Tumgik
cotochira · 1 year
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日記0721
 夜勤明けで三時くらいに起きて、劇場版Gのレコンギスタ4、5章のウォッチパーティをした。おもしろすぎる! だいぶ前に1~3章を見ていてかなり間が空いたのでほとんどの固有名詞を忘れていて、最初の方はかなり苦戦したけどふんわり見ていても楽しい。Gレコは独特なゆるさみたいなのがおもしろくて、ヌルっと危機的な状況が訪れたり去ったりを繰り返すうちいつの間にか主要な人物が大きな成長を遂げていてびっくりする。何か今すごいこと言ったな!とか、今この人死ぬの!?とか思ってたらまたすぐめちゃめちゃ戦いがはじまってしまうから一つの出来事に執着している間がない。それは作中の人物たちも同じだったりする。なんかそういう、奇妙な散漫さによってリアルさが担保されている。
 カクヨム用の原稿をつくっている。もともとあったやつをリメイクする運びなのでwordで全体像を見て調整しながら、前後関係を入れ替えたり文と文の段差を埋めたりという作業。これは新鮮でけっこう楽しい。それがだいたい終わったので残りは純粋な加筆作業になって、こ~~~~れはめんどくさい。最悪。
 あしたは夕方からバイト。大きい飲み会がおわったので今月の残りはできれば一度も飲みに行かないで小説を頑張りたい。うお~
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cotochira · 2 years
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0109
 バイト先のホテルは全館禁煙なんだけど、夜勤のアルバイトが非常階段でたばこを吸うことを防ぐ手だてがあるでもない。最上階手前の踊り場にある照明に後ろから照らされると、屋上に続く梯子のついた壁に、自分の頭の影が思ったよりも大きく映る。大通りからけっこう入ったところにあるから周囲は静かで、そこの古い一戸建てから出てきたおじさんと犬の足音も聞こえる。ぼくの方の息づかいや身じろぎするのも、その音自体として伝わらないまでもなんとなくの気配としてあっちに届いていたりするのかもしれない。
 年越しは大学の友達と過ごした。兵庫の方に就職した友達の家に、近畿に実家があって帰省してきた友達と一緒に泊まりに行き、総菜の刺身や蕎麦なんかつっつきながらだらだら飲んでいた。前日、文藝短編賞に送る小説を徹夜で書いていたぼくは昼過ぎから晩どきまで寝てしまって、そのせいで空気が弛緩したのか友達はふたりとも十時を過ぎたあたりから寝はじめ、年越しの瞬間に起きていたのはぼくだけだった。まあふたりとも定職に就いていていつもはふつうの時間に寝起きしているわけで、日付を越えるのが当たり前みたいな生活が許されているのはぼくだけなのだから当たり前といえば当たり前なんだけど、というかそれも含めて、ああそうかもう年越しの瞬間を特別に思ってわざわざ起きたりもしないような歳になったんだなと、何か取り残されたような気持ちになったりもする。
 ふたりは年が明けた十分後くらいにぼくが騒いでいるから嫌々という感じでいったん起き、でもまた寝たから、乾杯するのに買ったシャンパンは大半をぼくが飲んだ。結構酔った状態で開いたスペースで何喋ってたんだか覚えていない。起きてツイートみたら人に臆面もなく音楽をオススメしていてすごく恥ずかしくなった。お酒は怖い。
 友達の扱いが昔から雑というか、お互い雑に扱いあうのが友達関係だと思いこんでいるところがあって、ネットの知り合いにはそれでひんしゅくを買っているんだろうなあと思ったりもするがすぐに治るもんじゃない。そういうつきあいのモデルとして一番根深いのはたぶん母や姉なんだけど、はじめて家の外で顕在化してそれが許されたのは中学の時の友達との間でのことだった。そのうち二人とも年明けに会った、夜中に合流して車に乗せてもらい、ファミレスでだらだら喋った。そいつらとの間ではわざわざ近況報告とかするのすら何かこっぱずかしいものになっていて、ひたすら互いにボケあうだけの時間が延々続く。面白いエピソードを話し合ったり、誇張した持論を半笑いで言ったり、何も思いつかなかったら奇声を上げたり。結局ふたりがどういう生活をしているのか、片方に関してはどこに住んでいるのかすら判然としないまま、また車に乗せてもらって帰ることになる。
 こういう関係を築くことはきっと今後ほかの誰ともないのだ。それで支障の出ない相手がもういない。別にそういう間柄が理想だというのでもない。何でも話せるとかいうのとはほど遠い、むしろ窮屈な付き合いでもあって、他の人とそういう風にしたいかというとまったくそんなことはない。それに、だからといって彼らを大事にしようとかいうのもやっぱりまた関係にそぐわないので思いもしない。でも考えれば寂しいは寂しい。でもこういうのは考えるから寂しいだけのことだ。
 近所の駐車場に車を残して、順番に降りる。少し高台にあるから星がよく見えて、ぼんやり見上げていたら、二人も黙ったままそうした。ここよく見えんねん、と運転しない方が言った。今思えばそれもこっぱずかしいんだけど、そのときはそうは思わなかった。だから本当はそいつらとももっといろんなことを言い合えるのかもしれない、ただそうしたいともやっぱり思わない。
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cotochira · 2 years
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おれたちサニーサニーボーイズ
 「Sonny Boy」を全話再視聴した。相変わらずおもしろい。毎話見終わるたび感慨をツイートしようとしながら、このアニメについて自分に言えることが何もないことにびっくりする。でもそれこそが創作物としての強度なのかもしれないと思ったりもする。結局ふだんアニメや漫画を見て感想を言うのもお話だけ取り出したり、小説に引きつけてみたり、完全にわからんところを当てずっぽうで言ってたりと、とにかく媒体そのものの知見とか実作の経験がないところを色々ごまかして言ってるわけだけど、サニーボーイはかなり純粋に映像を見ている(話が分かりづらいので、そうせざるを得ない)のでそのごまかしが通用しづらい。見ている間にだけわかっていることが殆どで何か一部分だけ取り出すというのが難しい。やな言い方ではそれは門外漢を黙らせる力ということでもあって、自分もそういう小説を書けたらと思う。
 再視聴してると気になったのは後半2話のセリフがちょっとわざとらしいなというので、最終12話で元の世界に帰還する直前に長良と瑞穂が朝風と対面するシーンなんかは、ともすればそこだけ抜き出してこれがテーマだとか作品の意図だとか言われかねないような妙に整理された会話が続いて、おいおいとなる。これってどれくらい本気なんだろう? もしかしたら本当にそういう、伝えたいことみたいなのをキャラクターに代弁させている可能性だってなくはないんだけど、でもそんな安直なことはしないだろうという信頼が12話まで見るとかなり固まっている。実際その信頼に足るものを見てきたのだ。そのうえでそういうセリフがあることは、アニメの内容を明快にはせずむしろ構造を複雑にする。製作陣の意図がどうあれ、こういう「どこまで意図されたものなんだろう?」と途方に暮れるような気持ちになるのはアニメでも小説でも音楽でもとても面白くて、鑑賞の体験を分厚くしてくれる。
 最近はアニメをたくさん見ている。前々から大好きなヤマノススメの新シーズンを見るためにセカンドシーズンから全話を見返す腹積りをしていて(なのでnext summitはまだ一秒も見ていない)、いまサードシーズン5話まで見たんだけど、やっぱりセカンドシーズン後半ってほんとにすごかったな。キャラデザと作画がバチッとハマって輝く瞬間みたいなものがあったし、背景美術の使い方なんかもすごいリアリティを生み出していた。それに比べるとサードシーズンはキャラクターが増えてお話が活発に動いたり、キャラデザがよりアニメに適応した動かしやすいものに変わっている(気がする)のもあってセカンドシーズンのような緊張を保って見ることができない。いや十分いいんだけど。ヤマノススメは原作を読んでないんだけど、モノローグの使い方の硬さとかを見るに多分好きじゃないんだろうな。演出によって担保されている日常や風景、この世界の分厚さみたいなものがすごく好きなだけだ。next summitも楽しみ。
 ぼっちざろっくとDo It Yourself!についても書こうと思ったけどねむいし、わりとツイートしたからさぼる。ゆゆ式を読み返してるけどこれについて話す機会が今度また別にあるからこれはとっとく。寝ます寝ます
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cotochira · 2 years
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演劇と小説と美術展の感想
 ちょっと縁があって「夕映えリリシズム」という演劇を観に行った。京都の大学から出版される同人誌の制作をめぐって、写真と詩の作品を制作する写真サークル、そこに詩の講師として呼ばれる兼業詩人のおじさん一家、同人活動にいそしむ大学職員の面々と、計十三人の群像がコミカルに繰り広げられる。こうした創作を扱うお話として特徴的なのは書かれた詩や小説が本編で一度も読み上げられないこと、また書かれた作品の善し悪しが殆ど取り沙汰されないことで、なんというか創作ということの重苦しさみたいなものからひとつ距離をおいている感じがよかった。今さら産みの苦しみで〜とか深刻ぶる話もう飽き飽きなんだよな。実際そういう振る舞いをする登場人物もきわめてコミカルに「困った人」として演じられていてかわいらしかった。とにかくみんなかわいい! こういう自分にとってはやっぱりセンシティヴというか、どうしても創作物の中で引っかかりやすいところがするっと受け入れられたのは小説以外だと本当に珍しくて、最後にカネコアヤノ「とがる」が流れておおっと���を上げる瞬間まで楽しく観ることができた。
 最後に詩人の父親が、「自分の読みたいものがないから書くんですよ」とか、だいたいこういうことを言う。いつもなら引っかかるところだけどそれまでのあれこれを経ているからこれも受け入れられるというか、たしかにこういうちょっと無邪気なものいいにも一定の強度があるよなあと思ったりもする。ぼくはぜんぜんそんなつもりないし。だからあらためて思い返すとちょっと自分はあの話からはじき出されてしまったなあとか思ったりもするけど、それでもその場ではちゃんと飲み込めていたんだから本当にすごい吸引力が生まれていたのだ。
 しかしタクシー運転手の傍ら何十年も詩を書いてきた人が今さら自分で読むためになんか書くかなあ。読んで書いてっていうプロセスがもう生活に染み着いてしまっているからもうしょうがないというか、自分がどうこうなることよりその循環を止めないようにしたい、みたいなことの方がぼくが今後の人生でえんえん小説書くことに対するイメージとか、その場で思い出した「パターソン」とかには近い。でも追い詰められて咄嗟に「俺は詩人だから!」って叫ぶようなおじさんは案外そうでもないのかもしれない。初期衝動は誰しもある程度はそういうのだったわけで、それを失っていないことはいいことなはずで、そういう笑っちゃうくらいピュアな感じが役者さんの佇まいとも合ってた感じもし……いやお話のことしか書けね〜。
 高橋弘希「送り火」を読み終えた。最近あまりにも読書に集中できないんでちょっと書き込みながら読んでたんだけど、だんだんツッコミのスイッチが入ってしまって「ここいらんやろ」「ここまで言うなよ」みたいな書き込みを都度都度してしまいたくなった。高橋弘希ははじめて読んだけどなんかあの文章のパサパサした感じというか、文と文のつながりの意識が一個切れてるとこが独特でおもしろいと思った。ただそれが功を奏しているところもあればちょっとコケているところもある。文庫版収録の「あなたのなかの忘れた海」の中だと、
 鈴音は自宅裏の納屋から、原付バイクを引っ張り出してきた。 十七歳のときに、友人と一緒に原付バイクの免許を取得した。海岸道路をホンダのディオで走ることが、彼女のささやかな夢でもあった。祖父母が年金でバイクを買ってくれたので、その夢は叶った。彼女は高校を卒業するまで、ときに友人と海岸道路を原付バイクで走った。東京の短大への進学が決まり、彼女が家を出て以後、バイクは誰に使われることもなく、納屋の片隅に放置されていた。祖父母はバイクを自分に買い与えた後に、立て続けに他界した。だからこのバイクは、祖父母の形見のようにも感じている。
 こことかはいいんだか悪いんだかよくわからない感じになっている。何か妙なリズムが生まれていて読み応えはあるが、長い時間がぐいっと流れるところなのだから長い文章でずるーっと書いちゃった方が気持ちいいような気はする。
少女は勢いよく海水を吐くと、ぱっと目蓋を開いた。砂浜の上にすっくと立ち上がると、水着姿のまま花笠音頭を踊りだした。鈴音も幼いころ、運動会の演目で、その踊りを覚えたことがある。人だかりからは歓声が上がり、ちらほらと笑い声も聞こえた。少女はその場で家族のもとへと返された。 見物人は解散し、少女は父親らしい男性に頭を撫でられていた。砂浜に残された沢山の足跡の中心には、人の形をした黒く湿った砂痕が残されていた。鈴音は苦笑しつつ、海岸道路へと砂浜を引き返していった。
 一方ここはありえないことがその直前までと同じぱさっとした質感の文章でいきなり起こっているから、おおっとなる。「送り火」の終盤でもこんな感じで、気づいたらいきなり状況が始まっている。それでそのままもうめちゃくちゃな暴力が渦を巻いていくからそこからはなかなかおもしろい。
 しかし「送り火」は全体的には意味ありげな描写やせりふがその後の展開と一対一で対応して回収されてしまっていて、なんかまじめだなあ〜と思ってしまう。最後の一文もあまりにお話とつながりすぎててお行儀よいなあという感想に収まってしまう。どこか一箇所でもこの窮屈な小説からはみ出すような力があるとするなら、ここか。
農夫は両手が泥で汚れているので、二の腕辺りで額の汗を拭うと、その辺はたまに言葉漂ってらはんで、気ぃつけ、と言う。歩が首を傾げていると、
「塚やら辻やら橋やらに漂ってら言葉さ、耳、傾けたらまいね。 そったら言葉は、人さ作用すはんで。」
 歩には意味が分からなかったが、少し考えた後に、
「それは言葉のお化けみたいなものですか?」
 でもここさえ、まるっきり回収されるってほどじゃないにしても、終盤の展開で視点人物の歩がわざわざ思い出してお話と繋がってしまう。こんなのほっとけばいいのになあ。
 美術館「えき」KYOTOのシダネルとマルタン展に行った。「最後の印象派」と銘打たれているだけあって光の配置によって空間をつくる方法が見たことないほど成熟していて、どの絵も「ここは日向であっちが日陰で、てことはこっちから日が射していて……」とか意識していくと奥行きがグワッと増す。それでも近づいてみると一つ一つは単なる点だったり線で配置された絵の具なんだからなにか美術をやっていない人間にはおよそ想像もつかないような計算がこの背後にあるわけで、どんどん途方もない気持ちになる。とくにマルタンの「池」という絵がめちゃくちゃすごい! 色の鮮やかさとシチュエーションのよさで直観的に引っ張られて、じっくり見てると中央に大きく描かれた少女の背後にある池の水面に映りこんだ庭の花々の色彩が、周囲の繊細な点描とは対照的に筆の流れも明らかなほど大きなタッチで塗られていて、そこを中心に絵の具の集積としての絵がこの空間において占めている位置の実在感が、光の把握からくる空間の奥行きとはまた別に立ち上がってくる。どういうこと? 説明ができない! すげ〜と思いました! 絵はがきも買った! おわりおわり〜
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cotochira · 2 years
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0809(だしわすれ)
 また十分前に起きた。今日は昼から同居人が友達を連れてきて遊ぶらしいのでいちおう散らかさないよう気を遣って外に出る。くそあつい。
 夕方、きいてたとおりメロンが出た。取引先の差し入れはいつも豪華で春先にはさくらんぼが出たしこんなにありがたいことはない。今日はけっこうおのおのやることがあって張りつめてたんだけどメロンでいろいろ緩んでしまって終わりがけはけっこう騒がしかった。メロンめっちゃうまい。五年ぶりくらいに食べた気がする。一人暮らしだと果物なんか買わないですもんね、とこのあいだ育休を終えた社員さんが言う。一人暮らしでもないけど、まあでもそうですね。あっ、シェアハウスしてるんでしたっけ。全員に五回くらい説明してる気がする、なんか理由があって脳に定着しづらいのか?
 周りが取引先とやりとりしたりスケジュール調整に苦戦したりしている間、ぼくはひたすら写真を出力していた。背景紙の皺や足下に落ちているごみを囲んで消して、印刷するサイズに合わせて余白を足し、できた写真に傷や汚れがないか確認したら切って台紙に貼る。いいかげんこれ以上うまくなりようのない作業だしかなり同じことを繰り返すのでどんどんしんどくなる。金田戦の煉獄みたいな気分で六時までなんとか働ききった。メロンがおいしかったからあと十分頑張れ! 同居人がムカつくからあと五枚出せ!
 退勤してビルの喫煙所に寄り、烏丸通りに出ると、交差点でおじさん二人が向かい合っていた。派手な赤いTシャツに競輪選手みたいなサングラスをかけた短髪のおじさんと、ヘロヘロの白いTシャツに包まれた肩を妙に怒らせたもじゃもじゃ頭のおじさんが、視線を切って一メートル半くらい距離もとってはいるけれど確実に向かい合っていて、何が始まるんだ、と思いながら通り過ぎて喫茶店まできた。見届けるべきだったかもしれない。
 携帯の充電が切れるけど同居人の友達が帰るまでは家に戻れないから、ちょうどいいしがんばって本読んだり小説書いたりしたい。とか書いてる間に睡眠不足が祟って喫茶店で眠りこけた。この喫茶店でこんなによく眠っている人間はおれしかいないと思う。うまく書けずに錯乱して吸いすぎたたばこにやられたのどを飴で誤魔化しながら帰った。そういえば喫茶店でマッサージをお互いに実践して教えあっているへんな中年三人組がいた。話の流れでとかでなく来てすぐ始めて1時間くらいやっていた。背骨から一本、まっすぐな棒をたてるイメージ。巻き肩が治るとぜんぶよくなりますよ。こうするとおなかが伸びるでしょう。あれ何だったんだ? そろそろ閉店だから帰る。
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cotochira · 2 years
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8/8
 出かける十分前に起きた。時間がかからないように少な目のフルグラをたべて、べつにソファで寝てる同居人を起こさないよう気を使ったりは特にせず準備をすませて出ると覚悟してたほどは暑くない。地下鉄で職場まで行って、ビルの喫煙所でたらたら煙草吸ってたらぎりぎりの時間になり、申し訳程度に職場まで走っていっておはようございますと扉を開けると、その必死さがおもしろかったのかして、手前で何かしていた社員さんにちょっと笑われる。
 今日は仕事中わりと人と話した。月曜日は土日の撮影会に出ていた社員さんが代休をとるので人が少なく、そのぶん沈黙が気になるのでそういうことになる。お盆の予定とか美容院の話とか、ぼくはバイト先だとみんなどうせ自分のプライベートなんか聞かれたくないだろうと思うのもあって特に自分の話ばっかりしてしまいがちだから最近は気をつけつつ質問をするようにしている。ただあんまり自然にできないので、こないだとか、設営に向かうハイエースのなかでドライバーさん、ぼく、社員さんの三人で話しているときに唐突な質問でめちゃくちゃ会話をぶった切ってしまって、帰りにドライバーさんに言われたりした。今日はそこまで唐突じゃなかったと思いたい。
 バイト先の取引先はかなり古風な会社が多いので大仰な差し入れがたくさん来て、今日なんかメロンが来た。人が少ないので明日食べるらしい。すごい。
 帰りは歩いて帰る。途中用事があったので京都駅に寄って、京都タワーの見える喫煙所でたばこを吸っていたら、入ってきたカップルが急に騒ぎ出す。なにかと思えば大きめの虫が音を立ててぶんぶん飛んでいて、ふたりともそれが怖かったみたいだ。その騒ぎようがそうさせたのか、それとも偶然そこにいる全員が虫だめな人たちだったのか、喫煙所は思ったよりもざわざわし、カップルはいったん出て行った。ぼくは別に平気だし、蜂でもそれはそれで動かない方がいいとも聞くのでじっとしていたら、虫はぼくのTシャツの袖口に落ち着いてしまった。さすがにびっくりしてよく見ると、ぜんぜん蜂でも虻でもなくて何かカナブンみたいな虫で、それならぜんぜん怖くないから煙草吸ってから逃がそうと思う。いつもの貧乏性でフィルターぎりぎりまで吸っているのをなんか全員に固唾をのんで見守られている気がした。吸いきってさあ出ようとするとちょうどさっきのカップルが戻ってきていて、虫が急に飛ばないよう気をつけて歩いてくるぼくに女の方が道をあけてくれる。パーテーションの外に出てから袖をぴんとはじいて虫を逃がすと、男の方が、おお、と小さく声を漏らした。飛んでいく虫をたぶん三人で見た。
 スマホの充電が切れていたのであんまり長く外にいる気分にもならない。帰る道すがら煙草の吸える喫茶店に寄って柴崎友香「ショートカット」をやっと最後まで読んだ。最後の「ポラロイド」がとても感動的で、前に途中で満足して辞めた自分を恥じたけど、単純な小説としての跳躍力みたいなものはやっぱり表題作が強い気がする。でも「やさしさ」が一番好きだ。柴崎友香は小説を書き始めてからどんどんそのすごさに気づくようになってきたけど、最近は手本としすぎて、自分の創作を反省するばかりで単純な小説への感動がちょっと薄れつつもあってうれしくない。いろんなものを程良く手本としていかないといけないのはそういう理由もあるかも。
 読んでる途中で店に入ってきた男女二人に気を取られる。ブランドのロゴがでかでかと入ったTシャツを着たおじさんと、とても同年代には見えない派手な身なりの女性。かわいいからおごってあげるよ、マスクの上からしか見たことないけど、とか言ってるのでどうも下世話な詮索をしたくなる。女性はオムライスとカルピスを頼んでたばこは吸わなかった。だんだんうるさくなってきたからあんまり書きものは進まずに家を出る。
 買い物して戻ってくると家には誰もいない。充電した携帯には同居人から今日は早めに帰るとのラインがきていて、じゃあわざわざあいつの嫌いなものをよけた献立にしなくてよかったと後悔する。スペースでしゃべりながら作ったいまいちなおかずをごまかすために酒を飲んでみたけどあんまりうまく酔えない。通話しながらだらだら遊んで、そろそろ寝る。
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cotochira · 2 years
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5/18
 たぶんちょうど今月前半終わった感じだ。まじか。
 ワクチン三回目打って二日目、昨日じっとしていたのが功を奏してか朝から普通に元気に動けたが、のどに胃液が逆流するような症状が昨日ほどじゃないにしろちょっとだけある。もともとめちゃくちゃ胃が悪いから慢性的なやつが体調の崩れで表面に出てきただけな気がする。崩れた体調がすぐに元に戻らなくなってきている気がする。気のせいか? でも気のせいで済まさないほうがよさそうだ。
 特集上映がはじまった「ケリー・ライカートの映画たち」をできるだけ全部みたいので、とりあえずデビュー作の「リバー・オブ・グラス」をみる。かっこいい映画! ぼくはたぶんひたすらアメリカの映画が好きで、映画に対して自分が小説では認めづらい直感的なかっこよさというか、ある種無反省な趣味の良さみたいなものを求めている節がある。いやこうやって媒体そのものを名指してあれこれ言うの、自分の趣味の範疇の話であってもよくないな。でも見ていてそういうことを思った。
 お話が本当によくできていて、主人公の女性が自身の内外、「自分史」のようなモノローグや警察の捜査、あるのかも疑わしいような彼女への愛情を共犯関係の言い訳に利用せんとする男性から受ける様々な決めつけの呪縛から、一気に解き放たれるラストが底抜けに美しい。ちょっと前にみた「アメリカの友人」もそうだったけど、表層上はどうしようもなくなった末の破滅である結末がその映画においては底抜けに明るく、すがすがしく見られるというのはすごいことだ。
 破滅そのものはべつによくはない。そういう結末がすがすがしく思えるというのはその物語の中ではたらいている力によるところが大きいので、破滅やそれに近しい事柄自体が清々しく美しいものだというのはまた別の問題というか、そう思えてならないのだとしたらその人もまたそういう物語の渦中にいるというのか、それ以外に呪縛から解き放たれる道のない状況に追い込まれていて、映画ならその外はないのでさっぱり見れても現実はそうとは限らないはずで、そのことの悲しさを思うとそう軽率に逸脱や死を肯定する気にはなれない。怒られそうな話になってきちゃったけどこうやっていろいろ立体的に頭が動いたからかなり見て良かった。
 映画の撮りかたの話だと男性のみっともない動きがすごく印象的だった。拳銃を紛失してしまう父親や、手持ちがなくて高速道路の通行料が払えずすごすご引き返してしまう共犯者などの動きは滑稽ながらもちゃんとイヤな気持ちになる。それに対して主人公の女性の動きはなめらかで迷いがなく、こういった対比のはっきりしているところもあるいは至らなさなのかもしれないけどおもしろく見ることができた。あとは酒の席での時間の経過もリアルで楽しい。
 映画を見終わった後は夜勤のバイトまでの時間喫茶店でまた小説が書けずに唸ったり、ちょっと柴崎友香「その街の今は」を読んだりした。ちっともボロくはないのになぜか寺町の本屋の100円���に入っていて、なんでだろうと後で中を確認すると結構書き込みがしてある。柴崎友香を真面目に読んでいるだけでもかなり好感が持てるのに、括弧で強調してあるところもいちいち同意できたり、後半のかなり良さそうな描写に「天才、めちゃくちゃすごい」と書いてあったり、語彙も自分と近い感じでなんだか他人の気がしない。これ自体すごく柴崎友香の小説みたいな話で嬉しい。
 柴崎友香はほんとうに描写未満の素直な記述というか、ちょっとした情報の処理がすごくためになる。
「なんで?」
 手元のフィルム越しに覗き込むように聞いたわたしを、良太郎が見た。
 ここで相手の気持ちをあれこれ類推せずにいきなり「見た」とはなかなかならない。こういういつもどこか他者が不気味に感じられる読み味が柴崎らしい。
 そのまま自転車と原付を押して御堂筋へ出た。
 ここは自転車に乗ってきた主人公の歌ちゃんが原付に乗ってきた良太郎と一緒に移動しているんだけど、ぼくだったらここで「私は自転車を、良太郎は原付を」みたいな書き方でごちゃごちゃさせたり、乗り物のことをいったん忘れて「私たちは御堂筋へ出た」と書きつつ、前か後ろに押されている自転車・原付にズームインした視覚的な描写を入れたりしてごまかしてしまいそうだ。そこを「自転車と原付を押して」でスパッといってしまうのがすごい。これでいいんじゃん、と思う。
 戎橋のほうを振り返ると、明るい曇り空の下に派手な看板がひしめいて、昼間の光に負けてしまうのにネオン管が光っていた。
 「昼間の光に負けてしまうのに」というこの細やかな情緒が抜群に柴崎だ! こういうのを書きたい。
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cotochira · 3 years
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3/5-6
 上野駅で合流。くすりくんが事前に昼間から酒が飲みたいとか言っていたので早速そういうことになる。落ち着きどころを探してガード下あたりをうろうろしていると疫病の存在とか忘れそうになるくらいの人が流れ、そこらの飲み屋の前に溜まっていて、世界の広さというか自分がふだん見て会っている人間の知らず知らずの偏りを思う。一通り見て回って、さて、となったときちょうど目の前にあった居酒屋の看板を指さしたくすりくんが、ここ結構有名だよ、というのでそこにした。こういうときちゃんとベタに行くのがぼくの長所だと思う、という話をしながら席に着いてくすりくんがメニューの中のホッピーを指さすまで普通にビールを頼もうとしていたのだから不徹底このうえない。こっから先ずっとそうだけど酔っぱらってたから何の話したかぜんぜん覚えてないな。ただすごいのは初めて会うのに本当にぎこちなさゼロで急にいつもの感じで話せたことで、初対面っぽさといえば席についてしばらくお互いの周囲の近況みたいな話になったくらいだ。次々くる小皿のつまみがどれもうまかった。とくに豚とケールのチーマージャン炒め! くすりくんと後になって通話したときも話題に上がるくらいおいしかった、いや単に話題とかの記憶がないからだな。
 いろいろ頼んで酎ハイとかビールとかに流れつつ間にたばこ吸いに出たりした(喫煙スペースが店先にあった)。くすりくんが吸ってるのはアメスピで、きのう会ったひとがアメスピ吸ってるやつ馬鹿にしてたよみたいなこと言ってきのうの話とかになった。隣でたばこを吸っているひとか、通りがかったひとかが、昼間からこんなに飲めるなんて、みたいなことを言っていて、ああここにいる人だってだいたいは毎日こんなことしてるわけじゃなくて、ぼくらとおなじような非日常を過ごしてるんだな、と気づくとなんだか魔法が解ける思いがした。しかし酒もたばこも入ってめちゃくちゃ気分がよく、思い返すきのうもおとといもあまりにも楽しかったのでこんなに楽しいことあるのかという気持ちになる、これは今思い返してもそうだ。
 三杯か四杯くらい飲んだところで出ることにした。でたらめに四千円おいてトイレ行くから払っといてって言って戻ってくると二千円返ってきてる。やっしぃなとその場では思ったが真偽は定かでない。二件目にくすりくんが連れて行ってくれたのは立ち飲み屋で、立ち飲み屋というか、雑居ビルの一回入ると左手に普通の肉屋みたいな感じでコロッケが並んでいてそこで一緒にビールとかも買えてすぐそばにあるテーブルで飲む。うめ〜! まだちょっと寒かったはずだけど酔ってたからかあんまり覚えていない。ここではなんかインターネットの話した記憶ある。たぶん。
 その後大声が出したすぎてカラオケに行ったんだけどぼくがボンヤリしていてコンビニで買った酒をふつうにレジ袋に入れて持っていたせいでフロントで没収されてしまい、やるせない気持ちになった。ぼくは酒とタバコでいいかげんのどがめちゃくちゃで声がぜんぜん出なかったんだけどくすりくんはなぜか異常にのどが強靱でめちゃくちゃシャウトしていて怖かった。cry babyいれてイントロで爆笑したりcreepy nutsをウケねらいでやる流れがあったりした。ふたりしかいないのにお互いウケから離れられない。
 二時間でワンドリンクのくせにひとり二千円もとられ、……ッソ! ……たばれ! と歯を食いしばりながら店を出る。フロントで二時間常温でほっとかれた缶はしっかりぬるくなっていて、それに口をつけながら移動して、もう真っ暗な上野公園に南側から入っていく。入って右手にある喫煙所でタバコを吸うと、次の缶を開けて階段左の滝みたいなやつをみる。水道水のにおいがしてマイナスイオンだ〜とか、水を照らすライトが青から緑に変わって緑黄色社会じゃんとか、死ぬほどしょうもないことをいっていたらいつのまにかマカロニえんぴつの替え歌大会になっていて、「前戯で射精してしまったはっとりが「やめときゃよかったな」って言う」「せっかく集まったのにみんなずっとゲームしてたら、PSP持ってないはっとりは「モンハンじゃなくて!」って言う」とかずっと死ぬほどくだらなかったのだがそのときは十歩ごとに膝から崩れ落ちるくらい笑った。そんな調子で真っ暗な闇の中をぐるりと一周してもどってきてまた同じ喫煙所でタバコを吸う。少し人が減っている。それから上野公園をもう一周したのだったか、そのまま浅草の方へ歩いて戻ったのだか忘れた。
 夜も更けていい加減寒く、くすりくんがマフラーを出して巻いている横でぼくは生っちろい首をむきだしにしてぶるぶる震えていた。酔っぱらっていて忘れていたが晩飯を買っていなかったので、ウェンディーズでハンバーガーを買って帰りしなに公園で食べようとぼくが提案した。最初に見つけた公園は結構大きくていい感じだったけど、地元のマイルドヤンキーみたいな人がペットボトルを足下に投げつけてきてぼくがきっちりビビったので逃げ、もう少し先の小さな公園のベンチに落ち着いた。向かいにはここ以外に居場所がないのだろうか、やや挙動不審なおじさんが酒の缶片手にふらふらしており、たぶん家でタバコを吸えないもう少し若い男の人がタバコを吸っているのが立ち去った頃には二人ともハンバーガーを食べ終えていて、くすりくんはおもむろにブランコに向かった。腰掛けたまましばらくただじっとしてからゆっっっくり加速し、たいして強く漕がないでだら〜っとやめてしまう様子をぼくは携帯のカメラで撮影した。戻ってきたくすりくんは、エンターテイメントだわ、これが最強のエンタメだ、といっていた。そのあとぼくもブランコに乗り、こっちは最速で最高到達地点に達するよう本気で漕いだ、それもくすりくんが動画に残した、今見ても美しいほどだ、ぼくは結構ブランコに自信がある。
 コンビニで買い足した酒をホテルで続けて飲む。ホテルの壁は思ったより薄かったらしくて、R-1の歯医者復活戦の動画を見てYes!アキトをほめたり(ロング魚焼きグリルがおもしろすぎる)、Awichの新譜を流してかっこいいねえと言ってりしてるとドアのノックで怒られてシュンとした。ホテル内は禁煙なので途中いちど外に出てすぐそこにある灰皿の近くでたばこを吸う、アイコスをもらったがぜんぜん吸った感じがしなかったしくすりくん曰く「濡れた犬の臭い」がたしかにした、いやだなあ。それはわがままだろ、犬だってずっと乾いてるわけじゃないんだからさあ。くすりくんはぼくのキャスターを吸っていたが軽すぎるといって結局じぶんのアメスピを吸った。部屋に戻ってまた飲むうち次第に意識が曖昧になっていつの間にかお互いのベッドの上に横になっている、くすりくんは雀魂を起動してまだぜんぜんルールの分かっていないぼくに説明がてら実況プレイみたいなのをはじめたがそもそもドラとかテンパイとかの意味もちゃんと頭に入ってないからまったく分からなくていつの間にか眠っていた。
 起きると十一時とか。くすりくんはまだ寝ていてぼくはシャワーを浴びる。髪を乾かしている間にくすりくんが起きる。今日はどうしようか? という相談をそこでしたような気もするし、前の晩にしたような気もする、上野動物園に行こうという話になったのは夜にその前を通ったからだから前の晩か、どっちでもいいけど、たらたら歩いてまた上野まで出た。道中富士そばに寄り、そういえば昨日の晩からずっとこういうものが食べたかったような気がしていた。
 当たり前みたいにコンビニで酒を買って上野公園へ。また園内の喫煙所に行く。ここが今いちばんアツいスポットかもしれん。車椅子に納まってたばこを吸っていた老人が、吸い終わってしばらくして現れたヘルパーさんらしい女性に連れられていった。
 動物園まで北上する道のりは昨晩とは違う経路を選んだ。日曜の昼間だからあたりまえだけど昨晩とは全然違ってそれなりに人がいて、大道芸人みたいなのもちらほら、最初にみたのはアコーディオンかなにかを演奏している女性で急に海外の町を歩いているみたいな気分になった、広い場所に出てくると今度はジャグリングかなんかをやっている男が少し息を切らしながら、今からやる技はすごく難しいので、できたら一番の拍手をもらえたら……とかたらたら能書きを垂れていつまで経っても取り組まないのに対して口々に悪態をついた。あんなやつはキングコング西野のクラブハウスでも聞いてろ。そういえば江ノ島でああいう大道芸人みたけど、ずっと準備運動やっててあれを夕方まで続けてたらおもしろいなって話したよ。あいつもずっとああやって喋ってたらすごいね。上野動物園は休園だった。
 悪態を吐きながら苦肉の策で美術館へ行くことにする。近代美術館も上野の森も休園だったが(しかもたぶんどっちもコロナとか関係ない休園なので本当についてない)、東京都美術館でフェルメールがみれるらしいのだ。言ってみると人数制限で、一時に着いてとったチケットが三時半入場とかになる。それまでの二時間はまあきのうと同じで酒飲みながらぷらぷらして潰すことにした。あ、じゃあ動物園の裏にある湖を見に行こう。広場まで戻ると大道芸人はふたりに増えていて増えたほうはけっこう黙々とやっていたけど御託の多いほうより観客は少なかった。
 公園をちょうど出るところの坂道で桜が咲いていて携帯で写真を撮った。今年はじめてみる桜だ。
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 信号をわたると湖だ。水草なのかススキか何かかが一面に茂っていて水面はほとんど見えなかったがそれでも水辺はいい。湖の向こうのでっかいビルが見えた。水辺が好きというか平たい場所で見晴らしがいいのが好きなのかもな。カップルがいて、いいデートだなあとぼくが言った。ビールを開け、ベンチに腰掛けてチーザをつまんだ。チーザのパッケージにはきのうの夕方さんざっぱら馬鹿にしたcreepy nutsの写真がプリントされていて笑った。途中かわいらしい女性とその写真をでっかいカメラで撮るかわいらしくない男性がいて、ああいうのほんとにあるんだなあという話をする。日陰でじっとしていると肌寒く、わりとすぐまた歩き出したら、だんだんアイドルライブの音漏れみたいなのが聞こえてくる。調べたら実際、公園内の野外ステージでマイナーなアイドルがいっぱい出てくるイベントをやっているらしかった。出演者一覧をながめて今やってんの誰なのかな、とか言っていると野外ステージの入り口にさしかかり、壁の隙間からライブの様子が舞台側から覗けた。舞台上には三人のアイドルがいて客席野埋まりは想像の五倍まばらだった。こういう時期だからなあ、コールも満足にできなくて大変そうだ。
 湖の裏手に回るとススキの生える洲はこっち側にはなくて水面が見え、向こうの方にはアヒルボートの群れも見えた。遠くからだからよりいっそうそう見えたんだけど狭い水域をギチギチに詰まっている。くすりくんは小さい頃遊んだGBAのワンピースのゲームで、海戦のシミュレーションバトルみたいなパートがあったけど絶対現実にはあり得ない密度で船が詰まってて、あれみたいだ、とか言っていた。何の話だよ。近づいていくとアヒルボート(実際にはアヒルでないただカラフルなだけのボートもちらほら)の水域は狭くて浅い中をいくつもの船が動いているので水面に水流が見てとれた。
 途中ショートカットに湖畔の寺の境内を通り、湖を一周してもまだ少し時間が余っていて、そこをどうしたんだったか、駅前のコンビニへ行って酒を買い足してまた公園内をふらふらしていたんだったか、とするとまたあの喫煙所に行ったはずで、その道中にはアコーディオンの女性もまた相変わらず異国情緒なかんじのメロディを奏でていたはずだ、こっちのが百倍いいよなあ。あの御託が多いジャグリング男をくさす流れがしつこく続いていた。
 美術館に戻ってくるころにはいい感じの低空飛行をすぎてただ酔いが軽い体の不調としてしか認識できなくなってしまうくらいでぼくはくすりくんにもらった500mlの午後ティーをのんだ。これいつ貰ったんだっけ? だいたい人にあげる用に鞄の中に複数のペットボトルが入ってるってどういうことなんだ。
 美術展はおもしろかった! フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」の復元の結果、女性の背後に画中画が出てきたというのが目玉なんだけどそれよかそれと一緒にドレスデンから来ているほかの十六世紀オランダの絵画、メツーとかロイスダールとか、がおもしろくて、とくに静物画! 当然古い油絵なので表面の凹凸から筆致というかそこに絵の具を乗せた手の動きを読みとるというような楽しみは難しいんだけど(ぼくの思ってる油彩とは画材が違うのでそういう凹凸が生まれにくいのかな、ぼくはなんもしらない)、そのぶん画面の構成とかに意識がよく向いて、そうなると今までウソすぎるだろと思ってあんまりまじめに見ていなかった静物画の隅々まで計算の行き届いていてそれがこっちにもある程度分かることのおもしろさが強く印象に残った。先に一通り見終えてじっとしていたくすりくんと合流して話すとくすりくんもだいたい同じような感想でうれしかった、わかんない、あっちが合わせてくれたのかもしんないけど。修復したフェルメール普通に修復前の方がよかったよねとくすりくんが言う。どうやら後の世代の人が勝手に判断して画中画を消したということらしく、それ自体は褒められたことではないと思うけどない方がいいと思って消した人がいたわけだから今みる僕たちがそう思うのも無理はないのかもしれない。
 とくに印象に残ったのは「手紙を読む兵士」という絵で、画面左にいる帽子をかぶった兵士が座って手紙を読んでいるのを、画面中央奥に座っているのと画面右で立っているのもなんか内容が気になるらしくて見ている、みたいな絵で、どうして他人の手紙が気になるのか想像の幅があったり���画面奥で見ている人が顔以外ほとんど暗くて見えないことによって空間の奥行きというか、何もない暗闇の存在感みたいなものが強まっていてかなりじっくり見てしまった。あと展示の最後の最後にあったブラーメルの「神殿で祈るソロモン王」というのが、線の荒々しさや黒色の塗りかたからしてほかの絵画とは全然違っていて、本当にほかにいくあてがなくて仕方なく最後にあったという感じがとてもかっこよかった。
 あてもなく上野公園を南下して、日も暮れはじめ昼間の騒がしさも収まったなかをいつの間にか喫煙所へ向かいながら、これからどうする、とまあ解散かな〜と思いながらたずねてまあ解散かな〜といわれてまあ解散だよな〜と思った。いやぜんぜんまだまだ遊びたいんだけどとにかく金がないんだよね。言われてみればぼくも決して金があるわけではないのに何にも気にしないで缶ビールとか買いまくってしまっていたな。最後のたばこを吸い終えて上野駅へ向かう、上野公園でもガード下の飲み屋街でもない都会っぽい都会の上野をそういえばこのときはじめて見た気がして、きのうの午後から丸一日、旅行に行く前の自分が上野と言われて想像できたものからは遠く離れた、ほとんど異界みたいな場所にずうっといたのだと思った。そういえば東京だ。
 上野駅前のスクランブル交差点で、何かひとりで怒っている女性がいてふたりして思わずそっちを見たのだがどうやらハンズフリー通話だ。こえ〜! おれもふだんあんな感じなのかな。話題がワケ分からんからもっと不気味かもな。
 改札までついて行った。くすりくんはかなり名残惜がってくれてた。ぼくは正直そんなに寂しくもないというか、まあ解散してもどうせTwitterとか通話があるしみたいな気分で、それは実際に会って話すのとインターネットを介した会話との間になんのズレもなかったからなんだろうけど、ただこういう楽しい時間がもう終わってしまうんだなと���うことの名残惜しさはあって、じゃあこっちもなんやかんや名残惜しかったのか。とにかくくすりくん自身と別れることの寂しさは不思議となくて、またすぐそのうち会えるだろと手を振って簡単に別れた。
 解散してからドトールで簡単なご飯を食べつつ書きかけの小説をいじくり回して、ホテルに帰ってからコンビニで買った適当なご飯を食べ、テレビでR-1みて寝た。こんなに出場者を全員知っているR-1ははじめてだ! 全員おもしろくて良かった。しかしZAZYは最高だった、結果も含めて。あの完璧な二本目で優勝できたらZAZYはZAZYを続けられないのではないかという寂しさがあったので、どこか安心もした。吉住の二本目も見たかったなあ。
 最終日の予定が何にもなかったので、そういえばsatooさんが旅行中にまた遊びましょうって言ってくれてたなと思って連絡したら夕方から横浜を案内してくれることになった。問題は重点措置でどこもかしこも閉まった後、夜行バスが来るまでの時間をどう潰すかだ。不安をビールで忘れてすぐに寝た。
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cotochira · 3 years
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3/4
 もう二度と戻ってくることはないのだという過去のある時期に思いを馳せたり、そうした記憶の泥沼からなんとか周りに引っ張りあげてもらったりして、今こうして暮らしていることの偶然に目を見張るときはじめて写真や動画といった目に見えるなにかで瞬間瞬間を残そうという行為も切実さを帯びてくる。しかし撮られる側の気持ちにはなかなか考えが及ばない。どういう気持ちでいるんだろうと腕を組むと、なにも話は沙知に限った話ではなくて画面に映る全員がそうだろうと思い当たる。「春原さんのうた」の話です。監督のインタビューを読むと作中のいろんな要素が撮影を取り巻く巡り合わせを取り入れたものらしくて、こういったことを考えるのもこの映画自体が、映画の撮影という行為によって生じた現実と虚構の間の軋みみたいなものへの関心がつよいというか、かなり私的な記録としての性質をもふくんでいるからなのだろう。抑制されたカメラワークでほとんどいつでも同じ方向から眺める日高さんの部屋の中は時期もあってほとんど常に窓が開け放たれていて、その方向もちゃんと見れば覚えていられそうで実際に覚えるかどうかはさておき親しみが積み上がっていく。そこで起こるいろんな人の会話や感情の動きは、いろんなことがわざわざ説明されないので相手の話をだまって聞いている様子や細かな視線の動きから読み取るしかなくて自然と画面へ前のめりになっていく。マスクの扱いがとても自然で新鮮だった。必要に応じてつけたり外したりするのもぼんやりしてると取りこぼしてしまいそうだけどきっちり演出の一つとしてリアリティを担保しているし、みんなマスクしてるからこそ「春原さん」のむき出しの横顔の印象が強まったりもしているのだと思う。
 映画を終えると外は下北沢なんだけど荷物も重いし時間も限られてるからそんなにウロウロする気にならない。とはいえ手ぶらで帰るのも癪だからなんとなく古着屋とか並んでいる駅前の通りをウロウロしているとバーガーキングがある! バーガーキングは良い。一番良い。
 ゆっくり食べながらGoogle Mapを開くと下北沢から渋谷って歩いて40分くらいらしかった。全然歩けるな。荷物もまあかさばるけど言うほど重くはないので、歩いて行ってちょっと渋谷を見て回ったら6時くらいにはなるだろう。
 なんとなく、小さな建物の並ぶ下北沢の風景から、渋谷の喧騒までは、歩いていればグラデーションがあっていつの間にか変わっているのだろうと思っていたが実際歩いてみるとかなり直前まで同じ気持ちで歩いてしまった。イヤホンを外すと不自然なほど静かだ。近畿の住宅街みたいに掃除機や騒ぐ子供の声が聞こえないのは昼間はみんな出払っているからなんだろうか? それとも、土地が狭いので一軒家でもマンションに住むように息を潜めて暮らしているのか、どっちにせよ景色も音も大して変わらない。ただ路上のゴミがなんとなく増えてきて店も並びはじめ、歩く人の格好もそれらしくなってきたかなと思ったあたりで携帯の充電が怪しくなり、ドトールで地図を見てみるともう2,3本先がスクランブル交差点だという。土曜日だしどうせ人も多い。ギリギリまで粘って、人混みに揉まれるのは必要最低限に抑えることにした。
 スクランブル交差点を抜けて渋谷駅へ。ふざけてるだろ! 五歩に一歩くらい人とぶつかった。複雑な駅前の構造にも辟易しながらコインロッカーに荷物を預けて、ライブの会場への行き方を調べた。さすがにこういう時に今から20分歩いてください、みたいにならないあたりが東京だ、4,5分で到着した。
 ワンドリンクでビールもらって席へ着く。こういうときアサヒスーパードライの優秀さを思う、アテなしに水みたいに飲める。グッズもそんなに見る気にはならなくてインタビューとか読んで時間を潰していると周囲の席も徐々に埋まっていく。左右どっちもドリンクはビール。右隣に座っていた女性はフレームの大きなメガネをかけていた。頭には目立つ髪飾りをしていたが、開演まで5分を切ったあたりでそれを外し、メガネも外し鞄にしまった。全力でライブに集中しようとしているのだ(ということはメガネは伊達だ)。ぼくも見習おうと姿勢を正して、こっちは逆にカバンから取り出したメガネを掛けスマホをしまい、瞼を閉じて目を休めながらじっとその時を待っていると、暖色の照明が頭上からふっと消えて、目を開けるとステージ奥のスクリーンを照らす青い光だけが見えた。それを遮る人影がポツポツ現れる。それぞれ位置を定めて楽器を手にすると、背後のスクリーンに「夕暮れ」の字とともに、ほとんど夜に近い色の風景の映像が流れはじめる。あっちには挨拶をする間も、こっちには拍手をする間もあたえないで、耳を引っ掻くようなノイズから一曲目がはじまった。
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 そこから、基本的には「往来するもの」以降の楽曲を中心に組まれたセトリの移り変わりとともに背後では夜が深まる。生で聴く「four eyes」は痺れるくらいかっこよく、また音源ではもっと普遍的なことに聞こえていた歌詞が、目の前で歌われると音楽活動をする上で自分達の感じている違和感のようなものを歌っているように聞こえるのも新鮮だった。それとサポートギターの西田修大が「reverie」「声」あたりの曲で鳴らす、鋭いギターノイズがめちゃくちゃいい!
 前半、ステージ中央奥の椅子に座りハンドマイクで歌っていたミゾベリョウに当たる光はさらに奥にあった背の高いフロアライトだけだったのだが、背景が「夜明け」に移り変わった「眺め」のイントロで手前のスタンドマイクまで歩いてくると、そこでやっと光に照らされながら歌いはじめた、この演出もすごく良かった。最後は「未来」「小さなことをひとつ」と盛り上がるというよりかは膨らんでいくように展開して、「虹の端」の歌い出し「あと少しで暗くなる頃…」で夕暮れへと戻ってきて、結局一度もメンバーのMCやこちらの拍手が差し挟まることなく照明が落ちた。アンコールでやっとMCがあって空気が弛緩して、これまた目の前で聴くと直接自分達へ歌っているように聴こえる「望み」でライブは終わる。僕はメガネを外し、隣の女性はメガネをつける。結局Tシャツを買っちゃって外へ出る。
 寒い! スクランブル交差点でまためちゃくちゃ人にぶつかる。ふざけてるだろ! ハチ公前でしばらくじっとして、先輩(ネットで知り合った一個上の人ってだけだけど、一応)と合流。コンビニでビール買って飲みながら、望み薄だけど遅くまで空いている不届き者のお酒屋さんを探す。今日は映画みてライブいきました、と言うと、忙しくてぜんぜん文化的なことできてないよ、とこぼす。忙しいのに来てくれてありがたいことだ。最近は資本論以外本読んでないし、と言ったのにもいたく感動した。そんなにかっこいい読書ないな。
 ろくに大学に通えないで二回だったか三回だったかで退学になった先輩はそれ以来、日雇い同然の現場仕事で食いつなぎながら政治活動に明け暮れている。その日も昼間はロシア大使館前のデモに参加し、シュプレヒコールの上げすぎで喉が痛いという。それに比べて環境に恵まれボンヤリ生きているおれのなんと半端者で生意気なことか! なんとか見つけた居酒屋は安くないし居心地も悪く、ひと通り人間関係の顛末の話など(いやすぎ)をしてからすぐに出た。ぼくはホテルに電話を入れて、先輩の家に泊まりで飲むことにする。
 最寄駅は各停しか止まらないので、特快の止まる国立からそれなりの道のりを歩いて向かう。この辺りは戦後、進駐米軍向けの開発に反抗して文教地区となったのだという。道は広くてまっすぐだ。広くてまっすぐな道って良い。あたりは真っ暗で会話の内容もだんだん生々しい嫌な話になりつつあったが、なんだか晴れやかな気持ちでいた。
 たどり着いた部屋はワンルームマンションだが引っ越してばかりなのと余裕がないのでリビングの照明がない。玄関の灯りと読書灯だけで照らされた薄暗い部屋で、コンビニで買い足したレモンサワーなんかを飲みはじめる。本棚に入り切らないで部屋を囲む本には小説が少なくて政治や哲学に関するものが多い。何もかも違うなあと思う。
 普通に飲んだし話した内容あんま覚えてないな。おれはエロくいたいんだという話をした気がする。そう言われるとこの部屋エロい要素全然ないなあとふたりして見渡した。どちらかというと全体的にアツいっすね。強いて言えば青や灰色の岩波に挟まった涼宮ハルヒがエロかもしれないね。極まってくるとまた最悪な話をしていつの間にか寝ていた。
 先輩が支度をする気配で目が覚めた。8時とか。早起きだ。ぼくも歯だけ磨いたらふたりしてベランダに出る。昨晩から何本か一緒にタバコを吸った。エロくいたいならジッポを買っておくべきじゃない、と夜中に言われた。絶対無くすから喫煙者でいる限りは100円ライターだろう。ベランダからの眺めは隣のマンションに遮られてあんまり良くないが駅が近いので踏切の音が聞こえてくるから広々とした感じがした。
 スーツを着た先輩と一緒にさっさと出かける。駅のホームまで3分もかからない。駅のホームでさっき思いついたしょうもないダジャレをツイートしようとしたらスマホがない! あわてて先輩から鍵を借り、急いで戻るとコンセントに差した充電器ごと忘れていた。すごいな。ダジャレと駅近物件に救われた。
 電車内ではお互いスマホを触ってそんなに喋らないがべつに気まずいとかいう感じでもない。回数数えるほどしか会ってないはずだけど知り合ってからの年数だけでこんなに気を緩めていられるんだから年月ってすごい。一回なんかのはずみにデニーズの話になってwikipediaを読む。当初はアメリカのダイナーキッチンのようなコンセプトで、朝に卵料理を出すサービスなんかもやっていたらしいが、対向店舗やニーズに押されてどんどん普通のファミレスになっていってしまったみたいだ。切ない。
 新宿で乗り換え、今日も忙しい先輩とは山手線の車内で解散する。ぼくは渋谷で降りて荷物を回収し、浅草のホテルへ向かう。
 通された部屋はホステルの一角に造られた個室で、床置きのマットレスとユニットバス以外何もない。風呂に入って布団の中でうとうとしていると、くすりくんから連絡があり、昼過ぎに部屋を出た。
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cotochira · 3 years
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3/3
 連日寝不足なので爆睡できた夜行バスで横浜駅に到着するとまだ六時も回っていなかった。とりあえずコインロッカーに大きい方の鞄を預けた、集合時間の十時までできれば喫茶店で時間を潰したいが、どこも開いていないのでしばらくは外をウロウロしていないといけないのだ。せっかくだから海の方へいこう、とみなとみらいとか赤レンガ倉庫とかそういう景色を想像して横浜駅の東口から歩き始めたのだが、Google Mapも見ずになんとなくで道を決めたのでどうやら方向を間違えたらしく、でっけえ工場が立ち並ぶ散歩道にはつまんなすぎる空間に迷い込んでしまい、コスモワールドの観覧車を見つけたころにはとっくのとうにスタバとか開いていた。
 それで三人と合流したときにはもう二時間くらいは普通に歩いていたのだが、結局ここからさらに三倍は歩く日になった。みんないちおうはじめて顔を合わせる相手ではあるんだけど何回も通話していたし三人が一緒に遊んだ話とかも聞いていたので主観的には普通に馴染んだ。JR小田急線に乗って藤沢まで向かう。戸塚くらいまで来ると建物の配置もまばらになり、だんだん大きなマンションやオフィスなどのビルが減りきれいな一軒家が増えていく感じ。横の鯖さんとしゃべっていたがずっと景色を見ていて声だけ聞こえてきたのでほぼ通話だ。早く寝るのに睡眠剤を飲んだらめちゃくちゃ悪夢を見たらしい。みんないつも夜更かしなのに早くから来てくれてありがたいことだと思った。
 藤沢駅自体には見向きもせず江ノ電に乗る。藤沢-江ノ島間はあんまり町の真ん中を走らないしわりあいすぐなので江ノ電らしい楽しみは少なめだが、それでも江ノ電に乗っているなあということだけでじゅうぶんに嬉しい気持ちになった。くる途中に「プレーンソング」読んできたんですよねえと庶民さんが言う。��ういえばこうして、まあ各々離れてではあるが家でだらだら喋ってきた人たちと急に足を伸ばして海辺まで行くって、結構プレーンソングの最後のほうっぽいなあと言ったらそこまで読んでないかったらしい。保坂和志のネタバレについて、どれくらい本気で謝ればいいか不明だ。
 江ノ島駅に着いたら改札のところに「ご卒業おめでとうございます」と横断幕がかかっている。そういえば横浜駅で袴姿の女性とすれ違ったな。昼食をどうしようか相談しながら海へ向かう。さっきから家が近いsatooさんがだいたい案内してくれている。背の低い建物が思い思いに「西海岸っぽさ」「ハワイっぽさ」「鎌倉=京都っぽさ」などを主張する通りを抜け、海に出ると思わず声が漏れた。
 海はいい! 水辺っていいからな。なかでも海は一番でかいから一番いい。砂浜は見えないが島へと架かる橋の端っこには砂が溜まっていたりして、マスクで鼻の効かないなかでも潮の気配が感じられる。あっ、とsatooさんだか庶民さんが声を上げた、──海掘ってる! 見ると海の中に浮かぶ小さな浮島みたいなところに陣取ったショベルカーが、海にショベルを突っ込んで動かしていた。あれ独断でやってたらすごいですね。ウケると思ってやったら引かれちゃったんだろうな。そうなったらもう降りられない人っていますからね。
 江ノ島に来ることになったのは、僕が江ノ電に乗りたいと言っていたら庶民さんが江ノ島に行ったことがないらしいのでそうなった。ほか二人はそこまで積極的ではなかった、僕も前に一度来たことがあったが、そのときは島に入ってからいろんな土産屋を抜けて神社まで来たあたりでその導線のわざとらしい感じにさめて途中で帰っちゃったりしたのだ。それでもわざわざ約束まで取り付けて来たのだから僕も案外江ノ島に何かしらを期待しているのかも知れない。名前といいロケーションといい、大したことないと半ばわかっていつつも、もし少しでもよかったらすごくいいだろうなあと思わずにはいられなくて来てしまうのだろうと思う。
 そういうネガティヴなイメージを共有していたおかげか、上陸してみると立ち並ぶ店々の商売っけマンマンな感じに対してそれほど辟易するでもなかった。上機嫌でひとつ道を逸れて岩場に抜ける。岩に囲まれてるせいか波は穏やかで、まだ海という感じも薄い。
 良いパック寿司の醤油皿みたいなのが落ちていた。
 メインストリートへ戻ってくると雰囲気に飲まれてイカ串と一緒にたっけえビールを買った。無敵状態だ! 両手をそれでふさいでガンガン階段を上っていった。しかし最初の展望台みたいなスポットまで来て気づくのだが本当に全く酒が効いていない。年下でまだお酒に慣れていないsatooさん庶民さんもチューハイを買っていたのだがやっぱり普通にしていて、有料で入れる庭の手前の広場まで来たときにはみんな完全にニュートラルなテンションで椅子に納まり、クレミアを食べている鯖さんを見ていた。広場では大道芸人が爆音で音楽を流しながら、僕たちが来たときにはまだ準備体操をしていて、あのまま夜まで準備体操し続けていたらすごい、と言ったのが誰だったか分からない。
 ニュートラルなテンションで黙々と階段を上るのはしんどい。なんなら通常より下がりそうになっていたところで海の見えるスポットにさしかかる。ごつごつした岩場へ降りていくと足もとにすぐ波が来ていて、見上げると白い岩の崖があり、やっと背景でない目の前の出来事として海を感じることができた。白波が足下まで打ち上げてくる。金沢ではじめて海に行ったとき、この水平線の向こうに韓国や中国やロシアがあってそこでも、また違った様式の、でも同じようなふだんの生活が営まれているんだという、月並みの感慨が鮮やかに戻ってきたことを感じた。太平洋側だとそうはいかない。どっちにしろ向こう岸なんか見えないのだが、おそらく日本海側からユーラシア大陸までの二倍ではきかない距離を思うと、その果てしない広さがひたすら水で満たされているのだという果てしなさが迫ってきて、ゼリーのようにひとかたまりの海が目の前にあった。
 東映だ〜、といってはしゃいだ。
 蒸しパンのやつも落ちていた。
 蟹もいた。
 岩場から上がっていくと導線の先には洞窟があるらしい。しかも金取るらしい。でも今更引き返すのもあれなので頓着のスイッチを切ってチケット代を払い、ズンドコ進んでいく。天井が低くて怖いなか進んでいくと、最奥は紫色のライトで照らされている。近づいてみると、作り物の竜が待ちかまえていた。一同、うわ〜、やりすぎやりすぎ、いらね〜、とはしゃいだ。
 洞窟から出ると、さっき崖の下の水面に浮かんでいた果物がまだあった。楕円形でだいだい色と黄色がグラデーションになっていたので、ぼくはマンゴー説を推した。satooさんは柑橘系説を譲らなかった。釣りするときの浮きなんじゃないか、みたいなことをぼくが言ったが、夢がないので忘れた。
 どうやらここまで下ってきた階段を登って大道芸人のいた広場まで戻らなければならないらしい。マジか。いやすれ違うひとが割といたから薄々分かってはいたけど。とくに鯖さんは心配になるくらいイヤになっていて、おかげでほかの三人は比較的元気を保てていた感じがあった。とにかく広場までひいひい言いながら戻ってきて、商店の立ち並ぶ坂を通り過ぎ、橋の手前で十分くらいは座っていた。すごく大きな犬、たぶんセントバーナード? が通ってちょっと湧いた。来るときにいた大きな犬(トイでないプードルなど)の話をして、それもとぎれるとみんな疲れに任せて意識をTwitterへ沈めていった。  ひとしきりじっとしてから、よしっ!と庶民さんが柏手を鳴らした。行きましょう。いい区切りつけてくれましたね、とsatooさんが感謝して、立ち上がった。
 とにかくみんなおなかが空いてきたので、鎌倉まで行って何か食べましょうという話になる。庶民さんが、江ノ島って、と総括らしき感想を口にした。来てる人みんなちょっとずつ垢抜けてない感じがいいですよね、──垢抜けてないだったか間が抜けてるだったかなんて言ったかよく覚えていない。ドッチラケなこと言うなあ! とぼくやsatooさんが大きめに驚いてみせると、いやほめてるんですよ、いいとこだと思います、などと言った。なんかでもわかったかも。さっき書いた淡い期待が、なんとなく来る人みんなをぽやっとさせてしまうのかもしれない。
 駅へ戻ってホームへ入る。鯖さんが自販機で買った飲み物をすごい無感情に飲みきった。なんかむしゃくしゃしてお金が使いたかったから買っただけだったらしい。そんあことある?
 江ノ電の続きに乗る。ここからは鎌倉高校前とか、「季節の記憶」の舞台の稲村ヶ崎あたりとか(鯖さんがわりと最近「季節の記憶」を読んでいたので、案外ホットな話題だった)、見所のある箇所だ。江ノ島駅を出てすぐは特に、お寺とかも見える古い町並みの中を通っていくのでおもしろい。二時くらいを回り、比較的早く帰る制服姿なんかもいてそれなりに混んでいる。真ん中あたりの、別荘みたいな綺麗な家が立ち並んでいる感じが好きだ。生活感がない静けさが、降りて歩いていても簡単に親しめず、ひどく遠くに来た感じが強くする。
 鎌倉駅で下車。駅前でマクドナルドを見つけてしまい、マックでいいじゃん! と固まりかける��、satooさんに導かれて一応小町通りをみて行く。しかしどれもこれも観光客価格で鼻につくし、ぼく以外はみんなちゃんと昼食代に頓着しているのでちょうど良いところがない。結局引き返してマックを食べた。しばらく足を休めている間に、satooさんが古本屋に行くことを提案し、鯖さんが場所を調べてくれる。
 アトリエを改装したらしい古本屋は可愛らしく古びた一軒家で、小さいながらもおもしろそうな本が並んでいた。庶民さんが前から気になっていたという吉田健一の「舌鼓ところどころ」を見つけた。ぼくはヴァージニアウルフの自伝的な文章を集めた絶版本を三千円で買った。わりと勇気が要ったが、たぶん復刊されるにしても今年や来年の話じゃないだろうし、かなり良い買い物になったと思う。
 店を出てからコンビニへ行った。アイスが食べたいと言っていた庶民さんと半分こする約束でチョコモナカジャンボを買って出た。そこで待っていたsatooさんはジュースを買っていたのだが、鯖さんが棒アイスを手に戻ってきたのを見るや、みんなアイス買うなら言ってくださいよ! と自らの買い物を悔やんでいた。
 ぼくの荷物を回収しに、いったん横浜駅へ戻る。みんな疲れてぼんやりしていた。橙色の斜陽が雲の形を立体的に照らしていて、鯖さんがそれを庶民さんに教えてあげていた。こんなに広い空みたの久々かもしれません、と庶民さんがつぶやく。東京に来て以来、時節柄外もたいして出ないのでそういうことになるらしい。
 ついでに駅の近くのブックオフへ寄る。庶民さんがどうやら良い買い物らしい漫画を含めたかなりの大荷物をもって出てきたのも驚いたが、satooさんが解説目当てに何冊目か分からん「風立ちぬ」を買っていたのに驚いた。そんなに好きだったのか。フォローしてからも日が浅いから当たり前だけど、知らないもんだな。ぼくは、俺が買わなかったら誰も買わんだろといういいわけと共にフェルナンド・ペソアを買った。
 帰りの電車は果てしなく混んでいた。これが本当に正しいことなの〜〜!? 「よつばと」で東京の満員電車に乗ったときのよつばの台詞を口にすると、「よつばと」の話になったりした。
 今日は庶民さんちに泊まる予定だ。庶民さんたちの会話以外で聞かない駅名で下車し、お酒や食べ物などを買って庶民さんちへ向かった。本棚とベッド、机で八割埋まったワンルームにみんなして詰まって、鯖さん以外はお酒を飲み始めた。satooさんがすごい勢いで酔っぱらい、庶民さんもそれに続いた。ぼくは許可を得て換気扇をつけたキッチンでタバコを吸いながら、たぶん弱いとかじゃなくて酔っぱらってる状態に慣れてないだけだよ、と説明した。調理場は玄関上がってすぐのところにあったから、立って喫煙しているぼくが奥で座って飲み食べしている三人をみる形だ。なんか年上っぽい年上をやっているなあという自覚があった。三人とも僕より色々みて読んでいるしそう軽率なことを無自覚に言ったりしたりもしないので普段は年齢の上下を強く意識しないが、飲酒のこととなるとさすがにこうもなるか。酒飲むとイキりみたいになるのが嫌なんですよね、と庶民さんが言った。色んな味のものがあるから楽しみたいだけなのに。たしかに、ぼくも数年前なんとなく思ってたけど言葉にしてなかったことだ。
 庶民さんが吸ってみたいというので途中のたばこをあげたが、二回とも咳き込んで水を飲む羽目になっていた。こんなもんなんで平気になったのか、まだ常喫するようになってから一ヶ月くらいのはずなのにもうわからない。
 ぼくもべつに強くはないので何杯か飲んでそれなりにぼやっとしてきたころから、音楽を聞くターンになる。satooさんが教えてくれたタルトタタンというバンドが良かった。めちゃくちゃ同じフレーズを繰り返すボーカルが曖昧な意識にうまいことハマった感じがあった。庶民さんはゆらゆら帝国の「昆虫ロック」を自分の曲だと感じるらしい。おれの曲はなんだろ。飲んでないのもあって(べつに飲んでも良いだろと思ったのだが、ほかの二人がなんか執拗に止めるのでずっとコーラとか飲んでいた)鯖さんは常にやや蚊帳の外で、ヤケクソなんだか正常な判断なんだかしらないが、どっちにしてもすごいが、途中から性的なMMDの動画を流したりしていた。踊るキャラクターの局部を隠すモザイクがどんどん小さくなっていくのを見た。すごい文化だ。
 たいして飲みもしなかったが場酔いもあってなんやかんやわやくちゃになり、かなり良くない話や良くない言動をしたあといつの間にか寝ていた。起きると飲んでいた二人ももう起きていて、飲んでいなかった鯖さんは始発で帰ったらしかった。たらたら支度していたら庶民さんが友達と会う約束の時間になっていて、ちょっとあわただしく出発した。駅でsatooさんと別れると、ぼくは京都で見逃した映画を見に、下北沢に向かう電車に乗り込んだ。
 案外道中が長い。東京って狭いからどこからどこへも三十分圏内だと思ってた。江ノ島を出て橋を渡っている途中、鯖さんが言っていたことを思い出したりする。この辺に住んでる人って、みんなここが好きだからわざわざ住んでるんですよね、と言った。たしかに湘南くらいになるとそうだろう。こういう言い方をしてみると別に取り立てて好きでもない場所にあれこれの事情で住んでいることが妙なことにも思われる。僕は京都に好きで住んでいる、それを環境が許してくれている。ありがたいことだ、と思った。
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cotochira · 3 years
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2/13
 本棚が完全にじゃまになっている。いつものうっかりで引っ越し前、実家の自室の寸法を測り損ねたらしい。どう置いても窓かクローゼットの扉にかかってしまう大きさの本棚が運ばれてきて、ぼくも母親も業者さんも渋い顔をしながらとりあえず部屋の隅に斜めに置くことにした。そのうち捨てるからねとくぎを刺されてしまうとぴっちり中身を詰める気にもならずスカスカの、そのくせ百八十センチくらいはあるむやみに大きな棚がぼんやり部屋の隅を占拠していて裏には潰した段ボールを入れている。
 実家もシェアハウスも仮住まいで、いつか定職につくまでの間とりあえず住む場所としてしか考えていないから気軽だ。棚だって一年で引っ越すなんて考えていなかったから半ば覚悟のつもりで買ったので、本来そんなに住む場所をしっかり構えることが好きなわけでもない。高校三年生の時やたらと余所の家に何週間か間借りする機会があったことを今思い出した、あれはよかった。姉がインフルエンザにかかったので叔母と従妹もちょうど泊まっていた祖母の家の二階を勉強部屋としてしばらく借りたり、父親が全体を書斎みたいにして使っている大阪のマンションにふたりで二週間くらい泊まって料理の練習をしたり、なぜか父親がちょっと前まで交際していた相手の家に泊めてもらって早朝まで勉強に集中できずぐだぐだしてからそこで飼っている黒くて大きな犬の散歩に行くとぼくよりも犬の方が町では顔が知れているので近寄ってくる老人に自己紹介をしたりしたのは楽しかった。今のシェアハウスも交代で使う同居人のために掃除をしたり入れ違うのでそこにいた同居人の友達と話したり、みんな集まる日になんとなく鍋料理を準備したり、そういう、気が合うので仲良くしているわけでもない薄い関係の人と場所を譲り合うようにして住まわせてもらうのって悪くない、お互い、相手への期待もこっちが相手に期待されていると思っているぶんも低いからちょっとしたことでお互いいい気分になれる気がする。生後半年くらいのぼくの妹がすくすく育っている父親の新居にもいずれ行きたいけど、父親がめんどくさいからな。
 あたらしい小説を書き始めた。好き勝手に書けるフォーマットを思いついたので一度はじまれば簡単だと思うけどその土台づくりが面倒で難航している感じだ。POSEはなんか書き方を忘れてしまったのでそっちが頓挫したら頭から再構成したいなと思う、前半は登場人物のキャラクターがあいまいで、今できあがった個々人にとても愛着を感じているのでその辺をやり直したいと思っているのだ。そんな気持ちになったのは初めてだからそっちも捨てたくない。
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cotochira · 3 years
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2/6
 たばこを吸うようになるなんて思いもしないで10年暮らしてきた地元の駅前でも路上の灰皿の位置はなんとなく頭に入っていて、べつに酒も入ってない昼間に吸おうとも思わないが始めたての気負いがなんとなくそれを意識させる。それで通りがかりに横目で見てみるとどこもかしこもあると思っていたものがない。頭の中のにある地図の精緻さもそれと現在との差異の大きさも同じように思いがけない。今は想像もつかない何者かにこれからなるにしろならないにしろ、ならざるを得ないにしろ、こうして内外に思いがけなさは続いていき、それが絶えることはいっそないようにも思えるけど、もしかしたらそのときはじめて色々の悩みの影も薄れはじめるのかもしれなくて、それが老いならそんなに恐るべきことでもない。
 
 単に毎日楽しくすることだけ考えればなにを感じるにしても鋭敏であって良いことはほとんどない、というか、鈍いほうからするとどれも視界の外にあるので想像できなくて、本人が想像できないもののために何かを強要させることは結局なにももたらさない。こうして訳の分からないことばっかりいう人と愚鈍に口開けて生きている人に囲まれどちらにもなにも言えないでなにか噛み合わせが悪いような気持ちのままでいる。それでも幸せに暮らすことといろんなことを鋭く感じ取れるようになることは衝突せずそれぞれにいいことだし、何かを通じてそれをたしかめあうことができるならそれ以上はないと思う。なんの話?
 小説進みません。おしっこ〜〜〜〜〜〜
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cotochira · 3 years
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1/15
 早くに配偶者と別れ、子どももなくひとりで五十代を迎えたその人の心に巣くっていた空しさ、そういった失われた可能性のためだと思われて長らく放置されていたその胸の穴は、神戸に新しくきれいなマンションを購入することで嘘みたいに満たされてしまったのだという。大学の友人だった四人での食事の席、その人と、そういうもんだよね、と同意したぼくの母を、家庭のある残り二人はずいぶん不思議がったとのことだ。むしろわかんない人がいるんだね。ぼくは母に同意した。将来の不安であるとか社会的な立場上の負い目みたいなものは本来、ときたまふと自らの人生を俯瞰してみたときに感じる程度のものであって、だからたいしたことでないとか言うつもりはないけど、ずうっとついて回るようであればそれは生活環境に対する不満のためによけいなことを考えさせられているにすぎないのだろう。
 しかしこういうのはなんていうかひとりに慣れた、誰かと一緒にいること自体というか望んでそうすることの幸せについてある程度忘れた人間の考え方かもしれないと気づけば、その話をしてくれた母が僕のことをそう思ってくれていて、つまりこうしてまた同じ家に住むことになって話していてもべったり「家族」でなくてあくまで家にいるもうひとりとして自分を扱ってくれているのだとも思い至る。こんなにありがたいことはない。
 幼い頃にはわからなかった母親の賢明さに年々気づかされて頭が上がらない。自分の子どもをきっぱり他人と突き放すことのいかに難しいか、周囲の友達の家庭のことを聞くだけでもよくわかる。それは同じ家で育ったわけでもない相手に対してさえ時に難しくなってしまうことを今は僕も知っている。たまにあり得ないほど理不尽な怒られかたをしたが共同生活者に対する苛立ちのあらわれとしては今なら理解できる。しかし母親としての振る舞いではなかったな。そこはまあ今さら言っても仕方がないか。現にそうして育ってしまった自分について、ぼく自身がそう根本的な不満を抱えているわけでもない。
 話を戻して進める。京都に友人と共同でマンションの一室を借りることになった。ていうかもうちょいちゃんと言うと元々あったあんまり使ってないシェアハウスに相乗りさせてもらうことになった。いまは京都でアルバイトをしたり遊んで京都で寝泊まりする日が週の半分くらいを占める。決して嬉しくない理由でした転居だったが思っていたほど悲しくないのは、二ヶ月たっぷり悲しんだからなのか、生活環境の変化に喜んでいるのか、この話の流れだと後の方か。夜勤のアルバイトが終わって、ローカルシネマで午前中の映画を見てからぶっ倒れるように眠ったり、起きたら五時を回っていてスマートフォンを持たずに喫茶店で軽食をとって本を読んで、帰ってきたら簡単な食事をつくってアニメを見たり、帰らないでお酒を飲んで出かけたり、慣れない煙草をもらって吸ったりもする。いろんなことが今とりあえずは新鮮で、近畿の冬の空気は乾いて澄んでいると、言葉にしてみてその懐かしさが胸にこみ上げてくるまで、自分自身が前々からそのことを肌で感じて知っていたことに気づいていなかった。こうして過ぎた一日にもいろんなことを気づいたりしつつも、ものによっては死ぬまでそのことを知らずにいたりする。
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cotochira · 3 years
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近況
 今の家を引き払うことになりました。年明けから実家とか、近くに友達が借りているシェアハウスとかを行き来する生活になりそう。仕事を音速でやめて以降自炊とたまのバイトだけで過ぎていく大学生活の延長みたいな生活を大学生活の延長でしかない人間関係のなかでやってきて、その限界がきたような感じだと思います。何か大きな事件が起きたわけでもなく。
 しかしあと二ヶ月でやめると思うといくらもらえるにしてもアルバイトにぜんぜん意欲がわかない。前の仕事も最初から一、二年でやめることが決まっていたようなものでそれが苦痛だったのが理由にあって、自分はお金を稼ぐことがほんとうにうれしくないのだなあと改めて思った。その場合どうすればいいんだ!? 人生のことなんにも分かりません。
 いっぽうで生活じたいは妙な輝きをもちはじめる。今の状況が嫌いだったわけではなくてむしろ無限に続いてくれても良いとも思っていたせいか、この道を通るのもあと何回だろう、この家でこんな風に過ごす日はあと何日、この友達と遊ぶのは……と無限におセンチの種が出てきて勘弁してくれと思う。思えば学校なんて全部数年で終わるのでそういう「泣きどころ」があり得ない頻度で湧いてくるので、あれはやっぱりそれ自体なんか異常な状態というか、高校や大学が多くの人の記憶の中で特殊な意味を持った磁場を形成してしまうのはその当時のわれわれ自身やそれを取り巻く物事がどうだったかというような、とにかく思い出す内容とはまったく関係なくて、その日々の終わりを想起させる儀式が無限に続くあんな空間にいればある程度の感性を持っている人間はどうしても異常なテンションになるから思い出す時もなんか特別な感覚にとらわれるというだけのことのように思える。文化祭の準備を延々と続けるみたいな二ヶ月がはじまる。
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cotochira · 3 years
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10/17
・ツイートするには長いエピソードが溜まって来たので一通り書く。
・先日、よく行く喫茶店に昼食をとりに行ったら、奥のカウンター席で制服姿の女の子ふたりが並んでオムライスを食べていた。
・意外だ。その喫茶店は大通りにあるんだけど真横につねに行列ができてる人気の飲食店があって目立たないうえ、幅が狭くて汚い階段を降りたさきの地下にあるためめちゃくちゃ入りづらいのだ。店内は普通に清潔だけど壁に無数のレコードジャケットが並んでいて、およそ食事にふさわしくない謎のダークアンビエントみたいな音楽が流れている。オムライスランチは千円くらいする。オムライスより味噌汁が美味い。いつ行っても閑散としていて、僕は自分以外の常連の顔を知らず、サブカルっぽいカップルか迷い込んだ観光客しか見かけないが、潰れてないのでたぶん店主には他の収入源があるのだと思う。多分音楽関係なのかな。
・なんかそんな店なので、制服姿の人が座ってるのは結構珍しいのだった。フラッと入れる場所じゃないし、高校生にランチ千円は結構高いだろうから以前から目星を付けていたのだろうか? 僕がオムライスに手をつけたところでふたりは会計のため席を立っていて、「商品券使えますか?」みたいなことを言っていた。
・あー、親からなんかこの辺の飲食店で使えるクーポンみたいなのを貰って来たんだな。ということは姉妹なのか。せっかくだから普段行かない店に行こうとなったに違いない。google mapでオムライスの店で調べたりして、ここ目掛けて来たんだろうなー、でなきゃこんなとこ来ようと思わないだろうし。商品券はたぶんママ友繋がりとかで母親がもらってきたんだろう。あったわー、こういうイベント……。
・などの推理をしながらオムライスを食べていました。あと塾のバイトの経験が活きて知ってる制服だったので、追いかけて話しかけたらかなり精度の高いホームズごっこができたな。怖すぎる。
・同じ日、始発駅から終着駅まで30分しかない、一本きりのローカル線に乗ってわけのわかんない山奥まで行った。
・僕の近くに座っていた学生は乗ってきてすぐ眠ってしまっていたが、終点が近づくと目を開けた。すると、その向かいに座っていた違う制服の学生が、おはよう、と声をかける。起きた学生は特に驚きもせずに、寝てた、と返していた。
・これに結構感動した。自分が電車通学をしたことないのもあるけど、地元にはこんなに閑散としていて車両も短い電車はなかったので、仮に電車通学をしててもなかなか知り合いには会いづらく、上に書いたようなことが日常的にあり得るということすら想像できなかったのだ。
,僕と同じく終着駅で降りた2人は、たぶん駅のすぐそばにある中学の同級生なのだろう。お互い違う高校に通っているが、時々帰る時間がかち合い、そうなるとあんな山奥へ帰る手段はあの電車しかなくて、乗れば必ず相手を見つけられるから、ああいうことも容易に起こり得るのだ。おはよう、の声の気取ってない感じからして寝てた方は車内でわりとよく寝ているのだろう。
・あ〜〜、いいな!!!
・他人の習慣を想像するのはむずかしい。今日この一日に気を取られて反復が反復らしく思えず、自分自身の習慣すらあやふやだからだ。
・だから他人のちょっとした言動にその人が日常的に行動したり遭遇したりしている物事が染み付いているのをみつけたとき、それはひどく些細なものでも大きな驚きをもたらす。フィクションにおいてそういう表現がなされたときにはその人物の背後の時間の厚みに感じ入るものだが、現に時間が流れているこの現実において、特に上に書いたような場合にはその人自身に関心がないことも手伝い、そういう習慣が生まれうる環境に考えが行き、世界の広がりみたいなものを感じることになる。自分の小説に人間の内面が出てきづらいのは、今のところそういう物事に関心が向っているからかもしれないな。
・もいっこあったけどだるくなったからおわり〜
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cotochira · 3 years
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オタクはガチョウ
 ときどきよくしらない他人のオタク遍歴というのか、どういった作品が入り口となってどういうジャンルにハマって…みたいな自分語りを見かけることがあるが、そういう物言いのなかで、最初に触れた作品や最初に気に入ったキャラクターが自分にとって重要なものであるという表明がきわめて頻繁になされていてそれにいつも違和感をおぼえる。履歴書書いてんじゃないんだから。
 なんでもそうだが最初に手に取ってみたものが適切なものである公算は低い、勝手がわからないので本当にただのババ抜きになってしまうわけだから当たり前だろう。人に聞いて適切な選択ができるという場合もあるかもしれないが、聞く相手が正しくわかっている時点でその場所自体への理解はなくても周辺の勝手がなんとなくわかっているのでそれもまた当たり前のことに思える。或いはそのときの自分にとっては適切に感じられても、後から振り返って見るとひどく陳腐に感じられたり、入門編として適していなかったので無駄な遠回りを強いられたような気がしたりもする。
 それは別に当然のことでしかないので文句のつけようもないし誰しもわかっていることだとは思う。しかしオタクはそういう困難を乗り越えて自分は奇跡的にこれに出会えた! というドラマにたやすく飛びつきすぎなのではないか、本当に嘘をついていないかとわりと毎回気になる。あるいはあんまり若くでインターネットをやっているとそういう物の言い方を聞き慣れるあまりそういう奇跡の存在が逆に当然のこととして内面化されてしまって誰しも最初は闇雲なんだからということが見落とされ、最初に出会えたんだからこれは必然に違いない! というような思い込みや、それによる無駄な失望に繋がったりもするだろう。また、そういう自己紹介をするために最初の一歩での失敗を恐れてあちこちにあれって面白いのかな、合うのかな…と聞いて回っている人もわりあい見かける。自分の中にも無意識的にそういう振る舞いをしている部分はあって実際思春期などはそういう側面をむしろ意識的に振りかざしていた気もする。こういう風なのははっきり神経の無駄遣いなので実害だと思う。
 こうした誤解の背景には人の趣味が後天的にゆるやかに形成されていくものだということの見落としがあるように思う。食べ物や性的な好みなど欲求に直結するものに関しては先天的な身体の性質に依存する部分も大きくても、趣味の範疇にあるようなものはそういう要素に左右されるには複雑すぎる。物語であれば自分の生活を通じて培ってきた価値観に照らし合わせてどうであるとかいう判断も生じ、またその価値観の中に自分がこれまでに読んできた物語も当然影を落としている。それは良いものも悪いものも皆等しくなので最初の席を占めているものが特別な地位を、それもわざわざ最高の地位を得ることにこれといった必然性はない。
 そういう一連の流れを固定化して最初から決まった方向のものしか受け付けられない自分の生まれ持った性質のように捉えているから、そこに偶然飛び込んできたものが何かの拍子に気に入ったら運命的な出会いだと思うというような誤解も生じる。あるいはそのものの影響を絶対視し、今後自分のふれる全てはこの最初の一つによって定められたものだと思ったりする。どちらにしろその後の自分の変化というものが抜け落ちているのでたいした違いはない。そのときはそれで感動していいとしても、後々自分の人生が進んだり趣味が変化してその最初のものが楽しめなくなってしまったときの気持ちをどうするのか。
 それでよく感性が摩耗しているとかいう言い方も出てくるのかもしれない。でも趣味という経験によってひたすら積み重なっていくしかないものにおいて、磨耗していない元の形などというものがどこにあるのか。最初のものを手に取った時というのでは意味が通らない。その時そこにはまだ何も積み上がっていなかったのに。
 趣味というのは意思によって選択されてはいても本質的には偶然に出会っていくてんでばらばらなものの、これまた偶然にそのときの気分や体調によって気に入ったり気に入らなかったりする体験の、なんとなくの方向性でしかない。偶然によって揺らぐのだから時間をかけていく以外に洗練の手段はない。それが最初に放り込まれた一から数個の要素によってどうして絶対的に決まるというのか。
 こうして自分のこれまでたどってきた道を正当化するために自分の最初に触れたものを自分にとってのベストだと偽ったり、そのために最初に触れたものを適切なものに捏造したりといった風潮がどうもある気がする。ほんでこれが単純にウソなので現実とうまく合致しない。昔好きだったものが好きに思えないというのはそれ自体悲しいのに、このバイアスに乗っかって自分語りしているとまるで自分が間違った方向に歪んでいっているような感覚に陥る羽目になる。なんでこんなことしなきゃいけないんだ。ぼく個人はこういう傾向の背後に初恋の思い出に執着するような感傷や自分の経歴を全部必然で埋め尽くしたいというねじ曲がったマッチョイズムみたいなものも感じる。アニメや漫画にそういう価値観の染み付いたものがあるからオタクの方も自然とこうなっていっているというのはあると思う。
 感傷というものになにか個人的な反発心がある。今がいちばん良いに決まってるだろ。というのはTwitter的なテンションでいう暴言だけど、世の中も(これは怪しいか)人間もその趣味も滞りはあっても基本前へ前へ進んで洗練されていくというのは綺麗事でなくて前提なので、感傷という心の動きもそれを飲み込んだうえでなお何か説明できない寂しさがあって生まれる。それが行きすぎてそもそも時間は後ろへ後ろへ進んでいくというのでは何か本末転倒という感じがする。まあどっちにしろそういう目で見ればそうなるという話に過ぎないとはいえ。
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cotochira · 3 years
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田舎者だからロッテリアに行きたい
 試験を受けに遠方まで行く。こういう事態になってから在来線で行けない遠くまで行くのはそういえば帰省を除くとはじめてだ。そんなに真面目に外出を控えてきたわけでもないし他人の行動にめくじら立てたこともないが誰かから責められるんじゃないかみたいな気持ちが浮かれにブレーキをかけるのでたぶん全然出歩かないんじゃないかと思う。こういう見張られてる感がいろんな人の内側にあるかぎり規律の面でどうあれ人の外出はある程度は抑えられる、逆に言えばどんなに厳しい規律があってもこの感覚が押しとどめる限界を超えた効能を発揮することはむずかしい。ほんでこういう感覚がぜんぜん内側に育たない人も一定数いてそれは気づきの機会の問題なので倫理観と必ずしも同期しないから一概に責める必要はないが、そういう人の動きを規制するために色々お触れが出ているのかもしれない。たとえばそういうその時期の空気みたいなものを強烈に作って前後と分節する出来事の最たる例として考えられるのが戦争だけど、その時期にも国の"みんな"で共有する危機感や高揚感を取り込む機会をもたないままふらふらする羽目になった人もまあ確率的にはいたのだろうと思う。自分がなにか機会がなくてわかっていないこの時代の空気みたいなものもあるのだと思うが、それがなにか分からないのだからいいとも悪いとも言いようがない。まちがいを避けすぎて当たり前のことしか言えないな。
 具体的で間違えようのないことから書いて行った方がいい、いま移動中に書いているけど、着いたらロッテリアを探そうと思っている。数年前までは遠出した先でチェーン店に入るなんて考えられないことだったが、いま思えばあれは都市のど真ん中ではないにしろまあ大阪京都に簡単に行ける地域に住んでいたからで、金沢に引っ越すとマクドナルドは至る所にあってもモスバーガーの時点で相当限られ、ロッテリアははるかかなたの行ったこともないイオンモールにあるという噂だけを聞きバーガーキングやファーストキッチンに至ってはこうやってバーガーチェーンを並べてみるまでは存在ごと忘れてしまう。それで地方から遠出するとだいたいどこも住んでいるところより都会なので普段見ないチェーンがいくらでもあり、「せっかく」欲を満たすのにわざわざ勝手のよく分からない個人経営店に入る精神的コストを支払う必要もなくわれわれは新幹線を降りるや否やフレッシュネスバーガーやエクセルシオールに吸い込まれていくのだ。田舎は本当に貧しいな。父親をはじめ都会にわざわざ住む必要はないという人は多くてほとんどの場合それは真実なのだと思うが今ある実感は「田舎はイヤ」以外ないのだから仕方がない。こうやってなけなしの実感に振り回されていくのが若さなのだと思う。
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