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Aさんへ 22
Aさんへ
Aさんこんにちは
先日のパワームーン……スーパームーンでしたでしょうか?
ご覧になられましたか?
美しかったです
ムーンの周りをぐるりと雲が囲い、その雲がわたしにはドラゴンにしか見えず……オレンジみのムーンに、ドラゴン
心中で「この世はでっかい宝島……シェンロン……」と呟いたのは言わずもがなです
Aさんにもスーパームーンのパワーがどうか届きますように
Sより
*********
『正常性バイアス vol.ティラミス』
多分、男はガトーショコラ。いや、さてはあのフォルムはフォンダンショコラか。底辺に血の色に近いソースが見える気がする。リョウは目を細める。夜は乱視の乱れが強くなる。ともあれ女はかき氷。
ラーメン丼と見紛うほどの、しかし、ラーメン丼とするには底の浅い、小ぶりな乳房のようにゆるやかな曲線の大きな純白の陶器に盛られたかき氷は緑色であるから恐らくは抹茶であろうと見当をつける。
それがもし、万が一、ピスタチオかもしくはずんだであるならば自分もタカシも潔くイチゴにするであろう。
リョウは、隣のテーブルの男女のそれらを数秒ながめたあとラミネートされたメニューの
『復活!台湾風かき氷♪フワッフワ!♪夏だけの期間限定!こだわりのフレーバーは全8種類♪』
をひととおりをその細部までをながめながらコーヒーカップに手を添える。イチゴもいいが、
『今夏から♪新登場~♪』
らしいティラミスが捨てがたい。かき氷でティラミスを味覚表現する���めの姿勢に俄然興味が湧く。
ふつふつ湧いた興味のあと、呼び水的必然さでソノコのティラミスを思い出す。容赦なくティラミスのフォルムが、白い楕円の皿が、華奢なデザートフォークが、味覚の記憶が鮮明によみがえる。
(あいつはうまかった。)
3人の夜。ソノコがつくった
「はじめてつくったの。試作にして集大成。大成功。」
春がふんだんに盛り込まれた炊き込みご飯をおかわりし満腹をかかえてソファーに転がると、
「これは常連。常連史上最高の出来よ。」
とティラミスがのった皿を、芸術品を扱う所作で丁寧にテーブルに置いた。
ロングタイムアゴー。かなり、もう何年も何十年も前のことに思えるほどとても昔の、また、タカシが生きていたころの3人のグッドメモリー。タカシの人生に必要不可欠かつ必然的な最後のピースとしてソノコがパチンと加わった日々の最中、いつかの夜。
そのピースは、リョウが自分のなかにある唯一の空白を埋めるべくピースであることに気づきはじめてしまった最中、いつかの夜。
彼女史上最高のティラミスを満腹直後に早食いファイターの勢いで完食し、締めに、皿の隅によけておいた彩りのミントを噛み砕いた。想像通りの青臭い清涼感が口内を充満した。ティラミスの余韻はあっけなく消えた。とっぷり浸っていた余韻の消滅があまりに淋しく、口直しの口直しをすべくティラミスのおかわりを依頼した。無論、ミント不要の旨をソノコにきっちり伝えた。
丁寧に抽出されたのであろう香り高いコーヒーのフレーバー。生クリームとマスカルポーネ。には
「秘密の配合」
でサワークリームを混ぜていること。アルコールを一切摂らないリョウが
「酔っぱらわない程度」
ほんの気持ち程度のリキュールが含まれており、その正体はコアントローで
「オレンジとコーヒーのタッグは最強であることを数年前に発見した」
と、誰からも聞かれていない秘密を自ら暴露していた。全粒粉にめがないという彼女がつくるティラミスはボトムがスポンジではなく、全粒粉ビスケットだった。
ソノコが作るデザート類の共通項であるごく控えめな甘さ。食べる度に丼で食べたいと思った。ソノコの料理の最大の特徴は「食べはじめると改めて食欲が増す。」で「食べれば食べるほど、もっともっとと食欲を刺激する。」であり、食べ終わる��には「またこれ食べたいからまたつくって。」の腹になるのだった。つまり、ソノコの手料理はひとを元気にした。
かき氷のメニューを見つめながらコーヒーカップを唇に当て喉を潤すだけのためにひとくち飲み込む。ぬるい。そしてただぬるいだけではない。くそまずい。
コーヒーの真価はひとくちめではなく残りわずかになった終末に問われるのだとつくづく思う。
*
ナッツ類はギリギリ、豆類は完全アウトとし、唯一、枝豆の塩ゆでをビールのあてにする(噛むとガリガリ音をたてるほどの塩味つよめ。しかも茹でたてではなく一度きちんと冷やしたもの。)のだけは好んでいたタカシが豆由来のずんだ団子を、
「江戸時代の民衆はなぜ茹でてわざわざ潰してこれをわざ、わざ甘味に。」
と、鮮やかな緑と白の連結を忌々しげに見下ろしていた風景を思い出す。
定番のあんこやごま、みたらしの他に、色とりどりのトリッキーとしか言いようのないカラフルな団子を山ほど買い込んできたソノコがダイニングテーブルいっぱいに
「今日はおだんごランチよ。」
と団子を並べ、飲むように頬張り、嬉々としてモグモグする彼女の横でずんだの発祥を調べはじめ
「ごはんのときに携帯やめて。」
と注意されていた兄を思い出す。
大人しく携帯電話をテーブルに置き苦笑する兄の表情までを思いだし、そして、それ以降の三人の風景を思い出すことはやめる。過去ではなく今現在の、ぬるくまずいコーヒーに意識を集中させ思い出を消す。現実に軸足をおく。ハートフルなグッドメモリーが現在の自分を支え、温め、前進する活力となるにはそれなりの時間を要する。もしくはグッドメモリーを上書きすべくベリーグッドメモリーをクリエイトする必要がある。当然、思い出すことをやめようとする抗いの力が働いているうちは自分を支えず温めず活力とはなり得ないし、そもそも自分の脳内か、もしくは心中ではひとつひとつのメモリーごとひとつひとつのフォルダに保管されている。それらはPDFして完結している。だから上書きのしようがないことをリョウはちゃんと認識している。すなわちお手上げ。上書きではなく新たなフォルダをクリエイトするしかない。
(クリエイトしたところで……)
吐き出したため息でぬるい琥珀の水面が揺れる。
(ケーキ。)
腕時計で時間を確認し、この時間なら選択の余地はなくコンビニで手にいれるしかないとおもう。
(だいぶ増えたな。)
いつも仕事帰りに寄るコンビニのデザート類が陳列する場所。
ショートケーキが真夏に売っているのだろうかと、シュークリームやあんみつなども思い浮かべてはみるもののやはり誕生日といえばショートケーキであろうと、純白と赤のコントラストのあと、再度腕時計を見下ろす。いたわりの気持ちで銀色の無数の傷を見つめる。
久々、改めてまじまじ観察してみると細かな傷がずいぶん増えたことに気づく。タカシから贈られたタカシとお揃いの、銀色の、文字盤が白の日付が時々狂う日本製の腕時計。今夜の日付は◯月◯日。正確な日付を確認する。世界で一番大切だったひとの誕生日。
大切なものを大切なものとしながら、そのくせ扱いが雑、気遣いは皆無であるとかつて「つった魚に餌をやらない。」と非難してきた女がいたが、そうではない。しかし、それは違うそうじゃないと反論したところで反論を理路整然と正論まがいの暴論に仕立てたところで納得してくれる女はこの広い世界のどこにもいないとおもう。いるはずがない。ここは荒野なのだから。荒野なのだから仕方がない。
(荒野。)
胸のなかだけで言葉にした荒野。の、ひび割れた枯渇の響き。なのにどうしても心には火が灯る。否応なしに温まる。たったひとつの些細なグッドメモリーによって。些細でありながら枯渇をいとも簡単に超越する。おき火となる。
「甘えてるのよねー。
すきなひとに自分をぜーんぶさらけ出して全身全霊、全力で甘えてる。
甘えることはリョウくんにとってきっと最上級の愛情表現なのよね。
さあ包容して許容してって。これが俺なんだからって全力で甘えん坊してる。
リョウくんみたいなひとを子供みたいなひとねって片づけてしまえば簡単だけど子供って賢くて打算的よ。愛されていることを知っている子供の甘えは確信犯的なただの確認作業に過ぎないから。
リョウくんの甘えは打算も計算もない。損得勘定もない。
純度100%の甘え。
そんな風に甘えられて受け入れることができたら女性はきっと女冥利に尽きるでしょうね。でも、
こんなおれをいらないならこっちから願い下げだー、くらいに強がって。ほんとはそーんなに強くないんでしょうしデリケートでナイーブなのにねー。
でもきっと、それらをぜんぶぜんぶひっくるめてリョウくんなのよ。」
***
ロングロングタイムアゴー。タカシに、
「リョウくんさ、いい加減にしなさいよ。わがまま過ぎやしないか。」
と、声音とは裏腹に笑みのない兄らしい表情で男を隠しながら、なにかしらの言動か行動を叱られたときだ。
深夜。化粧をおとしパジャマ姿でアイスクリームを食べながら寝しなにダイニングテーブルで新聞を読んでいたソノコの声。歌うような、滑らかな柔らかな声、言葉。
(そうだ。あのときだ。)
思い出す。口の内側を強く噛み��いを堪える。
タカシの部屋でいつものように、ソノコがつくった夕食をたべソノコが当時気に入っていたイランイラン含有の入浴剤が大量に投入された乳白色の風呂につかり、危うく溺れそうになるほどの長風呂からあがり、放出した汗に比して唾でさえ一滴も残っていない喉のまま髪を乾かす余力もなく、仕方ないそろそろ帰るか。とごく軽くソファーに座った。ソノコが、
「はい、どうぞ。」
冷えたジャスミンティーを差し出した。
一息に飲み干した。底を天井に向けると氷が雪崩れた。
「いっきのみ。もう一杯のむ?」
無言で首をふり、結露したグラスをソノコに戻した。グラスを受け取り、ダイニングテーブルに戻ると新聞の続きを眠そうに読み始めた。
体験したことのない快適さが極まると、未知と遭遇した衝撃が高じて非日常に感じるのだと知った。
山奥の滝とか、神社や教会。湯気のたつ生まれたての赤ん坊との対面。だいすきな人の腕のなかでウトウトしてそのまま眠ること。入眠の直前「もうこのまま死んでもひとつも後悔はない。」と思うこと。限りなく透明に近いもの、こと、ひと。
見るものの濁りや淀みを一掃する存在感を、風呂上がりのそばかすが丸見えの素顔を、つるつる光る額と目尻近くのほくろを、兄を、兄のうしろのキッチンカウンターに置かれた
『みみまでふ~んわりのしっとりやわらか生食パン』
8枚切りをみた。2袋。
*
風呂にはいる前リョウは眠気覚ましにジャスミンティーを飲むため冷蔵庫をあけた。
黄色と橙色の(橙色のほうをみて「トムとジェリー。」とつぶやいた。食器を洗っていたソノコは背中を向けたまま真摯な声で「それね。わかるわ。」と応答した。)チーズ、トマトときゅうり、(水槽のやつ。)と思いながら水草のような草が入ったプラスチックパックを手に取り確認するとディルとあった。レタス、サワークリーム。生クリーム、こしあんの瓶、未開封の粒マスタード、未開封のほうじ茶バター、ボールにはいった卵サラダとポテトサラダたちが明朝の出番を待ち鎮座していた。
*
食パンと、冷蔵庫にスタンバイする食材に気持ちを奪われたまま、新聞を読むソノコをソファーから見つめた。帰りたくないと地団駄をふむ代わりに、ソファーに転がるとリョウは長く息を吐く。
明日の朝はサンドイッチ。
とても久々で懐かしくもあるワクワク感にリョウは包まれた。そのワクワク度合いはたとえば、
遠��の前夜
夏休みが始まる日。ではなく夏休み初日の前夜。でもなく夏休み初日の前々夜。つまり「明日は終業式。給食ないから午前中でおわり。そして明後日から夏休みだ。」
とても久々に腹の底からなにかしらの力強い、とはいえ名前をしらないワクワク感が吐き気をもよおすほどにわきあった。衝動的なワクワクに覆われた。ワクワクにひとしきり包まれたあと本格的に急速に眠くなった。
眠くなったことを口実に、
「やっぱり泊まるからソファーをベッドにしてくれ。」
と、俺にもアイスをくれと、アイスじゃなくて愛でもいい。やっぱりジャスミンティーもう一杯と軽口を叩いた時だった。タカシが珍しく苛つきを隠しきれぬ表情で「リョウくんさ、」と口をひらいた。夕飯のとき、
「お泊まり久々。忙しかったものね。」
とソノコが嬉しそうに隣のタカシに笑ったことを、ソノコの嬉しさの何十倍かの嬉しさであろうタカシが、思慮が深そうでいてわかりやすい男の浅はかであろう意味で何百倍もの嬉しさを控えめに、
「うん。」
だけで表現し微笑み返したことを、久々のお泊まりに相応しい湿度の高い艶のある笑顔であったことをリョウは「やっぱり泊まる」と発した時にはすっかり忘れていた。
*
忘れたふりをしたことを思い出す。
再度口の内側を噛む。眉根をひそめる。カップの底が透けて見える残りわずかのぬるい琥珀色を一口すする。ぬるくてまずくてとても苦い。そして残少。まるで俺の人生そのもの。目の前の女は息継ぎもせず喋り続ける。きっとこの女はクロールが早いだろうと、リョウは呆れではなく尊敬を込め女の話に頷く。
頷きながら隣の男女がガトーショコラらしきものとかき氷を交換し、楽しそうに幸せそうに笑っている様をみる。あっちの女も息継ぎなしにクロールを早く泳ぎそうだと思う。溶け始めたかき氷を見る。羨ましいと妬む気持ちさえ枯れている。ぬるくてまずくて苦い。自分には最高にお似合いだと思う。
*
急遽、1グラムも空気を呼まず「やっぱり泊まるから」とわずか1トンほどのわがままを告げた弟への兄からの至極当然な指摘を「わがままじゃないし。」と口には出さず触れ腐れていたリョウは
「甘えてるのよねー。」
から始まったソノコの言葉を息を止めて聞いた。
言葉を発することはできず、ただ、寝そべった姿勢のまま顔だけを捻り、兄を素通りして、ダイニングテーブルで新聞を読むひとの横顔だけを見つめた。
柔らかく滑らか。清らか。
兄弟が作り出す尖った空気を和ませるためかそれともただの、まっさらな、ソノコの。
リョウは、ソノコを見つめながら日本酒の瓶を思い出した。2日ほど前、岩手へ旅行にいってきたという一回り以上年齢が上の先輩から「なかなか手に入らない希少品。」だと、恭しく渡された土産の日本酒の瓶���ほとんど透明に近い水色の瓶。ラベルの大吟醸の文字。
ソノコを見つめ声と言葉を聞き、なぜか思い出した。
タカシの最後のピースは、そのひとは、自分にしてみても最後のピースで、ただのなんてことのない事実としてそれは荒野に凛と咲くたった一輪だった。
***
年季のいった兄とお揃いの腕時計をそっと指で撫でる。傷をなで、ごめんなと胸のなかだけで呟き、しかし、誰に対しなんのための謝罪であるのか、ごめんと謝るわりに許されること願っているのか、決して許されるわけがないと諦めているのか自分の真意は一瞬で蒸発する。
「ねえ。大丈夫?聞いてる?ていうか笑ってるよね。大丈夫?お疲れです?」
向かいに座る女の尖りを含有する声にハッとし、
「ごめん。」
慌てて指を腕時計からコーヒーカップに移す。空っぽ。ため息を辛うじて飲み込む。疲れる。とても疲れる、疲れた。どうやら自分は生きることの全てに疲れているのではないかとおもう。しかしまさか「大丈夫?」と問う女に「大丈夫だけれど疲れた。」と答えるわけにもいかずリョウは、
「大丈夫。」
とだけ答え頷く。
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Aさんへ 21
Aさんへ
Aさんおはようございます
梅雨があけましたね
……などと先日申しましたがなにやら再来のような今週ですね
から梅雨があけたふりしてカンバック
Aさんどうぞご自愛くださいませ
Sより
********
『バーンワンズブリッジ vol.晩夏』
はち切れんばかりのそれにそぐわぬ仕草で、タカシはスイカを抱え直す。
先週の日曜日。
旧友宅に出産祝を届けた際、固辞を却下され「抱っこしてあげて」と旧友妻からたくされた、それ。先入観や見た目からの想像をひっくり返す、ずっしりした蒟蒻のような抱き心地をおもいだす。
いま抱いているスイカよりはるかに軽い、甘酒のような匂いを放つそれは、それを抱いたときの感想は
「頼もしい。」
であったことをおもう。
紙パンツのテレビコマーシャル。フワフワコットン100。そこに出演する赤ちゃんの、真綿を連想する軽さや柔らかさやしかも儚さからもかなり遠い印象がタカシのなかにうまれた。
真綿というよりは雑巾。
水をくぐらせた真っ白な雑巾。初下ろしのまっさらな。さあ床を磨きに磨くぞとなにかしらの前向きな、どこかしらからわき起こる理屈のない躍動を奮い立たせる新品の雑巾。そして、新生児を抱き抱くことによる新発見はもうひとつあった。弱者とされる産まれたての赤ちゃんを強者とされる大人たちは「守ってあげている」感満載でいるがそれは古びた雑巾たちの寝ぼけた勘違いであるということ。
スイカを抱き抱きながら新生児を思い、ホテルかもしくは病院のそれに似た真っ白なシーツの上で、少し口を開いてぐっすり眠っているだろうソノコを思う。守っているつもりが守られている。セーフティなエリアの中心にはソノコがいる。ソノコの発露。愛を主要成分とする発露がコットンのように、時に雑巾のように自分を包容し許容している。
ソノコを気遣い静かに玄関を閉める。
外からの熱風を遮断し、除湿運転のエアコンから排出される冷気が室内に閉じ込められる。快適な室温湿度に包まれる寝室の、セミダブルベッドのソノコの横には自分だけのスペースがある。そのスペースは自分でしか埋められない、自分以外の誰にも満たすことができない。と、傲慢と背中合わせの自信で思う。
スイカからも、弟の夏らしい表情からも視���を外し見上げる。こんもりとした入道雲が鎮座する夏の空。白も水色もあまりにビビッドで、瞬間、絵や写真のようだとおもう。本物とニセモノはとても似ているから時々判断を見紛う。タカシは目を細めることなく強い視線を向けたまま夏はこんなに美しくて悲しいものだっただろうか。と、とても眩しいと、どんなに暑くともこの夏に大切なひとととどまりたいと切実に胸をしめつける。
夏に胸打たれるまま、
「リョウくんさ。最近の俺が心配なんでしょ。
ほんとにねー。
どこまでおちていくんだろう。ね。」
兄の、空に向かうつぶやきは、透明な吐露は、暑く湿度の高い空中に吸い込まれていく。セミの声は遠く微かだけれど確かに聞こえる。ベッドで眠っているソノコを思う。ソノコだけを思う。「タカシくんがいちばん気持ちいい。」
特別でもなんでもない日常のなかにソノコといて、洗濯物をたたむ背中や新聞をながめる横顔や、ソファに寝転がるソノコを見つける度その柔らかな胸に顔を沈めたいが為に、
「心臓の音聞かせて。ちゃんと動いてるか確認しないと。」
ねだる。
「いいわよ。」
胸に耳を押しつける。白髪まじりの頭を抱きしめる。4つの目を閉じる。会話をやめる。静かに心臓に集中する。鼓動だけが聞こえる。動いている。生きている。
今年の夏は海に行かれなくていい。
遊園地も動物園も水族館も。温泉も、飛行機にのって旅ができなくていい。打ち上げ花火を見上げることができなくていい。その爆音を聞けなくていい。花火のなかでなんだかんだ一番すきな線香花火もいらない。
祭りの屋台のりんご飴も、ヨーヨー釣りも射的もできなくていい。
気心知れた男友達と、会社の仲間とビアガーデンの凍ったジョッキのビールを飲めなくていい。それから、一人の時間もいらない。
四季の中で一番すきな夏を楽しめなくていい。
夏がおわり秋がきていることを実感するとき、通り過ぎただけに終わった夏に思い出がなにひとつなくていい。ソノコがいればそれでいい。夏の終わりの淋しい夕暮れに、涼秋の始まりに、しんと積もる冬に、新しい春に。その全部の季節にただソノコが隣にいてくれたらそれでいい。
心の中に静寂を抱えタカシは思う。ソノコがいるなら他にはなにもいらない。ソノコをソノコだけを。
祈る。
はち切れそうなスイカを抱えタカシはそっと目を閉じる。
クリスマスイブの夜を思い出す。ベッドに沈み目を閉じる時「神様おねがい!」明日起きたらプレゼントがありますように。届けるのはサンタクロースであるはずなのに切に祈るのは何故かいつも神様だった「絶対ほしい。大切にするから。」
目を閉じたまま、首筋に、スイカを抱えた腕に、背中に汗を感じる。途切れないセミの音が聞こえる。真夏空の下、クリスマスイブの夜を思う。「どうか神様」と。ソノコを思う、願う、祈る。
心臓の音を確認できる距離にいて欲しい。ずっと。いつまでも。いつかきっとソノコの嫌いなところをなんとかみつけ、タカシくんの全部を大嫌いだと言われるとして。でも、どうしてもこれからもずっと
「心臓の音聞かせて。」
と、時々、ソノコの胸に耳を当てたい。頭を抱きしめて欲しい。どうか。ずっと。
「真面目かよ。」
弟が笑う。クリスマスの夜から兄の心は現実の真夏に戻る。
「過多の真面目は己を追いつめるぞ。」
弟は兄を見つめ、ふっと鼻を鳴らすと柔らかく目を細め笑う。
「真面目と誠実は、実は全く別物なんだってタカシを見てると思うよ。ちなみに優しさと思い遣りも似て非なりなんだろうな。」
兄から視線を外し、夏を見る。セミの音を聞く。ラジオ体操、ゲームの奪い合い、宿題、プール、茹でたてのトウモロコシ、そうめんオアひやむぎ、ピーマンの金平、花火。
感情と行動の間にきちんと煮詰めるための深い思慮をもつ兄。昔から何一つ変わらない三歳上の兄。
「タカシの売りは誠実と思い遣りなんだろうな。」
淀みのない決然とした言葉に目を開き、細め笑う。
「そうかな。ありがとねリョウくん。いつも本当にありがとう。」
言葉は美しく健やかに弟に届く。
「行くわ。」
背中を向け歩きだす。立ち止まる、振り返りいたずらな視線を兄に向ける。
「楽しめよ。夏だぞ?まあでもあれだ。」朝寝重ねて身上潰すなよ。
「気をつけるよ。」ずいぶん古い詞知ってるねリョウくん。兄が心底おかしそうに笑う。
「あー、そうめん食いたいな。
緑とピンクが入ってるやつ。
そうめん食ってんだか薬味食ってんだかくらいにめいっぱい薬味ぶちこんでさ。ミョウガは必須よ。あとさ、俺どっかの飯屋で食べたんだよ。飲んだしめになぜかそうめんでてきてさ。
オリーブオイルとマヨネーズ。
最初、ふざけてんのかなと思ったけど。やばかった。味変というか一発目からあれでいける。
言っといて。しこたま買っとけって。
それと。日替りで薬味を変えたところで俺は木綿豆腐の冷奴は食わないから。しつこいんだよ。二言目には栄養栄養って母親じゃあるまい。豆腐ハンバーグごときで己の料理の腕にあぐらをかくな。そして俺の豆腐嫌いを舐めるな。」
夏の空に吐き出されるソノコの手料理へのクレームに終わりがないことを知っている兄は「一体どの立場からのなに様目線なんだ。」と思いつつ言葉にはしない。ソノコの、時に情熱的な世話焼きを愛しく思うのは事実であるが弟と共に豆腐が苦手であるが故に。木綿豆腐の冷奴は願い下げだ。シンプルであるがゆえ個性が際立つ。その是非はともかく。
「わかった。わかったからもう行きな。」
同情の笑みで弟の背中を押す。
来��ときと同様に別れの挨拶もなく颯爽と歩いていく。「お、は~らしょ~すけさん」の陽気な節が、細い口笛が聞こえる。
真っ直ぐ伸びた弟の背中を見送るとタカシはスイカを抱え直し玄関を開ける。
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Aさんへ ⑳
Aさんへ
Aさんこんばんは
梅雨があけましたね
から梅雨があけてしみいるアクエリアス
字余り
Aさんどうぞご自愛くださいませ
今度、T町にできたかき氷屋さんに甘酒をやりにいきましょう
Sより
********
『バーンワンズブリッジ vol.初夏』
ウェザーニュースが梅雨明けを知らせた。
と、同時に熱中症とこまめな水分塩分補給、節電。そして、毎年必ず耳にする「例年にない暑さ」のデジャヴ。結局のところ晩夏にその夏を振り返ってみると真夏のど真ん中より、ニュースが伝える「梅雨の終わり」「開夏宣言」の瞬間に、夏の始まりに、その夏��番の暑さを感じると思う。つまり、耳から夏の暑さを関知する。
***
夏の始まり、フル稼働のエアコン、いつかの休日午前8時53分、インターホンが鳴った。
タカシはソノコを起こさぬようそろそろベッドから抜け出すと、床に散らばる服を身につけ、モニターで来客者を確認する前に正体を確信し、時刻を確認し玄関のドアを開ける。
「もらったけど俺食わないから。」
冷えきった室内に押し入る強引な熱風。おはようも前置きもなく平常運転の仏頂面で弟がおおきな球体を差しだした。
包丁の刃先を入れた途端自らメリメリとはち切れそうに熟れた、巨大なスイカ。スイカから仏頂面に視線を戻しタカシは少し笑う。
暑さのせいでも、暑さのなか取り扱い注意の球体に骨が折れたせいでも、早く受け取れモタモタするな。の腹心のせいでもなくましてや不機嫌でもなくむしろご機嫌さんな弟。愛弟が四季のなかで夏が一番好きなことを兄は承知している。彼には夏が一番似合うことも。「たとえどんなに暑くとも俺は夏が好きなんだ。」
タカシは慌てて被ったティシャツの裾を整え慎重にスイカを受け取る。
「いる?」リョウはサングラスを外しながら玄関に礼儀正しく置かれた高いヒールのサンダルを確認し、目線で兄に問う。緑がかった瞳。レンズが真っ黒の見覚えがあるサングラスとやはり同じく見覚えのあるベージュのティシャツ。履き古したデニムの裾の微かな綻び。サンダルの涼しげな足元。目のなかに入れてもきっと痛くない大切な弟。
瞳の色素が薄い弟は日射しの強い日にはサングラスが欠かせない。
過日の晴天に弟を助手席にのせ走っていた時。ダッシュボードに置かれた兄のサングラスをかけ、
「これいいな。」
一言呟くと、その日からそのサングラスは弟の車のダッシュボードの上が定位置に変わった。
弟が着ているティシャツ。上品なベージュの、左の胸元にRで始まる4文字のブランドロゴがベージュの糸で刺繍されたシンプルなそのティシャツを兄はとても気に入っていた。
が、勝手に兄のクローゼットをあけ、
「これいいな。」
弟が我が物顔で着始めた。一張羅としてデートの日に着ているらしい様子を察し「また勝手に着てる。」という腹心を兄は口にせずしかしそれにしてもなかなか手元に戻らないことに業を煮やし、
「リョウくんいい加減返してよ。というかさ、俺のお気に入りのティシャツたちが無課金無返却のサブスクになってる。それむちゃくちゃ気に入ってるのリョウくん知ってるよね。
俺、最近それ1度も着てないよ。」
訴えると、
「うん。このRはリョウのRなんだ。」
妙な誇らしさで左の胸を押さえる。
「子供か。小3か。」
「タカシ。こういうのサブスクじゃなくて借りパクって言うらしいぞ。」
堂々と爽やかに笑うのだった。
でも、もう気に入りのサングラスも、ティシャツもいらない。弟の胸元のRを見つめ兄は思う。ソノコがいれば他にはなにもいらない。
「ソノコいる。昨日泊まった。今日も。連泊。リョウくんも今日夜くる?みんなでごはん食べようか。ごめんね。ソノコまだ寝てる。ごちそうさま。熟れてるね。甘そうよ。起きたらソノコに切ってもらう。夜くる?」
兄はスイカを慎重に抱え堂々と、朗らかに笑い室内に視線を向ける。その寝不足があからさまな目、玄関を開けながら引き締まった肌をティシャツで隠した兄と、朝寝の女。それらから派生する事情に察しのいい洞察力の長けた弟は「朝から晩までお前らは。」とは口に出さず、兄のように朗らかに笑う。エアコンで冷やされた冷風が室内から玄関を抜け熱を纏った体を慰める。きもちがいい。体が軽くなる。
「いや、いいよ。俺もこれから予定があるから。」
「デート?」
兄の顔でタカシは笑う。
「変わったな。」
問いには答えず兄の目を見つめ弟は呟く。
目だけが笑わない笑顔と、茶化しに包まれた懸念の声色に兄はその真意を探るべく視線で「その心は」と弟をみつめる。こういった場面で誤魔化したりはぐらかすことをしない弟の誠実さを兄は知っている。
「変わったというか。そうだよな。変わったとは違う。男だったんだよな。タカシは兄なんだとばかり思ってた。」
知らなかったよ。と見つめ返すいたずらな目は優しい。血と、長い年月をかけて築いた兄弟を繋ぐなにかが多くの言葉を重ねなくとも気持ちを伝える。兄は弟の心情を慮る。
「そうだね。俺もこんな自分を知らなかった。」
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Aさんへ ⑲
Aさんこんばんは
先日、むすめたちと映画をみ��した
結論から申しますと全私が震撼し涙するおもてたんと違うでした。原作コミックからはいった私の、実写版に対峙する心構えが甘かった。私の非です
映画あと回転寿司にて次女が熱々の茶碗蒸しをひっくり返しテーブルを舞台に見事なプリンとなり、
回転寿司あとコーヒー店にて嗜みましたシトラス(きっとあれはライム。)シロップ含有パッションフルーツブラックティーから超高級ホテルのトイレの芳香剤の香りを感じ、いよいよ……、いよいよ本格的な夏の到来。夏の足音を捉えた次第です。
夏がくる。
しかしAさん、私の心は既に遥か晩夏にあります。ビコーズ
至近の市民プールが昨年閉鎖したことにこれほど歓喜している人間はK県S市の平らは広し近年人口増加傾向と言えど稀かと思います。早く、一刻も早く、
「プールなくなっちゃったのよ。残念よね。」
を娘たちに伝えたい。伝えたいのです。一昨年の夏休み、3日連続で娘二人を連れてオープンからクローズまでを流れるプールの水中で過ごした結果、冷え性が悪化し朝、回る洗濯機の水流を見るだけで酔ってしまうまでになった私にはそれを伝える権利があると思うのです
今後、わたしがダイエットを嗜む場合、プールにだけは通いません。いえ、通えません
よたばなしが過ぎました
梅雨は体調の揺らぎを覚えやすい季節です
どうぞAさん、ご自愛くださいませ
Sより
*********
『カロル絡む。カリム、カルム。枯れぬカルマ。』
彼は否定したけれど私はやっぱりネイビーだと思う。
それは、ほとんど黒に近く青より深い濃紺色のこと。
朝がくる直前の一番暗い空の色。
「いま自分がいる場所は絶望なのかもしれないって思う夜に言葉はなんの力にもならない。
絶望は暗いからなにも見えなくて、もちろん希望なんてひとつも見当たらない。
夜中、一人で、疲れて不安で永遠にこの夜にとどまっていたいと思う。朝がくれば否応なしに新しい一日が始まって、止まっているわけにはいかないぜって突きつけられる現実にうんざりするから。絶望の底にも更なる絶望があるんだってことを知ってしまう。辟易する。
なのにさ。
夜中、一人で暗い部屋でベッドの上で寝返りを繰り返してそのうち寝返る気力もなくなって、ぼんやり「あー、このまま朝がこなければいい。」って思いながらでも怖くて仕方ない自分もいたりする。「せめて朝がきて世界が明るくなればいい。」なんて思ったりもする。
このひとことが人生を変えたとか、世界を変えた偉人の言葉。とかさ。前向きに生きるためのヒントと��、いかにもな、まさに今の俺みたいな人が読むんだろうなって本をさ、片っ端から乱読して、なにか、なにかこの今を救う言葉がないかって探すんだ。
健全な状態なら胸打たれるんであろう涙を誘うハートフルな小説とかさ。
でも読んでも言葉はただ乾いたまま通りすぎる。白い紙に五十種類の文字と漢字が羅列してるなってことしかわからなくて、黒い文字がありとあらゆる組み合わせで言葉になってきちんと行儀よく、上から下へ整列してる風にしか見えない。
羅列って。
普通に使ってるけど実はよくわかってないよなって羅列の意味を調べて、ほら、やっぱり合ってたとか思ったりしてさ。音楽もね。あー、この人は日本語を音にのせて歌っている。としか感じない。何も自分の中に止まらず耳を通りすぎる。これは絶望のなかなんじゃないかと思うような時に、本も音楽も友達からのLINEも何の役にも立たない。って言いながら結局トルコ行進曲だったんだけどね。
探り漁ってたどり着いたピアノのトルコ行進曲をなんとなく、ぼんやりぼんやり聞いて小学生の時の運動会を思い出す。
玉入れの砂っぽい玉の感触とグラウンドの埃の匂いを思い出してアラタが「お前すげえ入れてたな」って褒めてくれた言葉と、笑顔を思い出す。ぼんやり眠くなってきて寝る。
夜の怖さも朝がくるプレッシャーも薄れて、ただ、とりあえず眠くなる。結局、言葉の苦しみは言葉で救うしかないんだ。って思いながら寝る。人で味わった痛みを溶かすのは結局人なんだ。
一番暗い、たぶん絶望って思う夜の中にもなにかしらの希望はきっとある。きっと希望はあるだろうっていう頼りない願望がかがり火になる。
希望の色はきっと、夜が明ける直前の一番暗い空みたいな色だと思う。絶望の色ととても似てるから見つけにくいけれど、きっとある。」
問わず語りを閉じ、フフっとタカシくんは笑う。私の頬を撫でる。
タカシくんが教えてくれた希望の色。夜明け前の空の色。彼はその色が似合う人だったと、今も私は思う。
*********
タカシの髪には白髪がある。
流行り廃りのない代わり映えしない定型の短髪。けれど「この髪型以外タカシくんには。」と、ソノコはその頭髪に鼻を埋める度、安堵を覚える。見た目より存外柔らかいタカシの髪に、柔らかな黒と白に、頭皮に届くほどに鼻を深く埋める度に。
20代半ばに生え始めたそれは年を重ねるごとに少しづつ増え、20代の終わりに髪色はブラックではなくグレーに近くなった。
タカシはグレーに近くなった頭髪を撫でて鏡をみつめ「また増えた気がする。」ひとり呟く。
ソノコはタカシの白髪の混ざる短髪を「知的で上品だし、セクシー。」なタカシの雰囲気に似合っている。と、とても気に入っている。
タカシの呟きを聞くとソノコは慌ててベッドから降り、鏡の前に立つタカシの真っ直ぐ伸びた背中を抱きしめる。湿り気の残る肩や背骨に唇を当て���どうかそのままに染めないで欲しい。と、鏡越しに目を見つめねだる。
秒後、鏡越しに、睨むに似た笑みのない視線でソノコを見下ろし、振り返るとソノコの肩をすっぽりと覆う大きな手を骨の浮く華奢な両肩にのせる。笑みの戻らない顔のままソノコをじっと深く見つめ、肩から手の平を頬に移し、包み、下唇をゆっくり何度も噛む。顔を離すとタカシは黒髪への捨てきれない未練とソノコへの愛しい呆れを込め、
「そんなことを言う女性はソノコくらいだ。」
と眉根をひそめ、力なく呟き、ため息をつく。未練も呆れも愛しさに抱きしめられ、幸せなため息となる。
***
「白髪なー。」
とタカシが嘆くのは、例えば、二人で買い物をしているとき。
「タカシくんはこれが似合うわ。もうね、絶対よ。」
と、紺色のシャツを鏡の前に立たせたタカシの胸に当てソノコが試着を催促すとき。
タカシは全体像を確認するより、ソノコを見るより早く、横に立つ、ソノコよりやや身長の低い男性店員の斜め上に向けられた視線を見つける。
悪意なくタカシの頭髪を見上げ、なにかしらの数字を計算する表情ののち歳の差カップル心中お察し致します的笑みの視線を、鏡越しに目ざとく認識すると鏡に顔を近づけ、
「白髪。」と「際立たせるよねー、」と誰に言うでもなく、呟きながら髪を撫でる。ティシャツのハンガーを丁寧にソノコに返し「検討します。」と微笑む。
タカシが白髪を嘆くのは例えば。
タカシが一人暮らしをしているマンションの、階違いに住む2、3歳の子供に満面の笑みで、
「おじさん。」
と、声をかけられるとき。
白髪の嘆きは例えば。
それを申し訳なさそうに我が子より大きなボリュームの声で、
「おにいさん、おーにーいーさーん。ね!」
と慌てて言い聞かせる母親に「すみませーん。」と謝られるとき。
タカシの嘆き、例えば。
タカシより年上であろうその母親が、
「ほんっとーにすみませんもうごめんなさい。あの、私の兄がほんの少しだけ白髪混じりですみません。ね!ごめんなさいは?おじさんのこと大好きだよね!優しいね!」
と、なにひとつ責めていないのに早口で言い訳し、我が子にいわれのない罪とそれに対する陳謝を強要し、ついでに見た目より案外深傷をおっているタカシの傷口に塩を揉み込み重ね重ね謝るとき。
例えば。
ソノコが髪を茶色に染めたとき。
「似合うね。かわいい。」
とソノコの髪に鼻をおしつけ、
「白髪なー。」
嘆き、ため息をつく。
「昼間さ、あの子またママに注意されてかわいそうだった。おじさん!の子。
ソノコそろそろ来るかなと思って下に降りたらあの子いたんだよね。おーい!って手ふってくれてさ。俺もおーい。とか言って。なんかほら、俺、ウキウキしてたしさ。子供かわいいし。で、おじさーん、って。そしたらさー、いつものくだりが始まっちゃってさ。ママ慌てちゃって。また同じ説明してくれるんだよね。初めて話すみたいな新鮮なテンションでさ必死なんだよ。気の毒で見��られない。足元でしょんぼりしてるあの子の顔なんてもう直視できないよ。ただ声かけただけなのにさ。で、謝られれば謝られるほど地味ー、にくるっていうさ。あの人のお兄さんてことはさ正真正銘ど真ん中のおじさんだよね。名実ともにおじさん。そのおじさんでさえほんの少しだって。ほんのすこーし白髪がって。すこーしって。多分あれ、俺に気をつかってくれてるんだよね。でも動揺してるからさ。気配りがバグ起こしちゃってさ。「すこーしだけ、かみがしろいのよね。」って。あの子に同意求めたら真顔で俺の顔ジーって見て首かしげたからね。無言の否定。明らかに彼はおじさんも俺もほんの少しではないことを理解してる。賢いよ。だからさ、無理ないよ。
自分のおじさんより白髪の多い男だったらさ、お兄さんて無理があるよね。
あの子まだちっちゃいし、なにも間違ってないのにその都度叱られてさ。
かわいそう。
でも確かにさ、五歳は老けて見えるよね。
仕事終わりで疲れてる時なんて。
十歳はいくよね。
そのうちさ。ソノコといるときにさ、親子ですか?とかさ、聞かれたらどうする?その日は近いよ。
限りなく近い。」
と、ソノコの染めたばかりの艶かな柑橘系の匂いがする茶色の髪に鼻を埋めたまま度重なるささやかな傷心を嘆く。
いつも必ずやさしい顔見知りのおじさんを見つけ、嬉々として手を振った小さな男の子と、自分を待ちわびウキウキと心弾ませてくれた大きな男が、一転、しょんぼりする様を思い浮かべ、そして、「高校生の頃もこんなに無口だったかしら。」と記憶を手繰ってしまうほど、日頃口数の少ないタカシから改行の少ないない長文の嘆きを聞き、その嘆きを聞くのは2度や3度ではないこともありソノコは、
「親子って。
そんなことあるわけないわ。
でも、そう、そうなのね。
それで元気がなかったのね。
さっき、気持ちいい?って聞いたら、今は大丈夫って言うから、なんか変ねって思ったのよ。
そうね。
でも、わかったわ。
そうよ、彼女のわがままな趣味嗜好を優先する必要はないのよ。タカシくんの髪はタカシくんのものに他ならない。
美容院行ってきたら?次のお休み。」
「ほんと?いいの?
そっかー、いいんだね。
うん。じゃあ、染めようかなー。そうだね、染めよう。
いいですか?未練はないですか?」
「ないわ。」
キッパリと答え、ソノコは目を閉じる。「タカシくん、ごめんね。
おじさんの子にもごめんな���いだわ。」
大切なことを伝えるときに目を閉じる癖のあるソノコの頬を撫で、キスをし、タカシはなぜか淋しさの混ざる複雑な笑顔をつくったあと自分の髪を撫でる。
撫で、ふと、考える。思い出す。いつかの痛い金曜夜のことを。
***
『世界中のミンナが敵になったとしてもボクだけはキミの味方だよ。』
「それってほぼ奇跡。」
ソノコと再会する直前。当時付き合っていた彼女と別れた直後。
金曜の夜を一人で過ごしていたタカシは、缶ビールと音楽番組をぼんやりと眺めていた。
若��女のグループが、一人一人自己紹介し歌い始めた。
メンバーの一人が作詞を手掛けた新曲だと紹介された。名前はおろか誰が誰なのか顔の判別がつかないままタカシは、そもそもこの団体は全員で何人なのかが妙に気になり、まばたきも忘れ、露出の高い服を着た女たちの人数を真剣に数えていると、その歌詞が耳に入った。
恋人と別れたばかりの一人の金曜の夜に音楽番組を何気なく選んだことがそもそも間違っていたのだ。
春の訪れに向け前向きな、メッセージ性の強い曲ばかりが流れ新しいスタートや再スタートを応援する。季節が変わり環境が変われば気持ちも変わる。前を向く。
そんな健全なスタートの季節に二の足を踏んでいる自分のような人間には、金曜日の夜に一人缶ビールの水滴を見つめ前の季節に止まっているような人間には、料理番組か将棋対戦当たりが妥当なのだと思う。旅番組など見た日には、自分探しなどと使い古した言い回しで手つかずの有給休暇申請をしてしまいそうだと思う。そのまま帰り道を見失ってしまいかねない。
それにしても痺れるパンチだったとタカシはビールをひとくち押し込み、かつての彼女を思い出す。
「嫌いじゃないけど、好きでもない。」
と、静かで長い別れ話の攻防の後、女から吐き出された文句は二人の交際を総括し要約されたシンプルな殺し文句は、フラれたというボディブローは、日毎、目には見えない速度でじわりじわりと心を蝕むような気がした。そのボディブロー、そのダメージ。
相手の女が最後に吐き捨てた言葉はタカシが相手に感じていた気持ちのコピーだった。コピーアンドペースト。女の顔を、すでに懐かしささえ込み上げるその顔を見つめ、タカシの思考を満杯にしたのは復縁祈願でも蛍の光でもなく「自分は、結婚はおろかまともな恋愛ができるのだろうか。」という底はかとない不安だった。
見つめ返した女から、
「毒にも薬にもならない。」
と、ボソリとゴミを捨てるようにつけ足されたとき。女の視線が鋭利な角度で斜め上を向いたこと。その視線を見逃せない自分を恨めしく感じた。
仕事の忙しさにかまけ、忙しさからの疲れにかまけ、ここしばらく自分の身なりをほったらかしにしていた。もちろんほったらかしにしたのは身なりだけではなかった。疲労を栄養に白髪が増えたことは、女から非難の視線を向けられなくとも認識していた。
不安で満杯だった思考は、どうせ終わるのだからと砂をかけたくなる思考に変わった。真実を暴く女々しい砂。
「わかった。で、このあとどこに帰るの?」
寸でのところで、とっくに喉を通り過ぎ口内で出番を待っている言葉を飲み込んだ。心底情けないと思った気持ちが砂をかける言動のストッパーとなった。
「奇跡ってどこに売ってるんだ。」
キンと冷えた缶ビールを心底まずいと思う金曜の夜だった。味方どころか敵��すらなかった。
結局、奇跡を歌うグループの人数は把握できなかった。まずいビールに酔ったせいではなく、
「動くよねー。」
ポジションがコロコロ変わるダンスに目が追いつかなかったのだ。全部が同じ顔に見えて仕方なかった。
いつから自分は若い女を見てきれいやかわいいの前に、タイプの女を探す前に、団体の人数を把握したいと思うようになったんだろう。グループを団体と呼ぶようになったんだろう。自分はこの子達よりこの子達の親に近い歳なんだと考えるようになったんだろう。そもそもいつから自分はひとりごとを声に出すようになったんだろう。
いつだ。
ビールはまずくなる一方だった。
***
タカシは冷えたビールがまずかった夜を思い出す。
目の前の「知的で上品だし、セクシー。」と白髪を褒める女を見つめる。再会した日「すごい久しぶりね。」に続いた言葉と優しい声を思い出す。
万が一、ソノコにフラれるとき。
愛してると言った同じ口に憎しみを込め毒にも薬にもならないとフラれるとき。
きっと、フラれた次の日の朝、顔を洗う前に鏡を見て白髪まみれの髪を今日にでも染めたいと思うんだろう。
もう誰もこの髪を愛し、包容し、許容して共有し、
「タカシくんの全てをすきよ。」
と、この頭を胸の中に抱いてくれる人はいないときっと淋しくなる。結婚はおろかまともな恋愛ができるのだろうかと悩むより先に、ただ、ソノコの笑顔を思い出す。髪を黒く染め、白髪に悩むことはなくなる。
けれど。
鏡にうつる自分の黒い髪を見つめきっと、とても淋しくなるのだろうと思う。
*
目の前のソノコと、その瞳のなかにうつる自分と見つめ合いタカシは、一人だった金曜日の夜を、キンキンにまずいビールを、いまだ人数がわからない若い女の団体が歌う奇跡の歌詞を思い出す。
*********
高校生だった時から12年後本屋で偶然再会したとき
「すごい久しぶりね!」
の挨拶の次の言葉は
「髪、すごく素敵ね。」
であったことを今も鮮明に覚えている。その言葉の次に
「ありがとう。」
と、謙遜や卑屈やまた自虐の言葉を返すことはできず、それらの言葉を思い浮かべることさえさせない清潔な気持ちの良い響きにありがとう以外返すことはできなかった。
清潔な気持ちの良い響きのありがとうには懐かしさと同じ量の安らぎがあった。
*********
タカシはネイビーが似合うと思う。それは黒に近い濃紺色。ネイビーのティシャツが世界でいちばん似合うひとだと思う。けれどタカシは、
「一層際立たせている気がする。」
と、髪を撫で否定の苦笑をこぼす。
ネイビーのシャツから伸びる腕。腕組みをするときの、ひじから手首まで真っ直ぐな力強い線。遠くを見るとき少し細める目。ベッドで、眠っているときの顔も、苦しそうに響く気持ちいいの声も、眉間に寄せる皺も、耳元で聞く温かい息も。全部のタカシを好きだとソノコは思う。
「すごくおいしそうにごはんを食べているところなんて。たまらないわ。」
ソノコは目を閉じ言葉に力を込める。
「それはね、」
字幕が全部上に流れて、スクリーンが黒くなって、照明がついて明るくなった映画館でしばらく椅子から立ち上がれないくらい感動してチケットの半券を一生宝物にしたいと思う映画を観たあとみたいな。読み終わってしまうのが勿体無くて淋しくて、一���、ページを閉じてしまう小説を一冊読んだあとみたいな。捨て曲が一曲もないアルバムを一枚聴いたあとみたいな気持ちよ。
大きな木を見上げて、風に揺れる葉っぱのカサカサって音を聞いて、その葉っぱと葉っぱの隙間から太陽がキラキラ落ちてくる。
「そんな気持ちになるの。タカシくんといると。それに、」
タカシくん眠いの?って聞きたくなってしまうような穏やかな表情はもちろん好きだけれど、怖いくらいに厳しい表情もたまらなく好き。
「つまり、タカシくんの全てがすきよ。」
目を閉じ、開く。
開いたソノコの目に自分が映っている。から、視線は確かに交わっているのだとわかる。けれど、ソノコはどこを見ているのだろうと思う。低い声、ゆっくり語るソノコの声に耳を委ねる。
そうか。
映画館にいる、
小説を読んでいる、
音楽を聴いている、
木を見上げ溢れる太陽を見上げている、
そうか、ソノコは今きっと幸せの中にいる。
タカシは、ソノコの瞳を、眠気を誘う愛の歌が溢れるよく動く唇を沈黙のまま見つめる。永遠に見つめ永遠に聴いていたいと願う。そして、ソノコのひと通りの説明が終わるとタカシは、
「うん。どれも全部よく分からないけどうれしいよ。ありがとう。」
笑う。
「ソノコが好きならなんでもいい。」
ソノコの首筋に顔を埋め強く抱きしめる。
泣きたくなるような幸せをソノコごと抱きしめ、タカシは目を閉じる。
*********
タカシの髪には白髪があった。
「知的で上品だし、セクシー。」なタカシの髪の色はソノコと再会した日から約一年後の3人の最後の日までブラックになることはなくずっとグレーのままだった。ソノコは時々タカシのグレーを思い、
「タカシくんはネイビーが似合う人だった。」
今も変わらず確信する。
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Aさんへ ⑱
Aさんこんばんは
先日はわざわざお電話くださりありがとうございました
タイミングを逃してしまいお話できずとても残念でした
でもメールにてお元気そうなAさんを感ずることができとても嬉しかったです
ドライフルーツの天然酵母パン
いつか必ず頂きにうかがいます
その際にはAさんがお好きなクリームチーズと私が好きなカマンベールを持参いたします
ワインもいきましょう
楽しみです
またメール��せていただきます
お電話も
Sより
********
『インサイト』
弔いがてらビールを飲みたくなる。
タカシが好んだドライを。
ずぶ濡れのドブネズミような後ろめたさで、傘をささず雨のなかに立ち自分のなかに蓄積した愚かさを打たれる雨に洗い流して欲しいと願うような今のきもち。たとえば今すぐ懺悔箱に入りたい。
リョウはジャスミンティーの円柱グラスにはりついた水滴を見つめる。
水滴を人差し指でなぞり、湿った指先でカウンターの木目をくるりくるりとなぞる。
「横取りね」
オギの、無装飾を装う平熱より微々高い優しい温度の声がリョウの耳に静かにストンと届く。優しい温度。きっとそれは思い遣り。だからこそ「横取り」の言葉は優しい音として聞くと一層重みを増す。トゲがなくまろやかだから染み入るようにストンと耳に届く。耳から心に届く否応なしに。
優しい温度、優しい音、優しい言葉。
昔観た映画の教会の片隅にあった懺悔部屋。懺悔箱。静かな鎮魂歌。胸の前で両手を組み目を閉じ項垂れる男。箱の外から神父が優しい言葉をかける。
ほの暗い照明の、狭い店に充満する音楽と酔狂な騒ぎと肉が焼ける匂い。ジャスミンティーのグラスにびっしりはりついた水滴。優しいオギの優しい言葉。
届いた言葉は心に到着すると鉛のように重くなり消化できないヘドロのように胃を重くする。ためいき。
反省、伝えきれなかった感謝と謝罪、後悔、自責、もしもボックスで過去に戻りたい、尽きぬ懺悔。
どれだろう。どれも全部か。「虫酸が走る」とタカシの目を見つめ吐き捨てた。けれどタカシを好きだった。宝物でお守りで存在そのものがマンケーブだった兄。好きだった。最後の日まで。今も。指でなぞる木目がアリ地獄に思える。
「まあいいや。その話。面倒くさいから。
俺、お前に女盗られたことないし。それに生前彼女に手を出したわけじゃないだろ。中途半端に悪者ぶるな気持ち悪い。反吐が出る。何にせよ過去には戻れない。タカシくんはもういない。前を見るしかない。
そんな話どうでもいい。んでさ、女ってさ……」
運ばれたばかりのグラスに唇を当て、真新しい泡を飲み込む男友達の横顔をリョウはまじまじと眺める。ここは懺悔箱ではない。耳障りがいいその場しのぎの付け焼き刃的慰めは皆無。旧友であり親友でもあるこの男の、彼女の気持ちがわかる。彼女の横に立って肩を叩き同情したくなる。「そりゃ惚れるよ。男の俺でさえも惚れてしまうよ。」と。
腹の中だけで呟き否応なしに顔が綻ぶ。
笑ってしまう。笑うしかないと思わせる男友達の声。つまり、今夜はビールを何杯でも奢りたくなるほどリョウは神父でも神でもないただの親友に救われてしまう。
「……ていうかさ。これ、ハイ��ウズの方だよな。ブルーハーツじゃないよな。」
オギが思案顔で音を読む。シャララとヒロトは歌う。堪らない。優しくて優しくてやってられない。下を向きずぶ濡れで木目をなぞりながら永遠に日曜日に居たくなる時だってあると優しくされてしまう。
リョウはジャスミンティーをゴブリと大きく飲み込む。冷たいジャスミンティーは喉を冷やしながら通過し胃にとどまる。
とても旨いと思う。
久々に会った男友達は元気で優しい。冷えたジャスミンティーはヘドロが張りつく体内を爽やかに鎮静する。鎮痛。飯はうまいし明日も仕事がある。明日も仕事だと奮起することができる。家に帰れば冷蔵庫のなかにソノコお手製のケーキがある。自分が産まれたことを祝福してくれる人。「おかえりなさい。」と笑ってくれる人。その胸に顔を埋めればきっと頭を包んで抱きしめてくれる。疲れた?眠い?リョウくん好きよ。
「お前、この歌が似合うな。ハイロウズ。滅茶苦茶似合う。お前にピッタリだよ。」
「は?歌に似合うとか似合わないとかあんの?全くわかんねえけど。でさ、エサだよ。エサの話。女ってさ一緒にいられるだけで幸せ、的なやつ?あれ嘘な。」
「嘘?」
「嘘じゃないにしても最初だけよな。月並みだけどさ、特別なことなんてなくてもあなたといられるだけで幸せとか最初だけでさ3ヶ月くらいしたらやたら記念日が増えてるんだよな。特別な日だらけよ。毎日がスペシャル。誕生日やらクリスマスやらホワイトデーはまあいいとして。出会った日記念だの付き合い始めた記念だの、喧嘩したけど復縁した記念とかさ。
お前覚えられる?
月のほとんどが記念日になってくぞ?月命日だって月一回よ?
特別な日なんだから記念にどっか連れてけとかプレゼントだとか……ただの口実だよな。んなー、もー、面倒くさい。全力で、全身全霊で面倒くせえ。もうさ、どさくさに紛れて月2回誕生日祝ってんじゃねえかな、俺。
あいつの誕生日聞かれたら正直すぐ答えられないもんな。んで、俺の誕生日はさ、雑なんだよな~、扱いが。あからさまに雑よ。」
「誕生日。」
「あとさ、厄介なのがサプライズと手紙な。お手紙。ラブなレターよ。」
「手紙?」
「女はなんだかんだ気持ちのこもったお手紙が嬉しいもんだとか言ってさ。お前そんな繊細な情緒持ち合わせてねえだろって話なのよ。毎日何回ラインしてると思ってんだよ。そんな今さら手紙で伝えることもねえっつうの。この前さ今日は天気が良かったね。パスタおいしかったよって書いたら本気でキレてさ。小学生の日記じゃねーとか言って。
これ旨いな。
お前んとこ料理上手いんだよな?
いいよなー。心底羨ましいわ。うちこの前カルボナーラ作ってさ。玉子ボッソボソ。これそぼろ?って聞いたらまじでキレてさ。
苦手なら高度なとこに手を出さなきゃ良いと思うんだけどな。大してうまくないやつに��って難易度高いとこに手を出すのよ。スペアリブとかいって。やばかった。ササミの甘辛煮?って言いそうになって寸止めしたかつての自分を俺は全力で褒め称えたい。スペアリブて。言いたいだけだろ。わたしスペアリブ作れますて。カラオケと一緒よ。音痴に限って難しいとこ手だすのよ。大散らかり。アレンジにもほどがあるわ。聴き終えたころには完全に原曲を思い出せなくなってる。」
深刻み皆無の愚痴を一通り吐き出し、艶々光るオイルを纏ったカルパッチョのタコをフォークに刺して持ち上げ、旨そうに咀嚼するオギの横顔をリョウは見つめる。タコからミニトマト、タイ、再度タコ、ビール。
「旨い?」
「旨い。俺いまなに食っても旨い。旨いのハードルが相当低くなってる。」
「うん。おいしい?」
「は?だから旨いよ。おいしいです。なに?なによ気持ち悪いな。お前は俺の女か。おいしいを強要すな。なによ。お前も食えばいいだろ?」
「ん、うん。いや、おいしくてなにより。」
おなかすいたでしょ。
またつくり過ぎたわ。
無理しなくていいのよ。
リョウくんおいしい?
そう。よかった。
またつくるわね。
これ、タカシくんもお気に入りだったのよ。
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Aさんへ ⑰
Aさんこんにちは
Aさんはカヌレはお好きですか
私は最近「生カヌレ」にはまっております
生カヌレ。その存在を目にする前に字面を読みとけば
「つまりプリン?」
と察するのですが、初めて生カヌレに出会い意外な真実をしりました
カヌレの上に生クリームがのっているのです
生、で切りクリームを切り捨てるネーミングセンス。嫌いではないです
***************
『ジャストモーメント』
「結構切ったねーすっごい似合うーかっこいいー」
女は、イスに浅く座ると背もたれに背中をつけることなく向かいに座るリョウの、今まさに美容院で切ったばかりの髪をひとしきり褒めた。慌ただしい全てが。胸の下まである長い髪が、偽装天然人工茶髪がイスに座るときフワリと軽やかに踊った。
リョウがよく知る、しかし一度も触れたこと��ない髪。その髪とよく似た目の前の女の茶色の髪を見つめ、くるりと丸まった毛先を見つめ必然的な流れとして胸の膨らみを見つめリョウは胸のうちだけで呟く。これじゃない。
女が発した言葉のだらしなく伸びた語尾の母音いの高音が気に障る。耳につく。気に入っている「い」の低音に上書きされる。かき消される。低い声が消える。
「リョウくんいいわね?わかった?」
「大丈夫。いいわよ。」
「残念でした。タカシくん今いないわ。」
女を見つめたあと、つくる予定でいたリョウの笑顔は出番を無くした。出番を無くした理由は女の褒め言葉と言葉の語尾伸ばしにイラついたから。だけではなく、ソノコの眠くなる低い声のいの母音を思いだしたからでもなく過日のタカシの声が頭のなかで聞こえたからだ。
いつかの平和な日曜日。
*****
リョウはその日、仕事を終えると泥袋のように重くなった身体を引きずり駐車場の車を目指した。たどり着くとしばし車をぼんやりと、呆然と、憤然と見つめた。泥袋の重力が増す。頭から突っ込んだ四駆は二本の平行な白線と社会的倫理を見事なまでに無視した斜め駐車。洗車とは無縁の紺色の車体は埃っぽく、この晴天のなかどこのどしゃ降りを走ったのかと思わせるほど薄汚れている。年季のいった四駆を見つめ、
「誰だ下手くそが。俺だ。」
呟いた。
気持ちの乱れが表れるがごとく慌ただしく停められた斜めの愛車を睨み、ため息を吐き、運転席へ乗り込んだ。太陽で熱せられたシートに座ると自分はいま職場をあとにするときお疲れさまを言い忘れた。と、忘れたのではなく他意ありきで言わなかったことをふりかえり、先のため息より深く長く息を吐き出した。吐き出した二酸化炭素の最後に「疲れた。」が小さく自分の耳に届いた。
エンジンをかけギアをバックに入れる前、携帯電話の電源をいれトップ画面を見つめてから角の丸い、目に刺さる色彩の派手な緑色に囲まれた呑気な白い吹き出しの四角を叩いた。
病院の出口から愛車にたどりつくまでのほんの数分の距離、ギラギラと照りつける太陽に顔をしかめ、良い天気だと思うより先に鬱陶しいと思った。疲労のみの身体は重く、元気一杯のぎらつく晴天を恨めしく思った。
「あえる?あいたーい」
「おつかれさまー」
女からのラインを読み(直近のメッセージがラインを開く前にトップ画面で最初に目につくように、1回で済む短文をわざわざ2回に分解し送られたその、二つの白い吹き出しに込められた真のメッセージを読んだ。私は労いを忘れないし重い女ではないという真意)アイコンごと削除する。
「漢字を使え。」
携帯電話から女の存在が消える。携帯電話の重量感がほんの少し軽くなる。送り主のぎらつく晴天のような笑顔を思い浮かべようと苦心してみたがタカシの顔だけが浮かんだ。
(日曜か。日曜だよな。)
タカシは家に居るだろうか。ギアをバッグに入れそろりそろり車を後進してブレーキを踏むと、ドリンクホルダーに差し込まれたサングラスをかけドライブへ。
行く先は自宅ではなく、女を拾うための待ち合わせ場所でもなく、日中のエネルギッシュな晴天をゆるゆると締めくくり静寂の夜を招く直前の夕暮れのような笑顔のタカシ。兄が暮らすマンション。
自宅で一刻も早く睡眠をとり身体を休めるのは多分正解、惰性のセックスによる荒治療で精気を養うぐらいの余力はあるだろうからそれもまた歪曲した正解。けれど、代わり映えのしない平穏な兄の「お疲れさま。」をリョウは、その泥まみれの泥だらけの日曜日に選んだ。
タカシがソノコと再会する前。
つまりリョウがソノコと出会う前。それより少し前の、兄弟の暮らしにソノコが最後のピースのように加わる前の、いつかの日曜日。
タカシの存在そのものがリョウのマンケーブであった頃のろくでもない日曜日。最高の日曜日。
インターホンをならし数十秒後「リョウくん。」と玄関を開けた夕暮れ顔のタカシに「カップラーメンある?」と、「ただいま。」でも「急にごめん。」でも「おう」でもなくタカシの顔を見た途端、空腹に襲われたずねた。
「いま帰り?お疲れさま。顔色悪いね。」
「カップラーメンはあるのかと聞いている。さっさと答えてくれ。空腹と眠気のせめぎあいだ。無駄な会話をしている暇も余裕も俺にはない。」
空腹と眠気と苛立ちのせめぎあいなのだと穏やかな兄の笑顔から気づかされる。兄の笑顔を見つめながらさらに分析すれば、空腹と眠気と苛立ちと認めたくない傷心のせめぎあった結果の八つ当たりなのだと思う。
職場で常々言葉足らずの指摘を受け、その言葉足らずを補うがため二、三の言葉を増やしたところ理屈っぽいと再指摘を受けた。社会人としての前に人として決定的な何かが欠落していることをそろそろ認めるべきではないかと泥だらけの体と心を抱えながら職場をあとにするとき。お疲れさまの変わりに「今日までお世話になりました。」とぶちまけてしまいそうになった気持ち。お疲れさまは言い忘れたわけではなく、言わなかったのでもなく、言えなかったのだ。
口を開けば、口からではなく目から何かが吐き出されてしまう気がした。それでいて「どうしろって言うんだ。」と泣き言を吐き出して立ち止まっていられるほど社会も時間も寿命も優しくはない。どうにかしろと自分が相手でも言うだろう。
「カップラーメン。
ストックあるけど、俺がうどん作ってあげる。
俺さー、最近かき玉うどんにハマっててさ。そしたらさー、会社の後輩からなんと。卵をもらったんだよ。
お土産。
どこ行ったんだっけ。違う、どこも行ってないか。スーパーで買ったのか。まあいいや。一個二百円。ひとパックじゃないよ、一個。リョウくん一個二百円の卵食べたことある?
俺ないよ。
たまごってさ。ほら、王様の王に点のぎょく、に子供の子。と、一文字のたまごあるじゃない。
どの場面でどう使い分けるのかリョウくん知ってる?���えてあげようか。」
「タカシ。今はいい。
なんと。卵をもらったのか。なんと平和な。」
「だね。かき玉うどん作ってあげる。カップラーメンより滋養があります。俺が作るうどんは。
ベッド貸してあげるから食べたら休みなさいよ。その顔で運転はさせられない。」
かき玉うどんと聞き、リョウは正直なところ顔をしかめたくなった。
三度の飯より化学調味料が好きなタカシの作る出汁はピタッと安定した味がする。
親の仇のごとく大量に投入されるそれは食材の風味を活かすどころかぶち壊し、どんな食材を使っても常に同じ味だ。化学調味料味。たまごの漢字の意味を教えてくれるなら代わりに適宜の意味を教えたい。
滋養に満ちた卵が気の毒のような気がした。
挙げ句、かき玉うどんとなれば正式名称はかき玉インゼリーうどんになるであろうことは、現物を見ずとも想像はつく。
ゼリーは好きだけれどトロミになれなかった片栗粉の塊は一個二百円の卵度外視のインパクトがあるであろう。
けれど、タカシの弟思いのひとつひとつには既に卵より滋養があった。それが答えに職場でなんとか堪えた溢れそうな何かがいま、なんと、溢れてしまいそうだ。
「うどんお願いします。ベッド借ります。ありがとう。」
ふふっと、プロが作るかき玉のようにフワリとトロリとした笑顔で兄は笑った。
「リョウくんのありがとうはとても気持ちがいいね。ちゃんとありがとうの音がする。」
また始まったと笑ったときには、もうかなり養生がすすみ既に元気を取り戻しているのだと実感 した。
「お前はつくづくそういうさ、聞かされるこっちが恥ずかしくなるような話を恥ずかしげもなく話せるな。
淡々とな。
その、女受けのいいクシャッとした笑顔と共に。
女がコロッとくるのはその笑顔じゃなくて、実は、そのポエムのようなリリカルじゃないか?
というかお前、実際女の前でもそういう感じなの?モテないわけないよな。ナチュラルにサラッとやってのけるもんな。計算じゃないってのがまた。計算じゃないってきっちり伝わるところまで込みのポエムだよな。ちゃんと成立してるよ。」
「リョウくんはありがとうって思うときにしかありがとうって言わないからだろうね。」
「華麗なまでのスルーだな。」
タカシは華麗に
「ごめんね。リョウくんなに言ってるかわからないし、俺はリョウくんほどもてないよ。
あとさ、リリカルって単語は詩人とミュージシャン以外が使うと聞いてて恥ずかしくなるよね。」
笑った。
「どの口で恥ずかしいって言ってんだ。」
笑った。
「言葉って便利だから。ありがとうって思ってなくても、かわいいよとか好きだよとかもさ。ごめんねとか。
まあ、リョウくんから滅多にごめんは聞かないけどさ。
本当は思ってなくても相手の点数稼ぎとか、とりあえずその場を整えるためにありがとうもかわいいよも、ごめんねも言葉にすればその場を整えることができるよね。関係性も。突貫的に。だから言葉ってすごく便利だよね。
まあさ、本当はそんなこと思ってないくせにとかってなる場面はあるけど、でもたいがい平和がおとずれる。」
「それは言葉云々じゃなくてお前の人間性が大きいんじゃないか?タカシの培った人間性。人となり。まあなんにしても気持ちが悪い会話だな。」
「俺は全く気持ち悪くないよ。ありがとう。でもさ、中身が空っぽの言葉って結構あるよね。リョウくんはさ、ありがとうはありがとうって思ってる時にしか言わないし、かわいいもごめんねも、おいしいとかも。そう思ったときにしか使わないからきっと本物の言葉なんだろうね。リョウくんの言葉はちゃんと本物の音がする。だから、リョウくんのことは信じられる。そうなんだと思う。本当の時にしか使わないから誤解を招くことも多いんだろうけど、でも、リョウくんがごめんねって言う時はきっと本当にごめんねの時なんだろうね。だからきっと、その時はきちんと相手に許してもらえると思うよ。」
「タカシ。お前のポエムは計算だ。緻密に計算され尽くしている。」
「そうなの?」
タカシの恥ずかしくなるリリカルは、恥ずかしいと思う気持ちを温かく包みこんでしまう。
体温よりは少し高く、かといって服を脱ぎたくなるほど熱いことはない。気持ちいい。恥ずかしいを取っ払いありがとうと言わざるを得ない温かさ。恥ずかしいという思考はさらさらと温もる気持ちよさに、思考から感情に着地する砂時計。
自分を支えるためのバックボーンは、兄から与えられる養分でより強固になり、タカシから贈られる言葉が生きる道しるべの教科書となる。時折、ページを開いてリョウはタカシの言葉を探す。
*****
あのかき玉うどんは人生で一番うまいかき玉うどんだったのかもしれない。あの、泥まみれの日曜日の。タカシお手製の。滋養溢れる。
いま目の前にいる女が放つすっごいも、似合うも、かっこいいも、それらの言葉からは本物の音が聞こえない。と思う。「あなたのちょっとした変化にちゃんと気づけるわたし」を内包しているのだと思う。点数稼ぎ。突貫の、張りぼての、偽りのいい気持ち。
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Aさんへ ⑯
月曜日の朝です
娘は腹痛を訴えて学校をお休みし、腹痛を抱えているひとにあるまじき爆睡で健やかな寝顔です
いいと思います
そんな日もあります
季節の変わり目(とはいえ連日、もはや真夏風味の気温ですよね。)
Aさんもどうぞご自愛くださいませ
S
********
『ピーコック』
ハンドルに顔を伏せる。
ジーンズの太もも、膝に自作の経���ダメージ、素足、タカシからお下がりした黒い皮のサンダル、正式には借りパク。親指の深爪、しわくちゃに踏み潰されたガソリンスタンドのレシートが2枚、1枚はフットブレーキの下。砂まみれのフロアマット。最後にこいつを洗車してやったのはいつだ?ハンドルに顔を伏せたままリョウは目を閉じる。いつだ?いつ?ソノコを好きになったのはいつだ?
タカシの部屋をたずねる。
足を止めるより早く腕は伸びる。
ドアの前で足が静止するより早くインターホンがドアの向こうから聞こえる。
ひやりと冷たい、ノックをすれば冷たい金属音がする能面のような玄関のドアがゆるゆる開きはじめる。
声を聞く前に、笑う顔を見る前にその人と出会う前に気配でわかる。扉の隙間から流れ出る室内の空気に混ざる香水。そもそも扉を開くスピードで、タカシのそれとは違うスピードでゆるゆる開かれるドア1枚隔てた向こうにいるその人を感じる。
ドアが全開になる。隔てるものがなくなる。向き合い、見下ろすソノコから、
「残念でした。タカシくん今いないわ。コンビニ。リョウくんおかえりなさい。」
タカシの不在を告げられる。
兄の不在を残念だと思えなくなったのはいつだ?なんだタカシいないのか。とガッカリしなくなったのはいつだ?
タカシから聞く「リョウくんおかえり。」よりソノコから聞くおかえりなさいを欲しがるようになったのはいつ?ソノコのおかえりなさいを自分だけのものにしたいと思うようになったのはいつからなのか?
ハンドルに顔を伏せたままリョウは目を閉じ続ける。
違う。全部違う。まるで違う。
初めて抱いた感情故見過ごした。一目惚れ。出会った時に落ちていた。それだけのこと。
ソノコと初めて会った夜。リョウは仕事を終えるとその足でタカシが一人で暮らすマンションへ向かった。キャメル色のスリーシーターに、時々ベッドにもなるコーデュロイのソファに深く座り雑誌を読みながら来る人を待っていた。
「お腹すいたね。」
愛しい人を待ちわびるタカシの声はとても幸せそうに柔らかく響いた。お腹すいたねは早く帰ってこないかなとイコールで、リョウはなぜか懐かしい気持ちになった。大好きな母親の帰りを待ちわびる小学生のようだと既視感のない、味わったことのない感情にも関わらずリョウを満たしたのはノスタルジーだった。
テレビの音もラジオも音楽もなく、タカシがダイニングテーブルに広げた新聞をめくる音だけが短いサイクルできちんと定期的に響く静かな夜だった。
静かな夜のなかに紙が擦れあう乾いた音。数時間前から一向に止む気配のない頭の鈍痛に耐え兼ね、微かに鼻唄さえ醸す極上に上機嫌なタカシに、
「申し訳ないが音が響くから新聞と音痴をやめてくれ。頭痛がエグい。」
とは伝えず、一瞬だけ横顔を見つめ側頭部を撫でた。
薬を飲むほどではないけれど飲めばきっと楽になる。それはわかっているけれど銀色の紙を破って丸い白い粒を3錠取り出し口に放り込みグラスに水を注ぐ。飲み込む。さあ早く効力を��揮してくれと、これがマーブルチョコならいいのにと、色とりどりなカラフルを独り占めしてあんなにワクワクしたけれどなんだかんだ1番好きなのはチョコレート色をした茶色だったと、マーブルチョコの糖衣のほんのりした甘さを手繰り寄せ頭痛薬がマーブルチョコならいいのにと思考してしまうことが億劫でたまらず、頭痛薬を致すのを諦めリョウは雑誌から顔を上げた。リビングのカーテンを見つめた。雨が降るだろう。と、もしかしたらもう降っているのかもしれないと鼻から息を吸い込み、やはりと麩に落とした。
インターホンが鳴った。
両手にスーパーの袋を提げたソノコを迎え入れ長い両腕で包み兄は玄関でキスをした。ただいまおかえりの延長にある一連の流れは自然で、弟がそこに居ようと居なかろうと行われるのであろうことを容易に想像させるキスだった。
「人前でベタベタするのもされるのも苦手なんだよね。」眉をひそめ、ため息をついた過去の兄を思い出した。街中で女から手を繋がれやんわりほどいた途端女の機嫌が悪くなった。と、あれは、あのため息はたしか参ったという音のため息ではなかったか。
リョウはキスをしている二人から手元の雑誌に視線を戻し(参るのはこっちだ。)苦笑した。
「ソノコ。弟、リョウくん。」
紹介されソノコを見つけた。
(泣きぼくろ。)
涼しげなかわいい目をした女だと思った。そのかわいい目が、笑うと眠そうな優しい目になった。
(誰かに似てるな。)
リョウは、かつての女たちやアイドルやアニメのキャラクターを次々と思い浮かべたが結局初めて会ったその女が自分の記憶の中の誰と重なるのか答えを見つけられないままにその夜2度目のノスタルジーがリョウを満たした。
優しい目と甘い雰囲気に似合わない低い声は、丁寧にゆっくり話す声は笑うと時々掠れ、
(目つきといい、喋り方といい……眠いのか?)
探求でソノコを見つめ耳をすませたが、
(こっちが眠くなる。)
気づけばミイラになっていた。
その眠そうな視線を時々しかリョウに向けず、兄ばかりを愛しそうに見上げることに気づいた。
「こんばんは。」
と無意識に差し出した右手は触れたい衝動からの握手だったのだと思う。
その夜、タカシの胃を掴んだ数々の手料理がテーブルに並んだ。匂いを嗅いだ時点で、
(旨そうだ。)
掴まれた。
「お豆腐が苦手って、タカシくんから聞いていたのよ。今度、また、機会があったら、私の豆腐ハンバーグを披露させてね。リョウくんを唸らせてみたくなったわ。」
健やかに朗らかに、気心知れた男友達といるような妙なデジャヴをどこか遠くで感じさせるソノコ。
食事が終わる頃には、まだ見ぬ豆腐ハンバーグにリョウは思いを馳せ、その機会を必ずつくると強く誓った。しぶとく居座っていた頭痛が、気づけば跡形もなく消えていることに気づいた。
タカシの部屋をあとにするとき外まで見送りに出たソノコは兄の横で、
「お疲れなのに時間をつくってくれてありがとう。ごめんね。でも会えて嬉しかった。またねリョウくん。」
礼を言い���前を呼んだ。気持ちの良い響きのありがとうだと感じ、自分の名前を心底良い名前だと思った。
『彼女ができたから今度リョウくんに紹介するね。』
ソノコと出会う数日前、仕事中に届いたタカシからのラインに返信をせずリョウはその日の夜、タカシのマンションを訪ねた。
「料理がすごく上手だから3人でご飯を食べよう。」
タカシは穏やかな笑みで弟を見つめた。
「名前は」
たずねたリョウに、
「ソノコ。」
宝物の名前を答え、
「写真見る?」
携帯電話の電源を入れた。
「いい。会うし。」
リョウがごちそうさまを真綿に包み拒否すると、
「リョウくんのタイプではないと思うよ。」
タカシが淡く囁いた。携帯電話の画面を見つめながら囁いたタカシの表情を覚えている。弟への枯れない愛が足枷となった兄の警告は急所を外した。
リョウはハンドルに顔を伏せたまま今日までの数ヶ月を振り返る。降り注ぐ太陽が首筋に当たる。
ソノコと初めて会った夜。「タカシは俺の好みをわかってないんだな。」ぼんやりと呑気なことを考えていた。
(違う。)
タカシは熟知していた。自分達の母親とは真逆のソノコ。弟思いの兄が男として真綿に包んだ釘。釘をさされたことに気づかず、またいつの日から気づかぬふりをしていた自分の罪。深く息を吐く。
タカシの暮らしにソノコが加わり、寒色だらけだったタカシの部屋はあからさまにこざっぱりと清潔感と生活感が育まれた。温かい色の小物や生活品や、化粧品が増え、照明を変えたように明るくなった。そこかしこにソノコの存在を感じた。
リョウは、通いなれたその部屋に違和を覚え、その違和感はあっという間に居心地の良さに変わった。3人の休日、タカシの部屋でソファに寝転がり二人の気配を感じながら目を閉じる。
しばらくするとそっと、ふわりとブランケットがかけられ、ブランケットが作った風に甘さのない香水が混ざる。
「ソノコ。コーヒー飲む?俺チーズケーキ食べたい。冷蔵庫?」
「ありがとう。のむ。まって切ってあげる。」
「成功した?」
「大成功よ。アールグレイを混ぜたのよ。すっごく良い香りよ。ボトムもすごくおいしいの。近年稀にみる成功よ。リョウくんにも食べさせなきゃ。」
声のボリュームを落としたやりとりが聞こえる。
(実家より実家。)
リョウは心の中で呟く。途端、本格的な眠りのなかにトロリと沈む。
ソノコの笑顔が浮かぶ。
助手席の女が甘ったるいデパート1階の人工的フェロモンの匂いを放ちながら
「大丈夫?具合わるいの?」
リョウの二の腕に右手をのせる。「ごめん。触るな。」を、
「ごめん。大丈夫。」
に変換し、デパートの匂いをかき分けハンドルに突っ伏したまま、目を閉じたま首筋に太陽を浴び続けながらソノコの香りを手繰り寄せる。
「リョウくん!」とふざけて腕を掴まれ、フワリと香った。近づかなければ捉えることができないとても微かな香り。移り香は肌を重ねた者だけが汗を混ぜ合わせメロウな香りに変える。ソノコのコケティッシュな雰囲気とはずいぶんイメージが違うその香りがタカシから香ったあの日。
突然訪ねたリョウを迎え入れるため、玄関のドアを開け��タカシは素肌の上にシャツを被るとジーンズのボタンを留めた。
「リョウくん。」
朗らかに笑うタカシからソノコが香ったあの日。リョウは真夏のスイカを思い出した。
時々、自分の記憶力の高さに辟易する。
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Aさんへ⑨
Aさんへ
Aさんこんばんは
ずいぶん昼間の時間が長くなりました
変な時間につい昼寝をし、いまが夕暮れなのか夜明けまえなのか一瞬わからなくなります
先日は心温まるメールをくださりありがとうございました
励まされます
いつもありがとうございます
S
********
『バイオレットオアクラウディ』
懐かしい顔と、そうでもない顔(近く会ったばかりの幼馴染み。
店のドアを開けたタカシを、店の一番奥大所帯向けのテーブルから幼馴染みのアラタが手をあげ店員のいらっしゃいませより早く「おう。」と呼んだが、明らかに、後ろに立つソノコだけに向けられている視線を認識し一秒で
「帰ろっかな。」
タカシはそのままソノコを連れユーターンしたくなった。嫌な予感しかない。)は無視し、幼馴染みの隣に座る一秒も興味のわかないやけににこやかな女に、
「こんばんは。」
と声をかけ、ソノコに一番端の席を促す。ソノコの隣が自分と壁であればこれ以上安全な席はない。
ウナギの寝床仕様で洞窟のように奥行きが深く幅が狭い店だから、一番の奥のテーブルの一番奥のイスに座らせればソノコの背中と肩の隣は壁になる。もう片方の肩の隣に自分が座れば守備は上々であるはずなのに、心なしか鼓動が早まるのは空腹に流し込んだビールと店内に流れるブルーハーツのせいだとタカシは思うことにする。
土曜日の夜は、金曜の夜とは違う種類の解放感と高揚があるように思う。
アラタのようなイカれた男は土曜日の朝には一週間分の疲労がきちんとリセットされ無駄なエネルギーが満ちる。
常に酔っているような酔狂極まりないアラタを見ているとタカシの頭のなかに、かつてミサオが小学生のリョウに贈った『便所の100ワット。』という言葉が蘇る。
***
ミサオが一人で暮らしていたマンション。祖母と兄弟。三人の週末。お泊まりの夜。
ミサオがつくった夕食を文句を言いながらモタモタ食べていた弟が
「リョウくんお野菜食べなさい。」
と注意されながらなんとか食べ終え、やっと食べ終わった解放感から
「ごち、そう、さま!」
イスの上からジャンプをし、回転しようとしてし損ね半回転で床に着地した。
食べ終えた食器を手にしていたミサオと空中でぶつかり、危うくミサオは食器を落としそうになった。咄嗟に「危ない!」と叫び汚れた食器を胸で受け止めた。ミサオのエプロンは茶色く汚れた。
「プシュー」
と、身の毛がよだつ非ヒーローの効果音を発し、センスの欠片もない自作のポーズで満足げにうずくまって着地を決めているリョウを見下ろしミサオはため息混じりに呟いた。
「リョウくん。あなたみたいな人のことをね、昔は『便所の100ワット』って言ったのよ。」
リョウはその言葉の意味そのものより便所の単語に激しく憤っていた。
***
昔から女に関して節操がなく、イカれ倒しのしかしどうしてもどこか憎めない幼馴染み。高校生活までを共にすることとなった便所の100ワットが向かい風でしかない先輩風を吹かせ、明らかに他意のある視線を後輩のソノコに向ける。害のない昔話で他意をカモフラージュし饒舌さに拍車をかける。
(イカれ始めた。また始まった。)
タカシは苦笑し
(憎めない。無駄なエネルギー満タンのただのバカ。)
言い聞かせる。
100ワットの隣には100ワットが連れてきた倦怠期風情の女が、なにを食べればそこまで不味そうな食べ方ができるのか不機嫌風情を丸出しにしながら時々隣の彼氏を、時々正面のソノコをまじまじ見つめる。刃物の視線。
(色々怖い。)
飲み込むビールが不味いからではなく(全く味がしない。)とタカシはアテ変わりに隣のひとの横顔を見つめる。ソノコは、イカれた視線にも尖った視線にも慣れているのか、または、しっかりしているようで時々ずば抜ける天然な一面からか意に介さぬ様で、静かに笑う。
金曜日の夜。なんとなく2人で観始め30分ほど経過した頃、興味がないとは言わないが興味がなさそうにぼんやりし、
「ソノコ、眠い?もう寝る?」
と聞くとコクリと黙って頷く時の目をしている。ただ、静かにぼんやりソノコはにこにこしている。
**
飲み会からの帰りの車中でタカシは運転するソノコの太ももに手をのせ「眠かった?ごめんね。」とたずねた。
ソノコは少し悲しそうな表情で首を横にふったあと、
「彼氏が自分の目の前で自分以外の女性を褒めるのは他意はないんだって分かっていても傷つくし、でももっと���つくのは、自分は知らない彼の歴史を知ってる女と出会うっていう事実よね。きっと彼女はさっき疎外感で傷ついたわよね。
すごくまずそうにフィズを飲んでた。
すごくきれいにメイクしてたじゃない。ベージュのグロスが似合って唇がすごく色っぽかった。まつげもダマがひとつもなくてすごくきれいだった。
先輩に会う前にきっと時間をかけて、アラタ先輩のためにきれいになりたくて頑張って。すごくきれいな人だったじゃない。
紫色のフィズをね、唇に当てたときにすごく淋しい色に見えた。
ネイルのモスグリーンに紫が映えてすごくきれいなのに淋しい色に見えたの。悲しくなったわ。だから、きっと私が楽しそうにしたらしたで、気を遣えば遣ったで彼女、どっちにしても淋しかったと思う。」
アラタ先輩。素敵だけどああいうとこがダメなのよね。と、前を向いたまま笑わず深くため息を吐いた。
『グロスとは、口紅と何が違うのかわからないしダマのある状態のまつげというのもわからない。
まつげにダマを付けるなんてむしろ熟練の技がいるのではないか。あと、モスグリーンのネイルと言われると魔女しか思い浮かばなくて怖い気もするが、彼女の爪の色を覚えていないから何とも言えない。
ただ、
シミひとつないつるりとした肌をした彼女が飲んでいたバイオレットフィズを見て、隣のソバカスだらけのソノコが今日は運転手だからビールが飲めず申し訳ないと思った。
ソノコの顔のそれはソバカスなのかシミなのか、紫とバイオレットくらい微妙な違いだけれどソノコがソバカスだと言うなら俺もソバカスでいいと思う。
そしてアラタは、あいつは、あの男はああいうとこがダメなのではなく女に関して全部駄目なのだし他意なくソノコを褒めたと思っているみたいだけどあいつには他意と打算と負け戦とわかっていても猛進する猪より猪的な、バカみたいな、むしろバカしか抱かない勝算しかない。つまり女に関してつける薬のない便所の100ワット。
かつ、あの昼行灯には他意しかないということをあの場にいたソノコ以外の全員が気づいているよ。』
と、タカシは正しい答えをソノコに伝えることを控えた。
四方八方に心を砕きながら飲んだビールが、車の助手席に座りソノコの左腕を引き寄せキスした途端全身にまわりダルくなったし、アラタ先輩の素敵さを打ち砕くのは両者に気の毒な気もした。
返答の変わりにハンドルを握るソノコの頬を撫でた。かすめる程度に撫でた手を、短いワンピースの裾から直に太ももの付け根に置いた。置いたまま「帰ったらすぐしたい。」と囁き、こんな声をもっていたのかと驚くほどに甘ったれた声が自分の耳にも届き呆れたが、酔っているふりを続けた。
「なんにも聞いてないのよねー。そんなに酔ってたら無理よー。ね。」
と、えの形の口でソノコは笑った。素面でも酔っていても世界で一番かわいい。
***
頬杖をつき、会話に相槌を打ち、退屈とも眠そうともとれる笑顔でソノコは静かに笑う。
イカれた100ワットが酒の力によって順当にイカれだした頃合い。「にしても、きれいになったよな。」に��褒めてるようで実は失礼よねえ。」と、はす向かいの100ワットではなく、それに鋭い眼差しを向ける正面の100ワットズ彼女でもなく。隣のタカシに微笑み、テーブルの下で平然とおおらかに、タカシの太ももの付け根に置くソノコの手の重み。
ついさっき出かける直前、
「まだちょっと時間あるよ。」
と急遽味わったタカシだけが知る湿り気や、中に入って初めて知る拘束。永遠に止まりたいと思う空間を思い出させ、手の位置を少しずらして欲しい。と、ソノコに視線で訴えるがソノコは真っ直ぐタカシを見つめ返し、
「眠い?」
健やかに笑う。
勘も察しもいいはずであるソノコの笑顔をながめともかく手をもっと膝のほうへずらして欲しい。でなければ今、入りたい。四六時中なかにいたい。衝動がタカシを満たす。吐いたら吸うのが当然の呼吸や閉じたら開くまばたき、それと全く同等の今すぐ入りたいという衝動。
太ももの付け根に置かれる手から湿度と拘束感に思い馳せタカシは、今すぐソノコを連れベッドに帰りたいと思う。
他の誰にも聞こえぬようブルーハーツに隠れてひっそりため息を漏らしタカシはビールを飲み干す。「100ワットよりイカれてんのは俺。」
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Aさんへ ⑧
Aさんへ
Aさんこんにちは
三寒四温とはまさにこのような毎日に送られる言葉ですね
半袖でいたり、
フリースをきてみたり、
迷います。人生のように
いえ、日々の身支度に
美容院の予約をとった日に限って、ヘアースタイルがバチっと決まり「切らなくてもよくない?」と鏡のなかの自分に訴えかけられる朝
迷う日々です
********
『ライフイズメロウ』
一度、ソノコを連れてきた。ビーフステーキ��喜んで食べていた。
ガーリックが強く効いたトロリとしたソースを「最高。」と何度も褒め、
「ウサギ並みだな。どうりでお前は顔の面積の割に耳がでかい。」
というリョウの茶化しを聞き流しながらクレソンのサラダをおかわりしていた。
櫛切りのオレンジとミントが浮かぶアイスコーヒーを「濃くておいしい。」と、薄暗い照明の下でブルーハーツに包まれ、健やかに笑っていた。
リョウはもうここ何年一切のアルコールを口にしていない。帰りの運転に支障はないのだし、熱々のステーキとアイスコーヒーの組み合わせで、幸せそうに頬を膨らませている姿が妙に切なく、スパイシーなものを好むソノコにヒューガルデンを勧めたが「いらない。」と軽く受け流し頑なに最後までアイスコーヒーを飲んでいた。
タカシといたころ顔色を変えず旨そうにビールを飲んでいたソノコを、リョウは思い出す。
いける口で酒が強いタカシに対等に付き合っていた。
酔うと、何がそんなに楽しいのかと首をかしげたくなるほどよく笑いお喋りに拍車がかかり、ハスキーにも拍車をかけながら喋りに喋り二度三度と堂々巡りの拍車は車輪が外れるほどたかを外して喋り。ソノコの楽しさだけで三人の夜は満たされた。ソノコの存在「なんかしらんが妙に楽しそうだ。」は圧倒的だった。柔らかく包んだ。全てを包容し、許し、新しくなにかを兄弟に注入して明日へと送り出してくれた。パワースポットは神社や森や森のなかに隠された滝の近くだけではない。
タカシへの愛を語り、リョウの魅力を語り、兄弟の尊さを語り、三人で過ごす時間をいかに愛しているか涙を浮かべ語っていた。そして、
「私、今が一番幸せ。」
泣き笑いで、必ず結んだ。
「お前を見てるだけでこっちが酔っぱらう。」顔をしかめ吐き捨てる度、心の内だけで呟いた「ミー・トゥー」
ソノコの「私、今が一番幸せ。」それを聞く度リョウは胸がつまった。
「ソノコのそばにいるだけで幸せになる。」
という、とてもシンプルで奇跡に近いほどに得難い大切な気持ちは、
「俺達はもはや家族だからだ。」
に変換し誤魔化そうとしたけれど、自分よりも自分のことを知る兄を誤魔化すことは結局できなかった。
相槌の一級免許をもつタカシはソノコの語りに「うん。」と「そうだね。」と「ありがとう、俺も。」を繰り返し、世界一愛する彼女の泥酔ぷりに冷え冷えと酔いを冷ましては、
「ソノコ。今日はお風呂入っちゃダメだよ。」
と、酔っぱらいを相手に素面で真剣に世話を焼き頬を撫でていた。
「溺れちゃうからね。」
「いっそ溺れて酔いを冷ませ。」
「私、小学生のときね、潜水で深く潜りすぎてプールの底に頭ぶつけたのよ。すっごい痛いのよ。
キラキラの火花が飛んだわ。それで、そのあとプールから出たら鼻血が出たの。なんでかしら。」
「なんでだろね。」と「知るか。」が重なって二人で笑った。笑う他の感情は、幸せとか癒しとか救われるとかほっとするとかの明るい感情以外はソノコの手に��かれば消えてしまう。
それでいて明るい感情のえんげは滑らかで消化不良とは無縁。
風邪の日のお粥
部活のあとのアイソトニック飲料
腹ペコのときに食らいつく茶色の弁当
薬にも栄養にもなる、それでいて蒸発していずれなくなる明るい感情。腹持ちが言いようでいて実は真逆。真反対。気持ちのいいエネルギーは存在感が薄く、与えられたことさえも忘れるほどにひっそり、こっそり与えられ必ず消えてなくなる。ソノコと接する度にリョウはその事を知っていった。あまりにも腑に落ち馴染みがいいから与えられたことをきれいに忘れ気持ちよさだけは残る。だからまた欲しくなる。ただ気持ちよさを感じ、あって当たり前になり、そして、きっと失う時に初めてその尊さが骨身にしみる。きっと後悔する。
ソノコそのひと。
つまり、三人の夜は、三人で過ごす時間は、
いつも、全部幸せだった。
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Aさんへ ⑦
Aさんへ
朝から雨でした
夕方くらいな薄暗さのなかで、テレビの音もラジオの音もゲームの音もない静かな月曜日のリビングで電気もつけずぼんやりしておりましたらパンをたべたくなり買いにいきました
フォカッチャ、シナモンロール、チャバタ、三角パンに山パン、全粒粉パン
全粒粉の文字だけで飛びついてしまいます
全粒粉のクッキー
全粒粉のパン
全粒粉のビスケット
Aさんはパンはお好きですか
私は先日、米粉のピザを食べました
腹ペコの一口め、あつあつのマルゲリータにかじりつき
「ピザは小麦粉に限る」
ひとつの悟りを得た次第です
*********
『cake』
いつかの日曜日。晴天。ドライブのち映画。の、映画の2時間まえ。
カレンツ、クルミが混ざった全粒粉のパンに野菜や肉、チーズ、フルーツが親の仇ほど挟まれたサンドイッチを食べた。
なにかしらのハーブかスパイスの香りが喉から鼻へ抜ける。
「こうなる���食材の組み合わせって何でもありなんだな。
腹に入れば何でも一緒って炊きたての白米を冷えた瓶牛乳で流し込むじいさんがいるけど、俺は今そのじいさんに全力で同意している。
パンのこの黒いのなに?
このパンはこうもパサパサするのはこれがデフォなのか?
口内の水分を一滴残らずもっていくな。そして女はいつの時代もこのネトネトが好きなんだな。俺はザクロの食べ方の正解がいまだにわからないよ。お前わかる?これは前歯を活用して果肉をむしりとるのか種ごとボリボリ食べるのか?
あのさ。
病院の食堂のラーメンはワンコイン。
のりもメンマもなるとものってる。チャーシューのパサパサ加減はこのパンに負けるけどな。なるとって目が回らないのがわかってても見つめてしまうよな。
このネーミングセンスも脱帽だよな。
『ユーノウマイネーム』
お前、注文するの恥ずかしくなかった?
確かにこの中味のサンドイッチにしたら名前つけるの悩むよな。ドライトマト、アボカド、ザクロ、なんとかチーズ、なんとかのハム、なんとかフリルレタス、甘くて辛くてしょっぱいタレ、鉄分インレーズン……じゅげむになるよな、な?
この店の雰囲気のさ、千円超えのこのサンドイッチにじゅげむはつけられないもんな。
でさ、この店の、俺でもわかる名前のものはこのお冷やだ、水、ウォーター。それだけはわかる。」
「リョウくんちょっと黙って。
ネトネトはアボカド、黒いのはカレンツよレーズンじゃない、きっと。
このサンドイッチ私も作れるかもしれない。パサパサって大きな声で言うのやめて。ザクロの正解は私もわからない。でも種もポリポリ食べちゃうわ。
私は食堂のラーメン好きよ。懐かしい味がするわ。
あと、このお水は多分デトックスウォーター。きゅうりとかミントとか複雑な味がする。
このサンドイッチ。やっぱり私でも作れると思う。」
断面の色とりどりを見つめながらソノコは真剣に眉根を寄せた。小学生が描く下手くそなアニメキャラのように黒目を寄せて。
たゆまぬ探求心おいしさへの好奇心。俄然微笑ましいと思う。
次の休日の朝食が目に浮かぶ。アボカドとザクロ抜きしっとりミミまで柔らかなパンでつくるサンドイッチ。
春夏秋冬をソノコの手から作り出される食物により知らされていると思う。春がきた。とかもう夏も終わるなとか。冬は鍋に限るとか。主役は牛肉じゃなく春菊だ。とか。
リョウは早々とサンドイッチを食べ終え、コーヒーを飲んだ。
窓際のテーブルには陽射しが注ぎ歌詞のない音楽が流れ、目の前には、
「これオレガノよね?鉛筆の削りかすの匂いがするわ。
私、ハーブは何でも好きだけどオレガノだけは苦手なのよね。小学生の時に宿題が疲れるとよく鉛筆をかじって母に叱られたわ。
思い出すのよ、この匂い。」
一人言のように呟きサンドイッチにかぶりつくソノコがいる。
眠くなる。ここが自分の部屋なら十秒で眠りに落ちる自信があ��。コーヒーを飲み干しても眠気はリョウを纏う。
「リョウくん。私が食べ終わったら帰りましょ。」
「はい?帰る?帰るって映画は?」
「いいの。そんなに観たいわけじゃないし。なんか眠くなってきちゃったしお昼寝しない?
でも、あの無花果のタルトはすごく食べたいからテイクアウトするわ。」
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Aさんへ ⑥
Aさんへ
晴天の、思わずガッツポーズするほどの晴天の休日、ベッドのシーツをはぎとり、なんならベッドの足にすねをぶつけしばらく悶絶し、洗濯をし、いざ干さんとベランダに出て柵にかけ
雨がふりだす
あの心境に名前をつけたい今日このごろです。
*********
『ハロー、アンダスタンダー』
「ロウソクってさコンビニにないのな。」
「なぜか仏壇用はあったけど。
それだったらタカシのでいいよな。あれ短いし細いしうってつけだよな。
まあでも俺死んでないけどな。
死んでないというか、今日誕生日よ。」
「リョウくん?」
「いま帰るとこ。お前ロウソク忘れてるだろうなと思って。ビンゴ?でもないわ、ケーキに刺すロウソクは。帰るわ。何かいるものある?ロウソク以外で。」
「ビンゴ。忘れたわ。お買い物に行く直前まで覚えてたけど忘れちゃった。帰ってきてタカシくんのお仏壇を見て思い出したのよ。
ずいぶん早い解散なのね。オギくん元気だった?楽しかった?」
「うん。楽しかった。楽しかったよ。元気だった。オギは切実に元気しかない。まだ飲んでると思うけど。」
「そう。」
目を閉じる。
リョウのコンディション。手繰る。ご機嫌とは言えないまでも不機嫌ではない。少し淋しそう。悲しそう。疲れた?と聞けば全然と答えるだろう空元気。不安。寄る辺を求める不安。
リョウの言葉の後ろにある情景、目を閉じ、手繰る。早く帰っておいで。を飲み込む。同情して欲しいのかして欲しくないのか。わからない。わからないからこそ寄り添えたらいい。同情と思いやりは似て非なり。それ��も。一緒に溺れて欲しいときもあるのかもしれない。早く帰っておいで。はいつでも適温で差し出せるよう、伝えられるようソノコの喉元にいる。
リョウが立ち寄るであろうコンビニから車であれば5分とかからず帰宅できる。ブルーハーツが流れる賑やかな店に気心知れる男友達を置き去り、ロウソクを求めコンビニへ寄り、仏壇用のロウソクを見つめ『これじゃない。』と手ぶらでコンビニを出る、運転席に乗り込む。
エンジンをかけずしばしぼんやり。5分後にはただいまと顔を会わせ、頬を撫で、少し笑いキスをするであろう自分に、わざわざ電話をかけてきたリョウを思う。
時々遠く微かに聞こえる息の音は、呼吸ではなくため息なのだと思う。耳を押しつけてもそれ以外は何も聞こえないからラジオのボリュームを落とし、時間を確認する以外の意味で腕時計を見つめ文字盤を撫でているんでしょう?きっとオールビンゴ。ソノコは考える。寄り添う。早く帰っておいで。いつでも一緒に溺れてあげる。
リョウが、最愛の兄と同い年になった今日は数時間後に終わる。
「リョウくん元気?私は元気よ。あのね、しょっぱいものが食べたいの。無性に。」
「ふーん、塩辛とか?」
「塩辛……塩辛でもいいけど。そういうんじゃないのよね、リョウくんて、」
「俺はいつも元気。タコ。さっきタコ食べてたらさ。」
「タコ?タコの塩辛?あのお店ってそういうのもあるの?食べてみたいわ。おいしそうね。」
「いや、ない。塩辛じゃなくて、お前もよく作るだろタコとか白身の魚とかさ野菜とオイルがかかっててなんだっけあれ。酸っぱいの。上にピンクペッパーとかいって、グリーンペッパーとかいっちゃって。ど忘れだな。ほら、なんとかチョ。」
「カルパッチョ?」
「カルパッチョ。食べたんだよ。」
「うん。おいしかった?」
「普通だな、まあ普通。酸っぱいし。でさ女の話をするだろ?オギが。永遠と。酔ってるからとかじゃない。あいつのデフォよ。常軌を逸脱した堂々巡りなんだよ。お前、あいつと良い勝負できるぞまじに。」
「リョウくんが一巡目で聞いてないから何度も話すことになっちゃうのよ。」
「うん。ちょっとなにいってるかわからんけど。
んでさ俺ずっと考え事しててさ。
その終わりの見えない一ミクロンも興味をもてないオギの女の話を聞きながら考えてたんだよ。そしたらさ、タコ。喉に詰まってさ、やばかったんだよ。オギが『お前聞いてんの?』って言うんだけど話を聞くなんて状況じゃないんだよこっちは。」
「大丈夫?苦しかったでしょ。それで?」
「そう。苦しかったんだよ。やばいと思ってさ。苦しかった。苦しかったけど、まあなんとか飲み込んでさ。良かったーって。
ああいうときの思考ってさ、苦しいのみだろ?シンプルに。他のことなんてなんにも考えらんないのよ。
苦しさ一択。
苦しくて。でもなんとか飲み込んで落ち着いたらさ、あー、良かったって思ったんだよ。生きてて良かったって思ったんだよ。もう、ほぼ無意識下。瞬間的に生きてて良かったって思ってんの俺。」
「相当苦しかったのね。辛かったわね。でもそうよね大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、たとえ些細でも苦しいことを乗り越えたあとには生きてて良かったって思うのかもしれないわね。咄嗟にね。」
「でさ、俺、お前と会ってなかった頃にさ、タカシが死んでお前とも会わなくな��た頃にさ、夜中、グミ食べててさ。」
「グミ?リョウくんグミ食べるのね。知らなかったわ。夜中にグミ。どんなグミがすきなの?今度買っておくわね。」
「違うんだよ。眠れなくてさ。俺コーラ。で、ふと思い出してさ。お土産でもらったグミあったなって。ハワイだかグアムだかフィジーだかウィーンだか熱海だかの。まあでも、あれビジュアル的に海外のだよな。
それがさ、固いんだよ。親の仇のごとく固くてさ、俺グミだと思って食べてるけどもしかしたら飴なのかなって思うほど固いの。
パッケージ読んでもキャンディグミって。どっちだよって。英語分からんしさ。
そもそも部屋が暗いからよく読めないのよ。
遠視入ってんのかな俺。いや、グミキャンディか。キャンディの裾野が広いよな海外は。にしても何であんな固かったのかな……寒い時期だったから固くなったのかな。でもさ微かに歯が入ったからさやっぱグミだったよな。お前に食べさせたいよ。お前、歯もってかれるぞ。」
「リョウくん。グミの説明もういいわありがと。お話続けて。」
「うん。でさ、その時考え事しててさ。ぼんやりグミ食べてたら喉に詰まってさ。もうさ、尋常じゃない苦しさなのよ。苦しくて床にうずくまってもがいてさ。もうさ、ずっと一時停止なのよ。グミ。グミが。進まないし後戻りしないし。飲み込めないしかといって口に戻ってこれないし。その場所でずっと立ち止まってるの。足踏みなしの立ち往生よ。しっかり止まっちゃってんの。しかもただ止まってるんじゃなくて苦しいんだよ。ずっと苦しいの。
でもなんとか飲み込んでさ。高さ制限2メートルのとこ3メートルのダンプカー通ったみたいなゴリゴリ。
で、飲み込んだあともしばらく喉が痛くてさ、痛みの余韻がエグいのよ。グミ通りすぎてんのにずっと痛いの。まだ喉にいんのかなって思うくらい痛い。
喉痛いなあって。苦しかったしやっと飲み込んだあとも喉痛いな。って。
夜中だし、
暗いし、
寒いし、
一人だし苦しいし、辛いし、苦しい後は痛いし。
で、飲み込んだあとにさ、今日のタコみたいに生きてて良かったって思えなくてさ。一人で苦しくて、苦しさが止んでも痛みはあるし生きてても良いこと無いよなって。」
「うん。」
「それだけの話。えんげとしては全く同じ状況でも飲み込んだあとの心情って違うもんだよなーって、面白いよな。」
「うん。
リョウくんあのね。グミの時も今日のタコの時も、すごく考えてることがあるみたいね。
ずっと考え事してる。運命だと思うんですだったかしら。告白してくれた女の子の話をしてた時もカレーを食べながら、なにかしらずっと考えてたみたいよね。告白の余韻に浸ってるのかしらーって、ちって思ったけどなんか違うわねって。あー、さてはパクチー忘れたことまだ根にもってるの?とも思ったけどそれもちがうし。
なにかずっと考えてるのか、なにか言いたいことがあるのか。」
喉の骨、飲み込んでも飲み込んでも喉に刺さったまま腹に落ちない魚の骨。
「考えてる。言いたいことじゃなくて聞きたいことがある。」
「リョウくん帰ってきて。はやく帰ってきなさいよ。待ってるから。私は聞きたいことじゃなくて話したいことがあるのよ。待ってるわね。ケーキ食べましょうよ。気をつけて帰ってくるのよ。またあとでね。」
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Aさんへ ⑤
Aさん
ひたすらにこなす土曜日
忙しいときは時が経つのが早いって、あれ嘘じゃんと思う今日このごろです
嘘とは言わぬまでも意に添わぬ忙しさの合間にふと時計を見上げ「消耗。」の言葉が浮かびます
Aさん楽しい週末をお過ごしくださいませ
S
********
『ラグジュアリー』
シャインマスカットは、パールタイプのころころかわいいモッツァレラチーズとアボカドをモッツァレラチーズに合わせたサイズにカットしてオイルとレモンドレッシングで和え、フルーツサラダにしようと思う。
アクセントは粒マスタードか、胡椒をガリガリするか、その両方か。
塩味は強めがいいだろうとその点だけは確信がある。
ミントあたりのハーブを、力強い彩りと爽やかな風味のために添えたいと安易に直感したけれど、濃緑よりシャインマスカットの瑞々しい淡緑を活かすことを優先したいとも考える。視覚や嗅覚は味覚より先に「おいしい。」を刺激する。
きっとシャインマスカットの甘味は、フルーツサラダの「フルーツ」の方が強調されるであろう豊潤な甘味があると思う。甘味を活かすのには強い塩味が必須だと思う。
塩味が甘味をより際立たせる。
一番最初のインパクト、甘味で味覚を元気にしたら追いかける塩味は食欲を増進する。甘くてしょっぱいは最強の正義。
はしりのマスカットはそのまま食べるのが一番おいしいだろうと、小賢しく手を加えるより潔くまずはそのまま食べることが何よりのご馳走だと、そんなことは百も承知よ。と、ソノコは理解している。
『旬の食材にはたくさん栄養がつまってるから旬のものをたくさん食べなさいってよく言ってたよね』
『ばばあな』
ほのぼのと表現するのが最適であろういつかの、兄弟の和やかな会話を思い出す。クルクルと。カタカタ淋しい音をたて回る走馬灯。あれは、ぬたを夕食に並べた夜だった。
ホタルイカと独活のぬたを小鉢に盛って主菜に添えた。
「お前の風貌とその、派手なマニキュアが塗られた指からこれが作られるって意外だよな。」
「リョウくん文句言うなら食べてからにしなさいよ。」
「食べた。さっき摘まんだ。小鉢じゃなくて丼で食べたい。うまい。」
リョウの声が耳の奥、脳に近い位置で聞こえる。
********
「リョウくん、仏にばばあはやめとこうか。」
「ミサオはうまかった。」
「そうだね。料理が上手だったね。」
「うん。ただな、アクも栄養のうちとかほざいてあいつはアクを取らないんだ。煮物でもアクが煮えたぎってるのに掬わないんだよ。
背伸びして鍋のなかのぞいてさ、見るからに栄養の一部にはなり得ない澱みがさ、ブクブクしてるんだよ。
これなんとかしろよって文句言うとさ、気に入らないならリョウくん自分でやりなさいよ。あなた手先が器用なんだから。ってさ。
栄養のうちって、あれ、あいつの手抜きの常套句だよな。
俺はあいつが作った独活の酢味噌和えで腹を壊したことは忘れない。調べたんだ。
独活のアクは下痢を起こすことがある。あいつに文句言ったら、リョウくん食べ過ぎたのねって片付けてた。ちゃんとアク抜きしろよって言ったら、アクは栄養のうちって伝家の宝刀だ。
小賢しいとこあったよな、あのばばあ。」
「リョウくん、クレバーだよ。クレバーって言ってねってリョウくんよく言われてたよね。」
「うるさかったよな。
物腰が柔らかいから誤魔化されるけど、あいつはうるさかった。あれこそばばあの知恵袋的に。二言目には、目にいれても痛くないほどの愛をリョウくんはまだ理解できないのね~。とかほざいてな。」
会ったことのないその人の話を二人は、好ましく話していた。
タカシから聞くより、リョウから聞くより。二人が彼女のことを思い語り合う光景をそばで見つめ、聞くことが嬉しかった。彼女のなにかしらが二人の宝物となっていることは明らかだった。
********
ソノコはあの、終わりの始まりになるであろうとどこか遠くで感じていたあの夏の夜、あえて小賢しくひと手間をかけた夕食をタカシに食べてもらいたかった。
シャインマスカットのポテンシャルに頼るのではなく、そこに祈りを込めたひと手間を加えおいしい栄養にして欲しいと願った。
『おいしい』が、なにかしらの背中を押す。なにかしらの歩みを止める。三人の夜を終わらせないための祈りだったのか。終わらせるためか。それともただ、タカシから
「おいしい。また作って。」
を聞きたかっただけなのか。わからないままにフルーツサラダに必要な食材を全て買った。
細長い、透明のパックに詰められた色の濃いミントを買い物かごの一番上にのせた。仕上がったフルーツサラダを見て、やはりミントの存在が必要だと自分は思うのではないかと直感があった。
「うまい。」
リョウの、うまい以上でも以下でもないなんの装飾もない素っ気ない言葉が聞きたいと、その密やかな願望が思考の片隅にひっそりと鎮座していたことを、火を見るより明らかなそれを始まりから自分の中にあった気持ちだと認め決めてしまうのはあまりにも受け入れがたい迷いがあった。
フルーツサラダにはミントを足すべきか否か。
それと同じくらいの迷いだった。
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Aさんへ ④
今日の夜ご飯は豆腐ハンバーグでした。
完食し、秒で「お腹すいた。」と漏らした長女からの声なき声
「次回は豆腐でなくビーフ100で。」
を受け取った次第です。
*******
『ピュリフィケーション』
(また始まった…)
両手で顔を覆い天を仰ぐ。
大袈裟に漏らしたため息は当然、火花を散らす二人の耳には届かない。
**********
タカシが玄関をあけると食料品が(チョコレート、アイスクリーム、謎にお萩。『今夜のソノコは圧倒的に甘味を欲している。』)乱雑に詰めこまれた袋を二つさげ
「遅くなってごめんね。」
ソノコは疲れ���顔でタカシを見上げた。
「おかえり。お疲れさま。」
両手から袋を取り上げ待ちわびた上唇を包む。吐息が下唇にあたる。目を閉じていても包んだ唇の口角が上がったことを唇から認識する。
着替えもせずジャケットだけを脱ぎエプロンをつけ、手際よく三人分の夕食を並べていく。「どうしても今日はお肉が食べたかったの。」
無機質なダイニングテーブルが華やかになる。息吹く。
料理をしているときのソノコはセックスのときより生き生きしている。認めたくない事実をタカシは渋々認める。渋々とは言え、ソノコと出会い初めて手にした幸せは渋々を丸っと上書きする。
空腹を刺激する匂いが部屋に広がる。
牛肉の焦げ茶色、中心部の赤、胡椒の黒、クレソンの緑、ジャガイモの薄黄色、人参のオレンジ、櫛形レモンの黄、アボカドのグラデーション。
楕円形の大きな皿の縁に照明が当たり、丸くべっこう飴のような光りの玉ができる。
トマトの赤、オニオンスープの黄金色、スープの表面に浮かぶクミンの、黒に近い茶色。パセリの濃緑色。
エプロンの水色。細い首筋に浮かぶ血管の青、うなじの産毛の茶色、化粧がはげた肌のそばかすの薄茶色、赤に近い濃いピンク色の唇はその下にある乳首の色に似ているとタカシは思う。
テーブルに夕食を並べているソノコの腰に腕を回すと
「疲れた?大丈夫?甘えたくなった?お腹すいたわね。リョウくんそろそろ来るわね。」
振り返り、はげた化粧の代わりに疲労を纏いながらもソノコは優しくタカシを見つめる。
ソノコの乱れた髪を耳にかけ、頬を撫でなにも答えずキスをする。下唇を甘く噛む。空っぽの腹を満たすより先に、今すぐソノコの中を一番奥まで自分だけで一杯にしたいと思う。ずっと。自分だけでソノコを埋め尽くしたいと思う。溶けそうに甘いため息を「タカシくん」と細く震える声を耳元で聞きたいと思う。ずっと。
ステーキをはじめとする金曜日らしい夕食が辛うじてゆげを狼煙、ソノコが「眠い。」と呟き始めた頃、インターホンも鳴らさず鍵のかかっていない玄関から自宅に帰ってきた主のような態度で挨拶もなくリョウが入ってきた。
「おかえり。リョウくん髪切ったね。かっこいいね。今日お休みだったんだね。」
タカシが声をかけると、言葉とは裏腹になにひとつ浮かない口調でリョウが
「んー。女ウケがいい髪型にしてくださいってたのんだんだー。今後モテが止まらんかもしれん。」
答える。間髪いれず
「チャラ。」
キッチンから残業疲れと空腹でイライラしているソノコの本心から漏れた声が、流れ落ちる水道の音に混ざり切れず二人の耳に届いた。
タカシは苦笑いを浮かべあごをなでる。
先ほどの口調とは裏腹に水を得た弟がすかさず噛みつく。
「はあ?今なんつった」
「別に~。」
「チャラっつっただろ」
「聞こえてるじゃない」
「あのな、お前みたいにチャラチャラチャラチャラしたやつに言われたくないんだよ。あくびちゃんみたいな顔しやがって」
「ねー。もうやめない?」
天を仰ぎ沈黙していたタカシが間を割くがリョウは腕組みをしてソノコを睨み、ソノコは「あくびちゃん!?」とタカシの仲裁を無視して大声をあげ目を丸くしリョウに詰め寄る。
「ひどい!あくびちゃんはチャラくないわ!あくびちゃんをバカにしてるわよね!あくびちゃんはすっごくキュートだし一生懸命生きてるのよ!」
「はい?お前なに言ってんの。俺はあくびちゃんのことは何一つバカにはしていない。そしてお前ごときがあくびちゃんを語るな。ほんとにずれてるよな。あー、とんちんかん!」
「とんちんかん!?今度は一休さんに似てるって言いたいの!?」
怒りのあまり赤を通り越した、ほの青白い顔色で滅多に聞くことのない鋭利な高音で尖る。
「ソノコ。その話前も聞いたから。違うから。大丈夫だから。 」
愛しいひとをなだめ、ながめ、タカシの心の内には「鬼の形相」という言葉が浮かぶ。
「前にもね、とんちんかんだね。って先輩に言われたのよ!先輩って言ってもカガミ先輩は父に近い歳だわ。不自然に真っ黒に染めた髪をツーブロックにしてるの。カラスみたいに黒々した髪よ。一度食事に誘われて断ったらそれから手の平返したみたいになって。もう!そんな話はどうだっていいのよ。とにかく!とんちんかんだねって。ロープレの後よ。『パッションが感じられるし起承転結もがありながらフローも悪くないトークだね。コアも押さえてるし。でも何て言うのかな、フィーチャーの部分で時々ロジックがぶれるね。ファジーになるときがある。ファジーとも違うな何て言うかー。とんちんかん?』って。無意味に英単語乱用。言いたいだけじゃない。挙げ句とんちんかんて。とんちんかんてなに!?
私はね、デスクに戻ってすぐググったわ。
何が出てくると思う?
掘り下げたらとんちんかんちん一休さんばっかり出てくるのよ!一休さんはかわいいお顔をしてるわ、でもね、あの子は男の子じゃない!
一休さんに似てるってひどい!とんちんかんって言われたあとにクライアントを回る私の気持ちがわかる?
一休さんばっかり浮かんじゃうのよ!?虎を屏風から出してくださいってあの知恵は素晴らしいわよね。とか橋の真ん中を渡る機転は見上げちゃうわ。とかそれでお師匠さんの大切な水飴はさぞかし美味しかったんだわって考えてたら歩道のポールにぶつかって転んだのよ!
もう、しっちゃかめっちゃかよ!
そんなんでお客様のところに行ったら『疲れた顔してるね。大丈夫?』って。
お客様に大丈夫?なんて言われちゃう営業ってどうなのよ。商談が成立するはずがないわよ!でもね、私だってこう見えて一生懸命生きてるのよ!」
愛しいひとをなだめることをあきらめ、ぼんやりとながめ、お師匠さんとは和尚さんのことを言いたいのだろうとタカシの心の内には「満身創痍」という言葉が浮かぶ。
「お前さ。さっきからなんの話をしてるの?俺は今お前のとんちんかんぷりに鳥肌がたったよ。
腕、ほらこれ腕。
脱線にもほどがあるだろ。いよいよお前の天然も末期だな。もう俺は心配しかないよ。
心配しかない。もう。あえて二度言うが。しかもそんな父親に近いような歳の胡散臭い男から誘われて。全身隙だらけ。チャラさも末期だな。
そして一休さんにもあくびちゃんにも失礼だ。謝れ。
ついでに、その、なんだ、役職名が何だっけ?
あー、先輩か。先輩ね。
役職が先輩のカガミ先輩だかカラス先輩にも謝れ。お気持ちお察ししますと弟が言っていたと伝えろ。」
「なにそれ!リョウくんが先に謝りなさいよ!」
両者がもはや何に怒っているのか、不毛な攻防が続き、常、二人のケンカを見慣れているとは言えほぼ一日中パソコンと向き合っていたタカシは肩に重みが増すのを感じる。
「タカシも大変だな。これに付き合って。心中お察しします。まじで。」
リョウが呟いた。
ソノコの涼やかな目をにらみつけながら鼻で憤然と笑いお悔やみをため息に混ぜた。ソノコの頭の中からカチンという音を聞いたタカシが「リョウくん。」と強い声色で呟き、何かしらの気持ちを燃料にして静かに燃えているリョウの、緑がかった瞳を見据える。
「はー?じゃあ、なに?リョウくんはどういう女の子がいいわけ?リョウくんは」
勝ち気で男勝りなソノコが無自覚な天然さのオフェンスで白く華奢なアゴを突きだしリョウに詰め寄る。
すぐそこ。
伸ばさずとも届く距離にいる近い、近くて誰より遠い一生触れることのないその細いアゴを掴み唇をふさぎたいと、それをふさぐのは手の平ではないと、自分がいま握りしめているこの手ではないと、リョウはソノコから視線をそらし、ついさっきまでの口喧嘩とは声色の違う冷えた音で苦々しく握り潰したゴミを捨てるように呟く。「ソノコ。うるさい。黙れ。」
「はい。もうやめ。ご飯にしよう。お腹すいたよ。」
タカシは平静を努めて笑うと、リョウの肩に手を置く。誰とも目を合わさず華やかなテーブルを一瞬見つめリョウがドスンと音を立ててソファに座る。ソノコが鼻を鳴らしてキッチンに戻る。
タカシは壁の時計を確認し、ステーキを眺め、そして、恋人ではなく弟の背中を見つめる。
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Aさんへ ③
Aさんこんばんは
タイピング能力の向上に我ながらうっとりしているここ最近です。エンターキーの気持ちよさ。無駄に力がこもります。
日々鍛練。
*********
『ロンリーナイツ』
真っ黒のオセロを躊躇わず真っ白に塗り替えていく。
真っ直ぐで不器用、利他的で愚かな偽善はタカシの正義だ。仏ではなく人間であったタカシの。
許すも許さないもない。今、あの夜に戻り「怒ってる?」と尋ねたとしても、怒りや怒り以外の真っ黒な感情を抱えていたとしても穏やかに目を細めて、笑い、タカシは答えたと思う、絶対。
「怒ってないよ。」
と。そういう男だった。そういう兄だった。
逆立ちしても、歳を重ねても、緑がかった瞳が黒くなっても、一センチ違いの身長を追い越したとしても。「タカシには敵わない」
その一センチには圧倒的な開きがあるのだから。
最後の三人の夜。
タカシの部屋の玄関に立つと、濃い出汁の匂いがした。
(腹が減った。)
その匂いだけで蓄積した疲労が慰められる気がした。
(あの夜、ソノコはなにを作っていたのだろう。)
『話したいことがあるから来て。何時でも良い。それとリョウくんはなにも間違ってないだから謝る必要がない。』
昼間、タカシからのラインに返信をした。返信内容は覚えていない。意識的に忘れたのかもしれない。
出汁の匂いを吸い込み「三人でいつものように旨いものを食べたい。」と、リョウは切実に思った。その夜を平和に「じゃあまたな。ごちそうさま。」と二人に見送られタカシの部屋を後にしたいと、切実な、祈りに近い思いだった。のに。
「虫酸が走る」
タカシへの最後の言葉。
タカシの部屋を出て車に乗った。助手席に置き忘れたコンビニの袋。アイスクリームが三つ。小豆色のふた。ソノコが
「これは特別な日だけ」
定期的に、割と頻繁にやってくるらしい特別な日に食べていたアイスクリーム。
「疲れたときは甘いもの。」ソノコの口癖。
「なんだそれ。くそばばあ。」
エンジンをかけタカシのマンションを後にした。フロントガラス越しの夜景が歪んだ。頬を水滴が流れ落ちた。ごしごし拭い、拭っても拭ってもこぼれた。涙が止んでもフロントガラスの視界は歪んだ。やっと雨のせいだと気づいた。雨がふっている。ワイパーを動かす。いつかの三人の夜を思い出した。チョコレートの夜だ。
三人でいつものようにテーブルを囲んでいた夜。月末で、疲れた顔をしたタカシとソノコは黙々と、夕食をとっていた。月末に限らず常時疲労を抱えるリョウは、定期的に割と頻繁にやってくる特別な疲労を感じながら、
「しょっぱくて口が痛くなるな。」
「固くて噛むのが疲れる。」
「お前これ味見した?」
箸を止めずに毒を吐き続けた。
「態度。いい加減にしなさいよ。一昔前の姑じゃないだから。嫌なら食べなくて良い。
当たり前じゃないよ、これ。疲れて帰ってきて温かい食事と暖かい風呂があること。
リョウくんさ、八つ当たりするならもう帰ったら?せっかくの食事が不味くなる。ソノコも疲れてる。」
「風呂のことはとやかく言ってない。あの、臭い入浴剤を入れると眠くなるって言っただけだ。」
リョウは完食を諦め箸を置き、腰を浮かせた。言われなくとも帰る。もう既に眠い。
「待って。」
ソノコが毅然と呟くと席を立ち、キッチンへ行き冷蔵庫を開け、薄っぺらい長方形のブルーの箱をテーブルの真ん中に置いた。茶色のリボンをほどく。ブルーと茶色は洗練された大人な組み合わせだと思った。
「これね、すっごく人気なの。チョコレートよ。全部で十粒。リョウくんまだ開けちゃダメよ。味が全部違うからあとで説明してあげる。
このお店ね、いつもすっごい行列なのよ、バレンタインやクリスマスのケーキ屋さんみたいに大混雑よ。ついでに清水の舞台が浮かぶ金額よ?
つまり、特別な日に食べる特別なチョコレートよ。
私はね今日すっごく疲れてたのよ、ヘトヘトよ、今月はずっと厳しかったから。それでね仕事帰りにお買い物に行ったらこの行列に出会ったの。三人で食べたいって、タカシくんとリョウくんに食べさせたいって思っちゃったのよ。でもすっごく疲れてたから行列になんて並んでないで、夕食のお買い物だけして、さっさと帰ろうと思いながら、気づいたら並んでたの。
タカシくんとリョウくんのことだけを考えてたのよ。
二人もずっと疲れていたでしょう?疲れたときは甘いものよ。あとで美味しいコーヒーを淹れてあげる。食べましょ。じゃんけんで選ぶ順番をきめましょう?
だからリョウくんわかった?
リョウくんはこれを食べる義務があるのよ。私がヘトヘトの疲労をおしてタカシくんとリョウくんだけを思って、長い列に並んで、清水の舞台からダイブしたのよ?つまり愛よ。
こんな空気にして不貞腐れて帰ってる場合じゃないわ。チョコレートを食べて美味しかった、じゃあまたねって帰らなきゃだめよ。
とにかく、疲れた時は甘いもの、元気な時はしょっぱいものが美味しく感じるはずなの、だからつまりね、リョウくんはとても疲れているのよ。」
「元気なときはしょっぱいものがおいしいの?」
「お前の浅知恵は信憑性に欠ける。」
「んー、やっぱり?やっぱりねえ。前の前の彼氏にね、ぽたぽた焼みたいで鬱陶しいって言われたのよねえ。」
「ぽたぽた焼?」
タカシとリョウは同時に呟くと、しょんぼり下を向くソノコを見つめそして、二人、目を合わせる。
「知らない?ぽたぽた焼ってお煎餅。甘くてしょっぱくておいしいのよ。子供の頃食べなかった?ぽたぽた焼って名前じゃないのかしら。パリパリしてておいしいのよね。あれ、なんでぽたぽた焼って名前なのかしら。」
「名前はいいから続きを話せ。前の男に言われた鬱陶しい話を。それと煎餅はたいがいパリパリしてるから覚えとけ。とにかく続きを話せ。」
「ん?んー、個包装のお煎餅でねパッケージの裏側に、おばあちゃんの知恵袋みたいなね、昔ながらの生活の知恵みたいな、ほんわかしたプチアドバイスが書いてあるのよ。パッケージごと全部アドバイスの内容が違うの、じっくり読むと楽しいのよ。例えばね、なんだったかしら、ほら。お茶殻でお鍋の焦げを擦るときれいになりますよとか、お茶殻じゃなくて玉子の殻だったかしら。違うわね、クレンザー?」
「ソノコ、クレンザーの話ももういいよ。それにクレンザーを使って焦げを落とすのは、多分おばあちゃんの知恵袋には書いてないと思うよ。」
「そうよねえ。まあだからとにかくね、その前の前の彼氏に私、何かしら世話を焼いたのよね多分、忘れちゃったけど、とにかく『いちいちぽたぽた焼のばばあみたいで鬱陶しいって』言われたのよねえ。ばばあって、ひどくない?ぽたぽた焼のおばあちゃんに失礼よね。」
「そっちなの?」
「そっちってどっち?タカシくんなに言ってるの?」
「ん、もういいよ大丈夫、わかったから。ソノコ、もうさ、もう他の男に知恵を授けないで。」
煎餅の話が始まった時から『前の前の彼氏』という言葉につまづき、煎餅や鍋の焦げどころではない胸中であろうタカシが、不安げにソノコの頬を撫で、可笑しかった。リョウは頬の内側を強く噛み笑いを堪えた。
再び箸をつけてみれば「普通に旨い」ポークソテーをリョウは完食し、ソノコが淹れた濃いコーヒーを飲み、三人でじゃんけんをしてチョコレートを選んで食べた。
ソノコは一回戦で早々に負け、(ソノコは無自覚でチョキばかりだす)三番目に、柚子のチョコレートを選び、
「ほろ苦い!柚子大好き!これ絶対一番おいしいわ、勝負に負けて試合に勝ったわ、わたし。ん?試合に負けて勝負に……まあいいわ。また二人に買ってきてあげる。」
笑っていた。
二番目に、柑橘類に目がないタカシはピスタチオのチョコレートを選んで、
「ガリガリ君の味がする。うまい。」
真顔で呟いていた。
(狂ってる。舌がやられている。)
リョウはその夜の、自分の態度を改めて振り返り反省した。タカシはタカシで末期の疲労を抱えていることにやっと気づいた。
(俺があの時一番目になって選んだチョコレートの名前はなんだったのだろうか。塩の味がしたし、ピンクペッパーが一粒のっていた。)
「運転危ないから帰る前にお風呂に入って眠気を覚ましなさい。」
チョコレートのあとリョウは、ソノコが気に入っているいつもの入浴剤が盛大に投入された風呂に鼻まで沈んだ。イランイランだ。眠くなった。風呂から出るとソファーはストライプのシーツを纏ったソファーベッドになっており、リビングの照明は夕暮れ色で、寝室からタカシのイビキが聞こえた。定期的な、安定したリズムのイビキ。ソノコが「おやすみなさい。ゆっくり休んでね。」ジャスミンティーのグラスを置きながら眠そうに囁きイビキの隣へ消えた。
**********
助手席に置き忘れた、三つのアイスクリームを見つめリョウは、チョコレートと煎餅とイランイランを思い出す。甘いものにすがった自分の気持ち。
「全て終わった」
アイスクリームを車に忘れていったからだ。
そもそも、甘いものに救いを乞うたせいだし、あいつがばあさんのように数々の知恵を授けたからだし、チョコレートを愛だと言うからだし、タカシの筋金入りのお人好しのせいだし、俺が運命と勘違いして……勘違いしたせいだ。
雨の中、タカシの部屋から自分が暮らすマンションへ帰る途中コンビニで車を停め三つのアイスクリームを袋ごとゴミ箱に捨てた。
**********
ジャスミンティーの氷はかなり溶けた。
耳をすませば、いつ知れずブルーハーツはハイロウズに変わった。隣のオギは喋り続け、ビールは四杯目になった。
いまだ直視するに難い最後の三人の夜を、リョウは心の頑丈な箱の中に閉じ込めた。
閉じ込めたそれを、時々自ら、箱の蓋をあけ、じっと見つめてしまう。タカシに会いたい。笑うと細くなる目を見つめ、
「苦労が絶えないんだな。」
と少しずつ本数の増える白髪頭を茶化し、なに一つ良いところのない自分に
「リョウくん大好きだよ。」
を言って欲しい。そして、聞きたいことがある。
タカシ、今も俺を好き?
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Aさんへ ②
Aさんへ
Aさんこんばんは
今日はとても寒かったですね
Aさんどうぞお体にはくれぐれもお気をつけくださいませ
お付き合いいただいたお陰でタイピングの上達を実感しております
Aさんの添削に感謝です
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「テイクイットイージー」
パーキングに車を停めエンジンを切る。
外したサングラスをダッシュボードに置くと想定外な乱暴の音がした。
置いたつもりが半ば放り投げたのだと、それはイラつきからの八つ当たりに他ならないと、サングラスを見つめながら吐き出したため息には臆病で小心なごめんが混ざった。
車を降りる直前リョウはバックミラーで最終確認をした。
不精に伸びた髪。伸びただけでなく一昨日から風呂はおろかシャワーさえ浴びていない。プロなのだからこの手の不潔な客には慣れっこ大丈夫と誰あろう自分自身を奮い立たせる。
付け焼き刃としてもみ上げを耳にかけ整える。目が合う。だらしなく粗野で品も知性もない。ついでにきっと男の甲斐性もない。唯一女たちから惚れられる色素の薄い緑がかった瞳さえも澱んで見える。気がする。
なんにせよ、どんなに退屈でそして孤独を感じる金曜の夜だとしてもこの男とだけは飲みたくない、友達にはなりたくない。会いたくない。関わりたくない。結びたくない。触れたくない。好きにはならない。
品も知性も甲斐性も備え長所をあげればキリがない、退屈や孤独の夜ではなくても月曜の朝からでも、理由をこじつけてでも会いたくなる男を思い浮かべる。
(同じ血が通いながらこうも違う。まあどうでもいい。)
バックミラー内の男を憐れみ微かな同情で見つめリョウは車を降りる。
待ってましたと言わんばかりにドアを開け恭しく迎え入れられた時点でうっすら、
店内に入りシャンプーの匂いとドライヤーの音客と美容師との間で繰り広げられる薄い会話白々しい笑い声を認識した時点で「だから足が遠退く。」
うっすらであった感情は確信としてリョウを満たした。
甘ったるいミルクティーのような髪色の若いアシスタントに、早口の高音で誘導され回転椅子に深く座る。数歩歩いただけでため息が漏れる。
ミルクティーのアシスタントが伸びきったリョウの髪を控え目な手つきでとかし鏡越しに笑い、語りかける。
「三半規管狂い咲きましたよね?」
「はい?」
怒気を含む低音と共に眉間に深くシワが寄ったのを自覚する。鏡越しにミルクティーの瞳を見つめかえす。
咄嗟リョウは耳を押さえる。
ドライヤーの音の影響か耳鳴りがする。耳の奥、脳に近い位置で聴覚検査に似た一直線の音。疲労を自覚しながら、女の質問を瞬時反芻し考察する。
「ご、ごめんなさい。三ヶ月もっとかなってさっきカルテ見させてもらって結構お久しぶりかと思ってお髪がだいぶ伸ばされた感じですみません」
本来不要であるはずの謝罪と言い訳は消え入りそうに心細く実際、ドライヤーとバッグラウンドと客と美容師の飲み会かと見紛うほどに盛り上がる笑い声にかき消される。
ひきつった表情と、覚えたてのような日本語とバグった文法を受け止めリョウは心底からのごめんを込めこれに心折れ一人前の美容師への志を見失うことがなければいいと願い鏡越しにアシスタントを見つめる。
何度通っても馴染まずいつまで経っても一見風情の客の、乱雑に伸びきった不精な髪を見て「三か月くらいあきましたよね~?」と声をかけたのだ。コミュニケーション能力の高いアシスタントは当たり障りのない話題を探し、久々の来店である不機嫌な仏頂面の常連客に緊張しながら、若干のどもりをともない声をかけただけのことだ。
リョウはタカシのように目を細め、晴天の元旦のような結婚式の神父のような笑顔を繕い頷く。繕い笑いを鏡越しに認識し「笑うとかわいいのに。宝が持ち腐れちゃって。」あくびちゃんを何倍も生意気にしたようなコケティッシュな女の低い声が聞こえた気がする。気がするではなく聞こえた。事実、耳鳴りが止み雑音が遠退いた。眠りに落ちる直前の浮遊感、つまり気持ちがいい。声を、笑顔を思うだけで気持ちよくさせる人の低い声。
アシスタントの女が逃げるように去ると、こんにちは。お久しぶりです。といつもの美容師が鏡越しにリョウに笑いかける。
「今日はどうされます?」
定番の質問に「いつもと同じで」と定番の答えを返す。常であれば「かしこまりました」となるのだが美容師はリョウの前に開いた雑誌を差し出し
「結構伸びましたよね。バッサリいってみます?これお似合いになると思うんですよね~」自信ありげに微笑む
「チャラ」
雑誌のモデルを見下ろすのとほぼ同時に、胸の内呟く。だが正直なんでもいいと思う。仕事に支障がなければなんでもいいのだ
「お願いします」
なんでもいいので。とは口に出さず鏡越しに微笑むといつもの美容師は
「かしこまりました~。女子ウケ最高ですから」
意味ありげに笑い、親指を立てる。「ますますなんでもいい」
リョウは美容師に無言の笑顔を向け、直後思わず吐き出したため息はドライヤーの音に隠れた。
「なんでもいい」それは「どうでもいい」とほぼ同義だと思う。リョウはここ数ヶ月、仕事以外の場面で決断を迫られる時「なんでもいい」が瞬間的に頭に浮かぶ。それと同時に無性に気持ちが荒れイライラする。
全てがどうでも良くなり何にイライラしているのか。誤魔化しようのない、目を背けることの出来ない気持ち。仕事以外で心を動かされる「それ」を抱え、乱されることに戸惑っている。一筋縄ではいかないもどかしさに気持ちが荒れそして深く重く沈む。心動かされ乱されるその人の横には「リョウくん」と目を細めて笑う、月曜日から日曜日まで毎日会っても嫌いになることはない、唯一無二の大切な人がいる。
時知れず抱えてしまった気持ちをリョウは「どうでもいい」と処理できずにいる。
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Aさんへ
こんばんは
春の夜長にわたくしはひたすらキーボードを叩いております
本日のメールはPCよりお届けいたします
ビコーズ今日、仕事中パソコンと向き合い黙々とキーボードを叩いておりましたらもはや絶滅危惧に認定すべき生物、その名もお局様が私の背後から
『人差し指と中指だけでタイピング。それなんとかならないの?いいわよね。仕事量がそんなんでも私たちみーんな同じ時給。羨ましいわ。』
と給料泥棒的指摘を受けました
ですので、小説をひらきそれをひたすら打ちまくる。十本の指をフル活用して
お目汚しは重々承知の上、そして、手持ちの小説の好きな部分を抜粋しておりますのでストーリーは突然に始まり突然に終わる……前後の脈絡は皆無となります(ついでに想像力なるものを鍛えるため、抜粋した箇所からイメージしたオリジナルの題名をつけてみようとおもいます。)
Aさんの貴重なお時間を図々しくもお借りしますこと先に御礼申し上げます
********
「スティル」
スーパーでソノコは、いつもなら絶対に手を出さない高価な大袋の鰹節を手に取り、一秒も迷わず買い物かごに入れた。
(透かしたら向こうが見えそう。)
極薄のフワフワ軽い鰹節と空気がつまったクッションのようなそれを見下ろし、いずれ上等な鰹の塊と鰹削り器をタカシに……リョウでもいいけれど、次の誕生日プレゼントに……クリスマスでもホワイトデーでもいいけれど……とにかく鰹節と鰹削りが欲しいとリクエストしてみようと思い浮かべ、ほくそ笑み、秒後、ワクワクする未来は逃げ水となった。
常ならば隣でぼんやりカートを押す、名前をたずねれば「土曜日の穏やかな昼下がり」と答えそうな、白髪混じりの男。ちょっとそこまで用の焦げ茶色のビルケンシュトック。裸足、骨ばった太く長い指、短い爪、鼻を押しつければ自分と同じ匂いがするその清潔な素足を見下ろせばタカシの日常に自分が溶け込んでいることをしみじみ実感できた。
タカシとスーパーで食品や日用品の買い物をすることは、お洒落で華美な、ときめき100%のおでかけとは違うメロウ。荒波のない穏やかな海の満ち引きのような。とても静かな。
休日、昼食のあと、ベッドでタカシの素肌に耳を当て胸から、
「買い物いこっか」
と聞くのは、鼻を押しつけながら額に唇を当てられることは、大きな手の平で背中を撫でられることは。つまり幸せだった。
旅行をするとか、着飾ったデートとか、イベントの少ない付き合いのなかで、普段着の日常には有無を言わせぬ充足感があった。「昔から一緒にいたみたい。何年も昔から。」くさくてダサくて鳥肌がたつ言葉をもう自分は「寒い」と笑うことができないと思った。
リョウくんが来るからなに?
テレビの中の将棋対戦を思う。
将棋を見つめる男の横顔を思う。
含みのあるニュアンスも、視線を向けずに紡ぐ平らな会話も引っ掛かった。けれど、なにより、弟の名前を他人の男の名前を呼ぶように発音したことが、温度の低い音が、いつまでも耳に残った。悲しかった。その悲しさを振り払うように、ソノコは素麺と昆布のストックを、タカシの部屋のキッチンを思い浮かべた。
素麺を山ほど食べた三人の夏だった。
夏の終わりが近づいていたあの日。終わりの始まりとなったあの日の、全てをソノコは覚えている。
タカシが着ていたシャツの色、いつもきちんと一番上のボタンまで全て留めるタカシが、気だるげに上から二番目までをはずしていたことも、リョウの平常運転であるはずの見慣れた仏頂面が、青に近い白に見えるほどとても顔色が悪かったことも、ソノコ自身の鳴り止まない早鐘のような鼓動も。
「もう二度と会わない」と「好き以上どうこうするつもりはない」と二人の男から一縷の隙なく、淀みなく言い渡されたことももちろん覚えているけれど、細部のとるに足らないことほどくっきりとした輪郭で記憶に残っている。結局のところ自分は全てを忘れるつもりがないのだと思う。
黒い絶望が溢れだしたあとの空っぽのパンドラの箱の底には実はたったひとつ透明な希望があったのだと、昔、父が話していた。希望。タカシからの最後のラインにソノコは、無理にでも希望を当てはめてみる。
タカシの事故、腕時計と携帯電話はダイニングテーブルの上に「置かれていた」と、リョウは言っていた。「置き忘れた」ではなく。警察から渡された手荷物の中には銀河鉄道の夜の文庫本があり、ひかるはだしの始まりのページに付箋紙が貼ってあったのだと。
読書家のタカシが一人の夜にドライブがてら、どこか静かなカフェかバーへ向かい読書すべく持参したんだろうと、ソノコは想像した。想像せずにはいられなかった。コーヒーを飲みながら読書する程度のささやかな希望はタカシのなかから消えることなくあったのだと自分勝手な願望の中に自分を逃がした。
ひかるはだしを、ひかるすあしのような気もするそれを読んだことがないソノコは、今もまだそれを読んではいない。
はだしかすあしか、正解を、リョウの本棚から探して確認すればわかるけれど、確認という勇気を今日まで一度ももたなかった。
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