に流れているのだろうか。 人間の感覚器官ではそういう風にしか体感できないだけじゃないのか。 ・目を閉じている間は世界はどうなっているのか。 目を開ける前と同じである必要があるのだろうか。 目を開けて僕が世界を認知しているから世界があるのではないだろうか。 これらの疑問の多くは、子どもの頃によく考えていたものだ。もちろん、ここまで丁寧に言語化は出来ていなかったが、書き始めると終わらないくらい、答えようもない問いをいくつも考えている子どもだった。 25歳になっても大して変わらない。 3歳の頃の記憶はハッキリとしていて、その時途方も無い問いの前に覚えた感情は今のそれと何ら変わりはない。たくさんの問いの中でも、宇宙��めぐる問いが、子どもの僕を眠れなくさせた。ワクワクもさせたが、何だか怖くなって、よく布団に包まって泣いていたっけ。 干支を二周する頃には、恐怖それ自体に苛まれる回数は幾分も減ったけど、印象は薄まるどころかより色濃くなっている気さえする。故に懲りずにずっと考えている。満足いく答えは得られていない。 高校の進路選択では理系を選んだことを思い出す。 思えばそんな宇宙を「経験」したかったからだ。 子どもの頃の純粋な疑問に数式で肉薄したかった。 恐怖とは向き合うしかないといった気持ちだったのだろう。 結局、科学者という形で研究室にいる自分の姿が想像出来なくなって文系の道への変更を選んだ。 それでもどこか後ろ髪引かれる思いで、高校を卒業してからも懲りずに宇宙の事を考えている。そして、それは大学を卒業しても変わらず続く一つの習慣のようなものとして残っている。社会人になっても、これから何歳になっても、ずっと考え続けていくんだろう。 しかし、宇宙を考えることは日常を生きる上でそんなに役に立つのだろうか。物事は「役に立つかどうか」だけで判断しなくてもいいのだけど、英語を専門に学んだド文系の社会人一年生は黙って働けばいいではないか、そんな声が聞こえてくる気がする。ああ、これは僕自身の頭の中の声か。(最近はこの声に抗う別の気持ちも湧き始めているが、それをお話しするのは別の機会ということで。) 宇宙を考える上で引き合いに出したい作品がある。 『シーシュポスの神話』という作品だ。 「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」という有名な言葉で始まる作品だ。この中で作者のアルベルト・カミュは宇宙の成り立ちを知ることに価値を見いだしつつも、これに否定的な意見を述べている。20世紀を代表する実存主義の巨人をしても、(もしかしたら実存主義の巨人だからこそ) 宇宙の謎は「役に立たない」もしくは「重要ではない」と評価される。 宇宙を考えることは、やっぱり役に立たないのだろうか。 人間の日常を質的に豊かにしてくれ得ないのだろうか。 僕は、実存主義の立場を哲学の系譜の中で正確に捉えている自信もないし、カミュが嫌いな訳でもない。(『異邦人』は大切な作品である。)むしろ逆で、カミュが『シーシュポスの神話』の中��見出そうとした希望は力強い。「直接的な経験を越える一切を放棄して、より深く理解したり、より深い意味を探したりすることをやめることで、不条理の中にも希望を見出せる」というメッセージは日常を生きていくうえで背中を押してくれる。 現代風に解釈すれば、自分探しとかアイデンティティーとかそういったことを探すのをやめろという主張に翻訳できるだろうか。これは個人主義の蔓延の中で右往左往する日本人には痺れる言葉だ。自分にも耳が痛いが、薬になる。役に立つし、重要であるし、生きる意味をくれると思う。 それでも、幼少の頃から一緒に生きてきた純粋な問いが、生きていく上で役に立たないなんて到底思えない。少なくとも自分という人間には、実存主義の始祖に歯向かってでも、大切であることは間違いないと言いたい。そのために、読後の所感をまとめるという体で書き始めた文章が随分と長くなってしまった。 いつも以上に勢いが余ってしまい、大風呂敷を広げてしまったので、頑張って四つ端を結べるように頑張ってみた。読むに耐えるくらいには体裁が整っていると良いのだが。 電車を待っていたり、空きコマだったり、寝る前だったりとFacebookを開くタイミングは様々で、読んでいる方には色んな時間と空間の中にいらっしゃるかと思うが、お時間に余裕がある方は、引き続きご拝読頂ければ幸いである。 さて、閑話休題。 宇宙についてのお話だった。煎じ詰めれば、宇宙を考えることは人間を考えることじゃないだろうかと思うようになった。宇宙や物理学の最先端を研究する現代の著名な科学者たちは、とても「宗教的な」人間だと知るようになってそれは確信になった。 なぜ今の宇宙がこのような姿をしているのかを考えていくと、なぜ人間がこんな姿で、無数の銀河団の中の銀河系の中の太陽系の中の地球に住んでいるのかを考えざるを得ない。そこはもう個人の信条の問題である。 自分の信条を丁寧に温め続けながら宇宙を研究している科学者たちの多くが、彼らが子どもの頃に出会った純粋な問いに突き動かされていたりするのを知ると、細やかながら親近感を覚える。 夜に空を見上げて眺めた星や月に惹かれて宇宙のことを考えるようになった幼少時代。そんな原体験から純粋な問いを持つようになった僕は、今でも占星術や神話や暦に興味があるし、月の満ち欠けと体調、心境へ影響を考えたりする。空を彩る天体に思いをはせることは宇宙を学ぶ入り口であり、醍醐味の一つだ。 しかし、天体はあくまで入り口に過ぎない。 宇宙の研究対象とは、時間と空間である。 時間とは何か、空間とは何か。 アインシュタインが晩年探求した「統一理論」を求めて、超ひも理論や、M理論なるものが唱え��れ、知の巨人たちが日夜研究を重ねているが、その到着地点は時間と空間の正体の解明である。 そして、人間の生活は時間と空間の中で展開することを鑑みれば、これらは物理学者だけが考えるべきものでなく、一般人にこそ大切なテーマなのではないかと思えてくる。宇宙を学ぶことは、人間を学ぶことなのだ。 日常的な例を幾つか取り上げれば、時間と空間で頭がいっぱいの現代人の姿が浮かび上がる。 タイムマネジメントに勤しみ、東急ハンズの手帳売り場が一月始まりの手帳を求める人でごった返すのも、部屋の内装をシンプルにするのが流行っているのも、時間と空間が現代人の関心の的であることを物語っている。特に時間に関しては、「鬼即PDCA」や「仕事に追われない仕事術」なんてビジネス書が本屋に平積みにされているのを見ると余計に強く思う。 人は「いつやるか」、「どこでやるか」をいつも考えているみたいだ。その中心に宇宙を置いて考えてみるのもなかなか面白いのではないだろうか。「そもそも時間と空間とは何なのか」に思いを巡らせることは、どれだけ突飛に見えても、数式が扱えないド文系にも、日常的な営みになり得る。 営業として社会人をスタートした僕もそんな「現代人」の一人だ。仕事では「いつやるか」「どこでやるか」を考える毎日だし、年末の慌ただしさ中、先の東急ハンズでB6のバーティカルの手帳を購入し、家に帰ると部屋のインテリア事ばかり考えている僕には、時間と空間は日常的なテーマであり、文字通り死活的なテーマだ。 仕事に関してもう一つ付け加えれば、営業をはじめ、世の中の仕事の多くは人間に対してサービスを提供して対価を貰うことで成り立っていることを取り上げたい。人間を知らずして、少なくとも知ろうとせずして、いい仕事は出来ない。卒業して働き始めてから仕事で関わる人間を通じて、実学と同様に哲学や文学の大切さを痛感しているが、用語を振り回す哲学はなく、自分の生活に根ざした人生観を支える哲学が必要なのであり、それを養うためにも、宇宙というテーマを温めてみることは有意義だと思う。 高校時代に思い描いたように、数式を飛道具のように使い、宇宙に肉薄するような経験はできない。それでも、生活の質を左右する時間と空間の使い方を考えることを通じて、想像力を逞しく宇宙を経験できるのは楽しい。 さて、ようやく本の内容に入っていきたい。 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」 この本は上の問いを軸に展開していく。 今まで宇宙に関してばかり書いてきたが、実はこの本は「存在の謎」をめぐる本である。直接的に宇宙を論じた本ではない。シンプルな問いだが、今まで論じてきた宇宙観がしっかりと言葉になったのも、この本を読んで得た着想のおかげである。 存在とは何かを考えると必然的になぜ宇宙があるのかを問うことに行き着き、なぜ人間が存在するかを問うことになる��という問いの連鎖が、この本を読んでの一番の発見だったように思う。 この「存在の謎」が射程に収めるのは、21世紀を代表する知の巨人たちの宇宙観とそれに伴う人間観だ。本当にたくさんの科学者、哲学者、文学者が登場するため、本書は各人の専門分野の世界観の概略ともいえる。一個人の強烈な信条、宗教観が、少なからずの葛藤と一緒に描かれているのはとても新鮮だった。「神様が世界を作ったのなら、神様を作ったのは誰なの?」という問いには考えさせられた。 この本は宗教学、哲学、数学、物理学、文学に、広義の意味で弁証法の操作を行ったような本だ。(積分という比喩の方が適切だろうか。) 色んな分野の統一理論的な位置付けに「存在の謎」を置くことが、こんなにも刺激的な学際的アプローチ可能にするとは思っていなかった。 初めて聞く概念も多く登場するし、量子論、キリスト教、プラトン主義といった、とても一度に扱えない重量感のある概念を束にしてもなお「存在の謎」は深まるばかりである、という具合に章が進むstory-tellingにはやられた。脳に汗を書きながらもページをめくる手を止められなかった。 ハイデッカーの『存在と無』の中で立てられた上の問いとの出会いは、大きな衝撃と共に作者 (素晴らしい語り手であり、体系的に整理された哲学の所見とその適切な用途には感動を覚えた) に500ページ近くの本を書かせるに至る訳だが、この問いの魔力は計り知れない。 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」 シンプルだが多くを語る問い。忘れられなくなる魅力があり、問いが問いを呼び、自分の世界観に揺さぶりをかけてくれる。 冒頭でヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』がハイデッカーと同じように「存在の謎」へ迫ったことにも触れられていたことは、これを読んで受けた衝撃から言語学を学ぼうと思った僕にはたまらないイントロダクションだったし、何よりも縁を感じた。 (なぜ当時、復学の直前で大学に戻ることを躊躇っていた時、ハイデッカーではなくヴィトゲンシュタインに惹かれたのかは、また追々考えることにしよう。) また、個人的には、冒頭部分から本書に一貫して登場するライプニッツという人間の思想が気になった。数学の記号の多くが彼によることは知っていたが、その功績の背景にある世界観はなかなか面白いと思う。「充足理由率」というキーワードが、カミュとは真逆を行っていて印象的だった。 ニュートンと同時代を生き、ニュートンとは別のやり方で、ニュートンが発見した微分法に辿り着いたライプニッツの世界観は、宇宙を論ずる時ニュートンの陰に隠れてしまいがちだ。しかし、空間とは何かという問いにニュートンとは違った見解を持つ彼の思想はこれから先、存在の謎や宇宙について考えを巡らせる時、道標となると思う。 本当に「存在の謎」をめぐる���険は面白い。 いつかの休日。 神楽坂のかもめブックスという本屋で 特徴的な表紙が目に留まりこの本に手を伸ばした。 なぜそこにこの本があったのだろう。 なぜ別の本ではなかったのだろう。 なぜそのタイミングで出会ったんだろう。 思えば生活を具に見ていくとそんなことばかりである。 なぜ通りの角を曲がったらバスが走っていたのか。 なぜそのバスは吉祥寺行きだったのか。 なぜこの道だけこの角度で曲がっているのか。 なぜ自分のアパートは駅から850mでもなく900mでもなく867mなのか。 なぜパン屋がここにあるのか。 なぜ今日に限ってメロンパンは売り切れなのか。 理由は必ずしも形而上的に考えなくてもいい。 確率的に考えても良いかもしれない。 しかし、存在の謎というフィルターを通して見る日常は面白い。 宇宙を考えるときのようなスリルと、人間を理解する上での新しい視点を授けてくれる。 もちろん、上のような具体的な存在への謎の答えは本書を読んでも分からなかった。存在の謎は、自分に惹きつけて考えるほど、本当に深まるばかりだ。日常という実験場で、より多くのケーススタディを重ねる必要があるりそうだ。 なぜと問うことは、時に「言い訳の亜種」として機能する。意味がなければ、役に立たなければ行動に移せなくなっている損をしたくない現代人の病は、弱さの露呈に映ることさえある。 それでも真っ正面から直球勝負で「なぜ?」と問うことは強さでもある。特に、生活に根ざした「なぜ?」を探求する心は、決して弱さなどではなく、勇気でさえあると信じてみたい。 この投稿の冒頭挙げた幾つかの問い。 どんな突飛な問いも、どんなバカバカしい問いも、 その深遠さに恐れながらも「なぜ?」と問えた3歳の僕は今よりも怖いもの知らずだったし、真っ直ぐ世界に問いかける強さがあったと思う。25歳となった2016年ももう直ぐ終わるが、3歳の自分に負けてられないと心新たにした読後だった。 #blank_space_talks
0 notes
Text
言葉と悲劇
最近、柄谷行人の『言葉と悲劇』を読んでとても刺激を受けた。 ���谷行人講演集成1985-1988 言葉と悲劇 (ちくま学芸文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4480097716/ref=cm_sw_r_cp_api_uXWuzb816N41N うまく言葉に出来ないのだけど、非常に濃い時間だった。 デカルトからスピノザ、そしてドイツ観念論という新しい流れを見たことが一つの大きな収穫だろうか。 初めて哲学書を手に取ったのはカントの解説書だったし、その後はニーチェ、そしてヴィトゲンシュタインと、18-20世紀のドイツに惹かれる傾向にある。 もちろん、ここに挙げた哲学は正確には思想的に同じではない。でも上の哲学はドイツ観念論というカテゴリーの周辺にいると認識してる。(間違ってたら是非教えてください。) そして、このドイツ観念論が立ち上がるにあたって足がかりになったのがスピノザの哲学であることを知った。 スピノザの代表作である『エチカ』をめくる程にしか読んでいないので自分の言葉では説明できないのだけど、スピノザはデカルトを緻密に批判的に分析したこと、そしてデカルトをドイツ観念論に繋げたことに意義があるらしい。読んでいて、これはギリシャ・ローマ文明をイスラーム経由で引き継いだヨーロッパに似てると思い出した。 デカルトに関しては心身二元論の起源であると言われ、なんとなくネガティヴなイメージを持っていたけど、『方法序説』も丁寧に読んでみたいという気になった。 柄谷氏の話の進め方がいいなと思うのは、ある考えを唱えた人間の置かれた環境も考慮に入れながら批評をしていくことだ。 例えば、デカルトやスピノザは所属できる共同体を持たなかった。それは社会情勢や思想的な軋轢などが関係するのだけど、そういう環境から彼らの思想は立ち上がって来たのだと進めていく。ちなみに対照的にカントはドイツのケーニヒスベルクを生涯にわたり出ることはなかった。 共同体に居場所を持てる人間、持てない人間。共同体を出たことがある人間、出たことがない人間。彼らの世界観が異なってくるのは当然だと思う。そういうところに焦点を当てながら哲学・思想を検討するのはとても面白いし、僕はこういう手法を身につけていきたいと思う。柄谷氏自身も別の本で書いているけど、上の方法は精神分析的なアプローチであって、ああ、ラカンも読みたいな、なんて。 ドイツ観念論の周辺以外にも得ることはあったけど、それはまた別のトピックと絡めて書けたらと考えている。 ここまで書き終えて気付く。何かを読んだ興奮から感想を書き連ねたことが昔にもあったなあ。そう思い出して過去の投稿を引っ張ってきた。 とっても長くてびっくり。 存在の謎に関してはの本を読み、あれこれ小難しく考えていたんだな。 【存在の謎】といえば、最近は仏教における《空の思想》を勉強しようと思いはじめた。 ここ数���Instagramの投稿に必ず付けてきた#blank_space_talksの着想は空の思想とも関連性がある。 《空の思想》は言葉で表現できないことにその真髄がある気がするのだけど、言葉にできない世界観を言葉にしてみようとすることは大切だと思う。 大切なことは言葉にしない方がいい。それもよく分かる。こんなにお喋りだけど、意識的に語らないようにしていることもあるし、そこには中途半端な言葉で誤魔化したくない気持ちがある。 でも前期ヴィトゲンシュタインの言語論的展開が示すように、言葉が世界だとも思う。言葉の限界は世界の限界なのだ。言葉にしてみようとして初めて分かることがある。 自分の中には言葉にできない世界観があっても、それを誰かに発信し共有していくことで生まれてくる化学反応があるし、そのためにはやはり言葉は大切なのだと思う。このジレンマが言葉の悲劇性なんだろうか。 #blank_space_talks については、いつかちゃんとまとめてみたい。もともと古神道の世界観があるのだけど、そこには僕の日本の文化や歴史、伝統を温めたいという思いがあるので、もう少し時間がかかりそうだ。
0 notes
Text
最近は毎朝急須でお茶を入れるようになった。美濃焼の茶碗でそのぎ茶を飲んでいる。日本茶には適度にカフェインが入っているが、そのおかげで毎朝のコンビニコーヒーの習慣がなくなった。相変わらず休日はコーヒー屋を巡っているけど、家ではお茶を飲む。
ある時から細々と温め続けているテーマに「茶の湯」がある。毎朝の週間は自分なりの小さな研究方法なのかもしれない。お茶を入れて、飲むことは、現代社会の中にちょっとした潤いをもたらしてくれる。昔の日本にはもう少し生活にゆとりと潤いがあったのだと思う。お茶が象徴的に表しているのは、現代人が忘れつつある良き日本らしさではないかと毎朝お茶を飲みながら思う。
朝の茶事。足繁く通うカフェのバリスタは職人だと感じることがあるけど、それは日本に茶の湯の文化があったからではないかと思いを巡らせながら。
あまり博物館など行かないのだが、自分に近いテーマなら足を伸ばそうという気になる。せっかく東京にいるのだし文化資本に貪欲にならないともったいない。
0 notes
Link
最近は毎朝急須でお茶を入れるようになった。美濃焼の茶碗でそのぎ茶を飲んでいる。日本茶には適度にカフェインが入っているが、そのおかげで毎朝のコンビニコーヒーの習慣がなくなった。相変わらず休日はコーヒー屋を巡っているけど、家ではお茶を飲む。
ある時から細々と温め続けているテーマに「茶の湯」がある。毎朝の週間は自分なりの小さな研究方法なのかもしれない。お茶を入れて、飲むことは、現代社会の中にちょっとした潤いをもたらしてくれる。昔の日本にはもう少し生活にゆとりと潤いがあったのだと思う。お茶が象徴的に表しているのは、現代人が忘れつつある良き日本らしさではないかと毎朝お茶を飲みながら思う。
朝の茶事。足繁く通うカフェのバリスタは職人だと感じることがあるけど、それは日本に茶の湯の文化があったからではないかと思いを巡らせながら。
あまり博物館など行かないのだが、自分に近いテーマなら足を伸ばそうという気になる。せっかく東京にいるのだし文化資本に貪欲にならないともったいない。
0 notes
Text
情報と編集
すべては情報である。
そして全ては編集である。
生きることは情報の編集の連続であり、情報を知へと変えていく過程だ。
編集とはすなわちアウトプットである。
表現しようとすることでインプットに意味が生まれる。
こういった考え方に出会った。生きていくうえで自分を取り巻く全てを情報として考え、それをいかに編集するかという視点で見ていく。アウトプットをすることでしか、編集の必要性は生まれず、編集をすることでしかインプットに価値を与えることはできない。ある情報が他の情報よりも重要なのはアウトプットの方向性によるものであり、こうして情報は知となり社会に影響を与え、後世へと引き継がれていく。
ずいぶん背中を押してもらう考えだ。
0 notes
Photo

久々に高校時代の旧友と飲んだ。「卒業から今まではあっという間だったか」そう聞かれてちょっと考えた。 選択の連続の結果でいまがあるのに「選んだ理由」はいつもはっきりと思い出せない。良い意味で人生の方が期待を裏切ってくれた。そんな7年間だった気がする。 あの時はあんなに必死だったのに。記憶って振り返る毎に意味合いが変わる。まあ、そんなものか。 「選ばなかった理由」も立派な「選んだ理由」。たまに考えるのも悪くない。 それにしても、石井さんの文章、本当に好きだな。 #石井ゆかり #選んだ理由
0 notes
Photo

会社の先輩方と初、神宮球場。 ヤクルトvs.阪神。 延長戦、福留の逆転ツーベース、痺れた。 久々に野球やりたくなってきた。 #野球 #阪神タイガース #ヤクルトスワローズ #神宮球場 #福留孝介
0 notes