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emily-et-tommy · 2 years
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結局は、自分の孤独も痛みも辛さも弱さも地獄も、誰かのそれと完全に同じであることは絶対にありえないし、完全に共有し合うことも理解し合うこともできないんだろうなと改めて思う。すべてを言葉にできるわけじゃないし、すべてを言葉にすることが必ずしもいいわけでもない。自分の中に日々少しずつ積もりゆくけれどどこにも出せないものがあって、それがどうしようもなく苦しい。
誰とも完全には分かり合えないことが、同じにはなれないことが、希望に感じられることもあれば絶望に感じられることもある。
今は後者の気持ちが強くなってしまっているから、とてもしんどいし心が晴れない。
それでも、少しでも明るい方へ進み続けることをしなければな、と最近は強く思う。美しいものや楽しいものもちゃんと享受しながら。そうすることを私は絶対に諦めたくないし、そうしないと生きていけないな、と思う。
30歳を過ぎるまで、本当の意味で生きるのが苦しかったことが私にはたぶんなかったから、この2年くらいは本当に絶望するみたいな気持ちを味わいながら日々を過ごしている。相対的に見たら、きっとあまりにも弱くて情けなくて贅沢で、甘えているだけのようなものなんだろうな、と頭の片隅でいつも思う。それでも自分にとっては、生きる意味を見失いそうになるくらいの、人生の危機みたいな状況なのだから仕方がない。
自分が信じる明るい方へ進むために、今はただ力や技術や経験や自信をつけたいし、強くなりたいと思う。もう30年も生きているのに、ここからまた新しく積み上げていかなければいけないことに、情けなく思ったり尻込みしたり怖気づく気持ちはずっと付き纏うけれど。
誰もが弱いままでも生きられる社会になってほしいのに、結局今の私は、悔しいけれど強くならなくちゃ全然生きたいように生きられないなと感じている。
構成もまとまりも何もない、ただの感情の殴り書きみたいな言葉を、とにかくここに落としておく。
2023.01.24
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emily-et-tommy · 2 years
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「大地の芸術祭」日記
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ちょうど1ヶ月ほど前、友達に誘ってもらって、生まれてはじめて新潟の越後妻有で行われていた「大地の芸術祭」を巡るバスツアーに参加したのだけど、それがしみじみと心に残る体験だったので、忘れないうちに書き残しておこうと思う。
昔から西洋絵画や写真やファッション関連の展示を見たりするのは好きで、国内外の美術館にはたびたび足を運んでいたけれど、決してアートに詳しいわけでもなく、車も運転できない私にとって、泊まりがけで行く「芸術祭」はなんとなくハードルが高くて、これまでずっと興味はあってもなかなか行けずじまいだった。
でも、ついに巡ってきた機会に今回はじめて訪れてみると、大地の芸術祭のアート作品や展示作品は、越後妻有という場所に生きてきた/生きている人たちの歴史や日々の生活と深く関わり、その営みの痕跡や手ざわりが五感を通じて豊かに伝わってくるようなものが多くて、今まで私が美術館で観てきた「アート作品」とは、まったく印象が違っていた。
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少し湿った土の香りがするしんと澄んだ空気に、色とりどりの紅葉が広がる山々。太陽の光にきらきらと照らされる、あちこちに背高く群生するススキの穂。古民家や廃校になった小学校がそのまま展示会場になった場所の、足裏や肌で感じる床板の冷たさや軋みと懐かしい風景や匂い。地元で取れた米や野菜や肉などの素材の味や食感と、作り手の方の温もりがそのまま感じられるような素朴で豊かな食事。
そういう、その土地の自然やそこでの営みの中に少しだけ身を置いて、自分の五感で直接感じながらアート作品を見る体験は、自分自身が内側から満たされ回復していくようでもあったし、「アート」というものが決して「美しくて高尚で市井の人々やその生活から切り離されたところにあるもの」ではなく、「その土地に生きる普通の人々の生活や営みをまなざし、共にあろうとするもの」でありうると知れたことが、とてもうれしくもあった。
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私が去年までラグジュアリーファッションの世界で働いていた中で、文化や社会の動きとも連動しながら築かれてきた豊かな歴史や背景の蓄積や、社会の価値観を変えたり人々をエンパワメントしたりすることのできる影響力の大きさ、惜しみなくデザインや技術を高め、美しさや芸術性を追求することのできる豊かさに、大きな魅力も感じていた。
でもそれ以上に、グローバル化や商業主義化が進んだラグジュアリーブランドが提示する世界観やものとその値段が、あまりにも一般的な市民の生活や価値観と大きく乖離していて、結局は世の中で富や権力を持つ人たちにしか手に入れられない、そこにアクセスできる人の方しか向いていないように感じられる部分も数多くあったことに、ずっと葛藤や違和感も抱いていた。
だからそういう意味でも、今回「大地の芸術祭」を体験して、アート作品にもいろんな種類や在り方や力があることを改めて知ることができたのは、とてもよかったと思う。
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「大地の芸術祭」で見た作品はどれもそれぞれに印象深かったけれど、2日間かけて回った中で特に私の心に残ったのは、いくつもの場所で見た、旧ソ連(現ウクライナ)出身のアーティスト、イリヤ&エミリア・カバコフの作品たちだった。(その時は迷って買わなかったけど、やっぱり忘れられずに後から展示の図録をオンラインで買って手に入れた)
旧ソ連の文化統制下で、公的には絵本作家として働きながら、公には発表できない「自分のため」の作品を長年作り続けていたというカバコフの作品たちは、「前の私だったら見過ごしていたかもしれない」と思うくらいに、一見慎ましくてさりげないものが多い。
でも、目を凝らして一つ一つの説明を読みながらじっくり作品を見ていくと、「表現や行動が制限された場所や時間の中で、どうやって少しでも幸せに、よりよく生きていくことができるのか」ということを切実さや苦悩や閉塞感の中で考え、生み出されたものでありながら、そこにはどこかふっと肩の力が抜けたり、凝り固まった視点や思考に抜け道を作ってくれるような、ひたむきな前向きさやウィットや”信じようとする力”があって、強く惹きつけられた。
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たとえば、天使の翼を作り、毎日それを一定時間背負って過ごすことでよりよい人間になろうとする「自分をより良くする方法」や、板で囲ったブースの内側に豊かな自然や心休まる風景などの前向きな写真や絵を貼り、その中で椅子に座って30-40分過ごすことで元気になろうとする「前向きな姿勢と楽天主義に照らされる」といった作品は、自分の日々や人生や世の中が行き詰ったとき、そういう試みや考え方をヒントにしてみたい、と思わされるものがある。たとえ実際にはやらなかったとしても、そういう発想が頭の片隅にあるだけで、きっと少し心や視界が開けていくような気持ちになる。
コロナや戦争や圧政、未来に不安を感じるような政治や社会のあり方に人々の生や生活が脅かされる中で、できるだけ日々に光を見出そうとし、少しでも幸せに、よりよく生きようとする個人的な実践の可能性や力はとても素晴らしいし、大切にしたい。
でもその一方で、人々が抱える苦しさや不安や閉塞感の原因が、「個人の努力」や「個人の感じ方」の問題に絶対に(本当に絶対に!)回収されてほしくないということも、改めて思った。
個人が抱えるさまざまな問題や苦しみの多くが、本当は社会の構造や不平等からきていること、本当に変わらなければいけないのは社会やマジョリティ(権力や特権を持つ側)であるということを忘れたくないし、そのことにもっといろんな人が気づいてほしいなと、最近学んだり考えたりしていることに思いを巡らせながら考えた。
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そして、いろいろ見たカバコフの作品の中で特に好きだと思ったのが、越後妻有里山現代美術館に展示された「16本のロープ」だった。(頭上に張り巡らされたロープに、紙切れや壊れた日用品の欠片などとともに、旧ソ連の圧政下で暮らす人々の会話のメモがぶら下げられているという作品)
まだまだ声の大きい人の声ばかりが聞かれる社会のなかで、こういうふうに、社会に生きる”普通”の人々や”少数派”の人々の声や感情や生活や置かれた状況に丁寧に目を向け、大切に思う人や視点があること、それが芸術や文学やカルチャーを通して表現されることに私はいつもすごく勇気づけられるし、救われる気持ちになる。
(2019年に、市原湖畔美術館で『更級日記考 女性たちの、想像の部屋』という展示を見た時もそんなことを思ったな、と思い出した。私が韓国のアーティスト、イ・ランさんの書くエッセイや歌詞の内容にずっと惹かれ続けているのも、同じ気持ちから)
とにかく、ここ数年で見てきた大小さまざまな展示の中で、こんなにもいろんなことを考えたり感じたりしたのははじめてかもしれないと思うくらい、「大地の芸術祭」は自分の中に行き交うものがとても多い、実りある体験だった。コロナや、今も続いているロシアとウクライナの戦争、今個人的に感じている行き詰まりと、カバコフの作品たちが作られた背景や想いが、呼応する部分も大きかったのかもしれない。
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2022.12.03
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emily-et-tommy · 3 years
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「特権を持っている人は、自分が特権を持っていることに気づかない」
そのことを、私はこの10年くらいで、年を追うごとに痛いほど実感している。
フェミニズムを学び始めて気がついたのは、自分がこれまでいかに自分の持つ特権性に無自覚であったか、そのことによって、人の痛みや社会の不平等に気づかずに、無意識に悪気なく、誰かを傷つけたり抑圧したりないものとすることに加担してきたのか、ということだった。
ここ数年、私が切実な気持ちでフェミニズムやジェンダーやその他の社会問題のことを学ぼうとし、考え、言葉にしようとしているのは、自分の特権性や加害性から目を逸らさずに、日々向き合う作業でもあるように思う。たまたま特権を持って生きてこれてしまったことへの、後ろめたさや罪悪感みたいなものを、ずっと感じている。でも、その気持ちとどう向き合ったらいいのかまだよくわからないし、どう言葉にしていいのかもわからない。
とにかく、自分も含め、特権性を持つ人々がそのことにいつまでも無自覚であること、そのことによってそうではない人々を無視したり自己責任だと言ったり抑圧したりすること、少しの想像力も持たずに、自分のものさしや経験でジャッジしたりしようとすることが本当に耐えがたく、強い怒りを覚える。
自分自身の痛みを、誰かや何かと比べて軽んじることはしたくないけれど、私はたぶんこれまでの人生で、自分が傷ついたことよりも、誰かを傷つけてきたことのほうが多いのではないかと感じている。たとえそれが間接的で消極的で無意識的なものであったとしても。
この気持ちと、いつか折り合いがつく日がくるのかな。
今はまだ全然うまく言葉にできなくて悔しい。
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emily-et-tommy · 3 years
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日記を書きたい、書きたいと思いながら、書く時間と心の余裕を持てずに毎日を過ごしている。遅れてきたワクチンの副反応か、気圧のせいか、疲れのせいかはわからないけれど、今週は鈍い頭痛と熱っぽさがずっとあって、気持ちも後ろ向きになりがちで苦しい。だから今週は、少し早めに眠っている。それでも朝も日中も割としんどいのだけれど。
先週、上間陽子さんの新しい連載を読んですぐに、ずっと買う機会を逃し続けていた『裸足で逃げる』をようやく手に入れた。一昨日から毎夜一編ずつ、大切に読み進めている。上間さんの書くものを読むと、いつも自分には何も言葉にできないし、したくもないと思う。ただ読んで、ただ受け止めることしかできない。そして同じように、できるだけ多くの人にただ読んでほしいと思う。
近いうちに、ちゃんとした日記と、友達への手紙を書きたい。友達へのプレゼントも買いに行きたい。友達と会って話したい。
今日もイ・ランさんの「よく聞いていますよ」を聴きながら眠りにつこうと思う。
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2021.10.05
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emily-et-tommy · 4 years
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生まれてはじめて言葉にする、私の恋愛に対する感覚についての話ーアセクシュアリティのことー
「私って”アセクシュアル”だったんだ。」これまでずっと自分だけのものとして曖昧に受け止めてきた自分の恋愛や性愛に対する感覚や感情が、客観的に分類され、定義付けされうるものであることを、私は29才の今になってはじめて知った。
 そのきっかけとなったのは、昨年末から今年の初めにかけての、一連の映画体験と読書体験だった。私は年末、友人から勧められ、自分でも気になっていた『燃ゆる女の肖像』という映画を観に行った。この作品は、端的に言うと、出会ったばかりの二人の女性が、日々共に時間を過ごす中で対話や交流を通して互いに心を通わせ、徐々に惹かれ合ってゆく物語なのだが、私はこの作品を観て「私はやっぱり女性に恋愛感情や性的欲望を抱くわけではないんだな」と、突然はっきりと自覚することになった。
それまで私は、子供の頃から異性への恋愛感情を強く持ったことがなく、むしろ同性である女性の芸能人ばかりに熱烈に惹かれ応援しているようなところがある人間だったので、「もしかしたら私は女性が好きなのかもしれない」と、自分のセクシュアリティに曖昧さを抱きながらずっと生きてきた。けれども、この映画を通してはじめてちゃんと女性同士が恋愛的に惹かれ合い求め合ってゆく姿を目の当たりにしたことで、それが自分が必要としているものでも、自分に起こりうる感覚や感情でもないということを、明確に理解したのだった。
そして同時に、自分の中で「私は同性愛者であるかもしれない」という一つの可能性が消えたことで、それまでフェミニズムやジェンダー関連の本を読む中で時々見かけてきた「アセクシュアル」や「アロマンティック」という言葉が、ふいに頭に浮かんできた。すぐにオンライン書店で「アセクシュアル」という言葉を検索し、唯一出てきた『見えない性的指向 アセクシュアルのすべてーー誰にも性的魅力を感じない私たちについて』(明石書店)(以下、『アセクシュアルのすべて』)という本を取り寄せた。
読み始めてみると、そこに書かれていることの一つ一つがあまりにも「そう、それそれ!」と思うことばかりで、私は正真正銘「アセクシュアル」なのだとわかった。
 ほぼ時を同じくして読んだ、大前粟生さんの『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』という小説も、その確信をさらに強くさせた。表題作の「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」の主人公である七森という男の子は「ひとを友達として好きという気持ちはわかる。恋愛対象として好き、というのがわからない。」という思いを抱えながら大学生活を送っているのだが、彼の感覚や思考は、まさにほとんどそのまま、学生時代や今の私そのものだった。その物語の中でも、解説や帯でも、七森がアセクシュアルだなんてことは一言も書かれていない。でも彼の恋愛に対する感覚は、まさしくそれでしかあり得ない、と思った。
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 アセクシュアルとは「誰にも性的に惹かれない人の性的指向」であり、アロマンティックとは「誰にも恋愛感情を抱かない人を指す恋愛指向」のことを指す。アセクシュアル(誰にも性的に惹かれない)であることとアロマンティック(誰にも恋愛感情を抱かない)であることは別の問題で、アセクシュアルでも他人に恋愛感情を抱いたり、恋愛関係を築きたいと思う人(ロマンティック)もいれば、アセクシュアルでアロマンティックの人も存在する。
ロマンティック指向にも様々な種類があって、異性や同性に恋愛感情を抱く人がいるのはもちろん、めったに恋愛感情を抱かないものの、感情的に親密になった人にだけ恋愛感情を抱くことのある(外見などでの一目惚れはしない)「デミロマンティック」や、アロマンティックとロマンティックの中間の曖昧なロマンティック指向を持つと自認する「グレイロマンティック」など、かなり多様な種類やグラデーションがあるらしい。(『アセクシュアルのすべて』にはとても詳しく丁寧にセクシュアリティやロマンティック指向について書かれているので、気になる方はぜひ読んでみてください。)
ちなみに私は今のところ、自分のことをアセクシュアル(誰にも性的魅力を感じない)・グレイロマンティック(かなり希薄だが、恋愛感情を感じることがある)だと認識している。
 大学生の頃に、ゼミでの活動や学びを通して自分の考えや思いを言葉にする術を獲得してから、私はSNSを通して割とあけすけに、自分の好きなものや、自分が見たり読んだり経験したことについてたくさんのことを言葉にしてきたけれど、「恋愛」に関してだけは、ほとんど口を閉ざしてきた。恋愛に関しての友人との会話の中で、自分と同じ感覚を持った人の話は聞いたことがなかったし、今まで読んだり見たりしてきたどんな漫画や小説、ドラマ、映画にも、自分と近しい恋愛や性愛についての感覚を持った人物は登場してこなかった。だから、「恋愛の好きがわからない」という自分の感覚は、誰かに話していいものなのかもわからなかったし、話しても、心配されたり、信じてもらえなかったり、変だと思われるかもしれないと思うと、自然と、自分から進んで恋愛に関することを口にすることはなくなっていった。
でも、「アセクシュアル」という言葉や概念の存在を知った今、私はようやく、「ああ、私がこれまで抱いてきた感覚や感情は、決して私一人だけのものではなく、この世にちゃんと存在している、誰かと共感し合えるものだったんだ。だから、もっと堂々と言葉にしてもいいんだな。」とはじめて思うことが出来た。
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 思い返せば10代の頃から、私は恋愛感情の「好き」があまりよくわからない、と思いながらずっと生きてきた。小学生の頃や中学生の頃は仲の良い男友達もいて、「好きな男の子」という存在もいちおういた。中学三年の時、一緒に話していてすごく楽しい、一番仲の良いクラスメイトの男友達のことを「好き」なのだと思って自分から告白して付き合ったことが一度だけあったけれど、付き合い出してしばらくして、自分がその子に対して抱いていた「好き」という感情は、世間一般でいう恋愛の「好き」とは違うものなのだと気づくようになった。自分の中で、彼に対しての気持ちが恋愛としての「好き」ではないのだという思いが日増しに大きくなっていく一方で、彼の中では恋愛としての「好き」の感情が大きくなっていくのを感じて、居心地の悪さと申し訳なさでいっぱいだった。
元々人として大好きな友人であり、自分から告白した手前、なかなか別れを切り出せずにずるずると半年ほど付き合っていたものの、もう恋人として付き合っているのは限界だと感じて何とか「別れたい」と告げた時には、彼を傷つけて泣かせてしまい、その時私は「もう誰かに軽々しく好きと言ったり付き合ったりするのはやめよう」と心に誓った。
 高校生の頃も、文化祭で知り合って親しくなった、地元が一緒の他校の男の子と、放課後に会って公園のベンチでお互いの共通の趣味や部活の話をしたり、好きな音楽のCDを貸し合ったり、休日にカフェで一緒に勉強したり、二人で遊びに行ったりと、はたから見たらほとんどデートのようなことをしていたこともある。私には、彼と一緒にいて楽しい気持ちや居心地の良さ、好ましさは感じ���も、それが恋愛の「好き」なのかどうかはやっぱりわからなかった。そして、手を繋ぎたいとか、キスをしたいとか、その先に進みたいとか、そういう感覚や感情についてはもっとわからなかった。
 その男の子は私のことを恋愛感情として好きでいてくれて、高校の三年間の間に三回も告白してくれたのだけれど、恋愛の「好き」の気持ちがわからない私は、どうしても彼と「付き合う」ということに踏み切ることが出来ないまま年月が過ぎ、いつしか彼とは疎遠になった。付き合うことはしないのに会い続ける関係性を、女友達から「残酷だ」と言われたこともあった。
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 私の中には、恋愛感情の「好き」という気持ちや、誰かに性的に魅力を感じるという感覚が、ほとんど存在していない。友達に感じる、一緒にいて楽しいとか嬉しいとか、大切だな、好きだな、愛おしいなと思う気持ちと、家族に対しての愛情や素のままの自分をさらけ出すことの出来る居心地の良さや安心感、そして眩しく輝いている同性の芸能人の女の子たちの存在とその魅力に強く惹きつけられる気持ち。私が人に抱く「好き」の感情は大きく分けてその三種類しかなくて、それは30歳を目前にした今でも変わらない。
「恋愛の好きがわからない」、「これまで一度も盲目的に好きになるような恋をしたことがない」、「恋愛や異性にあまり興味がない」という話をすると、過去に何か嫌な経験やトラウマがあると思われたり、同性が好きなのかと思われたり、”まだ”本当に好きな人に出会っていないのではないかと思われることが多い。実際、私は物心ついてから大人になるまで、男性芸能人には一切興味がなく、女性芸能人しか好きになったことがないので、「私はもしかしたら女性が好きなのかもしれない」と思っていたこともあるし、”まだ”みんなのように心から好きだと思う人に出会っていないだけなのかもしれない、と思っていたこともあった。
 でも、以前She isで書かせてもらった、眩しい世界で活躍する同性の女の子たちに強く惹かれる気持ちを綴ったエッセイ(https://sheishere.jp/voice/201802-emily/)にも書いた通り、私は強い気持ちでアイドルやモデルや女優として輝く魅力的な女の子たちに尋常ならざる「好き」の気持ちを持ち続けてきたものの、それが恋愛感情や性的な感情であったことは一度もなかったし、どんなに大好きで大切に思う女友達のことも、恋愛や性的に惹かれると言うまなざしで見つめたことは一度たりともなかった。
 そして、10代後半から20代を経て、30代を目前に控えた今になっても、物語の中や世間一般の価値観として幾度となく触れてきた、恋愛感情を伴った「好き」という気持ちを、私は誰か特定の人に対して抱くことは出来ていない。20代前半の頃までは”まだ”そういう人に出会えていないだけなのかもしれないという気持ちがうっすらとあったけれど、もうここ数年は「私はきっとそういう感情を抱かない人間なのだ」と思うようになっていた。
それでも、やはり他に同じような感覚を持つ人に出会ったことがなかったので、私はなんだか煮え切らないような、曖昧で漠然とした不安や心許なさのようなものをずっと抱えていた。
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 ご存知の方もいると思うが、私は去年の夏に、約5年交際し、3年ほど一緒に住んでいた7歳年上の男性のパートナーと結婚した。彼とは以前勤めていた会社で出会い、二人でご飯を食べに行ったり飲みに行ったりしているうちに、付き合うようになった。彼に対して明確な言葉でそう伝えたことはないけれど、私は出会った頃から今まで、彼に対してもやはり、恋愛的な意味で強く「好き」と思ったことはない。彼の存在は、私にとって「恋人」というよりも「家族」がしっくりくるものだ。 
 はじめて仕事終わりに二人で飲みに行った時から、私は彼と一緒にいると、普段のままの素の自分でいられたし、緊張したり会話が弾まなくなったりして気まずくなることもなかった。彼と出かけるのは楽しかったし、一緒にいるのは安心出来て、とても居心地がよかった。お互い、特別趣味や興味関心が大きく一致しているというわけでもないけれど、お互いの好きなものを押し付けたり否定したりすることなく、干渉しすぎず、尊重し合え、素の自分でいられ、生活面でも無理なく協力し支え合える関係性が心地良いと思っている。
それでも、彼は私と同じアセクシュアルなわけでなく、最も一般的なシスジェンダー(性自認が生物学的な性別と一致している)・ヘテロロマンティック(異性に恋愛感情を抱く)でヘテロセクシュアル(異性に性的魅力を感じる)の男性なので、私のような恋愛・性的志向を持つ人と一緒にいることをどう思っているのか、彼のことを傷つけてしまっていないか、不安に思わないわけではなかった。
さらに、これまでの人生で触れてきた様々な物語やエピソードの影響によって、結婚とはどこか「この人しかいない!」という運命的な強い感覚や感情を伴うべきものであると思っているところのあった私は、彼と結婚することを何を根拠に決意していいのか、ずっと逡巡していた。学生時代の友人や、同世代の会社の同僚たちが次々に結婚し、自分も結婚に向けて進んでいく中で、世の中の人たちは、一体何を決め手に結婚に踏み切っているのか、切実に知りたいと思ったりもした。
でも、自分がアセクシュアルであると明確に理解することが出来た今は、結婚することの根拠を、必ずしも恋愛・性愛的な感情の強さに求めなくてもいいのだと思えて、今のパートナーと結婚することに決めたことを、これでよかったのだと素直に納得することが出来るようになった。
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 統計によると、アセクシュアルの性的指向を持つ人は、人口の中で1%にも満たないらしい。それを知って、道理でこれまで生きてきて、ほとんど誰にも理解されないし、物語の中にも出てこないし、同じような感覚を持つ人に出会えなかったわけだ、と納得した。
『アセクシュアルのすべて』の中でも詳しく書かれているけれど、アセクシュアルの人は誰かに対して性的に惹かれるという感覚を持たないため、「ない」ものを他人に証明したり可視化したりすることが難しく、また、本人ですら気づきづらく、明確にそうであると断定することが難しい。だからずっと存在しないものとされ、透明化されてきた。
私自身は正直、アセクシュアルであることを、これまでの人生でそれほど深刻に思い悩んできたわけではない。「自分は普通の人と違���のかな」「恋愛感情が欠落しているのかな」と思ってもやもやすることはあったし、自分と同じ感覚を持つ人たちがドラマや映画、漫画の中にほとんど登場しないことに、少し心許なさや物足りなさを感じたり、世の中のあれこれが恋愛や異性愛を中心に回っていることに違和感を抱くことはあった。でもそれ以上に、学校生活や仕事や友人と過ごす時間、様々な趣味の存在によって、私の日々や心はとても充実していたし、何不自由なく楽しく、満たされてもいた。
 それでもやっぱり、アセクシュアルという性的指向が、他者に恋愛的・性的に惹かれない人がいるということが、世の中で当たり前に認められていたら、「自分は普通じゃないのかな」と思い悩まなくてもよかったし、他人から「恋愛しないともったいない」とか、「もっと恋愛した方が魅力的になるのに」などという余計で的外れなアドバイスをもらわなくて済んだかもしれないと思うし、不当に傷つけられることなく、否定することなく、もっとありのままの自分で生きやすくなる人が多くなるはずだ、とも思う。
 何もアセクシュアルを、この世界の性的指向の中心やスタンダードとみなしてほしいとか、過度に注目して話題にしてほしいと思っているわけじゃないし、腫れもののように扱ってほしいわけでもない。ただ、いつまでも「ないもの」「見えないもの」として無視し続けないでほしいし、「普通じゃない」とか「おかしい」だなんて思ったり言ったりしてほしくない。とにかく、異性や同性に恋愛的・性的に惹かれる人がいるのと同じく、誰にも惹かれない人がいることが、当たり前に認められてほしいだけなのだ。
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 ここまで私の個人的な経験や感覚をもとにこの文章を書いてきたけれど、ここではっきり言っておきたいのは、私が語ってきたアセクシュアリティはあくまで”私の”アセクシュアリティでしかない、ということだ。一番のマジョリティであるヘテロセクシュアル(異性愛)だって、誰のどんなところに惹かれるのか、は当然人によって千差万別だ。それと同じで、同じ「アセクシュアル」を自認している人でも、そのディテールは人によってかなり大きく異なるし、様々なグラデーションがある。
例えば、アセクシュアルというと「誰にも性的に惹かれない=性欲がない」と思われがちだけれど、実際には、まったく性欲がない人もいれば、他人に対して性的魅力を感じたり性的欲望が向いたりすることがないだけで、性欲自体はある、という人も多い。
映画や漫画などの物語にしても、恋愛を描いた物語に全く共感出来ず、つまらないとか苦痛だと思うアセクシュアルの人もいれば、ラブストーリーを物語として見たり読んだりするのを積極的に好んで楽しむ人もいる。
アセクシュアルでも、結婚したり共に生きるパートナーが欲しいと思う人や、子供を産み育てたいと思う人だっているし、そうじゃない人もいる。
 私自身は、子供の頃から今まで、恋愛ものの漫画や小説を読んだりするのは好きな方だし、性的な描写が強い作品もむしろ楽しんで読んでいるくらいだ。主人公の抱く恋愛感情や関係の機微に共感して胸が苦しくなったり、きゅんとしてたまらない気持ちになったり、興奮したりすることも多々ある。友人の恋愛話を聞くのも、いつだって楽しい。
それでも、物語の中では擬似的に感じたり共感したりすることもあるその感情や感覚を、私が現実の世界で生身の他者に対して抱くことは(ほぼ)ないのだ。
 そして、私はアセクシュアルだけれど、異性のパートナーと結婚して家族になることを選んだし、将来的には子供を産んで育てられたらいいなと思っている。結婚や子供を産み育てることに対する願望は、自分の中では子供の頃から、あまり違和感なく存在するものだった。
 これらのことについて、「そんなの矛盾しているじゃないか」と思う人もいるかもしれない。それでも私は「そうだからそうなんだ」としか言えないし、それは性別もセクシュアリティも人種も関係なく、みんな一人一人が違う人間なのだから、当たり前にそれぞれ異なる指向や価値観や好みを持っているということに他ならない。
 これまで、私は自身のセクシュアリティに曖昧さを抱えながら生きていたので、LGBTQ+に関してもずっと漠然とした当事者意識を持っていた。そして今回アセクシュアルであると自覚したことによって、私は本当に当事者であり、セクシュアルマイノリティだったんだな、と改めて気づくことになった。
自分の曖昧だった感覚や感情が、客観的に言葉や概念で定義し、誰かと共感し合えるものであると知った安堵の気持ちと、「マイノリティ」として括られてしまうことへの怖さや心許なさを同時に感じて、カテゴライズする/されることのメリットとデメリットの両方を、初めて自分のものとして実感出来るようになった気がしている。
 アセクシュアルを自認してから、改めてアセクシュアルについて書かれた書物や作品や物語などを探そうと少しずつ試みているものの、それらは驚くほど少なくて、なかなか思うように見つけることは難しい。
これまで29年間、自分自身ですらはっきり認識出来ず、じっくり向き合って言葉にしてあげられていなかった思いや経験が溢れんばかりに自分の中にあったので、この文章は随分と気が遠くなりそうなほどに長くなってしまった。けれどもこれまでずっとほとんど可視化されず、語られてこなかったことだからこそ、これからは出来るだけたくさん、丁寧に言語化していきたいと思うし、それによって少しでも、誰かが一人じゃないと安心したり、気づきや光を感じたり出来たらいいなと思っている。
 女友達から「〇〇って本当に女を使わないよね」と言われたことも、年を重ねるにつれ、(恋愛対象や性的対象として見られる可能性が高いと感じていたから)異性とどこか距離を置いてしまいがちになっていたことも、生まれてから一度もモテを意識したことがなかったことも、学生時代、音楽を聴いたり歌ったりすることが好きだったけど恋愛のことばかり歌う歌詞が多くて全然共感出来なかったことも、「女」としてじゃなく「人間」として見てほしいと思っていたことも、どうしてみんな、そんなに簡単に他人に身体を見せたり開いたりすることが出来るのかわからないと感じていたことも、自分がこれまで抱いてきた様々な感情や取ってきた態度や行動が、すべてアセクシュアリティからくるものだったとわかって妙にしっくりきたし、深く納得することが出来た。
フェミニズムの思想を大切に感じるようになったのも、アセクシュアリティとの親和性の高さが理由の一つでもあったのかもしれないと、今となっては思う。
「私ってアセクシュアルってやつみたいなんだよね」と、『アセクシュアルのすべて』を見せながら内心恐る恐るパートナーに打ち明けた時、「自分のことがもっとよくわかるようになってよかったね」と彼が言ってくれたことが、私はとてもうれしかった。だって私自身も、まさしくそう思っていたから。
 私自身、アセクシュアルを含むセクシュアリティやジェンダーについてはまだまだ学び始めたばかりで、きっと理解や認識が不十分で不完全な部分も多い。これまで自分自身のことはもちろん、自分とは異なるセクシュアリティや恋愛指向を持った人への理解も、同じように全然足りていなかったと思う。
だからこれからは、自分のためにも他の誰かのためにも、もっとセクシュアリティやジェンダーについて学びを深めていきたいし、丁寧に考え、対話し、言葉にして、”もっとよくわかる”ようにしていきたい。
そのための一歩として、この文章を、私自身とこれを必要とするかもしれない”誰か”へ、捧げたいと思います。
2021.03.14
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emily-et-tommy · 4 years
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誰かと生きることを��んでも、自分の足で立っていたい。
 コロナの大騒動の陰でなんだかひっそりとしてしまったけれど、私は2020年の夏の終わりに入籍した。相手とは5年前ほど前から付き合っていて、既に3年くらい一緒に住んでいた。9月末に予定していた結婚式を1年後に延期し、夏に行く予定だった北海道と長崎の親戚への挨拶回りも中止になったので、紙を一枚役所に出して、様々な手続きをして身分証明書や銀行の預金通帳やクレジットカード上の姓が変わっただけ。それ以外は本当に何も変わらなさすぎて、少し拍子抜けするような日々を過ごしている。
 仕事は相変わらず忙しく、彼よりも私の方がいつも帰宅が遅い。これまでと同じように、基本的に料理をするのは彼の担当で、洗い物と掃除は私の担当、洗濯はその時出来る方がやることになっている。でも、去年の夏ごろから私はずっと元気がなく、その反面やりたいことも会いたい人も行きたい場所もたくさんあったので、休日には外に飛び出してしまうことも多くて、家事はごく最低限のことしか出来ておらず、後ろめたい気持ちがずっとあった。彼がそのことについて文句を言うことはほとんどないし、仕事でも家でも無理して頑張ることなんてしたくないしする必要もないと思うけれど、それでもやっぱり、もう少し心や時間に余裕を持って、生活を大切にしたいという気持ちは常にある。
 別にそれは、自分が女性だから家事をちゃんとやらなくちゃいけない、ということなんかではなく、自立した一人の人間として、自分の暮らしに関わることはもう少しちゃんと自分の手で出来るようになりたい、という思いから来るものだ。
 以前、2年ほど前にShe isのブックトークというイベントに参加させてもらった時、私は松田青子さんの『英子の森』という作品を紹介しながら、「誰かと生きることを選んでも、自分のやりたいことをやりたい」「自分の足で立ったまま誰かと暮らしたい」ということを話した。
その想いは今でも少しも変わらないけれど、「自分のやりたいことをやりたい」とか「自分の足で立ちたい」という気持ちが人一倍強い私は、自分が立っている場所がぐらぐらと不安定になってしまった時、まずはそれを立て直し、取り戻すことが一番の優先事項になってしまって、「誰かと生きる」ということがついつい後回しになってしまう。
でも、誰かと一緒に生きることを選んだのなら、いつでも自分の好き勝手にやっていいわけではなく、何かを誰かに任せっきりにしていいわけでもない。
頼ることは時に必要なことだし、助け合うのはいつだって大切なことだけれど、自分や互いの生活に関わることが、どちらか一方に任せっきり、頼りっきりになってしまうのは、あまり健全なことではないと思うから。
 自分のやりたいことは引き続き譲りたくないけれど、生きていくのに必要なやるべきこともある程度きちんとやらなくてはいけないし、一緒に生きることを選んだ相手のことも大切にしたい。当たり前のことだけれど、今年はそれをもう少し、自分で納得出来るレベルまで出来るようにしていけたらと思っている。
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 そういえば、結婚に際して特に抵抗することもなく改姓を受け容れてしまったものの、やっぱり30年近く慣れ親しんできた自分の姓をあっさりと変えなければならないことには強い違和感があったし、入籍して半年くらい経った今も、その新しい姓が自分のものだという実感が、正直まだ全然ない。
今年の年明けに自分の両親から届いた年賀状の宛名に、彼の「姓名」と、その横に添えられているみたいに私の「名」だけが並んでいるのを見た時、何とも言いようのない寂しさや頼りなさのようなものを覚えた。
私は「誰かと生きることを選んでも、自分の足でしっかり立っていたい」んだけどな。
今抱いているこの感覚のことは、いつまでもちゃんと忘れずにいたいと思う。
 結婚しても男女関係なく働き続けることも多く、それぞれが自立した状態で共に生きていく人たちも多い今の時代だから、一日も早く夫婦別姓が当たり前に選べる世の中が来てほしいと思うし、そうなることによるメリットは数多くあれど、それによって失われるものや壊れるものなど何もない、そんなものは思い込みや幻想でしかないのだということに、早く気づいてほしいと願わずにはいられない。
まだちっとも自分の中で消化しきれていない「結婚」というものについて、今の私が書けることはこれくらいだ。
2021.01.04
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emily-et-tommy · 4 years
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あけましておめでとう、って言いたくないと思った年明け
この年末年始は、まるで普通の休日のような日々を過ごしている。
いつもはもう少し、新しい年を迎えて、一度リセットされたような新鮮な気持ちになるものだけれど、今年は本当に、ただの地続きの日々のうちの一日という感覚が強い。両親や親戚とも会わず、いつもと同じように、家で彼と2人で過ごしているからかもしれない。大掃除をしても、紅白を観ても、おせちを食べても、なんだか年末年始の感慨みたいなものが全然ない。私にとってのお正月らしさみたいなものってどこから来ていたんだろうなって、ぼんやりと考えている。
2020年は、これまで気づかなかったこと、あるいは薄々気づいてはいたけれどそこまで深く自覚していなかったことを、はっきりと知ることになった一年だった。
4月と5月、緊急事態宣言によって、突然丸2か月の休みが降って湧いてきた。それまでずっと、後ろも振り返らず、脇目も振らずに(というよりそんな余裕もなく)走り続けているような日々を1年以上続けていたので、その2か月間は、世の中の状況に対する不安はずっとありつつも、不思議なほどの静けさや穏やかさに満たされた日々を過ごしていた。わかってはいたつもりだったけれど、心にも体にも強い負荷がかかっていたことに、改めて気づくことになった。ずっと作りたいと思っていたZINEを完成させたのもこの期間だったけれど、心置きなく、自分がやりたいと思うことに向き合える時間と心の余裕があることの、充実と幸せを噛みしめていた。
その後、6月に本格的に仕事が再開してからが、私にとってはずっと苦しい日々だった。2か月の休みの間に、自分の心や生活とじっくり向き合ったことで、もうこれまでのように無理して仕事を頑張ることが出来なくなってしまった。自分の心が向かっている場所や大切にしたい価値観と、今自分がいる場所のそれとの間にずれがあることにはずっと気づいていたけれど、いよいよその溝が決定的なものになってしまったから。
だからと言って、すぐに辞めることが出来るわけもなく、続けている以上は責任もあるので何とか頑張り続けていたけれど、心は完全に離れているのに、これまでと同じように頑張り続けなければいけない状態は、まるで自分が内側から引き裂かれ続けているようで、あっという間に心身の具合が悪くなった。
増えていくコロナの感染者数だけが日々喧伝され、それでもまるでほとんど元通りかのように動いている人々や世の中の状況も、苦しい気持ちに拍車をかけた。
朝起きても常にどこかしら体が不調で、心は重く、頭は鈍く、思うように言葉が出てこなくてうまく話すことが出来ず、食べることへの頓着もどんどん薄れていった。休日はこれまでになく長く眠るようになって、大好きな推しのアイドルの女の子のブログにコメントをすることも出来なくなり、SNSに投稿したい言葉もあまり浮かんでこなくなった。友人と会う度に、心が明るくない状態で一緒にいることに、申し訳なさや後ろめたさを感じたりもした。
自分の人生の中で、こんなに元気のない状態が続いたのはたぶん生まれて初めてのことだったので、「元気がない」ことはこんなに���しいのだということ、そしてこれまで自分が思っていた以上に、本当はみんなあまり元気がないのかもしれないということに、初めて思いを巡らせることになった。
元気じゃない時に、「元気?」と訊かれて「うん元気だよ」と答える、ただの挨拶代わりのそれほど意味のないはずのやりとりでさえ、何かが擦り減っていくようで苦しく感じることもあるのだと知った。誰かと久しぶりに会ったり連絡したりする時、これまで何の気なしに「元気だった?」と口にしていたけれど、どこか肯定的なことを言わなければいけないような空気がある世の中で、自分の気持ちに反しながらも「元気だよ」と言わなければいけない状況を無意識に作り出してしまっていることを、少し心苦しく思うようになった。
それでも、きっとこれからも私は友人や知人に「元気?」と尋ねてしまうこともあると思うけれど、そこには「元気だよね?」という、無遠慮に相手にポジティブさを期待してしまうような圧力ではなくて、「私はなんとか大丈夫だけど、いつも元気なわけじゃないよ。あなたも元気がなくても大丈夫じゃなくてもいいんだよ。」という気持ちを最大限に込めて、伝えるようにしたいと思う。
そして、私が元気を取り戻すためには、今の仕事や職場から離れて、もっと自分自身が納得出来る、自分の心と自分の今いる場所が乖離していないところへ行くしかないのだということが分かりきっているので、30歳を迎える今年の夏までに、次の場所へ向かって踏み出していきたいと思っている。
それは何も最近急に思い立ったことではなく、この3年くらいずっと考え続けて、もう今の場所には何の未練も後悔もないと思った末のことなので、なんとか強い気持ちを総動員して頑張りたい。
今まで年明けにこんなことを思ったことは一度もなかったのに、今年はなんだか「あけましておめでとう」と自分から積極的に言いたくないような気分だった。私の中ではまだ、2020年からの日々や状況が地続きで繋がっている状態だからなのかもしれない。
だから1日も早く、新しい年を晴れやかに迎えられるような一歩を、自分の足で踏み出していきたいと思う。
2021年は引き続き、心の赴くままにいろいろなことへの学びを深めつつ、言いたいことはちゃんと言葉にして、言いたくないことは無理に口にせず、小さくても常に光を見つけながら、考えることを止めずに進んで行けますように。
2021.01.02
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emily-et-tommy · 4 years
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たぶん、今の私は今までの人生で一番と言っていいくらいに弱っている気がする。
ずっと心身に負荷をかけ続けて、無理してだましだましやってきた仕事も、コロナで一度1-2ヶ月休んでから戻ってきたら、もう前と同じようには無理して頑張れなくなってしまった。
転職も含め、少し先の未来に光が見えにくい、今の世の中の状況からくる影響も、とても大きいと思う。
自分には何が出来るのか、何がしたいのか、どうやって生きていくのが一番いいのか、どれも簡単に答えを出すことは出来なくて、しかも重い心と上手く働かない頭を引きずりながら、性格的に自分に負荷のかかる仕事をこなしながら日々を過ごしているから、前みたいに深く考える気力や体力がなくなってしまっていて、なかなか展望が見えてこないことも苦しい。
ここ数年で少しずついろいろなことを学び、いろいろなことを知るようになってから、世の中や日常の中で気づくことがとても増えて、その分傷ついたり違和感を感じて苦しく思ったり、絶望的に感じたりすることも多くなった。
数年前より、格段に繊細で敏感になって、生きづらくなったと思う。
でも、今私が好きでいる人やもの、考えたり学んだりしている/したいと思っている物事、出会うことが出来た友人たちは本当に大切で、そのすべてに自分自身を導くことが出来たのは、紛れもなく私自身であり、私の言葉や考えやこれまでの生き方のおかげだから、今の自分を否定したり悲観しすぎることはしたくない。
友人も、もう少し遠い世界の眩しい人たちも含めて、彼女たちに出会えたことの幸福を、改めて噛みしめることが最近は多い。
カネコアヤノちゃんの「燦々」の歌詞が、
これまで以上に染みる。
“しっかりとした気持ちでいたい
自ら選んだ人と友達になって
穏やかじゃなくていい毎日は
屋根の色は自分で決める
美しいから ぼくらは”
一日も早く、「しっかりとした気持ち」を取り戻したいし、それまでなるべく自分のことを嫌いにならないでいられるように、毎日少しずつでも自分が本当にしたいこと、を実行できるようにしていきたい。
自分で自分に納得できる生き方を、早く見つけられるといいな。
もうそろそろ、世の中も自分自身も、光が見えないままでいるのはいい加減うんざりだ。
2020.10.10
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emily-et-tommy · 4 years
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本当に久しぶりに、生きててよかったな、と心の底から思えた夜だった。
眩しくて力強い太陽の光に、真正面からずっと心も身体も射抜かれ続けているかのような存在と歌声。
今日もアヤノちゃんが見せてくれる世界は美しくて神秘的でエネルギーの漲る宇宙みたいだったし、アヤノちゃんはほとんど神様みたいだった。
最初から最後まで、一つ残らずすべてがあまりにも素晴らしかったけれど、今日の「明け方」は特別だった気がする。
私も、周りの人たちも、みんな泣いていた。
今日感じたたくさんのことを、出来るだけずっと、忘れないでいたい。
そして、今日みたいに思える日を、一日でも多く取り戻していきたい。
“不安なまま朝を迎えてしまった
だからギターを弾くしかないんだ
君が例えば知らないところで
誰にどんな喋り方をしてるとか
言わなくていいこと たくさんあるね
笑い飛ばしてくれよ くだらない夢の話
君の隠したい秘密をひとつ知るより
今より上手に笑えるようになりたいだけだ
派手なドレス ダイヤと穴開きGパン
好きな時に身に着けなよ 勝手だよ
私は怒る すぐに 忘れちゃいけない
すぐに怒る 悲しいからこそ
言わなくていいこと たくさんあるね
顔を上げてくれよ 慣れてきた毎日も
必ずいつか終わるのさ
それならもっとふざけていてよ
上手に笑えるようになんてなるな”
カネコアヤノ「明け方」
2020.10.02
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emily-et-tommy · 4 years
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なんだか元気が出ないな、と思って日々を過ごすようになってから、一ヶ月以上が過ぎた。別に起き上がれないほど元気がないというわけでもなく、仕事には一日も休まず行っているし、ご飯ももりもり食べているし、休日はダンスのレッスンに行ったり友人に会ったりしているし、これまでと変わらず大体少し夜更かししてからぐっすり眠っている。
でも、常に頭も心も、不安や憂鬱や自信のなさみたいなものがうっすらと覆いかぶさっているようで、なんだか前よりもうまく話すことが出来なくなっている気がしている。伝えたいことが上手く言葉にならない、相手に伝わっていないと感じるもどかしさ。それを実感すればするほど、心も頭も焦って余計に思考はまとまらず、言葉が出てこなくなる。人と話すことが、億劫になってくる。
元気がないなあ、と思うことにも飽きて嫌気が差してきたのに、すぐにここから抜け出す方法がわからなくて苦しい。
世の中を見ていても、テレビやSNSの中を見ていても、気分が暗く重くなるような、ここは地獄なのか?と思うような出来事が毎日のように起こっていて、こんな状況の中で、むしろ明るく元気でいられるほうが普通じゃないのでは?とさえ思えてくる。
私だけじゃなく、世の中全体がぼんやりとした閉塞感に覆われている。
最近は、物語から光をもらうことでなんとかやり過ごし、どうにかして学びと思考を止めないでいることによって、自分の心を保っている。
いつになったら、この閉塞感から自由になることが出来るかな。
今日は、出産を控えて最近ずっと心身共に元気のなかった友人から、少しだけ元気になったらしいとわかる連絡がきて、そのことがとてもうれしかった。
毎日一つずつでも、楽しいことやうれしいこと、光を感じられる出来事が、少しずつ増えていったらいいな。
今の私に書けることは、これくらいしかない。
2020.09.15
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emily-et-tommy · 4 years
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今日からまた仕事が始まった。私は油断をするとすぐに夜更かしをして生活リズムが乱れてしまう怠惰な人間だけれど(でもそのことで自己嫌悪にも陥る中��半端な生真面目さよ)、昨夜はちゃんと0時半に寝て、今朝は7時半に起きたので上出来だった。身体は重いし、肌荒れは今年に入って一番と言っていいくらいにひどいし、どういうわけか左肘の関節の調子が悪いけれど、ここ数日毎晩シャワーを浴びた後、リビングで少しだけ本を読んだり、届いたばかりのアヤノちゃんのライブ音源を聴くのが日課になっていて、その時間がとても穏やかで心地いい。
 今月の頭くらいから、急に大好きだったアンジュルムやあやちょの活動を追うことが少し苦しくなってしまって、最近はあまり追いかけられていない。チケットを取っていたあやちょのライブに行かないことに決めたことと、その代わりに観ることにしたライブ配信を自分の不注意で見逃してしまったことが、未だに静かに堪えている。ブログにコメントをすることも出来なくなってしまった。好きな気持ちも眩しく思う気持ちも少しも変わらないのに、今は自分自身がしっかりと自分の足で立てていないように感じることが、何かに熱中することや、何かの光をまっすぐに受け取ることを妨げている。
 好きなものや人に触れること、好きでいることが、自分の人生から目を背ける口実や結果になってしまうのはすごく嫌だし苦しいから。
 今は、今の仕事をこれ以上続けるモチベーションや向上心がもうほとんど無くなってしまったことを日々痛感しながら、自分がこの先やりたいこと、やるべきこと、やれること、が一時的にわからなくなってしまったりしていて、そのことですごく精神的に不安定になっていて、無為に時間を過ごしてしまうことも多い。
これまで、常に何かしらに対しての熱量に突き動かされて生きてきたから、一時的にでもその光源のようなものが自分の中に失われてしまうことは、ものすごく不安で心許ない。
それでも、やりたくないと思いながら毎日とりあえず仕事をして、でもそれ以外のことにもあまり身が入らないまま20代最後の一年を過ごして行くなんて絶対に嫌だから、読書でも筋トレでも文章を書くことでも、とにかく自分が進んでいきたい方向に少しでも近付くと思えることを、毎日ほんの少しずつでもやっていこうと思う。
損なわれた自信や光は、自分の手で毎日少しずつ積み重ねて取り戻して行くしかないから。
何かを書きたいとか言葉にしたいという気持ちも最近は失いかけていたけれど、昨日は久々に、私のZINEを読んでくださった方から感想を頂いて、とてもうれしかったしものすごく救われた。
これからもずっと、何かに触れて学んで考えて、そしてそれを言葉にしたいという気持ちを出来る限り忘れないで生きていきたいし、そう生きていけたらいいなと思う。
明日は去年亡くなったじいちゃんの誕生日。そして待ちに待ったアンジュルムの新曲の発売日。
2020.08.25
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emily-et-tommy · 4 years
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明日は自分の人生の中でも一つの大きな節目になる日なので、前日の今のことを日記として書きつけておく。
今日は明日役所に書類を出すための署名をもらいに、彼の兄夫婦の家を訪れた。そこで、トイプードルのデュークの誕生日が偶然にも今日だと知る。なんだかうれしい。少し俯きがち(なわけではないのだろうけど)に時々宙を見つめているなんとも言えないとぼけた感じと哀愁のあるまなざしと佇まいが、ちょっと可笑しくて愛らしくて好きだなと思った。
こんなご時世なので早々にお暇して、夕飯は時々注文するいつもと同じデリバリーのお寿司。昨日からハマっている梅塩昆布キャベツを今日も作る。本当にいくらでも食べられると思う。いちおうお祝いの前夜祭なので、今日は私も彼に付き合って一杯飲むことにした。元々お酒はそんなに必要じゃなかったけど、今は本当に要らなくなってしまったなと感じる。飲むとしても、一杯あれば十分。
夕飯の後、彼は何だか疲れてしまったようで、早々に寝てしまった。私は洗い物を済ませ、シャワーを浴びて、昨日届いたばかりのカネコアヤノちゃんのライブ音源を聴きながら、とても久しぶりに、もう廃盤になってしまったshiroの陶器の釉薬みたいな藍色のネイルを塗った。急遽明日見に行くことにした、mameの新作がよく映えそうな色だ、と思う。この色が廃盤になってしまったことは、今でもすごく残念に思う。
塗り終わってから読書をしたい気持ちになって、読みかけの朝吹真理子さんのエッセイ集を開き、何篇か読む。朝吹真理子さんは、文体も、内容も、本の装丁も、趣味嗜好も、そして名前までもが、本当に素晴らしくて敵わないな、と改めて思わされる。どういう言葉が適切なのかわからないけれど、彼女の文体や彼女の生み出すものからは、mameの洋服やシーズンビジュアルを見た時に感じるような、漂い、漏れ出し、匂い立つような美しさのようなものを感じる。彼女たちが仲の良い友人同士であることも肯ける。
(以前、朝吹さんがmameのことについて書いていた文章は、どこで読めるのだろう。)
「感性」や「センス」というと陳腐になってしまうかもしれないけれど、朝吹さんはそれが誰よりも深く美しく研ぎ澄まされているように感じる。物語やエッセイで扱われているテーマも好きだ。
『抽斗のなかの海』の装丁や内容の印象と、先日石田真澄ちゃんから買った窓辺の写真のブックマークがとてもよく合うのがうれしくて、本自体にも紐の栞が付いているのに、それは使わずにそっちを使う。
午前1時過ぎ、もう眠たくて書けないのでここまでにする。
2020.08.22
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emily-et-tommy · 4 years
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夢と希望である 「アンジュルム」と 「和田彩花」という  存在について
***
wezzyで『アイドル保健体育』についての記事が掲載されたので、私が2020年にZINE『towards the light』を出した時にはじめて好きなアイドルについて書いた文章でもあり、フェミニズムとアイドルは両立できるんだ…!と、その存在と出会いに感嘆した、アンジュルムと和田彩花さんについてのエッセイを公開することにしました。
(当時想いと熱量がほとばしるままに書いたものなので、少し読みづらい部分もあるかもしれませんが、あしからず……)
2022.06.24
***
 去年の夏前ごろから、私はハロー!プロジェクトの「アンジュルム」というアイドルグループに、そして「和田彩花」という一人のアイドルに、まさに光のごとき速さと底なし沼のごとき深さで心を奪われ続けている。まさか28歳にもなって、再びアイドルをこんなにも好きになる日が来るだなんて、夢にも思っていなかったのに。  ちょっと長くなりそうですが、(少なくとも私にとっては)とても大事なことなので思う存分書かせてもらいます。
 今から15-20年前の小学生の頃、私は他の多くの女の子たちと同じように、モーニング娘。とあややの大ファンだった。元々歌と踊りが大好きだったこともあって、心から楽しそうでかっこよくてかわいいくてキラキラ輝いている彼女たちの姿は、幼い私の憧れだった。ファンクラブに入って母と一緒にコンサートにも何度も足を運んだり、録画した歌番組のビデオテープを何度も何度も巻き戻して振りを完コピするのはもちろん、好きと憧れが高じてジャズダンスを習い始めたり、実はハロプロキッズオーディションまで受けていたくらいに(一次審査であっさり落ちてしまったのだけれど)。
 それくらい、子供の頃からどっぷりハマりやすいオタク体質な私だったけれど、歳を重ねて他に好きなアーティストや女優、モデルさんが現れていくうちに、いつしかアイドルからはすっかり心が離れてしまっていた。  特に、AKB以降の日本のアイドル独特の「男性のまなざしを意識した」「かわいらしい」曲調やパフォーマンス、ルックスに共感出来なかったから、という理由も大きかった。
 前ページに載せた「美少女が好き」をテーマにした文章にも書いた通り、子供の頃から28歳になった現在まで、私は女性の芸能人ばかりをずっと眩しく見つめて生きてきたような人間だ。けれども25歳を過ぎてフェミニズムについて学ぶようになってから、世の中の「女の子」を消費するまなざしや態度に気がついてしまい、それまでのようにただ純粋な気持ちで10代や20代の女の子たちを好きでいることが出来なくなってしまった。
 そんな中で、アンジュルムを知り好きになるきっかけを作ってくれたのは、女優の蒼井優さんと菊池亜希子さんがW編集長を務めたアイドル本『アンジュルムック』だった。私は10代の頃から蒼井優さんの大ファンだったし、菊池亜希子さんの『マッシュ』(彼女が編集長を務めるファッション・カルチャーマガジン)も愛読していたので、2人の感性やセンスには大きな信頼を置いていた。だから「あの2人がそれだけ好きで愛情を注いで作った本なのだから素晴らしいに違いない!」と、どちらかといえばアンジュルムというグループそのものよリも、2人が編集するアイドル本の内容に興味を惹かれて手に取った、という感覚に近かった。
 読み始めてまず一番に感嘆したのは、「あの子のチャームポイント」という企画だ。12人のメンバー一人一人のルックスの自然な魅力を最大限引き出すような写真に対して、本人も含む12人全員がそれぞれのメンバーのチャームポイントを挙げていく、という内容のあまりの素晴らしさに、私は衝撃を受けた。こんなふうに一人一人、全員のルックスについてそれぞれが思うチャームポイントを目に見える形で言葉にして挙げていくだなんていうことは、未だかつてどこでも見たことがなかったから。  よくよく考えてみればとても当たり前のことであるはずなのに、12人それぞれが持つ個性溢れる容姿の魅力を、こうやって一つ一つ言葉にして表すことによって改めて際立たせられる「女の子は一人一人みんな違った魅力やかわいさを持っているんだ」という事実に、私は心の底から感動してしまった。
 そして、もう一つ完全に心を掴まれてしまったのは「あやちょの部屋」というリーダーの和田彩花さんがメンバー全員と一対一で対談したものを文章化したページだ。5万字近いというその対談の中には、私がそれまで抱いてきたアイドル像や「女の子が消費されること」を心配する思いを軽やかに力強くはねのけてくれるような、強い意志や自覚、誇りを持ってアイドルを全力で楽しみながら生きている彼女たちの想いと言葉で溢れていた。
それからすぐにYouTubeでMVやライブ映像を漁り始めたら、元来オタク体質な私が深いアンジュルム沼にはまっていくのは、あまりにも容易いことだった。  彼女たちのライブでのパフォーマンスはまるで閃光のように強く眩しくて、目が醒めるような衝撃だった。写真の中で見る彼女たちも十分美しくてかわいらしかったけれど、ステージに立っている時の神々しいまでの美しさや強さ、溢れ出す魅力は、明らかに桁違いだった。
 激しくしなやかなダンスに、鳥肌が立つような信じられない声量と耳を疑う美しく力強い歌声、曲や歌詞の世界観とリンクした魅惑的な表情、異性に対する媚びや守ってあげたくなるようなか弱さを微塵も感じさせない、圧倒的強さや美しさと戦闘力の高さ。踊ることや歌うことを心と身体の底から全身で楽しんでいるという、どこまでもまっすぐで明るいエネルギー。一人一人がみんな違って、それぞれの個性と魅力を最大限に発揮するような魅せ方。かっこよくてスタイリッシュでメッセージ性の強い、楽曲や歌詞の内容。お洒落かつ最高に戦闘力の高そうな衣装やヘアメイク。ステージ上での美しさや格好良さからは想像もつかないような、全力で笑いに振り切る潔さや一点の曇りもないような天真爛漫さとのギャップ。どのグループよりも強いグループ愛とメンバー愛。年齢の若さを感じさせないほど圧倒的なパフォーマンスの完成度とプロ意識の高さ。ブログの文章やライブのMCから伝わってくる「魂が美しいな」と思わされてしまうような人柄や性格。
 どこを切り取っても、アンジュルムには私が好きになる要素しか見当たらなくて、年甲斐もなく堕ちるように彼女たちの存在にのめり込んでいく自分に、思わず頭を抱えてしまうほどだ。平均年齢が10歳近くも離れている、自分よりもずっと歳下の女の子たちだけれど、彼女たちには溢れんばかりの愛おしさと眩しさ、純粋な尊敬の念しか抱けない。
 何よりも、彼女たちの強さや美しさやかっこよさやかわいさは、並外れた努力と練習と経験に裏打ちされたものだという事実に、とてつもなく胸を打たれる。一般的に、女性アイドルは「かわいさ」というルックスやイメージで評価されがちなところがあるし、応援している中で、私たちファンが勝手に理想を押し付けてはいけないな、とか、そんなに無理しないでほしいな、なんて思わず心配してしまうこともある。でも彼女たちの輝きは、彼女たちを築き上げているものは、そんな簡単に壊れるわけがないのだと、ライブでの姿や練習風景を観るたびに、頭をガツンと殴られるようにして思い知らされる。 「情熱なめんじゃねえ!」と歌っている彼女たちの言葉やパフォーマンスには、積み重ねられた努力や経験の厚みや重みと、魂がこもっている。
 以前蒼井優さんがテレビのインタビューで「全国民がアンジュルムを好きになればいいのに」とこぼした言葉に、今なら首がもげそうなほど全力で頷いてしまう。 もはやどうして全国民が好きにならないのか、もっと世間の目に広く触れられ正当に評価されていないのか、全く意味がわからない!と思うほどに。
 こんなふうに、彼女たちは何も知らなくてもそのステージでのパフォーマンスを一目見るだけで見る人の心を強く惹きつけてしまうし、「アイドルってなんだっけ…?」と思わず疑問を抱かずにはいられないほど、「アイドル」の既成概念を壊してくれるような唯一無二の強さや魅力を持っている。
 けれども私がこんなにもアンジュルムのことを好きになることが出来た一番大きな理由の一つは、初期メンバーで元リーダーの和田彩花さんの存在だった。 私は彼女のことを「アイドル界と全女の子の希望」だと勝手に思っている。
 実は、私がアンジュルム、そして和田さんのことを知ったのは、奇しくも彼女がグループを卒業する2日前、去年の6月16日のことだった。その日、私は前々から気になっていたアンジュルムックを手に入れ、その時初めてメンバーの顔と名前を知り、そして対談の中で触れた和田さんの言葉や思想に、強く惹きつけられた。直接的な言葉は何一つ使われていなかったけれど、フェミニズムを知り日々あれこれ考えていた私には、彼女がフェミニズム的な思想を持っている女性だということは、すぐにわかった。「こんな考え方を持った女性が、日本のアイドル界にいただなんて…!」となんだか信じられないような気持ちで感嘆した。
 そんな、ある意味運命的なタイミングだったものの、私は2日後の和田さんの卒業コンサートの日からちょうど仕事で長期の海外出張に行かなければならず、どう頑張っても卒業ライブを観に行くことは物理的に不可能だった。後に発売された卒業コンサートの映像で観た彼女の姿は、一瞬一瞬、一挙手一投足、言葉や歌声の一つ一つがあまりにも神々しくて美しく、そしてどこまでも愛と思慮深さに溢れた女神のようで、これはきっと、アイドル界(と言わずにもはや人類)の歴史に残るような伝説のライブだったのではないかと、呆然とテレビの画面を見つめながら思った。  仕方がないことではあるけれど、アイドルグループ・アンジュルムのメンバーとしてステージ上で輝く和田彩花さんの姿を一度も自分の目で直接見ることが叶わなかったことを、たまらなく悔しく、残念に思った。
 もっと早く出会えていれば、と思う気持ちは今でももちろんある。それでも幸か不幸か、彼女がグループを卒業するタイミングで出会ったからこそ、私は彼女が「アンジュルムのリーダー」ではなく「和田彩花」として心からやりたい、表現したいと思っている想いや言葉に次々に触れることが出来た。そして、彼女が考え言葉にしてくれることの素晴らしさや大切さを、これ以上ないほどにひしひしと実感し理解することの出来る(10代や20代前半の頃ではない)今の私だからこそ、こんなにも彼女の存在や表現に惹かれ、希望に感じることが出来ているのだろうな、とも思っている。
彼女の誕生日である去年の8月1日に「和田彩花」としての個人での活動をスタートさせた際に公式HPに載せられた言葉(*1)に、私は強く胸を打たれた。「女性アイドル」という、この国での「女の子はこうあるべき」という姿やイメージが一番凝縮され、象徴化されたような存在でありながら、このようなメッセージを世の中に発信してくれることの素晴らしさとその勇気に、少し信じられないような気持ちですらあった。
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*1: 和田彩花オフィシャルウェブサイトより
http://wadaayaka.com/
 和田さんは、趣味でもある美術(主に西洋絵画)に出会い、大学や大学院で美術史を学ぶことを通してより広い世界を知ると共に、それまでのアイドル活動の中で感じてきた様々な違和感の正体を理解し言葉で表現出来るようになったと、雑誌『クイック・ジャパン』でのエッセイの連載や、様々な媒体のインタビューなどで語っている。「アイドルだから」という理由で、メイクの色や衣装、表現の内容を制限されてしまったり、もっとこうした方が楽曲のテイストやメンバーの個性に合うはずと意見を言っても「そうしない方がアイドルらしい(男性に違和感を与えない)から」と自分の意思を持ち表現することすら許されなかったりすること。彼女は約10年に渡るアイドル活動の中で、そういったことに「自分がなぜ違和感を感じるのか、どうして誰もその違和感の答えを知らないのか」が次第にわかるようになり、「それを理解していくたびに、アイドルの世界に自分の意思を持つことの必要性を感じ」るようになった。だから「アイドルと女の在り方の接点を探り、アイドルの解釈の幅を広げていきたい」と、グループを卒業しソロでアイドルとして活動することを選んだのだという。(*2)
*2 和田彩花 「連載 未来を始める 第1回 軽��心持ちと足取りで」『クイック・ジャパン』vol.146 2019年10月29日発行 太田出版 p.110
 和田さんの言葉や思想は一見メッセージ性が強いけれど、それを決して誰かに押し付けたりすることはなく、彼女の中で長い間丁寧に考え抜かれた想いを、軽やかな言葉と気持ちで穏やかに、真っ直ぐに伝えてくれているという印象が常にあって、いつも読むたび彼女の想いに共感するとともに、心が優しく解かれていくような感覚になる。「人はみんな違う」ということをアンジュルムを通して深く知った(『アンジュルムック』p.86参照)、今あるものを否定するのではなく、誰かの解釈の幅を拡げるきっかけを作っていきたいと考える彼女だからこその表現の仕方であり、伝わり方なのだろうな、と思う。
 特にこの半年ほどは、なるべく今の彼女が表現するものを見逃したくないという想いが強くあって、公式YouTubeにUPされる彼女が作詞を手掛けた楽曲や、WEBで公開されるインタビュー、雑誌での連載などを極力追いかけてきた。そして今年に入って、ついにfaniconという、月会費制のコアなファンたちが集まる公式のファンコミュニティーにも入会したのだけれど、そこで私は、また新たに驚くことになる。
 そのコミュニティーには男性ファンも女性ファンもいるのだが、メジャーアイドル界の第一線で長年活躍してきた彼女だから、当然男性のファンが多い。そんな中でも、和田さんは音楽や美術や花についての話と同じように、コロナや働き方などについての社会的な話、さらにはフェミニズムの話や生理の話、低容量ピルの話など、普通ならなかなか男性がいる場では話しにくいと思ってしまうような話題を当たり前のように私たちに投げかける。そして、それを受け取るファンの方たちも、男女問わず、とても誠実に彼女の言葉やその内容について考え、丁寧にコメントを返し、彼女と一緒に議論や思考を深めていく。  アイドルとファンという関係性の間にこんな空間が成り立ってしまうことに、私は感動するとともに心底驚いた。純粋に、なんてすごいことなのだろう、と思っている。
 これまで、私はSNS上やそこで出会った友人たちと一緒にフェミニズムのことについてあれこれ考え話してきたけれど、そこにはほとんどと言っていいほど男性の存在はなかったし、集まる人たちも、元々フェミニズムや社会的なことに少なからず興味がある人たちに限られていた。だから、どんなにその中で女性を取り巻く問題について話しても、それが届く場所はどうしても限定的になりがちだった。ましてや「女性アイドルの男性ファン」なんて、本来ならば一番そこから遠い場所にいる人々のはずだ。でも和田さんは、普通のフェミニストがどんなに頑張ってもなかなか届かせることが難しい、本来なら完全に分断されがちな異なるコミュニティーに属する人々のもとへ軽やかにその思想を届ける架け橋になることが出来る、とても稀有な存在なのだ。
 アンジュルムのファンの方がこの文章を読んでいたら薄々気づいているかもしれないが、私はステージに立っている時のあまりの神々しさと、彼女の活動や表現に対する尊敬の念の強さから、彼女のことを「あやちょ(アンジュルム時代の愛称)」と呼ぶことが出来ずに「和田さん」と呼んでしまう。でも彼女はいつも「神格化しないでほしい」「同じ人間だから」と私たちファンと同じ場所、同じ目線に立っているのだということを、歌詞の中でも、ファンコミュニティー内での会話でも、繰り返し言葉にして伝えてくれている。ラジオや配信などで話している姿を見たり聴いたりする機会が増えてからは、とても軽やかで天真爛漫でチャーミングな彼女の話し方や振る舞いを、良い意味で「かわいいな」と感じて親近感を抱いたり、眩しい存在でありながらもどこか心の距離の近い友人のように思える瞬間がたくさんあって、そのことにもとても救われている。
 最後に話をまたアンジュルムに戻すと、私にとってはやはり自分に年齢が近いこともあって、和田さんや勝田里奈さん(2期メンバー・2019年9月にグループを卒業)がいた頃のアンジュルムが体現していたアイドル像が、自分の中での一つの理想になっている。特に卒業前の1年間ほどの彼女たちは、パフォーマンスもルックスもとことん大人っぽくて美しくてかっこよく、そして彼女たちらしい魅力や個性に溢れていた。若い時のフレッシュでかわいらしい良さももちろんあるけれど、それ以上に年齢や経験を重ねた先に一番大成する、完成された魅力があることを体現し確信させてくれることが、とても素晴らしいと感じていたし、28歳の女性として純粋にうれしくもあった。
 元々は曲調や歌詞の内容、メンバーの個性に関係なく「アイドルらしい」ヘアメイクや衣装に身を包んでいたかつてのアンジュルムを、和田さんや勝田さんのような自分の意思をしっかり持ったお姉さんたちが少しずつ働きかけて(勝田さんはアイドル活動のかたわら文化学園短大に通ってファッションを学び、ファッション誌で連載を持ったり、メンバー一人一人のライブの衣装をスタイリングしたり、アイドルらしからぬモードなヘアメイクでステージに立ったりしていた。卒業後もファッションの道で活躍中。)、今の一人一人のメンバーの魅力を最大限に生かすような、より多くの同性のファンからも憧れられるような姿へと導いたことは、きっと他の女性アイドルたちにとっても大きな希望だ。
 和田さんの卒業以降、アンジュルムはメンバーの卒業や加入が立て続けに発表され、今も現在進行形で変わり続けている。さっき、私の中での一つの理想形は和田さんや勝田さんがいた頃だったと言ったけれど、その時はその時として、いつでもアンジュルムは常に進化しながら、別の在り方で最高を更新し続けている。だから不思議と、いつでも今が一番好きでいられるのだ。 それはきっと、絶対的なセンターが存在しない、メンバー全員が主役であり、代わりのきかない唯一無二の魅力と実力を持った女の子たちの集団であるアンジュルムだからこそ、可能であること。 この先も、アンジュルムは体制もアイドル像も含め、まだまだ間違いなく変化し続けるはずだけれど、過去の姿やこちらの描く理想像に囚われるのではなく、彼女たちが「今はこれが一番」と信じて体現している姿を、これからもずっと一番最高だと思って応援していけたらとても幸せだし、素晴らしいなと思っている。
 子供の頃アイドルに憧れていた私が、15年以上の時を経て再びアイドルに出会い、そして大人になった今でも、純粋に彼女たちのことを最高に魅力的でかっこよくて尊敬出来ると、アイドルになりたかったのは私が子供だったからではないのだと、そんなふうに思わせてくれる存在に出会えたことは、なんてとびきりに素晴らしいことだろう。
 日本のアイドルを取り巻く環境は、働き方や世間からのまなざし、アイドル特有のルールなども含めて、まだまだとても手放しで賞賛出来るものではないし、知れば知るほど違和感を感じたり、苦しくなるような部分もたくさんある。だからこそ、彼女たちの素晴らしさや、彼女たちから受け取っている光の計り知れない大きさを知ってしまった私は、これからも常に考えることをやめずに、出来るだけ真摯に誠実に、彼女たちを少しでも消費しない在り方で応援していきたい。
 私はきっと、稀に見る重すぎるオタクなのかもしれない。それでも彼女たちの努力の重みや存在の眩しさにふさわしくあるために、私はこれからも、正々堂々重すぎるオタクの道を貫いていくつもりだ。 彼女たちが表舞台に立ち、私たちファンの前でアイドルとしての姿を見せてくれていることの奇跡に、常に感謝し続けながら。
ZINE『towards the light』 issue 1
every kind of thoughts about “girls” より
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emily-et-tommy · 4 years
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ZINE『towards the light』の発売と購入方法について
私、エミリー がはじめて制作したZINE『toward the light』を、本日5月14日(木)より販売致します。
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towards the light issue 1
every kinds of thought about ”girls”
フルカラー・文章と写真の全49ページ
価格: 1,000円(+送料250円)
限定200部(シリアルナンバー入り)
購入方法:
購入希望の方は、「送付先住所・氏名」を明記の上、購入希望の旨を下記メールアドレス宛にお送りください。詳細は返信にて追ってご連絡させて頂きます。
(※今後、イベントでの販売や書店への委託販売なども考えておりますが、昨今���状況もあり、当面はこの方法のみでの販売予定です。)
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ZINEのタイトルは、「みんなで一緒に明るい方へ進んでいけますように」という願いを込めて『towards the light(光の方へ)』と名付けました。
第一号のテーマは「“女の子”に纏わるすべてのこと」。
これまで、「女の子」として生まれ育ち、「女の子」ばかりをずっと眩しく見つめて生き、そしてフェミニズムを学び大切に思うようになった私だからこそ、言葉にして誰かに伝えたい、と思っている日々考えてきたことを、ぎゅっと詰めこんだ一冊になっています。
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「女の子」や「フェミニズム」、「かわいい」、「アイドル」、という言葉や概念や存在について、読む方に少しでも新たな気づきや拡がりや光をもたらすようなものになったらいいなと思いながら、自分なりにたくさんの想いや熱量を込めて作りました。
「女の子」と題していますが、女性だけでなく、性別や年齢問わず、いろいろな方に読んで頂けたらとてもうれしいです。
【CONTENTS】
-towards the light 少しでも明るい方へ進んでいくために
-「女の子」に纏わるすべてのこと
-私とフェミニズム、私のフェミニズム。
-恋愛より熱く、眩しく、美少女に恋して
-「かわいい」の呪縛から自由になるために
-私のまなざしが捉える、あの子のかわいくて愛おしい瞬間
-夢と希望である「アンジュルム」と「和田彩花」という存在について
-繋がる!拡がる!おすすめブックリスト
-afterword おわりに
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emily-et-tommy · 4 years
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わたしがわたしであることの光
心に余裕がない時は、他の人の書いた言葉を読むことが全然出来なかった。それは、自分も書きたいのに思うように書けていないことの苦しさや嫉妬が自分の中にあったからかもしれない。誰かの素敵な言葉や文章を読むことはいつだって最高にすばらしいけれど、時々、少し苦しい。
1週間ほど前にようやくZINEを書き上げたら、随分と心の持ちようも変わったように思う。
また、いろいろな本を読んだり、誰かの言葉に触れたいと素直に思えるようになった。
でも、自分の表現したいものを一旦形にし終えてから改めて他の誰かの言葉や文章を読むと、優しくて豊かで思慮深くて機知に富んだ、愛や才能に満ちた言葉たちとその背景にあるその人の思想に、深く感動しながらもちょっぴり絶望する。こんな素敵な文章、私には絶対書けないなって。
言葉や表現には、その人の人間性や経験や人生や才能がすべて詰まっているから。��う頑張ったって、素晴らしいと思う誰かの言葉や文章は、私に書けるものではない。
私は基本的に自分にあまり自信がない人間だから、すぐに自分にはないものを見つけて落胆し、自分の知らないことの多さに絶望する。
でも、私が考えることも私が言葉にすることも、それはそれで、きっと他の誰にも出来ない私だけのものであるはずだから。
誰にとっても自分の言葉や想いは自分だけのものであることの光を、ずっと忘れずにいたい。
ここ数日は、そんなことをずっと考えている。
2020.05.04
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emily-et-tommy · 4 years
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愛おしく大切な ささやかな笑顔
去年の夏、北海道旅行へ行った私たちは、旅への楽しくてワクワクした気持ちの裏側に、実はひっそりと、それぞれが今や未来に対するいろいろな不安や問題を抱えていた。
夜は早く眠り、朝早く起きて荷物を纏めレンタカーで道を行きながら、野生の鹿や鶴、広い大地に放牧された牛たちと出会ったり、まるで異世界に繋がっているかのような神秘的な大湿原や湖を眺めたり、色とりどりの美しい絨毯のような花畑の中をのんびり歩いたり、味も見た目も豊かな美味しい食べ物をたくさん食べたり。そんな日々を過ごして行く中で、気づけば普段社会の中で生きるために纏った心の鎧が一枚一枚剥がされて、とてもいきものらしい、純粋な「わたし」に戻っていくような感覚に陥った。
1週間弱の旅の間、私たちは常に各々が自分の心の赴くまま、思い思いに過ごしていた。車の中、レストランやカフェ、ホテルの部屋でも、静かに食べることに集中したり、持ってきた小説や楽譜を読んだり、キラキラしたおもちゃで夢中になって遊んだり。話したい時に話し、特に話したくない時は無理して言葉を発しない。気を使って場を盛り上げようとしたり、心配させまいと元気を出そうとも、安易な言葉で誰かを元気付けようともしない。
けれども私たちは旅の間ずっと、どんな時でも自分がありのままの心の状態でいられる、それを互いにそっと受け容れ合うことができる安心感や穏やかさに、ひたひたと満たされていた。そのことに、どれほど心を救われたことか。
ふと、ある食べ物を口に入れた時、それまで静かに佇んでいたあの子の目がはっとしたように見開かれたかと思うと、「おいしい…」ととても幸せそうな顔で穏やかに微笑んだ。その瞬間、私はその笑顔がなんて愛おしく大切なものだろうと思ったし、これからもそんなささやかで穏やかな微笑みや幸せを守っていきたい、いつまでもそれを感じとり、大切に思うことのできる自分でいたい、と強く思った。
この旅の写真には、わかりやすい「笑顔」のものはほとんど1枚もない。
でも、この一連の写真たちの中に漂っている穏やかであたたかな空気を目にする度、私は写真の中の私たちと同じように、自然と微笑んでしまう。
太陽みたいにニコッと笑った笑顔ももちろん眩しくて大切だけれど、私たちはいつでも誰でもそんな風に笑えるわけじゃないし、そうする必要だってない。
美味しいご飯を食べたり、心が澄むような美しい景色を見たり、誰かと話をして少しでもわかり合えて「ああ居心地がいいな」と感じた時のふふっと思わず漏れてしまうような微笑み。それが私にとってはたまらなく大切であり、心底愛おしいのだ。
(She is & FRISKWHITEの#SmileWith展用に書かせていただいた文章のロングバージョンです。)
https://sheishere.jp/lp/friskwhite/smilewith/emily/
2020.05.02
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emily-et-tommy · 4 years
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できることなら誰も傷つけたくはない
もう4月も終わってしまう。
今年の春は、私にとっても世の中の多くの人たちにとっても、きっとこれまでもこれからも二度と来ないような、忘れられない春になるのだろうな、と思う。
個人的に、私は「もう一生完成出来ないんじゃないか」とすら思っていたはじめてのZINEを、完成させることが出来てしまった。作りたい気持ちだけが随分前からずっとあって、口にも出していたのに全然行動に移せないことが、自分の意志の弱さの表れのようで本当にずっと苦しかったけれど、こんなふうに、まるで青天の霹靂のようにタイミングがやってくることってあるのだな、と自分でも驚いている。
これまで、仕事の忙しさとプレッシャーで心も身体も生活も常にギリギリで、SNSで言葉をアウトプットすることでうまくバランスをとっていたような感じだったから、半ば強制的に仕事が休みになって、まさか自分のやりたかったことと自分の生活に集中出来る日が訪れるだなんて、夢にも思っていなかった。
でも、今回のコロナのことで亡くなられた方や苦しんでいる方、毎日最前線で働き続けなければならない方がたくさんいる中で、こんなふうにずっと家にいて自分のために時間を使っていることが、とても後ろめたくもあるし心苦しくもある。もちろん、この先日本や世界はどうなっていってしまうのだろうという不安はずっとある。複雑な気持ちはどこまでいっても晴れない。人々の間に不安やフラストレーションや怒りや不信感ばかりがどんどん募っていくことはこわくて悲しい。
この1ヶ月、自分の言葉とひたすらに長い時間向き合ってきて、やっぱり言葉というのは本当に難しいものだと改めて思った。伝えたいことや言葉にしたいことはたくさんある。でも、もしかしたらこの考えやこの言葉は、誰かを傷つけることになるんじゃないだろうか、そんな思いが常に頭を過ぎる。言葉は自分が思っている通りに受け取られないこともよくある。言葉��背景にいろんな想いがあったとしても、読む人には目に見えている言葉に書かれていることしか届かない場合も多い。私は自分にとって大切で切実なことばかりを言葉にしているし、なるべく誰のことも踏みにじらないように気をつけているつもりだけれど、でも自分の考えが及ばないところで、自分の言葉で不本意に誰かを傷つけることは出来るだけしたくない。
誰も傷つけないことなんて、ほとんど無理なのかもしれないけれど。
私が「根に持つタイプ」だからということもあるのだろうが、これまでの人生で人からもらってすごくうれしかった言葉と、悲しかったり悔しかったりした言葉というのは、意外とずっと鮮明に覚えているものだ。言った人よりも、言われた人の方が絶対に記憶に強く残る。
その言葉たちの多くは、全然悪意や悪気なく発されたものだということも私は理解しているし、その言葉を発した人たちのことも、別に嫌いになったりしない。だって私自身も、今まで絶対に、自分が何の気なしに口にした言葉で、誰かを傷つけてしまっていることがたくさんあったと思うから。
一度も間違わないこと、誰も傷つけないことなんて出来ないからこそ、私は学ぶことや気づくことをいつまでも続けていきたいし、少しでも自分の言葉や考えが誰かを傷つけたり踏みにじったりする可能性を減らしていけるように、努力していきたいと思う。
こんなことを思うたび、「偽善者」とか「優等生」という言葉が頭の片隅にちらつく。でも私はそれでもいいと思ってる。誰でもない、取り立てて大きな力もないごく普通の人が「世界平和」を願ったりすることの何がいけないの?と思うから。富と名声を持った、偉い人や有名な人しか世界のことを、大きいことを考えちゃいけないわけじゃない。普通の人一人一人が考えなかったら、結局世界は少しも変わっていかないのだから。
私が作ったZINEも、これからの私の未来や、誰かの世界を少しでも拡げることの出来るものになっていたらいいな。
今はただそう願うしかない。
2020.04.30
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