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僕は海水ですので、わかりません
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I don't know, cause I'm seawater
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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Hito Steyerl; Bubble Vision
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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bsnのために
カメラから生じる自己の中の他者
私たちは、二つの目を持つ。それによって私達は世界を見ることができなくなった。パースペクティブを生むことにより、この眼差しは注視になるからだ。ただし、意識外において、身体としての目は世界を目撃し続けている。 スーザン・ソンタグは、いった。「けっきょく、ある経験を持つということは、その写真を撮ることと同じになっており、公の行事に参加すると言うことは、写真の形でそれを見ることとますます等価になっている。19世紀の美学者でもっとも論理的であったあのマラルメはいった。世界のあらゆるものは本になるために存在する。今日、あらゆるものは写真になるために存在する。」(1) いま、写真になった世界において、私たちはこの世界をどのように見つめるのだろう?(また、この世界において、芸術は一体どんな役割を負っているのだろう?) 私たちには、思考を身体から離脱させることができない限り、世界を完全に目撃することなど不可能だ。E.レヴィナスは、「〈実存すること〉の孤独」において、我々が実存することにより、自動詞的な世界との接触が一切不可能になり、思考性や関係性を持たない何ものかを構成するという。それ故に私たちは��子(モナド)であり、絶対的に孤独なのである。これを窓がない状態であると表記する。(2) しかし私は、この点において、私たちは自己のなかにある他者の存在を見つけることができると考える。それは、窓のように外に開かれた扉ではなく、自己のなかで区切られた、襖的な戸である。これは、私たちが顔の左右に持つ二つの目につながる。眼を基準にして考えた上で、私たちは二つの眼を持つことで、Aという自己から、A’という自己を持つことが可能だ。つまり、私たちは孤独であるがそれは一つの自己においてのみであり、目に基づいて思考する自己は、ふたりいる。そしてそれらはお互い意識せずに同調と反駁を繰り返し、そしてお互いに模倣し合っている。自己Aと自己A’によるお互いのミメーシスである。 さらに、現代、私たちは各々がカメラアイを手に入れた。世界中であらゆる人間が、私たちが行ったこともない土地の、繊細で、些細な個人の注視する風景が、インターネットを通じて世界中に開かれている。(拡張されるカメラによって、視覚も拡張される)そして顔も知らない誰かが、その注視された風景を疑似体験する。それは、私たちの身体に寄らない、物体が見る世界だ。つまり、モナドであるはずの自己の中に、他者の眼差しを持つことが可能になったと考えられる。カメラアイによる風景は、実存することによって、自分自身を増加させた。二面性を持った自分と、カメラアイによる他者。カメラによって、わたしは、ようやく他者を自分自身のなかに実存させることが可能になったのである。しかしその他者は思考しない、我々に世界を語りかけるだけなのである。そして、私たちはその他者の中身を想像をする。 そして、世界が写真になった結果の世界として、大量の写真の経験がある。大量の写真が世の中に生まれ、それを経験することが日常になったことにより、私たちはランダムなシークエンスを創造することになった。なんの関係もない一瞬と一瞬がつながり、私たちはそれをまるで映画のように構築し、無意識に体験しているのである。 W.ベンヤミンは「複製技術時代の芸術」において、映画の機能についてこう書いている。「映画の社会的な諸機能のうちでもっとも重要な機能は、人間と機械装置とのあいだの釣り合いを生み出すことである。」(3) 私がそこで試してみたいことは、「主体」と「客体」の可能性を孕む二枚の並んだ写真(どちらも位相転換の可能性を孕んでいる。お互いに主体であり、客体である。)の類似性が、表象を生む��の瞬間の創出である。 それは我々がある徴候を掴んだ瞬間であり、シャッターを切られた瞬間に撮影者が見ていたかもしれない---つまり見せたかった瞬間を切り取るに至ったときに身体的に見ていた---理想の風景の一部なのである。たとえそれが鑑賞者にしか見えていない風景であるとしても、それは撮影者の見ていた風景の翻訳となる。それは、鑑賞者がみていて、同時に写真には写っていないものであり(そこには具体性しか無い=記録でしかない)記録から発展するイメージは、鑑賞者本人にしか見ることの出来ない限定的な風景である。 ジャック・デリダは、カトリーヌ・パオレッティによるインタビューの「歓待について」という章において、政治的な意味においての歓待について以下のように発言する。「例え歓待の無条件性が無限であり、したがって、立法的、政治的等々の諸条件とは異質であるだとしても、その異質性は、対立を生み出すのではありません。(…)異質性と分離不可能性があります。」続いて、言語的な意味においての歓待について「したがって、政治的な領域においても、私的ないしは哲学的な翻訳においてと同様に、創出すべき出来事は翻訳の出来事です。一面的な同質性における翻訳ではなくて、己の独異性(サンギュラリテ)を可能な限り放棄せずに、調和し合い、受け入れあう固有語の出会いにおける翻訳なのです。これは一瞬一瞬において困難な選択です。」(4) 私とあなたの間で共有するものは、言葉によって表象化されたものであり、それを使って我々は意思疎通を行う。写真も言語の一つであると考えるとすれば、写真を理解するということは、翻訳の上で成り立つコミュニケーションなのである。 デリダはここにおいてそれらは困難なことだと発言するが、写真において、この翻訳は、もっと直感的なものになるだろう。イメージを同じように享受することはできない。映像を同じように見ることはできない。空間を同じように把握することはできない。けど、その表象を理解する(=享受する?)ということは、オープンエンドであり、はじめから開かれている。そこは、あらゆる理解を受け入れる土壌として、歓待の精神をもつ空間だ。 そしてこのように写真を理解する上で大きく問題となるのは、写された風景がもたらす圧倒的かつ創造的な美である。前述したイメージに、美しいだとか、かっこいいだとか、ある種スタイルになり得る形容詞は付属しない。 写真を見るときに、美しいという感情が生まれたその瞬間、我々はその写真を永遠に受け入れることはできない。美しさは壁を生む。なぜなら美しさはわたしを魅了し、美しいという力によって、その対象と自分をがんじがらめにしてしまうからだ。またその対象は私たちがそのものについて思考することを許さない。 私たちは長年そのことに気付けずにいたのかもしれない。写真から美しさを排除しよう。私たちは美しさを超越したなにかに魅了されているはずである。そこにあるのは、永遠に目視することのできない何ものかである。 美しさは価値を生む。永遠に見ていたいと思う対象だ。その価値が生まれた瞬間にその芸術作品が持つ面白味、アイロニカルに見る視点を失う。その瞬間の人間的な価値の喪失は大きい。私たちは皮肉を言って生きている。自分が言って良い場所・発言して良い言葉それらを選んでいる。常に選択をしながら私たちは生きる。その選択は常にアイロニカルなはずである。私たちは自虐的にいきる。自虐的に自撮りする(=自分の理想を写真で編集する、誰かに似ていることをする、別の憧れの対象に自分を当てはめながら自分を記録する)。自分が生きてきた環境要因に左右されながら、そのことを受け入れている。それは自虐である。自虐ということは、自分から抜け出さないということだ。アイロニカル、自己から非自己へ。それは他者でもない。ありのままを撮影する。もしくは、関係の間にあるものを見る。その時点で自虐的な行為は終わる。 その二人(敢えて二人と呼ぶ)が同時に同じものを見る。二つの視点から、パースペクティブを生みながら。そうして、自己に二人を同時に存在させることができた瞬間、その間で、他者が顔を出す。 最後に私自身の実践に話を戻すと、このような世界への眼差しは、少々突飛な理想で粗いものであるが、イメージを共有することで行われるハイスピードなコミュニケーションを可能にし、かつ写真の見方を変えるようなものになるだろう。このテキストは、その眼差しについての覚書である。
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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思考をめぐる自由とタブー
【あなたの体はあなたのもの(?)】
大阪、国立国際美術館で大規模な個展を行ったヴォルフガング・ティルマンスは、その個展タイトルをYour Body is Yoursとした。-あなたの体はあなたのもの- - わたしの体はわたしのもの- 、至極当たり前のことで、そんなことは頭に上るまでもない。私達の身体を超えて在る大きな前提だ。 しかし彼は〈「あなたの体はあなたのもの」というのは当たり前のことだけれど、「あなたの体はあなたのもの?」と疑問符をつけることもできる。」〉(2015.8.14「複雑な世界のレイヤーを写し出す、ヴォルフガング・ティルマンス。」インタビュー マガジンハウスCasa Brutusウェブページ)という。彼は、この言葉を私たちに伝えると共に、問いかけとして投げているのだ。彼は「そうとも読める」と、言葉を濁すという言い方でなく、はっきりと伝える。彼は自分がフェティストであるが故に対極にあるもののベクトルを両義的得ることが可能になったという。私たちは、何か物事に対面する際、この言葉の意味を常に考え、この「当たり前」だと信じ自然と進む思考のベクトルを疑う必要がある。物事には常に二面性が付随しているのだ。それは対立構造としてではなく、混ざりつつ独立している。
【作品におけるタブー(?)】
例えば、高嶺格は、自身の作品「木村さん」(映像、9min)において身体障害者の性行為を見せる。その映像は、スカイ・ザ・バスハウスにおいて上映し、その後横浜美術館での「ノンセクト・ラジカル 現代の写真Ⅲ」展(2004年)で映像上映を行う予定だったが、開催直前にキャンセルされた。それにはいろいろな理由があったのだが、高嶺自身は作品の撤去が決まった後にこう述べている。
〈「射精のシーンが引っかかるのなら、そこだけ抜いてもいいやくらいには思っていました。でも、そういうことじゃなかった。法に触れると言っていますが、性器のことなど法には書いてないんです。そういう意味では、判断は個々に任されているわけだし、上映できる可能性は十分あるのに、それを美術館自ら摘み取ってしまった形です。言葉だけでこの作品のことを聞いた人は、誤解してしまうんです。猥褻かどうかは、判断すべき人(通常なら館長でしょう)が自分の目で見て判断して、その判断を他人に説得していく、という段取りを踏むべき、それが美術館でしょう? 美術館が警察に相談するなんて馬鹿な話は、聞いたこともありません」〉
ここで読み取りたいのは、「判断は個々に任されている」という点、つまり「見る」か「見ない」かを選ぶ権利を私たちが持っているということである。その権利は、私達に付帯しており、私たちは本来自由であるはずであるのにもかかわらず、それを誰かが操作して歩む(思考する)道を作られてしまっているのだ。
「木村さん」という作品において、映像として身体障害者の性があらわに映しだされ、そこに潜む政治あるいは事件の背景などは、今となってはどうでもよいのだろうと考える。今立ち返ってそこに見出すべきは、それを見た私達の責任である。高嶺はこの「見たものの責任」という言葉を多からず使う。その責任に終わりは無いはずであり、残り続ける。
〈「中東問題は、元々ヨーロッパが原因を作ったのであって、僕には口を挟む隙が見当たらない、それが不運であるのか幸運であるのか、それすら判断できず、ただ「世界に参加していない自分」を自覚する瞬間を怖れている自分の肉体が存在する。」〉
(ART iT 2011.4.22 高嶺格「Do what you want if you want as you want」に寄せて (2001)より抜粋)
私たちは「見た者の責任を見た私たちの責任」を考えるべきだ。遠いところにあるような事件・問題・寓話・逸話どれをとってもそれは私たちにとって無関係にはなり得ない。どこかで繋がっており(繋がるというのは合っていないかもしれない。浸透、もしくは余波を感じているとでもいうのだろうか)、そこに私達の肉体は存在し得無くてはならない。もしそれに気づいていながら無視しているとしたら、それこそケとして私達の中に残るであろう。
ここで掲題のタブーという言葉に返りたい。タブーという言葉はポリネシア語から発祥しており宗教上禁忌とされるものを指していた。
しかし現代社会においてその意味は広く拡大解釈されており、忌み嫌われることで、口に出したり言及してはいけない触れることを避けられる存在を指していると考える。
「木村さん」はタブーではない。事実上の意味として、ではなく、木村さんは存在しているのだから、私たちはそれに目を見開いて向かい合う必要があるのである。高嶺が個人的心情で作っている作品の、高嶺の立場に立って考えることで、私たちは視界をクリアにする。しかし、意識の外では、タブーとされる側とタブーとする側の私たちは道を作るための「壁」として「タブー」という概念を用いてしまっているのである。見る側は未だそこに美という基準で価値を見出そうとしてしまうからなのだろうか。ここでまた美術とはなにかという疑問に返ることも可能になる。なんにせよ、結果として木村さんという作品は、誰かにとってのタブーとなってしまった。
〈「展示するための基準が国という単位で明確にあるわけではなくて、なにかの条件でできたりできなかったりする。「木村さん」はそういったことを見るためのものさしになる作品だと思っています。」〉(高嶺格 インタビュー ART iT より抜粋)
ここでいうものさしという言葉は、高嶺の考えにそぐわないかもしれない。そもそも、物事に対してのものさしは必要ないのである。物事を目盛りに併せ揃えて考える必要もない。極大なものも極小のものも、ただその物として受け取ることが可能になることが必要なのだ。
美術館に対してのものさしだけではない。私達の価値観を測るものさしにもなりえるだろう。ものさしを大きすぎるものにあるいは小さいものに合わせて作る必要はない。それその物を測るのは常に私達の身体なのである。我々は物事の多様性を失い、身動きが取れなくなっている。その身体性から、常に自由でいようとする意識��忘れてはならない。
【演技をしている(?)】
以降の高嶺の作品として、岡田利規演出「God Bless Baseball」(2015.11.19-29 豊島区立舞台芸術交流センター)がある。この作品において、高嶺は舞台美術を担当した。
岡田利規が書いた舞台において、韓国人の女性、日本人の女性、韓国人の男性が出てくる。ゆるやかに時間が進むうちに、私達が見ていた彼らは、自分が見たいように見た(同時に作り上げた)虚像であったと気づく。彼らが放つ言葉や振る舞いによって、男性は韓国人であると思い込んでいたが、それは演技で、実は日本人を演じている。しかし演じているのは、韓国人ではない。その一人の俳優だ。目前で起こる違和感を大きく捉えようとしすぎたゆえに、読み間違いをした。韓国人が日本人を演じている、のではない。本来、演技は条件をまとうための方法だったはずが、この舞台の上においては、条件を脱ぐための方法として使われた。私達の意識はそこで自然と開放される。Aだと考えていたことは必ずしもAではないという条件が施行されるのだ。舞台上に流れる翻訳された言葉は私達の中にレイヤー(ベール)を伴って入ってくる。どチラの解釈も生きるという考えを私達にいとも簡単に理解させたのである。私たちはこの作品を見る際にまず自由を得た。
隣り合う国の思考を手に入れた舞台を見る観客の中で二国の関係性が流動的になったことで、高嶺の作品「God bless america」においてのテーマであった「アメリカ」は、更に大きく私達のまわりを取り囲む存在として、姿をあらわす。見えずとも、そこにいる影、あるいは二国の肉体の一部かもしれない。そのような大きすぎて捉えられない存在感を見せていた。高嶺の舞台装置はこのどうしようもない恐怖心(に似た何か?)を私達の思考から文字通り剥がれ落とし、そのもの(それはアメリカ自体かも知れないし、アメリカによって作り上げられた日本かも知れない。確固とした姿は述べられない。)に向き合わせる。
私は、この舞台作品がこのように言語という問題に於いて出会ったからこそ可能にさせたのではないかと考える。
【二項対立する言語あるいは?】
言語は、一言語を得た後に、もう一つ言語を得ようとすると言語同士が対立してしまい、獲得が困難になる。二項対立は一つを否定する為、二つよりは三言語を得るほうが容易なのだ。どちらも否定しない三角関係を作ることで、関係を結ぶことが可能になる。日本人はこれを自然に体得している。表音文字としての日本語は一つしか無いが、それを書き表す文字は、漢字・カタカナ・ひらがなと三種類ある。それによって、私達は、言葉に幾つかのイメージを含ませることが可能であり、想像力でその意味を推し量ることが可能だと知っている。
【自身の制作における二項対立を回避する】
写真と記憶というセンテンスを用いて今まで制作をしていたが、もう一つここに何かをを加える事で、変化が起きると考えている。この2つはどちらも歴史や批評テキストにおいて十分に論じられているように強く結ばれているが、その2つを解体し、別の方法で繋げるキーワードを見つけたいと考えている。
写真が私の身体を超えた客観的視点を持つ第三の目としての理解を人間に持たせたという点から、それが私達の肉体に与えた変化、見るということの感覚から思考に至るまでの情報の整理方法に至る点まで網羅し考えてゆきたい。
写真家の志賀理江子はある対談で 〈(撮影を行うための指示書のようなものをつくった上で)どんなに準備を完璧にしても、迎え入れようと思っても、そういう基準では来てくれない。だから逆に言うと、何が対象でも写真の中では「イメージ」になりうるし、失敗っていうのはないんです。めちゃくちゃな感じだけど、この矛盾が重要だと思う。〉と発言している。(「螺旋階段 note book」2012, p.129)
この矛盾が、あたかも元からそうであったように、自然に作ることができたらその作品は、強い自由度を持つし、どのような見方をされても、その視点を絡めて作品化することができるかもしれない。
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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2017.5.5 覚書
写真を撮る行為というのは、機械を用いるのであり、それは身体の外にあるものである。身体の外にあるということは、我々の心情を表象化しているものではないし、そこに写っているのは結局は世界の記録なのである。だがしかし、私たちはそこに写っている者たちに対して何かノスタルジーを感じたりする。 表象を表すアート、それは絵画だったり彫刻だったり私達が何か物をつくるにあたって、痕跡を残すものである。写真にはその痕跡は残っているのだろうか?写真において痕跡を残すというのは、記録的なものでしか無く、手垢みたいなものは必要ではない。手垢の見える写真は、彫刻だ。記録がなにかの拍子に記録以上の表象を指し示すことがある。それは鑑賞者と撮影者のあいだで行われるコミュニケーションの結果であり、私たちはそれを予測することはできない。しかし写真にうつる表象のようなものをもっとわかりやすく表すことはできるだろう。それが本の形であり、比較し合う二枚の写真の対である。その二枚の写真の間に、関連性があろうとなかろうとその二枚が同じ媒体の上に乗っているあるいは同じくくりを与えられている事により、関連性を見出そうとする。それは私達が何か者を見る時に、無意識にフォーマットを見つけてその道を自然と歩いてしまうというようなものと同じだろう。そして、その無関係そうな二枚の写真達も、実際の所、無関係ではない。あなたとわたしの間にある表象に変容する。それがあなたにとって何の関係も無かろうと、私がなんの意図も示そうとしていなかろうと。私達はその二枚の写真の間にあるものを探ろうとする。そこで行われている行為こそ、私達が写真を見る時に行っている事の表象なのである。そう考えたい。そうでない限り、写真がコンセプチュアルアートになりえないからである。確かに写真はエモーショナルな何かを引き起こすとても神秘的な何かを孕んではいるが、それは私達が「写真を取る物=カメラ」とのコミュニケーションを拒んでいるからである。 それを実装するにあたり、数学の思考は大切なものになる。まず数式というのは、数学者があらゆる数式を読んだりした上で、頭のなかで交錯する考えの中からある仮定を導き出し、それに向き合い解読し一つの結果を出す、始点と終点(A点からB点へ)をもつ対立した構造を持つものである。これは写真を考える上でなにか似ている構造であるような気がする。そのような数学的思考構造から、、、 近似や相似というキーワードを考えるにあたり、3つの点を持とうとしようとすることを常に考えの隅においておきたい。A点からB点、もしくはC点へ。立体構造で考えれば、ABCの三点をつなぐと、どうしてもD点が現れる。見えないDepthとしてのD点。トポロジー(位相幾何学)の思考。フレミングの法則。そのように、二項対立形式ではない方法での思考を用いることによって、永遠の他者を導き出す。その構造は、私達が永遠に理解できないと思ってしまう、写真を理解する方法の一つのなのかもしれない。
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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(https://www.youtube.com/watch?v=f_42_gySad8から)
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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(https://www.youtube.com/watch?v=LljYqLommLkから)
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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(https://www.youtube.com/watch?v=Wx37fO25k-4から)
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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記録の作品性について
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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memo
マジョリティにはものを見る時のイデオロギーがない?イデオロギーに乗っ取って生きていれば、それに基づいた運動神経が形成されるはず。その上で物事を判断 -つまり作品をみて良いと言ったり悪いと言ったり- できるようになるはず。日本の現在の教育〜文化においては、故人の意見ではなく、マジョリティの意見がなんなのか確認し合う作業が主であり、故人の意見に、その個人達が気づくことはない。そうしてるうちに、多分人はなにかを見て意見することを忘れてしまう。多分意見するということ、それ自体が存在することに気づいたら世の中は変わるんだろうな〜。自分自身の存在に気付けない。
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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Facebook story
前に、ある女の子に会ったんだ。 まあ、僕らは3年前から付き合い始めたんだけど。 別に、浮気とかそういうこともなかった、ていうか。 で、フェイスブックの申請がきたんだ。 彼女から、友達になってって。 ヤだったんだ。 だって僕は彼女の眼の前にいる訳だし。 でも彼女は「友達になろう」って。 でもそんなのウソみたいなものだろ?意味なんか無い。 だから「僕は今、君の眼の前にいる。友達になる必要はないだろ。」って。 そしたら彼女キレたよ。 彼女たぶん、ぼくが友達にならないのは、たぶん浮気してるからだと思ったんだ。 「もう終わり」って、彼女言ったんだ。 信じられないって。 僕は、そんな…ふざけるなよ…って、だってほら… 僕は君の前にいる。毎日いる。ここに、君の家にいるんだ。 それってつまり、それは嫉妬だろ? ゼロの嫉妬だよ。宙に浮いた、純粋な、ゼロ。 わかるだろ? ウソみたいなものだよ。
I was just telling that I got this girl before And I was together since 3 years And uhh, I was not even cheating her or what And Facebook arrived and uhh she wanted me to accept her on Facebook And I don't want it because I was like in front of her And she told me like "Accept me on Facebook" It was virtual, means no sense So I say "I'm in front of you, I don't need to accept you on Facebook" She started to be crazy She thought that because I didn't accept her She thought I was cheating She told me like, uh, "it's over" I can't believe you I said "come on you're crazy" because like yeah I'm in front of you, I'm every day Here in your house That's, it means like it's jealousy Pure jealousy for nothing You know Virtual thing
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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Ivy
夢だと思った 君が愛してるって言うから ゼロから始まったから 構える間もなかった 君が来たのに気づかなかった ゼロから始まったんだから 君に嫌いって今なら言える 君に嫌われたって全然平気だよ お互いのことがよく解ってた時は ほんとに気分が良かった
君を見てたら解るんだ 君は無理してるんだって 僕の考えが君に読めたら 僕たちの顔が見えるだろ あの時は装甲車みたいな僕の部屋で平和を感じてた あの時はセックスしなかった 僕はもう子供じゃないんだ あの時には戻れないんだ あの時僕たちはSyd’sのとこまでX6でドライブした あの時は 僕たちがしたことは関係ない あの時の波には潜れない あの時は最低だった 僕たちは友達だったんだ
夢だと思った 君が愛してるって言うから ゼロから始まって 構える間もなかった 君が来たのに気づかなかった ゼロから始まったんだから 君に嫌いって今なら言える 君に大嫌いって言われても全然平気だよ お互いのことがよく解ってた時は ほんとに気分が良かった
君のホテルの穴で 僕の肩にまわした肩 今なら言えるよ どれだけ君にとって僕は重要だったか… あの時、真剣に あの時は殺せる時間もあった 君はもう子供じゃないんだ あの時には戻れないんだ 同じじゃないよ 違法のアイボリーと 覚えてないの? 先週きみの気持ちをぶちのめした 週末よりはマシな気持ちになってるかな まだ覚えてるよ 君がおかしくなったこと 僕の名を叫ぶ ほんとに気分が良かった
夢だと思った 君が愛してるって言うから ゼロから始まって 構える間もなかった 君が来たのに気づかなかった ゼロから始まったんだから 君に嫌いって今なら言える 君に大嫌いって言われても全然平気だよ お互いのことがよく解ってた時は
全てを言うつもりはなかった そんなことするつもりじゃなかった 君も言う必要のないことがあっただろ 言ってどうなるの どうしたいの 朝まで夢を見ていられるよ 朝まで夢を 朝までドライブしていられるよ 夢を、夢を
I thought that I was dreaming When you said you loved me It started from nothing I had no chance to prepare I couldn't see you coming It started from nothing I could hate you now It's quite alright to hate me now When we both know that deep down The feeling still deep down is good
If I could see through walls I could see you're faking If you could see my thoughts You would see our faces Safe in my rental like an armored truck back then We didn't give a fuck back then I ain't a kid no more We'll never be those kids again We'd drive to Syd's, had the X6 back then Back then No matter what I did My waves wouldn't dip back then Everything sucked back then We were friends
I thought that I was dreaming When you said you loved me It started from nothing I had no chance to prepare I couldn't see you coming It started from nothing I could hate you now It's quite alright to hate me now But we both know that deep down The feeling still deep down is good
In the halls of your hotel Arm around my shoulder so I could tell How much I meant to you...meant it sincere back then We had time to kill back then You ain't a kid no more We'll never be those kids again It's not the same, ivory's illegal Don't you remember? I broke your heart last week You'll probably feel better by the weekend Still remember, had you going crazy Screaming my name The feeling deep down is good
I thought that I was dreaming When you said you loved me It started from nothing I had no chance to prepare Couldn't see you coming And we started from nothing I could hate you now It's alright to hate me now We both know that deep down The feeling still deep down is good
All the things I didn't mean to say I didn't mean to do There were things you didn't need to say Did you need to...need to I could dream all night Dream all night I could drive all night Drive all night Dreaming, dreamin'
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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Be yourself
ドラッグとかマリファナとかお酒とかに溺れてたくさんの大学生がいなくなったりするの。いい?誰かになろうとするのはやめなさい。誰かになろうと思ったりしないで。あなたはあなたで、それでいいってこと、知りなさい。誰かになろうとするのはやめなさい。誰かのふりをするのはやめなさい。自分でありなさい。自分が自分であることを見つめなさい。自分で決めたことに自信を持ちなさい。あなたが信じること。わたしがあなたに見せてきたことをわかっているはず。お酒をやめなさい。ドラッグをやめなさい。コカインやマリファナは中毒性が強いからを吸ってはダメ。マリファナアタマになった人は、鈍間で、怠惰で、馬鹿で、なにも見えなくなる。鈍間で、怠惰で、馬鹿で、なにも見えなくなる。それがマリファナがあなたにもたらすものよ。わかる?わたしはあなたのママよ。医者の、、いうことを聞きなさい。マリファナを吸ってはダメ。酒に飲まれてはダメ。酒に飲まれた人の車に乗ってはダメ。 ママよ。電話して。じゃあね。
  Many college students have gone to college and gotten hooked on drugs, marijuana, and alcohol. Listen, stop trying to be somebody else. Don't try to be someone else. Be yourself and know that that's good enough. Don't try to be someone else. Don't try to be like someone else, don't try to act like someone else, be yourself. Be secure with yourself. Rely and trust upon your own decisions. On your own beliefs. You understand the things that I've taught you. Not to drink alcohol, not to use drugs. Don't use that cocaine or marijuana because that stuff is highly addictive. When people become weed-heads they become sluggish, lazy, stupid and unconcerned. Sluggish, lazy, stupid and unconcerned. That's all marijuana does to you, okay? This is mom. Unless you're taking it under doctor's - umm- control. Then it's regulated. Do not smoke marijuana, do not consume alcohol, do not get in the car with someone who is inebriated
 This is mom, call me, bye
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causeimseawater-blog · 8 years ago
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Close to you
ヘコんでないよ、正直 でも君はそれを通して僕の手を握ってこれただろ 白い波の下で僕の心を駆けまわったっていうのに
失った影に手を這わせる 僕らにはシワが増えるね そんなに多くは持てないんだよ なんで説教なんか? この聖歌隊に この無神論者に このカバー曲のカバーみたいに君の周りを飛ぼう 時が経てばきっとまた 君のそばへと帰されてしまうよ
(私みたい、彼らもあなたのそばにいたいのね)
I will be honest, I wasn't devastated But you could've held my hand through this, baby Let my mind run underneath warm jets
I run my hands through what's left But we're getting older, baby Don’t have much longer baby Why am I preaching? To this choir, to this atheist Just like mine versions of these belong to you After a while They're keeping me close to you
(Just like me, they long to be Close to you)
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