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藍の話
も~っと誕生日の話です。
SpecialThanks:上野ぽち / 君守心一 虎月 / 頭屋灯篭
めいっぱいに積み上がった包みのために視界を塞がれ、心一は職場の廊下を「通ります」と声に出しながら歩かなければならなかった。何度かつまずきかけてばらばらと小箱が落ちたが、拾っている余裕はないため置き去りにしてきた。とりあえずロッカーに辿りつくまでの辛抱だ。
「あらぁ、大人気ね、君守くん」 「はは、どうも~…」
通りすがった事務員の女性が小箱をひとつ拾い上げて上に乗せてくれる。 すれ違う人すれ違う人、好奇の目でこちらを見ているのがわかる。まいったな。こんなふうに目立つつもりじゃなかったのに。
*
“ものごとを忘れてしまう”という事実を何とか忘れないようになったのは、まだ最近のことだった。 今日の予定、いつも通る道、仕事のやり方。時には灯篭のこと、兄や両親のこと。自分がどのような言葉でしゃべり、生きてきたのかということ。医者はストレスから来る逆行性健忘だと言った。何がきっかけだったのか、そのことさえも、もう思い出せない。 生活はそれまでと一変し、眠れない日が続いた。メモ塗れの部屋でベッドに潜るたび、暗闇に呑まれる不安で身を固くした。明日は、何が自分から抜け落ちてしまうのだろうか、何を保っていたらおれはおれだと言えるのだろうか、抜け落ちたものが、もう二度と戻らなかったとしたら――。
目の隈を濃くして出勤してくる自分を、同僚たちは随分と心配してくれた。休み続けるわけにもいかなかったので、事情を説明して仕事は続けた。周囲のサポートのおかげでいまだ大きな失敗はしていない。恵まれた職場だと、何度記憶をなくしても思い直す。 心一は同僚の提案で、自分のデスクに一週間の予定を貼ることになっていた。予定表は心一の予定を把握する者なら誰でも書き換えていいことになっていて、通りがかった人がそれを見て定期的に声をかける。私用まで筒抜けなのは恥ずかしかったが、早く帰らなければならない日など、周囲に隠し立てすることなく協力してもらえるのはありがたい。 ……話を戻すと、今朝からこんな事態になってしまったのは、誰かが心一の誕生日を書き込んで、それが職場の全員に知れ渡ってしまったからなのであった。週頭のことだったので、当日までに銘々にプレゼントを用意してくれたらしい。
心一はなんとかロッカーに小箱たちを収納し終えると、カラフルになった中身を見、浅く息をついてから落としたプレゼントを回収しに戻った。
*
その日は帰宅してからすぐに作業に取り掛かった。 卓上ランプだけが灯る薄暗がりの部屋。照らし出されたメモの群が小さな窓のように浮かび上がっている。 ひとつひとつ思い出しながら、プレゼントとそれをくれた同僚の名前とを紐付けて、メモに残しておく。また明日お礼を言いたいから、忘れてしまわないうちに。
しばらく無心にペンを走らせるうちに、妙なことに気が付いた。書き綴る手元を見る。石を磨いたような閑かな光沢の、藍軸の万年筆。 ……こんなもの、持ってたっけ。
顎に手をやりながら、ランプの光に万年筆をかざす。持った感じはずっしりとして、きっと良い品だ。自分で買うとも思えない。ペンを机に置き、ゴミ箱をたぐり寄せる。剥いで捨てた包装紙はまだない。 ううん、と自然のどから難しい声が漏れた。自分はこれを誰かに貰って、忘れてしまったのではないだろうか?
悩んだって仕方がないことは分かっているのだが、それでも思い当らないことが悔しくてしばらく考え込んで、家の前をバイクが通り過ぎた音で集中が切れて、ようやく立ち上がった。随分暗くなってしまった。電気の紐に手を伸ばす。 同時にドアチャイムが鳴った。ひとつ息をつき、気を取り直して玄関へ向かう。
「はーい」
扉を開けた途端、涼しい空気が流れ込んでくる。 立っていたのは灯篭だった。ちょうど吹いた青嵐に短い髪を揺らしながら、後ろ手に持ったプレゼントの包装がちらりと見えた。つい先刻までの顔のこわばりが解ける。
「あ、しんいちさん。お疲れさま」 「灯篭! 来てくれるなら迎えにいったのに…」 「平気だよ、学校帰りにちょっと寄ろうと思って。あの、これ。お誕生日おめでとう」
少しだけ緊張した様子ではにかんで、両手でレモン色の包みを差し出す。背後から被さる夕暮れの残滓が灯篭の目元に浅い影を落としていた。
「わー、ありがとう! 嬉しいよ…開けてもいい?」 「あ、恥ずかしいから、手紙とか入ってて…。私が帰ったら開けて」
照れ隠しに髪を耳にかける仕草で、勝手に救われた気になって、心一は玄関の電気をつけて彼女を家に上げた。
*
おおよそ改まってお茶をするような相手を家に上げないので、一人暮らしの男に不釣り合いなこの茶葉缶は、灯篭が来た時だけ外に連れ出される。それでもこの頃、だいぶ減ってきた。
「そろそろ買い足さないとなぁ。次も同じのがいい?」 「しんいちさんの好きな味とか、ないの?」 「おれは紅茶はよく分からないし。どれも美味しいよ」
灯篭は「ありがと」と言って差し出したコップを受け取ると、ガムシロップを少しだけ溶かして口を付けた。ぬるい。氷を入れたばかりのアイスティー。風味に詳しくなくとも、心一は、このぞんざいな感じの温度が好きだった。 あまり遅くならないうちに送っていかなきゃな。ふと、付けっぱなしだった作業机の電気を消そうと立ち上がって、中断した名書きと、藍軸のことを思い出した。
「そうだ。灯篭、この万年筆なんだけど…」 「ん。綺麗だね、もらったの?」 「多分。それが、誰にもらったんだか忘れちゃって」
見るからに高価そうな万年筆、誤っても手癖で回したりしないように気を付けながら、コップの置かれたテーブルに並べる。 灯篭は興味深げにそれを覗き込んだ。
「情けない話なんだけど、誰か心当たりない? こういうのくれそうな、おれの知り合いとか…。」 「うーん……。」
自分と似たような難しい声を漏らして、灯篭は手に取った万年筆をまじまじと眺めた。 彼女は「ちょっといい?」と机の上の付箋を引っ張ると、キャップを外してペンをすべらせる。 スラリと翡翠色の線が伸びた。
「少し緑が混ざってるんだね。めずらしいインク」 「そうなんだ。綺麗だよね」
灯篭はそれを見てしばらく考え込んでいた。 やがて、ふと目をみはり、なにか得心した様子でパッとこちらを見る。
「どうしたの? 判った?」 「多分……」
彼女は口を開きかけ、音を待つような間をもって少しためらって、それを再び喉の奥へ押し戻した。
「しんいちさんにも、そのうち解るようになると思う」
憂慮は見せまいといった様子で灯篭は口許を微笑ませてみせた。下がった眉尻には複雑な傷心を隠しきれていなかった。
「なにか…」
今のおれには分かれないこと? 言葉は灯篭の手元の万年筆に吸い込まれるように落ちた。追って尋ねることがもしかしたらまた彼女を傷つけるかもしれなかったが、彼女は「まだいいんだよ」と、今度こそただ穏やかに微笑んだだけだった。
ふいに奇妙な現実感が膜を突いて弾けた。 胸の奥でちくりと、心一は、その藍軸で手紙を書いている誰かの姿を想起する。 あれはいつだったろう、灯篭が来たわけでもないのに出しっぱなしになっていた茶葉缶、ぬるいアイスティーの感覚。 視線を落とした先、キャップの反射が鏡になった。 自分の両目と目が合った。
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8月1日のバターケーキ
誕生日の話です。
SpecialThanks:上野ぽち / 大朝令吾
※シナリオネタバレはありませんが『幸せに抱かれる君に』を知っていると展開がわずかにわかりやすい。
その人は、「お前、いっぱい食うんだろ?」と尋ねた。尋ねたというよりもう納得したような声音だったので、「そんなに」とは言えずに、目線だけを上げて黙っていた。なにか言わなきゃ怒らせるだろうか。椅子の上で行き場のない手を握りこんだまま、しかし黙ったままでいるしかなかった。居心地が悪かった。飴色の粉の入ったビニールを持って、その人は振り返る。
「暑いから、日持ちしそうなやつをね」
やがて焼き上がったケーキから鮮烈なほど香ばしい匂いがしたのは、その粉を入れたためなのか判らない。それがアーモンドの香りだと知ったのも、もっとずっと後の話だ。
*
ふくれた顔の主を見ながら、大朝はその表情より、白い額にうっすらと汗がにじんでいることを気にしていた。少し冷房の温度を下げるべきかもしれない。今日はもっと暑くなる。
「……ほんとに何もほしくないのですか」
「はい。お嬢のお気持ちだけで、私には十分です」
はきはきと答えたつもりだったが、言葉尻は思いもよらず小さくなった。厚意を断り続けるのも悪い。何か適当なものでも求めて収めるべきなのだろうが、かといって適当の程度もわからず、遠慮ばかりが先に立って何も言えない。郷中ならばこういう時、主を立てた控えめな立ち回りができるのだろう。自分にはまるで向かない気遣いだ。
小さな主はさみしげに目を伏せて指を組み直した。昔から拗ねるとこういう仕草をする。いつの間にか、自分の額にも汗がにじんでいるのに気が付く。
「遠慮なんかしないでください。梓莉が勝手にあなたにあげたいだけなんですから」
「ありがとうございます。……でも、本当に、お嬢のくださるものなら何でも」
「私、おおともの好みをなにも知らないもの。じゃあ、今までにもらったもので、一番うれしかったものってなんですか?」
……そもそも、本当の誕生日など分からなかった。今日という日も自らが里柳組に命を預けた日だ。祝われるような記念日の記憶はほとんどない。それでも大朝は脳内で必死に検索をかけ、思い浮かんだ記憶の切れ端を、ついそのまま口に出した。
「あ、バターケーキ…。」
「バターケーキ」
「ああ、いえ。……一度、ここに来た頃、組長に作っていただいたことがあったなと」
「そうなの? めずらしい。ママ、お菓子なんて全然つくらないのに」
目を丸くしていた主はすぐに嬉しそうに顔をほころばせて、「じゃあ、それを作りましょう」と言った。
*
バター、砂糖、卵と小麦粉、ベーキングパウダー。ケーキ自体の材料はそんなものらしい。彼女は探偵よろしく味や匂いについて細かく尋ねながら材料に目星を付け、アーモンドプードルやチョコレートなども一緒にカゴに放り込んだ。
車椅子を押してスーパーを出る。8月1日、緑の影は垂直に落ち、道路には陽炎が立っていた。猛暑日だ。
主はせっかく持った日傘を膝の上の買い物袋に傾けて、大朝はただ黙って、その白のつば広帽の輪郭を見つめていた。ドライアイスをもらわなかったのが気がかりらしい。
「暑いですね」「そうですね」のやりとりを三回ほど繰り返したところで、二人はようやく里柳の家に帰りついた。
「あとは私がやりますから。おおともはお部屋で休んでてください」
「ですが」
「大���夫です。絶対に夜までには完成させるので!」
自信満々に言うので、さすがにそれ以上は何も言えず、ひとまず高い棚にしまってある調理器具を一式出してきてから隣の部屋に退散した。この家の台所は座りながら満足に調理を行える設備ではない。これまでも主一人で台所に立たせたことはなかった。不安は尽きないが、自分のために菓子を拵えてくれるのに、口出しをするのは野暮だ。
どうか、おそらく初めてその手にあつかわれるであろうどんな刃物も天板も、すべて自分のようにしぜんと里柳に帰属し、あの純粋なひとを傷つけることのないよう――無心に願っているうちに日は暮れていった。寄りかかった壁は自分を呼ぶ声もなく、ずっと静かだった。
*
気が付けば風が強く出ており、すっかり日の沈んだ紺碧に、紙細工のように色をぼかされた常緑樹の葉がばらばらと散っていくのを眺めていた。眠っていたわけではないが、随分何も考えずにいたようで、はっとして時計を見ると21時を回るところだった。そうして頭を預けていた壁がコツコツと鳴って、「おおとも?」と、くぐもった声が隣の部屋から呼んだ。
「ごめんなさい。時間かかっちゃった……。」
「いえ。お疲れさまです」
主は戸を開くと同時にふんわりと香ばしい匂いを連れてくる。焼き上がったまんまの、クリームのなだらかでないケーキを膝に乗せていた。
「何度かやったんだけど、思ったような焼き加減にならないの。慣れないことをするとだめね」
彼女は照れた顔で笑い、「遅くなっちゃったけど、食べましょう」と手招きする。
配膳を手伝い、飲み物を用意してから席に着く。主はさすがに少しくたびれた様子でオレンジジュースの注がれたコップを眺めていた。何か声をかけようかと口を開きかけたが、その前に彼女の方がつと視線を上げる。
「大朝、お誕生日おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
「どうぞ」と促され、いただきます、と手を合わせる。フォークを入れた感触はしっとりと重たく、少しばかり固い。切り分けた先を口に含むと、アーモンドのにおい。確かに主の心配していた焦げた風味を感じたが、それより先に、大朝は口走っていた。
「ああ、これです」
「え?」
「組長に作っていただいたケーキ。確かにこの味でした」
懐かしい。重たくて甘いケーキ。
残すわけにもいかず、勧められるままに半ホールを食べ切って驚かれた。もう10年以上前の話なのに。
「なぁんだ」梓莉は嬉しそうにころころと笑った。「慣れないことをすると、って、ママの口癖��んです。これとおんなじ味なら、ママのケーキも失敗してたのね?」
もはや焼き上がりを憂う少女の顔ではなかったので、大朝は安堵した。それからようやく思い出したように「美味しいです。ありがとうございます」と言い添える。彼女は分かったような様子でおかしそうに笑っている。
確かにうまいと言える代物じゃなかったが、それより、鮮烈なまでに自分を過去の日に連れ戻したケーキに、大朝は純粋に感嘆していた。素直に懐かしむには、それを未だ上手に伝えることのできない舌がもどかしい。
視線を皿に落とす。底に沈んでいたチョコレートがフォークに線を引いていた。
「あのね。梓莉はあなたが今ここにいてくれて、とても嬉しいんです」
主は伏し目がちに微笑むと、その翠の瞳孔で大朝をとらえた。
「だから、今日のこと、忘れないでくださいね。」
* 夜がめぐる。 *
起きぬけに窓を開け、朝の光を入れる。手早く着替えて、最低限に髪を整え、部屋を後にする。
口をひき結んだまま主の部屋の前に到着すると、今さら足音をひそめ、ふと息をついて戸を眺めた。
「大朝?」
戸の向こうから囁くような呼びかけが聴こえる。はい、と返事をすると同時に戸が開き、車椅子に座った主と目が合った。今日は早起きのようだ。
部屋の中で白いレースカーテンがふくらんでいる。ただ普通に挨拶をしようと思ったのに、しかしなぜだかその翠を見た途端に自分でない何かが急いたように喉を突いて、思わず昨日のように、迂闊に口が動いていた。
「バターケーキ、冷蔵庫で冷やすと乾燥して硬くなるんです」
まったく無意識の渕からそう言い出して、はたと我に返る。一体なにを?
わからない。でもこれを必ず伝えなければならないような気がしていた。
梓莉は一瞬あっけにとられた様子で目をぱちくりさせたが、すぐに相好を崩して嬉しそうに、心底嬉しそうに笑う。
「まあ。どうしましょう、まだ冷蔵庫にたくさんあるのに」
胸元で合わせた白い手指が光に透けていた。
蝉が鳴き出している。今日はもっと暑くなる。
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