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amigocd64 · 1 year ago
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民主主義の価値とかの話
やる気がないので簡単に行きたいが、まあ、また長い長い話になってしまった。
まず、宗教改革の話。
【宗教改革】キリスト教の「プロテスタント」はこうして生まれた! 信仰に生きるルター、ちょっと人間臭いカルヴァン、離婚したい国王ヘンリー8世【ザビエル】(Protestant Reformation)
youtube
で、思ったのは、現代でも、「カトリックとプロテスタントは共存している」ということだ。
だから、例えば、私がいくら批判しようが、「リベラリズム(的なモノ)は滅びない」ということだと思う。
テレビもラジオも新聞も(ジャンルとしては)滅びない。細々とでも続く。 「人間という種が出てきても、ゾウリムシやダンゴムシみたいな種も今も存続している」「SMSや電子メールが出来ても、手紙やハガキは残っている(そう言えば、ポケベルは無くなったな。「代替不可能性」みたいな話なのか?生きていける隙間(ニッチ需要)が無くなると滅ぶ)」という話で、「種の多様化という形で進化する」みたいな田坂広志の話を思い出した。
多分、大事なのは、「カトリックだろうが、プロテスタントだろうが、同じキリスト教徒だよ」という「大枠の同意」だと思う。
個人的には、この「大枠の同意」を重要視できるのが、「民主主義の価値」だと思う。
例えば、以下の議論。
米国国防長官「原爆投下は日本の暴走を止めるために必要だった」→なぜか日本人発狂w [271912485] https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1715233376/
上川外相、原爆正当化「受け入れられぬ」 米政府に見解伝達 [蚤の市★] https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1715331605/
結局、米国国防長官は、「(恐らく)原爆を正当化しないと、米軍の統制が取れないから肯定するという立場の意見」を吐かないと、存在理由が疑問視されるし、それに対して、日本政府は一言でも何らかのコメントをしないと日本政府の存在理由もないと思う。
だから、「民主主義の価値」については日米は同意できると思うが、「原爆に対する立場の違い」はあってもいいと思う。
「民主主義の同盟国」は、基本的に「大枠の同意」だからこその民主主義だと思うし、個人的には、細部については細部を詰めるのが好きな人に任せる(そういうことが好きな人がいっぱいいる訳だし)。
今のイスラエルは、「大枠の同意」も難しい印象。
まあ、結局、「いじめられた方は絶対忘れない」みたいな話で、「復讐は何も生まない」と諭されても、「黙れク〇野郎」と返ってくるだけだと思った(というか、何も言わないかもしれない。そういう無駄なことにエネルギーを使わない。それまでに(ユダヤ人に対して)聴く耳を持たせるような扱いをしてきたのか、みたいな話で。正直、個人的には、中国の「一帯一路」戦略も、「世界に対する復讐の念があった」と感じる部分もある)。
そもそも、キリスト教では、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とは言うが、逆に、キリスト教国圏の国で、「やられたらやり返す」以外の戦略を取っている国があるのか?みたいな話にもなるが(そういう文脈上でのアメリカの真珠湾攻撃批判であって、「その点では同意できないね」くらいしか言うことはない)。
まあ、漫画のヘルシングだと、「ただし、異教徒は除く」という結論になるが。
の割には、バンバン(異教徒の)移民受け入れるし、よっぽど「キリスト教的価値観は普遍的価値観である」という自信があったのだと思うが、現実的には、そこまででもなかったように見える(ただし、先駆者としての功績は認められるべきだというか、そこは評価すべきだと思う。日本のように腰が重くない(保守派は基本的に日和見主義(チョロQではなくて、キョロ充)を肯定する。日本人は保守的部分もかなりあるのだと思う(柔軟な部分もたくさんがあるが)。みっともなくても、キョロ充の方が長生き出来る。「岩を熊と見間違えて騒ぐ猿人」は笑い事で済むが、「熊を岩と見間違えてのんびりしている猿人」は殺される可能性もある。生き残る可能性が高いのは前者なので、人類に至ってはいちいち大騒ぎする人が多い、みたいな話をタレブが言っていたような。ただ、いちいち一喜一憂していたら疲れて仕方がないので(現代社会では神経を使い過ぎるとすり減るので)、「胆力」とか「不動心」も必要となってくるのではないか。「ユートピア=どこにもない」かも知れないが、「天国は心の中にある」のだと思う。「世の中は相変わらずの地獄(世界情勢における平和な国でも、日本のような恵まれた国でも)」かも知れないが、「いちいち取り乱さず、平静な心を保つ(『心は常に天国』が理想)」技術というのが重要だと思う。だから、個人的には、「地獄の先に春を見る」というのも、どうかな、というか、ミスリード誘導的だな、みたいな感じ(だから、自分はリベラルな人とは美的センスがちょっと違うのだと思う)。従って、スポーツ(あるいは体を動かす仕事)や瞑想をした方がいいのは確かだと思った))。
個人的には、「相手との完全一致」を求めるのがおかしいと思うし、箸の上げ下げまで指図されたくない感じではある。
「相手との完全一致」を求めるから、色々苦しくなる訳で。 と言うか、中国やロシアだったら、道徳や信条のレベルまで介入されてくるわけだが。 イスラム教は言うに及ばず……というか、本来ならば、そちらの方が自然なのかも知れない。 正直、日本人が宗教を毛嫌いするのも、「そういう風に誘導されたから」だと思うし(「(他人に迷惑をかけない)優等生(になりたい人)」としては空気を読んでそれに従っている)、そこの空白地帯に統一教会とかが入り込んできたのだろうし(だから、「戦後民主主義における新興宗教の隆盛も意図的だった」と思うが。陰謀論と言われそうだが)、戦前~戦中であれば「天皇を中心としたうんたらかんたら」があったけれども、「じゃあ、戦後の今、表舞台に立てるか?」と言ったら、「まあ、敗戦国だし、微妙」みたいな(そもそも戦後民主主義では、戦前完全否定派がメインストリームだった訳で)。
アメリカの表現規制にしても、「(自分の認めていない価値観は除外するという)旦那のプラモデルを勝手に捨てる奥さん」的というか、自他の境界線が無くなっている感というか。逆説的に、「何らかの一律性が無いと、多様性は確保できない(日本語のように)」という印象。この場合、「その一律性において、国民的合意はあるのか?」みたいな。
アメリカの場合、「右派・左派の価値観が一致できる点がポリコレだった(ただし、上の階層同士の議論であって、その議論からは一般アメリカ人は置いてきぼり感が)」という事なのかも知れない。
……正直、言明するか少し悩んだが、クリアにしておいた方がいいかな、と独断したので言うと、(日本国内において)DLsiteやニコニコ動画のクレカ規制が話題になっていたが、アメリカにおけるグローバルスタンダード基準だと、(日本の)同人誌的価値基準はアウトなのだと思った。
言い方を変えると、だから、そこは国境があった方がいい(一線置いた方がいい)、という事なのだろう。
酷い言い方かも知れないが、ネットをやっていれば分かると思うが、日本の同人誌が違法というか……無断コピーされて訳され、そのデジタルデータが世界中にばらまかれている、様々な言語で。したがって、デジタルデータ、bitの世界では、「いかに質の高い製品を量産するか」ではなく、逆に、「いかに質の高い製品を違法/無断コピーされないか」が問題となる、基本的には(それに対する一つの答えが、オープンソースなのだろう)。
「お前ら、勝手にコピーして訳して、勝手に性癖を捻じ曲げられて、勝手に社会問題化しているじゃねーか」というのは、全く日本人の作家の意見としては妥当としか言いようがないのだが、性癖を捻じ曲げられる方としては、そうも言っていられない、という話なのかも知れ��い(アメリカの上級階層のモラル意識としては。結局、これも一つの美意識の違いの問題だと)。
日本人の意図としては、もちろん、文化侵略の意図はない(基本的に、そこまで政治性を持った「上等な(と言うべきか)」文化でもない)。 むしろ、その逆であり、「いかに(迷惑をかけずに)集団に溶け込むか」が日本人が一番重要視しているところだろう。 (「和を以て貴しとなす」、「皆と仲良くしなさい」という事が、母親から言われることであって。「ユダヤ人としてのアイデンティティ」であるユダヤ教に固執するユダヤ人と対極である) ただ、それが意図せず、「(軍事作戦における)浸透戦術」的になっているだけで。
「じゃあ、対策を打てるか?」と言ったら、「根本的に無理」な気もするが(なぜならば、その浸透力は中国の金盾すら突破するので)。 しかも、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」第1シーズンから、すでに20年近く立っている。今から、世界中のアニメの配信を止めるか、と言ったら、難しい気もするし(正規版の配信を止めても、海賊版が氾濫するだろうし(実際、中国ではそんな感じだろうし)。「海賊王におれはなる」みたいな?「パパな、会社を辞めてHIPHOPで食べていこうと思うんだ」よりよっぽどハッピーなセリフだな、と思う(今どきのラッパーは才能のある人なら食えると思うしね)。Amazonの転売業者なら、「海賊王?何言っているんだ!正規輸入代理店を目指せよ!クランチロールを見習え!」とでも言われそう。マジレスすれば、海賊マークの週刊少年ジャンプも海賊漫画サイトには厳しい態度を取っているわけで、絵空事と現実はひっくり返るから面白いし、だから、ONE PIECEは支持されているのだと思うが)。
(余談だが、今更ながら、おしゃべりひろゆきメーカーはすごいな)
【ワンピース】ルフィがひろゆきを海賊に誘う名シーン/ロロノアゾロ編
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結局、バイオレンス(暴力)の目的は、「相手のコントロール(相手に自分の要求を飲ませる、ような)」だが、その対極にあるエロス(性)は、「無自覚に相手を変えてしまう(意図がないので、どう変わるかは分からない)」と言うか。ここでもヘーゲルかよ、的な。
大体、申し訳ないが、漫画��アニメ、同人誌程度で変わるような上流文化しかないのならば、変えてしまった方がいいのではないか(文化大国であるイギリスも、フランスも、それらに対して余裕をもって接しているわけだし(フランスは親和性をもって、イギリスは(多分)水面下の話にして))。
まあ、文化的慣性というものも無視すべきでないと思うし、相手国が「自衛」したいのであれば、正直、その辺はその国の国民の判断としか言いようがない。 繰り返すが、日本には政治的意図はないし、何というか、日本国内でも問題になってしまうのは「勝手な話だな」としか言いようがないのだが、意図の有り無しはともかく問題になっている以上仕方がない。 ただ、個人的には、「上流文化」と「下流文化」の間の葛藤があってこその民主主義的な価値、文化的発展(多様化)ではないかと思う。
最悪、「使えるのをJCBカードだけにして、(表面上では)同人誌を日本国内の流通のみに押さえる」くらいのシナリオだろうか。
あと、以下の点について。
昨年度5.4兆円のデジタル赤字が新たな円安要因に!Fラン理工系ITドカタの無能ぶりが元凶だな [611241321] https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1715371989/
結局、「大陸国家であることと海洋国家であることは両立しない」的に、「文明大国と文化大国であることは両立しない」のかも知れない。映画の「バックトゥザフューチャー」公開当時は、「日本の工業製品が世界的な脅威だった」訳で、逆にそのころのハリウッド映画の輝きもまた凄いものがあったと思う。
現在は立ち位置が逆になり、日本が文化優位、アメリカが文明(テクノロジー)優位になっている。 この先、また反転することもあるのかも知れない。
ただ、「文化勲章」とかやっている以上、「文化」としてしか認識していない以上、やはり日本国という国は人文系が仕切っている国だな、と思うしかない。
個人的に提言したいのは、日本国政府は聞く耳を持たないと思うので(聞き流すだけだと思うので)、アメリカ政府に言いたいのは、双子の赤字の内の財政赤字だが、「(人海戦術ではなく)ハッカーを雇ってもう少し合理化できないか?」と思った。
もちろん、「ハッカーは人件費が高いんじゃないか?」とか言われそうだが、「ナポレオンが、亡くなった兵士の家族に見舞金を支払う代わりに勲章を与えたら、そちらの方が喜ばれた」という話を思い出したので、「政府の仕事を上手く合理化できたハッカーには勲章を与える」みたいな感じはどうかな?と思った。
「勲章の評価システムが問題」だろうが、多分、そこはアメリカは上手くやれるんじゃないかと思う。
で、「勲章付きのハッカー」が民間に転職すれば、「政府のお墨付き」ということでそれなりの需要はあるのではないだろうか、と思った次第だ。
日本の場合、逆に、上流階級の勲章付きの既得権益が反発しそうなので、無理そうではあると思った。 ただ、日本のハッカーが「これで俺も勲章付きの上級国民だ!」とか言い出したら、面白そうな世界線ではある。 (そもそも、人文系の仕切る官僚組織を人海戦術ではなく合理化するならばこの方が楽だと思うが)
で、このナポレオンの話のネタ元は、ひろゆきのYouTubeの「切り抜き動画」なのだが、切り抜き動画というのはひろゆきの着想から始まった(はずだ)。個人的には、ある日突然、ひろゆきの切り抜き動画がたくさん表示されて、「なんだこりゃ」となったのだが。
だから、個人的には、「詭弁ばかりだ」とか、「また論破された」とか言われながらも、ひろゆきはビジネスセンスはあると思った(本人は「数撃ちゃ当たる戦法」と言っているが、あまり真に受けられない)。
したがって、ビジネスにおいて、経営面で見ると、そこまで論理的一貫性というのは問われない印象を受けた。 逆に、「過去に囚われる方が危険」「その場その場で考えていくことが大事」と言うか(結局、行動力だとは思うが。行けると思ったら行動)。
「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」 まあ、一行も読んでいないが(積ん読もしていないが)、個人的には、「俗物しかいないから、歴史的文脈からでしか美を判断できないから」だと思うが、逆に、南場智子の本の「不格好経営」というタイトルだけで、「ああ、この人は出来る人で(ある部分では、だろうが)誠実な人だな」とは思う次第だ。
だからと言って、「ひろゆきが信用できる人間か?」と言うと、本人自身もク〇野郎の自覚はあるみたいだ。 (だから、「褒める奴は敵」みたいな。私も彼の敵かもしれない) 何というか、個人的には、少し悪趣味感は感じるところだ(別に奥さんの悪口を言っているわけでもないが、ホリエモンは同意するかもしれない。「蓼食う虫も好き好き」とか言ったら、それこそ奥さんに失礼かもしれないが、「好きなものが違うから共存できる」という点もあるのではないかと思う)。
結局、「ひろゆきの欠落点や短所を見ない振りが出来る」人間しか、彼の周りには残らないだろうし、「そのチグハグ感が人間的魅力だ」と言う人もいるかもしれない。
面白いのは、他のYouTuberの切り抜き動画でひろゆきは悪口を言われているのだが、それでも本人はヘラヘラ笑っているという(ビジネス上、そのスタンスは正しいと思った)。 あと、「自分が絶対的強者になりそうだったら、奥さんを立てる」みたいな振る舞いも、「iPhoneは失敗する」「Switchは失敗する」予測も、「日本の体制に迎合する」という結論ありきの予測なので、結果、「ひろゆきは生き残る(消えない)」みたいな話だと思うしな。
政治的嗅覚に優れた立ち振る舞いを見れば、「ひろゆきが生き残っているのはまぐれではない」とは思った。
ただ、本人も言っていた(と思った)通り、「ある日突然通用しなくなる」日も来るのかもしれない。 「年を取る」というのはつまりそういうことだと思うし。
で、最後に悪趣味ついでにアニメ作品2つと資本主義について。
まず、「幼女戦記」について。
なかなか面白いと思ったのは、タイトルの時点で、ドン引きしている(恐らく)女性が5ch(2ch)にいたことで、編集者の思惑通りではないか、と思った(第1期が放送されたのが、2017年なので、今はちょっと空気感が違うかもしれない)。
何が「編集者の思惑通り」なのかと言うと、作者のカルロ・ゼンは「そういうタイトルにするつもりはなかった」そうだが、女性(だったと思うが)編集者が「これで行きましょう」と言ったので、これで行った、と。
結論から言うと、(個人的には)正解だと思った。 論理的に考えてそうなのか、直感的に思ったのかは分からないが、自分の中では説明はついた。
ネタばれあんまり無しでザックリ言うと、異世界転生モノなのだが、「日本人男性のエリートサラリーマンが大戦時のドイツに似た国に(ただし、魔法技術ありの世界)、金髪碧眼の女の子ターニャとして転生する」という話だ。 キャラクターとしては、「アメリカ経済学のシカゴ学派の擬人化」と言われている。 (そう言えば、最近、アメリカが「新自由主義は失敗した」みたいな宣言していた気もしたが)
要するに、「市場至上主義(資本主義バンザイ)」の人である(共産主義大嫌いの人でもある)。 で、何が言いたいのかというと、「資本主義って基本的に悪趣味だよね」という話であって、それが「幼女戦記」というタイトルの悪趣味性に繋がる。
当のターニャが幼女に見えるのか?と言うと、体格的には恵まれなかったものの、普通に少女に見える(じゃないと軍人にはなれないだろうし)。 しかし、タイトルをあえて、「露悪的」にしてある。 そして、「その露悪性が資本主義に繋がる」し、「幼女戦記」の売り上げ自体にも繋がる、という構造。
結局、話題になっていたAppleの新型iPadの広告動画にしても、あまりにも「露悪的」「悪趣味」に見えたので、日本人は批判したのだろうと思った。
もうひとつ面白い点を言うと、「欲望に対して肯定的」というか、そもそもこの作品自体、「魔法少女リリカルなのは」の流れを汲んでいるのであって(と思ったが)、「カッコいいドイツの金髪碧眼少女の軍人になって無双する」みたいな(非常にオタク的な)欲望がベースにある。
で、これを5ch(2ch)で、女性が支持していた(女性ファンがいること自体驚きだったが。女性もいろいろな女性がいるという事だろうと覆う)。 曰く、「ターニャ、カッコいい」と。
個人的に思い出したのは、「ドラクエのワールドマップ」で、「ずっと右に進んでいくと左から出てくる」構造で、「右のオタク性を突き詰めると、左のフェミニズム的に繋がる部分も出てくる」という印象だった。 戦後知識人で、左翼から右翼に転向した人もいたし、結局、ファシズムを突き詰めると、コミュニズムに繋がるのではないかと思う(逆もあるだろうけど)。
結局、党派性というのはその人の人格の一つの現れに過ぎないし、「全然思想的には合わなかったが、人格的には尊敬できた人もいたな」と自分の人生を振り返って思った(逆もあるだろうし、党派性だけで判断する人もいるだろうけど)。
で、二つ目で終わりにしたいが、二つ目は、押井守の「イノセンス」だ。
平たく言えば、「つまらない」というのが一般的な評価だと思うが、「なぜつまらないのか」ということをあまりうまく説明できている人がいない気はする。
ネタばれありで簡単に説明すると、映画版の攻殻機動隊の続編なのだが、「映画の構造がアンチクライマックス型」であって、特に冒頭の択捉経済特区のお祭り(?)の映像がとにかく派手で、それ以降尻つぼみになっていく。
「なんでこんな構造になっているのか」というと、押井守お得意の映画の比喩だよね、という事になる。 つまり、映画の本質は、「見世物小屋」なのであって、例えば、昭和の夜祭で、「怪奇!ヘビ女!」みたいな見世物小屋があって、ワクワクして入ったら、おばちゃんが出てきて、「ハイ、蛇女。お帰りはあちら」みたいな話だと思った。
で、ラスト近くに、バトーの「人形のことは考えなかったのか!」というセリフがあり、声優さんが「どう解釈していいのか分からなかった」的な話をされていた。 まあ、個人的にも、ぶっちゃけ、「何言っているんだ?」と思ったが、多分、押井守が表現したかったのは、「バトーの狂気」であり、「作品の狂気の部分を最低限にして、あとはリアリズムに徹したい」みたいな話で、映画版「パトレイバー2」で言うところの、後藤隊長の「だから遅すぎたと言っているんだ!」に相当すると思った。まあでも、後藤隊長がなぜ怒っているのかはまだ理解できる感じだから名台詞であり(にしても、今の自分の年齢だと、「この人中二病だな」とか思う訳だが)、映画版「パトレイバー2」は名作、みたいな話かな、と個人的には思っている。
書いていてここまで長くなるとは思わなかった。 「自分もいよいよネタが尽きてきたかな」と思っていたのだが、また多少は残っているようだ。
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amigocd64 · 1 year ago
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天才的古典主義者の予言とその限界
なかなか面白いと思ったのは、このブログに書いた記事の内容がYouTubeのホームで出てくるおすすめ動画一覧に反映されることだ(PC環境で見ているが)。
私はYouTubeのチャンネルを思想的に合う・合わない問わず1000近く登録しているのだが(なぜかと言うと、自分の痛い部分を突いてもらいたいので)、主にチャンネルの中から(たまにチャンネル外から)GoogleのAIがおすすめしてくる動画は「表面上しか見てないな」という場合もあるが、確かになかなかいい線を突いてくる場合もある。
で、今回おすすめされたのは、例えば、下の動画(8分くらい)。
【切り抜き 真剣な雑談】第16回「プーチンの知恵袋、セルゲイ・カラガノフ!!」[桜R5/10/6]
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個人的には、非常に面白かった。 「ロシア人は日本人に似ている」という指摘等。
実は、加藤周一の「雑種文化―日本の小さな希望―」でも、英仏の文化だけではなく、ドイツやロシアについても触れている。
で、ドイツについて。
たとえばゲーテとラシーヌ。ラシーヌを養ったのはギリシャ・ローマ・フランスのいわゆるラテン文化の純系であって、他の系統の文化は彼の文学に何らの影響も及していない。ところがゲーテはイタリアの文芸復興、フランスの古典主義、英国の浪漫主義によって自己の世界を養ったばかりでなく、晩年には近東からさえもうけとることのできるものをうけとったのである。どちらが本来すぐれたものであるかという議論はこの場合に大した意味がない。意味があるのは、純粋種の文化だけが文化ではないということをゲーテが具体的に示したということである。 加藤周一. 雑種文化―日本の小さな希望― (講談社文庫) . 講談社. Kindle 版.
ロシアについて。
チェーホフとチェーホフの主人公とのちがいは、作家のうけた影響の方が主人公たちの西洋崇拝よりも比較にならぬほど深かったということの他にはないだろう。チェーホフは雑種の文化の根をどこまでも深くたどった。そのいちばん深いところまでゆけば人間的なものの普遍的な一面、もはや純粋種とか雑種とかいうことが問題にならない一面があらわれる、ということが、チェーホフの作品にははっきり出ている。 加藤周一. 雑種文化―日本の小さな希望― (講談社文庫) . 講談社. Kindle 版.
まあ、特に東京にはニューヨークとかにいるであろうリベラル・グローバリストと気の合うような気取った(?)人が多いかもしれないが、何というか、正直に言ってしまえば、「(日本人にとって)東京が憧れの的か?」と言ったら、昔に比べると影響力は落ちているし、二昔前だったら、「漫画の最終回で、主人公が(東京の上位互換である)ニューヨークに旅立つ」みたいな展開もあったが、ニューヨークも「アメリカ横断ウルトラクイズ」の「ニューヨークに行きたいかーっ!?」みたいなコンテンツは最近あまり聞かない気もする(今はどこに旅立つか、と言ったら、「初回に異世界に旅立つ」みたいな?)。
まあ、大谷とかメジャーリーグで活躍しているし、サッカーもヨーロッパで頑張ってるようだし(「本場に行く」という訳だ)、スポーツ関連だと「海外が今も憧れ」の業界も多いだろうが、実際行けるのは、上位層のごく一部だろうし、一般人のリアリティを考えると、「憧れ」というか、「異世界」というか、「彼岸の世界」としてインターネットの動画を眺めるくらいな、と思う(が、やる気になれば、ほぼ誰でもインターネットの配信側になること��出来る訳で。実際、こうやってブログも書いている。インターネットは今後はどうなるか分からないが、とりあえずはかなりグローバル(かなり国境がない))。
で、動画その2。 リンクは、「デモクラシー、ポピュリズム、ファシズムはどう違うのか」から始まる。
細谷雄一×板橋拓己×水島治郎「民主主義とポピュリズム」 #国際政治ch 167
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個人的には、少し違和感があった。
なんというか、「リベラリズムによる法の支配」とは言うけれども、3点言うと、
(1)法律は、複雑になればなるほど、作成者(設計者)の恣意が入り誘導される
多分、上のようなことをタレブが指摘していた。 この場合、(上流国民であるところの)「官僚」や「政治家」の意思が入る、という点。 つまり、「彼らの損になるようには設計されない」という点(あくまで短期的視点においては、だろうが)。
よって、「法の支配」とは言うけれども、「法を作る権力・権威(どちらかと言うと、現状、リベラリズムの方が権威に近いと思う)側がフェアとは限らない」。漫画のヘルシングの少佐風に言えば、「君らの神の正気(つまり、『正義』ということだと思うが)はどこの誰か保障してくれるのだね?」という点(「欧米か!」的な?(古い))。
基本的に、右派的なリバタリアンは、そういう「操作主義」「干渉主義」を好まない。 ただ、「夜警国家では限界がある(世紀末化する)」のも確かなので、「どこまで干渉するかは話し合いで調整しましょう」ということだと思う。
検索しても出てこないし、記憶もあいまいだが、以前、自民党(だったと思うが、違っていたら申し訳ない)の女性政治家が「東大法学部が日本のヒエラルキーの頂点」みたいな発言をしていた(気がした)。要するに、「我々がルール(・メイカー)である」ということなのだろう。「弱者の定義は我���が決める」的な話だと思った。
(2)メディアやインターネットの「大衆に対する行動経済学的心理操作」
これも、(1)と同じで、過度な「操作主義」「干渉主義」的。
まあこれは左派も右派もやっているが、状況は、特にアメリカだと、リベラリズム側のメディアが日本よりも強力、と言わざるを得ない。
「リベラリズムとポピュリズムがデモクラシーに片足を突っ込んでいる」という図ならば、リベラリズムが正義で、ポピュリズムが悪だ、という話もそうでもない、ということなのかな(当初のメディアの話と主張が違う気もするが)。
(3)ファシズム的なポピュリズムによる弱者切り捨てについて
ザックリした印象を言えば、現実的に、「(デモクラシーをやる余裕がないから)独裁・統制主義的になっていく」気もするが。
これは、今のアメリカは、ファシズム的なリベラリズム(そもそも、動画の図にはリベラリズムが、ファシズムというか、共産主義(コミュニズム)に片足を突っ込んでいることは描かれていなかったが)の匂いを感じるし、日本はどうなんだろうか、風向きがくるくる変わっている気もする。
多分、民主主義は、消費主義に裏付けられていて(日本の戦後民主主義がポストモダン資本主義に裏付けられていたように)、そのためには、大衆(マス)に余裕がないと無理なんじゃないの?とか思った。 (それには奴隷的労働が必要?)
動画その3と4。めちゃくちゃ長い。合計2時間くらいある。
【伊藤貫の真剣な雑談】第14回「アメリカ民主政治の堕落と混乱を予告したトクヴィル!!!-前編」[桜R5/5/27]
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【伊藤貫の真剣な雑談】第14回「アメリカ民主政治の堕落と混乱を予告したトクヴィル!!!-後編」[桜R5/5/27]
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分かった、分かった(分からせられた)。
話の簡単性と日本人の即物的なところが、アメリカをお手本とする民主政治と相性が良かった、ということではないか、と思った(「念仏」や「題目」を唱えるだけで良い的な。「資本論」も仏教のありがたい経典扱いなのだろうし)。
つまり、トルストイの言うとおり、魂の問題は解決していない。
確かに、トクヴィルはすごいと思った 我ながら古典主義を少し侮っていたかもしれない。
が、さすがに、ネットの出現までは予測できていないので、「(英仏では)芸術は上から降りてくるもの(純粋種の文化)」だから、「(ネットにおける)雑種文化(大衆創作)の隆盛」までは予測できていない(だから、私の意見は動画とは少し違う)。
神についても、書こうと思ったが、文が長すぎるので、この辺で切り上げよう。
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amigocd64 · 1 year ago
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「葬送のフリーレン」と「ダンジョン飯」の対比と日本と西洋フェミニズムの枠組みのズレみたいなことの粗論
・あまりやる気がないので、できるだけ簡単に書きたい感じだが……。箇条書きにしてみよう。
・ちなみに、「葬送のフリーレン」も「ダンジョン飯」も、個人的にはネットで断片情報に触れた程度で語る。 (だから別に批評ではないし、「こんな感じなのかな?」くらいの印象論)
・なぜ「葬送のフリーレン」と「ダンジョン飯」を並べるかというと、「どちらも女性作家の作品だと思うから」。
・つまり、「葬送のフリーレン」原作の山田鐘人も、作画のアベツカサも女性だと思う(多分、二人を引き合わせた編集者も女性。男性では女性同士の機微みたいなものが分からないと思うので)。「ダンジョン飯」は言うに及ばずが。
・「葬送のフリーレン」について。まず、「葬送のフリーレン」の凄さをちゃんと語れている人がいるのか疑問だ。多分語れるとしたら、ファミコン世代くらいではないか、と思っているが。
・山田鐘人はネームレベルまで描いているみたいな情報も見たので、表現のニュアンスも伝わっているのではないか。
・と考えると、「(ニュアンスレベルで伝わっているはずである)バトルシーンにそこまで力を割いていないのは山田鐘人の作家性であり(最新話近辺ではまた変わってきているらしいが、読者の反応(と、ネットの評判?)を見て展開を変えている部分はあると思った。僧侶アゴヒゲの退場とか。私自身は、過去に過干渉すぎて失敗したこともあるので(大体、いい年したオッサンが何をやっているのやら、だ)、今回は『今後の展開予想』は書かない)、「鬼滅の刃(こちらも女性漫画家作品)」と共通する部分ではあるし、両作品とも、アニメ制作会社が戦闘シーンを盛り盛りにして好評だった(派手なバトルシーンを描くのを得意とする男性アニメ作家と、人間同士の機微を描くのを得意とする女性漫画家という補完関係が成り立っていると思う)。
・ただ、ここまで「女性から見た女性中心の世界観」の大ヒット少年漫画はなかったと思う(高橋留美子作品にしても、「鬼滅の刃」にしても、「鋼の錬金術師」にしても、「少年漫画である以上、少年が読者であろう」という暗黙の了解がここまで破られていない気もする。男性目線でおっぱいおっぱいもある訳だし(「鋼の錬金術師」はそうでもないか?))。女性作家だというだけで、高橋留美子も結構理不尽な思いをしたと思うし。
・この「女性から見た女性中心の世界観」を読み解けていないのが(少なくとも私はその指摘を目にしていない)、逆に変じゃないか、と思うのは、私が年を取ったからだと思った。
・唯一神である女神様は女性だし(ドラクエの精霊ルビスは「おお神よ」と祈っていなかったかな)、最強のエルフの大魔法使いであるゼーリエも女性。(おそらくフリーレンの世界では究極の力であろう)魔法は女性上位の世界観である。基本的に、男性は「女神に仕える」か、「女性を守る騎士役」が大半(甲斐性持ち)。暴力によって、俗世間で世を統べているのは男性なのかも知れない(し、それこそ、女王とかも出てくるかもしれない)。
・物語の重低音として、フリーレンとヒンメルの悲愛(?)がある訳だが、ヒンメルは、もうこの世にはいない。エヴァから引用するならば、
"彼女というのは遥か彼方の女と書く。 女性は向こう岸の存在だよ、我々にとってはね。 男と女の間には、海よりも広くて深い川があるってことさ。 加持リョウジ(新世紀エヴァンゲリオン)"
逆に言えば、女性から見れば、男性は、つまり、"彼氏"は向こう岸の存在とも言える。 実際、彼岸(あの世)にいるわけだが、ヒンメルは。
つまり、読者は、フリーレンの側として、世界を見ている。 で、物語の描き方としては、ヒンメルは「理想の彼氏」であり、ユートピア(どこにもない)みたいなものだ。 その結果としての読者投票一位なのではないか。
・山田鐘人が表に出てこないのも、その辺の事情があると思うが、時代の意識としては、「もうそんなことは問題ではない」ということだと思った。
・若い世代から見れば、週刊少年サンデーはすでに辺境であり、最前線はTikTokとかその辺であり、フリーレンに難癖をつけてくるとしたら、高橋留美子時代くらいからの漫画読みだと思う。というか、子供が読んでいる漫画に難癖付けるのもどうなの?失礼ですが、あなたおいくつですか?みたいな感じか。
・その辺は、世代論として割り切れると思った。ある世代においては「SFかどうか」が問題であり、(その世代で)議論が好きな人は今でもその議論を延々としていると(多分、お亡くなりになるまで)。別の世代においては、「ロック」だったり、「RPG」だったりする。確かに時代の意識は変わってきている、と思った(フリーレンではないが)。
・で、単なる実態として、「今現在の週刊少年サンデーの仮想敵は、月間少年ガンガンというより、ざっくり『ガンガン系』でくくるべきか?この辺はよく分からない。ヤングサンデーの現状なんて全然押さえていない」であり、読者のメイン層がかなりかぶってきているようにも見える(具体的には、女性層。例えば、「薬屋のひとりごと」のコミカライズは、「サンデーGX」版と「ビッグガンガン」版がある。そんなことは、編集側も百も承知だと思うが)。
・「名探偵コナン」の女性人気がその方向性を決定づけたかどうかは分からないが、絶頂期は、三大誌として、「週刊少年ジャンプ」「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」があったわけだが(「チャンピオン」はそれに続く感じ?)、個人的には、16bit時代のゲームマシン戦争を思い出す感じだった。硬派気取りの「マガジン」的なメガドライブや、軟派な(というか、本質的には「柔軟性のあった」というべきかも)PCエンジンは、圧倒的な強者である「ジャンプ」的スーパーファミコンに蹴散らされた。
・にしても、メガドラもエンジンも、スーパーファミのラスボスオンパレードのようなラインナップを相手によく粘ったな、とは思うが。ちなみに、メガドラ→「異世界おじさん」→岡田斗司夫が評する(右派)、エンジン→「ハイスコアガール」→山田玲司が評する(左派)みたいな関係はあるとは思うが、遠目から見れば、大同小異で、「あー、なんか、新しいファミコンみたいなヤツ?」として片付けられていた(と思う)。
・にしても、「ガンガン系」を語る人があまりいない、というのも、ヒエラルキーの一つの現れなのかも知れない(スクエニやアスキーは出版社としては弱者的な?)とは言え、。「ガンガン系と(高橋留美子以降の、(テレビゲーム原作である)ドラクエ4コマから始まった流れでの)女性作家」という文脈で語れるものもあると思うんだが(アニメ化された「月刊少女野崎くん」にしても、「その着せ替え人形は恋をする」にしても、海外でも人気のようだし)。そもそも、批評や評論みたいなニーズが無くなってきているからかもしれない(逆に、忖度するのが当たり前のメディアを参考にしている人はいるのかな?)と思うが。それならば、素人の率直な感想の方が参考になる。
・それはともかく、「週刊少年ジャンプ」はいいとしても、「週刊少年マガジン」は軟派路線に切り替え、「週刊少年サンデー」はターゲットを女性主体に切り替えたように見えたし、フリーレンのヒットもある意味必然なのかもしれない。
・あの山のようにあったヤンキー漫画とはいったい何だったのか?とかは思う。「男塾」もヤンキー漫画に対するバンカラ的な日本男児的な右派のパロディであったが、自分より一回り下の人には、「ああいうイカついのは嫌いだ」と言われた(あー、PCエンジン派だね、君は。と思ったが、ヤンキー漫画はほぼほぼ絶滅し、「マガジン」がギャルギャルしくなった訳だから、PCエンジン派の粘り勝ちなのか?……いや、時代は流転するはずだ。今は、ギャルギャルしいのと洋ゲーFPSの実況動画が並立する世界なのだ)。
・男塾の渾身のギャグ。
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(魁!!男塾 第3巻 宮下あきら)
・メインキャラクターは大体は髪と特徴で立ち位置が分かる感じ。
→フリーレン:髪の色は、「薄紫」みたいな感じ。髪型はツインテール。クールな綾波クローン感(感情の希薄性)は、ホシノ・ルリ(宇宙戦艦ナデシコ)?ただ、宇宙戦艦ナデシコをチェックしているかはちょっと不明(多分、山田鐘人はかなり若く、女性なので)。プレ・ヒロイン(プロトタイプヒロイン)感は、老倉育(物語シリーズ)だと思うが、老倉育はメンヘラなので、性格は真逆。あとオトボケ感は、宮内れんげ(のんのんびより)的。あくまで、フリーレン視点は、重低音であって(デウス・エクス・マキナ的な後出しじゃんけんにも使えるし。いくつか指摘を見たが、いわゆる「なろう」モノ的な万能感にもつながる部分もある)、今の世代が物語の中心だと思う。こういう構造も珍しい(「ドラえもん」の主人公はドラえもんじゃないよ、的な?)。
→ヒンメル:髪が青(水色)的。綾波レイ(エヴァ)的な「(男の)ヒロインその1」。性格的には綾波レイと全然違うナルシストなので、多分、アスカとレイの性格のネガポジを交換してこんな感じになった印象。「泣きボクロ」は赤城リツコ(エヴァ)よろしく悲劇性を表す。
→シュタルク:赤毛。エヴァにおけるアスカ的な?「(男の)ヒロインその2」。こちらも性格のネガポジ交換されてる印象。綾波系に隠れてしまっているが、アスカ系みたいなものもあるが(アスナ(ソードアート・オンライン)とか)。赤毛とか茶髪とかは親近感を表す、ということなのだろう(西住みほ(ガルパン)もそんな印象)。キャラ造詣が「女性から見た少年像」的で、個人的には、うさぎドロップの下の絵を思い出したのだった。
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(うさぎドロップ 3巻 宇仁田ゆみ)
→フェルン:髪は紫、ロングヘア。自分的には、主人公格で紫と言えば、草薙素子(攻殻機動隊)だが、その髪型は「前下がりボブ」である。これは「男性から見た/男性基準での/男性が思い描くデキる女性像」なのだろう(実際、「メスゴリラ」呼ばわりされている)。なかなか面白いと思ったのは、ロングヘアの方で、「髪は女の命」ということで女性性を示していると思う(ちなみに、西尾維新の場合は、ロングヘアは、「化物性(彼岸性/あちら側の存在)」を表しているようだが。この辺はフェルンと一致しているかもしれない。だから、西尾維新は主人公の彼女とかになると、ショートヘアになったりする)。多分、この「女性性を否定していない」というのが重要で(面倒くささも含めて)、「お母さん」呼ばわりされているようだが、よりハッキリ言ってしまえば、「(女性から見ると)お母さんは有能ですよ」ということだと思った。個人的に思い出した経験だと、「子育てでは男は役立たずになる。女には絶対かなわない」と言っていた同世代の上司がいたことだ。確かに、マルチタスク性にしても、社会性にしても、女性の方が男性より上だと思う(話しながらプログラムを打っていた女性プログラマも見た)。てっきり、「若い女性の感情移入の委託先」かと思いきや、最近行われた2回目の人気投票では、4位だったようだ(この辺はよく分からない。しかし、現代のネットはすでにかなり社会化(ソーシャライズ)されているな、とは思う)。男性が女性に勝てるのは、「(献身的と言ってもいいほど)何かに打ち込むこと(ハマること/のめりこむこと)」だと思う(ファッションではなく、「カー〇チ」だったり、「ゲー〇チ」だったり、「釣り〇チ」だったりするのが男性)。で、「何らかの第一人者(この場合、ニッチジャンルでも構わない。結局、「開拓者」にならざるをえないというか、「ルールが決まっていないところに突っ込んだ方が結果が出易い気もする」)」になることくらいしか、「弱者男性」の活路はないと思う、個人的には。
・で、フリーレンの画期的な点について(長いよ。なんだよこれ。でもこれでフリーレンの話はおしまい)。
・まず、「一般攻撃魔法(ゾルトラーク)」の概念。「史上初の貫通魔法」とは言うけれども、何をもって「貫通」と定義するのか(例えば、厚さ10mmの鉄板を10枚貫通したとか?人体を十分に貫通できれば貫通?かといって、地面に穴が開いているわけでもない)。何というか、その辺がふわっとしていて、面白いと思った(別に責めているわけではなくて、多分、男性と(多分)女性の感覚の違いは大きいと思った)。
・ゲームだったら、「対象オブジェクトを貫通する(地面等は除く)」ということだと思うが、アクションゲームをイメージしていたんだろうか?(フリーレンの世界観では、魔法はイメージの世界だそうなので)
・基本的に、「一般攻撃魔法」と言うと、D&Dにおける「マジックミサイル」、ドラクエ1で言ったら「ギラ」だろうが、「詠唱速度を上げて、単位時間の発動量を増やす(フェルンは2Dシューティングゲームの斑鳩の「力の解放」を思い出すくらいに連打していたが)」みたいなマネは多分できないはずだ。BASTARD!!では、召喚した多頭の怪物に呪文を詠唱させていたような……。忘れた。だが、他の「なろう」モノでも、海外の作品でも比較していいと思うが、こういう概念・発想自体新しい。 ・「魔法をテクノロジーとして捉える」という考え方自体、そこまでは新しくないが(ロードス島戦記の滅びた古代魔法王国カストゥールや、ダンジョン飯でも、「黒魔法で一旦、世界が滅びた」みたいな感じだろうし)、ただ、「現在進行形として、魔法というテクノロジーが進化している」とか、各自の創意工夫で、例えば、「一般攻撃魔法」をカスタマイズ出来る、みたいな話は新しいと思う。
・余談としては、個人的に面白いと思ったのは、あまり評価されていない故・佐藤大輔の「エルフと戦車と僕の毎日」で、エルフが(鉄のように固い木製の)戦車にい乗って戦うのだが、マナ・モーターからは、唸りである小鳥のさえずりに似た音が響き、魔素反応の花の香りに似たものがあふれ出す、みたいな描画で、「さすが文才があるなあ」と感心した。まあ、これはどちらかというと、「魔法をベースにした疑似科学」みたいな世界観だが(ちなみに、物語の下敷きとしてイスラエル建国をベースにしたらしい。少しエロいかもしれないので、読む人は注意)。
・だから、「葬送のフリーレンは、テクノロジー称賛派」とも言える(設定的な遊びの余地が非常に大きいというか、漠然としているので、「いつでも手の平を返すことが可能」な作りになっている。よって、読者の反応次第で、初期設定をバンバン変える可能性はあると思った。だから、基本的に自分はもう干渉しない)。つまり、「理系的リバタリアン」な世界観(その割に、「お花畑を(つまり平和を)イメージできる」フリーレンがタイトル(主人公なのかは判断に迷う)なのが面白いと思う。つまり、思想的なバランスは取れている印象)。
・また、「フリーレンの致命的な隙」だが、ああいうのは、例えば、「現実の車の運転」みたいなところからヒントを得ていると思う。つまり、「葬送のフリーレン」は、「(ボンヤリとした)現代っ子���一般教養としてのRPG知識」をベースとしているが、山田鐘人は、物語のリアリティを(ゲームからではなく)現実からかなり引っ張ってきているので、現代の現実感覚というのがかなりあるのだと思う(説得力がある)。
・言い方は悪いかもしれないが、「山田鐘人に(下手に)ゲーム的教養がないからこそ出来た物語」だと思う。ゲーム業界に例えると、「任天堂はコンシューマゲームの王様だからこそ、その文脈に囚われてしまい、ソシャゲーではうまく行かない(ソシャゲーにはソシャゲーの別の新しい文脈があるので)」。ソシャゲーで上手く行っているコナミはコンシューマでは今一つパッとしないし、カプコンはその逆だし、「多芸はあれど、万能は無し」みたいな話が会社(文化)にも通じるのだと思う。
・海外では、MyAnimeListで、1位が「葬送のフリーレン」で、2位が「鋼の錬金術師」なのだが、(多分)女性作家が一位と二位を独占しているというのは面白いと思った。
・「なぜそんなに評価が高いんだろう」としばらく考えていたのだが、おそらく、「(海外での)女性人気が高いから」ではないか、と思った(海外掲示板の翻訳サイトとかでは性別は分からないが。言葉遣いも全員男性的な翻訳のされ方されているのではないかな)。
・特に北米では「(政治的主張の薄い、主にティーンエイジャー向けの)女性向けエンタメ作品」というのが少なかったのではないか、と思う。
・で、一般論だが、特に女性オタクは、「愛のささげ先」を求めている印象はある。「何が嫌いかより何が好きかで自分で語れよ」を地でやっている印象はある(元ネタは、「ONE PIECE」ではなく「ツギハギ漂流作家」という漫画のコラ画像だそうだ。マジか(若者言葉))。生物としての本能を考えるに、その愛は、そもそもは子供を育てるために使われてきたのだろうと思う(だから、「鋼の錬金術師」でも、母親の強さを強調している気もする)。「だから、~だ」みたいな主張は私は持っていないけど。
・したがって、女性オタクは「推し」を全肯定する(弱点や欠点も含めて受け入れているので)。男性オタクにもそういう人はいるだろうが、私個人としては、ガルパンを否定されたところで、(多分、大抵の意見は)そりゃそうだ、的な感じで、あえてこの言葉を使えば、「好き嫌いだけで判断するのは女子供の理屈ではないか」と思うし(これはもちろん、失礼な言葉ですよ。男顔負けで働いている女性がいくらでもいる訳だし)、社会に出れば、合わない人とも一緒に仕事をしなければいけない時もある訳だし、例え自分と合わなくても、相手の能力の優れた点を積極的に見出して行こうとする方針ではある(上手く行かないこともあるが。ただし、女性にとっての合う合わないは男性よりも大変っぽい、私個人の経験論的に)。
・だから、ジャニーズ問題にしても、ファンクラブに入っていたような女性は「超保守派」しかいないと思う(「現状維持」しか認めない。欠点も含めて受け入れたわけだから)。そういう人たちを相手に話し合いをしても無駄(妥協の余地がないのだから)、ということになる。かくして、「(今回は)無理を通そうとしても無理」ということになる。この点においては、日本が頭の上がらない欧米にも妥協の余地はなく、兵糧攻めをされて散り散りになっていく。
・なんで自分はジャニーズの話をしているんだろうか。それはともかく、「葬送のフリーレン」も「鋼の錬金術師」も海外の女性が好きになって全肯定してくれた結果、ワンツーフィニッシュを決めた、というのが私の仮説である。
・次は、「ダンジョン飯」だが、もう疲れたので、簡単に触れる。
・作者の九井諒子は、リベラル→人文主義→ヒューマニズム→古典主義という流れで、教養人だと思う。 (別に敵視しているわけではない)
・実際、「RPGを分かっている人が書いた漫画である」という件については大体の人の同意は得られると思う。
・と言っても、「RPGの文脈から機械的に考えていく」という訳ではなくて、RPGが作られた文化的背景をそれなりに押さえた上で、自分なりの解釈をひねり出しているので(黒魔術の話とか)、その辺のオリジナリティとリアリティが面白い、という人もいると思った。
・だから、作中に現代的な新しい空気がある、というよりも、結構保守的な男性受けも考えているという印象。 (なんというか、マルシルにしても愛嬌がある感じ(「男は度胸、女は愛嬌」みたいな価値観を守っている)。こちらも思想的には別のやり方でバランスは取っているのではないか。もちろん、「本当に怖いのは女」みたいな感じで、人物造形自体、男性はややシンプルな気はする(それは当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。女性から見ると「男性作家は女性が描けていない」だろうし)。フリーレンはその辺の空気感が違う)
・「原点に帰れ」みたいな話で(むしろ、「原点に立ち返ったうえで、通念を疑え」で、自分にとって説得力のある世界を作り上げた印象)、これもまた文系的(理系はそうはいかない。ニュートン力学の時代に帰るわけにはいかないわけですよ。まあ、「どこから前提をひっくり返すか」みたいな話にはなりそうだが。「社会科学」を銘打っておきながら、「原点である社会学のテキストに戻る」みたいな考え方は、文系としか言いようがない。経済学にしても、アメリカでは理系の学問だと思うし(タレブは「(アメリカの)大学で教える経済学が古くて現場で使えない」とボヤいていた)、日本では文系の学問な印象(「マルクスに帰れ」とか))。
・で、最後の最後に「日本と西洋フェミニズムの枠組みのズレ」みたいな話。
・三大随筆と言えば、清少納言「枕草子」、鴨長明「方丈記」、兼好法師「徒然草」だが、清少納言のライバルに紫式部がいて、こちらも「源氏物語」と言う作品が有名だ。
・で、文学の場に関して言えば、日本は割と伝統的に女性の入り込む余地はあったのではないか、と思う。で、それが、現代の「葬送のフリーレン」や「鋼の錬金術師」のような日本女性の作家性の発揮、という形で、世界から評価を受けている。現在進行形で、世界的女性作家を生み出している国はほかにはないと思うが。少なくとも、この点に関しては、日本が欧米よりも進んでいる、と言えるのではないか(という仮説)。
・もちろん、逆に、日本が遅れている部分というのはあるだろうし(例えば、あまり男性が料理とか作らないとか)、その辺は総合的なバランスを見ながら追い追いやっていくしかない気もする。「しわ寄せは全部~が引き受ける」みたいな形ではなく、「なるべく全員、それなりに活路を見出して行ける社会」というのが重要な気もする。「長期間労働しながら、イクメンしろ!意識改革!」みたいな話は難しいのではないか。
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amigocd64 · 1 year ago
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日本文化の現在地として、米津玄師「さよーならまたいつか!」とAdo「Value」を対比させる
超超超長文になってしまった。書いていくうちに。
まず、私が否定気味の「戦後民主主義」だが、さすがに「完全否定」というのは難しい。 ただ、「時代と合わなくなってきた部分が大きい」ので、修正できる部分については修正した方がいいと思う。
ただ、「戦後民主主義」華やかしころにも「人物」は間違いなくいた。 書籍も、「当時の価値観」ではなく、「現在の価値観」で読んでみると、また発見のある部分もある(当然、人によっては「再発見」だとは思うが)。
という訳で、Kindleセールで買った「雑種文化―日本の小さな希望― (加藤周一 講談社文庫 1974) 」を思い出したのだった。
英仏にもそれぞれちがった形でちがった領域に外国の文化に対する強い好奇心がある。しかしそれは多くの場合に自国の文化にとって欠くことのできない原理を外国にもとめるということではなく、外国との接触によって本来の原理の展開を豊かにするということにすぎない。原理に関しては、英語の文化も、フランス語の文化も、純粋種であり、英語またはフランス語以外の何ものからも影響されていないようにみえる。そして多くの英仏人はそのことを多少とも自覚している。そこから一種の文化的国民主義が発達する。 加藤周一. 雑種文化―日本の小さな希望― (講談社文庫) . 講談社. Kindle 版.
つまり英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本の文化は雑種の文化の典型ではないかということだ。私はこの場合雑種ということばによい意味もわるい意味もあたえない。純粋種に対しても同じことである。よいとかわるいとかいう立場にたてば、純粋種にもわるい点があり、雑種にもおもしろい点があり、逆もまた同じということになるだろう。 加藤周一. 雑種文化―日本の小さな希望― (講談社文庫) . 講談社. Kindle 版.
日本の文化の雑種性を整理して日本的伝統にかえろうとする日本主義者の精神がすでにほんやくの概念によって養われた雑種であって、ほんやくの概念をぬきとれば忽ち活動を停止するにちがいない。 加藤周一. 雑種文化―日本の小さな希望― (講談社文庫) . 講談社. Kindle 版.
まず、「純粋種の文化」と「雑種の文化」を対比させて語っているが、自分としては、「トップダウン」と「ボトムアップ」で対比させるとしっくり来た。
芸術で考えると、「英仏の文化は主に上流階級によって支えられて作られ、それがトリクルダウン的に下層階級に伝わっていく」ものであるが、「日本の場合は、特に町人文化の影響が大きく、それがバイラル的に別の階���に伝わっていく」ものである。 また、日本の場合、貴族から武士に支配階級が変わったが、貴族支配時代の文化は、トップダウン的ではあった。 ただ、貴族の文化自体、主に中国からの輸入したものを取捨選択して独自発展させたものであり、「外国との接触によって本来の原理の展開を豊かにする」というよりも、日本の「本来の原理」自体、「ほんやくの概念によって養われた雑種」的である(「出版輸入業者」のようである)。
ヨーロッパと同じ封建制度でも、日本の武士は「質素倹約」を旨にしていたので(貴族的な「遊び」の文化は重視されなかったので)、金銭的に余裕のある町人文化の影響が大きくなった。 ただ、武士による日本支配は江戸時代で終わっている(が、ヨーロッパ階級社会はかなり現役っぽいが)。
もう一点。 まず、「汚い」と言われる日本の街並みだが、逆に、「多様性に富んでいる」とも言える。 つまり、「(様々な価値観が並列する)雑種文化」的である。 町人文化の影響だろうか、と考えていくと、よくよく考えてみたら、今、書いているこの文章も含めた「日本語の書き文字」というのは、漢字/ひらがな/カタカナ/アルファベット/アラビア数字などがぐちゃぐちゃに入り混じっていたのであった。
なるほど。 いつだか書いた「日本語(フォントによる文字列)は醜い」とはこのことだな(逆に言えば、「多様性に富んでいる」とも言える)。
ひるがえって、「(日本語の)話し言葉」は、「一律的だ」とも言える。 具体的には、「子音の後に必ず母音が付く(他の言語だと、「子音の後に子音が付く場合もある」)」。 ただ、高速ラップなどは、子音と子音をつなげるような歌い方をしないと、音節が足りなくなるだろうが……。
その結果として、「(特に初期の)ボーカロイド」の歌声は、「タ・タ・タ・タ・タ……」みたいに、(なんと表現すればいいのか分からないが)軽機関銃を撃っているように聴こえる。 何というか、日本人は、「軽快を良しとする旨がある」と思う(だから、「聞いたことをスルッと受け止める人も多い(『日本人の心情は、察しと思いやりだからよ』的な?なんだか、悪用されっぱなしの気もするが)」のではないかと。故に、ひろゆき曰く「日本人は洗脳されやすい」的な?)。
で、思い出したのが、太宰治の「トカトントン」なのだが、私はネットで散見される解釈は正確ではないな、と思っていて、「トカトントン」というのは、「日本語の響き」なのではないかと思う。
そもそも、主人公が「トカトントン」といつから聞こえるようになったかと言ったら、「玉音放送」からだ。 おそらく、「天皇の肉声と(難解で理解不能なくらいの、「空気を読め」的な?)内容の重さ」と「(スルッと受け止めるしかないような)あまりの日本語の響きの軽さ」で、発狂し始めたのではないかと思った。
だから、「日本人の謝罪は軽い」というアジア諸国からの指摘も受けたことがあったと思ったが、案外、的外れでもなかった、のかも知れない(と、個人的には思った)。
で、以上のことを考えると、まず、「(日本文化の土台となる)日本語はかなり特殊な言語である」と言わざるを得ない。 その価値観のズレが海外から面白がられる部分はないか、と思った。
さらについでにもう一冊から引用だが、こちらは比較的最近の本で、現代の問題が書かれている。
 ポピュリストとエスタブリッシュメントの対立は、新しい階級闘争である。アメリカをはじめとする先進諸国は、大都市で働く高学歴の管理者(マネージャー)や専門技術者(プロフェッショナル)から構成される少数派の上流階級(オーバークラス)と、土着の国民と移民とに分裂した多数派の労働者階級との間に分裂した。そして、権力は、管理者と専門技術者といった上流階級のエリートたちに集中し、労働者階級は、���治・経済・文化のいずれの領域においても、発言する場を失った。上流階級が体制のインサイダーとなり、労働者階級はアウトサイダーとなったのである。
マイケル・リンド. 新しい階級闘争―大都市エリートから民主主義を守る. 東洋経済新報社. Kindle 版.
なかなか面白いと思ったが、「ポピュリストとは何か?」とよくよく考えてみたら、「(リベラルな)エスタブリッシュメントの思い通りに動かない悪いヤツ」という訳だ。
メディアにとって、「正しい民主主義」とは、「大衆がメディアが誘導した通りに動く政治」のことではないかと思う。 だから、メディアの言うことを聞かないヤツは、「ポピュリスト」なり、「(そもそも日本においてはメディア批判が大きな流れになっていった)ネトウヨ」なり、レッテルを張って叩くのである(特に、「知識人」や「関係者」や「業界人」が叩く。「関係者による関係者のための関係者」こそが正義なのだろう(それが食い扶持故に))。
そもそも「(下層階級が上流階級である)メディアを批判する」ということは許されないことなのだ。 なぜならば、「メディアは(つまり「神」であるところの)大衆の代弁者だからだ(あれ?)」。
まるで、神の代弁者としてのカトリック教会の司祭の論理だ。 それに対して、プロテスト(抗議)したネトウヨは、プロテスタント的、とも言えるだろう(確かに、アメリカの田舎の赤い州はプロテスタントのリバタリアンが主流であろう)。 まあ、プロテスタントにも、牧師役の導き手は必要なのかもしれないが。
また、もちろん「日本においては少し状況が違う(正直、「アメリカをはじめとする先進諸国」の状況もやや違うと思う)」。 つまり、文化面において、「エンタメなら、まだワンチャンある」部分は残っていると思う。 特に日本において、「(大衆文化であるところの)漫画文化」ならば、比較的フェアに戦えるので、才能が集まる。 (逆に、個人的には、「日本は、エンタメに才能が集まりすぎ」だと思う。つまり、「他の業界にいかにチャンスがないか」という証左だと思う)。
ただ、「アメリカをはじめとする先進諸国」においては、「ボトムアップ」型の文化がそもそもあまりない。 個人的に目立つと思ったのは「ヒップホップ」系くらいであり、だからこそ、「海外でヒップホップが流行る」のだろうと思う(そう言えば、日本では、そもそもヒップホップは都会のお坊ちゃまのやることだった)。
個人的には、漫画やアニメやゲームみたいなオタク文化というのは、本来、「弱者」のためのものだと思っている。 ここでいうところの「弱者」というのは、強者が恣意的に定義する「弱者」ではなくて、スクールカーストの下位にいるような子達(本来は子供のものだと思うしね)、という意味だ。
(個人的には)であるからこそ、日本の漫画やアニメやゲームが、海外でも受け入れられたのだと思う。 本来、弱者を救うはずだった「宗教(右派)」も「リベラル(左派)」も、ヒエラルキーの強者のためのものになってしまった以上、弱者としては、「絵空事」でも「ポンチ絵」でもモルヒネ代わりに利用して生き延びるしかない。
とは言え、もはや、特にアニメやゲームは、子供たちだけのものではなくなり、大人もそういう白昼夢のようなものがないとキツイ世の中になってきている、というようにも見える。予言されていた「バーチャル・インサニティ(「実質上の狂気」と訳している人もいた)」というよりも、「直視すると心が壊れてしまうような現実が迫ってきている」ので、「正気を保つために」アニメを見て、ゲームをして、的な?
その瞬間瞬間でしか生きていない微分的認識で生きている人もいるだろうし、マインドフルネスとはそういうことなのかも知れない(というか、私の目の前でそんな感じで生きている宣言した人もいた。確かに、意外とそういう人は多いかも知れないし、そう考えないと腑に落ちる説明がない現実だった。多分、基本的にホリエモンもそんな感覚で生きているような気もする)
二昔前だったら、野球を見て(テレビを見て)、酒を飲む、みたいな感じがほぼほぼだったろうし、意外と本質はそれほど変わっていないかもしれない(ドイツのような(大胆な)大麻の解禁はどうかな、と思うが……。にしても、日本には新たにソシャゲ依存などが出てきたりしている訳で、どこの国にしても、そういう部分は必要なのかも知れない)。
で、「強者に主張があるか?」というならば、「特にない」というか、「現状維持(いかに今の力を維持してよりハッピーに生きるか?)」派なので、「リア充アピール」「いかに相手からマウントを取るか」「(オタクで言うところの)わからせ(?)」しか主張がない。つまり、ギャングスタ・ラッパー的ではある。
面白いもので、「カラ元気も元気」「嘘から出た真」「嘘も百回言えば真実になる」という話もあって、そうではないような人もそういうパフォーマンスをしていると、実際に景気のいい話が回ってくる(場合もある)し、女性も強そうなオスに惹かれていく(場合もあるだろう)。
それが、「右派」としては、マッチョ(男らしい)として正当化され、も「左派」としては、ロック(ヤバい・狂っている)として正当化されていた。(「時期もあった?」いや、今でも海外はそんな感じだと思うし、まだ国内もそんな感じの部分もあると思う。日本の場合、ヒップホップがそこまで根付かなかったので、未だに、「(左派としては)ロックかどうか」が問題なのかな(ただ、個人的には、未だに「SFかどうか」を議論している界隈を見て日付を疑ったこともある。まだ「RPGは死んだか」を議論している界隈もあるに違いない)。話を戻すと、海外では、「Chad(チャド)」という言葉もある)
戦後民主主義も、右派と左派の共同合作として見なせば、その終着点の一つが「ビッ〇モーター」だった、というのも分からなくはない(皮肉でもなんでもなく。上流階級の(反体制を気取る)体制側のインサイダー(関係者・業界人)が、「ちょい悪オヤジ」みたいな言葉を仕掛けてくる訳だし)。
下の世代は結構雰囲気が変わっているが、同世代から上を見渡せば、ほぼほぼ出世するほどある種の「ワル」だと思う(そうしないと生きていけない部分もあっただろうし)。まあ、世界レベルから見ればカモだろうけど(どこぞの新聞で、武勇伝を披露していたお偉いさんとか。「埼玉」って田舎の人間から見ると大都会なのだが、都会と田舎の差に無自覚な都会人というのもいるのだ。「なぜ新海誠に対して、リベラルは厳しいのか(多分、そもそも肌が合わないのである)」、「なぜ新海誠が『天気の子』で東京を海に沈めたのか?(色々作中で正当化の理屈はあったかもしれないし、一部のリベラルはそれを称賛していたが)」)。
所詮、右派と左派では理解し合えないのではないだろうか(「多様性」と言いつつ、「(自分の美的感覚に合った)多様性」を押し付けてくる訳だから、多分、左も右も。で、理解できないヤツは馬鹿と判断される)。
別に弾糾するわけでも恨み言を言いたいわけでもなくて(なぜならば、彼らは必然的にそうなったのだろうし、私が彼らの立場でも必然的にそういう行動をするだろうし)、個人的な所感を述べるならば、逆に、批判(?)されがちな「ホワイト社会」についても必然的にそういう結果になった、と言わざるを得ないのではないかと思う。
恐らく、想定しているのは、「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」みたいなことが起こるよ、という話だろうが、逆に、「崩壊するべき現場は崩壊してしまった方がいいのではないか?」とも思う(大阪万博の建築現場的な?)」。崩壊せずに、それでも(日本人の場合は)仕事を回してしまうから、「過労死」みたいなことが起こる訳で。
福島の原発の場合はどうだったんだろうか? 逆に、ギリギリの状態で回していないと、ああいう巨大なブラックスワンは起きなかった、とも言えるだろう。 つまり、「日本人が粘り強すぎ」て(運用力で全部カバーしてしまって)、「早めの失敗(バグ出し)」が出来なかったのではないか。だからこそ崩壊したときのダメージはすさまじくなる。太平洋戦争と同じではないか(そんなものと言えば、そんなものなのかも知れない)。
まあ、一般論として日本人は失敗に厳しい。 資源がない国だからか。 まあ、そもそも、人という資源を粗末に扱ったから現状がある、という部分もあると思うが。 (そもそも日本では、夢の時代とされるバブル時代にも労働者には人権がなかったのである。古代ギリシャの奴隷よりもひどい話もたくさん聞いた。個人的にも、最近は、「民主主義を支えるためには奴隷的な労働者が必要」な気もしてきた。「奴隷労働を正当化する」ということでは無く。古代ギリシャの民主主義���奴隷制に支えられていたわけだし、今のアメリカのインフレも、安い賃金で働く人がいなければ止まらないとか?……にしても、GAFAMだか、GOMAだかは強力だけどな。EUとは逆に、アメリカは州ごとに独自通貨の変動相場制にしてしまうのはどうか?(まるで江戸時代だが)ドルが上がれば上がるほど、田舎の貧乏白人(に限らないが)は苦しくなる訳で)
あと、「主張がない」というのは、「面白みがない」という話だと思う(この場合の「面白み」は、大衆(マス)の大半を占める弱者にとってのそれであって、Netflixの欧米の実写ドラマのようなそれではない)。
ただ、「オタクはチョロい」という言葉もある通り、オタクは現実の苦痛が和らぐのであれば、「ファッション的なモドキ」であろうが、「ビジネス的なモドキ」であろうが、食いつくだろう。ただ、「(ある種の)目利き」であるのは確かなので、「より本物に近い」のであれば、そちらになびくだろう、とは思うが(あるいは作り手になる)。
で、ここまでが前置きとして、タイトルの二曲について軽く触れよう。
米津玄師 - さよーならまたいつか! Kenshi Yonezu - Sayonara, Mata Itsuka !
youtube
以前、誰かに見せてもらった、いつだかの紅白では、「自意識過剰なダンサー(?)」みたいなのに邪魔(?)されながら歌っていた。「あー、(ネット出身の)アウトサイダーにはこういう扱いをするんだな」と思ったが。
ところがどっこい、「さよーならまたいつか! 」は、NHKの朝ドラの主題歌らしい。 まあ、「落ち着くべきところに落ち着いた」という感じなのだろう。 (その前の曲は、宮崎駿の「君たちはどう生きるか」のテーマソング(?)だし)
まず、そもそも個人的には、米津玄師は、思想的にリベラルだと思う。 「(大和言葉的な)日本語の響き」の一様性を活かした作りになっている印象を受けた(「純粋種の文化」的である)。 これなら、紅白を批判した松山千春も大満足であろう、多分。 お下げは中性性の表現なのか、よく分からないが。
やはり、上流階級であるリベラル・メディアの最後の砦であるNHKに相応しい歌だと思う。
ただ、国内はここで上がりのような気もするし、次はどこを目指すんだろうか?
【Ado】Value
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一方、Adoは確かに、新境地であり、より進化して繊細なニュアンスまで表現している印象があった。 作詞作曲のポリスピカデリーの作家性を十分に引き出していると思う。 何というか、総合的に作った「雑種の文化」的である。歌詞もタイトルがそもそも横文字だったりするし、MVでは、画面にたくさん日本語の歌詞が表示されるシーンもあるし。
ただ、Ado自身は東京出身だし、それなりにいいところのお嬢さんだとは思った(東京ディズニーランドに引き返した話なんぞを聞くと)。
ただ、聴く人が聴けば、「本人が作詞作曲していない違和感」が分かるのかも知れない(そういう意見も一度見た)。 その辺の「偽物性(とでもいうべきか)」を、「多様性」と感じるか、「チグハグ」だと感じるかが問題なのかも知れない。 Adoは英語を学んでいるそうだし、自己プロデュースも考えて……いた気がした。 確かに、「オプション性(選択肢)を増やす」という意味ではいいのかも知れない。
結局、右派と左派の違いも、「美意識の違い」に出てくるし、「神は細部に宿る」とは言え、「どの部分の解像度が高いのか(認知歪み(自我)がどこにあるか)」は人によって違う。 同じニコニコ動画出身でも人によってとる道がずいぶん違こと自体、喜ばしいことなのかも知れない。
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amigocd64 · 1 year ago
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ゲームを遊ばせるための音楽
あまり重い記事ばかりでも胃もたれがするので、軽い話だが。
「ゲーム音楽」という言い方は個人的にはあまりしっくり来ていなくて、自分としては、やはり、ゲーム・ミュージックなのであった。
それはともかく、下の動画をめぐる議論が多少あった印象だが、沈静化したようだ。
【落合陽一】今のゲーム音楽は「つまらない」「どれもハリウッドの焼き直し」制作現場の“問題”を植松伸夫が告白!FF7から作曲はどう変わった?20代で決断『人生の分岐点』曲作りに「AI使っちゃダメ」な訳は - YouTube
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まあ、個人的に思い出したのは、サンダーセプターの動画を以前の記事に貼ったが、同じ年に、カルテット(セガ 1986)というゲームが出たことだ(4人同時プレイは、ガントレット(アタリ 1985)からの流れを引き継いだものだと思う)。
1986 [60fps] Quartet 2 Mary Loop1
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とりあえず、1面のBGMの最初の方だけでもいいので聴いていただきたいのだが、「どうだ!見たか!(聴いたか!か)」みたいなBGM担当者の叫び声が聞こえてきそうな曲である(実際、音楽を聴きたくてコインを入れていた人もいた、みたいな文章も見た)
同年のサンダーセプターや前年に出たスペースハリアー(セガ 1985)は大型筐体だったので、大きなキャラクターをたくさんスムーズに表示できるくらいハードウェアがリッチだったが、カルテットはシステム基板で技術的にこなれていないこともあってか、なかなか画面的には厳しい。ただ、同年にファンタジーゾーン(セガ 1986)が出ており、こちらは、「セガの最高傑作のひとつではないか」と思うくらい様々なファクターがキッチリ一体感を持って表現されている。この辺の歪さというのがセガの魅力だろうな、と言ったら、頷くのが往年のセガファンだろうし��今はそういう時代は過ぎ去ったのも確かだ。
ただ、個人的にはカルテットのギャップはなんとなく惹かれるものがあった。 で、「BGMと画面のギャップ」という点における二大巨頭のもう一方の雄がF/A(ナムコ 1992)だと思う。
F/A (エフ/エイ). [Arcade - Namco]. (1992). F-4EJ. ALL. 60Fps.
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見た目は地味目なシューティングゲームだが、BGMはジュリアナトーキョーである。 この流れがリッジレーサーシリーズにも引き継がれていっていると思う。
リッジレーサーシリーズの歴史的分岐点はどこか?と言ったら、色々な人がいろいろなことを言うだろうが、個人的に面白かったのは、リッジレーサー6→リッジレーサー7の流れだ。
まず、XBOX360用ソフトとして、リッジレーサー6が発売されて、その後、PS3用ソフトとして、リッジレーサー7が発売されたのだが、XBOX360とPS3は同世代のコンシューマゲーム機であり、性能的にはそこまで変わらない(と言うと怒られるかもしれないが)。 では、何が最大の違いか?と言ったら、BGMの方向性がガラリと変わっているのである。
自分としては、リッジレーサー6は従来通りのノリだったが、リッジレーサー7はBGMらしいBGMになってしまった印象を受けた。 その辺にどういった事情があったのかはよくわからないが、「向上した画面のリアリティに合わせて、音楽を一歩引かせる方向性での方向転換があった」のは確かだと思う。
リッジレーサー6にあった下のようなふざけた曲はリッジレーサー7では鳴りを潜めてしまった。
Ridge Racer 6 OST (X360) B: Nitro Mantra
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それが製作者の判断なのであり、必然的な流れなのだろうし、「向上した画面のリアリティに合わせて、ゲーム・ミュージックは環境音楽的になるべきだ」という主張は一定の説得力はあると思う。
ただ、やはり、テーゼにはアンチテーゼが存在する、と言わざるを得ない。
何が言いたいのかというと、「音楽駆動型でゲームを作る」という発想である。 音ゲーはもちろんそうだし、同人ゲームでは、「音楽を聴いてもらいやすい手段としてゲーム作った」とも言われている東方projectもある。
個人的には、ナムコのBGMはテクノポップの印象が強いが、そのDNAは現役でちゃんと引き継がれている、というのは、昨年のエイプリルフールで知った、太鼓の達人の最難関楽曲との一つとも言われている「彁(この漢字には読み方がないらしい)」という曲を聴いて思ったことだ。
プレイ画面。
彁 / LeaF (裏譜面)全良【太鼓の達人】
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ミュージックビデオ。
【太鼓の達人】 彁 (Movie:Fiz)
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海外のゲーム音楽プロデューサーが彁を聴いた反応。
【太鼓の達人】彁(裏) 海外のゲーム音楽プロデューサーを困惑させてしまうww【海外の反応】
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ちなみに、このゲーム音楽プロデューサーの東方projectの曲の反応も動画としてあり、(見た目は女の子の)ボスの曲なのだが、作者のZUNが曲で表現したボスのパーソナリティまで読み解いてしまう。確かに、音楽で表現した方もすごいが、読み解ける方もすごい。
【月まで届け、不死の煙】海外の音楽Pが東方の名曲を初めて聴いた結果ww【海外の反応】
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色々な考え方があってもいいのかもしれない。 個人的には、大作ゲームのBGMが環境音楽的になるのは必然だろうが、ふざけた音楽としてのゲーム・ミュージックや子供にも親しみやすい音楽としてのゲーム・ミュージックというのも、軽量型ゲームでは活きるのではないか、とは思った(現状だと、音ゲーくらいしか解がないのかもしれないが。とは言え、何かその辺で新しい発明があると面白いかもしれない。単純に音楽を聴かせたいだけなら、YouTubeでMVを公開した方が早いわけだし)。
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amigocd64 · 1 year ago
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ユダヤ人問題について聞きかじりで考える
ネットを見ていると、『「バカしかいない」という状態になった時、大抵は自分がおかしくなっている』、という指摘が目に飛び込んできて、「まあ、一理あるな(でも、自分が一番偉いと思っているんじゃないかな、大抵の人は?)」と思ったので、正気を疑うテストだ。
まず、ユダヤ人の定義について。
国際的には常識なのかもしれないが、一応。 別に、「イスラエルの国籍を持つ者」がユダヤ人という訳でもない。
"ユダヤは今のどこの国? ユダヤ民族は、イスラエルの地(エレツ・イスラエル)に誕生しました。 この地で民族の長い歴史の重要な部分が刻まれたのであり、そのうちの2000年間は聖書に記録されています。 この地でユダヤの文化的、宗教的、民族的なアイデンティティは形成されました。"
で、エレツ・イスラエルは、「聖地エルサレムにあるシオンの丘」だそう。 参考:https://www.y-history.net/appendix/wh1503-148.html
じゃあ、ユダヤ人の出身地域は、今のイスラエルのあるアラビア半島とアフリカ大陸の付け根の位置くらいにあった、と。
で、ブラックスワンでお馴染みのタレブ曰く、「では、ユダヤ人とアラブ人は、DNA的にはほとんど変わらないだろう(ほぼ人種的には同じだろう)」という訳だが、「じゃあ、なぜユダヤ人ばかりノーベル賞をたくさん取れるのか?」という話になる。
まず、「ユダヤ人とアラブ人の違い」こそが、「ユダヤ人の定義」と直結している。 で、タレブ曰く、「ユダヤ人とアラブ人の違い」は、「宗教」が違うということだった。 ユダヤ教に入信している人はユダヤ人で、イスラム教に入信している人はアラブ人。
ただし、この「宗教」の定義が例えば、東洋と中東とでは違う、とタレブは指摘する。 東洋における宗教というのは、どちらかというと、「習慣」とか、「風習」に含まれるのではないか、と。 (出家とか在家みたいな話もあるが、確かに、中東から比べると緩めに見えるかもしれない。タイの出家した仏教徒とかは違うとは思うが)
仮に、日本において、「神社の鳥居を蹴っ飛ばすな」という戒律はないが、「鳥居を蹴っ飛ばすとバチが当たりそうだから」あるいは、「(単に)見た人に怒られそうだから」みたいな理由で、「神社の鳥居を蹴っ飛ばす不信心者はまずいない」。
中東の場合は、「宗教=戒律」なので、「基本的には絶対守れというスタンス(当然、個人によってはブレはあるだろうが)」という話。
で、何が言いたいかというと、「ユダヤ教は生きている宗教なので、戒律は増える一方」ということだ。
例えば、ユダヤ人は、「剃刀で髭を剃ってはいけない」という戒律があるが(だから、超正統派の人は伸ばしっぱなしの人もいる)、後から、「ただし、電気カミソリはOK」という戒律が加わったりする。
個人的に、この辺で思い出したのは、イギリスには憲法がなくて、代わりにマグナ・カルタとかがある件だ。
"イギリスでは、ある事件において過去に下された判決は、その後の類似の事件において、 法源となり、同様の判決が下されなければならないという「先例拘束性」(stare decisis) の原理が採用されている。"
なるほど。 で、「最大多数個人の最大幸福」でお馴染みのベンサムはこれに反発した。 そういうスパゲッティコードのような経験主義による法体系ではなく、合理的・機能的で明瞭な大陸合理主義的法体系を作ろうとして失敗した。
そもそも、この時点で、ある程度、ユダヤ人とイギリスの思想的な親和性はあるのかも知れない。 基本的に理念は最低限の原則論であり、あとは「(痛い思いをしてきた)経験だけは信じる」的な。
それから、個人的に人生経験で思い出すのは、ある人に言われた「大企業と中小企業の違い」は、「ノウハウの差」ということだ(確かに、若いと、経験というのは過小評価しがちではある)。 ユダヤ教が何千年前から信じられているかはともかく、歴史の長さに従って、雪だるま式に、金融資産的に、言わば、「(戒律という名の)ノウハウ・ボール」が巨大化していったわけだ(「葬送のフリーレン」かよ、的な)。
話を元に戻すと、ユダヤ人は、ユダヤ教の戒律に従って動いているので、「習慣は第二の天性なり」であり、「自然とユダヤ人らしいユダヤ人になっていく(ユダヤ人基準で成績が優秀になりやすくなる、ノーベル賞も取りやすくなる、金持ちにもなりやすくなる。両親が上手く行かなくても、子供は上手く行くかもしれない)」。
だから、世界のどこに行っても、ユダヤ人はユダヤ人的であると。 (日本人みたいに現地に溶け込んだ人もいるのかも知れないが)
で、次に、陰謀論の話。
まず、文系の人が第一に挙げる本で多いのは、「プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神(プロ倫)」だが、それと対になる本があって、それが、「ユダヤ人と経済生活」だ。
で、下に挙げるのが、そのAmazonのページ。
ユダヤ人と経済生活 (講談社学術文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4062923033
で、レビューを読んでみると、「肝心なことが書かれている6章と7章が無くなっているよ」という話であった。 だから、識者の人には陰謀論以外でなぜそういうことになったのか説明してほしい感じであった。(個人的には、徒然草の「まあ人が言うことだからそんなことも有るかもしれないぐらいに思ってそれ以上は詮索しないという人もいる」くらいのスタンスでいいと思うし、陰謀論全肯定も全否定もゼロイチ脳だと思っている)
Amazon.comで、Kindleの英語版も見てみたが、プリントレプリカ?翻訳しにくいように的な?(笑っていいのか分からない。綾波レイだな)
The Jews and Modern Capitalism [Print Replica] Kindle Edition https://www.amazon.com/Jews-Modern-Capitalism-Werner-Sombart-ebook/dp/B09C4XMN7D/
要するに、何が言いたいのかというと、リベラルの親玉ってユダヤ人じゃないの(右派の言説でそう思っている人も多いのでは)、という話で、なぜそうか、と言ったら、「国を失った民族だから、必然的にリベラル(の親玉的立ち位置)にならざるを得なかった」のではないかと思う(彼らの力の源泉については私より詳しい人が唸るようにいると思うので立ち入らない)。
2000年(?)ほど前のディアスポラ(同名のSF小説もあったが)以降、ユダヤ人の国はなかった。 しかし、1948年5月14日にイスラエルを建国した。
で、まとめ。
つまり、ユダヤ人は、一度国を失ってから再建したが、「国がある期間」よりも、「国がない期間」の方が長い。 よって、最新バージョンのユダヤ教は、「国がない期間」の影響が大きい。 (リベラルとしての立ち振る舞いのノウハウ・ボールの方が巨大化している)
逆に言えば、1948年(第二次大戦後)に建国されたイスラエルは、76年程度の歴史しか持たない。 したがって、それまでのリベラル的思想の慣性もあるし、保守(郷土を守る)という立場のノウハウはほとんど失っていた(あるいは戒律的に例外事例を設けて無効化されていたものもあるだろうし、とか?)。
つまり、イスラエルは、「国としては未熟」なので、不手際が起こるのも当然だし、右往左往も当たり前、支離滅裂も道理と言える(あの世界一優秀なユダヤ人でさえ、経験を積まねば上手く行かない、とも言える)。 「歴史が浅い」と言われるアメリカでさえ、250年弱の歴史を持っている。
だから、もう少し長い目で見ると、上手く行くようになるのかも知れない。 (が、戦火が拡大して、世界大戦になる可能性は……どうかな)
まあ、正直なところ、これからどうなるのかは分からない。 ただし、仏教の教えによれば、「本人が自覚するだけでも(メタ認知するだけでも)、状況は全然変わってくる」そうなので、この文章を書いてみた感じではある(もしかして、当のユダヤ人の盲点になっている可能性もあるな、と思ったので)。
補足:三点。
一点目は、地政学でお馴染みの話に、「大陸国家であることと海洋国家であることは両立しない」というものがあるが、「(国を持った)イスラエル人としてのユダヤ人と(国を持たない)グローバリズムの体現者のユダヤ人は両立し得るのか?」という話で、もう少し突き詰めて言うと、右派と左派では優先順位が違うので、ユダヤ教の戒律とか議論がまとまるのだろうか(必要なノウハウやサバイバル論の論旨も変わってくるだろうし)、という点(大きなお世話か)。
二点目は、前提論として、「国境はあった方がいい」という話。
ジョン・レノン(この人もイギリス出身だが)がイマジンで、「想像してごらん 国境のない世界を」と歌ったことから始まった(?)「宇宙船地球号」みたいな思想。 「宇宙から見ると、国境なんてないんですよ」→なんか感動みたいな流れ。
個人的には、これはアンチテーゼとしては有効であると思うが、タレブは一言で論破している(「論破」という言葉自体、すでに死語的ではあるが)。
その返しとは、「良き同居人になるよりも良き隣人になる方が簡単」。 愛し合っていたはずの二人がトイレの蓋の上げ下ろしで喧嘩になるくらい同居というのは大変だが、隣のお宅で、夜大声で怒鳴り散らす声が聞こえても、翌朝に顔を合わせたら素知らぬ顔で「おはようございます」で済む。 ましてや、「土葬なんて絶対反対」という国の国民が、「国境をなくした方がいい」というのはどうなのか。
では、パレスチナの場合はどうなるか? AIをどんどんパワーアップさせて、答えを伺った方が話が早いのかもしれない。
三点目は、「戦争のない世界が長く続くと、大破壊が起こる可能性が高い(ブラックスワン)」という議論。
個人的には、国産ライトノベル・ファンタジーの始祖の一つである「ロードス島戦記」を思い出す。 自分としては、作者の水野良の優れている点は、「設定力」だと思う。 その設定力が最も活かされたのは、第一巻のラスボスであるカーラの設定だと思う(どこからかの引用なのか?分からない)。
ネタばれありで書くと、カーラの行動原理は、「カストゥール王国(古代魔法王国)の魔術師だったが、当時の全人口が半減したとも伝えられる『大破壊』を経験した後、『大破壊』が二度と起こらぬようロードス島の歴史に干渉し続ける」「その基本的な思想は『光と闇の均衡』である」「それ故、光が優勢になれば闇に荷担し、闇が強力になれば光を助け、均衡を崩す恐れの有る傑出した人物を排除していった」
次から適当に引用:https://w.atwiki.jp/nanasihennkagura/pages/36.html
カーラはもちろん悪役だが、私個人の意見としては、カーラ側の方が真実に近いのではないか、と思った。 では、なぜカーラは負けたのか?「エンタメ故に間違っている方が面白い」から負けたのだと(個人的には)思っている(実際、日本のアニメや漫画だと悪役の方が話の筋が通っている作品も多いし)。あるいは、「誰かにコントロールさている状態は面白くない」「未来は人類自身が決める」的な。
でも、面白くない方が堅実なのが大体の現実なのではないだろうか、という点が一点。 実際、またタレブの例で申し訳ないが、「相場で勝つには、サラリーマンのように平均的に勝つよりも、ブラックスワン狙いの方が大きく勝ち越せた。だから、アベレージで評価する上司に腹が立った」みたいな本の記述があったと記憶している。
もう一点は、(原則としては)戦争は政治の延長上のものであり、主に相手をコントロールするために行う手段なのであって、本来、殺戮や破壊自体は目的なのではない(攻撃目標ではあるかもしれないが)、ということだ。
まあ、それはともかく、例えば、200年戦争が起こらなかったとして、200年目に戦争が起こったとしたら、まず、「実戦経験者がいない(人間は今のところそこまで長生きできない)」という点で、状況のコントロール力は下がる。また、200年分、科学が発展している、ということであり、不確定要素満載、ということでもある。 つまり、誰も状況をコントロールできなくなり、世界全体が戦火に包まれる可能性も高いと思う。
例えば、ロシア・ウクライナ戦争も、攻撃ヘリコプターの有効性が問われるようになった、とか、ドローンによる新戦術とか、戦場の常識が次から次へとリアルタイムで変わる。
もちろん、「それは他人事と思っているから言えるのだ」という点もあるかも知れない。 日本の近隣でも何らかの(ある程度コントロール可能であろう)限定的な地域紛争が起きるなり、起こす可能性もあると思う(誰が、とは言わないが)。
結局、世界というのは根源では暴力によって支配されているのであり、そのアンチテーゼとしては平和思想は有効だと思うが、それを真に受けすぎて、自衛隊、(人殺しという)一番の汚れ仕事をさせようとしている人たちをツカイッパ扱いというのは、違和感を覚える部分もある。
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amigocd64 · 1 year ago
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カルチャー・ドライバー論
【Ado】新時代 (ウタ from ONE PIECE FILM RED)
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ONE PIECE FILM REDでウタが歌う劇中歌のうちの一番人気は「新時代」らしかったが、プロデュースした中田ヤスタカはPerfumeもプロデュースしていたので、ああ、なるほど。といった感じはあった。
まあ、個人的に思い出したのは、サンダーセプター(ナムコ・1986)のBGMだった。
1986 [60fps] Thunder Ceptor ALL
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何というか、1986年に感じていた明るい未来観が(そう言えば、1985年につくば85という科学万博もあったが)、2022年でもそれほど印象は変わらなかった、というか、もちろん、音源の豊富さや曲のクオリティなど諸々の話はあるかも知れないが、「新時代」を聴いて、「これが求めていた新しい自分たちの時代だ」と飛びつく若者もいたのだろうか、と思うと、「歴史は繰り返す」というか、「歴史は韻を踏む」というか、自分が年を取ったというのも確かだろうと思った。
まあ、このシンプルで明るい未来観が、「レトロフューチャー(『懐かしい未来感覚』の意味になる造語)」ってやつなのだろう。もうジャンルとして確立しているわけだ(素で受け取ってしまう若者はいるとしても)。で、以前のこのオプティミズムの後にどうなったか、と言ったら、サイバーパンクが来て、どよ~んとなった。
考えてみれば、万博と言ったら、1970年の大阪万博が有名だし(来年もまた大阪で万博が(多分)あるが。アメリカはまた月の石を展示するという話もあったが。アメリカンジョークはレベルが高いなあ)、その辺は、大阪万博から引き継いだ科学技術への憧れ、高度成長の流れが、つくば85あたりで、Japan as No.1的自意識へ、的な?
その後、21世紀に入って、2005年に愛知万博というのもあった。
"愛・地球博(愛知万博)では、メインテーマに『自然の叡智』を、またサブテーマの一つに『循環型社会』を掲げています。"
あー、「エコ」的な? (個人的には、28人同時協力プレイ版の「ギャラクシアン3」はちょっとやってみたかったかも、くらいの感想しかなかったが)
じゃあ、今回の2025年の大阪万博のテーマは?
"2025年の大阪・関西万博のテーマは? 2025年日本国際博覧会協会は、一人ひとりが互いの多様性を認め、「いのち輝く未来社会のデザイン」を実現するため、以下の8つのテーマ事業を設定することとした。 いのちを知る … いのちを育む … いのちを守る … いのちをつむぐ … いのちを拡げる … いのちを高める … いのちを磨く … いのちを響き合わせる"
……文学的修辞が凄いのは分かった。 「ふくしの…大学?に通ってるんですけど!」的モノが、いろいろな思惑や紆余曲折があって、多様性やら、SDGsやらのトレンドを取り込んで、ふんわりと、こう、何とか格好つけてみました、的な感じなのだろうか。
と、茶々を入れてしまったが、悪気があってそうしているのもわかるし、他にやりようがないというのも(なんとなくは)分かるし、言葉は所詮、方便としての単なる言葉に過ぎないし、中身が問題であり、「開催した意義がある」中身であれば、開催した方がいいと思う(差し引きプラスにする必要はあると思うし、大阪人だから、その辺の計算はしていると思うが、考えていないとすれば、大阪人のメンツとか大丈夫なのだろうか)。もちろん、猪突猛進的な「開催するべきだから開催するべき」という話は、いつだかのどこかの政党の「ダメだからダメ」的な循環論法であり、論外だとは思うが。
自分の考えとしては、「万博で未来のビジョンを示す」というのは方法論的に無理なのだと思った。 その時点での、社会意識やトレンドやバズワードをテクノクラート(とも呼べないメンバーシップ型官僚)や文化人(?)が優等生のまとめノート的に「まあまあこんなものだろう」的なまとめであって、逆に、本当に強力なビジョンを掲げてしまったら、なかったことにされるだろうし(労力に対して得るものが少ないので、関係者ほぼ全員が。あるいは手柄を横取りされる)、そもそも、目の前の仕事を回していくだけで精一杯です(あるいは、私の仕事は仕事をしているパフォーマンスをすることです)、的な?
その上で、「今更方針転換できない」事を承知の上で、ダメ元で言えば、「未来は創る」だけのものではないし、「攻め」もいれば、「守り」も必要だろうと思う(一部から、「そこは守りじゃないだろう」とか言われそうだが(定番ジョーク))。
で、もう少し具体的に言うと、まず、漫画の話で、「攻殻機動隊」の原作漫画でお馴染みの士郎正宗は、「攻殻機動隊」以外にもいくつか作品を書いて単行本を出している。その中に「ドミニオン」という戦車の漫画があるのだが、よくよく考えてみれば、「攻殻機動隊」のフチコマ(アニメだと、タチコマ)も多脚型戦車であって、やはり、戦車に対して愛着があるのだろうな、と思う。ガルパンが出てくるまでは、第二次大戦モノ以外は戦車モノはマイナーなジャンルだったわけで。
(「【電子版】ドミニオン F(カドカワデジタルコミックス)」より)
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戦車を磨く主人公。どこの泉野明だよ、というか、こちらが先。それでパトレイバーの威光が曇るわけでもないが。
(「【電子版】ドミニオン C1 コンフリクト編(カドカワデジタルコミックス)」より)
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仕切り直しの「ドミニオン C1 コンフリクト編」の街の雰囲気。
(「【電子版】ドミニオン C1 コンフリクト編(カドカワデジタルコミックス)」より)
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ハイ、ポイントはここです。遠い未来(のはず)なのに、「竹刀」が出てくる。 「剣道がまだ続いている未来」。
考えてみれば、アニメの攻殻機動隊SACの一番最初のOP(個人的には、本家がYouTubeで公開するべきだと思うが)を思い出すか何とかしてほしいが、鳥居も含めた神社の境内が出てきたり、障子が出てきたりしている。
で、ここで思い出すのは、リンディ効果という経験則だ。
たとえば、現時点で100日間続いているブロードウェイ・ショーは、もう100日間続く。200日間続いたショーは、もう200日間続く。 (ナシーム・ニコラス・タレブ. 身銭を切れ――「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質 . ダイヤモンド社. Kindle 版)
別の言い方をすると、 「500年前からある地蔵は、500年後もある」。 「3000年前からあるピラミッドは、3000年後もある」。
さらに別の言い方をすると、 「世界最古の職業である売春婦は、世界最後の職業になる」。 「プロンプトエンジニアという職業は、来年も存在する(再来年以降は不明。データサイエンティストのように職務内容が変わっている可能性も高い)」。
しかし、例えば、(ほぼ間違いないのだが、自分の記憶では)ドラえもんは22世紀から来たロボットだが、漫画「ドラえもん」内で描画される22世紀は、未来的なものだけ構成されているはずだ。つまり、「レトロフューチャー」感というのはそういうものだろうし。
ウタの「新時代」の歌詞も合理的に「レトロフューチャー」感で統一されており、「(気に入らないものは全部消して)世の中を全部変えてしまおう」という思想、「未来一色にしてしまおう」という思想は、「(恐らく監督からそういう注文だったのでそう作った)映画上の悪役に相応しい、失敗するべくして失敗する革命家の歌」だと思う(そんな未来なんて永遠に来ないのが現実である)。
で、「新時代」が何でこんなにウケているのか、と言ったら、間違っているから面白いのであって、迫真に迫る嘘だから、夢を見させてくれるから、面倒な世の中の鬱憤を少しでも晴らしてくれるからウケているのかもしれない。
と考えると、「未来的なモノ一色の未来」というのは、嘘であり、様々な時代に作られたものが同居する言わば、縦の多様性を持つ未来観こそが、実際の未来に近いのではないか。
話を万博に戻すと、「テクノロジー(技術)で未来を切り開く」、攻めの姿勢というのは大いに結構だと思うが、逆に、「何を未来に残したいのか」という思想(これが保守思想の本質だと思うけどね)というか、文化、あるいは(防衛するぞという)意思に欠けている部分があるのではないだろうか。
「空飛ぶ車」にしても、「エアカー」みたいなのが、ドラえもん的レトロフューチャーに大昔から存在していて(バックトゥザフューチャー2の空飛ぶパトカーもカッコ良かったが)、「何十年も昔に描かれていた未来」の話をしないと、「年配の偉い人が理解できずに裁断できない(予算が下りない)」という話なのであろうと思う。結局、任天堂的に、「一歩遅れの技術+独自の高度なノウハウ」でやっていくのが日本的な落としどころなのかも知れない。
なので、というわけでもないが、今回の大阪万博で、イタリアが海外パビリオンでは初めて起工してくれた、とあるし、基本的に、「(相手を信頼して)お任せします」でいいと思うのだが、「テクノロジー(技術)ありき」というよりも、「あなたのお国で未来に残したいものをアピールしてください(お国自慢してください)。料理でも、歌でも、ダンスでも、工芸品でも。お任せします」くらいの肩の力の抜き具合で良いような気はする。
大体、「テクノロジー(技術)」を主体にすると、似通う場合も多くなっている気もする。 ドローンとか、AI、VRとかその辺になるだろうし、最新技術なんて展示するわけもなしで、「カルチャー(文化)」の多様性を主体にしていった方が「本場の~が見れる、食べれる、聴ける」ということで、女性、及び、お年寄りの動員数も増える気はする(それに釣られて(若い)男性数も増えるのでは)。
個人的には、アメリカも別に、月の石よりも、アメリカ南部の家庭料理でも振舞った方が、お互いのためになると思うけどね(「アメリカの牛を食え」という話ならば、「本場のステーキ食わせろや」となるだけの話なので(その上で、「霜降り和牛は最高だ」でも良い)、シンプルと言えば、シンプルだと思うんだが)。
好きにアピールしていただければ、本場のオペラでも、ミュージカルでも、見たい人は山ほどいると思うし(円安だしね。国内で見れるのは大きい)、リピーターになる人はなるだろう。日本人に「うちの国に観光しに来てください」と言うならば、逆に、「なぜ、ここでアピールしないんですか?」という話にもなる。
被災に遭った「石川県の特産品展示・販売」も大変いいと思うし(基本的に全都道府県やるべきだと思うが)、「大阪"食い倒れ"万博」にでもした方がよほどお互いのためのような気もする。
正直、パビリオンに力を入れなくてもいいと思う。歌と料理が楽しめれば、最悪仮設テントでもいいのではないか。ただでさえ人手不足なのに、気の毒な建築関係者を叩けば結果が出るのか。
まあ、私の場合は、本気で怒っているわけでもない(大阪人でもないので)。 逆に、大阪出身の人にこういう話をしたら、あくびをされたくらいだ。 このくらい説明しないと理解できない気もするが、興味のない人からすると、"Not my bussiness"くらいの話なんだろうなあ、と思った。
で、もう記憶の彼方に行ってしまったし、軽く検索しても出てこなかったのだが、ガルパンの水島監督が、「アニメを作るならば、まず、ミュージックビデオを作れ」みたいなことを言っていた(ような気がした)。
絵と音がシンクロしてタイミングがピッタリと合うとマジックが起こったように目が引き付けられるし、確かに、アニメのキモはそこなんだろうと思う(踊ってみた(ダンス)動画のキモもそこだと思うしな)。 下の動画も、基本的に、すごく低コストな作りで、歌詞を加工表示して、一枚絵をゆらゆらさせたりする感じなんだが、Adoの歌唱力が突き抜けているので、見入ってしまう感覚はあった。
【Ado】unravel 歌いました
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なぜ万博から、低コストなミュージックビデオの話に飛んだのかを説明すると。 まず、AIのお陰で、謎のIT企業Nvidiaがひどく景気がいいという現実がある。Nvidia製のGPUがAIに活用されて、テクノロジー・ドライバーとして業界全体を牽引しているから、当然と言えば当然の話だ。
ただ、「テクノロジー・ドライバー」という考え方自体、「規模の経済」的であり、「あまり日本企業と相性が良くないのではないか」というのが自分の考えだったりする。
「使いこなし」とか、「工夫」とかの職人技で試行錯誤して何とかしていく世界の方が日本人の性に合っているのではないだろうか(仏教的と言えば、仏教的な話ではある。大昔に「一休さん」のアニメがあったが、あれも「とんちバトル」であった。大枠では、仏教は「知恵の宗教」だと自分では思っている)。結局、マクロ的な「兵站の重要性」というのは日本人は理解し切れていないのだと思う(「小田原城攻め」を支えた石田三成が大河ドラマの主人公になっていないのがその証拠だ(切腹するときまで絵にならなかった人らしいが)。結局、「華」的なものに惹かれてしまう)。その代わり、ミクロ的に偏執病的に(ニュアンスを)突き詰めていく方向ではないかな、と思う(その結果としての少年漫画の「とんちバトル」、そのアンチテーゼとしての「葬送のフリーレン」、と言ったところだろう)。
全然関係ないが、「葬送のフリーレン」の(第2期ではなく、第2クール目の)OP「晴る」のサビの部分について。 (フリーレン自体の話は保留)
『葬送のフリーレン』ノンクレジットOP(第2クール)/OPテーマ:ヨルシカ「晴る」/毎週金曜よる11時放送
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サビの部分で、なぜ登場人物へのカメラを切り替えながらの戦闘シーンがあって、おんぶシーンが一つだけ挟まるか。もちろん、サビの部分の盛り上がりに合わせて、画面を盛り上がらせる、という意味合いもあるのだろうが、結局、魔法使い同士の魔法バトルというのは、「(魔法使いにとっての)晴れ舞台」という意味合いがあるのではないか。ワンポイント的におんぶシーンが入るのは、「(春は恋の季節という意味合いでの)春」ということかなと思った。当然、歌が先に作られてそれに合わせてOPの絵面は作られているので、アニメスタッフの寄り添い力というか、解釈力・解読力も恐ろしい限りだ(一目では分からないと思う)。考えてみれば、流行歌はラブソング(恋愛ソング)が主流であって、そう見えなくても、そういう解釈もできる、みたいな歌も多い。それが悪い、というわけではないが、じゃあ、そういうファクターの無い、「唱 (Show)」と「アイドル(Idol)」のヒットというのは面白いな、と思った。もう、問題の主眼が「恋愛ではない」みたいな?(今更の話か)
まあ、要するに何が言いたいかというと、「テクノロジー・ドライバー」に対する「カルチャー・ドライバー」みたいなものがあってもいいし、「未だに大阪万博に(技術を牽引する)テクノロジー・ドライバーとしての機能を期待する」みたいな雰囲気があるってどうなの?的なモノもあるし、「国内の文化力を豊かにするためのカルチャー・ドライバー」として機能させた方が、まだ理解できる、という部分もあるし、そういう万博関連の流れに無力感やバカバカしさを感じているセンスのある優秀な人は、華を突き詰める、という意味で、機動力に富み、一人にあたりでも何十回も再生されるようなミュージックビデオを「(ネット文化を牽引する)カルチャー・ドライバー」として機能させて、成功を目指した方が話が早いのかもしれない。そもそも、ニコニコ動画もボーカロイドのミュージックビデオが多大な役割を演じている訳であって、これも当然と言えば当然なのかもしれないが。
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amigocd64 · 1 year ago
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癖の強さと才能
Giga - Beyond the wayをうたいました (Self Cover)
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まさか、Giga本人のセルフカバーが言及直後に来るとは思わなんだ(他の曲もいきなりセルフカバーは来てないし)。 誰もいないへんぴなところで、「王様の耳はロバの耳!」と叫んだら、本人が聞いていた感がすごい。
その上で、「ここは私の単なる吐き出し口で、自己満足用のメモだ(敬称も略しているし)」と言っても、言い訳感がすごい。
……まあ、いいや。どちらにせよ、よっぽどのことは言えないという話だし、「口は禍の元」という訳だ。 確かに、「有言実行」ではなく、「不言実行」が最強だが、「言いたいことも言わずに行動する」事自体、自分にはなかなか難しいことだと思った。溜めてしまうと、動けなくなる。
とは言え、単なる呪詛だと、呪詛返しを食らって、うぐぐぐぐ……となる訳だし、逸らした言い方で、世の中の富を大きくする方向で動いた方がいいのだろう。ただ、「誰も傷つけずに」というのは難しい(すでに以前の記事で、ヨルシカファンから多少の不興は買っているだろうし)。
その上で、セルフカバー論だが、下の記事での言い方が荒かった部分がある。
[再掲]歌い手はUtaiteになれるか?
具体的には、下の部分。
"そして、そのことで、本人が本人自身の作家性の枠組みの中で歌う100%の曲を120%にしたりすることもできるのではないかと思った。"
ここは、(個人用メモなので)めんどくさかったので、こういう言い方をした(あるいは無意識に手を抜いた)のだが、ちょっとのことで人間関係というものは悪くなるし(経験談)、ここはオタトーク的に、解像度をもう少し上げて語るべきことだったのかもしれない。
簡単に、映画「ONE PIECE FILM RED」の例で示すと、個人的に以下の三曲はセルフカバー版も聴いたので、多少は語れるとは思う。
逆光・Ado版(映画本編版)。
【Ado】逆光(ウタ from ONE PIECE FILM RED)
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逆光・Vaundy版(セルフカバー)。
逆光 - replica -
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Adoが「歌い方を寄せている」というのは、すでに指摘したし、方々でも指摘されているが(「悲しみを穿つほどゥ↓」のような下がり方とか)、「両方それぞれ良い」という意見が、主流だと思う。 ただ、単なる一般論だが、Vaundyは、「作家としての尖り具合が異常だったから世に出れた」と思うし、だからこそのアクの強さがあって、癖の強い声をしていると思う。
これに対して、「そこが良いのだ」という人もいれば、「自分にはちょっと合わない」という人もいると思う。 Ado版は、その辺の臭みが弱まって、もう少し大衆ウケする味付けがしてあると思う(こういう言い方が正確であるかは微妙だが。一般的に、女性らしい華やかさがある方が分かりやすいのではないだろうか。ただ、Ado自身の声は、「ワイルド感(野性味)がある」と評されるように、中性気味だと思うし、そこが「格好いい女性」観とつながって、ウケている部分もあるんじゃないだろうか。男性が中性気味の声を出すと、「なよっとした感じ」になってしまい、評価が分かれてしまうが。「究極の歌声」を目指すと、中性気味になる部分もあるのかもしれない(これも、弁証法的ではある)。あるいは、��に、「可愛い声」を突き詰めれば、初音ミク的(幾田りら的?)にならざるを得ないし、「男性的な歌声」のイデア的な何かもあると思う(海外のロックバンド的な?))。
次。
私は最強・Ado版(映画本編版)。
【Ado】私は最強 (ウタ from ONE PIECE FILM RED)
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私は最強・Mrs. GREEN APPLE版(セルフカバー)。
I’m invincible
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「私は最強」については、「セルフカバーの方が上」という声もちらほらあったが、ボーカルが男性で、歌唱力の点で男性とは思えない高音の伸びがあり、「離れ業」具合で、「セルフカバーの方が上」という理解を個人的にはしている。 ただ、Ado版でも、Mrs. GREEN APPLE味(のアクの強さ?)に押され気味との評も見た(気がした)。
この点については、個人的には理解し切れていないのだが、あえて言えば、「思想性の違いの葛藤」の部分はないかな、と思った。
Mrs. GREEN APPLEは、バンド名が大体、ナンセンスジョーク的で(もしかしたら、Mr.Childrenリスペクトも入っているかもしれないが)、ポストモダン味がある(蛇足ついでに言えば、「緑黄色社会」というバンド名も大概だと思うが、時流に逆らった博打を打って勝つ人もいるから、世の中面白いのだと思う)。
個人的な憶測だが、Mrs. GREEN APPLEはすごい「陽キャ」で、リベラル的な人たちなのだと思う。 「私は最強」の後半の「お花畑脳」的な展開でもそんな雰囲気はある。
一方、Adoは、自称「陰キャ」で、「メンヘラ」だが、「ファッション陰キャ・ビジネス陰キャ」ではなく、本物っぽいな、とほぼほぼ確信に至ったのは、下の動画を見てからだった。
Aishite Aishite Aishite
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偏見も入るかもしれないが、果たして、「陽キャ」の人がここまでやるか?と言ったら、ここまでやらない……というか、「音楽性の違い」でバンドが分裂しそうな話ではあるな、と思った。
なんというか、「ここまでやるか」というか、「ここまでやらないとお金を貰ってご飯を食べて生活していけないのか」という感じが掠めたのは私が単なる一般市民だからであろう。
「これくらいでいいだろう」ではなく、「ここまでやるか」的なオーバークオリティ感がないと、突出できないのではないか(埋もれるのではないか)的な部分もある(後述もするが)。
で、何が言いたいかというと、「陽キャ」が作曲して、「陰キャ」が歌う、という弁証法的構造(とその葛藤)がこの曲の一番面白いところではないか、と思った。
そういう意味では、(声質から?)Adoは椎名林檎と比較されがちのような気もするが、椎名林檎というシンガーソングライターは、椎名林檎という枠組みに囚われている、とも言えるし、楽曲から、立ち振る舞いまで、「椎名林檎」というキャラクターを演じている部分もあると思う(本人も「ビジネス右翼」と言っていたような。記憶違いだったら申し訳ないが)。で、その枠組みを超えるための東京事変というバンド活動であったり、コラボであったりがあるのだろうと思う。
Adoは組む相手の思想性を問わないので(相性の良し悪しは多少あるかもしれないが)、「相手が何者であれ、ただ、全力でぶつかっていくしかない」的な?
我ながら、「弁証法的構造」の一本やりではあるが、結局、自分はそこに落ち着くんだな、と思った。(ただ、少子化問題一つとっても、男性と女性が部分的に戦いながらも協力しないと解決は難しいと思うしな……)
次。
ウタカタララバイ・Ado版(映画本編版)。
【Ado】ウタカタララバイ(ウタ from ONE PIECE FILM RED)
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ウタカタララバイ・FAKE TYPE版(セルフカバー)。
FAKE TYPE. "ウタカタララバイ" MV
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この曲も「両方それぞれ良い」という意見が、主流だと思う。 ただ、一般論的に、女性的華やかさがあるAdo版の方が一般ウケはしそうではある(調子の狂ったディズニーミュージカル感が割と真に迫っていると個人的には思った)。しかしながら、「超高速ラップ」でお馴染みのこの歌も、本職ラッパーの作者本人が歌うと、不思議と(やや)ゆったり目に聴こえる。じゃあ、最高速まではいかないまでも、普段の曲はどれくらいなのか、と見てみると。
FAKE TYPE. "真FAKE STYLE" MV
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確かに無茶苦茶早い。というか、下の動画では、コンテストまでやっていた。
"真FAKE STYLE" 歌ってみろ選手権結果発表!!!
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とにかくレベルが高い。 なんでそんなに歌えるんだお前ら、みたいな。 が、確かに、優勝者の人が頭一つ突出しているように聴こえた(私のような素人耳でも分かるくらい)。
しかしながら、「普通に上手い人がそこら辺にゴロゴロいる」としか思えない。 こういう人たちがざらにいる中で、「学芸会」や「お遊戯会」が許されるのか、と個人的には思う。 で、「突出するにはどうすればいいのか」という話になって、「本人なりのやり方を見出していく」ということになるのだろう(その中には、「オーバークオリティ感をどう出していくか」という部分もあるだろうし、「オーバークオリティ感が当たり前」になってきたら、それこそ、「世界に打って出るべき」という話になると思う)。
ハードウェアとソフトウェアの違い、アトムとビットの違いの一つは、「いかに量産物を作るか?」という物質の世界では、オーバークオリティは悪しきオーバーヘッドだが、CDやDVDという物質にも囚われなくなったデータの場合は、コピーは簡単にできるわけだから、一品物でも最高の品質を作った方が勝つる(※ネット用語)ということである。
そして、データのコピーし易さ故に、ライブの価値は上がる。
とは言え、トップダウン側の権限が限定される以上、ヒットチャートにある程度の恣意や作為も入っているのは当然ともいえるが、ネット出現以前よりも遥かに腕前だけで食える時代になったのも確かだと思う���
ここから葬送のフリーレン論に繋げていっても良かったが、そろそろ切り上げたいのでやめておこう。
結論としては、Giga本人の「 Beyond the way」のセルフカバーを聴いてみて、「やっぱ、癖ツヨ気味だな」と思いつつ、「だがそれでいい」とも思うのだった。
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amigocd64 · 1 year ago
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手を変え品を変え楽しませていく道
まあ私自身は基本的に音楽のアーリーアダプターでもないので、最先端の流れまでは掴んでいないし、そこまで労力を割こうとは思わないが、下の記事で指摘した流れというのは現在進行形で進んでいるようだ。
[再掲]歌い手はUtaiteになれるか?
「Beyond the way」はGiga作曲、q*Left作詞で、やはり、一緒に動画を作り上げた他の担当のクリエーター達の名前もクレジットされている。動画公開は2024/01/06。映像に日本語で歌詞が組み込まれているのは、今でも続くFlash文化からの名残だろうな……。
Giga - Beyond the way ft.Miku・Rin・Len【MV】
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発注元のSEGAの動画。 動画公開は2023/12/08。Vivid BAD SQUADというユニットがあるらしい。女子高校生ユニット「ViVids」と男子高校生ユニット「BAD DOGS」の混合チームだそうだ。
Beyond the way / Vivid BAD SQUAD × 初音ミク
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歌い手グループ版1。動画公開は2024/01/28。
Beyond the way / Giga【Hanon&Kotoha&konoco&Gom】
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歌い手グループ版2。動画公開は2024/02/27。 他にもカバーはあるが、これはさっき、YouTubeのおすすめで出てきたので。
Beyond the way 歌ってみた【あらき×nqrse×めいちゃん】
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英語カバー版。動画公開は2024/01/29。
Beyond The Way (English Cover)【Will Stetson x @NiaMoni x @amiaryllis 】
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すでに国際的な動きというのは起こっていた訳で、結構自分の読みも当たっていた(ということにしておこう)。 「持ち味の違う男女混合の(歌い手の)グループ」という点で新しい試みなのだろう。
で、その前段階として、下の曲があった。動画公開は2020/09/30。
Giga - 'Ready Steady' ft. 初音ミク・鏡音リン・鏡音レン【MV】
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Adoも含めた三人の歌い手によるカバー。動画公開は2023/07/28。
【Adoと吉乃と弱酸性】Ready Steady 歌いました
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そのライブ版(2023/09/17)。動画公開は2024/01/23。これに対する批判でAdoがコメントしていた訳だ(ようやくつながった)。しかし、ライブの時点で「歌い手の国際化戦略」という狙いに気が付いていた人がいたらすごいと思う。
【LIVE映像】Ready Steady 横浜アリーナ 2023.9.17【Adoと吉乃と弱酸性】
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個人的には、作り手側としては、「Ready Steady」に対する批判があったからこそ、「Beyond The Way」という強烈な曲をぶつけてきたのかな、と思った。
結局、エンタメの敵は「飽き」なのであるから、「男性が作曲で、女性が歌い手」というシンプルな分かりやすい弁証法的構造���楽曲を崩していかなければいけない局面もあるだろうし、観客の反応に傾けつつも、そのアンチテーゼとして、男女混合グループによる複雑化にせよ、シンガーソングライターという枠組みに戻るにせよ、あるいは男性/女性同士で組むにせよ、「女性が作曲で、男性が歌い手」という構造にするにせよ(この例は少ない気もするが)、グルグルグルグル手を変え品を変え楽しませていく道だろうな、と思った。
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amigocd64 · 1 year ago
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[再掲]歌い手はUtaiteになれるか?
The Top 10 Reaction Videos That Made My Year in 2023
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結局、Adoは「唱 (Show)」越え、YOASOBIは「アイドル(Idol)」越えが当面の目標とならざるを得ないのではないか。 そういう意味でも、「唱 (Show)」と「アイドル(Idol)」は対比させて語るべきであろう(今回は語らないが)。
音楽ディレクターであるTonyは、メインストリームの音楽にも目端を利かせているだろうが、自分のYouTubeチャンネルでは、アニソン/ゲームミュージック/ボーカロイド界隈といった実験場的機能も大きいニッチ分野を主として取り上げている印象がある。
メインストリームの弱体化とニッチ分野の拡大化といった世の中の流れの変化もあるだろうし、彼自身、「多様性」を重んじているということなので、結果的にそうなったのかも知れないが。
自分としては、音楽というジャンルをそこまで重視していなかったが、「名脇役」のニーズは思った以上だった。 確かに、下の動画で語られているように、「音楽は万能でもなければ、生活必需品でもない」とは思うが、「(必要な時に)寄り添ってくれる」くらいの感覚なのかも知れない。
ONE PIECEの黒ひげ声優・大塚明夫が語る!音楽や演劇の正体とは?
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その点で、Adoのサクセスストーリーというのは「やや出来すぎている」気がしないでもない(特にAdoという名前が「音楽の本質を突いている」という点において)。
"名前を「Ado」と命名した後に、狂言でアドがシテを支える脇役だということから、「歌で誰かの人生を支える脇役になれたら」という意味を後付けしています"
また、映画「ONE PIECE FILM RED」において、Adoの演じるUTAバージョンとセルフカバー版を聞き比べてみると、UTAバージョンは、シンガーソングライターあるところのセルフカバー版に歌い方を寄せている、つまり、「作者の作家性に寄り添う」歌い方でありながら、自分なりの解釈も加えている。そして、そのことで、本人が本人自身の作家性の枠組みの中で歌う100%の曲を120%にしたりすることもできるのではないかと思った。
様々な所で言及されているが、この「憑依力」や「解釈力」は、(感情表現の弱い)ボーカロイド曲をカバーしてきたことで培ってきたものだろう(他方で、人間離れしたアクロバティックな歌唱力も)。
そういう意味では、上記の特徴は、Ado特有のものでもなく、「(ニコニコ動画で発生した)歌い手」と呼ばれる人たちにも共通するものではないか、と思う。
つまり、ニコニコ動画は、歌手/アーティスト/シンガーソングライター/ボーカルと言われてきた歌を歌う役割の人を「歌い手」として、再定義した。あるいは、脱構築した。さながら、ゼルダの伝説がBoTWで、「ゼルダの当たり前を見直す」というコンセプトの元で作られたように。
例えば、葬送のフリーレン2期のオープニング曲、ヨルシカ「晴る」も、(Adoよりも先輩の歌い手である)ココル原人のカバーの方が個人的には心に響くものはあった。 「晴る」は、ドイツ語のヒンメル(勇者の名前)と掛けているだろうが、「春」にも掛けているだろうし、つまり、生命力の象徴として、千年生きたエルフのフリーレンとも掛けているのではないかと思う。 そういう意味で、サビは、(春の喜びに満ちて)元気よく歌ってもらいたい部分もあったのでよりしっくり来た感じがあった。
『葬送のフリーレン』ノンクレジットOP(第2クール)/OPテーマ:ヨルシカ「晴る」/毎週金曜よる11時放送
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葬送のフリーレン - '晴る(Haru) / ヨルシカ(Yorushika)' COVER by ココル原人 | Cocolu Genjin
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Adoは現在ワールドツアー中のようだが、後々には、「歌い手(Utaite)」という概念が英語として通用するくらいになれれば面白いな、と個人的には思う。まあ、メインストリームの壁は厚いだろうし、肩に力を入れすぎずにチャレンジャーとして気長にやっていった方がいい気もするが。
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amigocd64 · 1 year ago
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ゲーマーの魂
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やはり、ゴブリンスレイヤー二期のオープニングをフルで聞くと、かなり共感する部分があった。 「やる夫スレのネタにはもったいない曲だ」という指摘ももっともだが、個人的にはかなりゲーマーの魂に肉薄している部分があると思う。
他の曲も何曲か聞いてみたが、刺さる人にはかなり刺さるっぽい。 YOASOBIも「作品読解力で勝負している」部分があるが、Miliもボーカロイドと関連深いので、そういうボトムアップ的な文化の延長線上にあるものかもしれない。
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