Tumgik
digoutourcorpses · 3 months
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何も言えない
 
冷夏という言葉は素晴らしいと思う
小さな、一つの象徴として
絶え間なく変化し流れ続けている気分は、私の世界を構築する存在で
それはすぐに移り変わるから、この今生きている瞬間瞬間を信用することができない
夏が始まったのに、例えば冷たい冬の部屋、街路の角のように今はそれを感じる
生きている瞬間を信用できない、という諦めの感覚が、途方もなく悲しい 幸せな時、悲しい時すら、本当であって嘘なんだ 
裏切られて、嘘であって本当になる
それがとても美しくて、私は好きで
嫌い
この一連の記述が鎖のかかった扉を開いてくれると願って
何を見ても美しくて、愛おしくて、最悪で
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digoutourcorpses · 6 months
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digoutourcorpses · 6 months
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本当は男の人や、ノンバイナリーの人と付き合いたい。想像してみて、本当の自分だと思った。シス女性の人と恋愛関係になって、幸せになっている姿が思い浮かばなかった。私は障害もあるし子供は作らないと思うから、エストロゲンを少し摂って身体的性別も変えたい。
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digoutourcorpses · 7 months
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全てが格好つけ、全てが芝居じみている、全部自分でやって自分で苦しんでいる それが好きだから
何かが好きで、何かを考えてる風に自分は演出しても側から見たらどこまで本当なのかという疑問が漂っていると思う。人工感というか、芝居感というか 人間ぽくないというか、独自の論理でそれが成り立ってるのであって、それをする動機に人間性みたいなものが見つからない
私という存在に自信がない。それをいつも忘れていて、時折思い出す また忘れる
バーチャルなものが好き 気楽でいられる、真に本気であるわけではないのでどこかで手放すことができるから。人生が全てバーチャルで覆われているので、深刻な悩みもないし、どこか自分のことも他人事で見ている。本当に、小さい時からそういう風になっていたと思う。
別にそうする権利があるからといってそれがいいこととは限らない
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digoutourcorpses · 10 months
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どこかで大切なものを失ったと考えているから、本心では何を見てもくだらなく感じる。それを取り繕って興味がある風に見せていても、淀みは隠しきれない。過去の瞬間にのみ生があり、そこからどんどん遠く距離が空いていく。現実も未来もリアルには感じられない。人間の実存的な恐怖はそういう風になっていて、鬱の様態もそのようにある。
子供の頃から社会の全てにそういう淀みを感じていて、そこから離れたかった。4年前まではそうあった。しかし自分を信じられなくなったのが2019年の秋だった。その時から空は透き通り、青い光に満ちていた。そこからも目を背けた。この4年間は長い道草のようで、緑を通って黒の中へ沈んでいた。自分を元の地点まで引き戻して、再び歩を進めなければならない。いつだって遅いということはない。病む中で色々なことを知った。色々な人と出会った。
⚫︎
暗い草地は国を越えてどこまでも広がる。そこでは過去の重さと、未来の重さが等しくあるように感じる。おまけに生ぬるい風も吹いている。ここには世界の混乱と、来たるべき未来がある。
しかしこの草地に足が付いた瞬間から今一度、時間を逆行したい。順番に、この4年間をなぞるように。そして見逃したものを確かめて、過去を清算し、また戻ってこよう。
私たちは戦争に備えなければならない。あらゆる命がこの草地に隠れていく。
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digoutourcorpses · 1 year
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私は人のため、とか、情、とかがわからないときが多い。だから人のために良いことをするのではなく、良き行動そのものを愛するようにする。その善行と相手とのコミュニケーションは断絶しているけど、その断絶は自閉症の特徴であって、それでも善行だけが徹底して行われていることで、奇妙でありながら、ポジティブな空間が生まれる。
それが自閉症の巨大さではないか? そこに光があるように思う。ただひたすら、よき事のために頑張る。人ではなく、求められていること、さらには善行に身を尽くす。
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digoutourcorpses · 1 year
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人にやらせておいて自分は遊び、人の作ったものに文句を付ける
自分一人でできないことを他人に助けてもらいながら、それに文句をつける
自分で作ってみればいい、できなければ文句��言わず受け入れるべきだ
どこかの海が近い南の街
駅前には白い壁の古びた駅ビルがあり、ロータリーがあり、映画館の入ったデパート的な建物が向かいにある
夜にそこをコスメティック田中に似た人物が飛び回ったり、歩き回るMVを撮影する。
若者の女性集団から面白がられていた
ある日、その街の海の近くの集合住宅や家がある一画
四角くマンションや家が真ん中の駐車場を囲んでいる立地で、そこを抜けるとコンクリートと海橋が見える磯が近いところ
呂布カルマに似た人物がそこに歩いており、家と家の隙間に置いてあるゴミ箱に嘔吐していた
夕方、集合住宅の高層階に居て、ベランダに出ると海が見渡せた。海には対岸に工業地帯が霞んで見え、橋が向こう岸までかかっていて、コンテナ船が行き来する。
沢山の国旗を掲げた、黒ずんだ幽霊船が視界を端から端まで横切っていくのを見た
私はカメラでそれを撮影し、ビデオでそれを置い続けた
視界の右方向へずっとぐるりと追っていくと、まだ海が見えていて、手間の木々に遮られながら、船は垂直に伸びるマンションの壁の向こうへ隠れていった
それは予兆だった
ある日
その街の、海に一番飛び出た大きな埋め立て地で、大規模な祝祭が行われた
駅前のロータリーから海の方向へ伸びる坂の歩道橋を歩いていくと、その入り口がある
その道中で私は(Bjorkや大家さんに似た)老婦人に声をかけられた。気に入られたのか、私は彼女に案内されて、会場の中へ入っていった
この道を真っ直ぐ行くと、次第に右側の壁は高く聳え立った灰色の石壁になっていて、左側にはスペイン意匠の重厚で巨大な建築物があった。建築長い回廊が歩道に並行してずっと伸びており、この二つの間には庭もずっと伸びている。これだけ豪勢な建築物にも関わらず、庭はやや打ち捨てられた雰囲気で、水たまりや草の生えた彫刻、コンクリート片などが転がって日光を浴びて輝いている。逆にそれが、人の手を離れた、最も高貴な雰囲気を感じさせた。建物の隙間からは、海や高速道路が覗いた。
そこを抜けると、下り坂になり、急に視界が開け、様々な店や建物が建っていた。
遊園地、屋台、飲食店、服屋…ありとあらゆる店がそこに密集していた。左側は建物に阻まれて見えないが、右側はもう広大な海が見えて、海中からは巨大な岡本太郎の太陽が伸び、私たちを見下ろしている。
あらゆる建物がJagromanceで、呪力を帯びていた。
婦人は私を連れてどんどん先へ向かう。
下り坂は一度グンっと平地に戻ると、その先には、海に向かって下っていく大きな灰色の砂丘があった。
砂丘の向こうには一面に海が広がっており、川崎人口島がそこに浮いて私を見ていた。
婦人が先に向かうも、私は恐ろしさで固まってしまい、婦人を置いて引き返す。
商店や人でごった返す道を歩いていると、やはり心配になってきて、また砂丘の方へ歩いていくと、幸運にも再開できた。日は落ちて、夕方の青黒さが全体を包み始めた。
帰り道に、婦人と一緒にいくつかの店に寄った。東アジアの呪術仮面を売る店があり、そこからは夕方の黒い水平線が臨めた。
岡本太郎の太陽はライトアップを受けて鈍く金色に光り、海に佇んでいた。
駅前のロータリーまで戻ると、俗世に戻ってきた感があった。人でごった返す駅前で、婦人に感謝され、別れた。なんとなく、もうあの祝祭には戻ってはいけない感じがした。
その足で帰ろうとすると、ある若者に声をかけられた。
あの婦人は街で最も高貴な存在で、話すことなどできないという。
私はそれでいい気分になってしまい、またその若者と祝祭に戻ってしまった。
それまで婦人に案内された道を歩き、店を紹介して回った。もう夜はすっかり濃くなっていた。
有頂天になっていたので、砂丘まで行こうとすると、途中で分かれ道があったのでそっちに行ってみた。
そこには祝祭の外れで、坂を下った先に、真っ暗な公園や古ぼけた家々が遠くに見えた。普段貧困層が追いやられて過ごしている、引き返すべきだとすぐにわかった。
そこに神がいた。
寂れたトタンの家と家の間から老婆がゆらりと現れ、動物のように目は赤く光っている。
こちらに歩いてきて、若者が老婆に何かを言う。
そうすると老婆は凄まじいスピードでこちらへ走ってきて、若者を虐殺した。
もう一度、ここに来てはならない理由が分かってしまった。
私は老婆から逃げ、祝祭の中へ入っていった。
老婆も祝祭の中へと入り込み、人々を手当たり次第に殺し、店を破壊し始めた。
祝祭は一瞬で阿鼻叫喚の地獄へと代わった。人々はパニックに陥り、駅前のロータリーへ逃げていく。
気付けば老婆以外にも、様々な異形が店の間の闇から出てきて、人々を殺して回っている。
辺りが血でまみれている。
私が呆然としながら、岡本太郎の太陽が、こちらを睨み付け、何も言わず、沈黙しながら、海の中へとゆっくり沈んでいくのを見た。
私は逃げ回り、祝祭の中でも外れにある、美容院があるビルに着いた。
一回の美容院はガラス張りになっているが、そのガラスを通り抜けることができた。
壁一面に鏡が並んでいた。鏡の向こうには人がいた。他にも何人かそこにいた。
私は皆と同じように、鏡の前に座った。簡単な手続をして、自分の名前を書き、人々の記憶から私の存在を消し、この呪いを逃れることができた。
それでよかったのか?
神は私に対して怒っている。
この緊張感を常に持たなければならないのではないか
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digoutourcorpses · 2 years
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🕊
社会が私たちに合ったように設計されておらず、私たちがその仕組みに合わせていくのであれば、適切な支援を求めるのは当然の権利だと思った。そしてそれを負い目に感じる必要は全くない。
 私は定型者の様式に従いながら、その内で私の語りを守らなければいけない。「神経発達症(発達障害)者は生真面目な人が多い。それが彼らの防衛手段であり、最適化された生き方なのかもしれない」という言説は私の周囲では主流の考え方だった。それは現実に照らせば事実だが、それによって生じる人格の抑圧を軽視している。それを「不器用」と称されるのにも屈辱を感じる。語りを忘れれば、表面上は孤立を避けられても、私の魂は隔絶されたままだ。
抑圧の中で気高さを保つこと、より良い未来のために生きることを大事にしたい。上に述べたことは発達障害に限らず、様々な人に当てはまることでもある。
Neurodiversityについても詳しく勉強したい。マイノリティとマジョリティ双方の歩み寄りが大事だ。「“発達障害”として生まれたいと思うか?」という問いへの答えによって立場が明確に分かれる論点であると感じる。
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digoutourcorpses · 2 years
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Why We Need a Neurodiverse Philosophy of Autistic Happiness
 Liam Gehrig Bach,January 11, 2022
Autism has been historically construed as being mutually exclusive with happiness and success. Philosophers and researchers Robert Chapman and Havi Carel bring the paradox of autistic thriving to light and reevaluate what it means to experience the “good human life.”
Chapman and Carel unpack the types of injustices that autistic people face—primarily having their intelligence or autonomy discounted in social and medical interactions. Then they look at “Autism’s Catch-22,” wherein autistic people are expected to fall in line with a prototypical view of autistic struggling, and if they don’t, they are seen as “not autistic.” With all this in mind, the authors aim to find ways to reframe autism and autistic thriving so that the injustices they face can be remedied.
“Importantly, autism slightly differs from many cases of disability insofar as autistic people do tend to have low levels of wellbeing,” Chapman and Carel write. 
“Specific disabilities are associated with low wellbeing if they are associated with high levels of stigma or greatly impaired functioning. With this in mind, it’s vital to consider that how autistic voices have consistently argued that any impediment to autistic wellbeing and functioning is best understood in terms of social barriers, marginalization, stigma, and exclusion. For instance, Milton and Sims found that a key reason autistic people attributed to hindering their wellbeing was barriers to belonging, rather than simply their being autistic.”
The “medical deficit view” of autism sees it as a neurodevelopmental disorder that hinders communication and reduces one’s capacity for empathy. Critical scholars and activists have argued that the medical deficit view of autism makes it out to be intrinsically at odds with happiness and success, and this is how autistic people are often unjustly stripped of their ability to represent themselves.
For instance, Autism Speaks has been offered as an example of an organization that “combats” autism, as though it were an opponent in a battle, while rarely if ever letting autistic people offer testimony to their own lives and well-being. In this way, organizations such as Autism Speaks have been connected to a larger Autism Industrial Complex, a centralization of techniques used to combat autism and generate profit by recycling fear-monger narratives and preying upon families.
However, the conclusions that have led us to the medical deficit view are based upon what Dr. Sami Timimi has referred to as “scientism,” or the use of jargon and non-definitive language that yields definitions and categories. This, in turn, decreases the perceived credibility, self-awareness, and/or reliability as narrators of autistic people—evinced in the view that people with autism are “mind-blind.” As a result, autistic people have their narratives taken away from them, and as Chapman and Carel point out, any autistic person who is too capable is then labeled a phony.
The authors point to two primary forms of injustice that autistic people face: epistemic injustice and hermeneutical injustice. Epistemic injustice is a denial of intelligence, and it discounts one’s capacity for self-representation. Hermeneutical injustice is the shuffling and obfuscation of collective testimony or community voices. A community suffering from hermeneutical injustice is being intentionally hidden or talked over. In this case, the authors find that autistic people suffer from both of these injustices.
“For instance, [David] Mitchell (2017) reports that when he helped translate and publicize the book of autistic writer Naoki Higashida, they were beset by accusations that the voice could not be “genuine” because, for instance, the prose was too articulate, and the author used metaphor.”
Chapman and Carel clarify that autism can make life harder because of serious external barriers to achieving happiness. However, they take issue with the comparison between neurotypical happiness and happiness for autistic people, seeing it as creating a never-ending dismissal of autistic thriving.
Thus, the Catch-22 of autism: when an autistic person is too happy, too successful, or claims to be living the “good human life,” there can only be two possibilities. One, they are wrong—they are not living a good human life. Or two, they are not autistic.
The authors bring up four routes for the amelioration of this paradox. First, and perhaps most importantly, is the destruction of the medical deficit view of autism.
“Emphasis on opening up the horizon of possible non-pathologized descriptions and interpretations of autism is crucial for enabling a move away from a monolithic and narrow understanding of autism through a medical lens whilst retaining the option to receive medical support and treatment if so wished,” they write.
They also stress the importance of framing the good human life in non-comparative terms. Saying “this is what happiness looks like for me, and people with autism don’t experience that, so they must not be happy” doesn’t properly capture an individual’s capacity for happiness or flourishing.
“Whether someone, is, say, courageous or kind, should be understood in relation to their individual capacities, rather than in relation to a species-norm,” they argue. “This allows us to understand virtues as shared but importantly relative to the individual rather than the species. The approach can inform a revised view of the good life, and of flourishing, that is person-centered and moves away from the focus on species-typical function.”
Chapman and Carel continue by pointing out how autistic self-understanding and “neurotypical epistemic-humility” are core to the relativization of the good human life. To give voice back to people with autism, they must be encouraged and supported to interpret their own experiences. Simultaneously, neurotypical people must be willing to empathize with their experiences rather than dismiss them; as neurotypical people have claimed that autistic  people lack empathy, so can neurotypical people lack empathy for autistic people.
The researchers remind us that these problems, while poignant for autistic people, are not necessarily isolated. Many groups suffer from epistemic and hermeneutical injustice—being made to feel invisible or being forced to stand behind someone else’s interpretation of one’s own experience is far too pervasive for minority communities.
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Chapman, R., & Carel, H. (2021). Neurodiversity, Epistemic Injustice, and the Good Human Life [Forthcoming manuscript]. Journal of Social Philosophy. (Link)
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digoutourcorpses · 2 years
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就活を通じて分かったこと
自分の本音ではやりたくないことを頑張ろうとするが、結局続くことがない。普通の人だったら、やりたくないことも頑張ってやっているんだろうけど、非定型自閉症の影響があり、それすらすることができない。
自分ができる範囲、やれる範囲で生きていくしかないが、限られた人生になるという恐れがある(収入面や将来の発展性に関して)
それを認めたくないために、今まで無理をしてきたと思う。
人よりも無様な部分が多いから、私は幼い頃からそれを覆い隠して、自虐的に言えば「格好良く」見せようとしてきた。でもそれは偽りだから、人と接しても決して交わることはなく、孤独は埋まらない。
今まで家族や保健機関など人の手を借りて、一般の人と同じように生きているように見せかけていたけど、実のところは、1人で暮らすことも、自己管理しながら働くことも、人と本当の関係を築いたり相談することも無理だ。ゆっくり改善していくにしろ、介助がこれからも必要になる。これまでの「自分」は、周りの力で成り立たせてくれていた。
それは本来の姿ではない。障害を認める上で、諦めなければいけないことはいくつかあり、どうしようもない現実である。挫折して卑屈になることと障害受容の間には繊細な線引きがあるように思う。現段階で、この二つはとても近接しているように感じる。今まで追っていたものから得た恩恵もある、しかし誤っていれば修正しなければいけない。認めたくない部分を直視すると涙が出る。理想像が自らの虚栄や現実逃避になっていた。この屈折はずっと抱えるかもしれないし、すぐ解消するのかもしれないが、ここからどう尊厳を守るかを考えている。
「人はなれるものにしかなれない」という明快な価値観に対して、許容できない気持ちが常にあり、ここは譲れない一線のように思う。これを許せば楽になり、物事が円滑に進んでいくように思えるけど、そこから後戻りは効かない気がする。
尊厳とは、誰もが限りなく伸長し拡大し続けること、巨人であることだとすれば、現実的な価値観と戦い続けることが重要だが、しかし現実を直視しなければ、孤独やエゴ、虚栄に陥る。
私の場合は理想と現実の落差が大きいため、深刻に感じているが、これは障害の有無関係なく、程度の差はあれど普遍的な問題なのかもしれない。
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digoutourcorpses · 2 years
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①男性であることへの嫌悪感
恋愛感情や性的欲求の対象バラバラで、場合による。性的に若干男性に惹かれるのは確か
女性になりたいというわけではない。恐らくホルモンを微量摂取してちょっと寄せることになるかも。今肌荒れとか眉毛とか本当に酷いので、そのうち脱毛も含め徹底的にやる。全然本当の自分になれてない。片方一重なのも何とかしたい。人相悪すぎるように見える…
②発達障害
非定型自閉症で幼少期から療育を受けているが、この障害は私の人生全体に巨大な影響を及ぼしている。アイデンティティ拡散、言葉遣いの奇妙さ、不整合。他者の存在に対して想像力が及ばないから過度に単純化して物事を捉えてしまう癖、失言、ストレス耐性の低さ、運動能力の障害で立ち方とか動きがなんか変、服選びとか容姿の手入れがうまくできない、興味ないことへの努力が本当に続かないこと、そのほかにも言語化し難い困難が様々…
こういう特性の中には障害のせいにするな!と言われそうなものもあって、自分でもそういう葛藤がある。辛いが多少はできる範囲で頑張らないと障害を言い訳にしている、ということになる。
あと、誰だってそういう所あるよ、とか気にし過ぎ、とか言われても、個別だとそうかもしれないけど、こんなに併発してるのは普通ではない。優しいフォローはありがたいけれど。
社会で「変人」とされる要素を大量に抱えているので、非常に非常に苦しいが、自分の障害を客観視して乗り越えていきたいと思う。問題山積みの中で自己肯定感上げるのは中々困難。孤独になると一番やばいけれども、孤独になりやすいのもまた事実
軽く書いてるけど、本当に致命的だと思う。障害は治らないから歳を取るごとに世間で浮いてくる。下手すると統合失調症とか双極性障害とか発病してドロップアウトしかねない。自殺するか、やばい人になる未来が結構見える。
③機材が足りない/音楽理論を理解していない
より良い機材が切実に欲しい。コードやメロディについてもいい加減に理解したい。音楽にメリハリがない状態が続いていて、行き詰まってきてる気がする。
④常にネガティブ思考に思われる
私はポジティブに否定的なことを考えているので、一つの否定的な考えにずっと執着したい訳ではない。けど周りの人はあまり理解してはくれないと思う。なんか怖い、根暗だなーで終わる。私は自分の人生も、周りの人生も、社会もより良くしたいと本気で思ってるよ。孤独を耐え忍ぶ覚悟はしているけど、それに甘んじて偏屈な奴で終わらせる気もない。
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digoutourcorpses · 2 years
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多くの場合人生は完璧ではないが、それゆえに残酷があちこちに散らばっている。そして世界は完璧であろうとすることから私たちを阻害している。「処世」「心身の健康」そして「現実」を言いながら。
 しかし、根源的な違和感をなあなあにして健やかに暮らしたとして、それに何の意味があるのか。「健康」に何の意味があるのか。底の部分で自分自身を欺いた淀みが街に溢れている。たとえ健やかであっても、よき物からは程遠い。
費やした時間が正しくなかったとして、しかしそれは取り返しがつかない。完璧な人はいないから、皆自らの時間を浪費している。
 過ちに気付いたとしてそれを償えるだけの時間が残されているだろうか?既に償いきれない過失を犯した人間もいる。彼らはそこから死までの時間、終わらない反省に沈まざるを得ない。それはしばしば「成長」と呼ばれるが、私は嫌悪感を覚える。それはトラウマを土壌に何らかの先鋭的な形へ人格を歪めていくことにしか思えない。あまりにも多くのものが削ぎ落とされ、一本の枝になっていく。
 形こそ多様だが、枝という点で均質な彼らはなぜ自分がその形になったのか、納得できない。だがそれを「成長」や「人生」という曖昧な言葉で誤魔化しながら、被投性に目を向けない。
償いきれない過失に対しては「許し」が必要だ。しかし宗教のない場所にはそれがない。こうして一生を終わる時、彼らの時間はもう動かない。
犠牲になった時間、犠牲になった人生を「どうしてくれるのか」、「そのような残酷があっていいのか」。
これに反論する立場をとれば、物事には正否両方の側面があると言える。過ちにより犠牲になった時間は、一方で他の時間に対して有益な影響を及ぼしているかもしれない。私の時間はあらゆる形で歴史性に奉仕している。この時、「私の時間は過ちにより犠牲になったのか」という論点はあくまで個人を取り囲む世界に縮小されていく。
 自分、自分の周り、自分の認識する社会からも離れた、途方もない遠いどこかでのみ私の過ちが許される。しかしそれは「許された」という主観的な現象とは遠く離れたものである。
 こうした苦しみは人が「自己」であること、個人であることにあまりにも依存していることを示す。私の時間は私の世界の中で処理されなければ実感できず、許されない、という。
そうして「間違った」者の余生はタブーであるかのように見えなくなる。社会的に過ちを追求された人は勿論だが、内的な思考において自ら断罪された人間においても同様である。彼らはその先の時間の行き詰まりを直視したくないから、自らの過ちを認めない。
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digoutourcorpses · 2 years
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普段は深く考えないようにしている、自分の問題と向き合うために書きます。
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