文アルの文章置き場 たまに調べたことをまとめたりするかも 本体はこっちhttp://abe-mochi.tumblr.com/
Don't wanna be here? Send us removal request.
Text
たけ子お嬢さんとどっぽさん(女体化武独)
武子、と書いてたけこ、と読むらしかった。いかにも男勝りで薙刀でも振り回していそうな架空の女が国木田の頭に浮かんだが、白い便箋に並んだ文字はやわらかい女性のもので、ふっと文字から花の匂いが立ち上ってくるような気すらした。一読者に返事を書くほど国木田は律儀な男ではなかったし、別に女性だとわかるだけで飛び付くほど異性に飢えた生活を送っているわけでもなかった。ただ、やわらかい匂いが漂っている文字とはいささか趣が異なる的確な文章が、国木田に筆を取らせた。数回手紙のやり取りをした。手紙を開くたびに文字からやわらかい匂いと、ちくはぐな印象が国木田の心にのこった。
彼女は己のことをあまり語らなかった。かわりに国木田が尋ねた。ニ、三度のやり取りののち、国木田は彼女も文章を書く人間であると知った。つまり、国木田を足かがりにして文学へ打ってでようとする女性ではなかったわけだった。友人たちと同人誌を出している、とごく控えめに彼女は述べた。国木田は本屋で聞いてみようかと考えて雑誌を教えてくれるよう頼んだが、それからほどなくして彼女の方から小包が送られてきた。ちょうど田山が部屋に遊び気に来ていたときで、小包が女からのものだと知るやいなや目を輝かせていた。送られてきた雑誌は田山も国木田も既に知るもので、事の詳細を知らぬ田山はなんでわざわざ雑誌なんか送ってもらったんだと聞いた。田山に話さなくて良かったと国木田は思った。そして、彼女が男と偽って物を書いていることを知った。文章は、すぐにわかった。偽っていたことは聞かず、国木田ははじめて自分から、長い長い手紙を彼女に送った。それがはじまりだった。
はじめて国木田が彼女と出会ったのは駆け出しの貧乏文士にはおおよそ似つかわしくないホテルのロビーだった。きっかけは忘れてしまった。彼女はすみれ色のワンピースを着ていて、手荒れひとつない、ペンより重いものを握ったことがなさそうな手で、紅茶を飲んでいた。名乗る前に彼女だと知れた。こういう場所で妙に畏まるのは好きではなかったから、国木田は近所の女性に挨拶をするような調子で、彼女に名乗った。すると彼女はすこし慌てた様子で席をたち、彼女の文字と同じくやわらかい声で「どっぽさん」と呼んだ。
彼女は美しかったが、瞳の奥にどこか諦めた色があるような気がした。
女性と会っている、という噂はすぐ友人たちに知れた。田山はどんな子なんだあの小包の子かとズバリ聞きまわり、藤村は国木田のふと会話の節々から女性の情報を得ようとした。徳田はそれを何か言いたげな瞳で見ているだけであったが、ある日人から頼まれたと彼女からの手紙を手渡した。使いに使われたことに不満そうな顔をしていた。
「ずいぶん秘密主義じゃないか」
手紙を渡しながら徳田が言った。国木田は返事を返さずに手紙の封を切りながら、ここまで女性のことを話もせず書きもしなかったのははじめてであると気がついた。
「結婚するのかい」
「まさか」
何度も二人きり会っておきながら、国木田は彼女に手すら触れたことがなかった。あれぐらいのお嬢さんだ、許嫁ぐらいいるであろうし、そういったどこか男女めいた話題も二人にはでなかった。 ただ時折、別れ際に見せる何か言いたげな瞳が、彼女の感情を語っているだけだった。
彼女は自分に拐ってほしいのだろうかと国木田は考えた。あの諦めた表情はいずれ家に閉じ込められることにたいしてなのか、それとももっと大きな、人生にたいしてのものなのか国木田にはわからなかった。彼女の見た目の印象と文章から受ける違和感が、どこから来るのかもわからなかった。しかしいずれ彼女が誰かの家のものになり、男の筆名を捨てることになるだろう近い未来を考えると心のなかにパッと燃え広がるような口惜しさと嫉妬が起こった。安っぽい原稿用紙に、国木田は手紙を書いた。
手紙を出した翌々日、ひどく雨が降った。ぼたぼた屋根から伝い落ちる雨垂れを見ながら、国木田はあまり金にならない仕事をしていた。彼女からの返事はまだ来ない。詳しく何を書いたかは忘れてしまったが、あまり自分らしからぬ感情に身を任せた文を書いた自覚はあった。馬鹿なことをしたと思った。
雨漏りがする玄関先に国木田が桶を置きにいこうとしたとき、ふと戸を叩くおとがあった。田山ならば勝手に戸をあけるし、徳田であればまず戸を叩く前に僕だけど、と名乗りにはあまり役にたたない言葉を言うはずだった。雨宿りに見せかけた強盗か、しかしこんなボロ家に物取りがくるはずもない。国木田が戸をあけると、そこにははじめて会ったときと同じ格好をした、彼女が立っていた。白くて細い指に洋傘をにぎり、もう片方の手には一昨日国木田が出した手紙を持っていた。こんにちは、ともすみません、とも彼女は言わなかった。思い詰めた顔をしていた。
何と声をかけたらいいのかわからず、国木田は無言で上がるように促した。彼女は流れるような仕草で傘を閉じて玄関先に置き、履き物をそろえて脱いだ。男一人の部屋にはありえない、やわらかい匂いが漂った。
とりあえず茶でも、と言いかけて出す茶すらないと国木田が気づいたとき、鼻先にやわらかい匂いが強くかおった。彼女の頭が、国木田のすぐそばにあった。はっと息をつまらせた途端に、国木田の視界は反転した。雨がしみだしてきそうな天井と、覆い被さってくる彼女の、ひとつひとつ丁寧につくりあげられたような繊細な顔が映った。小さな形のよい口がゆっくり動いた。どっぽさん。雨��かきけされそうなほど小さな声だった。
「どっぽさん、」
彼女の揺れる瞳を見た瞬間、国木田は彼女に感じた違和感の正体がわかったような気がした。そして、彼女のたおやかな佇まいの奥に隠された激情のひだを、自分はようやく引きずり出したのだと知った。これが、きっと自分のみたかったものだった。状況のわりに心はどこか愉快な気分だった。激情にかられているのは自分だけではないと知ったからかもしれない。
いいぜ、あんただったら。発した後に国木田は笑って、それから思いの外穏やかな気持ちで彼女を見上げた。さっきまで手紙を握っていた白い指が、国木田のシャツのボタンを外していった。彼女のワンピースには乱れひとつない。素肌が部屋の空気に触れて、すこしひやりとした。
どこかで誰かが覗いているような気がした。
0 notes
Text
うみのこえ
海見たいなぁ。とうだるような昼下がりに織田が西瓜をかじりながら一言つぶやいたので、三好はそれ���いいっすね、と返しながら次の休みを海を見に行こうと心のなかで決めた。食べたいものや遊びたいことをしょっちゅう口にするかわりに、山やら海やらの自然に関心を示さない彼がわざわざそう言ったことが、三好にとってやけに関心を惹いたのだった。翌日三好が計画を話すと、織田はいささか驚いた顔をしながらも、笑って頷いた。いつもの食えない表情とは違ったものだった。 始発よりは遅く、世間の勤め人が動き出すには少し早い時間に、二人は電車に乗った。郊外に向かう車内に人はまばらだった。四人がけの席に向かい合って腰かけ、三好が文庫本に目を通していると、眠そうに窓に額を預けながら織田がどれくらい時間がかかるのかと尋ねた。一時間ぐらいだと三好が���すと、彼は頭をもとの位置に戻して伸びをしてから、三好の頭のてっぺんから足の先までをすっと見回した。シャツから靴にいたるまで新品の、夏用に誂えた外出着だった。 「そういや」 「なんすか?」 「その服はじめて見たわ」 「……今日下ろしたんで」 別にたいした意味があったわけでもなく、夏になって外に出かける用事が今回がはじめてだったからこうなっただけだ。と言おうとしたが、昨日の晩に若干そわそわした気持ちで服を一式枕元に置いたことは確かである。三好が口ごもると、織田はいつものようににやついた顔をした。この表情をした織田は、すこし苦手だ。文庫本を閉じて顔を上げると、視線を合わせた織田がけらけらと高笑いをする。 「なんやワシと出かけるからお洒落したんか、かわいいとこあるやん」 「ちゃいます、これはたまたま……」 「たまたま?」 「……もういいっす」 「ま、ええわ。今回はたまたまってことにしといたろ」 三好をからかう材料を見つけたら徹底的にやるくせに、今回ばかりはあっさりと身を引いた。その代わりに織田はすっかり機嫌がよくなったようで、再び三好が文庫本を開こうとするたびにしりとりをしようだとか言って邪魔をした。また織田が服のことを追及してきたら分が悪いのは明白だったので、三好も誘いに乗った。静かに揺れる人気のない車内に、しりとりをする二人の声がぽつぽつと聞こえた。 次第に外の太陽が高くなり、車窓にも日差しが入り込み始めた。織田の真っ白なシャツが、三好の目に眩しくうつり、もしかしたら彼も自分と同じように新品を下ろしてきたのかもしれないと思った。もし、そうだとしたら。そう考えると三好はひどく恥ずかしくなって、織田にさとられないようにそっと視線を外した。 結局しりとりは三好の不注意で長くは続かず、潮の匂いに気づいた織田がはしゃいだ声をあげるまで、二人はぽつりぽつりと今読んでいる本の話をした。 人気のない小さな駅に二人は降りた。車内に入り込んできた塩の匂いと、ホームの端に生えた草の匂いが混じり、生ぬるい風が汗ばみはじめた肌に吹いてくる。 改札を出るとすぐさま道の先に水平線が見え、視界に砂浜が映りこんできた。 「なんやせっかくの砂浜やのに人おらんな」 「ここからちょっと行ったとこが海水浴場らしいんで、そのせいじゃないんすかね」 「ここは泳がれへんのか、ちょっともったいないなあ」 次は泳げるところを、と口にしかけてやめた。織田があっと声を上げたからだった。 「ほんまや、すぐそこに防波堤あるやん。たぶんすぐ深なるんやろな」 目を細めると、砂浜からそう遠くはない海中に、防波堤が一列に並んでいた。水平線の手前に、白い線が引かれているように見えた。 「オダサクさん泳ぎたかったんすか?」 「いや、別に。でもスイカぐらいは持ってきたらよかったかもな」 「割っても二人で一玉は食べられへんと思うんすけど」 「そこは三好クンが頑張って」 「さすがに無理っす」 自動車が一台二人を追い越した以外に、誰とも会わないまま砂浜に着いた。つくなり織田が荷物をその場に放り投げ、靴を脱ぎはじめた。 「ちょっといきなり何しとるんすか」 「足ぐらいつかりたいやん!」 靴下を砂浜に散らかして、織田は一目散に波打ち際まで走っていく。いつも飄々とした動きを見せる男が今ばかりは完全にはしゃぐ子どものようだった。あっつ、と声を上げながら海に入っていった。まくりあげたズボンの裾から覗いている足首が、いやに骨ばっていて細く、一瞬三好の心臓が跳ねた。日の光が白いシャツを透かして、細い体の線を浮かせている。 もしかしたら足首掴めるんちゃうやろか。そう思うとなぜかいけないものを見ている気分になって、三好は織田から視線を外して彼が散らかした荷物を拾い上げてまとめ、転がった靴をそろえて置いた。 織田が手招きをするので、三好も靴を脱いだ。彼の靴の隣に自分のものを並べたとき、ふいにこの靴を選んだときのことを思い出した。売り場で偶然目に止まって買い求めたのだったが、こう並べてみると、なんだか似ているような気がした。自身が気づかぬ間に彼の靴を想像してしまったわけではない、と思いたい。しかし今まで自分の選んできたものと多少は毛色が違うのも確かであって、いつのまにか織田が、三好の心のうちに、すっかり入り込んでしまった可能性も否定できない。織田から見えないように、荷物の影になるところに靴を並べなおした。 砂浜は火傷するかと思うほど暑かったが、海に入ると裸足の足裏が心地よかった。さっきまで水平線の向こうを見つめていた織田は、視線を落として波打ち際のふちをじっと見まわしていた。 「カニおらんかな」 「見つけてどうするんすか?」 「食えるんかなって」 「はあ」 サワガニとはわけが違うだろうと思ったが、織田がやけに真剣なので、三好も付き合って視線を落として波打ち際を探しながら歩いた。結局数十分かけても見つからず、首筋のあたりが日差しでちりちりと焼けついた。 「んー、さすがに暑いなあ。帽子持ってきたらよかったかもしれへんな」 織田が腕で日差しを避けながら言った。 「……どっか日の当たらんとこ入ります?」 「せやなあ、カニもおらんかったことやしそうしてよかな、三好クンも気いつけや。下手したら頭焦げそうになんで」 荷物を端にある木陰に置いて、織田がそのすぐそばに座り込んだ。三好は再び波打ち際を歩きながら貝殻を拾い、防波堤の隙間から遠くに見えている、ちいさな漁船を眺めたりした。その間に、浮かんだ詩について考えた。 首筋に視線を受けて振り返ると、木陰から織田がこちらを見ていた。目が合うと、三好にひらひらと手を振った。影の中で表情はよく伺えなかったが、おそらく口元を緩ませているのだろうことはわかった。 手を振り返すことが妙に気恥ずかしく感じ、三好はそっと会釈のようなものを返すだけにして、視線を外して波を蹴った。そういうことが三回ほど繰り返された。織田は先ほどで海に対する興味を失ったのか、はたまた別のところに気が向いたのか、三好と目が合わない間は木陰で細い体を畳むようにして、考え事をしているように見えた。 海が見たい、と織田が言ったから、自分はここに来たのに、楽しんでいるのは自分だけのような気がした。日帰りで、騒がしくなく、それでいて美しいところというのを、三好は今までにない熱心さで探したのだったが、今になってみるとそれはひどく独りよがりだったのではないか。もともと織田が、こうした場所より都会の喧騒を好む男であることはなんとなく知っていたはずで、あの日の一言は気まぐれに過ぎなかったのかもしれない。だとしたら、何故彼は三好に付き合ってここまで来たのだろうか。 この浜辺には二人きりのはずなのに、三好には織田のことがさっぱりわからない。どこからともなく飛んできた鴎が防波堤の上にとまり、キイキイと鳴いた。 「楽しんでるか?」 三好が木陰に戻ると、織田が首を傾げて声をかけた。聞きたかった言葉を先に尋ねられて、どきりとしながら頷く。 「あの、オダサクさんは」 「ワシか? うん。楽しんでんで」 言い切られると気をつかっているんでしょうとか、そういうひねくれた言葉を発するわけにはいかなかった。はしゃいでいるときは悪ガキそのものの顔をして、けらけらと笑っているくせに、こういう時の織田はやはり今生では自分より年上で、それゆえの余裕のようなものを身につけているのだと感じずにはいられなかった。 悔しい、というわけではない。けれども、いつも少しだけ、もどかしい心地になる。 隣に座って、手帳を取り出して文字を書きつけた。織田がそれに興味を持ったのか、ぴたりと肩を寄せて手元をのぞき込んでくる。三好の腕に、織田の長い髪がさらさら触れた。 「何書いてんの?」 「ちょっと、さっき思いついたやつを」 「詩?」 「そこまでのもんじゃないっすけど」 「見ていい?」 隣からの視線が好奇心にあふれていて、断るのも野暮に思えた。手帳を渡すと、海に足首を浸したときと似た表情で、織田はたかだか数行にも満たない三好の言葉に何度も目を通し、口の中で繰り返した。朔太郎の詩を読むときの自分と似ている。手元に視線を落としたまま、織田が感心したように言う。 「ふうん。詩人には、目の前の世界がこう見えとるんやなあ」 「おおげさっすよ」 「ただの感想や」 織田の細い指がページをめくり、三好のほかに書きつけた言葉をぽつぽつと読んでいった。何度か気に入ったらしい表現を見つけると、いちいち三好を褒めてから手帳を返してきた。そのまま、しまいこんでもよかったのに、不思議と三好の手は、さっき書きつけたページをめくって破いていた。 「あの、よかったら、さっき書いたメモもらってください」 織田がきょとんとした顔をしながら紙片を受け取った。 「ええん?」 「いま��ら自分のとこには書きなおしとくんで」 こんなものが贈り物になるか。ともう一人の自分は心の中で言っている。しかしポケットに入っている白い貝殻が織田への贈り物になるとも思えなかった。 人にものを贈るのは、どうしてこうも照れくさくなるのだろうかと思った。自分の感情を込めているものであるならなおさらだった。彼が喜ぶようなものを、三好は何一つ持っていない。唯一、ほんのすこしでも可能性があるとするなら、それは言葉しかなかった。 来た、記念に。口にすると照れが増して、抱えた膝に顔を埋めた。 織田はしばらく破られた紙片を見ていたが、やがて丁寧に紙の端を折り畳んで、ことさら丁寧に取り出したハンカチにくるんで、ポケットにしまいこんだ。 「おおきに、大事にするわ」 まるで壊れ物でも扱うような手つきだったので、思わず三好はそこまでせんでも、と口を挟んだ。しかし織田はそうすることがさも当たり前かのような顔をしていた。 「せやって三好達治先生の生原稿やん。大事にせな」 織田が三好を「先生」だとか敬称を付けて呼ぶ場合、それはどことなくからかいを含んでいるものだった。しかし今回ばかりはあまりにも自然に呼ばれるものだから、三好は結局よころんでくれたんだったらと歯切れの悪い返事をして、一枚ページの切り取られた手帳を手慰めにぱらぱらめくることしかできなかった。 鴎の鳴き声と同時に潮風が二人の座る木陰にまで吹いたが、三好の頬に溜まった熱は結局逃げて行ってはくれないまま、黙って手帳に文字を書いた。織田は鴎を見つけたり海の上に船を見ると三好に声をかけたが、木陰からは動こうとせず、日が落ちてくるまで三好と肩先が触れる距離に座っていた。 駅舎が夕焼け色に染まるころ、帰りの電車に乗った。行きより多少乗客は増えていたが、それでも車内の人は少ない。 「もうちょっとおれたんちゃうの?」 「これ逃したら図書館に着くの夜中っすよ」 「ええー、そんなんなんの」 「田舎はどこもそんなもんでしょう」 「大変そうやなあ」 電車の窓枠に、織田がもたれかかった。駅から遠ざかるにつれ、入り込んでくる風から潮の匂いが消えていく。ゆっくりと、二人は元の世界に帰っていった。 疲れてしまったのか、織田の口数は少なかった。一度だけ、ハンカチにくるまれた紙片をひらいて、目を通していたかと思うとあの壊れ物を扱うような手つきでくるみなおした。胸ポケットにそれがしまわれるまで、三好は視線を外すことができなかった。自分まで大切にされているような気がするのは、何故だろう。 再び窓枠に肘を預けようとしていた織田が、三好をちらりと見るなりあれっと声をあげた。 「三好クン、えらい日焼けしてもうてんで」 つられてガラスに視線を写してみるが、肌の色はよくわからない。頬に触れてみたら、じんわりと熱がこもっていた。 「そういえば、なんか顔がピリピリするような……。そんなに焼けてます?」 「うん。なんやろな、因幡の白兎ちゅうやつやな」 にゅっ、と指先が伸びて、三好の鼻先をつまんだ。 ぴりぴりした感覚��、ひやりとした織田の肌の感触が抜けて、ふぎゃ、と変な声が出た。咄嗟に体を話して鼻頭を押さえたら、織田がいつもの高笑いをする。 「ふぎゃって!」 「オダサクさんがつまむからっす」 「いや摘まみたくなる鼻してるからつい」 「なんすかそれ」 「摘まみたくなる鼻は摘まみたくなる鼻やねん」 「はあ」 押し問答をする気力はなかったので、肩を落とした。織田はひとしきり笑って、今度は人差し指で鼻先をつついた。鼻はひりひりとしたが、今回ばかりは日焼けしていてよかっ���と思った。赤面しても、きっとわからない。 俯きぎみに次は帽子を持ってくる、と言うと笑っていた織田が急に目を丸くした。ちょうど三好が海に誘ったときと、そっくりそのままの顔で。 「せやな、次はもうちょっと、日焼けせんとこに行こか」 そうして、からかうでもなく、はしゃぐでもない、いつになく緩んだ顔で笑って見せたあと、砂がこびりついた三好の靴をつま先でつついた。 次の休みは、日焼けの引かぬ顔のまま、わざわざ電車に乗ってかき氷を食べに行った。二人のよく似た靴は、夏の間にずいぶんと擦りきれてしまい、季節の終わりに三好は靴を修理に出した。しょっちゅう二人で、 でかけたせいだった。
0 notes
Text
まひるまの熱※いかがわしい
司書が夏季休暇を取った。よってその一週間ばかり、図書館にいる文豪たちも自動的につかの間の休息が与えられることになったが、司書と異なり旅に出るのも許されないため、彼らはただ潜書のない一日を消すだけの日々を送っていた。 好きなだけ休んで欲しいと司書は図書館を出る前に言っていたが、何もしないのはどうにも性に合わず、三好はやっておくことはないかと申し出た。すると司書は少しだけ考えたあと、司書室の周りにある庭の草抜きを三好に頼んだ。 図書館の庭は基本的に室生が趣味と実益を兼ねて管理していたが、司書室周辺はあまり手入れをしていないのだと言う。気づけば青々と生い茂った夏草を、綺麗にしようと思い立ったはいいものの日々の仕事のなかでつい後回しにしていたようだった。 草木の手入れは嫌いではない三好が二つ言葉で返事をすると、司書は庭仕事用の大きな麦わら帽子と、一週間司書室で自由に寝泊まりしていい権利を三好に与えた。さすがに一週間自分の部屋に誰もいないのは心配だから、だそうである。かくして司書は休暇に旅立ち、三好には麦わら帽子と、広い和室に改装されてある司書室と、好き放題伸びきった一週間で抜ききれるかどうかの夏草が残された。 一日二日ならまだよかった���しかし三日をすぎるとしっかりと土の中に根を張った草を抜き続けるのはなかなか苦痛な作業だった。猛烈な日差しに麦わら帽子はすぐさま日焼けし、つばの先が触ると細かく崩れそうになり、こまめに休憩しても三好の半袖から伸びた腕が赤くなった。それでも自分から言ってもらってきた仕事を途中で投げ出すわけにもいかず、朝食を終えてまだ涼しいうちから三好は草抜きを続けていた。 土と草の匂いのなかに汗が混じった。自分の汗だ、と気づいた瞬間にこめかみから顎に伝い落ちて、しずくとなって地面に染みていく。蝉が脳内で反響するほどうるさく鳴き、三好は軍手をした手の甲で汗をぬぐった。帽子をしているはずなのに、紫外線が容赦なく三好の首筋に差し込んで、ひりつくような感覚を与えてくる。 その中に日差しとはまた違うなにかを感じ、三好は振り返った。障子を開け放してあるせいか、司書室の畳とちゃぶ台がここからでもよく見えた。視線を横に動かすと、長い脚を縁側にぶらぶらとさせながら、織田がこちらに向いて座っていた。目が合うとへらりと笑い、三好に向かって手を振った。 三好が司書の休暇中草抜きの仕事を任されたと聞くと、何故か織田が手伝いを申し出た。ひとりですんの大変そうやし、お兄さんが手伝ったるわ。あのいつもの通りの軽薄な口ぶりで言ったのだったが、三好がこの作業を始めてから今日で早四日目、織田は一度も草抜きには参加しなかった。毎日のように昼過ぎに起きてきて、司書室に現れたかと思うと草抜きに没頭する三好に進捗を聞いたり食堂から一応食事を持ってきたリはしてくれている。しかしあとは司書室でだらだらと扇風機の前に陣取って本を読んだり書き物をしているぐらいで、三好としても彼が一体何をしたいのかわからなかった。手伝えという台詞ははなから諦めているので口にしていない。 三好クン、と織田がやや大きい声で呼んだ。 「もうそろそろ休憩しいや、これから蝉も鳴かんなるぐらい暑なるって」 これ以上暑くなるのかとうんざりした気持ちと、あと少しぐらいやってもいいだろうという気持ちが混ざったが、結局は日差しの強さに負けて、三好は縁側に戻った。軍手を脱いでも、青臭い匂いが手に染み込んでしまったような気がする。 「おつかれさん」 この気温のなか手袋をはめている織田の手が伸びてきて帽子を取った。その瞬間、ふっと漂ってくる匂いがあって、三好は息をとめた。 汗のにおい、ではない。花のにおいでも、食べ物のにおいでもない。言うなれば人間のにおいとしかいえないものが、鼻先に香った。 この匂いを、三好は何度か嗅いだことがある。夜の、寝床のなかで服をはぎ取って、お互いの熱で温められたときにする、織田の肌の匂いだ。すぐさま意識が夜に引きずり込まれそうになって、織田の指先が汗で濡れそぼった三好の前髪を払ったとき、思わず息を飲み込んだ。今は蝉の声の鳴く、真昼間だ。��さでおかしくなっていたにしても、こんなことは考えるにすら値しないものだった。 ぐらぐらと本能がくすぶられる気配に、三好は立ち尽くすしかなかったが、そんなことに気づくはずのない織田は、もう汗だくやんと三好の輪郭をさらりと撫でた。 「スイカと麦茶貰って来たから休憩に食べや。手え洗っておいで」 「……はあ、そうするっす」 返事を聞いて背を向けた織田の細い首がやたらと青白く感じ、暑さとは違う、めまいが三好を襲った。いつも、こうした衝動は、彼と二人きりになった時に無理矢理に近い形でひきずり出されるものだった。それなのに、今の自分は。唾を飲み込んでも、ひどく喉が渇いていた。 キンキンに冷えたスイカを齧り、氷が山盛り入った麦茶を飲んでも、汗はなかなかひかなかった。 織田の言った通り、気温が上がりすぎて蝉は鳴くのをやめてしまい、扇風機が首を振り、空気をかき混ぜる音だけが部屋に響いていた。 「あっついなあ、夕立でも降らへんかなあ」 「これだけ暑いと降るんじゃないすかね、知りませんけど」 「おっ三好クンも関西の男やな」 「何がっすか」 「知りませんけどっちゅうやつ」 相槌を返しながらも、漂ってくる織田の匂いに三好は落ち着かない気分のままだった。 スイカを食べ終わったらここから出て行こう、出て行こうと思うのに、予想以上の暑さに体がいつ間にか蝕まれていたようで、立ち上がるのも億劫になってしまった。この頭のふらつきは肌の匂いによるものか、暑さによるものか、それとも両方か。 気づいたら視界が揺れて、畳に転がって眠り込んだ。目が覚めると体中が汗に濡れた。日中に寝てしまうなんて、だらしないことを。どれくらい眠っていたのか、寝ている間に再び鳴きだし、まるで頭の中に一匹入り込んでしまったのかと錯覚を起こすほどだった。ひりつくほど喉がかわいていて、寝ぼけた頭で水を探した。たしか眠り込んだ時には、まだ机の上の麦茶は残っていたはずだ。 上体を起こそうとすると、横から長い腕が伸びて、三好の体は再び畳に落ちた。また、あの匂いで鼻先がいっぱいになって、三好の体はすぐさまかっとなった。 絡めとる力はそれほど強くないはずなのに、体が動かない。織田の匂いがする。夜にしかしないはずの、織田の匂いがする。 視界にうつる天井がぐらぐらと揺れたかと思うと、織田がこちらを覗き込んでくる。三好が寝ている間に、傍まで来ていたのだった。普段あまり汗をかかないはずの織田の前髪が湿って、細い顔に張り付いている。 「……起きたん」 喉がかすれて、声が出なかった。いつもにやついた笑みを浮かべている織田の表情が、いつになく静かだった。手袋をはめた手が三好の前髪を再び払って輪郭を伝い、汗のびっしり浮いた三好の首筋を撫でた。麦わら帽子を外した時と仕草は同じはずなのに、今の織田からは夜と同じ気配がした。一番上までとめられたボタンを織田の指先がつついた。 誘われている、と本能が理解した。しかし理性は駄目だ駄目だと訴えかけてくる。今の自分はただの休憩中で、縁側のふすまは開け放たれたままで、視界の隅に映る空はいまだに高く、青いままだ。こういうことは、真夜中��、秘められた場所で、二人しか知らないところで、行われるべきもののはずだった。ましてや、ここは普段自分の使う場所ではないのである。 三好クン、と織田が小さな声で名前を呼んだ。口元だけでふっと笑ったかと思うと、濡れた髪が三好の頬に触れて貼りついた。薄い唇が、三好の口をついばんだ。濡れた音が何度も立ち、理性が焼け付きそうになる。織田が全身をかけてのしかかってきたが、おそろしいほど体には重みがなかった。その代わり首筋のあたりから肌の匂いが立ちのぼり、彼の体の下にいると全身がその匂いに包まれているような気分になる。 鈍い快感が背筋を抜け、下半身にじわじわとたまった。これでは、いけない。わかっているのに。 口づけをしながら織田の器用な指先が片手でシャツのボタンを外してきた。この手慣れた様子に苛立ち、体をばたつかせたが畳に足が滑った。弱弱しい抵抗はまるで抵抗にならず、視界がじわじわ涙で潤んだ。 体はまるで重みがなく、力もあるわけではないのに、こうやって快感で三好を翻弄する術には異常なまでに長けていた。必死になって肩を掴んだら、ようやく唇が離れ、織田の整った顔と間近に視線がかち合った。彼の顔はまるで笑ってはいなかった。顎先にたまった汗が三好の頬に落ちた。静かな瞳が、三好を見下ろす。 「……なあ、触らへんの」 ここまできたら、したいやろ。飽きもせず、顔が熱くなった。だって、だって、こんなことは。 頭では織田との行為を否定しているのに、体は織田の誘いを聞くといやに本能に忠実に動いた。細い体を引き倒して、体勢を入れ替えて織田を見下ろした。すべてがおそろしいほどゆっくり見えた。ちゃぶ台の上にあるコップの氷がからん、溶けおちる音が、大きく聞こえた。それは同時に、三好の理性がとける音でもあった。 衝動のまま、服を乱した。薄暗い部屋に、不健康な青白い肌が目立った。三好が触れるだけで、織田が体中に浮かせた汗で指先がぬるぬると体を滑った。まくり上げると、薄い胸が露になり、三好は乾ききった喉で唾を無理矢理飲み込んだ。 織田のうすい胸の先端。それは赤く腫れ上がるようになって、はっきりと主張を示していた。これには、見覚えがある。散々絡み合って、三好が誘われるままに触れたときの、快感に溶けきった織田の体だった。 「……したかったんですか」 三好の問いに、織田は答えない。 「こんなになるまで、したかったんですか」 指先が胸を掠めただけで、織田の体がくねった。先端に触れたら、いやに鼻にかかった甘ったるい声で鳴くものだから、指先で押しつぶした。漏れる声が高くなった。最初から乱れきっている。このまま、続けたら、織田はどうなってしまうのだろう。 「あ、みよしく、ん、」 織田はかすれた声で名前を呼ぶか触れられて快楽を拾うような声を上げるだけだった。いつもなら手��出て足がでて三好を翻弄するのに、どうして、どうして。汗ばんだ体に吸い付いてみても、薄い体中に痕をつけても、織田は三好の頭を抱えて吐息をこぼすだけだった。手袋をはめた手がシャツ越しに三好の背中をかき回した。 手を取って手袋の中に指を差し入れた。侵入した指を手袋のなかで拒むように握られたが、そのまま押し進めて、手袋を脱がしていった。おそろしいほど熱がこもっていて、体温の上がり切った体のなかでも、ひときわ燃えるようだった。畳に腕を押さえつけても、抵抗はされなかった。骨っぽい指先が三好の指にも絡み、お互いの汗が手のひらの上で混ざった。シャツが濡れて肌に貼りつく不快さも、沸騰しきった思考では感じようがない。 ズボンをくつろげて、最後の理性が慣らさなければと濡らすものを部屋から探そうとすると、それまで無抵抗だった織田が三好の手首を掴んだ。息を飲んだ瞬間に転がされるのは自分の立場になり、どこか真剣で、余裕のない織田の顔を見上げる格好になる。 うえ、乗りたい。かさついた声音でつぶやくように言うと、織田は自身の細長い指をろくに濡らさないまま押し込んだ。苦し気な吐息をこぼして唇を噛んで慣らしている姿は快感を得ているとは言い難く、三好は本能的な気遣いからそれを止めようとした。しかし織田はだめ、と首を振り、早々に指を引き抜いて三好に跨った。 なんで、なんで、どうして。こんなの、ちっとも気持ちよくないでしょう。まるで反応が衰えない自分が嫌になった。織田は半ば無理矢理なかにおさめて、瞳を閉じて動き出した。織田の長い三つ編みが、動きに合わせてゆらゆらと揺れた。汗が滝のように流れ落ちて、三好のシャツや顔に落ちかかった。 こういうことは二人でやるものだ、とこれまでの織田との行為の中で三好は思ってきた。しかし今の自分は、織田を感じさせるためだけにこの世にいるようだった。織田の世界に、自分はいないような気がした。こんなことをしていて、体は熱さを増すばかりなのに、頭だけがひどく冷静で、それがひどく悲しかった。 ようやく快楽を拾いだした織田が、ふっと吐息をこぼした。いつもは三好の顔を楽しそうに見つめる織田の瞳が閉じられて、己の世界に没頭しているように見えた。 骨ばった織田の腰のくぼんだ部分に汗がたまっている。腰を掴んでくぼみをなぞると、織田の瞳がようやく開いて、三好とかちあった。織田の体の全体から、肌のにおいがたちのぼって、三好の思考を奪っていく。濡れたからだがぶつかる音だけがやけに鮮明で、最後に織田が三好の名前を呼んだかと思うと、世界が白んだ。 荒い呼吸のまま、織田が倒れこんできた。行為のあとの熱っぽさとはまた違う暑さを感じ、はっとして三好は体を起こす。織田はぐったりした調子で、三好の肩に額を預けた。明らかに、いつもの調子と違う。 「熱、あるんですか」 もしかして、いままで、ずっと。また、織田は黙ったままだった。 「医務室、行かないと……」 三好が焦って織田の服を直そうとすると、織田は三好の手首を掴んだ。またいつものにやついた笑みに戻って、三好は目を見開いた。 「なんで」 「……この身体で行けっちゅうんはさすがにいけずちゃう?」 織田の体に目をやった。首筋には噛みあとがくっきりとのこり、シャツからのぞく鎖骨のあたりには鬱血痕が散らばっている。隠された服の下はもっとひどい有り様に違いなかった。全部、全部、三好がつけた。誘われたにしても、乗ったのは自分だ。 「……ほんまはわかっとったんですか」 熱があること、三好がそれに気付くと医務室に引きずっていくこと、すべて織田にはわかっていたのだ。肌の匂いにすぐに煽られることも、ねだらずとも痕をのこすことも。三好は誘われるがままに、彼の望み通り動いたに過ぎない。 なんでこんな、なんでこんな。 「三好クンとこうしとるとな、生きてるって感じすんねん」 ちっとも心の踊らない口説き文句に、三好は黙ることしかできなかった。前々から予感はしていた、彼の破滅的な衝動というものを、はじめて目前で見せつけられたような気がした。抱えた空虚の真ん中で、織田は張り付けたような笑みを浮かべて、こんなことまでしておきながら、最後の最後で三好を柔らかく突き飛ばすのだった。 お前はここまでだと、ここから先には入れないと、そう言われている気分になった。そのくせ細い体は三好にぴたりとくっついて、のどかわいた、とかすれた声でいう。埋められた首筋から、あの肌の匂いが香っている。さっきよりもずっと強かったが、もう三好の理性をぐらつかせはしなかった。きっとこれは、織田の命が燃えている匂いなのだと気付いてしまったからだ。 二人分の汗と、精液の香りが部屋にもうもうとこもり、無機質に首を振る扇風機が、空気をかき混ぜていく。 蝉が最後の生を燃やし尽くすようにひときわうるさく鳴いた。ある意味織田そのものだ、と三好は思った。
0 notes
Text
太陽に灼かれて
「……あっついなあ」 呟いたところで涼しさが訪れるわけもない。体温で生温くなった寝台の上で寝返りを��つと、焼け石に水といった程度の控えめすぎる扇風機の風が、補修室のカーテンの裾をかすかに浮かせているのが視界に入るのみだった。カーテンの隙間からは直射日光が入り込み、うだるような昼下がりの暑さを部屋に伝えている。 怪我人を空調の冷気にさらすのはよくない、との医師の判断で、この補修室は図書館全体の空調設備とは切り離されている。しかしまあ怪我人茹で蛸にしてもうたらもともこもないやろ。昨日の潜書で補修行きになってしまった悔しさと、晴れの日にひとり補修室に取り残されている寂しさを、じんわり汗で湿った髪を指で払ってから、織田は寝台から下りてしまった。どうせ補修が終了するまで部屋には閉じ込められたも同然だし、図書館でも古株の織田は経験も積んだ分ひとたび補修となると時間がかかる。自由になるにはまだまだかかりそうだった。この暑さの中おいて行かれて調速機も使ってもらえないのだから、部屋の中を歩き回るぐらいは許してほしい。 寝台のそばの椅子をひきずって、窓のそばに置く。カーテンを開くだけで昼下がりの太陽が窓越しから、不健康に白い織田の肌を灼いた。ペンキで塗り分けたような、青と白の差がまぶしかった。新しく生まれ��おして、はじめての夏だ。 椅子に腰かけて、窓を開けた。遠く聞こえていた蝉の声がにわかに織田の耳に入り込んだ。煩い方が、不思議と現実にいるような心地になった。街灯の向こうに、大きな入道雲が広がっている。風は吹いていなかった。蝉の声がうるさいだけで、人の営みはまるで時を止めてしまったようにひっそり静まり返っている。こういう状況は、あまり好きではなかった。自分だけ取り残されたような気分になるからだ。熱さで気だるい気分だけが残り、窓枠にぐったりもたれかかった。視線だけを動かして外を見ると、青と白と緑ばかりの世界に、ふと鮮やかな色が横切った。庭の隅に植えられた向日葵の群れだ。ひとつふたつの気に入った花以外、自然に興味を見出す性質ではない織田だったが、この時ばかりは素直に視線が吸い寄せられた。日差しを浴びて、よく育っている。 いつのまに、誰が植えたんやろ、犀星先生やろか。思わず身を乗り出した。窓枠を掴むと、手袋越しでも日光で指先が焼けるような心地がする。手袋の下が、じわじわと湿った。 黄色で埋まった庭の隅で、白い影が動いた。すんなりとした佇まい。真っ直ぐな背中。シャツと同じくらい白い、健康的な首筋。花のそばに、三好が立っている。喉が渇いていたせいなのか、声はでなかった。かわりに、織田の鼻先に、石けんの匂いが突き抜けるような心地がした。蝉の声がうるさい。うるさい。 背丈ほどもあるひまわりのそばを、三好はこの日差しのなか一心に見つめているようだった。織田から表情は伺うことができない。半袖のシャツから伸びた腕がゆっくり動いて、日よけを作った。細いわりに骨のつくりは雑だった。やがて大人になりゆく、少年の一時的な肉体に思えた。もしこれから、ここにいる自分たちが肉体的に成長することがあるとするなら。 三好の背筋はしっかりと伸びていた。いつもならば、そう、いつもであったなら、織田はそこに少年の発展途上であるが故の頑なさと、やがて社会に乗り出して和らぐ生きづらさを見出したに違いなかった。しかし今は、思春期の揺らぎをとうに超えてしまった、ひとりの男の本質が背中にのしかかっているように見えた。本を読むこと、書くこと、何かを見つめること。それはいつも織田を孤独にさせた。自分と向き合うことは、本質的に人が孤独と認めることと似ていた。そうして、今花を見つめている三好もまた、自ら孤独に身を置いているように思えた。白い首筋が揺れている様子を、織田は一方的に視線を送るだけだった。振り向いてほしいわけでもなかった。孤独は、ただただ日差しと共に織田の皮膚を焼いた。そうして脳裏に、ここに来てから偶然読んだ、彼の詩が頭に浮かんだ。日まわり。三好が好んで詩の題材にした花であったことを、織田は今になって思いだした。――花の言葉に聴き惚れて つい人の世に夢を見て 夢からさめずにゆきすぎた のちにこれが三好の数少ない恋の詩であると知ったとき、織田は驚いたものだった。前の世で、三好の詩を愛読した身ではあったが、それ以外の彼の人生を、考えたことなどなかったからだ。織田の前の三好は、いつだって真っすぐで、潔癖で、思ったことを口にせずにはいられない、はっきりとした少年であった。少年だった、子どもだった。しかしこの詩は、とっくに大人になってしまった男の詩だった。少年のこころを持ち続けたまま生きて、その理想は彼をよりいっそうの孤独に置いてしまった。 なあ三好クン、あんた一体どんな人生を送ってきたの、どんな恋をしてきたの。何を覚えとるの、何を忘れとるの。白い背中に、織田は問いかけることしかできない。 三好の歩んできた人生が、少年に生まれ直した彼のからだに少なからずとも埋め込まれているからなのか、織田が知った三好の人生の断片を、この少年の背中に投影しただけなのか。それはどうにも、わからなかった。ただ織田は人の噂と彼の著作から、前世の三好の人生をすくいあげて、再構成することしかできない。少年のまなざし、孤独の影、挫折した恋心。そうして、彼はどんな人生を歩むだろう。今の精神に抱えきれない記憶を背負って、彼はどこに行くのだろう。自分もまた、どこに行くのだろう。 額から汗が落ちて、窓枠を握りしめていた手袋の上に滑った。ようやく三好から視線を外し、自分の姿を見下ろした。シャツと手袋の隙間は陽射しで焼かれてぴりぴりと痛み、手袋の中もびっしり汗をかいていて、指先を動かすだけで指の股まで染み込んだ。不快さに顔をしかめて首を振るが、顔にかいた汗まで飛び、外の日差しに無駄に光った。 「……あっついなあ」 二回目の一人言を漏らし、乗り出したからだを引っ込めようとする。しかし��食が直りきっていないからだにはこの強すぎる光に体力を奪われたのか、頭が急にぐらりとして体が前のめりにつんのめった。落ちる。咄嗟に足を踏みしめたら窓からからだ全体は投げ出さなかったが、代わりにシャツのポケットから煙草とライターが全部飛び出し、地面に落ちた。 さすがに腕を伸ばしても指先にすら届かない。さてどうしたもんかと上半身を壁にくっつけるように体を折り曲げて思案していると、ふいに気配を感じ、織田は顔だけを上げた。その瞬間、まるで太陽を真っ直ぐ見てしまったかのような錯覚を起こす。三好の視線だった。たかだか自分を見ただけの三好に、なぜこんな。理由はでてこない。 「……なに、やっとるんすか。オダサクさん」 「あっ、三好クン悪いけどちょっと手伝ってくれへん?煙草とライター落としてしもた」 向日葵のそばから、急ぎ足で三好がやってきた。それでようやく織田も上半身を起こして、窓から身をひっこめる。 「いやぁすまんなぁ」 「いったい何をやっとるんすか、あそこからだと窓にぶら下がっとるようにしか見えんかったっすよ」 「まあちょっとな、いろいろあんねん」 三好を見ていた、とは冗談混じりでもあまり口にしたくはなかった。曖昧な態度で笑ってごまかしても、三好は何も言わなかった。地面にしゃがみこんで、丁寧に織田の煙草とライターを拾った。窓から見下ろす体勢になると、三好のうなじに汗が伝い、一番上までとめられたシャツの衿元に流れ込んでゆくのが見えた。健康そのもののからだが、無性に羨ましかった。きっと、こんなところにいるからだと思った。こんなところに、ひとりで。 「落としたもんこれだけっすか?」 「うん。おおきに」 三好が立ち上がり、織田に拾ったものを手渡した。椅子に座った織田はそれを窓際において、窓枠に再びだらしなくもたれかかった。覗き込んでくる三好と目が合うが、気づかれない程度に反らした。 「今度から気いつけてくださいよ。ここからでも落ちたら首の骨折れたりする可能性あるんで」 「うわ怖。さらっと恐ろしいこと言わんとってや三好クン」 「だいたいオダサクさんなんでこんなところにおるんですか。補修中なんやったら大人しくベッドで寝とってくださいっす」 「だってすることないねん」 「補修中は寝るのが仕事っす」 「せやかてこの暑さやと寝られるもんも寝られへんわ。話相手もおらんしなぁ。せめて窓開けるぐらいは許してもらわんと」 「……そもそも、なんで手袋しとるんですか、寝るのに邪魔でしょ。それで暑苦しいんじゃ」 「いやそんなん言われたかて――」 困るわ。いきなりなんやねん。続けようとしたところで三好に窓枠に投げ出した右手を取られた。白い指先が、織田の人差し指の布地をつまんだ。汗がぬるりと手袋の中をすべる。ひっぱって、外されそうになる。待って、という声すら出ず、織田は息をつめて、三好が手袋を抜き取る様子を見ていることしか出来なかった。まるで自分のことではないような、そんな心地がした。手袋がめくれあがって、差し込む日差しに手がぴりぴりする。骨ばった織田の手が、白昼のもとにさらされる。たった数秒のことなのに、そこだけ時がおそろしいぐらい遅く流れた。 「……ほら、やっぱり汗かいとるじゃないすか。びしょびしょっすよ」 濡れた手を、三好はポケットからハンカチを取り出して、丁寧にぬぐった。うだる暑さに思考を奪われて、動けない。礼を言うべきなのか、手をひっこめるべきなのか、それすらよく、わからなかった。ハンカチ越しに手のひらを滑る指先が顔立ちよりもずいぶん大人びているように見えた。やがて失われるはずの、少年のからだ。 おかしいこんなものに関心を持つような性癖ではなかったはずだと思うのに、指先は自然に三好の襟元に伸びた。不自然なまでに白い、皴一つない、清潔な三好の白いシャツ。 「……三好クンかて暑そうやん」 自分の中でも極めつけの軽い口調と笑顔を貼り付けて、一番上まで止められたそれを、手袋の脱がされた手で外した。成長途中の、張りだしつつある喉仏が、汗で濡れている。 ひゅっと三好が息を飲んだ。触れられると思ったのかもしれない。目を見開いて、体を一瞬で固くして、喉だけが大きく動いた。その様子に織田の喉も鳴る。同時に、三好の反応が見た目年相応であることに、織田は安堵していた。三好は織田の前ではいつまでも三好であった。織田の倍近く生きた男の名残など、いまはどこにも見つからない。たかだか喉元を覗かせただけなのに、三好の白い肌は織田の心の中をかきむしって、そこから先に、手を伸ばしてみたくなる。なんでワシに構うの、なにを隠してんの、なにを、想っとるの。三好の強い視線は常日頃仮面をつけた織田を暴こうとするくせに、三好は率直な言葉に紛れて、言葉にしない何かを抱えている。 指先は、結局ボタンにしか触れなかった。外したまま、手を引っ込めた。三好ははっとした表情のまま脱がせた手袋とハンカチを手にして立っていたが、やがて視線を彷徨わせるようにして、小さく言った。 「……そこ、そんなに暑いんすか?」 「そうやねん、えあこん?ちゅうのがここだけ別で温度がぬるいんやて」 「あと、補修どれくらいなんすか」 「まあ夜までかかるわな。おっしょはん最近けちくさいねん。まあ予算やらなんやらあるんやろうからしゃあないけど」 「だったら、氷枕でも、持っていきますけど」 「ほんまに?どないしたん。えらい優しいやん」 「このままやとオダサクさん一向に寝ようとしない気ぃするんで、とっとと寝てもらう用っす。勝手に窓から落ちて怪我されとったとか嫌なんで」 「そうか。まあお言葉に甘えて持ってきてもらおかな。ついでに本とかも頼むわ」 「本っすか?どんな」 「……まあ適当に見繕っといて。あ、できたら賢治クンから大人の絵本借り――、ってなんちゅう顔してんねん」 「……絶対嫌っす、氷枕持ってきたらもう絶対あなたには寝てもらうっす」 三好が苦虫をかみつぶしたような顔をしてから、織田をにらみつけた。あ、これはベッドに縛り付けられても寝かしつけられるなと嫌な予感がしたので冗談やてと笑い飛ばした。 自分が行くまでにベッドに戻っといてくださいよ、と言って立ち去ろうとする三好を、もう一度呼び止める。振り返った時に覗いた白い喉元。襟元を引き寄せて、今度は両手で、ボタンをとめた。汗をかいているはずなのに三好からは、石けんの香りがした。 「……とめた方が似合ってんなぁ」 からかいを含んだ、三好は急に顔を赤くして、足早に言ってしまった。その足取りが完全に気まずいものを見て逃げるこどものそれで、織田は三好の背中を見ながら、ようやくぷっと吹き出し、くるりと室内に向き直った。自分の前でくらい、三好には少年でいてもらいたかったのだと、ようやく織田は気が付いた。 ――つい人の世に夢を見て。 少年でいるときぐらい、夢を見てほしかった。そうして自分も、夢を見ていたかった。あんな寂しい言葉を、今の三好には、言ってもらいたくなかったのだ。 いつのまにか蝉の声はやんでいる。先ほどよりも、暑くなったのだ。カーテンを閉じる前に一瞬視線を巡らせると、向日葵の色が、よりいっそう鮮やかにうつった。おそらくこれから、夕立が降るだろう。
0 notes
Text
三好くんさんとおださく
三好くんが成長して青年になったらどんな感じかなというパラレル
事後表現
甘い匂いに意識を取られて浅い眠りから目を覚ました。むせかえるような、水分を含んだこの匂いを、自分は知っている。金木犀の花の匂い。好きな匂いだ。おそらく夜明けには遠いのか、部屋は暗かった。寝直そうかと布団を被り直そうとすると、隣で眠っていた男の姿がないことにようやく気づき、目をはっきりと開けて首だけ動かして部屋を見回した。意図せず心臓が跳ねたが、開かれた窓の辺りに見慣れた人影が動いて、不安はすぐさま安堵に変わった。金木犀の香りも、三好が窓を開けたからにちがいない。 同衾した相手が起きた時に側にいなかっただけで、こんな風に思うこともないだろうに、時おり本能は体を通して感情を訴えてくる。きっとそれは、作之助の持っている、根源的な孤独のようなものだった。単純に言ってしまえば行為に及んだ相手に対する恋しさだった。 窓の側にある外灯の人工的な白い光が部屋に差し込んで、側に立っている三好の姿をぼんやりと照らしている。いつのまに起きたのか、三好はしっかりシャツのボタンを上まで留めて、普段通りの折り目正しい服装をしていた。 相変わらず頭のてっぺんから足の爪先まで清潔そうな佇まいをしていて、つい先程までこの寝台で裸で絡みあっていたことがまるでなかったかのように思えてくる。それでも、皺ひとつない白いシャツの下には無数の情痕が隠れていることも、数年のうちに己よりも広くなってしまった背中に、幾度も爪が走ったみみず腫があることも、作之助は知っていた。数時間前に自分がつけたからだ。 光を透かして爪先を見ると、人差し指と中指に、ひっかいてしまった三好の皮膚が残っていた。平然と立っているように見えるが、おそらく三好の背中はそれなりにじくじくと痛んでいるはずだ。しかし作之助が血が滲むまで爪を立てようと、三好はそれに対する不満も文句も一度も洩らしたことはなかった。彼が作之助より小さなからだをしていた、数年前にも。そう考えるとそれなりに長い間三好とそういう関係を続けているのだなぁと不思議と感慨深くなり、作之助は手をひっこめて三好を見つめた。我ながら、よく続いているものである。 三好は外の様子を見ているようであったが、やがて手に持っていた箱に視線をうつして、煙草を一本取り出した。はじめてみる光景に目を丸くして、作之助は静かに上体を起こした。当初は作之助が部屋で煙草を吸うだけで眉根を寄せていたのに、さすがにもう諦めたのか、煙草程度で目くじらを立てるものではないと考えたのか、ここ最近は部屋に灰皿を用意してくれるようになった。現に出窓のところに、銀色のアルミの灰皿が鈍く光っている。それでも作之助が冗談半分で煙草を勧めてみても断ってばかりいたのに。一体どういう風のふきまわしだろう。 取り出した煙草を、三好の白い指先がくるくると回した。回しては止め、回しては止めを繰り返し、やがて以前窓際に作之助が置いていったマッチを擦って、煙草に火をつけた。部屋に漂う金木犀の香りに、紫煙の香りがすぐさま混ざり、気だるいひとつの香りに変わった。 薄い唇が、煙草をくわえた。ついさっき、この唇が全身を辿っていたことをいやがおうにも思いだした。灰を落とす白くて細長い指先は、作之助のからだを暴いたものだった。 三好は美しい手をしていた。なるほどこれが原稿用紙に端正な言葉を躍らせる抒情詩人の指先かと、そういう関係になる前の、まだ三好が少年であった時分から、作之助は感心していたものだった。 顔は子どものくせに手だけは男やな。まだ丸みの残った顔立ちを見ながら浮かんだ考えは、邪な気持ちが込もっていた。顔つきより大人びた指先は、���来どんな風に人を抱くのかと品のない想像をさせるには充分だった。結局その男の手は柔らかい女性ではなく作之助を抱き、作之助のからだは指先を見ただけで行為の快楽を思い出すようになってしまった。まあ顔の美形度こっちが上やしこれぐらいはな、と悔しまぐれに考える。自分ばかり見ているのは気にくわない。夢中になるより、夢中にしたかった。 「……それ、旨い?」 掠れた声をかけると、ちょうど三回目の煙を吐き出している最中だった三好は大げさにからだをびくつかせ、ぎょっとしたような顔でこちらを向いた。寝ているはずの相手がいきなり声をかけてきたのだから当然だろう。 「……起こしました?」 「いや、普通に目ぇさめただけやで、普通に。それよりどないしたん、三好クンが煙草吸うてんのはじめて見たわ」 「安吾がまた煙草置いていったんで。……前の自分は普通にすうてたんで、そういえばどんなもんやったかなって」 「ちゅうことはそれ安吾の?」 寝台から起き上がって、三好のそばに寄った。窓際に置かれた煙草の箱は、確かに安吾が愛飲している、作之助も見慣れたものだった。勝手に吸うてええの、と尋ねそうになったが、普段の三好と安吾の遠慮のない関係を思いだし聞くのも野暮かと考える。 「そうっすけど……あ、すいません」 こっそりしていたことを見られてばつが悪かったのか、三好は慌ててまだたいして吸っていない煙草を慌てて灰皿で揉み消そうとする。待って、と手首をつかんで煙草を取り上げた。 「もう吸わへんのやったらちょうだい」 目を丸くした三好に返答も聞かず、ひょいと作之助は吸いさしの煙草をくわえた。吸い口のところが、べたべた湿っている。吸い慣れていない証拠だった。煙草の味そのものは悪くなかったが、やはり自分のものには敵わない。それに安吾と同じ香りがするのは親友ながら遠慮しておきたい。 「三好クン、まだ上手いこと吸えてへんな」 「なんでわかるんすか?」 「ここ、湿っとる」 煙草を口から離して吸い口を指差した。三好はみるみるうちに居心地の悪そうな顔になり、作之助から視線を反らす。ふいに少年だった頃の三好の面影が重なった。己より肩幅が広くなっても、視線を下げずとも目が合うようになっても、こういったところはあまり変わらない。その表情に、ふいに悪戯心が湧いた。 「……まあ口吸うんやったら、濡れとる方がええけどなあ」 え、と声を聞いた瞬間に煙草を灰皿に押し付け、丸い後頭部を引き寄せた。かがまんでもこういうことができるようになったんはええこっちゃな。行動のわりに冷静な頭で考えながら、三好の唇を食んだ。三好の手に肩を掴まれる。久しぶりに戸惑いを見せるような仕草に気を良くして、わざと音を立てて唇に吸い付いた。角度を変えて繰り返しているうちに、三好の両腕が背中に回る。そのうちにお互いの舌が絡んだ。いつも清潔な味のする三好の舌は、今回ばかりは舌先が触れあった瞬間に苦みとぴりぴりした感覚が体を抜けていった。 オダサクさんの舌、不味いんすよ! 昔キスの後に息も絶え絶えの三好に顔を赤くして言われた言葉を、今になって思い出す。なるほど煙草を半分も吸っていない三好でこうならば、煙草を手放せない自分の舌は���当不味いに違いない。 考えを巡らせながら舌先で三好の咥内の弱いところを舐めた。するとお返しと言わんばかりに舌の付け根を擦られて、今度はこっちが背筋を震わせる羽目になる。目を閉じていると感覚が鋭敏になって、まだ行為が抜けきっていないからだに、ぞくぞくしたものが抜けていった。三好の舌、三好の唇、三好の指。触れているものすべてが気持ちよかった。濃くなる金木犀の香りに、三好のからだから立ち上る匂いが混ざって、思考を痺れさせる。金木犀、煙草、せっけんの混じった三好の匂い。好きなものばかりだった。 お互い呼吸が苦しくなってきて、名残惜しげに口を離した。変わりに腕の力が強くなって、思いきり抱きしめられる。肩で呼吸をしながら、三好の首筋に鼻先を埋めた。匂いをいっぱいに吸い込んで、くつくつ笑う。 「びっくりした?」 「……まあ、驚いたっす」 「そのわりには乗ってくるん早かったやん」 「そりゃあ、あんな風にされたら、なにもするなって方が無理な話やと思うんですけど……」 顔を離すと、三好の潤んだ瞳とかち合った。顔つきは精悍になっても、瞳は同じままだった。少年の眼差し。それといまだに丸っこい額に、自分の額をくっつけた。三好の指先が、今度は作之助の頬を滑る。 「……あんな、三好クン、煙草吸うんやったら次は別のにしてな」 「どうしてですか」 「だってこれ安吾の吸うとるやつやろ?……安吾とおんなじ舌の味かと思うと、なんかなぁ」 「……やめてくださいよ、そんなん想像すらしたくないっす」 「せやろな」 高笑いをしたあと、ふっと会話が途切れ、二人はもう一度、今度は軽い口づけをした。お互い濡れた瞳の奥に、期待が潜んでいることに気がついた。いつのまにか煙草の匂いはかききえて、部屋のなかいっぱいに金木犀の匂いが立ちこめる。 なあ、もう一回、せえへん?三好は頷きもしなければ、首を振りもしなかった。ただ、黙って窓とカーテンを、ことさら丁寧に閉めた。そこで作之助は三好が誘いに乗ったと知った。 たかだか歩いて数歩の寝台に、口づけをしながら移動して、もつれあうように倒れこんだ。自然に、三好が覆い被さってくる。 「部屋んなか、ええ匂いやなあ」 「オダサクさん、好きっすよね、金木犀」 「……ワシ言うたっけ?」 「直接聞いたわけやないっすけど、だってオダサクさん、毎年秋になったらよう金木犀見とるでしょう。普段は花より団子って言うとるくせに」 なんや知られとったんかい。会話を続けようとすると、三好がすっと視線を鋭くして、作之助の口元に手を添えた。そろそろ、黙っといてください。頷く前に口づけが下りてきて、それに応えるように首の後ろに腕を回した。 入り込んできた舌はやはり少し苦かったが、舌同士が戯れる心地よさに、すぐに気にならなくなった。お互いの体臭が、甘い匂いのなかに溶けた。
0 notes
Text
寝ているどちらかをもう片方が見守るみよおだ
リクエストより
三好の手にすっぽり収まるほどの、小さな白い紙の包みだった。補修室にいる織田に渡してくれないか、と司書から頼まれたものだ。助手の際司書からの頼みはほとんど二つ返事で受けてきた三好だったが、織田と名前を聞くなり顔をしかめてしまった。 「……なんで自分なんすか?」 すると司書はすこし困った表情を浮かべて、他の人からでは受け取らないから、と三好にはよくわからない理由を言った。 司書でも受け取らないならば、自分ならば余計に無駄なのではないか。そもそも、中身はなんなのか。いつも、どんなものに対しても、もらえるもんはもろとくわ、とけらけら笑っているはずの織田が、受け取らないもの。気になりはしたが、本来の律儀な性格が顔を出し、結局それ以上何も尋ねなかった。頷いて、司書室を出る。それを終えたら部屋に戻っていい、と司書は言った。まだ、昼間なのに。それに対しても、三好は何も聞かなかった。 三好が静かに補修室に入ると、部屋の窓が開いているのがわかった。強い風がカーテンを音を立てて激しく揺らし、桜の花びらを室内に送り込んでいる。ここまで音がしてるのに誰も窓を閉めていない。織田は寝ているのだろうと思った。補修を受けているのは、たしか織田一人のはずだ。 床に落ちた花びらをすくって、窓の外に戻し、しっかりと鍵をかけた。外は晴れていたが、窓を閉めるなり、風がガラスをかたかたと揺らした。嵐がくるのかもしれない。戻しきれなかった花びらが腕に纏わりついたが、それはつまみ上げてポケットに入れた。 「失礼するっす」 衝立の外から声をかけてみるが、何もかえってはこず、首を傾げながら三好は区切られた空間に身を入れた。影になっており、ベッドのある部分は薄暗かった。その薄暗いなかで、薄い毛布を適当にかけた織田が、上着も脱がずにこちらに顔を向けて眠っていた。 「……オダサクさん?」 控えめに声をかけてみるが、やはり何の反応もなく、織田はぴくりとも動かなかった。あまりにも、静かすぎる。 空いた手を咄嗟に織田の口元に持っていった。心臓に血が集まって、頭からさっと血の気が引いた。眠る友人を見守るのは、いつだって三好の立場だった。そうして彼らは、透明な笑顔を向けたあと、苦しみながら、諦めたような顔をしながら、そっと永遠に目を閉じてしまうのだった。何人も、何人も、何人も。何人の病床の間際に立ったのか、もう思い出せない。 指先に、織田のかすかな息がかかった。ちゃんと、呼吸をしている。安堵を感じた瞬間にはっとして、三好は勢いよく手を引っ込めた。何がおそろしいのか、自分でもわからなかった。何を安堵しているのかも、わからない。しかし何故かこの静かに眠っているだけのはずの織田に、三好の人生を通り抜けていった人たちの影を見たのは確かだった。 ただの勘違いか、直感か、それとも。いまだにばくばくと鳴っている心臓を押さえて、頭を振った。自分��心配性であるだけだと思いたかった。或いは急激に、記憶が蘇っただけだと、思いたかった。 起こすのは躊躇われて、三好はベッドサイドにつつみを置いて、枕元にある椅子に座った。視線を動かすと、織田の肩は呼吸でかすかに上下していた。伏せられた睫毛が、いやに長かった。 衣擦れの音にも気をつかって、肩先まで毛布を引き上げた。織田は、本当に、眠っているだけのようだった。ただし体力を使い果たして不本意に眠りに落とされているだけのようにも見えた。 すこし前、三好は織田とそろって侵食が耗弱一歩手前になり、不名誉ながら二人仲良くもなく補修室に送り込まれたことがあった。その時も織田は衝立越しのベッドで寝ている三好に対し、思わずいらっとさせられるほど声をかけてきたものだった。 三好クン、もう寝た?寝られへんのやったら添い寝したろか?なに、いらんの?やったらしりとりでもする? 馬鹿にしているのかと思ってすべて雑に断った。しかし今の織田の眠る姿を見ていると、あれは怪我のなかで空元気を通していただけだったのかもしれない。そういう友人を、三好は何人も見てきた。見ているだけだった。何を願おうと、彼らは三好に大丈夫だと告げたまま、永久に去ってしまう。 オダサクさん、なんなんですか。あなた、いったい、なんなんですか。あなたも、あの人たちみたいに、何かを、抱えているん���すか。だとしたら。だとしたら。 寝顔を見つめながら、三好は暗い考えを振り切ることが出来なかった。膝の上に拳を握りしめ、もう手を伸ばすこともできないまま、息を殺すようして織田を眺めていた。 ふと衝立の隙間から、何かがかすかな音を立てて入り込んだ。虫か、と思って立ち上がりそうになったが、目をこらしてみるとそれは一匹の小さなみつばちだった。さっき、窓が開いているうちに、入り込んだのかもしれない。 二人のいる空間をくるくる飛び回ったあと、やがてみつばちは寝台のそばにとまった。 潰してしまわないようにそっと手のひらで包んで、三好は衝立の外に、みつばちを放した。再び飛んだ時の羽のうなる音が、あまりにも小さく、三好の耳に響いた。まるで、ささやいているような。 みつばちの囁きを聞いても、織田は目を覚まさなかった。三好が座り直してどれくらいたっただろうか、次第に電気のつけない部屋は暗くなり、外からは雨が窓に打ち付ける音が聞こえている。春の嵐がやってきたのだった。 もう一度、織田の口元に手をやった。袖口から取りきれなかった桜の花びらがこぼれて、織田の呼吸が、かすかに、それを揺らした。あのみつばちは巣に帰れるだろうかと三好は思った。春の嵐に、道を迷うことのないように、桜が散っても、戻れるように、何故か、そう思った。 指先に、再び息がかかった。さっきよりも、温度が高く思えた。わけもなく、吐く息が震えた。
0 notes
Text
同居してる三織(※いかがわしい)
ボロアパートで作之助が金魚飼ってる話と繋がってます
ストーブがついていない部屋は、二人布団を並べて眠っていても寒々しかった。寝返りをうつと喉にむずむずとした感覚が沸き上がり、作之助はけほ、と空咳をもらした。慣れ親しんだ嫌な音ではなかったことに安堵したものの、視線の先の背中がもぞもぞと動いたのが見え、思わず動きを止めた。起こしてしまったかもしれない。 しばらく息を殺して、作之助は隣の布団で眠っている三好の様子を伺う。動いたのは作之助が咳をした直後だけのことで、彼はまたしずかになった。豆電球の明かりでもわかる、彼のしろいが健康的な首筋を、そっと見つめた。肩の辺りが、ゆっくりと上下している。 彼がちゃんと眠っているのか気にかかり、作之助は衣擦れの音にも神経を使って、布団から抜けでた。わずかばかり離れた隣の布団に近づいて、後ろから三好の口元の近くに手をやった。指先に、ほのかに暖かい寝息がかかった。我ながらこんなに縮こまらずともいいだろうに、と自嘲したが、前に同衾した際に作之助がごくごく軽い空咳を漏らしただけで、三好が飛び起きたことを思い出すと、そういうわけにもいかなかった。 三好とはそういう関係になってそれなりにたち、もう数えきれないほど同じ布団で眠ったが、彼がそれほど眠りが浅い体質であることに気がついたのは、同居するようになったつい最近であった。図書館にいたころは共に朝を迎えることが早々なかったし、お互いの部屋を行き来していたころは会う頻度の少なさも手伝って部屋にくるたびにそういうことをして疲労で眠っていたから、わからなかったのだった。三好も、そうしたことは作之助に一言も漏らさなかった。眠りたがらない作之助を諫めたり寝かしつけようとすることはしょっちゅうでも、自分の体質のことは言わなかった。あまり、知ろうともしていなかった。作之助自身、眠りたがらない己を三好に気づかれないようにする保身の方が中心だったからだった。同居をはじめたころはほぼ毎晩三好の布団に潜り込んで寝ていたが、彼の体質を知ってから、そういう行為目的以外では行かなくなってしまった。気遣いではなかった。起きている己を知られたくない、利己心からだった。それでも、何もせずともすぐそばに三好の体温がある感覚を時折どうしようもなく思い出されて、布団の中で身を縮こませるようにして、作之助は三好の寝姿をこっそり見ているのだった。きっと、共に住むことがなければ知ることもなかっただろう。知ってよかったのか、知らないほうがよかったのか。いまだに、答えはでない。 音も出さずに立ち上がり、忍び足で窓の方へ歩いた。風呂で暖まってすぐに寝床に入ったはずなのに、作之助のからだはもう冷えてしまっていた。つま先が畳に触れるだけで、ひんやりした感覚が突き抜けてくる。カーテンの隙間から、外をながめた。煌々と照らす街灯のまわりに、静かに白い塊がまとわりついて、風に流されて暗闇に消えていった。雪が降っているのだ。どうりで寒いはずだ。指先で隙間の窓ガラスに触れると、それだけで結露がつうっとガラスを伝って、窓枠の部分に落ちた。 部屋の隅に置かれたストーブも、音を立てると思えば点けられなかった。窓の側から振り返って、三好が寝ている様子を伺った。彼の眠りは静かだった。あとすこしすれば、彼はぐっ��り寝つけるかもしれない。そう思うともう布団に潜り込むことはおろか、寝顔を覗きこむこともできなくなった。眠りが浅いのが、自分であればよかったのに。そうすれば、二人同じ部屋にいて寂しさを感じることなどなかったはずだ。抜け出たあとが残る自分の布団を見ると、なんだかやけにこの部屋にいることが息苦しく感じ、作之助はそっと、襖を開けた。
同居する前に明け渡して貰った自分の部屋に行って本でも読むかと考えたが、気分が乗らなかった。先日部屋に五日間ばかり籠って、一作書き上げたばかりで、書きたいものも今は浮かばなかった。寒がりの癖に上着を持ってくるのを忘れたので、庭先に出て煙草も吸えない。寝間着の着物一枚では、この家のどこにいても寒かった。裸足の足をぺたぺたとつけて、電気もつけずに廊下をふらふらと歩いた。意味もなく、部屋の扉を開けたり閉めたりしてみたりしたが、入る気はしなかった。とかく、することがない。 廊下の角を曲がると、応接間に続く隅から、こぽこぽ、こぽこぽと音が聞こえた。暗い廊下に青白い光が浮かんでいる。水槽につけた照明が光っているのだ。そばによって、しゃがみこんだ。こじんまりしたこの家には不釣り合いなほど大きな水槽には、赤い金魚が一匹だけ住んでいる。作之助が狭い部屋にいる頃から飼っていた、尾ひれの長い、美しい金魚だった。祭りの金魚すくいの屋台で泳がされるには、すこし勿体ないほどの。作之助が目を止めて、三好が掬い上げた。そうして金魚は作之助が貰い受けて共に夏を過ごしたが、秋になって三好の家に作之助ともども引っ越してきた。三好は作之助を家に迎え入れるとともに、場違いなほど大きな水槽を金魚に与えた。彼の、喜びと歓迎の証だった。そうして冬になり、金魚はまだ作之助と三好とともに暮らしている。 水槽の中に金魚の尾ひれを探したが、すぐには見つからず、ガラスに額をこすりつけて作之助は目をこらした。すると水草に身を隠すような形で、金魚は底のあたりでじっとしていた。金魚が人間と同様に睡眠をとるのかは知らないが、休んでいるのだろうと思った。水流を受けて、尾ひれがかすかに動いていた。 作之助がガラスをつつくと、金魚はいつも水槽越しにそばにやってくる。前に三好が、ようなついとるんですね、と感心したように言った。餌くれるからやろ、と素っ気なく返したが、よってこられて悪い気はしなかった。真似をして三好がガラスをつついても金魚が無視して平然と泳ぐので、しゅんとした様子を見せるのも楽しかった。今は、作之助の気まぐれで起こすのも酷なように思えて、ガラスに預けた額も外してしまった。作之助が両手で抱えてやっと持ち上げられる大きさの水槽に、この金魚一匹は広すぎるように思えた。 今の生活は、それなりに楽しい。狸寝入りをして三好にたたき起こされるのも、執筆をしているとそっと部屋に暖かいコーヒーが差し入れられるのも、お互い信じられないとぼやきながら好みの違うカレーを食べるのも。すこし前に、やろうと思ったらすぐそばにやれる相手がおるんはええなと下品なことを言ったらまたそればっかりと苦虫を噛み潰したような顔をされたが、それ���また真実だった。喧嘩も小競り合いもそれなりにあるが、性格の違う人間がすんでいるのだから当然のことに思えた。 それでもたまに、小さな水槽と本棚と机を置けばいっぱいになってしまうような、前に住んでいた狭い部屋を思い出すことがある。気にせずに三好に手を伸ばすことができた、あの部屋を。ふと作之助の心にずけずけと訪れるだけだった三好は、いつのまにか隅っこに住み着いて、大きく育ってしまった。たまに会ってそういうことをして、それだけで充分であったはずなのに、共に住みはじめてしまった。どうなるだろう、と最近よく思う。まだ冬も越えていないのに、何故だか作之助の頭には、音もたてずにこの家を出ていく自分の姿がこびりついて離れなかった。 膝を抱えて、ぼうっと水槽を見ていた。いまだに夜は長く、水槽が空気を吐き出す音だけが聞こえている。夏には涼し気な半透明の赤い尾ひれも、雪の降る夜には寒々しかった。指先もつま先も、冷えきってかじかみ、息を吐き出すと家の中だというのにうっすらと白くなった。もうすこししたら部屋に帰ろう、もうすこししたらと思うのに、からだは動かなかった。おかげで、廊下から足音が聞こえてきても、作之助はなかなか気づかなかった。 曲がり角のほうからぺた、と裸足の音が聞こえて、心臓を掴まれた心地になって、ぎょっとして振り返った。青白い光に照らされて、三好が突っ立っていた。咄嗟に、何か言い訳でもするかのように声をかけた。 「ごめんな、起こした?」 三好が首を振る。 「いえ、起きたら見当たらんかったんで、便所にでも行ったんかなと思ったんすけどオダサクさんなかなか戻ってこなかったんで……。なに、しとるんすか」 「ちょっと、金魚見ててん」 「金魚?」 ぺたぺた三好が近づいてきて隣で水槽を覗き込んだ。 「……寝とるんすかね」 「たぶん」 しゃかんだ瞬間に、肩先が触れた。布団の中にいた三好の肩は、暖かい。しかし三好には作之助が冷たく感じたのか、さっとこちらを向いて、顔を覗き込んでくる。 「眠れないんすか」 「いや、ちょっと目が冴えただけやで」 寝られへんのは、あんたのほうやろ。その言葉は飲み込んだ。 「……やったら、もう寝ないっすか」 三好の手に手首を掴まれた。その温度の高さに、自分のからだが冷えきっていることに気がついた。知らぬ間に長いこと、ここにいたのかもしれない。視線を合わせてくる三好には、不安の色が見えた。作之助が空咳をして、飛び起きた時と、同じ顔をしていた。ああ、また、心配させてしまった。申し訳なさよりも気づかれてしまったことの恐ろしさが勝った。 「……三好クンの布団行っていい?」 「それで、オダ��クさんがちゃんと寝るんやったら、いいっすよ」 そうしてまた、結局は三好に甘えてしまう。家の中だと言うのに手を引かれて部屋に戻った。廊下を曲がる前に、一度だけ振り返った。大きすぎる水槽に、一匹だけの金魚。やはり、寂しすぎる気がした。
部屋に戻って、三好の布団に共に入ると、ふとした拍子でつまさき同士が触れあった。三好が複雑そうな顔を作って、作之助に問いかけてくる。 「オダサクさん、長いことあそこにおったんすか」 「なんで?」 「だって、冷たいっすよ、脚」 「……そないに長い時間ちゃうって」 「やったら余計に悪いっすよ」 「そうか?三好クンがあったかいからちゃうの」 「かもしれませんけど。……冷えんようにしてくださいよ。今年の風邪、咳が酷なるらしいんで」 三好が肩まで布団を引き上げてくる。布団の中にこもった匂いが柔らかく鼻���をくすぐった。体温で温められた、三好の肌の匂いだった。洗い立ての石鹸。取り替えたばかりのシーツ。薄荷味の歯みがき粉。三好の匂いは、そういったもので出来ている。けれども、清潔な香りのなかにひとさじ、別のものが混ざることがある。しわひとつない服を剥いで、白いシーツの上で絡み合った時しか、感じることができない。いろんなものをひっぺがした、三好そのもの。思い出すだけで、作之助の本能を燻らせる。 「……やったら、三好クンが暖めてくれたらええやん」 なあ。視線を合わせたまま、体を近づけた。つま先だけでなく脚を絡ませると、三好は冷たさか驚きで体をすくませた。 絡ませた三好の脚は暖かかった。なにもせずとも、このままこうしているだけで、作之助のからだもじわじわと温められて、ゆっくり睡魔が迎えに来てくれるに違いなかった。しかし今の作之助にはそれでは足りなかった。行為の時しか触れることのできない、三好の燃える肌が欲しかった。何も、考えられなくなりたい。抱き合って、あたたまって、お互いの心音を聞いて眠る以外のことを。 作之助が何を誘っているかは、さすがに三好も理解したらしい。目を見開いてはっとした表情を作ってから、視線がぐるぐると思案するようにさ迷った。 「……これからしたら、明日確実に寝坊っすよ」 「明日なんも予定ないやろ」 「そりゃあ、ないですけど」 「ええやん一日くらい。……なあ、ワシ、寒いねん。このままやと、どうせあんまり寝られへんし。な、三好クン、おねがい」 首を傾げて甘えるようにねだると、三好が断れなくなるのはもう覚えてしまった。元来の世話焼きの性質がそうさせてしまうのだろう。どれだけ自堕落な相手でも、頼られると三好は突き放すことができないのだ。そのぶん、三好は甘え下手な少年だった。そこがまた、作之助にはかわいく見えた。自分くらいは甘やかしてやりたいと、いつだって思っている。しかし、こうしていると、甘えているのは自分ばかりな気がした。まったく頼りにならないお兄さんとやらもいたものである。眠りの浅い彼を、安らかに寝かしつけてやることもできないし、それどころか眠りを引き延ばそうとしている、ひどい年上だ。 指先を三好に伸ばした。柔らかさを失ないつつある、それでもいまだ丸みのある頬を、指先で軽くひっかいた。三好の喉元が大きく動いた。唾を飲み込んだのだ。清潔さの奥にある動物的な本能を垣間見た気になって、作之助の背筋に期待に似たなにかが走った。 「……一回だけっすよ」 「うん」 「これ、終わったら、ちゃんと寝ますからね。その、前みたいに、朝までとかは、しないっすよ」 言いながら以前のことを思い出してしまったのか、三好は決まりが悪そうに視線を下げてしまった。性的なこととなるとすぐに顔を赤くして、いつまでたっても慣れない。そこが、とても好きだった。自分が少年の頃に捨て置いた部分を、彼は大切に持っている。この含羞もいずれ成長のうちに喪われるのだとしたら、自分が全部さらってしまいたかった。ずっと、このままでおって。ずっと、ワシのこと好きでおって。きっとこれからも言えない言葉を心の中で呟く。代わりに、唇だけでかすかに笑ってみせた。 「わかっとるって。三好クンの好きにして、ええから」 せやから、あったかくして。囁��ように言うと、三好が再び唾を飲み込んだ。咽下する音が聞こえたかと思うと、恥じらうような顔つきが真剣な目付きを帯びた。冷えた頬に、三好の手が添えられる。視線が、作之助の唇に動いた。あ、キスされるな。そう感じた瞬間には唇が重なって、三好のまつ毛が震えているのが視界に入り、作之助も目を閉じた。石鹸が香るうなじを引き寄せ、自分から唇に吸い付いた。三好も吸い返してきた。角度を変えて吸いあっているうちに、自然と三好が上になった。濡れた音と、荒くなった吐息が耳に響いて、作之助の思考を次第にしびれさせる。 「ん、んっ」 咥内に、三好の舌が入り込んでくる。歯みがき粉の気配のする、清潔な舌が、作之助の歯をそろりと舐めた。自分から、誘い出して煙草で苦くなった舌を絡めた。ちゅうと吸い上げてやったら三好の背中が魚のように跳ねた。舌先が、どんどんと熱を持って作之助にも移るようであった。絡まりをほどいたかと思うと、上顎のざらついたところをくすぐられた。咥内で、弱いところだ。背筋を震わせくぐもった声を漏らして、どちらとも知れない唾液を飲み込んだ。情けない。気持ちいい。苦しい。止めてほしくない。矛盾した感情がぐるぐると胸のうちを駆け巡った。快感が下に降りていって、腰のあたりにたまっていく。快楽の神経を剥き出しにされて、遠慮なく触れられているような心地だった。作之助にされるがままだった三好は、すっかりやり方を覚えてしまったのだった。それも作之助が教えこんだ、一番気持ちがいい作法を。いまの三好のからだは、作之助しか、覚えていない。彼の行為はすべて、作之助と自分の快楽のためのものだった。 ずっとこうしていたいような気もしたが、やがて酸素が足りなくなった。ひときわ卑猥な濡れた音が立って、舌が離れた。お互いの荒い呼吸が、静かな部屋に響いた。ゆっくり目を明けると視界がぼやけ、作之助は自身の目が潤んでいたことを知った。豆電球のあかりのした、同じく潤んだ三好の瞳がこぼれんばかりに光った。快感への本能と、作之助への気遣いがない交ぜになった表情をしている。真っ直ぐで、ひたむきで、熱っぽい視線。それがたまらなく作之助の胸を締め付けるのだった。作之助の濡れた口許を拭った手が、布団の中に伸びて、作之助の着物の帯に添えられる。 「脱がしても、いいっすか」 無言で頷いて、腰を浮かせた。丁寧な手つきで、三好は着物を剥いだ。帯も着物も軽く畳んで、脱がせた下着は恥じらうように俯いて、布団の脇に置いた。三好の作法はほとんど作之助に基づくものだが、これは三好自身が勝手に覚えたものである。相手の服を脱がせても、わざわざ畳むことなど作之助には思い付かない。余裕ないくせに、優しいよな、こういうとこ。羞恥など本能に任せて吹っ飛ばしてしまえばいいのに、三好は行為の中でも妙な律儀さとともにそれを忘れなかった。 剥き出しになってしまった腕を、からだを起こした三好の襟元に伸ばした。へらりと笑ってみせる。三好クンも脱いで。言葉にせずに視線で訴えたら、三好ははっとした表情になって、慌てた調子で自らの着物の帯に手をかけた。ほどく様をじっと見ていると、視線に気づいた三好が困ったように眉を下げた。 「あの、あんまり、見んとってください」 「なんであかんの?」 「……恥ずかしいんで」 「なんでやねん。着替えてる時とか別に普通にしてるやんか。それにこれからもっとやらしいことすんのに」 「それとこれとは��が別……ああもうほんまに!」 からかいつつもじいっと見てやると、三好がやけくそになったのかぱっと帯を外して一気に着物を脱いだ。白い肌が上気して、ほんのり赤かった。着物は畳まれた作之助の着物の隣に、下着ごと雑に放り投げられた。顔の横に手をつかれる。眉を寄せた険しい表情が妙におかしくて、失礼ながら笑ってしまった。 「三好クンが恥ずかしがるとこ、ワシいまだにようわからんわぁ」 「わからんでいいっす。オダサクさんがあっけらかんとしすぎなんちゃうんですか」 「そうかなぁ。ま、ええやん。……なあ、もっとこっち来て」 「でも、重いっすよ」 「ええの。それより、こっちおいで」 うすい胸の上に、三好がもたれかかった。痩せぎすの作之助とは違い、三好のからだにはきれいに筋肉がついている。だから体を預けられると、それなりに重かった。しかしそれが命の重さのように思えて、作之助は嫌いではなかった。欲しかった、三好の肌とようやく直接触れあう。湿り気を帯びて熱い肌にあたるだけで、からだ全体に軽く電流が走った。背中に腕を回して抱き締めた。大きな湯たんぽでも抱えているような、そんな温かさだった。首元に顔を埋めた三好が、息を吐いた。 「なんか自分、ずっとオダサクさんに丸め込まれとるような気がしてきたっす……」 「まあ気にせんとき」 「そういうわけにもいかないっす」 「まあまあ。続きは? せんの?」 「……こういうところなんすよね」 なにが、と問いかけた言葉は三好が口づけてきたので声に出なかった。顔をがっちり固定されて、主導権を握られてしまった。咄嗟に舌を奥に引っ込めたが、追うように侵入してきた三好の舌が絡めとった。先程よりも、熱が高いように思えた。脳裏に、金魚の赤い尾ひれがちらついた。三好の舌の味は、不思議と作之助を清潔な水槽にいるような心地にさせる。こすりあって、からめて、すいついて。まるでふたりして金魚になって、尾ひれで戯れているような。お互いの手で、耳を塞いだ。鼓動と、粘膜が擦れる音しか聞こえない。 二人きりで、水槽の中で泳いでいる。けれどもずっと同じままでいるわけにもいかないことも、作之助にはわかっていた。三好は成長している。いまだに初心で、潔癖で、率直すぎるが、きっと今の彼は、どこに出しても恥ずかしくない。素直さゆえに生きづらい思いもすることもあるだろう。万人に愛されるような男ではないからだ。しかし、どこにいっても三好の美点を愛するものが現れるに違いない。恐らく、ねじくれた自分より、三好が望むような真っ直ぐさを持って、彼を愛する人が。その時が来る前に、手放してやらなければならない。けれども自ら去ってしまうには、三好のからだは暖かすぎる。 忘れてほしい。忘れないでほしい。嫌ってほしい。好きでいてほしい。離れてほしい。そばにいてほしい。三好への感情は、いつも両極端な気持ちが作之助の中で振り子のように揺れている。 全身がじわじわと汗ばんだ。かさついた作之助の肌も湿り気を帯び、前髪が額に張り付いた。肌を触れあわせているとまるで全身が粘膜になってしまったかのようで、お互いのからだが軽く動くだけで腰が浮いた。 舌の付け根が痛くなるほど吸いあって、やっと顔を離した。酸欠でぼんやりした頭で、口から透明の糸が引いて、切れるのを見た。三好の手が、耳から離れた。荒い呼吸を整えるように、再び三好が作之助の首筋に顔を埋める。三好の頭を抱えて、作之助も呼吸を整えながら、天井を見上げていた。彼の首の後ろから、石鹸とは違う匂いが漂ってくる。清潔さの奥に潜んだ男の匂いだ。 呼吸を落ち着かせた三好が、作之助の顔の横に手をついて、からだを起こした。手が、そっと肩先から肌を滑る。 「寒いっすか」 「ん。だいぶましなった」 「布団、被っときますか」 「どっちでもええよ……なあ、痕つけて」 ちょうど三好の指先が鎖骨に触れたときだった。そこには、先日三好がつけた情痕が、いまだにうっすらと痣となって残っていた。血の巡りのせいか、はたまた肉付きのせいなのか、作之助の肌からなかなか痕は消えなかった。図書館にいたころは補修を受けるとそうしたものは綺麗さっぱり無くなっていたものだから、あまり気にもとめていなかったし、三好と住むは会う頻度もあって、そういうことをする時には前の痕が消えているのが常だった。しかし、共に住むとなってそういうことがあまり日をおかず繰り返されるようになると、三好はあまり痕を残さなくなっていった。理由はすぐにわかった。興奮に任せた独占欲の発露より、痕を見て事の後に想起される気恥ずかしさより、作之助の貧相なからだに痣をつけた罪悪感の方が勝るのだ。 言葉にぴくりと手をとめて、三好が困ったような表情を浮かべた。 「でも、この前つけた痕、まだ消えてないっすよ」 先日作之助が三好につけたはずの情痕は、今はすっかり透き通ってしまっている。 「ええから」 「オダサクさん、最近銭湯行けとらんでしょ。いまつけたら、またしばらく行けんなりますよ」 「そんなんええって」 「でも」 「銭湯は、もうちょっとぬくなってからでええから。……なあ」 また、ねだるような視線を向けた。彼が拒否しないことを、知っていながら。いつだって、求めてばかりだ。三好がひたすら与えてくる思いに溺れて、何も返せてはいなかった。彼が望む愛しかたを、決してできはしないのに、そのくせ三好のものはなんでも欲しかった。恋心も、欲望も、嫉妬も、優しさも、全部自分に向けられなければ嫌だった。彼の激しい感情を詩作に向ける情熱以外は、自分のものにしておきたかった。いつか、手放さなければならないとするなら、これぐらいの独占欲は許して欲しかった。二人が水槽に、いるあいだぐらいは。 「後で後悔、せんとってくださいよ」 「するわけないやろ、……ん」 ぴりっとした感覚が肌に走った。三好が肌に吸い付いたせいだ。待ち望んでいた感覚に額がのけぞった。思わず三好の短い髪に指を差し入れる。じんわり汗をかいて、頭皮が湿っていた。からだ全体から、三好の香りが立ち上ってくる。匂いで興奮しているうえに肌を唇で触れられて、痕を残されて、たまらなかった。同時に、三好の硬くなった指先が胸の尖端に触れて、作之助は体をすくませた。 「んっ、三好クン、ちょっと、そこは、ええから……あっ」 拒否にも関わらず、唇で尖端を挟まれ、女のような声を漏らした。からかい半分で、男も胸に触れられると感じるのだと三好に教えたのは作之助だった。しかし気付けば布越しに胸が擦れただけでも身をよじらせるからだになってしまった。元からそういった資質があったのか、それとも三好との行為でこうなってしまったのか、もう判断がつかない。 「ん、まって、っ……!」 今だってそうだ。舌で転がされて、軽く吸われただけでからだをくねらせて、腰が浮いてしまう。こうしているうち反応��きった性器を三好のからだに無意識におしあててしまう。ばさばさ首を振ったところで快感は逃げていかなかった。からだの輪郭がふやけて、どろどろに溶けてしまう。 「あ、あっ、あ、いや、まって」 まって、まって、と続けると手と口は胸から離れたが、触れられるのはとまらなかった。作之助の手も、結局は三好を止めなかった。 上半身の、あらゆるところに痕を残された。二の腕のところ、肋骨のところ、わき腹の、皮膚がうすいところ、薄っぺらい骨ばった腰。三好は丁寧だった。羞恥を奥底に残しつつも、真剣な目付きで、作之助のからだを開かせた。まってと願ったわりに、作之助のからだは三好に悦んだ。気遣いと、独占欲の間に揺れている、この視線が欲しかったのだ。言葉だけの制止にも疲れて、本能が求めるままに三好にねだった。 「脚んとこにも、つけて」 上半身を起こした三好の手をとって、内腿に滑らせる。それだけで、膝が軽くわなないた。肌の中でも、格別に弱いところ。作之助が立てた膝を誘うように開くと、息を飲んだ三好がかあっと顔を赤くした。ものの数十秒前まで、からだじゅうに痕を残していたはずなのに、まるでこれがはじめての行為であるかのような表情だった。そこがいい。そこが好きなのだ。いつまでも、まっさらな気持ちで、好きでいて欲しかった。三好は願いを聞き入れた。震える吐息がかかったかと思えば、三好の短い髪があたる感覚がして、腿で頭を挟んでしまいそうになる。右に、左に。少しづつ、痕をつけられた。当初三好が被っていたはずの掛け布団は、いつのまにか隅にはねのけられてしまっている。もう寒さなど感じようがなかった。三好の熱が伝わって、作之助のからだも内から火がついてしまったように、熱くなった。それでも、まだ足りない。息を整える間もなく性器に触れられた。散々反応しきって、直接触れられてもいなかったのに、既に先走りがだらだら先端から溢れていた。 「あ!あっ、んっ、なにすんね、うあ」 軽くしごかれるだけでぐちゅぐちゅ音がなる。キスとはまた違う、直接的すぎる快感に思考がついていかない。三好の手首をつかんで止めようとするが、結局手を添えただけになった。 「んっ、三好クン、ええから、前は、もう、ええから……あ、あっ」 「いっぺん出しとかんと、辛いんちゃうんですか。こんな状態やったら」 痴態を揶揄するつもりはなかったのだろうが、思わずかっとなった。今さらそんな心配してどないすんねんあほんだら。罵倒が口をついて出そうになったがさすがにただの八つ当たりだったのでやめた。自分はこんなに振り回されているのに、三好にまだ作之助を気遣う余裕があるのが気に障る。いつも自分は三好を振り回して泣いたとて止めてやらないくせに、されるがままは気にくわない。矛盾していることはわかっている。沸き上がってくる射精感を必死にこらえて間隔の短い呼吸を繰り返し、流れた汗を落とすように首を振った。 「もう、ほんまに、あっ、前はええから、うしろ……」 膝頭で三好の脚のあいだを探った。作之助のものと同じぐらい張りつめた熱量があたる感覚がすると、三好はうわ、と声をあげて逃げるように思いきり腰を引いた。 「ちょっと、いきなりもう、なんなんすか!」 「はは。三好クンかて、しんどそうやん、ここ」 慌てる三好の様子に少しだけ余裕が戻って、今度はつま先で触れた。ぱっと手で勢いよく払われ��しまったがそれはそれで別にいい。どうせからかいたかっただけだ。にやにや笑いを浮かべると三好は思いきり顔をしかめて唇をとがらせる。 「オダサクさん、あんたほんまに……」 「なんや」 「いえ、もう、いいっす。……あの、慣らすの、とってきますんで」 「うん」 はあ、とため息をついて三好がそそくさと布団の側にある箪笥の前に移動して、一番下にある引き出しを探り始めた。一応最後まできちんとやるつもりなのがなんだかおかしい。ボトルを手にして赤い顔をした三好を、からかうのはやめておいた。お互いもう限界なのだ。 次があればうんと甘やかしてやろうと決めて、濡らした三好の指が潜り込んでくるのを耐えた。さすがにこればかりは、先の快楽を知っていたとしても、いつまでも慣れない。 三好の指先が、ゆっくりなかを慣らした。探るように確かめるように動いたあとで、作之助のいい場所をかすめた。はっと息を詰まらせたのが合図になって、いつの間にか増えていた指先が、なかのしこりを柔らかく押した。目を閉じるとまぶたの裏にぱっと光彩が散った。赤い尾ひれをくすぐる、三好の白い、健康的な指。見たこともない光景が頭に浮かぶ。押されて慣らされるたびに自然に腰が揺れて、いいところを三好の指に押し付けてしまう。冷たかった潤滑剤は気づいたら熱をはらんでどろどろになり、本来使わない場所を受け入れるためのものに変えてしまった。 「あ、あ、みよしくん、ゆび」 「大丈夫っすか」 「んっ、んっ。大丈夫やから。せやから、はよ、来て」 「……ちょっと、待っとってください」 指を引き抜いた三好の手首を今度こそしっかり掴んだ。なんで、という顔が隠せない三好の腰に、脚を絡ませる。 「……つけんでええ」 直の熱がほしい。たとえ薄かろうと、隔てるものはもどかしい。三好が赤い顔のままぶんぶん首を振る。 「だめっす、さすがに、それは」 「なんで」 「だって、後から大変なん、オダサクさんでしょう。こんなんでからだ、壊したりしたらだめっすよ」 「いやや、今日ぐらい、三好クンの熱、ワシにちょうだい」 三好クンがええの、三好クンやないと駄目なん、三好クンがええの。これはある意味本音で、嘘だった。きっと離れても、水槽から出ていっても二人は生きていける。依存したふりをして、三好に少しずつ思考を埋め込んだ。愛しくなりすぎると、失った時に辛くなる。わかっている、わかっているのに、心は三好に作之助を忘れないよう呪いをかける。好きだと、言ったこともないのを盾にして。 そうして、今回なんどめなのか、三好にねだった。みよしくん、おねがい。見下ろしてくる三好のこめかみから、汗がぼたぼたと落ちてくる。石けんの匂いが奥に引っ込んで、少年の気配が消えつつある、男の匂い。額に、汗で湿った短い前髪がぺたりと貼りついていた。白い指が、腰を掴んだ。 「辛かったら、言うてください」 頷くより先に、なかに熱いものが入り込んだ。指とは、比べ物にならない質量だった。慣らされたとは言え、さすがに圧迫感がきつい。深く呼吸して、三好の顔を見上げた。きゅっと唇を噛んで、腰を進めながら、快感に耐えているようだった。なか、あつい、と独り言のようにつぶやかれた言葉に何故か心臓が鳴り、背中にすがりついた。繋がりが深くなり、いきなりなかが善いところにぶつかった。前のめりになった三好の腹に、立ちあがった性器が擦れた。快楽が���すぎて体がついていかない。 「……んっ、んっ」 「……つらいっすか?」 唇を噛んで荒い呼吸をこぼしたら、見下ろす視線としっかりかち合った。濡れた瞳で、作之助を覗き込んでくる。そんな不安そうな顔せんでええのに。気遣うように肩先を撫でてくるのが妙にいじらしい。吐息で笑って頭を引き寄せた。片手で前髪を払い、生え際のあたりに口をつけた。ほのかに塩からい。三好がはっとして、空いた手で額を抑える。 「あ……」 「……大丈夫やで、ちゃんと、気持ちええから」 頬が柔らかさを失いつつあっても、額だけはまだ少年の丸みが残っている。ここだけは、変わらんな。変わらんといてほしいけど、どうなるやろ。 動いて、とまたねだった。何も言わずに、胸をぴたりとくっつけたまま三好が作之助のからだの上を動き出した。互いの心臓が、ばくばくとうちつけている。作之助の性器からはだらだらと先走りが流れ、汗をかいた三好の腹をぬるぬる滑った。性急ではなかったが、三好は焦らすこともあまりしなかった。作之助が感じ入るところを見つけると、的確に、そこを突いた。三好は熱に浮かされた目で作之助の名前を何度か呼び、作之助も三好の名前を呼んだ。思ったよりも、か細い声になった。 三好クン、気持ちいい。みよしくん、きもちいい。みよしくん、みよしくん、みよしくん。徐々に白んできた頭で名前を呼ぶと、俺も、と小さく声が返ってきた。オダサクさん、きもちいい。耳元で囁くように言われるとそれだけで達しそうになって、思いきりシーツをつま先で踏みしめて耐えた。いつもより、少し低くなった、それでも楚々とした声が、快楽で掠れている。動きが次第に早くなると、それに合わせて性器も擦れた。三好の汗が、いっそうからだに落ちかかる。 キスをねだるのも忘れて、ひっきりなしに喘いだ。達する瞬間に声を上げるのが嫌で、そばに見えた、三好の鎖骨を噛んだ。快楽が波のように襲ってきて、からだが魚のように跳ねた。オダサクさん、オダサクさん。突いてくる三好の声が、遠くで聞こえた。まって、置いていかんとって、気持ちよくなるなら、一緒がいい。腕も脚も使って三好に抱きついた。うあ、と情けない声を出し、三好も達した。なかに生暖かい感触がひろがった。そんなこと気にもとめず、二人で波に攫われぬように、しばらく抱き合っていた。外の風が、強くなった。これから、吹雪くのかもしれない。
行為後に急激に襲ってきた倦怠感で重たいからだを引きずるようにして、あまり話さずに後処理をした。一度だけ、三好は中に出してしまったことを、作之助は、鎖骨を噛んでしまったことを謝罪した。お互い相手のしたことは、気にもしなかった。三好の鎖骨から血は出なかったものの、それでも赤い歯形がくっきり残った。情痕より、質が悪かった。作之助が謝った時、三好は首を振り、自分もしばらく銭湯行けないっすね、と言った。 着物を着せようとしてくる、三好の手は柔らかく制した。 「風邪引きますよ」 「くっついとったら大丈夫やろ」 三好は何も言わなかった。二人とも下着姿で、隣の作之助の布団に入った。三好の布団は、汗やら体液にまみれすぎて寝られたものではなかったからだ。最後の几帳面さで三好がシーツだけは外したが、明日にするといって畳んだだけで部屋のすみに置いてしまった。 火照ったからだに清潔なシーツは心地よかった。けれどもまだ離れるのは名残惜しく、作之助は三好に抱きついた。行為中に感じた男の匂いは落ち着きつつあり、また清潔な、少年らしい三好の匂いがする。三好は黙ったまま、作之助の肩口に額を擦り寄せてきた。甘えるような態度がかわいく思えて背中をとんとんと叩いたら、やめてくださいと言われてしまった。 「もう、寒くないんすか」 「うん、なんか、これでやっと寝れそうな気ぃする」 「なら、よかったっす。自分も、もう眠いっす」 「三好クン」 「なんすか」 「付き合ってくれておおきに」 「……こんなん、感謝されるようなことじゃないっす。あの」 「どないしたん?」 「寒いんやったら、いつでも入ってきたらいいじゃないすか。最初は、そうしとったでしょう。別に急に入ってこられても、もう気にしないっす」 一言、眠りが浅い三好が心配だからと、何故言えないのだろう。それも真実の一面であるはずなのに。最終的にはいつだって利己心から動いているからだ。寝ない自分を見られたくない。心配されたくない。弱い自分を、見せたくない。 「……ほな、また、寒いと思ったら三好クンのとこいっていい?」 「はい。……夜中にひとりで、あんなとこにじっとおらんとってください」 「うん。わかった」 それでも、三好の気遣いに、ほだされてしまうことがある。弱いところを全部見せてしまって、甘えたり甘えられたりして、戯れあいながら、ずっとこの水槽の中を泳ぐ。そんな夢をふっと描いてしまう。人の心は、厄介だと当たり前のことを当たり前に思った。 三好のまぶたがとろんとしはじめて、作之助の背中に腕が回った。作之助にも二人目の睡魔がやって来たが、最後にこれだけはと口を開いた。 「な���三好クン、金魚のことなんやけどな」 「どうかしたんすか?」 「ううん。いや、三好クンが買うてくれた水槽な、大きいやろ。あいつ一匹じゃちょっと広すぎなんちゃうかって。せやから、もう一匹、飼うのはどやろ」 「……でも、二匹になったら大丈夫なんすかね?喧嘩とか」 「そうやなぁ。……せやけど、一人より二人の方が、いいと思わへん?寂しいより、喧嘩しとるほうが、ワシはええと思うで」 「そうっすね。あの、オダサクさん」 「ん?」 「ここ、確かに元は自分の部屋っすけど、もうオダサクさんの部屋でもあるんで。だから、オダサクさんも、好きに生活してください。あっ、安吾みたいな、部屋が汚いんは勘弁してほしいですけど」 「ちょっと、相談してみたかっただけや。金魚、一緒に見に行ってくれる?」 「わかりました。……詳しいことは、また、あした……」 三好の声が蚊のなくような調子になった。これ以上、会話を続けるのは酷だ。それに自分も、もうまぶたが睡魔に負けそうだった。また明日。二人で寝坊して、寒い部屋のなか縮こまるように着替えをして、とっくに日が高くなった時間に、朝食を食べるのだ。三好は染みのついたシーツを必死に洗い、作之助は金魚に餌をやる。雪が積もっていたなら、散歩に行くのもいいかもしれない。すべては、明日になってから、考えるとしよう。 腕の中で寝息をたて始めた三好のまぶたにそっと口をつけた。起きる気配はなかった。よう、おやすみ。そうして、作之助の意識も穏やかに眠りに引き込まれていった。
眠りに落ちてすぐ、作之助は夢を見た。水槽ではなく、どこともしれない暖かい海を金魚になって泳いでいた。金魚は海では生きられないはずなのに変な夢もみたものである。さらに奇妙なことに、夢の中で作之助はこれが夢だと気づいていた。そうして、何故か三好も同じ夢を見ていればいいと思った。起きた時には、もう忘れてしまったが。
0 notes
Text
キスにはまるみよおだ
リクエストボックスより
まんまの話(たぶん)
寝台に二人して腰かけて額を引き寄せただけで、三好はぴくりと肩を震わせてぎゅうっと目を閉じてしまった。いかにも賢げな、すっきりした眉間に思い切り皴がよっている。いつも通りと言えばいつも通りで、もう両手両足の指の数以上にそういうことはしているくせにちっとも慣れずまどろっこしいと言えばまどろっこしい。前世の自分が三好ぐらいの少年であった頃ですら、ここまで初心な反応はしなかった、と思う。とは言え自分はねじくれた自尊心のせいで妙にませた、かわいげの足りない不良少年であったから、案外三好ぐらいの反応が年相応なのかもしれない。 どっちやろな。あえて音を立てて丸いつるんとした額に口づけてやったら、三好は音に反応したのか再び体を硬くした。前髪の生え際のあたりから、石けんの香りがした。たかが額に唇を寄せただけなのに、やたらと悪いことを教えている気分になるのは、おそらくこれがあまりにも清潔すぎるからだ、と織田は思った。 「三好クン」 このまま唇を奪ってやってもよかったのに、急にちゃんと表情が見たくなった。顔を離して、引き寄せた手で熱がこもった頬を撫でると、三好がおずおずと目を開けた。いまだに眉間に皴を寄せたまま。 「なに、まだ恥ずかしいん?」 「……だって」 からかいを含んだ声で尋ねると三好は見る見るうちに決まりの悪い顔になって、唇をとがらせてもごもごさせながら視線をさまよわせ、やがて小さく言った。 「いや、頭では、わかっとるはずなんすけど。いいかげん慣れるべきだとか、どうすればええんかとか。でも、実際、こうなると、どうにも……」 「恥ずかしい?」 「……はあ、まあ」 小さかった声が語尾に従ってさらに小さくなって、三好が俯いた。耳の端すらうっすら赤かった。なるほど当たり前のことながら三好も男なわけであるから、こういつまでも慣れない自分に焦りや情けなさを感じているのだろう。しかし一応織田がほぼ無理やりというか強引というか主導権を握ったというかで一応はキス以上のことも一通り済ました関係なのに、ここまでなのはある意味貴重なのかもしれなかった。織田の知る限り、大抵の人間は一度経験してしまえばなんだこんなものかと言った調子にすぐこういった行為には慣れてしまうものだ。そうでもなければ人間ここまで数は増えないはずである。まあそこがかわいいと言えばかわいいし、事に慣れきった三好なぞ織田にとっては何のおもしろみもない。だからこれはこれで悪くはないのだ。皴が寄ったままの三好の眉間を親指でぐりぐり押した。 「うん、まあそれはええんやけどな。でもこんな眉間に皴寄せとったらいずれ皴とれんようなんで」 「すいません」 「別に謝ることとちゃうて。……で、どうする? 今日はもうやめとくか?」 「あの、それなんすけど」 「ん?」 意外にも強い力で三好の手が織田の肩を掴んだ。恥ずかしさで彷徨っていたはずの視線がいつのまにかこちらを射抜いている。頬は変わらず赤いままだったが、眼差しは強かった。 「あの、今日は、自分が、その、頑張りますんで」 もう言葉にするのも恥ずかしくて仕方ない風で、もともと赤かった頬がさらに赤みを増した。いったい彼の頬はどこまで赤くなれるのだろうと、ついこの前寝台の上でひんむいてやった時の肌をぼんやりと思い出した。血の巡りの悪い織田とは違って、燃えるような色をしていた。触ると火傷しそうに思えるぐらいの、その熱さが織田は好きだった。 「ほな今日は三好くんからしてくれんの?」 三好は頷いた。今度は視線をそらさなかった。ええよ、と織田が笑って言い終わるより先に、三好がずいと顔を近づけてきて、鼻先が触れあった。三好のまつ毛がかすかに震えていることに気づいた瞬間に、唇が重なった。すこしかさついていて、あの時の肌と同じように、燃えているかのようだった。 目を閉じるのも忘れて、織田は声を出さずにふっと笑った。目を開けているのがバレると、三好が怒るからだ。技巧もなにもない、ただ唇同士をくっつけているだけのことにどうして相手に対する慈しみのようなものが湧いてくるのかわからなかった。しかし、どうにも、瞼を閉じて必死な様子を見ているとかわいくてならない。 薄目に表情を見ながら、織田は三好のしたいようにさせた。次第に三好の鼻息が荒くなってきて、ゆっくり唇が離れた。 ぷは、と息を吐き出す音がして織田が三好をしっかり見ると、顔はゆでダコより赤くなって、酸欠のせいか瞳が潤んでいた。舌を絡めていたわけでもないのに、肩で息をしている。ちょっとだけ男の本能としていじめてやりたい気持ちが疼いたが、今日はやめておいてやろうか。親指で口元をぬぐってやった。 「あのな、キスの時は、鼻から息するんやで」 「すいません、頭では、わかっとるんすけど……」 「せやな。まあこういうんは実践あるのみやし。……なあ三好クン、ワシが三好クンにしとるみたいに、今度は三好クンがワシにしてみて」 「オダサクさん、みたいにって」 「だってワシうまいやろ。三好クンすぐふにゃんふにゃんなっとるやん」 「ふ、ふにゃんふにゃんて。いや、まあ、それは、その」 「あかんの?」 額をくっつけて問いかけた。また近くなった視線に三好がぐっと息を詰まらせたかと思うと、やがて覚悟を決めたように、織田の頬を両手で挟んだ。 目ぇ、つぶっといてください。 声に照れや羞恥が薄まっていることに気がついて、織田が目をぱちりとしたのもつかの間、再び燃えるような熱さと、先ほどは感じなかった痺れるような感触が唇に伝わった。慌てて、目を閉じてしまった。いま織田にあるのは、三好の固くなった指先と、かさついた唇と、彼のからだから立ち上ってくる、石けんの清潔な匂いだけだった。 きっといつもなら、重なっただけの状態がもどかしくて、織田から何か仕掛けてやったに違いなかった。しかし、今は自分から誘った立場だ。首の後ろを引き寄せるのも、唇を食んでやるのも憚られて、そっと三好の肩に手を置くだけにして、口付けを受けた。頬に添えられていた三好の指先が、震えて顎先を滑った。 離れたかと思いきや、角度を変えて、何度も繰り返された。その度にちょっと間抜けな鼻息が聞こえる。 まあ、覚えたてやもんな。唇から肌が緩やかにしびれていく感覚を味わいながら、心の中でちょっと笑った。 しかし余裕があったのはそれから数回軽い口付けをされた時だけで、湿ってきた三好の唇が織田の薄い唇を軽く挟んだ瞬間に、思わず三好の上着を強く掴んだ。濡れた音が立って、ぞわりとした感覚が背中を抜けた。なんや、まさか、そんな。驚きで呼吸を忘れても唇の動きはとまらなかった。頬を捉えている三好の指先は相変わらず震えている。そのくせ、唇はゆっくり確かめるように織田の唇を食んだ。粘膜同士が、触れあう音がする。人間の本能をかきむしるような音だった。 忘れていた呼吸をしようとしたら、自分の口から、くもぐったような声が漏れた。いつもは、三好から出させている声だ。キスに溺れはじめているときの、清潔な三好が、動物に変わる手前の、あの声と同じ。それを、自分が。頭がかっと熱くなった。それに比例して、三好の口づけが、深くなった。 食まれて薄く開いた口に、舌が入り込んだ。目を閉じていろと言われたのに耐えきれず目を見開くと、自分の視界が潤んでいることを知った。三好の清潔な舌が、歯列をなぞった。からだどころか毛先までなにかおそろしいものが駆け抜けていくような心地がした。 たかがキスに、なにをそんな。おまけに相手は、息継ぎすら覚えたての、手管もあったものではない三好のはずなのに。さっきまでちぢこまっとったくせになんやねん、どこで覚えてきたんやこんなん。悔しく思った途端に、あることに気づいた。 ーーワシが三好クンにしとるみたいに。 その通りだった。三好の口づけは、今まで織田がさんざん三好にしたやり方と同じだった。ただしそれは、三好が気持ちよくなる方法を追究していたわけではなかった。織田は無意識に、自分の弱いところを三好に教え込んでいたにすぎない。ゆっくり。がっつかずに。優しく。いずれ、自分がそうされるのを、望んでいたのかもしれなかった。 このままだと、自分は自分のやり方で三好にどこかに引きずり落とされるかもしれない。現にいま、頭の血が沸騰したようにぐらぐらしている。あんなに聞こえた三好の鼻息も、もう聞こえない。変わりに、舌が絡んだ、濡れた音が脳に響いている。三好の手が、織田の耳をふさいだせいだ。それも、自分がやったことだ。自分が、三好に。三好が、自分に。 理性が焼き切れる前に、三好の肩を叩いた。織田の妙にねじくれた、最後に残った自尊心だった。絡んでいた���がすぐにほどけて、熱がゆっくりと織田から去っていった。離れた三好の唇が、どちらのものとも言えない唾液でてらてら光った。お互い、肩で呼吸をしていた。三好のペンだこで硬くなった指先が、織田の口元に添えられる。これも、いつも自分がすることだ。口元をぬぐってやって、何か言葉をかけて、もう一度そういうことをする。荒い呼吸のまま、三好が言った。 「すいません、苦しかったっすか」 「いや、そういうんと、ちゃうけど」 気持ち良すぎてまずいと思った。とは言えない。言えるわけがない。もちろん苦しかった、わけでもない。いつもの誤魔化しの言葉をすっかり忘れて、口元を拭われながら織田はずいぶん久しぶりにまっさらな気持ちで、さてどう伝えるもんかと考えた。きっと、これは喜ばしいことで、三好がそういうことに上手くなるのもまた織田の教育の賜物だと傲慢に思えばいいのだ。けれども返ってくるのが自分自身となると、どうにも喜べなかった。やがてすべてを引っぺがされて、暴かれるのは自分だけのような気がした。ただでさえ、三好の真っ直ぐな視線に、ぞっとする時がある。ひとりだけ、身ぐるみをはがされるのは癪だった。しかし、心の奥底に、それを望んでいるまったく違う織田がいるような気もした。ただ、わかるのはひとつだ。 「いや、やったっすか」 「……ううん、嫌ちゃうで」 織田の言葉に三好がぱっと頭を上げた。まだ瞳が、酸欠で潤んでいる。強すぎる真っ直ぐな視線がそれで弱まっていて、正直ほっとした。 「あの、だったら」 まばたきをした瞬間に、濡れた音がした。柔らかいと感じた瞬間に、唇が離れた。それから、数回、繰り返される。間近熱っぽい瞳に、何とも言えない自分の姿が映っている。また、頭がぐらぐらと沸き立ちそうだった。 「……その。もう一回、いいっすか」 ええよ、別に、何回でも。一応年上のなけなしの矜持で余裕ぶったら、さっきまで大胆なことをしていたわりに三好が恥ずかしそうにまつげを伏せた。かっとなって、今度は自分から首の後ろを引き寄せて、容赦なく舌を差し込んだ。聞きなれたくもぐった声が三好から漏れて、ようやく少しだけ自分の調子が戻った。場違いに、三好の石けんの香りが鼻先を抜けていった。 その後、何時間こうしていたのか忘れたが、お互いの口が痛くなるまで、こうしていた。やめ時も、それより先の行為をするのも、どうにもきっかけが掴めなかったからだ。三好の薄い唇は赤くうっすら腫れて、結局そのあと丸一日彼は辛いものを口にしなかった。織田の唇も水を飲んだだけで軽くひりついた。 それでもたまに二人で、こういったことを繰り返して、今も続いている。
0 notes
Text
霧の中の風景(しげじとアンゴ)
しげじが花見で酒を飲みながら過去を思う話
#桜に攫われる文豪選手権
白い花びらが雪に見えた。厳密に言うと薄紅色なのかもしれなかったが、中野の目には白に映った。それで充分であった。
昼過ぎに始まったはずの図書館主催の花見は、もうずいぶん長いこと続いていて、このまま夜桜見物としゃれこもうと、すっかり出来上がった声で誰かが言って、図書館近くの公園は、彼らの乱痴気騒ぎの場となっていた。酔いつぶれて木の根っこの近くに敷かれたビニールシートの上で伸びているものもいれば、お猪口片手に夜桜を風流ぶって眺めるものもいる。昼間から一向に花にすら目もくれず、何やら食べ続けているものもいる。中野はそのいずれにも加わらず、花を愛でることもせず、すっかり空になったコップを片手に、ぼうっとあたりを見物していた。ようやく訪れた春の美しさを、中野はうたうわけにはいかないのだった。
桜の季節に吹く風は、まだ冷たい。頬を撫でる風がいやに冷やりとしていて、中野はビニールシートの隅で、背中を震わせた。もう図書館に引き上げたものもいるし、自分もそろそろ戻ろうか。そう考えたが、月を遮るものもない、明るい夜は、このまま眠ってしまう���は惜しかった。風で乱れる髪を抑えながら、中野は空に移した視線を、やや下に滑らせた。散った花びらが風で巻き上げられて、くるくると回った後に再び地上に落ちた。その光景を眺めていると、その花びらの一枚が、大きな木の下に立っている男の肩に落ちた。おや、と目をこらす前に誰か気づいた。小林多喜二だった。彼の肩に、まるで粉雪がかかるようにゆっくりと、白い花びらが落ちていった。しかし小林はそれには気づかぬようで、ひとりでコップを傾けながら、じっと何かを見ていた。中野は立ち上がって話しかけることもできなかった。風と共に、忘れえぬ過去の記憶が眼前に蘇って、身動きすらできなかった。
小林は冬が似合う男だった。それは彼が北国で生まれ育ったせいなのか、彼が印象として与える一見の冷たさの奥にある暖かさが、吹雪の夜に歩き続けてようやく見つけた民家の灯りのように思えるせいなのか、それとも彼があの恐ろしい冬に消えてしまったせいなのか、中野には判断がつきかねた。中野の人生は常に戦いと信念と、後悔が付き纏っていたが、それでも、こと冬になると、小林のことをよく思い出した。
彼がいなくなったあと、中野はよく夢を見た。月が明るい夜の雪道を、二人で白い息を吐きながら歩いている。ああ見えて人を笑わせるのが好きな小林が、歩きながら中野に冗談を言う。それがおかしくて中野が笑うと、次第にどこからともなく雲が月を隠し、濃紺だった空が黒く変わった。これは吹雪くな、と小林が言った途端、強く風が吹き付けて、水の含んだ重たい雪が二人を襲った。ものの数十秒で、中野は目の前の小林の顔すら見えなくなる。それでも、中野は必死に小林の名前を呼ぶのだが、ヒューヒューと吹雪の声が中野の声をかき消し、視界は鼠色の雪で埋まっていった。小林は、手を伸ばせば届く距離に立っているはずだ。しかし、待ってくれ、と中野が凍えた指先を差し出す間もなく、吹雪が小林を包んで、彼の姿をかき消す。冬が、小林を連れ去ってしまう。そんな夢を、何度も見た。無論、この図書館に転生して彼と再会した、今となっても。頻度は減ったが、それでも時折、夢に見る。
これは、実際の出来事ではない。単に中野の後悔と、小林に対する心象風景が、夢となって現れただけのことである。しかしそれ以来、中野は昔のように季節の美しさをうたうことはできなくなった。そんな価値は、自分にはないのだ。そんなものは、どこにも。小林と再会して、当の本人から気にするなと言われたところで、己の罪が消えるわけではなかった。贖罪としての文学の中に、自然の美しさをうたう必要はなかった。
一度戦いを放棄した自分は、周囲よりほんの少しだけ、長く生きた。その間に、多くの同志と、友人たちと、師を送った。小林、堀、犀星、三好。生きているうちに鮮烈な印象を中野に残した彼らは、ある日ふっと季節に攫われるようにして、そっと中野の前から去っていった。そうして、彼らの表情ごと、過去の霧の中に紛れてしまった。
霧の中から再び舞い戻った仲間たちを、中野はそっと探した。堀は芥川にお銚子を傾けて、酒を注いでいる。これ以上いけませんよ、などといっているのだろう。犀星は朔太郎と顔を近づけて、何やら話をしている。詩の話か、はたまた別のことか。師もまた、親友を送る立場であったことを、中野は思い出した。犀星も桜を見ながらいなくなった親友を思うこともあるかもしれない。送る立場は辛いことも多かったが、師を送ることができたのは、弟子としては幸いなことであった。三好はわざわざ立ち上がって腰に手をあてて、何やら賢治に説教だか注意らしきものをしている。この前ぶつぶつこぼしたのだが、また悪戯で春画でも見せられたのだろうか。きっと彼の打てば響くような態度が賢治を余計に面白がらせるのだろうが、それについて教えてやるのはまた今度にしよう。
消えてしまった仲間たちは、再びここで、新しい人生を始めている。それはわかってはいるのが、中野はどうしてもまた、彼らが桜に攫われていってしまうような感覚を、拭い去ることができなかった。残し残されることは人の世の常だ。自分もまた、誰かを置いていく立場であったことだろう。それでも時折、皆がこうして一堂に会して、こうして花を見ている光景は、自分が人生の今際に見ている夢のような気さえする。贖罪に疲れた自分が、都合よく見る、最後の夢だ。
余計なことに考えを巡らせていると、隣に、誰かがどかりと座りこんだ。こんなつまらぬ顔で座っている自分の隣にわざわざやってくるなんて相手の表情すらあまり確認できなかった酔っぱらいか何かであろうかと中野が首を捻ると、相手は意外にもしっかりとした顔つきで、中野を覗き込んでいた。薄く色のついた眼鏡から、酔ってはいないまっすぐな視線が向けられている。つい最近この図書館にやってきた坂口安吾であった。昼間から散々酒を飲んでいたはずで、手にはご丁寧に酒瓶を抱えていたが、体は酒臭くなかった。
しかし何の用だろう。彼の作品はいくつか読んだことがあったが、彼が中野の作品を読んでいるかどうかも知らない。文学的なつながりもなければ、直接の交流もない。中野と彼は、友人の友人、というひどく微妙な立場だった。
「あの、なにか」
用かな、と中野が続ける前に、坂口はずいと酒瓶を前に差し出した。
「一杯どうだ」
そう一言告げるだけで、半ば強引に、空になっていた中野のコップに酒を注いだ。
「はあ、どうもありがとう」
注ぎ終わって一応礼を述べたが、坂口はそれから手酌で自らのコップを満たし、別に乾杯を求めるでもなく飲み始めた。わざわざ新入りとしてあいさつ回りする愛想が良く腰の低い男にも見えないし、本当に何がしたいのかわからない。それこそ彼が特別親しくしている太宰か織田のところにでもいけばいいだろう。昼間は、彼ら三人で固まって、なにやら楽し気にしていたはずである。まったくよくわからないなと思いながら中野は一口だけ、コップに口をつけた。とにかく酔えればいいと言った感じの、安酒の味がした。
織田と太宰はどこにいったのか。中野があたりを見回すと、二人はビニールシートからすこし離れた木の陰で、何やら言葉の応酬をしているようだった。織田はいつものように飄々とした様子だが、太宰がちょっとだけムキになって、彼につっかかっているようであった。二人の姿に重なるようにして、花びらが降り��かり、二人はわあわあとはしゃぐようにして、花びら���払っていた。こうしていると、学生の友人同士がはしゃぎあっているようにも見えて、中野には微笑ましく映った。
「仲が良いね」
独り言のようにつぶやいて、中野が隣を見ると、坂口もまた織田と太宰を見ながら、コップを傾けていた。
「……あっちにいかなくていいのかい」
「別に、いまはいい」
「そう。でも僕は、君にとって面白い話はできないと思うけれど」
「いや、あんたとは眼鏡仲間として話してみたかっただけだ、気にするな」
「眼鏡仲間?」
「この図書館、眼鏡をかけている奴が少なすぎると思わないか」
「まあ、確かにそうだね。でも君が来て三人になったわけだから、これから増えるかもしれないよ」
特に意味のない会話をしながら、中野は再び、坂口と同じ方向を見つめた。月の光はますます煌々として、白い桜の花びらをよりいっそう白く見せた。織田が高笑いをして、太宰が何やらきーきーと叫ぶ声が、二人のところまで聞こえた。風はやや弱くなったが、花びらはいまだに散り続け、時折織田と太宰を隠すようにした。あんなに楽し気にしているのに、彼らもまた、一夜の夢の中の風景のようであった。織田のかわいた笑い声が、夜に響いている。
そうして、ようやく気が付いた。なるほど坂口もまた、中野のように、友人を桜に攫われるようにして、ふっとなくした男であったのだ。中野の愛した者たちも、坂口の愛した者たちも、いささか死に近すぎた。自分は再び政治の世界に身を投じ、坂口は破滅的な生活を送りながらも、それでも生きることをやめなかった。多くの者を見送って、なお生きて、また送られる立場になった。中野のようではなくても、坂口もまた、彼ら二人に思うことがたくさんあるに違いなかった。それがたまたま、同じ時に感傷に近い形で現れた。それだけであった。しかし、偶然はまた、幸運でもある。
「――僕が注ごうか」
空になったコップを坂口が弄びはじめたとき、中野はそっと、彼に声をかけた。坂口は一度視線をぐるりと巡らせた後、中野に酒瓶を手渡した。これは、中野と坂口のための杯ではなかった。二人が愛した者たちに捧げる杯であった。中野が注ぎ終わった後、今度は坂口が、なみなみとこぼれるようにして、中野のコップに酒を注いだ。そうして二人ははじめて、乾杯をして、同時に口をつけた。
桜の美しさを、二人はうたわない。その代わりに、桜に攫われて霧の中に消えた仲間たちに、この杯を捧げるのだ。どこからともなく待ってきた花びらが、中野のコップの上に落ち、まるで湖に浮いた花のようであった。それにしては、いささか酔狂すぎるけれども。
0 notes
Text
白い海で溺死(三織)
※事後表現
三好くんの愛が重たい
三好の部屋ではじめて、そういう事をしたあと、隣の作之助がぽつりと独り言のように言った。
「……綺麗にしとるなぁ」
行為の興奮も醒めて、なおかつ後に湧いてくる強烈な羞恥も薄れてきた頃である。いつもなら掛け布団にくるまりながら、自分のやったことに信じられないような気持ちで縮こまっている三好も、その日は自然と作之助の言葉が耳に入ってきて、素直に首を傾げた。
「何がっすか?」
三好が体を横向きにすると、仰向けで天井を向いていた作之助もこちらを向いた。豆電球だけがついた部屋のなか、作之助の目の端がうっすらと潤んでいて、それが事の名残だった。
「ん? シーツが。真っ白やし、ぴんぴんやし」
言いながら、作之助がシーツを軽く叩いてみせる。ああなるほどと三好は頷いた。
「毎日、取り替えとるんで」
今はふたりの汗やら体液やらを吸い込んで、すこし湿ってしまっているが、三好の寝台のシーツは、いつも真っ白な、染みもないものを使っていた。ああそういえば明日起きたらこのシーツを洗わなければならないな、と思ったら先ほどの行為がぱっと目前に蘇って、意味もなく頭を振った。今は、こういう事を考える時ではないだろう。反芻して、赤面してしまう時間は、いくらでもあるのだ。
「毎日?えらいまめやな」 「だって、毎日替えたほうが気持ちよくないっすか?その方が、よく眠れるし」
いつも清潔にしていたい性分もあったが、三好が几帳面なまでにそうしているのは、眠りが浅い体質のために、少しでも眠る環境を整えたいからだった。しかし、不思議なことにあまり眠りたがらない作之助にはわからない悩みだろうと思って、打ち明けたことはない。眠れるくせに眠りたがらないなんて贅沢な人だと、少しだけ思っているが、それは理不尽すぎるとわかっているので思うだけにとどめている。
「そら、まあそうやろな。なんやワシが来るから、わざわざ変えてくれたんかと思たのに。ちょっと残念やなあ」
残念などと思ってもいないことを言って、作之助が口元を緩ませる。
「……ちゃいますよ」
首は振ったが、本当は作之助が部屋に来るとなった時に、やましさに頬をひっぱたきたい気分になりながら、その日洗ったシーツではなく、予備に残していた新品のシーツを取り付けていたのだった。 話をしてかえるだけかもしれないし、予備をそのままにしておくのは勿体ないし。心に何本も予防線を張ったが、結局こうなった。するかもしれないんで新品に替えましたなんて明け透けすぎること、言えるわけがない。否定だけして、黙った。
「……でも、たしかに、気持ちよかったな」
含みのある言い方に、再び今しがたまでここで行われていたことが脳裏に蘇って、頬が熱くなった。
ーーなぁ、三好クン、こっち、来て。
さっきまでは珍しく甘えたようなことを言って見せたくせに、あの作之助は一体どこに消えたのか。汗と同じく、シーツに吸い込まれてしまったのか。 口角が、いつも三好をからかう時のようににいっと上がって、視界の隅に入り込む浮き上がった鎖骨の端についた痕も、自分でつけたにもかからわず、なんだか目に毒だ。二人の体温で温まったシーツに顔を押し付けても、熱は逃げていかなかった。気恥ずかしさから体勢を仰向けに戻して、天井を見つめた。作之助が、横向きのまま肘をついて、三好をのぞきこんでくる。
「なあ、どないしたらこんなに皺なしにシーツ張れんの?ワシこんなんようせんわ」 「それは、まあ、昔取った、杵柄ってやつかもしれないっす」 「むかし?」 「……軍におったときに、鍛えられたんで」 「ふうん。軍隊におったら、そんなことまでやらさせられるんか。まあワシには縁がない話やけど」 「……ないほうがいいっすよ、たぶん」 「そうなん?」 「はい」 「そうか。まあええんやったらええか」
作之助も肘を戻して仰向けになった。軍にいたころの話を話したのは、ここに来てからはじめてだった。詩を選ぶ前の自分の人生を、久しぶりに思いだした。あのままあそこにいたならば、詩を書くことも、ここで朔太郎と再会することもなかったわけで、すなわち隣の男とこんな関係になることもなかったわけであって、自分のことながら、縁の巡り合わせとは奇妙なものだと思わずにはいられなかった。逃げ出してしまったあの場所も、知らぬ間に、三好を形成する血肉になっていたのかもしれない。 珍しく感慨に耽っていたら、不意にとなりから白く細長い腕がにゅっと伸びて、三好の上半身を絡めとった。軽く抵抗したら、乱れたシーツに更に皺がよった。横に向かされて、思いきり、抱きよせられた。
「ちょっと、オダサクさん」 「嫌なん?」 「……ちゃいますけど」 「ほなええやんか」
三好の背中に腕をぎゅうぎゅうに回して、作之助がふふふ、と笑みを漏らした。とろけるような熱を帯びていた皮膚はいつの間にか平熱に戻って、いつもの触るとひんやりとした感触のなかに、汗をかいたあとの、しめった名残があった。煙草の煙の向こう側にある、作之助の匂いがする。誤魔化すような、高笑いではなく、なんだか楽しそう笑いかたに、なに笑っとるんすか、とも聞けず、三好はそのまま、作之助の肩口に顔を埋めた。
結局、しばらくこうしていたら二人とも変な気分になってきて、もう一回そういうことをした。翌日シーツを洗うとき、いろんなものが染み付きすぎていて、三好は終始赤面したまま洗い場に立つ羽目になった。誰かに見られなかったことだけが幸いであった。二度目のときに、耳元で名前を呼ばれた声が、心の奥底までこびりつき、洗濯板でシーツをこすりつづけても消えなかった。干されて乾いた後も、ひなたの匂いのなかに、作之助の匂いが残っているような気がして、しばらくそのシーツは使えず、次に作之助が部屋にくるまで戸棚に仕舞われたままだった。
三好の部屋で事が終わると、たいていは作之助の方から、ごく稀に三好の方から、二人で湿ったシーツにくるまりながら、取るに足らない話をした。作之助が三好の部屋に来る頻度も徐々に増え、普段は戸棚にしまわれている作之助のためのシーツは二枚になった。毎回心地よさそうに白いシーツに頬をすり寄せて「まっさらやな」と笑う作之助の顔を見ると、一枚だけにするのはどうも相手を大事にしていないような気がしたからだった。 相手の部屋でする時はどうにも決まりが悪く、事の後は寝台のすみに縮こまってしまうのだが、自分の部屋ではすこしは気が休まるのか、話の最中に作之助が手や肩にじゃれつくように触れてきても、あまり恥ずかしがらなくなった。逆に普段は三好をいかにして翻弄するかを画策しているような作之助が、この部屋にくると、三好にそっと甘えるような、受け入れるような態度を取った。いまだに精神的にそういったことに不慣れな三好がまどろっこしく彼のシャツのボタンに手をかけても、作之助は静かに笑って、三好の手つきを眺めていた。 とはいえ作之助の部屋に行くと三好は黙りこくり、作之助は「こ��ために来たんやろ」などと言ってからかいまじりにいきなり三好のズボンをのベルトをひっぺがすような男に戻ってしまう。そのあと、作之助はいつも苦笑半分面白半分に三好の頭を撫でた。借りてきた猫っちゅうやつやな。オダサクさんもそうやないんすか。言い返したくても毎回言葉は出てこず、三好は黙って煙草臭い作之助の掛け布団に潜り、自分の部屋で見る作之助とこの部屋の作之助は果たして同じ人なのかと考えた。部屋に来てくれる作之助の方が、若干三好は気に入っていた。
話をしばらくすると、お互いの体温で暖まって、やがてまぶたが重くなった。繰り返しているうちに、彼がこう話しかけてくるのは、眠るのが嫌で、訪れる眠りを引き延ばしているのだろうと気が付いた。何故、眠りたがらないのか、理由を尋ねたこともなければ、考えを巡らせたこともなかった。眠りの浅い三好からすれば、安堵のなか眠れるのなら早く眠りたかった。作之助の部屋だと、緊張の方が勝るからだ。相槌も小さく、途切れがちになってくると、作之助がよくとろんとしはじめた三好のまぶたに、そっと口をつけた。その瞬間ばかりは、いつも眠りに落ちるのがすこし惜しくなった。自分が眠った後で、ちゃんとこの人は寝るのだろうかと思った。作之助と自分と足して二で割ることができたなら、ちょうどいいのかもしれない。出来はしないことを眠りの浅瀬で考えた。そうして意識が、白いシーツの海に沈んだ。
作之助の話は、あまり悪意のない、人の噂ばなしが多かった。 「――そういえば、安吾が」 あんご。その名前を聞くなり瞬時に共通の友人の顔が思い浮かびんだ。いつもは素直に相槌を打っているが、仰向けの体をごろりと体勢を作之助に向けて、思いきり眉を寄せる。作之助の向こうに、あの眼鏡をかけた男が立っているような気さえして、ちょっとばかり、内臓がしまるような心地がした。
「……あの、やめないっすか。さすがに、安吾の話は、ちょっと」 「あれ? いややった? 喧嘩でもしてたんか?」 「してないっすけど。……なんか、安吾の名前がでたら、あの人が枕元に立ってるような気がしてきたっす」 「そんなあほな」
と、作之助は何かを続けようとしたが、途端に口をあけたまま瞳をぱちぱちしばたかせて、やがて小さく言った。
「……それは、なんちゅうか、気持ち悪いっちゅうか」
逆に作之助が面白がったらどうしようかと三好は考えたが、彼の脳裏にも、お互いの友人たる安吾がこの寝台の側に立っている様が浮かんだのかもしれない。珍しく、言葉の歯切れが悪かった。 「でしょ」 汗ばんだ裸で布団にくるまる二人を見下ろす安吾。どんな表情かまではわかりかねたが、想像しただけで血の気が引いた。共通の二人がいろいろあってこんなことをしているとは、口が裂けても安吾には伝えるつもりがなかった。作之助がどう考えているのかは知らないにしろ。
「なんやそんなん言われたら、今でも安吾がそこにいそうな気いしてまうわ。三好クンすごい発想するなぁ」 「だから、やめてくださいって言うたやないすか」 「せやな。わかった、やめとくわ」
作之助が頷いた。もしかするとあの安吾ならば驚くにせよぎょっとするにせよ面白がるにせよ、その感情をもとに二人をネタにしてなんぞ書いてしまうかもしれない。そう思ったが、作之助がやめると言ったので三好も黙って頷き返した。題材にしたりされたりするのは物書きの宿命で、三好も散々書いたり書かれたりしたものだが、それでも、秘めていたいこともあるものだ。特に、こういうことは。
話題は次第に、また別の共通の知人についてに移った。その男にはもう長いこと一人の恋人がいるのだが、彼はとんだ浮気性で、その恋人に一途だった試しがなかった。それでも、恋人は恋人のままで、別れる気配もないとのことだった。そして聞けば、またその男が浮気をしたのだと言った。作之助がなぜその男の浮気沙汰に詳しいのかは、三好は知らない。浮気性の恋人を持った相手を気の毒に思いその男に冷めた気持ちを抱きこそすれ、所詮は二人の寝物語だったからだ。
「あの人、なんで浮気ばっかりするんすかね?」 「さあなあ。それが性なんやろ」
自分から振った話のくせに、作之助はまるで興味がなさそうだった。本当は安吾の話がしたかったのだろう。今の作之助は、あの眠りをだらだらと引き延ばしたいだけだ。
「……許すほうも、そろそろ愛想尽き果ててたりしないんすかね」 「たぶん、許すんちゃうか。言うて浮気やし、戻ってくるって、わかっとんのやろ」 「言うて浮気って。そりゃあよくある話かもしれないっすけど、はっきり言ってあの人のそういうところは最低やと思うっす」
軽い気持ちで、反論してみただけだった。しかし作之助は面白がる調子もなく三好を見つめ、数回、まばたきをした。行為の名残で、目のふちがうっすら赤かった。彼の容姿に特段の好き嫌いを見出していなかった三好でも、作之助が恥ずかしげもなく美男子だと自称するのが、わかるような気がした。きっと、多くの人を、魅了してきたのだろうと思った。その彼が、どうして自分とこうしているのか。理由はそれなりに思い浮かんだが、どれも明確な答にはならなかった。
「最低?」 「そうっす、最低っす」 「そうかあ。……ワシは、浮気なんやったら別にええと思うけど。浮気なんやったらな」
いきなり何を言うのか。瞬時に返す言葉が見当たらず、三好は口を閉じて、作之助を見つめ返した。口元はいつもどおりだが、口調と同じように、瞳は静かだった。さっきまで、お互いの本能を見せ合っていたはずなのに。結局、彼の真意など、三好には読めない。三好の部屋にいる作之助も、三好を部屋に招く作之助も、そして今こうしている作之助も。彼の本音など、どこにも見つからない。
「……浮気やったらって、どういう意味なんすか」
ひとつひとつ、絡まった糸をほどくような気持ちで、意図を尋ねた。彼の言葉のなかに、すこしでも真実があるとするのなら、その端きれでもいいから掴みたかった。しかし作之助は端に真実に思えそうな言葉をちらつかせておきながら、すぐさま有耶無耶にしてしまう。真実なんてあると思う方が馬鹿なのだとでも言いたげに。
「別の相手に本気になっとるのがわかってんのに、変な情やら責任感で戻ってこられるほうがしんどない?」
作之助の言葉が、三好の心に染みをつくった。白い海に浮かぶ、赤い血のようだった。すぐさまそれは波に混ざり、鮮やかだった色はあいまいな色にかわって、二つの色すら次第にわからなくなる。けれども、白い海はけっして元には戻らない。作之助を知らない、あのころに、三好は戻れない。
「……わかんないっす、そんな心境、理解したくもないっす。自分は、浮気なんかしないし、そもそもできないっす」
相手がいて他の人に目が行くとするのなら、それはおそらく、相手に対しても本気なんかではない。三好はずっと、そう思っている。
「せやな、三好クンは、きっと本気になってもうたら、きっぱり向こうに行ってまいそうやもんな。浮気はせんでも、本気になったら全部捨ててまうんやろな」 「……いきなり、なんなんすか」 「思ったから言うただけや。三好クンが本気になったら、たぶん誰にも止められへんやろなて」
おそろく、作之助の言葉は真実を突いていた。どれだけ相手との日々が輝いていても、穏やかなものであったとしても、心が移ってしまったら、きっと自分は自分を抑えられない。正直にしか、自分は生きられない。周囲をどれだけ悲しませても、嘘はつけない。そういう生き方しか、選ぶことができない。自分の考えは見抜かれているのに目の前の相手の考えすら読み解くことができないのが悔しく、唇を噛んだ。
「なあ三好クン」 「なんすか、もうやめてくださいっす。こういう話は」 「……ワシが浮気したら、三好クンどないする?」
これは単なる雑談の戯言だ。誰も傷つけない、いつもの噂ばなしの派生にすぎない。と言い聞かせたが、脳裏では悲しい具合に鮮やかにひとつの光景が浮かび上がった。他の誰かと、抱きしめあっている作之助。他の誰かと、隣を歩いている作之助。他の誰かと、シーツの海に飛び込む作之助。他の誰かと、他の誰かと。 想像だけで、胸が詰まった。想像が容易すぎることも、三好の心を締め付けた。恋が人生で一度きりであるとは、三好も思っていない。しかし作之助以外にこうも感情がざわついて、傷つくとわかっていても指先を掴んでしまう相手が再び現れるかどうかは、わからなかった。現れたら、きっと自分は行ってしまう。なのに、作之助にそんな相手が現れても、自分は許すことができない。許すこともできなければ、手放すこともできない。魔が差したのであろうが、完全な心移りであろうが。感情の矛盾に引き裂かれそうだった。 絞りだした声が、ひどくかすれた。ほどよく張り出した、作之助の白いのどぼとけが、ゆっくりと上下している。生きているから、こんなに悲しいのか。
「……その、時は」 「うん」 「オダサクさん殺して、自分も死にます」
こんなの、愛じゃない。恋ですらない。ただの執着だった。わかっている。わかっている。けれども激情に身を任せて、作之助の首を絞める光景は、いずれ遠くない未来に訪れるような気がした。視界が水分で揺れだして、寝返りをうって背中を向けた。自分と同じだけの熱量を、相手が向けてくるとは限らない。わかっている。わかっている。求めるほうが、おかしいのだ。感情はいつだって強烈すぎて、まぶしすぎて、波は相手だけでなく自分まで飲み込んでしまう。
「……三好クン」 「ほっといてください。自分でも、変なこと言うたんはわかっとるんで」 「こっち向いてや」 「いやっす、むかないっす」
どうせなら、誰かと海に沈む前に、捨ててほしかった。三好クン重たいわ、ワシは冗談のつもりやったのに。そう言ってくれたほうがいっそのこと楽だった。
「なあ、こっち向いてや。……せっかく二人できもちようなってこうしてんのに、そっぽ向かれると、ひとりでおるみたいやん。そんなん嫌や」
後ろから白い腕が胸に回って、作之助の素肌が背中にあたる。痩せぎすで、筋張っていて、別段柔らかいこともない。それどころかやにくささが染みついている気配までする、男の体だ。それなのにどうしてこの肌が恋しくなってしまうのか。 はっとした瞬間に、首の後ろで濡れた気配がした。作之助がさらされているのに白いままの、三好のうなじに口づけたのだった。数回口づけを繰り返して、作之助が言った。
「なあ、ワシ、さびしい」
嘘つき、あんた俺がいなくたって、生きていけるくせに。他の誰かを笑わせながら、誰にも本音を見せずに、ひとりでふらふら歩いて行けるんでしょう。誰にも、責任をもせたない代わりに、自分���何も持たないんでしょう。
潤んだ視界を振り切りたかったが、結局無駄で、そのまま再び、三好は寝返りをうった。腕のなかにいるせいで、作之助の顔がさっきより近い。長い睫毛がかすかにゆれて、ちいさな息を吐いてから、目元が笑顔をつくった。熱くなったまぶたに、作之助が口をつける。冷やりとした感覚にとっさに瞳を閉じたら、こらえていた水滴がぽろりと流れた。
「ごめんな、好きやで」
謝るぐらいなら言わなければいいのにと思った。これが偽りであったとしても、作之助がそういう限り、三好はこの言葉が言霊になって、どこにも行けない。まぶたに落ちた唇がゆっくり移動して、今度は三好の唇を食むように動いた。欲を煽るより、慰めるような調子にいらだって、自分から体に乗りかかった。掛け布団をもみくちゃにして、体を押さえつけたら、作之助は抵抗するでもなく、へらりと笑って三好に腕を伸ばした。どうせ息止められるんなら、こっちがええわ。なあ、三好クン、こっち、来て。
この人の頭をクルミのようにくだいて、中をみたら。すこしは彼の本音が見えるのか。それとも、中にはなにもないのか。おそろしい考えを止められないまま、三好は作之助の体を暴いた。 殺すなら、苦しまんように頼むわ。最中に、作之助がぽつりと言った。汗とも涙ともしれぬ水滴が、一粒作之助の頬に落ち、白いシーツに染み込んだ。 どうせなら、白い海に溺れて二人で死にたかった。
0 notes
Text
三好ちゃん♀とオダサク先輩のバレンタイン(おだみよ)
#ぼっちワンライ一週間チャレンジ 六日目、七日目
現パロ学パロ女体化の三重苦(※朔ちゃんも女体化している)
(三好)
本屋の文房具売り場にある、ラッピング用品のコーナーが広くなって、1月下旬にはとうとうそのコーナーに、バレンタインフェアの薄いピンク色のポップが飾られるようになった。おそらく同級生の女子が、ちらほらそのコーナーに立ち止まって、サテンのリボンやらメッセージカードやら紙袋やらをどこか華やいだ声で話しながら見たり時にはレジに持っていくのを、そのちょうど裏側で文庫本を立ち読みしながら、三好はどこか他人事のように見ていた。 そもそも、三好は甘いものがそこまで好きではなかった。宝石のようなチョコレートやかわいいパッケージに心は躍るが、いざ口にすると、やっぱり辛いもののほうが美味しいし、女子は甘いものが好きだと決めつけられているようなあの雰囲気が、どうにも納得がいかない。さすがに女子としてバレンタインに無縁の学校生活を送っているわけではなかったけれど、毎年ごく親しい友人や先輩と小さな手作り菓子交換するだけだった。今のところ、渡したい男子も、わざわざ三好からのチョコを欲しがる男子もいない。きっと今年も、数人の友人に気取らない手作りの、三好が唯一作れるトリュフを渡して、朔ちゃん先輩にはちょっとだけ気合の入った別の手作りを渡して、そうして朔ちゃん先輩からもお菓子を貰うだけで終わるだろう。三好にとってバレンタインデーは、友人とお菓子を交換する、ちょっとだけ楽しいイベントの日になってしまってる。 いつか自分にも、渡したくなる相手もできるのだろうか。思いを伝えたくて、感情があふれて、どうしようもなくなる相手が。ちょっとだけ、考えてはみるものの、いざ相手の姿を想像してみても、脳内の光景は霧がかかったようになって、どうしてもその先へは進まなかった。淡い恋も、激しい恋も、三好にとってすべては未だ本の中の出来事だった。クラスメイトが密やかに語る恋愛の話に、興味がないわけではなかった。ただ、ぼんやりとした憧れと、ほんやりとした恐怖が、友人の恋の話に耳に傾けつつ心の底にたまっている。 気になった文庫本の値段をめくると、お小遣いをやりくりするには厳しい金額だった。せっかく面白そうだったのに。小さくため息をついて本棚に戻した。今月は、チョコ代やらラッピングのリボン代やらに結構かかるのだ。相手にチョコを渡した時の嬉しそうな表情を見ることと、完成した菓子の箱にそっとリボンをかけることは嫌いじゃないけれど、本かチョコかと言われたら本を選びたかった。 でも、憧れの朔ちゃん先輩に堂々と何かをプレゼントできる日はそうそうあるわけではないから、毎年一冊か二冊買いたい本を我慢して、三好はバレンタインを迎えるのだった。あ、そうだ、今年は朔ちゃん先輩に何を渡そうか。ずっと憧れている、一つ上の女の先輩の顔が頭に浮かんで、足は自然にお菓子本のコーナーに向かった。平置きにされたチョコレートのお菓子の本を手に取って、さっきの文庫本ほどは熱中せずに、ぱらぱらとめくった。見た目がどうかはわかるが、美味しそうかどうかはいまいちわからない。普段料理をしているわけでもないから、並んだ材料欄のカタカナを理解するのが精いっぱいだ。前にアーモンドプードルを犬の種類の名前かと思って、お菓子作りの友人に聞いてみたら恥をかいたことがあった。 これは難しそうだし、これは簡単そうだけど一人分には量が多そうだし。そもそも朔ちゃん先輩は、どんな菓子が好きだったっけ。 ページをめくりながら首を傾げたりひねったりしていると、ふいに背後から声がした。 「おっワシにくれるチョコか~?」 ぎょっとして本を閉じて振り返ると、見慣れたへらへらした顔の男が、三好を見下ろしていた。ひとつ年上の、織田作之助だった。 「オダサク先輩!なんなんですか!急に声かけんといてください!」 通称オダサク先輩。学校でも指折りの不真面目だが成績はかなりいいらしく、そのせいで先生も彼には強く言えないらしい。それがひょんなことからクラスでも真面目な三好と顔見知りになって以来、彼は廊下やら登下校中に会うたびに、なんやかんやと三好に声をかけてくるようになった。三好が語気を強めても、嫌がって見せても、どこ吹く風で、東京に来ても訛りを気にすることなく、三好と同じ故郷のアクセントで「三好ちゃん」と呼んだ。悔しいことながら、彼についつられて、三好も友人の間では忘れてしまう故郷の言葉が口について出た。不真面目なところが、好きではない。つっぱねても巻き込んでくるようなところが、好きではない。やたらと朔ちゃん先輩にちょっかいをかけようとするところも、好きではない。総合すると、ちょっと嫌いだ。 「え~つれないな~。なんや珍しいとこおるから声かけただけやん。で、これに載っとるやつワシにくれるん?」 これ、と指さされたのは三好が手に持っているレシピ本だ。ただの顔見知りの後輩に、いきなりチョコレートを要求するとは。なんてふてぶてしい奴だろうと思いながら、三好は頬をふくらました。 「朔ちゃん先輩にっす! オダサク先輩にはあげないっす!」 「朔ちゃん先輩? そうか、女子はええなあ。ワシも朔ちゃん先輩の手作りチョコ欲しいなあ」 そう言っておきながら、彼が相当モテるのも三好は知っていた。きっと朔ちゃん先輩に貰わないにしても、織田は大量の義理チョコに紛れ込んだそれなりの数の本命チョコを受け取ることだろう。オダサク先輩って、背が高くてかっこいいね、とクラスメイトが話しているのも、何度か聞いたことがある。彼女の存在の有無は知らないし知りたくもないが、きっと過去にはいたことがあるに違いない。そんな男が三好のチョコを欲しがるなんて、せいぜい単なる好奇心かからかいに過ぎない。まったく馬鹿馬鹿しい。頭一つぶん背が高い、織田をにらんだ。 「朔ちゃん先輩がオダサク先輩にあげるわけがないっす」 「自分ひどいこと言うなあ」 「そもそも朔ちゃん先輩に近寄らんといてくださいっす。朔ちゃん先輩が不良になってまうんで」 「はいはい、相変わらず三好ちゃんは手厳しいなあ」 手をあげて肩をすくめ、織田は三好の隣に立って、平置きのところから、三好の持っている本を手に取った。 「どれどれどんなんあんねん。……あ、ワシこれがええな」 ぱらぱらめくって不意にページをとめて、わざわざ三好に見せてくる。箱の中に敷き詰められた生チョコの写真のページだった。ちょうどこれならできるかな、と思って読んでいたところだったので、余計にいらっとした。 「オダサク先輩の趣味とかどうでもええです。とりあえずあげないっす」 「ええー、三好ちゃん意志強ない? このイケメンの顔見てたらチョコあげたくならへん?」 「あげないものはあげないっす」 「いけずやなあ」 「男の人にいけずや言われても気持ち悪いだけなんでやめてください」 覗き込んでくる顔にそっぽを向いた。学ラン姿なのにどこか煙草臭いし、そもそも学ランのボタンは開けすぎだし、まったくなんでこんな不良と知り合いなのか。やれイケメンだ美少年だ美男子だと自称しているが、それも怪しいものだと三好は思う。 「ま、ええか。とりあえずワシ待っとるから」 「待たんでいいです!だからあげへんって言うてるでしょ!」 「三好ちゃん、声大きない?」 あっと口元を抑えたら、そのすきにさっと織田は持っていた本を戻して、振り向きざまにしてやったりと言いたげににっと口角をあげて笑った。要はまたからかわれて、三好が本気になっただけにすぎないのだ。またやってしまったという後悔と羞恥が襲ってきて、三好はうつむき気味に顔を赤くした。オダサク先輩のあほ、と口の中��ちいさく毒づいた。 「手作り頑張りや、ほな、また」 軽く三好の肩をたたいて、織田がひらりと手を振った。今まで気づかなかったが、空いたほうの手に、織田は文庫本を持っていた。表紙の色合いに、目を見張った。三好が今日気になって結局買うのをやめた、あの文庫本だった。それだけのことなのに、不思議と気になった。あの不良が、自分と同じ本を気にするとは。レジに向かって飄々と歩いていく背中を、触れられた肩をおさえながら複雑な気持ちで見つめた。本棚の影で織田が見えなくなると、三好はようやく手に持っていた本を開きなおした。再びぱらぱらとめくると、さっき織田が見せてきたページが目に留まり、数十分悩んだ挙句、結局三好はその本をレジに持って行った。 ネットでレシピ見るより信頼できるし。朔ちゃん先輩にまずいもの渡せないし。心の中で何回も自分に言い訳をしながらも、夜になってその本をめくると、織田に肩をたたかれた感覚が不思議と蘇った。
(織田)
幸いにも美男子なもので、幼いころからバレンタインデーその他諸々の異性からの人気を意識させられるイベントに苦労した試しがなかった。母親以外からせめて一個でも貰いたいとかそんな同世代の男子の切実な願いも特に女子にねだらずとも降ってくるこちらとしては実感しがたかったし、バレンタインが近づくとやたら髪型を整えだすクラスメイト達の涙ぐましい努力に対しても普段からやっときゃええのにとどこか滑稽に思えた。毎年山のようにもらう義理チョコも、その山の一角にひっそり潜んでいる本命チョコも、もちろん嬉しくはあったが、織田の少々ねじくれた自尊心を一瞬満たしただけで、大きく心を動かされたことはなかった。異性にチヤホヤされるのは楽しい。同世代の女子から、恋に恋している感情を向けられるのも悪くない。けれどもこの歳で既にそれなりに恋愛めいたものを遊びで楽しみ、大人の階段を数段飛ばしで駆け上ってしまった身とすると、甘酸っぱい気持ちからは遠のいてしまっている。 友人の太宰から、バレンタインチョコの数で勝負を挑まれたのは、年相応な感性を持ったクラスメイトがどことなくそわそわし始めた1月下旬になった時だった。自分だってそれなりに遊んでいるくせに、他人の評価に人一倍敏感な太宰は他のクラスメイトと同じようにいつも以上に髪の毛を神経質に整えながら今年はチョコの数を大台に乗せてやると息巻いていた。軽い気持ちで「まあどうせワシの方が貰えるやろうけどな」と返したのだが、太宰の闘争心に火をつけてしまったらしい。ムキになって勝負を突き付ける太宰の言葉にそのまま売り言葉に買い言葉で乗ってしまったのだった。 とは言え織田が、勝負のために格段行動をしたわけでもなかった。おそらく太宰とてそうだっただろう。直前になってその辺の女子にチョコをくれと言ったところでくれる聖人のような女子の憐れみに近い感情はいらない。ようは皆、義理でもなんでも普通よりは強い感情を異性に向けてほしいのだ。好きな女の子に貰えたら、と恋心を温めている男子もきっと存在するのだろうが、大抵は自分や太宰も自尊心を満たしたいだけなような気がする。それにこういうのは日頃の関係が重要なのであって、普段から女子に優しくしていれば、美男子であろうとなかろうと義理チョコのひとつやふたつは貰えるものではないか、と恋愛に対してはいつも上位の立場であった織田は思っていた。とりあえず、一律に返すお返しは何にしようかとか、本命を今年も貰ったならどうやって傷つけずに断ろうかとか、勝負に勝ったら太宰には何をおごってもらおうかとか、モテない男子からすれば腹立たしいことこの上ないことを考えながら、1月は慌ただしく過ぎた。 一度だけ、最近よく話すようになった後輩にチョコをねだった。織田が普段通りに過ごしているならばまず知り合いになることもなかった、お堅そうな優等生の女の子だった。ひょんなことがきっかけだったが、同郷であることを知って、勝手に親しみのようなものは抱いて、下心はなしに自分からよくちょっかいをかけにいった。 顔はまあ、子どもっぽかったし色気もなかったが、丸いかわいらしい額をしていて、たまごみたいな白い肌が綺麗だった。あの潔癖じみたお堅さが和らげば、彼女に思いを寄せる男子もきっとそれなりにいることだろう。織田の普段の言動に眉をひそめる女子でも、織田が整った顔で笑顔を向ければ、大抵の場合はきまり悪そうに頬を染めて視線を背けるのだが、彼女は織田がそうしてみせたところでまるで効果がなかった。 美的感覚が人から外れているのか。はたまたまだ男子に興味がないのか。自分が女子に好かれない可能性をまるで考えにいれず傲慢にも織田は思ったのだが、よく帰り道の本屋で見かける彼女は、年相応の見た目よりは大人びた本をよく手に取っていた。それが意外にも織田の趣味にも合うものだったので、異性にまるで興味がない、という推理は外れのようだった。打てば響くような反応の良さが失礼ながら犬と接しているようで面白かったので、織田は話すたびに彼女をからかって遊んでいたのだが、結局一度も本について話したことがない。 そういう本、好きなん?不審がられずに話しかけるには格好の話題であるはずなのに、どうにも言う機会を逃してしまった。彼女と本の趣味が似ていることでどうにかなるとも思えなかった。代わりによく、ふざけた調子で名前を呼んだ。三好ちゃん。その後はいつも不機嫌そうな、懐かしい故郷の訛りを帯びた声が返ってきた。 もとよりチョコは冗談半分で言っただけなので貰えることを期待はしていなかった。たまに故郷のアクセントを聞かせてもらえるだけで、それなりに織田は満足していた。たとえ、彼女の表情が織田を好きではないと告げていたとしても。 当日、通学路で太宰に会うと、彼はいきなり大きな手提げ袋を織田に手渡した。どうやら貰ったチョコをここにいれろということらしい。毎年それなりの数を貰っているが、毎年手提げ袋なんかわざわざ用意したことはない。去年はどうやってチョコを持って帰ったのか、それすらも忘れてしまっている。誰かから袋を貰ったのか、それとも数日に分けて持って帰ったのか。 「マメやなあ太宰クン、おおきに」 純粋に感謝の気持ちで織田は言ったのだったが、威勢よく手提げ袋をつきつけてきた太宰としては期待の答えではなかったらしい。頭を軽くかきながら、唇を尖らせる。 「俺、お前と話してると調子狂うわ……」 「そうなん? なんで?」 「……まあいいや。おいオダサク、勝負、忘れんなよ」 わざわざ腰に片手を当てて、太宰が織田に向かって指を差した。勝負。こんなにやる気だったとは思わなかった。そんなんこだわらんでも太宰クンならそれなりに貰うやろうにな、とは思うが単に勝負を放棄するのも面白くない。太宰の指先を見ながら頷いた。 「ああアレな、勝負な。まあそんなんせんでもワシが勝つしええけど」 織田の飄々とした態度に太宰はいらだったらしい、放課後に結果発表するから俺んちこいよ、と一方的に約束を取り付けて、勇み足でずんずん先に行ってしまった。しかし通学路の途中で女子に声をかけられると急に気障な足取りに変わって、後ろから見ていた織田はその滑稽さに笑いを必死でかみ殺し、まだ空の手提げ袋をぶらぶらと振って学校までだらだら歩いた。 手提げ袋は、昼休みには一杯になった。手提げ袋からはみ出たラッピングを見ながら、あまり話さない男子のクラスメートですら「織田、すげえなあ」と感心半分羨ましさ半分の調子で言った。織田の机の周辺には甘ったるい匂いがたちこめた。授業中に教室をうろつく教師が、普段うっすら煙草を香らせている織田の周囲の甘い匂いに、驚いた顔をしていた。しかしそこまで厳しい学校でもないので、チョコに関しては何も言わなかった。煙草よりはマシと判断したのかもしれない。大半が義理とか、うっすらとした好意の皮を被った男友達へのチョコだったが、昼休みの終わりごろに、後輩の女子に呼び出された。数回戯れで図書館の本を取ってあげたことのある、織田からすれば「けっこうかわいい」女の子だった。それでも丁重に告白はお断りして、気持ちだけでもという彼女の意志を尊重してチョコレートは受け取った。振られたというのにやけにいい笑顔をしていた。罪悪感は少ない方がいい。だから今回は助かった、と思った。 白いリボンのかけられたひときわ綺麗な箱を片手に持って教室に戻る最中、廊下で三好を見かけた。ちょうど彼女の憧れている朔ちゃん先輩にまるで男子に渡すような調子でもじもじして、両手でそっと薄い水色の箱を手渡しているところであった。朔ちゃん先輩はその場で彼女にチョコレートを渡していた。それを見ていた男子が「いいなあ」とつぶやいているのを聞いた。いつもならばきっと学年でも美少女の朔ちゃん先輩にチョコを貰えるなんて女子は羨ましいな、と思うに違いなかった。しかし今回は、どちらが羨ましいのか織田にはわからなかった。 三好が踵を返したとき、一瞬目があった。三好ちゃん、と手をあげて声をかけようと思ったが、手にした白い箱をわざわざ持ち替えるのも、白い箱を持ったまま手を振るのもどうにも憚られて、結局やめた。三好は、織田の顔を確認すると一瞬ぎょっとしたような顔をしたが、元来は礼儀正しい性質である。織田に小さく会釈をして、朔ちゃん先輩から貰ったお返しをまるで木から落ちた雛でも拾ったかのように両手で包んで、一年の校舎へ戻っていった。他に箱やら袋やらは持っていなかったから、やはり朔ちゃん先輩のためだけにここに来たのだろう。三好が自分にくれるわけがない。やっぱりな。とひとりごちて織田は教室に戻った。授業中、朔ちゃん先輩に渡していた、三好の薄い水色の箱を思い出した。そしてふと、当たり前のことを思った。自分は冗談半分でねだっただけだったが、三好からチョコレートを、できたら本命を、朔ちゃん先輩のようにもじもじしながら渡されたいと思っている男子はおそらく自分以外にも存在するのだろう。 いいなあ。名前も知らない男子の、純粋な羨望の言葉を、織田は反芻していた。���しかするとあの男子も、三好ではなく朔ちゃん先輩が羨ましいと思ったのかもしれない。午後の数学の授業は輪をかけてつまらない。鉛筆をくるくると回していたら、机周りから漂うチョコレートの甘い香りが、やけに煩わしくなった。やっぱり、自分は煙草の匂いぐらいがちょうどいい。 放課後にチョコを渡してくる女子もそれなりにおり、愛想よく受け取っていたら織田の手提げ袋からはとうとうチョコが入りきらなくなって、結局ほとんど物が入っていない通学用のバッグに詰めた。放課後俺んち、とは言われたものの太宰と特定の時間を決めたわけでもなかったので、ホームルームの後、織田は屋上に煙草を吸いに行った。掃除場所になっていないので埃っぽくなった踊り場は、手すりに手をかけただけで鼠色のほこりが指先にこびりついた。その代わり、チョコレートの甘い匂いもしなかった。鍵の壊れた屋上に続くドアを開ける。キイキイと嫌な音を立てたかと思うと、冬の乾いた風がびゅうびゅうと入り込み、上着も着ずに学ラン一枚だった織田はぶるりと身を震わせた。 「おお寒い寒い」 つぶやきながら、ポケットの中の煙草を探る。煙草を吸うときの定位置になっている給水タンクの裏側に回り込もうとしたら、そこにはすでに先客がいた。強い風でセーラー服の裾がぱたぱたはためいている。珍しい、こんなところに女子が。あれ、と間抜けな声をだしたらセーラー服を着た背中がぱっと振り返った。丸いおでこが見えた。三好だった。 「オダサク先輩」 「あれ、三好ちゃん。どないしたん、こんなとこで」 「……オダサク先輩こそ、どないしたんですか」 「ワシ?ワシはまあ、これ吸いに。……ってそんな怖い顔せんと」 「まだ学校で吸っとるんですか」 「いや、まあ。今回が特別やって」 「嘘でしょ。ここではやめてくださいっす」 眉根を寄せて睨まれたので、手にしていた煙草をポケットにつっこんで両手をあげ、ため息をついた。 「……言うても無駄かもしれないっすけど、そんなに吸ってたら体悪しますよ」 言いつける、とかバレたら停学になりますよ、とかそういう注意ではなく、彼女はいつも織田の体を気遣う注意の仕方をする。こういうところやんなあ、とそのたびに織田は思う。お堅いし、潔癖の気があるし、口うるさいのに、そういう織田自身への心配が見えてしまうから、織田は彼女をうっとうしいとは感じないのだった。 「せやかて、体がええわけでもないしなあ」 「またそういう事言う」 「ま、ワシのことはええやん。三好ちゃんどないしたん、こんなところで。コートも着んと。そっちこそ風邪ひくで」 話題を変えると、三好は急に口ごもった。俯いて、二度、三度まばたきをした。案外目じりのまつげが長いなあと場違いなことを思ってから、ようやく三好の手元に目がいった。薄い、水色の箱。先ほど朔ちゃん先輩に渡していたものと、同じだった。つまり、彼女が持っているのは三好がおそらく手作りをしたチョコレートらしかった。 「……余ったんで、食べようと思って」 「これ、三好ちゃんが作ったやつ?」 「そうですけど。ほんまに、余ったんで」 そう言って、三好は箱を開けた。再び織田の鼻先に、ココアの甘ったるい匂いがした。箱の中には、茶色の石畳かタイルのように、四角いチョコレートが敷き詰められていた。数週間前に、織田が冗談交じりでこれがええな、と言ったものだった。 「ええん? これ、誰かにあげるつもりやったんちゃうんか?」 余ったのが確かにしても、自分で食べるつもりならば、わざわざこんな箱に入れてラッピングするわけがない。しかも、あの朔ちゃん先輩と同じ箱だ。それなりに大切な相手に、渡そうとしたのではないのか。 「ええんです、もう」 うつむいたまま、三好が言った。初めて見る表情に、織田は目をしばたかせた。 「ええってことはないやろ。せっかくこう綺麗にして持ってきてんのに」 もしかしたら、自分が思っているよりもずっと、彼女は大人になりかけていて、好きな相手に、渡そうとして、渡せなかったのかもしれない。それか、断られたのかもしれない。三好のことは、まるで男の後輩をからかうのと同じような視線で見ていた。けれども、目の前の唇をかんでうつむいている三好は、昼休みに、織田にチョコを渡してきた女の子と、同じように見えた。どんな男に、どんな気持ちで、彼女はチョコを持ってきたのか。わかりやすいと思っていた彼女の心向きが、急に靄でもかかったように見えなくなった。女の子というものは、男と違って、すぐに女性になってしまう。そうやってバカみたいな織田の男のふくれあがった自尊心を、すぐに崩してしまうのだった。 しばらく、三好のうつむきがちに伏せられた睫毛を見ていた。冬の風が容赦なく吹き付けて、二人の髪をぱらぱらと乱した。鼻の奥がむずむずしてきて、織田は沈黙を破るように小さくくしゃみをした。 「寒いなあ。なあ三好ちゃん、とりあえず校舎戻らへん?」 こんな寒い場所にいてはよりいっそう落ち込むと考えて、織田が声をかけると、三好ははじかれたように顔をあげて、それからじいっと真顔で織田を見つめた。この美男子が気になるか、という冗談は出てこなかった。 「なに、どないしたん」 しかし三好は問いかけに答えず、視線を再び落とすと開けた箱を閉めなおして、同じく手に持っていたリボンを、宙で予想以上に手慣れた様子で箱にかけた。ラッピングは元通りになって��昼休みで廊下で見た、朔ちゃん先輩に渡していたものと、そっくりになった。 突然、バシンと胸元を叩かれた。ぎょっとして胸元を見ると、さっきの水色の箱で叩かれたようだった。それをそのまま、押し付けられた。 「……あげるっす」 「え?」 「これ、オダサク先輩に、あげるっす」 三好は依然としてうつむいたままで、表情は見えなかった。白い耳の端だけが、寒さなのか別の理由なのかわからないままにうっすら赤かった。 もしかして、冗談半分にちょうだいと言っていたことを思い出したのか。それとも、覚えていたけれど朔ちゃん先輩とあげる予定だった男子にいっぱいいっぱいで、単に渡す選択肢がな��っただけだったのか。予想だにしない行動にぽかんとしながら、織田はすっかり冷えてしまった手で、箱を受け取った。 「……ワシでええの?」 すると三好が一瞬だけ顔を上げた。白い頬からじわじわ血が染み出したようにほんのり赤かった。ばら色の頬、とはこれかと、この前よんだばかりの、本の表現を思い出した。そうして、薄い唇をもごもごと動かして、強い風の中聞き取るのがやっとの声で言った。 「オダサク先輩に、持ってきた、やつなんで」 織田がその言葉に目を見張ったのもつかの間、三好は先ほどまで固まっていたのが嘘のような機敏な動作で踵を返し、すたすたと歩いていこうとした。 「え、ちょっと待ち、三好ちゃん」 「待たないっす、そもそもなんなんすか、オダサク先輩が欲しいって言うたんでしょ。……余っただけなんで、ほんまに!」 それじゃあ、と今度は顔も見ずに、三好はぱたぱたと走り去っていった。間抜けにも織田は追いかけることもできず、箱を両手に包むように持ちながら、屋上に、ひとり取り残された。力任せにしめたのか、屋上のドアが大きくきしむ音が、給水タンクの裏側からも聞こえた。風はいつのまにか先ほどより強くなっており、織田のうっとうしいぐらい長い髪の毛をばさばさに乱した。箱を見つめながら、織田はもう一度だけ、くしゃみをした。
結局、三好のチョコは太宰との勝負の数にいれなかった。彼との勝負の結果は置いておくとして、三月になって織田は、いつか本屋で三好が立ち読みしていた本を、お返しに渡した。値段はおそらく、三倍返しではすまなかっただろう。
0 notes
Text
正岡に惚れてる鴎外がモブに抱かれてる話
#ぼっちワンライ一週間チャレンジ 五日目
色気づいたな、と言われた。とても中年に差し掛かった男に掛ける言葉とは思えず、後ろから無駄に器用にシャツのボタンを乱さすかさついた手を見ながら、押し黙った。うつむき気味に視線を落とすと、筋肉は確かにあるものの、確実に青春の張りを失いつつある、いずれたるんでくるであろう自分の腹が目に入った。そんな男に色気とは。相手に表情を見られないのをいいことに自嘲で口元を歪める。すると雰囲気で察したのか、男のぶよついた指先が、胸先を押した。それだけで背筋が心を伴わない快楽で震え、机に手をつきながら、ああそうか、と思った。この男は、自分を男ととらえているわけではないのだ。手の中の、自由にできる、女ですらない人形にすぎない。それにしても、わざわざ、自分を選ぶなんてなんと趣味の悪い男であろう。男の手が、森のベルトに伸びた。
机に押さえつけられていたせいで乱れてしまった髪を神経質に撫でつけながら、建物を出た時には雨が降っていた。まだ夕方にもならないというのに、分厚い雲に覆われた空は薄暗い。傘を持たずにきた森は、降りしきる雨に深く息を吐いてから、ゆっくりと歩いた。走ろうが駆けようがが、どうせこの距離では濡れてしまう。運の悪いことに、森が歩きだすとすぐに雨脚が強くなり、乱れた髪はすぐに濡れそぼった。輪郭にそって水分がしたたりおち、詰まった襟元のなかに染み込んだ。濡れ鼠とはこういうことか、と思った。図書館では医師の業務もやり、年長者として一人前面をして、皆の相談事に乗っている自分が、図書館のそとでは、中年のからだを持て余し、あさましく誰かとそういう行為をして、何喰わぬ顔をして戻ってくる。馬鹿馬鹿しいことこの上なかった。 「森さん?」 図書館まであと五分ばかりというころ、声をかけられた。雨脚は強さを増すばかりで、数十メートル先の景色はうっすらけぶっている。目を細めると、傘をさした、体格のいい男の影が、こちらを確認するなり一目散に走ってきた。地面の水がはねてズボンに染みるのも気にせずに。どれだけ雨音で声が小さく聞こえようとも、間違えようのない男であった。 今まで体に打ち付け���いた雨が、すっと遮られる。男が、森に向かって傘をさし向けたのだった。 「……正岡殿か」 「森さん! どうしたんですか、こんなところで傘もささずに」 「なんということもない。予報を見ずに出てしまっただけだ。お前こそどうした、雨の日に、わざわざ」 「近所のこどもと、べーすぼーるの練習をしてたんですが、途中でお開きになったんです。俺は傘を持ってたんで、それで少し散歩でもしようかと」 「雨の日に用もなく出歩いていては風邪をひかないのか」 「大丈夫ですよ、それを言うなら森さんのほうでしょう」 触れているわけでもないのに、そばによっているだけで、正岡の周囲からは、あたたかな気配がした。指先までぬれぼそった、自分とは大違いだ。雨が、二人の上の傘をぱらぱらと打って、音を鳴らした。 「……それもそうか」 「さ、帰りましょう。これで森さんが風邪をひいてしまったんじゃ、医者の不養生と皆に言われてしまいますよ」 「それは困るな」 「そうでしょう」 正岡が白い歯を見せて、にっと笑った。そうして歩き出すかと思いきや、ふと気づいたようにズボンのポケットを探って、白いハンカチを、鴎外に差し出した。 「……気休めにしかならないかもしれませんけど、よかったらこれで顔でも拭いてください」 それでようやく、自分のポケットにも消毒したハンカチが入っていたことを思い出した。 「いや、いい。自分のがある 「森さん、この状態じゃハンカチもびしょびしょなんじゃないですか? 大丈夫ですよ、ちゃんと洗ってますから」 ほら、どうぞ。心からの親切心で来るものを、断ることはできなかった。頷いて、濡れた指先を、正岡の手に伸ばした。ハンカチを受け取るときに、指先が触れた。ペンや筆を握る以外のことができるようになった、健康的な男の手だ。指先がバットや銃を扱うためなのか、すこし皮が分厚くなって、それでも若さの盛りの男らしく、張りと暖かさがあった。自分の指先が、冷えているせいもあるのかもしれない。しかし、それだけではない理由で、指先が触れた時、森の脳裏には、さっきまで自分のからだをまさぐっていたあの男の、かさついた指先のうごめくさまが浮かんだ。そうして、正岡のあたたかな指先が、誰かの素肌をなぞるさまも、想像していた。 言ってしまおうかと思った。どうせどうにもならない人生だ。ここで一人で転生してきた時点で、責任を負うべき家族も、果たさなければならない社会的責務もないのだから。あるのは、ただ文学を守る気概だけであればいい。己の気持ちに正直になっても、誰ももう自分を咎めない。この、傘を握りながら、照れくさそうにハンカチを差し出す、年下の男の、服の下の、健康的な肌が欲しかった。 口を開いて、名前を呼ぼうとした。正岡殿。しかし強く打ち付けるばかりの雨の音が、森の心の声をもかき消した。言って何になるだろう。前世の病を打ち消して、今の世を楽しんでいる男に、子どものように昔出来なかったことをする彼に、一体何をさせようというのだろう。ここにいるのは、ただのあさましい、体を持て余した中年に差し掛かった男に過ぎない。 「……すまないな。感謝する」 結局、口からでたのはいつもと変りない言葉だけであった。 「いいえ、いいんです。じゃあ、早く帰りましょう。男二人で相合傘になってすみませんけど」 ほっとしたように正岡が笑い、駆けだすようにして歩き出そうとする。それを、言葉で制した。 「急がなくていい」 「え、でも」 「……走ると、お前も濡れてしまうだろう。だから、ゆっくりで構わない」 告げないと決めたのに、また時間を引き延ばそうとする自分が浅ましかった。気取られぬように、ふっと笑って見せた。 「はあ、森さんが、そうおっしゃるんなら……」 正岡が開いた手で頭をかいて、森の調子にあわせるように、ゆっくりと歩き出した。今度は何気なく、肩先が触れた。雨が強く降ると、空気が薄くなるような気がするのだなと森は思った。額を拭いたハンカチには、正岡の匂いが染み込んでいて、彼に気づかれぬように、濡れたハンカチを強く握りしめた。どうせなら、この指先に匂いが染みついてほしかった。
0 notes
Text
酒飲んでる三織
#ぼっちワンライ一週間チャレンジ 四日目
水あめを流し込んだようなとろりとした瞳をして、作之助が三好の名前を呼んだ。 「みよしくん」 なんですか、と返そうとした瞬間には、潤んだ瞳と、酒精の匂いがすぐそばにあって、三好が相変わらず体を硬くしたすきに、丸い頭をさっと引き寄せられて、匂いが濃くなったかと思うと額に濡れた感触がした。いつもなら気恥ずかしさで逃げたり引きはがしたりするのだが、今日の相手はなにせ酔っぱらいだし、当の自分も多少は酒が入っていて、正しい判断が出来ているとは言い難い。そのまま何をするでもなく固まっていたら、両頬をがっちり掴まれたまま視線を間近であわせられて、高笑いとは違うぐにゃぐにゃの顔つきで笑われた。 「みよしくん、酔ってる?」 「……オダサクさんよりは酔ってないっす」 「ワシ酔ってへんて。ちょっと頭ん中ふわふわして楽しいだけや」 「酔っぱらいはみんな、自分は酔ってへんって言うんすよ」 「だってワシ酔ってへんもん」 「はいはい」 不健康そうな白い肌を今ばかりは赤く染めて、ふへへ、と作之助が口元を緩ませた。触れたら溶けそうな表情をしている。薄い桃色のわたあめ。そう頭に浮かんだ途端に酒臭い大の男になにあほなことを、とも思って、自分の思考のいかれ具合に嫌気がさして視線をそらした。テーブルの上には、空のビール瓶が二本転がっている。ほとんどは三好が空けたものだった。作之助の前に置かれたコップの中には、もう泡が抜けてぬるくなっていそうなビールが半分ほど残っている。彼が口にしたのは、せいぜいコップに二杯ぐらいのものだった。それで気持ちよく酔えるならある意味安上がりでいいのかもしれないが、一度飲みだすといつも調子に乗って吐くまで続けてしまうらしいので、もうこれぐらいにしましょうとビールを取りあげて諫めるのは、三好の役目だった。そして意外なことに、作之助はこればかりは大人しく「うん」と頷いて、これ以上飲むのはやめるのだった。 飲みたいとか飲みに行こうとかしょっちゅう口にする割に、作之助は酒に弱かった。三好がそれに気づいたのはつい最近のことだ。基本は酒好きの揃っているこの図書館では、頻繁に宴会が行われるのだが、彼は誰かと話しこみたいときは、いつも酒ではなくコーヒーを選んでいた。しかし一度酔ってしまえば彼曰く旺盛のサービス精神だかで、宴会をしっちゃかめっちゃかにしてしまうのである。 彼が酒に弱いと知らなかったころ、三好は酒臭い彼に絡まれるのが嫌で嫌で仕方なかったものだった。けれども翌朝青い顔をして口元を抑えている作之助を見ると、自業自得だと切り捨てるよりも、無理して飲まなければいいのに、と不思議といたわるような感情が湧いた。ふたりきりで飲むような関係になってみて思えば、それが気持ちの萌芽であったのかもしれない。気持ち悪くなる一歩手前の、酩酊する直前になると、作之助はよく絡んだ相手にべたべたと甘えていた。たった今三好に見せた、わたあめのような顔をして、勝手に人の膝で寝だしたり不必要に顔を近づけたりするのである。それに若干のやきもちと、心配をこめて、そういう関係になってすこし時がたったときに、手酌でコップに三杯目のビールを注ぐ作之助の手首を掴んだ。 あんまり、自分のおらんとこで、飲まんとってください。なんで、と首をかしげる作之助に、今度ばかりは素直に言ったほうがいいだろうと思って、緊張した面持ちで、一言告げた。心配、なんで。するとよけいなお世話やとつっばねられるかと思いきや、作之助は二度三度、水あめを流しこんだあの瞳をまばたかせて、三好に聞いた。そんなら、三好クンと二人で飲むんやったらええの。予想外の切り返しに三好は驚いた。けれども飲酒の習慣を禁止する権限もないと考えたので、彼の言葉に頷いた。二人で飲むんだったら。酒の場の小さな約束ながら、意外なほど効力はあった。それ以来、作之助は酒が飲みたくなると、かならず三好に声をかけた。三好も断らなかった。 ふわふわした思考を記憶の中に漂わせていると、再び酒臭い唇が、三好の生え際に押し付けられた。一度きりかと思えば、こめかみから生え際にそって、音をたてて唇が移動していく。ちゅっちゅっ音が立てられるとさすがにもともとそういうことには潔癖な三好の性分には耐えがたく、顔を酒以外の羞恥で赤くして、小さく声をあげた。 「あの」 「なに?」 「もう、いいでしょ。その、くすぐったいんで」 「いやなん?」 「いやというかなんというかその」 「ほんならええやん」 頬を掴んでくる手の力は一向に緩まる気配がなく、結局反対側のこめかみに唇が移るまで、三好はくすぐったさとはずかしさで身をすくませながら、作之助の口づけを受けていた。視界にうっすら赤く染まった喉元が大きくうつって、思わず、生唾を飲んだ。酔っ払いに、なにをそんな。しかし毎回飲んだ後にすることと言えば決まっているので、自分の欲望に対する我慢弱さが、ちょっと嫌になった。こちらの酔いは、とっくに抜けてしまっている。 最後にこめかみに濡れた音がしたあとで、作之助が親指で、触れたあとをなぞった。 「三好クンおでこかわいいなあ。赤ちゃんみたいなおでこしてんなぁ」 「……俺、赤ちゃんちゃいますよ」 息がつまって、そう返すのが精いっぱいだった。すると作之助は頬を挟んだまま顔を離して、一瞬だけ酔いがさめたかのような顔をして、けろりとこんなことを言った。 「そうやな、セックスしとるもんな」 いくらなんでも直球すぎる。指摘に顔から火がでるような心地がして、三好は返す言葉もなくうなだれた。酒の匂いをぷんぷんさせた酔っぱらいの男に、性懲りもなく、毎回振り回されている。それでも、この表情を今しばらく���ていられるのは、自分一人だと思ったら、こうされるのも仕方がないと思ってしまう。酔っていないのにそう思う自分が、ちょっと悔しかったが、決して嫌な気分ではなかった。 酒臭い息が、今度は口元にかかった。なるほど今度は赤ん坊に対してではない口づけをするらしい。
0 notes
Text
炬燵で飲んでる朔犀
#ぼっちワンライ一週間チャレンジ 三日目
リクエスト頂いてたもの
久しぶりに部屋で二人で飲まないかと誘われて、二つ言葉で返事をしていつにない速さで朔太郎は犀星の部屋に行った。勝手知ったる仲ではあるが、念のためにノックをすると、何故だか犀星が自慢げな顔をして出迎えた。聞けば皆には言わずにこっそり部屋を改装したのだという。 「まあ入れよ。結構頑張ったんだ」 なるほどここ数週間は部屋に誘ってこずに自分の部屋に来ていたのはそのせいか。手招きされるままに部屋に入ると、もとは洋室であった犀星の部屋には、畳が敷き詰められて、それに合うように文机と、ご丁寧に炬燵と火鉢まで用意されていた。好きなものにはとことん凝り性の彼らしかった。自分は暖炉がある洋室の方が好きだけれど、さすがにそんな意見を言ったら犀星はへそを曲げてしまうだろう。まったくもって、二人の趣味は正反対だった。ひとまずよく一人で誰にも知られずに改装したことを褒めたら、犀星は得意げに「だろ」と笑った。 すでに犀星が酒も肴も用意してくれているようで、炬燵の上には熱燗や干物が並べられていた。窓までは改造しようがなかったらしい、そこだけ洋室のガラス窓になっていて、カーテンの隙間から、窓枠に小さく降り積もった雪が外の暗闇に浮かんでいる。しんしんと冷える、静かな夜だった。 炬燵に足を入れようと、布団をそっと持ち上げる。ところが赤く光る炬燵の中から、突如として丸くて黒い影がふっと視界を横切って、ぱっと朔太郎のひざ元を通り過ぎて行った。しゅるしゅる、と布がこすれる音がする。布団から手を放して影が出て行った方向を向いたら、ちょうど丸い影が膝をついた犀星の膝の上に乗っていた。どうやら二人きりではなく、部屋には先客がいたようだ。黒く見えた影は次第に色をおびて、やがてぶちのついた猫に変わった。見覚えがある。最近、図書館の周辺をうろついている野良猫だった。犀星が、しょっちゅうじゃれついている相手だ。 「なに、また連れ込んだの」 朔太郎が尋ねると、犀星が猫を撫でてやりながら眉根を寄せた。猫は犀星の手が心地いいらしい、まるで飼われている猫のように喉をならして、彼に全身を預けている。 「人聞きの悪いこと言うなよ」 「だって、犀が部屋に連れてきたんでしょ」 「まあそうだけど……だって、こんな雪の日に、外に放り出すのはかわいそうだろう。一日ぐらい、いいじゃないか」 「でも、部屋にまで連れ込むと居ついちゃうかもしれないよ」 「その時は、まあその時だ。館長に相談してみるよ」 「そう」 本当は飼いたいんだろうな、と思った。図書館にいるものたちは猫好きが多いし、その中でも犀星の猫好きは特別なものがあって、図書館周辺をうろつく野良猫のほとんどと面識があるようだった。その中でもこのぶち猫は特別犀星が目をかけている猫で、二人で散歩していてこの猫を見かけると、朔太郎との会話もほっぽりだしてじゃれあいに行ってしまう。かわいいなあ、美人だなあ。頭を撫でながら、人に対してだと赤面してしまうような言葉を猫に対しては平気で口にしていた。犀の猫たらし。朔太郎はこっそり心の中でそう呼んでいる。 猫をそっと畳に置いて、犀星も炬燵の中に入った。向かい合うには遠いので、隣のふちに足をいれると、そっとお互いの足が触れ合った。 「朔、お前脚冷たいなあ」 「足袋、履いてないから」 「履けばいいだろ、裸足じゃ風邪ひくぞ」 「だって、ひとりじゃ足袋が履けないんだもの」 「……まったく相変わらずだなあ」 「悪い?」 「悪いとは言ってないだろう。ただ、風邪には気をつけろよ。こじらせたら、今の時代でも事だからな」 こじらせたら、の語気が思ったよりもつよく、朔太郎は内心驚きつつも頷いた。犀星は世話焼きだが、ことに朔太郎が風邪をひきそうな恰好をすると、まるで母親のごとく小言を言った。なんで風邪だけはこんなに言うんだろう、移されるのがいやだからかな。そう予想はつけているが、わざわざ尋ねるほどもないと思って、理由を聞いたことはない。 「わかった、風邪には気をつけるよ」 「うん。……ま、これか���飲んで体を温めるとするか」 犀星が銚子を手に取って、朔太郎のそばに置かれている猪口に注いだ。気の使わないざっくばらんな態度にほっとして、作法のなっていない乾杯を済ませて、猪口に口をつけた。二口三口、飲み干しただけで、体の中にじわじわと熱がこもっていくのを感じた。 「……おいしい」 「だろ。一番いい酒を館長から貰ってきたんだ」 「わざわざ?」 「二人で飲むのは久しぶりだろ」 「そうだね。いつもは誰かがいるから」 「そうだなあ。それはそれで楽しいが、やっぱり二人ってのもいいな。昔を思い出して」 猪口を片手に犀星が小さく笑った。快活な瞳が、今日はすこし柔らかげに細まって、懐かしむ調子で朔太郎を見つめた。犀星も二人で過ごしたいと思ってくれていることが、当たり前ながら嬉しくて、酒の熱以外のもので、ゆっくり胸のあたりが暖かく、優しいのに苦しくなった。 肴の干物をもそもそとかじりながら、犀星が言った。今日は酒のペースが速く、炬燵の上には、空になった銚子がもう二本も転がっている。 「そうえいば昔、芥川に書かれたことがあったなあ」 「なんて?」 「いや、芥川が知り合いを食い物に例えたらなんだって話で随筆を書いててな。芥川によると俺はゲテモノの干物なんだそうだ」 「干物なの?」 「おまけにそれを俺が部屋に来てる目の前で書いてたんだよ。まったく失礼なやつだと思わないか。そりゃあ俺だって自分が綺麗な食い物に例えられるとは思っちゃいなかったが、よりによってゲテモノの干物ってどうなんだ」 「……でもなんか、わかる気がする」 「朔、お前まで!……うーん」 納得がいかないらしく、犀星が腕を組んで首を傾げた。あ、でも、と朔太郎が言葉をかけようとすると、再び後ろのほうで、しゅるしゅると畳をする音が聞こえた。二人して振り向くと、犀星の膝元にいたはずの猫が、部屋の隅の火鉢の近くに寄って暖を取っている。唇を尖らせていた口元がそれを見るなり途端に緩み、酒も入っているせいかふにゃりと笑みを作った。 「やっぱり猫はいいなあ」 猫にばかり、そんな顔をする。犀星の心からのつぶやきには答えずに、朔太郎は黙って猪口に残っていた酒を飲みほした。お互い、頭がふわふわしている。でも、犀星が猫に鼻の下を伸ばしているのを見ると、寛大な気分にはなれない。自分はこんなに嫉妬深い性質だったかな、それとも図書館に来てから嫉妬深くなったのか。とりとめのない考えが頭の中にだらだらと浮かび、とろけそうな視線を猫に向けている犀星の顔を冷めた視線で見つめた。猫は火鉢のそば、ぐにゃりぐりゃりと体を丸めたり伸ばしたりを繰り返している。そんな小さな仕草ひとつでさえ、犀星の心をとらえて離さないらしい。 「……幸せだなあ」 酒が回ってきた犀星が、ようやく猫から視線を外して、朔太郎の顔を覗き込んだ。つり目気味の大きな瞳が、酔いでうるんで、とろんとした雰囲気を帯びている。だらしなくて、迂闊で、無防備だ。けれどもその表情に、何故だか胸が詰まった。自分だって、楽しいはずなのに。 「犀、幸せ?」 「自分でも、単純だって思うけどな。部屋が暖かくて、酒が上手くて、猫がいて、それで朔がいて。……やっぱり、俺は幸せものだよ。ここで会えて、本当に良かった」 炬燵机の上に置いていた、手を取られた。体温が低い朔太郎とは異なって、犀星の手はいつも暖かい。インクと日なたと、大地の匂いがする。子どもがするように、指先が絡んだ。ペンを握るせいで硬くなった指先が、朔太郎の爪先をひっかくようになぞった。暖かさに、何故だか泣きたくなった。 いつも一緒にいるね、とよく言われるけれども、朔太郎と犀星は案外この図書館で二人だけで過ごした時間は少なかった。二人でいると大抵彼らの共通の友人知人たちが声をかけてくるし、逆に二人が離れると、お互い個人での付き合いの友人知人たちがいるものだから、むかしのように二人っきりで部屋にこもって詩の話をしたことは、数える程度しかなかった。気の合う友人と輪になって過ごすのも、悪くはない。それでも朔太郎の心の底には、いつも白秋か犀星と過ごす時間を一番に考えるところがあって、犀星がほかの友人たちと話すたびに、嫉妬まではいかなくても、すこしだけさみしい気持ちが残るのだった。けれども人付き合いを大切にする犀星に、自分を最優先してくれとはあまり言えなかった。朔太郎に朔太郎の世界があるように、犀星には犀星の世界があるのだから。 二人でいる時に、犀星にとっては親しいが朔太郎にとってはあまり知らぬ相手が声をかけてきたとき、朔太郎はいつも借りてきた猫のように黙ってしまう。犀星ならば、二人の会話の迷惑にならない程度に会話に交じってきたりするのだが、朔太郎にそんな器用な真似はできなかった。輪に入れないこどものように、いつの間にか犀星のすこし後ろに立って、会話をする犀星をじっと見ているしかなかった。早く、会話が終わらないかな。早く、こっちを向かないかな。そればかり、いつも考えている。けれども、そのさびしい時間も、会話を終えた犀星が、振り向いて笑うだけで全部飛んでいってしまうのだった。我ながら、単純なのか、複雑なのか、わからなかった。特に、彼に関しては。 へへへ、へへへ、と犀星がしまりなく笑った後で、突然畳に寝転がって、うつらうつらとし始めた。炬燵の中で寝たら風邪を引くよ。いつもは犀星が言う言葉を、朔太郎が言った。けれども、犀星はふにゃふにゃと笑うばかりで、朔太郎の手をつかんだまま、やがて寝息を立て始めた。揺り起こすべきか迷ったけれど、犀星の手は放すには暖かすぎて、離れがたかった。彼を起こさないようにそっと足を抜いて、犀星が足をいれたふちに、自分も足をいれて、自分も寝転がった。目じりにつれて長くなるまつげが、静かに震えている。 背中に腕を回して、胸元に顔を寄せた。さすがに酒臭かったが、それが良かった。アルコールの匂いと、犀星の日なたを感じさせる体臭が混じって、不思議と朔太郎を安心させた。自分の着物に、この匂いが染みついてほしかった。 再び、畳がこすれるおとがして、朔太郎は再び、首だけを動かした。すると火鉢のそばにいたはずの猫が、ちょうど犀星の頭のそばまで来ていて、じいっと朔太郎を見つめていた。しばらく無言で見つめあった後、猫は不意に踵を返すようにして、また火鉢のところへ戻っていった。どうやら今回、犀星をめぐる戦いに勝ったのは自分だったらしい。 「……ごめんね」 この彼か彼女には、なんの罪もないのだけれど。しかし、犀星の隣は、隣だけは、最終的に誰にも譲るつもりはないのだった。それが例え、猫であっても。肩口に顔を埋めて、体を引き寄せる。犀星の体がもぞもぞとうごいて、ちいさく「さく」とつぶやいた。それに心が震えるのを感じながら、お互い喉が渇いて夜中に目を覚ますまで、抱き合って眠った。
0 notes
Text
啄木と光太郎
#ぼっちワンライ一週間チャレンジ 二日目
明日は予定がないから夜に部屋にきて、と言われて期待しないほうがおかしい。おかげで楽しそうな他の誘いも全部放り出して、ご丁寧に風呂にまで入って、友人から新しい酒をちょいと拝借して、どこかふわふわした気持ちで部屋をノックしたというのに、返ってきた声は表面上はいつもどおりだが、今までにないぐらい、どこかに沈んだ色がある。 「おう、これ」 迎え入れられるなり明るい調子で片手で酒を持ち上げてみせるが、高村は口の端をちょっとあげただけだった。いつも、石川が酒を持ってくると、彼はあまり笑わない。また持ってきたの、さっきも食堂で飲んでたじゃない、と母親みたいな小言を言うのが常であって、それは彼の心配心から来るものだと石川もわかっているので、まあいいじゃんか、と軽く返すだけである。心配されるのはうれしいが、改善する気もさしてない。そう言うと我ながら大概な性格してるよな、と思うけれども、それなりに長い付き合いだから高村とてわかっているに違いない。そんな男とわかっていて、部屋に招くのだから。 「ありがとう、入って」 うなずいて部屋に入って、勝手知ったる寝台に腰かけてみたはいいが、当の高村の様子が勝手知らない風なので、どうしたもんかなと首を傾げた。本来なら、適当に雑談をして、何かあればちょっと飲んだりつまんだりして、それから絶対に会話がふっと途切れる時があって、そこで抱きしめたりだとか場合によっては高村の方からちょっぴり彫刻の木の匂いか絵の具の匂いをさせながら抱きついてきたりとかがあって、まあそこからいろいろしたりする。 石川が部屋に来るとき、高村はいつだって穏やかだ。柔らかい顔立ちをいっそう柔らかくして、大人の男に表現したもんじゃないだろうが、砂糖菓子のような笑い方をする。この甘ったるさはきっと石川を甘やかしていることからくるもので、それを見ると、毎回のことながら愛されてんだなあと感慨深くなった。 今日も、高村は笑っている。しかしながら、いつもの笑い方じゃないと本能的に気づいたのは、自分もそれなりに、高村ほどの寛大さは伴わないにしても、彼のことを見ている証なのだろうかと思った。 「なあ」 ご丁寧にひとりぶんの距離をあけて、高村が寝台に腰かけてきた。ため息でもこぼれそうな空気なのに、石川の声にこちらを向いた顔は相変わらず口角がうっすら上がっている。 「なに?」 「なんか、あったか?」 確か高村は今日の午後潜書に出ていたはずである。なにかあったとしたら、そこでか。それとも図書館の中で、何かあったのか。とりあえず、原因は自分にはない、と思いたい。迷惑をかけているのは自覚しているが、さすがに高村も落ち込む原因を部屋に招いたりはしないだろう。 「なんかって?」 「いや、なんかって、なんか悪いことでもあったか?」 「どうしてそんなこと聞くの?」 「なんかいつもと違うなって思ったんだよ」 「どこらへんが?」 「どこらへんってなあ……そうやって聞いてくるとことか、まあいろいろ」 こんな押し問答もいつもはしない。石川の言うことに、高村はいちいちつっかかったりしないからだ。なにかあった、のは既に確実、しかしそれがなんなのか、は目下のところわからない。彼が、話してくれない限り。 顔を覗き込むと、笑っていたはずの高村の唇が、ほんのすこしだけ、とがっていた。初めて見る顔だ。なんだか、すこし、こどもみたいな。しばらくとがった先を眺めていたら、唇がかすかにもごもごと動いた後で、やがて小さく息を吐いた。 「……あったけど」 「おう」 「……あったけど、なかった」 それっきり、高村は黙ってしまった。あったけど言いたくない、そういうことなのだろう。言ってくれなきゃわかんねえよ、と珍しく彼をここまで落ち込ませたことを問いただしたい気もするが、たとえこういう関係になったとしても、知られたくないことは自��にもある。借金のこととか、借金のこととか、借金のこととか。 そういう時、高村はいつもの砂糖菓子みたいに笑うだけで、石川には何も尋ねなかった。今度はきっと、石川の番なのだ。何をしてやるべきだろう。自分に余裕があったなら、好きな色の絵の具を買ってやるとか、そういうこともできるのかもしれない。しかしあるのは借金と、友人から拝借してきた安酒だけである。いつだって、甘やかされている。しかしいざ自分が甘やかそうと思っても、どうしたもんかさっぱり思い浮かばない。 高村、と小さく名前を呼んだ。彼が顔を上げてなに、のなの形が作られる前に、そっと頭の後ろ側に手を回した。ついでに前髪を払ったら、やっぱり彫刻に使うらしい、木の匂いがする。育ちのよさそうな、白い額が見えて、生え際のあたりに、引き寄せながら軽く口をつけた。ちょっとだけ、濡れた音がする。 口を離したら自分のしたことながらくっさ!と羞恥がもたげてきて、高村の顔を見たまま、照れくささで頬をかいた。突然のことに高村はぽかんとした顔をして、しばらく自身の額にふれていたが、やがて状況が理解できたのか石川のように照れた調子もなくけろりと言った。 「口にはしないの?」 さっきまで変な感じだったくせに、急にもとに戻ってしまった。いや、まあ、お前がいいならするけどよ。恥ずかしいくせに欲望丸出しの言葉を石川がぶつぶつ言うと、高村はまた二人っきりの時に見せる砂糖菓子のような顔をして、「うん、いいよ」と笑った。やっぱり、甘やかされているのは自分の方だなと思いながら、今度は手を高村の頬に添えた。
スポンサーリンク
0 notes
Text
こたつであれこれある話(三織)
炬燵要素すぐなくなりますけどね
炬燵の誘惑に負けたのがいけなかった。そもそも作之助の部屋を訪ねて何事もなく過ごせたことが一度もないのに、どうして今回ばかりはゆっくり温まって茶でも飲んで帰れると思っていたのだろう。お司書はんに頼んで部屋に炬燵入れてもらってん、蜜柑もあるから部屋おいで、と作之助が珍しくにやけ顔も見せずに言ったのがつい昨日の事、優しい誘い方にほだされたのか、炬燵と言う魅惑の二文字に心が吸い寄せられてしまったのか、それは一度頷いてしまえばどうにもわからなかった。そして底冷えのする本日の夜、着物を着て部屋を訪ね、同じく着物姿の作之助に迎え入れられて茶を淹れてもらい、炬燵に足をいれた。そこまではよかった。そう、そこまでは。 思った以上に冷えていたつま先に、炬燵の中は心地よかった。ところが作之助が三好より一足遅れて向かい側に入った途端、状況は一変した。白い足袋を履いた作之助のつま先が、同じく足袋を履いた三好の足裏をつっつくように引っ掻いたのだった。偶然当たったのかと足を横に移動させると、あろうことか作之助はそれを追ってきて、またつついた。体をびくりとさせて顔をあげると、作之助は平然とした顔で炬燵机に頬杖をついている。炬燵布団の下で行われていることなどしったこっちゃない、と言う顔で。いくら足袋越しでも、さすがに足の裏はくすぐったい。 「……あの」 「んー?なんや?」 笑いが漏れそうになるのを必死にこらえ声をかけたが、作之助は何食わぬ顔で卓上のかごに盛られた蜜柑に手を伸ばした。つま先は足裏から移動して、三好の袴の裾に潜り込んだ。むこうずねを撫でたと思いきや、またするすると裾から出ていって足をつつく。今度はくすぐったさよりもむずむずと先ほどとは違う感覚がして、三好は身体を固くし、炬燵机の縁を掴んだ。 「あの、やめないっすか、それ」 「それってなに?」 「いや、だからその」 何の真似だという問いかけは何故か出来なかった。足の蹴りあいでも仕掛けてくれたら対処の仕様もあったのに、こう含みを持ってつつかれると居心地が悪そうに肩をちいさくすることしかできない。強く足で蹴とばすこともできず、もぞもぞ己のつま先で押してみたりしたが、いざ三好がつつこうとしたところでつま先はひょいと逃げて、隙を狙ってまた脛をなぞってくる。それでいて表情はからかいもふくまずに、しれっと蜜柑を剥いているのだから性質が悪いことこの上なかった。ぺりぺりと皮がはがれる音と共に水気のある甘酸っぱい匂いが漂ってきたが、足元が気になって香りを楽しむ余裕もない。 「三好クンみかん食べる?」 「い、いいっす」 綺麗に剥かれた身を差し出されたが、咄嗟に首を振った。こんな状況で食べられるわけがあるか。作之助のつま先はまたもや器用に今度は三好の足首辺りをつついている。つま先を丸めたら、着物の裾をわった、作之助のすねに先があたった。普段はよほどのことがない限り触れることのない場所である。こたつで暖まっているのとはまた別の理由で、顔が熱くなった。 「なんで? こたつにはみかんやろ?」 「そうですけど今はいらないっす、いいです」 「そうか。あーあ、せっかく剥いたのに」 もしかして上半身と下半身が分離してお互い別の意思で動いているのではないかと思えるぐらい、それぞれの動作には関連が見当たらなかった。 「かわいそうなみかんちゃんやな。ワシが食うたろ」 「みかんちゃんって」 「ちゃん付けたらかわいいやろ。大阪やったらなんでもちゃんつけるもんや」 男なのに、たまに作之助は二人の故郷のおばさんが言いそうなことを言った。それに強いていうならおみかんだろうし、みかんちゃんなんて聞いたことがない。同郷ながらよくわからない思考に三好が首を傾げたのをつかの間、つま先が再び袴の裾をわって、つま先が足首から上をすうっとなぞった。あっという間に膝小僧まで到達して、うすい布越しに、つま先が丸く円をかいた。内腿がこわばって、背筋がぞっとした。 作之助からすれば他愛ないかもしれない悪戯も、三好にとっては限界だった。掴んでいた炬燵机の縁を強く押し、つま先が離れた瞬間に腰を引いた。案外すんなりと足は炬燵から抜けたが、反動で炬燵机を蹴ってしてしまい、三好の身体はこてんと仰向けに倒れた。案外しっかりしたつくりの炬燵は多少揺れただけでびくともしない。 さっきの感覚でまだ顔が赤かった。なんで炬燵に入りに来ただけなのに、こんな恥ずかしいことになっているのか。天井を見ながら現状にため息をついて体勢を起こした。さすがに、作之助と話をしなければならない。しかし作之助はみかんを持ったまま机につっぷしていた。見れば、肩が小刻みに震えている。 「……ちょっと、オダサクさん」 その動作に彼の意図をすべてを察した三好は脳内で思わず汚い言葉が浮かんだ。オダサクこの野郎。おそらく蜜柑をすすめながら心のうちで笑っていたのだろう。 「……いや、ごめんごめん」 笑いを必死に堪えている様子で作之助がチラリと顔をあげたが、三好と視線が合うとぷっと噴き出して、やがてははは、ははは、と堰を切ったように笑いだした。 「何笑っとるんすか!おまけに白々しくみかんまで剥いといて」 「だって、すぐに何すんねんって言うてくると思とったし」 「そっちが知りませんって顔するからでしょ!」 「三好クンかて、いつもやったらすぐ怒るくせに、今日は何やつつかれても言い出しにくそうな顔しとるし。それでなんか面白なってしもて。……いや、ほんま、ごめんな。やりすぎたわ」 謝罪の言葉は述べたものの、作之助は三好の顔を見るなり口元を抑えてまた笑いだした。くふくふ笑う息が指の隙間からこぼれた。 「オダサクさん俺怒らしに部屋呼んだんとちゃいますよね」 「ちゃうて。これはコミュニケーションの一環やん」 「何がコミュニケーションすか。まったくもう」 怒るのもあほらしく思えてきて、三好はふぅっと息をついて肩を下げた。とは言え完全に納得がいくわけもなく顔をしかめて唇を尖らせると、笑いのようやくおさまった作之助が首を傾げて炬燵机越しに顔を覗きこんできた。真面目な顔で目をしばたかれると、このままそっぽを向くのも大人げないような気がしてしまう。 「許してくれる?」 「許すも何も、コミュニケーションなんでしょ」 「そうか。ほな、仲直りにみかん食べる?」 「はあ、みかんは食べますけど……」 みかんちゃんじゃなかったのか、と内心思いつつも下手につっこむと疲れそうだったのでやめた。炬燵布団を軽く摘まんで足をすべり込ませようとすると、左足が裸足であることに気付いた。いたずらされているときに足袋の金具が外れて、無理矢理ひっこぬいたときに脱げてしまったのだろう。 「あ」 「どないしたん?」 「足袋が……」 布団を大きくめくった。赤い光に照らされて、奥の方に脱げた足袋があった。そのすぐ隣に、作之助の細い足首が見えて、三好の心臓が小さく音をたてたような気がした。 「あった?」 「オダサクさんの、足元のとこに」 「そうか。どれどれ」 作之助が手だけ布団の中に差し込んで、足元を探ってみせる。幸いすぐに彼の手に当たり、無事足袋は炬燵のなかから救出され、三好は炬燵布団をもとに戻した。 「お、これか?」 「あ、はい。そうです」 机越しに受け取るのもなんだと思って三好が立ち上がろうとすると、それよりも早く足袋を手に取った作之助が立ち、すたすたと向かい側まで歩いてきた。座ったままの三好がわざわざすいませんと手を伸ばすと、作之助はそれには答えずに三好の足元にしゃがみこんで、裸足になったつま先と手元の足袋を交互に見比べて言った。 「三好クン」 「なんすか?」 「足袋、履かしたろか」 「はい?」 提案が理解できぬまま首を傾げると、作之助は三好の左足首をひょいとつかんで自分の膝の上に置いた。手の冷たさに腰を引いて逃げようとするが今度は尻が滑ってまた仰向けに転びかける。両肘をついてなんとか上半身だけ起こした。 「あの、いいっす、いいんで、足袋、返してください」 「さっきのお詫びに履かしてあげる」 「お詫びとかいいっす」 「ええからええから」 そう言って作之助は片手で器用に足袋を履かせる形に整える。有無を言わさず逃げ出そうかとも思ったが、足首を緩やかに掴まれたままなので、そうするとどうしても作之助を蹴飛ばす格好になる。以前の自分ならいざ知らず、さすがにこれぐらいで相手を蹴飛ばすのは憚られて、結局羞恥と触れられているくすぐったさの中で、決まり悪い顔をしているしかなかった。 足を持ち上げて、作之助が足袋をつま先に被せた。そのまま足首まで足袋をつつませて、コハゼをひとつ、ゆっくりとめた。丁寧さがむずがゆい。 「……これ、お詫びになっとるんすか?」 触れる感触に気をそらそうと声をかけた。そもそもお詫びとは相手のしてほしいことをするものではないのか。先ほどの三好の顔が、足袋を履かせて欲しそうな表情だったとでも言うのだろうか。詫びだと作之助は言ったが、いまだに彼の気まぐれに巻き込まれているような気がしてならなかった。しかしコハゼをとめる作之助の表情はにやにやするでもなく意外に真剣で、そうなるとやはりいまいち真意が読めない。 「せやって、靴下履かせてもらうんは男のロマンやろ?」 けろりと作之助が言った。わざわざ三好と視線をあわせ、当たり前だろうとでも言いたげである。 「ロマンて」 「あれ、ちゃうの?三好クンかていっぺんぐらい妄想したことあるやろ、かわいい嫁さんに靴下履かしてもらうん」 「はあ」 三好とて男なので、いずれ妻君を持つ身となったなら、ああいうことをしてみたいとかしてほしいとか、そういった願望がなかったわけでもない。しかし精々玄関先に鞄を持って送ってくれたらいいなとか、朝優しい声で起こしてくれたらいいなとか、ある意味少年らしいぼんやりとした幻想を抱いていただけで、作之助のように具体的な想像などしたことがなかった。そもそも結婚に関する、気の早すぎる妄想さえも、目の前の男とこういうことになってしまってから頭の中から飛んでしまっていたのに。 「……ないっすよ、そんなん」 「うせやん」 「おまけにオダサクさん男でしょ、そのオダサクさんの言うかわいい嫁さんとは月とスッポンっす」 「その代わりこの美男子に免じてチャラにしといて」 「ならないっす」 「えー手厳しいな。さすがジョジョー詩人三好達治先生は理想が高い、と」 「待ってくださいよ、そもそも俺そんな妄想したこともないんすよ、理想が高いも何もないやないですか」 「まあまあそうムキにならんと。はい、終わったで。お疲れさん」 言葉を制するように、作之助が三好の脚をぽんぽんと叩いた。ようやく膝から足を下ろす。しかし三好の気は晴れなかった。 どうせなら、できる限り長いこと続く関係でいたいと三好は思っている。この戦いが終わっても、ずっと。感情の段階を踏んだ付き合いではなく、転がり落ちるように始まった付き合いだが、それでも馬鹿げた喧嘩や小競り合いを繰り返しながら、それがなんらかの将来に繋がるのだろうと思っていた。 けれども、家族のやり取りのままごとめいたじゃれあいをしたところで、三好のほのかな願望であった家庭の情景のなかに、朝優しく起こしてくれる作之助の姿も、玄関先まで見送ってくれる作之助の姿も、どこにも見つからなかった。彼と家族になりたいわけではないのだから、当たり前なのかもしれない。だとするなら、自分は彼とどうなりたいのだろう。そばにいたい気持ちはある。しかし、それといずれ来るだろう未来が、三好には結びつけることができなかった。こんな近くに、いたとしても。 「次は、かわいい嫁さんに履かしてもらいや」 足首を掴んでいた手がするりと伸びて、親指が三好の頬骨を撫でた。ふっと作之助が笑う。ここでいつものにやにやした笑顔であったなら、すべては冗談だと片付けることもできたはずなのに、息をもらすだけの笑みは三好の悲しい自覚を促すだけだった。 二人には今しかないのだった。それは作之助とて同じことだった。ただ、三好には自覚がなく、作之助は最初からそれを自覚していた。それだけの話だった。だから作之助は毎回懲りずに三好を部屋に招くと平穏に過ごさせようとしないのだ。だって彼には今と言う点しかない。二人がここでこうしているのは、点が偶然重なって、か細い線をつくっているからに過ぎない。それに情と呼ぶには湿った、恋と呼ぶには乾いた感情が絡まって、二人をどうにか繋いでいる。 「さて、ええかげんにみかん食べよか」 剥きっぱなしにしとったわ、お茶も淹れっぱなしやし。何事もなかったかのように言って、作之助が立ち上がろうとする。三好はこのまま炬燵に入り直して、別のくだらない話を続ける気にはなれず、礼だけ言って帰ろうかと考えた。しかし変な体勢でしばらくいたせいか、足袋を履き直したばかりのせいか、立ち上がろうと中腰になった瞬間に再度足が滑った。机に掴まればいいものを、何故か目の前にいた作之助の襟元を掴んでしまう。 ふわっと体が宙に浮くような感覚があったかと思うと、すぐに頭と背中を畳に叩きつけられた。おまけに作之助の体が思いきりのしかかったものだから、いくら畳とは言え後頭部がそこそこの痛みを訴えてくる。 今日は一体、何回転べば気がすむのだろうか。師匠の朔太郎は何でもないところでよく転んだりつんのめったりする人だが、まさかそんなところが弟子たる自分にも受け継がれつつあるのか。どうせなら、受け継ぐのは詩の情熱と才能だけにしておきたい。痛む頭のなかで、とりとめのない考えが浮かんだ。 「……三好クン、足腰大丈夫か?」 倒れこんだ作之助が、もぞもぞ顔を上げて覗き込んできた。後れ毛がぱらぱら顔にかかって、三好の首にも触れてくる。 「……あんまり大丈夫や、ないみたいっす」 「ほんまに大丈夫か?足腰やると人間早いんやで」 「そんな縁起でもないこと言わんといてくださいよ。それより、すいません。そっちこそ大丈夫っすか」 「まあワシは大丈夫や。ほんまにいけるか? 頭アホになってへん?」 胸の上に頬杖をついて、空いた手で作之助が頭を撫でてくる。おそらく全身の体重をかけられているはずなのに、ちっとも重くないのが逆におそろしい。 「もし自分がアホになってたら、オダサクさんのせいっすからね」 「ワシのせいなん?」 「そうです」 「全部?」 「そうです、全部、オダサクさんのせいです」 「ええー困るわ、やったら三好クンがアホになった責任ワシがとらなあかんの?」 いつの間にか、また足が絡んだ。倒れて軽く剥き出しになった作之助の足が、捲れた三好の袴の下の足にあたる。炬燵で暖まっていたせいなのか、指先と違って素肌同士は触れあわせていても生ぬるい。 「そもそもなんでワシのせいになんねん」 「オダサクさんが足袋履かしたりするからっす」 「そこからかいな。なんで? 嫌やった? せやったら言うたらええやん。ワシかて本気で嫌がるならそんなんせんし」 疑わしかったがそこを追及するのはやめておいた。最近薄々、いや確実にわかりはじめてきたことだが、どうも彼は三好の嫌そうな顔を見るのが楽しいらしい。悪趣味なやつめ、と思うが悪趣味でない織田作之助は織田作之助たりえないのも、理解している。 「俺いいですって言うたでしょ」 「すっころばせたお詫びに男のロマン叶えたろかと思って」 「そもそもそこがおかしいんすよ」 「なにが?」 「そもそも、俺女の子に足袋履かせてもらいたいやなんて思ったことないですし、それにあったとしても、男のロマンなんかオダサクさんに叶えてもらおうや思ってないっす」 目を丸くした作之助の頬杖が外れた瞬間に、体勢を入れ換えた。自分のように後頭部をぶちつけるのはことなので、そっと。案外素直に体はころりと転がって、足は絡ませたまま、今度は三好が作之助を見下ろした。顔を見るのも、頬杖をつくのも気恥ずかしくて、襟元に顔を埋めた。 「……オダサクさんとは、みかん食べるとか、炬燵であったまるとか、そういうんでいいです」 本当はまあ、他にいろんなこともしているし、したい気持ちもあるのたが、とても口にできたものではなかった。 遠い未来できるかできないかもわからない、かわいいかどうかもわからない妻君より、この露悪的で、高笑いをする、自分より図体のでかい自称美男子の男がよかった。三好の男のロマンは、あるとするなら、それこそ詩に託せばいい。叶わないぶん、誰よりも美しい言葉にしてやろう。 「……三好クン」 長い腕が背中に回って、そこから先ほどぶつけた後頭部を撫でた。顔が上げられなかったので埋めたまま答えた。 「なんすか」 「やっぱり自分、頭アホになってへん?」 「ちょっと、」 せっかく恥ずかしいながらも言ったのにこいつは。明らかに茶化す口調に軽くイラついてやっぱり離れようとすると、がっちり抱きつかれたまま二人で畳の上をころころ転がった。ようやく三好の視界に天井が見えると、また作之助が三好の胸に頭を載せて、くつくつ笑いを喉奥に潜ませている。 「……今度は何がおかしいんすか」 今日は厄日に違いないと思いながら、三好は手を額に当てて、本日二度目のため息をつく。炬燵にはいってお茶を飲み、みかんを食べ、談笑して帰るはずだったのに。悪戯はされるし、二回も仰向けに転ぶし、足袋を履かされて恥ずかしい思いはするし、後頭部はまだちょっと痛いし、みかんはまだ口にすらしていない。それでも今の方がいいと思うのは、自分も堕落してきたせいなのか。 「なにって、全部や」 笑いながら、作之助が顔をあげる。目を細めて、心からおかしそうだった。 「全部っすか」 「せや。三好クンが全部ワシのせいにするんとおんなじやろ」 笑いすぎて明日腹筋が痛くなるのではと疑わしいくらい、作之助の笑いは止まらなかった。三好の胸に顔を埋めても、首筋に埋めても止まらず、さすがに困惑した三好が呼吸を心配して背を撫でたらようやく止まった。 「……もう、おかしないんですか」 「うん。まぁ」 目尻に浮かんだ涙を拭いながら、作之助が顔を上げる。結局すべてが水の泡になった気がして、三好が唇を尖らせたら、今度はそれを作之助の口でついばまれてしまったので、もうどうしようもなくなった。口づけの合間に、作之助が言った。 「……おおきに、三好クン」 何に感謝してなのか、アホになってしまった三好の頭ではわからなかった。とりあえず全部、作之助のせいだということにした。 もう一回、抱き合ったまま畳の上を転がって二人が足を絡ませるなり口づけをするなりしていたら、今度は作之助の足袋が脱げた。仕返しに男のロマンなんでしょ、と言って作之助の細い足首を掴んで履かせた。すると意外にも、三好以上に決まり悪そうに視線を泳がせる作之助の顔があったので、すこしだけ、ざまあみさらせ、と三好は思った。
剥かれたみかんは炬燵机の熱で暖まって、二人で口にしたときには既になまぬるかった。
0 notes
Text
ブルーベリー・ナイツ(※付き合ってない白樺派)
両片思いの白樺派
食べ物の話なのに美味しそうじゃないのがアレ
零時すぎの誰もいない食堂で、志賀は台所を借りていた。図書室にあった外国の料理本にひとつ気になったものがあって、調べてみれば食堂の台所で常備されている材料でできそうだったので、こうして夕食を終えたあとに、菓子作りに励んでいたわけである。集中したかいもあって、焼きあがった後に少々味見をしてみたところ、はじめてつくった割に結果は上出来だった。明日武者にくわせてみるか、ともっぱら志賀の作る料理の味見役になっている友人の顔を思い浮かべながら片づけをしていたら、当の武者本人が、ひとりでふらふらと食堂に入ってきて、志賀の姿を見つけるとすぐに台所越しのカウンターに座った。 挨拶もそこそこに聞けば、たった今臨時の潜書から帰ってきたばかりだと言う。飯は、と尋ねると武者には珍しいことに無言で首を振り、志賀が泡だて器やらボウルやらをかちゃかちゃ音を立てて洗っているのをぼうっと見ていた。なるほど、潜書中に何かあったな。己とて癇癪持ちで、思ったことが隠せない性質なのは知っている。でもさすがに、目の前の男よりはマシだろうな、と思う。 「拗ねてんのか」 「拗ねてない」 「じゃあ怒ってんのか」 「怒ってないよ」 「頬杖ついて頬を膨らましている男のどこが怒ってねえんだ?」 「……べつに、誰かに怒ってるとか拗ねてるとかじゃなくて」 口を少々まごつかせて、唇を尖らせながら武者が言った。志賀の指摘にムキになるわけでもなく、なにか納得したところがあるようだった。そしてその素直さこそが、友人の何より代えがたい美点であることを志賀は知っていた。 「どうした」 「今回、あとちょっとで」 「おう」 「あとちょっとでMVP取れたのになあって、それで、自分のふがいなさが嫌だなあって」 ボウルについた水滴を拭きとっていた手をとめて、志賀は武者を見た。丸っこい、少年らしく輝く瞳が、すっかりしょげかえっている。 「そりゃあまあ、出るたび自分がMVP取れりゃそれに越したことねえけど。毎回そういうわけにもいかねえだろ」 「うん。まあ、そうなんだけど、そうなんだけど……」 一体今回の選書に何があったのか。それとなく聞き出してみたい気もしたが、どうにも武者からこれ以上話すつもりがなさそうな気配を感じ取って、俯いてしまった彼の顔をカウンター越しに覗きこむようにしながら、小さく息をはいた。自分も武者も、相当な頑固者だ。まったくしょうがねえやつだなあ。武者に対して何回も思った言葉を、心のなかでひとりごちた。しかしその変わらなさが、志賀と武者を結びつけるところでもあるからだ。 「そうだ、なあ武者」 「なに?」 「さっき作ったやつ、味見してくれよ」 「いま? もう夜中だよ」 「いいじゃねえか。どうせ今晩、あんまり眠れねえんだろ」 「それは、そうだけど」 「それにもともとお前に味見してもらうように作ったやつだったしな。早いか遅いかの違いだろ」 武者は数秒口元をまごつかせていたが、やがて小さく「いいよ」と頷いた。 「なに作ったの?」 「パイ」 「パイ?」 「図書室に本があってな。ブルーベリーってのを使ってるらしい。調べたら台所に冷凍されてるのがあったから、それにした」 「ふうん」 先程しまったばかりの、切り分け用のナイフと皿をを取り出した。本当は焼きあがってから一晩おくのがいいらしいが、菓子と言うものは、きっとこういう時のためにあるのだ。誰かの心を、健康にするための。 武者はパイに興味を持ち始めたらしく、志賀が台所の隅に冷ますために置いてあったそれを持ってくると、カウンターから身を乗り出してじっと眺めた。丸い瞳に、うっすら好奇心がよみがえってきた。 「きれいな色だね。美味しそう」 「だろ? おまけに目にもいいんだってよ」 慎重に切り分けて、ついでに台所にあった絞るだけのホイップクリームを添えた。野郎に食べさせる絵面じゃねえな、とも思ったが、目の前に皿を置かれた時の武者の表情が、少年を通り越して子どものそれだったので、まあいいかと思った。二人分の���茶も入れた。食べたそうな顔をしているのに、志賀がカップを置いて隣に座るまで、じっと待っているのがなんだかおかしかった。 「いただきます」 「おう」 丁寧に手を合わせて、武者がフォークを静かに持ち上げた。音も立てずにパイにフォークを差して、小さく取り分けて先にちょっとだけホイップクリームをつけて、口に運んだ。やっぱり武者は、育ちがいいなと思った。 「……どうだ?」 「……へへ、美味しい。志賀はさすがだね」 横顔がようやく笑った。武者を元気づけるつもりのはずだったのに、何故だか自分の方が嬉しくなってきてしまって、志賀はそうだろとわかった風に言いながら、カップに口をつけた。甘酸っぱい香りがゆるやかに、カウンターの隅に漂った。 武者が食べ進めるのを見守りながら、ぽつりぽつりとどうでもいい話をした。武者は自分がするわけでもないのに、志賀の料理の話を聞きたがった。食堂には、誰も訪れる気配がない。遠くで誰かが音楽をかけている様子もうかがえない。静かな夜だった。今回あったことを、武者は話さなかったが、それでいいと志賀は思った。明日また、彼が元気に笑っていればいい。 ホイップクリームの形が崩れ、ブルーベリーのソースと混じり始めた頃、紅茶の湯気が消えかけてしまった頃、言葉少なになりはじめた武者が、フォークを置いてこてんとカウンターに頭を預けた。なんとまあ、食べている最中に睡魔に襲われたらしい。普段ならば自分の頬をひっぱたいてまで起きている方なのに、さすがに今回は疲労もあって、睡魔には勝てなかったようである。揺り起こすべきかと思ったが、潜書時の精神的疲労を志賀も知っているため、すぐに起こす気には慣れなかった。余りを片づけてから、起こせばいいだろう。 台所からもう一本フォークを持ってきて、座り直した。皿を自分のところに引き寄せると、さきほどまでつっぷしていた武者の顔が、いつの間にかこちらを向いているのがわかった。すうすうと、健やかな寝息まで立てている。それだけならよかったのだが、何故か武者の上唇あたりには、きれいにホイップクリームが薄い髭のように貼りついていた。少年めいた顔立ちに、まだ髭は似合わない。一体どうやって食べてたらこうなるんだとちょっとおかしくなりつつ、口元に手を伸ばした。が、触れるか触れないかのところで手はとまり、どうしても、先にはいかなかった。熱で崩れたホイップクリームに、青いブルーベリーのソースが混じる様が、脳裏にぱっと浮かんだ。白いものに、べつのなにかが、混ざってしまう。 かわりに、気づいたら手は武者の前髪を払っていた。知的そうな、白い額が、志賀の前にさらされた。口元は拭えないくせにこんなとこはするのかと自嘲しながら、そっと生え際のあたりに唇を寄せた。武者の寝息が、首筋にかかった。起きる気配はない。それでよかった。後悔が襲ってくる前に、身体を離して、滅多にない強引さで残ったパイを突き刺して、一口で食べた。 武者は美味しいと笑ったが、志賀にはブルーベリーが、すこし酸っぱすぎるように感じられた。冷えた紅茶で、パイを流し込んだ。甘酸っぱい匂いはしばらくこのカウンターに漂って、ふたりの白い服に、染みこんでしまったような気がした。
夕食後に館長の仕事を手伝ったら、菓子を貰った。手伝った、とは言えせいぜい一往復しなければならない荷物を片道にしてあげた程度だが、それでもえらく喜ばれて、酒はまた今度という約束とともに、彼はどうやら本来は自分用らしい、甘い洋菓子を武者に寄越した。 何か手伝いをして褒美をもらうなんて子どものようだなあと思ったけれど、いくつになったとしても感謝されて嬉しくないわけがない。逆に何回もお礼を言って館長と別れたあと、足は自然に志賀の部屋へと向かった。夕食の時、仕事がたまっている、と珍しくぼやいていたことを思い出したのだった。甘いものは、疲れた時にいいらしい。それに先日、志賀は落ち込んだ武者のために手作りの菓子を食べさせてくれた。おすそ分けをするには、ちょうどいいと思った。 「志賀、入っていい?」 勝手知ったる彼の部屋をノックして、声も待たずにドアを開けた。ドアから顔をのぞかせるとほぼ同時ぐらいに、部屋のデスクの置かれたあたりから、「おう」と声がした。 「館長さんからお菓子貰ったから、よかったら一緒に、あれ?」 いつもなら片付いている志賀のデスクには原稿用紙や辞書が山のように積み重なって、志賀の姿が見当たらない。貰った洋菓子の箱を別のテーブルに置いて、デスクの方に近づくと、分厚い何冊も重なった辞書の隙間から、志賀がようやく顔をのぞかせて、軽く武者に手を振った。明らかに、顔が疲れている。 「よう、どうした」 「そっちこそ、どうしたの。珍しいね、志賀がこんなに紙に埋もれてるなんて」 「いや、ホイホイ批評引き受けちまったらたまっちまってよ……自分でもこんなに引き受けてたとは思ってなくてな」 「そうなんだ。これ、今日中に全部やらなきゃいけないの?」 「そんなことねえけど、まあニ、三日のうちにはな」 面倒見のいい志賀は、図書館の仲間から小説や詩の批評を頼まれると基本、断らない。もちろん武者も何度も世話になっていて、その率直さに嬉しくなったり欠点を指摘されてへそを曲げたりもするのだが、友人として文学について忌憚なく語り合える友達というのはありがたいことだとは思っている。あまり、改善点の提案を受け入れたことはないけれども。 「それより、お前どうしたんだ。腹が減ったっつっても今日は飯作ってやれねぇぞ」 「そうじゃないよ。この前のパイのお礼に、館長さんからもらったお菓子よかったらどうかなって」 「パイ?」 志賀からしてくれたことなのに、なぜだか彼は眉を寄せた。 「この前の夜、食べさせてくれたじゃないか。あれ、美味しかったよ」 「あああれな。あれ、ちょっとすっぱかっただろ。たいしたことねえよ」 潜書から帰還して落ち込んでいる武者に食べさせてくれた、ブルーベリーパイ。疲れすぎて食べている最中に眠り込んでしまって、口元にホイップクリームをつけたまま志賀に揺り起こされたりしたのだが、あの日のパイは志賀の優しさも相まって、大変おいしかった。 「そんなことない。美味しかったってば」 「そうかぁ?」 味よりも、志賀が作ってくれたことが何より重要なのに、何故だか翌朝に礼を言っても、志賀はどこかきまり悪そうにするばかりで、いつものように当然だと言いたげに笑うことも、武者の口元にひげのように貼りついたホイップクリームをからかうこともしなかった。よっぽど自分では味に納得がいかなかったのか、それとも武者が眠っているあいだに失礼なことでもしてしまったのか。詳しい理由はいまだに聞けていないが、今日の志賀も、あのパイに関しては「すっぱい」としか語らない。きっと何かあったとしても、話す気はないのだろう。 「ま、武者が美味いってんならいいけどよ。あれ一応お前用だったし」 「うん。僕にとっては美味しかったからそれでいいんだよ。で、どうしよう。忙しいなら帰ろうか」 「いや、いい。ちょうど煮詰まってたとこだ。ここらで、休憩にするか。じゃあ息抜きに茶でも淹れるとするかな」 志賀が立ち上がりついでにデスクを叩いたら、積み重なった原稿用紙がばさばさっと一気に落ちた。あっという間に、床が白い紙に埋もれる。 「うわ」 「大丈夫? いいよ志賀、僕が拾うよ」 「いいのか? 悪いな」 しゃがみこんで、武者が先に原稿用紙の束を拾った。見るつもりはなかったのに、タイトルのすぐ下の、小林多喜二、という几帳面な文字がぱっと目に入った。志賀は原稿用紙を武者に任せて、部屋に置かれたカップとポットで茶の用意を始めている。 「あ、小林君の」 「ああ、多喜二のか。あいつはいいな、お前と違って指摘をすぐ受け入れるしな」 口調がからかうものに変わって、原稿用紙をそろえながらも思わずむっとする。 「ねえ、もしかして志賀、批評するたびに僕を引き合いに出してないよね」 「だってお前みたいに何回指摘してもまったくやり方変えないやつ、少なくとも俺に毎回批評頼んでくる連中にはいねえし」 「うるさいなあ。せっかく整理してあげてるのに」 「だって事実だろうが。ま、お前はお前のままでいいんじゃねえか」 「なら言わないでよ」 「はいはい。もうこの辺でいいぜ、机の上適当に置いといてくれ」 部屋の隅で準備でかちゃかちゃやっていた志賀が、テーブルのあたりに行って武者が置いた菓子の包みをあけている。武者が原稿用紙の束をデスクに置いて手を払いながらテーブルに近寄ると、菓子を見ながら「さすが館長、美味そうなもん選ぶな」と感心したように言った。 見た目同様に、菓子は美味しかった。志賀の淹れてくれた紅茶をすすりながら、二人で館長の物を見る目はさすがだとか、そういう話を適当にした。 「この菓子、俺も今度作ってみるかな」 「作ったら、また食べさせてよ。そうだ、あのパイもまた食べたいな」 また志賀が眉を寄せる。どうしてこんなに、困ったような顔をするのか。 「あれ、そんなに気に入ったのか?」 「うん。少なくとも、僕は好きだよ」 志賀が黙って、紅茶のスプーンを砂糖ものせていないのにカップに入れて、数回、くるくると回した。カップの中に、渦巻きが起こったのを、武者も何も言わずに眺めた。何故だか、口をはさんではいけないような気がしたからだ。 カップの波がおさまったころ、志賀がぽつりと言った。 「……あのな、武者」 「うん」 「いや、やっぱりいい。今度また、あのパイ作ってみるか」 「うん。待ってる」 武者が頷くと、志賀はようやく、小さく息をはいて笑った。それからまた、二人で志賀の自転車の話だとか、武者の描いている絵の話だとかをした。文学の話はしなかった。どうでもいい雑談をしている最中に、志賀が船をこぎ始めた。疲れているのだろうとことはわかっていたから、無理に声はかけなかった。やがてとうとう志賀がテーブルの上につっぷしたかと思うと、寝息を立て始めた。自分もパイを食べながら寝てしまった時、こんな感じだったのだろうかと思った。 志賀の右腕が、テーブルから落ちるように下がっていた。指先に、濃い青のインクがこびりついている。不思議と、あの夜のブルーベリーの色を思い出した。 そっと、自分も机に頭をつけて、志賀の寝顔をのぞきこみながら、指先に手を伸ばした。インクでうっすら汚れた指先は、ペンだこができて、硬くなっていた。物書きの手だな、と思った。いろんなことに興味が向かう自分とは違って、物を書くためだけに生きてきた手だった。硬くなりすぎた指先は、志賀の歩んだ、人生そのものだった。突然、それがとても頼もしく、���おしく思った。志賀が物書きとして真っ直ぐ生きていてくれるから、きっと自分は、どこにでも行けるのだ。 そっと指先を弄んだ。夢の中でも、志賀は小説について考えているのであろうか。その中に、ちょっとでも、すこしでも、自分がいたらいいなと、勝手なことを思った。起こさないように手を離そうとしたら、まるで指切りをするように志賀の小指が武者の小指に絡んだ。すこしだけ、吐く息が震えた。
0 notes