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Annaを探す方法、 あるいはアンラーニングのための工事現場 第6章 An (n) aを探す方法、 あるいはその道筋を記すための記録。 宿なし An (n) a。かわいそうな An (n) a 。 行く先を決められない旅では、雨風を凌いで身体を休めるのも一苦労だ。道はしょっちゅう塞がれて、そのたび狭い場所に身を寄せる。来た側から行く側に向かうときに、かならず通りかかる側と側の間の、雨風を凌ぐその場所の話をしよう。そこでは An (n) a が来た側で吸っていた空気が口から吐き出され、その場所に残る、むこう側から来た、誰かが吐いた空気と混ざるのを感じて、 An (n) a はいつも吐き気を覚える。自分が来たことで混ざった空気には、毎回慣れるのに時間がかかる。わかっているのに、いつもどうすることもできないし、誰かも同じようにこの吐き気を覚えているかもしれないと思うと申し訳なくて、この、最初に空気が混ざることの嫌悪感と戸惑いをうまく受け止める方法がまだわからない。 ゆっくりと息を吐いては吸ってを繰り返し、朦朧としていく意識のなかで、取りこぼしたくない記憶にしっかりと紐を括り付ける。行く方向に持って行ける荷物はそんなに多くはなくて、目が覚めた時には紐を括り付けたものしかそばには残っていない。 宿なしの An (n) a 。旅をすることで、見たこともない、どこにいるかもわからない、愛する相手を探す An(n)a 。 どれくらいの時間を眠ることになるかはいつもまちまちだ。壁はうっすらと光を通していて、空気を色で染めている。白い光。薄赤色の光。黄色や桃色の光のなかで過ごしたこともある。 目覚めたばかりの混濁した意識の中で、だんだんと感覚が取り戻されていく。吐き気はもうない。ただ、毎回なぜだか必ず、なにかをとても大切にしていたという感覚と、それなのに、離れ離れになったという強烈な感情が電気ショックのように身体を駆け抜けて、思わず腕で顔を覆う。出会った記憶は失われているのに、自分がかつてなにかをとても愛したことがあると知っている。なぜ?どこにいるの。なぜそばにいないの? 記憶にないのに忘れられない。前に進むけど、忘れようと思わない。かろうじて紐を括り付けた、これからも持ち歩く荷物だけがその記憶の気配を繋ぎ止めている。だから眠る前、結び目は解けないよう、絶対に間違えてはいけない。それは、An(n)a が旅を始めるとき、自分の中だけでした、絶対の誓いだ。でもどうしても間違えて失うものがある。どうしようもなくときたま過ちが起こる。でもだからなのか、また何度吐き気を感じようと、来た側から行く側に進む。 宿なしの An(n)a 。そうして、吸ってきた空気と、新しい空気とを自分の身体���混ぜることで、夢をみて、恋をして、目を覚まし、忘れることを繰り返す。自分の半身を引きちぎられたような思いをしては、また進む先の側の、小さな穴から出ていく。見たこともない、どこにいるかもわからない、愛する相手を探すために。 An(n)a 、An(n)a 。ずっと旅をしているのに、ずっと旅が上手くならない。 夢と恋を繰り返しながら、今もいく先をさだめることのできない旅を続けている。
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Annaを探す方法、 あるいはアンラーニングのための工事現場
第5章 これが時間ってやつさ
さぁ、お集まりの皆さん!今日は古い、古い、昔話をしよう。 今は昔、はるか地球時代の人類が作り出した、マジック史上最大級の代物のひとつだ。いいか、よく聞いてほしい。知っての通り、この惑星にも、人より少しだけ余分に物を触ったり、目が忙しなく、手が動き、余分に作ったり壊したりするのがどうしても好きな奴らがいるだろう?そいつらは、生きるだけに必要なぶん以上にあたりを見渡して、ふとした拍子に、誰に頼まれるわけでもなく、いろんなものをいじり倒す。しかも、いじるのは物だけじゃなくて、わたしたちの暮らしのなかにあるシステムだったりもする。 そう、この街ではきっとそこに座ってるおまえさんや、あっちのカウンターの背を向けたあのお方なんかがそうじゃあないかい? ーーーああ、やっぱりそうか。え??なんだって?ああ、君もかい。そいつぁ、失礼した。 かつて地球では、そうやって拵えたものを、ほんの一時期だ、ある一部の地域で、真っ白な部屋に持ち込んで、そいつの姿勢をちょうど良い具合に調整して、本人はすぐに姿をくらます、そういう風習があったんだ。どんなものだっていいと言いつつも、どんなものでもいいわけじゃあなかった。…んん?結局そうするとどうなるかって?? ーーーまぁったく、この街はせっかちだねぇ!! (ポン!と白煙が舞う。ステージの人物の手のひらに、何やら小さな塊がのっている。) そう!たちまち「作品」てやつに早変わりさ!!いまお見せしているのは、その当時持て囃されたものの一部、小さなレプリカさ。ただのガラスのかけらじゃあないんだ。こいつはこの惑星の開拓世代だった誰かさんが、こっそり持ち込んだ貴重なシロモノさ。 そしてその白い部屋の物語には続きがある。うまくいけば、そのものを置いて去った人間が死んだ後も、残されたものをどっかの安全な場所で生き残らせてくれるシステムもあったときたもんだ!! なんて素晴らしいんだろうね?わたしはこういう話が大好きさ。 いいかい、この惑星でもかつて、地球から持ち込まれたマジックの、ありとあらゆるトリックが再研究され、アレンジし直して、受け継がれてきたことを思い出してほしい。今も続いている。だからみんなもわかるだろう。わたしたちにとってどれだけマジックが重要か。そしてこのマジックもきちんとタネがある。そしてわたしたちの3世代前あたりの祖先が、そのトリックを暴き、この惑星でのあり方を生み出した。 さぁ、もう、おわかりだろう。これが我々の惑星に引き継がれた、かの有名なマジックのひとつ、地球の、そう、美術だよ! と、いうわけで、今日はその古(いにしえ)のマジックのいくつかの話をお聞かせしようじゃないか……。
(数時間後 会場のバーカウンターで)
…あぁ、あー、さっきの前列に座っていたお前さんだね。気づかなくって悪かったね。眼は良い方なんだがね…。ーーーうん、なに、もっと話をききたいって? そうだなぁ、今夜は気分もいいし…うん。お前さんだけに話そうか。これはとっておきの秘密の話だよ。 気づいていると思うが、わたしにはマジック担当の記憶チップが埋め込まれている。きちんと美術が惑星に持ち込まれるように託されたチップさ。身体かい?…身体は、……まぁ、5体目だ。わたしにこいつを埋め込んだやつらの思ったようにはいかなかったのはご覧の通りさ。まさか美術がマジックという名に変わるとはなぁ。でも、わたしはそんなこの惑星の人間の感性が大好きだ。 そうそう、さっきステージで見せたこの透明な小さな透明な���について話そうか。かつて、そう、地球さ。あの惑星の、アメリカという国に、ロバート・スミッソンという、マジシャンーーーそう、アーティストさ、ーーーをやる人間がいた。彼は、そもそもどこが本来のマジックの場所かを考えたのさ。彼の考えでは白い部屋はどうもそれじゃあなかった。白い部屋はあくまで現場からものを仮りに運び込み、美術ーーーマジックだねーーー、というシステムのなかにくぐらせるためだけの通過儀礼だった。運び込まれた彼の作品は意図的に断片的で、それの本体がそこにはないってことを観客に主張した。 ただなぁ、時代は変わる。わたしはかつてスミッソンに憧れてアメリカの地を訪れたんだ。うん、かれが死んでからだいぶたった後だ。彼のその断片がみたくてね、とある大きな建物に行ったのさ。太陽の高い時間、晴れた日の、いい風が吹く完璧な1日だった。そこに鎮座してあったもの、あれは一体、なんだったのか…。 時間は無常だ。彼にとって仮置きする場所だったはずの白い部屋、そに置かれた作品は、仮置きではない、しっかりと鎮座する、ただの作品と化していた。そう、お前さんは遺跡という言葉は聞いたことはあるかい?うん、まぁ、ここにはまだ遺跡はないからなぁ…。いや、私がいいたいのはね、時間がたったことで、彼の現場はもう白い部屋の中にも外にも存在しなくなっちまったってことなんだ。理由は簡単だ。そう。ただ単に時間が経ったんだ。そして彼という人間の存在もまた、時間の中に閉じ込められ、神秘化され、目撃者がいる限り、その目撃者の魂の中で、その研究の中で、生きながらえる。止まらずに流れ続けるんだ。

さ、話はそろそろおしまいだ。 これが時間ってやつさ。人間なんぞのシステムには組み込まれないはずなのになぁ。ただときたま、やっかいなことに、そのものずばりが来ては通り過ぎることで、去っていくことで、強固な存在を産むこともある。その経過を無視することはできず、尊く感じたり、脅威に感じたりしながら、ときに人間は誰かや何かを神聖化するんだ。 この惑星で拵えたマジックを初めて地球に運んだときの話を聞いたことはあるか?そう、あの話さ。笑っちまうよなぁ。そいつの作ったものの中でもとりわけたいした出来じゃあなかった。はっ、でもそんなことは��係ない。どのみち地球に届く頃にはそいつも依頼人も宇宙の藻屑だ。一体どこの誰が星間移動をし始めた瞬間の作品が辿る運命を気にするかってんだ。でもおそらく同じさ。星間移動という時間の経過で、地球人たちはおそらく、確実に、到着したマジックを崇め奉ってくれてるだろう。 いいかい。おまえさんは、この街のマジシャンだろう。頼むからいま、3055年のこのときにさ、なにが起こっているかに目を凝らすんだ。ルールが悪いわけじゃあない。ただしルールに絶対はないんだ。だから騙されるんじゃあないよ。白い部屋も同じだ。白い部屋が悪かったんじゃぁない。この惑星にはこの惑星のタネがある。もうわたしたちにも時間というやっかいものは忍び寄っているんだ。だからもし、白い部屋のような代物が現れてくるようなことがあったら、なにが起こるかをようく考えてからじゃないと、お前さん、絶対に部屋に入っちゃあいけないよ…。
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Annaを探す方法、 あるいはアンラーニングのための工事現場 第4章 コンストラクションサイトの発見と、いくつかの境界観念 正すことととも、直すこととも少し違う。正すも直すも、ものにはなにかあるべき姿があるときに使う言葉だ。では、私はなにをどうアンラーニングするべく、工事現場を通して思考をほぐすすべきなのだろうか。 修復する場所と、そのままにしておく場所の、とりあえず明確な線引きがなされ、工事は始まる。ここで考えたいのは、写真にあるような工事現場におかれた、通称「トラフィックバリア」に仕切られた両側の空間についてではない。

ここで思考したいのは、この柵の中の空洞である。上部に開けられた穴と、下部側面に開けられた小さな穴をもつこのトラフィックバリア。さまざまなメーカーが販売しており、色は橙色と白が一般的である。ひとつが人一人が両手で抱えられる程度の大きさと幅をもち、同メーカーのものは連結できるようになっている。ものによっては上部の穴の蓋は金属パイプを垂直に連結させることができるパーツをもち、さらに背の高い柵を作り、ネットをかけることで工事現場を完全に覆うことも可能だ。 (詳細は以前に書いたシリーズにあるので参照いただきたい。)
話を内部に戻す。トラフィックバリアにおける、空洞。境界における、空洞の話だ。
なぜ人は境界という概念に惹かれ、問うことを続けるのか。私たち人間という生物、そして生命というものが「他のものと区別がつく表皮となる表面をもつ」ことが関係しているだろうか。そして、だからこそまたさらに問うのだ。「ではその表面の、どこからがこちら側で、どこからがあちら側なのか。」と。 私には、わからないことがある。自分と自分以外の区分を明確にすることで、私は私という個の独立性を確認し、自我を確かめたいのか。それとも自分以外との区分という孤独に心身が耐えられず、絶えず混ざり合える表皮のあり方を模索しているのか。
ここでは、いくつかの書物から発見した、境界観念についての考え方を記録していきたい。今回考えている境界という存在は、自己を引き合いにしているため、その境界の表面についてと、境界という存在がもつ意味の両方を考えていく。
1、皮膚という境界 まずは、傳田光洋『皮膚感覚と人間のこころ』より、感覚器官、触覚としての皮膚をみていく。境界を感じるということには、自己と他者を区別する段階があることがわかる。
“さて皮膚感覚、とくに触覚と呼ばれる感覚は、自己と環境の認識においてどのような役割を担っているのでしょうか。触覚は身体感覚と強く結びついています。例えば私が自分の頭に触れる時、私の手は私の頭髪を感じ、私の頭皮は頭髪に私の手が触れていることを感じます。その各々の認識は私の手が私の頭の上にある、という身体感覚で保証されます。私が他人の頭に触れた時には、私の手は頭髪を感じても、私の頭皮は何も感じません。そのため私は、今触れているのは他者の頭、あるいはそれに似た毛の生えた何かの物体だろうと判断します。逆に私の頭皮が、何かが私の髪に触れていることを感じているにもかかわらず、私の手が、頭髪を感じない、あるいはそういう行為をしていないと身体感覚が告げる場合には、誰かが私の頭に触れている、と判断します。皮膚感覚は身体感覚と共同して自己と他者を区別します。皮膚感覚は、私と環境、私と他者、私と世界を区別する役割を担っているのです。”(傳田 2013、p.143) 傳田光洋(2013)『皮膚感覚と人間のこころ』株式会社新潮社。
1-2、皮膚という境界
クラウディア・ベンティーンが『皮膚 文学史・身体イメージ・境界のディスクール』のなかで、皮膚の意味の歴史を「皮膚としての自己と、皮膚の中の自己」という対立構造で語っている。
“…皮膚は〈人物〉〈精神〉〈肉体〉あるいは〈生命〉を代理している、すなわち、人間の代喩となっていると同時にーーーこれが皮膚に独特のことなのだがーーー自己の被い、自己の牢獄、自己の仮面、自己と世界を仲介する媒介であることにより、自己にとっての他者であるという機能も果たしている。”(クラウディア・ベンティーン 2014、p33) クラウディア・ベンティーン(2014)『皮膚 文学史・身体イメージ・境界のディスクール』田邊玲子訳、法政大学出版局。
2. 点、空虚な地帯
続いて、民俗学的観点から境界について、赤坂赤坂憲雄の視点を見ていく。 日本における境界について、赤坂憲雄が『境界の発生』において、折口信夫の考える境界についての指摘をしている。
”折口はここで、境界観念の変遷をやはり発生論的な視角から説明している。境界というものを、わたしたちはたとえば五万分の一地図の山の尾根を連ね、河川や道路に沿ってはしる連続する線としてイメージしがちだが、そうした境界観念以前には、異質な境界のイメージが存在した、とされる。それは二つの指標を有していた。ひとつは、境界は線ではなく点であったこと、いまひとつは、境界は相接はするいずれの側にも帰属せぬ空虚な地帯として表彰されたこと、である。”(赤坂 2002、p.44) そして続いて赤坂は、折口の空虚な地帯をA・ファン・ヘネップの、”中立地帯”となぞらえながら、民俗社会におけるそのイメージの例をあげる。
”民俗社会において、村はずれの辻、橋や坂・峠などの境界が、内/外・生/死・現世/他界といった二つの世界のあわいを浮游する人やモノらの棲み処であったことは、あらためて論じるまでもあるまい。”諸世界間の空隙”としての境界をゆき過ぎる者は、身体的にも呪術��宗教的にも、境界性(ヘネップのいう過渡性)を刻印されている。橋や坂のあたりに群れ棲む、乞食・遊女・坂の者・呪術宗教者など、異形異類の人々。そして、橋姫・坂神・ひだる神・産女といった、神霊や妖怪やモノが跳梁跋扈するのもやはり、この共同体の周縁ないし境界であることを想起するにとどめよう。(赤坂 2002、p.45) 赤坂憲雄(2002))『境界の発生』株式会社講談社。
3、���リックスター・道化
境界という存在を考える上で外すことのできない、こちら側と「あちら側」というトピックがある。社会における境界の外というものが、秩序を外れた状態として語られてきた歴史は長い。上の赤坂憲雄による考察にもあったように、さまざまな存在が境界という場所に存在してきたが、ここではトリックスターと道化という存在に着目したい。まずは山口昌男の『笑いと逸脱』から、世界におけるトリックスターの共通点への考察である。
“トリックスターというのはあとからつけた名前である訳なんだけど、まあ、人間生活の中で必然と偶然というおのがあるとしたら、必然の方に掛けないで偶然の方に賭ける、要するに断絶と飛躍の方に賭ける。一貫性よりもね。そういうような生き方というものを神秘的に表して行くとトリックスターみたいな形が当然表れて来るわけですね。”(山口 1990、p.88)
そして山口は次いで、神話におけるトリックスターと、人間の扱う道化の違いについてこのように述べている。 “…現実社会で人間が形をとる、つまり道化という存在には実際に天地をかけめぐったりなんかはできないですからね、論理のさまざまな隙間を縫ってね、人間を語るのに普通の生活では出て来ないような語り口、論理、あるいは地口、ダジャレ、それから身振り、そういうものをどんどんコミュニケーションの世界に持ち込んでくる、という風な意味での道化は、神話でいうトリックスターの現実版だということができるわけですね。だから神話版のトリックスターというのは、あらゆる人間の内奥にひそんでいる、いいかえれば無意識の領域に近いところで人間が持っている飛躍への憧れみたいなもの、そういうものを利用してね、世界を全然異なったかたちで語る方法だと思うんだけど、道化の場合はそれを日常の次元に持ち込んで、世界を全然異なったかたちで生きる生き方の問題という風にいうこともできるでしょう。”(山口 1990、p.88) 山口昌男『笑いと逸脱』(1990年)株式会社筑摩書房。
続いて『道化的世界』において、道化というモデルが社会の秩序において重要な役割を担うと語る。 “こうしたばかばかしく驚きに満ちた世界では、驚きに対して瞬間的にそして完璧に反応を示し、記憶の彼方にある極端に古いものと予想外の極端に新しいものーそれは、非現実と現実でもあるーを絶えず結合させる道化が最も頼りになるモデルを提供する。”(山口 1986、p,24-25)
“…秩序は、社会集団が、自らの潜在的自我の無限の拡大を抑えて、共存をはかるための拠り所である。この存続と共存のために、集団又は個人は、各々の役割と役割に応じた行為の規範を、時間、空間、文脈に応じてつくりあげる。各々の範疇に応じて、行為の許容度には弾力性がある。服装、言葉づかい、身振りなどによって、秩序のうちと外の人間が類別される。それゆえ、どのような社会でも、一定量の異邦人、賎民、アウトカスとを必要としている。この秩序は、人がその中で安住できる社会構造として表われる。勿論、この構造は抽象的中心と外延を持つ。この中心と外延は、時間的、空間的、社会的に表現されて、生活空間の中に階層秩序をもたらす。秩序とは、その中に生きる人間が殆ど意識せずに従っているシナリオの束であるといってよかろう。”(山口 1986、p.26) 山口昌男『道化的世界』(1986年)株式会社筑摩書房。
4、フールとジェスター 次に、ウィリアム・ウィルフォード『道化と笏杖』における道化を見ていく。
“多くのフールたちの、おおそ道徳や社会に超然としたありようを、「イディオット」“idiot”という言葉がよく表している。この語は究極的には“private person”(私人、公職を持たぬ人)を意味するギリシア語の(idiotes)からでてきているからである。「イディオット」こそは社会やそのまともな方や義務といったものの外側のどこかから出て来、自分が出て来たこの「外側」にいつまでも属し続けるように見える象徴的なフールという存在の、第一のモデルであると広く考えられてきた。フールはしばしば一人の「私人」なのであって、理性的規範およびそれを超越するものとの関係に於ける人間個人の問題もろもろに象徴的な表現を与える。…… イーニッド・ウィルズフォードによれば、例えば宮廷抱えのフールは「常軌を逸した食欲、愉快な噂話、悪達者なトリックによるのみか、その低知能ないし肉体的奇形によっても人々の興の種となるのであり、そのために権利や責任からは自由にされ、全くのアウトローでありながら、一方で、自分の属している社会グループの愛顧に完全に依存して生きるという逆説的な状態に置かれることになるのである。」”(「」内、The Fool, p.55.)(ウィリアム・ウィルフォード 1983、p.41 - p.42)
また、王国という秩序における宮廷道化としてのフール(ジェスター)の役割についてこうも語っている。
“王国の創建に当っては、必ずしも「悪」だからというのではなく、ともかく中心の効力の及ぶ限界点に境界線を引かねばならなかったがゆえに、王国の全てではないにしても、多くのものが排除されねばならなかった。例えば、王国内の秩序ある生活を可能にしようと思うと、人間行為の多くを排除すべく法令が出される必要があった。王国は、統治下に置け、かつ攻撃に対して守ることができる領土をのみ取りこむことができるのだという軍事的な意味合いに於いても、これら境界線というものは自ずと画然としている。にも拘らず、王国は内部で自足というわけにはいかず、これらの境界線を守らねばならないし、他方では排除された土地土地との交易その他友好的な関係によって裨益されるということもある。しかし、古代のものの考え方だと、それらの土地は大なり小なり魔の住む場所である。王国の境界線の彼方には魔術的な場がなお生きているのである。 自分の臣民に、彼らの力の源は安定しており、そうした力の働きは一定していると保証する王の仕事は、曖昧・両義的である。世界のあり得べき姿とは合致しない事どもが、実際問題として起こる。故に王は中心の力と接触するばかりか、彼の境界線の彼方なる魔術的場にでたらめに散らばった、異常な出来事の源とも接触しなければならない。そうした源は滅ぼしてしまうか、同化してしまうことが不可能であるならば、それらとの適度な接触が最低限必要である。こうして、たとえば王や大臣たちは、大使、スパイ、旅行者あるいは予言者、占い師たちから情報を得ようとするのである。 王国は特定の魔術的力に対処しなければならないが、同時にそうした力が存在しているという一般的事実にもーそれらが現れて来る可能性、思考と想像力の中でそれらをたえず見越しておく必要にもー対処するのでなくてはならない。そうした力との制度化された繋がりを保証してくれるのが即ち、ジェスターとしてのフールである。魔除け、おとり、贖罪山羊として、ジェスターは象徴的かつ一般的な仕方で、それによって力と意味が解体していく全ての過程を体現し、それらを自分の中に集中してみせる。彼は、そうした過程が王国の内部に於いても効果を持ちうるという可能性を表現するのである。これは、王の権能や他の制度がその力と意味を失い、王国の境界線の彼方にある領域が再び脅威となるという可能性を、別の仕方で表現しているに過ぎないわけである。ジェスターはそういう脅威の可能性を想像力の前にさらすことによって、遊戯三昧の裡にその脅威を減らしてしまう。彼はまた全体性の原理を体現し、王国と王国が排除したものの分離以前の原初的な状態を適当な形式で回復してみせることで、この脅威に抗いもするのである。”(ウィリアム・ウィルフォード 1983、p.225 - p.226) ウィリアム・ウィルフォード『道化と笏杖』(1983)高山宏訳、株式会社晶文社。
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Annaを探す方法、 あるいはアンラーニングのための工事現場 第3章 Anna、 旅のはじまり Anna、アンナ、 あなた は この なか で すこし だけ きまり から かいほう されて すこし の あいだ だけ こい を する と おもう この あな を でたら こい を した こと も こい を する まえ の その きもち も わすれて しまう かつて この なか で すごした であろう いま は この あたらしい ばしょで かたち を もつ あたらしい きまり と Anna いつか ここ を でた Anna は でも きっと うそ の ような ここ での こい の じかんを ほんの すこし だけ おぼえて いられる と おもう ここに あい の かたち は ない

1
この穴の中には決まりがない。
決まりがないという決まりがある。
穴は決まりと決まりの間を縁取る。
新しく生まれる決まりと
古くて消えていく、決まりの間を縁取り、繋ぐ。
新しい決まりが決まるとき、
決まりのもとは出口の穴を通ることになる。
単なるの決まりと単なる決まりの間の時間。
この穴を入るとき、決まりはばらばらになり、
形をもたず、意味をもたず、
ただ 存在する手前の、存在のもとにもどる。
もとは、位置を失い ときを忘れ
もとは、恋をする。
この穴の中にずっといるものはいない。
穴には穴が複数ある。
入るときの大きな穴と、出るときの小さな穴。
そしてこれがとても重要な事だが、
穴自体もいつか、かたちをきめて、役割をきめて、
この場所から出る夢をみている。
穴の縁が出たら、残った縁が次の穴になる。
穴には蓋があり、穴のなかには大きな場所がある。
大きな場所は蓋で閉ざされて、秘密をたもつ。
大きな場所に蓋がされていないとき、Annaはその場所に入ることができる。
いまその秘密の場所にいるAnnaは、恋をしている。
2
Anaは夢をみる。
シリンダーシールを転がして、新しい丘の風景をつくる。
スティックチャート地図の枝を束ねた花束をつくる。
要石がつくる、巨大迷路のような橋を渡って、
同じ時刻を使い始める前の、夜と昼が旅をする夢をみている。
3
Annaは恋をする。
クロードグラスの仄暗い楕円の瞳に。
物語を繋ぎページを彩るいくつもの階層をもつ空の星々である、
たくさんの句点の連なりに。
物語に散りばめられた 。 は、物語が寝静まる間だけ、
星座となって夜を彩り、Annnaの瞳を輝かせる。
星の向こうに抜けて出た先に待っているであろう、
いつか結ばれる相手、まだ見ぬ 。 にアンナは恋をしている。
4
ゆめ と こい
それ は きっかけ に すぎない
きまりきらない きまる まえ の きまり の きせき
きまぐれに かたち を かえて
きままに ゆくさき を さだめない
そういう とき を すごした あと の きせき の なごり の なまえ
たくさん の Anna が あたらしい かたち を もとめて は やってきて この Ana で すごす ふるい きまり が あたらしい きまり に へんしん する まえ の Ana と Annaの ひみつ の じかん きまり の ない あな の なか あな は あたらしくなり ゆめ を わすれて しまう きまり から かいほう された Ana と Anna は すこしだけ ゆめ を みて こい を する かつて この 穴 で すごした で あろう いま は かたち を もつ Anna と ana の 旅 の はなし
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Annaを探す方法、 あるいはアンラーニングのための工事現場
第2章ワークショップ:ヒントをもらう さてさて今日は、学びほぐしという言葉から考えていきましょう。ほぐすというからには、ほぐされるべきものがあり、なんらかの物質が絡み合った状態で修復を待っているはずです。ちなみにどこまでほぐせばよいのか、この言葉からはまだわからないのもポイントです。 では、みなさんの机の上に用意されたものを見てください。今日のワークショップでは、からまった毛糸を用意してみました。ーーーはい、そうです。見てもらうと分かる通り、それはもう見事に、どれもぐちゃぐちゃに絡まっていますねー。しかも、毛糸の色は単色ではなく、まだらに色が染めてあるタイプのものを用意しました!では早速ですが、まずは皆さんそれぞれで、ああでもない、こうでもないと絡み合った毛糸をほぐしてみましょう。 ーーー硬くなった箇所を広げながら、毛糸の端と端を探す。端が見つかったら今度は見失わないように、焦らず、踊りくるう絡まりを少しずつ一本の線に戻していく。 さっそく私の脳内には先ほど聞いたフレーズ、どこまでほぐせばよいのか、という疑問が立ち上る。毛糸はからまりがほぐされればアンラーニングの行為として完了するのか?ーーーもちろん答えは違うのだろう。 徐々にからまった毛糸はほぐされ、一本の毛糸に戻り、毛糸も、ほぐした人間も、所在なさげに次の展開を待つことになる。 絡まっていたときも、ほぐれたときも、どのみちまだら色で整頓された気持ちにならない…と、毛糸を見つめながら独りごちる。きっと、私が本当にほぐしてかからなければいけないものは、この毛糸そのものなのではないか…。とはいえ、このまだらを解消し、色ごとに集めれば済む話なのか?材料は同じ紡がれた羊毛である可能性が高い。その毛の本来の持ち主であった羊をたどり、ほぐすのか?羊をほぐす…?羊を食べるのか…?もしくは羊を家畜とする人間をほぐす…?その営みの歴史をほぐしに、どこにいけば目的にあったやり方で…輪の中に糸の先端……を逆走させられるのか……?? アンラーニングの先端であり末端、つまり私が辿る場所、私に宿るUNが必要な場所、UNを始めるスタート地点は、誰が定めたものだったのか?私の自由意志で吸収したと、原因を私だけに絞るのはここでは意味がない。では、宇宙で初めてできた物質達まで辿るべきか…?幼稚な発想なのはわかっている。しかしでも、でないと、そうでなければ、世界にはどんなに学びほぐしても形を変えず存在できる、UNがあてはまる原型と、UNと接続可能な本質(そんなものはない!誰だ!それを決めたのは!?いや、でも…わからない。)が存在することになってしまう……。 ーーーあの…、ここまでは、あっていますか?(机の上の毛糸を見せる) ーーーあ、はい。正解がないのがワークショップですよね。ええ、えぇ、知っています。 他の席にいる人も、まだ続きがあるように座って毛糸をいじっているから大丈夫なようだ。さて、ではどこまでほぐし、やりなおせばよいのだろう。 ーーーあの、すみません、この続きは、同じ材料を使いますか? ーーーあと、このワークショップは何時までですか? ーーーはい、ーーーはい、わかりました。ありがとうございます。(物質世界にすむ姿形をもつ私たちすべてを、宇宙の塵として同じ材��にするところまで還元する必要はなさそうだ。) では、どこまで?そして、これを納得いくまで(誰が?)ほぐしたあとはどうすればよいのか? ーーーわかっている。まだらな毛糸の他にもきっと良い例があるのだろう。 ひとまず次のワークショップ、リラーニングについて手をつけよう。 ……さぁ、次は積み木を触っていきましょう!リラーニングのための積み木です。人類が刻んできた事象が最小限のカテゴリーで分類され、分類に沿ってグラデーションの美しい色付けがされています。表面をよく見て下さい。美しく名称が刻印されている仕様が見て取れますね。これからお配りする仕様書にいくつかの学びの系統に沿って見本が載っていますので、ひとつ選んでもらってそれに沿って積み木を積んでいきましょう。…あ、みなさん、仕様書は重いですから、今からスタッフがひとつひとつ台車で机まで運んでいきます。ページをめくるときも、指を挟むことのないように、どうか気をつけてくださいね。 始めてもらう前に、ある程度の流れをお伝えしておきます。ここから先は時間のかかり方がまちまちになっていくと思います。…はい、今回重要なのは、まずは見本を探す時間です。そしてその後ーーーたとえ見本通りに作ったと思ってもーーーおそらく、ほぼ全員が、必ず見本と異なる結果になると思います。ーーーはい、それで大丈夫なんです。そして、出来上がったら少し休憩していろいろな箇所から眺めても良いですし、あるいは、早速崩していただいても構いません。 (数時間後) ガシャン。ガラ、ガラ。ゴロゴロゴロ…リラーニングのスタートに鳴り響く、けたたましい不協和音。(ーーーあ、大きな音が嫌いな方がいらっしゃいましたか?みなさんー、マットをお��ししますので、その方向に崩す形で行なってください。) さて、積み木を崩した方は、それぞれの積み木にマジックであなたの思う、新しい名前や内容を書き加えて、オリジナルの積み木を作っていきましょう。刻印の上に書いても構いません。さぁ、ここからは見本はありません!なにを作っても構いません。ただ、必ず先ほど作った積み木の形状や、目に入っていた他の積み木の形状が影響するはずです。大丈夫。まずは作ってみましょう。ただし、どんな形で積み上がっていくか、全体像をようく意識しながら積んでいってみてください。最後にもう一度、仕様書を使います。 ここで新しい視点が導入される。それは、そもそも今日配られた積み木のパーツを作ったのがいつで、誰なのか、ということである。世界を分類し名指し、形を決定し色を選定した工程と立場を意識せずにリラーニングは行えないし、この過程を飛ばすことで、アンラーニングの裏側にいつも待機中のキャンセルカルチャーが、全てのことをなかったことにしようと、虎視眈々とチャンスを窺っている(積み木が隠される!知らない間に燃やされる!)。 そしてもっとも重要なのは、アンラーニングを行なっている自分の存在、いまマジックで新しく名前を書き記す、世界を新しく分類し名指す自分の存在を意識することだ。この瞬間、私は初めてラーニング、アンラーニング、リラーニングの螺旋構造に組み込まれることになる。 アンラーニングが学んだことを完全に忘れて、また学ぶだけの行為ならば、本人は認識することができない行為となる。であるならば、アンラーニングには、必ず先ににラーニングされたものの痕跡と、痕跡とアンラーニングの境目、あるいは接点が存在するはずなのだ。パッチワークのようなものだろうか。あるいは、コーティングのようなものだろうか。今作った、刻印の上からマジックで書き直すような不恰好なものなのだろうか。いずれにせよ、行為が重なり連なっていることがわかる状態でなければ、アンラーニングは認識され、記憶されることはない。 おそらく、学んでしまったことを残しながらアンラーニングし、リラーニングの機会にも、また工事のためのトラフィックバリア、もしくは絆創膏が必要になってくるのだろう。
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Annaを探す方法、 あるいはアンラーニングのための工事現場
第1章 修復箇所に絆創膏を とるにたらない、けれども、やらなければならない、ある修復について。 まず、その修復を、絆創膏を貼る行為から始めてみる。これは、ここから先は修復箇所ですよ、という印だ。傷の表面を覆う道具としての絆創膏を、ここでは傷の入口を示す道具として使う。同時に、「すいません、この先に傷がありますよ」というメッセージの役割も果たす。この時点で、絆創膏の、このいかにも表層的な扱いを、一度マスクの中で笑ってもいいだろう。ともかく、そうやって自分の修復箇所に印をつけたら、次は目撃者を探す。これは、目撃者がいないと成立しないタイプのパフォーマンスだ。

2018年の春から1年間、アメリカとイギリスの10都市を、移動しながら過ごす機会を得た私は、その時点で自国を短期間しか出た経験がなかった。そのため、ーーーむしろ計画通りではあったがーーー滞在をスタートさせた当初から、イメージとしては立体物として脳内空間にあったはずの知識体系が、重力に負けたかのようにバラバラと解体され、底(があるのなら)に落下し、そのぶんあいた空間には、日々新しい情報が無秩序に吸収され、それが彷徨いながら浮いているといったような、混沌とした状態となった。要するに、カルチャーショックによる積極的アイデンティティクライシスを起こしたのだった。
そしてある日突然、道端を仕切る、ある柵と出会うこととなる。


この柵が、街のなかに仮の境界を作っていること、また、街中を仕切りつつも、中に空洞の内部空間を持っていることで、境界に領域を作っていることに、私はすぐに興味を惹かれた。その存在自体や造形性が、今までの私の好みからかけ離れていたことも、むしろ惹きつけられる理由となった。

道で見つけるたびに写真を撮り、インスタグラムで投稿をした。同時進行でいろいろと調べていくと、それは公道、主に、工事現場周辺に置かれていることが多く、通称トラフィックバリアと呼ばれること、また行く先々のほとんどの街で出会うような、一般的なものであるということがわかっていった。 上部の穴と、側面下部の小さな穴(多くて2個)は、おそらく重みをもたせるために、中に水を入れ、そして排水するためについている。しかしいくつかの連結で転倒の恐れはほぼなくなるのか、人為的に水を入れているものをほとんど見かけることはない。また上部の穴は蓋が備わっているようだが、そもそも現場の人間に、穴に蓋をする気がない人が多いのか、あるいは長年の使用で蓋が破損したのか、蓋がない場合や、蓋の代わりになるもので覆われている場合も多く見かけた。蓋のないものは雨水が侵入し、また通行人によって様々なゴミを投げ込まれた状態のものも少なくない。



日々を過ごすにつれ、新しいトラフィックバリアに出会う中で、いつしか私は、内部にある領域を、自分のアンラーニングのための空間として捉えるようになっていった。知識体系がバラバラになった私は、いたるところで修復工事を行う街そのものにも例えられた。それは知り得たことで変わっていく自分と、まだ変わっていない自分との境目を絶えず意識する日々。または、知ったからとて変わることのないこともあれば、知っただけでそれ以前の自分には決して戻れないと思うことの境目を考える日々だ。私という存在の一部が工事中のとき、柵の中では一体何が行われるのか。それは、工事が終わるまでに、修復される側の自分と、とりあえずは修復されない側の自分とを、地ならしし繋ぐ方法を、なんとか探し出し、身につける方法の模索に他ならない。
どうして自国では気づけなかったのだろう? 知る機会はいくらでもあったはずなのに。 変わる必要がある。ーーーいまできる範囲で。 でも、どうやって?? 新しい自分と変わらない自分とが幾重にも接続された結果、その接続部分、かつてトラフィックバリアで仕切られていた領域で生まれた継ぎ目は、必要なだけの効果を生んだだろうか。古くてバラバラになったものと、新しく取り入れたものが、トラフィックバリアが外されたあと、合併症を起こすことなく、お互いが最低限快適に過ごすための折り合いをつけられただろうか。
トラフィックバリアとの出会いから数年が経つ。他国でも、日本でもしばしば同様のものを発見したり、また映画やネット空間で発見することもある。そしてパンデミックにおける、隔離空間とそうでない空間の間に置かれたトラフィックバリア、クーデターの現場に置かれた大量のトラフィックバリア。さまざまな場面で見かけるたびに、自分の修復箇所を思い起こし、そしてさらにそれらが階層化し、交差していくようにも感じる。私は、再びトラフィックバリアの穴の中を覗き、アンラーニングする箇所の自分と、そうでない自分とが行ったやりとりを再考するために、今度はその入り口に絆創膏を貼り、新しいスタートをきることにした。 アンラーニングは意識的にしか起こせない。なぜなら、それはいつでもただのラーニングになり得るからだ。アンラーニング。それは自らにある種の印をつけなければ行えない行為だ。絆創膏を選んだのは、その箇所を忘れないようにするためである。自らに目撃させることで、忘却させない工夫がぜひとも必要だ。そしてこのテキストシリーズを書くのは、自分は絆創膏をはるべき存在だという表明と、それをはがす決意と、決行する瞬間に改めて沸き起こる羞恥心と罪悪感を晒し、記録するためだ。アンラーニングをするべきことが自分の内部に宿っていると自覚することは、恥ずかしく、苦々しいことだ。だから剥がした絆創膏の不潔な形相に、蓋がされていないトラフィックバリアの穴の中に溜まった雨水や放り込まれたゴミを思い出し、なんてお似合いな組み合わせだろうと思っている。
アンラーニング。日本語訳、「学びほぐし」、あるいは「学習棄却」。 ここではそれを会得しようと試行錯誤を繰り返し、考え、先に進まなければという焦燥感について記していく。本来私は、目撃者がいないと成立しないタイプの立場表明に慎重になるし、どちらかというと否定的なタイプの人間だ。しかし、アンラーニングにおける考察作業は、ラーニングではないのだということを定着させるためにも、目撃者ないし、聞き手や話し相手がいた方が良いタイプの行為だと考える。だから、本当に申し訳ないのだが、少しの間だけ一緒にいてほしい。
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穴を塞ぐ方法、あるいはその最終回にありうる一時的な結果と問いー6/6
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一年が巡る手前でこのシリーズに一旦の蓋をする。 最終回らしい振る舞いとして、扱った「穴」という存在をこの枠組みから解き放ち、新しい軌道にのせるため、「穴」と「穴でない状態」の境界面について考えることにしよう。
穴という存在の、世界との接点の捉え方。 ・穴の縁 例えば地面の 地となる面から 穴に向かう縁の稜線をぐるっとまわる その場所 ・穴の内側の空間と 外の空間の 隣り合う領域同士の 目に見えない境目
( 言語は私の世界を規定しない。
言語とは、私と世界を媒介するための、物質的なあるひとつの存在であり、技術であり、手段である。 新しい言語は世界との新しい関わり方を教えて(は)くれる。 しかし同時に、私の語彙には縁取れなかったあの瞬間の感情は、その抽象的な領域を今でもごうごうと燃やし続けている。 語りきるということもまた越境の一つの形なのか。 その恐ろしく魅惑的な可能性について。それは言語が私(という存在)を越える経験ともいえる。つまり、私の自我が言語に乗り移り「私」はその瞬間、ある種の消滅状態にいるのだろうか。私を切り刻み、作品に分裂させていくようなイメージだろうか。【1】
言語を介さない、ある領域で可能な「満たす」という経験はどう果たされるべきか。事実、作品を作っている瞬間の連続において私は「言葉を介していない」。メディウムを介して かつ 私を超えるとは その経験はどこに定着するのか。
読書という行為が思い出される。「引き込まれる」という経験について。身体の、引き込まれているという状態において、果たして「何が」紙面に引き込まれていっているのか。 網膜か?それとも認識か? あるいはいっそ本という空間に向かって身体が引きずり込まれているのか?そしてその際の、文字を捕らえに向かったはずの行為が、逆に捕らえらえるという状態はどの場所で起こるのか? その逆転現象はいったい「どの」地点で起きるのか。 文字を狩りに行く(狩られにいく)。【2】 )
【1】それぞれのメディウム手段に私を託すという判断に 循環や代謝は可能だろうか。エネルギーを排出させる場所がなければ。 【2】やはりここでもスナーク狩りを思い出すことにする。白紙の地図を頼りに狩りに向かうとき、ブーシャムがハンターを消滅させるその原理とは?
問1 旅の終わりはいつ訪れるのか。
問2 新しい歯車を組み込んだ身体機関は動作を確かめられるのか。
結論
1 視触覚的な経験が更新し続ける世界の風景の旅��ついて。 見たものの凸凹(おうとつ)を、目玉と皮膚はキャッチする。具体性を増した世界の凹凸が、私をこれからも混乱させ続けるだろう。例えば絵画の、絵の具の盛り上がり、筆の走った後、キャンバスの息遣い、額縁の色あせたさま。 すべての芸術作品のもつ凹凸。 あらゆる物質的存在がもつ凹凸。 目玉と肌の凹凸。 特筆すべきなのは足の裏なのかもしれない。 終わりを迎えない仕組みを持った幾つかの要素。
2 これからは靴に肩代わりをさせている、世界との接点についても考えていこう。(耳もまた然り。) それから、本来その役目を担うはずの肌は、ほとんどの面積が布で覆われており、ゆえにそのバランスについても考えていこう。 手のひらと、指先、眼球だけに意識を優先しないようにするにはいっそ裸になるしかないのか? 私の腹は 背は はたまた 内腿は この肌の中の繊維は 管の流れは 今日感じた陽の光を 風を どう感じられるのか!
3 構造体としての思考のかたち。 刻印される思考のかたち。 縒り、編まれる思考のかたち。 絡ませて存在する思考のかたち。 ノートをめくると同時に、地層が剥がれて空にせり上がる音を想像する。 かたちだらけのこの世界における かたちのないものにも触れていきたい。
空と、地面のことだけではなくなったときのめまいと気づき。 人の営みが直接人に向かうことについて 私は前より少し考え始めている。穴は開けられた状態で発見され、その状態のただそのままをあらゆる方法で見せつけてくるだけだなのかもしれない。穴における境界。それは塞がれるのを待っているようで、完全に閉じられることのないある循環を必要とする空間だと今はイメージしている。

最後にこの、 塞いでいるとも塞いでいないともいえない この、 Traffic Barrierの穴で一旦の最終回とする。 これをひとつの「穴」と「穴でない状態」の境界面としたとき、この連載はいっそうポジティブになれよう。 ここには穴の中への誘いがはっきりと示される。 どうだろう。状態をただ名詞的に示すのではなく、動詞としての あるいは行為としての穴を解き放ってみよう。 そうして私は、行為としての境界がこれからポジティブに機能していくよう尽くそうと思う。
2019.12.31 Yasuko WATANABE
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穴を塞ぐ方法、あるいはそのバリエーションと結果ー5/6 ( 回想 3. 詩 )
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一つの作品の回想をしたい。
去年の7月、ブルックリン美術館にて開催された「Radical Women: Latin American Art, 1960–1985」というグループ展で観た、Poema ( Poem )という6枚組の写真作品について。ブラジル人女性、Lenora de Barros (b.1953~) によって1979年に作られた作品である。 (ネットでみれる作品画像はこちらから)。 Lenora de Barrosは言語学出身のヴィジュアル・ポエトリーの実践者として知られており、 Poema ( Poem )と題されたこの作品は、その初期の作品である。



同サイズの組み作品は、一見すると動作の連続性を思わせるが、確実な一筋の繋がりはみえず、彼女のメッセージは観客に積極的に委ねられている。ときにアーティストが選択する突飛な行動は、あえて社会的規範からはずれながら、笑いを誘いつつ本来の意図の過���さを一旦オブラートに包んでおくことがある。彼女の場合もその例に漏れず、「ほら、口紅をつける年頃の女がこんなふうにタイプライターを舐めちゃうよ」といわんばかりの口角の上げようでそれをやってのけ、そしてその裏に世の中への挑発と挑戦を潜ませている。いくつか彼女の意図と思えるようなことについて (作品の情報が少なく、多くは推測の域を出ないのだが)、そしてそこから連想する、何か新しいものが生まれる領域の、その確保の仕方について記録しておきたい。
観客はまず彼女の舌が二つの領域、 ⑴タイプする部分の、今でいうキーボード部分の文字と、 ⑵それを用紙に刻印するための活字部分、その両方にアクセスしていることに気付く。 なぜどちらかだけでなく、その両方だったのか。 そしてなぜこれがpoemと題される作品なのか。 そのあたりがこの作品を紐解くポイントであろう。
6枚の写真の一番上と一番下の写真は、一番上は舌が、そして一番下はタイプライターのキーが複数印字箇所に向かって集まっている状態が撮影されている。タイプライターは日本語圏にはあまり馴染みのない機械だが、今でいうキーボード部分の特定のキーを叩くと、それに対応した、先端に活字がついたアームと呼ばれる細長いパーツが中央に向かって動き、用紙の手前にあるインクリボンを通して紙に文字を印字するというものである。通常はもちろん1キーずつ印字するため、最下部の写真のようにたくさんのアームが集められた状態を作るには、わざわざ複数のキーを押す必要がある(よってこの写真のアームの動作は印字を目的としていない)。このタイプのタイプライターの動作としては、アームは印字するべき中央の一点に向かっていくので、複数集まるとこのような形状の集合体になるようだ。彼女はこのアームの集合体のゆるやかな三角形の形態と、自身の舌を、線対称に反転させて類似性を見出している。確かによくよく舌を見ると、束ねられたアームの連想にふさわしく、たくさんの突起物が表面に見て取れる。 またブラジルの公用語であるポルトガル語の舌を意味する línguaは(英語の tongueも)、ラテン語の「言語」という言葉を起源に持つ。よってその意味では彼女はタイプライターを機能させずともすでに舌に言語を有していることになる。ということは、にもかかわらず彼女は彼女の舌=言葉自体を直接タイプライターに接触させる必要があった。 さらにモノクロ写真を採用することによって、唇が縁取る肉感のある舌は、各アルファベットの白いキー部分が同じように黒く縁取られるさまと類似し、ここにだって言語はあるのだと強調する。舌は指先の代わりにキータッチをしようとし、活字部分に触れることで印字機能にもなんらかの影響をもたらそうとしているかのようだ。子どものイタズラともいえるようなそれらの行為は、タイプライターのもつ機能や活動をまるで妨害するかのように、言葉や文章が用紙に印字される過程にできるだけ割り込もうとしている。 そうやって彼女は舌とタイプライターの類似性を細かく見出しながら、機械の仕組みの中に自身の舌を割り込ませ、まるで存在の置き換えを試みるかのように、新しいシステムの書き換えを行なっていく。その様子は、おそらく社会にすでに出来上がっている(とされる)言語を生産する社会システムへの介入を目的にしている。
では舌を介して行うメッセージとはなにか。舌を介入したからといって、本人の発する言葉以上のものが宿る可能性はどこかにあるのだろうか。言葉とは、詩とは、結局どこに宿るものなのだろうか。
私は詩には明るくないのだが、彼女の作品が思い出させてくれるのは、ときに詩は論理的な理解によってのみ成立するわけではないということ、論理性を超えた理解の飛躍が起こりえるということである。 文章では記述できない、心に発生する「なにか」は、確実に詩 (的) なるものに向かい、そこに存在を発揮できる。そしてそういった詩 (的) なるものに確保された「なにか」のありようは、一見人とは共有できないかと思いきや、実はそういったものも強固に共有できる存在だということを、詩 (的) なるものはよくよく思い出させてくれる。またたくさんの国のたくさんの時代の節目、革命と呼ばれるようなものに詩が寄り添ってきたという事実について。それはおそらく従来の社会の理論やシステムが限界を迎え、無形の、まさにそのときに生まれつつある新しい理論やシステムが展開されるその前後・瞬間に、その革命を求める人々の「なにか」を表現するのは文章ではなく詩の方が得意だからなのではないかと、そう思っている。
彼女が自分の訴えを伝えるために、ただタイプライターを使うだけでは叶わない思ったのはなぜか。それはタイプライターで刻印された言語には自分の言葉は宿らない、もしくは十分でないと判断したに他ならない。そして逆にいうと接触するということ、あるいはその接触面におけるなんらかの作用に意義や可能性を見出しているということになる。
社会システムの大部分が男性によって作られてきたわけだが、彼女はタイプライターに直に介入することで、自分がそのシステムの生産過程に十分に含まれていないということを訴えているのだろう。発売当時は言語にまつわる新しい道具として生まれたタイプライターだが、彼女がこの作品を作った1979年にはすでに当たり前のものとなっている。とすると、彼女は彼女にとっての現在というよりむしろ、かつての知識に向けての更新としてもこの作品を作ったのかもしれない。歴史は未来から過去へ地殻変動を起こし、語られてこなかったものが掘り起こされうる。知識はそれによって良い方向にも更新されうるし、書き換える希望はそこにある。
悪戯げに口角をあげる彼女の口元の表情に戻りたい。その挑発的な態度を通した彼女の企みは、その勢いに反し、たった一台の小さなタイプライターに込めるにはあまりに大きな企てだ。せっかく触れた活字部分に託したものも果たしてインクリボンを通過できるかわからない。けれども美術作品とは不思議なもので、たった1つの作品空間内に世界の全てを内包することがあり、まるでそこで起きている現象が鑑賞している己を通して現実世界を変えてしまうようなことが起こることがある。少なくとも私にはこの物言わぬ静かなモノクロ写真から大音量の彼女の詩が響き、1979年から2018年に、そしていま2019年のこのテキストまで届いている。
彼女にとっての詩というものが写真というメディアを選んで表現されるその理由について、ネット上で観れる彼女の作品をみていくと、いくつかの作品からその特徴をみることができる。彼女にとっての言語活動とは、おそらく容易に届け入れられることはないだろうということを前提に展開されている。彼女の作品のなかに、音の反響しやすい空間の中で、SILENCEと一字ずつ印刷された紙を壁に釘で打ち付けるパフォーマンスがあるが、結果としての沈黙の存在の、過程に潜む大音響に人々は耳をすます。
社会におけるある仕組みだけを抽出し、その前提を問うだけのコンセプチュアルアートは、しばしばその瞬間のある立場におけるあるコンテクスト(だけ)が尊重されるあまり、物質としての貧しさに陥ることがあるが、彼女の場合は機械と身体の物理的接触とその抵抗感を写真を通して示すことでそれを回避している。さらにそれとは別に、ユーモアについても強調しておきたい。実際に見たことがある作品が1点のみという段階で判断するのは時期尚早ではあるが、見る限り、おそらく彼女自身の身体を用いながらシニカルに寄り過ぎない空気を作ることで、表現の貧しさを回避しているように思う。世の中の負の側面…あまりに個人という単位は小さいということ…うまくいかないこと…すぐには解決しそうにはない有形無形の諸問題…抗えない身体の老い…理想と完成の限界…などなど…。数々の世界の深刻さに対し、真剣かつ実直に扱うあまり、反転して人間の滑稽さが表にでる場合がある。その滑稽さは笑いを導き、人々の肩の力を抜き、真実をユーモアで中和する。
紡がれて活字になった言葉だけが事実ではない。たくさんの地殻変動で記述は変わり、記憶も認識も更新されていく。歴史に刻まれた活字だけを重んじても、また軽んじてもいけない。世界が偏っているからといって、沈んだ気持ちで生きる必要はないし、またフタをして見て見ぬ振りをしているだけでもいけない。
いま、西洋の白人中心社会が、ひとつのムーブメントとしてマイノリティーに目を向けてマーケットを開拓している真っ最中だ。女性、LGBTQ、ラテンアメリカ etc…。この一年だけでもむせかえるほどの量のマイノリティーの表現を観た。観ることができた。この作品が展示された展覧会、それを構成するにあたって中心となったハマー美術館のあるロサンゼルスは、去年の2018年、世界で初めて一年間の美術館における展覧会での出品男女比で女性が上回ったそうだ。記事
片方ではその希望と可能性が語られ、片方ではそれを白人(男性)中心社会が単にマーケットに必要とする、ひと時の・循環としてのムーブメントとして選んだだけのトピックでしかないと語られ、どちらの意見も真っ当に、各立場から正しい立ち振る舞いでもって存在している。真実はわからない。というよりむしろ、現代はすでにひとつだけの真実などないという状態こそを思考せよと求めている。光の当たっていなかった場所に焦点が当てられることで出会えることがあるのなら、私も彼女のように口角をあげ、未知の理論に笑いを含ませていきたい。
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穴を塞ぐ方法、あるいはそのバリエーションと結果ー4/6( 回想2. 橋 )
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いつかの真新しい橋の記憶と、かつて渡ったことのある橋の記憶、もしくは記憶には残らなかったけど渡ったであろう無数の橋の回想。
境界というものが、その両側(仮にAとBとする) にあるものの中間にある、グラデーション的なものだとすれば、AでもBでもなく、AでもありBでもあるといえる。そういった場所に即して物事を考えるには、どちらでもありどちらでもないという、ある種曖昧なスケールに属する必要があ���。それを、AからBもしくはBからAに移行する「状態」として捉えるか、AとBの間に存在している「場所」として捉えるか。どちらも間違っていないが、今ままでもこれからも動詞的に考えていきたいと思っている。
自分の定規の世界から橋を渡り、新しい定規とともに生活することになったことを自覚したいくつかの出来事。実は言語よりも理解し難いと思ったのは、数字に置き換えられる物事、気温、距離、重さだ。頭が数を理解しても、身体はそれをなかなか変換しない。(その意味で時差だけは身体がほぼ正確に睡魔を訴える。) あるいは、自分とは異なる道理で生きる相手に会ったときの静かな驚きの数々。「話せばわかる」という言葉はつくづく危険な言葉だ。特にその「わかる」という言葉。話せばわかるから話すのではない。結局話してもわからないことの方が多い。そして、知るということは、同化したり、混じる合うこととは少し違う。わかるという意味と、受け入れるという意味も違う。「それがそこにある」ということを少しでも理解するためだけに、話しても受け入れられるかわからないが、話さないことには目の前の隣人は圧倒的他者のままであるからこそ、言語が仲介するしかない瞬間が人と人との間には存在するということ。
数字(例えば定規。例えば分銅。)も言語も、異なるスケールを持つもの同士の間に立って辞書のように世界を翻訳しているが、異なるスケールがあるということを知れば知るほど、翻訳されている世界しか存在していないということを認識し、オリジナルの真なる世界は遠のいていく。 というよりも、オリジナルの真なる世界などはない。そんなものはないという確信を強めていくだけだ。どうしても橋をかける側と橋をかけられる側があるが、負の側面だけではない。個人同士のコミュニケーションがかけあう橋を信じたい。なにより橋を架けてもらうのを待つよりも、こちらから架けて渡っていくことの方が何倍も楽しい。
5/6へ
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穴を塞ぐ方法、あるいはそのバリエーションと結果ー3/6( 回想1. じかん )
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移動とはなにか。
1年のあいだで日本を含めて5つのタイムゾーンを経験した。 移動せずとも室内で空想することが可能とする創造世界やその拡張作用に重きをおいてきた私にとって、この経験を上乗せすることで何らかの意識の変化や発見があるだろうと踏んでいたが、果たしてどうだったろう。 135年前、1884年のワシントンDCでの国際子午線会議においてグリニッジ標準時は制定された。そこで地球を360度、15度ずつに区分けし、私たちは経度とタイムゾーンを正式に手に入れる。つまりこの制定には地図や地球儀に引かれた線の話、縦線(経度)と横線(緯度)の話がかかわっている。横線はすでに星の位置を測ることで導いていたが、縦線については長い間正確に引くことができず、各国がその発明のために天文台を設置し研究を続けていた。発見者には懸賞金をと法を制定するまでに発展していたその研究開発の決着は、荒波や湿度変化にもぶれない正確な時計を開発するという手段をとった、イギリスの時計職人ジョン・ハリソンによるクロノメーター、H4の1761年の完成によって迎えられた。海をはさんでそれぞれがばらばらに時を刻んでいた世界の終わりの始まりを意味する。
人間はだいたいの知覚できるものは識別したく、定規をあてたがる性分であると思っているが、少なくとも私は空という空間ではそれが叶わない。パイロットはどのように空に定規をあてているのだろうか。宇宙飛行士にも、はたまたパイロットにもならなかった私は、空の旅の間出発地と目的地にそれぞれ設定された時刻から逃れた場所で、文字通り地に足をつけず、規定面を持たない領域に身を置くことになる。15度ずつに刻まれたそのタイムゾーンの切り替わりとやらを身体が知覚することはなく、着陸後現地の電波をキャッチした携帯があっさりと時刻を変更するさまを着陸の安心感と虚脱感の中で眺める。 いつでもどこでも、たくさんの、定まらない、定まりから、目盛りからはみ出し、そこから逃れた領域が存在する。五線譜のなかからも音符からもはみ出した音、日付変更線の線の上のどこの日付からもはみ出した場所。もしくは西海岸の浜辺で見る水平線に沈む夕日、沈んでいくように見えるその太陽は、その瞬間まさに日本の昼間の街を照らしている。それは昼とも夜とも呼べない、連なりとしての移行の連続だ。 あるいは言葉。この一年の間、嬉しいことも悲しいことも、gladやsadで本当に言い表せているのかわからなかった。むしろ、gladとsadに当てはめられたあのときの感情は、今まで感じたことのある嬉しいことや悲しいことの経験には収まらず、ごく近しい距離にありながらも別の領域へ収まっているように思う。今まで自分が当たり前に使っていた目盛りがにじむとき、私のいた世界は、その大きさ広げたことになるのか、もしくは私のいる世界は何も変わらず、ただ私のいる世界と別に存在する世界を知ることになるのか。 今いる場所を確認したいという気持ちは、つまり相対的な位置関係を知ろうとすることだと思う。相対的に判断できるようになるためには、もともと持っていた定規で自分と自分以外の場所を測るだけでなく、相手の定規で自分を測るか測ってもらうか、あるいは双方同じ定規を使うことが必要になる。 H4の完成後のイギリスは蒸気機関の開発が進み、綿花産業、鉄道開通と産業革命を進めていった。それまで地方によって若干の誤差があった時間は、鉄道開通により時刻表を共有する必要性が生まれ、1884年の標準時制定より先に同じ時間(鉄道時間Railway time)を使用し始める。離れた場所同士で同じ時計を使う。フレーズだけ聞くとロマンチックだが、時間にまつわる歴史の流れも辿っていくと当然さまざまな力関係や血なまぐさい歴史をもつ(当然ながらパイオニア精神は純粋な冒険心だけでは成り立っていない)。そして1904年には飛行機が空を飛ぶことになり、人類はますます遠い場所へ短時間で行くことができるようになる。今も地面以外の場所、深海やら宇宙やら方々へ大忙しだ。辿り終わらない歴史の光も闇も、その事実や大義を常に変化させながら、過去は現在とともに未来へ、地殻変動を起こしながら新しく層を重ねていく。人は技術や道具を持たない限り己の身体を使う。というよりもむしろ技術や道具はすでにあまりに自然に己の機能を拡張しているため、容易に身体という言葉を使用することが憚れる。まずは素朴に歩き、荷物を担ぐことですら裸足では叶わない。となると削れていく靴底をまずは記憶に留めるべきか、少しだけ発達した土踏まずを称えるべきか。
もうすぐ帰国だ。最後のタイムゾーンを越えた後、時差ぼけの中で一年間保管してあったクロスバイクのメンテナンスをすることになる。私の行動範囲をもっともシンプルに拡張するそのペダルを漕ぐイメージ���、少しだけするようになってきた。 時差が大きな移動ほど、出発地点から切り離されたかのように地球の大きさを感じ、近ければその連なりを感じたし、以前の自分がその空想のベースとしていた「いま」「ここ」という言葉の意味は随分と解��された気がする。 新しい土地にたどり着き、場所と自分のよそよそしさを解消するための工程を何度も繰り返すことで、身体全体が馴染んでいく過程を漠然とだが何度も自覚したので、そのきっかけさえ掴めば身体は思ったより重力に抑え付けられていないということを知った。それらの発見や変化に答えを当てはめていくのではなく、いまはただ回想を重ねるのみに留めたい。

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穴を塞ぐ方法、あるいはそのバリエーションと結果ー2/6(対象、条件、実例)
1/6はこちら 実例、インスタでの投稿はこちらから
1. 対象
Traffic Barrier 後日インターネットで検索し、この柵が一般的にTraffic Barrierと呼ばれていることを知る。 持ち運びのための重さや形態が考慮されているのだろうか、おそらく1人の人間が持ち運べる直方体を基本とした形態のものがたいていはユニットになって置かれている。(単体で置かれるもの、また小さなものや長いものも存在する。)そしてその上面には必ず穴が開いており、蓋がされていない場合、中の空洞を見てとれる。穴の形や大きさはメーカーによって異なるようだが、異なる形態の本体に対し、同じ穴のデザインをみることもある。上面に穴があるため中に水が溜まっている場合もあるが、雨の日や雨の日以降に水を含んでいるものを見たことがないので、おそらく人為的に水を溜めることはほとんどないようだ。むしろ空いた穴は道すがらの人々の格好のゴミ箱となる場合が多い。穴を塞ぐための蓋も様々な状態のものがあり、また必ず蓋をしなければ現場で使えないというわけではないようである。時には反射板など追加で付けられるなどカスタムされているものを見るが、設置における諸条件、条例などは今の所確認できていない。
2. 条件
(場所) NY・Boston・Philadelphia・Washington,D.C・London・Manchester・San Francisco・Los Angeles
(時) 2018年5月から現在まで
3. 実例
(穴) 2月22日現在 11種 (蓋) 2月22日現在 10種 (蓋の代わり) 2月22日現在 10種 (アクリル板、木材、ビニールシート、発泡剤、代用蓋 等)
(使用方法)
・建物工事のため歩道が狭まったことにより、車道と歩行者を分かつために置かれる場合 ・工事現場を囲う場合 ・道端の工事のため車幅が変った際の車線の変わり ・その他(放置、または目的がはっきりしない場合)
(穴の状態)
・しっかりと蓋がされ、中が見えない ・同じ群でも蓋がされている箇所とされていない箇所がある場合もある ・蓋がなく、代用品で蓋がされている(その後また穴が空いている場合も多い) ・蓋がされておらず、ゴミが蓋のかわりになっている ・蓋がされておらず、中にゴミや水が溜まっている ・蓋がされておらず、中の空の状態がみえる
(連結・カスタム)
・Traffic Barrier同士を連結 ・Traffic Barrierの上にさらに柵などを連結 (穴を使用する場合としない場合とがある) ・Traffic Barrierとそれ以外のものと連結する場合 ・連結しないがある間隔をおいて配置される場合 ・単品使用

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穴を塞ぐ方法、あるいはそのバリエーションと結果ー1/6(地図と前提)
日本を出発して以来、なぜだか道端の工事現場などにある柵���ようなものが目に留まるようになった。

初めて”それ”を認識をしたのは約9ヶ月前、5月初旬のブルックリンのこと。
工事現場と歩道を分けるために置かれたそれは、上面に開いた穴状の”なにか”を様々な材料を駆使し塞いでいた。いや、塞ごうとしていた、といったほうが正確だろう、塞いでいたものにはさらに改めて穴が開いており、バリエーションをもって中の空洞を前景化させていた。 その後それを見つけるたびに撮影し、以来、上記のタイトルをつけインスタグラムに投稿していくこととなるのだが、初めての発見から今に至るまである程度の出会いと考察が溜まったこともあり、(帰国までのあと1ヶ月弱でおそらくまだもう少し見つけることになるであろうが)ここで一度ログをまとめて作成しておく。(最初の投稿はこちら・全投稿一覧はこちら)
地図
まずひとつ出ている結論として、私はこのようなタイトルに対して、文字通りの意味だけで穴を塞ぐ方法を見たかったわけでも、そのバリエーションと結果を見たかったわけでもなかった。むしろ蓋をした瞬間に閉じられたその中の空間が、穴と蓋という存在によって自明になるその様そのものを見たかったのであり、それが仮置きの、さらにある空間とある空間を分かつ境界のような存在において提示されていることこそに惹かれたのだった。
おそらく私はその柵のようなものの写真を撮り続ける中で、私を含めた作家や作品、創作物がもつ力が社会にあけるある種の穴を再認識し、さらに言語をもとに生み出されたコンテクストがそれを再定着させる(塞ぐ)ことで、起こった出来事を自明のものにする方法について考えるきっかけを無意識的に拾っていこうとしていたのだと思う。(もう少し言いかえるのであれば、作家のアイデアが開ける穴と、いまこの時代を記述するための蓋を探す方法ともいえるかもしれない。)そしてその際の穴の中の空間における可能性を考えていきたい。
すべての眼差しは見たもの・見えるものを、できるだけ見たまま・見えるままに捉えようとすることから始まるが、私たちはそこから得たものーーーその捉えたもののもつ物理的な仕組みや構造、あるいはその振る舞いやありさまーーーを、別のものに見立てることで、ある種の思考パターンに転用していくこともまた可能である。私はこの柵を通して境界にまつわる思考を発展させる手がかりを見出していくつもりだ。
前提
1,
ある種の「境界」という存在に関心を持ち始めて長い年月が経っているが、それは空間と空間を分かつものというより、ある空間と空間が移行する界隈としての境界への興味だ。例えば英語のborderとbaundlyがまさに使い分けられているが、私はどちらかというとborderに興味がある。 どちらかに属するのではない、その中間領域の存在としてのborderの存在の可能性について。
見ている山のあの向こう側の見えない裏側、ページをめくった先のそのまた先のまだ見ぬ時空、すぐそばに住むまだ挨拶を交わしたことのない人の声・・・あらゆるところにborderが存在している。特別なことはなにもない、皮膚や他と区分する状態を持つものの当然の状態のありさまともいえる。
2,
全ての出来事をシンギュラリティと地球外生命の発見の前段階として考察することは可能だろうか。今年なのか、数年後かあるいはもっと先か、少なくとも私の世代の平均寿命内には確実にその2つがいずれかのタイミングで訪れ、今語られることはすべて大きく刷新せざるをえなくなるだろうというのが私の希望的立場である。そしてその日をただ待つのではなく、毎日をその前段階として過ごすにはどのようなウォーミングアップが可能なのかを考えたい。 アストロバイオロジーにおいてよく耳にするフレーズとして、地球外に生命を発見したときに初めて私たちは自分たちを含めた地球に存在するすべての生き物の存在を対象化できるというものがある。私たちは地球上の生き物同士でしか自分たちを比較したことがなく、異なる惑星間での生き物同士で比較をしたことがない。よって厳密にいうと何もわかっていないというのだ。 ではそれをシンギュラリティに当てはめるとしたらーーーそれが起こったとしたらーーー、私たちは初めて人類において自ら定義してきた知性というものを対象化できるようになるということなんだろうか。 いつかもし私たち人間の、人間らしさの定義をそっくりそのまま人工知能に移し替えることができるようになったとしたら、彼らの“洞窟壁画”はどこにどのように描かれ得るだろう。
3,
エイリアンや異形の存在としてのモンスターはヨーロッパでは中世時代から表象され、「自分とは異なるもの」「自分たちの道理とは異なるシステムをもつもの」として古くは主に権力者が自身の土地の民を統治しやすくするために利用していた存在であった。誰かにとって都合のよい「私たち」という集団を強固なものにするために、「悪いものは私たちの外(私たちが共有しているシステムや倫理の外)にありますよ」というときの「外」の役割を、長らくエイリアンやモンスターが引き受けていたわけだ。(“逆”に数あるSF内でどれほどのエイリアンやモンスターが地球を救ったことか)良くも悪くも人の想像力は、自分と自分以外、自分がいる場所と自分がいない・知らない場所との関係から逃れることはない。
Alienとはそもそも外国人、在留外国人という意味であった。 その意味を踏まえた上でSETI(地球外知的生命体探査)の周囲で使われるこのフレーズを考えてみるとしたらどうだろうか。 「Alienなんているはずない」「Alienを想定するだけ無駄だ」 最終的な結論ーーー地球外知的生命体がいるにせよいないにせよーーー現地球文明がコンタクトできるタイミングを持つかはともかくとして、この広大な宇宙のどこかにいないはずはないと思っているのだがーーー、それを想定し探すことをしなくなったときの人類を想像するほうが私は恐ろしい。(しかし同時に人類が長らく発揮してきたフロンティア精神のもたらす争いや暴力性に目をつぶることもできない。)
4,
私は今までもこれからも、生物・人間として作品を作ってきたし、いくつもりだ。しかしもう一方で伝統的な性別に対する社会的役割分担をもとに担わされる、それぞれのその役割の煩わしさを感じながら生きている人間の1人でもある。そして今までほとんどその煩わしさへの根本的な問題定義を公ですることをせず、話題にすることのリスクに気を取られ、やりすごすことが多かったこと、また数多くの瞬間、無意識的にせよ現在まで続く風習・習慣に同調し加担していた自分から脱皮する必要があると思っている。 多くの人が知っての通り、美術がとりまく環境ですら(むしろ、こそ)そこから未だ脱却できていない空間は多く、課題は山積みである。今まで道をひいてきてくれた人々のおかげで今の自分がいるわけであるし、私が言うまでもなく現在も多くの人たちが前進のための実践をしている。私も私なりの立場から、そしてより心をオープンにしながらシスターフッドを求め、日本の美術において女性の言語がさらに蓄積されて体系化されていく場を目指し、そこに道を作っていきたい。
5, あるいは 1- 2,
なにかとなにかをわかつことで必ず生まれるどちらともいえない領域、 例えば工事現場と都市の循環の中にある、柵の中の空洞について。 21世紀、2019年。なにかをゼロ地点のスタートから作り上げるという感覚をほとんど持つことのないこの時代において、今後の美術における補修と更新の方法を探したい。例えばその空洞を、「工事している場」と「その隣の工事していない場」の間を分かつ存在としてだけでなく、「新しいなにかを創造する場」と「存続されている現在」とを分ける領域として捉えてみる。
なおこの場合、私にとっての創作物や創造的な出来事が存在する空間は「仮置き」という言葉で言い表されることになるが、それは私にとってはネガティブなものではなく、出来事が場所に定着されることで生まれる事実とは別にある、移動可能な存在であることによる存続可能性として考えている。
繰り返す。 もとある状態に治すためだけの補修、従来のシステムを同じように存続させるため(だけ)の更新の先に、先は見えない。今まで通りの慣習に沿っているだけでは私の求める変化はおきず、空気は淀み、やがて予定調和で予想通りの袋小路にたどり着く。その閉塞感漂う空気はもう何年も何年も前から存在していたし、その解決方法はさまざまに考察され実践され続けている。マクロな範囲とミクロな範囲の前提のスケールを繋げるにはどうしたらいいか。もう少し考えていく事にしよう。
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Hello friends,
It has been about 2 weeks since I came to Los Angeles.
I don’t believe that, but I finally arrived at the place where my last destination in my journey. It means I’m starting to see the beginning of the end.
I have visited many cities and experienced 5 different time zone for one year. It is a bit hard to understand for me that but it’s been only around one year since I leave from Japan. This is the first time to spend like this journey.
So I am bit confused by I feel like spend a long time that as several years in this journey, and at the same time I am able to say that almost remember about all of this journey and encounter.
What is the meaning of miss someone or somewhere?
When do I feel miss someone or somewhere?
What is the nostalgic?
I sometimes feel that all of the world is not connect with me and sometimes feel that all of the world is connected with me.
My body is always somewhere but my mind does not sometimes stay with my body. As with almost journey, I have two different feeling that feeling of want to go back to my space and feeling of don’t want to go back to my space, haha.
However at the same time, recently I am feeling strongly that the time what make my new work and a new project has come.
I have not had a studio something like space for one year, so that I always spend time in a cafe or library.
Yes, honestly, I am feeling miss my studio recently and I am feeling strong my new ideas in my mind is waiting for my work.
Anyway, I am going to do what I can do as much as possible by the day go back to Japan.
I go to the nearest cafe or library every other day, and I go to a place I want to go every the other day.
Oh my gosh. Although I have discovered sooooo many things related to my themes and interest in the world, and things of a new feeling, I feel I am just only standing at an entrance about those things yet.

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The colour of sky changed suddenly from yesterday, which was effected of fire. This is about 4 pm. https://www.instagram.com/p/BqB8XQ8DZ8C/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1v5qrwwre85yc
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Photo

ヒーラ細胞をエクスプロラトリアムで観ました。以前この細胞にまつわるドキュメンタリーを読んだことがありますが、まさかどこかで見れるようなものだとは思っていなかったのでとても驚いた。 It might be use wrong sentences but I'll trying to write this. This is Henrietta Lacks's cancer cells which aka the Hela cells that could see in the Exploratorium. Her cells of cancer will not died forever which is very rare, and that many institute use that cells for research since discovery, there are so many her cells in whole world. And the most important things is there were big problem that nobody have told her what was happened for her cells before she passed away, and nobody has paid money her for her cells. I have read a book of documentary of her before. It made me surprised because I really never thought that I can see her cells in here. I'm trying to look for a right word. Actually I guess it was very important experience for me that could see her cells. But I need to think of whether "this thing " need to existence "in here" when I see some kind of matter that have some problem. This is exactly the topic about thinking about what is a significance of museums. https://www.instagram.com/p/Bp-ALVYjelO/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1f689twsojlx8
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〈ドライブする思考と地形〉- 2
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再び、移動に起こる句読点を考える。ここサンフランシスコに来て10日と数日が経った。最初の印象を書き残せる程には周囲を歩いたし、一旦の結論をも出せない程度には、当然ここのことをまだほとんど知らない。
①思考が加速するといったとき、それは上り坂だろうと下り坂だろうと、やはり起こり得る。今の私の暮らしには坂道が多い。坂道の多い暮らしにおける、移動に起こる句読点とはなにか。例えば上るというより「登る」といった方がむしろふさわしい程の坂道が、最寄りのスーパーに向かう一直線の道にそびえ立つ。ある種の「登頂」が暮らしにおいて身近に寄り沿う日々を考えよう。(その道を迂回すること自体も、さらにその頂をより強調しうる。)
②思考にはスピードがある。主だった移動手段が徒歩である今、まず行動のスピードを司るのは自分自身のコンデションにほかならない。体調が優れない時には劣った思考しかできないのかというとそういうわけではなく、その日のコンデションと歩く速度、そして距離(1)のすべてのツマミを合わせ、フィットさせていく動作に近いものがイメージされる。
③思考するという言葉ーーーそれは「思っているのか」「考えているのか」? ここではその2パターンを考察しなければならないだろう。現在英語を中心とした暮らしが半年を経過し、渡米以来自分の言葉の定義に改めて懐疑的になっている。だから私はまずここで、思うことと考えることの明確な行動分けがそもそも今までできていたのかを問うことを楽しもう。そしてさらに坂を上りながら、そして坂を下りながらそれを自覚できるのかやってみよう。鼓動の早さ云々は、その後だ。
④思考は単に線的に組み立てられるものではない。なにかを思考(2)し始めたときーーー今、 ーーー特に一昨年あたりから今に至るまでの生活環境を大きく変える経過を経た今、ーーー その思考はある空間に3次元的に広がっていくと想像(3)している。その空間とは、例えるなら内的空間に広がるメタ的な風景であり、かつ目の前の風景と一致しているようなイメージだ。それを仮に思考の地図と呼ぼう。描画される機会をほとんどもたず、各々に、あるいはそれぞれに出会い影響しあう。現れては消え、そしてまた現れる。その思考の地図は変化の過程を経て、今なにを蓄積しているのか(4)。想像した現象が現実に影響を与えないイメージをするわけにはいかない。出来事が過ぎ去れば、何事もなかったことになるわけではなかろう。
自分がベースにしていた土地(平地)での思考の広がりには極めて平面的なものを想定していた(とはいえそれは、思い返せば頭上には奥行き(ほぼ)無限の空が広がっていることを前提とした、それに対してのスケールの比としての、「極めて平面的なもの」だったといえよう)。
宇宙から見れば地を這うような私の低空飛行の思考の地図、だからこそ、その地図における線路や信号での一時停止、私が向かう方向に対して垂直に空間を切り裂く電車や車のスピードは、強い句読点として存在していた。そう、だから思考の広がり方に空間が影響するのならば、ここサンフランシスコでは、それは平地的に広がるのではなくときには上昇したり下に流れ込んだり、あるいは階層的に重なるものと想定されるべきだ。
⑤標高84mに位置する一軒家から標高96mの坂のてっぺんまで登り、そこから標高52mまで下りたところに一番最寄りのスーパーマーケットがある。家からいったん12mほど登り、そこから44m下がるというわけだ。ビルの1フロアが3mほどだったとしたら家からいったん4階ほどの高さを登ってから、14階分ほど下ることになる。もしも家からスーパーのある位置を透視するとしたら、方向を定め、32m斜め下を見るとしよう。そして部屋の窓からの風景、陽が落ちる方向に見える丘の家並みは、見ている位置から奥にいくにつれ標高150mを超えていく。
⑥ここは東京に比べると身体を通過するアクションの類がないに等しい静かな住宅街だ。行き交う人(ほとんどいない)も道を通過する車(たまにしかいない)も、特別スピードをだしていることもない、いわゆる広くて静かな住宅街だ。大通りに出るまで信号機もない。この地区を徒歩で抜けてから、私はバスに乗ったり電車に乗ったりして市街地へ赴く。 目の前にカラフルな住宅が立体的に見える。坂の先にまた坂が続き、風景が上に下にと広がっている。ここでの想像力は一点透視図法的消失点を許さない。個人の思考の地図化の前に、簡単には相対化を許さないよと、無数の多様性の丘が広がっているのだ。実は少し歩くと遠くに海も見える。 はっきり言って、収拾がつきそうにない。 簡単に言ってしまえば、このような風景が広がる中での暮らしは、かつて一度も経験したことがない。
⑦最初の印象を書き残せる程には周囲を歩いたし、一旦の結論をも出せない程度に当然ここのことをほとんど知ってはいない。とはいえここでの暮らしの時間はあと3ヶ月しかない。
(1) 距離に関してだけは、真新しい環境で過ごし続けている今年の状況において、非常に予測がつきにくい。うっかりと、げっそりするまで歩き続けてしまうことがどうしても頻繁に起こる。そうなるともう、思考もなにもない。ただ目的地に向かって肉体を動かし、ともするとただせめて網膜に視覚情報を通過させるだけに留まるかのような日すらある。
(2) 「思考」という言葉自体が日本語では思うことも考えることも同時に行うことができるという証拠なのかもしれない。
(3) 想像するということについてだけいえば、そのイメージは重力をもたず、地に足をつけない(つけなくていい)のが想像することだというイメージをずっと抱えている。物質に依存した作品を作るのも、それを地上に降ろすためという感覚がある。
(4)これはもうどうしても私が長年考え続けていることに濃密に関係している。おそらく私が作品を作るその先に見通したい風景には、思考のパターンは果たして地図化できるのかという問いがある。さらにいうと、人の思考パターンは決して数値化して定義できるようなものでもないだろうとも思っている。答えが見つかればそれ以上なにもすることがなくなるようなものではなく、あるパターンの変化を見出せればその先に訪れるパターンも予知できるのではないかと考えており、最低限そこまではいきたいと思っている。
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I sometimes feel that I don't need to say where I am. It's a just part of this planet. https://www.instagram.com/p/BptQiDEDGOV/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=xttw0hjfcreg
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