気ままに小説を書いています。 ペダル(荒東)・WT(嵐迅)・とうらぶ(つるいち/いちつる)等中心に雑食です。
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瞳は心の窓(則さに)
「最近のきみときたらどうだ。まるで恋をしているようだな」 審神者は、つい最近修行から帰還したばかりの刀から投げ掛けられた不意の一言に思わず、は、と気の抜けた声を上げ、背後を振り返った。 振り向いた先に在る金色の瞳は、まるで悪戯が成功した子供のような無邪気さを含んでにんまりと笑んでいる。修行を経た彼は、相も変わらず驚きを提供することに余念がないようだった。 どうやら話が長くなりそうだという気配を察した審神者は、机の上の書類に視線を落として一つ溜め息を吐くと、片手で握っていた万年筆を机の上に置き、身体ごと彼に向き直る。 「……鶴丸。いったい、なんの話ですか」 審神者の声は冷静そのものだった。 問い掛けられた鶴丸国永は、胡坐を掻いた膝の上に頬杖をつき、さてはて、と惚けたように声を上げる。審神者のことを試すような挑発的な色を浮かべた瞳の奥には、隠しきれない好奇心が渦巻いているようだった。 「心当たりがおありかな、主どの」 「――あると思うんですか」 「どうかな、それはきみが一番よぉく知っているんじゃないか?」 「……なんのことやら」 ふうん、そうかい、と相槌を打った鶴丸の声の調子は軽く弾んでいて、見るからに今の状況を楽しがっている様が見て取れた。 審神者が、鶴丸、と咎めるように少し鋭い声音で彼の名を呼ぼうとも、肩を竦めるような芝居染みた動作が返ってくるだけだ。それどころか、本当に心当たりはないのかい、と揶揄うような口振りで探るような視線を審神者へ向けてくる。 審神者は、彼女が賢明に取り繕っているその内側を見透かそうと目を凝らす鶴丸の視線に居心地の悪さを覚えながら、だから、なんの話ですか、と何でもない素振りで返すことしかできなかった。 「一文字則宗」 鶴丸が口にした九つの文字の並びは、審神者の心臓をぎゅうと締め付ける。それは、鶴丸が修行から帰還したのと同時期に本丸へやって来た、政府の監査官だった刀の名だ。彼女の脳裏に蘇ったのは、そんな彼を初めて目にした時に沸き上がった感情である。あれは、――。審神者は一つ瞬きをして、面白がるように笑っている鶴丸の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。 「……何です、藪から棒に」 「おいおい、違うだろう。きみの意中の相手のことだ」 「鶴丸、あなた――」 「惚ける必要なんてないだろう?」 先程まであんなに面白がったように笑っていた鶴丸の瞳は、一瞬のうちに真剣な色を帯びていた。この本丸ではわりと早い時期から顕現していた彼は、普段は審神者を揶揄したり驚かせたりすることに精を出しているくせに、ふとした時に思慮深い一面や年長者として若人を導こうとするような一面を覗かせるのだ。審神者は、そんな彼の姿を見るたび、千歳の時を過ごした刀の奥深さを思い知らされる。目の前の鶴丸に限った話ではないが、たかだか二十数年程度しか生きていない審神者には��解も及ばないようなものを見ているような気にさせられるのだ。 審神者の瞳をじっと見つめていた金色の瞳が、仕方がないなあ、とでもいうように優しく細められ、いいかい、と幼子を諭すような穏やかな口振りで言葉を紡いでいく。 「何を勘違いしているかは知らないが、別に責めているわけじゃないぜ。これでも喜んでいるところさ。今まで浮いた話も聞かなかったからなあ。きみも年頃の娘なんだ、恋のひとつやふたつ……うん、結構、結構なことだ」 「……鶴丸」 審神者は、何と返せば良いのか分からずに口籠る。鶴丸の審神者を甘やかすような言葉を聞いて頭の片隅に思い浮かんでしまった甘い幻想を振り払うように頭を振り、私は仕事で手一杯です、と口にした。恋だの愛だのに現を抜かしている場合ではないと己を戒める審神者に向けられた金色の瞳は呆れの色を浮かべているようにも思えたが、まっ、いいさ、と鶴丸は審神者の言葉に理解を示したように頷く。 「決めるのはきみだ。捨てるも育むも好きにすりゃあいい」
✿ ❀ ✿
審神者は、その刀を一目見た時、心を奪われてしまったのだ。 職業柄、見目麗しいものは見慣れていると思っていた。審神者に就任したばかりの頃は、新しい刀が励起されるたび、人ならざるうつくしさを持つ彼らの存在に心を強く揺り動かされることもあったものだが――この頃は、いっそ見飽きてしまったのではないかという程、心は平静を貫いていたから。うつくしいものは、確かにうつくしい。しかし、毎日のようにうつくしいものと顔を合わせていれば、目も心も自ずと鍛えられてくるというものだ、などと自負していたのだが――恋の前では、そんなものは無意味だった。 己が俗に言う一目惚れをしてしまったことに気付いた審神者は、何とかその場をやり過ごして、一人きりになった部屋で頻りに首を傾げて、おかしいなあ、と独り言ちる。一目惚れなんて言葉とは縁遠く、惚れっぽい性質とは懸け離れ冷めた己を自覚しているだけに、これは何の運命の悪戯かな、と思ったのだ。 もっとも、審神者は何分表面を取り繕うのは上手な人間だったので、恋に溺れた無様な自分を晒すまいと、いたっていつも通りの平静な面を貼り付けて過ごしていた。あの日、鶴丸に指摘された時は肝を冷やしたものだが、好きにすればいいという言葉通り、彼はそれ以上首を突っ込むつもりはないらしく、近頃は違う驚きに目を向けているようだ。初期刀も何か言いたげな視線を向けてくることはあったが、鶴丸のように審神者の内面に踏み込んで来ることはなかったから、ここのところは本当に平穏な日々を送れている。そうこうしているうちに燃え上がりそうな心も落ち着いて、日常が戻ってくることを期待した――のだが、人生はそうも上手く回っていかないのだとまざまざと知らしめられることになった。 「――おや、お前さんか、主」 それは、月夜の綺麗な夜だった。恐らくもう寝る前だったらしい一文字則宗は、寝着に羽織りを引っ掛けている。 審神者の姿を目にした彼は、ぱち、と意外そうに目を瞬かせた。長い睫毛に縁取られた瞳は、今でこそ凪いだ湖畔のような透き通った薄い色をしているが、それが光の加減によっては紅や金の虹彩も見て取れるような、何とも言えないふしぎな色になることを知っている。それがうつくしすぎてすこし恐ろしいと思ったのは、彼と初めて目をあわせた時だったかもしれない。大輪の菊のようにうつくしく柔らかそうな金糸の髪を夜風に揺らした則宗は、ふむ、と顎に手をあてた。 審神者は、少しばかり寝付きが良くないからと寝酒を口にしようと寝室から飛び出したことを今更になって後悔し、ええと、と口籠る。初鍛刀で古株である薬研からは、まさに口八丁ってやつだな、と目を細めて笑われたこともある自慢の舌は、こんな時ばかり仕事を放棄してしまう。まったく困ったものである。審神者は戸惑いを面に出さないように気を付けながら、こんな夜更けに何を、と問いかけた。 「いやいや、どうにも眠れなかったもんでな……すこしばかり散歩でも、と思っただけさ。お前さんは?」 「……私も、あまりよく眠れなかったもので。寝酒でも、と」 審神者は、厨に向かうところでした、と正直に返した。こんなところで取り繕ったところで仕方がないだろう。なるほどなあと納得したように笑って頷いた則宗は、そういえば、と話を切り出す。 このまま話の流れでこの場を去ろうとしていた審神者は、己の目論見が阻まれたことに眉根を寄せそうになることを堪え、なんでしょう、と普段通りの素振りで問いかけた。 「ひとつ気になることがあってな」 「……気になること、ですか」 「ああ、そうだ。ぜひお前さんに教えてもらいたいことさ、主」 審神者は、何とも話の雲行きが怪しくなっているような気配を察知し、少し強引にでも話を切り上げてこの場を去らねばと思い、もう遅いですからよければ明日にでも時間をとりますよ、と取り繕ったように笑ってみせる。 そんな審神者の様子をじっと見つめた則宗は、そうか、と彼にしては珍しいくらい静かな声で相槌を打った。何を考えているか分からないがうつくしい瞳に見つめられて戸惑った審神者は、気取られないようになるべく自然な仕草を装って、則宗から視線を逸らそうとする――が、その瞬間を察していたかのように、己とは違う熱をもった体温が肌に触れた。 「――っ、な、に」 不意を突かれたように己の手を取られた審神者は、思わず則宗の顔を見てしまう。先程よりもうんと近くに在るあのふしぎな瞳と、視線が絡まる。冷めたような色をしているように見える薄浅葱の向こうに燻っている熱に気付いて、ひゅ、と喉が鳴った。とくん、とくん、と心臓が早鐘を打つのが分かって、寒いくらいの夜風に吹かれている頬がどうにも熱い。 お前さん、と瞳を覗き込んできた則宗の顔は面白いものを見つけたような色に彩られていた。 「どうして僕と目を合わせたがらないんだ?」 「……分かっていて聞くんですか。ほんと、くそじじいですね」 審神者はそんなに鈍いほうではないと自負している。そして、まだ短い付き合いではあるが、目の前に居る刀もまた己以上に敏い刀であると気付いていた。政府の刀として顕現していたこともあって、励起されたての刀剣男士と比べ人の器との付き合いにも慣れているだろう。そんな彼からしてみれば、赤子とも変わらないような年の審神者が抱いている心の機微を察することなど容易いに違いない。だからこそ、目を合わせたくなかったのだ。あの一瞬――たった一瞬で、すべてを持っていかれてしまったのだから。審神者は、これ以上、彼に対して差し出せるものがない。 「目は時に言葉よりも雄弁に語る、ってわけだ。――うははは、そんな顔をする必要はないさ。なぁ、主」 しんと静まり返った夜更けにはよく響きすぎる笑い声に慌てたのは、どうやら審神者だけだったようだ。再び沈黙を取り戻した夜にも、ひたりと合わせられて逸らすことが許されない視線にも、落ち着かない気分になる。もはや既に悟られているとしても、これ以上暴かれて無遠慮に踏み散らかされるのは御免だった。審神者は、はなしてください、と掴まれた手を振り払おうとするが、見かけよりもずっと力強い腕を振り払うことはできない。 「後生大事に抱えとくようなもんでもない。そうだろう? 言えばいいじゃないか」 すべてを理解しているように語り掛けてくる声は、まるで他人事のようにも聞こえる。それが向けられるのが己であると知りながら、そのようなことを言うのか。審神者は、腹の底から込み上げてきた熱を抑え込むように低い声で、伝えてどうしろと、と問う。審神者が差し出しただけのものを返せと言うつもりはない。元より、それ以上の進展を望むことも無く朽ち果てるだけのものだったはずだ。そんな審神者の内心を見透かしたように、違うな、と則宗はばっさりと審神者の言葉を一蹴した。 「それを決めるのは僕であるべきだ」 審神者にできることは、気持ちを捨てるか、或いは差し出すことで――差し出してしまえば、それ以降は受け取った側である彼が決めるべきことだ。確かに、それはそうだろう。しかし、審神者はそもそも差し出すつもりもなかったのである。強引に差し出させておいて何という言い草だろうと眉根を顰めた審神者は、ゆらゆらと揺れ動いて今にも泣きだしそうな心に気取られないように、き、と則宗を睨み据える。 しかし、審神者の可愛げのない強がりなど長い時を生きる彼にはお見通しのようで、そんな顔をするな、と宥めるような言葉が降ってきた。 「なぁに、悪いようにはせんさ」 「……私は、審神者です」 「そりゃあそうだ、お前さんが審神者なのは見れば分かる。そんなこと、ここにいる誰も疑わんだろう」 まるで幼子を褒めるよう��、お前さんはよくやっているよ、と目を細めた則宗の言葉は審神者の心には甘く響かない。彼女にとって、それは当然のことだからだ。それすらもできなくなったとしたならば、彼女は審神者として此処にいる意味がなかった。――恋。恋、などと。審神者の中の冷静な部分が、ずっと叫んでいるのだ。そんなものに現を抜かす暇があったら、審神者としての役目に邁進すべきである、と。唇を引き結んだ彼女に眉を下げて、ふう、と息を吐いた則宗は、頑なな娘だなぁ、と呟く。その言葉に、ずきり、と胸が痛んだような気がした。 「待て待て! 悪い意味じゃない。そのほうが崩し甲斐があるってもんだろう?」 「……なに、を」 「これでも長く生きてるんでな、若いのと違って気は長いほうだ」 審神者の手を掴んでいた彼の手が離れる。それにほっと安堵するよりも先に一抹の寂しさを覚えてしまうのだから、もはや引き返せないのかもしれないと心の片隅で思う。どうしようもない自分に不甲斐なくなって俯きそうになった審神者は、再び己に伸びてきた則宗の指先が頬をそっと撫でた感触に、思わず目を瞑ってしまう。彼の手から解放されたのだから、早くこの場から逃げればいいはずなのに、足がまるで縫い留められたようにその場から一歩も動くことはできなかった。 「安心するといい。若い娘ひとりおちてきたところで抱えられんほど非力じゃないさ。――まぁ、今日はこれくらいにしておくか」 先の楽しみはとっておくほうなんでな、と笑った声の後に額にかかる髪の毛を指先が払う気配がした。そのすぐあとに触れた温もりの正体に辿り着くよりも前――審神者が閉じていた目をぱっと開いた時には、既に則宗は背を向けてその場を去るところだった。審神者が思わず声を上げそうになると、後ろを振り返った彼は、しい、と唇の前に人差し指をたてる。 「今のは僕とお前さんだけの秘密で頼むぞ。初期刀の坊主に知られたらうるさそうだ。……じゃあな、あんまり飲み過ぎるんじゃないぞ」 にんまりと微笑んだ則宗は、審神者の返事もきかずに立ち去ってしまう。向かった方角からしても、きっと部屋に戻るのだろう。その背を呼び止めることもできずに見送った審神者は、思わずへなへなと腰を抜かしてその場に座り込んだ。――さすがにあそこまで意味深げな言葉の数々を投げ掛けられてその意味を察せられないほど鈍いつもりはない。何で、どうして。そんな疑問ばかりが頭の中をぐるぐると巡るが、残念ながら、その問いかけに答えてくれるであろう刀は既にこの場にいなかった。
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イッツ ジャスト ビギニング!!(dnd+kbn)
キョダイマックスしていたリザードンを襲った一撃は、彼の残り僅かだった体力を削り切ったようだった。リザードンは炎を上げ、光に包まれながら元の姿へと戻り、ボールに戻っていく――まるで世界が静まり返ったような一瞬の静寂の後、劈くような大歓声が世界を満たしていく。
ああ、負けだ。
咄嗟に帽子を深く被り顔を隠した。帽子の鍔を持つ手に力が籠もり、指先が震える。歯を食いしばって、ぐっと腹の奥底から湧き出てきた感情を呑み下した。そして、唇を引き結ぶ。終わりとは、はたして、こんなにも呆気ないものだっただろうか。ああ、悔しい。悔しくて、悔しくて、たまらない。こんな気持ちは、一体、いつぶりだろう。バトルに敗北する瞬間は、こんなにも胸を締め付けるものだっただろうか。もっと、もっと、と己の内側から湧き上がるような衝動が抑えきれずに――けれど、それでも唇に笑みを浮かべることができたのは、10年という短くはない期間、王座に君臨し続けた矜持か、それとも、新たに吹いた風に確かに心を高鳴らせる己に気付けたからか、はたまた、あるいは。 帽子を手離し、宙に向かって投げ捨てる。――チャンピオンタイムイズオーバー。口にした瞬間に、決して短くはなかった10年という歳月の重みに胸が引き裂かれそうになるけれど、心を震わせるような最高の試合ができたことに対する感謝の気持ちは決して嘘ではなかった。 ガラル地方の皆で強くなる。強くなって、どうか己に挑戦してほしい。己に立ち向かってくる強者の存在をいつだって、何度だって求めていた。壁があればあるほど燃えるものだ。そんな願いを込めて、この10年間を過ごしてきた。もっとも、どんな勝負を前にしても、負けるつもりなんて到底なかったのだけれど――こうして、新たな風が吹き、10年間守り続けてきたチャンピオンの幕が下りたことによって、確かに、何かが大きく変わっていく予感がする。
停滞は、ありえない。常に、進まなければ。上を、ただ上だけを見つめて。
◆ ◇ ◆
久々に訪れた実家で、実に久しぶりにゆっくりと食事を取り、己の部屋で眠ったダンデは、穏やか過ぎる朝の目覚めにぱちりと目を瞬かせる。まだ朝早いため、家の中は静まり返っていた。必要以上に物音を立てないように気を付けながら、静かに身支度を調えた彼は、家の外へと出る。長閑でゆったりと時間の流れる己の故郷の景色に目を細め、こんなにゆっくりとした時間は何時振りだろうか、と考えた。ダンデは、胸の奥に燻っている感情を抑え込むように胸に手を当て、すう、と大きく息を吸う。澄んだ空気が、彼の肺を満たしていく。こんな一日も、きっと、そう悪くはない。――それでも、己は、こんな風に穏やかにゆったりと過ごすことはできないだろう、と分かっていた。
恐らく、きっと、それだけでは満たされないのだ。
◆ ◇ ◆
勝負に負けて、そこで心折れてしまう姿を何度も見てきた。時には、ダンデ自身が折ってしまった意志もあった。それは、ガラル地方の皆で強くなることを目指しているダンデの本意ではない。一方で、仕方がないことだとも思っていた。手酷い敗北の味を知って、それでもなお、諦めずに立ち向かってほしいと言える立場ではない。それを強要することは、誰にもできないからだ。 そうだ。負けるとは、そういうことである。ダンデは、心折られることこそ無かったが、それでも、悔しくて悔しくてたまらない気持ちに、これを何度も味わうのはやっぱり嫌だな、と思った。 「どうだった? 久々の敗北の味は」 オレさまが味合わせてやりたかったけどな、と言う彼の言葉はからかうような軽やかな響きすら含んでいたが、その胸の内が言葉と同様に軽いものであるとは到底思えなかった。彼だって、悔しくてたまらないに違いないのだ。 自他共に認めるライバルであるキバナの姿を瞳に映したダンデは、二度と味わいたくはないな、と軽い口振りで返した。鮮やかすぎる空のような色の瞳を瞬かせたキバナは、ふうん、じゃあ今度はオレが味合わせてやるよ、と軽口を叩く。彼は、表面上はまるでいつも通りのように見えた。そうだ、ダンデに負けた時だって、次の日には、けろりといつもの顔をしてみせるのがキバナという男なのだ。 なあ、キバナ。ダンデは、彼の名を呼んだ。うん?――と不思議そうにダンデを見たキバナは穏やかな目をしていて、バトル中の彼からはまるで想像もできない。 「キミは、すごいなあ」 「……あのなあ、嫌味言いたいわけじゃないんだろうけどさ。それ、他のヤツに言うのはやめなよ」 キバナは、呆れというにはどこか優しさが透けて見えるような顔をして、ほんっと仕方ないやつだなあ、と呟く。それは聞き分けの無い子供を前にしたような態度だった。 確かに、彼の言う通りかもしれないが、ダンデだって言う相手くらいは選んでいるに決まっている。ダンデは、少し不貞腐れたように、だって、キミは怒らないじゃないか、と呟く。ダンデの言葉の意味をきちんと捉えられる相手だと知っているからこそ言ったのだ。 「なあ、キバナ。……キミは、これから、どうするんだ?」 「……どうも何も、変わらないよ。倒す相手は増えたけどな」 先程まで穏やかで凪いでいた瞳の奥には、バトル中を思わせるようなぎらぎらとした輝きが垣間見えるようだった。キバナの心は、ただひたすらに勝利を目指しているのだろう。そうやって高みを目指して歩み続けられる彼は、眩しいくらいに真っ直ぐに映る。キバナは、ダンデに対して、これからどうするのか、とは問い返さなかった。ただ、真っ直ぐにダンデの姿を見つめて、なあ、と笑う。 「まだまだこれから、だろ?��� ダンデは、その言葉を聞いて、ああ、そうだな、と心から頷くことができた。確かに10年間守り続けてきたチャンピオンの座を明け渡し、今までの日々に別れを告げることになったのは事実だ。しかし、それは、ただの終わりじゃない。何かが終われば、また何かが始まるのだ。 「……そうだな。まだ、始まったばかりだ」 ダンデは、己を急かすような衝動を抑えきれないように笑った。あの時から、ずっと胸が高鳴っている。早く、もっと、と胸の奥でずっと声を上げているのだ。 己は、きっと走り続けるのだろう。今までが、そうだったように。これからも、ずっと。ダンデの願いは、まだ叶っていないのだから。
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腐食(鶴さに)
※「あやかし本丸」シリーズの鶴丸×女審神者です ※もしかしたら続く……かもしれない
遂にこの本丸も現世と同じ季節を映すようになったのか、と笑ったのは本丸の近侍である鶴丸だった。そんな彼の目線の先には、開いた襖の向こう側――しとしとと雨に降られ続けてしっとりと濡れた庭がある。この本丸が気まぐれなのはいつものことで、今回はその気まぐれが現世の季節と上手い具合に噛み合った。じめじめと湿った空気と暑さが相俟って、憂鬱な季節の到来である。 それにしても、あっついな。鶴丸は、首筋に張り付いた己の髪の毛を煩わしそうに指先で撥ね退けながら鬱陶しそうに呟いた。 「こうも湿気が酷いと錆びつきそうだ」 金色の瞳を伏せて憂鬱そうな彼の姿は、そのうつくしく誂えられた見目のせいか、まるで絵画を鑑賞しているような気にさせる。 審神者は、はて、と首を傾げた。審神者の記憶が確かならば――彼は、昨日、他の刀剣達と水遊びをした挙句にヒートアップし過ぎて全身ずぶ濡れになって帰ってきたはずである。そのことを思い出した審神者は、昨日の時点でもう手遅れではないかしら、と独り言のように呟く。 「なあ――俺が錆びたら、きみは悲しむか?」 伏せられていたはずの金色の瞳が、いつの間にか、審神者の姿をはっきりと捉えていた。鶴丸がこんな風に審神者を試すようなことを口にするのは、今に始まったことではない。 「……錆びることがあるの?」 審神者は、鶴丸ほど巧みに言葉を操れないため、彼の言葉に対して咄嗟に上手く切り返すことができなかった。 人間である審神者よりも余程人間らしい鶴丸は、そりゃあ刀だからなあ、と当然のような顔をして笑ってみせる。まるで人のように温度のある振る舞いをするくせに、己が物であることを何よりも知っている彼の姿は、時折、ちぐはぐに見えた。 鶴丸は、それ以上、審神者の答えを求めることもなく、いつも通りの顔をして、ちょいと厨からお八つでも持ってこようか、と腰を上げる。飄々とした彼の後ろ姿が襖の向こうに消えていくのを見送った審神者は、小さく息を吐く。 それは、刀が錆びる病があるという噂が流れる、ほんの数日前の出来事だった。
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繰り返しの日々(鶴丸+男審神者)
※自殺や死を匂わす表現がありますので苦手な方はご注意ください。殺伐としています。らぶはありません。
高層ビルの屋上、髪をぶわりと靡かせる風の強さ、ネオンの光が騒がしい星一つ見えない明るすぎる夜。少年は学生服をきっちりと着込んだ状態で、ぼう、と眼下に広がる車と人々の群れを見下ろした。いっそ、此処から飛ぼうか。そうすれば、今まで見たこともない景色に出逢える気がする――そんな仄暗い誘惑が頭の片隅に過ったが、それで解放されるはずもないことを知っている。此処から落ちたところで、望んだ終焉はやって来ないのだ。何故なら、少年が何度終わりを望んでも、それを与えられることはないのだから。目が覚めた時には、素知らぬ振りをしたいつも通りの朝が彼を迎えるだけだった。政府のお偉い術者だか何だかは、それを祝福と呼び、あるいは呪いと呼んだ。 「きみに翼はないから、飛び降りたところで飛べやしないだろう。無駄なことを繰り返すのかい?」 「……こんな高い場所から落ちたら人生とさよならじゃん」 「まあ、普通だったらなあ」 きみは普通じゃないから無理じゃないか?――と無粋なことを笑顔で告げる彼に人の心はないのだろうし、期待するだけ無駄なことも知っている。そもそも、彼の本質は鋼の塊だ。しかし、少年が彼にそれを告げれば、心外だ、と笑うのだろう。にんまりと微笑む唇とは裏腹に欠片も笑わない望月のような金色の瞳は、その刃のように正しく鋭い光を宿しているだけだ。それは「主」と呼ばれるものに向ける視線としては、まったく正しくはない。しかし、これが彼らの在り方だった。歪んでいて、一ミリだって正しいものなどない――けれど、それを覆すことは許されないのである。何故なら、これは間違えてしまった少年に対する罰なのだから。 「……なあ、鶴丸。いい加減、斬ってくれないの?」 「残念だったなあ、主。俺は、きみのその願いだけは叶えてやれないんだ。きみが生きることを望むまでは、絶対にな」 ああ、残念、残念!――鶴丸の謳うような声が邪魔で、腹いせにやっぱり飛んでやろうかと足を一歩踏み出したくなったが、それが実行されることはない。少年は無駄なことはしない主義だったから、結局、煌びやかな都会の夜に背を向けることしかできなかったのである。
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いつか、その時には(ひよジュン)
「……卒業、おめでとうございます」 アンバーの瞳は少し逸らされたままで、日和を映そうとはしない。ぶっきらぼうな口調で告げられた言葉は、口調のわりに真摯な言葉だった。その言葉と共に、ずい、と押し付けるように差し出されたのは花束である。咄嗟に眼前へ差し出されたそれを受け取った日和は、色とりどりの美しい色を咲かせている花々とそれを束ねているリボンの鮮やかな色に目を細めて、うんうん、と上機嫌に笑ってみせた。 「ジュンくんにしては上出来だね!」 ジュンの瞳は、その言葉を聞いて僅かに揺れたように見えた。一瞬だけ、きゅ、と引き結ばれた唇は、瞬きの間には再び可愛げのない生意気な憎まれ口をたたく。今度こそ日和の姿を映したアンバーの瞳には、強がりの色がありありと浮かんでいるけれど、それには気付かない振りをして、いつものように笑ってみせる。 其処には、いつも通りの光景があった。まるで明日もそうであると疑わないかのような、そんな光景が。
もう、明日など来ないことを互いに知っているくせに。
✿ ❀ ✿
元々、この部屋には、ジュンの私物よりも日和の私物のほうが明らかに多かった。だからこそ、彼の持ち物が運び出された後の寮の部屋は、いつもよりも広く感じて、妙に居心地の悪さのようなものを覚える。心の表面をざわりと撫でられたようで、落ち着かなくなった。それを寂しさだと教えてくれるひとは居ない。ただ、ただ、腹の奥底で燻っている感情を持て余すようにしゃがみ込んで膝を抱える。はあ、と吐き出した息は重苦しい色を帯びていた。 「……なんで」 こんなにも、心が搔き乱されるような気持ちになるのだろう。――清々するんじゃないか。そんな風に思っていたのがただの強がりでしかないと分かってしまうほどに、空虚感が己を蝕んでいく。じわり、じわり、視界が滲んでいることに気が付けば、もう手遅れだった。漏れ出そうになる嗚咽を押し殺して、ぼろぼろと零れ落ちて頬を濡らしていく滴を拭い去ることもせずに、ただただ溢れ出て止まらない感情を流している。まるで蛇口を捻ったみたいに次から次へと溢れ出てくる感情の流れは、留まることを知らない。そうやって感情が全て流れ落ちるのを待つだけだったジュンは、不意に扉が開く音に肩を大きく跳ねさせる。――ジュン以外でこの部屋に入れる人は、ただ一人だ。そして、それは、もう此処へ来ることはないはずのひとだった。 開いた扉から顔を覗かせた彼は、ジュンが取り繕う間もなく部屋にずかずかと入ってきて、ジュンくん、とジュンの名を呼んだ。それは、驚くくらいにいつも通りの声で、それが余計に胸を揺らす。きっと、彼にとっては、晴れやかな今日というこの日は、こんな風に胸を掻き乱すような日では決してないのだろう。それは、終わりではなく、新たな始まりのための日であるべきなのだから。 「……おひい、さん」
呼んだ声は、はたして、いつも通りだっただろうか。
✿ ❀ ✿
日和は、寮の部屋で一人泣いているジュンの姿を見下ろして、いつも通りに笑ってみせた。 「ジュンくんがぼく���隠し事をしようだなんて生意気だね!」 「……何で居るんですか。とっとと帰ったんじゃ」 「ぼくとしたことが忘れ物をしてしまってね。ジュンくんに連絡を入れたのに出ないから、わざわざ此処まで取りに来たの」 感謝してほしいよね!――と普段通りの口振りで告げる。ジュンは、そんな日和の言葉に眉を顰めて、あんたが勝手に忘れたんでしょーが、と普段通りの憎まれ口を寄越してきた。その瞳が潤んでいることも、その頬が濡れていることも、指摘するのは簡単だったけれど、それを口に出すのはあまりに浅慮だ。こうやって一人きりの秘密にされるのは癪に障るが、むやみやたらと疵口に爪を立てたいわけではないのである。 日和は、いつも通りの素振りのまま、もう己の部屋ではなくなったその部屋の中を我が物顔で歩き、荷物を詰める際にひとつだけこっそり隠しておいた何てことない小物を手に取る。置いていったところで何も痛みもしない、そんなものだ。けれど、それを取りに来るという口実を作るにはうってつけのものでもある。あったあった、これだね、と態とらしく呟いた日和は、未だに座り込んでいるジュンの目の前に立ち、その顔を覗き込んだ。ジュンくん――彼を呼んだ声音は、いつも通りのものである。 日和を映したアンバーの瞳は未だに潤んでいて、笑ってしまうほど無防備に見えた。その瞳から、新しい涙が零れ落ちていく。その感情に蓋をする術を忘れてしまったのか、それとも感情をすべて流すことで無かったことにしたかったのか。日和には分からないが、それが少し勿体ないと思ってしまう。こんなものを隠して自分だけの秘密にしておこうだなんて酷い話である。日和は、少し腰を屈める。そして、ジュンの顔を覗き込むようにした後、涙で濡れているその目元に顔を近付けた。 「……は?」 ジュンの呆然とした声が部屋に響く。ジュンの瞳から止めどなく零れ落ちていたそれは、既に止まっている。ぽかんと開いた唇を見つめた日和は、舌に残る僅かに塩分を含んだ滴の味を確かめた後、これで止まったね、と満足そうに唇を緩めて笑ってみせる。そして、ぼくはもう行くからね、と何てことのないように告げた。目元と耳を赤くしたジュンが、ちょ、おひいさん、いま、なに、と狼狽えている様子を見下ろして、やっぱりジュンくんはまだまだひよっこだね!――と笑ってみせる。 「じゃあ、いってくるね、ジュンくん」 もう再びこの部屋を訪れることはないだろう。そうであると知っていて、それでも、口にした言葉の意味を懇切丁寧に説明するつもりはない。説明をせずとも、ジュンには伝わるだろう。日和の予想通り、ジュンはその言葉に目を少し見開いて、それから不貞腐れたように頭をがしがしと掻いて、ふい、とそっぽを向いた。 「……行ってらっしゃい、おひいさん」 不貞腐れたような声が、何だかとても愛しかったのは日和だけの秘密である。その秘密は、まだ彼に明かすには早いだろう。いつか、寄り添うことがもっと当たり前になったその時――。
愛しい思い出話のひとつとして、その耳に囁く日が来るだろうか。
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雨の日(大倶利伽羅+女審神者)
「あやかし本丸シリーズ」の女審神者と大倶利伽羅の話。のんびりまったりした感じです。
ざあ、ざあ、ざあ。雨雲が絨毯のように敷き詰められた空から落ちる無数の雫が無惨にも叩きつけられることによって奏でられる自然の音色にそっと耳を傾けていた審神者は、ふう、と息を吐く。その手には、審神者の本丸のことを駆け込み寺か何かと勘違いしているらしい者から送られてきた手紙が握られていた。 人に関わるのは、億劫だ。審神者という職に就いてからは、今まで異端とされてきたそれを身近に生きる人間が多くなったこと――そのお陰で少し生きやすくなったとは感じているが、それでも、同じ人間と言葉を交わすよりも隣に佇む異形と言葉を交えるほうが気楽に感じてしまうのは、審神者の生きてきた環境のせいだろうか。 「入るぞ」 開けていた襖の向こう側から聞こえてきたぶっきらぼうな声に顔を上げた審神者は、あら、と意外そうな声を上げる。開けられたままの襖を見つめて、無用心だな、と一言呟いたのは大倶利伽羅だ。彼は、執務室に入ると襖を律儀にしっかりと閉めて、開けっ放しはやめておけ、と審神者に苦言を呈する。 「さっき、景色を見ていたの」 「雨だろう」 「だから、雨を見ていたのよ」 「物好きだな」 審神者の言葉に鼻を鳴らした大倶利伽羅は、その場にどかりと腰を下ろした。そして、何をするわけでもなく静かに目を伏せている。その横顔は穏やかで、妙に凪いで見えた。審神者は、そんな大倶利伽羅の様子に、ぱちり、と目を瞬かせる。そして、伽羅、と親しそうに彼の名を呼んだ。大倶利伽羅は、この本丸で三番目に顕現された刀で、五虎退に次ぐ古参の一振りだった。審神者の言葉に伏せていた目を開けた大倶利伽羅は、なんだ、と視線で問いかけてくる。 「今日はどうしたの?」 「……あいつが、遠征に出ただろう。その代わりだ」 「あら、近侍代理は貞じゃなかった? 交換したの?」 「光忠の奴と外せない約束があるらしい」 端的に答えた大倶利伽羅の言葉に表情を綻ばせた審神者は、まあそれは災難だったのね、と労わるように言葉を掛ける。彼は、ぶっきらぼうだが、心根の優しい刀だ。別に、と素っ気無く応じた大倶利伽羅は暫くの沈黙の後、今は静かだからな、と首を横に振った。 「――ねえ、伽羅。雨が降ってる」 大倶利伽羅が閉めた襖に手を掛けて少しだけ開けた審神者は、外の様子を窺いながら声を上げる。ざあざあと庭に降り注ぐ雨の粒を見つめながら、まるで幼子のように無邪気に微笑んだ。こういう雨の日には、あやかしがたくさんやって来るのである。彼らの大抵は審神者に害を与えるようなものではないし、襖を閉めている状態では内側から招かれなければ中に入ることはできないものも多い。しかし、刀剣達の多くは一部の悪さをするもの達を警戒しているようだった。 「見れば分かる」 素っ気無く答えた大倶利伽羅は、本体を抱えたまま、手離す様子を見せない。恐らく、何か危ないものが現れれば、すぐに刀を抜けるようにだろう。そんな彼の様子に目を細めた審神者は、襖を閉めて、大倶利伽羅に向き直った。 「ねえ、おしゃべりに付き合ってくれないの?」 審神者の言葉に眉を顰めた大倶利伽羅は、そういうのは鶴丸に頼め、と溜め息を吐いた。伽羅、と彼の名前を呼んだ審神者の言葉に鬱陶しそうに息を吐いた大倶利伽羅は、鋭い瞳を審神者に向けて、首を横に振る。 「子守りは趣味じゃない」 「もう子供じゃないわ」 「子供だろう」 「見目は、そうね」 審神者は、ふふ、と穏やかな笑い声を上げた。審神者の時間が止まったのはまだ彼女が少女の頃のことである。審神者の本丸には彼女をまるで小さな子供のように接する刀が何振りか居るが、目の前の刀もまるで審神者が見目と同じ少女であるかのような��いをすることがある。それに拗ねたような気持ちになることも無いわけではないが、今回は妙にくすぐったいような気持ちになった。 「雨でそう燥ぐのは子供だ」 「ひどい言い草」 肩を竦めた審神者は、本当のことだろう、と呟いた大倶利伽羅がおもむろに腰を上げたことに対して、あら、と驚いたように声を上げる。そして、ずんずんと審神者に近付いてくる大倶利伽羅を見上げた。 「どこへ行くの? 伽羅」 審神者の言葉に無言で彼女を見下ろした大倶利伽羅は、審神者の手を取って体温を確かめるように軽く握ってから、はあ、と大きく溜め息を吐いて、その手をすぐに離した。 「……茶を、持ってくる」 襖は開けるなよ、と吐き捨てた大倶利伽羅は、襖を開けて廊下に出た後、律儀にぴたりと閉めた。一人部屋に取り残された審神者は、くすくすと笑い声を上げて、心配性なんだから、とくすぐったそうに微笑むのだった。
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永遠の誓い(長義さに)
(リクエストを受けて書いた長義さにです。リクエストありがとうございました!)
それは、就任一年目を目前した頃のことである。 万屋のある町に一人で出向いていた山姥切長義は、色んな店に入りながら、店内を物色した後、あれでもないこれでもないと頭を悩ませた結果、別の店に入り直す――ということを何度も繰り返していた。その横顔は常のように涼しげに見えたが、眉間には僅かに皺が寄せられている。主が就任一年目を迎えるからと何か祝いの品を用意しようと思い立ち、本丸を後にしたまでは良かったが、贈り物を選ぶというのは予想外に難しいことだった。主に似合いそうなものはいくつか見つけたが、せっかくならば気に入りそうなものを――と考えれば考えるほど、正解が分からなくなるのである。 「何に悩んでいるのかな、其処に居る俺は」 そんな長義に声を掛けてきたのは、同じ山姥切長義だった。長義は、素直に言葉を返すのは憚られて、いや、と言葉を曖昧に濁す。目の前の他本丸の長義は、そんな長義の様子に何かを勘付いたように瑠璃色の瞳を細めて、ああ、と納得したような声を上げる。 「審神者に贈り物、というところかな」 「……そちらの俺は、何の用でこんなところへ?」 長義が居る店は、男性が使えそうな品も少なからず見受けられるが、どちらかといえば女性向けの雑貨が多く置かれている場所だった。長義の態度に気分を害した様子もなく、俺も審神者への贈り物だよ、と他本丸の長義は素直に応じる。 「もっとも、俺は君とは少し事情が違うけれどね」 「……事情?」 長義は、妙に物々しい響きをしていた他本丸の長義の言葉を反芻し、首を傾げる。そんな長義の言葉に応じることなく笑みだけを深めた彼は、女人に贈るならば、と棚に飾られている商品の一角を指し示した。其処には、女人が好みそうな髪飾りや手鏡等が飾られている。確かに、と長義は頷く。それは、長義の中で候補として残っている品だった。長義の主である審神者は髪が長く、普段は結わくこともなく下ろしている。しかし、たまに髪の毛の長さが邪魔になる時があるのか、指先で何度か己の髪を煩わしそうに避けている姿を見かけたことがあったのだ。 「あの辺りが良いと思うが」 そう親切な助言を口にした彼自身は、棚の奥にひっそりと飾られていた妙な模様の描かれた小箱を手に取り、ふむ、とそれを引っ繰り返したり、軽く振ったりして検分した後、なるほど、と納得したように頷いている。それは、到底贈り物に選ぶものとは思えないくらい奇怪な品だった。 「それを選ぶつもりか?」 長義は、信じられない気持ちになって、思わず尋ねていた。同じ山姥切長義が選んだ品とは思いたくないものである。他本丸の長義は、そんな彼の様子に思わずといった調子で笑うと、その反応は正常だね、と目を細めた。 「綺麗なだけの物よりも、曰く付きになるほどの深い想いの込められた物がいい――そういうひとだからね」 「……それは」 物好きだな、という言葉は声になることはなかったが、目の前の同位体には確りと伝わってしまったのだろう。俺もそう思うよ、と長義の言葉に同意した彼は、手の中の箱を見下ろした後、とかく変わったひとだからね、と呟いた。そして、先程長義に提案した髪飾りのある一角を一瞥した後、その髪飾りは、と口にする。 「花の飾りに刀剣男士の神気を込めることができるようになっている。魔除けの役割も果たすことができるし、多少の加護にはなると思うが」 「……先程から随分詳しいようだけれど、何かあるのかな」 「――昔、あげたことがあるからね。ただ、それだけの話だ」 素っ気無く呟いた他本丸の長義は、それじゃあ俺はこれで、と怪しげな小箱を手に持ったまま、勘定場がある方向へと消えていく。その背を見送った長義は、彼が指し示した髪飾りがある棚に向き直り、ふむ、と顎に手を当てた。主には、どんな髪飾りが似合うだろうか。花は何、色は何――そんなことを考えて、自らの瞳と似通った色合いの瑠璃が嵌められた髪飾りを一つ手に取って、暫し沈黙する。そして、意を決したように踵を返すのだった。
✿ ❀ ✿
審神者の就任一周年を祝う宴が終わった後――長義は、酒を呑んで僅かに上気した頬を冷やすように廊下を歩きながら、審神者が居るだろう部屋を目指す。普段ならば夜に女人の部屋を訪れるほど非常識ではないが、どうしても、この日に渡さねば意味のないものだ。 「主、いいかな」 そっと襖越しに声を掛ければ、いいよ、と素っ気無くも思える澄んだ声が襖越しに返ってきた。聞く人が聞けばどこか無愛想にも感じられる声音だったが、彼女の場合は通常運転である。 入るよ、ともう一度声を掛けた長義は、襖を開けて部屋の中に足を踏み入れた。しかし、襖を最後までは閉め切らず、自らも襖の近くで腰を下ろす。必要以上、部屋の中に入り込むような真似はしない。 審神者は、もう既に寝着姿に着替えていたようで、その無防備な姿を目の当たりにした長義は思わず額に手を当てたくなったがそれを寸前で堪える。縦しんば、止めろと言ったところで聞き入れはしないだろう。確かに、こんな時間に部屋を訪れた長義の方にも非はあるのだから、彼女にばかり小言を言うわけにもいかないと思い直す。 彼女は、文机に向かっていたようで、机の上には紙とボールペンが置かれていた。顔を上げた審神者は、長義がまだ戦装束のままであることに少し怪訝そうな色を顔に浮かべている。 「どうしたの? ……何か、あった?」 相も変わらず涼やかな声音だと思ったが、その後に続いた僅かに潜められた声には長義を心配する色が現れていた。恐らく、普段はやって来ない時間帯に訪れたから、何かあったと勘違いしているのかもしれない。そんな審神者の態度に胸の奥があたたかくなるような心地を覚えた長義は、審神者のそれを杞憂であると教えるように、悪い知らせがあるわけじゃないよ、と首を横に振った。 審神者は、その言葉に微かに目を瞠った後、じゃあ何、と長義が訪ねてくる理由にまるで見当がつかない様子である。 「分からないかな」 「……さあ?」 長義の言葉に考え込むように沈黙した後、審神者は首を傾げる。また何か言いたいことでもあった?――なんて言う彼女の頓着の無さに溜め息を吐きたくなった長義は、今日は何の日だったんだ、と口にする。先程まで就任一周年を祝う席に居たのだから、それくらいは察しても良いのではないか。 「一周年だったけど、それが何か?」 「……そうだ、君の就任一周年だろう」 だから、と長義は言葉を続ける。そして、一つ呼吸をして間を空けた後、意を決したように審神者の瞳を見つめる。 「何か、祝いの品を――と思ってね」 君が気に入るかは分からないが、と思わず前置きをしてしまったのは長義らしくなかったかもしれなかった。柄にもなく、緊張しているのかもしれない。これでは、本歌・山姥切の名が廃る。僅かに眉を顰めた長義は、気を取り直したように、ごほん、とわざとらしい咳ばらいを一つした後、君に似合うと思う、と告げた。そして、上着の内側に隠し持っていた髪飾りを差し出す 「――私に?」 審神者は、驚いたように目を瞠り、あどけない表情を晒した。普段涼やかな態度の彼女にしては、珍しい表情の変化である。差し出された髪飾りを受け取った審神者は、僅かな沈黙の後、ありがとう、と照れ臭さを隠したような素っ気無い言葉で呟いた。そして、受け取った髪飾りを指先で確かめるように何度か撫でた後、ふうん、と興味深そうに声を上げる。 「同じ色だね」 髪飾りと長義を見比べるように視線を動かした審神者の一言が何を指し示しているのか分からないほど、長義は察しが悪くない。寧ろ、そういう意図があってそれを選んだのだと告げたら、彼女はどんな反応をするだろうか。さあ、と長義は嘯くように呟く。 「君に似合うと思ったから――ただ、それだけだよ」 その石に込められた意味を告げる日は、まだ先かもしれない。今は、ただそれだけを伝えられればいい。長義は、髪飾りと同じ瑠璃色の瞳を細めて笑った。
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どうか幸せなまま終わらせて(嵐迅)
「なあ��別れよっか」 コンビニに行かない?――と誘って来る時のトーンとまるで変わらない、軽い口振りだった。嵐山は、手に持ったカップに口をつけることも忘れて、は、と気の抜けた声を上げる。ぱちり。翠の瞳を大きく瞬かせたが、目の前で机に頬杖をついた迅の顔色はまるでいつもと変わらないように見えた。 「俺が何かしたか?」 嵐山は、努めて穏やかな声で問いかけた。嵐山からすれば、迅の言葉は青天の霹靂とも言うべき出来事だ。彼には、別れを告げられるような心当たりがない。しかし、嵐山が自覚していない部分で、迅にそう思わせてしまう点があったのかもしれない。嵐山の問いかけを聞いた蒼の双眸が、ふ、と細められる。そして、いいや、と柔らかい否定の言葉が迅の唇から発せられた。 「真っ先に自分が原因だって思うのは、嵐山らしいかな。でも、違うよ。おまえのせいじゃない」 「なら、どうして」 「いつか終わるかもしれないなら、此処で幕引きをするのも悪くないと思っただけだよ」 迅は、嵐山には理解できない理屈を並べ立てて、まあ嵐山はそう思わないんだろうけどさ、と知ったような顔をして笑った。確かに、迅の言う通りだった。嵐山には、迅の言葉が理解できない。 「どうかしたのか?」 「どうもしないよ。ただ、幸せだなって思ったから」 眉を顰めた嵐山と正反対に軽く笑った迅は、肩を竦めた。今がたまらなく幸せだと思ったから、別れたいなって思ったんだよ――なんて、そんな哀しいことを平然と笑って口にするのだ。彼は、そういう男だった。嵐山は、そんな迅の一面に触れるたびに、どうしようもなく胸を搔き乱されるような気持ちになるのだ。 「永遠なんて、この世にはないんだからさ」 そして、未来を視通す目を持った嵐山の恋人は、いつものように飄々とした態度で笑う。その目には、どんな未来が映っているのだろうか。
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常春の庭
「花は根に 鳥は古巣に 帰るなり 春のとまりを 知る人ぞなき」 そっと詠まれた和歌は、常春を冠するこの本丸には相応しくないものだ。春の行方など、何処にもないと知っている。何故ならば、此処では、春は永遠に留まり続けているからだ。それならば、春の行方など――。此処では、時が止まったように、春以外が訪れることはなかった。それでも、心には、ぽっかりと穴が空いていて、時折、凍てついた冬の風のように冷たい何かが吹き荒んで、じくり、じくり、と痛みを訴える。いつまでも春だというのに、こんなにも心は冷え切っていた。 「――鶯丸」 呼ばれた名は、嗚呼、求めていた彼の声ではない��分り切っていたはずの事実に胸が痛んだような気がして、なるほど、確かに人の器は儘ならないものだな、とぼんやりと考える。そして、そっと口を開いた。 「すぐ行く」 鶯丸は、踵を返した。――鶯丸の春は、此処にはもうない。嗚呼、鶯丸の春は、どこへ行ってしまったのか。その行方を、だれも知らない。 嗚呼、それが、ひどく重苦しく、かなしいのだ。 (中略) 包平の母方の実家には、大きな蔵があった。祖母が入院したということで久しぶりに顔を出した屋敷は、相変わらず立派な門構えをしている。小さい頃はあまりにも大きく見えたそれは、大学生になった今でもずいぶん立派に思えた。包平は詳しく知らなかったが、地元では、昔から有名な家だったそうだ。 「……久しいな」 普段は都会の波に揉まれている包平にとって、長閑な田舎の空気はひどく懐かしい。心なしか、時間の流れが緩やかに感じるようだった。屋敷に寄る前に祖母の見舞いに行ったが、思っていたよりも元気そうな様子で一先ず安心した。祖母に会うのも、随分と久し振りだった。小さい頃の包平は、両親の事情で一時期この家に預けられて祖父母と暮らしていたことがある。彼女と会うのは、それ以来だった。懐かしいわねえ、ずいぶん男前になって、と笑っていた祖母の顔は記憶にあるものよりも少し皺くちゃだった。 「此処か」 包平は、屋敷の外れにある大きな蔵の前に立っていた。幼かった包平にとって、この蔵は格好の遊び場所だったのである。少し暗いところが雰囲気を醸し出していて好奇心をそそられたし、見たこともないようなものが色々収められていたから宝探しをしているようで楽しかった。それに、と包平は蔵の引き戸を前にして懐かしい昔の思い出に浸っていた。此処には、何か、とても――心惹かれるものがあったような、そんな気がしたのだ。如何せん、小さい頃の出来事だったので、よくは覚えてはいないが。包平は、立て付けの悪くなった引き戸を開けて、中を覗き込んだ。少し空気を吸い込むだけで分かるほど掃除をしていないのだろう埃臭さに、思わず眉を顰めた。 「……掃除したほうが良さそうだな」 祖父は数年前に他界していたし、祖母も高齢になったので、恐らく、蔵の掃除まで手が回らなかったのだろう。耐えられないほどではなかったので、そのまま中に入ることにした。一歩中に足を踏み入れた包平は、近くに在った箱を手に取る。何やら皿が収められているようだ。骨董品、というやつだろうか。特に美術品に精通しているわけでもない、ただの大学生である包平にはよく解らないものだったけれど、漠然と価値のあるものなんだろうと思った。蔵の中は箱が積まれていて、物で溢れ返っている。小さな子が使うような玩具が後生大事に仕舞ってあったり、古いアルバムが詰め込まれた箱があったり、一見すると何なのかよく分からない部品のようなものが転がっていたり、見ているだけでも飽きないことは確かだ。この箱一つをひっくり返すだけでも、相当な時間がかかりそうである。此処にいる間に少しくらいは片付けられると良いのだが、と考えながら、ぐるりと周囲を見渡していた包平は、ふと視線を止めた。その先に在ったものは、布を被った縦長のものだ。恐らく、姿見だろうか。惹かれるようにそれへ近付いた包平は、かけてあった布をばさりと取り払った。 「これは……」 包平が想像していたよりもずっと綺麗に保たれていたそれは、アンティーク調の姿見だった。品の良い調度品は、素人目に見ても高価そうに思える。その鏡面をゆっくりと指先で撫でた包平は、ふと鏡の中で自らの肩に乗る存在に気がついて目を瞬かせた。それは、この蔵には、いるはずのない――。 「鶯……?」 思わず、声に出していた。美しい声で鳴く春告げ鳥が、包平の肩で羽根を休めていたのだ。はっと自らの肩を振り返るが、其処には何も居ない――では、先程のあれは、何だ。不思議と恐怖は無かったが、不可思議な現象に首を傾げる。そして、再び鏡へと視線を戻した包平は、姿見に映った自分の姿に目を見開く。見たこともない洋装を身に纏った己の姿は、まるで――。まるで、なんだ。 その瞬間、鏡に映った世界がぐにゃりと歪む。そして、ちかちかと視界が眩く瞬き、世界が反転した。 『やっぱり、あなたは――なのね。春が、よく似合うわ。ねえ、あなたもそう思うでしょう?』 世界が反転する前、やさしい女の声が聞こえた。その声に次いで、のんびりと穏やかに笑う男の声が聞こえたような気がした。どちらもまったく聞き覚えがないはずなのに、何故だか、妙に胸が締め付けられるような、ひどく泣きたくなるような懐かしさが込み上げてくる。嗚呼、それは、誰だったのだろう。 『大包平』 名を、呼ばれたような気がした。愛しい人に。 包平は、気が付くと、中庭のような場所に立っていた。大きな桜の木が植わっていて、それがひどく美しかった。包平は、目を瞬かせる。今は、夏だったはずだ。それなのに、目前にある桜の木は満開で、風に揺れて見事な花弁を散らしている。ぐるりと周囲を見渡せば、祖母が住んでいた家屋よりももっと立派な日本家屋が建っていて、包平は首を傾げた。 「此処は……」 包平は、訝しそうな声を上げる。先程まで蔵で姿見を見ていたはずなのに、これはいったいどういうことだろう。戸惑ったように視線を周囲へ彷徨わせた包平は、はた、と視界の端に捉えた人影に目を瞬かせる。――どうするべきだろうか。考えたのは逡巡の間だけで、すぐに足を動かしていた。此処が何処なのかを明らかにしなければ、帰る方法も分からないだろうと思ったのだ。 その人物は、縁側に腰掛けて桜の木を眺めていた。柔らかそうなふんわりとした鶯色の髪の毛が、穏やかな風に揺られている。髪と同色の瞳は、微かに見開かれていた。薄く形の整った唇がふるりと開き、まさか、と唇が言葉を象る。――何故だろうか。その表情を見ると、胸が騒めくような心地がした。 「――大きくなったなあ」 ゆっくりと目を細めた彼の顔が泣きそうに見えたのは、きっと、包平の見間違いだろう。瞬きの間に、彼は穏やかに笑っていたのだから。 「お前は……」 包平が戸惑ったように声を上げると、鶯色を纏う彼は、緩やかに首を傾げる。包平の戸惑いを不思議そうに眺めた彼は、何かを考え込むようにたっぷりと間を空けた後、ああ、と納得したように頷いた。そうか、おぼえていないんだな。そんな風に独り言ちた彼の言葉を拾った包平は、違和感を覚えて眉を寄せる。彼の口振りでは、まるで包平と彼が面識があるかのようだった。しかし、こんなに印象に残りそうな色を持つ彼を忘れているなんてことがあるだろうか。その瞬間、ずきん、と頭が痛んだような気がして、思わず米神を片手で押さえる。その姿を見たらしい彼が、大丈夫か、と穏やかな声を投げかけてきた。 「……大丈夫だ」 包平が痛む頭を押さえながら、はっきりとした声で返事をすれば、そうか、と鶯色の瞳が細められる。僅かにほっとしたような色を覗かせているその声音も、初対面の人間に向けるものにしては随分と親しげなように感じて、違和感に頭が塗り潰されそうだった。 「俺のことを、知っているのか」 堪え切れずに零れ落ちた問いかけに、鶯色は静かにわらった。さて、どうだったかな。包平は、惚けるようなその言葉に思わず声を荒げそうになったが、顔を上げた時にその鶯色と出会って、ぐ、と唇を噤む。まるで幼子をあたたかく見守るような彼の眼差しに、込み上げていた怒りが段々と鎮まっていくのを感じていた。そのかわりに込み上げてきたものは、とてつもない不安だった。――おまえは、いったい、だれなんだ。どう考えても奇怪でしかないこの状況と不安定過ぎる心に揺らいだ声音は、ひどく拙いもので、握った手のひらが僅かに震えた。 「鶯丸だ」 彼は、あっさりと自らの名を明け渡した。――うぐいすまる。古風な響きが、妙に馴染んでみえた。名は体を表すという言葉通りの、鶯色を纏う彼に相応しい名だと思った。 「うぐいすまる、鶯丸――か」 反芻した名は、初めて口にするにしてはあまりにも舌に馴染むような気がして、少し不思議な心地がした。 「俺は――」 「かねひら、だろう」 「は?」 「知っているさ。昔、名乗って貰った」 鶯丸は、けろりとした顔で思いも寄らないことを口にする。包平は、その言葉にぴたりと動きを止めて、は?――と素っ頓狂な声を上げたのだった。 (中略) 「――これは」 包平は、目を瞬かせる。大切そうに置かれたそれは、小さな子供が遊ぶ時に使うような玩具の指輪だった。大人の形をした鶯丸には、いささか不釣り合いにも感じるものだ。しかし、その指輪にどこか既視感を覚えて首を傾げた包平は、まじまじと手の中の指輪を見下ろした。ふと頭に蘇った光景は、恐らく、自らが小さかった頃、祖母の家で世話になっていた時の記憶だろう。ぼんやりと朧気ではあるが、少しずつ昔の記憶を思い出していた。それは、祖母の家で過ごしていた頃、鶯丸と会っていた時の思い出だ。これも、もしかしたら、彼との想い出の品なのかもしれない。 「……ああ、そうだ」 あの頃、包平は、うつくしい鶯色の彼に惹かれていた。幼かった包平は、テレビでやっていた恋愛ドラマで、ヒロインにプロポーズをしている主人公の姿を見て、結婚の約束をするには指輪が必要だということを知ったのだ。思い立ったが吉日とばかりに、次の日には子供のお小遣いで買えるような玩具の指輪を手に入れて、鶯丸の元へ行った。あの放っておいたらどこかへ飛び立ってしまいそうな雰囲気がある掴みどころのない寂しそうな鳥を留めておくには、これしかないと幼心に思ったものだ。 「うぐいすまる!」 「何だ?」 「ん!」 包平は、手に持っていた玩具の指輪を鶯丸に押し付けるようにして差し出した。差し出された指輪と包平の顔を交互に見た鶯丸は、これは?――と不思議そうに目を瞬かせる。彼は、プロポーズを知らなかったのかもしれない。 「やる!」 包平は、ぞんざいな口調で口にしてから、あ、と何かに気付いたように声を上げて、口を噤んだ。あのドラマで主人公が口にしていたように、プロポーズの言葉を口にしなければいけないことに気が付いたからだ。未だに不思議そうな顔で指輪を眺めている鶯丸を見上げた包平は、うぐいすまる!――と彼の名を改まったように呼ぶ。なんだ、と答えた鶯丸は微笑ましそうな顔で包平を見下ろした。包平は、彼のこういうところが好きではない。包平を微笑ましげに見ながら、そうかそうか、とまるで隣の家に住む老人のように穏やかな声で相槌を打つ姿は、癪に障るのだ。包平は、鶯丸が思っているほど子供ではない。何なら、プロポーズも知らない鶯丸よりもずっと大人だし、ここで怒るのはそれこそ子供のすることだ。大人の男は余裕ある態度が大事とはいったい誰が言っていたかは覚えていないが、一端の日本男児である包平はその程度で声を荒げてはいけない。いいか、うぐいすまる!――と彼に言い聞かせるようにびしりと指を突き立てた包平に、人を指でさしてはいけないぞ、と鶯丸がゆったりと窘めるような言葉を口にした。そんな彼の言葉に、う、と怯んで指をさげた包平は、だから、と声を上げた。 「俺とけっこんしろ!」 「けっこん?」 鶯丸は、拙い響きで言葉を反芻した。その言葉の意味を理解していないような響きだったので、包平は、そうだ、と繰り返す。 「けっこんだ!」 「――ああ、結婚、か」 鶯丸は、やっとその言葉を理解したように頷いた。そうか、結婚か。その言葉の意味を呑み込むように、ゆっくりと言葉を繰り返した鶯丸は、その口元に寂しげな微笑みを浮かべた。 「――そうだな、春が、来たら」 「はる? ここは、いつもはるだろう」 包平が知っている限り、此処はいつも春だった。そうだというのに、鶯丸の言葉は、まるで此処に春がないかのような言い方だったのだ。何かのなぞなぞか何かだろうかと眉を寄せた包平のまろい頬を指先でそっと撫でた鶯丸は、きっといつかな、と笑った。 (中略) 「こいつは驚きだなあ」 「――鶴丸か」 鶯丸は、襖の向こうからひょっこりと顔を覗かせて驚いたように目を瞬かせた真っ白な男の名を呼んだ。どこもかしこも真っ白なその男は、眩く輝く金色の瞳をにんまりと細める。 「主は知っているのかい?」 彼が口にした、あるじ、という言葉は、此処に来てから何度か聞いたことのある単語だった。鶯丸は、彼の問いかけを聞いて僅かに眉を寄せると、ゆっくりと首を横に振る。 「いや――ずっと、知らせてはいない」 鶯丸の言葉を聞いた男は、ふうん、と相槌を打った。 「まあ、君がそれでいいっていうんなら、俺は構わんが」 (中略) あの子は、春が好きだった。春の季節が似合う心優しい子だった。主のことを聞けば、皆が口を揃えてそう言うだろう。春告鳥の名を持つ彼もまた、そうだった。彼にとって、あの子は、春の陽気のように穏やかで、時に春の嵐のように荒々しくもありながら、春に咲く花のように儚い人の子であった。顕現した日、とても素敵な名前ね、と主が微笑んだことを今でもよく覚えている。凍てつくような冬、明けない夜がやって来た時も、鶯丸が留まり、待ち続けることを選べたのは、あの春のような人の子が背中を押してくれたからだ。そんな審神者が今、遠い世界へ旅立とうとしている。 「せめてもの餞さ」 真白を纏った男は、目を伏せて笑う。その手に握られた青白い手は、今や骨と皮だけになってしまっている。随分と頼りなくなってしまったその腕が、ぴくりと僅かに動いた。ごめんなさい、とか細い声が響く。それに優しい視線を落としたのは、部屋にいるすべてのものだった。謝る必要なんてどこにもないぜ、と言ったのは彼女の病を常に診てきた薬研である。 「ゆっくり休むといい」 鶯丸は、そっと言葉を落とした。薄っすらと開いた瞳が鶯丸の姿を映して、ありがとう、と呟く。鶯丸は、この本丸で長らく近侍を務めてきた。娘と長い間寄り添ってきた初期刀が、よく頑張ったね、と声をかけながら艶の失われた髪の毛をそっと優しく撫でる姿を見ながら、鶯丸は開けられた襖の向こうに広がる中庭に視線を向ける。ひらひらと舞う薄桜色の花弁に目を細めた。 主は、春が好きだった。鶯には春が似合うわね、といつも笑っていた。そして、彼女は、にっこりと笑いながら振り返るのだ。鶯丸が近侍となる前、彼女の近侍だった彼を。 (中略) 「――なあ、大包平。おれは、覚えている」 鶯丸は、微笑んだ。この世界は、終わる。終わってしまうのだ。春が吹きすさぶ庭で、ゆっくりと目を瞑った。彼と過ごした日々も、そして、包平と名乗る人の子と過ごした日々も、決して忘れはしないだろう。 「鶯丸様」 隣に立つ平野が心配そうに覗き込んできた気配を感じて目を開けた鶯丸は、彼を安心させるようにぽんぽんと頭を撫でた。 「いいさ、これも運命だろう」 春が枯れるよりも前に、世界を閉じよう。 (中略) 姿見には、もう何も映っていない。それは、あの世界が閉ざされたことを示しているのだと――解ってしまった。 「っ!?」 包平は、どうしてだ、と声を上げた。鏡に手を伸ばしたが、冷たい感触が返ってくるだけで、その先に続くものはない。 あの世界は、何処にもなかった。
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ふたつの山姥切と三日月
「山姥切の本科が政府の監査官だったとは面白い話もあったものだなあ。鶴丸ではないが、燭台切から聞いた時は驚いた」 三日月は、ふ、と唇を緩めて微笑んだ。その微笑みに僅かに含まれている感情を的確に拾い上げた山姥切は、整った眉を顰めて、あまりいじめてやるなよ、と窘めるように言ってくる。三日月は、山姥切の忠告に、片目を瞑るようにして笑いながら、そうだなあ、と曖昧な相槌を打つ。三日月は、できもしない安易な約束はしない主義である。そんな三日月の態度にすべてを察したらしい山姥切は、はっとするほどうつくしい碧色の瞳に呆れたような色を浮かべて、まあ言ってきくようなあんたじゃないか、と呟く。肩を竦めている山姥切の頭に巻かれた鮮やかな色の鉢巻が風に靡く様を眺めた三日月は、にっこりと笑みを深めることでその言葉に応えた。 この本丸の初太刀である三日月宗近と、この本丸の初期刀である山姥切国広は、当然、それなりに長い付き合いだ。初期刀である山姥切は、あんたの面は眩しいから見たくないだの何だのと文句を言いながらも、三日月の世話をしてくれていた。だからこそ、三日月としては、目の前の刀よりも古くから在る刀として、少しくらいは世話を焼いてやりたい気持ちもある。――とはいえ、と三日月は、目を細める。この本丸の初期刀である山姥切は、修行を終えたことによって、一回りも二回りも成長して戻ってきた。ふむ、これは俺が世話を焼くまでもなかったか、とそんなことを考えながら口元に手を当てた三日月は、はた、と気付いたように目を伏せる。そして、長い睫毛を震わせた彼は、たっぷりと愁いを含んだ息を落とす。 「ああ、しかし、困ったなあ」 「ん、どうかしたか?」 「山姥切を、山姥切と呼べなくなってしまうか。いやはや、それは困った」 「そうか? まあ、そうだな……主も、呼び名については迷っていたようだったが」 「山姥切は何と呼ばれたい?」 三日月は、にこりと微笑みながら、今日は良い天気だなあ、と告げるくらいの気安い態度で、繊細な問題を話題に挙げる。今の山姥切国広ならば、この問いに傷付くことも、悩むこともないだろう。そうと解っていての、問いかけだった。案の定、山姥切は、三日月の言葉に片方の眉を吊り上げたが、すぐに口元を緩めて笑う。それは、うつくしい微笑みだった。 「主にも言ったことだが――あんたも、好きに呼んだらいい」 「それで良いのか?」 三日月が首を傾げながら念を押すように尋ねれば、山姥切は、三日月の仕草をわざとらしいと言わんばかりに鼻を鳴らして笑った。 「解っていて言っているんだろう、くそじじい」 答える声は、罵る言葉にしてはあまりにも柔らかい色をしていたように思う。――俺は、主の刀だからな。そっと付け加えるように呟かれた言葉と、細められた碧色の瞳に浮かぶ確固たる感情。それらを正しく受け取った三日月は、そうか、そうか、と穏やかに呟いて、ならば良いさ、と首を横に振った。 「おや」 そんな二振りの近くを通りかかった本丸の新刃――山姥切長義が声を上げる。彼は、彼の写しである山姥切国広の姿を目にすると、あからさまにその瞳に侮蔑の色を浮かべ、やあ偽物くん、とわざとらしすぎるほど朗らかな声で呼びかけてきた。さて、山姥切はどんな反応をするのかと三日月が彼の出方を窺う。しかし、山姥切は、長義の言葉には肩を竦めて応えるだけだった。その態度が気に食わなかったのだろう、長義の整った眉が盛大に顰められる。そんな二振りの遣り取りをおかしそうに眺めていた三日月は、はっはっは、と場違いなほどあっけらかんとした声を上げて笑った。 「偽物とは、これは面白いことを言う刀だ」 写しは、偽物とは違う。刀である山姥切長義が、それを理解していないはずはない。彼は、それらを理解した上で、あえて山姥切国広を偽物と呼ぶのだろう。それが自らの矜持のためなのか、あるいは――、そんなことを考えた三日月は、目を細めて笑ってみ���る。そんな三日月をちらりと一瞥した山姥切の瞳は、やっぱり言ってきくようなあんたじゃないな、と言いたげに呆れたような色を浮かべていた。しかし、長義は、三日月の言葉も癪に障ったのだろう、その口元に微笑みを浮かべながら、ゆっくりと首を傾げた。 「かの天下五剣ともあろう刀が、そんな偽物と肩を並べるとはね」 柔らかくも冷ややかな侮蔑と棘を含んだ挑発するような長義の物言いにゆったりと穏やかに微笑んだ三日月は、天下五剣か、と自らに与えられた称号を反芻する。 「刀は、刀さ。本科であろうと写しであろうと――天下五剣であろうと、同じ『物』であることにかわりはない。鉄から生まれ、やがては鉄に還る。ただ、それだけの物だ」 三日月は、まるで幼子に言い含めるようにゆったりと柔らかい口調で諭すように語る。長義は、三日月の言葉に馬鹿にされたのだと思ったのだろう、目の覚めるような蒼い瞳が明らかに剣呑な色を浮かべた。しかし、僅かに開いた唇は、何かを語ることもなく閉じられ、ぎゅっと唇を噛み締める。そのぎらついた瞳を見つめ返した三日月は、壊れれば皆同じことだろう?――と残酷なことをあっさりと口にした。 「ひとたび壊れれば、残るものなど、ただの鉄��だけだというのに――なあ?」 その冷めたような言葉を聞いた山姥切が溜め息を吐きながら、三日月、と窘めるように名を呼んでくる。それ以上、新刃をいじめてやるな、と言いたいのだろう。お優しいことだ。ふっと吐息を零して笑った三日月は、はっはっは、と声を上げて笑いながら、なあに仲良くしようという意味さ、天下五剣だからと遠慮などせずに話しかけておくれ、と表面上は朗らかに声をかける。三日月としては、監査官としてやってきた彼が、反乱だのただでは済まされないだのという台詞を口にしたせいで、ただでさえ気弱なこの本丸の審神者の寿命が数年分くらい縮まっただろうことに少し腹を立てているだけなのだ。それを恐らく察しているだろう山姥切は、呆れたように息を吐く。 「……あんた、ほんとくそじじいだな」 「主思いの良い刀だろう」 にこりと微笑んだ三日月に、主がその笑顔が何考えているか分からなくて怖いと言っていたぞ、とぼそっと山姥切が零せば、ひくりとそのうつくしすぎる顔(かんばせ)が歪み、なんと、と狼狽えたように声を上げる。それは、孫のように審神者を可愛がっている爺にとっては由々しき問題だった。 「――山姥切長義」 山姥切は、長義に視線を向けると、はっきりとした声で彼の名を呼ぶ。その呼びかけに嫌そうに顔を歪めた長義は、なんだ、とそれでも言葉を返した。 「いつか、あんたにも分かる日が来るさ」 山姥切のその言葉を聞いた三日月は、やはり変わったのだなあ、と手の掛かった子供が自立した親のような心地になる。山姥切が三日月のこの内心の声を聞けば、寧ろ世話をしているのは俺だろう、と憮然とした顔で返してくるだろうが、三日月としてはそのような心地なのだ。それは、少し寂しさにも似ていたが、誇らしさのようなものも同時に感じていた。山姥切の写しであるという劣等感と、それでも自身は国広の最高傑作であるという自負。二つに板挟みにされていた山姥切は、修行の中で一つの答えを見つけて、この本丸に戻ってきた。恐らく、長義もまた己が身の意味を問われることになるだろう。――そして、あるいは三日月も。 いつも答えを見つけられるのは、自分だけだ。自分で気づいて、自分で決めなければいけない。 「っ、偽物がっ、知ったような口を……!」 ぎらぎらと瞳に怒りを宿した長義は、気分を害したように去って行く。その後ろ姿を眺めた山姥切は、一つ溜め息を吐いている。うまくいかないものだな、彼の口から零れ落ちた弱音の言葉に笑った三日月は、なあに今にうまくいくさ、とおっとりと呟く。 「納得がいくまで、話をすれば良い。そのための術が、おぬしにはあるのだから」 「――そうだな」 三日月の言葉に、山姥切は同意するように頷いた。恐らく、山姥切もまだ、本科である彼とどのように接していいのか、答えを見つけられていないのだろう。だからこそ、話をしなければいけないのだ。話をして、お互いを解り合わなければ――それは、人の身を得た今だからこそできることなのだと知っているからこそ。
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嗚呼、うつくしき世界(大鶯+平野)
ふと目に入った光景に、目を瞬かせる。あ、と思わず声が零れ落ちた。慌てて口を噤んだが、時すでに遅し――近くに居た長兄の耳は、その声を確りと拾っていたようで、平野をくるりと振り返った彼は、不思議そうに首を傾げている。 「平野?」 どうかしたのかな、と尋ねてくる彼の声音に僅かな心配の色を読み取った聡い平野は、いいえ何でもないのです、と慌てて首を横に振った。兄を心配させるようなことは、何もない。平野の様子を見て、ほっとしたように表情を穏やかに緩めた兄が、それならいいんだが、と頷く。そして、さらりと自らの頭を撫でていったやさしい指先の感触に驚いた平野は、ぱちりと目を瞬かせる。兄が、自分にこんな風に触れることは珍しかった。いち兄?――疑問を込めて名前を呼べば、なんでもないよ、とやさしい微笑みと声が降ってくる。そして、彼は金色の瞳を平野が見ていた先に向けて、ふ、と口元を笑みに綻ばせる。そして、納得したように一つ頷いた。 「行っておいで。後は私がやっておこう」 長兄の唇から発せられた予想外の言葉に、え、と声が零れ落ちる。そして、ですが、と戸惑ったように長兄を見上げた。平野の視線を受けた一期一振は、近頃は寒くなってきたからね、風邪を引かれては大変だろう、と穏やかな声で続ける。そして、鶯丸殿も近頃平野と話す機会がなくなったと気にされていたようだから、と平野を一瞥した彼は、珍しくどこか悪戯な微笑みを浮かべていた。いち兄!――思わず声を上げた平野の頬は、僅かに熱を持っている。頭を過るのは、まさに先程平野が見つめていた先――縁側に座る鶯色を纏うその人のことだった。まさか自分の近頃の行動を見抜かれていた上に、それが長兄にまで伝わっているだなんて羞恥心に顔から火が出そうだと思う。そんな平野の顔を見ておかしそうに声を上げて笑った長兄は、あまり長居して平野も風邪を引かないように、と兄らしい注意の言葉をひとつ残して去って行った。 そんな兄の背中を見送った平野は、深呼吸をひとつ。最近は意図して近付いていなかった縁側に向けて、歩き出す。冬が近付いてきた本丸に吹き込む風は冷たく、火照った頬の熱を冷ましていくようだった。今は、それが少しばかり有り難い気持ちになる。のんびりと茶を啜っているその背に近付いて、鶯丸様、と彼の名をそっと呼んだ。くるりと振り返った彼の鶯色の瞳が、平野の姿を映し出して、柔らかく細められた。 「平野か」 「……はい。ええと、その」 何と言葉をかけたものか、と平野は気まずそうに視線を落とす。平野は、鶯丸とお茶の時間を共にすることが好きで、この縁側に足繁く通っていたのである。それは、日課と称して過言ではないほどの頻度だった。しかし、近頃は、意図的にこの場所へ近付かないようにしていた――それは何も、鶯丸と仲違いをしたからとか、鶯丸がそれを望んだからとか、そういう理由からではない。ただ、平野が、自分勝手に気を遣って遠ざけたのだ。罪悪感のような気まずさに視線を彷徨わせた平野に、鶯丸はそっと笑う。 「茶を淹れようか」 鶯丸の声を聞いた平野は、ばっと顔を上げる。その言葉は、まるでいつも通りのものだった。平野を見遣った鶯丸は、ふ、と口元を微笑ませると、お盆に置いてあったままの空の湯呑みに茶を注ぐ。その行動を見ていた平野は、はたと気付いた。鶯丸は、平野がいつやって来ても良いように、平野の分まで湯呑みを用意してくれていたのだろう。平野がこの縁側に足を運ばなくなって何日が過ぎたか――その間も彼は、ずっと、この縁側で平野を待っていてくれたのだろうか。平野が、言葉を紡ごうとする前に、お茶が注がれた湯呑みを差し出した鶯丸が、すべてを見透かしたように目を細める。 「気を遣わせてしまったか」 その言葉に、平野の考えなど鶯丸にはお見通しだったことを悟って、穴があったら入りたいような心地になる。平野は、湯呑みを受け取りながら、ふるふると首を横に振った。 「いえ、いえっ、ちがうんです……! これは、僕が勝手に、」 それ以上は、言葉にならない。 この本丸に、鶯丸が長らく望んでいた大包平がやって来たのは、一月ほど前のことになる。鶯丸の話の大半は彼のことだったから、出逢うよりも前から平野は彼のことをよく知っていたし、実際に会ってみたいとも思っていた。何より、彼がこの本丸にやって来たことで、鶯丸が喜ぶ姿を見たかったのだ。そして、ふたりで過ごしていた縁側に大包平の姿が加わることによって、いつもよりも賑やかで楽しく過ぎる時間は、平野をいっそう笑顔にさせた。それまでは、良かったのだ。――平野は、聡い刀だった。加えて、鶯丸や大包平と共に過ごす時間が長かったゆえに、そのことに気付くことも早かったように思う。二振りの親密な距離に気が付いてしまった平野は、自らが間にいては邪魔になるのではないかと気を遣い、縁側に来ることを避けていたのである。 「俺は平野と茶を飲むのが楽しみなんだ」 ぽつりと零された言葉に、平野は、はっとしたように視線を上げる。あまりその楽しみを奪わないでくれ、と穏やかに微笑むその顔を見た瞬間、はい、と消え入りそうな声で頷くしかなくなった。恥ずかしさとうれしさが交ざり合った気持ちを抱えたまま、湯呑みに口をつける。そして、気を取り直したように鶯丸を見つめた平野は、そうだ、と思い出したように口を開く。いくら温かいお茶を口にしているとはいえ、こんな寒い縁側でずっと座っていては身体が冷えてしまうだろう。羽織りや暖が取れるものを持って来ようかと鶯丸に提案しようと思ったのだ。 「おい、鶯丸!」 平野が言葉を紡ぐよりも先に聞こえた声は、よく通るものだった。あ、と平野は声を上げる。それは、聞き間違えようもなく、大包平のものだった。鶯丸は、騒がしいのが来たな、とのんびりと口にすると、湯呑みに口をつける。出陣を控えているのか戦装束で現れた大包平は、お前はまた寒い中こんな場所で茶を飲んで、と盛大なしかめっ面だった。その声に肩を竦めた鶯丸は、茶は縁側で飲んでこそだろう、と飄々と言葉を返している。平野は、大包平がその手に持っている内番用のジャージを見て、開こうとした口を噤んだ。 「出陣だろう? 念願の隊長にはなれたのか?」 鶯丸の茶化すような言葉を聞いた大包平は、ぐっ、と押し黙った。その様子から、どうやら、部隊長の任を授けられることはなかったらしいと知れる。そうかそうか、とのんびりとした声で相槌を打った鶯丸の態度に何を思ったのか、大包平は、次は俺が隊長だ、と食って掛かる。それを軽くいなして笑う鶯丸は、表面上は平素とさほど変わりないように見えるが、やっぱり楽しそうだ。ちらりと鶯丸の様子を窺った平野は、お時間はよろしいのですか、と申し訳なく思いながら大包平に声をかけた。その声にはっと我に返ったらしい大包平は、手に持っていたジャージを鶯丸に押し付ける。 「? なんだ」 「これでも着ていろ」 「――うん? なんだ、わざわざこのために来たのか?」 律儀なやつだなあ、と言いながらジャージを受け取った鶯丸に何かを言いたげに口を開こうとした大包平だが、遠くから聞こえた彼の名を呼ぶ声に口を噤むと、平野に視線を向けてくる。その視線を受けた平野は、ええと、と戸惑ったように首を傾げながら、どうかお気をつけて、と見送りの言葉をかけた。その声に少し表情を柔らかく崩した大包平は、ああ、と頷く。そして、玄関の方向へ向かうべく平野の後ろを通り過ぎる瞬間、ぽん、と平野の頭に手を置いた。それは、長兄の指先とも隣に座る彼の指先とも違う、大きくて安心するような感触がする。ぱちくりと平野が目を瞬かせている間に、彼は玄関の方へ去ってしまった。 「……ええと」 「さて、茶のおかわりでも淹れてくるか」 素直に大包平のジャージに袖を通しながら、少し大きいな、なんて感想をぽつりぽつりと零していた鶯丸は、お盆に置かれていた急須を手に立ち上がった。そんな鶯丸に慌てて立ち上がった平野は、よければ僕が淹れてきます、と告げる。その言葉を聞いた鶯色の瞳は、はっとするほど綺麗に細められた。 「そうか。丁度、平野の淹れてくれた茶が飲みたいと思っていたところだった。それなら、頼むとしようか」 「――はい、お任せください」 ゆるりと微笑んだ口元を見つめながら、平野は確りと頷いた。そして、彼が手に持っていた急須を受け取る。厨に向かうために廊下を歩きながら、平野はぼうっと物思いに耽る。 平野にとって、あの二振りは憧憬の的だった。 あれは、平野が所用で席を外していて、用を終えて縁側に戻ってきた時のことだった。何のことはない、鶯丸の髪についてしまったらしい花弁を大包平が取ってやっただけのことだ――しかし、大包平の大きな手がそっと慈しむようにやさしく花弁を摘まんだ瞬間や、鶯丸の穏やかな瞳がそっと伏せられた瞬間を思い出すたび、心が震えるような心地になる。それは、平野の目には、息を呑むほどうつくしい光景として映った。あの世界は、ふたりだけで完成されている。だから、己が其処に入ってしまっては、そのうつくしさを損なってしまうような気がした――のだけれど、それは平野の思い込みで、実際はそんなことはないのかもしれない。鶯丸の微笑みや頭に触れた大包平の手の感触を思い出して、再び頬が熱くなる。自分の存在も確かに望まれていることを知って、胸がいっぱいになるようだった。
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おはよう、まだ愛を知らぬ君に。(つるいちつる)
遂に、一期一振が本丸にやって来たと言う。どうやら、政府から譲り受けたらしい。事の仔細は主以外には分からないが、藤四郎の弟達を始めとして、他の刀達も含め、概ね彼の受け入れには好意的だった。この本丸には訳ありの刀が多く、政府から譲渡されてきた刀は珍しいものでもない。かくいう鶴丸も、政府から譲渡されてきた刀だった。彼は、政府に保護される前の記憶を失っている。主からある程度話は聞かされてはいるが、記憶がないせいか、どうにも他人事のような気分が拭えなかった。まあ、それはいい。 兎にも角にも、鶴丸は、新しくこの本丸にやってきた驚きを見逃すほど迂闊ではなかった。内番が長引いたせいで予定よりも遅くなってしまったが、藤四郎の弟達に囲まれる男を遠目に見つけて、ああ、あれが噂の――とまじまじと見つめる。長兄という立場に相応しく、穏やかで面倒見の良さそうな雰囲気の男だった。鶴丸は、逸る気持ちを抑え込むように、ゆったりとした足取りで彼らに近付いていく。 「君が、一期一振か」 鮮やかな浅葱色の髪、柔和な顔立ち。蜂蜜のように甘く穏やかな色をした瞳が、鶴丸の姿を映し出した。きゅっと細められた瞳は、何を思ってのことだろうか――どくり、何故か、心の臓が大きく跳ねたような気がした。 「ああ――鶴丸国永殿、ですね」 彼は、柔和な顔立ちによく似合う、やさしい声をしていた。しかし、その声に確かに滲んでいた懐かしむような声音に、僅かな違和感を覚える。何故だろう、妙な胸騒ぎがした。それでも、鶴丸は微笑みを浮かべて、彼を歓迎したのだ。
それが、悪夢の始まりだということも、知らずに。
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See you soon.【清燭+伊達組】
ざく、ざく、と野菜を包丁で切る音だけが静かな厨に響き渡っていた。ぐつぐつと煮える鍋の中身をお玉でかき回した大倶利伽羅は、存外、穏やかな表情で野菜を切っている昔馴染みに視線を向ける。一人で居ることを好んでいる己が知っているくらいなのだから、人当たりが良く、この本丸の初太刀である彼が聞いていないはずもないだろう。知っていて、この態度なのか。恐らく声をかけるべきは自分ではないと思うが――と思いながら、そのまま、静かに鍋へ視線を落とした。 この本丸の初期刀が、遂に修行へ出るそうだ。そう、聞いた。大倶利伽羅は随分前に主へ打診して修行に出ているし、他の刀も何振りも修行に出ている。最初の頃こそ本丸中がそわそわと落ち着きのない空気に包まれていたが、それなりに時を重ねている今の本丸では、何も、珍しいことではない。初めてのことではないのだから、別段、何も思うことはないのかもしれなかった。 しかし、本当に、そうだろうか。大倶利伽羅は、自らの主である審神者の落ち着きのない様子を思い出していた。皆を須らく平等に愛していると普段から豪語している審神者だったが、初期刀から修行にいきたいと申し出られた時、正直、戸惑ったらしい。眉を下げて困ったような表情で、最初から傍に居てくれた清光がいなくなるっていうのは、なんというか、ちょっと不思議な気分なんですよね、と大倶利伽羅が近侍の時にぽつりと零していた。それは、不思議というよりも――さびしい、というのではないか。大倶利伽羅は頭の中に思い浮かんだその言葉を口に出すことはなく、ただ黙したまま、審神者の顔をじっと見つめ、未だ困ったように笑う審神者の頭の上に、静かに手を置いただけだ。恐らく、大倶利伽羅なら、他の誰にもそれを言うまいと思ったのだろう。確かに、わざわざそんな言葉を言いふらす趣味もないし、審神者に何の言葉もかけなかった。きっと、己にそれは求められていない。実際、それでよかったらしい。審神者は、確かに、柔らかく笑っていた。あなたは、ほんとうに、やさしい刀ね。落とされた穏やかな言葉は、とても不本意な一言だったけれど。 では、この昔馴染みはどうだろう。彼が、初期刀のことを憎からず思っていることは知っていた。付き合いが長ければ、気付きたくなくても気付くこともある。これも、そういったもののひとつだ。しかし、そうであるなら、やはり、誰か他の刀が修行に出るのとは違うのではないだろうか。昔馴染みである大倶利伽羅や太鼓鐘が修行に出た時でさえ、燭台切は落ち着かない様子を隠せていなかったのだから。 「どうかしたの、伽羅ちゃん」 不思議そうに目を瞬かせた男の顔は、いつも通りに見えた。しかし、それが、まったくいつも通りではないことに気付けてしまうこともまた付き合いの長さゆえか。眉を寄せた大倶利伽羅は、存外、素直ではない男に小さく息を吐いた。この刀には、そういうところがある。大倶利伽羅や太鼓鐘が修行に出る際にはまるで保護者のような振る舞いで、忘れ物はないかだの、これは修行先で食べてねだのと頼んでもいないのに甲斐甲斐しく世話を焼いてきたくせに――“彼”の前では、そんな姿も見せない、否、見せられないのか。それは、ちっぽけな自尊心ゆえか。格好つけたがりな男らしい、面倒な話だった。昔馴染みだとか、同じ家に居ただとか、そういう大義名分がなければ、きっと、抱え込んでいる感情を吐露することもできないのだろう���皆の前ではいつもと同じように柔らかいまなざしで、気を付けていってらっしゃいと笑っていた裏、隠された情けない顔を覚えている。 『――どうしたの、そんな顔して。嫌だな、僕、そんな酷い顔してる? はは、格好つかないなあ……伽羅ちゃんの意思を尊重したいから、行かないでなんて言わないよ。でも、無事に帰ってきてほしい。伽羅ちゃんの好きなもの作って待ってるから、ね。……うん。貞ちゃんが行った時だって、本当は、引き留めたくて仕方なかったよ。だって、……置いていかれることには、あんまり慣れてないから、さ』 どうしてかな。胸が、くるしいなあ。今にも泣きそうに顔をくしゃりと歪めていた情けない顔を思い出して、涼しい顔で野菜を切っているその顔と重ね合わせる。痩せ我慢が好きな男だ。きっと、今だって、口をついて出そうな言葉を我慢しているのだろう。いかないで、とたった一言でいいのになあ――口にしなければ伝わらない、せっかく人の身を得たというのに、勿体ないことだ。なあ、そう思わないかい、伽羅坊。そんな風に呟いていた、もう一振りの昔馴染みを思い出した。 「伽羅ちゃん?」 「――何でもない」 自分が言うべきことでは、ないだろう。大倶利伽羅は首を横に振ると、手に持っていたお玉でぐるりと鍋を再びかき回した。
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初期刀が、修行に出ると言う。審神者にそれを聞いた鶴丸は、ついにか、と思わず呟いていた。いつか来るだろうことは分かっていたし、寧ろ少し遅く感じるくらいだったかもしれない。ぜひ驚きを持ち帰ってくれ、と笑ってみせれば、加州は呆れたような顔をして、ほんっと驚き大好きだよね、と肩を竦めた。部屋を出た二振りは連れ立って歩き出したが、互いに目的地があるわけでもない。いつ行くんだ、と聞けば、明後日には出るつもりだと言う。随分と急なことだな、と驚く。 「……あー、あんまり時間空けると、旅立ちにくくなるから、さ」 気まずそうに眉を寄せた加州の顔を見て、ふうん、と相槌を打つ。審神者も一の刀である彼が旅立つことに感情の揺れを隠せていなかったが、それは彼にしてもそうなのだろう。最初からこの本丸に在った彼としても、色々と思うところがあるはずだ。ちらりと加州の顔を一瞥した鶴丸は、なあ、と声をかける。 「光坊とは話したのかい?」 彼らの曖昧な関係には、気がついていた。お互いに憎からず思っているくせに、最後の一歩を踏み出せていないような曖昧な関係だ。何を思って、言葉にしないのか――鶴丸には理解こそできるものの、勿体ないことだと思っていた。せっかく結ばれる立ち位置ならば、早く繋げてしまえば良い。神としてのこの身は永いとも言えるかもしれないが、この本丸で共に過ごす時間は永遠ではないのだ。この戦が続く限り、お互いの存在自体が失われることはないかもしれないが、今此処に在る一振りはいつ失われるかも分からない。人の身を得るとは、そういうことだった。彼らとて、それを知らないわけではないだろうに。 鶴丸の言葉を聞いた加州は、瞳を瞬かせる。それから、ふ、と口元を緩めて笑った。 「……意外と、世話焼きだよね」 加州の言葉に、鶴丸は、くつり、と喉を鳴らして笑っていた。正直で隠すところがない真っ直ぐな言葉は、心地好さすら感じる。そうか、意外か。舌の上で言葉を転がして笑った鶴丸のご機嫌な様子を見た加州は、肩を竦める。 「踏み込まないと思ってたから……あー、いや、うん、踏み込みはしないか。引き際は心得てるもんね、表面を撫でるだけって感じ」 「はは、そう見えるかい」 「悪いって言ってるわけじゃないよ」 「知ってるさ」 そんな言葉を交わして、互いに笑い合う。そして、朱に染まり始めた空を仰いだ加州は、そっと目を細める。言いたいことはずっとあるんだけど、と躊躇いを含んで零れ落ちた言葉は、鶴丸が尋ねた言葉に対する返答だったのだろう。鶴丸の姿を映した深緋の瞳は、困ったように笑んだ。 「俺は初期刀だからさ。この本丸が立派に立ちゆくまでは此処を離れる決心もつかなかったし、それこそ他のことに余所見をしている暇もなかったんだよ。遅いと思った奴もいると思うけどさ、俺としては――うん、今回のことは丁度良い機会だなって思うわけ。俺しかいなかった頃と比べて、本丸も随分立派になったし」 「君がこの本丸の初期刀としてずっと主を支え続けていることは、皆、知っているさ」 「そ? なら、いいのかな」 前を向いた加州は、ちゃんと言うよ、と呟いた。それが、彼なりのけじめなのだろう。初期刀として、この本丸を支え続けることに尽力してきた彼が、この本丸を離れる。それは、きっと、一つの転機になるのだろう。ずっと彼を頼りにし続けてきた審神者にとっても、初期刀として本丸や主のことを第一に考えて支え続けてきた加州にとっても、そんな彼の意思を尊重してそっと見守り続けてきた燭台切にとっても。変わらないものは確かに在るが、変わり続けていくものも在る。どちらが良いかなんてことは、単純には言えないだろう。それでも、変化は喜ばしいことだ。驚きを愛する彼にとっては、常にそうあるべきものだった。 「君の旅路に幸多からんことを祈ってるぜ、初期刀殿」 「――あっと驚かせるつもりだから、今から心構えしといてよ」 晴れやかな微笑みを浮かべたその姿を見て、そりゃあ楽しみだな、と真白の太刀は腕を組んで笑った。
□ ■ □
見送りなんてものは気恥ずかしかったので、審神者にだけ一言告げてこっそりと出ていくことに決めていた。 早朝の空気が清々しい中、行ってきます、と大切な主に笑顔を向ける。気を付けてね、と涙を堪えながら見送ってくれる主に、風邪をひかないように、と近くに在った羽織りを引き寄せて、その細く頼りない肩にかけた。ずっと、居た場所だ。まだ幼さを隠し切れていなかった主と二人三脚で、此処まで、一緒に。ずっと積み重ねてきた時間を思い返して、胸が熱くなる。もっと可愛くなって帰ってくるから、もっと愛してもらえるように頑張ってくるから――。込み上げる感情を抑えるように、見送りは此処でいいよ、と微笑んでみせる。そして、主の顔を焼き付けるように見た後、くるりと踵を返した。 まだ寝静まった廊下を歩きながら、ぐるりと周囲を見渡す。いつもは騒がしいはずの本丸がやけに静かに感じられて、妙な感傷に引き摺られそうだった。柄じゃないよなあなんて少し笑いながら、玄関を出る。一度だけ、くるりと後ろを振り返った。見慣れた本丸の外観に、どっと押し寄せてきた思い出の数々と数多の感情。此処へ来て、初めて知ったことがたくさんある。 行ってきます。誰に言うわけでもなく――否、頭の中に思い浮かべた姿は、一つだけだったかもしれない。届くはずもない言葉を口にして、少し口元を緩める。帰ってきたその時には、きっと、ずっと胸にあたためてきた気持ちを告げることができるだろう。来たるべきその日を頭に思い描いて、それは、幸いなのだろうと思った。こういうのを幸せって言うんだろうな、と漠然と感じたのだ。 手に持っていた笠を被って、再び前を向いた。もう、後ろは振り返らない。後ろ髪を引かれるような想いを抑え込んで、ぐっと前を向く。そして、一歩を踏み出そうとしたその時――。 「加州君」 一瞬、願望が生み出した幻聴なのではないかと疑った。すぐにそんなことはないと気付いたけれど、それくらいに驚いたのだ。きっと、見送りには来ないと思っていた。昨夜、気を付けて行ってらっしゃい、と言葉をかけてもらえただけで十分すぎるほどだと思っていたのに――。加州はぐっと唇を噛む。それでも、決して、後ろは振り返らなかった。もう、後ろは振り向かないと決めたからだ。 「……行ってらっしゃい」 それ以上の言葉は、なかった。穏やかな、いつもとまったく同じようにも感じられる声音の裏で、彼はどんな表情をしていたのだろう。そんなことを考えながら、うん、と頷いた。行ってきます――そう言おうとして、口を噤んだ。告げたい言葉は、きっと、それではない気がしたのだ。何度か唇を開閉させて、言葉に迷う。告げたい言葉は、何だっただろう。そんなことを考えて、鶴丸と交わした遣り取りを思い出す。そうだ、ちゃんと言わなければいけない――そこから、すべてが始まるのだ。 「待っててよ。――帰ったら、伝えたいことがあるんだ」 返事は、なかった。でも、それでいいのだろう。加州は、足を一歩踏み出す。決して、後ろは振り返らない。見上げた空は、旅立ちに相応しく晴れやかで、突き抜けるほどに青かった。 □ ■ □
(おまけ)
「なーにしてんだよ、伽羅」 どん、と体当たりするように抱き着いてきた太鼓鐘を見下ろした大倶利伽羅は、べつに、と素っ気ない言葉を零して、視線を逸らした。初期刀が旅立って、既に一日が経っている。残された彼は今日もいつも通りに振舞っているが、どこか寂しそうな気配を隠せていなかった。――だからといって、何かできるわけでもないし、するつもりもない。大倶利伽羅には、関係ないことだ。そう自分に言い聞かせている時点で、まったく関係がないわけではないことに心の底では気付いているが、見ない振りをすることにした。 そんな大倶利伽羅のことを見透かすように瞳を細めて、にんまりと笑った太鼓鐘は、なあなあ、と大倶利伽羅の顔を下から覗き込んでくる。 「早く帰ってくると良いよな。みっちゃんも寂しそうだし。……なあ、春の三番もそう思うだろ?」 にや、と唇を上げて笑う太鼓鐘の姿に溜め息を吐いた大倶利伽羅は、その頭をぐりぐりと撫でる。なんだよやめろよ!――と頬を膨らませる彼の底抜けない明るさに、恐らく救われるものも多いのだろう。長い付き合いである彼のことを見下ろした大倶利伽羅は、ほんの微かに口元を緩める。伊達に居た頃、一緒の箱に収められていたこともある小さな彼は、そんな大倶利伽羅の微笑みとも呼べないような微かな表情の変化にも気付いたようで、お、と意外そうに目を瞬かせた。 「うるさいぞ、二番」 そして、大倶利伽羅の口から零れ落ちた素っ気無い一言にも、へへ、と頬をかいて嬉しそうに笑うのだ。そして、太鼓鐘は、そうだ、と良いことを思いついたと言わんばかりに大倶利伽羅の手を引いた。その瞳は、きらきらと煌めいている。 「みっちゃん、寂しがってそうだから一緒にお茶でもしようぜ。さっき、鶴さんが饅頭くれたんだ!」 「……そうか」 「鶴さんも誘ったんだけどさあ、平野達と先約があるんだとさ。だから、後から来るって。な、いいだろ?」 「――勝手にしろ」 大倶利伽羅は、再び素っ気無い言葉を口にする。その声音が彼にしては随分とやさしい響きだったことに気付いたらしい太鼓鐘は、再び目を細めて笑った。
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【探偵パ��】恋とは
探偵事務所の入っている建物の四階、角部屋。それが、鶴丸国永にとって、この地で羽根を休める場所になった。彼は名前の通り日本の血も引いてはいるが、生まれも育ちも外国だ。父親の祖国であるとはいえ、彼自身とは凡そ縁遠かったこの地に腰を落ち着けることになった理由は、恐らく一晩では語り切れないだろう。なんせ、人生を変える出逢いだったのだ。それによって、鶴丸の人生は、良くも悪くも色を変えてしまった。それを幸か不幸かとは一概には言えない。ただ、退屈ではなかったことは確かだ。彼にとって大事なことというのは、つまり、そういうことなのだ。約束された将来よりも退屈のない波乱に満ちた人生を選び、そして、それすらも捨て去った。他人は、鶴丸を愚か者と笑うかもしれないが、そんなことはどうでもいいことだ。今の彼の手に遺ったものが、たとえ、あの頃よりも少ないとしても――。きっと、随分と多くのものを捨てている。順風満帆な、欲しいものをただ与えられる生活を捨て去って、命を切り売りする世界に飛び込んだ。鶴丸にとって、生きるということは、取捨選択だ。常に手札を切って、捨てていかなければいけない。欲しいものを手に入れるなら、何かを捨てる必要がある。何のリスクや代償もなしに手に入れられるものなど、凡そ、大したものではあるまい。安寧など、くそくらえだ。停滞の先にあるものなど、死よりも惨い退屈さばかりである。考えることを放棄した瞬間、人は死ぬ。退屈は、人を殺す凶器だった。 「――今でも、時々不思議に思います」 鶴丸が生涯の伴侶に、と望んだのは彼よりもいくつか年下の青年だった。出逢いは血に塗れた路地裏だ。ロマンスなど一かけらもない、くそったれた世界で出逢った二人は、それでも何故か恋に落ちた。恋を知るよりも前に身体を重ね、愛を告げるよりも先に銃を向けたにもかかわらず、二人はこうして身を寄せ合って生きている。不思議なこともあるものだろう。これだから人生は面白いのだ、と思う。 「何をだ?」 「あなたは、どうして、あの時に私を選んだのかと」 粟田口一期という名前を持つ彼は、かつて栄華を誇っていた粟田口家の長兄だった。そして、彼の家は没落した。上流階級から一気にどん底まで叩き落された彼に待ち受けているものは、惨い人生だけだ。海外に売られ、売られた先の外国貴族の家を逃げ出した彼を待っていたものは、もちろん、日に照らされた道などではない。どこまでも地の底に落ちていくだけの道だ。そんな彼は、今はすべてから足を洗って、この地で弟達と新たな一歩を踏み出していた。 「きみを選んではいけなかったか」 「……あなたのお眼鏡にかなうほど、私は面白い男ではないですよ」 「恋とは、落ちるものだと言うだろう。理由なんかありゃしないさ。そうだな、しいて言うなら――きみだったからだ」 理屈で恋をしているわけではないのだから、と思う。理性とはまた別のどこかで彼のことが良いと選んで、気が付いた時には抜け出し切れないほどに嵌っていた。ただ、それだけだ。しかし、そんな言葉では彼は納得しないこともよく知っていた。彼は、理由がなければ不安なのだろう。彼は、理由もなく与えられるものなどないと思っている。仕方のないことだ。彼――そして、鶴丸が生きてきた世界とは、そういうところだった。理由もない優しさなど存在しない、すべてを疑ってかからなければ、次の瞬間に吹っ飛ぶのは自分の頭かもしれない。 「その言葉を、私に信じろと言うのですか? あなたは、随分と酷いひとだ」 くしゃりとその顔が歪んだ。――本当は、信じたいのだろう。信じたくて、でも、裏切られた時のことを考えて、どうしようもなく恐ろしくなるのだ。一期の生きてきた今までの環境が、彼にそれを許さない。しかし、まあ時間はあるのだから焦ることはないのだ。鶴丸は、笑ってみせた。 「なら、どんな理由がいい? きみとのセックスが忘れられないかったから、とでも言えば満足かい」 「……そのほうが、まだ納得ができます」 「おいおい、そりゃ確かに体の相性は大事だが……配偶者(パートナー)に対して随分なことを言うもんだ。俺はきみの身体だけが目当てだったわけじゃないぞ」 「鶴丸さんは」 「国永」 一期の言葉を訂正するように自分の名を口にする。何度訂正しても、一期は鶴丸のことを名字で呼び続けた。それもいつしか馴染むものと知っているから焦ってはいないが、こうやって、馴染ませるように何度も訂正の言葉を口にする。 「……国永さんとは、別にこっちじゃ他人同士でしょう。私とあなたを繋ぐ法的な関係は何一つない。ただの、他人同士だ」 「そうだな、それは間違いではない」 「国永さんは、やっぱりアメリカにいたほうが良かったのでは? あなたに日本(ここ)は息苦しいでしょうに」 「まあ、前も退屈しない仕事ではあったがな。これでも、今の仕事も気に入っているんだぜ」 「……わたしは」 一期は、泣きそうな顔をした。それ以上の言葉は、出てこない。鶴丸は、意地悪をし過ぎただろうか、と低く喉を鳴らした。彼の肩に手を伸ばして、ぐっと引き寄せる。そして、その頭を抱え込むように胸へ寄せて、ぽんぽん、と頭を軽く撫でた。 「いち、俺はきみに嘘は吐いちゃいない。全部、俺の本心だ。――信じられなくてもいい。時間は、たっぷりある。きみは、もう俺のものになったんだから」 もう君は俺なしじゃどうせ生きていけやしないんだから、と呟く。本当は、強い男だと知っている。まだ子供と呼べる時代に家族と離れ離れにされ、独り海外に売り飛ばされた挙句、酷い扱いを受け続けてきた。それでもなお、家族との再会と復讐だけを生きる糧にして此処まで立ち続けてきた男が弱いはずもない。それでも、孤独に慣れ過ぎた彼にとって、隣に体温のある生活は彼を弱くしていくのだろう。それでいいのだ。そうして染まり続けて、もう二度と戻れなくなればいい。 「――ならば、もっと、信じさせてください」 私に、もっと、教えて。刻みつけてほしい。そうねだる甘い声に誘われるように、その体を床に押し倒した。
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【探偵物パロ】花屋での密談
※加州→燭台切要素、つるいち要素有 ※現パロです。出てきてないですが、実際は長谷部主人公です。一夜にして仕事も住居もなくした長谷部が古備前探偵事務所に拾われてはちゃめちゃライフを送る感じの話です。今回は美大生の加州のお話。
加州が足繁く通う花屋の店長は、燭台切光忠という一度聞いたら忘れられなさそうなインパクトのある名前をしている。夜の街で働いていますと言われたら納得してしまいそうな甘いマスクと低く艶っぽい声音。しかし、話してみれば、花が好きで、気の良い世話焼きなお兄さんといった彼のことを気に入っていた――という言い方は、少々ずるいかもしれない。嫌いではないがわざわざ買って飾るほど好きなわけでもない花を毎週のように買って帰るのは、偏に彼に会いたいという下心からだった。つまりは、気に入っているとはそういう意味である。 常連になると、他の常連客のことも必然と知る機会が多くなった。燭台切が特に親しく世話を焼いているのは、花屋の向かいにある建物の2階に入っている古備前探偵事務所の鶯丸と大包平という男、そして最近その事務所に社員として入ったらしい長谷部という男だ。この3人とは顔を合わせたことはあるが、まともに話をしたことがあるのは鶯丸くらいだった。何を考えているかよく分からないマイペースな男で、正直、加州としてはあまり良い印象はない。まあ、想いを寄せている相手が甲斐甲斐しく世話を焼いている男なんて全員良い印象なわけがないのだけれども、それは一先ず置いておこう。 そして、更にもう二人、燭台切とやけに親しくしている男達がいた。加州が花屋を訪ねる時、この二人と遭遇する確率が非常に高い。仕組まれているのかと疑ってしまいそうなほどだ。片方は、探偵事務所の上にあるアパートに住む男、もう片方は、スーツ姿なのに異様にちゃらちゃらした雰囲気の男だった。アパートに住んでいる男は官能小説家なんて職業を生業としている如何にも怪しい男で、もう片方は何をしているかまったく分からない。さり気なく尋ねてみたら、旅人か風来坊ってところかな、と飄々とした微笑みと共にふざけた回答が返ってきた。 「あれ、なんだ……きみ、また来たのか」 「どーも」 今日は、官能小説家のほうだった。白とも銀ともつかないきらきらと輝く色素の薄い髪、眩いばかりのシトリンの瞳。中性的な顔立ちをした白皙の青年は、見目だけならば非常に整っている。儚げにも感じる線の細さとは裏腹に明朗快活とした性格は、恐らく大抵の人間から好かれるものだろう。しかし、加州は、燭台切と親しいという点を除いてもこの男が少々苦手だった。明るく人懐こい微笑みとは裏腹に、つぶさに観察されているような錯覚がするのだ。彼は、加州の姿を認めると、意味ありげに唇を緩めた。 「あ! いらっしゃい、加州君」 にっこりと微笑んだ燭台切の笑顔には、表裏がない。彼の手には、白と水色を基調とした花が握られていた。恐らく、先客である彼が注文したものなのだろう。鶴さんの対応しているからちょっと待っててね、と眉を下げた彼は、水の入ったボウルに花の茎を浸けて、手慣れた仕草で茎を切っていく。その姿をぼんやりと眺めていると、なあ、と先客である彼――鶴丸が、口を開いた。 「今日は一人で回してんのか。伽羅坊と貞坊は?」 彼の言う「貞坊」と「伽羅坊」は、此処で働いているアルバイトのことだ。中学生と間違えそうな幼さの残る溌剌とした高校生と、彼とは裏腹に無口で素っ気無い大学生。後者の「伽羅坊」は俱利伽羅広光という大層な名で、加州の通う美大の同級生である。デザイン系の学科に所属する加州とは異なり、彫刻を専攻している彼とは直接関わり合いは無かったが、キャンバス内で何度か擦れ違ったことくらいはある。加州がちょっとした面識のある油絵専攻の山姥切国広と親しいらしく、よく一緒に居る姿は見かけていた。 「どっちも学校だよ。伽羅ちゃんは制作が忙しくなってきたみたいでね」 燭台切は、器用に作業を続けながら答える。ふうん、と相槌を打った鶴丸は、加州のことなど既に視界にも入らないような様子で、そういや次の賞に作品出すとか言ってたな、と納得したように独りでに呟いていた。 「鶴さんは? 執筆のほうは順調なの?」 「今回は順調だ、もう原稿渡してある……っと、そういや、アメリカに旅行に行ってなあ。きみに土産を渡そうと思ってたんだ」 鶴丸は、思い出したように声を上げる。その手には、小ぶりの洒落た袋が握られていた。加州がこういう場面に遭遇したのは、初めてではない。それくらい、鶴丸は頻繁に旅行して���るようだった。つまり、海外旅行にも頻繁に行けるくらいには稼いでいるようだ。加州は彼のことを薄っすら名前が聞いたことがある程度だったが、読書を嗜むという同級生に彼のことを尋ねてみたところ、官能小説と一括りに言ってもあれは���はや芸術だ、と熱弁された。どうやら、加州にはまったく興味が持てないが、ファンは多いらしい。エロいというよりも煽情的、艶めかしいといったような文学的な表現が相応しいということだそうだが、まあ、加州には理解できない世界だった。 「どこ行ってきたの?」 渡された袋を受け取った燭台切は、ありがとう、と微笑みながら、興味深げに袋へ視線を落としていた。加州もちょっとデザインが良いなと思ってしまうくらいシックで洗練された袋の中身は、恐らくそう安いものではないだろうことは理解できる。開けてみてもいいぜ、と意味深げに笑った鶴丸の顔をじっと見た燭台切は、ふ、と唇を緩めると、後の楽しみにしておくよ、と返していた。 「ベガスと、ロスと……後は、まあ俺の会社<カンパニー>に来いって友人がうるさくてな、ちょっと見学させてもらってたきた」 加州は、ふとその言葉に違和感のようなものを覚えた。会社と言えば良いところをわざわざカンパニーなんて言い方をした鶴丸の言い回しが不思議だと思っただけなのだが――まあ、特に意味はないのだろう。加州は、すぐにその違和感を頭の片隅に追いやってしまった。後になって思い返してみれば、あれは、鶴丸から加州に与えられた挑戦状であり、加州のことを哀れんでいた彼からの忠告でもあったのかもしれない。しかし、今の加州はそんなことに気付くわけもないのだ。だって、そうだろう。会話の中に散りばめられた違和感を掬い上げて繋げるのはそれこそ探偵だとか刑事だとかの十八番で、加州はただの美大生でしかない。幼い頃から剣術の道場に通っていて多少腕は立つかもしれないが、それでも、加州はただの一般人でしかなかった。 「へえ、一人でいったの? 一期君は?」 燭台切は、にこやかに微笑んだ。一期君、というのは度々聞く名前だったが、会ったことはない。評判だけを聞けば、随分と穏やかで真面目な青年らしいが、その仕事を聞くと、途端に胡散臭くなる。ここから歩いて数十分の距離、繁華街の裏路地にひっそりと建つ年季の入った建物――よろず屋・粟田口の看板を掲げている店の主が、粟田口一期という名前の青年らしかった。目の前に居る鶴丸と彼がどういう関係なのかは知らないが、一緒に旅行するような仲なのだろうか。燭台切の質問に目を細めた鶴丸は、まさか、と笑う。 「寂しい一人旅さ。今度、光坊も行くかい?」 「アメリカに?」 「そう、ベガスとかな。きみに似合いそうだ。後は――そうだな、ラングレーとかも楽しいぜ」 ラングレー。聞いたことのない地名だ。有名な場所なのかな、と加州は首を傾げる。まあ、それよりも気になるのは、燭台切がこの問いかけにどう答えるかだった。アルバイトの二人も含めた彼らはどうやら昔馴染みのようで、非常に親しい。ぎゅうと胸を締め付けられるような感覚とどろりと込み上げてきた嫉妬の感情から目を逸らすように、視線を花へ向ける。 「――ふふ、そうだね。でも、僕は日本が好きだからなあ」 外国はちょっとね、と笑う彼の反応は少し意外だった。思わず燭台切に視線を向ければ、彼は少し困ったように微笑んでいた。そして、はい、できたよ、と手に持っていた花束を鶴丸に向けて差し出す。そんな彼をじっと見ていた鶴丸は、そうかい、と柔らかく呟くと、差し出された花束を受け取り、提示された金額を財布から取り出した。 「じゃあな、光坊。ああ、あと、加州――だったか、きみも。Have a nice day」 妙に流暢な挨拶を残した彼は、ひらりと手を振って去って行く。その背中をじっと見ていた加州に何を思ったのか、鶴さん、ああ見えてアメリカ育ちなんだよ、と燭台切が声をかけてきた。 「へえ、そうなんだ。……光忠さんってさ、行ったことあるの? アメリカ」 加州が燭台切の様子を窺うように視線を向ければ、蜂蜜のように甘い色をした金色の瞳がぱちりと瞬く。そして、いいや、ないよ、とにこりと微笑む。その言葉に、少しだけ安心する。どうやら、あの作家と一緒にアメリカへ過去に渡ったことはないようだった。 「ふうん、良かったの? せっかく誘われてたのに」 「僕は日本のほうが好きだからね。で、加州君は今日はどうするの?」 そう言って柔らかく微笑んだ彼の顔は、今日も格好良かった。
◆ ◇ ◆
「――ねえ、鶴さん? 一般人がいる前でああいうのは感心しないなあ」 『はは、何だい。きみ、怒ってるのか』 「そりゃあね、わざと言ったでしょ。カンパニーも、ラングレーも。加州君が意味に気付いたらどうするつもりだったんだい?」 『気付いたところで無意味さ。あの子は一般人だというなら、猶更だろう。――それに、とっくのとうに俺は抜けてるからなあ』 「その割には古巣に呼び出されたんだね?」 『あー、この前本国で騒ぎがあっただろう。あの一件で、ちょっとな……あそこの残党が関わっているらしいって話だったから』 「――それで、一期君には内密に?」 『いちにわざわざ教えてやることもないだろう、あいつはもう立派に堅気なんだしな。……それより、気を付けておいたほうがいいぜ、光坊』 「……何?」 『あっちで聞いた。お前が追ってる組織のことだけどな。どうやら、この町で取引をするらしい』 「へえ、なるほどね。それも、”お土産”かな?」 『はは、あっちの土産も喜んでもらえたかい? 手に入れるの大変だったんだぜ』 「もちろん。感謝してるよ、鶴さん」 『お礼は君の働きで返してくれればいいさ、長船”警視”』 そんな遣り取りが裏で交わされていることを、未だ、今の加州は知らないのだ。
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魔法使いと一つ屋根の下【つるいち】
※「つるいちもんめ7」で発行した新刊「同級生は魔法使い」のネタバレを含みます※
一期の家に厄介になれないかと鶴丸が訪ねてきてから早数日、一つ屋根の下という状況下に緊張していた自分が馬鹿馬鹿しくなるほど、二人の間には何もなかった。年頃の恋人同士が一つ屋根の下とくれば何かしらのイベントが発生するものではないのかと首を傾げたくなるが、健全も健全、たまに触れるだけのキスを交わすくらいだ。まるで自分ばかりが期待しているように思える苛立ちのような気持ちと不埒な思考に侵されすぎなのではないかと自分を恥じる気持ちが入り混じって非常に複雑な気分だった。一期は顰めっ面でコーヒーを並々と注いだマグカップに口をつける。そして、魔法関係の文献を広げている鶴丸の背中に視線を向けた。一期も真面目な部類だと思うが、一見ちゃらちゃらしてそうにも見られがちな鶴丸も根は勉強熱心だ。色んな書籍を積み上げて、ああでもないこうでもないと考えている彼の背を見つめていた一期は、そういえば、と前々から疑問に思っていたにもかかわらず鶴丸に聞けないでいたことを思い出した。 鶴丸さん、とその背に呼び掛ければ、んー?――と間延びした声が答える。前々から気になっていたんですけど、と一期は話を切り出す。 「鶴丸さんって、私の前でほとんど魔法を使ってる姿を見せないですよね」 それは、純粋な疑問だった。もちろん、魔法使いは一般人の前で極力魔法は使ってはいけないとされている――が、一期は、鶴丸が魔法使いだと知っているのだから、そんな遠慮は必要ないはずである。しかし、鶴丸は、一期の前では魔法を使わないようにしている節があった。それは、二度目の初めましてを交わした――魔法使いになった彼と再会した頃から、薄っすらと感じていたことである。一期は、彼が魔法を使う瞬間をさほど見たことがない。魔法使いになった彼と再会した時や、マドンナの魔法で階段から落ちそうになった時等、数えられるくらいのものだ。 一期の言葉にばっと後ろを振り返った鶴丸は、複雑そうな面持ちをしていた。どうしてそんなことを聞くのかと眉を顰めた彼は、そりゃあ、きみ、と唇を尖らせる。 「……きみが、魔法を嫌がってたからじゃないか」 その言葉に、一期は目を瞬かせる。え、と素っ頓狂な声が零れ落ちた。一期が魔法を厭っていたから、一期の前では魔法を使わなかったという彼の言葉は予想の範疇を超えていたのである。もっと、別の理由があるのではないかと思っていたのだ。 驚いたような様子を隠し切れない一期の顔を見た鶴丸は、なんだよ、と拗ねたように呟いた。 「そんなに意外かい? 俺だって、それくらいの配慮はするさ。それに、あんまり魔法は見せないほうが、きみにもっと近付けるんじゃないかって……そう、思ったんだよ」 それだけ言うと、鶴丸は、ふい、とそっぽを向いてしまった。その白い頬は薄っすらと赤く染まっていて、一期は急にじわじわと自らの頬が熱を持つのを感じる。まるで鶴丸の照れが伝染したように、一期まで恥ずかしくなってきた。 「ええと、その……ありがとうございます……?」 彼が一期のことを気遣ってくれたことは確かなのだからと思ってお礼の言葉を口にすれば、べつにいい、と鶴丸が照れたような早口で言葉を紡ぐ。そして、逸らしていた視線を一期に戻してきた彼は、じっと一期を見上げて、なあ、とおもむろに口を開いた。 「……きみの前で、魔法、使ってもいいのか?」 「え? はい、いいですよ」 一期があっさりと頷けば、鶴丸の瞳に拗ねたような色がありありと浮かんだ。きみ、魔法使いが嫌いなんじゃなかったのか――と一期を責めるような口調で詰ってくる鶴丸に眉を下げた一期は、別に嫌いなわけでは、と困ったように微笑む。 「私には向いていなかった、というだけですよ。魔法使い自体が嫌いというよりは……そうですね、今思えば、魔法使いだった自分が嫌だったんです。別の何か――もっと、普通の自分になりたかったから」 「……ふうん」 一期は、鶴丸の傍まで近寄ると、彼に身を寄せるように顔を近づけた。一期と揃いのシトリンのような瞳は、未だに拗ねたような色を浮かべている。こういう鶴丸の一面を見るたびに可愛らしいひとだなと思うのだが、鶴丸に直接それを言うと更に拗ねるに違いないので、その感想は一期の胸の中へ大切に仕舞っておくことにした。 「言ったでしょう? 魔法使いでも――魔法使いでなくても、ただ、鶴丸さんのことが好きですよ」 一期は、そう言って微笑むと、彼の頬に唇を寄せた。 しかし、鶴丸は、機嫌を直すどころか、ますます拗ねたように唇を尖らせる。何で頬っぺたなんだ、と文句を言う薄い唇を見つめた一期は、いつも手を出さないのはあなたのほうじゃないですか、と思わず口にしていた。 「……え?」 「っ……いえ、何でもないです。忘れてください!」 はっと我に返った一期が鶴丸から距離を取ろうとする前に、その細い腕が一期の腰を抱き寄せた。細く見えるが意外と力の強い鶴丸の腕に囚われた一期は、困ったように視線を彷徨わせる。こんなことを言うつもりではなかった。 「――手、出して欲しかったのかい?」 耳に囁きかけるような低い声は、隠し切れないほど甘い色を滲ませている。期待を孕んだ瞳に、ぞくりと背筋が慄いた。わたし、は――、一期が震える唇で何か言葉を紡ごうとしたが、それは音になる前に重ねられた鶴丸の唇の中へ消えていく。 「鶴丸さ――ん、ぅっ」 制止の声を上げるが、再び唇が重ねられる。ちゅ、ちゅ、とわざとらしく音を響かせながら何度も重ねられる温度に、じわじわと体内から熱が上がっていくような錯覚がした。するりと忍び込んできた舌に腔内を蹂躙され、絡まる唾液が立てる水音に羞恥心が加速していく。 「っ、は……知らなかったな、そんなに、期待、されてたなんて」 我慢なんかするべきじゃなかったなあ、と意地悪く笑う彼の姿を見て、やられっ放しは性分に反する一期は、その首に腕を絡め、ぎゅっと顔を寄せた。呼吸が溶け合いそうなほど至近距離で、いとしい金色を覗き込む。 「――もっと、ください」
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長谷部と鶴丸(つるいち/長谷部→燭台切風味)
『彼』とは似ているようで異なる金色――宝石のように眩くも無機質なシトリンの瞳が、冷たい色を浮かべていた。ぞっとするほど鋭利で凍てついた瞳は、演練で負けた腹いせに審神者の陰口を叩いていた男に向けられていたものにも似ている。日焼けなど知らぬような白皙の美貌には、普段浮かべている人懐こい笑みの一つもない。細いが節くれ立った男の指先が、ぴん、と眼前に差し出された。 「――君は、これ以上、深入りしてくれるな。君のそれは、光坊を損なわせる」 それは、冷たい顔とは裏腹に優しく穏やかな響きをしていた。だからこそ、とても厄介なのだと知っている。伊達の縁があるとは言えど、自身にも他者にも深くは関わるまいと不可侵を望む刀が、わざわざ首を突っ込んでくるとは思っていなかった。そして、事情も知らない部外者にここまで言われる筋合いもない。長谷部は、眉を寄せた。 「それを貴様が決めるのか、鶴丸?」 「俺が決めてはいけない道理でもあるのかい? そいつは驚きだな」 うっそりと微笑んだ男の目は、ちっとも笑っていない。平安の頃に打たれた刀である彼は、ひどく老獪だ。人懐こい微笑みを浮かべて明るく振る舞っている姿など、目の前の刀にとっては側面の一つでしかない。これの本質は、決して埋まらない深淵の穴のようなものだ。覗こうとすれば、見つめ返される。それは、きっと、手に負えるものではない。 「お前だって、一期一振を損なわせるだろう」 長谷部が淡々と言葉を紡げば、鶴丸の瞳が可笑しそうに細められた。君は、ちっとも解っていないなあ。――落とされた言葉は、まるで道理を理解しない幼子を微笑ましく見守るような響きをしていて、癪に障る。 「あれは、俺が自分を損なわせるようなことがあれば俺を斬ることを選ぶさ。あれは、そういう刀だ。外面ほどお優しい刀じゃない、もっと苛烈で、おっかない。そも、前提が違うだろう? あれと光坊を同列で考えることは、無理があるし、君と俺を同列に語ることも不可能だ。君は、決して選べないし、光坊はそれを理解していても傷付くだろう。やさしいからな。――ならば、最初から手離してしまえ。不幸な結果になってしまうのを見るのは、俺としても忍びない」 「よく回る舌だな、鶴丸国永」 長谷部は冷たくぴしゃりと鶴丸の言葉を一蹴した。鶴丸は、長谷部の物言いに片方の眉を上げたが、やれやれと言わんばかりに肩を竦めると、年長者の助言は素直に聞いておくもんだ、とぼやくように呟く。 「可愛い身内だ。あまり傷付く姿は見たくないと思うのは――親心だろう?」 だから、手を引いてくれよ。と、白い指先が長谷部の頬を滑る。にこりと浮かべられた彼の微笑みは、花のように愛らしく映るのかもしれない。長谷部の瞳には、老獪で酷薄な爺しか映っていないが。 「――御免被る。貴様の飯事に付き合ってやる暇はない」
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