歯ブラシは捨てた
「迎えにきて」と言う声はアルコールがしたたっているみたいに酔っ払っていた。
「京介。たのむ」
「いや……知りませんよ」
寒い夜で、携帯に向かって答えながらマフラーに鼻先を埋めた。おねがい、とバカみたいに甘ったるい声が聞こえ、俺は足元の石ころを蹴飛ばした。
「酔ってるんすか」と聞くまでもないようなことを聞き、先輩は「酔ってない」とお決まりの答えをする。「酔ってない、けど、ぐるぐるする」
ぐるぐるする。俺の一番下の妹だってもう言わないような語彙を、いったいどこから引っ張り出してきてるんだこの人は。
「先輩、俺いまデート帰りなんで。勘弁してください」
「ええ、マジ?」先輩の声はへらへら笑っている。「じゃデートの話聞かせにこいよ。今だれとつきあってんの」
「先輩の知らない人」というのは本当だったが、デート帰りというのは嘘だった。すいません嘘です、と言うタイミングを計りつつ、電話の向こうの沈黙を期待している俺の葛藤を知りもしない先輩は、「角の居酒屋にいるから」とあっさり言い残していきなり電話を切った。俺は携帯をポケットに突っ込んで、誰も見ていないのに、これ見よがしなため息をついた。でもそれより先に足は勝手に方向転換をして、行き先を自宅からよそに変えていた。つまり、バカなのはこっちってことだ。
「角の居酒屋」とは、出水先輩が一人暮らしをしているマンションの、通りを隔てたはす向かいのチェーン店のことだ。出水先輩は中にいて、ひとりでテーブルに突っ伏しかけていた。先輩、と声をかけると目が合ってうれしそうな顔をするわりに、「おせーよおまえ」と文句を言う。
「どんだけ飲んだんすか」
「うーんまあ、けっこういっぱい……」と言いながら、半分ほど残っているジョッキの持ち手をつついている。顔がほてっているのが見るだけでわかる。先輩は酔うとすぐ赤くなるのだ。
「いい加減、酔っ払って電話してくるのやめてもらえませんかね。それも、俺にばっかり」
「や、こないだは佐鳥にかけたんだけど」
眉間に力が入るのがわかったが、先輩はもう俺のほうを見ていなかった。
「でも佐鳥出なかった」
「それで、今日は俺?」
「うん、佐鳥でもいっかと思ったけど、あいつ来ないし、やっぱおまえじゃないと……」
答える先輩のまぶたがだんだん落ちてくる。これはもうだめだな。うんざりした気持ちが腹の底から湧いてくるが、ひとまず会計を済ませようと伝票を手に取った。注文されたグラスの量は、俺から見れば「けっこういっぱい」ではないが、先輩の酒量としては多すぎた。鞄が見当たらなかったのでぐにゃぐにゃしている先輩のパンツのポケットに手を突っ込んで財布を探す。頭のすぐ横から、先輩の息の量多めの吐息が吐きかけられる。舌打ちをした。
酔っ払いを半ば担ぐようにして、なんとか先輩のマンションまで連れていく。先輩がくしゃみをしたので、巻いていたマフラーを貸してやった。濃紺のマフラーは先輩には似合わなかった。
ドアの前で鍵を探すのにまたポケットを探ると先輩がうなりながら下半身をもぞもぞさせたので、玄関前に捨ておきたい衝動と戦うのに苦労した。やっとの思いでドアを開け、崩れ落ちた先輩の靴を脱がしてやっているあいだに出水先輩は一度正気を取り戻したらしく、目を開いて俺を見た。
「京介?」ほぼひらがなの発音だった。
「京介ですよ」と答えてやると先輩はにこっと破顔した。高校生だったころとまったく同じ笑い顔だった。何も言えない俺が先輩の靴のかかとに指を突っ込んだまま固まった、その一瞬で先輩はまた寝た。ベッドまでは引きずるしかなかった。
先輩の部屋はけしてきれいではないが、ごちゃごちゃしているからこその居心地のよさがあった。そう言い訳をしてずるずると居座ったのは一度や二度じゃなかった。前に来たのがいつだったかは簡単に思い出せるけれど、思い出さないように気をつけた。そのくせ記憶と変わったところがないか探してしまう。知らない写真だとか、出水先輩の趣味っぽくない小物とか、あるいはベタに二本目の歯ブラシだとか、そういうものはどこにもなかった。顔だけ洗って、ベッドに戻る。出水先輩は眠っている。かわいいなと思った。バカな先輩はかわいい。
先輩もバカな俺をかわいいとか思ってるんだろうか。それじゃバカップルじゃないか。もうずいぶん前からカップルじゃないのに。
先輩の隣に潜り込んで目を閉じる。枕から出水先輩のにおいがした。
翌朝起きてきた出水先輩は、ぼさぼさの頭をさらにぼさぼさにかきまわしながら俺を見て、「おまえさあ」と言う。
「手、出せばよかったのに」
「それ佐鳥にも言ったんすか」
「は? 佐鳥? なんで?」
本当にわかってない顔をするので、「なんでもないです」で済ませる。
「酔っ払い相手に手なんか出しませんよ」実際は出そうとしたのだが、早々に寝入っていた出水先輩が、なにをどうしても起きなかったのだった。そうとは知らない出水先輩は、朝食に卵を焼いている俺の背後にぴったりくっついてくる。出会ったときはほとんどなかった身長差は、成長の止まった先輩を俺が追い越す形でどんどん広がり、今は先輩の小さな呼気が俺の首筋に当たるくらいになっている。ベーコンとかないんすか、と聞こうとして振り返る。出水先輩の顔が思ったより近くにあった。まつげが触れあいそうな距離まで先輩が近づいてくる。そのまま数秒静止してから、ちょんとくちびるがくっついた。先輩の目を見たかったけれど、近すぎてピントが合わない。
「いまって俺たち別れてますよね」
「別れてたらちゅーしちゃいけねえの?」
「ちゅーとか言うのやめてください」
「おまえ好きかと思ったんだけど」と先輩が小首をかしげるので、「いやまあかわいいすけど」と答えたら笑われた。
「そんなだからつけ込まれんだよ」と先輩が言う。「シャワー浴びてきたらどうですか」と俺が言う。「朝飯つくっときますから」焦げかけている卵を救うためにフライパンに向き直る。先輩は俺の言うことを無視して、きちんと乾かさなかったせいで半ば濡れている俺の髪を弄んでいる。
「おれら、いつ別れたんだっけ」
「最初に別れたのは三年前ですね」
「そん次は?」
「七ヶ月前」
「だんだんこらえ性なくなってきてんな、おれたち」
「先輩、皿出して」
ぺたぺたいう足音が背後を離れていく。白い皿を二枚俺によこして、先輩はリビングのカーテンを開けにいった。
「結婚でもしましょうか」
「だれとだれが?」
「俺とあんたが」
「なんで?」
カーテンの開く音がして、部屋にさっと光が満ちた。冬の低い太陽が先輩の髪を透かして、毛先がきらきら光っている。
「別れたりまたつきあったりするの、疲れません?」
卵をきれいに皿にのせて、リビングに運ぶ。先輩は散らかったテーブルをいい加減に片付けながら「ベーコンも焼いてくれりゃよかったのに」と言った。
「つーかおまえ、今の相手はどうすんの」
「そりゃ、別れることになるでしょうね」
「けっこう冷たいね、おまえ」
あんたに言われたくないとは言わなかった。トースターがチンと音を立てたので立ち上がる、そのタイミングで先輩は、「疲れるなら来なくていいよ」と言う。焦げたパンを手に振り返っても目は合わなかった。傷ついた顔をする先輩はかわいい。俺が傷ついていることを無視する先輩を、何年も前からずっと好きなままでいる俺は、先輩からどう見えているのか、何年も経つのにずっとわからないでいる。卵の上にトーストを放り出すと先輩は嫌な顔をして俺を見る。ざらざらした手で頬に触れて、ちゃんとキスをした。
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「おまえら最近どうなってんの」と太刀川さんが言った。太刀川さんはソファにひっくり返ってだらだらしているところで、おれは向かいのソファでみかんをむいていた。今日は任務もランク戦もないので、作戦室にいるのはおれと太刀川さんのふたりだけだ。
「おまえらって、だれとだれですか」
「おまえと烏丸だよ」と太刀川さんはあっさり言って、「ほかにだれかいるか?」とつけ足した。ほかにって、ほかにもそれなりにいる(いた)ことは太刀川さんだって知っているはずだ。昨日だって、ほかのだれかと別れたばっかのとこだったし。振られたやけ酒だったし。とは、もちろん口に出さなかった。
「なんか、結婚でもしますかって言われました」
「へえ。いつ?」
「いや、しないですよ」
「違う。言われたのいつだよ」
「それは今朝」
「ふうん」
聞いてきたわりにちっとも興味のなさそうな相槌を打って、太刀川さんはぼんやり天井を眺めている。もっとも、おれだって太刀川さんが真剣に相談にのってくれるようなタイプだったら、最初からこんな話はしていない。おれと太刀川さんのあいだにあるテーブルの上には、隊長が月イチで出さなきゃいけない報告書が投げ出してある。つまり、太刀川さんはこれをやりたくないがための時間延ばしをしているわけだ。
「あいつもけっこう一途だよなあ」
全然そんなふうには思えなかったが、面倒なので「そうですかねえ」と言った。視線の先ではソファに引っかかっただれかのジャージ(もしかしたらおれのかもしれない)がずり下がってきて、太刀川さんの頭にバサッと落ちた。太刀川さんがそれをまたソファの背にかける。勢い余って反対側へ落ちたが、気にするようすもない。
だって、おれと別れて先に恋人をつくったのは京介のほうだった。
京介と最初に別れたのはどうしてだったか。たぶん理由があったはずだがよく覚えていない。もうダメだな、と思���たことだけははっきり記憶していて、それを京介に告げると案外聞き分けよく「わかりました」と頷かれたのだった。京介が大学に進学した春のことで、桜がよく映える晴天の日だった。それがまたあいつが背負うとやたら絵になるのだった。京介のことがどんなにイヤになっても、たぶんこいつの顔を嫌いになることはないな、とそのとき思って、それは今のところ当たっている。
ぼんやり考え込んでいると、太刀川さんが「それ食わねえの」と顎をしゃくった。みかんをむいていたことをすっかり忘れていた。
「一個ちょうだい」
「かなりぬるくなっちゃいましたけど」
「いいよ別に」
半端に残っていた皮を取り終えて、太刀川さんが差し出してきた手の上に一房のせた。自分でも口に入れる。甘い。
「おいしいですか」
太刀川さんは頷いて、また手を伸ばしてくる。今度は三つ手のひらに置いてやる。太刀川さんはそれをいっぺんに食べている。みかんの汁が報告書にちょっとかかったことに気づいたが、どうしようもないので放っておいた。
冷蔵庫からもう一つ出してこようかと思っていると、太刀川さんがだしぬけに「結婚しないの」と言った。
「しないですよ。だいたいあいつまだ二十一だし」
「じゃあいくつになったらすんだよ」
「ええ……ていうかなんでするの前提なんですか。やだよ」
「おまえあいつとしか結婚しなさそう」
「結婚しなさそうとか、太刀川さんには言われたくないかも」
「失礼なやつだなおまえ」
「だって太刀川さん、全然変わんないんだもん。初めて会ったときから」
二十五になった太刀川さんが、二十二になったおれを見て、「おまえの大好きな太刀川さんのまんま?」と、バカみたいなことを言う。おれは思わず笑った。返事がないことを、太刀川さんは気にしない。そういうところが、確かに前々から好きだった。
別れた理由は覚えていないのに、京介がおれの知らないだれかとつきあいだしたと、最初に聞いたときの気持ちなら覚えている。今はもう慣れたけどあのときは、飲み込めない鉛みたいなものが、のどに引っかかって苦しかった。自分が傷ついたことを認めるのに一年かかった。ようやく認める気になって元鞘に収まってから、いつだったかつきあっていた相手の歯ブラシをおれの家で見つけた京介がぼそぼそと文句を言ってきたので、「おまえだっておれと別れてさっさと次いってたじゃねえか」と言ってやったことがあった。それを聞いた京介はますますいじけた顔になって、「先輩のほうが先だったでしょ」と言った。あれは、どういう意味だったんだろう。
「出水」
名前を呼ばれて顔を上げる。太刀川さんはいつのまにか立ち上がっていた。電灯が太刀川さんの表情を影にしている。くっきりしたのどぼとけだけが妙に目についた。
ごつごつした手がおれの口元に伸びてくる。それを黙って見つめたまま、心持ちゆっくりまばたきをした。
太刀川さんのかさついた指がくちびるをなぞった。おれは逆光になった太刀川さんの顔からくちびるを目で探している。キスをしたことが一度だけあるくちびるだった。あの日太刀川さんは酔っていて、ぬるぬるしたアルコールの味がした。
「みかんの汁��いてた」と言って太刀川さんの指が離れた。「はあ、どうも」とおれが言い終わる前に太刀川さんはまたソファに戻っていった。
それから結局みかんを二つ食べて、太刀川さんがようやく重い腰を上げて報告書にとりかかるのを見届けてから、作戦室を出た。ドアを閉めてすぐ京介が壁によりかかっていることに気づいて、思わず「うわ」と声を上げてしまう。
「うわとはなんすか。失礼な」
「おまえなにしてんの」
「先輩を待ってました」
「中、入ってくればよかったのに」
「太刀川さんいるでしょ」
「いるからなんだよ」というのには答えず、京介は勝手に並んで歩き出す。そこから、本部を出るまでどちらも口をきかなかった。
外に出て、コートの前をきちんと留めなおしていると、京介が「別れて来ました」と言った。
「それ言いに来たの?」
「そうです」
「別に、おれ関係ないし。好きにすれば」
「関係なくないでしょ」と言って京介はじっとおれの目を見つめる。今朝のやりとりを思い出しそうになって、おれはため息をついた。歩き出すと、京介はやはり当たり前のように隣に並ぶ。
「おまえ、今おれとつきあってなくてよかったな」
「なんでですか」
「そしたらもう今朝の時点で別れてた」
「プロポーズの返事がそれって、さすがにショックすね」
見上げた顔はいつも通り飄々としていて、そんなふうにはまったく見えなかった。京介のポーカーフェイスは今に始まったことではないが、長いつきあいなのだから多少は見分けがつくのだ。
なにもこたえずにいると、京介の手が伸びてきておれの手を掴んだ。横からおれのようすをうかがう気配を感じたけれど、わざと無視した。
「なんか高校生のときみたいすね」
「高校生のときにこんなのしたことねえだろ。だれと勘違いしてんだよ」
「冗談すよ」
「どうだか。イケメンは信用できねえ」
「先輩をだれかと間違うわけないじゃないですか」
京介の手は冷たかった。「先輩、手あったかいすね」と京介が言った。おまえの手が冷たすぎるんだよと思ったがなんとなく黙っていた。夜の道を歩きながら、おれは太刀川さんとキスをしたのが、京介と別れる前と後のどっちだったかを考えていた。
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昼休みに佐鳥と大学の食堂でメシを食っていると、俺の背後に目をやった佐鳥が「あ、出水先輩だ!」と叫んだ。せんぱーい! と元気よく手を振る佐鳥につられて振り返ったら、ちょうど出水先輩が食堂に入ってこようとしているところだった。先輩は俺を見てあからさまに顔をしかめ、次の瞬間には踵を返して出ていってしまう。
「えっ、無視されたんだけど……」
行き場をなくした片手を上げたままの佐鳥が哀れだったので、「おまえじゃなくて俺を無視したんだと思う」とフォローを入れておく。
「そうなの? また出水先輩と喧嘩してんだ」
「喧嘩……」
あれは喧嘩なのだろうか。先週最後に会ったときのことを思い返す。手をつないでも嫌がられなかったことからして、怒っているわけではないはずだ。話の続きをするのが嫌なだけだろうから、喧嘩ではないような気がするが……。考え込む俺をよそに、佐鳥は能天気にカレーを食べながら「早く仲直りしなよ」と言う。
「佐鳥ならどうやって仲直りするんだ」
「オレ? そんなの素直に謝るしかなくない? あ、怒らせちゃったんだったら好きなもの買ってって機嫌とったりとか」
「なるほど」
「とりまるはいつもどうやって仲直りしてんの」
聞き返されて、かけうどんを啜りながら考える。一番大きな喧嘩と言えば、二度目につきあっていたとき、出水先輩の部屋でいい雰囲気になったちょうどそのとき太刀川さんから電話がかかってきて、出水先輩が当たり前のようにその電話に出た(そしてその後俺の相手を一切してくれなかった)のに端を発するやつだ。出水先輩の太刀川さんに対する敬愛、と言うと聞こえがいいけれど、正直に言えば俺はあの二人のあいだにもっと生々しいものがあるように感じていて、そのへんの疑念をぶちまけたら先輩はめちゃくちゃ怒った。その喧嘩がどう終結したかというと、面倒になった俺がセックスに持ち込んでうやむやにしたのだった(なのでその話は俺の中では終結していない)。
ということは佐鳥には言えないので、「まあなし崩しに」とだけ言う。
「なし崩し……」
半笑いでカレーをかきまわしている佐鳥に向かって、通路の向こう側から佐鳥くーんとうれしそうに名前を呼びながら手を振っている子がいる。ぱっと全開の笑顔になった佐鳥が手を振り返すと、それで満足したのかさっさと去っていく。相変わらず広報の仕事をしている佐鳥は顔が売れているので、大学構内でもこういうことはままあった。
「モテモテだな」
「そういうんじゃないし。とりまるに言われても嫌味っぽいんだけど」
カレーの続きにとりかかりながら佐鳥が口を尖らす。おまえにそういう顔をされても。
「出水先輩以外にモテても意味ないんだよな」
「出水先輩にもモテてるじゃん」
そうだろうか。うどんの最後の一口をすすり終えて考える。モテていたらプロポーズをして以来避けられるということにはならないのではないか。
「でもとりまると出水先輩って不思議だよね」
「なにが」
「だってタイプ全然違くない? 最初聞いたときびっくりした」
「そうか?」
「そうだよ。ていうかとりまるはさ、だれに告白されてもぜんぶ断ってたから、あーそうだったんだ、と思ったけど、出水先輩のほうがちょっと意外。とりまるなんだ! っていう。なんかもっとわかりやすくカワイイ子が好きそうな気がしてた。オレの勝手なイメージだけど」
残ったカレーをスプーンできれいにすくうのに夢中になっていた佐鳥は、俺が黙り込んでいるあいだしばらく顔を上げなかった。ようやく食べ終えて俺の顔を見た途端に、口をへの字に曲げる。
「ちょっと、そんな顔しないでよ。そういう意味で言ったんじゃないんだから」
「そんな顔ってなんだ」
「変な顔してる」
「おまえに言われたくない」
「ひどくない!?」
昼休みも終わりに近づいていたので、笑いながら食器を片付け、食堂を出たところで佐鳥と別れた。思い出して「おまえ酔っ払った出水先輩からよく電話くるのか」と聞くと、佐鳥は「それ聞かれると思った! 出たことないからねオレ!」と叫んでばたばたと去っていった。
電話がかかってきたのはどうも一度だけではなさそうだ、と考えながら講義室へ向かう。途中で携帯が震えた。バイト先からで、シフトにミスがあり今日は休みにしてほしいとのことだった。好都合だ、と思って足取りが軽くなる。
俺の鞄の中には自分の家だけでなく出水先輩の家の鍵も入っている。一度も使ったことがないので、出水先輩は渡したこと自体を忘れているのだろう。食堂で無視された意趣返しに、講義をすべて終えた俺が勝手に家に上がって、帰宅した先輩に「おかえりなさい」と言ってやったら、先輩はぎょっとした後に案の定「あー、合鍵……」と呻いてうなだれた。
鍵を返せと騒ぐ先輩をなだめすかしてベッドに連れ込む。先輩は流されやすいし、それ以上に俺に流されるのが好きなところがあるので、それはそう難しいことではなかった。
お互い一回ずつ出したころには先輩は鍵のことは忘れてしまったらしく、「いまっておれたち別れてんだよな」とぶつぶつ言っていたが、一度軽くキスをしたら静かになった。それから、「おまえにとって結婚ってなに?」と、気だるげに、どっちかというと投げやりに言った。
「家族になりたいとか、一緒に住みたいとか、そういうこと?」
「一生一緒にいたいってことです」
余韻でまだぼんやりしている先輩の顔をじっと見つめる。先輩はちょっと目を瞠ってから困った顔をして、でも「それは無理だと思う」とはっきり言った。
「二回つきあって二回ともダメになっただろ」
「そこはその、三度目の正直ってやつすよ」
先輩は俺の言い分を無視した。「だいたい、結婚したからって別れないわけじゃねえだろ」
「それくらいは俺だってわかってます」
汗の浮いた胸元に頬を寄せた。弛緩した先輩のからだはなんの反応もしなかった。耳を押し付けると先輩の心臓の鼓動がした。
「でも普通につきあってるよりは、別れるハードル高くなるでしょ」
「……そんな理由なの」
「そんなって」先輩が身じろぐ気配がしたので、軽く体重をかけて抑え込む。「俺にとってはかなり大事なことなんすけど」
「おれは」ベッドに投げ出されていた出水先輩の手が緩慢に持ち上がり、おれの頭の上に着地する。くしゃくしゃになった髪をくしけずる手つきがいやにやさしい。
「どうせまた別れんなら、もうつきあわないほうがいいんじゃねえかって思ってる」
胸の奥が痛みそうなのを、奥歯を噛んで堪えた。
「つきあわなきゃ、別れることもないし。おまえも疲れなくていいだろ」
「疲れるって言ったの根に持ちすぎじゃないすか」
「うるせーな。つうかおまえいつまで入れてんだよ」
「もう一回してもいいすか」
返事を待たずに揺さぶると、先輩が小さく息を吐いて悩ましげな顔をする。腰が重たくなったけれど、「とりあえずゴム替えろ」と先輩がかかとで俺を蹴ったので、しぶしぶ抜いて手早くゴムを付け替える。改めて先輩の中に入れながら、「俺は、別れてるあいだも先輩とつきあってるつもりでしたよ」と言ってみる。頬を上気させながら先輩は「いやちょっと意味がわかんねえ」と言う。
「じゃあおまえ浮気しまくりだったんじゃねえか、ふざけんな」
「え、そこなんすか」
眉間にぎゅっと皺を寄せて先輩が俺を見上げる。「出水先輩、俺のこと大好きじゃないですか」
「バカ、京介、おまえ……」だんだん荒くなる息をなんとか整えようとする先輩の、ひくつくのどぼとけに噛みつく。中がいっそう締まるのと、「知らなかったのかよ」と出水先輩がかすかに笑うのは同時だった。それだけで俺は達してしまって、先輩は「早すぎ」と言って、今度はもっとわかりやすく笑う。俺はなにも答えられないで、先輩の眦にたまっていた涙を黙って舐めとった。
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あれ以来、京介はおれの家に入り浸っている。おれの家からバイトや大学や玉狛支部に出かけて、終わったらおれの家に帰ってくる。なんだか知らないが、渡したっきりすっかり忘れていたあの合鍵を、今になって使うことに決めたらしかった。京介は家族を大事にしているから、つきあっていたときでさえ外泊をすることはあまりなくて、だいたいいつも実家にきちんと帰って寝ていたのに。本人が言うにはそろそろ一人暮らしをすることを考えていたらしい。一人暮らしじゃねえけどな。おれの家だから。
今日も起きたらいきなり京介の寝顔が目に飛び込んできた。影ができそうなほど長い睫毛はもとより、口が半開きになっているのもまぬけで、見ていて楽しい。血色はいいし隈もできていないのはなによりだけれど、くちびるがちょっとカサカサしている。あとでリップクリームをやろう、と思いながら、起こさないようにそっと京介をまたいで、ベッドを下りる。バイトや大学や防衛任務に忙しい京介のスケジュールをおれは全然把握していないので、寝ている京介のことは放っておくことにしていた。カーテンを開けるのも後回しだ。
顔を洗ってからテレビをつけた。京介を起こさないように音量を絞って天気予報を見る。カーテンのすきまから見えているのは曇り空だけれど、昼くらいから晴れてくるらしい。しばらくスマホをいじりながらだらだらしていたものの、空腹が限界になってきたので観念して立ち上がる。冷蔵庫の中身がすっからかんなのは見るまでもない。
ソファに置きっぱなしにしていたパーカーを着ているところで京介が起きてきて、ぼんやりした顔で「おはようございます」と言う。
「おはよ」と答えながら、財布を部屋着の尻ポケットに突っ込む。
「どっか行くんすか」
「ちょっとコンビニ。朝飯なんもねえから」
「俺も行きます」
「買ってきてやるけど」と言ったのに、「ちょっと待っててください」と京介は洗面所に消えた。すぐ戻ってきたところを見ると本当に顔だけ洗ったらしい。普段からもさもさの髪があちこち跳ねたままだった。
部屋を出てエレベーターを待っているあいだ、たまたま当たったと言えなくもないくらいの自然さで、京介の右手がおれの左手に触れた。知らん顔をしていると、ゆるゆると指先が絡まってくる。コンビニまでは歩いて3分もかからない。通勤や通学にはちょっと早い時間だったので、人通りはあまりなかった。
「今日の予定は?」
「午後から大学行きます」
「ならもっとゆっくり寝てりゃよかったのに」
「先輩は?」
「おれは夕方から防衛任務」
買い物かごにおにぎりやらカップ麺やらを適当に入れていると、京介が「野菜もちゃんととったほうがいいすよ」と言う。顔を顰めて野菜ジュースを手に取るおれを見て、京介がわざとらしくため息をつく。
「なんだよ」
「いやべつに」これ見よがしにコールスローを持ってきて、おれのかごに入れる。
「先輩、普段コロッケで野菜とってるつもりじゃないですよね」
「バカにしてんのか?」
レジに向かおうとして、ゴムがなくなりかけているのを思い出した。京介は方向転換したおれの後ろをついてきて、おれの見ている商品に気づくと「朝からなに買ってんですか」と仏頂面で言う。
「なに? 照れてんの?」
「いや照れてはないです」
「そういやおまえ歯ブラシ買ったら」
「あるじゃないすか」
「おれと同じ色のやつだろ。あれどっちがどっちかわかんなくて紛らわしいんだよ」
「俺はべつに間違っても構わないんで。……すいません嘘なんでドン引きするのやめてもらえますか」
「おまえの冗談わかりづらい」0.02ミリのゴムと、ピンクの歯ブラシを加えておれが会計をするあいだ、京介はレジ横でおとなしく待っていて、店を出たらまた手をつないできた。気まぐれにぎゅっと手を握ってみたり、力を抜いてみたりする。だんだん京介の手がぽかぽかしてくるのがわかる。家に着いて手を離すと、京介はちょっと顔を顰めておれを見た。
「かわいいことするのやめてほしいんですけど」
「おまえっておれがなにしてもかわいいんじゃないの?」
「いつからそんなかわいくないこと言うようになったんすか」
「かわいいのかかわいくないのかどっちなんだよ」
マグカップにインスタントの味噌汁をつくって、ソファに並んで腰を下ろす。ようやく開けたカーテンの向こうはもう青空になっていて、花粉がよく飛びそうな天気だと思った。京介が器用におにぎりのフィルムをはがす。それからじっとおれが見ているのに気づいて、食べるのをやめないまま首を傾げる。なにも答えずにいると京介がキスをしようと顔を近づけてきたので、寸前で顔を逸らした。
「先にリップクリーム塗って」
「ええ……」
「くちびるガサガサだと痛いからやだ」
不満げな京介が腕を伸ばしてバッグをつかみ取り、リップクリームを本当に探し始めるので、おれはケラケラ笑った。
「そんなにしてえの」
「したいですよ」
「かわいいな」振り向いた京介のくちびるはつやつやになっていて、よく見るとくちびるからはだいぶはみ出しているような気がした。京介はおれが持ったままだったマグカップを引っ繰り返さないようやさしく両手を添えて、それからキスをした。
「あのさ」
「はい」
「最初のうちはこうやってなかよくやれんのに、なんでいっつもダメになんのかな」
おれの手に触れていた京介の指がちょっとこわばるのがわかったので、また指を握ってやる。
「……なんでですかね。俺が聞きたいんですけど」
「今っておれたちつきあってる?」
「俺はそのつもりでしたけど」
「おまえのそういう、言わなくてもわかってるでしょって態度がおれ、けっこうイヤ」
「先輩が毎回俺を振るのってそのせいですか?」
寝癖がついたままの京介が薄く笑った。指の腹でおれの手の甲をゆっくり撫でる。傷ついたのを誤魔化すことばかりがうまくなってしまった、と気づくたびにおれも少しかなしくなる。
「わかんねえけど、おまえの一番嫌いなとこってそこ。肝心なこと言わないだろ」
そうすかね、と答える声は穏やかで、ちゃんと怒ればいいのに、と思う。おれはたまに京介をめちゃくちゃ怒らせたくなるときがある。いつだったかおれと太刀川さんの仲を怪しんできたときみたいに、あれは本当にとんでもなくバカげた勘違いだと思ったけど、でもあのときみたいにちゃんと言えばいいのにと思うことがある。くちびるを軽く噛んだら京介のリップクリームの味がした。
「……玉狛に転属したときだって、おれには言わなかった」
虚をつかれた顔で京介が瞬きをする。口に出した傍から後悔して、慌てて立ち上がった。背を向けたけれど当然京介はついてくる。
「いや、言ったでしょ」
「言われたけど! あれはただの報告だっただろ」
京介は二歩でおれの前に回り込むことができて(背が高いだけじゃなくて足も長くてムカつく)、おれの顔を覗き込む。とっさに俯いてまだカップを持ったままだったことに気づく。底にちょっと残ったお湯と、溶け残った味噌と、へばりついたワカメが見えて、情けなさに喉がぐっと鳴る。
「相談したほうがよかったですか」って、そんなやさしい声を出すなよ。
「いや……うちの隊辞めたのをどうこう思ってるわけじゃないけど。相談されたかったわけでもないけど、おまえ、大事なことはいつも一人で勝手に決めるじゃん。おれならわかってくれるとか思ってんのかもしんないけど」ここまで言って、なんだか余計なことまで言いそうになったので口を閉じた。
「そういうふうに見えてます?」
「見えてる」
京介はしばらく黙り込んでから、おれの持っていたマグカップを奪って、台所へ持っていった。少し爪の伸びている京介の裸足が遠ざかっていくのを見てようやく顔を上げる。京介と目が合う。
「俺は先輩の、言わなくていいこともなんでも言っちゃうとこがたまに嫌いですけど」
「おい」
「でも肝心なこと言ってくれないのはそっちも同じじゃないすか。別れ話する前にそういうの言ってくれたらよかったのに」
「……あのときは言ってもしょうがないと思ったんだよ」
「じゃ、今話してくれてんのは、見込みがあるってことでいいんすかね」
「おまえなんでそんな前向きなの?」
呆れて笑うと京介は至極まじめな顔でおれに手招きをする。手の届くところまでおれが寄っていったら抱き込まれて、京介の顔がおれの肩口に埋もれた。もさもさの髪の毛がくすぐったい。
「先輩、俺が太刀川隊やめたとき、ショックでした?」
「まあちょっとは」
「唯我とすぐ仲良くやってたくせに」
「おまえ唯我にまで妬いてんの?」
冗談かと思ったのに、京介は黙っておれの肩に頭をぐりぐりさせているので、もしかすると本気なのかもしれない。面倒くさいやつ、と同時に、かわいいなとも確かに思うので、おれも大概バカなのだった。
「俺も、先輩に振られたときショックでしたよ」と小さな声で京介が言う。子どもをあやすような気持ちになって背中をぽんぽん叩いてやった。
「じゃあ次はおまえがおれを振っていいよ」
京介が勢いよく顔を上げた。不機嫌そうなわりに顔がちょっと赤らんでいて、おお、となんだか感動する。中学生だったころならともかく、最近はめっきり見なくなっていた顔だった。怒っているくせに照れている。
「あんた、ほんとに」
言いかけて口を閉じて、への字に曲がった口のまま頬にかじりついてくるので、おれはいよいよ声を上げて笑った。
「でも先輩がプロポーズはぐらかそうとしてることはわかってますからね」
「あー、バレてたか」
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あさの約100冊
エラリー・クイーン/オランダ靴の謎
エラリー・クイーン/ギリシャ棺の謎
エラリー・クイーン/エジプト十字架の謎
エラリー・クイーン/災厄の町
エラリー・クイーン/十日間の不思議
エラリー・クイーン/九尾の猫
パット・マガー/四人の女
パット・マガー/七人のおば
有栖川有栖/ダリの繭
有栖川有栖/スイス時計の謎
北村薫/空飛ぶ馬
北村薫/鷺と雪
宮部みゆき/ステップファザー・ステップ
宮部みゆき/心とろかすような マサの事件簿
宮部みゆき/ぼんくら
宮部みゆき/我らが隣人の犯罪
宮部みゆき/小暮写眞館
今村夏子/星の子
三浦しをん/風が強く吹いている
サリンジャー/ライ麦畑でつかまえて
サリンジャー/フラニーとズーイ
サリンジャー/ナイン・ストーリーズ
カズオ・イシグロ/わたしを離さないで
ウィリアム・アイリッシュ/幻の女
堀江敏幸/雪沼とその周辺
綾辻行人/十角館の殺人
ローラ・インガルス・ワイルダー/大草原の小さな家
島田荘司/占星術殺人事件
サマセット・モーム/月と六ペンス
絲山秋子/袋小路の男
彩瀬まる/あの人は蜘蛛を潰せない
西加奈子/ふくわらい
西加奈子/炎上する君
谷崎潤一郎/春琴抄
佐藤多佳子/しゃべれどもしゃべれども
田牧大和/花合せ 濱次お役者双六
千早茜/あとかた
津村記久子/この世にたやすい仕事はない
津村記久子/ミュージック・ブレス・ユー!!
加納朋子/ななつのこ
朝井リョウ/もういちど生まれる
瀬尾まいこ/卵の緒
瀬尾まいこ/あと少し、も���少し
庄司薫/赤頭巾ちゃん気をつけて
本谷由紀子/嵐のピクニック
小川洋子/猫を抱いて象と泳ぐ
中島京子/小さいおうち
辻村深月/ぼくのメジャースプーン
辻村深月/スロウハイツの神様
円城塔/これはペンです
川端康成/眠れる美女
三崎亜記/バスジャック
飛鳥井千砂/はるがいったら
吉田篤弘/針がとぶ―Goodbye Porkpye Hat
梨木香歩/春になったら苺を摘みに
川上弘美/センセイの鞄
中山七里/さよならドビュッシー
桜庭一樹/私の男
恩田陸/夜のピクニック
時雨沢恵一/アリソン
江國香織/流しのしたの骨
山崎ナオコーラ/昼田とハッコウ
東野圭吾/悪意
冲方丁/光圀伝
最果タヒ/死んでしまう系のぼくらに
森絵都/風に舞い上がるビニールシート
司馬遼太郎/燃えよ剣
北方謙三/三国志
角田光代/八日目の蝉
近藤史恵/にわか大根
いしいしんじ/トリツカレ男
いしいしんじ/麦ふみクーツェ
木原音瀬/美しいこと
西川美和/ゆれる
米澤穂信/遠回りする雛
アガサ・クリスティ/春にして君を離れ
ハリイ・ケメルマン/九マイルは遠すぎる
多和田葉子/百年の散歩
サン=テグジュペリ/人間の土地
穂村弘/本当は違うんだ日記
ミヒャエル・エンデ/モモ
中勘助/銀の匙
ボリス・ヴィアン/日々の泡
古谷田奈月/リリース
長嶋有/ねたあとに
皆川博子/開かせていただき光栄です
桜庭一樹編/江戸川乱歩傑作選 獣
ネイサン・イングランダー/アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること
トルーマン・カポーティ/ティファニーで朝食を
ジョン・ディクスン・カー/火刑法廷
ジョン・ディクスン・カー/皇帝のかぎ煙草入れ
クリスチアナ・ブランド/招かれざる客たちのビュッフェ
シャーリイ・ジャクスン/ずっとお城で暮らしてる
カレン・マクマナス/誰かが嘘をついている
フランシス・ハーディング/嘘の木
Roald Dahl/The Witches
Louis Sachar/Someday Angeline
ジル・チャーチル/ゴミと罰
ルシア・ベルリン/掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集
佐藤亜紀/スウィングしなけりゃ意味がない
ジェフリー・ディーヴァー/ウォッチメイカー
リアーン・モリアーティ/ささやかで大きな嘘
藤野可織/ピエタとトランジ
サラ・ウォーターズ/荊の城
M・W・クレイヴン/ストーンサークルの殺人
ドロシー・L・セイヤーズ/学寮祭の夜
シャーロット・マクラウド/納骨堂の奥に
P・J・トレイシー/沈黙の虫たち
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