Tumgik
bearbench-tokaido · 9 days
Text
五篇 追加 その八
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 参詣の途中、腹が痛い弥次郎兵衛は医者に産月と勘違いされる。
医者が勘違いしていることに気がついた北八が指摘すると、 「そのようじゃ。こりゃ、わしが間違いじゃわいの。 しかしなんなら、貴様もその血の道にしておけば同じ薬で済むから面倒でなくていい。どうじゃな。」 と医者が言う。 「なるほど。こりゃお医者さまのおっしゃるとおりだ。 弥次さん、おめへも血の道にしておいたらいい。」 と北八が、弥次郎兵衛の方を見てニヤニヤしている。 「とんだことをいう。男に血の道があってたまるものか。」 と弥次郎兵衛は、あきれている。
医者はいやがるのも無理はないかと思い、 「いやいや他の病気を診るのも、わしの勉強になる。 いったい貴様は何病じゃ。」 と弥次郎兵衛に問う。 「はい。私はさっきから、腹が痛くてなりません。」 「たぶんそりゃ、腹の内側が痛むのじゃろ。」 と医者が言うので、弥次郎兵衛も素直に、 「はいおっしゃるとおり、腹の外ではございません。」 と答える。 医者は、 「そうじゃあろ。これこれ女中さん。 供のものに薬箱を持ってこいと言うてくだんせ。」 と言う。
「はいはい、かしこましました。」 と女中が、供のものを探すがみあたらない。 「いやもし、お供の人は見えませんわいな。」 「見えんはずじゃ。連れてきていないのだから。 ほれ薬箱は自分で、持ってきたわいの。」 と自分で下げてきたふろしき包みを開くと、薬箱を取り出す。 女中はその様子に、 「おお、おかし。あなたは藪のなかで、竹のさじを使うてじゃわいな。」 と言うのを聞いて北八は、ぴんと来た。 「はあ、わかった。藪医者だから、竹のさじをおつかいなさるんだ。 それにあなたのお薬ぶくろには、絵が描いてございますが、これはどういたしたことでございますね。」 と、北八が聞くと、医者は、 「いやそれを聞かれるとめんぼくないが、生まれてこの方手習をいたしたことがないさかい。」 と顔を赤くしている。
「ははあ、あなたは無筆じゃな。」 と北八が言うと、医者は、 「さようさよう。全然、字が読めぬ。 だからそのように、薬の名を絵に描いておきますじゃて。」 というのを北八が、面白がって聞く。 「これはおもしろい。それなら、その道成寺の絵はなんでございます。」 「これは、娘道成寺の芝居で有名な慶子になぞらえて、桂枝(けいし)じゃて。」 北八に問いかけられた医者は、答える。
「閻魔大王は、多分大黄(だいおう)だろうが、この犬が火にあたっているのはなんでございます。」 「狆(ちんと読み、犬のこと)が火にあたっているから、陳皮(ちんぴ)。」 「では、この産婦のそばに小便しているのは?」 「産婦(さんぷ)の側で、しし(小便のこと)をしているので、山椰子(さんしし)。」 「印鑑に、毛の生えたのは。」 「はんこに毛で、半夏(はんげ)。」 「鬼が屁をひっているのは。」 「鬼(き)が屁をこくので、枳穀(きこく)。」 北八は、一通り聞いてしまうと、 「ははは、おもしろい、おもしろい。それでお薬は?」 と弥次郎兵衛のための薬について、医者に聞いてみる。 「これじゃ。」 薬を調合して、弥次郎兵衛に渡してやる。 とそのうち別の部屋が、なにやら騒がしくなってきた。
人の足音がとんとんと響いて亭主の声で、 「こりゃ、こりゃ、おなべやい。産婆を呼んで来い。 それ久助は湯を沸かせ。薬の準備はどうだ。早く早く。」 と騒いでいる。 こちらでは又、弥次郎兵衛がしきりに腹が痛いとうめき出した。 「あいたたた。」 「弥次さん。どうした。」 と北八が、弥次郎兵衛を見ると、 「こりゃ、たまらん、たまらん。病人のそばにはおられぬ。」 と医者はそうそうにげ出して、帰ってしまった。
入れ違いに産婆がやってきたのだが、女中のおなべはうろたえてしまって産婆の手を取り、これへこれへと弥次郎兵衛がふとんをかぶりって寝ているところに連れてきてしまう。 部屋に通された産婆は、 「これはどうしたことじゃ。布団を被ってどうするんじゃ。さあ、おきさんせ。」 と布団をはがして、弥次郎兵衛をひきづりおこせば、 「あいたたた。」 と顔をしかめていう。 産婆は、 「辛抱しなせえ。これそこの人、きれいな布はあるかいな。」 と北八に問いかける。 「あいたたた。」 と弥次郎兵衛は、相変わらず顔を引きつらせている。 「そこじゃそこじゃ。」 とこの産婆も少しうろたえていて、しかも年のせいで目が少し悪くなっており、弥次郎兵衛をすっかり妊婦と間違え腰をふったてひったてする。 「さあさあ、みな来さんせんかいな。これこれ、ここへ来て、誰か腰をだいてくだんせ。さあさあ、早く早く。」 とせきたてる。
これを見ていた北八はすっかりあきれかえりっている。 でもおかしく思い、これからどうなるんだろうととぼけた顔で、弥次郎兵衛の腰を抱いて引っ張ると、 「こりゃ、北八どうする。ああ、痛い痛い。」 と弥次郎兵衛は、顔をしかめたままで言う。 「そないな気の弱いことではならんわいな。ぐっと、息みなさい。」 と産婆は声をかける。 「ここで息んでたまるものか。便所に行く。離せ。」 と弥次郎兵衛が腰を抑えている北八に言うと、 「便所へ行って、どうするんだ。」 と産婆は、とめようとする。 「それでもここで、息むとここへ出る。」 と弥次郎兵衛が言うと、産婆は、 「出るから、息まんせというのじゃわいの。それうんうん。 そりゃこそ、もう頭が出かけた。出かけた。」 と弥次郎兵衛の股を覗いて言う。
「あいたたた。そりゃ、子じゃねえ。 それをそんなに引っ張るんじゃねえ。ああ痛え。腹もあれも痛え。」 と弥次郎兵衛がもがいているのを構わずに産婆は、ぐっと引っ張る。 弥次郎兵衛は、腹を立てて、 「ええい、このばばあめ。」 と産婆のよこっつらを張り飛ばす。 産婆はあきれて、 「これは、発狂したのか。」 と力をこめてかじりつく。 この騒ぎの最中、別の部屋では女房が無事に出産しており、赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。 「おぎゃおぎゃ。」 産婆は、その産声を聞いて、 「そりゃ、生まれたぞ。いや、ここじゃない。どこじゃいな。」 とうろたえまて、ふっと力を抜くと、 弥次郎兵衛はしきりにいたみ、一目散に便所に走っていった。
亭主は別の部屋から飛んできて、 「これこれ、ばあさま、さっきから、尋ねておるにもう生まれたわいの。早く早く。」 とばばを引っ張っていくとどこからか、元気な産声が聞こえてきた。 「めでたいめでたい。三国一の玉のような男の子が生まれた。」 という喜びの声とともに亭主が、ニコニコして座敷にやってくると、 「これは、お客様。おやかましゅうござりましょう。 無事に私の妻は、安産いたしました。」 と言っているところに、弥次郎兵衛が便所から出てきた。
ふうらふらしながら弥次郎兵衛は、 「さてさて、おめでたい。わしも今便所で、思う存分安産したらば忘れたように心よくなりました。」 というと亭主が、 「それは、あなたもおめでたい。」 とニコニコしている。 北八はぽんと手を叩くと、 「お互いに、めでたい。めでたい。」 とこれより喜びの酒を酌み交わして、産婆の間違いやらなにやらかやらを話して大笑いとなる。
本当に、めでたしめでたし。
これで、五篇 追加は終わりです。六篇 上に続きます。
0 notes
bearbench-tokaido · 16 days
Text
五篇 追加 その七
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 上方者と伊勢の参詣をしている。
「で、この橋は宇治橋というのか。」 と弥次郎兵衛が、上方者に問いかけると、 「さよじゃ。あれ、見さんせ。網で金をうけている。」 と言うのでそのほうを北八がみると、竹の先に網をつけて人がなげる金をうけとめている。 上方者が、 「弥次さん、小銭があらばちと貸しさんせ。」 と弥次郎兵衛から金を借りると、さっさっと放りなげる。 下にいる連中は、それをすべて見事に受け止める。 「えろう面白いな。よう受けくさる。もちっと放ってこまそかい。 これ北八さん。お前もちと貸しさんせ。」 と今度は、上方者は北八から金を借りると、さっさっと放りなげる。 「それ又、放るぞ。ははは、えらい。」 また、見事に受け取ったのを見て言う。 「これ、京のお人よ。お前はどうして人の金ばかり取って投げる。 ちっとは、自分の金を投げなせえ。」 と弥次郎兵衛が、言うと、 「よいわいな。お前がたの金じゃててわしの金じゃてて、かわりゃせんわいの。」 と上方者は、平気である。
「そうは言っても、あんまり意地汚い。」 と弥次郎兵衛が文句をいうと、 「まあ聞かんせ。わしがこの前、参宮したときわな。」 と上方者が、話し出した。 「えらいあほじゃあったわいな。ここで、小銭を全部放ってしまったわいの。 あんまり憎い面の奴が、ようけおるさかい。 あの網をやぶってやろうと懐(ふところ)をさぐると、銀貨が一枚あったからつい、放ったらやっぱり網でうけくさったさかい、こりゃどうして銀貨でも、網がやぶけないんだと下に居る奴に聞いてみると、網の目に金とまるとわしをへこましくさったわいの。 ははは、さあいこわいな。」 弥次郎兵衛と北八にはよくわからなかったが、 『網の目に風止まらず』という諺をもじったものである。
なげ銭を 網に受けつつ 往来の 人を茶かす 宇治橋のもと
これより内宮の一の鳥居より四つ足の御門、猿がしらの御門と通り過ぎ御本社にお参りした。 ここは天照皇太神にて、神代より神鏡、神剣をとって鎮座したもうところだと聞いて弥次郎兵衛は、一首詠む。
日にまして 光り照るなり 宮ばしら ふきいれたもう 伊勢の神かぜ
ここに朝日の宮や、豊の宮、河供屋、古殿の宮、高の官、土の宮、その他もろもろあるのだが、その中に風の宮に行く途中に御衣裳(みもすそ)川というがある。
引ずりて いく代か後を 誰思う みもすそ川の 流れ久しき
やはり宮めぐりというのは自然と感涙、肝にめいじてありがたさに真面目になり、しゃれもなく無駄も言はねば、しばらくのうちに順拝が終わって元の道に戻ってきた。 やがて妙見町に帰ってくると、ここにて例の上方者と別れ弥次郎兵衛と北八の二人は、藤屋を昼だちとして外宮へまいることにした。
外宮とはすなはち、豊受太神宮のことで天神七代のはじめになる国常立の尊(くにとこたちのみこと)という神である。 神示の宮、宝刀の宮。 その他にもあまたの末社を巡拝して天の岩戸にのぼりったりした。
そうこうしていると弥次郎兵衛は急に、腹が痛くなってきた。 どうにも我慢が出来ないのでここから、急いで降りると北八と供に近くの茶屋で休んで、丸薬などを飲んでみたのだが痛みはいっこうにひかない。 ここではどうしようもないと広小路に戻ると、休むために宿を借りようかと辺りを見回してみた。 ある旅館の亭主がその様子に声をかけてきた。 「もしもし、お泊りじゃおませんかいな。」 「ああ連れの者が少し腹痛が起きたので、宿を探しております。」 これ幸と北八が亭主に説明する。 「さあ、お入りなさんせ。」 と二人を招き入れると、 「ほれおなべや。奥へお供せんかいや。」 と女中に言いつける。
女中が、 「よう、おこしでおます。」 と二人の前で、座敷に案内する。 「さあ弥次さん。あがんなせえ。」 北八が弥次郎兵衛を支えるように、女中についていく。 弥次郎兵衛は、 「あいたたた。」 と歩くたびに痛いので、顔をしかめている。 「ええ汚い顔をする。お前こりゃ、なんかの罰があたったのだ。」 と北八が、弥次郎兵衛にいう。 「なんだと罰をくう覚えはねえ。たぶん、今朝の飯があたたのだろう。」 と弥次郎兵衛が言うと、後ろを付いてきていた亭主が、 「白米をめったに食べない人がいきなり食べると、当たることがあるそうでおますわいな。」 と心配そうに言う。 北八は亭主が言ったとおり、旅先ではめったにうまいものが食べられないのでそれで、腹の具合が悪くなったのかと、 「ああこりゃ、情けない。さあさあ、奥へ。」 と抱えるように、歩いてく。
弥次郎兵衛は、 「あいたたた。」 といいながら北八の肩をかりて座敷に通ると、そこにとりあえず横になる。 亭主は、二人の荷物を運びながら、 「これは大変でございますな。お薬でもおのみになりましたかな。 ちょうど私の妻が今月、臨月でおましてな。 昨日からちとすぐれませんので今、医者さまを呼びにさんじたが、あなたも見ておもらいなさんせんかいな。」 と言ってくれる。 弥次郎兵衛は、 「それはどうぞ、お願いいたします。」 と横になったまま、言う。 「かしこまりました。」 と亭主は部屋から出て行く。
北八が弥次郎兵衛を見るとしきりに苦しがっているので、 「どうだ湯でも、茶でも、酒でも、飲むか。」 と問うと、 「ばかいうな。あいたたた。無性に腹がごろごろなる。 北八、便所はどこに有るんだろう。尋ねてくれ。」 弥次郎兵衛は腹を押さえている。 「ああ便所か。お前、何処に置いた。それ、その辺りにでもねえか。」 と北八がこんな時にふざけるので、弥次郎兵衛は、 「馬鹿野郎。どうして、便所がそこら辺にあるもんだ。 どこにあるか、見てくれということよ。」 と怒り出す。 「はあ、そうか。どれ、見てやろう。あったあった。 あれ、縁側のさきにおちている。」 と北八がまた、洒落る。 「まだぬかしやあがる。あいたたた。」 とゆっくり立あがると用たしにいく。
そのうち宿の女中がやってきて、 「はい、お医者様がおいでになったわいな。」 と案内してくる。 「さあさあ、これへこれへ。」 と北八が座敷に医者を通すと紋付のこげ茶色の木綿に、黒ちりめんの肩のところが擦り切れている羽織を引っ掛けた禿げ上がった男が入ってきた。 「えへんえへん。これは不順な天気でござる。どれお悔やみを。」 と北八のそばへ座り、北八の脈をみようとする。 北八は手を振り解くと、 「いや、私ではございません。」 と言うのだが、医者は、 「はて達者な人の脈から見なければ、病人の脈がわからんわいの。 まずお前様からお見せ下され。」 と北八の脈をとり、しばらく考えている。
「ははあなるほど、貴様はなんともないようじゃ。」 と言うと、北八は、 「さやうでございます。」 とちょっとほっとしていう。 「お食はどうじゃな。」 医者が更に問うてきたので、北八が、 「はい今朝は、飯を三膳、汁を三杯食べました。」 と言う。 「そうじゃろ。おかずは、一皿に盛ってあったろう。」 と医者が言うと、 「さやうでございます。」 と北八は、神妙に答える。 「そうじゃあろ。そうじゃあろ。この脈の様子では、どこもなんともないようじゃ。」 と医者が、北八の肩をぽんと叩く。 「さやうでございます。」 と北八が、答えると、 「どうですかな。私の行った通りでございましょう。 およそ医は意なりと申して脈をみることで、所見するところが第一でござる。 問題ございませんな。私の用は済みました。これで、お暇いたしましょう。」 と医者は、立ち上がろうとする。
「もしもしまだ、病人を見てもらっておりませんが。」 とその医者に、北八が言うと、 「ああ、そうじゃった。私はかわった癖でとかく病家へまいっても、病人の脈を見ることをどうも忘れてしまう。 しかし見ずとも、なんとなくわかるんじゃがついでに見てしんぜよう。 病人はどれにござる。」 と医者は、そこに座りなおす。 その医者に、北八は、 「はい只今、便所へまいっております。これこれ、弥次さん。 お医者さまが来られた。はやく出なせえ。」 と大きな声で呼ぶと弥次郎兵衛が、便所の中から、 「いやまだ、出られない。 お医者さま、どうぞこちらへいらっしゃってください。」 というので、北八が慌てて言う。 「ええ、めっそうな。お医者さまがそこへいかれるものか。不躾なことをいう。」 「そんなら今出る、今出る。」 と弥次郎兵衛がやっとのことで、便所から出てくると、医者は難しい顔をして弥次郎兵衛の脈をしばらくみていた。
「はは、わかりました。お前さんは、こりゃ生理不順じゃな。 とかく臨月などには、よくおこるものじゃ。」 と医者は、こともなげに言う。 弥次郎兵衛はそれを聞いて、びっくりして、 「いや私は、子供をはらんだ覚えはございません。」 と言うと、医者は、 「ない。懐胎ではないとな。はて、不思議なことだ。 いやこりゃ、私の師匠が悪いんだ。 広小路の伊賀越屋から呼ばれてきたんだが、 『あそこの病人は産月じゃさかい、多分血の道がおこったのじゃあろ。そのつもりで薬を盛るといい』 と、教えてよこしたんじゃ。 そりゃお前のことでは、なかったのかいの。」 それを聞いて、納得した北八は、 「さようでございます。血の道は、ここの奥方のことでございましょう。 この男はそれでは、ございません。」 と、医者に言う。
つづく。
0 notes
bearbench-tokaido · 22 days
Text
五篇 追加 その六
藤屋の亭主と上方者と一緒に、古市へやってきた弥次郎兵衛と北八。
仲居が、残された弥次郎兵衛に、 「さあさあ、お前様、ちとあちらへ。」 と、案内するので、 「どれ行きましょう。どこだどこだ。」 と、いいながら立ち行く。
この弥次郎兵衛いたって見栄っ張りなので、例の醤油で煮たように汚れているふんどしを締めているのが事のほか気にかかり、見られては恥の上塗りだと、ふところから手を入れてそっと外し格子の間から庭に放り出してしまう。 それを誰にも見られていないかと辺りを見回して確認すると、安心して仲居の後に付いてく。
その後夜も更けていき、奥の間の伊勢音頭もおのづからしずまり、旅客のいびきの声が響いてくるだけだ。 そこに鐘の音が七つなって鶏の声も歌い出し、しだいに夜も白みかける。
朝の日差しが窓から差し込んでいるのにおどろき起あがって、目をこすりながら上方者が、 「なんと、もう朝かいな。どれ、いのうわいな。」 と、北八の座敷にやってきて誘う。 北八も起きだしてくると、二人で弥次郎兵衛のところに来て、 「弥次さん日が出た。帰えらねえか。」 と、声をかける。 「やれやれちょっと寝すぎたか。」 と、弥次郎兵衛も起きだしてきた。 「これこれ、今日もいさんせ。」 と、側でおやまの初江が言う。 「とんでもない。今度は、本当に帰る。」 と、みな支度して出かける。
おやまどもも、送りに廊下に出てくると一人のおやまが、格子から何か見えるので覗いている。 「これこれ、あれ見さんせ。庭の松に浴衣がかかってあるわいなあ。」 弥次郎兵衛の相方の女郎、初江が、 「ほんに、取り除いておきなさい。いやじゃいな。誰じゃいな。」 というと、弥次郎兵衛は自分のふんどしがかかっているのかと思って、 「ははあ、こいつはおかしい。三保の松原の羽衣の松じゃあねえ。 ふんどしかけの松とは珍しい。」 と、言ってしまう。 それで北八がよく見てみると、確かにそれはふんどしだ。 「弥次さん。ありゃお前のじゃねえのか。」 初江が何か思い出しように、 「ほんにそれじゃ。お前さんのふんどしじゃないかいな。」 と、弥次郎兵衛の顔を見て笑う。
弥次郎兵衛はさっき、つい喋ってしまったのをしくじったと思いながらも、昨日格子から捨てたふんどしが松の枝に引っかかり、ぶら下がっているのがおかしいと思っていたが、さすがにそうだとも言えずに知らないそぶりで、 「なんて事をいうんだ。あんな汚ねえふんどしを俺がするものか。」 というと、初江が、 「いいや、そうおっしゃても、昨夜わしゃこのお客さんの着物を脱がそうとした時に、よう見たがあないな色のまわしじゃあったわいな。」 と、思い出しながら言う。 上方者も、 「おお、そうじゃあろぞい。」 と、あおる。 「ばかいうな。俺は、木綿のふんどしは嫌いだ。 いつでも、超高級な羽二重をしめている。」 と、弥次郎兵衛は下手な言い訳をする。 「おほほ、うそやの。あれじゃいな。」 初江はすっかりわかってしまったといわんばかりである。 「弥次さん。あれがどうして木綿だとわかる。 それにあんな汚いふんどしに俺も見覚えがある。たしかにあれだろう。 そうじゃないならお前今裸になって見せなせえ。 大名行列の先頭を歩くやり持ちのように、ぶらぶらしているに違いない。」 と、北八が詰め寄る。
初江はこの騒ぎに出てきた男に話しかける。 「そうじゃいな。おほほこれこれ、久助どん。そのまわしはお客さんのじゃ。 取ってくだんせ。」 久助と呼ばれた男は持っている竹ぼうきの先で、例のふんどしを起用に取ると初江のところまで持ってきて、 「さあ、ふんどしがやってまいりましたぞ。 それ、取らんせ。取らんせ。」 初江が、それを摘み上げると、 「おお、臭い。」 と、思わずそこにほっぽり出してしまう。 「ははは。弥次さん、ほれ、拾ったらどうだ。」 と、ふんどしを指差しながら言うと、 「ええ、情けないことという。俺のじゃないというに。」 と、弥次郎兵衛は、そっぽを向いてしまう。 北八が、 「そんなら、お前、前をまくって見せろ。」 と、弥次郎兵衛を捕まえると帯を解こうとする。 弥次郎兵衛はそんな北八から逃れると、そのままにげ出して行く。 皆々は、 「おほほほ。 「わははは。」 と、大笑いして送り出る。
三人とも、ここを立ち出ると、 「ええい、いまいましい。北八が俺に赤恥をかかしやがった。」 と、弥次郎兵衛が北八に言い、 「確かに、松にふんどしがぶら下がったのをみたのは初めてだ。」 と、一首詠む。
ふんどしを 忘れて帰る 浅間山 万金丹が 古市の町
さて妙見町に帰ってきた三人はいい天気なので、急いで内宮と外宮のお宮参りしようかと簡単に支度して、先程の古市の入り口に戻ってきた。 ここには、露天が店をだして、客を呼び込んでいる。
そこに有名なお杉とおたまのような女たちが、やや高い音調の三味線を弾いている。 「べんべら、ちゃんてん。」 しかし、弾き方が無茶苦茶で何の歌かわからない。
行き交う旅人の一人がこの女の顔にお金を投げつけると、うまい具合にそれぞれに顔をふりよける。 それを見ていた弥次郎兵衛が、 「あっちの若い方に、ぶつつけてやろう。」 と、金を二、三文投げるとさっとよけてしまってあたらない。 「べんべら、べんべら。」 と、女らは馬鹿にするようにやたらと三味線を弾いている。 「どれ、俺が当ててやろう。」 と、今度は北八が投げるがやっぱりあたらない。 上方者が、 「いくらやっても、お前がたではどないに放りさんしても、相手は、当てさせるものではない。」 と、言う。
ちょっと考えて、弥次郎兵衛が、 「今度は見てろ。これでどうじゃ。」 「おやおや、あんなでかい物もあたらんか。」 と、弥次郎兵衛が銭をとめている紐ごと投げつけたのを見ていて北八は、 「こりゃ、あんまりしゃくにさわる。」 と、小さな石を拾って投げた。 例の女らはその石を器用にばちで受けるとひょいと投げ返す。 するとその石は弥次郎兵衛の顔にぴっしゃりと、あたってしまう。 「あいたたた。」 と、弥次郎兵衛が顔を抑えるのをみて、 「ははは、こいつは大わらいだ。」 と、北八は笑っている。 弥次郎兵衛は、 「ああ、痛え、痛え。」 といいながら、一首詠む。
とんだめに あいの山とや 打ちつけし 石返したる 事ぞおかしき
また、先に歩いて行くと中之町に着いた。 左の方には本誓寺という勝景の地がありまた、寒風という名所もあるそうだ。 五知の如来や中河原など書こうと思えば、枚挙にいとまがない。
それより牛谷坂道を通りかかると、女乞食が化粧して飾り立てていて行きかう旅人に錢を乞う。 又、他にも、十二、三の女子どもが紙にてはりたる色とりどりの笠をかぶっていて、 「銭おくれ。お江戸さんじゃないかいな。 そこの旦那様。頬かぶりした旦那様。銭おくれ。放うらんせ。」 と、掴みかかってくる。 「やかましい。つくなつくな。」 と、弥次郎兵衛が突き放すと、 「そういわんで、お江戸さんじゃろ。ちと、くだんせ。」 と、乞食が袖をひく。 仕方がないと、北八が、 「ええい、引っ張るな。それ、まくぞまくぞ。」 と、いい加減にばらばらと金をまくと乞食は、めいめいに拾って、 「よう、くだんしたや。」 と、ひとりひとりが礼を言う。
この先に又、七八才ばかりの男の子が白い鉢巻をして、そでのない羽織に膝のところでくくりつけた袴をはいて、手に扇を持って踊っている。 その後ろで編み笠をかぶっている男がささらという、竹を細かく裂いて擦ったり振ったりすることで音を出す物を振りながら歌っている。 「やれ、ふれふれ。 五十鈴川~、ふれやふれや、ちはやふる~。 神のお庭の~、あさ清め。 するやささらの~、えいさらさら、えいさらさ~。 それ、てんじょうじゃ。 ゆかしたじゃ。 やっていきなされ。やっていきなされ。」
北八はふところから金をだすと、 「そりゃやっていかんすぞ。しかも、四文錢だ。」 と、そこに放りだすと乞食が、 「四文ぜになら多すぎる。こりゃぜひ、釣りに三文くだんせ。」 と、いうので弥次郎兵衛が、 「こいつ自分勝手なことを言う。」 と、笑って行き過ぎる。
つづく。
0 notes
bearbench-tokaido · 30 days
Text
五篇 追加 その五
藤屋の亭主と上方者と一緒に、 古市へやってきた弥次郎兵衛と北八。
「こり、いい気分だ。とこれで、私の相方のおやまさん。 名はなんというぞいの。」 と、上方者が隣にやってきたおやまに問いかけると、そのおやまは名前を言う。 「なんじゃ、お弁か。ありがたいの。 誰あろう古市、千束屋のお弁女郎という美しい可愛らしい女の弁才天女様は、儚なくも尊くも京都千本通中立売りよりひょいっと上がる所の、辺栗屋与太九郎さまの相方じゃ。ちと側によらんせんかいの。」 と、上方者は自分勝手な口上を述べて手をとり引よせる。 この上方者は酒に酔うと何でも、丁寧にくどくど言う癖がある。 だんだん、くだを巻き始めた。
弥次郎兵衛は初めに自分のさかずきをさしたるおやまが、自分の相方になるのだと思っていたのだが、上方者が自分の相方のように言い出したのでやっきとなって、 「これ、上方の。そりゃ、俺の相方のおやまさんじゃ。」 と、言うと、上方者は、 「いや、何言わんすぞいの。これ女中のお仲居、お前名は何というじゃ。」 と、弥次郎兵衛の話をはぐらかす。 聞かれた女中は、 「はい、きんというわいな。」 と、答えると上方者は、 「それそれ。古市千束屋の仲居おきん女郎に、京都千本通中立売りよりひょいっと上がる所の辺栗屋与太九郎が、さっき内々に取引しておいたあの美しい可愛らしい弁才天女のお弁女郎というおやまさん。 だから京都千本通中立売りより・・・。」 と、くどくどと話だしたので、弥次郎兵衛が、 「ええやかましい。千本も百本もいるものか。 とにかく最初に俺がさかずきをしておいた。」 と、文句を言う。
と、いうのも江戸では女郎の座敷に通るとすぐにさかづきをさして、相方を決めるのが慣わしだからである。 しかしこの辺りではそのような事はなくただ内々に茶屋の女房か仲居などにささやいて、あれは誰これは誰と相方を決めてしまう。 上方者はさっき番頭を通して仲居と交渉しこの中で一番上等な上物を自分の相方と決めてしまい、残りを弥次郎兵衛と北八の割り当ててしまっていた。 弥次郎兵衛はそんなことは知らないので江戸と同じ流儀かとさかづきさしたるおやまを自分の相方と思っていたところなので、上方者のいいように怒り出したのである。
仲居は弥次郎兵衛をなぐさめて、 「これこれ、あのおやまさんはなこの人さんの相方。 お前さんはこちの嶋田のゆげさんじゃわいな。」 と、言うが弥次郎兵衛は、 「ばかいうな。この中であのおやまが目についたから、それで俺が盃をさしたんだ。 だからわしのおやまじゃないか。」 と、譲らない。
「はてさてわからん人じゃわいの。こなさんはあの江戸はどこじゃいな。」 と、上方者は弥次郎兵衛に問いかける。 「江戸は神田の八丁堀。とちめんやの弥次郎兵衛さまといやあ、ちっとばかり面倒な奴だ。」 「そのお江戸の神田八丁堀、とちめんやの弥次郎兵衛殿というひねくったやつさまが、京都千本通中立売りよりひょいっと上がる所の、辺栗屋与太九郎の相方のおやま、古市千束屋の・・・。」 と、上方者京がまたくだくだとやり始めた。 「ええ、何をぬかしやがる。辺栗屋の与太九郎もあきれらあ。」 と、弥次郎兵衛が横槍をいれる。 「いや、お江戸神田八丁堀とちめんやの弥次郎兵衛どの。 京都千本通中立売りよりひょいっと上がる所の辺栗屋与太九郎を、京都千本通中立売りよりひょいっと上がる所の辺栗屋与太九郎と言えばまだしも、それを京都千本通中立売りより上がる所辺栗屋与太九郎と呼び捨てにさんしたの。 だから、京都千本通中立売り・・・。」 「ええ、やかましい。よく喋る野郎だ。」 と、上方者がまだ喋ろうとするのを弥次郎兵衛は無視する。 「俺は、そんなことよりたいこの間が見たい。たいこの間はどこだどこだ。」 と、今まで黙っていた北八が言うと、仲居が、 「たいこの間とはなんじゃ。つづみの間のことかいな。」 「おお、そのつづみ、つづみ。」 と、手を叩かんばかりに言う。
上方者が、 「いや、つづみじゃろがなんじゃろが辺栗屋与太九郎の相方じゃわいの。」 と、北八に言う。 「おい、ふざけるな。とにかくつづみの間は俺のものだ。 四の五の言わずに支度しやがれ。」 と、弥次郎兵衛も怒っていてなにがないかわからなくなってきている。 藤屋の亭主が、それを聞いて、 「ははは、あの広いつづみの間をかいな。」 と、思わず笑いだす。 「おお、広くても狭くてもいっこうに構まねえ。俺のものだ。」 と、弥次郎兵衛が言うと上方者が、 「いやいや、そりゃささんわい。」 と、言う。
弥次郎兵衛が、 「なに、ささんことがあるものか。 誰が何といっても京都千本通中立売り、とちめんやの弥次郎兵衛さまの相方だ。」 「いや、このお江戸神田八丁堀よりひょいっと上がる所の辺栗屋与太九郎が買うたのじゃ。」 と、上方者が言う。 それを聞いていた、北八が、 「ははは、お前らは何を言ってるんだ。 どうやらどっちがどうだか、さっぱりわからなくなったみたいだ。」 と、笑っている。
仲居がふと気づいて、 「そういえばこのお方は京のお方じゃと言わんしたに、ものいいがいつに間にやらお江戸じゃわいな。」 と、弥次郎兵衛の方を見る。 「うるせえ。この忙しいのに京言葉が使っていられるものか。」 と、仲居にすごむ。 仲居は、ちょっと肩をすぼめたが、 「あんまりお前さんがたが言い争うてじゃさかい、それ見さんせ。 おやまさんがたはみな逃げていかんしたわいな。」 と、周りをしめす。 弥次郎兵衛が、 「いまいましい。もう、帰る。」 と、席を立とうとするので仲居が、 「まあ、ようおますがな。」 と、とりなす。
藤屋の亭主もとりなすように、 「もしこうしよかいな。 これから柏屋の松の間をお目にかけようわいな。 それとも有名な料理屋にでもお供しよかいな。」 と、言うが弥次郎兵衛は、 「いやだいやだ。俺は、帰るぞ。」 と、言う。 藤屋は、必死に、 「はて、よござりますがな。」 と、弥次郎兵衛を止める。 「いや止めるな。いまいましい。」 と、すっと立って帰ろうとする。
仲居も立ち上がって留め立てしよとするのだが弥次郎兵衛は聞き入れず、振り放して出て行こうとするところへ弥次郎兵衛の相方のおやま、初江が出てきた。 「これこれ、なんじゃいし。」 弥次郎兵衛は初江を見てちょっとひるんだが、 「とめるな。よせよせ。」 と、初江の横をすり抜けようとする。 「お前さんはそないに帰る帰るといわんすが、わしがお気にいらんのかいし。」 と、初江は弥次郎兵衛に問いかける。 「いや、そうでもねえが。ええいここを離せ。」 と、弥次郎兵衛は羽織をつかまれて思わず立ち止まる。
初江が、 「なら、帰らんでもいいやいし。」 と、又かけ出しそうにするのを無理矢理に羽織を脱がせる。 「なにをする。俺の羽織をどうする。よこせよこせ。」 と、言って取り返そうとするとかみいれ、煙草入れと次々にとられてしまう。 「やめねえか。俺は帰るんだ。」 弥次郎兵衛はそれでも帰ろうとしているので、初江は、 「強情なお人じゃ。」 と、言いながら帯をぐっと引き解きほどき、着物を脱がせようとする。
弥次郎兵衛は垢じみた越中ふんどしを締めていたので、ここで裸にされたはたまらないとあわてて帯を抑えると、 「わかった。もうかんべんしてくれ。」 と、言うと初江が、 「そじゃさかい、ここにいさんすか。」 「いるともいるとも。」 と、弥次郎兵衛はしかたなく言う。 仲居が、 「初江さん。もう堪忍してやらんせ。」 と、言うと藤屋の亭主も、 「さあさあ、よござります。これへ。」 と、弥次郎兵衛の手を取って、元の場所に座らせる。 「ははは、おもしろい。弥次さん。まさしくこんなとこだ。」 と、北八が一首詠む。
むさくるしい 客も今宵は もてるなり 名は古市の おやまなれども
この一首にみなみな笑いを催し、藤屋の亭主や仲居どもがそこらを片付けて、それぞれに座敷���設け酔っ払って倒れている上方者を引き立て案内し、北八も自分に割り当てられて座敷に行ってしまうと後に弥次郎兵衛が一人残った。
つづく。
1 note · View note
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 追加 その四
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 北八は、髪を直してもらうのだがあまりにきつくつめてもらって、狐のような顔になっている。
北八が飯すら食べられないので弥次郎兵衛が聞いてみると、 「いやなにあんまり髪結の奴がひどく、根をつめていきやがって。 あいたたた。首を動かすたびに、めりめりと髪の毛がぬけるようだ。」 と、北八は喋るたびに顔をしかめる。 「それお前、お汁がこぼれるわい。 あれ、お飯の上にお汁わんをおかんすさかい、あれ、こぼれたわいの。 こりゃもう、手がつけられない。」 と、上方者は細かく注意する。
「弥次さん。すまないがふいてくんな。」 と、北八は首を動かさずに目だけで弥次郎兵衛の方をみて言う。 「わずらわしい男だ。 まったくどうしてまた、うつむかれないほどにそんなに固く結わせたんだ。 もうちょっと、緩くすればいいものを。 お前たぶん髪結をいじめたんだろう。」 と、弥次郎兵衛はふいてやりながらいう。
上方者はそんな様子を見ながら、 「なるほどな。そじゃさかい、そないなめにあわんしたのじゃろぞいな。」 と、うなずいている。 北八は上方者の言い方にむっとしてそちらを向こうとして、 「あいたたた。いやいや、そうじゃないんだが。 もうものを言うのさえ頭に響く。弥次さん、頼むから何とかしてくれ。」 と、又顔をしかめて言う。 「どれ俺がちょっと緩くしてやろう。」 と、弥次郎兵衛は北八の髪のねを持って、いやというほどぐっと引っ張る。 「あいたたた。どうするどうする。」 と、北八は弥次郎兵衛が酷いことをすると怒るが、 「これでよかろう。」 と、弥次郎兵衛が手を離すと、 「ああちょっと、首が回ってきた。 ああ、とんでもない目にあわしやあがった。」 と、首をぐるりと回してみる。
あなどりし 報いは罰が あたりまえ 油断のならぬ 伊勢の神(髪)ゆい
北八は、自らそう詠んで苦笑いする。 はや、膳もすんで一服していると、上方者が、 「そうだ。今夜、これから古市へ行こかいな。」 と、弥次郎兵衛と北八に話しかける。 「まだ、内宮も外宮も参拝してないのにもったいないようだが、ままよ行きましょう。」 と、二人は顔を見合わせうなずく。 それを見ながら上方者が、 「まあ、まかしておきさんせ。 わしゃ、ここらへんでは捨てた金が、千や二千のこっちゃないさかい。 なんぼなとわしが引き受けた。さあ、早う行かんせかいな。」 と、支度を始める。
弥次郎兵衛と北八も支度をしていたが、 「ええ、そんなら俺も髪を整えときゃよかった。」 と、弥次郎兵衛が自分の頭を撫でる。 「御亭さん御亭さん。ちょと来ておくれんかいな。」 と、上方者は自分の支度がすむと声をかける。 「はいはい、御用でおますかいな。」 やってきた宿の亭主に上方者は、 「お江戸のお客が、これから山へのぼろうといいな。」 と、言うと、 「よござりましょ。お供してまいりましょ。」 と、亭主も笑ってうなずく。
ちなみに、妙見町の通り言葉で、古市へ行く事を山へのぼるという。
「あの備前屋か千束亭にしよじゃないかいな。」 と、上方者が言うと、北八が、 「たいこの間とやらは、何屋にあります。」 と、どちらにともなく言う。 「たいこ?」 と、宿の亭主はちょっと首を傾げてから、 「ああ、鼓の間の事かいな。そりゃ千束屋でおますがな。」 と、答える。 そのやり取りに、上方者は、 「そやな、そのちずかやがよござりましょ。」 と、おのおの支度して外を見ると日も暮れていい頃合だ。 亭主に案内を頼んで、三人とも出かけることにした。
この妙見町の隣に古市があり娼家が軒をならべている。 弾きたてる伊勢音頭の三味線���賑やかに聞こえてくる。 その音に浮かれて三人はちずかやに行ってみると、女が数人走り出てきて、 「ようござんした。すぐに、お二階へ。」 と、招き入れる。 藤屋の亭主が、 「三人じゃが、よいかいな。」 と、聞くと、女どもはめいめいに大きく頷いて、 「さあ、ご案内いたしましょ。」 と、亭主を先頭に二階に上がって行く。
さて、座敷に入り、みんなが座ると、上方者が、 「ところで、弥次さん。こうしようじゃないかいな。 お前さんがたを、お江戸でもえらい大きな店の番頭だ、ということにしようじゃないかいな。」 と、言う。 それを聞いた、藤屋の亭主も、 「それは、面白い。そうなさるといいでしょう。」 と、乗り気である。 「しかし、なまらんしては、あかんわいの。 上方に本店があって、江戸に支店を出しているというもんじゃさかい、京言葉でやらんせにゃ具合がわるかろが、どうじゃいな。」 と、上方者は意地悪そうに弥次郎兵衛にいう。 「そんな事は、簡単なことだ。 すっきりと、わしが上方でやらかしましょう。」 と、弥次郎兵衛も乗り気である。
「これこれ、おなごしゅ、ちと、きておくれんかいの。 わしゃなんじゃやら、はや、えろう喉がかわくさかい、茶ひとつ、もて来ておくれんか。」 「はいはい。」 と、女が立っていってしまうのを見ながら弥次郎兵衛が、 「どうだ。京言葉の立派なもんだろう。ははは、畜生めが。」 と、言う。 上方者が、 「いや、すばらしいもんじゃ。うまいうまい。」 と、はやし立てる。 そこへ女連中が、酒と肴を持ってくるとさかんにみんなに勧める。
藤屋の亭主が先に飲むと、さかずきを順番に渡していく。 上方者がこれを受けて、 「これ、お仲居。上方言葉はどうじゃいな。 このお方はな、お江戸のえらいお店の番頭さんじゃさかい、とにかく、おやまさんをいるだけ出さんせ。 お気にいると、百日も二百日も御逗留で、お金の心配は全然おかまいなしのお方じゃ。」 と、女に言う。 藤屋の亭主も、悪乗りして、 「そうじゃわいな。私が去年お江戸に行った時、お店の前を通りましたが、なるほどえらい御大家じゃ。 あなたの御支配なさる方は両替店とみえましたが、これも大きなお店でおますわいの。」 と、いっている。
「なにさ、たいした店ではないわいの。 間口がやっと三十三間あって、佛の数が三万三千三百三十三人ぐらいじゃさかい、まあ、ちょっとは賑かなことかいな。」 と、弥次郎兵衛が適当にほらをふく。 さらに、藤屋の亭主が、 「京のお店は、たしか六条の数珠屋町でございましたかな。」 と、聞いてきたので、 「さいの。私の父母はさぞや案じていさんすやろに、こないにおやまばかり買うてもう、えらい親不孝者じゃ。」 と、弥次郎兵衛は大笑い。
そこまで聞いて女が、 「これこれ。みんな、出てきたら。」 と、奥に呼びかける。 「どなたさまも、ようこそいらっしゃいました。」 と、その声に四、五人出てきて挨拶する。 弥次郎兵衛は、 「ははあ、どれもえらい別嬪じゃな。」 と、おやまを順番に見て言うと上方者が、 「番頭さん。盃をちとあっちゃへささんせ。」 と、千束屋の番頭を呼びつけなにか小声で言う。
弥次郎兵衛は、 「あい、もし、ひとつあげようかい。」 と、出てきたおやまの中でも一番美しいのにさしてニコニコしている。 「おいらは、たいこの間が見たいが、どこだ。」 と、北八が言うと上方者が、 「また、たいこの間といわんす。鼓の間じゃわいな。」 と、そっけない。 それを聞いていた仲居が、 「つづみの間には、これもお江戸のお客さんがたが、抱えの芸者集よせて踊らせてじゃ。あれ聞かんせ。」 と、耳を澄ますと待ってましたといわんばかりに、奥から鼓の間にて踊りが始まったようだ。 三味線の音が聞こえる。 「ちてちれ、ちてちれ、ちちちと、てちれてちれ。」 伊勢音頭の替え歌が聞こえてきた。 「すず風や~、ちりもはらって~、木がくれの~、池にうかべる~、月の顔~、化粧は、里の色々に~、よいよい、よいやさあ。」
上方者が、 「いやあ奥で、踊りを始めおったようじゃ。 こりゃ面白ろなってきた。ちと、おつなものでもやろわいな。」 と、いいだした。 「そうさ、とんだ、おつにうかれて来た。 もう、京談も何も面倒になった。よいよい、よいやさあ。」 と、上方者が扇子を取り出してそこで振り回すので、弥次郎兵衛も箸でちゃわんを叩きながら、 「いよいよ、とてちれとてちれ。」 と、歌い出す。
又、奥の部屋から歌が聞こえてきた。 「目立つ浮名も~、面白き~、やわらぐ歌や三味線に~、足もしどろに立かえり~、またも今宵の~、約束は~、よいよい、よいやさ、とてちれとてちれ。」 「こり、いい気分だ。とこれで私の相方のおやまさん、名はなんというぞいの。」 と、上方者が、隣にやってきたおやまに問いかけると、そのおやまは名前を言う。
つづく。
1 note · View note
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 追加 その三
かごかきのミスで、何処だか知れない場所にきた弥次郎兵衛は歩き回って、いろいろ聞いたのだが何がなにやらすっかりわからなくなってしまっていた。
「さっきから尋ねまわして、もうもう、がっかりとくたびれました。 どうぞ、一服させてください。」 と、言う。 この様子にここの亭主気の毒そうに、煙草盆を下げてくると、 「さあ一服しなされ。いったいお前さんは、どこを尋ねさんすのじゃいな。 みたところ参宮らしいが、お一人か。 あるいはお連れでも、おますかいな。」 と、親切に接してくれる。 「さようで。 道連れは二人あります。私はその連れにはぐれてこんなに、困ったことはございません。」 と弥次郎兵衛は、いいながら煙草を吸い付ける。 亭主はあれっと言う顔で、、 「いやもしかすると、そのお二人のお連れは、お一人はお江戸らしいが今、一人は京のお人で目の上にこのくらいの、出来物のあるお方たじゃおませんかいな。」 「そうそう、鼻くそがついたような。」 と弥次郎兵衛が、上の空で答えると亭主は、ほっとしたように、 「それじゃと、家にお泊りのおかたじゃさかい。 泊まりの手続きを済ましてからすぐに、お前様のお迎えを出しましたわいな。」 と、言う。
ぼおっと聞いていたが、亭主の言うことが次第に飲み込めてきて、 「そりゃ本当か。やれうれしや。 そういえばお前のところの名前は、何屋といいます。」 と弥次郎兵衛が聞くと、亭主は表の看板を指差しながら、 「あれ御らんなされ。掛札に藤屋とかいておますがな。」 と、言う。 「本当だ。そうそう、それそれ。 棚からぶら下がったようだ思ったが、その藤屋よ。 で連れのやつらは、どこにいます。」 弥次郎兵衛が聞くのに亭主は答えて、 「それ奥へ。お連れさまがお出だというてかんせ。」 と言う。
この声を聞いて奥から、道連れの上方者が飛んできて、 「こりゃ、ようございました。 さだめてそこら、尋さんしたであろう。 こちもどんなに尋ねまわったことか。まあまあ、奥へ。」 と、案内する。 弥次郎兵衛は、 「これは、お世話になります。」 と促されるように奥に行く。
実は上方者と北八は米屋の太郎兵衛らの太太講(太太講)について、御師の方へ行っていたが弥次郎兵衛に姿がなくなっているし、周りは知らない人ばかりで手持ちぶさたで弥次郎兵衛のことを、いろいろ聞きまわったのだがわからない。 しかたがないのでその御師の方を出て、尋ねて回ろうかとも思ったが全く当てもない。 そういえばさっき、妙見町の藤屋に泊まると言ったからそうち、ここに尋ねてくるだろうととりあえずここに宿を取って待っていたのだ。 弥次郎兵衛は太太講のかごが、間違った一部始終を面白おかしく語って大笑いとなる。
安心して北八は、髪結を呼びにやり月代を剃ることにした。 月代(さかやき)とは、ちょんまげの額から頭頂にかけて剃る部分のことである。 「まあまあお互いに、命に別条なくてめでたい。」 と北八が言うと、弥次郎兵衛が、 「いやもう、とんだ目にあったというは俺の事よ。 ところで髪結さん。そのあとで俺もやってもらおうか。」 と、北八のをやっている髪結に声をかける。 北八が、 「さきに、湯に入ってきたらどうだ。」 と言うと、 「それなら、そうしよう。」 と弥次郎兵衛は、湯に入りに行く。
北八は、頭をやってもらいながら、 「俺はぐっと根をつめてあるのが好きなんで、しっかりやってくんな。 なんだかこっちのほうの髪は、たるみが出てびんが変に長くて、まったく気の利かない頭つきだ。 それに女の髪もいやに立派で、大きいだけでなんのことはねえ。 筑摩の鍋かぶりというもんだ。」 と、髪結に話しかける。 「そのかわり女はとっとえらい綺麗で、おましょがな。」 と髪結が、北八に言うと、 「綺麗は綺麗だが立って小便するには、閉口する。」 と答える。 それを聞いて、髪結は、笑いながら、 「いやお江戸の女も、大きな口を開けてあくびするのは色気がない。」 と言うと、 「それでもやっぱり女郎は、江戸だ。江戸は意地っ張りだから面白い。 こっちでは誰がいっても同じことで、いやな客を断ることがないから執着が薄くて面白みがないようだ。」 と北八は、京をけなすようなことをいう。 髪結は、ちょっとむっとして、 「いやこっちの方では、お前様のようなお方が遊びに行っても断らんのじゃさかい、それでよいではおませんかいな。」 と、言う。 そのいいように、北八が、 「なんだと、馬鹿にするなよ。本当に。」 「おっと、急に動くと切りますがな。」 と髪結はわざと、危なそうな声を上げる。
北八は、顔をしかめて、 「いや切らなくても、酷く痛い剃刀だ。」 と言うと、髪結は、 「痛いのが当然じゃわいな。この剃刀は、買ってから何年になるか忘れたがまだ一度も、砥いだことがないから。」 と、しみじみと剃刀を見る。 「どういうこった。なぜ、剃るたびごとに研がねえんだ。」 北八は頭を動かして髪結の方を見ると、髪結は剃刀を撫でんばかりに、 「いやそんなに研ぐと、剃刀が減るさかい。 それに人さんの頭が痛いのは、自分とは無関係ですし。」 と言うので、 「どうりでさっきから、痛くて痛くて。 一本ずつ、むしっているようだったわ。」 と北八は髪結から、体を離している。 「なんぼ痛いと言うても、命にかかわる問題でもないがな。」 と、なおも髪を剃ろうとするので、 「ええいそういう問題じゃね。��う、さかやきはいい。」 と北八は、断る。 髪結は残念そうに、 「お前さまは逆剃りは、お嫌いかな。」 と言うと、 「嫌いじゃないがその剃刀でなら、大嫌いだ。 頭の皮がむけるだろう。もうそこはいいからぐっと、髪をつめていってくんな。」 と北八は、まげを結わせる。
髪結は剃刀を大事そうにしまうと、北八のまげを結い始める。 「はいはい。こりゃ、ふけだらけじゃ。 このふけをとる方法がありますが、やってみますかな。」 「どうするととれる。」 髪結がいうので北八が、そう聞いてみると、 「なにお坊さんに、なったらいいですがな。」 と洒落る。 「ええ、いまいましいことを言う。」
髪結は髪をとかして、根をぐっとつめると、 「根はこのぐらいでいいですか。」 と北八に問いかける。 「いやいやもっと、ひっつめてくんな。 とかくこっちの方へ来ると髪はへたくそだ。 根をかたくつめるということを知らねえ。不器用な。」 髪結は北八の言い方に、思わず力が入って、 「それなら、これではどうでおます。」 とぐっと根をつめるとさかやきに三本しわが出来て、目は上のほうに引っ張られるぐらいにかたくひっつめる。 北八は髪が抜けるんじゃないというほど痛いのだが、負け惜しみで顔をしかめながら、 「これでよしよし。ああ、いい気持ちだ。」 と言う。 髪結は少々、やりすぎたかと思いながら聞いたのだが、 「なんとな。それで、ようござりますかいな。」 「あんまり、よすぎて首がまわらぬようだ。」 と北八が言うので、髪結は苦笑いをしている。
そこへ弥次郎兵衛が、湯から上がってきた。 「さああなた、髪なされませんかな。」 と髪結が弥次郎兵衛に問いかけると、 「いやなにやら湯に入っていたら、ぞくぞくして風邪でも引いたようだ。 俺は、明日にしよう。」 と言う。 「それなら、さようなら、御きげんよう。」 と、髪結は荷物をまとめて出て行った。
そのうち女中が膳を持ってきて、めいめいへきちんとすえる。 上方者はさっきから寝転んでいたが、おき出してきて、 「どれ、飯を食おかいな。」 と膳を見てみると、女中が、 「今日はしけで、お肴がなにもおませんわいな。」 と言う。 弥次郎兵衛も、その女中の声につられて膳を見て、 「いやいやこれは、御ちそう。さあ、北八どうだ。」 と、北八を促す。 「弥次さん、俺の箸はどこにある。」 と北八が答えるので、弥次郎兵衛が不思議そうに、 「それ、膳についている。」 と、箸を指差すと、 「取ってくんな。どうも、うつむくことが出来ないようだ。」 と言う。
弥次郎兵衛が、 「なぜ、うつむくことが出来ないんだ。」 と、北八の顔を見ると、 「おやおや、お前の顔は何だ。 目がひきつって、まるで、狐がついているようだ。」 と、びっくりする。
つづく。
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 追加 その二
江戸の太太講(だいだいこう)に参加した弥次郎兵衛、全く別の場所に来てしまってしょげかえっている。
この連中の二、三人が弥次郎兵衛に、 「これこれお前さんは見なれぬ人じゃが、誰じゃいな。」 と、問いかけてきた。 「はいはい。」 と言いながらも人ごみの中から、知っている顔を見つけようと弥次郎兵衛は必死である。 「はて、こいつは何をきょろきょろするんじゃ。誰じゃというのに。」 と連中の一人が言うと弥次郎兵衛は、 「私はいや、米屋の太郎兵衛さんに聞けばすぐ判ります。」 と又言う。 「はて、そないな人はうちの講にはおらんというのに。 なにやら気味の悪い人じゃわいな。」 それを聞いていた御師の使いが、 「はあお前様は、あなたがたのお連れではございませんのかいな。」 と聞くとみな首を振って、 「ああ知らん顔じゃわいな。」 と言う。
それまでおとなしく話していた御師の使いが、急に態度を変えると、 「いやそれは、どういうことじゃ。 とっとと出て行け。ふざけた野郎だ。」 と、弥次郎兵衛に詰め寄ってきた。 「わかった。こいつは泥棒だ。放り出してやらんせ。本当に怪しいやつだ。」 と連中の一人が言うので、弥次郎兵衛が、 「ええ、そんなに言いなさるこたあねえ。 放り出すとはなんのこった。とほうもねえ。」 と言う。 「はあ、お前の喋り方はお江戸の人じゃな。 わかった。 今さっきのお江戸の太太講とひと所で落ち合ったが、その時お前の乗ったかごがこちらの中へ紛れ込んでござんしたのじゃな。」 連中の一人がしたり顔で答える。 そうかと弥次郎兵衛は、 「なるほどそうか。それなら私の行く御師どのは、どこでございます。」 と誰にともなく言うと、 「なにお前の行くところを、誰が知っているものか。」 御師の使いが、不思議そうに言う。 「だいいち自分が行く御師どのを、知らんということがあるかいな。 こりゃ貴様はわざとこちらの中に入り込んで、ただ飯を食うつもりだったな。」 連中は、 「ええ、ふざけた奴じゃ。脳天、殴ってやろうか。」 と皆々言っている。
「いや無茶苦茶言いやがる。お前らの太太講で食い倒したとしてもたかがしれている。あんまり江戸っ子を馬鹿にするなよ。 俺ひとりで太太講をやってやる。」 と弥次郎兵衛が、そこにどっさりと座った。 御師の使いは、さも、あきれたように、 「なにお前がお一人でかいな。こりゃたまげた。おまいが一人で。」 と言うと、 「当たり前だ。これだけありゃ大丈夫だろう。これで、たのみます。」 と筒状で底のない長い袋を腰からはずして、その中から金を二百文取り出す。 それを見て御師の使いはまたまたびっくりする。 「ははは、太太講は安うて金十五両も出さんせんけりゃ、でけんわいな。」 と言うと、弥次郎兵衛が、 「何!にこれでは、出来んのか。」 としょげ返る。
御師の使いは笑いながら、 「さやじゃ、さよじゃ。」 と言うのでつい、弥次郎兵衛が、 「だいだいじゃないなら、ミカンで頼みます。」 と洒落る。 それを聞いた連中の一人が、 「ははは、それならキンカンにしたらどうだ。ははは。」 と、笑っていう。 御師の使いは、 「いや面白い人じゃ。ああ、思い出した。 お前の行く所は、内宮の山荘太夫どのじゃわいの。 さっきの使いが、山荘太夫じゃからな。 ここから妙見町をまっすぐ行って、古市の先へいって尋ねさんせ。」 と御師の使いが教えてやると、 「はあそうか、こりゃ有りがたい。本当に、賑わせました。」 と弥次郎兵衛が出て行くと、連中は、 「えらいあほうじゃ、ははは。」 と、どっと笑う。
弥次郎兵衛は腹が立ったが怒ってもしょうがないと、しょぼしょぼと元気なくここを出ると、御師の使いが教えてくれた通りに歩き出した。
鉢植えの 太太講に あらねども 宙ぶらりんと なりし間違い
それより弥次郎兵衛はすじちがいまで戻ると、妙見町を目指して歩き出した。 道すがら、北八はどうしたかな。 米屋の太郎兵衛らといっしに御師の方へ行ったのか、あるいは上方者と妙見町に泊まったのだろうかと考えながら歩いて広小路に着いた。
ここの旅館の客引きが、 「もし、お泊まりじゃいな。」 と声をかけてきた。 弥次郎兵衛が、 「ちと道を尋ねたいんだが、妙見町はまだだいぶ先だろうか。」 「いや、このすぐ先じゃ。」 と客引きは、そっけなく答えると、別の旅人に声をかけている。
弥次郎兵衛は、また、歩き出すと、 「まてよ。その妙見町で、連れの上方者が泊まるといっていたな。 さて何屋だったか。」 と思い出そうとしたが、『藤屋』というのが出てこない。 もう少しで出てきそうなんだがと、弥次郎兵衛が歩きながら思案していると、ふと、棚からぶらさがっているような名前じゃなかったかなと思い出した。 それで、 「もしもし、妙見町にぶらさがっている宿屋はございませんか。」 と弥次郎兵衛が行き会った人に声をかけると、そこにいた人は、 「なに藪から棒に。ぶら下がっている宿屋とはなんだ。 そんなの知らんわいの。」 と行き過ぎる。 弥次郎兵衛が、 「なるほど、ここらで尋ねても知らないか。 もうちょっと先に行って、妙見町に入ってから尋ねてみよう。」 とここを過ぎて、急いで歩いて行った。
薬の『万金丹』の看板がかかっている所でその看板に妙見町山原七右衛門とかいてあるのをみて、さてここが妙見町なんだなと思い往来の人をよびとめて、 「もしここらにぶらさがっているような名の旅館は、ございやせんかね。」 と言うと、往来の人は不思議そうに、 「なんじゃいな。ぶらさがっている旅館とは。何屋のことじゃ。」 と弥次郎兵衛を見る。 「宿屋さ。」 と言うと、 「で、その宿の名前は。」 と聞いてくるので、 「名前を忘れてしまったんだが確か、ぶら下がったような名だったと。」 と弥次郎兵衛が言う。 「いやそういっても、ぶらさがった宿とはな。」 とその人は、腕組みして考えだした。 「そういえば向こうの角にある、それ、今人が立っているところの宿な。 あそこは去年首くくりがあって、ぶら下がった宿といえるかもしれん。」 「いや、そんなもののぶらさがったのじゃあございやせん。」 と弥次郎兵衛は、否定したのだが、 「はてまあ、行ってみろ。あそこも宿屋じゃ。 そこで聞いてみるのもいいじゃろ。」 とその人が言うので、 「なるほどはい、さようなら。」 と弥次郎兵衛は走って、人が立っていた宿屋に行ったがさっきまでたっていた人がいなくなって、何処だかわからなくなってしまった。 仕方がないのでどこかこの辺だろうと適当な家に入ると、 「もしもしちょっと、ものを尋ねますが、去年首をおくくりになさったはあなたでございやすか。」 と問いかけた。 この家の亭主はいきなりそういわれて、びっくりして、 「いやわしゃ、首つったことはないがな。」 と変な受け答えをする。
弥次郎兵衛が、 「そんなら、どこでございやす。」 とさらに、亭主に聞くと、 「ここらで、首を吊った家など知らんがな。 この二、三軒さきに棚から落ちた牡丹餅を食って咽をつめて死んだ家があるが、もしかするとそれじゃないかいな。」 と真剣に考えて答える。 弥次郎兵衛はやけくそぎみに、 「行って見ましょう。なんでも、棚からさがったような家だ。」 と又、二三軒先に行きある家の前で、 「もし、棚からおちた家はお前さんとこじゃあございやせんか。」 と、とんでもないことを言う。 この家の女房らしき女が出てきて、 「いいえな、私のとこの家は元からここで今だかつて���棚へ上げておいたことはない。」 と言うのを聞いて、 「はあ他には、ございませんか。」 と弥次郎兵衛が、女房に問うと、 「そりゃ、お前さんの、聞き違いじゃあろぞいな。 山から落ちた家じゃおませんかいな。 それじゃと、相の山の与次郎の小屋がこの間の風で谷へふきおとされたということでおますがな。うん、それじゃろいな。」 と勝手に納得してしまう。
弥次郎兵衛は、 「いやそれでもない。こりゃあ、困ったことになった。 何が何だか、さっぱりわからなくなってしまった。 何もかも無くしてしまったようだ。」 と、その場に座り込んでしまった。
つづく。
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 追加 その一
伊勢音頭で伊勢の山田と歌っているのは、和名抄の陽田からとったのだろうと思うほどその町は大きい。 十二もの村からなっており人家は、九千軒もあるだろうか。 商店が軒を並べどの店もそれほど派手ではないが、こまごましたところに神経を使っているようだ。 まさしく神都の風俗が自ずから備わり、柔和にして荘厳な雰囲気は他の国にはない光景だ。 参宮の旅人は絶え間なく訪れ、繁昌さらにいう言葉もない。
弥次郎兵衛と北八はあの上方者といっしょに、この町の入り口に着いた。 見ると両側の家ごとに、御師(『おし』と読み伊勢神宮の神職の一つ)の名を書いた板がまるで、竹林のように立っている。 更にその板には『用立所』とも書いてある。 ここで袴・羽織をひっかけた男と、何人となく行き違う。 どうやらこの男たちは往来の旅人を、御師に迎えるているようだ。
そのうちの一人の侍が、弥次郎兵衛に近づいてきた。 「もしあなたがた、どこへ来られたのでございますな。」 「言わずもがな、太神宮さまへ参ります。」 弥次郎兵衛が神妙な面持ちで答えると、 「いやいや、太夫はどなたで。」 「たゆう?」 弥次郎兵衛が聞き返すと、 「そう御師のことでござる。」 「ああ太夫は竹本義太夫殿さ。」 と浄瑠璃で有名な人物の名を口から出任せに言う。 男は、きょとんとした様子で、 「はあ義太夫というのは、どこのどなただ。」 とつぶやくように言うので、弥次郎兵衛が、 「その義太夫というのはな江戸ならわかるが、はて大阪ならさしずめ道頓堀だろうか。」 と、小首を傾げながら答える。 北八が調子に乗って、 「そう京では四条、お江戸では葺屋町で、永らく御評判になっておりました。」 と言うと、そこで男はからかわれていることに気が付いて、 「道頓堀で有名な、見世物小屋の者はお前方だったのか。」 と、洒落る。 「ふざけたことを言うと、ひっぱたくぞ。」 と今度は北八が、からかわれたことが判ってそう言うと、 「えらい、威勢がいいことじゃな。ははは。」 と、笑って行き過ぎる。
上方者が茶屋を示して、 「ちと、休んで行こかいな。」 と言うと、北八が、 「ここらは、汚い所のようだ。 みな御師の便所らしく、ようたし所と書いている。」 と言うと、 「つまらないことを言う。ははは。」 と弥次郎兵衛が答えて、三人である茶屋に入りしばらく休む。
そのうち向こうより上方の参詣者が、大勢そろいの格好でやってきた。 女も何人かいるらしく聞こえてきた歌には、華やいだ色がある。 「ござれ、夜みせは~、順慶町の~、通り筋からそれ、 ひょうたん町を~、やあ、とこさあ、よいとこさあ、ちちち、ちんちん。」 弥次郎兵衛らが、その方を見ると、 「ひやかしや~、浮かれ騒ぐは~、阿波座のからす。 そりゃさ、かわいかわいも~やあれ、格子さき、 やあとこさ、よういとなあ、ありゃやこりゃや、 このなんでもせ~、ちちちん、ちちちん、ちんちん、ちんちん。」 と、通り過ぎる。
その後から太太神楽(だいだいかぐら)を奉納する、太太講(太太講)の連中がやってきた。 二十人ばかりいるだろうか、御師より向けられた迎えのかごに乗ってくる。 御師の使いの者が、先に立って、 「さあさあ、これじゃこれじゃ。 さあどなた様も、ここで御休息なさいませ。」 と案内してくると、かごは残らず茶屋の角にとまってしまう。 どうやら太太講は江戸の者らしく、いずれも全身絹の優雅な身なりで短い太刀を腰に挿している。
連中はめいめいかごを出て座敷に通りだしたのだが、その中の一人の男が弥次郎兵衛を見つけて、 「いやこれはどうだ。弥次殿きさまも参宮か。」 と声をかけてきた。 弥次郎兵衛はびっくりして見れば、町内の米屋の太郎兵衛である。 江戸をたつ時この米屋の払いをしないでないしょで旅立ったので、何となく居心地が悪くて弥次郎兵衛はしょげかえって、 「や、これは太郎兵衛さまか。よくお出かけなさいました。 しかしここで、あなたのお目にかかってはめんぼくない。」 と、頭を下げる。 太郎兵衛は、ニコニコしながら、 「いやいやわしも仲間の太太講で、その上この連中の世話役というものだから、しかたなく出かけたがよい所であった。 旅先ではとかく、同じ国の人が懐かしい。 まあ奥に来て、一杯やろうじゃないか。」 と誘ってきた。 「ありがとうございやす。」 と弥次郎兵衛は、かしこまっている。 「連れは誰だ。ははあ、まんざら知らぬ顔でもない。」 と太郎兵衛は、北八を見つけてそう言うと弥次郎兵衛の方を見て、 「そうだちょうどいい。太太講に参加しないか。 それも飛び入りとなると、ちょっとばかりだが金が出るから不躾だがわしらの供になると、一文も使わず腹いっぱいご馳走になっておがまれるというものだ。どうだ。」 と、言う。
弥次郎兵衛は、ちょっとびっくりして、 「それは願ってもないことで、ありがとうございます。 しかしそんな事が出来ましょうかね。」 と問うと、太郎兵衛が、 「はてわしが講親だもの。どうにでもなる。まあ、とにかく奥に来い。」 と弥次郎兵衛をつかまえて奥に連れて行こうとする。 「はいそれなら。すまんが上方の。ちょっとばかりここで待ってくんなせえ。」 と弥次郎兵衛は振り向きながら、連れの上方者にいうと、 「よいわいの。いってきなさい。」 と、言っている。
太郎兵衛が、 「さあさあ二人とも、こっちこっち。」 とこの太郎兵衛にいざなわれ弥次郎兵衛も北八も、わらじをとって奥に通る。 この間上方者は店先でひとり、酒など飲んで待っていることにした。 奥では太太講の事なので御師よりのご馳走で、さいつおさえつ大騒ぎの真っ最中である。 と又表に一群れのかごが、十、四五ばかりやってきた。 この連中も太太講らしく、御師の使いが先にたって案内する。 かごかきが、 「ほう、よいよい。えっこらさっさっさ。」 とこれも同じく、この茶屋に入ってくる。 御師の使いが、 「さあさあ、御案内御案内。」 と言いながら連中をこの茶屋に通すと、茶屋の女中が、 「いらっしゃいませ。さあ、奥へお通りなさいませ。」 と奥に上げる。 女中はすぐに酒と肴を持ち出して、太太講、二組の大騒ぎが始まった。 さてこの座敷でもいろいろあったのだが、あまりクダクダしいので略す。
やがて奥の酒盛りも終わりお立ちといことになったのだが、なんと二組の太太講がいっしょになってしまった。 わいわいがやがやと二組の太太講が奥から出てくると、最初の方の御師の使いが一番先にたって、 「さあさあおかごの衆これえこれえ。どなたもさあおめしなされませ。」 と、あっちこっちをかけまわりかごにのせ始める。 それより遅れて後から来た方の、御師の使いも同じく駆け回りて、 「こちらのおかごは、これへこれへ。」 と横付けして、みなを乗せ始めた。
米屋の太郎兵衛はろれつの回らない口調で、弥次郎兵衛の手をとると、 「おい弥次公。貴様は俺のかごに乗っていけ。」 と弥次郎兵衛に言ってきた。 「いや、とんだことをおっしゃる。」 と弥次郎兵衛は、手を振り払い言う。 「いや俺はここから、酔い覚ましに歩いて行く。 貴様、洒落に乗っていけ。」 となおも太郎兵衛がしつこく言うので、弥次郎兵衛は、 「なるほどそれなら、乗らしてもらおう。」 とかごに乗ることにした。
さあ、お立ちじゃと両方のかごがいっしょに担ぎ上げると、混雑しているからかそれともただの間抜けか弥次郎兵衛の乗ったかごの人足は、後から来たほうのかごの中へ紛れ込んだのに気が付かないでさっさと担いで行く。 ところが他の連中もこの混雑の中で、誰もそれにきがつかない。 だんだんと急いでいくほどに、山田のまん中すじかいという所で米屋の太郎兵衛がいる太太講は内宮の御師へ行くので左へ、もう一つの太太講は外宮の御師なのでここで右の方に行きやがて、田丸街道の岡本太夫宅に着いた。
門前には盛り砂がありほうきで掃き清められ、更に打ち水で清められている。 玄関には幕がはってある。 御師が羽織・袴で迎えに出ると、太太講の連中はみなかごを降りて玄関から奥に入って行く。 弥次郎兵衛も促されるままに座敷に上がったのだが、みな知らない顔ばかりである。 それもその通りである。 かごかきの失敗で間違った方向にやってきたのだから。
「はて、どうしたことだろう。もしもし米屋の太郎兵衛さまはどこにいらっしゃいます。」 と弥次郎兵衛がうろうろしていると、そばにいた男が、 「なんじゃいな、太郎兵衛さんとは。わしゃ知らんわいな。 それにお前さんはまるっきり見ん顔じゃが、誰じゃいな。」 と、詰め寄って来た。 「はい。私はそれ太郎兵衛さんの町内のものじゃが、はてなんだか場違いな気がする。北八はどうしたろう。」 と弥次郎兵衛が無性に、うろうろきょろきょろとまごついていると、みんなもびっくりして互いにそでをひきあいて荷物を片側に寄せてささやきあいだした。
つづく。
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 下 その七
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 明星村の茶屋で、上方者が話しかけてきた。
上方者に、二人が下で馬に乗っていかないかと誘われた弥次郎兵衛は、 「そういえば昨夜、夜道を歩いたんで疲れている。 ちょうどいい。北八、俺は、乗っていくぞ。」 と、弥次郎兵衛が言うと北八は、 「そんなら、この荷をつけてもらおう。」 と、自分の荷物を渡す。 ここで馬の相談も決まり、上方者と弥次郎兵衛は、二人がけで馬に乗って出かけることにした。 北八は、その後ろを、ぶらぶらついて来ている。
馬が 「ヒヒン。」 と、いなないている。 「お前さんがたは、江戸の衆じゃろな。」 と、上方者が弥次郎兵衛に話しかけてきた。 「ああ、そうさ。」 と、答える。 「江戸はいいところじゃが、わしは去年行ってえらい目にあった。 あの江戸には似合わんが、どこへ行っても便所がとてつもなくむさ苦しくて、むさ苦しくて。 わしゃ百日ほどおったんじゃが、ほとんど便所にいかんかった。」 と上方者は、話始めた。 「それから江戸をたって、鈴が森というところまで来てからやれやれと海の中へ、ためにためた小便をいっきに風呂にいっぱいばかりしたが、いい気持ちだった。 あそこは、綺麗でえらく大きな便所であったわいな。ははは。」
弥次郎兵衛は上方者の言いように、ちょっとむっとして、 「京では小便と菜を、取り替えっこするんだろう。 その大切な小便をお前、海の中へ捨てるなんてもったいない事をしたもんだ。 ドラム缶にいっぱいなら五、六頭の馬でも乗せられないくらいの菜になるだろうに。」 と言うと、更に思い出しというふうに、 「そう言えば京では、屁が出そうになるとさっと裏の畑へ駆けていって、植えてある大根や菜の上に屁をするということだが、なるほどこれも肥やしになるだろう。」 と、笑いながら言う。 「そうじゃないわいな。 その屁をした菜をよう刻んで土にまぜて、壁をぬりおるがな。 京ではその土を、へなつち(屁の土)というわいな。」 上方者は、真剣に答える。 「総じて京というとこは、けちな所よ。 前にもわしが行った頃は三月で、ちょうど花見の最中。」 と、弥次郎兵衛は、更に続ける。 「自分勝手に幕をうって、何段にも重ねた蒔絵の重箱などを取ちらしたまではいいが、その重の中には何が入っているかと覗いてみると、残り物を混ぜ合わせたようないろんな漬物におからの煮たやつばっかりだ。 まいった。まいった。」 「いやそれよりか、お江戸の衆が吉原の桜はえらいといたく自慢するさかい、わしゃわざわざ吉原へいって見たが、なんの桜はありゃせんがな。」 と、上方者も負けていない。 不思議に思いながら、弥次郎兵衛は、 「そりゃお前、いつごろ行ったんだ。」 と、上方者に問いかけると、 「わしが行ったは、たしか十月ごろ。」 「当たり前だ。十月に桜があるわきゃない。」 「はあ、そうかいな。 それでも京の小室や嵐山には、年中さくらがちゃんとあるがな。」 と、上方者は、すまして言う。 「そりゃ木ばかりだろう。花は年中ありゃしめい。」 と弥次郎兵衛は、上方者をにらむ。 「そりゃそうじゃが。」
上方者はちょっと黙り込んでから、 「いや又、江戸の衆は長唄をよう歌ってじゃが、京の宮園や国太夫は又、格別なもんじゃわいな。」 「くにだゆうというは、どのような歌だ。」 と根っから歌が好きなので、弥次郎兵衛が聞くと、 「国太夫はこうじゃいな。」 と、真面目に声を張り上げて、国太夫を歌い出した。
「やがて~、私の年季があけて~、お前と夫婦に~、なるならば~、 苦労を供にすることも~、苦労と思わず~、添いましょう~。 ちんちん、ちんちりん。」
「いいな。面白い。ちょっと私にも、一段落教えてくれなさい。」 それを聞いて弥次郎兵衛は、歌ってみたくて仕方がない。 「そりゃ、簡単なことじゃわいな。わしについてやりなされ。」 と上方者が、歌い出す。
後ろ黙ってついてきていた北八は上方者が、あんまりに高慢ちきなので馬から突き落としてやろうと、細長い竹を一本を拾うと馬の後ろから狙っていた。 上方者はそんなことは露ほども知らないで、夢中になって国太夫を歌っている。
「ちんちりっん、ちんちりっん、ちんちん。 ほんに~、おなごは執念深い~、というは嘘じゃない~。 死んでも、責め苛む~夜叉羅刹、杖ふりあげて、頭打つ。」
というところで北八が、手をのばしてさっき拾った竹で、上方者の頭をぴしゃりと叩く。 その後さっと、上方者から見えない方の馬の尻にさっと隠れる。
「やあ、こりゃ、どやつじゃい。人の頭を鞭うちおるがな。」 と、上方者が、叩かれた頭を抑えながら言うと、 「はははもう一度、今の文句を。」 と、弥次郎兵衛が催促する。 上方者は、痛む頭をさすりながら、
「ほんに~、おなごは執念深い~、というは嘘じゃない~。 死んでも、責め苛む~夜叉羅刹、杖ふりあげて。」 というところで又、北八がぴしゃりと、叩いて隠れる。
「あいたたた、どやつじゃ。滅相な。なんで、ぶち叩くな。」 と、上方者は、振り返ってみたが、北八は隠れているので見えない。 「おもしろいがどうも、節が難しい。もう一度やってくんなせえ。」 と弥次郎兵衛が、催促するが上方者は、 「そりゃなんぼでも、やるはやるが又、頭を叩かれやしよまいか。」 と、何度も後ろを振り返っている。
「俺が、見ていよう。心配するねえ。」 と弥次郎兵衛が、上方者を見る。 「そんなら、今一度、やりましょかい。」 と、上方者が歌い出す。
「死んでも、責め苛む~夜叉羅刹、杖ふりあげて。」 またまた、北八が上方者の頭を叩こうとして、何を慌てたのか弥次郎兵衛の頭をぴしゃぴしゃと叩いてしまう。
「あたたた。北八、俺の頭をどうしてなぐるんだ。」 と弥次郎兵衛は、後ろ振り向きながら言うと上方者が、 「はあ、さっきから、わしが頭を叩いたのもお前さんじゃな、なんして叩いた。」 と、竹を持ってうろちょろしている北八に言う。 「わしは、叩いた覚えはない。」 と北八が、目の前で竹をふると、 「なにがないだ。その竹をみろ。やってないとは、言わせんわいな。」 と上方が、竹を指差す。 北八は慌てて竹をそこにほっぽりだすと、 「はて俺は知らねえ。しつこい野郎だ。」 すっかり開き直る。 「野郎とはなんじゃいな。貴様はえらい勝手なことを言う。」 と上方者は、怒っている。
「なんだ、このべらぼうめ。さっきから思ってたんだが、まったく気に食わない野郎だ。 あんまりふざけた事ばかり言うと、その馬から引きずりおろすぞ。」 北八が、けんか腰で言うと、 「おもしろい。さあ、おろして見やんせ。」 と、上方者も負けていない。 「おお、まっさかさまに、落っことしてやろう。」 と馬の尻をぴっしゃりと叩く。 馬は、驚いて跳ね上がる。 「やあこりゃ、たまらん、何するのじゃ。」 と上方者は、びっくりして馬にくくりつけてある荷台にしがみつく。 「ひゃ、なにをする。」 と 弥次郎兵衛も、上方者と同じようにしがみつく。 馬かたが、 「ええ、畜生め。どうどう。」 と必死になだめてどうにか、落ち着いた。
その後、黙って歩いていって、新茶屋、明野ガ原と通り過ぎて小俣町に着いた。 ここで弥次郎兵衛と上方者は馬をおりて、三人で茶屋に休む。
上方者は、北八に向かって、 「これお前は、なんしてわしが頭を叩かした。」 とまた、さっきのことを蒸し返そうとする。 「もういい加減にしなせえ。お互いに旅先じゃ、色んな事があるもんだ。 もう���いいじゃねえか。わしが、一杯おごろう。 もし女中、何ぞ肴があらば、ここへいっぱい出してくんな。」 と弥次郎兵衛が、中を取り持ちこれより酒盛りとなる。
上方者も一杯のめる口なので、だんだん酔いが回ってきた。 「こりゃえらく酔うたわいな。これ弥次さんとやら、わしゃお前が、えらい好きになったが、この野郎はいかんぞや。 うんいかん。しかしお前の連れじゃ、しかたがない。 そうじゃ、こうしようじゃないか。 これから山田の妙見町にいっしょに泊まって、古市をおごろかいな。」 上方者は、いい気分で、弥次郎兵衛に話しかける。 「わしゃ、あそこでは、顔がきくので、 千束屋(ちずかや)の鼓(つづみ)の間でも、柏屋の松の間でもわしが案内するさかい、行かんせか。どうじゃいな。」
弥次郎兵衛は酔って気が大きくなったのか、上方者がやたらに驕り高ぶるので、こいつをおだてあげて遊ぶつもりに胸算用して、 「古市とは、遊郭のことじゃな。なるほど、それはいい。 どうぞ、よろしくおたのもうします。」 と、頭を下げる。 「これからその山田の松坂屋で腹ごしらえして、妙見町の藤屋に宿をとろうじゃないかいな。 さあさあ、もう行こわいな。」 と上方者は、えらく上機嫌である。
弥次郎兵衛は北八と顔を見合わせて、ニヤリと笑うと、 「そうだな、どりゃ、出かけましょう。」 とここの酒代を払い、立出る。 この町の出はなれに、宮川という渡船に着いた。
宮川で 神に機縁を 結ばんと すくった水の かげの白さよ
ここより、中河原を通り過ぎると、山田の町に着いた。
これで、五篇 下は終わりです。五篇 追加に続きます。
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 下 その六
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 弥次郎兵衛の嘘から旅館から放りだされた二人。 遠くに見える灯りを頼りに歩いていた。
やがてそこに近づいていくと、その目当ての灯りは自分のほうからだんだんと近づいてくる。
二人は、その様子に驚き、 「おいおいあの家は、どうやら歩いているようだ。」 と、立ち止まった弥次郎兵衛が言う。 「本当だ。こいつはおかしい。」 と同じく立ち止まった北八が言うと、 「いや、気味が悪い。 どこの国に、家が歩くなんてことがあるんだ。これは、ただ事じゃねえ。」 と、震え出す。 「いや、どうって事はねえ。 これも赤坂の泊まりと同じで、みんな狐がすることだろう。 弱みを見せるとなお図に乗る。構うことはない。行ってみよう。」 と強がりを言って、足早に例の灯りに追いついて暗闇にすかしてみると、足が悪くて座ったまま進んでいる車だった。 小屋のうちで火をたき茶を沸かしながら車を押している。
ふたりはおかしくここを通り過ぎると、運良く月が出てきた。 しかし草木も眠る真夜中の寂しさに、後にも先にもただ二人きり。 うわべは我慢して強がっていても、心はいたって臆病者。 こわごわ歩いていると誰か一人、後ろから付いてくるようだ。 弥次郎兵衛が振り返ってみると小山のごとき大男がいる。
この男、長わきざしを腰につけていてただものとは思えず、我々をめがけてきたのかと北八にささやいて、 「おい、北八。後ろから、おかしなやつがつてくる。 ちょっと、急いで行こう。」 と小走りに進み出すと、後ろの男も又走る。 「ちょっと待ってくれ。小便がもれそうだ。」 と北八が立ち止まって小便をすると、その男も立ち止まって待っているので、弥次郎兵衛は男に声をかけてみた。
「もしお前さんは、今頃どこへ行きなさる。」 と震え声で問いかけると、その男は思いのほか優しい声で、 「はいはい、私は松坂へ戻るのですが、夜に一人で怖くて怖くて。 どうしようかと思っていたらお前さんがたが、通ったのでこれ幸いとお二人についてきたのでございます。」 「いやお前は、そのなりに似合わない弱音をいう。 だいたいそんな長いやつをさしていながら、何が怖いもんがあるんだ。」 とこの様子に、ほっとしながら北八が言う。 「ははあ、これか。こりゃ、道で拾った竹きれじゃわいな。」 とその男は、腰から抜いて杖の代わりについて歩き出した。
「ははは、それは脇差ではなかったのか。 俺らは又、お前が怖くて。 さっきからやばい奴に、捕まったと思っていたが、これでなんとか落ち着いた。」 と弥次郎兵衛は、北八の方を見る。 「もうこれから三人だから、大丈夫だ。」 と北八も弥次郎兵衛の方をみて言う。
そこまで聞いて男が、 「いやいやこの先にこんなことよりも、もっと大変なことがあるがな。」 と、声をひそめるように言う。 「なに、大変なこと。」 と弥次郎兵衛が、男の方に身を乗り出す。 「まあ、聞きなさい。 私は今朝、江戸橋まで行って帰りがえらく遅くなって、ついさっきこのさきの松原まで帰ってきたんだが、何やら向こうに大きな白いものが立っておって、それがあっちへいったりこっちへきたりとぶらりぶらり。 もうもう私は怖くて怖くて。死ぬかと思ったわ。」 と男は、自分の肩を抱くようなしぐさをしているのが、月の灯りに見えている。
「そういうわけだから、どうやって向こうへ行こうか、こりゃ誰か、よい連れでもほしいものだと考えておったところへ、お前さんがたがやってきたということじゃ。」 「ええ、その白い大きな者がいたというはどこだ。」 と、弥次郎兵衛が、聞くと、 「この先じゃ。すぐそこじゃ。」 と男が、震え声で言うので、 「ええなにが、出るものだ。俺が先に行こう。俺について来な。」 と北八が、さっきの狐と勘違いした事を思い出しながら歩き出した。
そう言ってこの松原を歩いていくと、男が、 「あれあれ向こうに。ああ、こりゃ気味が悪い。」 と、がたがた震え出した。 二人も遥か向こうを月灯りにすかして見れば、何ともわからない白い着物がおよそ一畳ばかりもたかく、街道いっぱいにひろがって立っている様子が見えた。 これはなんだろうと立ち止まって見ていると、木を切り倒すようにばったり見えなくなったり、又、すっくりとたち大きくなったり小さくなったりと揺れている。
「ありゃ、なんだろう。」 と弥次郎兵衛が、つぶやくに言うと、 「足がねえから、まちがいなく幽霊だ。」 と、北八が言う。 「あああれ、あれじゃもの。どうして、先に行けるものか。」 とガタガタふるえている男に、弥次郎兵衛は、 「なるほど、正体がわからなければ、なお気味が悪い。 たしかにこりゃ、先に進めない。後に戻ろう。」 と、男を抱えるように後戻りする。 「私もお前さんがたをたよりに、ここまで来たがしかたがない。 後へ戻って又、連れの人が出来たらここまで来るわいな。 しかし二度も三度も繰り返していたら、夜があけてしまうな。」 と男もなすすべもなく、後戻りする。
歩きながら弥次郎兵衛が、 「でも白装束だから、なにかの霊魂にちがいねえ。」 と言うと、北八がふと後ろを振り向いて、 「あれあれ、青い火が追いかけてくるようだ。」 「ええ、どうやらこっちへ来ているみたいだ。」 と、北八のよう後ろを振り向いて言う。 「こりゃ、どうしよう。とても先へはいかれそうもない。」 と、三人は、青ざめてがたがた震えていた。
すると突然、向こうよりやってきていた青い火から歌が聞こえてきた。 「恋の重荷をなあ~、つんだら馬にえ~、 いくらあるか~、知りにくい~。なあんあえ。」 どうやら助郷の人足が、四、五人やってきているようだ。
ほっとしながら弥次郎兵衛はその連中に問いかけた。 「もしもしお前さんがたは、どっから来なさった。」 「はあ、私らこの近くの村に住んでおるんじゃが、公の仕事で津まで行くところじゃわいな。」 そう答える連中に、弥次郎兵衛は、 「そりゃあいいが、ここへはどうしてきなさった。」 と更に聞くと、人足は、 「だから、その公の仕事で、津へ行くと言うとろうが。」 と、あきれたように言う。 「いや、そうじゃない。」 と言って、弥次郎兵衛ははっと気が付いた。 「お前らも、幽霊じゃな。 もし人間なら、ここまで生きてこられるはずはない。」 「なんのことだ。まったくわけがからわからんわい。」 人足は、ますますあきれたように答える。
そこで北八が、今までのいきさつを説明をする。 「いや向こうに化け物がいるのに、どうしてお前がたはその前を通って、ここまで来たかということだ。」 「こりゃ、貴様たちは、三渡村の藤九郎狐につかれているな。ははは。」 と、笑い飛ばす。 しかし北八は、冷静に、 「いや、そんなことより、向こうを見てみなせえ。」 と、例の白い者を指差す。 人足が、 「むこに何がいるぞい。」 と北八が、指差すほうを見る。 「あの、白い者が、あれあれ!」 「白い物とは、あれかあれか?」 と指差して聞くので、北八はこわごわうなずくと、 「ありゃ道のそばで、馬の足につける布や草鞋を燃やしておるんだ。 その煙が月に映って、白くなって見えるのじゃわいな。」 とこともなげに答えると、人足たちはさっさと行き過ぎる。 それを聞くと、弥次郎兵衛は、 「ははあ、そうか。ははは、こりゃありがとうございます。」 と人足の連中に言って、三人ともほっとためいきをつき笑いながら歩いて行く。
やがてそこについてみると、草鞋などを積み重ねて燃やしている。 その煙が、白く立ち上っていた。
そこを通りすぎて、松坂の町に着いた。 まだ夜ふかければ、例の道づれの男に頼んで、寝るだけなら普通の旅館に泊まるのももったいないと、町の入り口にある安い宿を世話してもらいそこに泊まって、一夜を明かした。
やがて、月落鳥なきて、時の鐘が午前六時を告げると、弥次郎兵衛と北八は早々に起きだしてここを立出た。
とんびが輪に なりて舞う日に 旅人の おどり出たる 松坂の宿
右の方に、神山の薬師を見ながら、櫛田村に着いた。 ここに『おもん』『おかん』という二軒の茶屋があり、餅が名物だ。
旅人は いずれに心 移るかと 思いおかん(おもんおかん)が 売れる焼もち
それより抜川を渡って斉宮村を通り過ぎ、明星村の茶屋で休んでいると、はでな大じまの引まわしを着て帳面と風呂敷包みを背負った男が、馬かたといっしょにやってきた。 どうやら、上方の者らしい。
馬方が、 「もしもしお前さんがた。その荷をつけて、どちらか一人この旦那と二人がけの椅子に乗っていかんかいな。」 と、二人に話しかけてきた。 上方者も、 「お前さんがたも、多分、参宮じゃろ。 私も古市町まで願掛けに行くさかい、いっしょに乗って行こわいな。」 と、誘ってきた。
つづく。
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 下 その五
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 雲津の旅館で、狂歌詠みがはじまる。
弥次郎兵衛が別の短冊に道々詠んだ歌を書きだしたのだがその間、北八は手もちぶさたなのでさっき胡麻汁が指し示したびょうぶを見て、 「へえ、恋川春町の絵がある。 もし、あの絵の横に書いてる文章は、賛(さん)ですかな。」 と、胡麻汁に聞いてみる。 胡麻汁は、北八の問いに、 「���や、あれは、詩(し)でございます。」 と答える。 北八は、また別の絵を指差して、 「こちらの布袋の絵の横に書いてるのは、詩(し)ですかな。 誰が、書いたもんです。」 胡麻汁が、 「いや、あれは、語(ご)でございます。 沢庵和尚が書いてくださった教訓でございます。」 と言うので、北八は心のうちにこいつはいまいましい奴だと思っていた。 賛(絵のかたわらに、書かれたその絵にちなんだ歌などのこと)と問えば、詩だと言い、じゃ、詩かと、問えば、語(教訓的な文句のこと)だと言う。 それならこっちにも考えがあるとそこらを見回して、 「もし、あの角にある屏風の絵のそばに書いてるのは、六でございましょうな。」 と、今度は、先に、ひとつよけいに言う。 胡麻汁は、北八が、言うものを見て、 「六か何かは、知りませんが、あれは、質(しち)にとったものでございます。」 と、いう。 北八は、むっとしている。
そのうちに、台所のほうから、女中がやってきた。 「はい、ひげ面さまから、お手紙が参りました。」 胡麻汁は、 「どれどれ、何じゃな。」 と、手紙を受け取ると、その場で読み出した。
『島渡ひげ面でございます。 ただいまお江戸から来られた十返舎一九先生が、私にお宅にご到着されたところでございます。 もちろん名古屋連中や杵吉田などからも書状がきております。 さっそくあなた様のことをお話すると、お宅にもお伺いなさるとの事ですのでまずは、ご連絡まで。』
胡麻汁が、声に出して一通り読むと、 「こりゃどういうことじゃいな。さっぱり訳がわからん。」 と、弥次郎兵衛の方に向き直って、 「先生、ただいま朋友どもからこのような手紙が来ましたが、こいつはたぶん尊公のお名前をかたってまいったものと見えます。 さいわい、まもなくここへ来るようですから、いっちょ、なぐさんでやろうじゃございませんか。」 と、言う。 弥次郎兵衛は、それを聞いて、真っ青になり、 「さてさて、大変なことだ。いやはや、横着なやつもあればあるものだ。 しかし、私は会いますまい。」 と、言うと、胡麻汁が、 「それはまた、どうして。」 と、問いかける。 「いやどうも、さっきから、持病の腹痛がおこりました。 そうでなければ、その偽者を懲らしめてやるものを。さてさて、困ったものだ。」 と、思いがけない展開に、さすがの弥次郎兵衛も、そわそわしている。
亭主の胡麻汁をはじめみんなさっきから弥次郎兵衛の様子がどうもおかしいので、さてはと気づいて、こいつの正体を暴いてやろうと互いにそでを引き合う。
茶賀丸が、 「でも先生。これからも、こういうことがたびたびあるかもしれない。 ご不快ではございましょうが、ぜひその偽者にお会いなさるがいいと思います。」 と、弥次郎兵衛の様子を伺いながら言うと、 「はてさて、こまったことをおっしゃる。」 と、弥次郎兵衛は、益々、そわそわしだした。 垂増が、 「ところで、先生のお宅は江戸のどこになるんですかな。」 と聞いてきたのだが、上の空の弥次郎兵衛は頭が回らない。 「さてどこだったか。おおそれそれ、鳥羽か伏見か淀竹田。」 それを聞いた、過雪が、 「山崎の渡しを越えて、与市浜へとお尋あれか。 仮名手本忠臣蔵の一場面じゃないか。茶化すな。ははは。」 と、笑いとばす。 胡麻汁が、 「そういえばたしか、あなたがたのお笠に江戸神田八丁堀、弥次郎兵衛と書き付けてありましが、その弥次郎兵衛さまというは誰の事ですかな。」 「はあ、聞いたことがあるような名だが、誰であったか。 おお、聞いたはずだ。私の実名は、弥次郎兵衛でございます。」 と、弥次郎兵衛は、やややけくそ気味で答える。 「ははあ、右や左の旦那様。よければお恵みをと回っている弥次郎兵衛とは、あなたのことであったか。」 と、胡麻汁が、言うと、 「さようさよう。」 弥次郎兵衛は、上の空で、返事をしている。
「ところで、弥次郎兵衛先生。 その偽者の一九を今すぐにでも、連れてきましょう。」 と茶賀丸が、意地悪く言うと、 「いや、私は、もう出立しましょう。」 と弥次郎兵衛は、立ち上がろうとする。 「なぜまた、今からお立ちになるので。 何時じゃと思っておられるのかな。もう、午後の十時をまわったが。」 と、胡麻汁が、怒ったように言うと、 「とうのも私の腹痛は変わっておりまして、このようにかしこまってばかりいるとだんだん悪くなる。 いつも夜分、外を歩いて、冷やすとじきに良くなりますから。」 と、なんとも間の抜けた言い訳をする。 「なるほどそれで、今から立とうというのか。 まあそうだな。そうするか。 たとえお前らがここにいると言っても、ここにはもう泊める部屋はない。 早く出ていけ。よくも人の名をかたって騙したな。」 と、胡麻汁が、弥次郎兵衛らの荷物をそこに放り出して言う。 「なに、かたっただと。」 と自分が悪いのを棚に上げて、弥次郎兵衛が詰め寄ると、 「そう、かたったわいな。 本当の十返舎先生は名古屋の川並道中から、状がついてきてるから間違いない。」 と弥次郎兵衛があまりにも威圧的に言うので、胡麻汁はちょっとひるんだがもっともなことを言う。 垂増が、 「最初からどうもおかしいと思っておった。 こちらから放り出されないうちに、ちゃっちゃと出てていかんせ。」 と、そっけない言いようだ。 「なんだ、放り出すだと。こりゃおもしろい。」 と、弥次郎兵衛がりきむが、 「おい弥次さん。このへんが潮時だ。だいたい、お前の思い付きが悪い。 さあここを出て、どこかの安い宿にでも泊まろう。 こりゃ、どなたも、真っ平御めんなさい。」 と、北八が、わびを入れる。
亭主の胡麻汁も腹は立ったが、おかしさもあってこのふたりが這わんばかりの様子でそこそこに支度し出て行くのを、家内の者どもと手を打ちたたき笑いながら見ていた。
弥次郎兵衛は、ずっとふくれっ面で、りきみかえっている。 北八の方は、おかしく思いながら、あとにしたがっている。
短冊に いやとは言わずに 旅の恥 書き捨てていく 偽りの名で
と北八が詠んで、なんとなくおかしくなって、笑い出した。 二人は旅館から出たのだが、もはや十時を過ぎているので家並みは、戸を閉めてひっそりと静まり返っている。 どれが、旅館かもわからない。 暗がりの中、旅館を探しながら歩いているといきなり軒下の犬どもが起きてきてほえかかるので、弥次郎兵衛はきょろきょろして、 「ええ、この畜生め。大きな声でほえやがる。」 と石ころを拾って投げつけると、犬は怒ってますます弥次郎兵衛にほえかかる。 その様子に、北八が、 「かまいなさんな。犬までがばかにしてやがる。おや、弥次さん。 妙な手つきをして、お前何をしてるんだ。」 となにやら変なしぐさをしている弥次郎兵衛に、問いかけた。 「いやなに、犬ににらまれた時には空中に虎という文字を書いて見せると、犬が逃げるということだからさっきから書いてるんだが、いっこうに逃げない。 どうやらこいつら、字が読めない犬みたいだ。ししし。」 と、どうやらこうやら、追い散らかして行く。
しばらく歩いてどうやら、この町の外れまで来てしまった様子に、弥次郎兵衛が、 「こりゃ、失敗した。ええい、ままよ。北八よ。夜どうし歩こうじゃあねえか。 なあ、きつい事はない。行こう。」 と、言うのを、 「お前は、とんでもないことを言う。まだ、十二時にもなっていないだろう。 まだ、どっかやってる旅館があるだろう。」 と、北八は、疲れた様子で答える。 「そうは言っても、今まで、歩いてきて全然見つからねえじゃねえか。」 と辺りを見回すと、 「いやあるぞあるぞ。遥か向こうに火が見える。 あの火を目あてに行って、宿をたのもう。」 弥次郎兵衛が言うので、その方をみて、 「それがいい。しかしあれは、家の灯りには見えないみたいだが。」 と、北八が、暗闇を透かして見ながら言う。 弥次郎兵衛が、 「とんだことをいう。あれは、戸のすき間よりもれる火にちがいない。」 と、自分に言い聞かせるように言う。 「うん、そうかもしれない。家のうちでたく火だ。 なにがなんでも、あそこに頼んで泊めてもらおう。」 と、足任せに、急いで行く。
つづく。
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 下 その四
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 雲津の旅館に泊まる。
旅館の亭主である胡麻汁が女中になにやら言って部屋を出て行くと、残った女中が側で給仕をしてくれている。 弥次郎兵衛が、 「まんざらじゃねえ。」 と言うと、北八が、 「いい女だ。しかしここじゃあ、お前が先生だし。おとなしくしておこう。」 と、自分の膳を見てみる。 膳の上には平たい椀がありそこには、コンニャクが盛ってある。 その手前には、みそが入った小皿がある。 さらに奥のほうに大福餅ぐらいの大きさの黒いものがのっている。
二人は箸を手に持ったまま顔を見合わせ、弥次郎兵衛が小声で、 「おい、北八。この皿にある、丸いものは何だろう。」 と、箸で指し示す。 「そうだな。なんだろう。」 と北八は、箸でつついてみる。 その感触ではどうやら硬そうで、とても箸でつかめるほどではない。 よくよく見ればどうも、ただの石のようだ。 二人は、びっくりして、 「こりゃ石だ。」 と、北八が言うと、 「な、なに。石なものか。のう、女中さん。」 と、弥次郎兵衛が、近くにいる女中に問いかける。 女中は当然のことのように、 「それは、石でございます。」 と言うと、北八が、 「それみろ。」 と、言って自分の前にある石を突いてみる。 いっこうに食べようとしない二人に手持ちぶさたの女中は、 「コンニャクのおかわりはどうですか。」 と、問いかけ、弥次郎兵衛が、 「ああ、そうだな。」 と、言うと、部屋を出て、台所の方に行ってしまう。
弥次郎兵衛は北八と二人きりになると、 「なんだこりゃ、ばかばかしい。どうやって、石を食うんだ。」 北八も、難しい顔をして、 「いやしかしそれでも、食べる方法があるんだろう。 でなきゃわざわざ、名物といって出さないだろう。 待てよ。さっきここの名物って言ったのは、この石のことか。」 弥次郎兵衛は、鼻で笑うと、 「そんな話、聞いたことがねえ。」 「いやまてよ。江戸で団子のことを『いし』と言うから、こりゃもしかすると団子じゃねえか。」 と、北八が、またまた箸で突いている。 弥次郎兵衛は、 「ははあ、なるほど。そういう��ともあるかもしれない。 まさか、本物の石じゃ、あるまい。」 と弥次郎兵衛も、箸で突いてみる。 しかし、どうやってみても、やっぱり石だ。 これは、不思議だと、キセルを取り出し、その雁首で叩いてみた。 「かっちり、かっちり。」 と、乾いた音がする。 「どうでも、石だ。こりゃどうして、食うのかと聞くのもしゃくだが、どうもわからねえ。」 弥次郎兵衛は膳の前で腕組みしている。
そのうち胡麻汁が、台所からやってきて、 「これは何もござりません。よろしうめしあがりませ。」 と、おかわりのコンニャクを盛って来た女中を促す。 「いあ、石が冷めてはおりませんか。 こりゃこりゃ温い石と、替えてあげなさい。」 と胡麻汁が言うと、二人ともいよいよ、ぎょっとした。
しかし、この石の食い方が分からないと思われるのがいやで、弥次郎兵衛はこれを食べたという顔つきで、 「いや、もうおかまいなさるな。石は、もう十分だ。 なんとも、珍しいものを賞味いたしました。」 と、箸をおくと、 「江戸の方でも、よく、小砂判を唐辛子醤油で煮付けたのや、煮豆などのように焚いて食べることがございます。 それに、また、墓石なども嫁をいびる姑に食べさせろとか言いますし。」 「・・・」 「実は、私もずいぶん好物でございます。 このたび、駿河の府中に逗留いたしたとき、馬蹄石をすっぽん煮にして振舞われたのだが、その時あんまりうまいので、四つも五つも食べました。」 「・・・」 「ところが腹が、重たくなって立うとしたところがどうやっても立ち上がれない。 しかたがないので、両方の手を天秤棒に肩あてして縛り付けて、かついでもらってやっとのことで便所にいきました。 ここの石は格別、風味もいいですから又、食べ過ぎたらどんなにご厄介になるかと、お気の毒でございます。」
黙って聞いていた、胡麻汁は、 「いや、それは、とんでもないことだ。 石を食べられるというのは、たいそう、歯がお達者なのでございますね。 しかし、火傷などはなさいませんか。」 と、心配そうに言う。 「それは、また、どうして。」 と弥次郎兵衛が、問いかけると胡麻汁は、 「いやあの石は、焼け石でございます。 すべてコンニャクというものは、水気のとれぬものでございますから、あの焼け石にておたたきなさると、水気が取れてかくべつ風味がよござります。 そのための焼け石でございます。食べるのではございませんわいな。」 「ははあ、なるほど。わかりました。」 と、やっと理解できて、弥次郎兵衛は、北八を見る。
胡麻汁は、 「まあ、そうして、あがって御さんなされ。これ、おなべよ。 石が、熱くなったら持って来なさい。早く。」 と、女中に言うと、皿に焼けた石をのせて、女中が冷めた石と交換していく。 弥次郎兵衛と北八は胡麻汁の言ったとおりに、かのコンニャクをはさんで焼け石の上に置くと、じゅうという音がして水気がとれる。 それをみそにつけて食べると、格別うまい。 二人は、感心している。
「まことに珍しい料理。まったく、感心しました。 それにしてもよく、このように同じ大きさの石がそろいましたな。」 と弥次郎兵衛が、問いかけると、 「いやそれは、あちこちを探し回って、蓄えておくんです。 どれ、お目にかけましょう。」 と台所に立って行くと、なにやら箱を抱えて戻り、 「ご覧下さいませ。二十人分は所持いたしております。」 と、胡麻汁は、箱の中を示す。 二人は、感心しながらも、なんだかおかしくて笑い出す。 その箱の横には何か書いてあるので、読んでみると、 『コンニャクのたたき石、二十人前』と、書いてある。
そのうち、食事も済んだ。 それを待っていたかのように、近所の狂歌よみが、おいおいやってきた。 胡麻汁が、その連中の一人をみて、 「や、これは、横額禿揚(よこひたいはげあがり)さま。 さあさあ他の方も、こちらへどうぞ。」 と、その連中を座敷に通す。 「はい、これは、十返舎先生、初めてお目にかかります。 私は、冨田茶賀丸(とんだちゃがまる)と申します。 それから、次は、反歯日色(そりっぱひいろ)、水鼻垂増(みずばなたれます)、金玉過雪(きんたまかゆき)、いづれもお見しりおききださりませ。」 と、紹介する。
胡麻汁はそれが、済むと、 「ところで、先生。御面倒ではありましょうが、扇子か短冊に先生のご自慢の歌を是非、したためていただきたい。 お願いできますでしょうか。」 と、短冊を突きつけられた。 弥次郎兵衛はもっともらしくそれを受け取ると、何か頭の中に浮かんだことを書いてやろうと考えたのだが、どうも自分が道々詠んだつまらない歌しか思いつかない。 仕方がないのでこれまで、江戸で聞いたことがある人の歌を書くことにした。
さらさらと弥次郎兵衛が書いて胡麻汁に渡すと、 「これは、ありがとうございます。」 といただき見て、早速詠み始める。
「お歌は、 『ほととぎす 自由自在に きくさとは 酒屋へ三里 とうふやへ二里』 はあなるほど、どこかで聞いたことがあるような歌だ。」 と怪訝な顔で、もう一つの短冊を詠む。
「こちらの、お歌は、 『きぬぎぬの なさけをしらば 今ひとつ うそをもつけや 明六つのかね』 いやこれは、三陀羅大人のお歌ではございませんか。」 と胡麻汁は、びっくり。
弥次郎兵衛は、平気な顔で、 「なに私が昔、読んだ歌だ。しかも、江戸で大評判になったんだ。 誰も知らないものはない。」 とすましている。 胡麻汁は、困惑気味に、 「いやそう言われても、去年私がお江戸に行った時に、三陀羅大人、葱薬亭大人などお目にかかりましてそのとき、短冊もいただいて参りました。 それ、御覧なされ。そのびょうぶにはってあります。」 と、指差すので、弥次郎兵衛は、振り返ってみる。
すると、そこにあるびょうぶに三陀羅と署名して、弥次郎兵衛が書いたのとおなじ歌が書いてある。 北八は、おかしく思ったが、気の毒にも思ったので、 「いや、私の先生は、そそっかしくてがさつな性格。 人の歌だとか自分の歌だとかの区別は全然気にしない人でございます。」 と、言って、弥次郎兵衛に、 「おい弥次さん。いや先生、これまで道中で詠んだ歌を書けばいいものを。」 と、小さな声で言う。
弥次郎兵衛は失敗したかと思いながらも、根っから細かいことを気にしない男なのでいけしゃあしゃあとして、又、別の短冊に道々詠んだ歌を書きだした。
つづく。
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 下 その三
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 上野の町で、一人の男に話しかけられた。
「突然ですが、あなたがたは、お江戸の方でございますかな。」 弥次郎兵衛が、 「ああ、そうだが。」 と、答える。その男が、 「私は白子辺りから、あなた方の後ろをなんとなくついてまいりましたが、道々の御狂歌を承りましておよばずながら感心いたしました。 とても、上手でございますな。」 と、褒める。 「いやなに。口から出任せでございます。」 と、弥次郎兵衛はまんざらでないように答えると、 「いや、驚きいりました。 ついこの前、お江戸の尚左堂俊満(しょうさどうしゅんまん)先生が、当地へお出ででございました。 あの先生も素晴らしかったが、あなたもさぞ名の通ったお方なんでしょうね。」 と、その男はなおも聞いてくる。 「はあ、なるほど。さようさよう。」 と、弥次郎兵衛は尚左堂俊満という名前を、なんとなく聞いたことがあるなと思いながら答える。
「それで、あなたの御狂名は、何でございます。」 弥次郎兵衛は、 「私は、十返舎一九と申します。」 と、江戸で人気の滑稽本の作者の名前を言う。 「ははあ、御高名は、かねがね承っております。 あなたが、十返舎先生でござりますか。 私、南瓜の胡麻汁ともうします。さてさて、いい所でお目にかかりました。 この度は、御参宮でござりますか。」 胡麻汁というこ男は、ちょっとびっくりして、聞いてきた。 弥次郎兵衛が、 「その通り。このひざくり毛という著述の事でわざわざ出かけました。」 と、適当に答えている。 「ああ、あれですか。あれは、傑作でございます。 ここへお越しになる道すがらも、吉田、岡崎、名古屋辺りの俳諧や狂歌をやる連中が、さぞうるさかったんでしょうね。」 胡麻汁が、聞いてくる。 「いや。東海道は宿場ごとに残らず立よるつもりですが、顔を出すと引きとめられまして、饗宴になるので気の毒ですから、みな素通りしました。」 と、これまた、弥次郎兵衛は、適当に答える。
「それにご覧の通りわざとこんな小汚い身なりをして、やはり神社仏閣に参詣する巡礼の旅行者のようにみせかけ、気楽でのんびりと風雅を第一と出かけました。」 「それは、お楽しみでございますな。 そうだ、私の宅は雲津でござりますが、どうぞ、お招きしたい。」 と、胡麻汁が、誘ってきた。 これは、面白くなってきたと、弥次郎兵衛が、 「ご迷惑でなければ、それはありがたい。」 と、答えると、 「まことに御珍客。近所の狂歌連中にも、ぜひお引き合わせしたいのですが。」 と、胡麻汁は、何かを考えている様子である。 「まあ、今夜、一泊していただくとしよう。 全く、不思議な御縁でいい人にあったもんだ。」 と、先にたって歩き出した胡麻汁は独り言を言ったあと、 「ところでここが、小川と言うところで饅頭が名物でございます。 一つ食べて、行きませんか。」 と、誘う。
しかし、弥次郎兵衛は顔をしかめて、 「いや、饅頭は懲りています。すぐに、参りましょう」 と、さっさと通り過ぎてながら、一首詠む。
名物の うまくて名高い 饅頭に くいつかんのは いかにせんかと
その歌を聞きながら、胡麻汁も慌ててついて行く。 それからほどなく、津の町の手前の高田の御堂についた。 右の方に見えるのが石井殿だ。
まな板の 上にて鯉の おどるさま これ佐用姫の 石井でんかも
左のほうには、如意輪観音堂もある。 また、国府の阿弥陀というのもある。
ここは上方から参宮に来た人が落ち合うところなので、往来はことに賑わしく、なかでも都の若い人々は普通の衣服の上にそろいの浴衣を着て、芸者のような格好をしている。 そのうえ、飾り立てた荷台を載せた馬をひきながら、歌を歌っている。 「ちちち、ちんちん。えい~い、ござれ。都の名所を~、見せよう~。 祇園、清水、やれ音羽山~。やあ、とこなあ~、よういやさあ。 ありゃあこりゃあ~、このなんでもせえ~、ちちち、ちんちん、えい~い。 地主権現の~、さくらにまくを打まわし~、霞がくれに~もの思わする~。 やあとこなあ、よういやさあ~、ありゃやこりゃや~。このなんでもせ~。」
弥次郎兵衛は黙ってその連中を見ていたが、 「おい、北八。見てみろ。すごい別嬪が見える。」 と、急に、北八のそでを引っ張る。 胡麻汁が、ポカンと見ている弥次郎兵衛と北八に、 「ありゃ、みな京都の連中じゃ。 あんなに立派な身なりをしていても、金は一文も使わねえ。」 と、言い捨てる。
その連中の一人が、胡麻汁に近づいてきた。 「すいませんが火を一つ、貸してくれませんか。」 「さあさあ、お点けなさい。」 と、胡麻汁はくわえていたキセルを差し出すと、その京の男は自分のキセルで吸い付け出した。 「ぱっぱっ。」 あんまり長いようなので胡麻汁が、 「まんだ、点かんのかいな。」 と、問いかけるが、京の男は、 「ぱっぱっ。」 と、平気で、吸っている。 胡麻汁が、 「なんじゃ、お前のキセルには、煙草が入っていないではないか。 はあ、わかった。吸い付けるふりをして、人の煙草を吸っていたな。 やめんかい。」 と、自分のキセルを取り上げる。
「ほらお江戸の先生。ご覧になりましたか。 京の連中はとんでもないケチな連中だ。 ところで先生。さっきの連中のせいで煙草がなくなった。 もう一服ください。」 弥次郎兵衛は、あきれたように、 「京の者をケチだというが、お前もさっきから、俺の煙草ばかり吸っている。」 と、ふところから煙草を取り出す。 胡麻汁が、したり顔で、 「それは当然。私は今、煙草入れを持っていません。」 と、弥次郎兵衛の煙草を自分のキセルに詰め始める。 「忘れてきたってことかい。」 と、弥次郎兵衛が、聞くと、 「いいや、忘れたわけじゃなくて、 本当のことをいうと、煙草入れを持っていないんです。 その訳は私は、えらい煙草好きで五分おきに吸いつけるくらいだから、こりゃ自分で買って吸ってしまってはたまらんと思いまして、それから煙草入れはやめてキセルだけ持ち歩いております。」 と、胡麻汁は、自慢げである。 「それで、人のばかり、吸っているんだな。」 と、弥次郎兵衛は、すっかりあきれている。 「まさに、その通り。」 「そりゃ京の連中に輪をかけて、お前がケチというもんだ。」 と、胡麻汁が自分のふところに入れようとしていた煙草入れを、ひったくるように取り返した。 胡麻汁は、 「はあ、そうかいな。ははは。」 と、笑って、 「ところで少々、遅くなったようだ。急ぎましょうか。」 と、足を速めて行く。
周りは薄暗くなってきて、月もはっきり見えるほどになってきた。 この辺りから、良洲(からす)の宮へいける道があると聞いて、
照わたる 秋の日本 ならば今 うかれまいらん 鳥御前に
などと一首詠む。 やっと雲津について南瓜の胡麻汁が自宅に案内した。 どうやら旅館のようだ。 運良く客は泊まっていないようで奥の間に請じ入れ、かれこれともてなしてくれる。
北八は、弥次郎兵衛が自分の名前を偽っていて、どうせ又酷い目にあうのだろうがそれも面白いと、共々奥の間に上がりこんだ。 やがて湯にも入ってしまい、ゆうゆうと座敷に座っていると、やがて亭主の胡麻汁がやってきて、 「これは、おくたびれでございましょう。ようこそお出でくださいました。 しかし折あしく、この頃は悪い天気で時化が続いておりまして、いいお魚がございません。 それで当地では、コンニャクがうまいので、まあこれでもお召し上がりいただこうかと申しつけておきました。」
弥次郎兵衛は、 「もう、おかまいなされるな。」 と、主人をねぎらうと、 「そういえばこの者をまだ、紹介しておらなかったな。」 と、北八を指差す。 「そういえばそうでした。あなた様は。」 と、胡麻汁に問いかけられて、 「私は十返舎の秘蔵弟子、一片舎南鐐と申します。 ふしぎなご縁で御やっかいになります。」 と、北八は、口から出任せを言う。 ちなみに、小判一両の八分の一を南鐐(なんりょう)といい、これをまた一片とも言う。
胡麻汁はちょっと首を傾げたが、北八の話は聞き流して、 「いやいや、何にもないですから、構いたくても構えませんって。 じゃ先生、ごゆっくり御くつろぎください。」 と、弥次郎兵衛に言う。
それを待っていたかのように入ってきた女中が、 「お食事を、お持ちしました。」 と、二人の前に膳を据えると、 「御ゆるりと、めしあがりませ。」 と、ならべられた膳を見回し満足そうにうなずき、女中になにやら言って部屋を出て行った。
つづく。
1 note · View note
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 下 その二
伊勢の参宮道で馬に乗ることにした北八。ところがその馬方が借金取りともめて…。
「俺も、さっきからいらいらしてたんだ。 まったく、いまいましい馬に乗り合わせたもんだ。 しかしまあ、まだ金も払っていないんだしこれまで、ただで乗ったのだからよしとして降りよう。」 と、権平に口をとらせて、北八は馬から降りる。
馬方が、その様子に慌てて駆け寄り、 「もし旦那。お前様が降りてはこの馬を取られる。乗ってて下さい。」 と、北八を馬に乗せようとする。 権平は、馬方と北八の間に割って入ると、 「いや、だめだ、だめだ。」 と、馬方を止めようとする。 「権平さま。何とかするから旦那をおろしては、気の毒だ。 さあさあ、乗ってください。」 と、北八を乗せようとする。北八は、馬方の勢いにあおられて、 「なにまた、乗るのか。しっかりたのむぞ。」 と、馬に乗った。
権平はやっきとなり、 「こりゃこりゃ長太。どうするつもりじゃ。 俺を愚弄するのか。旦那、降りてください。」 北八は、馬の上から、 「なんだと。また、降りるのか。 貴様たち、俺を降ろしたりあげたり、足も腰もくたびれた。」 と、言って、そっぽを向く。 権平は、 「そうは言っても私の馬になったんだから、どうぞ降りてください。」 と促すと、北八は、 「ええい、面倒だ。」 とじれったくなって、ぐっと飛び降りる。
「はてさて、降りなくてもいいです。 権平さま。こうしましょう。私も商売の途中でなんともしようがない。 せめて、家に帰るまで待ってください。 そのかわりここで、この木綿の綿入れを渡しましょう。」 馬方は、自分の着ている木綿の綿入れを指差して言う。 権平は、ちょっと考えて、 「そうしたら、それで、決着をつけるか。」 と、うなずく。 「もうこれで安心です。さあ旦那、乗ってください。」 馬方が北八を、また馬に乗せようとする。 「なに又、乗れというのか。もう勘弁してくれ。俺はここから歩いていく。 なんならここまでの金を払うから、もう、乗るのはいやだ。」 と北八は、もううんざりした様子である。 「そう言わないで、乗ってくださいよ。頼みますよ。さあさあ。」 と馬方は、馬の口をとって勧めるので、北八またしかたなく馬に乗ると、それを見ていた権平は馬方の長太に言う。 「さあ、約束のその布子、脱いでもらおうか。」 「いやそう言ったが、これも家に帰るまで待ってください。」 と馬方は、馬を引いて歩き出そうとする。
権平は、怒り心頭で、 「何を言う。おのれもう了見ならん。さあさあ、旦那。降りてください。」 と、長太の肩を掴むと、北八に言う。 「ええ、この分からず屋の連中め。 又、降りろといいやがる。もう、いやだ。 さあ、早くやれ。降ろせるもんなら降ろしてみろ。」 と、北八も腹を立てている。 馬方は、平気なそぶりで、 「旦那の言うとおり。降りなくても、いいですよ。さあ、行きましょう。」 と、馬を引いて行こうとするので、権平は、 「いや、何をする。降りなくていいとは、どういうことだ。」 と、真っ赤になって怒り出す。 権平はそのまま馬に取り付こうとするが、馬方はそれを突き退けて馬の尻を思いっきり叩いた。 すると馬は勢いよく駆け出して行ってしまった。
北八は、馬の上で、真っ青になり、大声を上げて、 「やあい、やあい。誰か、助けてくれ。こりゃ、どうする。」 と、必死にしがみついている。 権平は、走り出した馬を見て、 「馬を逃がすわけにはいかん。おおい。待て。」 と、追っかけ出す。
馬の上の北八は一生懸命馬のくらに取り付いていたが、馬はやみくもに走っているのでこのままではどうなるか分からないと、思い切って飛び降りた。 しかし、くらの縄に足がが引っかかり、真っ逆さま落ちて、したたかに腰の骨を打ってしまった。 「あいたたた。誰か、来てくれ。あいたたた。」 と一人でもがいていると、馬方がまず駆けつけてきた。 「もし旦那。お怪我はないかいな。どりゃどりゃ。」 と手をとって、引き起こす。 その横を権平が馬を捕まえようと、駆け抜ける。 馬方はこれを見て、そうはさせないと抱きかかえていた北八をそこにおっぽり出すと、駆け出して行く。
北八は、 「おおい待ちやがれ。俺を酷い目に合わせてそのまま行くのか。」 とぶつぶつ言いながら、起き上がった。 腹が立ったが周りに誰も居ないのでしょうがないし、馬方らを追っかけようにも足や腰が痛くてそれも出来ない。 やっとのことでそろりそろりと歩き出した。
借金を おうたる馬に 乗りあわせ 貧すりゃどんと���落とされにけり
北八はこの様子で、一首詠んだ。 やがて、矢橋村に着いた。
弥次郎兵衛は先を行っていたが、先程の馬のいざこざを露ほども知らないのでだいぶ先に来てしまったかと、ここで待ち合わせることにした。 やがて、引きずるようにやってきた北八を見て、 「おやおや、北八。そのなりはどうしたのだ。」 と、問いかける。 「いや、もう、話にもならない。とんでもない目にあった。」 と、さっきの状況を一部始終話すと、 弥次郎兵衛は、面白がって、一首詠む。
馬方が 一目散に 追いかける 落とされたる 北八残して
それより玉垣を通り過ぎ白子の町で、福徳天王を拝んで子安観音の別れ道で弥次郎兵衛が、一首詠む。
風をはらむ 沖の白帆は 観音の 加護にやすやす 海わたるらん
それか���この町を過ぎると、磯山というところに着いた。 ここには吹き矢をさせる店があるようだ。 その店の親父が往来に呼びかけている。
「さあさあ、遊んで行きなされ。 題目はなんとあの忠臣蔵の十一段の続きじゃ。 それ吹き矢。やれ吹き矢。 当てると不思議。たちまち変わるからくりじゃ。 新しい趣向も加わって、精巧なからくりじゃ。これじゃこれじゃ。」
北八は、その声に立ち止まると、 「ははあこれは『おかる勘平』か。 こちらは『魂胆夢の枕』と。いや、こいつをやってみよう。」 と、吹き矢筒に矢をいれて、ふっと吹く。 弥次郎兵衛は、北八の後ろからそれを見て、 「なんだ。はあ、えらいマツタケ(一物)が出た。こりゃおかしい。ははは。 与一兵衛、闇の夜は何が出るだろう。」 と吹き矢筒に矢をいれて、ふっと吹く。 「ひゃあ、妖怪が出てきたぞ。ははは。向こうはなんだ。」 と北八がそちら側へよる拍子に弥次郎兵衛にあたってしまい、体制を崩した弥次郎兵衛はその側に寝ていた犬の足を踏んでしまう。 「きゃんきゃん。」 と犬は、弥次郎兵衛にほえかかる。 「この畜生め。」 と吹き矢の筒で殴りつけると、犬もワンといって噛み付いてきた。 「あいたたた。畜生め。打ち殺すぞ。」 と怒るはずみに、どっさりと転げてしまった。 とそこに、煙草入れが落ちていた。 「転んでもタダではおきないとはこのことだ。ほれ、煙草入れが。」 と弥次郎兵衛が、拾おうと手を伸ばした。 すると向こう側にいる男の子が、引いた糸につらて煙草入れはするする。 「なんだ景品か。いまいましい。いっぱい食わされた。」 と弥次郎兵衛が出した手で頭をかくと、それを見ていた子供が、 「あほうじゃ。わははは。」 と、笑っている。 「こいつは、いい恥さらしだ。さっさと行こう。」 と北八が、吹き矢の金を払い出かける。
二人が歩いていると今度は、向こうにキセルが一本落ちている。 北八がさきにそれを見つけて、 「それ弥次さん。また、拾わないのか。」 とふざけて言うと、弥次郎兵衛は、 「いやもうその手はくわない。あれ、あとからくる親父が拾うだろう。」 と通り過ぎて振り返ってみると、あとよりきた親父が例のキセルを拾って、自分のふところに入れてしまいさっさと行っってしまう。 弥次郎兵衛は、その様子に、 「あれ、だましじゃなかったのか。」 と北八の方を見ると、 「ははは、お前は、ひどく運が悪いぜ。」 と笑いながらあるいて行く。
やがて上野の町に着いた。 さてどうしようかと二人がたたずんでいると、この辺りの人とみえて羽織、股引で下僕を供に連れている男が弥次郎兵衛に近づいてきた。 「突然ですが、あなたがたは、お江戸の方でございますかな。」 弥次郎兵衛が、 「ああ、そうだが。」 と、答える。
つづく。
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 下 その一
左手に神風も伊勢と都に別れるといわれる追分を見ながら野道をたどっていっていると、向こうから耕作馬にちょこんと乗っている薄汚い男がなにやら、甲高い声で歌いながらやってきた。
「見るからに~、暖かそうな~、女と寝たならあ~、手織りの~、木綿の綿入れを、一枚、さっさと脱ぎ捨てた~。なあえ~。」
それを見た弥次郎兵衛が、立ち止まって北八に言う。 「おい、ちょっと見ていろ。 あの向こうから馬に乗ってくる野郎を、降ろしてみせる。」 と、脇差をぐっと抜き出して差しなおし、合羽の袖を前のほうに折ってさも、刀の柄を持っているようにみせて歩いていく。 すると、前から馬に乗って歩いてきた男はさっと降りて行く。 弥次郎兵衛は、 「ほら見ろ。どうだ。」 と、自慢げに言っている。 するとまた、向こうより横乗りした馬かたがやってきた。 やっぱり、歌を歌っている。
「晩に~泊まりに~、行こうかと、思っていたが~、やめたやめた。なあ~。 どうして行かないか~、と言うと~、賭博で負けて~、裸になったから~。なあえ~。」
弥次郎兵衛は、北八に目配せして、 「こいつも降ろしてやろう。えへん。」 と、大きく咳払いする。馬かたは、 「しっ、しっ。」 と、馬をなだめるように言ってからうろたえた様子で、降りて通り過ぎる。 「北八、どうだ。恐れ入ったか。」 と、弥次郎兵衛が、北八に言うと、 「武士を見ると、馬に乗ったまま通り過ぎることが出来なことはみんな知ってることだ。」 と言い、鼻で笑う。
その通りと、大きくうなずくと、弥次郎兵衛は、 「だから、俺を侍だと、思ったということだ。」 と言うのに、北八は、笑いながら、 「馬鹿なことを言うもんだ。後ろを見てみろ。侍が、二人やってきている。」 と、指差す。 「ええ、本当か。」 と、弥次郎兵衛は振り返った拍子にこのお侍にばったりと、ぶつかってしまう。 「はいこれは、失礼いたしました。 ところで鈴鹿へは、あとどれくらいでございましょう。」 と、とっさにその場をとりつくろった。 どうやらこの侍は、この辺りの領主から特別の待遇を受けている郷士らしい。 「それこの川の提から、すっと空に上がるともうすぐでござる。」 「はい、ありがとうございやす。」 と弥次郎兵衛が頭を下げると、侍はさっさと行き過ぎる。
北八は、その侍の後姿を見送って、 「提から空へ上がれとは、どういうことだ。 竜が天に召し上がるわけじゃあるまいに。」 と、つぶやいている。 弥次郎兵衛はことなく済んで、ほっとしながら、 「たぶん、提の上の方に行けって事だろう。」 と、さっさと歩いていく。
北八はその後を付いて行くと、橋が架かっておりそのそばに橋番が立っている。 「すまんがこの川は、何という川だ。」 北八が尋ねると、橋番が、 「この川は内部川といいます。 でこの橋は、橋錢を二文払っていただきます。」 というので弥次郎兵衛が、ふところから金を取り出し、 「それ二文ずつ、四文だ。」 と渡し、橋を渡りながら一首詠む。
抜け参り ならば博打も うつべ川 渡しの金を 借りてでも
さらにその先の鈴鹿川を渡ると、そこは鈴鹿の町だ。 街の入り口に宝殊山、火除地蔵堂がある。 弥次郎兵衛はそれを見て、一首詠む。
安穏に 火よけ地蔵の 守るらん 夏の暑さも 冬の鈴(涼)鹿も
二人はそこで、一休みすることにした。 茶をすすりながら休んでいると、馬かたが話しかけてきた。 「もし、旦那方、馬に乗って行かんかね。」 「馬か。それもよかろう。戻り馬なら安いんだろう。それなら、乗っていこう。」 と、弥次郎兵衛が、答えると、 「三重の安芸まで戻る馬じゃから、荷をつけて二百五十で行きましょう。」 馬かたは、ニコニコして言う。 今度は、北八が言う。 「一頭の馬の背の両側に椅子を置いて二人で乗っていけるなら、百五十ずつやるが。」 それを聞いて馬かたは、ちょっと困ったようで、 「今日はその道具を持ってきていない。ここから上野まで、たった三里じゃ。 白子までの一里半で交代することにして、交互に乗って行ったら。」 と、言う。
弥次郎兵衛が、これは、面白いと思って、 「二人いっしょに、乗れないと嫌だ。」 とからかうと、馬かたは、 「そしたらお二人とも、馬の鞍へくくって行きましょう。 この縄で締めりゃ、切れることはない。」 と、怒ったふうに言う。 その様子に、北八が、 「とんでもないことを言うもんだ。それじゃ、煙草も吸えないじゃないか。」 と、訳のわからないことをいうと、 「そんなら、かわりがわりに乗っていこう。百五十でいいか。」 と、馬かたの威勢に押された様子で、弥次郎兵衛が答える。 馬かたは、 「ちょっと安いが、まあ、それで行きましょう。」 と、馬の値段も決めて二人の荷をくくりつけると、まずさきに北八が乗って出かけることになった。
弥次郎兵衛は、その様子を見ていたが、 「俺は、先に行こう。」 と、さっさと歩いて行ってしまう。 その後を、馬が 「ヒヒン、ヒヒン。」 といななき、馬に付けた鈴の音が、 「シャン、シャン。」 と、聞こえている。
しばらく歩いてると、紺縞の洗濯したての雨合羽を着て、厚く織った風呂敷を首に巻いた男が走るようにやってきた。 男は、すれ違いざまに、 「あれお前は、上野の長太じゃないか。 今、お前のところへ行って来たところだ。いい所で会った。」 と、この馬かたに話しかける。 長太と呼ばれた馬かたは、 「はあ権平さまじゃ、ございませんか。 こりゃさて私は、申し訳ない。」 と立ち止まって、ちょこんと頭を下げた。 「申し訳ないと思うのが当たり前だ。そうだろう。 毎月末毎に、返済することになっている借金を、まだびた一文、返してもらっていないのだから。 どうするのか。それを聞きたいもんだ。」 権平は、仁王立ちで、長太と呼ばれた馬かたの前に立っている。 「まあまあ、こっちに来て下さいな。」 と馬かたが、街道の端の方に権平と馬、それに馬に乗っている北八を連れて行く。
この馬かたは借金のことわりをしようと思って、日当たりのいいところまで連れて行くと、まず自分が土手にどっかりと腰を下ろし、 「まあそのように腹をたてなさんな。ここへかけたらどうです。」 と、手で合図する。 権平が、腰を下ろそうとすると、 「いやそこのには、犬のくそがある。」 と、権平のピンチを救ってやる。 権平はちょっといやな顔をしてから、長太の反対側に座る。
「今日来られるのがわかっていたら家の掃除をして、『こりゃこりゃ、権平さまへ茶をあげんか。いや、酒を勝って来い。』と言うところじゃが、ここは街道だからそれもできない。」 馬かたの長太が、話し出す。 馬に乗っていた北八が、 「こりゃ、どうする。早くやらんか。」 と、馬かたに話しかけると、 「はてせわしない人だ。ちょっと待ってくださいな。 今大事なお客様がいらっしゃるところなんだから。」 と長太は北八に言い、また権平の方を向いて、 「さてまあ、聞いてください。 去年の冬からうちのかかあが、病気になりましてな。 がきどもにはせがまれるし、金にもならない役所の仕事をいろいろさせられたりで、まあそんなこんなで、とりあえずこうしてください。 四、五日のうちには、ひゅっとこちらからもって行きましょう。」
権平はそこまで、黙って聞いていたが、 「いいや承知、出来ない。 そう言ってもよう戻せないだろう。だめだ、だめだ。」 と、首をふる。 「もう、三年も返してもらっていない。 貸した時から、利子に利子が付いて、二十貫あまりというもんじゃもの。 簡単に、返せるかな。」 権平は、更に言う。 「そのかわりに、あの馬を貰っていこう。 ほれ金が払えないときは馬をかわりに渡すと、証文に書いたじゃないか。 それなら、文句はあるまい。」
権平は、馬に乗った北八に言う。 「さあさあ、もし、馬の上の旦那さま。 今、お聞きになったとおりじゃ。 借金返済のかわりに、その馬を受け取ることになりました。 お気の毒ですが、どうぞ、ここから降りてください。」 北八も、その通りだと思いながら、 「俺も、さっきからいらいらしてたんだ。 まったく、いまいましい馬に乗り合わせたもんだ。 しかしまあ、まだ金も払っていないんだし、これまでただで乗ったのだから、よしとして降りよう。」 と、権平に口をとらせて、馬から降りる。
つづく。
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 上 その六
追分町の茶屋で、一休みしている弥次郎兵衛と北八に、 「私もお江戸にいた頃は、日本橋本町の鳥飼の饅頭を、賭けをして二十八も食ったことがあったな。 しかも、その賭けに勝ったんだから格別だったな。」 金毘羅がつぶやくように言うと、弥次郎兵衛が、 「鳥飼といやわしらの町内だから、毎日茶うけに五、六十は食べてました。」 と、ほらをふく。 金毘羅は、さも感心したように、 「それはえらいお好きですな。私も餅好きでね。 ほれ、御覧なさい。一息で五膳食べてしまいましたわ。」 と、積み上げられた椀を指す。
弥次郎兵衛も、 「俺は、今ここの饅頭を十四、五も食べたんだが、甘いものには目がないほうなんで、まだ腹に入るようだ。」 と、自分の横にある、皿を指差す。 金毘羅は、首を振りふり、 「いやしかし、いくら甘いものが好きでも、もう食べられないでしょう。 十四、五も食べたら、それが限度というものでしょう。」 「なにまだ、食べられます。」 と、弥次郎兵衛は意地になっていった。 金毘羅も後にはひかない。 「どうしてどうして。あなた口ではそうおっしゃるが、そのようには食べられないと思いますよ。」 「なに、食べられないことがあるものか。ただ、金がかかるから食べたりしないが、誰かが奢ってくれるというなら、まだいくらでも食べられます。」 弥次郎兵衛はますます意地になって言っている。
金毘羅はポンと膝を叩くと、 「これは面白い。失礼ながら私が、奢りましょう。 同じ数だけ、召し上がってみませんか。」 「ああいいよ。食べましょう。」 と、弥次郎兵衛は、つい言ってしまう。 金毘羅は、ニヤニヤしながら、 「しかしただ、お金を出すのもつまらない。 もしあなたが、全部食べられないとその饅頭のお金を私がいただくということにしましょう。」 「そりゃいい。ただで饅頭が食えるなら、そんないい話はない。」 と、弥次郎兵衛がつい調子にのって饅頭を取り寄せる。 そして、食べ出したのだが途中で、苦しくなってきた。 でも、金毘羅を負かしてやろうと、やっとのことでみな食べてしまう。
金毘羅は驚いた様子で、 「こりゃ、たまらない。えらいえらい。もうもう私は、かないません。」 と、饅頭の金を弥次郎兵衛に払う。 「俺だけが、金を貰うのも気が引ける。 どうだ。お前さんも、一つやってみたら。 こんな小さな物はいくらでも、食べられる。」 金毘羅は、ちょっと思案していたが、 「いやいや、あなたのようには、食べられないでしょう。 しかし私も、残念だ。十ばかり食べてみましょう。」 と、饅頭を取り寄せようとする。 弥次郎兵衛は、その様子に、 「なにを、十をぐらい。二十食べな。 そのかわり、ひつも残さずに食べたら饅頭の代金とは別に百文、金毘羅様へのお賽銭として差し上げましょう。」 と、ニヤニヤしている。
金毘羅は、パッと顔を輝かせると、 「そりゃ、ありがたい。ええいままよ。やってみましょう。」 と、饅頭を二十取り寄せて、ただもじもじと見てばかりいたが、やがて食べ始めると、一気に十個ほど食べてその後、いやそうな顔つきでぽつりぽつりとやっとのことという感じで、結局全部食べてしまう。 弥次郎兵衛は、当てが外れて、 「こりゃ、すごい、大食漢だ。」 と、苦笑いしている。 金毘羅は、苦しそうに、 「お約束の通り、饅頭代は差し引いて、お賽銭を百文くださいませ。」 と、弥次郎兵衛に言うと、 「ああ、今やろう。しかし、あんまり見事だからもう、二十食べな。 そしたら今度は、お賽銭として三百文やろう。 そのかわり食べられないと、こっちへ二百文となるがどうだ。」 と、言う。 「面白い。面白い。何事も、お金が絡むと、出きるもんだ。 腹の裂けるまでやってみましょう」 と、金毘羅は苦しそうながら、やる気漫々である。 弥次郎兵衛は、その様子にちょっとひるんだが、 「さあさ、金を出しておくから、お前も二百文そこへ出しておきな。」 と、三百文をつきだしておいた。
弥次郎兵衛は今とられた百文に、利子をつけて取り返すつもりで、さすがにもう食べられないだろうと思って饅頭をまたまた二十取り寄せ金毘羅の間に置くと、今度は何の苦もなくあっという間に二十を食べてしまい、手ばやくかの三百文を掴むと、ふところの中にいれてしまう。 「これは、ありがたい。饅頭の代金もよろしうおたのみ申します。 ははは、思いがけないご馳走になりました。いや、ごゆっくり。では、これで。」 と、神に供える酒を背負い後も見ずに、出て行く。 弥次郎兵衛は、あきれはてている。 北八が、 「ははは、たぶん、こんなことになるだろうと思った。」 と、笑うと、弥次郎兵衛が、 「いまいましいやつめ。 最初の百文が惜しくて、つい悪乗りをした。腹の立つ。」 と、悪態をつく。
そのうちかごかきが、ぶらぶらとやってきた。 「だんな方、かごはどうですかいな。」 と、話しかけてきた。 弥次郎兵衛は苦りきった様子で、 「ふん、かごどころじゃない。えらいめにあったんだ。 饅頭を食べる競争をして、三百文取られたところだ。」 かごかきは、手で顔をひょいっと撫でると、 「ははあ、今の金毘羅じゃな。やつは、あんな様子をして歩いておりますが、ありゃ、大津の釜七という詐欺師野郎ですわ。」 弥次郎兵衛らが、キョトンとしていると、 「先週も鈴鹿坂の下で餅を食べる賭けをして、七十八も食べたとみせて金を人に払わせ、餅は全部、たもとに入れていたそうですじゃ。 旦那も、いっぱい食わされましたな。」
この話を聞いているところへ、伊勢参りらしい子供が二人、饅頭を三つ四つづつ手に持って食べながら、近づいてきた。 「旦那さま。抜け参りに施しを。」 子供のうちの一人が、北八に話しかけてきた。 「これ、お前たち。もしかしてその饅頭は、誰かに貰ったものか。」 伊勢参りの子供は、顔を見合わせ、 「はい。どうして、ご存知で。 先程、すれ違った金毘羅参りの人が、親切にもくれました。 と、ニコニコして言う。
弥次郎兵衛は、それを聞いて、 「ええ、そんなら、金毘羅が食ったと見せて、俺を、騙したのか。 いまいましい、追っかけて、ぶちのめそうか。」 と、怒り出したのを、北八が、 「いいじゃねえか。俺たちも神参りだ。ゆるしてやんな。 それに全部、こっちが間抜けだからいけないんだ。ははは。」 「そう言っても、あんまりしゃくにさわる。 腹の中が煮えくり返るようだ。」 弥次郎兵衛がいうと、北八が、 「昨日の泊まりで、俺を酷い目にあわせた報いだと思いな。 本当に、いい恥さらしだ。」 と言いながら、一首詠む。
盗人に 追錢やるは まんじゅうの 案の外なる さい銭取られて
弥次郎兵衛は、その狂歌を聞いて、 「面白くもねえ。」 と、女中に向かって、 「もしもし、饅頭のお代はいくらだね。」 「はいはい、全部で、二百三十三文でございます。」 と、女中が答える。 弥次郎兵衛は、 「しょうがない。」 と、不承不承金を払うと、かごかきが、 「だんな、運直しに安くやりますから、どうですか。」 と、話しかけてきた。
弥次郎兵衛は、 「いやいや。」 と、首を振ると、かごかきが 「酒代ぐらいで、行きますから。」 と、なおも、誘ってくる。 「きさま酒を飲むのか。」 と、弥次郎兵衛が問いかけると、かごかきが、 「はい、酒は好きで一升ぐらいは、簡単に飲んでしまいます。」 と、答える。 弥次郎兵衛が、さっきの饅頭の賭けになぞらえて、 「ということは、また、酒を飲む賭けをしようと言うんだろう。 もういやだいやだ。さあ北八、出かけよう。」 と、これより、東海道から分かれて、伊勢の参宮道に入る。
これで、五篇 上は終わりです。五篇 下に続きます。
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 上 その五
地蔵さまのお鼻が欠けた事に怒っている田舎者に、亭主はよいよ、苛立ちながら、 「お地蔵さまのお鼻も大切じゃが、お前さんがたのお荷物も大事じゃ。 何か、なくなった物はないか。どうでも、怪しいやつらじゃ。 それ、あの目つき。」 「いや、わしらは、泥棒なんかじゃない。 人聞きの悪いことを言わないでくれ。正直でまじめな旅人だ。」 と、北八は、首を振りながら答える。 田舎者も、自分の荷物を確かめてから、 「いいや、そうじゃあるまい。 だいたいお前が泥棒でないなら、どうして今時分そこに寝ていたんだ。」 「いや、これはそう、便所に行こうと思って。」 北八は、一瞬言葉に詰まってからへたな言い訳をする。 それを聞いて、旅館の亭主、 「馬鹿なことを言うな。便所は、座敷の縁さきにあるのに。 お前も、寝る前に行ったであろう。そんなごまかしにひっかかるもんか。」 と、にらみつけるので、北八しかたなく、 「そう言われてはしかたがない。恥ずかしい話��が正直に言いましょう。」 「おお、そうさ。最初から正直に言えばいいものを。」 と、旅館の亭主が言う。
「いやどうもお恥ずかしいが、今俺がここに居るわけは、約束した女のところに夜這いにきて、この棚の落ちた音にまごついてこうなったのでございます。」 田舎者が、驚いた様子で、 「なに、夜這いに来た。いやはやお前さんは、罰当たりな男だ。 どこの国に、石地蔵さまのところへ夜這いにくるやつがおるんじゃ。」 「言えば言うほど、つまらない言い訳ばかり。」 旅館の亭主は、北八をにらんでいる。 「こりゃ、とんだ災難にあった。弥次さん、弥次さん。」 と、北八は、弥次郎兵衛を呼びつける。 先程から、起き出してきてこの様子を見ていた弥次郎兵衛は、おかしいのをぐっとこらえて出てくると、 「こりゃあ、どなたもお気の毒。あの男は、私が保障します。 変なものじゃない。勘弁してやってください。 又、地蔵さまの鼻とやらがかけたといいなさるが、どうぞ私に免じてなんとか許してやってください。」 と、色々でまかせでことわりを言いながら、何とかこの場をおさめてしまった。
旅館の亭主も興奮が冷めてくると、なるほど北八は、悪者とも見えない面をしている。。 どうやらなくなったものもないようだし、弥次郎兵衛の言った事に納得してしまった。
夜這いかけ 地蔵の顔に 三度笠 またかぶりたる 首尾の悪さよ
弥次郎兵衛が今の様子で、狂歌を一首詠むと、みんながどっと笑いだし、どうにかこうにか揉め事もおさまった。 まだ、夜があけるのには時間があるから、みなめいめいに寝床に入って休むことにした。
しばらくして一番鶏の告げる声や馬のいななきも聞こえてきた。 弥次郎兵衛と北八は急いでおき出すと、支度を整えてこの旅館を立ち出た。
遥かなる 東海道も これからは 京の都へ 四日市なり (この当時、四日市から京都まで、四日で行けた。)
それより、浜田村を通り過ぎ赤堀につくと、往来はまことに賑わしく、そこかしこに人々が集まっている。 いったい何事かと、弥次郎兵衛と北八も、道路の片方によっていきながら、 「もしもし、何でございます。」 近くの親父に聞いてみると、 「ああ、あれ見なせえ。」 と、指差す。 二人は、その方を見てみたが、特に何も見えない。北八は、 「けんかでも、やってるのかな。」 と、聞くと、 「いいや、天蓋寺の蛸薬師さまが桑名へ開帳に行くんだが、今ここを通られるからみんな見てるんだ。」 と、親父が答える。 それを聞いて、弥次郎兵衛が、 「ははあ、なるほど。向こうの方に見える。」 と、指差す。 人だかりの中を村の名を染めたのぼりを先頭に、同じような格好をした集団がやって来る。
連中は、大きな声で、 「なあまあだあ。なあまあだあ。」 と、言うのを、北八が、 「たこ薬師さまというのは、茹でたのじゃないようだ。生だそうだ。」 と、ちゃかしている。 連中は、更に、 「なあまあだあ。」 と、繰り返している。 「先頭の、のぼりを持って行くやつは、なんて間抜けな顔だろう。」 と、弥次郎兵衛が言う。
連中が、見物している人々に、 「お賽銭は、これへ、これへ。」 と、言っている。 「これは、海より上陸してしていただいた、天蓋寺のたこ薬如来さま。 ご信心の方は、お心もち次第。どうぞ。 さあさあ、お心もちは、いいですか。」 北八は、それに答えて、 「お心もちは、いいですよ。今朝中型の椀で、三杯おかわりしましたから。」 と言うと、弥次郎兵衛も、 「そういや、今朝の食卓にはたこがあったな。ありゃ、うまかった。」 と、はぐらかす。
その後ろから、御厨子(みずし)に入った薬師如来を、大勢で担いで通って行く。 更にその後から、天蓋寺の和尚が乗り物に乗ってくると、そこらじゅうにいた人たちが念仏をあげてくれと願い出る。 従者が、 「よかろう。お十念を。」 と、言うと、乗り物を下ろして、戸を引きあける。
現れた和尚は名前のごとくゆでだこのようで、赤ら顔にあばたもあり髭だらけで、でっぷり太って脂ぎっている。 その和尚が、さも、もっともらしく、 「なむあみ。」 と、言うと、みんなもそれを真似て、 「なむあみ。」 と、言う。 更に、和尚が、 「なむあみ。」 みんなもそれを真似て、 「なむあみ。」 と、繰り返す。
和尚は、『なむあみ』と繰り返し最後に、どうしたはずみか鼻がムズムズして、 「はっ、クション。」 と、くっしゃみをしてしまう。 みんなも、これが、念仏だと勘違いして、 「はっ、クション。」 と、真似をする。 和尚が小声で、 「畜生め。」 と、言うと、みんなも、小声で、 「畜生め。」 と、言う。
「ははは。笑わせやがる。なんだ、あの念仏は。 あの和尚は、くしゃみ畜生めだ。ははは。」 と、この様子に、弥次郎兵衛は笑っている。その横を連中は、 「なあまあだあ。なあまあだあ。」 と、賑わしく通り過ぎる。 弥次郎兵衛と北八は、おかしく後を見送りながら、
念仏を 唱えながらの くしゃみは 余計なもので 風邪をひかせし
と、詠んで笑いながら、そこを通り過ぎた。 そこから、追分町につくとここの茶屋は、饅頭が名物で茶屋の女中が、 「お休なさりまあせ。名物のまんじゅうの暖かいのを、おあがりまあせ。 お雑煮もござりまあす。」 と、声をかけている。
北八が、 「右側の茶屋の娘が美しいの。」 と、弥次郎兵衛に言うと、 「しばらく見ないうちに、あの娘も綺麗になった。」 と、初めて見るはずなのに、そう言って茶屋に入り、腰掛ける。 女中が、 「お茶をまず、どうぞ。」 と、持ってくると、 「饅頭をいただこう。」 と、女中に言う。 「はい。すぐに、お持ちします。」 と、女中は言うと奥に戻り、やがて持ってくる。
そこへ、金毘羅参りのような服装の白いハンテンを来た男が、二人と同じ茶屋に入ってきた。 男は、雑煮もちを注文している。
弥次郎兵衛は、饅頭を全部食べてしまうと、 「もう少し食べようか。 さすがに名物だけあって、いくらでも食べられるようだ。」 と、北八に言う。 「いいや、お前は酒飲みのくせに甘いものも好きだときてる。 いい加減にしたらどうだ。」 と、北八はたしなめる。
近くに座っていた例の金毘羅が、話しかけてきた。 「あなたがたは、お江戸の方かな。」 「ああ、そうさ。」 北八が答える。
つづく。
0 notes