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ひびの祝福
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うつくしいものがすきです。
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chiyok0 · 2 years ago
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死にたくてなんもできない夜とかにひたすらアイドルの動画を見る。歌って踊ってニコニコ笑顔が可愛くて、その可愛さを追うことに没頭したふりして本当はなんも考えてない。あれこれ動画探したりするのもだるくなってくるとすぐ画面消して真っ暗な部屋にもとどおり。そこでアイドルも死にたくなるのかな、なるだろうなと考える。アイドルを消費する人間がどんな理由でそれをするのかなんてぜんぶは分かりっこないけど、わたしに限って言ったら、それはやっぱり死にたいからだし生きててだるくて仕方ないからだと思う。なんかそういうのを紛らわせて��らりくらり騙してくれるような存在を常に求めていて、アイドルのフィクション性みたいなものがそれにちょうどよかった。でも、たまに、なんかほんと暇つぶしに、下衆いネット記事とか眺めてるとアイドルの子たちもさんざんだ。他人の悪意とか性欲とか承認欲求とか無神経さに晒されて泣かないことなんかないだろう。わたしは、死にたくて慰めて欲しくてアイドルって存在を求めるけど、そのアイドルの子たちはまさにその活動のせいで死にたい夜が増えている。みんながみんな死にたくてお互いの死にたさを減らしたり増やしたりして、なんかそれってくだらないよな、しょうもないよなって気持ちになる。いろんな経験をすることについてみなさんはどう思いますか?それでいろんなこと感じて知って考えて何になりますか?記憶のなかのいろんなひとたち、好きなひとも嫌いなひともどうでもいいひともいるけど、そのそれぞれの背景とかなんかに思いを馳せちゃったりして、あんなこと言って悪かったなとかあのときのあれはこういう意図だったのかなって考えて、それが何になるっていうんだろう。親より早く死んだ子供は、親を悲しませた罰として、死後賽の河原ってとこにおくられて永遠に石を積まされる。でもこの世だって似たようなもんじゃないだろうか。わたしたちは親なるものを悲しませちゃったのでこんなところに来させられたって言われてもぜんぜん不思議じゃないくらいここでの石積みも辛いし悲惨だ。
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chiyok0 · 5 years ago
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夢に出てきて責める君
好きだったことがあったし、好きあっていた瞬間もあったし、それを否定されることはないだろうが、いまはもうおれのことを好きではないだろうというひとがいて、しかしおれはそのひとのことが今、好きである。今のおれはそのひとのことを好きだと思うだろうとわかる。ということをぽつぽつと思ってねむったら、夢に出てきたきみにひどくなじられた。
人が夢に出てくるのは、夢に出てくる当人のほうが、夢を見ているひとのことを想っているからだと考えられていた、ということを、むかし枕草子の注釈で読んだが、それがほんとうだったらいいのに、と、そのひとが出てくる夢から醒めたあとはいつも思う。出会ったころから、きみはなんどか夢に出てきてくれるけど、毎回、明確に、おれに対して怒っていて、なじっていく。ほんとうにきみがおれに対して怒っていたらいいのにな。ただたんに、おれのうしろめたさの見せるいやしい幻覚にすぎないのかもしれなくても。
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chiyok0 · 5 years ago
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2020年1月14日の日記
 きょうはたのしみにしていたBrunoのふとん乾燥機を受け取るために、きぶんが乗ってきていたが、残業を途中で切り上げて帰った。家について、着替えて、脱いだ服をいれようとしたら洗濯機がいっぱいだったので、洗濯をする。コンビニで買ってきたスープを温めようかなあ、と考えているとちょうどふとん乾燥機が届いたので、受け取り、箱を開け、使い方を確認し、段ボールをつぶした。スープは電子レンジで温めるのに時間がかかるので、その間すこしシンクのなかをかたつける。スープを食べて、すこしぼっとテレビを見て、干しっぱなしの服をすべておろして、お風呂に入り、髪を乾かしながら、たいくつだなあ、と思った。
 早めに帰ってきて、時間があることに気付いて、それにうんざりした。きのう掃除したばかりの部屋はきれいで、図書館からはやまほど本を借りている。今期は興味を持って追っているアニメが何本もあって、まだ観ていないものがある。それでもなんだか、何かしたいという気にならなくて、何をしたらいいんだろう?もうなんだか眠たいくらいだな、と考えた。
 去年から今年にかけての休暇は、ほとんど家にいたので、きょう届いた電気料金の請求書はすごいことだった。デロンギのストーブは田舎の雪国から持ってきたりっぱなやつで、それがものすごい電気を食って、部屋中をむわむわあたためるのだった。
 ふとん乾燥機はごうごうとうるさく、消費電力は500W。ストーブの半分以下な��で、あんまり寒い日以外は、これでふとんを温めて何とかしのごうかな、さいきんあたたかいような気がするし、と思った。こんなに時間があってもたいくつなのに、わたしはいつもいつでもお金がほしい気持ちだ。
 きのうは父方の祖母の一周忌?一回忌?なんというのだっけ、とにかく死んで一年がたった日で、法事のために地方に一泊した母はとてもつかれて傷ついている様子だった。わたしたちきょうだいがみんな大学へ進学して家を出て、田舎のおおきないえは空き家になり、父と母はちいさくて最新のピカピカのマンションに住んでいる。母は父がいやなのだった。ふたりで暮らしているとよりいっそうこどくになるくらい、父と、彼女が思うところの、にんげんらしいやりとりができずにつらいのだと言った。
 だって父はさいしょっからあんなひとじゃない。あのひとがあんななのはうまれつきよ。でもあんなのとふたりっきりで暮らしていたらいやでいやでしかたがないの、わたしは家事だけして、ありがとうって言われることもなくって、あれは精神的なささえにぜんぜんなってくれない。
 なにを甘えたことを言うのだろう、このひとったら、とわたしはすこし呆れ、だれもだれかのささえになんかなれないよ、と言った。だからわたしは結婚はおろか恋人も友人もつくらないのよ。
 母はそんなわたしをえらくてよいこ、と言って、自分はよわくてひとりで生きていく力がなかったの、と言った。わたしはそんなことないよ、といいながら、そうだったんだろうな、父と結婚するくらいだから、と思った。そして、このひとりでしんしんとたえつづけなければならない人生のことを思った。だれにもあいされることがなく、だれのじんせいにも登場することがない人生が、ほんとうにめずらしく子供によわねを語る母を見ていると、それなりの硬質さをたたえて横たわっているような気がした。あなたはえらい、ぶれないところが好き、という母に、わたしというにんげんのすがたが慰めになり、いつか救いになればいい。
 水鳥か白鳥か、渡り鳥たちが、冬、おりたつ海岸があって、今度帰った時はそこへ行きたいな、と言うと、母はうん!と言った。幼稚園か小学校の遠足で、行った記憶があるのよ。よく覚えているもんだねえ。まぁね、わたしは天才だから。
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chiyok0 · 6 years ago
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LOVE人類 ただしヘテロセクシャリズムはのぞく
 わたしにとって、わたしの人生はほんとうに意味がないんだなあ、と思って、そうだったのか、と腑に落ちたような気持ちになった。
 毎日ひとりで暮らしている。職場で自分から何かを話し出したりしない。お昼はひとりで摂る。たまに同僚に誘われて、断る力も出なくて、適当に特においしくもない、盛り上がることもない昼休みを過ごす。朝と夕方、電車に乗る。とりとめのない、雑多なことを数秒おきに考えて、目を閉じたり、開けたりすると、降りなければならない駅に着く。元気のある時はスーパーで食材を、ないときはコンビニのお弁当。適当に食べて、お風呂に入って上がると、なんだかもう眠たくなる。  年に数回ある、2、3週間の繁忙期を除けば、遅くてもだいたい夜8時半までには必ず家についている。定時で仕事が終われば、ジムによって1時間から2時間、運動をして帰る。たいてい日付が変わる前にはふとんに潜り込んでいる。土日はだいたい、片方は映画か美術館、買い物に出かけて、もう片方は寝つぶしている。 たまに人とお茶を飲むけど、ひとりででかけることのほうがすこし多い気がする。
 このまま生き続けることができるだろう、といつも眠る前に思う。不安なことがもうほとんどなかった。身体が勝手に空腹になったり風邪をひいたり疲弊したりするので、そのつど、対応していると、それらがなんだかぼんやりと痕跡になって、人生みたいに見えることがあって、ほんと、わたしの人生なんてそんな程度のものでしかないのだった。
 両親に愛されたし愛されていると感じることができる。求めたぶん、教育を受けることができたし、金銭的に不安になったこともない。結婚も子供も介護も何も求められず、ただ元気で自立して生きていればいいのだという。ゆいいつ、両親にとってのみ、わたしの人生には意味があるんだろうと思えるけれど、元気で自立して生きることは、そんなに難しいことではなかったので、わたしはこれからどうしたらいいのか、わからない。
 わたしに対して、結婚も子供も特に求めない母は、しかしわたしが他人とほとんどかかわっていないことをすこし気にしていて、それはたぶん、自分が死んだあとのことを考えているんだろうと思う。母が死んだあとに、わたしが大きな病気をしたり、事故に合ったり、とにかくすごく困ったときに、自分のほかにだれか娘を助けてくれる人はいるのだろうかという心配であり、もっというと、自分たちが死んだあとに、ひょっとするとこの娘は、役目は果たしたとばかりに、死んでしまったりするんじゃないかという心配だ。
 死んだあとのことなんてわかりようがないけれど、死んだらこの世のことなんて、たぶん、見たり聞いたりすることなんてできなくなるんじゃないのかな?とわたしはなんとなく思っていて、もしできたとしても、たぶん、生きている人間に思っていることを伝えることができないと思うので(もしできるんだったら、もっと幽霊とかお化けとかがいてもいいと思う)、そんな心配しなくていいの��なあ、と思う。
 でもほんと、両親くらいなのだ。わたしの人生のことが気になる人なんていうのは。わたしの人生を気にしてくれる人間が、両親しかいなくてかなしい、というような気にもなるけれど、わたしはほんとうは知っている。わたしの人生を気にしてくれるひとのふやし方をわたしは知っている。
 いま、西暦2019年のいま、このくにで生きていくなら、たぶん、子供を産むのがいちばん確実だろうと考える。わたしがいなくては生きていけないような他人を作りだす行為なのだから当然だ。ある程度の社会的な地位のある男性相手であれば、子供を作らずとも、結婚するだけでもかなり有効だろう、というようなことをつらつら考えることもある。
 いま、西暦2019年のいま、このくにで生きているので、そのような社会なので、わたしはヘテロセクシュアルと分類されるような振る舞いをごく自然にしている、と思う。わたしはだから、わたしの人生に意味を付与してくれるであろう他人という意味では、男性にしか興味がない。わたしの人生を、せつじつに、必死に、気にかけてくれる他人が、両親以外にいるとしたら、それは、女性ではありえないと、わたしは信じている、というより、知っていて、それ以外考えることができない。女性で、親しくしてくれる他人がいると、とてもうれしいけれど、たぶん、このひとにとって、わたしの人生はほとんど意味がないだろう、と、無意識に、いつも思っている。たまに、その女性に、恋人ができたりすると、なおさら、そう思う。反対に、男性といると、ある程度、このひとは、わたしが女性なので、こうして会ったりしているんだろう、と、無意識に、いつも思っている。そして、そんなふうに女性や男性の他人とすごすので、ひとりの部屋に帰ると、かならずむなしいような気持になる。
 両親が死んでもつづいていく、わたしにとってどこまでも無意味極まりない、このわたしの人生を、わたしは持て余していて、途方に暮れそうになっていて、両親の代わりになる他人のつくり方の見当がついていても、それでもなお、途方に暮れ続けている。
 どうして自分の人生を気にかけてくれる他人がいないことをかなしいと思うのか、わたしのことなのに、わたしにはなんだかわからない。他人の人生を気にかけるということを、物理的、経済的、社会的な結びつきに裏付けられた、利害関係の一致としか、とらえることができないのに、そしてそれでおおよそ間違いないだろうと感じているのに、どうしてそんなものを、うわっめんどくさ、気持ち悪い、と思いながら、すこし、うらやんでしまうのだろう。
 わたしはもしかしたら、ただ、他人という存在がうらやましいだけなのかもしれない。他人と関係することというよりも、他人同士で関係することのできる、わたしではない、しかしわたしとよく似た身体をしたほかの存在が、うらやましいだけなのかもしれない。ほんとうは、うらやみたくなるような、個別具体的な他人など、詳しく知れば、どこにもいないのかもしれないけれど、他人というのは、いまも、この瞬間も、どんどん殖えていて、新しい他人がどんどん産まれて育っていて、このさき、そんな完璧にうらやめる他人が、存在するかもしれなくて、その事実を否定できないところが、何よりも、他人と言う存在の、うらやましいところかもしれない。
 そんなうらやましい他人であるところのあなたたちが、あなたたち同士で関係を築いて、仲良く、楽しそうに過ごしているのを見て、つい、真似してみたくなっているだけなのかもしれない。わたしにとっては、わたしの人生どころか、わたしの人生を気にかけてくれる他人すら、なんだか��んどくさくて気持ち悪いものに思えてしまうけれど、あなたたちにとっては、そうではないのかもしれなくて、それをわたしは否定することできない。あなたたちとわたしはわかりあうことがなくて、あなたたちはつねに新しい可能性に満ちている。それによってわたしはあなたたちのことを決めつけたり、否定したりすることができなくて、それだけがすこしうれしい。気がする。と同時に、やはり、わたしはあなたたちではない、あなたたちのような可能性がひとつもない、と思って、それがかなしい、という気がする。
 あぁ、わたしはわたしをわたしであるというだけで本当に永久にかなしまなければならないのだった。わたしはあなたたちみんなを愛している。わたしではないあなたたちみんなを心の底から憎み、心の底から、愛している。あなたたちみんなの人生が、あなたたちひとりひとりにとって、無意味なものでないならいいと、ほんとうに、そう思っている。
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chiyok0 · 6 years ago
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心象風景
東京で大地震が起きてたくさんのまちまちが壊滅状態になっていたまさにその時、わたしは羽田発新千歳空港行きの飛行機のなかで身をちぢこめて眠っていた。
着陸してケイタイをインターネットにつなぐと、その様子があらゆるニュースやSNSで取り上げられていて、海と川の近い、わたしの住むアパートのある地区では津波による水害が起こっていた。いつも乗る電車が走る高架が崩れているのをみたとき、わたしはもうあのアパートで暮らすことがないのだろうとなんとなしに思い、そして実際その通りになる。その東京を襲った大地震は、わたしの家のほかに、職場や、お気に入りだった喫茶店や、ムカつく同僚の家や、それとだいすきでだいじなあのひとのことも忘れずにまるごとのみこんで全部どこかにもってってしまって、もう二度と見つからない。
わたしは東京行きの飛行機には永久に乗ることがなく、そのまま北海道で暮らす。二度とかえることがないと思われた田舎へそうそうに戻ってしまうと、もうわたしにはどこにも行くべき場所がなくなってしまったのだった。
東京と、そこにいた大量の人間が土砂や海に沈みきってしまうと、あちこちの地方都市が異様な熱気につつまれ、その熱気はそれぞれがそれぞれにだいじなひとたちを大勢なくしたかなしみと奇妙にまじりあって、みんな気がくるったみたいになった。札幌市の実家でまた両親ときょうだいたちと暮らしはじめて眺める雪原は、冬晴れの下でぎらぎらひかっていて、何百年かあとには、ここは北国と呼ばれなくなるのだろうかとふと思うくらいだった。そして、ゆいいつ好きだったこの土地の、青白く澄んだ空気としんとした雪野原も、��の地震と一緒にどこかにさらわれていったのかもしれないと考えた。
わたしは誰か親しいひとをつくることもできず、人手が足りない市役所に勤め、いちにちに二、三言はなすだけの不穏でたんたんとした日々を過ごす。あの日以来、だれにどんなことを話してもむだな気がして、そうして口をつぐんでいるうちにわたしは話すべきことをすっかり思い出せなくなった。
おそろしい気持ちで夜中にとつぜん目が覚めることが増えて、そんなときはいつもしらじらと光る月をカーテンの隙間からのぞき見た。窓際はストーブをつけた部屋でも凍てつくようにさむく、裸足のつま先が氷細工のようになる。まるでノアの方舟に乗りこんだみたいに、わたしが羽田空港を飛び立ったのは冬の夜だった。もしあのときまあるくくりぬかれたつめたい窓の向こうを見ていたらどんなだったろうと想像する。固く目をつぶり飛行機のよどんだ空気や不快な振動やにおいをやり過ごすかたわらで、オレンジ色の光が燃えるように明滅するあの街が、くずれて、ばらばらに砕け散り、だいじなあのひとのことをのみこむ様が見えたのかもしれなかった。そんなのがはっきり見えることはおこりっこないことに違いなかったが、わたしはその瞬間さえ、目の当たりにすることができたならと思わずにはいられない。わたしにはこの先もおとずれず、おとずれることのなかった災厄のすがた。それは青い炎みたいに冷え冷えと激しく、わたしに生きることを迫り、そして二度と死にたいなんて、言えないくらいにおそろしいのだろう。
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chiyok0 · 7 years ago
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薔薇色の人生
その年の夏は猛暑で、地球が滅亡する前触れみたいに、街のあちこちでかげろうがゆらめいていたのだった。
その日も朝から晴れていて、エアコンを効かせて奇妙につめたい部屋から見上げる空は抜けるように青く、アスファルトは白っぽくすすけて見えた。わたしは6時半のアラームをきちんと一度で止めて、ベッドからのっそりと抜け出ると、まずトイレにいき、手を洗い、それから歯を磨いて顔を洗った。時間がなく、また食欲もわかないので、朝食は食べない日が続いていた。化粧をして髪の毛を結い上げ服を着替えると、携帯電話とパスケースをひろってわたしは玄関に向かう。ドアを開けるとむっとした外気が流れ込んできて、屋根や建物に切り取られて細長い空は絵の具を乱暴にぶ���まけたみたいに青いままだ。
仕事に向かう途中だった。駅のホームで汗をぬぐいながら電車を待っていると、ときおり通過する快速電車にぶつかって弾けた風がひたいを撫でた。いつもの時間の電車に乗り込み、ひんやりとした銀色の手すりにしがみついて満員電車をやりすごしていると、電車が地下に潜る直前でわたしは吐き気に襲われる。
次の駅に停車すると、わたしはひとでぎゅうぎゅうになった車内からところてんみたいにぽこっと飛び出てホームに倒れこんだ。密室から出られてほっとして、両膝と両手をホームの地面にぺったりとつけると、うす汚れた点字ブロックが視界いっぱいを覆った。脂汗が滝のようにひたいから頬、あごを伝ってぽたぽたと落ちてゆくのを荒い呼吸を繰り返しながら見ていると、小柄で肉付きのいい女性駅員が駆け寄ってきて、大丈夫ですか、歩けますか、とわたしの肩をさする。呼吸するのにせいいっぱいで、あるけません、とたった6文字の言葉すらいうことができず、わたしは囁くように、あるけない、と口にした。その間もずっと汗はぽたぽた、ぽたぽたとホームに落ちていた。
簡易的な車椅子がどこからともなく現れて、わたしはそこに人形のように投げ置かれる。ふたたび吐き気に襲われて、吐きそうです、とはやはり言えず、はきそう、とまた掠れる声で告げると、女性駅員は少し慌てたようにしたけれどポケットからすぐに黒い不透明のビニル袋を出して渡してくれる。すこしえづくと吐き気がましになったので、わたしは男性の駅員2人に車椅子ごとかつがれるようにして階段の上へ運ばれる。
駅員室に通され長椅子に横になるように言われる。駅員室では朝礼のようなものが行われていて、みなほとんどわたしには注意を払わなかった。よく冷えた駅員室で静かに横になっているといくぶん落ち着いてきたので、わたしは携帯電話から職場にメールをいれる。文字を入力しようとして、指がふるえることに気がついた。始業時間まではあと30分ほどあり、このまま向かえないこともなかったが、四肢に力が入らないし、それに大量に脂汗をかいたのでにおいなども少し気になっていた。
それから30分ほど駅員室で休ませてもらっている間にも2人、ひとが運ばれてきては回復して出ていった。わたしはがらがらの下り電車に乗って家に帰る。窓から見える街並みは美しく日差しを反射していた。
パスケースを改札機にかざすとエラーが出たので駅員に通勤中気分が悪くなったので引き返してきたとつげ、通してもらう。あいも変わらず空は青く、世界中太陽のひかりできらきら鮮やかに輝いている。駅前通りの病院にそのままより、栄養剤と胃腸薬をもらう。スーパーでカロリーメイトとポカリスエット、お茶漬けの素を買い込んで部屋についた頃にはふらふらで、これからお風呂に入ってからだを洗わなければならないことを考えると、わたしはその場にしゃがみこんで泣き出したくなってしまった。
倒れそうなからだでなんとか風呂を済ませ髪を乾かすと、わたしはもらった薬をポカリスエットで流し込んですぐに布団にくるまる。エアコンをきかせると部屋がまた奇妙につめたい空気でいっぱいになる。仕事を休んだのは初めてだった。布団のなかで主任からの返信を読む。淡々とした事務的な文章で、ゆっくり休んでくださいとあった。
それから昼過ぎまで眠った。目が覚めてカロリーメイトを何本か食べてすこしぼっとする。外はまだ暑そうなのに部屋の中は冷えている。熱中症だったのかもしれない。今年の夏は殺人的な暑さだと連日テレビが騒ぎ立てていた。殺人的な暑さ。そのフレーズを頭の中で繰り返しながらまたポカリスエットを飲めるだけ飲んで、わたしは眠る。
目をさますと男の子がパソコンに向かっている背中が見えた。わたしはそれが誰かすぐにわかる。ベッドの中で動くとシーツのこすれる音がして、その男の子が振り返る。起きたの、と言う。おきたあ、と間抜けに答えると、彼は何か飲むかと聞くので、うん、と答える。コップに冷たい水がそそがれて手渡され、わたしはそれをひとくち飲んだ。
体調大丈夫?と彼が聞いてくれるので、わたしはずいぶん良くなったよと答えることができる。男の子はよかったと言って笑い、わたしに抱きついてくる。汗かいてるから、と慌ててわたしが剥がれようとすると、汗かいてもいいにおいといって男の子が腕に力を込める。もう少し眠ったら、と彼がいってわたしに布団をかけ、まぶたを閉じる。わたしは幼稚園児のような気持ちですなおにうん、とうなずく。
夜の10時くらいにふたたび目を覚ますと、わたしはもう一度お風呂に入り、髪を乾かし、今度はお茶漬けを作って食べる。夜の分の薬をポカリスエットで飲むともう2リットルのペットボトルが空になる。明日の服装を考えながらまた横になるとすぐに朝がきてしまう。
翌日は始発で仕事へ向かった。満員電車を避けるためだ。朝早くから空いている喫茶店で朝食を食べてから職場に向かい、ご迷惑おかけしました、と頭を下げると、それですべてなかったみたいになる。
殺人的な暑さのなか、暴力的なまでにうつくしい青空を見上げていると、たちまち心細くなる。どんどん生きるのに適切ではなくなっていくようだった。世界が。
それからは不思議と体調を崩すことがなかった。また夏になり、冬がきて、そしてまた夏になっても、わたしは倒れたりせずに仕事をし続けた。稼いだお金で生活をした。たまに旅行へ行き、高価な服飾品を買った。地球はなかなか滅亡しなかったし、殺人的な暑さ���夏も何度かまたあったけど、ずっとそのままということはなかった。
わたしは定年で仕事をやめ、大半の時間を眠って過ごす。家をきれいに保つだけにしては時間があまりにも多かったが、その時のわたしにはもうほとんど力が残っていなかったので、���潔な部屋でたまに本を読む以外はほとんど眠りつづけた。
目を覚ました時にあのかわいい男の子の背中をダイニングやソファやデスクに見つけることがあって、彼はあの時と変わらずわたしに優しくしてくれる。お腹すいてない?怖い夢を見たの?そろそろお風呂はいる?もう起きたの?そう尋ねられるたびにわたしはあの恐ろしかった夏の青空を忘れ、白々とした蛍光灯の下で幼稚園のこどもにもどる。甘ったれた声でなんでも欲しがり、なんでもねだると、その男の子はすべてを与えてくれる。そして決まってまたわたしを寝かしつけてくれるのだ。もう少し眠ったら。そう言ってわたしのまぶたを閉じる。
そうしてそれから、二度とわたしは目覚めることがないのであった。
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chiyok0 · 7 years ago
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失恋と人類の滅亡について
 「ぜったいわかってないとおもう」 と弓子ちゃんが言ったので、それはそうだろうなとわたしもうなずいた。 弓子ちゃんの彼氏は、穏やかで、周りのことが気になる人で、やさしくて、いいひとなのだそうだ。子供が欲しいと言う弓子ちゃんの彼氏は、全国転勤のある仕事をしている立派な人。 「わたし専業主婦になるなんてまっぴらごめんって言ってるのに」 吐き捨てるような口調だけど弓子ちゃんの声は細くてやわらかくてとてもかわいい。ちょうど雲間からのぞいた日の光に、彼女の色素の薄い髪の毛が茶色に透けた。 「でもそしたら子供なんて育てられないよねえ」 とわたしがいうと、弓子ちゃんは大きな目をばちんと瞬かせて、 「ほんとにそうなの!」 と、叫ぶみたいに言った。 だけど弓子ちゃんは彼氏と別れてない。
 このひとはぜんぜんわかってないけど、こんなに一緒にいたし、もうそういうつもりだしと思って、ずるずる付き合って、それがまったく嘘っぱちで都合のいい妄想だったのだと気付いたときのことを、そのときわたしは思い出していて、弓子ちゃんにはそうじゃない確信があるのかな、と聞きたくて、でも聞かなかった。
 弓子ちゃんはとっても正気なひとに見えた。彼女を見ていると、わたしも、たまに自分が正気を失っていることに気付かされて、はっとする。
 まだぴかぴかの新入社員のころ、同期みんながなんか偉い人たちもいる前で、ひとりひとり挨拶をすることになった。  同期はみんなしゃべるのが上手で、アナウンサーみたいだった。みんなおんなじ新卒なのに、異様に丁寧な言葉遣いとやたらぴしっぴしっとした会釈をしていて、わたしは居心地の悪さを感じていた。そして幼稚な話し方しかできない自分がすこし恥ずかしかった。あんな所作をみんなどこで習ってくるのだろう、と思いながら、��ごもごと自分の自己紹介を終えて座ると、つぎは弓子ちゃんの番だった。  弓子ちゃんは、小柄で、華奢で、色が白かった。目がこわいくらいぎょろりと大きくて、長いまつ毛の中で茶色の瞳がきらきらしていた。  弓子ちゃんは、それまでの同期みたいに人当たりのいい笑みもわたしのようなひきつった照れ笑いも浮かべない、お人形のような顔で、たんたんと、自分の出身大学と、在学中にしたことを述べた。言葉遣いは少しだけくだけていて、あのへんなおとなみたいな言い方はひとつもしないまま、小さな声で「よろしくお願いします」(「よろしくお願い申し上げます」でも「よろしくお願いいたします」でもなかった)と言うと、すとんと席に着いた。  その日の帰り道、ちょうど弓子ちゃんと一緒になったので、「おつかれさま」と言い合った。あたり障りのないことを適当に話していると、弓子ちゃんは「あの自己紹介さ、え?って感じじゃなかった?」と突然切り出した。  わたしはすこしどきりとしながら、「あ、わたしも、ちょっと、気おくれした」と何とか答える。 「ずっと憧れていたので入社させていただき光栄ですって、マジ?って感じ」 と、弓子ちゃんは何の前触れもなくいきなり核心を言ったので、わたしは思わずまわりをきょろきょろ見てしまうくらいだった。
 弓子ちゃんはたぶんもともとわたしより5、6センチは背が低くて、その日はわたしのほうが高めのヒールをはいていたので、弓子ちゃんの頭がかなり下のほうにあって、そのつむじを眺めていると、弓子ちゃんというおんなのこのことを、自分がはっきり意識しだしていることに気付いた。 「そんな忠誠心、ある? あれ、ほんとなのかな」 弓子ちゃんは、そんなわたしをよそに、全く理解ができない、といった風に首をかしげていた。そんなのなんとでも嘘を言えばいいし、言える人なんてたくさんいるのだろうとわたしは思ったけれど、不満そうにつきだしたくちびるが小さくて、わたしはうっかり弓子ちゃんをかわいいなと思った。でも、かわいいということをいまここで、彼女に告げたら軽蔑されるのだろう、とそのときわたしは確信した。 「そういうことも、あんなにすらすら言えて、みんな上手だなと思ったよ」 とつまらないわたしは当り障りなく答えると、弓子ちゃんは続けて、 「あと、すっごいたくさん、メモ取ってる子いたけど、同期の自己紹介なんて、そんなにメモすることあった?」 と、またかわいい顔をして爆弾みたいなことを言い出すので、わたしはひやひやして、それで勘違いしてしまったのだろうか、もうすっかり弓子ちゃんのことを好きになったことが分かった。そしていかんいかん、正気を失うところだった、ととても愉快な気持ちになって、 「なかった!」 とはじめて会社の人の前で、けらけらと笑った。
 弓子ちゃんは大学では歴史の研究をしていて、卒業論文は戦争のことを書いたと言っていた。 「平和とか平等とか中立とか、うさんくさいなって」 本当にこんなことは弓子ちゃんの本意ではないのはわかっているけれど、わたしはそのお人形のように繊細そうなすがたかたちをした弓子ちゃんから「うさんくさい」という言葉がするっと出てくる様にいちいちときめいていた。
 弓子ちゃんはわたし��同じようにある意味では幼稚だった。弓子ちゃんは、意味の分からないことを言われると、すぐに、意味の分からないという顔をして、あのちいさな顔をしかめるのだ。 「お酌しないとって言われて、はあ?って思った」 でもそれはきっととってもかわいいぽかんとした顔にしか見えなかっただろう、とわたしは思いながら、 「自分のことは自分で!」 と適当な返事をしたこともあった。
 そんなふうに、わたしと同程度に幼稚な弓子ちゃんのことなので、そんな彼氏とは別れちゃえばいいのに、とわたしは思っていて、しかし同時に、そんな弓子ちゃんでも、そこそこの時間を過ごした彼氏という存在を簡単に手放したりできないのか、と思うとちょっと失望した。わたしたちはみんな、それが全然ほしいものとは違っているとわかっていても、だれか“自分の”たにんを欲しがることをやめられないみたいだった。
「ぜったい弓子ちゃんが不信感持ってるのわかってないよ」 西日が弓子ちゃんに当たってきらきらはじけるようなのを横目に見ながらわたしは言う。 「わかってないね、そういう考えを持っているって知れてよかった、って、」 弓子ちゃんが大きなため息をつきそうなのにかぶせて私は叫ぶ。 「他人事じゃん!」 弓子ちゃんのちいさな頭がこちらをくりんと向く。 「他人事なの!」 叫び返しながら、弓子ちゃんはまた目をばちんと瞬かせる。わたしはこんなにぴったりのことばを返せるのに、その彼氏よりぜんぜん弓子ちゃんにとっては大事な人間ではないのだ、と頭の片隅で思う。 「わかったふりだよ!」 「わかったふりなの!」 とまたわたしと弓子ちゃんは叫ぶ。 でもいつもの爆弾みたいな言い草とちがって、弓子ちゃんのことばはすこし甘くてやさしい。
 弓子ちゃんはわかったふりのいいひとの彼氏をどうして信じていられるの?
弓子ちゃんから目をそらしながらまた聞きたくなるけれど、わたしは弓子ちゃんを嫌いになりたくないので、彼氏を嫌いになりたくない弓子ちゃんみたいに、核心に切り込むことができない。切り込まないから、わたしと弓子ちゃんの間にはもうこれ以上何も起こったりしない。 目を伏せてから、もう一度、ぷりぷり彼氏へ怒っている弓子ちゃんのほうを見ると、日が落ちて薄暗い中に彼女の顔が青白く浮かんでいた。 わたしは弓子ちゃんのことを諦める。
 どうやってたにんを欲しがればいいのかもうすっかりわからなくて、そしてどうやってたにんに欲しがられることを許し利用したらいいのかもすっかりわからなくなっていた。弓子ちゃんが欲しい気がした。でもすぐに弓子ちゃんを要らないと思った。弓子ちゃんがわたしを要らないみたいだったから、欲しいと思ってはいけない気がした。そしたらほんとうにもう欲しくなくなった。  だれかわたしを欲している人の中からでなければ、わたしはたにんを欲しがれないのだと思った。だれかたにんを“自分の”ものにしたがるのは、ほんとうにひどいことだとわたしは信じていて、だから、わたしというたにんを欲するという“ひどい”ことをするひとにしか、おんなじくらい“ひどい”ことをしてはいけないと信じている。そして、わたしというたにんを欲しがるのは、おとこだけだと、信じている。わたしはやっぱりもう正気でないのだ、最悪なことに。  とっくの昔に正気を失っていたことを、もう引き返せないくらい遠くまで来て、いまさら気付いてわたしはどうしたらいいのだろう?    弓子ちゃんのきらめく瞳と髪の毛を思い出す。  弓子ちゃんは、いまも正気だろうか。  わたしはせかいじゅう、はやく正気に戻ってほしいと思う。  そして二度と人類が生まれませんように。
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chiyok0 · 7 years ago
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すこしずつ生活がうまくなる
このあいだ、ホットカーペットと布団カバーを洗った。一人暮らしをはじめてから五年目で、もうそろそろ六年目になる。そのなかでなんどホットカーペットや布団カバーを洗ったかというと、それはちょっとわたしもみなさんに嫌われたりするのが怖いので具体的には言えないのですが、ほんとうに少ない。ではなんで洗おうと思ったのかというと、大学が終わってからこもりきりでほとんどふとんのなかでホットカーペットをだいてぬくぬくしているものだから、うーんなんだか汗とか皮脂とかついちゃってるようなきがするなあと突然気づいてしまったからだった。そしたらもういてもたってもいられなくなって、部屋中の洗濯の必要なものをすべて洗濯機にいれてまわす。干しているものもすべておろして布団カバーを干すためのスペースを作ってぴんとはって干す。洗剤を変えたばかりでいつもとは違う洗剤のにおいが強くする。乾いたカバーの四隅をふとんの四隅にちょうちょ結びでくくりつけながら、こんなめんどくさいことも上手にできるようになった、とおもった。めんどくさかったんだけどなあ、と思いながら、すべてのすみのひもをくくりつけおわると、なんと、もう終わっちゃったのか、と少し残念がっている自分を見つけておどろいた。
生活を丁寧にするということすら救いになり始めていて、私は何とも言えない気持ちになる。生活が、生活のすべてをきちんと進めることだけが、私に満足感やすがすがしさを与え、そしてすこし、慰めてくれる。いつでもキッチンが綺麗なこと、定期的に掃除機をかけること、シャツにアイロンをかけること、お茶を茶葉からいれること。わたしは��序があり、整理されていて、きちんとしていることが存外すきなのだった。長いこと苦手だと思っていたけれど、ほかのいろんなことよりは得意なようだった。たとえば飲み会に出ることや喫茶店のアルバイトをすること、電車に乗ることなどなど、などなど、などなど……。
そうしていないと、生活をきちんと丁寧におくりでもしていないと、しんでしまうそうになるのだなあ、と何の根拠もなく、しかし妙な納得感を持って、考える。じんせいがあまりにもながいので、いちいち布団カバーをかけるのにひとつひとつうらっかえったりねじれたりしないようにひもをちょうちょ結びにしないといけないのだし、食べては汚れた食器を洗い、また汚すといったことを繰り返さなければならないのだ。生活を丁寧におくれることは、すこしほこらしいが、しかし、そんなことすらできるようになってしまうくらい、死ぬことが難しいなによりの証左のように思われて、かなしい。わたしはなんにもうれしくならない。なにができるようになっても、なにかになっても、なにをいわれても、でも、なんにもおこらない。上手にきれいに生きられるようになることが目標にはならない。そんなに退屈だったのか、そんなにしねなくって時間を持て余してしまったのか、と、どうしてもそう思わずにはいられない。
はやくはたらきたいなとおもう。そうしたらこんなことを考えている暇などなくなるんじゃないかな。なくなってほしい。なんにも考えたくならなくて、なんにもいいたくない。忙しくて目の前のことでいっぱいいっぱいで意地が悪い下等な人間になってそのことにちっとも気付かないで生きて、そうして死ぬことを待ちたい。
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chiyok0 · 7 years ago
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その不足はまだ見ぬ他者である
内定を無事にもらい、なんとか就職できそうだ。
はやく死にたいなぁ、という気持ちが常にあり、まいにちをやり過ごすだけで精いっぱいだ。これ以上生きてあることがつらくならないように、これ以上死ねないことが重くのしかかってこないようにと、その一心で、就職したいと思った。そのためには、はやく死にたいと思っていることは隠さなければいけないと思ったし、生きたいと思っているように見せなければいけないと思った。そしてそんなことが自分にできるのか不安だった。わたしはひとより劣っているのだと就職のことを考えるときはいつも思った。この世で生きていくことに対する期待とか諦めとか、そういうもののバランスの取り方がへたくそで、その不恰好さを責め立てられるような気がした。
そんなわたしが就職したいところに就職できるようになったということは、だから、わたしはすごくがんばったんだなということだった。
わたしはいままで頑張れたなということがあまりない。頑張らなければならない状況は避けられるだけ避けてきた。だからいつもなりたいものになれないのだと思っていた。頑張れたらなにか変わるのかなぁ。なれないものになろうと努力して、それが報われたら、なんだか真っ当になれると漠然と信じていた。無邪気だった。楽しくて、嬉しくて、生きてあることの嫌なかんじとか、つらい気持ちが、少し減るんじゃないかと思った。
でも、がんばって、自分にはなれないんじゃないかと思っていたものになれることになって、それでもしにたかったのである。すごいことである。しにたいのに、しにたくないですよという顔をして、生きていくことになんの疑問もないのですと、笑顔で背筋を伸ばしていた自分のことは、かわいそうだった。
どうしたら死にたくならないのかな。
わたしは頑張ったけど、なれないものになれたけど、ずっと日々は続き生活をしなければならない。わたしは頑張ったけど、でも、それを素直に褒めてあげることができない。
わたしは、なれないものになれるということになって、わたしていどにできたのに、できないなんてと言うようになってしまう。そして、きみは頑張って、偉くて、よかったねと言われ、傷つく。
それはかつてのわたしではなかったか。
東京生まれ東京育ち、細身のスタイル、きれいな顔、それで、いじめられてたりもしたけど、がんばったらこんなすごい学校に、会社に入れました、こんな素敵な恋人も。だからみなさんにもできるはず。
そんなひとたちが恨めしかったわたしではなかったか。
少しでも楽に生きていけるようにと考えて、がんばって、職を得て、ひとりで生きていけるようになる。それであの人たちみたいに���がんばらないひとを見下すようになるのかな。それからそうして、だれのことも愛したりしないで、自分だけを頼りにして、ひとりで死んでいくのかな。わたしはそんなふうになるために、がんばってたのかなあ。それでわたしはしあわせ、じゃないにしろ、すくなくともふこうではないと、そう言い切れるのかな。
だれか他人に、自分の人生を左右され搾取されないように、自分で自分の生きたいように生きれるように、それらは全然間違った願いなんかじゃなかったはずなのに、なのにどうして、それらを目指して頑張ることすら、不毛で悲しく思えてくるのかな。
がんばってがんばって、またがんばって、それで何もかも一人でできるようにならなきゃならないくらい、わたしは、誰にも愛されない存在なのかなぁという、しょうもない、卑屈にすぎる思いが、しかし、完全に、消えることがない。
自立することはいいこと?いいことなんかじゃなくても、たにんに、自分の一部をゆだねることがうまくできないようにできている人間は、自立せざるをえないのだ。ひとは、どの程度までじぶんにまつわる権利を他人に明け渡せるのかな。他人に、自分の進退をまかせることで何か得られるとして、それを享受できる人間とできない人間について、たまに、しばしば、考える。そんな大げさな話じゃなくて、たとえば世話焼きな友人がいて、近所だからと言って掃除洗濯ゴミ捨てをすべてやってくれるとか、お金持ちの恋人がいて、欲しいものは何でも買ってくれるとか、そういうのを、健全に、のんきに、享受していられるのだろうかということだ。わたしにはそれができない。それが正しいとか正しくないとかではなくて、そりゃわたしだって、全部たにんにやってもらいたい、でも、それで彼らが何の見返りも求めていないってわかっていたとしても、わたしはいずれなにかを彼らに差し出さなければならないのではないかという思いをいつでも、拭い去ることができない。そういうようにできている人間なのだ。そのほか、どのようにもあれないのだ。
わたしはどこか極端な性質で、それは極端に目が悪いひととか、極端に背の高いひと、極端に歌のうまいひとがいるように、わたしは極端に他人になにかを明け渡すことができない人間なのだ。そんな気がする。どうしてもできない。男にも、女にも。
そうしてそんなじぶんの難儀な性質のためにわたしはぜんぶをひとりでやらなければならなくなった、と、言ったほうが正しいのかもしれない。ぜんぶをじぶんひとりでやるべきだとか、それがただしくてかっこいいことだとか、そんなことよりずっと前に、わたしにはそうするほかどんな生き方もできないのではないかという予感がそうさせるのだ。
べつにそれだけだったなら、ただひとりで生きていけるように努力をすればいいだけで、だんだんできることが増えていくことに喜びを感じられただろうか。なれないものになろうと努力して、なれますよ、なっていいですよ、と言われたら、死にたくなくなるくらい、嬉しかっただろうか。でもわたしはかなしい。ぜんぶひとりでできてしまうということは、たいていはうれしくて自信になるのだけど、自信にならなければならないはずなのだけど、たまに、こんなことまでひとりですませようとしていることが、ひどいくらいかなしくなるのだ。
たとえば風邪をひいてひどい熱があるのに、近くの病院を調べて朝起きてきちんと診察に行き薬をもらい、領収書は取っておいて、飲み物や簡単な食べ物を買う。そんなこと、一人でできる必要なんてなかったんじゃないかって、ペットボトルは冷蔵庫に、領収書はファイルにしまって、何かをとりあえず食べて、それからくすりを飲みふとんにすっかりおさまってしまうと、考える。こんなことまでひとりでぜんぶできるようにならなくたって、よかったんじゃないのかな。みんな、恋人や家族や友達に、ゼリーやなんかを差し入れしてもらったり、汗を拭いてもらったり、お風呂や着替えの用意をしてもらったりしている横で、どうしてわたしはすべてをひとりですませたりなんかするんだろう?どうしてわたしは、お金を稼いで家事をして家をきれいに整えて体調に気を付けて休日に遊んで、休んで、そしてまたお金を稼ぐということを、えいえんに一人でやり続けなければならないんだろう?
じぶんひとりですべてやっていかなくてもすむなら、そのほうがいいのだ、とやはりわたしはどこかで思っていて、しかし誰にもじぶんを預けることができないという、何の意味もない、ただうっとうしいだけの性質がわたしをかなしい気持ちにさせる。たとえなれないものになれたとしても。できなかったことができるようになっても。
ああわたしは、なにか間違ったのかなあ。どこか間違えたのかなあ。でなければ、このかなしさは、むなしさは、いったいなんだというのだろう?わたしはなにを忘れて/知らずに/無視して/軽んじているというのだろう?
それがちっともわからないのに、ただ日々は、せつせつと、退屈で、忙しくて、不毛なまま、わたしを通り過ぎては、また、やってくるのだ。
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chiyok0 · 8 years ago
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つめたい水中
目が覚めると空気がつめたい。ふとんのなかはあたたかくてやわらかく、薄目を開けると、辺りは薄暗いが、夜が明け始めているのが分かる。カーテンのしたで揺らめく光が群青色で、部屋中、その色をしている。顔を出し、ふとんを胸のあたりまでさげると、群青色の空気がひやりとする。水の中みたいだと思う。冬の朝は、水の中。空気にも温度があり、質感があり、硬さがある。水の中で目が覚めて、ぼんやりとしていると、意識が水底からうきあがるようにはっきりする。かと思えば、また、沈んでいくように、なにもかもわからなくなる。夢を見ていた。ような気がする。げんじつはつまらないなあ、と、天井まで群青色でいっぱいのしかくい部屋の中で考える。
わたしはこんな水中のことをとても好きなので、だれかすきなひとに見せてあげたいと思うし、その中で目覚めさせてあげたいような気がする。でもそんなことはめったにおこらない。まず一緒に目が覚めなければならないし、夢もみていなければならない。そして、わたしが、空気が冷たいねといったら、そのひとは、水の中みたいだね、と言わなければならない。そんなことはげんじつではない。
冬の夜明けの群青色の水は、太陽が昇るのに合わせて、ひいていく。どんどん、青っぽくなって、水色っぽくなって、白くなって、やわらかい、アイボリーになる。そのさまを感じながら、だれかといっしょに、ながめてみたいものだったと思うのは、夢が覚めていくのにちょうど、よく似ていて、何千回目かの諦めであり、しずかな決意なのだった。
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chiyok0 · 8 years ago
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ひとりで途方に暮れている
 渡米初日、日本から送った荷物はすべて無事に届いていたけれど、その寮には台車もエレベータもなかったから、わたしはたったひとりでその大荷物を三階の部屋まで運び込まなければならなくなった。  夏で、暑くて、不安だった。  ジーンズにTシャツ、スニーカーを履いたわたしはこちらの人たちにはせいぜい高校生くらいにしか見えなくて、実際わたしはアメリカではほんの10歳のこどもより無力だったと思う。こっちの10歳のこどもには親だっていただろうが、わたしはおんなじくらい無力で幼いのに、たったひとりだった。誰に頼ったらいいのか、そもそも頼っていいのかもわからなくて、お気に入りの文庫本やノートを詰めて込んで重い段ボールをひとつずつひきずって、ひとつずつ2階へ、そして3階へと引き上げた。汗がだらだら伝って、腕がちぎれるみたいにしびれた。腰も足も痛くて、わたしはほとんど泣きべそをかきながらすべての荷物を部屋に運び込んだ。みじめな気がした。ほかのひとたちは、みんな、家族が車に乗って手伝いに来ていた。小さい弟や妹を連れている家族も会った。手伝ってくれる人がいたところで大荷物を運ぶことは大変だったろうけど、わたしは誰にも何も言わずに黙ってそれをしなければなかった。いっしょに運んでくれる人がたったひとりでもいたなら、わたしはこんなに悲しくなかったしつらくもなかったし、もちろんみじめでもなかったのに。 あのときの気持ちを、いまでもたまに感じることがある。寮の階段のそばに積み上げた五つの段ボールを見て途方にくれて、これ、全部ひとりで運ぶの?と半ば唖然としながら思ったときの気持ちを。  それはお米を買うときやシーツを変えるとき、たくさんの雑誌をゴミに出すときに訪れる。  わたしはいかに自分ひとりの身体が無力かを知る。力がなく、すぐ疲れ、歩幅はちいさい。器用に動かせる手がついている腕は二本しかないことがたまらなく不便で、その不便さがとても悲しくなることがある。誰かひとり、手伝ってくれるだけで、どんなにかそれらは簡単にこなせたことだろう。車があれば、どんなにか簡単にいろんなところへ行き、荷物の心配をしないで買い物ができただろう。そう考えると、一人でこの世で生きていくことがとてもつらく大変に思えて、たったひとりの手伝ってくれるひとすら持てないことがすごく恥ずかしくなる。みんなが恋人を持ち、友人を持つことがひたすらうらやましい気持ちになり、そして同時に、生活の手伝いのためだけにしか恋人や友人を欲しがれないことは貧しい、と思って結局、それらが欲しい、ということができない。わたしのなかのなにかが、それらをそんな理由で欲しがることは正しくない、という。  アメリカでお世話になった��生のことを考える。そのひとは一人きりで二匹の猫と一緒に暮らしていた。一人暮らしには十分な広さの部屋をシンプルに、しかしとてもきれいに使っていた。わたしはテーブルクロスやランチョンマット、それから丁寧に整理されたキッチン用品を見るたびに、ああ、わたしもこんなふうに一人でも暮らせるようになりたい、と思った。ひとりではたいへんなあれそれを、車や、シーツなどの大きなもの用の脚の長いアイロン台といったそれ用の特別な器具を持つことで、簡単にこなせるようになりたい、と思った。それらは、だれか友人や恋人がいれば必要のないものなのかもしれないけれど、それでもわたしは、それらを持ちたいと思ったし、それらを買えるだけのお金を稼ぎたいと思ったし、そうして、こんなに無力でちっぽけな身体しかなくっても、一人で生きて行けるようになりたいと思った。  あの夏の日、うずたかく積まれた段ボール箱を前に呆然としたわたしに必要だったのはなんだったのか。それはエレベータのついた寮を選ぶことだったのかもしれないし、だれかに助けを求められるようなある種の大胆さと愛嬌だったのかもしれないし、力強い筋肉と体力だったのかもしれない。あのときの泣き出しそうな気持ちを思い起こすたびにわたしはすこし足がすくみ、そして身が引き締まる思いがする。わたしは、ほんとうは大胆さも愛嬌も丈夫な身体も友人も恋人も欲しいと思うけど、きっとうまくできない予感がする。信仰かあるいは信念みたいなものによって、わたしはそれらを欲しがることができない。欲しがれないものを手に入れようとすることができない。だからわたしは一人きりでも生きていけるようなお金と賢さが欲しいと、それ以外どうすることもできないと半ば脅迫されるみたいに思っている。  わたしの目の前にはいつもたくさんの段ボールが積まれていて、それをひとりで何階も上の部屋まで運ばなければならない。誰かほかの人と重いね、疲れたねと言いあいながらそれを運ぶことをわたしは諦めようとしていて、代わりにクレーン車や業者を呼べるだけの力を持った人間になろうと考えている。それがただしいのだ、と確信するわたしの隣で、しかしあの日のわたしが、途方に暮れたまま、その山を見上げているのだ。 
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chiyok0 · 8 years ago
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わたしがかわいかった、あるいはかわいくなかったときのこと
 笑うと目が細くなる。それをチャームポイントだといって書いたあの子はアイドルだったけど、それがコンプレックスで笑うときにうつむきがちなわたしは一般人。まぶたにメスを入れて、脂肪を取ってくっきりした二重の線を作ってもらうためには両目でだいたい30万円。30万円分の損失をいつでも顔に張り付けて、わたしは今日も電車に乗って学校へ行く。
 かわいいかわいいとすきな男のひとに顔を褒められてうれしかった。学科で有名な読者モデルよりずっとかわいい、ミスコンに出たらぜったい1番、きみがすきなあのアイドルグループにだって入れるよだってきみよりかわいくない子なんてたくさんいるじゃん。そのひとがわたしの容姿を褒める言葉はいかにも男のひとの物言いと言う感じでおかしくてすこし軽蔑してでもやっぱりわたしはうれしかった。笑うと目が細くなるのがいやなの、わたし自分の笑った顔が一番嫌い、というえーでもぼくはきみの笑った顔が一番好きだよ、というのでわたしは、あっいまなら諦められる、と思った。このまま諦めてしまえと思った。鏡を見るたび、街を歩くたび、死ぬほど悔しくて悲しくて貯めた17万円はもう生まれながらに背負った負債の返済のためではなくて、素敵なあのワンピース、手が届かなかったブランド物のお化粧品、あるいはこの男のひととどこか遠くに出かけるためのものに変わることができるのかもしれなかった。ありがとう、と言っておそるおそるうつむかずににっと笑った顔を返してみせたら、あっかわいい、今の顔がいちばんかわいい!といって熱烈に抱きしめられて、わたしはなんて陳腐なんだろうとその瞬間にもう完全にわたしの負債はなくなった。
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chiyok0 · 8 years ago
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あさいねむり
眠っていたのをその瞬間に忘れてしまうくらい、まるでスイッチが入るみたいに目覚める。そのあまりの連続性のとぎれなさに驚く。眠りにつく前と今がぴったり、やぶった紙の裂け目どうしみたいにくっついてしまってはなれない。
さいきんは、日付が変わってから数時間したくらいでベッドにもぐりこみ、そして朝の8時や9時に1度目の覚醒がある。日によってその時間に起きなければならない時があって、そうでない日まで、その時間に1度、目が醒めるようになってしまったようである。まいにち、外へ出ていて、もうひと月くらいになるだろうか。わたしはわたし自身がきわめて真面目でしっかりした人間であったことにびっくりする。まいにちの予定に合わせてきちんと起き、食べるものを買い、洗濯機を回し、ごみを捨てることができるなんて。そして眠りはあさいのだった。
眠っている時間がだんだんうすくうすくなって、生活のほんの一部ですらなくなっていく。起きているときのことをいつも考えている。銀行で口座を作らなければならないこと、駅前のスーパーの営業時間、今日はバイトだなぁお盆だから電車が空いてたらいいのに。それらをすべてかんぺきに淡々とこなす。手帳のカレンダーにはいちにちずつ斜線をひく。わたしの死ぬ日がもう決まっていて、その日に向けた日めくりのお祝いカレンダーをめくるようだ。「あと   日でさようなら」。あとどのくらいめくればおめでとうの文字を見れるのかな。
こんこんと眠ることが好きで、夢を見る��とが好きだ。わたしではないここではないほんとうではないことを、本当だと信じきることができ、違う世界の住人になれる。目が覚めたときの無重力のような、いっしゅん、今がいつで、何をしなければならないのかや、夢の中のわたしと、このわたしとの境界がぼやけて混ざる瞬間を何よりも愛している。疲れているわけでもないなんの予定もない休日に、椿の花の落ちるみたいに眠り込むことがたまにあって、そんなときには、そのときの感触や手触りをぼやけて薄まる前にと必死で覚えておこうとしている。
でも、まいにち外出するようになってから、こんなふうな眠りは1度も訪れておらず、たまねぎの皮みたいなうすい眠りばかりを繰り返している。いろんなことを忘れていく。一番初めにそれに気づいたのは小学五年生の時で、そのとき忘れてしまったのは、サンタさんのためにまいにちわくわくしながらお手紙を書いたり折り紙を折ったりプレゼントを考えたりする、すこしながいあの12月という季節だった。わたしはそのときの瞬間のことをいまでも克明に覚えている。英会話教室の帰り、母親の運転する車から、駅前のガソリンスタンドを窓越しに眺めたときにふと思ったのだ。もう12月も終わるのだなと。そしてサンタさんへの手紙を書いていないことを。
いろんなことがわからなくなっていく。誰か一緒に眠る人がほしくて心細い気持ちでうずくまったアメリカのベッドのことも、はじめてセックスしてびっくりするくらい楽しくて愉快だったことも、北国の冬の、青白い突き刺すような夜明けのことも、なにもかも、確かにあったのに、そして今のわたしをつくっているはずのに、もう2度と訪れないことがわかる。事実だけが、ただの記録のように残り、わたしはいつかのわたしとも違う得体のしれない人間として生きている。もうかえらないものがたくさんあるような気がして、しかしそれらをいたむ気持ちがものすごい勢いでなくなってゆく。それをどうすることもできない。いやではない。いやだと思うこともない。間延びした日々。
地に足がついてからっぽになったみたい。夢も薄まってそのうち無色透明な暗闇だけになるのかな。それがすこし恐ろしい。わたしはどんどんいろんなものを忘れていってさまざまな不揃いがきちんと均されていく。あんなに欲していた安定が、無表情に、たんたんと訪れ、わたしの上に覆いかぶさっていく。悪いことじゃない。悪いことなんかじゃないと繰り返して、わたしは眠りにつく。その眠りはずっとあさいままなのだろうか。
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chiyok0 · 8 years ago
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好きになれないあなたたち
わたしの、好きになれないお洋服屋さんの話をします。 そもそも、わたしはお洋服は好きですが、お洋服屋さんという存在は、さほど好きではないのです。店員さんが好きではないからです。お洋服屋さんに限らず、およそお店と名のつくところには店員さんがいるものですが、お洋服屋さんの店員さんは、とくに、好きではないという気がします。 そんなら、インターネットでお洋服を買えばよかろうということになりましょうが、わたしは、お洋服じたいはとても好きで、試着をかなり重視しているのです。試着して、そのお洋服が、ぴったり自分の身体に合う瞬間は、なにものにも代えがたいものがあります。そしてそのようなお洋服をこそ、買いたいのです。そのためには、やはり、いくら好きではないといっても、お洋服屋さんにみずから、出向かなければなりません。 さて好きになれないお洋服屋さんの話でした。とはいっても、そのお洋服屋さんの内装やインテリア、��洋服がやまほど陳列されている様子などは、わたしはとても好きなのです。お香なのかなんなのか、不思議な香りがしていて、なんともいえない、不思議な外国の歌が流れています。試着室も広く、姿見は大きくぴかぴか輝いています。お洋服だって、どこの国の誰がどんなふうに着ていたのかしらんと思わず想像してしまうような、奇抜で、へんてこで、そして素敵なものばかりなのです。 でも、お店の扉を開けるときはいつも、躊躇うような、嫌な気持ちがよぎります。ドアベルがからんからんと鳴って、店員さんに接客され始めてしまうのがいやなのです。扉の上の方に、開け閉めをするたびに鳴るベルがついていることを承知してしまうくらいには、つまりそのお店に通っているということなのですが、でも、やっぱり、好きになれないものはなれないのでした。 店内に入ると、ベルの音を聞きつけた店員さんが、にっこり笑っていらっしゃいませぇ、と言います。彼女たちは、みな、多分このお店で買い付けているお洋服を着て、それに合った少々奇抜というか、派手なお化粧や髪型をしています。みな、若く、多分わたしと同じくらいの、二十四、五歳に見えます。彼女たちは、言葉遣いこそ丁寧といえなくもないのですが、話し方となると、なんというか、年相応に若い女の話し方でした。それは語尾の上がり方や、相槌の打ち方などでしょうか。あなたも一度行けばわかります。わたしは若い女でアルバイトなどもしたことがあるものですから、こういう、雰囲気の良い店の若い女がどんな立場か、どの程度知識があるのか、なんだかよけいに、わかってしまうのです。おんなじ生き物のことはよくわかるつもりです。それで、わたしは、同族嫌悪なのかもしれませんが、そんな女の、お店の雰囲気や扱う服とはうらはらな、どことない素人臭さが、とても嫌なのでした。見たらわかるようなお洋服の特徴を、まるでさも珍しく素晴らしい秘密かのように説明する様子などは、とくになんと返事をしたらいいのかもわからず、はぁ、と曖昧な引きつり笑いを浮かべるしかないのでした。 と、こうしてわたしはその店員さんたちを、素人臭いなぁつまらないなぁなどと思っているのですが、彼女たちは彼女たちを、そう思ってはいないようです。これはずいぶん素敵なデザインだが生地が薄いなぁ、こっちは色が素敵だがなんとなく状態が悪いし自分で直せないだろうなぁ、などと、ヴィンテージということで、品質においてかなり神経質になりながら(わたしはお買い物で失敗することを過剰に恐れているのです)あれこれお洋服を物色しているわたしに、店員さんたちは、すかさず、ワンピースをお探しですかぁ?それすっごくかわいいですよねぇ〜と話しかけてくるです。セールストークというやつなのですが、いかんせんこの服を作った会社に所属するわけでも(ヴィンテージなので当然ですね)、ヴィンテージ特有のダメージを開示することに誠実なわけでもない、ただの若い女の言うことなので、べつだんセールスになっていないのでした。それでもやはり、こんな素敵なお店で、素敵な服を着て、本人にとっては好きな化粧をして(わたしには異常に大きなカラーコンタクトや肌の色似合わない過度なブリーチが変に見えるのですが)販売員などをやっていると、そんな自分が好きでたまらなくなるのでしょうか、いやに自信満々なのです。自信満々なのですが、その自信は、商品知識の豊富さやヴィンテージ特有のダメージの程度やお手入れ方法をきちんと伝える誠実さなどには、まったく、裏打ちされていない、なんとも空疎なものに見えるのです。それがわたしはたまらなくいやなのです。 試着して鏡の前に立つと、また彼女たちは飛んできて、とりあえずといった感じで、大仰に褒め称えるのですが、これも、だから本当に中身がなく、いやなものです。身体のラインや自分の肌の色味に合っていないものや、実際に着てみてはじめて気づくようなほつれやすれ、シミなどのダメージのあるものでも、とにかく褒めるのですから、参ってしまいます。その、こんなに素敵なわたしという自信に溢れた店員さんの、無意味な販促のもたらすプレッシャーを跳ね除けるだけの元気も気力もないわたしは、また、あの引きつり笑いで、目も合わさずに会釈して逃げるように試着室に戻るのが常なのです。 そうしてもお洋服には罪はないので、わぁ、と思うような素敵なものを見つけた時は、嬉しくて、すこし、元気になります。そしてレジに行けたなら、まあなんとかなったほうです。しかし、お会計をしたり包むのを待っているあいだに、ほかのお客さんを接客しているのを見聞きしていやな気持ちになることもたくさんあります。そのお店は、ちょっと有名なお店で、モデルなぞをやっている店員もいるものですから、そういう、お客さんというよりは、ファン、みたいな人もよく来るのです。モデルの名前を叫び黄色い声をあげるお客さんや、また来てくれたの〜と、内輪っぽいくだけたノリで返す店員の応酬を見ていると、彼女たちの素人臭いのに何故か自信満々な理由がわかるような気がして、また、暗澹たる気持ちになるのです。 わたしは、よい、自分にぴったり合ったお洋服がほしくて、お店に行くのですけれども、なので、百貨店にいるような店員さんが本当は好きなのですけれども、このお店の店員さんはそういう種類のものではないのでした。わたしは、ここのお店で買い物をしてはいるけれども、お客さんとは思われていないような気持ちになります。少なくとも接客のただしい対象ではないのだと思います。お店で取り扱っているお洋服や内装が好きなだけに、あぁわたしは接客の対象になるような人間ではないなぁ、ここの店員さんはいやだなぁ、でもこういうくだけた若くかわいい女の店員が好きで持ち上げる人も多いのかぁ、と���うことは、なんとも寂しくいやな気持ちのすることです。 モノは好きでも、それを扱う人間のことがなんとなくいやで、本当は好きなものなのに、いやな気持ちに少なからずなってしまうものがあるということを、わたしはこのお店に通って気づいたように思います。はじめは、なんで素敵!と思って、100パーセント、大好きなのです。憧れて、わくわくして、楽しみなのです。それこそ、先ほどのお客さんのように、ファンだったのです。ほかにも、大勢おんなじファンの人がいて、お店の告知や商品紹介を一緒になって楽しみにしていました。しかし、なんども通っていると、ファンの人やお店が告知するほどのものではないんじゃないかな、商品のダメージや接客態度などなんとなくいやな感じのする、がっかりすること、あるなぁという気持ちが芽生えてきます。でも、そのお店のファンは増え続け、綺麗に加工された告知画像はアップされ続けます。お洋服は素敵だけど、お店としてみたら、あんまり好きじゃないな、そんなふうに思うだけでも悲しい気持ちなのですが、そんなふうに思っているのはわたしだけなのかしら、と思うことは、さらに、寂しい気持ちになります。内輪っぽく、きゃっきゃしたり、すごく素敵だよね大好き最高と、屈託無く好きになったりしたかった。でも、それがうまくできなくて、そのことがわたしをとても悲しくさせます。あのお店は、わたしにそのことを行くたびにいつも、つきつけてくるようで、だから、やっぱり、好きになれないお店なのでした。
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chiyok0 · 8 years ago
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ちょっとはやいお誕生日おめでとうについて
死にたがり始めてもう十年くらいである。
十年間という年月が教えてくれる通り、死ぬことは本当に難しいということが、なにかにつけ骨身にしみる日々である。なんとか死ねないものかと夢想するものの、実行してみようとすると涙が溢れ、自傷すらできないことに絶望し、それでも誰かに認められれば、セックスをしたら、恋人ができたら、なれないものになれたら、もしかしたら死にたくなくなるかも、と淡い期待を抱いてはその度打ち砕かれる、といったことを繰り返していると、もう半ば確信せざるを得ないのである。なんと、ひとは、死ねないのである。その時が来るまで。そしてその時を選んだりコントロールしたりすることは、できないのであった。
死ぬほど苦しく、悲しく、やるせないのに死ねないということが強固に目の前に立ちはだかるので、わたしは死ぬことは諦めて、苦しいことや悲しいこと、やるせない思いをすることを減らそうと考えるようになった。といってもここ数年のことである。十年考えて、やっと、方針が固まったといってもよい。どんなに苦しく悲しくても死ねないということを踏まえてこのさきを生きてゆかなければならないのだ。さもなければ、お前はもっとずっと辛く悲しいのに死ねもしない生き地獄で永遠に苦しむのだ。
そう考えて身震いしたわたしは、だから努力するようになった。就職活動も努力したし、生活���回していくことにも注力するようになった。そしてわたしはまっとうな人間に見えるようになったと思う。死にたくて死にたくてたまらないという、この十年間が、わたしにそうさせた。皮肉なことである。
最近は、生きていること自体が滑り止めみたいだなあと思う。辛いからもう死のうと思っても死ねないときのために、わたしはじゃあ辛い思いをなるべくしないようにと生きていて、それはだから永久に第一志望にはならない。生きることは。
ただ死にたい。死ねますように。そう思いながら、明日の食材を買い、バイトの時間を確認し、眠りにつく。それはけして矛盾ではない、と十年考えた末にわたしは諦めたのである。あぁもっとたくさんのことを、このさき、諦められますように。諦められたらいいねえ。このお祈りをちょっとはやいお誕生日のお祝いとして受け取ってね。それでは、おやすみなさい。あしたもがんばって。
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chiyok0 · 8 years ago
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美意識と就職活動
 就職活動って、すごいだるいしなんかダサいし、口にするのも本当はやだ。どっかで、就職活動なんてのをしなきゃいけないのは、そんな歳になるまで何の才能もみつかんなかった、凡人という名の、負け犬なんだってのを読んで、なんだかそれが、こんなに就職活動っていうのをだるくてダサいものにしてるような気がする。受験もだるくてダサいけど、なんか、こんなにひどくはなかったような。ひとがらとかマナーとかがキモいのかな。どうかなあ。
 そんな就職活動なんですけれども、朝ごはんを食べてよいしょって立ち上がって顔を洗って化粧をして髪をきゅっと結んでスーツを着るのは好き。わたしは化粧とか着替えとかそういう、おしゃれするというか、おしゃれする準備が好きで、特に、その日会う人が重要な人であればあるほど、たのしい。初めて会う人とか、だいすきな人とか、憧れてた人とか。たまにひとりで映画観たり、買い物したり、気になってた喫茶店に行ったりもするんだけど、そういう時ももちろんおしゃれするんだけど、人に会う時ほどじゃない。大事な人に会う時は、わたしの場合は、無駄毛の処理がすごい入念になる。つまり前日のお風呂に入っている段階からおしゃれが始まっているんである。顔の産毛とか、眉毛の回りとか。もちろんわきも。脚とか腕が出るならそこも。あといつもはつけないトリートメントをつける。だから髪はシャンプーしてコンディショナーつけてそのとくべつのトリートメントで三回も洗って流すのをやる。お風呂を出た後も髪をすごく丁寧に乾かす。生乾きでめんどくさくなって寝ちゃって寝ぐせとかつかないように。
 当日の朝、わたしは本当に朝というか、朝起きてぼーっとしたいのに急がなきゃいけない状況が苦手で、行きたくない……ってしんしんといつもひとりでごねている。でも���ょうは大事な人に会うし、と思ってえいやーっとお布団から出る。昨日の夜から毛剃っていろいろ塗ってぴかぴかにしたんだしって。適当に食パン焼いたりヨーグルト食べたりして歯を磨いて顔を洗う。水だけ。今の季節は蛇口からそのままでてくる水がちょうどいい冷たさでいい。タオルで軽くふいて、化粧水を塗って乳液の代わりに日焼け止め。手足にも塗る。それから下着をつけてお化粧をする。お化粧するときはテレビか何かを流す。録画してたドラマとか。それを適当に聞きながら、下地でクマとか鼻の下とかしみとかを隠してフェイスパウダーをはたく。夏で、わたしは結構汗をかきやすいので、下地は最小限。ファンデーションも塗らない。そのあと眉毛を書く。就職活動は眉毛が大事!とのことなので、ペンシルタイプできりっとした眉毛を書く。眉尻を書くのが好き。前日にきちんと無駄毛を剃っておいたのでうまく書ける。スクリューブラシでぼかしてワントーン明るいパウダーを振っておしまい。わたしの眉毛はもともとのかたちが結構整っていてきりりとしているのでこれで結構よく見える。あとはチークを塗ってブラウン系のアイシャドウをグラデーションにして、まつげビューラーであげてマスカラ。完成!そして次は髪の毛。ほんとは顎よりすこししたくらいのボブヘアだったんだけど、就職活動で髪の毛をくくれるようにってだらだら伸ばしていて、正直おろしたときの髪型は今すごい気に入らない。早く切りたい。でもくくるとよくなるようにしているので、就職活動のために髪をくくるのは結構たのしい。まずアイロンで全体をざっとまっすぐに伸ばして整える。前髪も適当にくるっとさせておく。髪をくくるために買ったコーム(それまではブラシしか持ってなかった)で絡まりを取ってから、ワックスを指先に伸ばして、耳の上の、頭の側面?の髪にもみこむ。短い毛が出やすいところだから、ぴしっとなるように。そのあと、ブラシでざっくりまとめたら、コームで表面の毛並みを整えて、一本に結う。手鏡をもって、くくった位置を確認してよかったら、きゅってやる。コームのとんがったほうをちょっとがたがたしてるところに差し込んでスーッと後ろにやって整えてだいたいよかったら、ケープをばーって振って、またコームで整える。前髪も。そしてスーツを着て完成。我ながらとてもうつくしくできたと鏡をみると、なんか就職活動だるいしダサいけど、わたしはすごいかわいいぞ、スーツ着てこんな髪型でも、って思えてふーってなる。頑張ろう……。
 おしゃれは魔法で、なりたい自分にしてくれて、勇気をくれて、自信をくれるって言うけど、わたしにとっては、特に、誰かに会う時に、わたしはすごいかわいくて、会ってお話しするのに値する人間ですよ!!!って自分が思えるようにするためのものだなあと思う。そしてまた、こんなに準備してくるくらいあなたに会うの楽しみにしてました!!!っていうお気持ちの表明だ。誰かに好かれる自分になれますように、って。
 まああとはほんのちょっとの、めちゃくちゃかわいいからってどこか採用してくれないかなあっていう下心……。えーん採用して!!!!!
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chiyok0 · 8 years ago
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ぼくは、たとえインスタント・ラーメンであっても、龍の模様なんかがついた中華丼で食べたいし、一本五百円の安ワインでも、コップではなくて、ワイングラスで飲みたいと思う。そういう風にして、食べたり、飲んだりした方がおいしい、というのは一つの大切な真実ではないだろうか。合理的な考え方からすれば、容器によって味が変わるはずもないのだから、おいしい、と思うぼくは幻影を食べたり飲んだりしているのかも知れない。しかし、そうした幻影を一つ一つ否定していったら、ぼくたちの生活に何が残るだろう。
渡辺武信「収納」『住まい方の思想』中公新書 (via poroporoaomushi)
「最後の一文に向かってすべてが流れ込んでいく方式」みたいな文章。いい。
(via toukubo)
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