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ありのすさび
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eii-m · 2 years ago
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地底人、地を這う
早いもので2023年ももう終わろうとしています。1つ前の投稿は、2014年にネットで見つけて個人的な日記に転記していたものです。普遍的な価値のある文章だと感じていますが、今検索しても見つからないのでTumblrに上げておくことにしました。確か、奈良県在住の方の手記だったかと記憶していますが、定かではありません(詳細が分かり次第、追記します)。来年で2014年から10年が経ち、私自身も実体験はしていないながらも、10年間、戦争について考えてきましたが、未だに答えは出ていません。
昔の日記を読み返して、10年経っても個人の価値観は根本的に変わらないのだと実感しています。良くも悪くも。そもそも私は過去のものをあまり残しておけない性質で、写真も日記も、ある程度蓄積すると消してしまうのですが、こういった奇癖にもそれなりの訳があるのだなと今年ようやく気が付きました。とどのつまり私は、自分のことが好きではなく、いつも居場所のなさのような気持ちを抱えていて、どこにも馴染めず、馴染んでしまうことを恐れてすらいるのだと思います。それが何故か?と考えると、その根っこには両親との関係があって、結局のところその根っこからたくさんの現象という大小の芋がごろごろ実って露出しているという訳です。
今年の秋ごろに受けたとある診断に、こんな設問がありました。「相手の条件を満たされないと愛されないと思っている」。私の答えは何の迷いも無く「はい」でしたが、この設問を読んで初めて、もしかしたら、こんな設問があるくらいなのだから愛情というのは無条件が基本なのでは…とふと気が付き、言葉では言い表せないくらいの衝撃を受けたのでした。
私の両親は機嫌が良い時しか私のことを大切に扱ってくれず、手も足も出る人で、何かを達成した時には褒めてくれましたが、それすら「じゃあ次はもっとできるよね」というような褒め方で、私には満足というものが全然ありませんでした。けれども私が大人になったので、親も昔より丸くなり、怒りを今更ぶつけることもできず、両親も人間なのだから…ということで自分の気持ちに折り合いをつけていたつもりでいたのです。しかし思い返してみると、今までの生き辛さや、所在のなさ、「愛情=相手の条件・欲求を満たしたら返ってくるもの」という認識からくる、パートナーになった人へ尽くし過ぎる・過剰な期待や怒り・不安感・満たされなさといったものの原因は全部幼少期にあるのではないかと思うようになりました。
今まで、これらの現象は自身の性格上の欠陥だと思い、改善のために取り組んできた諸々は一体何だったんだろうという感じも正直ありますが、これは私にとって大きな発見でした。
この年末付近、ものすごく落ち込んでいた時期があり、電車に飛び込むならどの時間帯が良いかと真剣に考えていたとき、パートナーの人が話を聞いてくれたのが本当に有難かったです。その人は基本的にあまり感情の起伏が無い人で、私の感情の起伏であまり負担を掛けたくない、嫌われたくないと思っていたのですが、そんな話をしたら「誰にでも感情をぶつけてるわけじゃないし、受け入れてくれる人にならいいんじゃない?」と非常にあっさりした答えが返ってきて、すごいなと思いました。私は豚骨スープ並みにグツグツこってり煮詰まっていたというのに…
思考に深みが増すのを成熟と呼んで良いのであれば、私は人間としてかつてよりは成熟していると思うのですが、それ故に気持ちが落ちた時の深度もより深くなってしまい、条件とタイミングさえ揃えば自分が簡単に生を踏み越えていってしまうのではないかという危うさも感じています。定期的に環境を変えたがることや、積み重ねたものをリセットする行為も、身軽でいたいからというのも勿論なのですが、自分でも上手く説明できない、何かの準備であるような気もして、まだ自分自身で掴みきれていない気持ちがあるんだろうなとも思っています。
来年の目標は、自分を大切にすること…なんて書いてもそう簡単にできるわけがないので、お金と時間とを自分の満足というのを判断基準にして使うこと、自分はここにいて良いのだと自分に声を掛けてあげること、それから何があっても自分から死を選んだりしないことです。あとこのTumblrも消さずにいたいと思います。
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eii-m · 2 years ago
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士官学校での或る体験
50年前の夏は、職業軍人養成の陸軍士官学校に在籍していました。私はその前年(昭和19年)に試験に合格し、終戦の年の2月に入学したのです。 その士官学校も、本土決戦に備えるためだったのかどうか、8月には浅間山の麓に疎開していて、そこで終戦を迎えました。士官学校生徒の私たちは、捕虜としてカリフォルニアの炭坑に連れていかれるというような噂も一部で流れていました。 疎開前でしたが、「歴史の大きな改変」を校庭に集まった全生徒の前で予言した高級将校がいました。戦局は敗戦が必至だと解っていたのでしょうか。敗戦後、割腹自殺をしたという上級教官の話も聞きましたが、そういう人達とは違った理性的な勇気の持ち主が、この集団の中にもいたというのも、いまでは大きな教訓となっています。 短い期間であっても、士官学校でのあれこれのことは、私にとって忘れ難い体験でしたが、中でも次のことは、生涯をつらぬくような一つの教訓にもなっているような気がします。 当時の陸軍士官学校では、昔からの伝統を重んじたのでしょう、毛筆で日記を書かされていました。それは強制でもありましたが、一面では、わずかに許された自由な表現の時間でもありました。それまでの中学時代に夏目漱石全集などを読み漁っていた私などには特にそう感じられていました。 しかし、ある日、思っていたことを率直に書きとめたことから、思わぬ波紋が起こりました。 “将校生徒といえども一人の軍人だし、軍人もまた日本人の一員である。” 書いたのはこれだけのことですが、感じていたのは、この士官学校で将校生徒々々と強調されおだてられることへの自制だったのでしょうか。願っていたのは、この集団以外の兵隊たち国民たちを蔑視するな、ということだったと思います。そういう愛国少年の一人だったのでしょう。 ところが、それがどうして「彼ら」に知られることになったのでしょうか、この日記を盾にとられて「貴様は自由主義者だ」と、教官からではなく同僚の同級生から決めつけられ、ある日「彼ら」の集団から呼び出され、とり囲まれて袋叩きにあったのです。 自由主義者というのは、当時の日本では反社会的思想の持ち主として最悪の決めつけ語であり、非国民と同義語に使われたものです。 「彼ら」というのは「幼年学校」出身者のことですが、この「幼年学校」というのは他国にはあまりない、日本帝国陸軍独特のもので、「彼ら」はそこで13~14才の少年時代から特別の職業軍人幹部養成教育を受けていたのです。ここから士官学校へはもちろん無試験で、はじめは将校の子弟を育てるためのものであったのかも知れませんが、この学校の出身者でないと、士官学校から陸軍大学を出ていても、中将どまりで大将にはなれないというのが、帝国陸軍の不文律であるといわれていましたから、彼らはそこで徹底したエリート���識を植え付けられていたのではないでしょうか。 「彼ら」は、私たち中学校出身者よりも数ヵ月遅れて士官学校に入ってきましたから、はじめは私たちの方からいろんな規則を教えてあげていたのですが、何の何の、しばらくすると「彼ら」は自らを帝国陸軍の「貞幹」(幹部)中の貞幹だといい、われわれ中学校出身者を『馬』と称して軽蔑しているのが分かってきました。「彼ら」は教官についても差別をしていて、よく隊をこえて幼年学校出身者の教官のところに結集しているのを知り「彼ら」の派閥意識に味気無い思いをしたものです。 今でも忘れません。中学校出身者が万葉集を読んでいたといって「軟弱者」と批判し、廊下に張り出された新聞の変なところを見ていたと難癖をつけて非難するという、そういうことを繰り返していました。 しかし「彼ら」が最大の集団的暴力を発揮したのは「兵科選び」の時でした。 当時、負け戦を続けていた日本軍の航空隊は飛べる飛行機もなかったのでしょう。殆どが爆弾を抱えて敵地敵艦に突っこみ、生きて帰ることは絶対にない、日本独特の無謀な戦術「特別攻撃隊」の要員だったのですが、「兵科選択」に際して、その「航空隊」を選ばなかった者に、「命惜しみ」として集団リンチをかけたのが彼ら幼年学校出身者の一部集団だったのです。 しかも彼らは、規則を破って深夜同級生に呼び出しをかけ、「命惜しみ」として集団暴力を加えながら、そのくせ陰では「俺は航空参謀だ」などといい、後方で指揮をとる「命惜しみ」をしようとしているのですから、偶然それを聞いた私は、彼らの本音を知り「許せない」と思いました。 本音と建て前の違い、非科学的なものの見方を平然とまかり通していたエリート軍人の卵たちの認識方法、それは当時の日本の指導者達の思考方法と共通性がなかったでしょうか。彼らにとって国家とは、天皇とそれをとりまく指導者集団、そして国民は彼らに奉仕する『馬』や『道具』と見ていたのではないでしょうか。 私の場合は、兵科選びでは彼らに強制された「航空隊」は拒否して「工兵隊」を選びましたが、それはやはり生きて帰ることが許されない「特別攻撃隊」に繋がっていましたので、その点ではリンチを受けなかったのです。けれども、さきにも言ったように日記の件で呼び出され、「自由主義者」だとして白昼軍服が血だらけになるぐらい集団で殴られたのでした。それもはじめに呼び出すときは、ただの一人で、「話がある」と呼びに来たのですから卑怯なやり方なのです。 派閥的な集団主義は、しばしばこうした卑怯なやり口をもたらすのだということを身をもって知ったわけです。 野間宏の小説『真空地帯』では、将校間の反目の犠牲になった主人公(木谷一等兵)をかばうインテリの下士官がいましたが、私の場合は、軍服が血で汚れているのを認知していても教官はそのことには一言もふれませんでした。その教官は幼年学校出身ではなく、知的な人で、私も尊敬した人でしたが、そういう人でさえそうだったのです。いや、暴力をふるった「彼ら」でも、いま会えばどうということはない「普通の人」なのですが、皇国日本のエリート集団の卵たちの意識は、人を人とも思わないようにしてしまっていたのでした。 私はその頃、早くこうした汚い雰囲気から脱出して、死んでもよい、第一線に行って自由になりたいと思ったものでした。 自由を欲する気持ちというのは、いかなる場合も消すことのできない人間の本性だと今は思うのですが、勇敢な日本軍人の献身的な戦闘性というもののなかには、愛国心や周りの人々への愛情とともに、或いはそれとは別に、こうした半ば絶望的な自由への願望があったかも知れません。 苛酷な戦いを生き抜いてきた人たちが、戦争を語りたくないというのも、凄惨な極限状況とともに、こうした説明のできない非合理主義の横行が背景にあったことが影響してはいないでしょうか。 このようなせまい集団の派閥主義、官僚主義は、近代化の遅れた社会につきもののようで、今の日本でも払拭されていないように思えますが、軍隊という戦闘組織の中での派閥主義は暴力装置をもっているだけにいっそう恐ろしいのです。無謀な15年戦争を引き起こし、広大な戦線の中で非合理非科学的な戦略戦術で莫大な犠牲をもたらした、少なからぬ要因にもなったでしょう。 夏目漱石が明治の末期に“日本は滅びるよ”と喝破したのは、こうした日本の指導者層の非合理主義的体質が続くのを見抜いていたからかも知れません。 いずれにしても私にとっては、短い間の端的な体験が終生の教訓になったことは確かです。せまい派閥主義をどんな場合も嫌うようになりました。自らの体験や頭あるいは討論などで確かめないで、外から教え込まれたものを教条的に受けつけないようになりました。 戦後50年経って「経済大国」になった日本はもう「戦後」ではないという論もありますが、本当は、以前と同じではないにしても、似たような大きな矛盾を残したまま、日本の歴史は進行してきたように思えてなりません。 戦前のように、暴力主義の横行というのは露骨には見られませんが、矛盾を合理的に解決する努力の弱さや「派閥主義」は、残念ながらまだまだ続いているように思えます。矛盾を発見して、その解決方法を討論しながら推進していく民主主義の原点がまだ社会的に定着していないからでしょうか。 私の中学校時代の友人で、普通より早く4年生から当時の高等学校に入った秀才で、学徒兵として軍隊経験をもったM君が、終戦の年によこした手紙の中で言っていた言葉を思い出します。“天皇制が変わらない限り、日本はたいして代わらないのではないか”と。 「象徴天皇制」にはなったけれども、「お上依存」は克服されたのでしょうか。国民主権は確立されているのでしょうか。 日本の社会の、こうした困難な近代化の歩みの中で、『学習』は本当に大事なものに思えます。近ごろのように幼い時期からの受験本意の勉強は真の知性を損なわせ、またどんな分野でも余り早い時期から専門的分野に入りこむことは、視野を狭くさせ、大衆の存在を忘れさせ、民主主義と人間の自由な発展を遅れさせるような気もします。 “知を力として”この言葉の重みを、近ごろつくづく噛みしめています。そして戦後50年を経た今こそ、戦争の教訓から得た人類の貴重な歴史的遺産、「平和と民主の日本国憲法」をどうしても守り発展させ、子や孫たちに伝えないとと切実に願っています。
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eii-m · 8 years ago
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