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16.oaspeţii
不吉なインターホンの音がした。
「なんだ。こんな朝早くに」 「アマゾンじゃねーの? アンタのサプリメントとか」 「いや、特になにも頼んでないぞ。 オマエこそ新しいマンガとか、頼んでるんじゃないのか」 「それはない。最近、新刊出てねえし」
アイリが作ってくれたブロッコリーとパプリカ、それからベーコンのサラダを食い終わったおれは、トーストにバターを塗ったくってた手を止めた。 ちらりとテレビの時計を見ると、七時五十分。インターホンが鳴ったときは瞬時にアマゾンの配達を、それもしょっちゅうアイリにハンコをあずけて受け取りを頼んでるユダの荷物の到着を疑ったけど、この時間はまだ配達時間外のはずだ。 だったら、誰かお客さんか? そう思い直すけど、こんな朝早くから尋ねてくるような非常識な知り合いはいない。 いや、い��。一人だけ、いるわ。
「アイリちゃん」
おれは腰をあげようとしてるアイリの肩をつかんで、半ば強引にそれを止めた。 声もかけず触ったせいでアイリは一瞬怯えたけど、自分の肩に手を乗せてるのがおれだと知るとホッとひとつ息を吐いた。ビックリさせてゴメン。おれは小さく呟いた。
「キミは座ってて。オニーチャンが出ます」
じりじりとにじり寄ってくるのは、嫌な予感。 インターホンが鳴った瞬間から感じてた、不吉な予感。その予感は間違いなくこの朝の平和な時間をブチ壊す。それが現実になれば、おれとユダとアイリ、三人が仲良く朝飯を食ってるこの幸せな時間が即座に終わる。おれにはわかった。 そんな重く、ドロリとした予感を振り払うように頭を振って、バターのついた指を舐めながら立ち上がる。ユダが千葉の牧場から取り寄せてるこのバターはめちゃくちゃうまくて、いつもだったらこれを塗ったパンを食ってる途中に席を立つなんてことは絶対にしない。でもいまだけは、特別だ。 さっきから言うように、これはただの予感じゃない。ただの嫌な予感とも違う。
「……」
おれはオートロックのモニターに向かって歩き出す前に、そっとユダの顔を見た。 ユダはいつも通り牛乳をかけたシリアルにスプーンを突っこんだまま、おれを見上げてる。ほとんど手をつけてないフルーツジュースのボトルを脇へ押しやって、それからそのスペースに頬杖をついたユダは、うっすらと笑った。 でもその笑みもすぐにたち消える。ユダの顔に不安が広がる。どうやらインターホンの音は、ユダにも不吉に聞こえたみたいだ。
「……ジーザス」
モニターに映し出された男を見たとたん、おれは無意識に頭を抱えてこう呟いてた。 肌色のドアップ。それがゆっくり引かれると、空色の瞳とぶつかった。とは言っても向こうからはこちらの様子が見えないから、目が合ったって思ったのは単なる、おれの妄想なんだけどね。
「お兄ちゃん、どうしたの? 出ないの?」 「え、あ」
いつまで経ってもモニターのボタンが押される音が聞こえないことを不思議に思ったアイリが、おれに質問する。 その声がいつもより少しだけ慎重だ。なにを隠そう二十年間、一日もサボることなくおれの妹をやってきてくれたアイリはきっと、おれの戸惑いに気づいてるはずだ。しかもアイリは目が見えない。目が見えない人全部がそうだって言いきる自信はないけどさ、目が見えないだいたいの人は相手の声の揺らぎに敏感だ。そしてきっとアイリも、その「だいたい」のなかに入ってる。 その証拠に煮え��らない、曖昧な返事ばっかりしてるおれを心配したらしく、アイリはテーブルを伝ってモニターのところまでやってきた。そして、そっとおれの腕をつかむ。
「お兄ちゃん、私が出ようか?」
おれを気づかうアイリの言葉は、また押され���インターホンの音にかき消されてしまう。 まったく、ほんとに優しい子だね、キミは。そう思うと突然、おれは泣きたくなった。 なんだかなあ。昨日からおれ、ちょっとおかしい。ルイセン? がめちゃくちゃゆるくて、すぐに涙が出そうになる。これはひょっとすると、昨日したばかりの失恋のせいかもしれないね。そんなことを考えながら、おれはユダに視線を向ける。 それからまた、悲しくなった。
ユダは目が見える。 両目1.5。たしか前にそう言って自慢してたことがある。でも、あのときユダは、視力の話についてけなくてふてくされたアイリに「でも、そういう人は老眼になるのが早いんだって」と言われて黙りこんでた。 でも、老眼になるのが早かろうと遅かろうと、ユダはいま、目が見える。そして、インターホンのモニターは、ユダが座ってる席の真正面にある。 それはつまり、なにが言いたいのかっつーと。
「大丈夫だよ。アイリちゃん。ありがとね」
ユダは誰がインターホンを押してるのか、知ってんのよね。 あそこからだったらぜったい、見えてるはずだ。あそこに何度も座ったことがあって、ユダと同じく両目1.5の視力を持つおれにはわかる。やれやれまったく、わかるどころの騒ぎじゃない。 あそこから見ると、配達にきたのがヤマトだか佐川だか、それとも郵便局だか、そんなところまでわかっちゃうのよね。
こんな朝早く家を訪ねてきて、しつこくインターホンを鳴らしてるのが誰なのか、ユダはちゃんとわかってる。 わかってるからこそ、あんな目でおれを見てる。あんなってのはおれを責めるみたいなヒナンしてるみたいな、そんな目だ。 シリアルと牛乳が入ったガラスの器を抱えて、そこにスプーンを突っこんだまま、おれを見上げてるユダ。相変わらず不安げな目をしてるユダにおれは、なにも言ってやれなかった。
「いま、降りるから。そこにいて」
通話ボタンを押して、短くこう告げる。 するとモニターの向こうにいる男は荒い画質のなかでもわかるぐらい嬉しそうに、顔をくしゃっと丸めて笑って、言った。
『Bunã ziua』
「あ、そっか」
サンダルないんだった。 玄関までやってきたおれは昨晩の、ユダの赤いゲロまみれになったビルケンのサンダルのことを思い出す。そして、一人で笑った。 とにかくアレはもう、ゴミ箱行きだ。しつこいようだけど気に入ってたから、正直かなり名残惜しい。ま、ユダのことだから新しいヤツ、買ってきてくれると思うけどね。 だからおれはその代わりに、ほとんどがユダの靴で埋まってる靴箱のなかからナイキの黒いサンダルを取り出して、それを履いた。久しぶりに履いたナイキは案外足になじんで、履き心地がよかった。
「レイ」
名前を呼ばれたのは、玄関のドアに手をかけた瞬間だった。 おれはドアノブから放した手を短パンのポケットに突っこむと、くるりと後ろを振り返る。そこには火の点いてないキャスターマイルドをくわえたユダが、まっ��ぐにおれを見つめながら立ってた。 スッピンに部屋着。ほとんどない眉毛と襟がでろでろに伸びたシャツ。そこからのぞく白い肩。 ったくなんてカッコしてんのよ。いつもおれには風呂あがりにパンツで歩くなとか、ズボンのケツが破けそうだよか、うるさく言うくせにしてさ。ユダのカッコのあまりの無防備さに、おれは苦笑い。ついでにため息まで飛び出した。
「……今夜はどこか、出かけるのか」
さすがに丸出しの肩が気になったみたいで、ユダは襟を引っぱりながらこう言った。
「いや、特に予定ないかな。最近顔出してない店舗回って、リース先の業者勝手に変えてないかどうかとか……見にいこっかなって思ってるくらい」 「そうか。それはまた明日にしろ」 「うん?」 「アイリの体調が良かったら、今日こそ三人で飯を食いに行こう」
まったく予想外の申し出を聞いたおれは、驚いてユダを見つめる。 そんなおれの反応を見て、ユダは明らかに居心地が悪そうだった。タバコをくわえたまま壁に寄りかかって、それに火を点ける様子もなく、天井を見上げたり履いてるスリッパをパタパタと遊ばせたりしてる。 いや、三人で出かけられんのはそりゃ嬉しいけど、なんでまた急に? いままでこんなこと一度もなかった。あのクソ忙しいユダが二日間も連続でおれとアイリを外食に連れ出してくれるなんてこと、一度も。 嫌なわけじゃない。そんなわけない。ただ、不思議だった。不思議すぎて心配になって、黙りこんでた。
「お兄ちゃん」
するとそんなおれたちを助ける声が廊下の奥、リビングのほうから響いた。
「私がユダに頼んだの。お夕飯作るの面倒だから、どこか連れていってって」 「え、あ……そうなの?」 「そう。焼き肉がいいなァ。私」 「あーいいね、お肉。オニーチャンも食べたいです」 「ねえユダ、前に連れていってくれたあの焼肉屋さん……行きたいな」 「ああ、用賀の『らぼうふ』だろう」 「そうそう! ね、そこにしよう」
なんだ、それならそうと、最初っから言えばいいだろ。 おれは「そういうことだ」とでも言いたげな表情で腕組みをしてるユダに向かって、呆れた笑いを向ける。どうやらユダはその意味がわからないらしく、眉を寄せて首をかしげた。
「わかった。じゃあ、今夜は焼き肉な」 「今日は普通の格好でいいぞ。臭いがつくしな」 「わーってるよ、っていうか昨日のスーツ、クリーニング出さなきゃだし。アンタのせいで」 「ん? アッハハ、そうか。そりゃ悪かったな」 「ったく……」
ちっとも悪かったなんて思って��さそうなユダ。 そんなユダの口元では、小さな黒いダイヤが光ってる。しかもいまのユダは化粧をしてないから、それがなおさら目立ってた。 おれはまたすぐに目を奪われた。昨日はユダのアレに触って、いっぱいキスして。二人で湯船のなかでじゃれ合って、ホント、マジで幸せでした。 でもそれももう、できないんだ。ユダにはフラレた。もうやめてくれって、キョゼツされた。だからおれはもう、ユダを抱きしめたりキスしたり、アソコをしごいてイカせてやったり、できない。しちゃいけないんだ。 これは自分で決めたことだし、ユダが望んでることだ。だからおれは、これをしっかり守ってかなきゃいけない。んだけど。
「じゃあいってくる。すぐ戻るから」
そう言ったおれはユダの腕を引いて、タバコを口唇から抜き取ると、そのままそこにキスをした。
「もうこれで、さいご」 「っ……」 「ホントに終わりにする。だから、一回だけ」
抱き寄せたユダの肩が震えてる。 嫌な思い、させてんのかな。そう思うと悲しくなったけど、おれはキスするのをやめなかった。どうしてもキスしたかった。オージョーギワ、悪いのよねおれ。
「ゴメン。もっかい」
ボサボサのユダの頭を抱いて、深く口唇を合わせる。 玄関の、少し段差になっている上にユダが立っているせいで、おれはちょっとだけ背伸びをしなくちゃいけなかった。ホントはおれのほうが高いのにね、背。
「ん、っ」
ゆっくり舌をなかに入れても、ユダは拒まなかった。 それを知ったおれの胸は、切なく縮む。縮んだあとに高鳴って、爆発しそうになる。 二人の舌が絡まって、クチャ、と濡れた音が玄関に響いた。ユダと自分のヨダレが混ざって鳴ってるその音をおれは、ココロの底から好きだと、愛しいと感じた。
「レ、イ」
待って、そんなふうに名前を呼ばれると、涙ぐんだ目で見つめられると、やめたくなくなっちゃうんだけど? 口唇を離すのがいやだ。死ぬほど名残惜しい。でも、やめなきゃ。やめなきゃいけない。自分の気持ちにケジメをつけるためにも、やめなくちゃ。
「じゃっ」
長いキスがようやく終わる。 やっとの思いでユダを突き放したおれは、わざと素早く、ユダに背中を向ける。なんで? ってそんなの、決まってる。ユダの顔見たらまた、キスしたくなる。だからわざと、見ないようにした。 本音を言うと終わらせたくなかった。ずっとああしてたかった。でももう、行かなくちゃ。 ユダから奪い取ったキャスターマイルドをくわえると、おれはドアを肩で押し開けた。とたんにおれを包むのは夏の、ムシムシした空気。
「……ありがと。ユダ」
ユダがずっとくわえてたキャスターマイルドのフィルターは冷たく、湿ってた。 おれはポケットにライターが入ってることを確認すると、それを取り出して素早く火を点けた。するとすぐにふんわり、白い煙がたつ。
「はやく帰ってこいよ」
ドアが閉まる寸前、耳に届いたユダの声。 おれはそれに力強くうなずいて、ユダと、バニラの香りのする煙を思いっきり肺に送りこんだ。甘い。��う思った。
「レイ」
マンションのエントランス。 自動ドアを抜けて姿を現したおれを見るなり、姐さんは突撃してきた。うわ、あっぶね、燃えるっつーの。慌てたおれはくわえてたキャスターマイルドを指にはさんで、高く持ち上げる。
「こんなとこじゃナンだから、ちょっと出よう」 「ああ。わかった」
おれにぴったりと身体をくっつけた姐さんは、少しだけ高い位置にあるおれの顔を撫でながら、にっと笑う。 おれはこの笑い方が好きだった。自信満々で、挑発的で。自分以外の人間全員をバカにしたようなこの、笑い方。おれはこれを見るとなぜか安心した。 きっと、その、誰かに似てるんだ。おれがよーく知ってる、誰かに。
「どこでする?」
こう耳元でささやきながら、おれの脚の間に太ももを挿しこんでくる姐さんの行動にはさすがのおれも少々、ビビった。 いやいやここどこだと思ってんのよ。しかも、防犯カメラついてるし。このマンション。それにいつ、アイリはないにしてもユダや、顔見知りのお隣さんかなんかが出てくるかわからない。
「オイオイ、朝っぱらからかよ」 「そんなの関係ないだろう。いつも、朝だって昼だってヤリたがるのはレイ……オマエだ」 「ン、まあ、そうだけど。あのね、今日はしないよ」
きょとんと目を丸くする姐さんを、おれはそっと引きはがす。 視線を合わせた姐さんは不安と不満、それが半分ずつ混ざり合ったような顔つきでおれを見てた。いつ見てもキレイだなって、その透明さに一度は見とれちゃいそうになる青い目。それに睨みつけられると思わず一瞬ひるむけど、おれは姐さんの頭を撫でて、おでことおでこをくっつけて、立ち向かうことにした。
「行くよ」
ムスッとふてくされてる姐さんの手をにぎり、エントランスを飛び出した。 外はえらく暑い。七月の太陽が暑く、ジリジリとおれたち二人を焼く。それなのににぎった姐さんの手はとても、冷たかった。
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15.soţul și soția
「お兄ちゃん、おはよ!」
翌朝、一番に目を覚ましてリビングのソファに座ったおれは、ロールカーテンを上げて、ボーッと窓から外を見てた。 べつになにか、特別なものを見てたわけじゃない。ただ、たくさんの高層ビルに真っ二つにされた青空と、そこにぽつぽつ浮かぶ雲と、たまに飛んでくるカラスやハトなんかの鳥を、ぼんやり見てただけ。昨日の夜、部屋で一人吸ってたときよりずいぶんうまく感じるマルボロライトを吸いながら。
「おう、おはよ。アイリ」 「どうしたの、こんな早起きして。まだ七時だよ」 「ちょっと眠れなくてさ。しょーがないから起きた」 「ふーん。珍しいこともあるのね。待っててね、いま、ご飯にするから」 「ゆっくりでいいですよ。どう? その、お腹。セーリツウ」 「もうすっかり良くなったよ。ユダにもらった鎮痛剤、すっごく効くの!」 「そっか……よかった」
そう言ってキッチンで微笑むアイリは昨日の朝、ベッドで死にそうになってたアイリとはまったく別人みたいに見えた。 明るい表情に白い肌にピンクの口唇。その元気そうな様子、ひとつひとつにおれはホッと胸を撫で下ろして、マルボロライトを灰皿に押しつける。そして、ゆっくりとアイリを追ってキッチンへと向かった。
「ねえ、冷凍室開けてみてよ」
軽快に引き出した野菜室からブロッコリーとパプリカ、あとはゆで卵を取り出してるアイリに、おれはこう声をかける。
「ん? わ、なにこれ」 「ハーゲンダッツ」
おれの言った通りすぐに冷凍室を開けたアイリは、そのなかに手を入れて、手に当たったハーゲンダッツのカップの数に目を丸くした。 ハハハ、そりゃそーよね。あんなにいっぱい買ったんだからね。ユダのやつ、そんなに買ったってしょーがないだろって止めるおれのこと、完全に無視しやがって。
「エッ、こんなに……」 「昨日、酔っ払ったユダがアイリに、って買ったんだよ。セブンにあった全部の味、いっこずつ」 「まったくもー、ユダってば……」
口ではこんなことを言いながらほっぺたを膨らましてるけど、なんだかんだでアイリは嬉しそうだ。 いっさい見えない目をキュッと細くして、小さな口をもっとすぼめて。その目じりに涙まで浮かべて笑ってる。 まさかさすがに嬉し泣きってことはないと思うけど、アイリはあからさまに喜んでた。昨日の夜、ユダの感心が生理痛で寝こんでた自分に向けられた瞬間があったと知って、心から嬉しそうだった。 反対におれは複雑な表情がうまく隠せない。とは言ってもアイリにはおれの微妙な顔が見えてないんだけど、だからってそれを隠そうともしないのはなんか、違う。いいだろべつに見えてないんだから、これもぜんぜん、違う。
指先でハーゲンダッツの山を撫でてるアイリを見れば見るほど、うまく笑えなかった。 考えてみたって答えは出ない。いや、出��るけどどうすることもできない。だからおれはアイリの手を取って、ハーゲンダッツのカップにそっと、改めて触らせる。
「右上のコレがストロベリー」 「あ、ハイ」 「その隣のコレがグリーンティー」 「うん」 「その下がクッキークリーム」 「好き。クッキークリーム」 「ハイ。オニーチャンもこの味が一番好きです。で、コレがチョコレートブラウニー」 「食べたことなーい」 「それからコレ、コレは期間限定のチーズベリークッキー。昨日の夜、ユダが食ってた。まあまあだって」 「ふうん。まあまあかァ」 「コレは定番、バニラ」 「やっぱりバニラはおいしいよね」 「うん。で、コレが最後。ラムレーズン」 「ハイ、わかりました。ありがと。お兄ちゃん」 「あとコレはオニーチャンのガリガリ君ですから、食べてもいいですよ」 「ハーイ。わかりました!」
アイリにハーゲンダッツの味の配置を教え終えたおれはソファに戻って、またマルボロライトに火を点けた。 朝からタバコ吸いすぎだよ、アイリの声が飛んでくる。その苦言にハイハイ、いい加減な返事をしたすぐあとで、廊下に続くドアが開く音が聞こえた。ギィィ、って。 もしかして蝶番、錆びてんのかな。気まずさから逃れるために、おれはどうでもいいことを必死に考えた。
「あ」
一番最初に反応したのはもちろん、アイリだった。 パプリカを切っていた手を止めたアイリは濡れた手をエプロンで拭いて、まっしぐらにドアのほうへと駆け寄った。そして、ぼんやりした表情で立ち尽くしてるユダの首に手を回して、抱きついた。
「おはよう! ユダ。アイスありがとう!」 「え? ア、アイス?」 「そうよ。もしかして、覚えてないの?」 「あ、いや……あれだろ、昨日の。ちゃんと覚えてるよ」
アイリの髪を撫でながら目をパチクリさせてるユダがおかしくて、おれは声を出して笑った。 その声でおれの存在に気づいたユダが、おれを見る。アイリの頭越しに、クスクス笑いをこらえてるおれを、ジッと見つめる。その目にはやっぱり、ちょっとした気まずさがあった。そりゃそうよね、昨日、あんなことがあったんだもんね。平然としてるほうがおかしいよね。
「いくらなんでも買いすぎだって言ってやれよ。アイリ」
だからおれはわざと明るいトーンで、ユダをからかうみたいな口調でこう言った。
「フフフ。そうね、食べきれない���。あんなに」 「……ああ、そうだな。ちょっと買いすぎたな」
ユダはおれから目を離さずに微笑んで、アイリの髪をすくい上げて、それを優しく耳にかけた。 その手つきを見たとたん、一瞬でおれはアイリのことが羨ましくなって、そんな自分の気持ちにヤレヤレ、苦笑いした。結局のところおれは、この人に笑ってもらったり触ってもらったり、して欲しいんだ。 いま、それがハッキリとわかった。
「お湯、沸いてるぞ」
このおれの言葉で鍋を火にかけてたことを思い出したらしいアイリは、パッとユダから離れるとキッチンへと戻った。 アイリがユダから離れた瞬間、アイリとユダの間に距離がとられた瞬間、おれはホッとしてた。このままじゃユダがアイリにとられちゃうって思ったし、その逆も思った。ユダもアイリもおれのもので、いつでもおれの一番であって欲しかった。
「アッホくさ」
今度はハッキリ、言葉にしてこう言って、テレビのチャンネルを日テレからTBS���替えた。
「……」 「……」
アイリが朝食を作る音をBGMに、おれとユダは並んでソファに座ってた。 ユダはキャスターマイルドを、おれはマルボロライトを。それぞれ無言でふかしながら、特になにをするでもなく座ってた。ときどきユダが脚を組み替えたり、おれが深く座り直したりするたびに、ソファが揺れる。その揺れはおれにユダの、ユダにおれの存在を感じさせるらしく、おれたちはそのたびに一瞬視線を合わせた。 やっぱりどっか、ぎこちない。
「あ、ハト」
それからしばらくの間、それほど見たいわけでもない朝のニュース番組を二人で見てた。 まったく興味ない政治家のニュースや天気予報に飽き飽きしてたそのとき。ベランダの物干しに二羽のハトが止まってることに気づいたおれは、思わずこう声に出してた。 あれは都会でよく見る、灰色の、いわゆる普通のハトだ。首をかしげながら部屋のなかの様子をうかがってるみたいで、なんだかカワイイ。しかも二羽はピッタリくっついてて、仲良さそう。
「ハト?」 「ん、ホラ。ベランダ」 「ああ、ほんとだ」 「カップルかな」 「繁殖期だからな。そうだろう」
キャスターマイルドの煙を吐きながら、少し身を乗り出しがちにユダが言う。 ユダは街中でハトやカラスを見ると怖がるくせして、こうしてガラス越しなら大丈夫らしい。一緒に街を歩いてるとき、ゴミ捨て場なんかにカラスがたかってることがよくある。まあ、歌舞伎町だしね、当然なんだけど。そんなとき、カラスが怖くてその場から一歩も動けなくなっちゃうユダのためにカラスを追い払うのは、いつだっておれの仕事だ。アイツらを威嚇するのにももうかなり慣れた。
「あの」
チラリと横目で見たユダの表情がさっきより、ゆるんでる。 呼びかけに反応したユダはえらく他人行儀なおれの態度に、不思議そうに首をかしげてる。眉間にシワが寄ってるし口唇がとんがってるけど、目は優しく笑ってる。と、思う。 だからおれはハトに感謝したい気持ちになって、ゆっくり口を開いた。
「昨日はゴメンナサイ。暴走しました」
めちゃくちゃ小さな声になった理由はもちろん、アイリに聞こえないように、だ。 おれがユダにこんなふうに謝ってるのを聞きつけたアイリはきっと、すごく心配する。ねえ、お兄ちゃん、なにかあったの? ユダとケンカしたの? どうしたの? って、質問責めにしてくるはずだ。 正直それは、うっとうしかった。昨日の夜のできごとはどう考えたっておれとユダ、二人っきりの問題だし、アイリにはぜんぜん関係ないしね。
「……悪いのは、オマエだけじゃないだろ」
おれのゴメンナサイを受け止めたユダは、ずいぶん長い時間をかけてキャスターマイルドを消したあとで、フッと空気だけで笑った。
「ん、ま、それもそうね」
おれはそっと手を伸ばして、すぐそばにあったユダの手に自分の手を重ねた。 これはちょっと予想外だったんだけど、ユダはおれの手を振り払いもしなければ、自分の手を引っこめもしなかった。それどころか笑顔のまんま、うつむいてるおれを下からのぞきこんで、おれと目が合うとふんわり、両目を細くした。 その笑顔を見た瞬間、おれは身体中の力が抜けて、緊張していた心がほぐされてくのを感じた。
ああ、もう、いいや、そう思った。
「おれこそ、悪かった。傷つけたな……レイ」
こんな毎日が続くならもう、それでいいって思った。 どんな夢も諦められる。ユダとアイリとこうして一緒にいられればもう、それでいい。これ以上の幸せなんてない。生まれた家にいたころを、西多摩郡にいたころを、思い出してみればいい。 じめじめとカビた天井、ささくれだって服がゴミだらけになる畳、変な模様の黄ばんだ壁、暗くて汚い便所、スノコがヌルヌルしてコケが生えた風呂場、いつも電球がチカチカ切れかけてる階段。 そんな団地でおれとアイリは育った。台所ではしまりの悪い蛇口がポタポタ水をいつも垂らしてて、奥の部屋では酔った親父が嫌がるお袋をムリヤリ犯してた。お袋は泣いてた。そんな親父にヤラレて感じてる自分を恥ずかしがってるみたいに見えた。親父も泣いてた。酒が抜けると親父はお袋にむしゃぶりついて、謝りながら泣いてた。おれはいつも、無表情でアイリの耳を塞いでた。アイリはただただ、怯えてた。 親父のことは嫌いだったけど、お袋のことは好きだった。ただ、カワイソウな人だって思ってた。
広いばっかりでろくなものが揃ってない家、ホコリだらけの廊下、家の裏に広がるだだっ広い畑、すきま風がすごくてガタガタ音をたててる障子、家の外にある便所と風呂場。 そんな西多摩郡の家におれたちは引き取られた。伯父の野郎はおれかアイリを犯そうとしたし、クソババアはそれを見て見ぬふりしてた。いとこたちはおれたちが自分たちの残した飯を食わされてることを知ってて、わざと唾を吐いたりゴミを入れたりした。そのうえ一番年上で高校生のいとこは、いつも気色悪い目でアイリを見てた。だからおれはアイリのそばから一時も離れずに、ヘンタイウンコ野郎とその息子からアイリを守ろうとしてた。 ま、前にも言ったように、その結果おれがケツ掘られたんだけどね。
「どうした?」 「ん、いや……なんでもない。ちょっと思い出してた。昔のこと」 「いい思い出なんて、ないんだろう」 「まあね。自慢じゃないけど」 「だったらそんなことするな。ただ、つらくなるだけだ」
いつか叶うといいなって、けっこう真剣に願ってたおれの夢。 そう、ユダにチンコいれるっていう、大きな夢。ドリーム。どうやらそれは叶わないみたいだけど、もう、いいよ。 ユダがこうやって隣で笑っててくれるなら。
「二人とも、ご飯できたよー!」
幸せな声と匂いが、おれたちを呼んでる。
諦めた代わりに舞いこんでくるものもある。 手放した代わりに手に入れれるものだってある。だからもう、いい。
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14.pizmă
「なんだ、どうしたんだ」
ドライヤーのスイッチが切られるのを待って、また後ろからユダの腰を抱いた。 耳の後ろに鼻を突っこんで、おもいっきり息を吸う。そこからはシャンプーとボディーソープと、いま風呂に入ったばっかりなのにほんの少しだけ、汗の匂いがした。甘くてヤラしい汗の匂い。それを嗅いだおれはもちろんまた、アソコを硬くする。さっきイッたばっかなのにね。ヤレヤレだよね。
「……あたってるぞ」 「ハハハ。そっかァ」 「ったく……そっかじゃねえだろ」 「ねえユダ」 「なんだよ」 「ベッドいこ」
おれのこの一言で、ユダはビクリと身体をこわばらせた。 それまでエッチで和やかだったバスルームの空気が、いきなり張りつめる。高かったはずの温度が急降下。電気はちゃんと点いてるのに、暗い影が落ちたみたいに思えた。 おれはユダの身体に力が入るのを感じて、切なくなった。自分のせいでユダが緊張して、焦ってるのが悲しくなった。
いや、わかってたんだけどね。 コレ、言っちゃいけないヤツだって、ちゃんとわかってたんだよ。だっていま、おれが言った言葉は、セックスを連想させる。その行為はいままでずっと、タブーだった。っていうかユダが、それをタブーにしてた。拒んでた。だからおれも仕方なく、口に出さないようにしてた。ホントはめちゃくちゃしたかったけどね。セックス。
「しようよ。ねえ」
でも、それを破ってユダをベッドに誘ったことでなにか、悪いことが起きるかもしれない。 七年間、お互いに努力して、崩さないようキープしてきたユダとおれの関係に、ヒビが入ることになるかもしれない。最悪の場合、ヒビどころか粉々に砕け散っちゃう可能性だってある。そんなのわかってる。そんなの毎日毎日毎日毎日、この七年間ずーっと考えてた。だからわかってる。このまんまの、親子でも兄弟でも友達でも恋人でもセフレでもないいまの関係が、少なくともユダにとってはベストなんだって。おれだけ我慢してればいいんだって、わかってた。わかってる。わかってるけどそれでももう、ムリだって思った。とにかく、どうしても欲しかった。
ユダが欲しかった。
「……だめだ、レイ、それは」 「なんで」 「なんでも、だ」
案の定ユダはおれの誘いを拒絶した。 ハハハ、ダメだってさ。おれとセックスするの、やっぱりダメなんだってさ。ま、予想はしてたけどね。それでも「だめ」って正面から言われると、どうしても傷つくね。
「ねえユダ、おれ、わかんないよ。アンタがなに考えてんのか」
つらいけど、ショックだけど、それでもユダの「だめ」をどうにか受け止めたおれは、できるだけゆっくりしたペースで、ユダに問いかけた。 意識してゆっくり喋った理由はユダのためっていうよりは、おれ自身のためだった。自分の気持ちを落ち着かせるために、わざとゆっくり、一言一言を味わうみたいにして、喋った。
「……おれが?」
おれの質問に、ユダは驚いたような顔をした。 まさかそんなこと聞かれると思ってなかった、って顔だ。あー、まったくもう。ますますわかんねえ。
「そう。だって、いつも……いつもアンタのほうから誘ってくれるのに。なんで? なんでそうやって、嫌がんの?」 「おれは、い���がってなんかっ」 「じゃあなんでだよ!」
冷えきったバスルームに響き渡った声が自分の声だって気づくまでに、少しだ��時間がかかった。 だっておれの声、こんなにトゲトゲしてたっけ? こんなにセッパ詰まって、深刻そうだったっけ? おれは戸惑って口を閉じる。でももう遅かった。 鏡越しに見たユダの目には、怯えが走ってた。ユダはきっとおれの声の大きさと強さに驚いて、おれのことを怖がってる。しまった、そう思ったときにはもう、遅かった。だからおれはもうどうしたらいいのかわかんなくて、ただユダに嫌われたくなくって、離れたくなくって、ユダの腰を抱いたまま強く引き寄せて髪に顔を埋めた。
「ユダ……もう、イジワルしないで」
いまさっきシャンプしたばっかのユダの髪の匂い、それを鼻の奥に感じた次の瞬間、おれは泣いてた。 気がついたときにはもう、涙が流れてた。まったく、チンコ勃たせながら泣いてるって、いったいどーゆうシチュエーションなのよ。恥ずかしいったらありゃしないよね。笑っちゃうよね。でもおれは笑えなくて、むしろチンコが硬くなればなるほど悲しくなって、ユダを抱く腕に力をこめた。涙がおれの首を伝って、ユダの肩に落ちる。 おれの腕のなかに収まったユダの身体は、ずっと緊張したまんまだった。いまさっき風呂に入ってリラックスしてきたとは思えないほど、固まってた。おれは自分がユダに怖がられてるかもしれないって思って、またすごく、悲しくなった。
「おれは、ずっとアンタが」 「レイッ」
ぜったいに言っちゃいけないセリフ。 それはたった二文字、気持ちを伝える二文字。七年間心の奥底にしまいこんでたセリフは今日も、ユダによって阻止される。言うな、ユダの目はそう言ってる。 ひょっとするとひょっとして、あのセリフはもう二度と、表に出してもらえないのかもしれない。いったい何度、飲みこまれたことだろうね。数えきれないくらい飲みこまれて、ウンコと一緒にトイレに流れて、なかったことにされて。カワイソウなあの、二文字。
十五歳、ユダに出会ってすぐに、いやその瞬間から芽生えてたこの感情を、おれは必死に抑えこんでた。 だってフツー、そうでしょ。おれもユダも男だ。それにユダはおれよりも十七も年上だった。なにかの間違いだ、おれは若くてエロい女が好きなんだって毎日自分に言い聞かせて、数えきれないほどの女とセックスした。二年以上そんなことを続けてみたけど、それでもぜんぜん、ダメだった。募るのは空しさと切なさと、それからモーレツな違和感だった。 っていっても女たちのカラダはあったかくて、やわらかかった。彼女たちは凍りかけたおれのココロを溶かしてくれたし、凶暴になりかけたおれのカラダをなだめてくれた。年下もいれば年上もいた。でも年齢に関係なく、彼女たちは無条件におれを包みこんで、優しく導いてくれた。十代の、それも高校生をちょっとだけ乱暴にした夜もあれば、おれの倍くらいの年齢のお姉さんの胸に顔を埋めて、おかあさん、そう呟いた夜もあった。彼女たちはステキだった。女も悪くねえな、おれはそう思って夢中になって彼女たちのカラダを貪ったけど、それでも消えない思いがあった。 そしてそれはいまでも、ここにあった。
おれが欲しいのはやっぱり、ユダだった。 ��からおれは今日までずっと、こうやってユダにまとわりついてきた。間違いなくバレてるだろう気持ちを隠しながら毎日毎日、ユダに接してきた。でももうそろそろ限界だ。 伝えたい。ユダ、おれはアンタのことが、って。言いたい。
「言わせて、ユダ」 「……っ」
でもやっぱりこうやって、拒まれる。 呼吸を止めて、苦しそうに眉を寄せるユダは、かすかに首を横に振ってる。それを見たおれはため息をつきたいのをグッとこらえて、口唇を噛んでユダを見つめ返した。
「なあ、いんのかよ。誰か……好きなヤツ」
ずっとそんなことないって思ってた。 でももうそれ以外に考えられなかった。ユダには誰か、付き合ってるヤツがいるんじゃないかって。付き合ってなかったとしても、ずっと片思いしてる相手が、どこかにいるんじゃないかって。ひょっとしたらそれは、おれも知ってるヤツなんじゃないかって。 うぬぼれんなって笑われるかもしんねーけどさ、ほかに理由が思いつかない。ユダがおれの気持ちを拒否する理由。おれの告白に怯える理由。キスしたり、手コキしたり、デートしたり。行動、身体だけは受け取るくせして、心は拒絶する。それってどーゆうことなのよ。おれ、アタマ悪いからわかんないよ。
「い、いない! そんなの」 「だったら、なんで? ねえ、なんでだよォ……ユダァ」
泣いた。 恥ずかしいくらい泣いた。子どもみたいにユダにすがりついて、赤い髪のなかに涙と鼻水たらして。いつもだったら「きたねえな」って、「髪洗ったばっかなのになにしてくれてんだ」って、叱ってくれるはずのユダが、今日はなにも言わない。それがまた、つらかった。
「おれ、ずっとさみしかったんだよ。ユダ」 「レ、イ」 「アンタのなかに入れそうで入れない。チンコだけの話じゃねーよ。チンコだけじゃなくてさ、なんつーか」 「もういい。わかる、わかるから……」 「いっしょにいるのに、抱きしめてんのに、アンタはいつもどっか、ほかのところを見てた」 「……ごめん」
ユダはそう言って、自分を抱くおれの腕に爪を立てると、ギュッと強く口唇を噛んだ。 鏡越しにユダと目が合う。その瞳は苦しそうに潤んで、眉はつらそうに寄せられてた。そんなユダの姿を見たおれは思わずひるんで、腕の力を少しだけ抜いた。するとユダはおれのほうを振り返って、今度は鏡越しじゃなく、正面からジッとおれを見て言った。
「おれはオマエが思ってるよりずっと、嫉妬深いんだ。だから」
だからもうわかって、やめて。 ユダは声に出さなかったけど、おれにはたしかに聞こえた。ユダは叫んでる。もうやめてくれと。なんでわかってくれないんだと。
「……わかったよ」
フッと肩から力が抜けるのを感じたおれは、半ば投げやりにユダから手を放した。 この「わかった」の意味は複雑だ。ユダの気持ちは理解した。でも、納得はしてない。七年間、おれを一緒に風呂に入ってくれて、手で抜いてくれて。今夜はついに、おれの手のなかでイッてくれた。しかも、初めてキスもしてくれた。すっげえディープキス。七年分の思いがつまった、激しいキス。その途中でまた勃起したユダは、自分でしごいてた。おれの前なのに。おれが間近で見てるのに。顔を真っ赤にして、ホントはこんなことしたくないのに止まんない、って表情で。おれのことを睨むみたいにして、でもとろけそうな目で。 その姿にたまんなくなったおれはおんなじように勃起してる自分���先端を、ユダの指の間にねじこんだ。そこを強くこすり上げると、ユダはまた、半透明な液体を垂らしながらイッた。ビクンビクンしながらしがみいてきたユダが落ち着くまで、おれはずっと抱いてた。背中さすって、耳にキスして。そのたびにユダは甘い声で鳴いて、おれをつかむ手に力をこめた。
それなのになんで? なんであんな顔見せといて、おれのことキョゼツんのよ。遠ざけようとすんのよ。もう、わかんないよ。いや、わかるけどさ、わかんないよ。ユダ。 わかりたくも、ないよ。
「アンタのことは大事にしたいから、あきらめるよ」
カッコつけてそんなセリフを吐いたおれは、ユダの返事を待たずにバスルームを飛び出した。 背後からユダがおれを引きとめる声が聞こえたけど、おれは振り向かなかった。だって振り向いたりなんかしたらまた、つらくなる。 泣きそうになってるユダを見たりなんかしたら今度こそ、止めらんなくなる。いままで一度もしたことない、強引さと暴力を使って、ユダを手に入れようとするかもしれない。バスルームの床にユダを引き倒して、むりやりヤッちゃうかもしれない。 おれはそれが怖い。そんなことしたらホントに、終わりだ。ジ・エンドだ。 そうなったらおれはまた、十五歳に戻る。十二歳のアイリの手を引いて歌舞伎町のゴミ溜めを徘徊してたあのころに、戻る。それ自体はべつにいい。ただ、ユダがいない生活なんて耐えられない。一度は手に入れたアイツがいる生活を手放すなんて、おれにはできない。きっと、アイリだって同じだ。
歩き始めたいつもの廊下がなぜか、今日はめちゃくちゃ長く感じた。
「ヒクヒョウ」
部屋に戻ったおれは電気も点けずに窓を開けて、タバコに火を点けた。 チクチョウ、無意識に呟いた言葉はタバコをくわえてるせいか、それともうつむいてるせいか、とにかくマヌケな響き方をした。思わず笑っちゃうくらい。 さっき買ったマルボロライトはなんでかなァ、なんの味もしなかった。でもとりあえずそれをくわえたままパンツを履いて、パジャマにしてるユニクロのティーシャツを着た。おれのパジャマはぜんぶコレ。ユニクロの九百八十円のティーシャツ。色違いで五枚、持ってます。
「ったく、アイツ……よく言うよ」
マルボロライトの青い煙が目にしみて、泣けてくる。 涙の理由がそれだけじゃないってことぐらい、わかってるけど。むしろ煙なんて理由でもなんでもないって、わかってるんだけどね。でもおれ、さっきからずっと泣いてばっかりで、恥ずかしいからあんまり認めたくない。だからとりあえず天井に向けて煙を吐いて、そのままひとつ、呟いた。
「嫉妬なんて、したことねーくせに」
おれはオマエが思ってるよりずっと、嫉妬深い。 ユダはそう言っておれを突っぱねた。でもさあユダ、おれ、アンタに嫉妬してもらったことなんて、一度もないと思うのよね。おれの記憶では、一度も。 あった? いや、ないよね。たとえば姐さん、おれがあの人と会ってることを、ユダはきっと知ってる。アイツは鋭いから、ひょっとするとセックスしてることも知ってるかもしれない。 でもユダはなんにも言わない。おれを責めたり、止めさせようとするどころか、知らんぷりしてる。
「疲れちゃったなァ。もう」
拒まれるのって、拒絶されるのって、けっこう疲れるのよね。 いつも近づいてくるのは向こうからで、それでもギリギリのところで、拒まれて。よくわかんない理由を突きつけられてもう、七年経った。
「��ダ。おれ、もう」
なんか、疲れちゃったよ。
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11.dorință
※R-18 義妖
おれは道路に伸びた白線の上を、はみ出さないように歩くユダの背中を見てた。 まったくなにやってんだか。アレじゃまるで子どもだ。レストランでワインガブガブ飲んで、けっこう酔っ払ってるクセしてさ。 ユダはがんばってた。ワイン���せいでフラフラしてるはずの足元を、どうにかコントロールしようとしてた。白線からはみ出さないように、一歩一歩、慎重に。おれのビルケンのサンダルのかかとを引きずりながら、歩いてた。
「ト・マ・レ?」
ユダは、道路に白く太く書かれてる文字を、ゆっくり一文字ずつ読み上げる。 それからククク、肩を揺らして笑った。これはアレだな、このまま歩き続けてたら、次は「スクールゾーン」を読むはずだな。酔っ払いってのはたいてい、そんなもんだ。 おれはやれやれと思いながらもおもしろくなって、まだクスクスしてるユダの後ろをついて歩いた。まあ、いきなりスッ転んだりしないよーに、って意味もあるんだけどね。アイツの足元、かなり怪しいから。
「それにしてもさあ、ユダ」
ヨロヨロ、両手を広げてバランスを取ろうとしてるユダの背中に向かって呼びかける。
「んー?」 「ウマかったなァ。ブルガリ」 「ったりめーだろ、ブルガリだぞォ。ブ・ル・ガ・リ!」
アッハハ! ユダの笑い声が、カンセーな住宅街に響き渡った。 今夜のユダはホントに、すごい楽しそうだ。めちゃくちゃご機嫌だ。こんなユダの姿を見たのはもう、ずいぶん前のことだ。むしろほとんど記憶にない。 特にここ最近のユダはめちゃくちゃ忙しそうで、マトモな時間に家に帰ってくることがほとんどなかった。組の事務所に泊まるとか、会長の家に泊まるとか。あと、地方への出張も多かった。 だからおれは、今日一緒に出かけられたのが嬉しくて。しかもユダがこんなに楽しそうにしてるのが、超嬉しくて。
「アイリにも食べさしてやりたかったな。あの、カニのリゾット」 「おー、うまかったな。あとデザートのパッションフルーツのタルトも優秀だった」 「アイツ、あーゆうケーキ好きだからきっと、喜んだだろうなァ……」 「……そうだ!」
家に残してきたアイリのことを思い出してしんみり、悲しい気持ちになっていると突然、ユダが大声で叫んだ。
「な、なんだよユダ……近所メーワクだぞ」 「お土産」 「え?」 「アイリにお土産、買って帰る。アイス」
そう言うとユダは白線の上を歩くのをやめて、今度は少し離れた場所にあるセブンイレブン目指して走り出した。 まったく、忙しいヤツ。おれは笑ってユダのあとを追いかけた。その途中、急に立ち止まったユダがおれのサンダルの上に真っ赤なゲロを吐いたのは、アイリにはナイショにしといてやろう。
「だから言っただろー。飲みすぎだって」 「レイ~」 「なに~」 「ねえねえ、レイィ?」 「ハイハイ、ナニィ?」 「帰ったらさ」 「うん」 「いっしょに入ろ。風呂」 「……カシコマリマシタッ!」
ゲロまみれのユダをおぶった帰り道、見上げた空に浮かんだ星が、明るい。
「ラブホみてえ」
お湯が半分くらいたまった浴槽に、ユダに渡されたラッシュのバブルボムを放りこむ。 みるみるうちにお湯に広がってくピンクとアワアワ。そのうえ溶けた入浴剤のボールのなかからハート型の紙? みたいなのが出てきてカワイイけど、やっぱりラブホみたい。 浴槽の縁に座って、買ってきたアイスをかじりながら、おれはお湯がたまるのを待ってた。アイスはガリガリ君ソーダ味。トーゼンでしょ。
「アイリ~?」 「こ、コラッ!」 「ただいまァ。アイスゥ」 「オイ! せっかく寝てるんだから、起こすなよっ」 「アイス~……」
せっかくアイスを買って帰ってきたのに、アイリはもう寝ちゃってた。 しょうがないよね、具合悪いって言ってたしね。それよりもそんなアイリの部屋に入っていって、アイリを起こそうとする酔っ払いを止めるのが大変だった。ったくホント、手がかかるヤツだ。
「ア」
ガリガリ君がアタリかハズレか確認してたそのとき、バスルームのドアが開いて、ユダが入ってきた。 残念、木の棒にはなんにも書いてない。ってゆーか、最近のガリガリ君ってアタリつきじゃないのかな? コンビニが引き換えてくれるとは思えねーし。夏場のおれはかなりの量のガリガリ君を消費してると思うけど、最近はまったく当たった記憶がない。
「食った? ハーゲンダッツ」 「食った」 「どうよ、新商品の……えーっと」 「チーズベリークッキー」 「あ、そうそうソレ」 「まあまあだった。やっぱりダッツはラムレーズンが一番うまい」 「おれはアレだな、クッキークリーム」 「あー、あれもうまいな」
胃のなかのワインを吐いたせいか、ユダはちょっと酔いが醒めたみたいだった。 おれが風呂掃除をしてるあいだはソファにひっくり返ってたけど、あのあと起きてさっきのセブンで買ったハーゲンダッツも食べたらしい。おれだったら吐いたすぐあとにアイス、しかもハーゲンンダッツのチーズベリークッキーってチョイスはキツイけどね。
「まだ半分くらいだよ。お湯」 「ン、べつにいい」 「あ……そ」
鏡の前に立ってフワフワの、でもちょっとゲロのついた髪の毛をクリップみたいなのでアップにしたユダは、さっさと服を脱ぎ始める。 えーっと、ティーシャツはかろうじてセーフだったけど、デニムにはゲロがかかったから捨てるとのことです。あーあ、もったいねーなァ。それとおれのサンダルもたぶん、捨てられた。気に入って履いてたのになあ、あのビルケン。 おれはこんなことを考えながら、どんどん裸になってくユダから目を反らす。なんでってそりゃ、恥ずかしいからだ。あんまりジーッと見てると、チンコ勃っちゃうし。それでいつも、ユダに笑われるんだ。ユダはおれをバカにしたみたいに笑って、でも最後には優しく、おれのチンコを撫でてくれる。 ユダの前じゃおれはいつも、ドーテイソーロー少年に成り下がる。
「うえ、きったね」
ユダはまず、髪についた自分のゲロを、シャワーでていね���に洗い流した。 それからいい匂いがするシャンプーを手のひらにタップリとって、頭の上で泡立てる。おれはピンクの湯船につかりながら、その様子をずっと観察してた。浴槽の縁にアゴ、自分の頭にタオルを乗っけて、いまにものぼせ上りそうになりながら。
「ちょっとはスッキリした?」 「した。もう抜けた。あがったらチューハイ飲む」 「ハハハ。あっそ」 「付き合えよ」 「おっけ」
おれの返事に満足したようで、ユダは小さくひとつうなずくとシャワーをひねって、髪のシャンプーを流し始めた。 ホントはずっと見てたかったんだけど。たくさんの白い泡が白いユダの肌をすべり落ちてくのはエロい。だからおれは、それはずっと見つめてたかった。でもムリだ。そろそろ限界、のぼせる。 そう思ったからザバッと勢いよく立ち上がって、風呂場の隅にあったユダが座ってるのよりちょっと高いプラスチックの椅子を足で引き寄せた。それをズルズル引きずってユダの後ろまできたおれはそのまま、ユダを後ろから抱きしめる。
「……どした」 「ん、なんでもない」
まだ少し泡が残るユダの髪にほっぺたをくっつけて、耳元でささやく。 すると気のせいかな? ユダの身体が小さく弾んで、おれの手のひらのなかで乳首がツンと硬くなった。おれはそこをそっと、銀色に光るピアスごとつまむ。ピアスは41℃のお湯とユダの体温であったまって、金属なのにぜんぜん冷たくない。 おれは自分が熱く、激しく勃起するのがわかった。ユダがおれの手のなかで乳首を硬く、とがらせてる。それだけでもう、たまらなかった。おれの勃起したチンコの先が、ユダの背中をこする。その硬さや熱さにユダはぜったいに気づいたと思うけど、なんにも言わない。ただ、息が少しだけ、荒くなってる。
「ユダ」
ユダの背中に胸をピッタリくっつけて、自分の心臓の音をユダ越しに聞く。 ドッドッドッ、おれの心臓は元気よく、暴れ回ってる。その振動を感じたとたん、胸が痛くなった。自分がユダの温度に、匂いに、感触に興奮してる。しかもユダはそれを知ってる。おれが自分に欲情してるって、ちゃんとわかってる。 そう思うと苦しくて、はがゆい気持ちになった。なんでもいい、いますぐユダとエッチなことがしたい。どんなカタチでもいいから、ユダとひとつになって、グチャグチャになりたい。そんな思いがこみ上げてきて、どうしようもなくなる。
「さわって、い?」 「ッ……ア」 「いっつもおればっか、シてもらってるから」 「レ、レイッ」 「たまにはアンタになんか、してやりたくなった。ダメ? ね、いいよね?」
シャンプーがきちんと洗い流されてないせいで、意外と厚いユダの胸板はヌルヌル、すべる。 おれはユダの返事を待たずに下のほうへと手をすべらせて、しっかり手入れされてるアソコの毛のなかへ指先を進めた。おそるおそるだけど、でも、チャクジツに進めた。
「まっ……て、レイ」 「待ちません。ってゆーか、待てません」
シャンプーとは違う、べつの液体でヌルついたユダの亀頭に爪を立てると、ユダは大きく身体をのけぞらせた。 アゴが持ち上がって、白い喉が見えて。いつもは髪で隠れてるうなじに入った小さな刺青が、ヒョッコリと顔を見せる。黒くて小さな蝶々。汗ばんだそこにそっとキスすると、ユダはまた、切なげに鳴いた。
「ハ、ァ……ッ」
手にあたった乳首のピアスを軽く引っぱる。 まさか、これくらいでちぎれるようなことはないと思うけど、ユダの小ぶりな乳首はなんだか、心もとなかった。ったくもう、なんでこんなトコにピアスなんかあけたんだろ。 でも、ユダがこれをつけたり外したり一人でしてるところを想像すると、頭がボンヤリしてくる。穴に金属が通るとき、ユダはどんな気持ちになるんだろ。ちょっとエッチな気持ちになったり、すんのかな。
「ッア、あ、ソレ」 「ん? キモチイ?」 「キモチイイ……レイ、あ」 「やっべ……アンタ、エロすぎ」
付け根から亀頭まで、ツウッと撫でるように指をはわせる。 おれの指の動きと反対に、ユダが先っぽから出した汁が、下に向かって垂れてくる。ゆっくりゆっくり、ユダを濡らしながら。おれはその液体を人差し指ですくって、ユダの乳首に塗りつけた。ピアスごとグリグリ、染みこませるみたいなイメージで。 ピンッと勃って、硬くなった乳首の感触をじゅうぶんに楽しんだおれがそっとそこから指を離すと、ユダの乳首とおれの指が光る糸で結ばれた。
「も……むりだ」
両目に涙をいっぱいにためたユダが、必死におれのほうを振り返ろうとしてる。 おれはそれを助けるつもりでユダをのぞきこんで、上を向いて、ヨダレが伝うアゴを舌で舐めた。そこはユダの汗で濡れて、ちょっとだけしょっぱかった。
「むり? なにが、むり?」 「もう……ガマン、できない。さいきん、シてないから……っ」 「いいよ。イッて」 「……っん、ひあっ」
高い声が響いたすぐあとで、ユダの精子が勢いよく飛んで、鏡に模様を描く。 それを見たおれはドクン、突然全身がケイレンするのを感じた。いやいや、まさか、そんなわけ、ないよな? こうビクビクしながら、おっかなびっくりユダから身体を離して、自分の下半身をそっと見下ろす。 そして一言、呟いた。
「……ジーザス」 「オマエ……イッたのか?」 「……ハイ」 「おれ、触ってないぞ。オマエの」 「ウッセーよ! アンタがあんな……あんなカオみせっから悪いんだッ」 「フーン……なるほどなァ?」
アッとゆーまに形勢逆転。 振り返ったユダは、情けなさと恥ずかしさから顔を熱くしてるおれの顔を両手ではさんで、鼻の頭にそっとキスをした。ユダの勝ちほこったよーな目が悔しくて、おれはユダの手首をつかむ。
「ん」
それから強引に上を向かせると、上からかぶさるようにキスをした。 あ、そういえば、初めてだ。キス。そのことに気づいたときにはもう、止まんなくなってた。大きく開こうとしないユダの口を舌でこじ開けて、深く挿しこむ。アツい。アツいし、ヨダレがすごい。 ユダはおれを受け入れてくれた。口の端から垂れるヨダレを手の甲で拭いながら、自分も舌を伸ばして、おれの歯茎の裏を撫でる。そして、また半勃ち状態になってる自分のアソコにそっと、手を伸ばした。その手がゆっくりと上下し始めた瞬間、おれはグラリと脳味噌が揺れるのを感じた。
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10.lebădă
こんなにワクワクしたの、いつ以来だろ。
あれかな。もういつだったかわかんないくらい前、ユダがアイリの誕生日にディズニーランドに連れてってくれたとき以来かも。あのときは楽しかったね、アイリさん。
アイリはホーンテッドマンションを本気で怖がって泣いてたし、おれとアイリに付き合ってビッグサンダーマウンテンとスペースマウンテンに何度も、交互に乗ったユダは具合が悪くなってたし。でも、ホントに楽しかった。生まれて初めてのディズニーランド。いまでもハッキリ覚えてるよ。
「たまには三人で外食するか」
三日前の夜。 三人で夕飯を食い終えたあと、ユダは、キッチンで冷蔵庫を開けてたおれにっていうよりは、ソファに座って点字の本を読んでたアイリに向かってこう言った。 あの日の夕飯はたしか、近所のイタリアンレストランからデリバリーしたピザとパスタだった。だから皿を洗う必要がなくって、アイリはのんびり本を読んでたってわけだ。ユダの言葉を聞いたアイリは本を放り出して、パッと顔を明るくして言った。
「ほんと?」 「ああ。本当だ」 「でも、忙しいんじゃない? ユダ」 「忙しくないと言えば嘘になるけどな。そろそろ一段落するから、金曜日の夜なら時間が作れる」 「やったァ! 嬉しい」
アイリは素直に喜んで、キョロキョロとユダの居場所を探してた。 そんなアイリの様子に気がついたユダは薄く笑って、アイリの髪にそっと触った。その触り方がすっごく優しくて、紫色のマニキュアが塗ってある指がキレイで、おれはアイリに嫉妬した。バカみたいだけどね。どうしてもね。
「ったく、また遅刻かよ」
スーツに合うのが見つかんなくて、ユダのクローゼットを開けて勝手に着てきたラルフローレンのシャツ。 その袖をまくって腕時計で時間を確認して、苦笑い。ユダは人にはうるさく言うクセして、自分はめちゃくちゃ時間にルーズだ。十分や二十分なんてアタリマエで、一時間遅れてやってくることもある。そのくせおれがちょっとでも遅れるとさっさと帰っちゃうんだから、ヒドいよね。
「ね、キミもそう思うでしょ?」
銀座三越前のライオンに寄りかかって、硬い頭を撫でる。 ユダとの約束はここに六時。ただいま六時半ちょっと過ぎ。まったくやれやれだ。おれなんて今日が楽しみで楽しみでしょーがなくって、昨日の夜なんてなかなか眠れなかったぐらいなのに。ヒツジ、三十匹も数えちゃったもんね。��から今日のおれ、なんとなく寝不足なんですけど。 おれはちょっと苦しい襟元に指先をつっこむ。今日は久しぶりにネクタイをしめて、シャツのボタンを一番上まで留めてるもんだから、なんとなくキュウクツだ。しかも今夜は五月のわりにはジメジメ、ムシムシしてて、スーツの上着を着てると暑い。脇にジンワリ、汗かいてるのがわかる。それでもおれは上着を脱がず、じっとライオンの前に立ってユダを待ってた。
それにしてもアイリは気の毒だった。 今日をあんなに楽しみにしてたのに。今朝、なかなか起きてこないアイリを心配したおれが様子を見にいくと、アイリはベッドのなかで真っ青な顔してた。見るからに具合が悪そうで、額には冷や汗もかいてた。よくよく話を聞いてみると、夜中に生理がきたんだけど、生理痛がめちゃくちゃヒドいらしい。そのうえ貧血にもなってるみたいで、この調子じゃ夕飯を外に食べにいくなんてぜったいにムリだ、と。 それじゃあ今日は中止にしよう。家で寿司でもとって食えばいいから。ユダはそう言ったし、おれもその意見に賛成したんだ。だってそうでしょ? 具合悪くしてるアイリを置いて自分だけユダとウマいもん食いにいくなんて、おれにはできない。そもそもそんなハッソーすらない。
「ダメ」
それなのに、アイリさんったら。 自分は薬を飲んで寝てれば夕方ぐらいには動けるようになる、だから大丈夫、って。いやいやそーゆうわけにはいかないでしょ。おれもユダも食い下がったんだけど、前にも言った通り意外にガンコなところがあるアイリは譲らなかった。しまいにはこういうときは一人で静かに過ごしたいから、悪いけど二人でどこか行ってきて、とまで言われちゃった。 やれやれ、ジャマもん扱いかよ。おれとユダは苦笑いして、しぶしぶアイリを置いて二人で出かけることに決めた。
店はおれが決めるから銀座のライオンの前に六時にこい、死んでも遅れるなよ。 そう言っておれにデコピンしたくせに、ユダはまだこない。チクショウ、アイツ。
「みてよ、おニューだよ。このスーツ」
話し相手がいないんだから、ライオンに話しかけるしかない。 両手に紙袋をいっぱいブラ下げたオバサンに、ヤバいものを見るような目で見られたけどまあ、気にしない。おれはライオンの頭に手を置いたまま、スーツの裾をつまんでみる。えーっと、なんだったっけ、このスーツのブランドの名前。マートンじゃなくてカートンじゃなくって、えーっと。ウーン、まあいいや。思い出せないから、あとでユダに聞こ。このスーツはなにを隠そう、ユダが買ってくれたのよね。 スーツに関してはおれ、ずっとユダに叱られてた。それはおれがアオキで買ったイチキュッパのスーツを二着と、何年か前の誕生日にユダがプレゼントしてくれたブルックスブラザーズのスリーピースしか持ってないからなんだけどね。二ヶ月前、おれはそれを着て成田空港まで姐さんを迎えにいった。 そこらのチンピラじゃないんだからきちんとしたカッコをしろ、って。ユダ、いっつも言ってたよ。しかもちょっとズボンの丈が足りてない、とも言われてた。そのときは一応おれも「ハイハイ」「わかったよ」っ��返事するんだけど、結局買わずじまいだった。だってどんなの買えばいいわけ? ユダの言う『きちんとした』スーツがどんなスーツなのか、おれにはわかんなかったのよね。アイツが着てるような細くて派手なスーツはおれには似合わないだろうし、シンのスーツなんて意識して見たことないし。だからおれはグズグズ、三着のスーツをヘビロテしてた。 ユダはそんなおれについにシビレをきらしたらしく、ある日いきなりこのスーツを買ってきてくれた。マートンだかカートンだかキートンだかの、高そうな濃いグレーのスーツ。あ、キートン? キートンだったかも。このスーツのブランド名。
「それからこのネクタイはどう? けっこう似合ってると思うんだけど」
スーツを買い与えたあとはネクタイのショボさが目についたらしく、ユダはおれをマセラティに乗せて、銀座の和光まで連れてきた。 あの日ユダは、めちゃくちゃ真剣な顔でショーケースをのぞきこんでた。とにかくずっと、長い間のぞきこんでた。店に入ってから三十分以上経っても、ユダはそこから離れようとしなかった。はじめのうちはしつこくユダに話しかけてた店員も、ユダが「アァ」とか「ウーン」とか煮え切らない返事しかしないもんだから、そのうちどっか行っちゃった。でもユダはそんなことぜんぜん気にしてなかった。ただひたすらアゴに手をあてて、ジーッと考えこんでた。 おれはそんなユダの肩越しに、ケースのなかに並べられたネクタイを見てた。静かに、黙ったまま。アレコレうるさく話しかけて、ユダの邪魔にならないよーにしなきゃって思った。 並べられてたネクタイはどれもこれも色鮮やかで、ものすごくキレイだった。ユダのクローゼットには同じようなのがたくさんぶら下がってた気がするけど、おれはこんなの一本も持ってなかった。そもそもネクタイなんてほとんどしないから、三本か四本しか持ってなかったのよね。しかもそのセンスがよくないって、いっつもユダに怒られてた。だから大切な仕事があるときはいつも、ユダのネクタイを借りてしめてた。ってゆーかあれだ、ぜんぶユダにコーディネートしてもらってた。
「おまえはどれがいいんだ」 「え、お、おれ?」 「なに驚いてるんだ。オマエのを買いにきたんだから、オマエが選ばなきゃダメだろ」 「ウーン、まあそうなんだけど……おれ、こーゆうのぜんぜんわかんないし。だから、アンタが選んでよ」 「……まったく」
耳のピアスに触ろうとしたおれの手を振り払いながらも、ユダの顔は笑ってた。 あ、なんか楽しそうだ。そう思ったとたんおれはものすごく嬉しくなって、今度はユダの肩に手を回して、ユダのほっぺに自分のほっぺをくっつけた。
「あ。ねえ、コレ」
ユダに怒る隙を与えないように声をあげて、ショーケースのなかのネクタイを指さした。 するとアンノジョーおれを引きはがそうとおれの脇腹に肘鉄を食らわせてたユダの動きが、ピタッと止まった。ユダは少しだけ身をよじっておれから離れると、どれ? とでも言いたげな顔でおれを見た。
「コレ。ダイヤ柄のヤツ」 「お、パッチワークのプリーツタイか。オマエにしてはセンスがいいな」 「オマエにしてはは余計だっつーの!」
半分は自分から離れようとしてるユダの気を反らすためだったけど、もう半分はホントにいいなって思った。 色や生地の模様が微妙に違うダイヤ柄がたくさん合わさった、青いネクタイ。おれはショーケースに手をついて、それをもう一度よく見た。見る角度によって���ヤツヤした生地の色味が変わって、キレイだった。 素直にこんなのしめてみたいなって思った。ユダはこういうオシャレなネクタイをいっぱい持ってるけど、ユダのネクタイは赤とかピンクとか紫とか、そういう色が多かった。だからときどきそれを借りてるおれにとって、こーゆう青い色のネクタイは新鮮だった。しかもこんな珍しい柄、初めてだ。
「じゃあ、これにするか?」 「うん。コレがいい」 「……そうか」
店員を呼びつけてその青いネクタイを出させたユダはそれをおれの襟元にあてて、ニッコリ微笑んだ。
あの日のことを思い出すといまでもなんとなく、照れ臭い。 いま思うとあれば、デートだった。銀座で買い物デート。楽しかったなァ。
「似合ってるな」
振り返るとそこには、ユダがいた。
「おっせーよ」 「スマン」
ただいま六時四十五分。 ユダは手ぶらで立ってた。無地の白いTシャツに穴だらけの細いジーンズ。それに履いてんのアレだろ、ビルケンのサンダル。長い髪をいっこに結んで、珍しくアクセサリーをひとつもつけてないユダは、スマンなんて言ってるくせしてちっとも申し訳なさそうじゃない。少なくとも待たされてたチョーホンニンのおれにはそう、見えなかった。
「それになんだよ、そのカッコ……人にはバシッと決めてこいよって言ったクセにさ」 「ハハハ。そうだったか?」 「しかもそのサンダル、おれのだし」 「それを言うならオマエ、そのシャツおれのだろ。ラルフ」 「ンー? そうだっけ?」 「ったく……それよりオマエ、このサンダル、革が白なんだからちゃんと手入れしろよ。磨いて、ワックス使ったらこんなにキレイになったぞ」
よく見ると化粧もほとんどしてないユダは、おれのことを頭のてっぺんからつま先までじっくり眺めて、満足そうにうなずいた。 反対におれは見慣れないカッコウのユダを見つめるのがなんとなく恥ずかしくて、自分の足元ばっかり見てた。そこにはあの日、ネクタイを決めたあとに連れていかれた伊勢丹で買った、とんがった革靴がある。これもユダと一緒に何足も何足も履いてみて、やっと決めたんだ。ブランド名は、えーっと、忘れた。
「さ、行くぞ」
くるりとおれに背中を向けたユダの髪が揺れると、ふんわりとシャンプーの匂いが漂ってきた。 そこでおれはおや? っと首をかしげることになる。あれ、今日のユダは、香水もつけてないみたいだ。ウーン、なんかチョーシ狂うなァ。いったいどうしちゃったってゆーのよ。それに、おれだけバッチリスーツ着てんのがなんかバカみたいじゃね? 超恥ずかしいんですけど。
「ねえ、どこ行くの?」 「ブルガリのイル・リストランテ。予約してある」 「いる、りすと?」 「いいからついてこい」 「……ハイハイ」
やれやれ、まったく。 おれは肩をすくめて、ユダのあとについて歩き始めた。じゃあね、ライオンくん。暇つぶしの相手、どうもありがとう。これからおれたち、デートです。ブルガリのイル、なんとかでね。
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10.tată
「どういうことなんだ。説明��ろ」
「あらやだシンくん、コワイお顔。もしかしてアレの日かしら」 「そうやって冗談を言ってごまかすつもりなら、おれはもう金輪際おまえに協力なんてしない。おまえがどうなろうとおれの知ったこっちゃないし、そもそも」 「ちょ、ちょっとちょっと! ワリィ、悪かったってば!」
ここ、祐天寺にあるもつ焼き屋『ばん』もまた、おれとシンの行きつけだ。 ソースがたっぷりかかったレバカツと、ハムの切り方が雑すぎるマカロニサラダ。それからサンマをショウガと一緒に煮たのをツマミに、『ばん』名物のレモンサワーを飲む。 華金の夕方ってこともあって、店はにぎやかだ。スーツ姿のサラリーマンや大学生、いろんな客が楽しそうにビールやレモンサワーのジョッキをかたむけてる。おれとシンはそんな人たちのなかに交じって、向かい合って座ってた。
「おまえ、殺されたいのか?」
おちゃらけて、質問をテキトーに流そうとしたおれに、シンは本気で怒ってるみたいだった。 これはヤバい。シンくんは怒るとめちゃくちゃ怖い。ユダも怖いけど、ユダなんかと比べものになんないくらい怖い。いや、アイツはアイツで怖いんだけどさ。 いちおう謝ってはみたものの、シンに合わせる顔がない。おれは、マカロニサラダに入ってたタマネギがみじめにへばりついた取り皿に、ショボンと目線を落とす。あーあ、シンの言う通りだわ。いまはジョーダン言ったりヘラヘラ笑ったり、おちゃらけたりふざけたりしてる場合じゃない。事態はかなり深刻だ。そもそも今日の飲み会の場所を、いつも行く歌舞伎町のあの店にしなかった理由を考えてみればいいんだ。 ネオン輝く大都会、歌舞伎町。愛すべきあの街は仁友会のシマ。つまりはおれたちの街だ。カベに耳ありショージに目あり。どこで誰に聞かれてるか見られてるか、わかったもんじゃない。だから今日は『トラノコ』はやめて、わざわざ祐天寺までやってきたんだ。それなのにこんなことしてて、どーすんのよおれ。
「レイ」
レバカツの串を皿に投げ捨てながら、シンがおれを呼ぶ。 シンの声は優しい。コイツはおれがふざけたくてふざけてるわけじゃないってことを、ちゃんとわかってくれてるみたいだ。ま、そりゃそうよね。おれとシンくんはおれが十五、シンくんがハタチのときからもう七年も一緒にいるんだもんね。シンがおれの気持ちをわかってくれるように、おれだってシンの気持ちがよくわかる。それなのに、そんな兄貴分のシンを怒らせてしまったおれは、申し訳なさからなかなか顔を上げられない。ン、だかハア、だかとにかくチュートハンパな返事をして、しみったれたタマネギを割り箸でいじくリ回すことしかできない。
「正直に答えろ。あのあと、何回やったんだ。あの人と」 「ヤッ……」 「なんだその反応は。やってないのか?」 「いえ、やってます」 「だろう。だから、何回だと聞いてるんだ」 「えーっと、その……何回って言われてもなあ」 「……数えきれないほど、ってところか」 「いやいやいや! さすがにそんなことないってば。……��えシンくん?」 「なんだ」 「一晩に何回もやったのは、カウントする?」
ハア、シンのため息が聞こえてくる前に、おれは中国人の店員にレモンサワーのおかわりを注文した。 ナカ? 店員の女の子にこう尋ねられて、おれは思わずギクリと固まった。エ、イヤ、ソリャあの人の中で出しちゃったこともあるにはあるけど、あれはあの人がそうしろっておれをくわえて放さなかったからだし、そもそも男同士なわけだからさ、そこまで罪が重いとは思えないのよね。どんなに精子注ぎこんでも、子どもできないし。
「ネエ、ナカだけ? サワとレモ、いらない?」 「あ……あ、あ、うん! いらない!」 「ハイ」
店員はそう言うとさっさとおれのジョッキを持って厨房の奥へと消えた。 テーブルの上にある中身が半分残ったハイサワーとシンの冷たい目に気がついたおれは、ようやく『ナカ』の意味を理解した。忘れてた。この店のレモンサワーはホッピーみたいにセットで頼んで、自分の好きな濃さで飲めるんだった。アハハ、焼酎の話ね、おれは頭をかきながら笑うけど、シンはちっとも笑ってくれない。
「数えようと思えば数えられるけど、けっこう大変だよ。それなりの数になるからな。もうこれでいいだろ」
ったく、これじゃあ逆ギレだ。 ここは繁盛店のくせして注文したものが運ばれてくるのが早い。おれは『ナカ』がたっぷり入ったジョッキに、ダイナミックに半割りにされたレモンを突っこんで、上からハイサワーを注ぐ。そして割り箸でテキトーにかき回すとイッキに半分、飲んだ。ウマイ。でも、なんとなく気まずい味だ。
「おれが心配してるのはおまえよりもむしろ、あの人のほうだ。セットひとつ」
おれよりも薄いレモンサワーを飲んでたらしいシンは、同じ店員にセットを注文する。 それからサンマを煮たのを皿に取ると、サンマが真っ赤になるくらい一味唐辛子をかけた。まったくもう、なんでそんなにかけなきゃ気が済まないのかねえ。シンくんはアレだよね、香辛料依存症。
「なんでだよ。あの人は……なんつーか、その、会長のイキガイみたいなもんでしょうが。もしおれと遊んでるのがバレたって、あの人はきっと無事でいられるよ。おれは東京湾だけど」 「遊びだと、どうしてわかる?」 「ハ?」 「いいかレイ。おれは、あの人は本気でおまえのことが好きなんだと思う」 「……ハハハ、ジョーダンきついよ。シンくん」 「これはあくまでもおれの個人的意見だから、信じるかどうかはおまえ次第だ。だが、おれはそう思わずにはいられん」
シンは、今度はレバカツにカラシを塗りすぎてる。 鼻をつまんで涙目になるシンがおかしくて、いつもなら笑えてしょーがないはずなのに、今日のおれは笑えなかった。なんだか喉が塞がっちゃったみたい。ドクドク、首筋と下っ腹が震えてる。 あの人がおれのことが好き? 本気で好き? いや、そんなのありえないでしょ。だって、あの人には会長ってゆー立派すぎる恋人がいて、その会長と一緒になるためにわざわざ海を越えて、ルーマニアから日本にやってきたんだから。そんなあの人がシタッパ構成員のおれに本気でホレるなんて、ぜったいにアリエナイ。
「な、んで、そんなふうに思うんだよ」
どうにか��に出して、質問する。 声が戸惑って揺れてる理由は簡単だ。「ぜったいにアリエナイ」って、言いきれないから。だって、姐さんが家にくる回数は間違いなく増えてたし、家で過ごす時間も長くなってた。それにあの日、『アメリカン・ビューティー』を観ながらダイエットコーラを飲んでたあの日の、涙。あれはなんていうか、その、心を許してる人間にしか見せない涙、みたいに見えた。そのあとで一緒にルーマニアに帰ろうっていったあの言葉も、ウソじゃなかったような気がする。 でも。でも、それだけであの人がおれのことを本気で好きだってことにはならないでしょ? そんなのあまりにもゴーインすぎる、でしょ?
「おれはあの人のことをおまえよりもよく知っている。三年前、会長についてルーマニアにまで行った。そこであの人の暮らしや生き方を見た」 「え、シンくん、行ったの? ルーマニア」
おれは驚いてシンを見た。 三年前っていったらおれだって仁友会にいたし、シンと一緒に仕事だってしてた。それなのにおれ、なんにも知らなかった。
「ああ。あの人は会長のことを本当に好きだったと思う。でもそれが愛だったのか、おれにはわからない」 「なにそれ。どーゆー意味」 「あの人はたしかに会長を慕ってたし、それは今でも同じはずだ。ただ、慕うのと愛するのは違うだろう」 「そ、そりゃあ、違うだろうけど」 「あの人が会長のこと、なんて呼んでるか知ってるだろう? おまえ」 「え……いや、フツーに名前で呼んでたと思うよ。シュウ、って」 「ほう。そうか」
今度はシンが驚く番だったらしい。 まゆ毛が持ち上がって、目が丸くなる。このシンくんって男はいつでもポーカフェイスで、感情をあんまり表に出すタイプじゃない。だからおれはちょっとビックリして、シンと同じようにまゆ毛を持ち上げた。
「あの人は、二人のときは会長のこと、tatăって呼んでるんだ」 「ん? タタ?」 「そうだ。tatăはルーマニア語で“パパ”だ」 「……フウン」
セーイッパイ無関心を装ったおれの「フウン」はたぶん、シンには通用しないだろう。 おれはシンと目を合��せられなくて、壁にベタベタと貼られたメニューの短冊を見る。すると『サンマ煮』が『サマン煮』になってるのに気がついた。きっとこれはあれだな、あの中国人のお姉ちゃんが書いたんだな。こんなことを考えてるとちょっとだけ、気が晴れた。サマン煮。今目の前にある小鉢に入ったコレがたぶん、サマン煮だ。 短冊から目を話すとすぐ、頭んなかに姐さんの顔が浮かんでくる。姐さんの笑顔や涙声はもちろん、口からもアソコからもヨダレ垂らして気持ちよさそうにしてるあの人の姿が、よみがえってくる。
「おれが教会の息子だからこんなことを言うんじゃないし、そもそもおれは説教なんて嫌いなんだが……」
返す言葉がみつからず、ボーッと壁の短冊を眺めてると、シンがゆっくりと口を開いた。
「マタイによる福音書の」 「ハイ?」 「……まあいい。とにかく聖書だ。聖書のなかに、天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる、という一節がある。おれはこれが好きなんだ。なんとなく、会長を彷彿とさせる」 「父ってカミサマのことだろ? 会長がカミサマに似てる���てこと?」 「いや、そうは言ってないがあの人は本物の博愛主義者だ。あのくるもの拒まずのスタンスのせいで、ユダやおれはずいぶん苦労しているが」 「ま、そのおかげでおれは今、こうして生きてるわけだけどねえ」 「それから、これはあの人が今置かれた状況がそうなんじゃないかと思うんだが」 「あの人って姐さん?」 「……ああ」
シンにしては珍しく、歯切れが悪い。 ホントのことを言うと、シンの話の続きが気になってしょうがなかった。でも、ここで畳みかけるようなことをするのはナンセンスだ、そう思ったおれは、黙ってシンを見つめるだけにしておいた。するとシンはレモンサワーを二口飲んで、マカロニを二本つまんで、それからやっと諦めたみたいに喋り出した。
「さっきの一節のあとに、自分を愛してくれる者を愛したからといって、なんの報いが受けられるでしょう、という部分があって……まあ、自分を愛してくれる人間を愛するのは自然の感情だ。だが、そんなことは誰にでもできる。キリスト教においてそれは、程度が低いことなんだ。だが、誰だって自分のことを愛してくれる人間を邪険にはできない。しかも、その相手に恩があればなおさら」 「あ……」 「どうした」 「え、あ、いや! シンくんがあんまりにもむつかしいこと言うからさ! ビックリしちゃっただけ……だよ」
『Fiindcă şi păcătoşii îi iubesc pe cei care îi iubesc...』
姐さんの声が聞こえる。 裸でベッドに寝っ転がった姐さんにおれ、聞いたんだったっけ。ねえ、それってどういう意味? って。
「păcătoşiiは、ツミビト。ツミビトたちでさえ、自分を愛してくれる人間を愛してしまう。そういう意味だ」
ひょっとして、いややっぱりあの人は、自分のことを罪人だって思ってるのかなァ。 だからあんなこと、言ったのかなァ。おれとセックスしたあと、ベッドの上でダイエットコーラを飲みながら笑ってたくせに、心のなかではこんなこと、考えてたのかなァ。
「ねえ、神父サマ?」 「それはおれのことを言ってるのか」 「そうそう」 「やめろ。おれは親父を継ぐつもりなんてないんだ」 「わかったわかった。ゴメンってば」 「……フン」 「あのさ、ルーマニアってさ、キリスト教なのかな?」 「もちろんだ。あそこはおそらく正教会の、ルーマニア正教会だろう。大きな教会だぞ」 「……へえ。そっか。サンキュ」
果たしてツミビトは姐さんとおれ、どっちなんだろ。 マカロニの穴に箸の先を突っこみながら、わりと真剣に考えた。お姉ちゃん、レモンサワー、おかわりね。
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9.păcătoşii
※R-18 義将
「も、まって……ちょっと、休も?」
硬くなったおれのを自分の太ももではさんで、そのまま前後に動き始めた姐さんの手首をつかむ。 どうにか動きを止めてもらいたいのに、姐さんはおれの声なんてぜんぜん聞こてないみたいな顔でプイッとそっぽを向いた。モチロン、腰の動きを止めてなんかくれない。だからおれもムキになって、姐さんの肩をつかんで引き寄せて、強引にキスしてやった。 わりと長い時間をかけて、じっくり舌を絡める。混ざり合った二人のヨダレ、それから汗がアゴや首を伝うけど、そんなことにかまってるヨユーなんてなかった。
「し、死んじゃうってば」 「もう、か? 情けないな、オマエは」 「会長はもっとできたって?」 「うん? どう思う」 「ンー、どうかな。なんだかんだ、あの人だってトシだしね。おれの方がイイんじゃねえの?」 「フ……さあな」
こんなやり取りをしながらも姐さんは腰を動かそうとする。 おれは身体を後ろにずらして、完全に勃起したアレを姐さんの太ももから引き抜く。グチュ、とやらしい音がして、おれとおんなじように勃起した姐さんのピンク色のアレが、ピクピク痙攣した。ウッワ、エロ。
「ア、ッ……」 「触ってほしい?」 「ん、さわって、イカせて……」 「どーしよっかな」 「レイ、オマエッ」 「アンタに自分でシてもらうのもいいな、なんて」 「...Fuck off」 「あら英語。めっずらし」
ベッドに手をついておれに覆いかぶさってる姐さん脚を抱えて、グイッと自分のほうに引き寄せる。 すると姐さんはおれのチンコをにぎって、おれが命令する間もなくソレを自分のなかへと押しこもうとした。ったく、セッキョクテキですね、相変わらず。
「ア、ッ……アツイ、レイの」 「そりゃそーでしょ。だってアンタ、めっちゃエロいもん」 「んッ! あ、アアッ」 「だからこんななっちゃうわけ。わかる? アンタのせいだよ。おれのコレが、こんななっちゃうの」 「わか、あい……わかんないよ、レイィ……」 「そっかァ。じゃ、わからしてあげよっか」
姐さんの片脚を抱えて後ろに押し倒すと、痛そうなぐらい勃起した姐さんのアレが、ヌルッとおれの腹をこすった。 その刺激だけでも姐さんは高い声で鳴いて、それからすぐにちょっとだけ射精した。おれのお腹のところにかかった姐さんの精子はおれのヘソに流れこんで、そのままもう出てこなかった。
仲良くそれぞれ三回ずつ射精したおれと姐さんは、グラスに注いだダイエットコーラを飲みながら映画『アメリカン・ビューティー』を観てた。 寝室の窓全開にして、ベッドに寝そべって。いま観てる『アメリカン・ビューティー』はDVDを持ってたとかツタヤで借りてきたとか、そんなんじゃなくて、たまたまつけたBSでやってただけ。おれは姐さんの腰を抱いたまま、ケヴィン・スペイシーが娘のチアダンスの発表会にいって、娘の同級生にみとれてるシーンをボンヤリ見つめてた。あ、同級生の女の子、アンジェラのオッパイから赤いバラが出てきたよ。何度も見たことあるけど、相変わらずイカレてんなァ。この映画。
「たしかにアンジェラちゃんはカワイイけど、自分の娘のトモダチに手出すのはヤバイよなァ」 「レイはこういう女が好きなのか? ファッキンビッチ?」 「いや、そーゆわけじゃ……ってゆーかおれ、女にキョーミないし」
おれがそう言ったすぐあとで、テレビ画面に税理士と麻酔科医のゲイのカップルが映ったから、おかしくて笑った。 あのカップルも運が悪かったよね。ゲイであることを恥じるべきだ、って、自分の息子にキッパリ言っちゃうよーな海軍だか空軍だかのクソ野郎��、わざわざ挨拶しにきちゃったんだからね。なんてゆーか、めちゃくちゃカワイソウだ。おれ、いっつもこのシーンで泣きたくなるのよね。
「……姐さん?」
急に黙りこくって、ウンともスンとも言わなくなった姐さんが心配で、おれは姐さんの腰を抱き直す。 それからうつむいてた顔をのぞきこんだ瞬間、おれはギクリと固まった。え、まって、どうしたのよ。なんで? なんで泣いてんの? なぜだか理由はわかんないけど、姐さんは泣いてた。白すぎるほっぺたを、透明な涙がハラハラ、伝ってた。慌てて、テンパって思わず目線をやった画面ではケヴィン・スペイシーが、アンジェラちゃんとキスしてる。
「なに、ど、どした?」 「え?」 「え? じゃないでしょーが。なに……なんで、泣いてんの」 「泣いてる? おれが?」 「そんなはず……あ」
姐さんは身体のわりに小さな手、それから細い指で自分のアゴを撫でた。 そこが濡れてることに、それが涙だってことに、姐さんは心底驚いてるみたいだった。まさか自分が泣くとは思ってなかった、って顔。そんな顔されるとおれ、どうしたらいいのかわかんなくなっちゃうんですけど。 目を大きく見開いてビー玉そっくりなブルーをのぞかせて、そこからつぎつぎと涙を流してる姐さん。ヤクタタズのおれはそんな姐さんを慰める方法が、涙を止めてやる方法が思いつかなかった。意志とは関係なく泣いちゃってる自分に怯えたように震える姐さんの肩を抱いて、その顔をのぞきこんでやることくらいしかできない。ダイジョウブ? なんか飲む? そんな言葉しかかけてやれなくて、ホント、おれってマジでヤクタタズ。
「そんな顔、しないで。オレはオマエを困らせたくない。いやだ」 「ン。ゴメン」 「オマエまで泣きそうだ」 「ハハ……そーかもね」 「レイ」 「ハイ?」 「そうだ。レイ、いっしょに帰ろう」 「かえる? 帰るって、会長んとこ? あ、ウン、わかった……すぐ送っ」 「ちがうっ! オレの国に」 「く、くにィ?」 「そう、オレの国。ルーマニア。いっしょに行こう? レイ」 「え? あ……おれが?」 『Mamă...tată』
姐さんはそうつぶやくと、まるで赤ん坊のころに戻ったみたいにおれの胸に手をあてて、キュウッと乳首をつまんだ。 そのしぐさが、声が、あんまりにも気の毒に見えて。おれはしばらく、姐さんの好きなようにさせておくことにした。ショージキつままれた乳首はかなり痛いけど、ガマンできないほどじゃない。
『Nu merge...』 「うん、わかったよ」 『Şi să-ţi spună că te iubesc』 「そっか。大丈夫、そうするよ。アンタの言う通りに、するよ」 『Vă mulţumesc foarte, foarte mult. Vă iubesc』 「ありがとう。おれもそう思うよ」 『Fiindcă şi păcătoşii îi iubesc pe cei care îi iubesc...』 「わかった、わかったから……」
ダイエットコーラが入ったグラスが倒れて、シーツに茶色い染みを作った。 なかに入ってた氷がシーツの上を転がって、カーペットの上に落ちる。でも、おれと姐さん、どっちもそれを気になんてしなかった。おれは姐さんの髪を撫でる。姐さんはおれの胸に手をあてて、うるんだ青い目でおれを見る。 ��人工甘味料の香りが部屋を満たすなか、おれは泣き続けてる姐さんの顔を両手でつかんで、キスした。しかもかなり激しめに。姐さんはそんなメチャクチャなキスを受け入れてくれた代わりに呼吸がうまくできなくなったらしく、��ばらく喉から変な音がしてた。でも、それもおれがずっと背中をさすってたら、そのうちおさまった。 それからおれは求められるがままに姐さんを抱いた。姐さんの言葉の意味は、ルーマニア語の意味はまったくわかんないけど、とりあえず返事をした。この人が少しでも安心できるように、いまにも崩れ落ちそうなこの人が安らげる場所になれるように、ウン、ウンって、ただひたすらうなずいてた。こんないいかげんな反応がホントに姐さんのためになるとは思ってない。でも、いまはこうしてうなずいてあげることが、この人を受け入れてあげることが一番大事なような、そんな気がした。
「ねえ、いま、なんて言ったの?」
でもやっぱりなんて言ってたのかが気になって、こんなことを尋ねてみる。 すると姐さんは意外にも優しく微笑んで、おれの質問に答えてくれた。無視されるか、せいぜい自分で考えろと言われんのがセキノヤマだと思ってたおれは、驚いて姐さんと視線を合わせた。
「いま、って?」 「最後の」 『Fiindcă şi păcătoşii îi iubesc pe cei care îi iubesc...?』 「そう、ソレ」 「păcătoşiiは、ツミビト。ツミビトたちでさえ、自分を愛してくれる人間を愛してしまう。そういう意味だ」
罪人。 いくらヤクザのおれだって、普通の暮らしをしてたら聞く機会のない言葉だ。罪人たちでさえ、自分を愛してくれる人間を愛してしまう。なるほどね、そりゃそうだよね。 そのときおれは軽く考えてた。姐さんが言った言葉、ひとつひとつを甘く扱ってた。これがこの人の本当の気持ちだって、おれに求めてるものだって、気づいてあげらんなかった。だってホラ、おれ、バカだからさ。ルーマニアの場所もわかんないよーな、ヒジョーシキなヤツだからさ。だから、わかんなかったよ。 だからおれはとにかく姐さんを満足させようと、必死んなって腰を動かした。姐さんが女みたいな声で鳴くのを聞いて、背骨のあたりをゾクゾクさせながら、とにかくがむしゃらに姐さんの身体を貪った。
「ネェ、まだ、キスしただけなんだけど? どーしちゃった?」 「ウ、ルサ……イッ」 「会長とキスしてもこーなんの? あの人にキスされただけで、ココ、こんなグッチョグチョにすんの? アンタ」
おれはちゃんと気づいてた。 パンパンに貼れて、いまにも射精しちゃいそうな姐さんのアレの根元をキツくにぎりながら、ちゃんと気づいてた。ここ最近の自分の変化に。姐さん、この人を抱けば抱くほど、おれはオカシくなる。わざとイジワルなこと言って、イジメるようなことして。一緒にシャワー浴びて、キスしながらベッドに倒れこんだときにはこんなこと、ぜんぜん思わなかったのにね。 この人にヒドいこと言って怒らせんのが、だんだん楽しくなってきた。キモチイイって思うようになってきた。姐さんがつらそうな顔でおれを見れば見るほど、にらめばにらむほど、おれは興奮する。アソコは硬くなって先っぽからヌルヌルした汁が出て、止まんなくなっちゃう。ンー、ふつうに考えておれ、ヤバイよな。
「ほら、サワッてみなよ。そしたら自分がどんだけエロいか、わかるから」 「誰がそんなコ、ト……ン、ン……ふぁ」
キスで姐さんの口を塞いで、手首をつかんでムリヤリ自分のチンコをにぎらせる。 でもそこはあんまりにも濡れすぎてて、姐さんはソコをつかみそこねた。精子だかガマンしたときに出るアレだかわかんない液体で濡れて、ツルッとすべって。姐さんもおれも、それをつかみそこねてしまった。 いや、んなんつーかいまの、クッソエロかったわ。おれは姐さんの膝の下に腕を入れて、片脚を高く持ち上げた。で、丸見えになった尻の穴に唾を吐く。悪気はないから優しく、垂らすみたいにして。
「ひゃ、ウ」 「あーあ。もうヌルヌルじゃん。ココも」
たかだか唾がかかっただけなのに、姐さんは身体をアーチ型にのけぞらせて喘ぐ。 それを見たおれは人差し指と中指を鉤型に曲げると、姐さんの尻の穴にゆっくり、でもイッキに二本、それをねじこむ。指はズブズブ、どんどん姐さんのナカへと引きこまれてく。
「二本じゃたんねーの? もしかして」
最初っからほぐす必要なんてないことくらい、わかってた。 姐さんの尻の穴はヒクヒク閉じたり開いたり、エロい動きをくり返してる。いますぐにでもおれのチンコをブチこんでほしいって感じの動きだ。でも、わざと指でじらすような真似をした。
「あ、アアッ……もうやだ、やだァ……レイ、はやくはやく、う」
ふやけた指をおれは姐さんの髪を片手でかき上げて、もう片方の手でもう一度、姐さんに自分のチンコをにぎらせようとした。 すると今度は成功した。姐さんはしっかりとつかんでくれた。ただ、今回姐さんがつかんだのは、自分のだけじゃ、なかった。姐さんはおれの腰に両足を回しておれを自分のほうへと引き寄せると、姐さんのと同じぐらい硬く、熱くなって、ドクドク脈打ってるおれのチンコをつかんだ。
「あ、ねえさ……」 「……オマエこそ、こんなだ」 「こんなヤラシーこと、どーやって覚えたんだよ」
おれのと自分の、二本のチンコをにぎった姐さんは、ネチャネチャ音をたてて手を動かし始める。 パンパンに膨れた亀頭と亀頭がこすれ合って、痛い。でもキモチイイ。どっちから出たかわかんない、透明のネバネバ。それが二つの亀頭を包んで、温める。
「いれてほしー?」
このままじゃイッちゃう、そう思ったおれは腰を浮かせて、姐さんに質問する。
「ったりまえ、だ……はやく、いれて……」 「ふうん。そっかァ……会長にもいつもそーやってオネダリしてた? 可愛くてエロい顔見せて、カイチョーのチンチン挿れて、って?」 「やだ、やだっ! そんなの、ききたくない……レイ、おねがい」 「ルーマニア語ではなんて言うの? いれて、って……ねえ」 「……ッ」
こりゃかなりセッパつまってんな。 姐さんは、一度は放したおれのチンコをまた手さぐりでつかむと、上下に動かし始めた。モチロン自分のも一緒に。ネチャネチャ、グチャグチャはさっきよりも大きくなってる。 姐さん。殺意すらにじんだ目でおれを睨みつけるのがまじで、たまんない。この人をもっと怒らせたい。もっともっと怒らせて、そのあとでめちゃくちゃ優しくチンコ挿れたげて、タイリョーの精子浴びたい。 そんな思いを口に出す代わりに、姐さんの乳首をギュッとつまんだ。さっきのシカエシ、ってわけじゃないけど姐さんの乳首は女みたいにビンビンで、おれの肌やシーツがこすれるたびに姐さんの甘い声があがる。だったらこうやってつまんでみたら? 口のなかで転がして、軽く噛んでみたら? この人はどんな反応を見せてくれるんだろう。
「レ、イッ、アッ、なんか……なんか、ヘンッ……」 「え、あ……ッ」 「アッアッアッ、い、や……アアッ」
乳首をくわえようとかがんだ瞬間、熱い液体が顔にかかった。 あ、イッちゃったんだ、そう思うと同時におれは、オヤッと首をかしげることになった。おれの上でのけぞってる姐さんのケイレンが、止まらない。チンコの先っぽから流れる精子も、止まらない。それどころかどんどん量が増えてるみたいにも見える。
「ねえさ……どした、の?」 「ッン、グ、ア……ヒッ、レ、レイ……むり、��、むりィ」 「むり? むりってなに? むりなわけないじゃん、だってこんななってる」 「こんな、ッテ、あああッ」
姐さんのアレからは、まるで噴水みたいに、ってのはオーゲサだけど、精子とは違う、水みたいな液体が飛び出し続けてる。 その姿がやばい、やばすぎるほどエロくて、気がついたときにはおれはまた、姐さんの腰をつかんで突き上げてた。なんかコレって、女がアレ、吹くのとおんなじみたいだ。
「ねえ……姐さん、サウザー」 「ア……な、まえ、ナマエ、もっとッ」 「……サウザー」 「ヒッ、ク、んンッ」 「サウザー。サウザー、サウザー……ッ」
姐さんの名前を初めて呼びながら、おれはイッた。 おれのチンコを死ぬほど強く、リズミカルに締めつけてる姐さんのなかに、思いっきり射精した。びしょ濡れになったシーツに倒れこんだ姐さんのアレはまだ、ヒクヒク震えてる。さすがにもうなんも出ないみたいだけど、亀頭はぷっくり膨れて、先っぽにはぬるぬるした液体が絡みついてる。
「はじめてだよ。アンタみたいな男」
肩で息してる姐さんを後ろから抱きしめて、耳の裏にキスをする。
「ア」
するとピュクン、姐さんのアレからまた、あったかい水が噴き出した。
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8.inseparabilă
ガチャン、ユダがコーヒーカップをソーサーの上に落とした。
運よくカップは割れなかったみたいだけど、ソーサーだけじゃなくてテーブルにもコーヒーがこぼれた。音だけでなにが起きたのか理解したらしいアイリが、素早く立ち上がってキッチンに向かった。そしてすぐに布巾を持って戻ってくる。
「おまえがこんな若いのに走るとは驚きだ。おまえの好みは決まりきったものとばかり思っていたがな。昔っから」
おれは、周囲の空気が凍りつくのを感じていた。 それはきっとアイリも同じだろう。アイリはどことなくビクビクしながらテーブルを拭いている。それでも会長いわくとてもソーメイで美しい女性であるアイリちゃんは、テーブルを拭きながらもさりげなく、ユダの脚に触ってやっていた。 その感覚でハッと我にかえった様子のユダは薄く笑って、アイリの手に自分の手を重ねた。そして小さくひとつうなずくと、ようやく口を開いた。
「……なにもこんな時に言わ��くたっていいでしょう。会長」
ユダの声も顔も、なにもかも、ぜんぶ冷たかった。 それはおれが初めて見る種類のユダだった。輝きのない目、乾いた口唇、低い声。怖い。素直に感想を述べるとするなら、コレだ。両目をこれでもかというほどつり上げたユダは、どう考えても怒ってた。なにかに、いや会長に腹を立てていた。会長に、っていうよりは会長の発言に。 ユダの赤い髪が、いつもよりも赤く見える。怒りの炎に燃えている。ユダは明らかに取り乱してた。自分で自分の感情をおさえつけようと、必死になってるみたいだった。
「勘弁してください。この人の前じゃないですか」 「うん? ああ、そう��。おまえが気にしていたのはこれだったのか。てっきりレイのほうかと」 「……会長」 「フ、そう怖い顔をしないでくれ。冗談だよ」
フン、姐さんが鼻を鳴らした。 おれは最初、姐さんは自分のことを『これ』呼ばわりした会長に腹を立てているのかと思った。でもすぐにそうじゃないってわかった。姐さんはべつに、腹を立ててなんかない。そもそも会長とユダのやり取りなんか見てもないし、会話を聞いてもない。そんな姐さんの目の前にあるのは、空になったケーキの皿。
「可愛かったなあ。オレのケーキ」
とてもソーメイで美しくてそのうえ勘のいいおれの妹、アイリさん。 アイリはハッと顔を上げて、テーブルの上を探った。そしておれがさっき手渡したケーキの皿にたどり着くと、目にも止まらぬ速さでそれを姐さんに差し出した。おれが止める間もなく、一瞬で。
「よかったらこれ……どうぞ。わたし、いつも食べてるので」 「Mulțumesc. えーっと、アイリ」
いつも食べてるだって? この小さな嘘は、アイリのせめてもの強がりだろうか。おそらくルーマニア語で「ありがとう」と言った姐さんはニッコリ、サイゼリアの壁画に描かれた天使みたいな笑顔を浮かべて、アイリから皿を受け取った。血の色をした姐さんの口唇が、満足げなカーブを描く。
「イタダキ、マス?」
それを肯定してやる気力はもう、残ってなかった。 ねえアイリさん、どうしてそんなことしちゃったのかなあ。オニーチャンはさ、キミ、じゃなかったアナタのために銀座まで行って、買ってきたんですよね。それなのにアナタは結局、一口も食べてくれないわけですね。それってあんまりじゃないの。賢いアナタのことだから、わかってたでしょう? オニーチャンがどうして、なんのために、誰のためにこれを買ってきたのか、すぐにわかったはずでしょう? それなのにさァ。
「変わったな。ユダ」
いきなりこう言い放った会長の目は赤く、ギラギラと輝いていた。 でもおれはそのとき、それに気づくことができなかった。あのケーキが、グランメゾン銀座の赤いフルーツのタルトがアイリの口に入らなかった。それがショックすぎて、会長がユダを見る目がどうもおかしいってことに、これっぽっちも気づかなった。ほんとにバカだよね、おれ。
「そりゃあ変わるでしょう。あなたもおれも。……十五年も経てば」 「そうか。もうそんなになるか」 「……ええ」 「若かったんだな。わたしも、おまえも」
するりと会長の手が伸びて、ユダの手首をつかんだ。 ユダがいつもしてる青い石がついたブレスレットが一回だけ鳴って、そのあとすぐに静かになった。無音。いや、正確には姐さんがフォークで皿を引っかく音がしてたけど、それ以外はなんの音もしなかった。 会長の顔は優しい。反対にユダの顔は険しい。おれはコイツと七年も一緒に暮らしてきたからわかる。ユダは今、死ぬほど緊張してる。ユダが死んじゃう。おれは思わず叫びそうになった。
「ほんとうに、齢をとったんだなあ」
ぐいっと会長が腕を引くと、ユダはあっという間にバランスを崩した。 会長はそんなユダを受け止めて、自分の膝の上に座らせる。会長の正面に回ったユダが会長の片脚をはさむ、みたいなカッコになって、うまく言えないけど、なんだかエッチだ。会長の両手はユダの腰に置かれてて、会長はユダをからかってでもいるのか、そこ���円でも描くみたいに撫で回してた。それが原因かどうかわかんないけど、長い前髪で半分は隠れてるユダの顔が、真っ赤になってるのが見えた。 会長に子どもみたいに扱われてるのに、ユダは怒る気配すらない。もしも会長と同じことをおれがしたら、ユダ、怒るよなァ。ぜったい。
「これはあれだろう。シワ。おまえに似つかわしくない」 「ッ」 「おまえでさえこうなんだから、わたしはもっと酷いのだろうね。もうしばらく鏡など見ていない」 「ア、」
ユダにどんなに睨みつけられても、会長は笑顔のまま。 膝を少しだけ持ち上げて、その上に乗ってるユダの体勢を安定させようとする。するとユダが小さな声をあげた。会長のズボンと自分の上着の生地を握って、あっと短く。それはなんだか小さな生き物が、怯えて鳴いたときの声みたいに聞こえた。おれには。 ユダは腰を浮かせて、会長の胸に手をついた。ムキになってバランスを保とうとするその姿は、おれの胸をギュッと締めつけた。今すぐにユダを会長の膝から引きずりおろして、抱きしめてやりたい。そんな気持ちになってた。でも、そんなことできるわけ、ない。それにユダもそれを望んでない。悲しいけど、そう思った。
「送ってくれ」
やっとユダの目じりのシワから手を放した会長は、ポケットから車のキーを取り出した。 その声でおれもはっと我に返る。それまでのユダをからかうような口調とは打って変わり、会長の声は重くて冷たかった。その声に怯えたアイリが不安げに眉をひそめたのが見えたから、おれはアイリの隣に座りその肩を抱いた。 アイリは目が見えない分、音にはめちゃくちゃ敏感なのよね。トーゼンのことだと思うけどね。で、この子の優しくてホーヨーリョクあふれるオニーチャンであるおれは、アイリの反応にめちゃくちゃビンカン。アイリが少しでも怯えたり、不安な気持ちになったりしたときには、必ずおれがそばにいてあげようって。隣で抱きしめてあげようって決めてるし、実際におれはそうしてきた。 たとえば西多摩郡から新宿に向かうトラックのなかで、たどりついた歌舞伎町の轟音のなかで、ユダのマンションのバスルームのなかで。さっきみたいに眉毛をギュッと寄せて、身を堅くしてるかわいそうなアイリちゃんを守るのは誰でもない、おれの仕事だ。
「食べ終わったか? 帰るよ」 「もう?」 「ああ。これ以上邪魔するわけにはいかないからね。早く準備しなさい」 「Da, ……ハイハイ」
LS600の鍵を渡されて、ユダは戸惑ってるみたいに見えた。 そのうえ、会長の「送ってくれ」って言葉の意味がわかってないようにも見える。人差し指の先にぶら下がったキーホルダーを、ユダはぼんやり見つめてる。なんつーか、あれだ。ユダさん、いわゆるホーシンジョータイ。
『Fiecare clipă petrecută cu tine mă face să mă simt iubit şi să simt că mă daruiesc cuiva întru totul şi că viaţa mea are sens...』
姐さんは今日も歌っている。 おれはアイリの肩を抱いたまま、ユダを見つめたまま、その声を聴いていた。前にも思ったことだけど、姐さんは歌がうまい。太くてキレイな声だ。ユダとアイリにいつもオンチと笑われるおれは正直、姐さんがうらやましかった。おれもあんな風に歌えた��いいのにね。
『Să te iubesc, să te simt, să fii lângă mine, să ne ţinem în braţe...』
さっさと玄関に向かって歩き出してしまった会長のあとを追うために、姐さんは立ち上がる。 そして大きく伸びをひとつすると、アイリの髪をそっと撫でた。ケーキの礼のつもりなんだろう。それからムルツなんとか、さっきも聞いた短いルーマニア語をアイリの耳元でささやいた。その意味はありがとうとかすみませんとか、きっとそんな感じだ。 アイリはいきなり髪に触られたことでビクッと身体を震わせたけど、姐さんの手つきに悪意や乱暴さがないと知るとすぐに肩の力を抜いた。それと同時にアイリの肩を抱いたままだったおれも、そっとアイリから手を放した。
「Pe mai târziu. レイ、アイリ。バイバイ」
バイバイ、おれがそう返そうとした瞬間、手を振る姐さんの横を誰かが猛スピードですり抜けた。 ユダだった。ユダは姐さんには目もくれず、ものすごい勢いで玄関に向かっていった。姐さんはもちろんおれやアイリのことも無視して、会長を追いかけていった。おれはしばらく呆然としてユダが消えていった廊下の方を見てたけど、そのうちに会長とユダが小さな声で話してるのが聞こえて、複雑な気持ちになって姐さんを見上げた。 フン。姐さんはまた鼻を鳴らしただけで、なんにも言わなかった。
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7.roșu
「ハッピーバースデートゥーユー」
ハッピーバースデートゥーユー。 ハッピーバースデーディアアイリちゃん。 ハッピーバースデートゥーユー。
ってね。 さっきから何回歌ったかわかんないね、コレ。そうです、今日はアイリちゃんのお誕生日です。一年、サンビャクロクジューゴニチのうちで、一番おめでたい日です。おめでとう。おめでとうアイリちゃん。
「にしても、高かったなァ」
ケーキの箱を持ち上げて、ちょっとだけ苦笑い。 おれは銀座から日比谷に向かって、晴海通りを歩いてた。その理由は少しでも電車賃を節約するためです。おれの財布とは正反対にずっしりと重いケーキの箱を、ガサゴソと振ってみる。ウーン、なんともいい音がするね。そりゃそうよね、だってこのケーキ、赤いフルーツのタルトね、なんとワンホールで四千八百九十円。 銀座にあるケーキ屋『グランメゾン銀座』の赤いフルーツのタルトをユダが買ってきてくれたのは、去年の夏だった。それを食べたアイリはもうエラい感動しちゃってさ。こんなおいしいケーキ生まれて初めて食べた、って涙まで流すもんだからさ。あのときのアイリの顔が忘れらんないのよね。だからこうして仕事帰りにわざわざ銀座までやってきて、コレを買ったってわけ。マダムたちのおれを見る目が冷たかったけど、そんなの気にしないもんね。おれは赤いフルーツのタルトが買えればそれで、いいの。
「赤いフルーツのタルト、一番デッカいやつ!」
ガラスケースをバシンと叩いて、こう叫んだ。 すると、店員のお姉ちゃんはヒッと声をあげて店の奥へ逃げてっちゃった。あらあらいったいどーしたんでしょうね。おれのこのサングラスが怖いのかな? それとも��の格好がマズかったかな? まあいいや。笑えるほど高い帽子をかぶった男の人が出てきて、ちゃんとケーキは売ってもらえたし。 ��ねえアイリちゃん。いや、今日からキミはハタチだから“アイリさん”って呼ぼうかな? そうほうがいいかな? ねえ、キミはどっちがいいかな? こんなこと言うと恥ずかしがるかもしれないけど、二十年間おれが必至に守り抜いてきた目の見えない天使、それがアイリさん、キミ、いやアナタですよ。アナタがいたからオニーチャンは頑張れました。貧乏すぎてまともに学校に行けなくたって、酒飲んだ親父にブン殴られたって、ラブラブ首吊り自殺をした両親の死体の第一発見者になったって、ヘンタイウンコ野郎にカマ掘られたって、ドブネズミと仲良く歌舞伎町でゴミ漁りしたって、ヤクザになったって、オニーチャンは平気でした。アナタのためだったらなんだってできましたよ。 キミがオニーチャン、っておれを頼りにしてくれる限り、オニーチャンはアナタのオニーチャンですからね。だからこのケーキは、アナタとユダとおれの三人で、おいしく食べましょうね。おれとユダは一切れずつあればいいからさ、あとはぜーんぶ、アナタが食べていいですからね。 ねえねえアイリさん? このケーキを見たら、ううん、正確にはこのケーキの香りをかいだら、口に入れたら、アナタはどんな顔をするんでしょうね。イチゴ、ブルーベリー、ラズベリー、あとはよく知らない。とにかく赤いフルーツがいっぱい乗っかったこのケーキをおれが買ってきたって知ったとき、アナタはどんなふうに笑うんでしょうね。 ああ、早く帰りたい。早く帰って、アイリの笑った顔が見たい。 おれは歩くスピードを上げる。歩くっていうよりもう、ほとんど小走り。で、気がついたときにはゼンリョクシッソー。アイリに会いたい気持ちがおさえきれなくて、晴海通りを猛ダッシュ。数十メートル走ったところで自分がケーキの箱を持っていたことを思い出したけど、もう今さら遅い。そんな気がした。それにこのケーキはショートケーキとかそーゆうんじゃないから、ちょっとやそっと振り回したって平気。たぶんね。 家に、ユダのマンションに、おれとアイリの家に、一秒でも早くたどり着く。それがなによりも、どんなことよりも大切なように思えた。アイリと、ユダと、おれ。さっさと帰って、三人でちょっと潰れたかもしれないケーキを食べる。はずだったのになあ。
『Mi-ar plăcea să te sărut...シュウ』
なあ。
「よしなさい。みんなの前だろう」 「どうしてコイツらに気をつかわなくちゃいけない? ねえ、だからキスしよう」 「ふむ。では、どうして気遣いが必要なのか、おまえに教えてあげようね」 「ああ」 「いいかい。ここはユダの家で、ここの主はユダだ。それはわかるかな?」 「そんなの、わかるにきまってる」 「そうか、わかるのか。偉いなあおまえは」 「簡単なことだ。バカにするな」 「では聞き分けなさい。わたしとおまえは客人なのだよ。しかも突然、アポイントもなしに押しかけたんだ。それなりの振る舞いをする必要がある。礼儀正しく、奥ゆかしくしてこその日本人だ」 「……フン。オレは半分、ルーマニア人だ」
なんでおれは会長と姐さんのためにケーキを切り分けてんだろーな。 なんで��ダは会長と姐さんのためにコーヒーを落としてんだろーな。なんでアイリは会長と姐さんのためにテーブルを拭いてんだろーな。なんでコイツらはユダの部屋のリビングで、ソファに座ってイチャイチャしてんだろーな。やれやれ、意味わかんねえわ。頭こんがらがってるわ。 ちょっと潰れたケーキにナイフを入れようとした瞬間、鼻の頭が急にツンと痛くなった。あれ? おれ、ひょっとして泣きそうになってんのかな? は? なんで? 泣く必要なんて、あんのか?
「お兄ちゃん、私、お邪魔でしょう? 部屋に戻ってるよ」
アイリはこのおかしな空気をビンカンに感じたらしく、気をつかって自分の部屋に引っこもうとしてる。 礼儀正しく、奥ゆかしい。会長、それってこの、アイリさんみたいな子のことをいうんだと思うのよね。ああ、そっか。だからおれ、泣きたくなったんだ。今日からアイリさんになったこの子に食べさせるつもりで買ってきた、このケーキ。それなのにアイリさんは、そのことを知らない。 タッダイマ! こう叫んで玄関のドアを開けるなりユダに首根っこをつかまれて、カイチョーがオコシだって、すっげえ怖い顔で言われて。アイリさんにハッピーバースデーを伝える間もなく、お祝いの歌を歌ってあげる間もなく床にブン投げられた。おれが歌を聴かせてやれたのは晴海通りを歩いてた人たちだけ。アイリさんじゃない。
「ここはあなたの家なんですから、そう遠慮することないんですよ」
アイリの様子に気がついたらしく、会長が笑いながらこう言った。 その隣では早くもフォークを握った姐さんが、たいして興味もなさそうにアイリを見つめてる。姐さんの冷たくて青い目がアイリに向けられてるのを見ると、どうもソワソワ落ち着かない気持ちになった。
「でも……お仕事のお話があるんじゃ」 「いえ、今日はそんな堅っ苦しい用事できたんじゃありません。いわゆるあれですよ。プライベエト」 「……そうですか」
これじゃあケーキがあんまりにもカワイソウだ。 自分がアイリさんっていう天使のために買われたってことを知らないまま食われちまうこのケーキが、あんまりにもカワイソウだった。イチゴもブルーベリーもラズベリーも、あとはよく知らないけどとにかく赤いフルーツたちもみんな、カワイソウだった。キミたちはアイリさんのためにここにきて、アイリさんに喜んでもらって、アイリさんに真っ先に食べてもらえるはずだったのにね。
「会長。いったい、今日はどうしたっていうんです」
さっすがはユダだ。 おれが一番聞きたかったことを、質問したかった、でもできなかったことをいとも簡単に聞いてくれる。これがキョウダイサカズキを交わす、ってことなのか? おれにはまったく縁のないことだけど、ユダは会長と盃を交わしている。しかも会長とユダは五分の兄弟なのだと聞いたことがある。 兄弟盃っていってもいろいろある。交わした二人がほとんど対等な五分、兄貴の方がちょっとだけ強い四分六、七三、二八。何度も言うけど、会長とユダは五分の兄弟。つまりさ、二人はほとんど平等ってこと。だって、五分なんだからね。それってホントにすげーことだ。この会長と五分の兄弟。ユダはホントに、ホントにすごい。
「どうしたってことはないさ。ただ、おまえの住まいを見てみたくなった。それだけだ」 「携帯は?」 「うん? 携帯?」 「ええ」 「五日ほど前に新しい機種に変えたぞ。ようやく操作にも慣れてきた」 「そうですか。それなら、連絡をくれても良かったんじゃあないですか? これから行く、そんな電話を一本おれに寄越すぐらい、たいした手間じゃないでしょう。あなたはおれの番号をご存知のはずだ」 「ユダ」 「はい?」 「怒っているなら怒っていると、ハッキリそう言ってくれないか。おまえにそういう態度をとられるのはどうも、むずがゆくてしかたない」
ユダは黙りこんだ。 どうやらユダは困ってるみたいだった。コイツとずっと一緒に暮らしてるおれにはそれがわかった。ユダは、なにも言わないままコーヒーを配り終えると、会長と姐さんが座っているソファに垂直に置かれた一人がけ用のソファに腰をおろした。視線が落ち着かない。いつものユダじゃない。おれは心配になってユダの顔をのぞきこむ。それに気づいたユダは口唇を軽く噛んだだけで、ハッキリと笑ってはくれなかった。 自分がした質問に対して、ユダが困ってると知った会長は、なんていうんだろ、とにかく、めちゃくちゃ嬉しそうに笑った。もともと細い会長の目が、もっと細くなる。まるでユダの態度に満足してるみたいに。 ふと会長の隣に座っている姐さんを見ると、姐さんは会長の腕に自分の腕を絡めて、会長の太ももの上に自分の太ももを乗せたカッコのままおれを見つめていた。ユダじゃなくて、おれを。姐さんはずっと、じーっとおれを見つめていた。会長の二の腕に頬を寄せたり、会長の太ももを撫でたりしながら。それでもじっと、おれのことを見つめていた。 その眼差しに気がついたおれはギクッとした。それから戸惑った。だってさ、姐さん。会長の前なのに、そんなふうにおれを見ることないんじゃないの? 会長に勘づかれでもしたら、どーすんのよ。ハラハラしちゃうよね。コンクリ詰めはヤダよ、マジで。 それからしばらく経って、会長に甘えるのに飽きたらしい姐さんは、フォークを手にとって赤いフルーツに突き刺した。アイリさんが真っ先に食べる予定だった赤いフルーツのタルト。イチゴ、ブルーベリー、ラズベリー。それぞれが姐さんの口のなかで酸っぱさをはじけさせてるみたいだった。姐さんは食べるのがヘタクソで、赤い汁をたくさん垂らす。皿の上にも、自分の膝の上にも。でもそんなのぜんぜん気にしてない。口唇は、口紅塗ったみたいな赤い色。赤。赤は血の色。おれたちになじみ深い、ザンコクな色。姐さんがケーキを口に放りこむたびに飛び出しそうになるため息を、おれは必死に飲みこんだ。 赤い果物。イチゴはどっかビンカンな場所を、ブルーベリーは愛すべき場所を、ラズベリーは触れちゃいけない場所を連想させる。ソイツらが姐さんの白い歯によって噛み砕かれて、飲みこまれてく。
「うまいか?」
ユダはまだ質問に答えられなくて、肩をいからせて固まってる。 まるでそんなユダを無視するみたいに、会長は姐さんに向かって声をかける。明るくて穏やかな声。それを受けた姐さんは口の端から垂れた赤い汁を、会長の上着の袖で拭いた。
「ん、うまい。イチゴ、好き。ラズベリーも」 「ふ……そうか。それはよかった」
二人のやり取りを黙ってみていたユダから、ふう、とため息がもれた。 ユダの顔には諦めが浮かんでる。この人にはかなわない、そんなユダの声が、今にも聞こえてきそう。おれはユダのことが心配になって、おそるおそるユダの上着の袖をつかむ。するとすぐにそれに気づいたユダは、ちらりとおれのことを見て、口の端を少しだけ持ち上げた。
「それじゃあ言わしてもらいます。会長、なぜ、いきなりここにいらしたんです?」
会長に向けられたユダの言葉は、透明だった。 にごりがぜんぜんない。ユダ、コイツは普段からハッキリとものを言うやつだけど、今のは特別だ。おれの耳にはそう聞こえた。
「おまえが拾った兄妹のことを、よく見た���なった。それだけだ」 「きょうだいというと……この二人ですか? レイと、アイリ」 「そうだ。人と交わることを嫌い、いつでも一匹狼だったおまえが他人を、しかも二人も家に住まわせるとはいったいどういうことだろうと、ずっと気になっていたんだよ」
軽快な口調で喋る会長とは正反対に、ユダの話し方は重たい。 レイとアイリ、自分の名前が出たことでアイリはハッと動きを止めたけど、すぐにまたコーヒーにミルクを入れる作業に戻っていった。自分が混ざるべき話題ではないと、理解したんだろう。アイリはおれに似て賢い子だ。
「どうです? 気に入りましたか?」
なんだか投げやりなようにも聞こえるユダの言葉。 ユダはまずおれを、それからアイリをアゴでしゃくる。それから自分の膝に頬杖をついて、上目づかいで会長を見た。
「そうだな。レイに会うのはずいぶん久しぶりのような気がするが、顔に精悍さが出てきたようだ。これからが楽しみだ」 「……レイ」 「あ、ハイ。ありがとう、ございます」 「それにアイリさん」 「え、あ……」 「あなたはとても聡明で、美しい女性だ。なにか困ったことがあれば、いつでも言ってください」 「あ、りがとう、ございます……」 「しかしあれだな、レイはちっとも似ていないな。わたしと」
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6.mărturisire
あの日から三日、幸運なことにおれはまだ生きてる。
耳も目玉も歯もちゃんとあるし、コンクリ詰めにされてもいない。いったいこれはどういうことなのよ。 あの日、ってのはモチロン、会長の恋人の姐さんを成田まで迎えにいったあの日のことだ。あの日おれは姐さんにプリウスのなかでフェラチオされて、そのまま姐さんの口んなかでイッた。慌ててダッシュボードから取り出したティッシュを渡そうとするおれを無視して、姐さんはおれの精子を飲んじゃった。姐さん、それはマズいよ。ダブルの意味でマズいでしょ。なんでそんなことすんのよ。泣きそうになっちゃったよね、おれ。
「……ジーザス」 「あ、やっぱ出た」 「まじなのか」 「ハイ、残念ながらまじです」 「おまえ、自分がなにをしたかわかってるのか? 消されるぞ。会長に」 「わかってるよ。んなこと」
歌舞伎町にある大衆居酒屋『トラノコ』はおれとシンの行きつけだ。 板わさと枝豆、それからあぶった明太子をツマミに、金宮焼酎の緑茶割りを飲む。おれの話を聞いたシンは目を丸くして、それから急に深刻そうな顔になった。ジーザス。やっぱり出た、シンくんの口癖。コレ聞くとなんでだろ、ミョーに安心すんのよね。だからおれもマネして使っちゃう。
「しかしまだ生きてるな。おまえ」 「そう、それがまた怖い。三日間ずっと怖い。誰かにつけられてんじゃねーかとか、マジメに警戒してる。今だって怖い。だからオシッコは一緒に行こうねシンくん」 「ククク。かわいそうに」 「うるせえ。怖いもんは怖いの」 「あ、そこの醤油取ってくれ」
シンはおれが渡した醤油を皿に出し、そこにワサビを溶かす。 そんな��入れたら辛いんじゃねーの、と思ったけど、まあ板わさの食い方ぐらい好きにさせればいい。そう思ってなにも言わなかった。
「なあシン」
やっぱりワサビが多すぎたらしい。 涙目で鼻をつまんでるシンは返事をしない。ちらりと目だけで反応する。おれはシンに姐さんのことを尋ねてみるつもりだった。おれより五も年上で仁友会に入ったのもそのぶんだけ早いシンは、いろんなことを知ってる。会長のこともユダのことも、それから他の幹部たちのことも。だからきっと姐さんのことも知ってるはずだ。少なくともおれよりは、ね。 ウワサによるとシンはあと一、二年で、盃を渡してもらえるんじゃないかって話だ。そうなったらすげーなァ。オメデタイことだ。シンはなんにも言わないけど。
「聞きたいんだけどさ」
姐さんは七年間も会長にほったらかされたって怒ってた。 七年。それが長いのか短いのか、おれにはよくわからない。七年といえばおれが仁友会の構成員になって、つまりはヤクザになってから経った時間だ。長かったような、短かったような。ウーン、超微妙。
「おれがまだこうしてピンピンしてるってことはさあ、言ってないってことだよな。姐さん」
Te iubesc――姐さんの言葉がよみがえる。 おれがひとつだけ覚えたルーマニア語はこの『Te iubesc』だ。愛してる。ルーマニア語で愛してる。まったく姐さん、なんでこんなこと言ったのよ。アンタのおかげでおれ、この言葉が頭から離れないんですけど。
「そうだろうな。昨日、二人を銀座まで乗せていったが特に変わった様子はなかったぞ。あの人は会長にベタベタ甘えてたし、会長も会長であの人を可愛がってた。会長のあんな楽しそうな顔、久しぶりに見たよ」 「フーン。なんだ、そうか」 「面白くなさそうだな。ヤキモチか?」 「……そんなんじゃねえよ。ただ、だったらなんでおれにあんなことしたのか」 「あの人はハーフだが、人生のほとんどをルーマニアで過ごしてる。つまりほとんどルーマニア人だ。おれたちとは人種が違う。そう考えるしかないだろう」 「ジンシュ、ねえ……」
たしかにあの人の行動はトッピョーシがなくて、おれを驚かせた。 でもあれって人種とかそういう問題か? ルーマニア人のホモ全員が出会って一時間そこそこの男のチンコしゃぶるか? サイゼリアの駐車場に停めたプリウスのなかで? しかもその男の精子飲んじゃうか? ルーマニアの歌なんか歌いながら? それってルーマニア人に失礼なんじゃねえの? めずらしくおれは真剣に考えこんでしまう。
「まあとにかく、おまえとのことが会長に知られたらあの人だってタダじゃ済まない。それをわざわざ言うような真似はしないさ」 「……そっか。ま、それもそうだな」 「あの人だってもう、帰る場所がないんだからな」 「ん?」 「あの人はもう、こっちに永住するそうだ。向こうでやってた商売はうちの他のやつが引き継ぐ。その準備で夏からこっちは大忙しだった」 「商売って?」 「売春斡旋だ。ルーマニアやモルドバといった中東欧は売春が盛んで、西欧の旅行者をターゲットにした売春婦が大勢いる。そのなかには男娼、つまりゲイを相手にするものも多く、会長はその斡旋をあの人にやらせてたんだ」 「バッ……え、待って、あの人が売春してたってことかよっ」 「オマエ、バカか……そんなわけないだろ。会長がそんなことさせるわけがない」 「だ、だよな。ビックリした」 「そもそもあの人は、会長の兄貴分だった人の子どもなんだよ。ルーマニアでの商売はその人が始めた。そこでその人がルーマニア人の娼婦と結婚して、産まれたのがあの人だ。二年前にその人が死んで、息子であるあの人が引き継いだ。しかし、なんというか……あの人はあまり商売には向いていなかったようでな」 「ハハハ。うん、なんとなくそんな気がするよ」
おれは思わず苦笑い。 するとシンも同じような顔になって笑った。まだ一度しか会ったことないのにこんなこと言うのも悪いけどさ、どう考えても堅実な商売をするタイプには見えないのよね。あの人。
「それに、会長がなかなかルーマニアにこないことにヘソを曲げてな。しょっちゅう国際電話で癇癪を起こしていた。あの激昂っぷりには会長も手を焼いていたよ」 「アハハ、そうそう。そーいやそんなこと言ってたよ。姐さん」 「そしていよいよ先月、あの人はいっさいの仕事を放棄したんだ。そのせいでせっかく作り上げた向こうでのシステムが崩壊寸前になって……さすがの会長も粟食って、いよいよあの人をこっちに呼び寄せたってわけだ」
ハア、シンのため息は深い。 その様子からして、シンは仁友会のかなり深いところまで知ってるみたいだった。つまり、おれの読みは当たってたってわけだな。なかなかサエてるじゃないの。
「とにかくだ」
辛すぎる板わさが嫌になったのか、シンは枝豆のカゴに手を伸ばす。 シンの前にあるグラスが空になってることに気がついたおれは、黙ったままおかわりを作り始める。レイくんスペシャル割り。焼酎多め、氷多め、お茶少なめ。明日は仲良く二日酔い。だからもっと飲もうね、シンくん。
「現時点でおまえがこうして生きてるということは、会長はおまえとあの人の間に起きたことを知らないんだろう。知ってたら今頃おまえは東京湾の魚のエサだ」 「おれ、おいしいのかしらねェ」 「あの二人の行動には十分気をつけておくから、あまり心配するな。神経質になるな。だからトイレぐらい一人で行け」 「……ん。ありがとシンくん」
焼酎多め、氷多め、お茶少なめのレイくんスペシャル割りを手渡すと、シンは肩をすくめてプイッとそっぽを向いた。 あ、照れてやんの。カワイイ。
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5.sărut
「ねえ、姐さんってどこの国の人? ハーフ?」
マルゲリータを切り分けながら尋ねた。 サイゼリアのソファ席に座った姐さんは、ピザカッターを転がすおれを見ながら白ワインを飲んでる。ったく、この人に一杯百円のグラスワインなんて飲ましちゃっていいのかね。バレたら会長に、いやその前にユダに殺されんじゃねーの? おれ。 でも、バカみたいに高い赤ワインしか飲まないユダと違って、この人はあんまりこだわりがないみたいだ。さっきからデキャンタでもらったワインをグビグビ、まるで水みたいにして飲んでる。白いほっぺをちょっとだけ赤くして、なんだか幸せそうな顔��。 それにしても今日はプリウスできてホントによかったね。千葉くんだりのサイゼリアの駐車場にいつものレクサス、ってわけにいかないもんね。ユダがこうなることを予想してたとはさすがに思わないけど、結果的にユダの言うことをきいておいてよかった。ちょっと悔しいけどね。
「父親は日本人。母親がルーマニア人だ」 「へー! ルーマニアかァ。それってどこにあんの?」 「レイはルーマニアの場所も知らないのか。ないな、常識」 「ハイハイ。どうせヒジョーシキなおバカさんですよ」 「ルーマニアはウクライナの下。隣はモルドバとハンガリー」 「あ、ウクライナなら知ってる。ロシアの近くっしょ?」 「そうだ。レイはロシアに詳しいのか?」 「ウーン、詳しいっていうか……まあ、ロシア人とはよく会うよ。仕事で」 「ふうん」
なんかこの人、聞いといておれにあんまり興味ないみたいなのよね。 ま、そんなのアタリマエか。この人、うちの会長の恋人だもんね。おれみたいな単なるイチ構成員に興味持つわけ、ないよね。バカバカし。
「レイは飲まないのか」
くすんだガラスのデキャンタを傾けてくる姐さんに、思わずひとつ、苦笑い。 昨日の夜、ユダもおれに同じことをしてくれた。そのときはモチロン飲んだけど、おれはこっちの方が好きだなあ。好きっていうか安心する。シャトー・ペトリュスはたしかにおいしいけど、飲んだところでウメエ! しか言えないおれにはもったいない気がしちゃうのよね。ああいう高いワインはやっ��り、ユダみたいなヤツが飲むべきだな。ユダ、アイツはソムリエの資格を持ってて、月に一回か二回、ワインのヒンピョーカイ? だかシインカイ? だかに出かけてる。あの三十四万のシャトー・ペトリュスもそこで買ってきたみたいだった。
「そりゃ飲みたいけどさ、おれが飲んじゃったら誰がアンタを会長のとこまで連れてくのよ」
ようやく切り分け終わったマルゲリータを姐さんの皿に置く。 均等に六枚、切り分けるつもりだったんだけどなあ。まったくどうしてこんななっちゃうのよ。おれは、大きさもバラバラなうえモッツァレラチーズが皿にこぼれたマルゲリータを見て笑う。姐さんに渡したのはそのなかでも一番マシなやつだ。そりゃそうよね。
「カイチョウ? ああ、シュウ?」 「そうそう。ニッポンではね、ワイン飲んだら運転しちゃいけないの。インシュウンテンってやつ。ケーサツに捕まる」 「シュウなんていくらでも待たせておけ。オレはレイ、オマエと飲みたい」 「会長にそんなこと言えんの、アンタぐらいだよ姐さん……」 「シュウはルーマニアにくると言ったくせにちっともこなかった。毎月会いにくるよ、そう言ったくせにきたのは七年間で三回だけ。その間オレはずっと待ってた。それに比べたらこんなのなんでもない」 「まじかよ会長。男としてそれはダメだ。嘘つきじゃん」 「そう、シュウは嘘つき。mincinos」 「ミンチ?」 「ミンチノース」 「ミンチ、ノース?」 「そうだ。mincinosはルーマニア語で嘘つき」 「なるほど」 「でもシュウがこっちに住めって呼んでくれたときは嬉しかった。だからなにもかも捨てて、こっちにきた。それが今日」 「だったらなおさら早く行かなきゃ。会長んとこ」
おれはそっと姐さんの手首をつかんで、持ち上げてたデキャンタを下ろさせる。 すると姐さんは、明らかにフフクそうな顔でおれを睨んだ。眉間にシワ寄せて、ほっぺ膨らまして。あのね、そんなオッカナイ顔してもダメなもんはダメなの。会長にほったらかしにされてて腹立ってんのはわかるけど、やっぱり飲むわけにはいかないのよね。だって今日はしかもユダの代打だし。せっかくユダがおれを信用して任せてくれた仕事を、酒飲んでテキトーにやるわけにはいかないの。おれって案外マジメなんだから。だからね、わかってよ姐さん。 姐さんは紙より薄いプロシュートをフォークに突き刺したまんま、ジーッとおれを見つめてる。その目の青色に、引きずりこまれそうになる。まったくなんてキレイな色なんだろう。ルーマニア人ってみんなこんな目なのか? いや、そんなわけないよね。
「会長、きっと待ってるよ。姐さんのこと」
さっき、ドリンクバーで取ってきたばっかのコーラ。 安ワインの代わりのそれをグイッと飲み干して、おれは伝票を手に取った。姐さんにバレないよう、チラッとその値段を確認する。ウーン、さすがはサイゼリア。おれのお財布に優しい。
「ホラ。姐さん」
まったく、ふてくされてんな。 ムッツリと黙りこんでなかなか立ち上がろうとしない姐さんに向かって、おれは手を差し伸べる。すると意外にも姐さんはアッサリとおれの手を握って立ち上がった。 おれは心底ホッとして、思わず姐さんに微笑みかける。姐さんは軽く肩をすくめてそれに応えてくれた。白ワインのせいか、姐さんの手が少し熱い。おれは握った手を放すタイミングを見計らってたんだけど、どうやら姐さんはそのつもりがないらしい。そうと知ったおれもまあ、べつにいいかって気持ちになって、そのままレジに向かって歩き出した。 右手には伝票、左手には姐さん。会計を済ませたおれは白いプリウスまで姐さんを誘導する。それからドアを開けて、姐さんに後部座席に乗りこんでもらう、はずだったんだけど。
「エッ」 『Vreau să îți mărturisesc că tot ceea ce simt eu pentru tine este dragoste...』 「姐さ、なに歌って……え、ちょっと」 『Mă simt și eu uimit și copleșit de stările și trăirile care dau năvală în sufletul meu...』 「イッテ!」 『Ceea ce simt nu pate fi descris în cuvinte...e prea intens...prea de neînțeles pentru mine, care nu am simțit niciodată pînă acum așa ceva...』
急に背中を突き飛ばされて、ガンッとプリウスのドアに頭をぶつける。 その衝撃と痛みのせいで、初めはいったいなにが起こったのかよくわからなかった。でもだんだん、おでこの痛みが引くと同時に状況がつかめてきた。どうやらおれは姐さんに後部座席に押しこまれて、そこに寝っ転がってるらしい。しかもちょうど、姐さんに押し倒されたみたいなカッコウで。 姐さんはおれの脚と脚の間に自分の膝を突っこんで、タカビシャな表情でおれを見下ろしてた。その目のなかの青色が冷たく輝いたような気がした瞬間、おれは背筋がゾクッとするのを感じた。
「レイ」 「え、あ……」
バタンと音をたてて、プリウスのドアが閉まる。 おれに馬乗りになった姐さんは、おれの名前を呼んだかと思うとそのまま、首筋に顔をうずめてきた。金髪が鼻に刺さってくすぐったい。あと、熱い息が、白ワインとプロシュートくさい息が首にかかって、さっきよりももっともっとゾクゾクする。
「姐さん姐さん」 『Gelozia mă omoară』 「頼むから、ニホンゴで喋ってくんねえかなあ」 『Îmi este frică să te pierd』 「もしもし? 姐さんってば」
おれの名前を一回呼んだっきり、姐さんは日本語を喋ってくれない。 返事すらしてくんなくて、ただひたすら低い声で歌うばっかり。今日だけで何度聞いたかわかんない、呪文みたいなルーマニア語の歌。それをキレイな声で歌い続けるばっかり。
『Te iubesc prea mult, iar această iubire vine din adîncul inimii...Vei săruta, vei iubi』
あ、キスだ。 キスされる。そう思った次の瞬間にはもう、姐さんの熱い舌がおれの口のなかに入ってきてた。いろいろ考える前にまず、ビクッと身体が痙攣した。全身の力がフニャフニャと抜けちまうようなだるいキス。実際おれは急に身体に力が入んなくなって、シートから落ちないように踏ん張るだけでセーイッパイだった。
「ねえ、さん……なんで」
それから姐さんはおれのスーツのズボンを脱がし、とっくに勃起してるおれのアレをしゃぶった。 もうなんつーの、ビックリ。ビックリなんてもんじゃないけど、とにかくビックリだ。そもそもこれってマズいんじゃねーの。だってこのヒト、会長のコレでしょ。いやいやマズい。どう考えたってマズい。おれ、今日の夜には東京湾に沈んでるかも。ア、でもめちゃくちゃキモチイイわ。
「姐さん! ダメだって、まじでっ」
イキそうになる寸前、おれは姐さんの頭をゴーインに自分のアレから引っぱがした。 さすがにこのまま姐さんの口んなかに、ってわけには、ねえ。昨日の夜はユダに期待を裏切られたうえに、なんだかめんどくさくて自分で抜きもせずに寝��。そのせいかおれのチンコはドキドキワクワク。大きく膨らんでた。あとちょっとでも刺激されたら、すぐにイッちまっただろうと思う。それでもコンクリ詰めの恐怖に怯えるおれは、どうにか誘惑を振りきった。
「どうして」 「ど、どうして、って……アンタ、会長の恋人だろ」 「ああ。オレはシュウの恋人だ。オレはシュウのものだ」 「だったらなんでこんなことすんのよ。よくないぞ」 「好きになった。レイのこと」 「ハイ?」 『Te iubesc』 「……な、に、それ」 「Te iubescは愛してる。ルーマニア語で、愛してる」
ハハハ、ジーザス。 なんてこった。きっとおれは殺される。耳をそぎ落とされて顔をバーナーであぶられて目玉をえぐり出されて歯を全部折られてコンクリ詰めにされて東京湾に沈められちゃう。アイリちゃん、先に行くオニーチャンを許してね。ゴメンね。お金貯めて、キミにカワイイ服着せたりウマイもん食わせたり旅行に連れてってあげようと思ってたのにね。どうやらムリみたいだ。 ちなみにスイマセン。そのまま姐さんの口でイキました。
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4.cântec
服やブランド品にウトいおれにも一目で超高級品と判る毛皮のコート。
それをカレイにひるがえしながら、その人はやってきた。雪みたいに白い肌と空みたいに青い瞳。それからキラキラ光る金髪がめちゃくちゃまぶしい。オイオイちょっと、こんな美人サンだなんて聞いてねーよユダ。あ、あと、大事な���と忘れてた。姐さんじゃなくて兄さんなのかよ、姐さんは。でもいちおー会長のコレなわけだから、姐さんてことになんのかな。まあいいや。考えてもわかねえし面倒くせえ。とりあえず姐さん、ってことでいいでしょ。
「あ、あのォ……」 「ユダの代わりか」 「あ、ハイ。おれ、レイです」
おれは搭乗ゲートをくぐったばかりの姐さんに、おそるおそる声をかける。 すると見た目とはウラハラに、低い声が返ってきた。それを聞いたおれはビクリと身体をコーチョクさせる。なんかこの人、すごい眼力だ。えーっとなんだっけ、ギリシャ神話に出てくる怖い女。なんとかデューサ。アレみたい。なるべく地味な格好で、ユダにこう命じられていたおれが今日着てるのはグレーのスリーピース。ユダが赤いネクタイを締めてくれたから、そこそこキマってると思う。ただ、ユダには売れないホストみたいだって笑われた。あのさあ、ホストはともかく売れないは余計でしょ。 さっきから姐さんはそんなホストみたいなおれを見定めるみたいにして、ジーッとおれを見つめてる。初めて見たときは空みたい、なんて思った青い瞳だけど、これは空っていうのとちょっと違うな。氷みたいだな。あ、思い出した、メデューサだ。さっきの女。
「レイ」 「え、は、ハイ?」 『Poftă bună...』 「ポ、フタ? え?」 「……フ。なんでもない。行くぞ」 「ちょ、ちょっと! 姐さん、待って」 「ネエサン?」 「あ……す、スミマセン。アンタが会長の大事な人だって聞いたんで、つい」 「ネエサン、か。気に入った。今日からオレは、ネエサンだ」 「は?」 「早くしろ。オレは腹が減った」
こうして姐さんを乗せた白いプリウスは成田空港を出発した。 おれは姐さんが車の種類に文句を言わずにいてくれたことに感謝した。いくら目立たないため、っつったってさあ、仁友会会長の姐さんともあろうヒトが白いプリ公なんかに乗ってるとはね。やってらんないよね。そんなおれの心配をよそに姐さんはどうやらご機嫌ウルワシイらしくプリウスの後部座席に寝転んで、ときどき外国語の歌を歌ったりなんかしてた。
『Te am în gînd, în suflet și în inimă...』
それにしてもさっきのポフなんとかといいこの歌といい、いったいどこの国の言葉よコレ。 さすがに英語や中国語、それからロシア語じゃないってことくらいはわかるけど、中学すらまともに通ってな���おれにはまったくチンプンカンプンだ。でも、キレイな言葉だな。なじみはないけど、なんだか流れるような発音で。聞いてて嫌な感じはいっさいない。そこでおれは、さりげなくラジオを消した。
『Anume tu ești cel care apare în mintea mea cînd deschid ochii dimineața, anume tu ești cel cu care adorm...』
バックミラー越しに、チラリと姐さんの様子をうかがう。 天気はこの時期にしては珍しく快晴で、最高のドライブ日和だ。窓から射しこむ光に照らされた姐さんの金髪が、白く透き通って見える。やっぱ、日本人とは違うなって思った。なんつーか、その、髪も肌も、おれたちとは比べものになんないくらい透明だ。 ユダが見たらうらやましがるだろーな。おれは無意識にこんなことを考えてた。だってアイツが持ってる化粧品には、美白とかホワイトとか、そんなことばっかり書いてあるからさ。この人みたいな白い肌と透き通った感じがほしいのかなって、そう思ったんだよね。ま、ヨケイなお世話、か。
『Tu ești persoana care mă face să respir liniștită în zilele zbuciumate, tu ești persoana care mă face să simt intensitatea momentelor înzecit în timpurile senine...』
もう一度じっくり耳をすましてみるけど、ウーンやっぱりわかんねえ。 ここが交通量の少ない千葉県の道路だからって、いつまでもバックミラーを、いや正しくは姐さんを見てるわけにはいかない。解読不能な外国の歌に聞きホレてるわけにはいかない。だからおれはハンドルを握り直して、ついでに座席にも深く座り直した。
『Te iubesc...si o spun involuntar, așa simt eu acum si aș fi cea mai fericită dacă am putea păstra aceste sentimente pîna la sfîrșitul vieții...レイ』
アレ、もしかしておれ、呼ばれました? 呼ばれたような気もするし歌詞の続きのような気もするし。そんなことをグズグズと考えてたら、背中にものすごい衝撃を受けた。完全に油断してたおれは前のめりになって、シートベルトがガコンと反応する。あっぶね、もう少しでハンドルに頭ぶつけるとこだった。そしたらアレだ、エアバックが出てきて前が見えなくなって、そこの寺に突っこんで死んでたかも。お墓までまっしぐら。
「ちょっと姐さん、シート蹴んないで! 危ないからッ」
こう叫び振り返ると、姐さんはニッコリ、とにかく嬉しそうに笑った。 え、待って。ここって笑うとこですか? おれは慌てて車を路肩に寄せて、セッキョーでもしてやるつもりでシートベルトを外した。それなのにこの人ときたら、座席にふんぞり返って腕組んで、高そうな革靴はモチロン履いたまま、今度は助手席の背もたれを蹴っていた。ったく、いったいなんなんだ、この人。
「腹が減ったと言ってるだろう。どこか連れてけ」 「だ、だから、わかってるけど、こんなクソ田舎に姐さんが飯食うような店、ないってば。だから東京まで戻ったら、どっかで……」 「オレはべつになんでもいい。ただアレ、スシはだめだ。生の魚は食えない」 「いや、心配しなくても東京の寿司屋になんか連れてけねーし」 「あ、アレ」
おれが自分の財布の中身を確認しようと腰を浮かせた、そのとき。 急に身体を起こした姐さんが、グイッとおれの肩をつかんだ。そして、勢いよく窓の外を指さす。
「アレがいい」 「アレって……え、アレ? 緑のカンバンのアレ?」 「Da. Hai, să mergem! 早くしろ。ゴーだ」 「エーッ……ま、まじかよォ」
ジーザス。 まじすか姐さん。アレはアレっすよ。おれとシンくん行きつけの高級イタリアン、サイゼリア。
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3.vrăjitoare
「えー? 運転手ゥ?」
シャトー・ペトリュスの二〇〇五年とチンジャオロース。 まあなんともミスマッチに思えるこの夕食を、ユダはそれなりに楽しんでるみたいだ。ピーマンとタケノコ、それから牛肉を銀色の箸でつまむユダは、ご機嫌なように見える。出張帰りで疲れてるに決まってるのに、珍しい。そりゃモチロン、ユダがご機嫌なのは嬉しい。でもなんとなく、違和感があった。いつもユダは出張から帰ってくるとまず部屋着に着替えて、自分の寝室でひとやすみする。日によってマッサージを呼んだり、ハイテクなマッサージ機をセットしたりして念入りに身体をメンテする。それからやっと、おれたちと一緒に飯を食うんだ。なのに今日は帰ってくるなりテーブルに座って、ニコニコ笑いながらワインの入った紙袋をアイリに渡してた。 にしてもこのシャトー・ペトリュス、お値段一本三十四万円だそうです。うーん、ジーザス。
「そうだ。なんだ、不服そうだな。嫌なのか」 「べつに嫌じゃねーけど。つまんないなって」 「仕事につまるもつまらないもあるか。文句言うんじゃない」 「わかったよ。で、いつ? どこ? だーれ?」 「明日、十時に成田。会長のコレ」 「コレって……え、姐さん?」 「姐……まあ、そんなとこだ」 「ねえ、そんな大役おれでいいの? アンタじゃなくて?」 「おれはその時間どうしても外せない会合がある。会長には許可をもらってるから、オマエが代わりに行ってこい」
ユダは口の周りについたチンジャオロースのソースをペロリと舐める。 ああやっぱ機嫌いいんだ。頬杖ついて、髪かき上げて。さっき『コレ』と立てた小指はそのまんま。バカみたいに持ち手が細いグラスに注がれたシャトー・ペトリュス。それを飲むユダの指をおれは追う。ちなみにこれって、ほとんど無意識ね。どーしても追っちゃうんだわ、あの魔法の指。十五のときにかかった魔法は、二十二になった今でも解けていないらしい。
「オマエは運転は巧いがそそっかしい。注意しろよ」 「ハイハイ」 「それから今回は目立たないようにやれ。なるべく地味な格好で、車はあれだ、プリウス」 「えー、まじかよお。おれ、あの車嫌い。ダセエもん」 「つべこべ言うな。会長が一緒ならいつものLSを出すが、あれじゃヤクザですよと言って街中を走り回るようなもんだ。姐さんに危険が及ばんとも限らない」 「だからってプリウスかよ……せめてクラウンとか、ねーの?」 「ない。とにかく明日はプリウスだ。白のプリウス。仁友会自慢のハイブリットカー、白のプリウス。ヒヨッコのオマエにはお似合いのブーブーだ」
あ、コイツ、面白がってやがる。 シャトー・ペトリュスのせいでほんのり赤くなった顔を楽しそうに歪めて、全力でおれをからかってやがる。相変わらずヤな奴よね、この三十九歳独身AB型。 ユダがクスクス、肩を揺らしながら髪を耳にかける。するとダイヤモンドのピアスが顔を出した。やれやれいったい何カラットあるんだかね。磨き方にもこだわってて、ブリブリカットだったか、たしかそんなふうな呼び方をするらしい。アクセサリーが好きなユダがいつだったか教えてくれたけど、ちっとも興味のないおれは聞いたそばから忘れちゃったのよね。 でもおれはそんなギラギラ輝く石ころよりも、ユダの口唇の下にちょこんとあるホクロのほうがずっと好きだ。まさにアレは黒いダイヤモンド。おれだけに光って見える、大事な大事な宝石。風呂に入ると化粧は落ちるけど、アレだけは絶対に落ちない。それにアレはスッピンのユダがユダだって証拠。眉毛なくても口紅塗ってなくても、アレがあるってだけでユダだってわかるもん。あ、こんなこと言ったら殺されるかな。ユダのヤツ、スッピンをネタにされると超キレるから。なんであんなに気にしてんのか、おれにはわかんないんだけどさ。
「なんだ、なんかついてるか?」
食事したせいで口紅がはげた口唇をずっと見つめてたら、やっぱりユダに怪しまれた。 おれは黙って首を振る。まさか見とれてました、とは言えないでしょ。するとユダは笑いながら肩をすくめて、ストライプのシャツのポケットからキャスターマイルドを取り出した。 テーブルに頬杖ついて、百円ライターでキャスターマイルドに火を点けるユダの指を、また見る。いまさっき、ユダに怪しまれたばっかりだってゆーのにね。一人で苦笑いしてるおれにユダは気づいたみたいだけど、呆れたみたいに鼻で笑っただけでなにも言わなかった。
「あれ……ユダ」 「なんだ」 「ジッポどーしたの。ほら、あのチョウチョの柄のやつ」 「梅田の喫茶店に忘れてきた」 「エーッ! まじかよ……おれ、あれ好きだったのに。キレイで」 「おれも気に入ってたんだが、忘れたんだから仕方ない。特別珍しいものじゃないから、また買えばいい」 「うーん、まあ、そっか」 「そうだ。オマエもいるか? 同じの」 「え……いいの?」 「欲しいなら買ってやる」 「あ、う、うん。でも……おれには似合わないよーな気もするけど」 「べつにそんなことないだろ。それよりもオマエ、なくすなよ」 「なくしたばっかりのアンタにだけは言われたくねーよ……」 「ハハハ。そりゃそうだな。それじゃあ、二つ買おう」 「……あ、りがと」
ユダとおそろいか、そう思うとみるみるうちに顔が赤くなるのがわかった。 おれはそれをユダに見られたくなくて、急いでテレビのほうを向いてごまかそうとした。でもきっと、ユダにはバレてただろう。ユダはキャスターマイルドの甘い香りがする息を、フッとおれに吹きかけてくる。思わず振り返ったおれは赤い顔のまんま、ユダとウッカリ目を合わせてしまった。 おれを見たユダは満足そうに目を細めて、またキャスターマイルドの煙を吐いた。
「さてと。おれは寝るぞ」
キャスターマイルドを続けて二本吸い終わったところで、ユダが立ち上がった。
「え、もう?」 「言っただろう、明日早いって。悪いなアイリ、いつも片づけさせて」 「ううん、いいの。だって面倒みてもらってるんだもん。これくらい、しなくっちゃ」 「……アイリはガキのころからずーっとおんなじこと、言ってんなァ」 「ふふ。そう? とにかく気にしないで。私は洗うだけで、拭いてしまうのはお兄ちゃんにやらせるから」 「アイツにやらせたら皿が粉々になるんじゃないのか」 「あはは! そうね、じゃあ気をつけて“見て”おくね」 「よーく“見て”おいてくれ。特にそのワイングラスは気に入ってるから、割らせないようにしてくれよ」
ユダとアイリは冗談を言い合ってて、なんだかミョーに楽しそうだ。 クスクス、二人の笑い声がキッチンから聞こえてくる。おれだけテーブルに取り残されて、ひとりぼっち。まったくなんであんなに仲がいいのかね。昨日もユダがアイリの爪にマニキュアを塗ってやってた。アイリは恥ずかしいからいいってエンリョしてたんだけど、どうせ見えないんだから恥ずかしいもなにもないだろって、ユダが。ポールアンドジョーの新色だから試させろ、とも言ってたかな。この間はシャネルの新作の口紅をアイリにプレゼントしてくれてた。自分で使うつもりで買ったけど色が好みじゃなかったっていうユダの言葉、アレは間違いなく嘘だ。ユダはわざわざアイリに合う色の口紅を買って、それをプレゼントしてくれたんだ。アイリもそれをわかってたと思う。でもアイリは喜んで、それを大切に大切に引き出しのなかにしまってる。 昨日のアイリはたしかに恥ずかしそうだったけど、その何百倍も嬉しそうだった。目が見えないことをイジってくるユダの肩を叩きながら、まったくもうヒドいことばっかり言って! って、楽しそうだった。おれはアイリが笑ってくれてるだけで嬉しいんだけど、アイリはユダ、ユダはアイリにばっかり構ってて、ぜんぜんおれと遊んでくれないのは淋しい。
「ユダ、まだワイン残ってるよ」
だからおれは二人の背中に向かって呼びかける。 ユダが飲みに戻ってきてくれたらいいなって。ちょっと期待してた。それかもう一本だけ、吸わねーかな? キャスターマイルド。
「もう十分だ。残りはおまえとアイリで飲め」
でもやっぱり、そうはならなかった。 おれを振り返ったユダは、アイリの髪についた洗剤をタオルで拭いてやってる。その爪の色はアイリと同じ、いやもしかしたら違うのかもしれないけど、少なくともおれには同じ色に見えた。
「レイ、オマエも早く寝ろよ。明日は十時に成田だぞ。いいな」 「……わかってるって。これ飲んだら寝るよ」 「それじゃ、アイリ。頼んだぞ」
もう一度アイリに声をかけると、ユダはバスルームへと消えた。 あのそっけなさからするとどうやら今日は、一緒に風呂に入ってはくれないらしい。明日も早いみたいだし、なんとなくそんな予感はしてたけどさ。いざ背中を向けられると悲しいもんだ。なんとなくヤケクソな気分になって、三分の一くらい残ってたシャトー・ペトリュスの瓶をつかむと、そのままイッキに飲んた。これまたずいぶんとゼータクすぎるラッパ飲み。 それからたまたまタバコを切らしてたおれは、ユダがテーブルに置いてったシガレットケースに手を伸ばして、そこから一本、ハイシャクした。ユダが使ってるワニだかヘビだかの革製のシガレットケースからは、なんとなくだけどケモノの臭いがする。それとキャスターマイルドのお菓子みたいな香りが混ざって、おれの鼻をムズムズさせた。
「あ、ねえお兄ちゃん? お風呂は?」
煙を吐きながらキッチンに視線をやると、アイリはしっかりおれがいるほうを向いている。 しかもおれは空になったシャトー・ペトリュスの瓶をベランダのゴミ箱に捨てようと立ち上がって、ロールカーテンのヒモに手を伸ばしたところだったのに。この子はどうして目が見えないのに、いつもおれの位置が正確にハアクできるんだろ。不思議だね。
「うーん、今日はいいや。明日の朝入るよ」 「そう? じゃあ私、ユダのあと入っちゃうけどいい?」 「うん。まだ時間が早いし、たまにはゆっくり入ったらどう?」 「そうするね。ありがとう」 「ただ」 「ん?」 「お風呂場で転ばないようにしてくださいね」 「まったくもう……やめてよ、小さい子じゃないんだから」
エプロンのポケットに入れたタオルで手を拭きながら、アイリが近づいてくる。 おれはそんなアイリの腕をそっとつかんで、片腕で抱き寄せた。アイリはちょっとビックリしたみたいだけど、嫌がったりはしなかった。おれの好きなようにさせてくれた。
「明日はがんばってね。運転手サン」 「ハァイ。がんばりますよう。ブーブーの運転」
こーやってつまらないことでも、アイリと話してるだけで元気になってくる。 おれにはこの子がいないとダメなんだなァ、しみじみ思う。それに、アイリにだっておれがいなきゃダメなはず。だからおれたちはずっとこうして、支え合って生きてかなきゃいけない。それをわかってるからこそ、こうして寄り添っていられんのよね、おれとアイリちゃんは。
「おやすみ。お兄ちゃん」 「おやすみ。アイリちゃん」
アイリの髪に軽くキスしたおれは、照れくささを隠すために、速足で寝室に駆けこんだ。
「フウ」
酒の魔法もユダの魔法もなしに、ぐっすりスヤスヤ眠るなんてできるのかなあ。 でも明日は仁友会自慢のハイブリットカー、白のプリウスで会長の姐さんのお迎えだ。寝坊なんてした日にはマジで殺されちゃう。耳をそぎ落とされて顔をバーナーであぶられて目玉をえぐり出されて歯を全部折られてコンクリ詰めにされて東京湾に沈められちゃう。なんでそうなるってわかるのかって? だってこれは全部、おれがやってきたことだもん。名前もスジョーも知らない人間たちに、おれがやった悪魔のような仕打ちだもん。叫び声が耳にこびりついて眠れないこともあった。血の臭いが消えなくて皮がむけるほど手を洗ったこともあった。自分の指がペンチで切られる夢をみて飛び起きたこともあった。 それでもおれは、会長がやれと言えばやる。ユダがやれと言ってもやる。だって今のおれはヤクザだからね。歌舞伎町を仕切る仁友会の下っ端構成員、二十二のレイさんだからね。畑だらけの西多摩郡でケツから血を流してた十五のレイくんはもう、いないんだからね。この世界のどこにもね。そういえばあのヘンタイウンコ野郎、元気かなあ。生きてんのかなあ。頭の鎌、抜けたかなあ。 ヒッデェ記憶が蘇りぶるりと身震いした三秒後、おれは意識を失った。まったく寝つきが悪くて嫌んなるね。ムニャムニャ。
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2.ingeraş
「たっだいま! アイリちゃん」
オニーチャンだよ。 後ろから抱きつこうとするおれの両腕をアイリは見事、かわしてみせた。チッ。やれやれまったく、どうしてこうも機敏に動けんのかね。目、見えないのにね。 そう、妹のアイリは目が見えない。いわゆる全盲ってやつ。二歳の頃、夜中に突然四十度以上の熱を出したアイリはそのまま失明した。原因はなんてことない、ただの麻疹。麻疹で失明するなんて、この平成の世にありえるのか? 誰だってそう思うよね。でも実際にアイリは失明しちゃった。なぜかっていうと実にシンプルなお話で、おれとアイリが生まれ育った家は『超』を何万個つけても足りないぐらいのウルトラ貧乏で、両親はアイリを医者に診せる金すら持ってなかったわけ。笑えるでしょ? いや、笑ってくんなきゃ困る。当のアイリがこんなにも明るく、毎日生きてんだから。一緒に笑ってやんのが兄の役目ってもんよね。 両親? それならおれが十五、アイリが十二のときに死んだ。二人はアパートの裏手にある木にロープをかけて、仲良く首吊り自殺。いわゆる借金苦って人は言うけどさ、そりゃどうだろーね。���とかそういう問題じゃなくて、もうとにかく全部どーでもよくなっちゃって、この世界からオサラバしたかっただけじゃねーの? おれはそう思ってる。なんつーか、どんだけがんばっても歯ァ食いしばっても泥水すすってもなーんにもうまくいかなかったらさ、そりゃ死にたくもなるわな。ま、あの人たちがそんなふうに毎日頑張ってたとは思えないけどね。特に親父は。 親父もお袋もブラブラブラブラ、仲良く揺れてたよ。ブラブラ、ラブラブ、ションベンとクソ垂らして。ああ、アイリの目が見えなくて、ほんとーによかった。そんときばかりはこう思ったよ。働きもせず昼間っからメチルアルコール飲んで、子どもたちの前で平然とお袋を犯すような筋金入りのロクデナシクソ野郎だった親父はともかくとして、そんな筋金入りのロクデナシファッキンシット野郎だった親父にブン殴られながらも懸命に支えてやってたお袋のあんな醜い顔、アイリには見せたくなかったもんね。おにーちゃん、いたい? またぶたれたの? っておれの顔を手さぐりで撫でてくれた小さいころのアイリちゃんは、本物の天使みたいだった。あ、いまでももちろん、キミはオニーチャンの天使ですけどね。 それにしても、親父を殺す手間が省けたのはありがたかった。
いきなり孤児になった中学三年生のおれと小学六年生のアイリは、東京の西多摩郡に住んでた親父の兄貴のところへあずけられることになった。 ただしそこはなんつーか、そう、地獄だった。ロクデナシファッキンシット野郎の兄貴はやっぱりロクデナシファッキンシット野郎だった。しかもかなりの。親父が中ボスだとしたらそいつはラスボス。ナルホド、親父なんてまだカワイイほうだったのね。こんなこと考えちゃうレベルにラスボスは強かった。 おれたちの伯父にあたるソイツは、畑の隅にあるデカい納屋のなかにおれを連れこむと、おれをボコボコに殴りつけたあとでケツの穴にチンコをぶちこみやがった。ほんと、アゼンとしちゃったよおれ。ビックリするわ痛いわで、叫び声すらあげらんなかった。まあ叫んだところで誰も助けになんてこなかっただろーけどね。 テメエがやられんのか可愛い妹がやられんのか、好きな方を選んでいいぞ。伯父のヤツ、こんなことホザいてたっけなあ。あのさ、そんなの決まってんでしょーが。
「どっちもお断りだね。このヘンタイウンコ野郎」
おれは、壁に立てかけてあった草刈り用の鎌で伯父の頭をブッ刺した。 ものすごい量の血が出たけど、死ななかったと思う。あのヘンタイウンコ野郎はあんくらいでくたばるようなタマじゃねえ。殺してやりたかったけど。ケツとチンコを出したまま頭に鎌が刺さっている伯父改めヘンタイウンコ野郎の姿はコッケイで、おれはいつまでも笑い続けた。イシャ、イシャを呼べ、こうくり返すヘンタイウンコ野郎のケツを蹴り上げながら、ずいぶんと長い間、笑ったよ。ケツの穴から血を流したまんまでね。あれはもう、クソおもしろかった。 カマ掘られた勇者はくさりがまでラスボスに勝利しましたよ。チャンチャン。
ってわけで、トーゼンのようにその家にいられなくなったおれは、アイリを連れて西多摩郡を脱出した。 捨て身のヒッチハイクで都心部まで戻るトラックを捕まえたおれとアイリは、ここで家族と会うことになってるんだと嘘をついて新宿の歌舞伎町の近くでトラックを降りた。サービスエリアの食堂でおれたちに飯まで食わしてくれた親切な運転手サンは、最後まで本当に大丈夫かって心配そうにしてたけど、おれはいいかげんな嘘をまたついてそれをかわした。ちょっとだけココロが痛んだ。でも、ホントのことを話したところでどうなる? この親切な、でも無関係な人をただ、困らせるだけでしょ? だからおれは、ウソツキになったのよね。
初めて見る新宿のネオンはキラキラピカピカ眩しくて、それからめちゃくちゃキレイだった。 アイリにも見せてあげたいなって思ったね。おれたちも一応は都内で育ったけど、二十三区外だったし。そもそもアイリは二歳で失明してるし。女の子はキラキラピカピカしたものが好きだから、夜の歌舞伎町のネオンを見たらアイリも喜んだと思うな。きっと。 それにしてもあのウンちゃん、���いやつだったなあ。まだまだ若かったみたいだし。たぶん、今のおれと同じくらい。二十二、三ってとこだろう。顔もカッコよかったし、ああいうヒトにだったらチンコぶちこまれても、それかぶちこんでもいいのになあ。もう二度と会えないだろーけど、あのヒトのことはきっと一生忘れないよ。あー、会いたいな。もしもどこかで会えたら、ぜったいセックスしようね。
さて。 ラスボス夫婦は自分の子どもたちが残したものを、おれとアイリに与えてました。ま、簡単に言っちゃうと残飯なんだけどね。ふざけんな、おれたちは犬かよって最初は抗議してみたけど、そんなのムダだったね。せめてアイリにはマトモなもん食わしてあげたかったんだけどね。とにかく背に腹はなんとかっていうから、おれたちはしょうがなくそれを食ってた。だからおれたちはいつだってひもじくて、ガリガリに痩せてた。でも、それでもラスボス夫婦の家にいれば、一日に二回の飯が食えた。それが歌舞伎町にきたとたん、おれたちはなにも食えなくなった。そりゃそうよね。金もなにも持ってないんだから。 歌舞伎町にきて二日目の夜から万引きを始めた。おれにはなかなかの万引きの才能があったみたいで、一度も捕まるようなヘマはしなかった。それでも小学生の、しかも目が見えない女の子を連れたおれはよく目立った。そのうえ着替えもせず風呂にも入ってないんだから、めちゃくちゃ臭かったと思うのよね。おれもアイリも。だからだんだん、目をつけられるようになった。 万引きで日々の食糧をチョータツしてたおれは困ってしまって、アイリを新宿御苑の近くの花園公園に隠して、渋谷まで歩いてどうにか食うものを手に入れようとした。どこかべつの街に行けばまた、万引きができるって思った。でも、ムリだった。あのころ栄養失調状態になってたおれには、渋谷まで歩いてく体力なんてこれっぽっちも残ってなかった。歩けなくなって、コンクリートの上に転がったおれは泣いた。都会のねずみ色の空に向かって叫んで、ひたすら泣いた。で、気が済むまで泣いたら必死こいて立ち上がって、ファミレスの裏のポリバケツに顔を突っこんだ。 これ食ったらアイリを迎えにいこう。おれはそれだけを考えて、バケツのなかのゴミを食った。
それから、あたりまえのように半ホームレス状態になったおれとアイリを救い出してくれたのは歌舞伎町界隈をシマにしているヤクザ、仁友会の顧問の男だった。 ソイツを初めて見たときおれは、女だと思ったのよね。ゆるくパーマがかかった赤い髪を一つにまとめて、細い紫色のスーツなんて着てさ。そのうえ指輪だのピアスだのネックレスだのアクセサリーをいっぱいつけてたんだから、勘違いするのもトーゼンだよね。 ビックリするほど赤いマセラティから降りてきた『ソイツ』、ユダはおれとアイリを見てこう言った。
「うちのシマにこんな汚いものがあっていいはずがない。家で風呂に入れ」
はあ、あの、意味わかんないんですけど。 でも、そのころなんともタイミング悪く初潮を迎えちまったアイリを、風呂に入れてやりたかったのよね、おれ。薬局で万引きした生理用ナプキンも底を尽きかけていたし、そのときはまだユダのことを女だと思っていたおれは、ユダの家に行けば生理用ナプキンを分けてもらえるかも、なんてことも考えてた。 ユダはホントにおれとアイリをマセラティの後部座席に乗せて、自分の家に連れて帰った。そしてまずアイリ、それからおれを順番に風呂に入れてくれた。あの日、風呂場でドギマギとしているおれをよそにユダはさっさと服を脱ぎ、アイリを抱き上げた。そこでおれは初めてユダが男だって知った。アイリをキレイに洗って生理の面倒までみてくれたユダは次に、アイリのときよりかなり乱暴におれを裸にした。そして笑えるくらい泡立った、いい匂いのするタオルでおれのことを洗い始めた。まったくきたねえなあ、ユダが笑いながら言ったセリフ、まだちゃんと覚えてるよ。ユダの「きたねえなあ」は、優しかった。 これはおれとユダだけの秘密だったんだけど、まあいいや。ユダはおれの下半身を洗うとき、タオルじゃなくて自分の指を使った。そのせいなのかおれ、自分でもビックリするほど勃起したわけ。そして、なんとそのまま射精しちゃったんだよね。ドックンって。もしかしたらドッキュンだったかもしれない。あれは死ぬほど気持ち良かった。それから何度も経験したセックスなんかとは比べ物になんないくらい、サイコーに気持ち良かった。これだけはハッキリ言っとくけど、ユダの指は魔法の指だよ。この男だか女だかわかんないヒトに、チンコいれてみたいなあって思ったよ。切実にさ。
その日からおれとアイリはユダの億ションに居候。 ヘーゼンと居候ライフを楽しんでたおれとは違って、アイリは掃除や洗濯を必死んなってやろうとしてた。ユダはメクラのくせにそんなことしなくていいって笑ったけど、アイリのヤツ、タダで世話になるわけにはいきません! なーんて言っちゃってさ。案外ガンコなのよねあの子。花瓶割ったり洗剤ぶちまけたり、はじめは失敗ばっか。それでもユダは文句も言わないで、アイリの好きなようにさせてくれてた。もしかしたらこの子にはなにを言ってもムダだって、諦めてたのかもしれないけどね。 おれは毎日のように一緒に風呂に入ろうってユダに頼んだ。五回中三回は断られたけど、それでも五回に二回はユダはおれと一緒に風呂に入って、また指を使ってくれた。機嫌の悪いときは毎日違う色のマニキュアが塗られた足でおれのチンコをしごくんだけど、それはそれでめちゃくちゃキモチイイんだよね。あるときおれはユダに、ユダにチンコをいれたいって言ったんだ。イッショーケンメイお願いしたんだ。なのにユダはニッコリ笑うばっかり。指の動きを早くするばっかり。けっきょく最後までいれさせてくれなかった。チンコ。 あれはたぶん、おれの初めての失恋だった。あの夜おれが飛ばした精子はユダの口唇と浴室の鏡を、これまでにないほど汚したに違いないよ。
こうしておれはユダが顧問をやってる仁友会の構成員になった。 にしたってまさか、自分がヤクザになるとはね。ショージキ夢にも思って���かったよ。それに、ヤクザになんかなりたくなかった。どんなにつらい仕事でも汚い仕事でもいいからおれは、カタギでいたかった。シャブだのチャカだの物騒なものとは関わりたくなかったし、ペンチで人の指をバチン! なんてしたくなかった。今でもヤダよ。あんなこと。実際ガキの使い以下の売人たちの尻拭いは死ぬほど大変だったし、ロシア人には何度も騙された。人の指の骨は意外と硬くて、詰めるのは苦労した。それにうるせえ。とにかくうるせえんだ。なかにはションベン漏らしたりゲロ吐いたりするヤツなんかもいて、くせえしきたねえ。だからホントに、ホントに嫌だったのにね。ただ生きてくためだけだったら、新聞配達とかパチンコ屋とかでよかったのにね。ただ住民票はおろか戸籍すらあるか怪しいおれとアイリが、この大都会でそーゆー仕事に就けるわけがないのよね。それに、やっぱりアイリのことを考えるとすぐに気持ちがぐらついた。 アイリにカワイイ服着せたりウマイもん食わせたり旅行に連れてったり、してあげたいなって。見えなくてもさ、感じるでしょ。でもそれには金が要るね。ハイ、ただそれだけ。あと、まあ、ショージキちょっと未練があった。ユダに。いつかアイツを抱ける日がくるんじゃないかって、考えてた。先っぽだけでもいれるのが許される日がくるんじゃないかって、本気で期待しちゃってた。まだ叶ってないけど、いつか。 あのね、アイリちゃん。美人で賢くて勘のいいキミのことだからなんとなく気づいているでしょうけど、あの魔法の指のせいでオニーチャンはホモになっちゃいました。ごめんね。
「お兄ちゃん! 包丁持ってるんだからやめてよっ」 「またそんなことしてるの、アイリちゃん。危ないから料理なんてやめてっていつも言ってるでしょ」 「嫌。だってお兄ちゃんの料理、食べられたものじゃないもん」 「肉と野菜切るぐらい、オニーチャンにもできます。キミは味つけだけやりなさい」 「でも」 「でもじゃないの。いいから座ってて」 「過保護」 「なに?」 「なんでもない。もういい。部屋で本でも読もーっと」
アイリはふて腐れて、妙な自虐ネタを言っている。 おれはそんなアイリを無視して、スーツも脱がずに台所に立った。アイリが刻んでいたのはタケノコの水煮だった。シンクのなかに置かれたボウルにはピーマンが三つ、浮かんでる。それからパックに入ったままの牛肉。これは料理音痴なおれにだってわかる。今日の夕飯はチンジャオロースだね? ねえ、そうでしょう? アイリちゃん。
「お肉は細切りにしてね。それからピーマンはちゃんと種を取ってよ。あと、スーツぐらい脱いで料理したら?」
ハイハイわかりましたよ。 気がつくと鼻歌。チンジャオロースは好きだ。それと、今日は関西に出張に行ってたユダが帰ってくる。あれから七年、おれはまだユダと一緒に風呂に入ってる。でも、どうしても抱けない。ユダにチンコをいれる夢、叶ってない。まあいいさ。人生は長い。おれのチンコも長い。なんてね。
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1.prințesă
おれはゾクにいうヤクザってやつで、オヒメサマだとかオージョサマだとか、そーゆーもんとは一生無縁だって思ってた。
なのにそんなおれがこうして自然に呟いちゃうなんてね。ジーザス、もうビックリよ。ちなみにこのジーザスってゆーのは親友のシンくんの口癖。アイツはヤクザなのに教会の子どもなのよね。教会の子どもなのにヤクザなのよね。シンくんはね、神様のことはどうだか知らないけど神父をやってる親父のことはあんまり好きじゃないみたいだった。でもまあ、オギャアって産まれたときからマリアだキリストだ、そういうものがアタリマエにある世界で生きてきたんだから、それなりの信仰心? みたいなものはあるんじゃねーの、とも思う。でもヤクザ。笑っちゃうよね。
シンくんの話はまた今度、アイツもいるときにゆっくりするとして、おれはこれからおれの王女様の話をするからね。 王女と女王と姫の区別もロクにつかないおれだけど、あの人には王女様って響きが一番似合ってる気がすんのよね。だからあの人はおれのオージョサマなの。夢も希望も一筋の光すらないおれの世界にトツジョとして現れたオージョサマ。妹のアイリが今でも大切にしてる絵本のなかに出てくる雪の王女みたいに冷たい目でおれを睨みつけたかと思えば、おれの腕のなかで眠り姫みたいに無防備にすやすやと眠りこけてたりもする。それからあるときは馬車とドレスを前にしたシンデレラみたいな表情で、おれに飛びついてきたりする。街中で、周りの目なんてゼンゼン気にしないで、おれにキスすんのよね。 そういうものぜーんぶをひっくるめてあの人はおれのオージョサマ、なわけ。
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