Tumgik
fushigilabyrinth · 2 years
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囚われた竜がいる街
昔々、あるところに囚われの竜がおりました。海の底のような紺碧の瞳を持った、とても大きな黒い竜でした。その竜は城壁に囲われた街の真下にある陽の光も届かぬ地下空洞で、鎖に繋がれて囚われておりました。 どうして囚われているのか、その街の人々にはわかりませんでした。なぜならその竜が囚われてからすでに何千年もの時が過ぎてしまって、誰もが竜を捕らえた理由を忘れてしまったからです。でも一つだけ伝わっていることがありました。それは「この竜を逃がしてはいけない」という言い伝えでした。どうしてなのか、どういう経緯なのか、何一つわからないけれど、この竜を逃すな。それが竜が囚われた街に住む人々の決まり事でした。 ある日、一人の子供が竜に供物を捧げに来ました。竜に供物を捧げることは、この街においては神さまに祈りを捧げることと同義でした。 やって来たその子供は菫色の髪を帽子に押し込めた、黄金の瞳を持った少年でした。見るものすべてを暖かく照らし出すように、少年の瞳は太陽の輝きを内側に宿していました。少年はその瞳で竜を見ると少しだけ悲しそうな顔をして大切に抱えていた一輪の薔薇を、そっと冷たい地下の地面に置いて竜に捧げました。竜はその様子を青い瞳で眺めていましたが、それだけです。もう何千年と松明と蝋燭の灯りだけで照らされる暗くて狭い地下空洞にいるのですから、竜はほとんど眠ったようになっていて反応らしい反応を示すことはなかったのです。少年はそのままじっと竜を見つめていましたが、半刻ほど経つともと来た道を名残り惜しそうに帰っていきました。 竜の前には、ありとあらゆる供物が捧げられていました。世界中から集められた珍しい絹の織物や不可思議な香料に、華美な装飾が施された箱いっぱいに収められた眩い宝物の数々。角と体格が立派な雄々しい闘牛に、どの馬よりも速く戦場を駆ける駿馬。天国に一番近いと謳われる南方の島々から取り寄せた極彩色の鳥と花々。そして極めつけは艶やかに着飾った見目麗しい生きた人間。 竜に捧げるものの価値が高ければ高いほど、願いが叶うと言われていたため竜の前には本当に色々なものが折り重なっておりました。けれど、どれも竜の瞳に映ることはありません。竜は遥か昔からずっと、重い鎖に蝕まれた微睡みの中で何も見ず何も感じず、ただ長い時をこの地下で生きているだけでした。死んだような生。だからこそ、竜の瞳に何かが映ることはなかったのです。 数日後、再びあの少年がやって来ました。今日も胸元に一輪の薔薇を抱え、それをそっと竜の前に置きます。祈ることもなければ、願いを語ることもなく、少年はただただその黄金の瞳で竜を見つめて、そしてまた名残り惜し気に帰っていきました。 そんなことが何度か繰り返されたある日、少年はいつものように薔薇と共に竜のもとへとやって来ました。薔薇を地面に置き、竜を見つめる。それはこれまでと何ら変わりない行動でした。けれど、今日はそのあとに続きがありました。 少年は一歩、踏み出しました。いつもはまるで見えない壁でもあるかのように捧げた薔薇より向こう側には行かなかった少年が、その壁を越えて竜のもとへと歩みます。目も眩むような財宝と、かつてそれはそれは誉れ高い栄誉に浴したであろう何かの死骸の合間を、誘われることもなければ臆することもなく突き進んで少年は竜のそばへと向かいました。そうして、ようやく供物の山々を越えて辿り着いた先で少年は竜に触れました。 触れた掌から、竜のぬくもりが伝わってきました。それはとても低い温度でしたが、確かに生きている温かさでした。滑らかな黒い鱗から伝わる、人間の体温よりも低いそれ。けれど、少年を安心させるには充分なぬくもりでした。 少年は何度も竜の鱗を撫でては、愛おしそうに眼を細めました。そうしていつもよりもずっと長い時間、そうやって竜を撫でて過ごしました。まるで壊れ物に触れるように少年は竜に触れていました。触れるうちに少年の指先は冷たくなってゆきます。少年よりも竜の体が冷たいせいでした。冷え切った鉄に触れると体温が奪われてしまうのと同じ原理です。しかし少年は、自分の体温が冷たい竜の体に奪われて馴染んでゆくことがとても喜ばしく思えました。自分の一部が、それがたとえ体温だとしてもこの美しく雄大な生き物の一部になっている。そう思うと、少年は嬉しくて仕方ありませんでした。 その日以降、少年は薔薇を捧げた後は時間が許す限り竜を撫でました。鱗は黒く艶やかで、けれど透かして見ると限りなく透明な不思議な色合いを持っていました。そんな鱗に覆われた竜の巨体に時には頬を寄せ、時には両手で抱きしめて少年は竜に触れ続けました。 そうして月日は流れ、少年は一人の立派な青年へと成長しました。帽子に押し込めていた菫色の髪は獅子の鬣のように豊かに長く伸び、風に靡くと紫炎が揺れ燃えている様を彷彿とさせます。か細い苗木のようだった体は逞しく育ち、まるで昔の神々を刻んだ彫刻がそのまま生きて歩き出したようでした。顔立ちには幼かったころの面影がありましたが、やはり随分と大人の男の顔になって、所々に酸いも甘いも知った荒々しさが垣間見えます。けれど両の眼窩に納まった黄金の瞳はあのころと同じ太陽の輝きを宿し、優しく暖かにその瞳に映るすべてを包み込んでいました。 少年だった青年は、かつてと同じように一輪の薔薇を胸元に携え竜のもとへとやって来ました。少年だった昔と何一つ変わらずに、青年はずっと竜のもとへ通い続けていたのです。薔薇の花を捧げた数は、もうわかりません。とにかく、たくさんの薔薇を青年は竜のもとへ来るたびに捧げ、そうして愛おしげに竜を撫でては名残り惜し気に去る。その繰り返しを続けてきました。ずっと微睡みのなかで揺蕩っている竜は青年に対して何かしらの反応を示すことは一度もありませんでしたが、それでも青年は構いませんでした。 青年は自分が竜へと向ける感情が愛であることを、このころには理解していました。大人になってようやく自分の感情に名前を付けて整理することを覚えたからです。初めて竜へと供物を捧げたあの日、青年はこの竜に恋をしました。地下へと続く長い長い階段を下りた先、松明と蝋燭の灯りだけで浮かび上がる巨大な何か。重々しい鎖に繋がれ囚われた黒い竜。薄っすらと開いた瞼の合間から海の底の色をした瞳で地下を眺めているのに何も見ていないことがわかるほど微睡みの中にいるその姿に、青年は子供ながらに胸を掻き毟られるような激しい感情を覚えました。 荒れ狂う大波に襲われて溺れてしまう。けれど、怖くもなければ辛くもない。むしろ、その波にのまれて溺れてしまいたい。その感覚が恋だと気づくのはもっとあとになってからでしたが、確かに青年はあのとき竜に恋をしたのでした。 今日も青年は竜のその体を愛おしげに撫で、慈しむように瞳を見つめ、いつまでも飽きることなく竜のそばにいました。一方的だったとしても青年は竜を愛していました。何も返ってこなくてもそれで構わない。愛し続けることさえできるのなら、他のものは何もいらない。そう思えるほどでした。  けれど、もしも何かを願うなら、そう他の人々が竜に供物を捧げて祈り、願うように自分もそのようにするのなら、青年はこの竜に愛を伝えたいと思ました。眠った竜にではなく、目覚めた竜に自分の想いを伝えたいと強く感じました。青年はこれまで竜に供物を捧げても何かを願ったり祈ったりしようという気持ちが起こったことはありませんでした。竜に会って触れることができる。それだけで青年の願いも祈りも満たされていました。 しかし、青年は自分の願いに気づいてしまいました。この竜に愛しているのだと伝えたい。この溢れんばかりの愛で包み込んでやりたいと、そう思いました。だから青年は初めて祈り、初めて願いました。この竜を、この美しい生き物を心の底から愛している。眠り続ける愛おしい命に、自分の愛がどうか届くように。そう願いを込めて、青年は初めて竜に口付けました。 するとどうしたことか、竜の瞳が見開かれて深い海の底をした瞳に鮮やかな光が宿り始めました。青年は驚きながらもその瞳を見つめました。竜も青年を見つめます。竜の意識が、そこに確かにありました。死のような眠りの底に横たわっていた竜が、まるで泡粒が海面を目指すかのように現実へと浮上してくる様子が青年には感じ取れました。 「きみを、愛している」 そう囁いて青年はもう一度、竜に口付けました。それは、世界で一番優しい口付けでした。青年が口付けた場所を発端に、竜の体からまるで花吹雪が舞うように鱗が弾けてゆきます。美しい竜の鱗がまるで雪の結晶のようにも、舞い散る花びらのようにも、そして恵の雨のようにも見えながら青年の視界を覆いつくしてゆきます。 すべてをかき消すように竜の鱗が青年の視界を奪ったのち、霧が晴れたようになるとそこにいたはずの竜の姿が消え、代わりに青年と同じ年頃ほどの男が裸で蹲っておりました。青年は供物の山から適当な織物を見繕って、その男の体にかけてやりました。そうしてまだ覚醒しきっていないのか、ぼんやりと項垂れる男の顔を覗き込みました。美しいつくりの顔の中に、深い海の色がありました。間違いなく、竜の瞳の色でした。この男は、青年が愛した竜でした。 青年は竜が人の姿になったことにも驚きましたが、その姿が竜のときと同様にとても美しいことに感動もしていました。青年が愛した黒い竜。その美しさが人の姿に宿るなど、ありえることなのか。しかし事実、目の前にその人はいる。深い肌の色は上質なチョコレートのそれに似て、しかし手触りは鞣革のように柔らかで張りがありました。黒い髪は艶やかに光り、耳にかけてやると流れるようにするりとした感触で指の合間をすり抜けます。四肢は長く伸びやかで立てばきっと青年よりも大きいのでしょうが、今はまだ小さく折り畳まれたままです。竜の姿の名残りがそこかしこにありながら、それは紛れもなく人の姿でした。ただ異様なほどに美しいだけです。 「竜が、逃げる」 誰かの声でした。きっと竜が人に変わる様子を見ていたのでしょう。竜が眠る地下空洞はいつ何時でも祈り、願えるように開け放たれていました。だから青年以外の人間がいても不思議ではないのです。その誰かの声を皮切りに、その場に居合わせた人々の疑念や不安が声になって表れ始めました。この街は囚われた竜がいる街。どうして囚われているのか理由は知らずとも、竜を逃すことが許されない街。人々の感情の行き着く先は、決まっていました。 「竜を逃すな!」 また誰かの声でした。もう誰が何を語り、何を悲しみ、何を叫んでいるのかわかりません。青年にわかることは、このままにしておけば人の姿に変わった竜は再び重い鎖に繋がれて地下に囚われることだけでした。竜はもう充分に長い時間この地下に囚われ、他者の祈りと願いを聞き続けてきました。そんな竜を再び捕らえて暗いこの場所に押し込めることが、青年にはできませんでした。たとえそれがこの街の決まり事だとしても、愛しい竜をそんな場所に置き去りにはできません。 青年は竜を抱えて立ち上がりました。竜はお世辞にも軽いとは言えませんでしたが、家業の牧畜を手伝っている青年には重いわけでもありませんでした。牛や羊に比べれば軽く、山羊や鶏に比べれば重い。その程度のことでした。そのまま騒ぎ立てる人々の間を全速力で走り抜けます。青年はこの竜を連れて逃げることをすっかりと心に決めていました。そして竜のために何もかもすべてを打ちやる覚悟もしていました。竜のためになら自らの人生を捧げてしまえる。竜に捧げる供物は自分なのだと、青年はそう思いました。 後ろから人々が追ってきます。罵声が飛び、恐怖に震える嘆きが聞こえ、青年を恨む言葉も聞こえます。憎まれても呪われても構わない。街の人々すべてを敵に回してでも、青年は竜をこの地下から救い出したかった。腕に抱いたぬくもりがあるかぎり青年は追われ続ける道を自ら、選びました。 青年は走り続けました。街は広く、また高く堅牢な城壁に囲まれています。ここから出るには東西南北それぞれに作られた門のどれかをくぐるしかありません。しかし青年が門をくぐるのが早いのか、それとも竜を連れ出して逃げたことが知れ渡り門が閉じられてしまうほうが早いのか、誰にもわかりません。だから青年は走り続けました。竜を抱えて走りました。そして一番近い門に辿り着いたとき、それは閉じられる間際でした。門番たちは皆、一様に興奮していました。竜が逃げ出すという一大事に誰もが浮足立ち、またその事実が本当なのかそれとも嘘なのか、それよりも竜が逃げだすと何が起こるのか、そんな混乱に振り回されていました。 青年は門番たちを薙ぎ払うようにして体ごと、門が閉まるぎりぎりの隙間に体をねじ込みました。失敗すれば青年も竜も門に挟まれて死んでしまいます。それでもその一瞬に賭けました。そしてその賭けに、青年は勝ちました。門番たちは青年の姿が門の向こう側に消えてゆくのを眺めているしかありませんでした。門は、二人を城壁の外へと逃して固く閉ざされてしまいました。壁に作られた見張り塔の上から街の外を監視していた門番だけが、竜を抱えた青年がそのまま広い平野のその先へと駆けてゆくのを見ましたがその姿も地平線の彼方へと消えてゆきました。 それ以来、二人の姿を見た者は誰一人としておりません。また街がどうなったのかも、わからないままです。
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fushigilabyrinth · 2 years
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花に埋もれて死ぬならば
終わりだというのに、それはあまりにも眩く、そして尊かった。これが、今この眼で見ているこの光景は、確かに終わりに違いないのに、翳る様子はない。沈む定めを受け入れた太陽の、鮮烈な輝き。破れんばかりに響き渡る人々の歓声を受けて王座を降りる男は、落日さえも燦爛としている。 一つの山を越えただけなのだ。これは、終わりであって終わりではない。新しく生まれなおすための死。すべての生き物に訪れる循環の一部。次へと駆け出してゆくための、ひと時の安らかな眠り。 新しい風がやって来た。旧世界の王の心臓を、未だ力強く脈打つ心臓を、軽やかに一突きして死に至らしめたのは、かつての王に似た新世界の幼い王。まだ柔らかで小さな、幼子。友と夢に向かって走っただけの、無垢な人の子。 王ではなくなった男が、王となった幼子を讃える。それは本当に一つの世界の終わりだった。そして同時に、一つの世界の始まりでもあった。終わりと始まりは、いつだって共にある。喜びと悲しみがスタジアムに収まりきらぬほど充満している。 太陽が沈む。一つの時代が終わる。キバナが全てを捧げて向き合った幾度目かの黎明の時代。黄金の瞳を携えた獅子によってもたらされた夜明けは、次の太陽を抱いて進んでゆく。昇っては沈み、また昇る。災厄の一夜を越えた先に訪れた太陽が同じでなくとも、その輝きと暖かさは変わらない。この国に降り注ぐものは、祝福だ。杯は満たされて、溢れ出す。大地に、空に、海に、このガラルに祝福が満ちてゆく。 旧世界の王は、笑っていた。このうえなく歓びに満ちた、そして悔しさを押し込めた顔で、大いに笑っていた。キバナがついぞ果たしてやれなかった王の死とは、こんなにも華々しい。あまりにも美しく、愛おしい終焉だった。 キバナのなかで、安堵と悔恨と歓びとが綯交ぜになって湧き上がる。人ではなく神の振る舞いを求められ続けた王座から、ようやく解き放たれた男に対する安堵。その男を自らの手で引きずり下ろせなかった自分に対する口惜しさ。そして、可能性を纏って現れた新たな星である幼子への純粋な祝福。 視界が、歪む。涙になりきらぬ涙が、キバナの瞳を濡らしている。子供みたいに感情のまま泣いてしまいたい。だが、そんなみっともない姿を晒したくはない。嬉しくて、悲しい。感情が渦巻いて、荒波になって押し寄せてくる。これまでの時間が、男を、ダンデを追いかけ続けた時間が泣くことを求めていた。それは悲しみの涙でもあり、歓喜の涙でもある。その背を追いかけ、時には肩を並べて駆け抜けた掛け替えのない時間が、キバナを内側から揺さぶっている。 短くはない時間を、費やした。ダンデはその時間にあたう男で、きっとこれからもそうだ。キバナが竜として守護し、竜だからこそ喰らい付いた王。鋭利な爪と牙で何度でも挑み、時には彼に見合わぬ有象無象を蹴散らして守護した愛おしい太陽である。その輝きは狂おしい程だ。沈んでもなお翳ることはない。新しい太陽をこのガラルが頂いたとしても、キバナの太陽はこの先もダンデだけだ。彼以外にいない、彼しかいらない。キバナの全身が、細胞という細胞がそう訴えている。 紛れもない、嘘偽りのない、隠しようのないキバナの気持ち。ライバルであり、友でもある人間に向けるそれにしては煮詰まり過ぎたキバナの心。それは愛以外の何物でもなく、だからこそ気付かないふりをし続けていた。封をして、その上にさらに頑丈な鎖を巻き付け施錠した、身の内側で蠢いていたもの。溢れないように、逃げ出さないように、厳重に扱っていたキバナのダンデへの想い。 それが今、ダンデが王座から解き放たれるのと同じくして、キバナの心の檻から解放されようとしている。雄大な鬣を靡かせて、自由に何のしがらみもなく広大な地を駆けてゆく獅子の姿を追って行きたい。王ではなくなったとしても、永遠の輝きで竜を惹きつけてやまないどんな宝物よりも尊く価値のあるもの。それをそばでずっと見守って、愛でてやりたい。 キバナが呟いた言葉は、音にはならなかった。代わりに小さな薄紫の花びらとなって、唇から滑り落ちる。それはまさに形を得た恋の成れの果てで、報われぬ定めの証でもあった。伝えてはいけない恋心。それがもたらす美しい終わりが、キバナを蝕み始めた一番最初。王の終焉によって連鎖反応的に引きずり出された、キバナを喰らう甘美な病。 ダンデの清々しい笑顔。晴れやかで、それでいて神々しい。新しい王を讃えて、それでもなお王である彼がこの先を歩いてゆくというならば、キバナはそれを止めはしない。ただ、その道行が健やかであるように守護しよう。自らの破滅を加速させると直感的にわかっていても、キバナはそれを選ぶ。 口から溢れた花びらが、風に乗ってスタジアムの上空へと舞い上がる。あの笑顔のためならば、なんだってできる。この花びらはダンデへの恋心そのもの。美しく可愛らしい姿をした、キバナの恋。この恋がいつかキバナを殺してしまう。物理的に体を蝕んで、息絶える。でも恋とは昔からそういうものだろうと、キバナのなかにいるもう一人のキバナが告げる。どんな小説も映画も戯曲も、恋に狂って死ぬ人々を描くのは、そういうことだ。 それならばこそダンデへの恋に狂ってキバナは死ねる。それは幸福なことだ。ダンデ以上の生き物はいない。彼以上は望めない。なんと贅沢な結末。 キバナは笑った。声を出して笑った。キバナの笑い声は他の歓声に混ざり合う。新しい王を歓迎する、そしてこれまでその玉座に座っていた今やただの人となった男を弔う万雷の喝采。そこにキバナの、一人だけ意図の違った笑い声が混ざり溶けてゆく。笑えば笑う程、花びらが溢れた。喉の奥から粘膜を越えて舌の上に湧き上がり、唇から転げ落ちてゆく。小さな粒のような、蝶に似た薄紫の花びら。キバナの、恋心の成れの果て。      〇 あの歴史的な試合から、すでに半年が経った。新しい王は未だに慣れないことだらけと愚痴をこぼしては、しかしその玉座を楽しんでいる。そうなるように、かつて王だった男が舞台の裏側でかなりの労力を払っていることは敢えて伏せられていた。王になったばかりの幼子には健やかに育ってほしい。今はまだ知るべき時ではない。いずれ時がくれば嫌でも理解していくのだと、ダンデはそう言って過保護に新しい王を見守っている。自分が通った道だからこそ、思うことがあるのだろう。王の道は、きっと王であった者にしかその苦しみはわからない。 キバナはそんなダンデと幼い王にナックルジムのジムリーダーとして、とりわけダンデには一友人としても可能な限りの助力を惜しまなかった。やるべきこと、やらねばならないことははっきりと言って恐ろしい程に山を成していたのだ。 まず、ローズ氏が件の事件によって裁かれることになったのが一番重い問題であった。マクロコスモスグループはこのガラルそのものと言って良い。ローズ氏が一代で築き上げた巨大企業群。このガラルの地においてマクロコスモスの恩恵を受けぬ者はいない。その総帥であるローズ氏が、全ての元凶であったことは少なくない損失をもたらした。マクロコスモスが停滞するということは、ガラルの経済が停滞することを意味する。それは国の破滅を呼ぶ。最も避けねばならぬ事態だった。 白羽の矢は、誰もが予期したようにダンデを射抜いた。ダンデもそうなることはわかっていたのだろう。声がかかった際、ダンデは少しだけ考える時間をくれと言って部屋に篭り、数時間後にはその申し出を許諾していた。 ローズ氏はもとより実質的な経営を回していたオリーヴ女史も、もうマクロコスモスには関われない。そうなったとき、稀代の魔術師じみた手腕でこのガラルを発展させたローズ氏の後釜として、しかもその尻拭いをさせられる椅子に誰が座りたがるだろうか。マクロコスモスの重役たちが誰一人として、自ら名乗りをあげなかったのは明白だ。あまりにも荷が重い。人が抱えていい代物では、とうの昔になくなっていた。 それならば魔術師の手により育った人ならざる者を据えてやろうと話が動くのは至極当然だった。チャンピオンダンデ、それはキングメーカーであるローズ氏によって生み出されたガラルの希望。人々の夢の形。かの騎士王のように選定の剣を抜いて王になるべくしてなった、一人の男。しかし今やただの人へと堕ちた神に愛されていた何かの残滓。 だが残滓といえども、一度は王座を我が物とした紛れもないガラルの太陽だ。それに彼が降りた王座はポケモンバトルという王座であり、マクロコスモスのトップとは違う椅子である。座が違えば、ただの人となった男も再び王へと蘇る。それこそ、寿命を悟った不死鳥が自ら燃え盛る炎へ飛び込み死んで蘇るように。 けれど一番の理由はもう、縋り付く場所が他にはなかった。それだけのことだ。 憔悴しきったマクロコスモスの重役たちの願いは、幸運にも聞き入れられた。ダンデはガラルリーグ委員長及びマクロコスモス代表をローズ氏から引き継いだ。これまでバトルしかしてこなかった若輩の男にリーグ委員長は兎も角、マクロコスモスを率いる力があるのかという糾弾はその当時しかるべきものだったろう。しかし、それが誤りであることはすぐに証明された。 ダンデは、確かにポケモンバトルのために誂えられたような男だった。だがポケモンバトルとは単に自らが行うものだけではない。より多くの人々とポケモンが共に切磋琢磨し、高みを目指す。そのときに発生する熱狂と興奮の渦。それはバトルを行わずとも共有できるものだ。 ガラルのみんなを強くする。チャンピオン時代からのダンデの夢である。彼が強くしたいと願うのは、ポケモンバトルだけのことではない。それは、きっかけでしかない。人とポケモンが、種を越えた絆で織り成す星のような煌めきをダンデは愛している。その煌めきが人間に与えるものの価値を、ダンデは深く知っている。人とポケモンはまだまだ成長できる。その可能性にダンデは自らの十数年を捧げて、これからもそうするつもりだ。 だからこそ、未来に必要になるであろうことはポケモンに関係ないように見えても片っ端から吸収した。それだけの時間と労力と費用を、ローズ氏は糸目を付けずにダンデに注ぎ込んでくれた。その知識と経験が、今ようやく陽の目を見る。 ダンデがリーグ委員長とマクロコスモス代表を引き継ぐことを発表し数ヶ月経ったころ、ダンデを非難する者は殆どいなくなっていた。ダンデは傾いたマクロコスモスを平常時と同じとまではいえずとも、短期間で懸念を抱かせないところまで立て直してみせた。もっとも、そのためには身を切るような決断を多々強いられており、少なからず恨みも買った。けれどダンデはよくよく理解していた。それが必要なことであり、また自分がこの立場に据えられた意味なのだと。王の立場とは、舞台が変わろうが同じなのだ。 チャンピオン時代には不要だとして公表していなかったダンデの経歴がある。それは彼がユニバーシティの学位を経済学の分野で取得していたことと、チャンピオン時代からすでに幾つかの会社を起こしていたことであった。 遠からずやってくる王座の終焉後のために。もしやって来なくともチャンピオンという立場からはアプローチできぬ分野をカバーするための、ポケモンバトルとは違う手段。 トレーナーとしてのダンデの優秀さは誰もが知っている。しかしそんな彼がよもや経営者としても優秀であるなど、誰も考えはしない。そもそもにローズという後ろ盾がいたのだから、彼が全てを担っていると考えるのが普通だった。 「チャンピオンになって三年目のころです。チャンピオンだけでは、このガラルをより高みへと押し上げるには足りないと気づきました。それまではポケモンたちとバトルの事ばかりを考えていたんです。むしろそれ以外、頭にはなかった。しかしとある出来事がきっかけで考えが変わりました。あまりにも自分が無知で何も知らない子供だと悟ったんです。そこからはローズ氏に協力してもらい、様々なことを学びました。ユニバーシティにも十七の時に飛び級して入りましたが、刺激に溢れていた。ポケモンたちだけではわからないこと、得られないことがたくさんあると教えられました。でもポケモンたちがそこに加わればもっと素晴らしい経験ができることも知りました。このガラルを他のどんな地域よりもポケモンと人とが幸せに暮らせる場所にしたい。そしてガラルのみんなを強くしたい。私の願いは、それだけです」 ダンデの代表就任演説の一部に過ぎないが、チャンピオンではなく経営者としての顔がすでに形成されていた。改めてガラルの人々はダンデが神に愛されているのだと悟り、だからこそ安心してマクロコスモスの代表として彼を迎え入れることができた。このガラルはこれからも彼に守られ続けるのだと安堵し、眠りにつく。一人の男を除いて、そんなふうにガラルの人々はダンデを再び王として頂く日常を享受した。 ダンデの代表就任演説を見たとき、キバナはやはり歯噛せずにはいられなかった。どうして自ら王座という牢獄に再び囚われに行くのだろうかという疑問。しかし、ダンデならばそうするだろうという納得。そもそもにキバナは前もってダンデが代表に就任することを知らされていた。それでも、ダンデがようやく得た自由の価値を知っているからこそキバナはこの白々しいが隙のない就任会見に対して苦々しい顔をするしかなかった。 ダンデが望んで再び座った王座は、以前のものよりも混迷を極める。その両肩がマントの代わりに再び背負う責はこの国そのものであり、チャンピオンとは比べ物にならぬほど本質的に本来の王の座に近い。民の営みを支えるために、王は生きて死ぬ。それが王の定めだ。けれどダンデはもう王にならなくともよかったのだ。そんな定めを背負い込む必要なんか、ない。自分のために生きて、死ぬ。それが許される立場になった。ダンデには、そんな風に生きてほしい。 けれどこれはキバナのエゴだ。ダンデは、ダンデが望むままに生きている。王になることも、自由が奪われることも、全てダンデの望みの一部だ。あのときの会話が、それを物語っていたことをキバナは思い出さねばならない。 「急に連絡してすまないな」 「いや、構わねぇよ。それより話ってなんだ? なんかあったんだろ」 普段、ダンデは余程のことがなければ突然電話をしてくることはなかった。だからキバナでなくとも、彼に何かあったのだろうと勘付くのは容易い。 「さっき、マクロコスモスの役員たちが来たんだ」 淡々と、ダンデは告げた。しかし、あのマクロコスモスの役員がわざわざ出向くことは何かが大きく動き出す合図に他ならなかった。キバナは、深く息を吐き出すだけでいっぱいになる。あまりに早すぎると、そう思った。王は眠ったばかりなのだ。それだというのに、もう墓を暴き立てる輩が現れた。死後の安らかな眠りさえ、ダンデには与えられないのかとキバナは唇を噛み締める。 「言わずともわかっているようだな。流石はキミだ」 「嬉しくないね」 朗らかそうなダンデに、思わずキバナは苦笑した。ダンデという男は知ってか知らずか、自分の流れで生きている。キバナの気持ちなど、まるでわかっていない。だからこそ、道を違えることはない。誰にも左右されずに、自らが選んだ道を歩んでゆく。それで良い。 「マクロコスモスの代表職をローズさんから引き継いで欲しいそうだ。あとはリーグ委員長も」 「自分たちで尻拭いしたくねぇからってお前に押し付けるのか」 「まあ、わかっていたことだ。普通の人間があの人の後に座るのは少々酷だよ」 「お前だって、普通の人間だろうが」 そう、ダンデだって普通の人間だ。若干十歳でチャンピオンの座につき、それから十余年王座を守り抜いただけの、ただの人間。万能でもなければ、不老不死でもない。怪我をすれば血が流れ、心を傷つけられれば悲しみに涙する。 ダンデが強かったのは彼がそれだけの努力をしたからであり、ダンデがあの時まで倒れなかったのは徹底的な自己管理の賜物なのだ。何もかも全てが泥臭い血と涙の結晶である。それをあの王者の笑みの下に、ひた隠していただけだ。 ダンデは、神ではなく人なのだ。キバナは一番近い場所でダンデを見て、牙を向け続けてきた。だからこそダンデが行なってきたことが、神の御技でも何でもないことが痛いくらいにわかる。全てダンデという男が、人として長い時間と労力とを掛けた結果なのだ。神などという不確かな存在の力ではない。そんなものの功績にさせたくない。神に愛されたから、彼はチャンピオンになった。そう嘯く人間たちの口を尽く縫い付けてしまいたい。 それだというのにダンデ自身がまるで自分は普通の人間ではないような口ぶりで自らを語る。ダンデもキバナも、神など信仰していない。自らの力で、自らの努力で、全てを勝ち取ってきた人間なのだ。それを失念しないで欲しい。大衆が望むままを体現しようとして、王ではなくましてや神でもなく、大衆の享楽と安堵のためだけのただの供物になるようなことがあってはならない。 「そう、だな」 キバナの言葉に、ダンデは少し動揺したような声で返した。まるで自分を人として扱ってくれる人間がまだいたのかと言わんばかりの、言葉の揺らぎだった。侮ってくれるな。王座から引き摺り下ろすことこそできなかったが、最も多くお前の喉元に喰らい付いた人間はこの俺だと、キバナはダンデに言ってやりたかった。 「俺は……いや、電話してきた時点でお前の腹は決まってるんだろうな」 しかし言葉を飲み込み、キバナは結論のみを告げる。意見などダンデには不要であるし、キバナにだって必要ない。物事の決定権は神でも他人でもなく、自分にある。 「ああ、受けるつもりだ。俺はローズさんがやったことが正しいとは思わないが、彼がこのガラルに誠心誠意尽くしてきたことは知っている。彼以上にこの国を深く愛した人間はいない。そして俺も、このガラルを愛している」 ガラルを愛している。キバナはダンデの言葉を口の中だけで反芻する。そんな大そうな��のを愛してしまったが故に、ダンデは王であり続けるのだろう。 ローズを見てみろ。ガラルなんていう身の丈に合わない女神を愛したがために自滅した男だ。ダンデが同じ轍を踏むとは思えぬし、踏みそうになったならばキバナは命を賭してでもそれを止める。しかし、大いなるものを愛した人間は神話が物語るように早々に天へと召し上げられてしまう。ダンデには老いて醜くなっても、それでも最後まで人として生きて欲しい。神に愛でられるだけの美しい星座になんて、なってくれるな。 ダンデは最初からただの人で、最後までただの人だとそう言い続けるために、きっとキバナは彼のそばにいる。命が尽きるその時までキバナは竜としてあらゆるものから、神からすらもダンデを守る。あの終焉以来、キバナは自分の在り方をそう決めた。それがキバナの想いの示し方だ。 「そうか。なら、最後までとことん好きにやんなよ。心配すんな。オレ様が骨くらい��拾ってやるさ」 ダンデを愛おしく想うからこそ、望むままに生きてほしい。それは紛れもないキバナの本心だ。歩む道が苦しみを伴うとわかっていてもダンデは止まらないし、止められない。 ありのまま望むままに何処までも、足枷があろうと心臓を貫かれ血を流していようと大地を力強く踏み締め駆けて行く獅子の姿が眼裏に浮かぶ。そんな獅子にキバナができることなんて、結局は少ない。骨を拾ってやることすら、本当はしてやれないかもしれない。それでも言葉を贈ることくらいは許されるはずだ。 「それを聞いて安心した。やはり、キミがいてくれてよかった」 ダンデの安堵混じりのその言葉に、急速に自分の内側で熱が膨張してゆくのがキバナにはわかった。表情など電話越しにわかる筈もないが、代わりに声音は何の隔たりもなくキバナの鼓膜を震わせる。チャンピオンでもマクロコスモス代表でもないただのダンデとしての声が、キバナの言葉で安らぎを得ていた。張り詰めた糸がゆっくりと緩むような、穏やかな声だ。 その声に反応して想いが、形になってしまう。揺蕩うだけの無形の何かが、明瞭に眼の前に提示されてしまう。見たいだなんて誰も思っていないのに、勝手に形成されてゆく。 「骨を拾ってやるだけだぞ?」 「そういって色々と根回ししてくれるのがキミだからな。期待しているよ」 「はあ、まあオレ様って多才だからな。確かに大半のことはできちゃうけど」 軽い会話に乗せて、飲み込もうとする。胸の奥で、腹の底で、もしかしたら何処でもない所からせり上がって来るそれが喉の奥から飛び出さないように、懸命にキバナは唾液を飲み下す。 「キミに一番最初に言っておきたかっただけなんだ。キミが俺の覚悟を知っている。それだけで、何があってもまた前に進んでいける。本当に、ありがとう」 ダンデの言葉は、彼とのバトルのように容赦がないとキバナは思った。的確にキバナの心臓を突き刺して、そして一挙に全てを押し流してゆく。耐えるだけ無駄だと訴えるように、キバナの内側を撫で上げて腹の内に留めていたものを曝け出させる。 「……感謝はいらない。代わりに、今度は一人で無茶してくれるなよ。俺に話すってのは、そういうことだ」 「今度は一人で行かないさ。キバナ、約束する」 言葉と共に唇から溢れる花びらが、キバナの足元で小さな山を作っていた。友としての約束をダンデが交わすなか、キバナの心は違う意図を持って花びらを成していた。なんでこんなに愛らしいのかと、そう思えるくらいに小さく儚い姿をしたキバナの恋心。それが、キバナの足元でキバナによって、通話の終了にあわせて蹴散らされる。愛らしくて、憎らしいダンデへ手向ける花のひとひらたち。美しくキバナを蝕む、破滅の化身だ。      〇 嘔吐中枢花被性疾患。通称、花吐き病。 あの終焉を境に、キバナが患った病の名称である。物語の題材として使われるそれを知っていたとしても、実際の病理としての情報は酷く少ない夢まぼろし扱いの奇病である。 古い文献を調べると少なくとも千年ほど昔からこの世界に存在していることが窺えるが、近代以降の症例が僅か十数件しかないため存在はするが治療法等はわかっていない。ただ、花を吐いて最後には死ぬことだけは確かだった。十数件しかない発症例はすべて患者の死を報告して終わっている。 最初は少しずつ、そして段々と花を吐く量が増え、最後にはまるで花に精気を奪われるようにして死ぬ。花は患者によって種類は様々で統一性はないが、進行して行く過程はどれも変わりない。何故発症するのかはわかっていないが古い物語や戯曲に記載がある通り、患者の全員が片想いであることはやはり特筆すべき点である、と当時の医者はカルテに書いている。 キバナがあの宝物庫を管理するナックルジムのジムリーダーであることと卒業生であることの利権を最大限に活用し、ガラルの教育及び研究機関の最高峰として名を誇るナックルユニバーシティの資料庫をあさっても、これ以上の情報は手に入らなかった。資料課の青年曰く「世界的にも症例が少な過ぎて医者以外だと時折、国外の作家先生なんかからも閲覧許可の申請が来ますが、許可が下りるまで時間かかるんですよ、これ。キバナ様だから即下りたんでしょうね」とのことだった。キバナは小説の題材にしたいわけではない。自分が発症したこの病を知っておきたいだけだ。 資料から推測するに、キバナは将来、早逝と呼ばれるに足る短さで命を全うする。ダンデほどではないが、キバナにも担うものがある。いつか自分が花にまみれて死を迎えるときに、周囲を困らせるようではナックルの守護竜の名折れだ。そうならぬよう、ある程度対策を打たねばならない。 まずは医者にかかるべきだとわかっていたが、そんなことをすればジムリーダーを辞めることになるだろう。類い稀な奇病で症例数も少ないとなれば、その病を患うキバナは貴重なサンプルである。担当した医者が放っておいても医学会や製薬会社、酷ければ政府がキバナを自由にはさせない。それにメディアにも格好のネタを提供することになる。それは避けたかった。 何よりダンデが王の道を生きるのならば、キバナも竜として最後まで共に生きたいと思った。病院のベッドに縛り付けられ、ただ自分の余命を待つだけの日々などいらない。愛おしい王を、この命の炎が尽きるまで追いかけていたい。そのために自由でありたかった。 閲覧したカルテと資料とに、さらに花吐き病を扱った文学作品や絵画なども端からキバナは調べていった。どんなものでもよかった。情報が欲しかった。体を蝕むものが何なのかを知って、少しでも自分がいなくなったときに物事が滑らかに進むようにしておきたかった。 花吐き病は、恋煩いが形を成したものだという認識はガラルの人間ならば皆知っている。あまりにも有名過ぎる戯曲があった。片想いの乙女が最後には自らが吐き出す多量の花に埋もれて死ぬだけの単純だが、だからこそ長い時を経た今でも人の心を掴んで離さない物語だった。彼女が吐き出していたのは勿忘草である。私を忘れないで、とはなかなかに欲の深い女だとキバナは思ったが、恋が成就しないのならばそれくらいの悪足掻きも許されるのだろう。 あらゆる作家が花吐き病を描いてきた。小説、詩、絵画、歌に踊りとその幅は広い。美しく可憐な「花」という形でこの世に現れた悲劇。恋しく想うのに、報われぬ悲しみ。その魔力に魅入られた様々な人間が技巧を凝らして最後のその瞬間を描写し、音にし、動きにした。そんなものが今、キバナの内側に巣食っている。 「オレ様、今からでも作家に転向しようかな」 そんな独り言がふいに口をつく程度にはキバナも、自身の身に起きていることを正確には把握し切れていなかった。 「それは困るな」 突然の声に、キバナは身構えながら振り返った。 「ジムリーダーと作家の二足の草鞋、というなら許可しよう」 ダンデが和かに微笑を浮かべて立っていた。 「なんでここに? 関係者以外立ち入り禁止だぞ」 「リョウタくんにキバナはどこかと聞いたらここだって言うものだから。ちなみに許可証もある」 首から下げた許可証をキバナに見せて、ダンデはさらに笑顔を深めた。 「リョウタめ……まあ、いい。用向きは?」 宝物庫の書庫、とりわけ東塔に属する場所はほぼキバナのパーソナルスペースと言って差し支えなかった。もともと書庫としての機能はあまりなく、歴代のナックルジムの長たちが騎士団時代から引き継いできた執務室とは別の個室である。そのため本来ならば誰かがやってくることなどないし、ましてや案内されることもないのだが何故かダンデはいる。リョウタに聞いたとは言っているが、ダンデのことなので圧でもかけて聞き出したのだろう。 「バトルタワーの件、キミに資料を渡してあったろ? あれの意見を聞きたくてね。あとは壊れた文化財について実際に見ておきたい場所が幾つかある」 「一昨日送ってきたばっかじゃねぇか。まあ、読みましたし、色々と聞きたいことあったからかまわねぇけど。でもこの話し始めたらお前、壊れた文化財見るどころじゃなくなるだろ? 俺も一緒に行ってやるから先に確認しに行こうぜ」 ナックルシティは古い城郭都市として名高い。そのため内側に抱く街にも歴史文化財としての価値があった。旧市街地に行けば建てられてから優に百年は経つ建物がそこら中にあるうえに、大聖堂などの街の主要な建造物の殆どは歴史文化遺産になっている。 その街の上を、あの夜に災厄が暴れ回った傷跡は、まだまだ生々しい。王政時代からの美しい庭園はなぎ払われ、歴史に名を刻む建築家たちが手掛けた瀟洒な屋敷は無惨に崩れている。あの晩、ダンデ以外に怪我人らしい怪我人が出なかったことは奇跡だった。しかしムゲンダイナに罪はない。罪があるのは、人間だ。 塔に付属している簡素な露台から、二人はそれぞれの相棒に乗って飛び立った。天気は快晴。街を見下ろす高さまで上昇すれば南は広大なワイルドエリアが、北には雪が残る山の峰々が見える。雲一つなく、空が果てどなく続いている。何処までも飛んで行けそうなほど、清々しい。 「この街はやはり、美しいな」 ダンデが言った。眼下に広がるナックルの街を眺める眼が柔い婉曲を描く。 「歴史を重んじながらも、今を生きる人々によって長い時を刻んできた街だからな。だから災厄の一つや二つでヘコたれねぇの」 「うーむ、キミが俺に十連敗しようとも挑み続けてくるその精神は街が育んだのか」 「お前は、ほんっとに人を煽るのがお上手ですね!」 「怒るなよ。褒めてるんだ。キミだけだぜ?こんなにも俺に執着してくれるのは」 笑っているが、笑えていない。目尻は確かに緩く細められているが瞳の奥の黄金が、寂しく翳っている。王の孤独が、垣間見えた。 何故みんな、この孤独に気づかないのだろうか。どうして彼の上っ面に貼り付けられたその肩書きにしか興味を持たないのだろうか。チャンピオンでも委員長でも代表でもない、ただのダンデという男の眩いほどの魅力に誰も目もくれない。こんなにも尊くそして美しく煌めく宝石を、キバナは他に知らない。 太陽の明るさをそのまま内側に閉じ込めたような、眼を焼くほどの輝き。竜の心を魅了してやまないガラルの宝。それがダンデという男だ。装飾など必要とはせずダンデがダンデであるだけで、それは一つの完璧な世界である。それだというのに、群衆は彼を見ない。彼が抱えた、余分なものばかりを持て囃す。だから彼はいつも孤独だ。それが王の道だとわかっていても、寂しさは拭えるものではない。 「オレ様はな、お前とバトルができればなんだっていいんだ。チャンピオンだろーが委員長だろーが、地獄の底でも宇宙の果てでも。ダンデ、お前とじゃなきゃあんな熱いバトルはできねぇからな。だからチャンピオンじゃなくなったからって怠るなよ? 委員長でも代表でもなんだっていい。ダンデだったらなんだっていいんだ。だからしっかりしてねぇと、このナックルの守護竜に寝首を掻かれちまうぜ」 ガオー、といつものポーズをしてやればダンデは破顔する。くしゃくしゃの、王でも英雄でもない出逢ったばかりのころの少年の顔で笑って見せる。その顔がキバナは好きだった。自ら選んで苦しい道を行くとしても、その笑顔を忘れないで欲しい。キバナはその笑顔のためならば、命を燃やしてしまえる。そのために、まだ生きている。 ダンデが確認したいと訴えた文化財を一巡りして、最後にタワートップにやってきた。ダンデがムゲンダイナと対峙したその場所である。エネルギープラントの頂上であるそこは、あの晩のまま手付かずになっていた。 「あのときは本当に生きた心地がしなかった」 キバナは、当て付けのように言ってやった。それくらいの権利はあったし、ダンデにはわかりやすく釘を度々刺しておかねば彼は何でも抱えてしまう。 「反省していると何度も言ってるだろ」 「何度でも聞きたいんだよ。お前のお母様とホップが、目覚めるまでの二日間どんな思いでいたか」 ムゲンダイナがダンデに与えた外傷は大したことはなかった。ただ光の作用がダンデの脳にどう影響するかはわからなかった。 ダンデはあのとき、直接ムゲンダイナの光を浴びた。リザードンは主人の意を本当に良く汲み取る素晴らしい相棒である。光を受ける瞬間、リザードンはダンデではなく二人の子供を守ることを選んだ。ホップが、泣きながらそう言っていた。兄がそのせいでこのまま目覚めなかったらどうしようと、あの溌剌とした顔を歪ませて泣く姿は、彼の兄ではないキバナですらもう二度と見たくないと思わせる程だった。 しかしキバナがダンデの立場なら、リザードンが取った行動に心の底からの感謝を捧げたいと思う。ポケモンと人間は言葉で語り合うことはできない。けれど、互いに大切に思い合うことはできる。だからこそリザードンはダンデではなく、子供たちを守ったのだ。ダンデが何を大切にしているのか、リザードンは知っている。本当の信頼で結ばれた関係だからこそ選ぶべきは何なのか、リザードンはわかって、そして行動した。リザードンはダンデというチャンピオンに相応しい最強の相棒なのだ。 「すまない」 真面目な声だ。目覚めたら今にも死にそうな顔で泣いている家族がいた場面でも思い出したのだろう。その記憶に囚われ続けて欲しいわけではない。チャンピオンではなく、ダンデという一個人を大切に想う人々の存在を片隅に留めていて欲しいだけなのだ。 「俺に謝んなよ」 「キミも心配してくれたろ?」 「まあ、な。ライバルにこんな事でいなくなられちゃ張り合いなくなるだろ」 本当はライバルなどという、そんな肩書きだけでダンデを想っているわけではない。しかしキバナは自分で自分に言い聞かせるように、その言葉を使わねば抑え込める自信がなかった。日に日に大きくなる想いを、いつかキバナを頭からすっぽりと喰らってしまうであろうその想いを、無理矢理ダンデの前だけでも取り繕いたいのだ。 「ライバル、か……そうか。だからこそ、キミはいつ俺が目覚めても試合が行えるようにリーグに働きかけていてくれたんだな」 ダンデの言葉が微かに言い淀むような間を持ったが、それは彼の中で蟠っていた何かを結びつけるために必要な一瞬だったらしく、すぐに謎を解いた後に似た顔つきでキバナに優しい表情を向けた。 ライバルだから、ダンデの気持ちがわかる。ライバルだから、ダンデにこれから必要になるであろうことが予期できる。ライバルだから、そうライバルだからこそ、キバナはダンデのそばにいることができる。ライバルでなければ、肩を並べて歩くことができたかすらわからない。ライバルは敵対するものであり、友にはなれても、たぶん愛し合う仲にはなれはしない。その前にキバナもダンデも男だ。ダンデはキバナが知る限��は異性愛者で、そうであればこそこの想いは報われない。 それならばずっとライバルでいい。隣を歩くために必要な条件が、それ以外にないのならキバナは本当の気持ちなど押し殺してダンデのそばにいたい。彼が進む先を、彼が描く未来を、見守って祝福してやりたい。 「まあ、オレ様もお前に負けず劣らずバトルジャンキーなだけさ。それに別の意味でもあの試合、無理してでもお前には出てもらわなきゃならなかったろうし」 「ああ、わかってる。あのとき俺が担っていたチャンピオンという肩書きは、そういったものだったからな。次の世代には持ち越させないさ」 ダンデが背負ったチャンピオンという偶像は、救世主に違いなかった。文字通り、ダンデは停滞したガラルリーグを救った。尚且つ彼は巷に起こる不可解な事件まで解決して回っていた。 今思えば、それらは全てローズ氏のムゲンダイナ復活計画のために必要な情報収集であったろうし、また計画を進める上で起こる数多の問題の処理でもあった。ダンデはローズ氏の計画を全て知っていたわけではない。そもそもにそのような計画が進んでいるということもここ数年の間でダンデ自身が関わる事件に疑問を抱いて独自調査をし、その結果をもってローズ氏に詰め寄ったがゆえに知ったことだ。こんな風にチャンピオンをただの駒扱いできる男など、ローズ氏くらいである。そこがローズ氏の強さであり、恐ろしさだ。 「持ち越させないというか、お前がそのまま担いでるだろーが」 「今だけさ。徐々にそれぞれに渡していくよ。ローズさんのようにはならないし、なれない」 そう言うからには、ダンデは担うものを少しずつ減らしてゆくのだろう。ガラルはこれまで一人の男の手によって育まれ、開花した。けれどその男はもう、いない。ガラルはすでに次の担い手に受け渡されている。それはダンデであり、新チャンピオンであり、この国の未来を担ってゆく若い人々だ。成長期を経て成熟期へと突入するガラルへ祝福を贈るために、ダンデは王座を退いてなお求められた王として人々を牽引してゆく。 千年後もガラルが健やかであるように、愛おしい場所が変わらずに祝福を受け続けられるように、ダンデはローズ氏とは違うやり方で人々を導くつもりなのだ。 「お前はお前のやり方で、俺は俺のやり方で、そうやっていくしかないもんな。十年後すらあやふやだってのに、千年先の未来を思えと言われても……俺にはピンと来なかったんだ」 「俺だって千年先なんてわからないが、それでも何かしたいと思ってしまった。だからできることをする。それだけさ」 「その手始めとして例のバトルタワーですか? オーナー様」 「そうなんだ、キバナ! バトルタワー、どうだろうか? ガラルはポケモンたちと共に更なる高みを目指す!その足がかりとしてジムチャレンジとは違った手法で運営していくつもりだ!」 まるで花が咲いたかのような笑顔、とはまさに今のダンデのことだ。先日、ダンデから送られてきたのは新たなバトル施設に関する企画書だった。バトルタワーと称されたそれは、アローラにあるバトルツリーをモデルとしガラル独自のシステムで運営される。また単純にバトルをするだけの施設に留まらず、育成機関としての面も併せ持たせることでガラルにおけるトレーナーの質の底上げを狙っている、と記されていた。それは間違いなくダンデの夢への、初めの一歩である。 「ジムチャレンジは拘束される期間も長い上に、リーグがサポートするといえども旅路は過酷だからな。お前が十歳で挑戦できたのはローズさんという後ろ盾と、一緒に旅立つ幼馴染みのねぇちゃんがマグノリア博士の孫娘だったからだ。まあ、まだ子供のうちは時間もあるし、親の援助があればなんとかなるが……大人になって仕事やら家族やら担うものが増えると易々と挑めなくなる。お前はそこもどうにかしたいんだろ?」 「資料にも記したが、バトルタワーは万人が安心してパートナーと共に己を磨く場所にしたい。ジムチャレンジは基本的にはワイルドエリアを単身で越えなければならないだろう? ポケモンたちがいたとしても、あまりに幼すぎたり歳をとり過ぎていたり、体が不自由だったりする人々には不利だ。またキバナが指摘してくれたように、すでに守るべきものがある人々にもジムチャレンジは適さない。そもそもにジムチャレンジはガラルのエンターテインメントを担う一つの大興行になってしまっている。それを嫌がる人だっているからな。チャンピオンになることだけが強さではない。ならば、単純に自らを磨く場所としての施設が欲しい。だから中でのことは門外不出として、当人たちにしかわからないようにする。��トル映像は一切、メディアに露出しない。ただパートナーと高みを目指すだけの塔。それがバトルタワーだ」 「ローズタワーの上部を全面改装してだなんて、まあ、お前にしかできねぇわな」 魔術師がその千里眼で高々と建造した塔を、今度は旧世界の王がより高い場所へと至るための足掛かりに造り変える。ガラルの古い物語の一つに自らが作った塔に囚われてしまった魔術師の話があったが、ダンデには万が一にもそのようなことは起こらないだろう。高いところへ、より良いところへ、更にその先へと駆け出す獅子が塔に囚われるはずがない。囚われて後退するくらいならば、ダンデは自らが創り上げた物すら壊せる男だ。 「マクロコスモスには大いに借りを作っているうえに、今は俺が代表だからな。これくらいの我儘は通させてもらう。それにあのタワーだけに権力が集中するのはよくない。申し訳ないが、改装部分に該当するフロアを拠点としていたグループ企業にはそれぞれ別の場所に本社を置くようすでに通達した」 「仕事がお早いことで。マクロコスモス代表にリーグ委員長に、バトルタワーオーナーか。お前、チャンピオンのときより忙しいんじゃね?」 「忙しさは、まあなんとかなるものさ。チャンピオン時代がそうだった。それにキミもいるしな」 「いや、だからオレ様は……」 「キバナ、キミは俺と一緒に駆け抜けてくれるだろう? 新しいガラルの未来まで」 真っ直ぐで穢れを知らない純粋な友愛の眼差し。柔和に細められた肉のその奥にある、希望を指し示す星の煌めきを宿した瞳。それは見知った太陽ではなかった。圧倒的なあの輝きではなく、いつ消えるとも飲み込まれるとも知らない宇宙の闇のなかを孤独に進む、流れゆく星の輝き。いつか果てることを知っている、一瞬の眩さ。 だからこそ共にと訴えっている。あのダンデが、ガラルの太陽が、縋っている。希望の星として地の果てに堕つるその時の道連れになってくれとキバナに乞うている。 そんな瞳で、見ないでくれ。キバナは慟哭する。表情にも言葉にも出さずに心の内側だけで、叫ぶ。嬉しい、けれど悲しい。他の誰でもなくキバナを選んでくれたことへの、体がはちきれそうになる程の歓び。それと同時に戦友だからこそ選ばれたのだろうという悲しみ。 愛ではない。いや、愛ではある。けれどキバナが欲する愛ではない。でも、それでも、何もないよりはずっと良い。そう決めたのはキバナ自身だ。 「断っても、そうするんだろ。お前ってヤツは」 内臓の底が熱かった。無いはずのものが、また形を為そうとする。もう少しだけ待ってくれとキバナは願いながら、ダンデへと了承の笑顔を贈った。これはきっと正解で、ダンデのためになる。 大きく息を吸い込んで溢れそうになるものを、押し込める。吸い込んだ空気から、薄らと薔薇の香りがして鼻腔を抜けてゆく。ダンデの香りだった。彼はいつしか、その香りを纏うようになっていたがローズ氏がそのように仕込んだのだろう。 チャンピオンダンデ。ローズ氏が仕組んだガラルの夢、ガラルの太陽、ガラルの宝。彼はガラルのもので、キバナのものにはならない。チャンピオンを降りてガラルのものではなくなっても、彼は彼のものでキバナのものになんてなってはくれない。この薔薇の香りのように、思わせぶりに香気を放つだけだ。      〇 「最近、体調がすぐれないようですがちゃんと休まれていますか?」 そうキバナに問うたのはヒトミだった。 「私も、そう思います。キバナ様、ずっと仕事しっぱなしですし」 同意を示したのはレナだ。 「オレ様、腐ってもナックルジムのジムリーダー様だぞ? そこらへんちゃんとしてますから」 やはり我が部下は優秀であると、キバナは唸った。隠していたつもりだが、勘づかれていたらしい。しかし優秀であるがゆえに、気の回し方がやや過ぎる。レナはキバナが手に持っていた資料と報告書の束をすでに奪っていた。 「……そう仰るなら、良いのですが。時々、とても疲れていらっしゃるように見える瞬間があるので。あまりご無理はなされないで下さい」 リョウタが言った。部下たちの中でも一番の古株なので、言葉に圧こそないが重みがある。確実に、釘を刺されている。 「みんな、ありがとう。じゃあ、今日は早く帰ろうかな」 「そうなさって下さい。あとは私たちでしておきますので」 優しく微笑んでそう告げるリョウタたちに、キバナはつくづく部下には恵まれたと思った。 ナックルジムはジム業務と並行して宝物庫及びワイルドエリア北面の管理を任されている。八つあるジムの全てがジム業務とは別に地域に根差した業務を並行して担っているが、ナックルジムは他のどのジムよりもその仕事量が多く、責務も重い。そのためナックルジムが最後の関門であることはもちろんジムとしての質の高さゆえでもあったのだが、物理的側面があることは否めなかった。チャレンジャーの数が少なければ、その分の時間を他の業務に回すことができる。 チャレンジャーの大半は三つ目の壁を超えれず終わり、もし超えられたとしても残る四つで両手以下に削られる。ナックルはその両手を、さらに片手にする堅牢な門番だ。主軸とする業務は間違いなくチャレンジャーたちの力量を見極めることなのだが、それ以上にやるべきことが多い。だからこそジムリーダーはもちろんのこと、所属するトレーナーたちは他に比べて格段に優秀な人物ばかりである。 チャレンジャーを見極めるポケモントレーナーとしての確かな強さに加え、宝物庫を維持管理するに足る潤沢な知識と技能。そしてワイルドエリアという自然を相手に、その脅威に対処することのできる機転の良さと知恵。それらを併せ持ってようやくナックルジムの一員となることができる。 ナックルジムは、その系譜を遡ると街を守護する騎士団に辿り着く。古来より竜を従え外敵からも災害からも街を守ってきた者たちの末裔が、ナックルジムなのだ。そしてその騎士団としての精神は今もなお脈々と受け継がれている。ゆえに、ナックルジムが抱える業務は多い。切り離そうと思えば切り離すことのできる部分は多々あるが、それをしてしまえば最後、ナックルの竜は力を失うだろう。騎士団としてのあまりにも長い歴史は街と絡み合い、縺れ合い、今や切り離せない。 だからこそ、なのだ。他のどのジムも追随できぬ強さは重ねられた歴史の結果である。そしてそれを束ね指揮する立場とは、まさに頂点であった。キバナがトップジムリーダーと呼ばれる所以はこれである。バトルの勝敗だけで得られる二つ名ではない。 キバナという男は、ダンデとは別の意味合いで類い稀な人間だった。だが、本人に自覚はない。キバナは自分ができることを、ただこなしているに過ぎないと思っている。言葉でこそ自らをカリスマや天才と評してみせるが、その裏側は地道な努力の積み重ねでしかなかった。部下たちはそれを重々承知しているので、キバナに対して絶対の信頼と尊敬を持っている。 そんなキバナがここ最近、疲れを見せることがある。あんな疲れ方をしている様子を見るのは皆が初めてだった。心配しないでいることなど、できるはずもない。仕事が多いのはいつものことだったが、そこにムゲンダイナの件の処理が加わり更に仕事量が加熱している。 それも理由の一つには違いなかったが、キバナの顔に翳るのはそんな疲れではない。三人の部下たちは皆優秀で観察眼が鋭い。キバナはそれをよくよく理解して、だからこそそんな姿を見せることなど今までなかったのだ。それだというのに、あのキバナが取り繕いきれていない。だが、踏み入るべきではないことも三人は理解していた。ジムに関係した問題ならば、キバナは必ず全員に問題を共有する。そうしないということは、彼個人の問題なのだろう。そこに踏み入る権利を持ち合わせていないことを、部下たちはよくわかっていた。 だから三人の部下たちには、キバナの体調を気づかってなるだけ仕事を捌き減らして彼が安らげる時間を捻出してやるくらいしか、できることがなかった。 自宅に帰宅したところで、キバナの疲労が癒えることはない。そもそもに一般的な疲労とは違うのだ。これは身体に巣喰い、内側からキバナを蝕んで行く病のそれだ。これまで通りに温かで美味しい食事をし、質の良い眠りを得て、晴れやかな朝を迎えれば治るものではない。 だから、キバナはとうとう部下にすら指摘されるところまできてしまった。当初考えていたよりも、進行具合が早いようだ。恋煩いによって引き起こされた病ならば、その進行を加速させるのもきっと恋だ。 ダンデがリーグ委員長とマクロコスモス代表になったおかげで、昔よりも会う機会が増えてい���。彼の顔を見るたびに、彼の声を聴くたびに、彼の微かな薔薇の残り香を嗅ぐたびに、キバナの中の恋心が震えだす。ダンデを独り占めしてしまいたい。でもそんなことできるはずがない。その前に想いすら伝えてはいけない。 何処にも行けないキバナの恋心が、腹の奥底に折り重なってゆく。形なんて無いはずの、何にもならないそれが地層を成して、キバナの内臓を圧迫する。 もうこれ以上はいっぱいだよ、と幼いキバナが右往左往しながら大人のキバナに警告を発する夢ばかりを見る。幼いキバナの両手には溢れんばかりの薄紫の花びら。大切にしまっておいたはずの、幼い頃からの想いの証。小さな粒の一つ一つに、ダンデへの愛おしさが詰まっている。けれどそれらは膨大過ぎて、幼いキバナが抱える以上に二人を飲み込むように周囲に迫っている。 よく見れば、所々腐り始めて茶色のような黒のような、そんなものすら混じり始めていた。それでもやはり花びらは愛らしく、緩やかに甘く香り、それは恋であるのだとキバナに訴える。幼いキバナも大人になったキバナも頭からすっぽりと覆い尽くして埋もれさせてしまう雪崩れのような、津波のような、愛。 肘のあたりを小突かれる感覚に、意識を戻す。ヌメルゴンが、心配そうにキバナを見つめていた。 「すまない。大丈夫だよ、マイプリンセス」 そう言ってやってもヌメルゴンはキバナから離れなかった。それどころか自宅ではボールから出してやっているパートナーたちが続々とキバナの周りに集まり始め、それぞれがそれぞれにキバナを労わろうとする。 なんて、愛おしいのだろう。穏やかで健やかな、ダンデへの愛とは違う愛がそこにはあった。隠すことも押し込める必要もない互いに好意を示し合うことのできる愛。 抱える愛のすべてが、この穏やかな愛に変わればいいのに、とキバナは思う。思ったところで、そうはならないことを知っている。キバナが密やかに胸に宿したそれは表にこそ現れないが、苛烈だ。だからこんなにも美しく恐ろしい病としてキバナの元に舞い戻った。意気地なしと詰問しては、しかしそうなるしかなかったキバナを慰めるように代わりに美しい花のかたちになってみせる。 緩く足に巻きついていたサダイジャが、意図を持ってキバナを締め付けた。どうしたのかと視線を送れば、尾の先だけを巻き付けたままキバナを引っ張るように移動しようとする。思いの外、強引なその動きに椅子から立ち上がると、少し離れた場所にジュラルドンが一匹で立っていた。間接照明すら着けずに項垂れていた室内は暗く、ジュラルドンの姿はまるで夜の闇に溶け込むようだ。しかしその滑らかな身体は仄かに差し込む月明かりを反射して、蜃気楼の如く境目が曖昧な様子で浮かび上がっている。 何かを、抱えていた。暗くてよく見えない。サダイジャがさらにキバナを引っ張って、一歩、ジュラルドンに近づく。白銀の鋼の竜が抱えていたのは、ヴァイオリンケースだった。短い両手で大切そうに抱え、まるで幼い子供を抱いた天使のようにすら見える。試合の際には大地を割り、竜の猛烈な息吹を吐き出しては、神話さながらの烈々とした姿で観客を沸かせる彼だとは、とても思えない。しかし本来の彼は気性の優しい性格で、だからこそ天使に見紛うことは本来の彼の姿を見ていることと同じだった。 ジュラルドンがキバナに近づいて、ヴァイオリンケースをそっと手渡す。その瞬間、勢いよく風が室内に入り込んでキバナの頬を撫でていった。リビングから続くサンルームの扉が、庭に向けて開け放たれている。フライゴンが早くと急かすように出たり入ったりを繰り返しながら、キバナを待っていた。 「なんだよ、お前ら」 パートナーたちの目的がわかり、思わずキバナは微笑んだ。さざなみのように穏やかに寄せては返す、そんな愛おしさばかりが募ってゆく。 ガラス張りのサンルームを抜けて庭に出ると、一際強い風が吹き上げた。木々を揺すり、ごうごうと音を立てて城下へと消えてゆく、少しだけ冷たい風。頂きに雪を纏う北方の山脈からナックルの街へと駆け下りてくる初夏の季節風だ。その風が、キバナたちの間をすり抜ける。フライゴンが嬉しそうに風を体に這わせて満月の夜を飛ぶ。 雲ひとつない夜空。静けさの中にあるのは、大き過ぎるほどの月。まるまると肥え太った月は、キバナたちを見下ろして幕が開くのを待っている。 ケースからヴァイオリンを取り出し、構える。弓を弦に当てがい、キバナはパートナーたちと月へと捧げる一曲を奏で始める。 幼い頃のキバナには、将来の夢が三つあった。一つは父のような立派な学者になること。二つ目は母のような素晴らしい音楽家になること。そして三つ目は、誰もが憧れるチャンピオンになること。 幼い頃の自分に、三つの夢のどれもが叶っていないと告げれば号泣するのだろうとキバナは思う。けれど、代わりにとても素晴らしい夢ができて、そしてそれは殆ど果たされたようなものだと伝えてやりたい。ダンデという一人の少年に出逢って、お前は変わってしまう。彼によって夢は塗り替えられる。でも、それはとても幸福なことなんだと、教えてやりたい。 豊かなヴァイオリンの音色が、夜のしじまに優しく響く。波に似た旋律に合わせて皆が踊っている。キバナの周りを取り囲み、ポケモンたちが各々の感情を乗せて輪舞している。コータスはゆったりと甲羅を左右に動かしてリズムを取り、バクガメスも大きな体を揺らしている。ヌメルゴンに至ってはジュラルドンのあの大きな手を取ってくるくると回り、サダイジャとフライゴンは大地と空とが逢瀬をするように二匹仲良く寄り添うように舞っている。 こんなにも素晴らしい時間は、いつ以来だろうか。目まぐるしく過ぎゆく全ての中で、キバナはようやく一呼吸したような気持ちになる。様々なものが一気に押し寄せて、処理が追いつかない。 彼は行ってしまう。キバナを置いて駆け出してしまった。いつも追いかけて、ようやく肩を並べたと思ったらまたその先へ。でもその背を追いかけることがこんなにも楽しいだなんて、誰も教えてくれなかった。その背中を守りたいと胸を焦がすようになることも、告げられなかった。たった一人の人間を、どうしようもないくらいに愛おしいと想う未来がやって来るなど、キバナは知らなかった。 いつまでも輝いて、いつまでも駆け抜けて、そしてより高い場所へと至るであろう男。彼への想いは、もう歯止めが効かない。好きという感情はロジックでは語れない。花に、なる。ダンデへの想いが、全て花へと変わる。 再び吹き抜ける季節風に、キバナの花が舞い上がる。泣きながらヴァイオリンを奏でる彼の吐息と共に溢れ出すそれは、何処までも風に乗って高い場所へと消えてゆく。 フライゴンがその風を追いかけようとして、満月へと向かって羽ばたいてみせるが、届かない。ダンデへと伸ばしたキバナの手が届かないように、花びらたちへも届かない。それでも、良い。ダンデが笑っていられるなら、キバナはもう彼に届かなくたって良い。 ウィステリア。キバナの恋は、薄紫の小さな蝶に似たその花びらに変わった。風に揺れるダンデの豊かな髪。獅子の鬣のような、それに似た花。花言葉は、決して離れない。 あの戯曲の乙女のことをあざ嗤える立場ではない。なんと正直で素直な現れ方。だからこそ、キバナを死へと誘う。 キバナは奏で続けた。自らの感情をヴァイオリンの音に込めて、弾いた。キバナの大切なポケモンたちの輪舞は続く。キバナが慰められるまで、続く。月明かりの下で、終わりがないように彼らは舞った。誰も知らない密やかな慰めの踊りは果てどなく続いて、いつ終わるのか彼らにもわからない。      〇 それは急に訪れた。どれが引き金であったのかは、わからない。きっと、どれもが引き金だった。最初からそうだった。キバナの心臓を不躾にその手に掴み続ける男の全てが、キバナを殺す毒そのもの。その視線の一つが、その言葉の一つが、緩やかにキバナを縊り殺してゆく。 大きな波が、キバナを飲み込んだ。そう表現するしかない。むしろ、常々荒波に揉まれ続けていたのだ。今までよくぞ生きていたものだと、キバナは思う。嵐ばかりの、そんな海原をずっと航海し続けていた。穏やかな波の日などあるはずもなく、凪の時などもっとない。ただただ荒れ狂うだけの海。その中を十数年、耐え忍びここまできた。潮時とはまさにそのとおりで、ここがキバナの想いが果てる場所。もう何処にも行けない。羅針盤は役目を果たさず、風雨に星の導きも見えない。ダンデへの愛は大津波となって、キバナの船を海底へと引き摺り込んでゆく。天も地も何もかもがわからなくなり、息苦しさだけがある。呼吸ができない。体が動かない。 これが自分に訪れる終わりの形なのかと、キバナは薄らぼんやりとする意識の片隅で考える。喉の奥から溢れて気道を埋め尽くす花の、濃過ぎる程の芳香が纏い付いて離れない。ダンデへの想いを模ったそれはあまりにも甘い香りを放っている。こんなにも苦しいのに、天国の一端のような顔をして麗しい姿で訪れる死。 もう、花を吐き出す力もなくなってきた。それだというのに花びらは次から次へと唇から転がり出てキバナを彩る。まるで棺に納められた遺体の周りを飾るそれのようだ。でも間違いではない。キバナは、このまま花に埋れて死ぬのだ。 この死の形は美しいのだろうか。それとも醜いのだろうか。数多の芸術家たちが想いを馳せ、そして作品へと昇華してきた病。彼らが描き、書き綴り、彫り出したそれらは、美しく清らかでそして厳かですらあった。キバナは自分があのようなものになり変わり死ねるのだろうかと疑問を抱きながら、今まさに死を目前としている。 思考ばかりが快活だ。何故死の間際に脳だけが活性化しているのか。もはや何もわからない。キバナにわかるのは、あと少しでそれが本当に訪れることだけだ。視界すらあやふやで、意識は遠くなってゆく。 底の底へと、沈んでゆく。ダンデへの愛で溢れた花びらの海の底へ、沈んでゆく。ウィステリアの香りが誘う甘美な死。様々なことを投げ出したまま死にゆく自分を、少しだけ罪悪感が襲う��それももう不要な感情だ。キバナはダンデへの恋心で、死ぬ。これ以上に素晴らしい死があるとは思えない。最上でもって死ぬのなら、キバナは満足だ。恋心の成れの果ての先は、世界で一等満たされる死だ。その死へとキバナは突き進んでゆく。息苦しさのなかで最後にと悪足掻きのような呼吸をすれば微かに、あの薔薇が香った気がした。しかし意識はすでに薄らぎキバナがそれ以上を考えることは、叶わなかった。 日差しが少しずつ強くなる日々の中、キバナは例年開催される夏のホリデーシーズンに合わせた宝物庫の一般公開準備に忙殺されていた。ありがたいことに、この時期にチャレンジャーが訪れることはあまりない。前回のジムチャレンジでスパイクジム止まりになった者や、キバナに及ばずチャレンジ期間を終えてしまった数人が訪れる程度のものである。チャレンジャーに注力しなくて済む分、幾らかは仕事が捗る時期ではあるのだが宝物庫の一般公開に��力を注がねばならないので結局忙しさは変わらない。 宝物庫には、いわゆる国宝と呼ばれる類のものがそれこそ山のように保管されている。人類が次の世代へと守り引き継いで行くにあたう様々なもの。それは絵画であり、彫刻であり、化石であり、宝飾品であり、古の恋文である。分野を問わず、歴史的価値の高さから値段などつけられるはずもない宝の山を、ナックルはその宝物庫に仕舞い込んでいる。寄贈されたものもあれば、かつて他国から掠奪されたものもあり、もちろん国が多額の金を出して買い取ったものもある。 普段は一つ一つ温度、湿度、光量に、触れる酸素濃度まで徹底管理されたそれらを何処の誰とも知らぬ人間が歩き回る場所に約二ヶ月間も展示する。それが如何にリスクの高いことであるかは、専門家ならば理解してくれるのだが大半の人間は馴染みのなさに首を傾げる。要は、維持管理の難しさを謳えばきりがない物ばかりなのだ。 また警備にもかなり気を使わねばならない。値段などつける方が烏滸がましいそれらに、わざわざ値段をつけてまで我がものとして独占したい人間もいるのだ。そしてそんな人間たちのために動く輩がいる。キバナがジムリーダーを継いで以降、幸いにも今のところ窃盗事件は起きていない。しかし先代のときは二度、先々代のときには四度、この宝物庫から収蔵品が奪われた過去がある。だが竜から宝物を盗み出すということがどういったことを招くかを、盗人たちは知らない。 過去に盗まれた収蔵品は全て、警察ではなくナックルジムの人間によって宝物庫に返還されている。当時の新聞にはその代のジムリーダーの失態を書き連ねたものと、その汚名をそそぎナックルの守護竜としての圧倒的な威光を賛美するものとの二種類がある。キバナはジムを引き継ぐにあたって、そのどちらにも書かれなかった事実を先代から伝え聞いていたが、竜の怒りとは凄まじいというのが率直な感想であった。 逆鱗に触れてはいけない。触れれば最後、竜は全てを破壊し尽くすまで、その怒りが収まるまで、止まらない。それ以上のことは、キバナの口からは言えない。 兎に角、忙しい。毎年の事とはいえ、展示品はその年のテーマで変わる。展示品が変わるということは、��回それにあわせて巡回路や空調設備やらを一から考え直さねばならないということだ。様々な業者や有識者との調整による調整を経て、ようやく一般公開に漕ぎ着くことができる。 今年のテーマは「過去と未来」だった。ムゲンダイナの件があり、ガラルに住む人間の全てが一度はこの先へと続いてゆく未来を思ったはずだ。ローズ氏のように、千年後へ思いを馳せろとは言わない。だが、少し先の世代に向けて何かできないのだろうかと考えて欲しい。今年のテーマはキバナが独断で決めたものだったが、誰も文句は言わなかった。それだけあの事件はガラルに深い傷を与えていた。 今夜は、この宝物庫一般公開に向けて前祝いの夜会がある。パーティのホストは無論、ナックルジムのジムリーダーであるキバナだ。だがこの夜会はジムリーダーよりも騎士団の長としての顔が強い。竜を率いる者たちは宝物を守る守護者たちだ。その長として、キバナは今宵、普段とは違う仮面を被り参列者たちをもてなす。 ナックルジムはかつての古城をそのまま改築してジムとして運用している。しかしジムとなっているのは城のごく一部であり、残りの部分はガラル全土のエネルギーを賄う発電設備が大半を占めていた。それでも城として最も華やかで美しい場所はシュートのロンド・ロゼやキルクスのホテルイオニアに並ぶガラル屈指の五つ星ホテルとして機能している。 数百年の時を経てなお、中世の頃合いより変わらぬ美しさをした花々の庭園。そしてそこに通じるように作られた大広間は、謹厳な空気を纏うナックルのもう一つの歴史を色濃く留めている。豪奢なシャンデリアはその全てを水晶で作り上げられており、今ではその技術は失われ同じものは作れない。一部は電球に据え変えられたがそれでも蝋燭の灯りを厳かに麗しく反射させ、広々とした室内を明瞭に浮かび上がらせる。 ナックルは竜が守護する街として至る所にその姿を象った装飾が施されているが、この大広間も例に漏れず荘厳な金の装飾の端々には竜が鎮座して睨みを利かせていた。しかしどの竜も華やかな場を承知しているのか、街中の彼らよりも品よく絢爛として大広間を見守っている。伸びやかにその両翼を広げて天使と戯れ合う竜もいれば、愛らしい乙女たちの合間で彼女らに花飾りを奉じられる竜もいる。 この大広間だけはナックルのなかで一等煌びやかでいることを許されたように、何もかもが普段のナックルが持つ歴史書の古ぼけた埃の感じとは違っていた。ナックルの古城は外観だけで言えば、戦火の歴史を刻む厳めしい岩肌の雄々しさしかない。だがこの大広間は時の権力者たちがその財と地位と時間とを湯水のように浴びせかけた幻影が、まだ棲みついていた。かつての幻が未だに息づいて、室内を満たしているのである。 そのなかを、今宵のキバナは主人として闊歩する。竜の名代として、訪れる全ての人々を恭しい一礼でもって出迎えては柔和な微笑みを投げ掛けて、陥落させてゆく。今代の宝物庫の番人はまだ幼いが竜の薔薇と同じ青い瞳を持った稀代の麒麟児だと、そんな噂話と共にキバナがジムリーダーとなってから早くも十数年。年端もゆかぬ頃よりこの夜会で主人をこなしてきた彼は、今や堂々たる様で客人をもてなしては的確な采配をしてゆく。 食べて飲んで喋り、踊る。味覚だけでなく視覚すらも楽しませる豪勢な食事の数々、少しでもグラスの内側が減れば継ぎ足される可憐な泡を伴ったシャンパンたち。歓談は平等に、しかし引き合わせるべきは引き合わせ、このナックルの竜が主催する夜会の意義を刷り込ませては次年度へと繋げる。 宝物庫の管理もジムの運営も、リーグからの助成金だけでは足らないのだ。これはガラルにおける全てのジムに言えることで、自らの食い扶持は自らで獲得しないかぎり充足には程遠い。キバナはその点、プレイヤーでありながらオーナーであった。政治は好きではないが、こなせる男である。 そして何よりご婦人方に最も喜ばれるのは、見目麗しいナックルの守護竜との束の間のダンスだった。マダムもレディーも、普段とは違った着飾り方をしたキバナの姿に虜となる。それは何も女性陣だけではなかったが、公の場で彼と一曲踊るという栄誉は残念ながら女性たちだけのものだった。 恐ろしい程の長身であるキバナは、巨人を仰ぐが如く人々から見上げられる体躯を持つがゆえに四肢は伸びやかで美しい。どんな衣服でも着た瞬間に華やいで見えるのだが、この夜のためだけに新しく誂えられたタキシードはさらにキバナを輝かせた。ミリ単位で縫製され、かつ彼の魅力をより引き出すために伝統を守りながらも革新的にデザインされたそれは一際、彼を眩く映し出す。 誰もがキバナを見る。幼い頃からキバナを見知っている人々は彼の大いなる華麗な成長に毎年のことながら感嘆し、知らぬ者は今現在の彼の鋭利にすら見える男性的な様相のなかで煌めく圧倒的な美貌に吐息を漏らす。 深いが月明かりを受けたように明るい青の瞳が、微笑みと共に柔和に細められる。上質なチョコレートで塗り込めたような滑らかな肌が、温もりを持って手を握り返す。声すらも清涼で、さらに会話には機智が見え隠れして喋れば喋るほどに彼の話題の豊富さに溺れてゆく。 今宵一夜限りで蘇る、かつてこの大広間を満たしていた失われて久しい栄華のなかで幻想のように歩くこの男が、この地を守護する竜であることを客人たちは改めて認知する。 そもそもに竜はドラゴンポケモンたちとは違い幻想そのものなのだから、彼が幻じみていたとしても何の不思議もない。この一夜はすべて夢まぼろしの、しかし現実と地続きの儚い幻影だ。だからこそ楽しみ、踊れ。戦と災厄を幾度となく越えたこの都市だからこそ、輝く宝がある。それは宝物庫の内側に守られたそれでなく、その宝物を守る竜そのものだ。ナックルの宝よ、今宵はその神々しい姿を遺憾無く曝け出すといい。それがこの場に集まった人々の、内なる無自覚な願いだった。 キバナが場慣れしない学者たちに対して柔らかく声をかけている最中、エントランス側から静かにどよめきが起こった。押し殺しても漏れ出る感嘆の声。男も女も関係なく声を潜めては熱っぽい視線を投げかけている。波紋のように広がるそれは、すぐにキバナのところまで伝播した。キバナは学者たちに丁寧な挨拶を送り、その場を離れた。押し隠せぬ興奮の渦の中心が何なのか、夜会の主人として確認する義務があった。そうして流れるように人を避けながら辿り着いたそこで群衆の波のなかから現れたのは、ダンデだった。 紫炎のようなとも、獅子の鬣のようなとも称される豊かな菫色の髪を上質な絹のリボンで緩く結い肩に流している。上半身は金細工でも施したかのように緻密な刺繍で彩られた真紅のテイルコートに包まれ、下半身は単なる白の長ズボンだがその先は丁寧に鞣された黒革のロングブーツに吸い込まれており無駄がない。明らかに乗馬時のそれを意識していながら、しかし場にそぐわないと言わせぬだけの圧倒的な気品が、ただ佇んで愛想ですらない薄らとした微笑みを浮かべる男にはあった。何処かのフェアリーテイルから抜け出てきた王子ならぬ、王がいる。そう思われても致し方ない程に、ダンデはこの古の香りを宿した宴に相応しかった。 両の眼窩に嵌め込まれた太陽を閉じ込めた宝石のような瞳が、キバナを見とめた瞬間、優しく婉曲する。あまりにも明け透けなダンデの感情が、柔らかく目尻に刻まれた皺の一つ一つに見てとれた。それは酷く穏やかな喜びの感情だ。 「キバナ、遅くなってしまってすまない」 ダンデはすかさずキバナに駆け寄って、言った。見た目こそ一国の王と見紛うが、まるで飼い主をみつけ安堵する子犬のようだった。幾らダンデといえども少しばかり緊張しているのだろう。夜会なんてこれまで幾度も招待されて来ただろうに、とキバナは思うがあの頃はローズ氏がいた。しかし今、ダンデはたった一人で彼の分の責務を負いここにいる。見知った顔を見つけて駆け寄りたくなる心理は、キバナにも覚えがあった。 「いや、気にすんなよ。お前こそ無理して来なくたって良かったんだぜ。ローズさんとは違うんだし」 昨年までこの夜会にはローズ氏が顔を出していた。リーグ委員長として、また宝物庫一般公開に多額の寄付をした個人スポンサーの一人として彼はこの夜会に招待されるべき人物であった。 「ローズさんの代わりで来たんじゃない。俺はバトルタワーオーナーダンデとしてここに来たんだ。キミに正式に招待されてね」 キバナは今回、ダンデを招待するにあたり彼をリーグ委員長でもなく、ましてやマクロコスモス代表としてでもなく、バトルタワーオーナーとして彼へと招待状を送った。本来ならばこの宝物庫の一般公開にまったく関与しないバトルタワーオーナーという肩書きでダンデを招待すべきではないのだが、ダンデの夢を後押しする意味合いも込めてあえて「バトルタワーオーナーダンデ」として彼を招待した。それにダンデがリーグ委員長とマクロコスモス代表を兼任していることは周知の事実で、わざわざそんなところを突くような輩はいない。藪蛇は皆、避けたいものだ。 「まあ、そうなんですが」 「それより、どうだろうか?」 ダンデは見てくれと言わんばかりに一歩後退り、両腕を少し左右に広げてみせた。キバナは彼にしては珍しく言葉に詰まった。ダンデが自分の着衣に関して意見を求めてくるなど初めてのことであったし、何より想いを寄せる相手が着飾って目の前にいる。見惚れて言葉がでなかったのだ。 「似合わないか?」 「え、あ、いや。すげぇ似合ってる……というかまあ、今夜の主役はお前ってくらいに目を引いてるよ。ほんとに」 事実であり、キバナの本心でもあった。皆がダンデを注目している。今宵の夜会は彼のために開かれたと言わんばかりに、ダンデはこの場にいる人々の視線を釘付けにしていた。 王座を退いてもダンデが抱えた光は変わらない。それは場面によって輝きの質や具合を変えはしても、失われることはない。チャンピオンとして夜明けを迎え、そして沈んだ圧倒的な太陽の輝き。ガラルという船を未来へと導く、遠いが決して人々を見離さぬ夜空に輝く星の優しい煌めき。 そしてキバナという竜を魅了し離さぬ底知れぬ魔力を宿した宝石の、妖しいまでの乱反射。どれもがダンデから放たれて、否応なしに人を惹きつける。これまでも、これからも、ダンデという男は一歩間違えば人を不幸に陥れることも容易いその輝きで、前へと進んで振り返らない。 「そうか。まあ、キミには負けてしまうがな。これはバトルタワーオーナーの正装、という体でデザイナーが今夜のために誂えてくれた。ちょっと目立つがタワーの宣伝にはこれくらいは必要だろう? 実際に着るものはもう少し簡素で動きやすくて、あと汚れがあまり目立たないように彩度が落ちる」 「バトルに邪魔になる華美な装飾はいらないが、オーナーとしての威厳は残したい、と?」 「そんなところだな。俺はバトルに適していればそれで良いと言っただけで、あとの威厳やらなんやらは勝手に向こうが考えてくれた」 「人任せだな」 「適度に適切に、人に委ねても問題ないものは他者に渡す。そう、決めたんだ」 「そうか」 穏やかに告げたダンデに、キバナは心底安心したような、そんな表情で頷いた。そうやって抱えるべきものとそうでないものを仕分けして、他人を頼り頼られ、そんなふうに生きていくことを覚えてくれればキバナに心残りは無くなる。 いつ死ぬともわからぬ我が身だ。捧げても捧げ足りぬほどに、今ですら時間が足りない。自分を死へと追いやる男へ自らを捧げる矛盾を考えるよりも、少しずつ近づくタイムリミットまでにキバナはダンデにしてやれる事はやってやりたかった。 またあの圧迫感が、息苦しさが、篭るような熱がキバナを苛み始めているが顔には出さない。気取らせもしない。今宵の夜会の主人は、自分だ。今夜この夜、最も堂々たる姿でこの大広間を取り仕切るナックルの守護竜。その姿を汚すことだけは、絶対にできない。連綿と続いてきた歴史、そしてこれからも紡がれてゆく物語。キバナはその一端役だが、それでも名も顔も残る。 何より、ダンデに不安を抱かせたくないのだ。ダンデは、厳しいが優しい。あの足は決して鈍らない。けれど、立ち止まることも振り返ることも知って、覚えた。だからもしもキバナが少しでも弱った柔らかな部分を見せてしまえば、止まってしまう。ダンデは必ず再び歩き出すとわかっていても、キバナは自分のために立ち止まってほしくなかった。そんなことに時間を使うよりも、お前には他にやるべきことが山のようにある。時間は有限ではない。休息も無駄も確かに必要だが、キバナという人間のためにお前の時間を使うことにはもう意味はない。キバナは、そう考えている。 振り返らずに駆けて行け。大地を踏みしめ、塔を駆け上がり、さらには空の果てへと飛び立ち、もう戻らなくたっていい。何処までも行けてしまうなら、そしてそれに伴う孤独すら越えて行けるなら、この地すら棄てて思うがままに生きればいい。首輪も足枷もない。鎖はとうに引き千切られて意味をなさない。誰もお前を、ダンデを、留め置くことなんかできやしない。宝物を守る竜でさえ、その宝物が新たな世界へ飛び出すことを止められない。そもそもに、守られる必要など最初から、なかっ��。だから花に埋もれて死んでゆく男ひとりに、かまけてなんかほしくない。 「蜥蜴の坊や、その方をわたしに紹介してはくれないのかしら?」 背後から、年季の入った掠れてはいるが芯の通った女性の声がしキバナは振り返る。 「マダム、お久しぶりです。ご挨拶が遅くなり誠に申し訳ない」 老婦人を前に、一瞬にしてキバナの表情が夜会の主人の顔へと戻る。キバナは器用な男だった。この都市を守護する竜としての彼はフィールド上の彼とは違っている。仮面の挿げ替えが、とりわけ人間同士における関係性のなかでのそれがキバナはとても上手い。ダンデもあのローズ氏のもとで、またチャンピオンとしても否が応にも顔を作ることを学びはしたがキバナ程のしなやかさは持っていない。ダンデが持っているのは王者の威光の振りかざし方と、それによる重圧の耐え方だ。 「申し訳ないなんて微塵も思っていない顔をして、口だけは達者にものを言う。小蜥蜴のころはもっと可愛げがあったというのに、大蜥蜴になってからというもの憎たらしさと見目ばかりに磨きがかかって」 「マダムに鍛えられていますからね。それに美しい男はお嫌いではないでしょう?」 「本当に嫌味な男に成長したものね」 ダンデは蚊帳の外になりながら二人の会話を聞いていたが、ふいに老婦人の視線がキバナから彼に移る。驚いた顔こそしなかったが内心、どきりとさせられているらしい。キバナは普段のダンデを知っているので、少しばかり様子が違うことに気づいたが普通の人間にはわからないだろう。王者の風格保ったまま、ダンデは意図的に微笑んでいる。 婦人の眼差しの鋭さは、これまでキバナが見知っている彼女ものと違っていた。凍て付くようにも、燃え盛るようにも感じられる一筋の眼差し。歳を重ねたことで眼球は濁り始めているが、その濁りのなかですら鮮明な何か。ダンデが見定られている。値踏みするような愚かしい眼差しではなく、今見ているものの真の価値を知ろうとする思慮深い瞳だった。 「マダム、今更紹介する必要もないとは思いますが礼儀として。彼は我らがガラルリーグ元チャンピオンにして、来週より本格運営が始まるバトルタワーオーナーのダンデ氏です。ダンデ、こちらのマダムは……」 「知っている。マダム・クローリス、ナックルの不死鳥と呼ばれる方だ」 婦人の眼差しに貫かれるダンデに助け船を出すつもりで紹介すると、言葉を遮られた。不躾と思うよりも前にダンデがキバナが考えるよりも遥かに財界に精通していることを知る。ローズ氏の教育の賜物か、はたまたマクロコスモスを背負うようになったからかはわからないが、ダンデはやはりこちら側の才もあるのだろう。 「ミスター・ダンデ。貴方に知っていただけていたとは私も有名になったものだわ」 「むしろ知らない方がモグリでしょう。貴女のお話はローズさんからお聞きしています。お会いできて光栄です、マダム」 恭しく婦人の手を取り、ダンデは流れるように彼女の手の甲へと、触れる間際の接吻を贈る。 マダム・クローリスは財界の要人の一人である。しかしローズ氏や他の財界人たちとは違い表舞台に顔を出すことを良しとはせず、ほぼ代理の人間を通して事を進めるため彼女の顔を知る者は少ない。それに下手をすれば名前すら明かさない。自らの気配を限りなく薄めた上でしか彼女は動かない。だから婦人の顔を知っている、ということは一種のステータスでもあった。 そしてシュートがローズ氏の国であるとするならば、ナックルは彼女の国であった。この城壁都市ことナックルで何かを興そうとするなら、彼女の許可を得なければそれは成されない。竜が守護する街を経済面で守り支え、そして統括してきた女主人は紛れも無く彼女だった。 没落貴族の娘として生まれた婦人は借金を残して蒸発した父と、男に狂う母との間でかつて死んだように生きていた。もう本当に死んでしまおうと彷徨い辿り着いたのがナックルで、そして結果的に彼女はこの竜の街に生かされた。婦人はその時の恩義を忘れない。不死鳥の如く返り咲くことができたのは、ナックルのおかげだと言ってキバナと同じようにこの地を守護している。 ナックルの守護竜と女主人、そして今やガラルの王と呼んで差し支えのない黄金の獅子。その三人が居揃う空間の異様さは、あの時あの場所に、この夜会に参加することが叶った者にしかわからない。周囲は彼らが何を話しているのか、何をしようとしているのかを知ろうとして聞き耳を立てるが、何の情報も得られない。ただ、取り留めのない話題で仄かに笑いあっているのが見えるだけだ。 婦人が手を上げ、誰かを呼び寄せる。一人のうら若い、それもようやく一羽で飛ぶことを覚えたばかりの小鳩のような、少女と呼べる年頃の令嬢が三人のもとへと駆け寄る。そうして婦人が竜と獅子とに、幼さの残ったその令嬢を紹介する素振りを見せた後、それぞれが二組にわかれてダンスを踊る人々の群れの中に紛れ込んでいった。 竜は婦人と、その巨軀に見合わぬ丁寧さで、それこそひと昔前の映画俳優がする洗練された所作でもって軽やかに踊る。しかし軽いが、老婦人の重厚さに負けるわけではなく、長年をかけて何度も塗り重ねた漆のような艶を醸し出しては黒羽の麗しいアーマーガアが二羽いるような錯覚を起こさせる。 一方の獅子と小鳩の令嬢は、慎ましく愛らしい様子でゆったりと踊っていた。あのダンデと踊っている、という事実に令嬢は緊張してしまっているのか動きはぎこちなく視線も伏せがちで、しかしダンデが優しく何かを喋り掛けながら無理のない範囲で楽団が奏でる調べに体を揺らしていた。そのうちに小鳩の令嬢も少し緊張が解れてきたのか、にこやかな表情を浮かべるようになり、その様子は誰もが知る異国の物語の一場面のようだった。 真実の愛でのみ、野獣の姿から人の姿へと戻ることができる呪いを掛けられた王子の物語。ダンデは醜い野獣ではなかったが、しかしある意味合いでは獣で、血に飢えたようにすら思えることがある。殊にフィールド上での彼は、あの日あの時までは無数の屍の上に据えられた王座の主人だった。獣であることには、違いないのだ。 「あれは本当に王の顔をしている」 婦人が、踊りながらキバナに耳打ちした。視線はダンデと令嬢を見ている。 「孫娘さんのお相手には、ちょっとポケモン馬鹿ですが不足のない男ではありますね」 キバナも二人を一瞥して、答えた。 「坊や、お前はこういう事に関しては本当に愚かね。私の可愛い孫娘をあんな獣にくれてやるものですか。あれは、ミスターダンデは王の器だけれど孫娘の伴侶としては不合格。確かに夢見るような姿形をして、そしてそれに伴う中身も実績もある。けれどあれは所詮、獣。ローズもよくもまあ、あんな逸品を探し出してきたとは思うわ。だけど坊や、彼はお前と同じ血に飢えた獣よ。血で血を洗う戦場を好んでしまう。より高い場所へと至るために、同朋の骨を踏み潰して歩き出せる。私は孫娘にそんな修羅の道を歩いてほしくない。何よりあの王様は自分で自らの伴侶くらい生け捕ってくるでしょう」 婦人の言葉を聞きながら、キバナは再び二人を見た。本当に夢見るような、そんな姿で二人は踊っている。物語ならばこのままハッピーエンドが訪れて、二人は末長く幸せに暮らしましたと締め括りのナレーションかエピローグが挿入される場面だ。 愛らしい妻と子どもたちに囲まれるダンデ。薔薇の花が美しい庭先で、ポケモンと子どもたちが戯れ合う様子をとても幸福そうに妻と眺めている。キバナの脳裏に、いとも容易く浮かび上がるいつかダンデに訪れるであろう未来。婦人が言うことはもっともだが、ダンデにはキバナが夢想する未来もきっと与えられている。その未来にいない自分は、いないからこそ意味がある。 また内臓の奥が熱くなって、今すぐ吐き出してしまいたい。何もかもをぶちまけて、楽になってしまいたい。でもそんなことができる筈もなく、キバナは彼にしては綻びのある笑みを浮かべる。 老婦人は何かを言おうとしたが、やめた。目の前の極めて美しい、そして孫娘と同じように愛おしい竜の内側を不躾に踏み躙る真似はできない。それに婦人がキバナにしてやれることなど、何もないのだ。 夜は更けて、それでも人々の笑い声も音楽の調べも途切れることはない。いつまでも続くような、そんな気がしたまま、人々は酔って踊っている。かつての栄華の澱を掬い取るようにしながら、誰かがはっきりと終わりを告げるまで知らぬふりを決め込もうとしている。 しかし、ここはナックルだ。竜が守護する街である。規律に正しく、厳かな竜の顔が真夜中を告げる時計の音に呼び戻される。朗々とキバナは、宴の終わりを告げた。一切の隙も慈悲もなく終わりを連れては、しかし追い出すわけではなく、優しく皆に家路を示してやる。夜会の主人としてキバナは最後まで柔和に、人々を見送った。 そして全ての人々の影が消えたがらんどうの大広間に立ち、キバナはようやく夜会の主人という仮面を剥ぎ取った。剥ぎ取った瞬間、もう保たないとも思った。庭園へと、駆け出してゆく。 あらゆる花々が咲き誇っていた。ナックルが誇る城の庭は、緑は瑞々しく花はめいめいの色に鮮やかである。けれどキバナには何も見えない。その瞳には庭を観賞する余裕などなく、ただ人気のない場所を探し求めた。迷宮のような庭の奥の奥、虫の音すらないような深い夜。誰もいない、冥府のような暗がりにキバナは倒れ込んだ。 喉の奥から溢れ返る、小さな蝶々たち。豆のようにも見える、香りの濃いウィステリアの花びら。これまで溜め込んでいた分を一気に吐き出すように、キバナはその大きな身体を折り曲げるようにして、地面に這い蹲り花びらを溢してゆく。 吐いても吐いても、止まらない。それどころか、吐くよりも腹の内にたまる量のほうが上回っている気配すらする。鼻腔を満たす甘い香り。それはキバナにとっては死を誘う香りで、濃くなればなる程にキバナの命を削ってゆく。呼吸がままならない。息が吸えない。涙が勝手に目から頬へと伝う。ひきつけを起こして、体が硬直する。 花びらの荒波に揉まれる哀れな漂流者。掴まるものはなく、足掻けば足掻くほどに溺れてゆく。ここがキバナが終わる場所。キバナが抱える恋の成れの果て。冥府の闇がキバナを静かに捕らえて、ウィステリアの香りと共に彼を引き摺り込もうとしている。 甘美な死がもう直ぐ訪れる。でも、もし叶うなら最後にと願う力だけはあった。それは死際の幻影の代わりなのか、彼の香りがした気がしてキバナは、意識を手放した。      〇 真っ白な天井だった。染み一つない、病的なほどに白い天井。薄闇のなかに浮かび上がるそれは、ここが天国ではないことだけは教えてくれていた。それならば地獄なのかもしれない、とキバナは思うが思考は脈略なく、そして続きもしない。ただぼんやりとしたまま死んだのか生きているのか、それともそのどちらでもないのかを考えようとし空回る。 虚な瞳を揺らし周囲をぐるりと見回そうとしたが、しかしそれがうまくできない。体が鉛のように重い。代わりに呼吸は軽い。大きく息を吸い込んで、そうしてから吐き出してみると、ようやく全身の強張りが取れて思わず呻き声が出た。醜い、地獄の底から這い上がるような声だった。 「キバナ!」 名を呼ばれ、もう一度瞳を動かしてみる。先程より幾分かこましに動いた眼球が、ダンデの姿を捉えた。 「大丈夫か? 苦しくないか? 俺が誰だかわかるか?」 矢継ぎ早に問われても、キバナは答えられない。ただダンデの顔が酷く歪んでいたので、心配させたことはわかった。 「大丈夫、わかる……ダンデ、ここは?」 ひとつひとつ、言葉を区切り、声を紡いだ。 「病院だ……」 そう言われて、キバナは納得した。確かに、病室だった。明け方が近いらしいがまだ弱い光が、キバナの腕に繋がる点滴の管を照らしている。肌に触れるのは清潔なベッドの感触で、視覚が捉えたのは無機質な室内。生々しく生気を放っているものは、先程からキバナの手を握って離さないダンデだけだった。 「呼吸は、苦しくないか?」 ダンデがキバナの顔を覗き込み、問う。視線が、混じり合う。ダンデの瞳は吸い込まれそうな、真っ暗な闇のなかを煌めく星々の瞳だった。静かに全てを飲み干そうとするブラックホールの向こう側で、輝く星の眼差し。その眼で射抜きながら、キバナの顔を包み込むようにダンデの髪が垂れて覆う。いつか見た、壁一面に伝うウィステリアの花々のような、ダンデの髪。優しく揺れて、キバナを内側に閉じ込めてしまおうとするかのようにカーテンの折り重なるひだみたく、キバナを覆う。 苦しくない、と言おうとして代わりに花びらが溢れた。苦しくないはずが、なかった。こんなにも愛おしいのに、伝えることすら叶わないキバナの慎ましい恋。泣いて、苦しんでいる。 「俺、花を」 「喋るな、わかっている。大丈夫。キミは死なない、死なせない」 落ち着かせるようにダンデはキバナの手を優しく撫でると、一度その手を離した。何かを探すような物音がした後、点滴をしていない方の腕を取られる。 「すこし、痛むぞ」 ダンデがそう言った瞬間、小さな痛みが走った。 「これで落ち着く。安心してくれ、害がないことは実証済みだ」 「なん、だ?」 ダンデがキバナの腕になにかを注射していた。手慣れ��様子でゆっくりとキバナの体内にそれを投与していく。 「薬だ、花吐き病の」 「くすり? そんなの……」 「俺が開発させた」 「ダンデ、が」 「俺も、キミと同じなんだ」 全てを投与し終え、ダンデはキバナの肌から針を引き抜く。丁寧にガーゼをあて、さらにそれを上から医療用のテープで固定した。 「報われない恋を、している」 白い花びらが、ダンデの唇から溢れた。そして強く香る、薔薇の匂い。そうか、だから、いつも。キバナはダンデから香るあの愛おしい香気の正体を知って少しだけ寂しい気持ちになりながら、投薬のせいか急速に訪れた眠気に抗えず瞼を閉じた。 ダンデがチャンピオン時代から出資している企業のなかに、ベンチャーの医薬品会社があることを知っている人間は少なかった。そもそもにチャンピオン時代には公表していなかったのだから、当たり前ではある。 そこは新薬開発を主だって行う企業だったため、どちらかと言えば研究所めいていた。これはダンデがそこを初めて訪れたときの感想である。 これまで開発してきた薬の利権で経営に問題はないが、さらに新しい薬を開発するには研究費が足らない。新薬開発とは金を食う虫そのもので、無事羽化すれば大金を呼ぶがそうならなかった場合、悲惨だ。 その時すでに、ダンデは病に侵されていた。愛おしいその人を想うだけで、花びらが口から溢れかえる。時代の寵児、未来のガラルを率いる王の器。そんなダンデが恋煩いで花を吐いて、死ぬ。 許されることではなかった。ダンデの命は、すでにダンデだけのものではなく容易く死ぬことを誰も承認しない。それにダンデも死にたくなかった。まだ、やりたいことがあった。やらなければならいことがあった。だからローズ氏と共にそこを訪れたのだ。 花吐き病に対する特効薬を作る。完治させなくていい。病状が抑えられればそれで良い。研究成果やその副産物はそちらで好きに使えばいいし、そのために掛かる費用はこの幼さが残るチャンピオンと、そして今やガラル再建の父とも呼ぶべきローズが受け持つ。 ただ一つ、チャンピオンが恋煩いをしている、そのことだけは絶対に漏らすな。全てを内密に、これは秘匿すべき真実。我らが王が癒えない恋の病を患っているなど、そんな噂が流布することがあってはならない。 そうやって約束は取り交わされ、薬は作られた。全ては、それだけの価値を有したガラルの宝のため、ダンデという無敵の輝ける王のためだった。 薬は病を安定させた。花を吐くことはほぼなくなったが、しかし癒えたわけではない。どうしても、この胸の内に生まれた恋が暴れだす時がある。そんなとき、ダンデの口からそれは溢れるのだ。ひとひらの、白薔薇の花びら。ダンデはこの花の花言葉を知っている。自分で自分に呆れかえるような、そんな言葉だ。 私は、あなたに、ふさわしい。 ダンデの本心。それはなんと高慢なことか。そう思えど、そのようにあることを自らを作り上げてきた面もある。 伝えられない。言うつもりもない。言ったところで、この恋が受け入れられることはきっとない。なら、言わない。お前は王だと皆が言うが、それならばこんなにもあの人に対して臆病なのは何故なのか。考えたところで答えはない。ただ、前に進もう。そうすることで、あの人もきっと喜んでくれる。ダンデには、それだけだった。 ダンデから秘密を明かされ、また同じ秘密を持つ者であると彼に知られたキバナは薬のおかげで体の容体は安定していた。代わりに自分の恋は本当に果たされないのだと理解して、心は揺れている。 ダンデの恋の病は、彼がまだ幼さを充分に残していた時分からだという。それ程にも長い、恋。それでも消えない、想い。 ダンデは死ぬまでこうだろうと、笑って言った。それはキバナも同じだった。ダンデへの愛は、もう死ぬまで消えることはない。もしかしたら、死んでも消えないのかもしれない。この哀れな恋を抱えて、それでも生きねばならない。ダンデがそうしてきたように。 逆に考えろと、キバナは自分に言い聞かせる。薬があるならば、報われなくともダンデを支え続けることはできる。献身が恋を誤魔化すための上塗りにしか他ならなくとも、それでもキバナはダンデのそばにいることを許される。 それだけで充分だろう。不足なんて、あるものか。だってダンデの近くでまだ生きていくことができる。彼の輝かしい道を行きを、またこの目で見ることができる。もしかしたら、キバナがダンデの恋を助けてやれるかもしれない。ダンデが笑う顔が、見たい。心の底から、幸福に酔いしれて微笑む顔が見たい。そのために生きてゆくことが、キバナにはできる。 そう考えるとキバナは、胸の内が暖かいもので覆われたような気がした。この恋が永遠に愛されることはないとしても、ダンデのそばで彼のライバルとして友人として肩を並べることはできる。ダンデも、それを許してくれるだろう。 マダム・クローリスが言ったように、ダンデが行くであろう修羅の道をキバナだけは共に歩いてやりたい。きっとキバナはダンデのスピードに追いつけず、いつか置いてけぼりをくらうのだとしても、行けるところまで一緒に歩んでいきたい。      〇 「どうだ調子は?」 先程、秘書が運んできた紅茶を飲みながらダンデは問うた。飲みなれた味なのか、これといって味わう様子はない。 「まずまずってトコだな」 キバナも同じものを出されており、遠慮なく手を伸ばす。ティーカップを鼻先まで持ってきたところで、香りだけで随分と上等な茶葉が使われていることがわかった。ダンデのことなので茶葉について特に指示などしていないのだろうが、腐っても天下のマクロコスモス代表及びリーグ委員長、そしてバトルタワーオーナーの執務室である。肩書だけでも大渋滞を起こしているガラルの王が日々に飲む紅茶がスーパーで買える安物では格好がつかないということだろう。 ローズタワー兼バトルタワーへと名称を変えたこの塔の最上階からの見晴らしは、いわゆる絶景と呼ぶべきものだった。全面特殊な加工が施されたガラス張りのそこからはナックルから見れば北方、シュートからは南方の雪被る山脈が低く見える。階下に流れる都市を横断するかの川もランドマークの観覧車もありとあらゆるビルや人々も、ミニチュアじみていて現実味がない。太陽を目指さんとするかのように近過ぎる空、打って変わって棄て去りたいかのように遠過ぎる大地。 まるで古の書物に記述されている神の怒りを買った塔のようだと、キバナは思った。人の力が如何様なものかを神に知らしめるべく建立された、天届く塔。神に挑み、神を侮辱し、そして神によって壊された神話の建造物。しかしこの塔を建てたローズ氏も、そして現在の主も神など信じぬ無神論者である。キバナとて、そうだ。誰も神の怒りなど恐ろしくない。そもそもに存在するかもわからない神に挑むなんてナンセンスなことはしない。恐ろしいのは生きている人間で、打ち勝つべきもまた生きた人間だ。 「お前こそ、どうなんだ?」 「盛況、と言いたいが思うようにはいかないな」 ダンデはため息をつき、肩を竦めてみせた。 「みたいだな。お前とバトルできるってのが逆に恐ろしいらしいぜ?」 バトルタワーに関する噂を事前にネットでチェック済みのキバナは、訳知り顔でダンデに言ってやる。 「なぜ?」 「なぜってそりゃあ、お前何年チャンプやってたよ? みんなはチャンピオン時代のお前しか知らないんだ。テレビ画面の向こうで、リザードンの燃え盛る灼熱の炎を背負ってフィールドに立ってた神々しい王様だぜ。ほいほい遊び気分で行けるかっての」 チャンピオン・ダンデ、それはガラルの希望そのものだったのだ。一度は低迷したガラルリーグを再起させた輝ける太陽。誰もが憧れ慕う、我らが賛美すべき絶対の王。ガラルの地にいる限り、その眩さに目を焼かれぬ者はいない圧倒的な光。生ける伝説、その人。 それがダンデという男が築き上げてきたチャンピオン像である。チャンピオンの座を降りたと言っても、人気は不動のものであり現チャンピオンは残念ながら今のところダンデのそれには到底敵わない。担った歴史が違うのだ。ダンデは黎明を呼び、現チャンピオンはそれを引継ぎ発展させてゆく世代だ。役割が違うのだから、王としての在り方も違う。 ダンデは、未だにガラルの民にとってはいと高きところに座す貴い人のままなのだ。そんな人のもとで、ましてやその人が最も美しく在るバトルというあの得も言われぬ空間で、一対一で顔を突き合わせることが普通の人々にできるだろうか。 きっと、難しい。ダンデは皆と同じただの人間だ。神ではないし、その御使いですらない。しかし、これまでの十数年が簡単にはダンデをただの人にはしてくれない。ダンデの長年の努力が、今度はダンデを過去の幻影に縛り付ける枷となる。 「それは……王というよりも魔王扱いじゃないのか?」 少しばかり思案して、ダンデがこぼしたのはそんな不満混じりの言葉だった。キバナもダンデのその不満には同意だが、しかし普通の人々の心理もよくわかる。 「所詮、王も魔王も同じもんなのさ普通の奴らには。単なる畏怖の対象。強いってのは味方になれば頼もしく感じ、敵に回れば恐ろしい。それだけのことだ」 キバナは民衆の心を代弁する。皆ダンデを好いているが、しかし彼を真正面に据えてその黄金の瞳を見つめ続けることのできる人間がどれだけ���ないかを彼は理解していない。彼の膝元まで訪れることができたこれまでのチャレンジャーたちは、仮にもあの厳しく険しい工程を掻い潜ってきた者たちばかりなのだ。ダンデの眼力程度では怯まぬ、気高き勇者たち。 そしてその尽くを跳ね除け、山となって積み上がっている屍の一つとしてきたのは他ならぬダンデ自身である。それをこの男は、忘れているのだろう。ダンデは、殊にバトルのこととなると前のめりになる。冷静さを据えたように全てを見通す顔をして見せるが、彼とて人なのだ。見えぬ部分もある。だがキバナが助言してみせれば、ダンデは立ち所にそれを正すだろう。だからこその王者だったのだ。 「キミは、俺が恐ろしいか?」 ダンデがキバナを見る。視線は当たり前にキバナの瞳を捉えて、離さない。 そう、この眼だ。この輝ける太陽を宿した瞳の奥に、清らかさと正しさの権化のような光の奥に、全てを燃やし尽くす苛烈な欲望という焔がある。どんなに離れようと、そこに立ち戻ってしまう。それがなければ生きている意味がなくなってしまう。ダンデの欲とは、彼のなかにある最も人間として醜い部分とは、あのバトルのなかでしか味わえぬ高揚を求めてしまうことだった。 「まさか」 ダンデの瞳を、キバナは改めて真っ直ぐに見据えた。逸らそうなんて欠片も思えない。ダンデの瞳がキバナを欲していると強く訴えている。キバナにはこれしかないのだ。ライバルという立場でしか、ダンデのなかに存在できない。それにキバナは、身の内に巣喰う自らの欲に素直なダンデを嫌いになれる筈がない。 むしろそのような存在としてこの世に在る彼を愛している。ダンデは清廉潔白なまま、自らの欲望を果たすことができる稀有な存在だ。王の貌の下にあるのは、血に飢えた獣のそれだ。高みへと登るのは、その欲望を昇華するためだけで他のことなど本来は副産物である。 そうだというのに、ダンデは自らの欲を果たすだけだというのに、その姿はやはり王の姿なのだ。この背を追えば、必ずや約束された地へと辿り着けるのだろうと思わせる安心感。安穏に彼の道行を見守るだけで、それだけで導かれるような、そんな気配。だから人々はよりダンデを神と見紛う。彼は神ではないが、しかし神に似ていて、けれど神ではやはりなくて、それがダンデという男が内包する人間的魅力の一つである。 「みんながキミみたいであれば……いや、そうじゃないな。そんなことじゃ何も解決されない」 「まあ、そう焦りなさんな。このキバナ様も一緒に、どうすればこのバトルタワーがただのバトルジャンキー施設ではなく、初心者も楽しく過ごせる超優良娯楽施設であることをアピールできるか考えてやるよ」 「あ、あぁ……そうだな」 「歯切れが悪いな」 「すまない。そういう意味ではなくて……キミをあの時救えてよかったと、そう改めて思ったんだ」 そう言ってダンデは、優しく微笑みを浮かべた。 あの晩、溢れ返る花に気道を塞がれ呼吸困難に陥ったキバナを救ったのはダンデだった。ダンデは一度はタクシーに乗ったのだが、キバナの顔色が悪かったことが気にかかりホテルまで引き返した。後片付けも殆ど終わった大広間の中央で、いくら夜会はすでに閉じられたといっても普段とは違いぼんやりと佇むキバナを見て、やはり引き返したのは正解だとダンデは思った。しかし声をかける前にキバナが庭園へと走り出してしまい、咄嗟にあとを追った。 ナックルの庭園は、迷路だった。ただでさえダンデは迷いやすい。リザードンもおらず、キバナの行先もわからない。けれど追いかけなければと、ダンデはそう感じた。そのとき、強く香るある花の芳香がした。 ウィステリアの花の香り。それはここ最近、キバナから香る匂いだった。甘く、しかし涼やかに風に舞って飛んでゆく、儚い香り。ダンデはそれを追った。庭の他の花の香などには目もくれず、その香りだけを頼りに走った。そうして花びらに埋もれて���しむキバナを、みつけた。 「ダンデ、あのときはありがとう」 キバナが感謝しているのは嘘ではない。けれどもし、あの時あのまま死んでいたら、と思う自分がいるのもまた事実だった。ダンデへの想いに自らの命を蝕まれて死ぬ。そんな夢物語を体現する機会は、キバナが薬を飲むことをやめない限りは失われた。あの息苦しさはいつの間にかキバナのなかで、ダンデへの愛を昇華する行為になっていた。苦しめば苦しむほどに、キバナのダンデへの愛は許される気がしたのだ。 伝えてはいけない、悟らせてもいけない、墓場まで持っていくべき愛。吐露することさえできないそれを花びらに変えて苦しむことで、キバナはダンデを想うことだけは赦された気持ちになった。苦しい代わりに、胸の内に秘めることだけはできる。この愛おしい存在を消さなくとも良いのだと、そう思えた。 けれどこれからもずっとこの苦しみを抱えたまま生きるのだろうかと、そう考えてしまった時、キバナは恐ろしくなった。花びらによる呼吸困難のことではなく、この愛をひた隠し続けなければならない未来を憂いたのだ。ダンデのそばで彼の未来を身も守る幸せは、キバナの愛を永遠に闇の底に縛り付ける行為だった。ダンデが幸せに笑う顔が見たい、けれど自分はきっと本当に幸せに笑うことはもうない。 どっちの苦しみを取るかの話だ。ダンデの未来から消え彼の行く末を見守れぬ苦しみか、ダンデの未来にはいるが永遠に自分を偽り続ける苦しみか。薬がある今、キバナにはこの二つの選択がある。だが、選択など本当は苦悩を増やしただけだった。選べるという地獄に、キバナは堕ちてしまった。 あの時、あの甘美な死に身を委ねていたのならこんな苦しみを知らずに済んだ。けれど苦しいのに、ダンデが笑う顔を見てしまうと、キバナはだめだった。ダンデが笑えば、キバナは嬉しい。まるでパブロフの犬だ。それは揺るがない事実だった。だからキバナは生きる。死を考えたところで、あの笑顔が邪魔をする。圧倒的な光がキバナを包み込んで、安らかな闇を遠ざける。 キバナは器用だ。仮面なんていくらでも付け替えて、そうして隠してしまえる。自分の特性に感謝しろ。お前は、ダンデのために生きて死ぬ素養がある。だって、そうとしか思えない。そのために、これまでを生きてきたようにしか、キバナにはもう思えない。      ◯ 病状を抑えるための薬には、二つの種類があった。一つは毎日、定期的に経口摂取する飲み薬である。基本的にはこの薬だけで病状は安定する。今後も飲み続けなければならないが、それで済むというのだから医療の発展とそれに貢献したローズ氏とダンデには感謝せねばならない。 そしてもう一つは、注射器や点滴によって投与するものだ。飲み薬で安定すると言っても、この病は感情の起伏に大きく左右される。それこそ、恋しい愛おしいという感情の波に揺り動かされて、それが多量の花びらによる呼吸困難のかたちで肉体を襲う。 感情は、どんなに抑えようとしても抑えられるものではない。見た目や表情に出なくとも、それは体の内側で煮え立っている。そして沸点を超えた瞬間、溢れ出す。恋心が花びらになってその宿主を襲うとき、飲み薬など役に立たない。口から溢れ出す花びらに阻まれて、舌の上にすら辿り着けずに終わる。 あの晩、キバナを救ったのはダンデが緊急時用に所持していた自己注射型の薬だった。血液に直接投薬することで素早く体内を循環し、かつ飲み薬よりも効果が強い。しかし、あくまでも緊急時用のものだった。薬は、使うたびに体に馴染んで効果が薄くなっていく。また副作用も少なからずあった。薬効が高ければ高いほど、反比例するものが必ず付随するのが薬というものだ。 だからキバナは、自分の感情をなるべく波だたせないよう意識せねばならなかった。もともとそうやって生きてきた筈だったが自覚して以降、キバナの心はかつてなく掻き乱され続けていた。ダンデはどうやってこの乱れ続ける心を宥め、その手綱を握っているのか。暴れ馬というには美し過ぎ、しかし愛でてやるには苛烈過ぎるこの想いをダンデはあの王の貌の下に隠している。 なればこそ、キバナもそうしなければならない。死ねぬというのなら、尚更そう在るべきだった。ダンデの隣を歩くということは、ライバルとして同じ道を行くということは、まさに苦しみなのだ。 船から投げ出された船乗りは、荒れ狂う海で死ぬ筈だった。打ち付ける大波、上がる飛沫、鉛のように重く痛い風雨と鳴り響く雷鳴に、傾き沈む船。投げ出された海の中、泡を吐いて死を待つばかりの船乗りを救ったのは彼を死に至らしめんとする大嵐を引き起こした張本人。 黄金に輝くトリアイナを振りかざし、嵐を呼ぶ大いなる海の神。山のような巨体を渦巻く波に戯れさせては、何の悪意もなく楽しげに笑う。自分が行うことの一つ一つが船乗りにとっては自然の脅威だというのに、そんなことは露とも知らず無邪気に遊ぶ。 そんな神が、それこそ気まぐれに船乗りを海の底から引き上げてみせる。波によって打ち砕かれた船の残骸に乗せてやり、虫を観察するかのように死の淵から生還した弱った命を眺めている。黄金の、恐ろしい程に澄みきった海神の瞳が、船乗りを見ている。 「キバナさん!」 「え、あ、はい!」 大声で名を呼ばれ、キバナは白昼夢のような妄想から現実へと引き戻された。溺れるのは恋だけで充分だというのに、ここのところキバナはこの船乗りと海神の妄想に取り憑かれている。ダンデへの愛に溺れる自分が船乗りで、船乗りが溺れていることに気づきもせずに嵐と戯れる神がダンデだ。 ダンデは神ではない、なんてもうこの口から告げてはいけないのかもしれない。何故なら、ダンデはキバナの人生を容易く左右する。彼が泣いても笑っても、キバナは振り回される。そんな存在がキバナにとって神ではないなんて言ってしまえるだろうか。だから妄想の中の二人は、ただの人と大いなる神の姿でキバナの前に現れる。いっそのこと、そうであったならば諦めもつくがダンデは神ではない。彼は、普通の男だ。キバナが一番よく知るように、ダンデはただの人なのだ。悲しいくらいに、ひたむきに今を生きる愛おしい男である。 「ぼんやりされていましたが大丈夫ですか? 少しでも異変があれば仰って下さい。あなたと、そしてダンデさんが患われている病気はとても心と繋がっている。わからないことの方が多いですが、それだけは確かです」 医者が、真摯な様子で言った。 シュートにあるこの総合病院は、ダンデがローズ氏から引き継ぐかたちで経営陣の一人として名を連ねている。表向きは医療分野における慈善事業の拡充だが、本当の話をすればダンデの病を秘匿するためにローズ氏が支配下に収めた場所の一つである。 医薬品会社から病院、それどころか本業は生活基盤を支えるエネルギー産業なのだから、ローズという男が如何にこのガラルの発展に貢献してきたかが窺えた。しかし、それも過去の話で彼は今や収監された大罪人である。ガラルに希望を与え未来を拓いたはずの彼は、この地を地獄へと変えかけた。それだけで充分な罪だった。しかし罪と同じだけの祝福をこの地に施したのもまた、彼である。 チャンピオン・ダンデは、ローズ氏がいなければ生まれなかった。彼をこのガラルの太陽に据えたのは紛れもなくローズ氏である。ローズという魔術師の手によって導かれ、選定の剣を抜いた少年。それがダンデだ。古い騎士王の物語と同じように王となることを約束され、そして王になった者。だからこそ、ローズ氏はありとあらゆる手段で、かつてダンデを庇護していた。 チャンピオンであったダンデに関する情報は当時からどんなものでもトップシークレット扱いだった。ゴシップは息抜き程度に時々週刊誌に載ったが、それすらローズ氏の情報操作の一端だったとキバナは思っている。チャンピオンは頂きに座していなければならないが、遠過ぎても民衆の心は掴めない。チャンピオンもあなたたちと同じなんですよ、と伝えるための予定調和なから騒ぎである。 だから、ダンデが定期的にメディカルチェックを受ける病院がローズ氏の息が掛かったものであったとしても何ら不思議はない。むしろ、そうでなければ困る。ハロンの牧草地で遊んでいただけの幼い少年を祭り上げガラルの王とし、その人生を普通から逸脱させたのだからローズ氏には責任があった。もっとも、その責任はすべて、かつて少年だった王が担っている。ローズ氏の審美眼も教育方針も正しかったことが、こんなことでわかったとしても誰も素直に喜べない。 「飲み薬を処方しておきますね」 「あの……注射剤もお願いします」 「……あまり、使い過ぎないようにして下さい」 医者の顔が微かに曇るが、禁止はされなかった。ダンデに助けられ密かにこの病院に運び込まれて以来、主治医は目の前のこの医者だった。ダンデを幼少期から診ているということもあり、初めて会話をしたときから親身に接してくれている。何より十数年、ダンデの秘密を漏らさなかった人物だ。それだけで信用するに値する。 「わかっています。まだ上手に処理ができないんです。だから、どうしても抑えが効かなくなる時がある」 キバナは素直に自分の心情を吐露した。黙ったところで何の役にも立たないことは、キバナが一番よく理解していた。 「時間が解決してくれることを祈っています。医者だというのにこんなことしか言えず、申し訳ありません」 「いえ、俺も時が流れるのを待つことが一番だと思っていますから。きっといつか、折り合いくらいはつけれるようになるでしょう」 力不足を悔やむように眉間に皺を刻んだ医者を見て、キバナは微笑み返すことしかできなかった。誰のせいでもないのだ。キバナはダンデに恋をしてしまったが、それだけなら何の罪もない。想うことすら許されないような、そんな時代は遥か昔だ。想うだけなら、許されている。行き場をなくして苦しむ片恋だとしても、存在することは罪ではない。 ただ偶然にも、その想いが形になってしまうだけなのだ。花びらという、可憐で美しい姿になってしまうだけだ。きっとこれは穏やかな自殺。果たされない苦しみを負って生きることへの、この病は救済の一つなのだろう。 けれどキバナはその救いすら拒否して生きようとしている。愛する男がこれまでそうしてきたように、キバナも自らの運命を神なんてものに委ねはしない。この道が何処まで続いているのかなんてわからない。それでも歩いて行くしかない。彼は歩き続けている。だからキバナも歩き続ける。彼に届かないとわかっていてもそばに、いたい。 「そうだ、キバナさん。ダンデさんに診察に来るようお伝えいただけませんか?お忙しいのは承知しているのですが、あまりにも来られていないので」 「あいつ……わかりました。言っておきます」 「薬は医薬品会社から直接ダンデさんのお手元に届いていると思いますが、診察もなしに薬だけが届いてしまっている状態です。本来はダメなんですよ。でもダンデさんの場合、この薬に関してはかなり特殊な立場にいらっしゃるのでまかり通ってしまっていますが」 ダンデが忙しいのは、チャンピオン時代からではあったが体調管理に関してはあの頃と変わらずにかなり気を使っているはずだ。いくら病状が急変しない類の病であったとしても、薬を服用するかぎりは定期的な診察が必要になる。ダンデは愚かではない。薬の恐ろしさも理解している。しかし、それでも疎かにしてしまう程にはダンデにのし掛かった責務が重く多いということだ。 また、一人で抱えるつもりなのだろうかとキバナは考えてしまう。あの夜のように一人で行ってしまうのだろうか。 キバナは、ダンデの背中を追いたかった。ただチャンピオンというだけで、かつてブラックナイトを退けた英雄の役割を担わされたダンデを一人で行かせたくはなかった。確かに、ダンデは強い。だが、その強さは災厄と対峙するためのものとは違う。それでも、ダンデは一人で行ってしまった。 ムゲンダイナは確かにポケモンで、だからこそダンデならば捕獲することもできよう。ローズ氏はそう考えていた。そのために育て上げたチャンピオンだった。ダンデがその思惑に気づいた時には、もう止めようがなかった。そのために自分という存在があるならば、ダンデはそれを果たすしかなかった。だからあの夜、ダンデは一人で行ったのだ。キバナに街と人々を託して、彼は災厄に対峙した。 だが、ダンデは物語の英雄ではなかった。英雄は二人の幼い子供と、二頭のポケモンだった。タペストリーに描かれた二人とムゲンダイナに立ち向かう二人の姿が重なってみえたとき、キバナは安堵した。ダンデが王座という枷に囚われ続ける未来は終わりを告げ、そして新たな風が吹く。自由な、何処までも吹き抜ける風の予感。 それをキバナは感じて、そしてその未来はやって来た。キバナとダンデにとってそれは晴れやかなだけではなかったが、しかし与えられる痛みさえも愛おしかった。貫かれた心臓から滴る真っ赤な鮮血すら、祝宴に振る舞われるワイン。死と再生の巡り合わせが、全てを次へと導いてゆく。 そうしてやって来た自由を、ダンデは自ら遠ざけた。キバナは不思議でたまらなかった。だが、ダンデは自由を遠ざけはしたが棄てたわけではない。必要な処置だと、そう言ってキバナに約束して��せた。一人で抱え込まないと、彼はキバナに言ったのだ。 あの日の約束をダンデが忘れる筈はないが、しかし今この状況だけで言えばダンデは全てを抱え込もうとしているようにしか見えない。明け渡すのはキバナでなくても良い。新たな王に渡せるものは渡してしまえば良いのだし、マクロコスモスのことも役員たちに任せれば良い。ダンデはもう充分、尽くしてきた。これ以上何を抱えると言うのだろうか。ダンデはダンデのために生きるべきなのだ。キバナは、何度でも言い聞かせてやる。 すでにお前は自由なのだ。何処へでも行ってしまえ。その輝ける黄金の瞳が見たいものを見て、枷から解き放たれたその強靭な四肢が求めるままに最果てへと駆け出して行け。何処でもない何処かへと、ダンデしか辿り着けぬ地の果てへと軽やかに舞うように、すべての重荷を棄てて神にすら似たその横顔が綻ぶままに駆け抜けて欲しい。もう誰にも自由を奪わせずにダンデはダンデとして、花が与える死すら振り払って己が道を歩いてはくれないか。 そうキバナが願うことは、越権だろうか。ライバルとしてのキバナに許されることなのか、もうわからない。キバナはダンデのライバルで友人で、それ以上にはなれない。それでもダンデを想っている。ダンデを愛して、彼の幸せを心の底から願っている。 だから、できることはしてやりたい。できる範囲でしか、してやれない。全てをダンデに捧げて生きても、それでも足りないくらいにキバナはダンデが愛おしい。竜の心臓を輝き一つで魅了した宝石は、永遠に竜を離しはしない。奈落の底ですら輝いて竜を道連れにする。燃え盛る炎のなかでも、凍える吹雪のなかでもそれは変わらない。キバナは、ダンデから逃れられない。それで、もう良い。 何度電話をかけても折り返しの一つもなく、その合間に送ったメールも読まれている気配はない。忙しい、という理由だけでは到底納得のできない状況だった。ダンデがこんな不誠実な行動をすることなど、今までなかった。彼はどれだけ忙しくとも何かしらの返答は返す男だ。だが、その一つすらない。こんな事は初めてだった。 ダンデ個人に繋がらないならば、直接バトルタワーに連絡することもキバナは考えたが仕事でもないのに職場に電話をするのは憚られる。それとなくワイルドエリアの巡回時に、現地に派遣されているリーグスタッフにも探りを入れてみたがダンデは普段と変わりないことしかわからない。忙しいには忙しいが、連絡ができない程ではないことがわかっただけだった。 明確な意図を持って、避けられている。キバナはそう考えた。そう考えざるをえなかった。ダンデに避けられる理由は、わからない。キバナは何もしていないのだ。それどころか、仕事ですらダンデと会話をしていない。ブラックナイトによって壊された街の修繕についても、ジムチャレンジの今年の経過についても何一つダンデへ直接報告を上げる必要性がなくなっていた。それはダンデが他者に自分の責を明け渡す、というキバナとの約束を実行しているからだということくらいはキバナにもわかった。それは喜ぶべきことであったし、キバナが望んだことでもある。 だがあまりにもキバナが関係する物事についてのみ、早急に事が運ばれたような、そんな印象が残る。キバナが関わるものだけを選りすぐり、それをキバナが望むかたちに仕上げてみせる。代わりに、ダンデとの距離が開いてゆく。そうやっていつか、キバナの前から煙のようにダンデは消えてしまうのかもしれない。追いかける背中が追いつけずに見えなくなる��ではなく、追いかけることさえ許されない。それはキバナにとって恐怖に似た何かだ。 けれどキバナは、その行為に不服を言うことはできない。ライバルも友人も、所詮は通過点でしかない。ダンデの隣に立って共に長い道のりを歩くには、足りない。キバナはただの点でしかない。一瞬、交差して終わるだけのもの。 何よりもダンデがキバナを遠ざけたいのならば、それはどんな理由であれ、ダンデの意思だ。あまりにも唐突でキバナの思考が追いつかずとも、現実が物語っている。キバナはダンデが望むのなら、そのようにあろうと思える。ダンデがそれで笑えるのならば、離れることを厭いはしない。愛おしい宝を守るために竜は自らを犠牲にできてしまう。そんなふうに生まれついたが故に、キバナは宝を守護する竜だった。 花が溢れることは殆どなくなったが、キバナの内側で積り重なる何かは未だに燻り続けていた。死ぬことを遠ざけて得たのは、消えることのない恋の焼け爛れそうな熱と、愛おしい男が原因もわからぬまま離れゆく悲しみだった。 それでも営みは恙なく続けられている。思い描いていたよりもさらに息苦しい生のなかで、キバナは王に避けられた守護者として立ち続けている。もともと花を吐く程の片想いが、さらに捩れて拗れて孤独を増しただけだ。そんな仕打ちを受けても薄れもしなければ彩度が下がることもないキバナの愛は、薬を飲んでいてものたうち回る。 確かに、死なない。死なないがまるで薬物中毒者のように、全身を薬に浸して過ごしている。そうしなければキバナは、それを止められない。口から溢れないだけで、病はキバナを蝕んでいた。平穏は遠く遥か彼方にあり、きっともうやって来ない。時間の経過さえキバナに味方をする素振りは見せず、ダンデへの恋心は内側からキバナを溶解してゆく。 何処までダンデに蝕まれればキバナは安楽に過ごせるようになるのだろうか。この心も魂も、そして肉体の内側までもダンデにめちゃくちゃにされている。残っているのは外表だけで、あとはダンデへの恋心にすべて焼き尽くされた。死すらキバナの手から奪い去って、しかし自らも同じように花に蝕まれているダンデ。 勝手に恋をして、勝手に苦しんで、勝手に泣いているのはキバナだ。ダンデを怨めしく思おうとしても、そんなことはできない。キバナは堂々巡りを繰り返すだけということに気づき、けれど気づいたからといって思考を止められるわけもなく、最終的にダンデへの恋心が根強いことだけを理解する。せめて、これまで通りならと願っても、時間は元には戻ってくれない。 より高いところへ、修羅の道をひとり孤独に駆け出す彼をキバナは見守りたかった。この愛を告げることさえできないならば、少しでも隣を歩き彼の孤独を和らげたかった。しかし今やそれすら許されず、竜の愛は行き場をなくし花にすらなれない。 あの瞬間にダンデがいなければ、キバナは愛に生きて愛に死ねた。それこそ芸術家たちが虜になった病の姿そのまま、壮烈に美しい死に様をこの世に遺せたに違いない。絵画になり、詩になり、音楽になった甘美な死。神はこの世にいないが、いたとすれば残酷だ。キバナは愛に苦しみ、その苦しみから逃れる術をその愛の対象であるダンデによって取り上げられたのだ。ダンデの純粋な善意を、キバナは無碍にはできるわけがない。 涙はすでに枯れ果てている。告げられぬとわかったときに、涙の泉はすべて絶やされた。そもそもにダンデの隣を歩くならば、泣くことはできない。ただ前を向き遥か空の彼方、星が輝き生まれ沈みゆく場所へと歩くだけ。息が続く限り、この身体がすべて灰に変わって消えてしまわない限り、ダンデが目指す頂きをキバナも目指す。 肩を並べることができなくとも、キバナは歩けてしまう。愛ゆえに、ダンデが頂きに至るその時を切望してしまう。きっとどんなものよりも美しい、願いを叶えた王の貌が見たい。さらなる輝きで世界を覆う太陽に、焼かれてしまいたい。キバナはどんなことをしてでも、ダンデから離れられない。それがキバナのすべてになってしまって、今更変えることはできない。 「申し訳ありません。直接、渡していただけませんか?」 ダンデの秘書からのその電話は、だからこそありがたかった。キバナはダンデから離れられない。改めて自覚してしまえば、少しだけキバナの心は落ち着いた。しかし様々な物事を見極めるには足りないものが多過ぎた。何より一言でも会話を交わしてダンデの真意を推し量りたかった。 「え、むしろ良いのか?」 「何がですか?」 秘書が不思議そうに問い返す。 「直接、俺が渡しに行くことが」 「何か問題でもおありで?」 「いや、俺にはないが」 ダンデとキバナは、長年のライバルで友人であることはこのガラル中に知れ渡っている。友人同士が会うことに何の問題があるのだろうか、というニュアンスで秘書は喋っているのだ。 「なら直接渡していただけると私が大変助かります。ダンデさんは色々なものを上手に采配されるようになってくださったんですが、それでも次から次に舞い込んできて……そうなると私達にも必然、仕事が降ってくる……愚痴じゃないんですよ、本当に。とてもダンデさんは気をつかって下さってます。それを上回るくらいにやることが多すぎるんです。そもそもにダンデさんの仕事量は減るどころか増えていて……お力になきりれず不甲斐ないばかりです」 電話越しに落胆する秘書の様子に、キバナはそれ以上何かを言う気にはなれなかった。ダンデがキバナを避けている、なんて本人たちにしかわからないのだ。個人的な問題で忙しい彼らを邪魔したくはない。これは仕事なのだ。会いたい、会いたくないではなく、会わなければならない。ダンデも文句は言えまい。 幸か不幸か、その日の遅い時間にキバナはシュートに行って戻るだけの時間が確保できた。ジムチャレンジももうすぐ終盤に差し掛かり始めるが、チャレンジャーたちがキバナのもとを訪れるにはまだ幾ばくかの猶予がある。これまでの経過は逐一、リーグ本部に報告され、そしてそれは全てのジムリーダーにも通達される。残りわずかとなったチャレンジャーたちの資料を見て、キバナはまだ自分の出番はないことを知っていた。だからこそ、今ダンデに会わなければならなかった。 手配したタクシーに乗り込み、キバナは上昇する車体からナックルの街を見下ろす。ナックルジムのジムリーダーとして、そして騎士団の長として守護する街が小さくなってゆく。重苦しいほどの歴史を有した街。戦禍と災厄とをその身に焼き付けてなお、廃れることなく連綿と続いてゆく気丈な城壁都市。キバナを、キバナたらしめるその街で、彼は竜となった。守護者として、門番としてこの地に根付き、あらゆる災いを退ける大いなる竜に、キバナはなってしまった。それはキバナの誇りだった。この街を、このガラルを守護する偉大なる何かの一部になれたことをキバナは心の底から名誉に感じている。 だが、もしも竜にならなかったならキバナはダンデに出逢わずに済んだ。そうすればこんな苦しみを抱くこともなく、穏やかな人生を歩めたに違いない。けれどキバナは出逢ってしまった。あの輝かしい黄金の瞳が燃え上がり高揚する様を見た。全身でバトルへの熱意を発し、獅子が吠えるようにキバナへと言葉を送るダンデを知ってしまった。 あの時、竜の心臓は掴まれてしまったのだ。この世を統べる至極の王の手に、鷲掴まれて離してもらえない。力任せに、まるで鼓動を止めようとするかのように、竜の心臓を握り込んでいる。そのくせ殺しも生かしもせずに十数年。竜の眼は王の輝きに焼かれて盲目になり、掴まれたままの心臓はずっと王の手から彼のぬくもりだけを感じ取っている。 何も見えない竜は、王しかわからない。王以外には何もない。王だけが世界の全てで、守護すべき地など本当はとうの昔にどうでも良い。見えないに眼に、それでも差し込む眩い光。王から発せられる、消えない光。竜の眼を焼いた、罪深い輝き。だからこそ、キバナはダンデに会わなければならなかった。これが最後になっても、構わなかった。 シュートに着いたのは、僅かに夕陽が残るような頃合いだった。車内からは沈みゆく夕日と、闇夜にすら煌々と輝くガラルで最も栄華を極めた都市の光との対比が窺えた。眼下にある血管のように張り巡らされた道路は車という人工物で脈動し、摩天楼はその内側に昼も夜もなく活動する人々を内包している。シュートは常々眠らぬ街であったが、今日は殊更に活気付いたようにキバナには見えた。 タクシーを降りると、幾分かナックルよりも空気が冷たかった。キバナが住まうナックルのさらに北に位置するシュートは、ガラルの最北に一番近かった。昔は荒れ果てた土地だったと聞いているが、キバナはそのかつてを知らない。キルクスのような豊かで優しい雪とは違い、この地に降っていたのは氷礫のようなものだったらしい。今や見る影もないが、それは先人たちの努力と執念による賜物だ。人間とポケモンが荒地を作り変えできた都市、それがシュートだった。 その地に燦然と立つ塔に籠もりきりで何の便りもよこさないダンデに、キバナは今から会いに行く。避けられている自覚はあるが、会わねばならない理由はあった。その理由一つで会い、そうしてキバナは無理矢理にでもダンデから真意を引き出すつもりだった。ただ一言、何だって良いのだ。ダンデからの言葉さえあれば、キバナは素直に心臓を差し出したまま離れてやれる。その背を追いかけることを、止めることができる。 ダンデの執務室に直通で行けるエレベーターに乗るには、受付けを通さねばならない。キバナは顔パスで乗ろうと思えば乗れるのだが、そんな礼を欠くような真似はキバナ自身が嫌っている。ダンデか彼の秘書が��伴でない限りは、キバナは常に礼儀を弁えたガラル紳士の一人として丁寧に受付を済ませる質だった。しかし今日はすでに秘書が知らせていたのか、受付を担当しているスタッフがキバナを見つけるなりそのまま乗るよう促した。その際に「ダンデ委員長は生憎、不在にされているので執務室の机の上に書類は置いておいて欲しいと仰っていました」と告げた。 先手を打たれた、とキバナは思った。ダンデは本当に自分に会いたくないらしい。それならば、そうだというのなら、キバナは彼を追いかけることを本当に止めねばならなかった。話し合いすら、その眼を見て意思の確認をすることすら、厭われる。一方的な拒否の強さに、キバナはなす術がない。 執務室に着くまでの、数分が長かった。展望用に広くガラス張り部分を取った箱の中で、キバナには外の景色を眺めるような余裕はなかった。瞬く都市の灯りはただ滑るように上昇する箱の側面を這うように流れてゆくだけの何かでしかなく、キバナの思考は悲しみに深く支配されていた。 こんなにも愛おしいのに、受け入れられない。一方的に想いを告げないでいることは、自分でコントロールできる範囲の辛さだった。けれどこれは違う。明確に相手から拒絶を示されている。果たされない想い。報われることもなければ、知られることすら許されなかったキバナの恋が、告げることもなく終わりを迎える。 成れの果ての花びらにすらなったキバナの恋は、言葉すら与えられずに終わる。それでもキバナはダンデが好きだった。ダンデを愛していると、悲しみに満たされる全身が訴えている。腹の底には今にも口から溢れそうな花びらを抱えて、ダンデを求めている。ダンデの執務室で花を腹わたからぶち撒けて死んでしまえば、この恋は満たされるだろうか。そんな考えさえ、過ぎる。 けれどキバナはとても理性的な男だった。そしてダンデを愛していた。ダンデが満ち足りた顔でチャンピオンでもなく王でもない、ダンデの貌で笑う未来がこの先にはあると気づいてしまうと、自暴自棄な考えは消え失せる。ダンデの笑う顔が、喜びで優しく歪む顔が、キバナは見たい。そのためにならキバナは、やはり何だってできる。泣きたいのを堪え、吐き出したいのを堪え、会って語り合いたいのを堪え、キバナはいつまでもたった一つの宝を守る竜として生きていける。 大きく息を吸い込み、吐き出す。永遠に続くような、けれど一瞬のような時間でエレベーターは最上階に着いた。ダンデの執務室に向かい、いないとわかっていたがノックをする。返答があるはずもなく、キバナは言われた通りに書類を置いて帰るべく扉を空けて室内へと入った。 明るい夜の闇に、室内は静かに浸されている。半球状のガラス張りの天井からは星の瞬きが窺え、その下に広がる都市の明かりに微かに怯えているようにすら見える。地を這いずり回っていたものが、今や天へと手を伸ばしているのだから恐怖くらいあるだろう。 誰もいない。けれど残り香のように、ダンデのあの薔薇の香りがある。キバナはそれだけで胸が苦しい。締め付けられ、動悸がする。ここにはあまりにもダンデの気配が多くある。彼が日々、仕事をしている場所。彼の夢を叶えるために、重い責を背負ってまで得た場所。たぶんもう、足を踏み入れることもなくなる場所。 キバナがジムリーダーでダンデがリーグ委員長であるかぎり、会うことも喋る機会もある。けれどそれはもう、これまでの二人ではない。仕事上での最低限をこなすだけのシステムだ。それでダンデが幸せに少しでも近づけるなら、キバナは受け入れられる。その覚悟がキバナにはあった。そうだからこそ、キバナは花を吐く。 執務机はきれいに整頓されている。重厚だが機能美が失われていないそれは、きっとローズ氏がここでガラルの未来を考えていた頃からのものだろう。ダンデは彼の罪を知っているが、彼が成した功績も同じく知っている。だからこそ、この部屋にはダンデ以外の影がある。しかしもう随分と薄い。部屋は現在の主人の影に染まって、微かな澱が残るばかりだ。 書類が収まった封筒を置いて、キバナはもう一度だけ室内を見回す。愛おしい男の夢が詰まった部屋を、暗がりの中でも眼に焼き付けたかった。いつか神に打ち砕かれるかもしれない天へと届く塔の、一等高い場所はダンデの夢で満たされている。かつてローズ氏の夢に満たされて、今度はダンデの夢に満ちるそこからキバナは離れ難かった。だが、去らなくてはならない。ダンデがそう望んだのだ。キバナはその望みを果たしてやりたい。 柔らかな絨毯が、スニーカーの裏を包む。キバナがそこにいたことを示す残響すら残させないように、足音を吸収する。書類の封筒だけがキバナがいたことを示すものになり、しかしそれすらすぐに何でもなくなってしまう。だからキバナは胸の内で別れを告げようと、唇だけを動かして言葉を紡ごうとした。キバナなりの決別だった。だが、その言葉は途中で遮られてしまう。執務室のさらに奥に扉が、一つあった。きっと仮眠用の休息室であろうそこから、物音が僅かだが聞こえた気がした。 キバナは見て見ぬふりをすべきだとわかっていた。けれどその警告に抗えぬ欲が、勝った。最後の賭けだった。結末がどんなことになろうと受け入れる。どんな罰でもこの身に与えてくれて構わない。だから、あとほんの少しだけ待ってほしい。 キバナは自分の手が震えていることに気付いた。このドアノブを捻り、中を覗いてしまえばダンデの笑顔すら自分が壊してしまうのかもしれない。守ると誓った愛しい人の笑顔を自らの手で、めちゃくちゃに掻き潰して、そうして得られるものは何なのかをキバナは知らない。知らないからこそ、手を伸ばす。経験してしまった恐怖は身を竦ませるが、幼子が火の恐ろしさを知らないように、キバナもその恐怖を知らない。 だからできることがある。キバナの眼を潰したのはダンデで、キバナに彼のぬくもりしか伝えなかったのもダンデだ。あらゆるものを遮断してキバナを無意識に囲い込んだダンデが、その報いを受けるのは当然だった。罪に意識も無意識もない。ただ、罪は罪だ。 扉を開けた先にあったのは、噎せ返るほどの薔薇の香りだった。部屋中に花びらを敷き詰めた様な、息苦しさすら覚える濃密な香り。そしてその香りの元凶たる、花を吐き出す男の姿。 夜の闇の中でほのかに光り浮かび上がる白い薔薇の花びらは、まるで天使の羽のようだった。そしてその羽に囲まれるように中央に鎮座するのは、美しいが今にも息絶えんとするキバナが愛する男。羽こそその背に抱えていなかったが、麗しい菫色の髪が月明かりの下で艶めいて、頭上に光輪が見えた気がした。その彼の唇から、花びらがこぼれ落ちる。幾重にも折り重なる分厚い可憐な白薔薇の花びらを、苦しげに肩を大きく上下させては、唇から溢れさせている。 一瞬、あまりの美しさに眼を奪われたキバナだったが意識はすぐにダンデの命が危ういことを悟り、駆け寄った。堆く小さな山を成す花びらを掻き分けるようにしてダンデのそばへとしゃがみ込むと、足元で花びらではないものが触れて割れる音がした。踏み潰したそれは、注射器とアンプルである。よく見れば、何本もの注射器が花びらに隠されるように散乱している。そしてアンプルの数も一つではない。 血の気が、引いた。ダンデの腕を見る。片腕だけ袖が捲り上げられ、そこには幾つもの真新しい注射痕があった。医者ではないキバナにも、それが人間に投与して良い量を遥かに超えたものであることくらい理解できた。 「ダンデ、おい大丈夫か。なんでこんなに、それにどうして花びらが止まらないんだ」 多量の投薬だ。本来ならば花びらは、止まる。だがダンデは花を吐き続けていた。咳き込むたびに、ダンデの色をなくした唇から花びらが散る。 「キ、バナ……」 「喋るな。息を吸って吐くことに集中しろ。花びらは出るだけ出せ」 弱々しいダンデの声。チャンピオンだった頃の快活さも、オーナー業を始めてからの豊かさもなく、喋ることすら苦しげに声を引き絞っている。 どうしてこんなことになってしまったのか、何故薬が効かないのか、キバナにはわからないことだらけだった。わかることは、このままだとダンデが死んでしまうことだけだった。キバナを虜にして、めちゃくちゃにしたままダンデは死んでしまう。幸福に顔を綻ばせる姿を見ることもなく、キバナの目の前から失われる。 嫌われても良い、疎まれても良い。だけど生きていてくれ。こんなことで死んで欲しくない。お前の夢はまだ始まったばかりで、これから先が山場ではないか。お願いだから、死なないで。命なら自分の命を奪ってくれないか。死神がこの場にいるのなら刈り取る命はダンデではなく、王に掴まれたままのどうしようもないこの竜の心臓を刈り取ってはくれないか。 願いながらキバナの眼が、少しずつ濡れてゆく。思考の片隅でダンデを病院に連れてゆかなくてはと考えるも、そんな時間はきっとない。ではどうすべきなのだろうか。薬はもう効かない。ダンデの呼吸は浅くなる。握った手が冷たい。黄金の瞳に輝きはなく、濁った眼球は虚ろだった。 「ダンデ、ダンデお願いだ。死ぬなよ、何だってするから……お前の愛しい人を連れて来て両想いにしてみせるから、お願い、死んでくれるな……」 キバナの澄んだ海のような瞳から、涙がこぼれた。一筋が頬を伝って落ちると、後は決壊した川のように歯止めが効かない。次から次へと涙はこぼれ、そのうち唇からは花びらが溢れ出す。蝶のように愛らしく小さな、ウィステリアの花びら。涙と共にダンデに、雨のように降り注ぐ。 「キバ、ナ……泣くな……」 光の消えかけた瞳が、それでもキバナを見る。まるで愛しい人を見るように、目尻が緩んでキバナに泣くなと訴える。 「いつかこう……なると、わかっていた。だから急いだんだ……キミを急に突き離してしまって、すまない」 ダンデが花びらと共に吐き出したのは、キバナへの謝罪だった。だがキバナにはどうでもいい。謝罪なんかいらない。ダンデが生きていてくれるのならば、キバナは一生彼に会えなくたって良い。生きてくれてさえいれば、キバナは報われる。 「そんなことはもう良いんだ。だから、ダンデ言ってくれ。お前は誰を愛しているんだ……もうそれしかお前を助ける術がわからない」 「ふ、ふ……キミは本当に優しい男だ、な……だからこそ……っゔ」「ダンデ!」 泣き縋りながらキバナはダンデに問う。それでもダンデは答えない。花びらを吐く量だけが増え、呼吸はさらに苦しげになる。 「薬でずっと誤魔化して、きた。でも、もうダメ、だった……この想いは膨れ上がっ、て……泣いて喚いて……俺は一番になれないのだと、知ってしまったら……」 悲痛そうに表情を崩しながらキバナの手を握り返し、ダンデは自分の胸元へと引き寄せる。布越しにも、そこが鼓動していることが伝わってきた。ダンデはまだ生きている。けれどこのままだと失われてしまう。 キバナの中の遠い記憶が蘇る。まだ自分のポケモンを持っていなかったような、そんな昔の思い出。自宅の庭に、大きな樫の木があった。そこには毎年、鳥の番いがやってきて卵を産み、雛を育てる。その様子を見るのが幼いキバナの楽しみだった。毎日、雨の日も風の日も飽きもせずに眺めては、少しずつ大きくなる雛鳥の姿が嬉しかった。 ある朝、いつものように巣を見に行くと雛が一羽、巣から落ちて木の根本で蹲っていた。キバナはすぐにその雛を救い上げ巣に返そうとしたが、もうその時には雛は随分と弱っていた。夜露に冷えた雛の体を掌で包み込んで、必死に暖める。掌の内側にあるか弱い命に、死ぬなと願いを幾度もかけた。けれど、雛はだんだんと冷たくなり、最後には動かなくなってしまった。キバナの掌に残ったのは、雛の骸と命が消えゆく時の厭な感触だけだった。 それ以来、キバナは何かを守りたいと思いながら生きてきた。だが何を守りたいのかはわからぬまま、導かれて竜になった。しかし竜になって守るものはできたが、それが本当に守りたいものなのかはわかっていなかった。空っぽの守護者だった。けれどダンデという宝を知って、キバナは本当の竜になった。大いなる番人として、ダンデのためにこの地を守護しようと思えた。 そうだというのに、今その本当の宝が失われようとしている。どんなものにも終わりは、ある。しかしこれは違う。こんな終わり方をキバナは許容できない。ダンデに訪れるべき終焉は、こんなにも苦しくて悲しい筈がない。 「ダンデ、お願いだ。お前は誰を愛してるんだ……なあ、どうして? 何故言ってくれない? 俺は、俺はお前を……死なせたくない…生きていてほしいんだ。お前の笑った顔が見たい。なのに、どうして……俺はまた、何もできないのか……」 キバナの手は、大切なものに届かない。後わずかのところで力不足だ。雛鳥はなす術なく掌のなかで息絶え、ムゲンダイナに立ち向かったダンデはまる二日昏睡状態に陥った。そして今度は、命すら消えかけている。 愛しくて、恋しくて、でも何もしてやれなくて、キバナはただ涙と花びらを吐き出すばかりだ。無力な自分が怨めしい。ダンデの隣を歩けるようにと努力したこの長い歳月は、結局何も成してはくれなかったのか。 惨めに縋っても、神はいない。誰も世界の理には逆らえない。でも、いなくてもキバナは���らざるをえなかった。いない神に、キバナは祈った。ダンデをまだ連れ去らないでと泣きながら祈り、そしてその言葉を告げてしまった。 「ダンデ、愛してる」 キバナの心を縛るものは何もなかった。初めて、キバナは自由に想いを紡いだ。 「キ……バナ、もういちど……言ってくれ」 掠れた声で、ダンデが乞う。何度でも言ってやろう。ダンデが望むなら、キバナはなんだってやってやれる。そのために生きてきた。これからもそうやって生きていきたい。 「……愛してる。俺は、ダンデを愛してる。ずっと、今までもこれからも、お前だけで、お前のために生きて……死にたいよ」 色の失せたダンデの頬に触れ、真っ直ぐに黄金の瞳を見据えながらキバナは告げた。それはキバナの想い全てだった。これまでの、そしてこれからのキバナの愛のすべてを言葉に託す。涙も花びらも止まらない。キバナの全身からありとあらゆるかたちで、ダンデへの愛が放出されてゆく。キバナはダンデのために、全てを投げ出せる。 「は、はっ……なんだ、そうか……」 「ダンデ?」 ダンデは、笑った。花を吐きながら、それでも酷く嬉しそうに目尻に涙を溜めながら、笑った。 「俺も、キミが……キバナ、キミを愛してる!」 くしゃくしゃの、けれど幸福に満ち満ちたダンデの顔。今にも死んでしまいそうに弱々しく横たわりながらも、ダンデは笑っていた。キバナが望んだ幸福そうなダンデの笑顔。それが目の前にある。 腹の内側が異様なほどに熱かった。熱が、喉の奥から迫り上がる。止めようがないくらいに、溢れ返る。意識すら道連れに、それは外へと迷いなく突き進んでキバナの舌の上を越え溢れ出す。 またあの白昼夢を見た。荒れ狂う海で溺れる船乗りの幻。今度は海の神も助けてはくれない。溺れるキバナは息ができず、体も動かない。重く冷たい海の底へと沈んでゆく。これがキバナの終わりなのかと、そう思う。目蓋を閉じようとして霞みがかった視界の先に、影が見えた。キバナと同じように荒れ狂う海に溺れた誰か。息のできない誰か。何故かキバナと同じ嵐の海にいる、誰か。 光っていた。その影から二つの輝きが見えた。太陽のような、星のような、宝石のような二つの輝き。黄金の瞳がキバナを見ている。深く暗い海の中で、優しく光ってキバナと同じように溺れている誰かの瞳。 ダンデの、瞳の輝き。そうか、とキバナは思う。お前もずっと、同じこの海に溺れていたのか。もう大丈夫、独りじゃない。こんなに遅くなってしまったけれど、封じ込めたままにしなくて良かった。ダンデを独りで溺れさせずに済んだ。 キバナは最後の力を振り絞り、手を伸ばす。ダンデも惹き寄せられるようにキバナへと手を伸ばし、二人はまるで絡み合うように底へと沈んでゆく。できない呼吸をしようとして、泡を吐いた。泡は海水の中で弾けて、花びらに変わる。小さな星が砕け散るような輝きを放ちながら泡は次々と花びらへと変わり、気づけば二人は海ではなく花びらに埋もれている。 泣き笑うダンデの唇からは白い薔薇の花びらが、同じように顔をぐちゃぐちゃにしながら笑うキバナの唇からはウィステリアの花びらが。それぞれ止めどなくこぼれては、柔らかく降り積もって二人を花びらの地層に埋めてゆく。 ダンデの瞳の輝きが、一際強くなる。眼球に宿った優しいが苛烈にキバナを魅了する光。それはもう、竜を永遠に捕らえて離さない。何処までも道連れにする瞳の魔力。あまりにも強過ぎる眼差しで、きっと竜は別の苦しみを得る。けれど、宝石から放たれる歓びも苦しみも全て竜だけのものになる。何処の誰にもくれてやらない。ここは竜が守護する宝物庫。世界で最も尊いものを仕舞い込んだ、何人たりとも生きては帰れぬ竜の棲み家。宝と竜だけの、聖域。 全てが花びらにかき消されてゆく。白い花びら、薄紫の花びら。溢れ、こぼれ、吹き出し、舞い散る。雪のように降り積もって、二人を覆う。酸素不足の脳が幸せだと激しく訴える。視界は霞んで、ダンデの黄金がぼんやりとしか見えなくてもキバナは幸せだった。二人、花に埋もれて死ぬならば、それは確かに楽園への一歩に違いなかった。      ◯ また、天井だった。無機質で白い天井。天国でも地獄でもない場所。かつて同じ場面を見たと思いながら、キバナは緩やかに覚醒した。 身体中が軋み、倦怠感に苛まれている。何があったかを思い出そうとして、思い出したいことを上手く掬い上げられない。早く思い出さなければと気持ちばかりが急いでいるが、こんな時程落ち着くべきだった。キバナは、深く呼吸をする。ゆっくりとあらゆる記憶が漂う水桶のなかに両手を浸し、見極める。本当に思い出さねばならないことを根気よく探り出し、丁寧に掬い上げる。そして両手の中でゆらめくそれを覗き込んで、キバナはベッドから飛び起きた。 「ダンデ!」 飛び起きた反動で、点滴の管が腕に刺さった針ごと抜ける。痛みはあるがそんなことはどうでも良かった。あの後どうなったのか。自分は生きているが、ダンデも生きているのだろうか。間に合ったのか、それとも間に合わなかったのか。間に合わなったとして、それはダンデの死を意味している。ダンデが死ぬ。そんなことあってたまるものか。ダンデがいない世界など意味がない。ダンデがいなければ、何もない。そんなのは絶対に嫌だ。 キバナは目の前が真っ暗になりそうだった。こめかみが痛い。涙が痛覚に刺激されて一つ一つ目尻から伝い落ちる。そのうちに嗚咽までも伴い始め、キバナは混乱したまま泣いていた。世界が反転してしまいそうな程、苦しい。 「キバナ」 声がした方を振り返る。隣のベッドで点滴に繋がれ酸素吸入器をしたダンデが呆れた様子で、けれどとても愛おしげにキバナを見ていた。 「ダン、デ……生きてる」 「死ぬわけ、ないだろ……キミを残して、なんて」 酷く憔悴してはいるが、ダンデは生きている。紛れもなく目の前に生きて存在している。キバナは再び泣いた。歓喜の涙だった。愛しい男が、生きている。あの夜よりも、もっと恐ろしかった。何もできないでいる自分が嫌だった。それでもダンデは生き延びてくれた。キバナも生きている。花に埋もれながらも、二人はこの世界に生還した。 「キバナ、俺は……キミを愛している。キミが考えるより、ずっとずっと昔から。キミを知って……キミのために、キミに相応しくあるように、そんなふうに……生きて、きた……」 瞼を一度閉じ、そして再び開けるとダンデは胸の内に秘め続けた想いを、告白した。言葉をゆっくりと紡ぎながら、手をキバナへと伸ばす。まだ力がうまく入らないのか少しだけ不器用に揺れるその手を、キバナは握った。それは大きくて温かな優しい手だった。生きた人間の、愛しい男の、確かな手だった。 「キミが俺と同じように、花になるほどの恋をしていることを知ったとき……相手が酷く妬ましくて……そしたら花びらが止まらなくなった。キミが俺を好いてくれているなんて、思いもしてなかったんだ。俺たちはライバルで、友人だったから」 互いに手に入らないと決め付けていた。決め付けて全てを箱の底に押し込んで、蓋をして見ないふりをしていた。臆病で、意気地のない、ただの人間だった。ダンデも、人間だったのだ。キバナと同じ、愛おしい人の子。 「キバナ、好きだ。愛してる……臆病で今まで、言えなかった」 ダンデは、泣いていた。瞳を柔らかく婉曲させ、微笑みながら泣いていた。それは喜びに溢れた顔だった。キバナが願い、求めたダンデの笑顔。 ダンデ、俺もお前が……好きだ。ずっと、ずっと……好きだった」 キバナも泣いた。暗がりに押し込めていた恋を、ようやく広くて明るい場所へと連れ出してやれる。誰に憚ることもなく、好きなだけ走り回ればいい。もう誰もお前を縛りはしない。ようやく恋しい人のもとへと駆け出していけるのだ。ずっとずっと押し込めて、深く暗い場所で泣いていたそれが今、華やかに歓びに満ちて愛しい人のもとへと走ってゆく。 終焉だ。夜が明ける。新しい太陽が昇り、道は示される。ダンデの恋とキバナの恋が、手に手を取って朝と夜のあわいで佇んでいる。眩いばかりの陽の光が、地平線から溢れ出して、夜の闇を薄めてゆく。明けの明星が最後の輝きを放ち、二人を包んでいた闇は追い払われる。 足元には、これから進む道を祝福するかのように敷き詰められた花びら。福音を告げる白と薄紫の花のひとひら。この恋は成れ果てたその先で結ばれた、稀有な流れ星。願いを叶える、空の果ての果てまでも飛んでゆく輝ける一筋の光。祝福を受け、何処までも駆け出してゆく獅子と竜の姿が見える。戯れあいながら辛く険しい道を共に歩く獣の姿。誰も辿り着けぬ場所に、きっと二人ならばと睦まじげに歩む二人の男。 どちらともなく顔を寄せ合い、二人は、口付けた。触れるだけの、可愛らしい接吻だった。それでも初恋を長々と抱えて生きてきたダンデとキバナにとってそれは、酷く刺激の強い行為だった。どちらもが顔を赤く染めて、けれど嬉しそうにはにかむ。 朝日が、優しく室内を照らし出す。柔らかな色合いの光が、二人を祝福するかのように差し込んで二人は眼を細めて外を見た。世界が、嘘みたいに輝いている。これが本当の気持ちを解き放った先に、見えるもの。二人だから、見ることができる世界。風が二人を慈しむように撫でて、通り抜けてゆく。キバナは再び、泣いていた。何もかもが愛おしくて、隣に世界で一番愛する男が同じように自分を愛してくれていることを知って、泣いた。まだ生きていたい。この男と、二人で世界の果てを眺めてみたい。ダンデも、きっとそう思ってくれている。キバナはもう一度心からその気持ちを、ダンデに告げた。 「ダンデ、愛してる」 これが、二人の恋の、成れの果て。
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fushigilabyrinth · 2 years
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丘の上のセイレーン
ナックルシティの夜には、時折、美しい旋律が聴こえる夜がある。ヴァイオリンの、夜風に馴染んで広がる星の瞬きのような音だ。何処からともなく聴こえてきて、何処からともなく消えてゆく音。まるで打ち寄せては引いてゆく波のような、豊かな抑揚。 誰が奏でているのかはわからない。けれど、ナックルの夜にはその音が寄り添っている。悲しい夜も、嬉しい夜も、なんてことない普通の夜にも、その音色は街を包む。 昔から、ナックルには不思議な話が多い。幽霊から託された手紙を届けた話。宝物庫に飾られた甲冑が夜な夜な動き出しては城壁を徘徊する噂。青い薔薇は街を守護した竜の血によって染まったため、他の地域では育たないという伝承。その他、いろいろ。 この古い都市は数多の歴史を抱えている。善い歴史も、悪い歴史も。ガラルで最も古い歴史を持つ街は、あらゆる事象を内包して、今も生きている。 この旋律も、その一つだ。セイレーンの歌声なのだと、まことしやかに語り継がれてきた。 丘の上のセイレーン。海から引き離された、美しい人と鳥の混ぜ物のような何か。海を行く人々をその声で惑わし喰らうと言われてい���怪物の音色。ナックルの城壁の何処かに囚われているとされる魔性のもの。海を恋しがって夜毎に歌うは、星の瞬きと潮騒の二重奏。 ナックルから海は遠い。それでもセイレーンは海を想って歌うのだと言う。ただただ、恋しいだけの歌。人を恨むでもなく憎むでもなく、かつて自由に羽ばたいていた場所を懐かしむだけの旋律が、この音色なのだ。 ダンデはリザードンの背に乗って、ナックルの夜を飛んでいた。眼下に街明かりが鮮やかに写る。 しかし時間は既に深い。だから人々は殆ど眠りについて、ガラル第二の都市といえども夜の気配に覆われていた。静寂とまではいかずとも、穏やかな眠りの夜だった。 夜間飛行は、チャンピオン時代からの数少ない趣味の一つだった。あまりにも有名過ぎたダンデは、何処に行くにも何をするにもチャンピオンダンデとして注目された。チャンピオンを降りてリーグ委員長になった今もそれは変わらない。少し出歩くだけで誰かに声をかけられる。 基本的には善意の声。時たま、悪意のこもったものもあるが大半は好意だ。しかし毎回それでは何もできない。昼間に出歩くのは得策ではないと悟ったのはずいぶん昔で、ではどうしたものかと思いながらたまたまリザードンと共に夜を飛んだ。夜は、ダンデたちを歓迎してくれた。夜の闇は彼らを隠し、また気づかれたとしても騒ぎ立てようという気持ちを宥めた。 それに気づいて以来、ダンデはリザードンと共に夜を飛ぶ。満月の夜、新月の夜。流星群が降り注ぐなか、霧が濃く世界を覆うなか。四季折々の夜毎。夜に見下ろす世界は昼間とは違う姿で、ダンデの視界を楽しませてくれる。 今夜も、そんな夜間飛行だった。仕事で珍しくナックルシティに赴いていた。泊まりがけになるとわかったとき、久しぶりにこの街の上を飛びたいと思った。 ダンデが居を構えるシュートシティはガラルの首都だ。行政、金融、カルチャーのどれをもガラルの中央として牽引するそこは、ビルが犇いている。人間が作り出した人工物の明かりは消えることはなく、不夜城の体で華やかに輝く。 ダンデはそれらの明かりを好ましいと思う。人が生きていると、ガラルはこれから先も続いてゆくのだと、そう思えるからだ。だが、それでもその明かりばかりを眺めているのは疲れることだった。ローズ氏によって加速度的に形成��れた真新しい都市であるシュートは、何もかもの流れが早い。隆起と陥没のサイクルはあらゆるものにおいて、目を見張る。 ダンデはもともと南端のハロンタウン出身だ。北端のシュートとはまったく違った営みのなかを、幼少期は生きていた。 畜産が主だった産業であるハロンは、すべてがシュートに比べて緩やかに過ぎて行く。ウールーたちが青く茂った牧草を食み、丘の向こうには風に靡く黄金のさざなみ。それは実り豊かに育つ麦畑で、果てなく続いている。温暖な気候と、牧歌的な営み。何もないが、大切なものはすべてある。それがハロンであり、ダンデの体にはそんな時間の流れが組み込まれている。 しかし、もう人生の半分以上はシュートでの生活にすげ変わっている。あらゆるものが存在しているが、後ろを振り返らぬ都市だ。前にだけ進んで、落とし物に気付く人は少ない。そしてその速さは、ダンデ自身の速さにもなっていた。 後ろを見ないで駆け抜ける。あらゆるものが、追いついてこない。でも、まあ、大丈夫。自分が先頭を走って道を確保していれば、いずれ誰かが追いつくだろう。 チャンピオンを降りるまでのダンデは、そのような考えで日々を生きていた。しかし、違うのだと気付かされた。あのブラックナイトを経て新たなチャンピオンが生まれ、そしてダンデがただの人へとなった日に。 ローズ氏は千年後のガラルを案じていた。気持ちはわかる。ダンデも、このガラルを愛している。自分が生まれ、育ち、そしてこれからを生きてゆく地。愛おしいものと愛おしい人たちに溢れた愛すべき国。その未来を憂いて、可能ならば何かしらの手を打とうとすること自体は罪ではない。しかしローズ氏のそれはあまりにも未来を見過ぎていた。千年後のために、今が失われる。それがローズ氏が行おうとしたことだった。 かつてこの国が災厄に見舞われたとき、二人の若者がそれを退けた。あのとき、ダンデは一人でその役を担おうとし、またローズ氏もそのつもりでこの計画を進めていた。だがダンデはただのチャンピオン。英雄ではなかった。英雄としてこの国を救ったのは愛しい弟とその友だった。それでよかったと、ダンデは心底思う。 人は、ただの人だ。王に英雄、そしてチャンピオンとどんな呼称をされようとも所詮ただの人なのだ。神にはなれないし、一人で生きることもできない。駆け抜け続けて誰もいなくなった場所でたった一人になったとき、人は無力だ。誰かと共に走るからこそ、成し遂げられる。 その点、ローズ氏は独断専行が過ぎた。事情聴取の結果、あのオリーブ女史すら預かり知らぬことが数多あったことが、それを証明している。彼はあまりにも遠くを見過ぎていた。千里眼で遥か未来ばかりを見て、そばにあるものを顧みない魔術師だった。行末が見えるからこそ、様々な発展という魔術をこのガラルに施すことができた。しかし、それゆえの盲目さを抱いていた。それがローズという男の長所であり、また短所でもあった。 ダンデは、自分はどうなのだろうかと、自問自答する。遥か未来を想うにはまだ達観していないし、そもそもにそこまでの目を持っていない。ダンデの目が千里眼的にものを見ることができるのは、精々がバトルに関わる事柄だけで、あとは普通の人々と変わりない。肩書きこそマクロコスモスを背負うものをローズ氏から幾つか引き継ぎはしたが、彼のようにはいかないだろう。しかしダンデが成すべきはローズ氏のように生み出し成長させるのではなく、安定させ継続させることだ。これからもこの国がずっと続いてゆくように、導く。それだけだ。 先を歩くのは、得意だ。お前は迷子ばかりではないかと言われれば、そうなのだが。踏み分けつくった道は、たくさんの誰かのための進みやすい道になる。それに昔みたいに後ろを振り返ることを知らないわけではない。立ち止まり、皆が今どのあたりにいるのだろうかと思慮する余裕もある。 王座からは見えなかったものが見える。王座にいたからこそ見えたものもある。千年先なんてわからないが、今やるべきことくらいはわかっているつもりだ。それで充分だろう。これからも先を走ってみせるから、みんな迷わずについて来て欲しい。ダンデの想いはそれだけだ。 満月が優しくダンデとリザードンを照らす。夜風は心地よく頬掠めて、城壁外の広大な地平へと消えてゆく。北には雪を抱いた山脈が連なり、南にはナックル丘陵の平原が広がっている。 上から見れば見るほどこの街は、城塞都市としての機能を浮かび上がらせる。戦に耐えうるために形作られた街。背後を雪山という自然の防壁に任せ、人間は正面からやって来る敵にだけ注力すれば良い。しかも小高い丘からは、下からやって来る敵がつぶさにわかる。 それにこの街は、竜が守護する街だった。文字通りの意味と、伝承的な意味合い双方においてナックルは竜が守護する街だった。ドラゴンタイプのジムがある所以である。 ナックルジムは元々はこの街を守る騎士団の系譜だ。彼らは古くからドラゴンタイプを相棒として、この街を守って来た。数多の戦、数多の災害、それらを騎士団は相棒のドラゴンと共に乗り越え、この街を守ってきたのだ。そしてその守護は今もなお続いている。宝物庫の管理がなぜ行政ではなく、ナックルジムが行っているのかという疑問に対する答えはこれだ。ナックルジムは騎士団だからである。宝を守るのは、竜の仕事なのだ。 そう、竜の守護によってこの街は保たれている。今でこそシュートシティに様々な機能を譲渡し、ガラル第二の都市という地位に甘んじているが、ここはこの国の要なのだ。だから、その街を守る騎士団の長は並大抵の者ではこなせない。 ダンデは、ある男の姿を思い浮かべながら、この街を感慨深げに今一度、見下ろした。穏やかな街明かりが、目に柔らかく写り込む。あの男の柔和さが街に移り、男にはこの街の深い歴史が移り、その二つが混ざり合って今、この場所がある。ダンデは自然とそう思えた。この街も彼も互いに影響し合い、現在を生きている。シュートの速さがダンデを形成したように、ナックルに脈々と受け継がれてきた古い教えは彼を思慮深く創り上げた。 そうやって彼を想いながらこの街の穏やかさを眺めていると何処からともなく、ヴァイオリンが奏でる旋律が聴こえてきた。この街には古いだけあって様々な怪談や噂話があるのだが、この音色はセイレーンの歌声なのだと言われている。真相は誰にもわからない。しかし、この美しい旋律はナックルの夜を包み込む。 ダンデがこの歌を聴くのは三度目だった。一度目はジムチャレンジ中に初めてこの街を訪れた夜に、二度目はチャンピオンとして街々を巡業しているさなかに、そして今夜。 やはり飛んでよかったと、ダンデは思った。リザードンも飛びながら音色に聴き入っている。風に乗って上空まで届く郷愁の調べは、丘を越え山を越え、そして最後は海に辿り着くに違いない。遠い海の彼方に、その歌声は届く。 これまで二度、ダンデはこの歌声を聴いている。そのどれもが微かな音色だった。音を辿って、その大元に辿り着くには儚過ぎる慎ましい音色。しかし今夜のそれは明確にダンデの鼓膜を揺さぶった。直感的に、辿ることができるとダンデは思った。 「リザードン、行こう」 ダンデがそう告げると、長年の相棒は小さく一声鳴いて音が風に乗ってやって来る方角へと進路を変えた。 ナックルの市街地を越え、北側の城壁へと抜ける。遠くシュートシティーの煌びやかな灯りが僅かにだが夜空に反射して雄大な山脈の峰々を浮かび上がらせていた。その姿はまるでターフタウンの地上絵に描かれている巨人のようで、この国に巨人伝説が多い理由の一端に思えた。 旧市街地の静かな一角。城壁に隣接する、かつては見張り台の役割をしていたのであろう塔に小さな灯りが見える。ダンデの耳は、そこが音の発する場所だと訴えていた。 なるべく音を立てずに塔に近づく。音色は途切れずに塔から発せられたままだ。何処かしら着陸できそうな場所を探していると、一箇所だけ突き出た部分がある。発着用に作られた簡素な露台だ。リザードンは主人の意図をよく汲み取り音もなく、そこへと降り立った。 声にこそ出さなかったが感謝の念を込め相棒を一撫でしてボールに戻す。塔の造りは城壁と同じ煉瓦でできていたが、度々誰かがこの露台を使っているのか手入れされているようだった。 足音を立てぬよう忍び足で竜のレリーフが施された入り口を潜る。セイレーンの歌声がさらに大きくなった。上へと続く階段はあるが、下への道はない。空からしか入り込めぬ構造になっているらしい。上階からは微かな灯りが漏れている。洋燈の灯りなのだろう。歌を乗せて運ぶ風の流れに合わせて、影が揺れている。 一歩、そしてまた一歩。ダンデは静かに、階段をのぼる。近づくごとに明瞭になる旋律は、今や目の前だった。あと一段、階段をのぼって、その奥を覗き込めば真実がある。ダンデの胸の鼓動は、早鐘のように鳴った。試合とは違う汗が、首筋を伝って落ちる。 洋燈の灯りは室内全てを照らさない。奥は夜闇に支配されたままで、開け放たれた窓の向こう側に見える星々の明度が高い。風が、吹き抜けてゆく。 歌が聴こえる。目の前で歌われている。闇に浮かび上がる流麗な横顔。仄かな洋燈の灯りに浮かび上がる、美しい男の顔。男が、歌っている。ヴァイオリンのような声で、海と星の歌を。懐かしい、かの海原の歌を。 風に洋燈が揺れた。灯りも揺れる。照らし出されて浮かび上がる、男の羽毛に包まれ体。闇に艶めく両翼は伸びやかに広げられ、しかし鉤爪を有したその脚には鎖が繋がれている。城壁に囚われた、セイレーン。美しく、悲しい魔物。 セイレーンの顔が、ゆっくりと振り返った。海があった。二つの海が、ダンデを見つめている。丘の上に囚われ引き離されようと、海はセイレーンと共にある。深い色を宿した海底のような、青い瞳がダンデを見つめて、絡め取る。ダンデはこの目を知っていると思った。この海の底はダンデがよく見知った目だ。海を宿した目玉を持つ、美しい顔の男。この都市を守護する竜の、名代。 「キバナ」 声を発した瞬間、全てが崩れ去り、歌声が止む。一つ瞬きをして、瞼を開けた先にセイレーンはいない。いるのは、この街のジムを任されている男だけだった。 「ダンデ、なんでいるんだ?」 キバナは酷く驚いた様子でダンデを見たのち、そう告げた。手にはヴァイオリンと弓を持っている。 「歌が、聴こえたから」 「歌?」 「セイレーンの、歌声……」 間が数秒あったのち、先程まで歌声に満たされていた室内は今度はキバナの笑い声に満ちた。腹を抱えて、捩れんばかりにキバナが笑う。ダンデはどうして笑われているのか、セイレーンは何処に消えたのか、そもそもにあのセイレーンの顔はキバナであったと、そんな取り留めのない考えばかりが巡って棒立ちするばかりだ。 「あー、やべぇわ、お前。久々にすげぇ笑っちまった」 ようやく笑いの波が落ち着いたキバナが、目尻に溜まった涙を手の甲で拭いながら言った。 「確かに、ここにいたんだ。君の顔をしたセイレーンが歌っていた」 「んー、疲れてんのか?」 ダンデの様子が普段と違うため、キバナも流石に心配そうな顔をする。確かに連日仕事づくめではあったが、あれは疲労による夢や幻ではないとダンデは思った。確かに、いたのだ。囚われた美しいセイレーンが。愛しい男の顔をした魔性の獣が、ここにはいた。 しかし今目の前にいるのは正真正銘の人間のキバナであり、セイレーンの面影は何一つない。変わらないのは、深い海の底をした瞳だけだ。 「まあ、歌はこれかな?昔からナックルの人間はこの曲をセイレーンの歌って言って、例の昔話と共に何処からともなく誰かが奏でるのを聴いて育つからさ。夜にこの歌を聴いても誰かが弾いてんだろうくらいにしか思わないんだが」 そう言って、キバナはヴァイオリンを顎と肩で固定し構えると慣れた様子で弾き始めた。それはダンデが聴いた、セイレーンの歌声そのものだった。それどころか、キバナがセイレーンそのものだった。鳥の体こそ持たないが、伏せられた眼差しは遠い海を懐かしんで深みを増す。ヴァイオリンから奏でられる歌は、海鳴りと星の響きだった。塔に囚われている、丘の上のセイレーン。この地に縛り付けられ、自由を失った麗しい鳥。 「キバナ、君はここが好きか?」 キバナの演奏が終わり、ダンデが口にしたのは突拍子もない問い掛けだった。 「ナックルか?好きだよ」 不思議そうに片眉を顰めてみるも、キバナは素直に答える。 「故郷に……帰りたいと、そう思ったことはないのか?」 キバナは、ガラルの出身ではなかった。海を越えた遥か彼方からやってきた、異邦の人である。まだ柔らかさばかりが残る幼い頃に、竜としてこの地を守護することを乞われてやって来た異国の麒麟児。そして作為的に当てがわれたチャンピオンの好敵手でもあった。今でこそ、本心で互いをライバルと認め合っているが、二人の出逢いとはそのように作られたものだった。 帰りたくとも、帰れない。城壁に囚われたセイレーンと同じで、海を越えた先にある地を恋しく思っているのではなかろうか。ダンデはあのセイレーンの瞳を見て、そう思った。キバナと同じ顔をした囚われの美しいもの。あの哀郷の眼差しが、ダンデを射抜いている。 「なんだ、そんなこと……懐かしいとは思うが俺はここが、このナックルが、そしてお前が愛するこのガラルが大好きだ。だから帰りたいと思ったことはない。俺は守護者だ。この地を守る竜だ。お前ごとガラルをどんなことからも守ってみせるさ。まあ、ムゲンダイナの件は置いといて、だが。それゆえに俺はナックルジムのジムリーダーであり、騎士団の長であり、ガラルを守護する竜なんだ」 微笑みが、何もかも全てを包むようなキバナの微笑みが、どんな星の煌めきよりも眩かった。嘘偽りのない誓い。心の底より来たる言の葉の羅列。 哀愁を称えた海より連れらし鳥の姿はなく、そこには一頭の竜がいた。自らの意思で愛しい人々を守る誇り高い竜である。気高く、美しく、聡明で、力強いガラルの守護者。 ダンデはこの竜によって、これまでを生きてこれたのだと改めて思わされる。一人で駆けて行く道を彼だけは追い続け、時には隣に並び、そして必要ならばその背を向けてでも守る。これ以上の男はいない。こんな男が、わざわざ海を越えてやって来た。どうしてこの地が祝福されていると言わずにおれようか。この世に神はいないが、祝福はある。こんなにも間近に、祝福はあった。 「なあ……キバナ、もう一曲聴かせてくれないか?」 ダンデは胸の内に秘めた想いを吐露しそうになるのを、辛うじて押し込めて言った。まだ告げるべきではない。いや、一生言わない方が良いのかもしれない。 二人の出逢いは、確かに大人たちの策略だった。それがどうした。出逢い方ではない。その後の関係性や、一緒に過ごした時間こそが重要だ。 ダンデはキバナと走ってきた。共に二人で駆け抜けた。あの夜こそ一人で対峙してしまったが、それはキバナが街や人々を守ってくれると堅く信じ託したからである。何の心配もなくムゲンダイナと向かい合えたのはキバナのおかげだ。キバナだって、そうだろう。ダンデを信じて、背中を押してくれたのだ。 たった一人のライバルで、たった一人の本当の友。ダンデはそこに、もう一つの関係を付け加えたい。たった一人の、愛する人。キバナの気持ちは、ダンデにはわからない。バトルのときには読み取れる感情の機微は、普通の時には見えない。もしもこの想いが一方通行でなかったら、そう考えてはしかし違うだろうと理性的な自分が告げる。 今が崩れ去ってしまうことが、怖かった。ムゲンダイナを捕獲しようとしたときも、チャンピオンでなくなったあの瞬間も、恐ろしいとは思わなかった。ただ、好奇心と新しい風の予感に、胸が高鳴っただけだ。けれどキバナについては愛おしいからこそ、壊したくなかった。胸の内に秘めた感情について、ダンデは酷く臆病だった。 再びキバナが、ヴァイオリンを奏でる。もうセイレーンの歌ではなかった。名は知らないが、ダンデは美しい曲だと思った。夜の静寂に寄り添う優しい音色。セイレーンの郷愁もなければ、竜の咆哮でもない。キバナがこの街とダンデに贈る、ただただ温もりを伝えるだけの旋律。 ダンデは、このまま時が止まれば良いと思った。愛しい人と自分だけのこの空間と瞬間を、固着させてしまいたい。けれど、ダンデにはきっと無理で、彼は走り出してしまう。そういう定めだと、なんとはなしにダンデ自身も勘付いている。それでも、止まれば良いと、ダンデは強く想った。
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fushigilabyrinth · 2 years
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抜け殻と踊る
幕の引き方がわからない。どうやってこの舞台から降りれば良いのだろう。彼はすでに英雄という役を演じきり、舞台からはけてしまった。鮮やかな幕引きだった。次世代へと譲り渡すべきものを、誰もが称賛し祝福を願えるなか新しい英雄へと明け渡した。なんて清々しく晴れやかな世代交代。彼の輝きはまだ一際強く、しかしそんなことなど関係ない。華々しい盛りだからこそ、鮮烈で印象深い。彼は、永遠に英雄として人々の脳に刷り込まれる。栄華の時だけを知らしめて、歴史に刻まれる。 取り残されたのは、門番という名の道化役の俺ただひとり。何も守れず、何も勝ち取れず、名ばかりの、俺ひとり。 英雄は英雄らしく、ならば道化は道化らしく幕を引かなくては。観客の視線が渦巻くように体中を取り巻いている。何処を見たって、何処に行ったって、あの道化はどんな腹の捩れるような最後を見せてくれるだろうかという残忍で無垢な期待が織り込まれた不躾な眼差しが俺を射抜いていく。 大丈夫。最後くらいは、ちゃんと当てがわれた役を演じきって見せよう。それくらいの矜持は、残念ながらある。観客が望む喜劇をご覧に入れようではないか。愚鈍な竜が、身の程も知らずに頂きに近づいた末路をお見せしよう。笑うだけでなく、教訓としてくれれば僥倖だ。あとは道化にしては、よくやったと少しくらいは褒めてほしい。 あの城壁から落ちて、命があったことが奇跡だと医者は言った。だから、もうそれ以上は望まないで欲しいと言われ何も返答ができなかった。そもそもに彼の命に関して、彼の人生に関して、何かの決定をしたり、自分の意思を挟んだりするような立場ではない。彼に関しては、俺は部外者であり何の力もない。ただ、ライバルであるだけだ。もっともチャンピオンでなくなった俺に、彼のライバルであると名乗ることが許されればの話である。 キバナが落ちた、と一報が入ったのは優に十時間は前の話だ。あのナックルの城壁から、真っ逆さまに落下して病院に運び込まれた。 何故そんなことになったのかは、今のところ誰にもわからない。集中治療室で眠るキバナが目を覚ませば聞き出せるのだろうが、それがいつになるかも見当がつかない。彼はただただ眠っている。それこそ、スリーピングビューティーのように。城を取り囲むいばらの代わりに医療機器と様々な管に繋がれた、眠れる美しい人。 王子様が現れて、キスの一つでもしてやれば彼は目覚めるのだろうか。それならばキス��らい幾らでも彼にしてやろうと思い立った���、そこでそもそもに自分は王子ではないし、キスで目覚めるはずもないと理性が訴えた。要は笑えない童話の再現でしかなかった。流石に少し疲れているのかもしれない。 キバナが落ちた瞬間こそ動画や写真として残っていなかったが、彼が落下し地面に衝突した後の惨状は周囲にいた心ない人々によってネットの海へと放流されてしまっていた。拡散に次ぐ拡散。もう誰にも止められない。止めようにもいたちごっこを繰り返すだけの、無形の群衆による圧倒的な力。早々に対処すべきだとわかっていたが、リーグとナックルジムがそれぞれ抱える弁護士たちに処理を任せるしかなかった。下手に口を開けば、火は更に燃え上がり炎となる。今は沈黙の時だ。決して、言葉を発してはいけない。 しかし何もできないでいるのは、もどかしい。それでもただ、その場にいることしかできない。眠るキバナの命は機械たちが常に見守っている。それこそ正確無慈悲にキバナの命の値を計っている。少しでも異変があれば、甲高く喚いて叫びキバナの死が近づいたことを知らせてくる。 そして世話を焼くのは彼の家族の仕事で、今俺がここにいるのはその家族が国外にいるからだ。代理として、立っているだけだった。立場がリーグ委員長でなければ、キバナが落下したこともニュース速報で知ることになったのだろう。 それくらいには、俺とキバナの距離は遠い。別に近づく努力も、その必要性もなかったのだから仕方ない。互いにライバルであると認め合って、それを世間が望み、自分たちも望み、その距離感を保っていれば何も過不足なかった。世界はそれだけで満たされて、バランスを保っていた。負けるまでは。 俺が負けるまでは、世界はそれで均衡を保っていた。いや、今も変わらずに世界は保たれていて綻びなんてないのだろう。ひび割れて少しずつ傾きだしたのは俺とキバナの世界だけだ。もしかしたら、キバナすら変わっていないのかもしれない。こんなふうに世界の異変を感じ取っているのは俺だけでキバナすら不変の世界を生きている。そうだとしたら、この感覚は負けて国を追われた後に、塔に逃げ込んだ元王の哀れな自己憐憫の末路なのだろう。 だがそれもまた、わからないことだった。何にせよキバナは眠っている。ガラスで隔てられた部屋で、機械たちに囲まれて、深く眠る麗しい竜。彼の息遣いだけが、現実だ。 カーテンが風で翻る。部屋を吹き抜ける風は、心地よい。依然として目覚めないが生命の危機、と呼ばれる状態から脱したキバナは個室へと移動していた。出入りできる人間は医者と看護師とキバナの両親、そして俺だけだ。パパラッチが常に病院を張っているので最低限の人間しか通さない。 世間は相変わらず、あることも無いことも騒ぎ立てていたが弁護士たちの仕事は迅速で的確だった。彼らが抑えるべきところはすでに抑えていたので、後は時間の経過を待つだけになる。オフシーズンなこともあり、リーグ委員長として発言すべきことも最小限で済んだ。キバナの回復を心から願っている事と、最悪の事態としてもしも彼がこのまま目覚めなかった場合の処置。それだけだ。リーグの運営は滞りなく、またそれを指揮する立場に私情は挟まない。 今回の件は、キバナ個人の不慮の事故として処理される。彼が起き出してきて全く別のことを語らない限りは、城壁からの落下はキバナ個人の問題で収束される。それが一番穏便な方法だった。リーグもナックルジムも、また彼に関わる様々も「キバナがあの城壁から落ちたのは不慮の事故だった」と言い張れば外野はそれ以上を追求することはできない。証拠の一つもなければ、落ちた本人が真実を語ることもできないのだから。 もっとも憶測は、飛び交っている。その中でもやはり自殺説はまことしやかに人々の間で囁かれた。人の不幸は蜜の味、とは誰が言い出した言葉か知らないが群衆はこの手のスキャンダルに目がない。人の死は、もしくはそれに準ずる事柄は、いつの時代も恰好の話題となる。ロミオとジュリエットの悲恋があれだけ人の心を惹きつけるのも、最後には彼らが死ぬからだ。死という明確な終わりは、人を魅了する。 それにタイミングも悪い。チャンピオン交代からまだ一年だ。俺とキバナは、良くも悪くも切っても切れない。無敵のチャンピオンと、何度でも這い上がり喉元に喰らい付くそのライバル。十数年、そうやって二人でこのガラルを盛り上げてきた。意図的にこの関係を築いたわけではなかったが、意識するには充分過ぎる。敗北し戦場から去った王と、牙を向けるべき相手を失い狂った竜。ネット上にはそのような文句で、幾らでもキバナが自殺するに足る根拠が述べてあった。 実際の関係と、画面越しに見る関係とは違う。だが、群衆も見るべきものは見ているし、感じるべきは感じている。全てがただの有象無象の愚者ではない。流し読みした根拠のなかには、納得させられるものもいくつかはあった。そしてそれらは全て「キバナの自殺はダンデに起因する」と結論づけられていた。 過大評価だ。俺とキバナの世界は、俺から見れば確かに少しだけ均衡を欠いた。キバナも同じだったとしても、それを彼が自ら死を選ぶ理由とするのはあまりにも弱い。ほんの僅かな世界の変化では、人は死ねない。注いだ水が勢いよく溢れ出るような、秤の片側ばかりが大いに傾いてしまうような、そんな勢いがなければ人は死を選べない。そもそもに生物とは、自ら死を選ぶようには構成されていない。 人間だけが知恵を身に付け、その結果ありもしない未来を思い描き絶望するという自滅を行える。だが、そこに辿り着くのは、かなりの重労働だ。未来を予想することは人類を繁栄させたが、それ自体は酷く辛い作業である。だからこそ人はわざわざ自らの死を考えようとはしない。営みの流れに身を任せ、時折少し先の未来を予想し選択してみる。老いた時に死を考えるのは少し先の未来に死があるからであり、赤子の頃から行ってきた予想と選択の反復を続行しているだけにすぎない。生きることは、その反復だけで手がいっぱいだ。日々の粗末なことにすら手が回らないのに自らの死に対して考えを巡らせ、ましてや実行してみせるなど爆発的な気力でもなければできやしない。 俺は負けて、チャンピオンの座を降りた。在位の年数は師匠には遠く及ばず、無敗記録もさしたる意味を持たない。頂きとは遅かれ早かれいつかは下らねばならぬものであり、俺を引き摺り下ろした人物がキバナではなかっただけなのだ。その程度の事でキバナの天秤は揺らがないし、杯も満たされない。キバナとは、そういう男のはずなのだ。俺が王でなくなったからと言って、揺らぐような男ではなかったはずなのだ。だから、ずっと、ライバルとしてあの狂気渦巻くフィールドに立ち続けることができた。 「なあ、そうだろう?」 返答は、あるわけがなかった。相変わらず、無機質な機械たちがキバナの命を見守っている。生きるために必要な水や栄養は、すべて点滴から伸びる管が彼に与えていた。酸素も人工呼吸器によって肺へと送られて、キバナという男の意思は何処にも介在していない。 ただ、彼の母が飾ったのであろう花だけが意図を持って存在していた。キバナの母親が、息子の回復を願う意識がそこにはあった。肉体だけとなった息子を、母親はどう思い感じているのか。俺の母も、あのとき同じように感じたのか。 でもすべては他人の感覚だ。キバナはいない。キバナは、眠っている。キバナの意思はここには、何一つない。風も花もベッドも点滴も、そして彼自身の肉体にも、キバナの意思は宿っていない。なにも、ない。 キミの意見が、ききたいよ、キバナ。 そう思って、けれどこれまでそんなことを口にしたこともなければ、考えたこともなかったと気づく。会話はあった。試合の後、懇親会、その他何かしらのイベントやパーティー。彼と会話する機会はつどつど訪れて、たわいない話、もしくはそれなりに白熱する議論を交わしあった。でも、それはライバルとしての会話だったと今更理解する。俺と、キバナ。そんな会話は、なかった。いつだってチャンピオンとそのライバルだった。でもそれで許されていたのだから、仕方ない。俺は、そこから先へ踏み出さなかった。だって、本当は臆病だから。 俺のリザードンの性格は、おくびょうだ。けれど、そのことを知っている人間は少ない。昔はよく、迷子になるたびに泣いていた。まだヒトカゲだったころの話だ。まるで炎の化身が如く業火でフィールドを燃やし尽くし、目の前のあらゆるものをことごとく薙ぎ払う姿に、そのおくびょうの影はない。そうなるように、自らを飾り立ててきた。それでも、リザードンはおくびょうなのだ。 そして、それは俺も同じだ。臆病だから、距離を詰めなかった。人間同士の関わり合いは、わからない、読めない、理解できない。知らないわけでも、感じないわけでもないが、酷く難しくて逃げてきた。俺が唯一、意図的に、背を向けたもの。王だからといって、蔑ろにしてきたもの。薄っぺらなそれではなく、面と向かって時間をかけて相互理解をしていくべき何か。 家族とは別の、理解の形。それを、きっとキバナとは形成できたのだろう。たぶん、できた、はずだ。もうその機会は訪れないかもしれないが。 眠る彼の顔は、怪我の痕が生々しいが穏やかだ。頭から地面に衝突し、まず脳と脊椎に、そしてその他の骨や内臓に、ダメージが分散され奇跡的に生きているだけの、彼。それでも、穏やかなのだ。穏やか過ぎて、腹が立つ。早く起き出して、いつもみたいに炎上した自分のSNSの鎮火に右往左往してほしい。俺が、というよりは殆どは弁護士たちが処理したのだが、それでも俺も駆り出された。他人の火事の火消しをして回った。本来ならば道化みたいに走り回って、火を消すのは彼の仕事だ。自分で撒いた種は、自分で回収するべきものである。だから、早く起きてくれ。そして火消しをして回る道化の後ろに隠された竜の姿を曝け出し、鋭く凶悪なその牙でもって喉元に喰らい付いてはくれないか。キバナ、キミの牙でないと、俺はたぶん、本当には死ねない。 呼吸マスクを外す。ずっとマスクをつけているせいで、キバナの鼻梁には擦り傷ができている。まだ真新しいかんじのするそこは、彼の肉体が生きているのだと教えてくれる。 優しく、口付けた。それこそ、本当にスリーピングビューティーを目覚めさせる気持ちで、優しく、まごころを込めて。かさついたキバナの唇に、触れる自分の唇。体温が伝わって、彼の呼吸の気配があって、でもそれだけだった。キバナは、目覚めない。俺はやはり王子様でもないし、この眠りも呪いでも魔法でもない。厭になるくらいの、現実。 再び、マスクを元に戻して、部屋を後にした。どれくらいの月日が必要なのか、そもそもに彼の肉体がいつまで保つのか、その前に彼の両親の心が折れるのか。決定権はなにもない。そんな関係でしかないから。それでも最後まで、彼と踊りたい。抱き締めている身体が、抜け殻だったとしても、なかに何も入っていなくても、キバナと踊りたい。ようやく踏み出せそうなんだ。臆病だけど、一歩、踏み出して距離を縮めることができそうなんだ。手を伸ばして踊りませんかと訊けそうなのに、そこにキバナはいない。彼は眠りの森で、誰かが起こしにやってくるのを待っている。王子様は俺ではない。きっと、誰でもない。それなのに、キバナは待っている。いや、本当は待っていないのかもしれない。すべての真実は夢の、向こう側だ。
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fushigilabyrinth · 2 years
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霊界からの贈り物
「ふるびたにっき」 とてもおおきな おとこのひと から あずかった にっき。 とどけさきは むはいの おうさま。 なぜだか ふるびた かんじが する。 ---------- 今年も、ジムチャレンジが行われている。ダンデがかつてそうであったように、ガラルリーグの頂点を目指してありとあらゆる人々がジムミッションに挑む。老いも若いも、男も女も関係なく、バトルの才能とパートナーたちとの信頼関係だけが必要な、シンプルだが過酷な旅路だ。穏やかな春の日差しによって草花が目覚めると共に始まり、厳しい冬が訪れる前に秋風によって終わりが告げられる、まさに挑戦の期間。その約六ヶ月の間、国中の人間がチャレンジャーたちを注視する。それはガラルの一大興業の一端だった。 ジムチャレンジは推薦状を得た人間であれば平等に資格が与えられるが、挑む者は思いのほか少ない。挑んだとしても途中で挫折する者が多く、八つのジムを全てクリアしセミファイナルトーナメントに残れるのは毎年数名だけだ。 目の前の少年は今年のチャレンジャーの一人だった。シュートシティまで辿り着いたのだからジムミッションを全てクリアしたのだろう。あとは期限までにどれだけのチャレンジャーが最終関門を突破できるかである。 最終ジムであるナックルジムは、その在り方を自ら番人であると定義していた。セミファイナルという戦場に、真に踏み入る資格があるかを判断する。ゆえに非常に堅牢だ。チャレンジャーたちは三つ目のエンジンジムで大半が削がれ、そして八つ目のナックルジムで最後の振るいにかけられ蹴落とされる。殆どが、残らない。それがガラルのジムチャレンジの姿だ。容易くはない。だからこそ民衆は熱狂し、さらにその頂点たるチャンピオンはガラルにおいて英雄そのものであった。憧れる者こそ多いが、そこへ至る道筋を歩む者は極端に少ない。ゆえにガラルリーグのチャンピオンという立場は、まさに王の座だった。 この眼前の少年も、その座を目指しここまで来たのだ。瞳を見ればわかる。奥底に燃える炎は、消せはしない。今年は、いつになく波乱に満ちたファイナルになるだろう。ダンデが遠い過去に成し得た偉業、そして経験した失墜。頂きは常に狙われ、そして新しい力は過去を��り返らない。勢いのままに奪い、駆け抜けてゆく。だからこそ、ガラルは未来へと進んでいける。 「素晴らしい試合だった。ここまで来ただけはある。モンスターボール級にランクアップだ。キミのファイナルでの活躍が楽しみだよ」 疲弊したパートナーをボールに戻し、ダンデは言った。偽りはない。このバトルタワーでの試合を通してファイナルトーナメントが楽しみになる逸材だと、素直に感じていた。 「ありがとうございます。正直、自分でもびっくりしてるんです。ここまで来れるだなんて思ってもみなくて」 「だが事実だ。自信を持ちなさい。十分にパートナーたちと調整を重ねて挑むと良い。キミだって、目指すはチャンピオンだろう?そのためにも、このバトルタワーは存在している」 「はい、ここまで来たからには頂点を目指します!」 少年の返答は力強い。これこそダンデが創り上げたいと切に願い尽力してきたガラルの姿の一面だ。ダンデの半生はそのためにあったと言える。ガラルの皆を強くする。それがチャンピオン時代からのダンデの夢だ。 「いい意気込みだ」 ダンデの顔に浮かんだのは満面の笑みだった。皺こそ随分と深くなったが現役時代を彷彿とさせる美しい歯が印象的な、あの英雄の笑いである。 「それで、あの、あなたがダンデさん……ですよね?無敗の王、無敵のダンデ……」 「懐かしいな。ああ、俺が無敵のダンデだ。昔の話だがね。キミくらいの年頃で俺の名を知っているとはなかなか優秀だな」 「いえ、その、ついこの間まで知りませんでした。すいません」 「いや構わないよ。俺がチャンピオンだったのはキミが生まれる前の話だからね。しかしどうして俺の名前を知ってくれたのかな?」 少年が居た堪れないといった顔をするのが面白かった。ダンデがチャンピオンとして君臨していたのは、三十年以上も前である。知らないのも無理はない。今ではこのバトルタワーのランクアップ試験に顔を出すことすら珍しくなっていた。時代は移ろい流れる。その流れに合わせて、ダンデもまた緩やかに、そして潔く次世代に様々なものを譲り渡していた。それがかつて王であった男の、矜持でもある。 「ある人に頼まれたんです。これを、シュートシティにいる無敗の王様に渡してくれって。それでいろいろと聞いて回ったら、あなたのことだとわかったのでここまでやって来ました」 そう言って少年が取り出したのは、一冊の古い日記帳だった。鈍い赤銅色をし、金の鍵に守られている。この日記を見たことがあると、ダンデは思った。 「これをどこで?」 手渡された日記の表紙を撫でながら、ダンデは少年に問うた。記憶が確かならば、この日記はとても大切な、それだというのに失われてしまっていたダンデの宝だった。 「ナックルシティですごく大きなお兄さんに託されました」 「ナックルで、大きな……」 「名前は聞きそびれてしまったんですが、ナックルジムのユニフォームを着ていて、とにかくすごく大きな人でした。僕、その人が大きすぎるのと逆光で顔はよくわからなかったんですが、ヌメラみたいな笑い方をするものだから二つ返事でお願いをきいてしまって」 ダンデの脳裏には一人の男の姿が浮かんでいた。忘れたくても忘れられない。むしろ、忘れようなんて思えるはずのない、たった一人のダンデのライバル。そしてたった一人の、永遠に愛しい人。 穏やかな午後だった。城壁を越えてワイルドエリアから入り込む風が、開け放たれた窓から執務室を優しく駆け抜けてゆく。古より竜が守る街にふさわしく、室内の調度品たちは上等だが時代を経た物ばかりだった。ジムリーダーという概念がまだなかった何百年という昔から、歴代の長達に引き継がれてきたものばかりである。そんな重く深い歴史の真ん中にSNSを駆使する彼がいることは、なかなか皮肉の効いた冗談のようにも思えるが、実際に彼がその執務室に納まる様を見ると誰も文句は言えなくなる。 今この時代に、彼ほどにこの場所を守護する者としてふさわしい人物はいない。宝物庫の番人、最後の審判を下す八つ目のジムのジムリーダー、そして竜を愛し竜に愛された者、それがキバナという男だった。 ダンデがリザードンに乗って密やかにバルコニーに降り立ったせいか、それとも彼が書き物に集中しているせいかはわからなかったが、珍しくキバナは客人の来訪に気づかなかった。仕事用のラップトップすらも片隅に追いやって、熱心に何かを書き付けている。いつ気付くだろうかと、ダンデは部屋とバルコニーの境目��ずっとキバナを見つめ続けた。 大きな体躯を丸く縮こまらせ、視線を紙面に貼り付けて、キバナは何かを書いている。きっと仕事ではない。仕事以上に真剣そうな横顔がある。バトルとも違った、真摯で熱のこもった顔だ。鼻梁の線は美しく、褐色の肌には執務机の滑らかさと競いあうような深い艶がある。文字を書き綴るペンを握った指は健やかそうに長く大きい。 以前彼がモデルを務めたハイジュエリーブランドの広告を見た時もダンデは思ったが、キバナは造形が美しい。女性的であるとか、中性的であるとか、そういった意味合いではなく、男性として彼は美しかった。 その広告は身に着けたジュエリーを目立たせるために手元と横顔が大きくズームアップされた構図をしており、宝石もだがキバナ自身の魅力をより際立たせ当時かなり話題になった。煌びやかな宝石たちがキバナの耳を、指を、手首を飾り付け随分と華やかに目を引いたのだが、それ以上に彼の表情が煽情的だった。 僅かに開いた唇は物憂げで、今にも吐息が色づいた靄として誰かれ構わず誘いそうに吐き出されるのではなかろうかと思われた。微かに伏せられた瞳は澄んだ海の色をしているが、その中に誰を写すでもなく虚空を見つめている。誰も写らない凪いだ海の色はダンデの知るそれではなく、ただただそこに写らない自分という存在に焦燥感を覚えたのが恋の自覚の始まりだった。バトルの時の、燃え盛る焔を宿した瞳には、いつだってダンデの姿がある。むしろダンデしか、いない。それだというのに、この彼の瞳には誰もいない。ダンデすら、いない。恐ろしい程の焦りと胸の苦しみはダンデに、自分がキバナに向ける感情が如何様なものであるかを知らしめた。あの日以来、ダンデの心はキバナのものだった。 キバナは未だにダンデに気付かない。声をかけてしまえば済む話なのだが、それができない。いや、したくなかった。キバナからダンデに気付いて欲しかった。ダンデばかりが恋を募らせている。それは仕方ない。好きになったのはたぶん、ダンデの方からでキバナはきっと絆されてくれただけなのだ。それでも良い。彼が自分の懐に堕ちてきてくれただけでも、かなりの幸運だ。けれどキバナからダンデを求めて欲しい。我儘だと理解してはいるが、自分ばかりは苦しい。ただのライバルのままならば試合の勝ち負けだけで、それはとても単純明快な構造をしている。けれどダンデはそれだけでは満足できなかった。蜘蛛の糸が蝶を絡めとるような、そんな複雑な関係に、ダンデはキバナとなりたかった。氷よりも薄い表面上の感情も、腹の奥底に抑え込んでいる煮え滾るような感情も、全て何もかもをキバナにぶつけたかった。 だから、気付いて欲しい。紙に書き付けている何かを放ってこちらを見ろ。お前の瞳に写すべきは、宿すべきはそんなものではないだろう。澄んだその海を独り占めにして好き勝手に荒らしまわる権利は、自分のものだ。だから、こちらを、見ろ。 ダンデが一際強くそう念じたと共に、キバナの視線が紙面から離れ、宙に浮く。そのままゆっくりと流れて、ダンデへと向けられた。二つの青い目玉には、ダンデだけがいる。ダンデだけしか、いなかった。 「うわ、お前いつの間に!」 ダンデの存在に気付いたキバナは、大袈裟な動作と共に頓狂な声をあげた。コミックかアニメのようなその動きはキバナの巨軀のせいで迫力があるのだが、ダンデから見ると愛らしい。そもそもにキバナの動作は逐一、何かしら演技めいて見える。だが、それが板に付いてしまっており違和感はなく、それどころかキバナらしさになっていた。 「少し前から」 「え、まじ?あー……声かけろよ。気づかなかった。すまん」 返答を聞いて気まずい様子で謝りはするが、キバナには落ち度はない。ダンデが勝手にやって来て、勝手に彼に声をかけずにいただけだ。しかし謝ってしまうのはキバナの性分なのだ。とりわけ、ダンデが相手なので甘い。この甘さがどれだけ追い詰めても最終的にはバトルでダンデに勝てない要因なのだろうと考えはするが、ダンデは言ってやらない。 「何を書いてるんだ?」 ダンデの来訪に気付かない程に熱心になるものだ。気にならない筈がない。キバナに近づいてノートの中身を覗き込もうとしたが、遮られる。 「ちょ、見んなよ。プライバシーの侵害です!」 ダンデに見せるまいとキバナは、背を向けるようにしてノートをしっかりと抱き込む。ダンデもその程度の事で諦める筈がなく、キバナからノートを奪おうと左右に動いて手を伸ばすが今日の守備は厭に固かった。 「減るものでもないだろう?いいじゃないか」 「オレ様が嫌なの!ほんとお前は」 「ケチ……」 「ケチとはなんだ!ケチとは!これは、まあ……なんつうか、日記みたいなものというか……だから、わかるだろ?人に見られたくない気持ち」 「わかるが、だからこそ見たい!」 「オーナー様よ、自制心を持て!はぁ……今は見せらんねぇけど、必要な時が来たら、その時が来たら……お前にちゃんと見せてやるから、だから待っててくれないか、ダンデ」 普段の顔と違った。笑っているが、笑っていない。真剣過ぎて、笑いが笑いでなくなっている。キバナがこんな顔をしたのは、ダンデが彼に自分の本当の気持ちを吐露した時以来だった。あの時と同じ表情でキバナがダンデに待つ事を乞うている。それならばダンデは待つしかない。どれだけの時間がかかろうと、キバナがいいと言うまで、待つ。 「代わりと言っちゃなんだが、これを持っててくれ」 キバナが執務机の引き出しから取り出したのは、二つの小さな金色をした鍵だった。そのうちの一つをダンデに手渡し、もう一つでノートに施錠する。 「その時が来たら、その鍵で開けて読んで欲しい」 「わかった」 ダンデの返答にキバナは満足そうな顔をして、頷いた。それ以来ダンデはこの小さな鍵を肌身離さず持っている。チェーンを通して首飾り状にし、どんな時もそばにある。その時が来るまで、決して手離さない。 少年から受け取った日記を手に、ダンデは常より早く帰宅した。ダンデの手元へとようやく辿り着いたそれは、所々擦り切れたようになっているが表紙の生地が上質なため存外、保存状態は良い。金具部分も錆はなく、色褪せているだけだ。油を差す必要はないだろう。 「その時が来たら、読んでいいんだよな……キバナ……」 幾度か表紙を指先で撫でた後、ダンデは意を決して日記の施錠を解く。優に二十年はダンデの胸元で揺れているだけだった鍵が、ついに役目を果たした瞬間だった。 表紙をめくり現れた一頁目には、懐かしいキバナの筆跡で一言、文章が記されていた。 「ダンデ、お前に捧げる」 ダンデはこの一言だけで、キバナの筆跡だけで、胸がいっぱいだった。これ以上を望むことは、辛い。辛いのだが、キバナが遺してくれたものをダンデは全て知りたかった。もうどうしたって逢えない彼の、ダンデのために遺された言葉たち。 キバナが心臓を患っていることを聞いたのは、恋人となって半年程経ってからだった。大きい体に対して彼の心臓は小さいらしく、処理能力が時折キャパシティを越えてしまうらしい。薬と日々の健康管理で生活に支障はないが、恋人なのだから一応は伝えておかねばというのがキバナの話だった。 「キミ、身長はそんなにも大きいのに心臓は小さいのか」 ダンデはキバナの顔と心臓がある位置とを交互に見比べて言った。 「そうなんだよなぁ、まあほらオレ様ってすんごく愛らしいとこあるだろ?それのせいかな」 「これだけデカい男が可愛いわけないだろう」 「ちょ、お前オレの恋人だよね?」 「一般的な見解だ」 「そーね」 あからさまに気分を害したと言わんばかりにキバナは唇を噛み締めている。 「だが、俺はちがう。君は、とても可愛いよ。今すぐにでもキスしたいくらいに」 本心だった。いつだってキバナは愛らしかった。色眼鏡なことくらいわかっていたが、惚れた弱味である。痘痕もえくぼとは、昔の人は上手く言ったものだ。 「お、おぉう?急に白馬の王子様モードに入んのやめてくれる?めちゃくちゃ心臓に悪い……」 胸元を抑えながら、キバナは恥ずかしげに頬を掻く。照れ隠しだった。 「死因、ダンデ……はちょっと世間体が悪いな。それに俺は王子様じゃないぜ。王様だ!」 「はいはい、元な」 「で、キスしていいかな?我が竜よ」 ダンデはキバナの頬に手を添え、自分の方に顔を向けさせ問う。了承など得ずとも口付けくらい場所さえ選べばキバナは怒りはしない。だが、ダンデはキバナからの許可が欲しかった。キバナから、ダンデを求めて欲しかった。 「そこはプリンセスじゃないんだな」 「プリンセスがお望みなら次からはそうしよう」 「いや、俺はお前の竜がいい」 「うん。俺も君以外の竜はいらない」 唇が優しく触れ合うだけで、満たされた。ダンデも、ただの恋に浮かれる普通の男だった。 あの頃は歯の浮くような台詞を言うことも、戯れに啄ばむような口付けを送ることも、日常に組み込まれていた。人はいつか死ぬ。だからこの営みもいつかは失われる。しかし、今ではない。もっとずっと、それこそ何十年も先の、互いに皺だらけの老人になったときに失われるものだとダンデは思っていた。 これからの長い時間を共に行きて、最後は流石にばらばらだとしても、あまり変わらない頃合いで死を迎える。どちらが先かはわからないが、大きな差は生まれない。それが自分たち二人に訪れる死の形、人生の終焉だとダンデは信じて疑わなかった。 けれど、生きることに確かなことはない。絶対などという言葉は当て嵌まらない。事実、負けないと自負していたのにダンデは負けた。別にそれは自体は問題ではない。絶対を信じすぎることが、いけなかった。心の準備なんて、若い時分にできるはずもないが過信していた自覚はある。 死神は軽やかに、キバナを連れ去ってしまった。それこそダンデが何もできないほどだった。チャンピオンの座を降りることになったとき、実はほんの少しだけ泣いたのだが、キバナの死に対しては涙一つこぼれなかった。それくらいに、ダンデは何もできなかった。 別れたのは数時間前で、その時は笑いながらランチをしていた。これからのリーグのこと、ガラルのこと、そして自分たちのこと。とにかく未来に対してのいろいろを二人で話し合った幸せな時間だった。死の予兆などあるはずがなく、恋人同士の親密な空気があるだけだった。 わからないことが、世の中にはごまんとある。死も、その一つだ。人は何処から来て、何処へ行くのかは、誰にもわからない。ダンデもキバナも、そのわからないサイクルのなかに組み込まれて生きている。組み込まれているからには、避けられない。けれど、早すぎではないだろうか。ダンデは、キバナを連れ去ってしまった何かに、そう問いかけたい。 突発的な心停止だった。医者は原因はわからないと言った。元々リスクのある心臓だったので、そのせいではなかろうかと、力なくダンデに告げるだけだった。病院に運び込まれたときにはすでに心臓が止まって十分以上が経っており、その間救命士が必死に心臓マッサージを行ない、病院に着いてからは医者が尽力してくれたがキバナの心臓はその努力には応えなかった。 誰も悪くはなかった。救命士も医者も、そしてキバナも。ただ、生きとし生けるものには必ず訪れる死が、キバナには人より早くやって来てしまっただけだった。 キバナの死は彼が倒れる瞬間を見た人間が数名いた為に瞬く間に速報として取り上げられ、追悼番組や特集ニュースでガラル中のありとあらゆるメディアはキバナ一色になった。ナックルシティではジムの周囲を多量のキャンドルと花束が埋め尽くし、彼がどれだけガラルの住民に愛されていたかを物語った。 ダンデは過熱するメディアと悲しみにくれる住民たちへの対応をリーグ委員長として処理することに明け暮れた。それはその時ダンデがすべきことでもあり、そして逃げ道でもあった。キバナの両親を励まし誰にも邪魔をされずに別れを告げられるよう根回しし、しかし群衆の悲しみの渦はそれでは納まらないことをよく理解しているがゆえにリーグ主体でキバナの死を弔う機会を設けた。 駆け抜けるように、忙しかった。それでよかった。最後に見たキバナの顔が穏やかで、それだけでも救われる気がした。キバナが眠っている棺に土がかけられてゆく様を見ながら、ダンデはまるで映画の撮影をしているようだと思った。女性の啜り泣き、暗い顔で俯きながらシャベルを黙々と動かし続ける男の衣擦れの音。少し視線を向こうに投げやれば、カメラレンズと監督の真剣な眼差しが自分を捉えている。 けれどそんな幻想はどこにもなく、何もかもが現実で、ダンデだけがその現実に追いつけていない。これまでは自分が追われる側だったのに、今回ばかりはダンデは追いかける側で、その上まったく追いつけない。 もう、悲しいだとか、苦しいだとか、辛いだとか、そんな感情は放ってしまって、ダンデは目の前にあることをやるだけに努めようと決めた。今までそうだったし、これからも同じだ。ただ、一人で走ることになっただけなのだ。でも問題はないと、そう自分に言い聞かせてダンデはキバナがいなくなった世界と自分をほんの少しだけ乖離させた。 「正直、かなり、恥ずかしい。書く、ということは物理的に残る。いや、この日記を燃やしてしまえば消えるんだが。でも紙に書くことの意味ってヤツがあるだろ。わざわざそれを行う理由。ここに書かなくてもわかるだろうが、しかし書かないと意味がない。なんだがややこしい言い回しになっちまってるが要はダンデ、お前を愛してるよ。だからこんな風に書いて残すんだ。言葉でも言ってやる努力はするが、まー……やっぱ恥ずかしいじゃん?だからせめて、この日記にはお前へのオブラートなしの想いを書き残していきたい。気が向いたときに。なるべく毎日書きたいけど、日記って毎日書く!みたいな目標をたてると書けなくなるからそこらへんは許せ。とりあえず、今日はこれだけ。充分だろ」 「今日は雨。ダンデの髪がやばいくらい爆発しててすげー笑えたと同時に愛おしさが込み上げてしまったので、今日の俺はもうだめです。以上」 「めちゃくちゃ好き好き言ってくるけど、言い過ぎでは?たくさん言えばいいってもんじゃねぇんだぞ。しかし、嫌ではないオレ様。甘い……負けた……試合じゃないけど」 「ソファに座って二人で喋ってたらふと思い出した。あの試合が終わった後、チャンピオンでなくなったお前の顔を見たときのこと。なぜ耐えるのだろうかと思った。コートにいるときは仕方ない。これまでの十数年で築いてきたチャンピオンダンデというガラルの国民みんなの夢は壊せない。笑顔で、それこそ腹の底から吹き上げて掻っさらっていくような清々しさで、新しい時代へと新しい可能性へと向かうガラルを後押しする必要がある。だが、バックヤード。それも控え室ならもういいだろうに、お前はチャンピオンの顔のままだった。あんときは腹が立ったし、不安にもなった。お前だって人間なんだから、悔しがって泣いてくれよと思った。俺がするみたいに。だから、あのとき声をかけて良かったと思ってる。負けるって悔しいだろって声をかけて、本当に良かった。あぁ、悔しいなって言ってお前が少しでも泣いてくれて、本当によかった。人は神様にはなれないし、ダンデ、お前は永遠に英雄ではいられない。ただのダンデでいいんだ。今も、これからも。俺は最初からずっとただのダンデと歩んできたし、これからもそうだ。お願いだから、自分を蔑ろにしてくれるな。泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑って、面白おかしく死んだ後は伝記映画になるような、そんな人生を生きてくれ。そのとなりに俺もいてればさらにサイコー」 押し殺した声に、心配したヒトカゲがボールから出てきてダンデの顔を覗き込む。チャンピオン時代の相棒は、数年前にダンデを残して逝ってしまっていた。寿命で穏やかな死だった。キバナとは違い、互いに充分に理解しあった上で迎えた別れだった。今隣で心配そうに右往左往する彼は、相棒が最後に残していってくれた優しい灯火だ。 「すまない。大丈夫だ」 頭を擦り寄せてくるヒトカゲを撫でながら、ダンデは泣いていた。今ようやく、泣いていた。止めどなく涙が溢れ出す。これまでの数十年を振り返るように、涙が次から次へとダンデの頬を濡らした。 悲しかったのだ。本当に、悲しかった。叫んで暴れて、子供みたいに地団駄を踏んで、なんで先に死ぬんだと喚き散らしたかった。その感情に蓋をしたのは紛れもなくダンデ自身であった。そんなことをする必要はもうなかったのに、ダンデはそうしてしまった。キバナの死を感じたくなかったし、受け入れたくなかったのだ。そのまま、これまでを生きてきて今、虚な自分に直面している。自業自得だった。 駆け抜けて、譲り渡して、長年の友とも別れ、ダンデは今ごろになって宙に浮かぶ不安定な何かになっていた。リザードンが彼の種族にしては長命だったのは、たぶんダンデが心配だったのだろう。真っ直ぐに走っているように見えて迷子になっている姿をリザードンだけは分かっていたに違いない。隠していたつもりだったのだがジムチャレンジ時代からの相棒には、到底隠せないことだった。 リザードンが天寿を全うし、そして代わりにこの日記がダンデの元へと帰ってきた。少年は託されて持ってきたと言っていたが、そうなのだとしたら何故直接目の前に現れてくれないのだろうか。もう何十年も想いは変わらない。どうやっても、ダンデはキバナしか愛せない。けれど、ダンデがキバナに会えない理由はわかっていた。ダンデがキバナの死に向き合わなかったからだ。彼はたぶん、そのことを怒っている。だが怒ってはいるが、あの頃のままダンデを想ってくれてもいる。そうでもなければ、わざわざ日記を他人に託すような真似はしない。ダンデが知っているキバナという男は死んで幽霊になったとしても、そんなふうに愛の深い人間だ。 涙は止まらなかったが、ダンデは随分と晴れやかな気分になっていた。ようやくキバナの死に本当の意味で寄り添える。今度こそ感情に蓋なんかせず、自分の想いのままに生きていこう。キバナが記した「伝記映画になるような人生」というものを目指すには、まだ遅くはない。あの頃に比べて随分と歳を取ったのは確かだが、ダンデはまだ走って行ける。これまでの自分が作り上げてきた業績を塗り変える何かをなせる、そんな気さえする。 そうだ、ダンデはまだ生きている。力強く駆け抜ける余力もある。なにより、一人ではない。一人だと思っていただけで常に誰かが隣にいた。これからも隣にいてくれる。肉体は滅びても、魂と心は永遠だ。キバナはずっとダンデのそばにて、ダンデが気づこうとしなかっただけなのだ。だから、大丈夫。最後まで走ってゆく。走りきったその先で、キバナはきっと笑って待っていてくれるだろう。ダンデはそれだけはこの不確かな世界でも絶対だと強く思い、もう一度だけ静かに泣いた。
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fushigilabyrinth · 2 years
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王さまの夢
「夢を、見たんだ」 真夜中三時過ぎの電話は、そんな言葉で始まった。キバナは眠い目を擦りつつ、次の言葉が紡がれるのを静かに待つ。慣れたものだった。 「俺は立派な椅子に座っている。椅子は周りより高い位置にあって、何かが台座になっているみたいなんだが、何かはわからない。それよりも早く誰かやって来ないかと、暇を持て余している。けれどなかなか誰もやって来ない。長い長い時間をそんなふうに待ちぼうけていると、暗がりの奥から足音が響いてくる。俺はあぁ、やっと誰かが来たんだと思って、嬉しくなって、その足音に向かって駆け出そうとする。だが、できない。よく見ると、俺の手足は椅子に厳重に縛り付けられていて、自分からは足音へは向かっていけないんだ」 柔らかなシー��の海のなかで聴く、ダンデの物語はいつも同じだった。同じはじまりと同じおわりでできた、ダンデの夢。いつから彼がその夢を見るようになったのかはわからない。ただ、彼はその夢を見た夜は幼子のようにひとり震えながらベッドの上で蹲り、朝が来るのを待つ。夢が怖いのかと問いかければ、わからないと答え、では何なのかとさらに問いかけを重ねると、やはりわからないと返す。ダンデはただ朝を震えて待つしかないのだと、そう言うだけだ。 初めてダンデの夢の話を聞いたのは、やはり真夜中だった。今にも落ちてきてしまいそうな程に大きな満月の夜だった。キバナは何故か眠れず、ベッドの上でその長い手足を持て余すように何度か寝返りをうった。夏が近づき室内に暑さがこもり始めていたので、少しだけ窓を開けていた。心地よい風が入り込み、皮膚を撫でてゆく。薄いヴェールのカーテンを透けて、優しい月明かりがベッドに注ぎ込んだ。街中であるはずなのにその日はとても静かで、眠りを脅かすものは何もない。 これだけ安らかな夜はそうそうないだろう。けれど、キバナは眠れなかった。安らかさだけがあり、それだけの夜だった。ポケモンたちにも街にも眠りはつつがなく訪れたというのに、キバナにはやって来なかった。眠りの使者は彼だけを忘れて、彼以外の世界すべてを眠りに誘った。 そんなときに、ロトムの入っていないスマートフォンから通知音がなった。キバナは腕を少し伸ばしてそれを手繰り寄せると、内容を確認する。ダンデから一言「今、起きているか?」とだけあった。 ダンデとキバナは巷ではライバルと囃し立てられてはいるが、こんな真夜中に突拍子もなく連絡をしあうような仲ではなかった。ビジネスライクよりかは少しは友人に近かったが、それでもプライベートで会うことはない。リーグ関係者のなかで友人と呼べるのはネズやルリナであり、ダンデとはやはり仕事を通さねば会話もあまりない。連絡先を知っていたのも便宜上で、今夜が二人の間で初めて仕事に関係なく連絡があった夜だ。 キバナは少し迷ってから「起きてる」とだけ返信した。どうせ眠れないのならば、この極めて珍しいガラルの王からの連絡に応えてみようと思ったのだ。それは純粋な好奇心だった。追いかけても追いかけても届かぬ王の、他人には垣間見せぬ姿を見ることができるのならば見てみたい。そんな人並みの、ささやかな欲望だった。 ダンデの強さは身に染みすぎるほどに理解していたし、また彼の人となりはメディアからの情報でしか彼を知らぬ大衆よりかはわかっている。それでもキバナはダンデについては知らないことばかりだ。なぜこんな夜更けにあえて連絡をよこしてきたのか、その理由の見当などまったくつかない。 返信してから十数分経ち、ダンデは寝落ちしてしまったかやはり考えを改めたのかとキバナが思いはじめたころ「電話できるだろうか?」とそれだけのメッセージが液晶画面に浮かぶ。キバナは連絡先を交換したのち、一度もまともに見たことがなかったダンデへと通じる数字の羅列を素直にタッチした。 「あ……キバナ……」 数コールの後、初めて聞く機械越しの声はあからさまに戸惑っていた。 「今、何時だか知ってるか?」 キバナが問うた。意地が悪いと自分でも思うが、しかしたまには出し抜かれる気持ちも知れば良い。 「すまない。こんな真夜中に迷惑だよな。もう切ろう」 「バーカ、もうオレ様目が冴えちまってるっつうの。オレが眠くなるまで最後まで責任持って付き合えよ」 すぐに電話をきろうとするダンデを今更だと制して止めた。だがその後の会話は続かず、二人の呼吸の気配だけが電子の波に乗って互いの鼓膜を震わせる。 「夢を、見たんだ」 穏やかすぎる夜の沈黙を、少しだけ乱すダンデの声は、キバナが普段知るそれよりささやかだった。 「夢?」 「いつも、同じ夢を見る。その夢を見ると、もう眠れない」 夢は眠りに付随するもので、また浅い眠りの最中に見るものだ。夢を見るということは逆に言えば、その眠りは深い眠りではなく、しっかりと眠れていないという証明である。 「恐い夢ってやつ?」 見て眠れなく夢の大半は、その夢によって恐怖心を掻き立てられる夢だ。ホラー映画を見た夜の夢がホラーになったり、気がかりな事柄が夢のなかに現れる。ダンデの夢も、そんなところだろうとキバナは思った。ちなみにキバナがこれまでの眠りのなかで最も恐ろしいと感じた夢はダンデに関する夢であったが、それを話してやる義理もないし何より悔しい。 「いや、怖くはない」 落ち着いたダンデの声が、そう答える。 「むしろ……」 「むしろ?」 「悲しくなる、かな」 ダンデにとっての悲しい夢。恐怖よりも悲しみが彼にはより強い苦しみなのだろう。眠りを妨げるほどの、ダンデの悲しみ。キバナが悲しいと感じることは親しい人やポケモンの死に、自分の不甲斐なさなどだがそれがダンデの悲しみと同じかはわからない。 「どんな夢なんだ?」 その言葉が始まりだった。同じはじまりと同じおわりでできた変化のないダンデの夢を、まるで寝物語のように聴くようになった本当の最初。 この夜以来、キバナは真夜中のダンデからの連絡を待つようになった。どうしてあのときダンデはキバナに夢の話をしようと思ったかの、その理由は未だに知らないが別に知ったからといって何が変わるわけでもない。 夢を見た夜、ダンデはキバナに連絡する。キバナはダンデの夢の話を静かに聴く。はじまりとおわりがいつも同じ、ダンデの悲しい夢。夢の中のダンデは不自由な王様だ。それは、きっと、悲しいことだろう。 キバナはダンデの夢の話を聴くたびに頭の中で何度も何度も分析したが、その内容を彼に告げはしない。告げたところで彼の何かが変わるわけではないし、たぶんダンデが一番その夢を見る意味をわかっている。王だからこそ、ダンデは悲しい夢の持ち主だ。 同じはじまりと、同じおわりを持ったダンデの夢。今夜も同じかたちで終わる。キバナはそう思って緩やかに閉じていた瞼をさらにしっかりと閉じようとしたが、それはダンデの続く言葉に遮られる。 「それが、この間まで見ていた夢だ。今夜見たものは、結末が違った」 結末が違う。おわりが、同じではない。それは幸いなのか、不幸なのかキバナにはわからない。そもそもにまだ結末を聴いていないのだから判断しようがないのだが、何故だか厭に心臓の鼓動が速い。本来動揺すべきはダンデだろうに、当の本人はこれまでと変わりない語り口調だった。 「椅子に縛り付けられていた手足が動く。とうとう自由になれるのか、と俺は夢の中で思う。近づいてくる足音にも駆け寄っていけると気分が高揚して立ち上がるんだが瞬間、目の前が真っ暗になって、場面が反転したかと思うと俺は椅子を見上げていた。つい先ほどまで自分が座っていた椅子が、視線の先にありそこには見知らぬ誰かが座っている。それは俺の椅子だと訴えようとするが、できない。何故なら椅子の台座は俺だからだ。椅子に座っている間は何が台座になっているかなんてわからなかったし、見ようともしなかった。ただ退屈で、遠い暗がりからやってくる誰かを待つばかりだった。しかし、今はよく見える。山のような、いや、それこそ山になったありとあらゆる人の骸が台座になって、俺が座っていた椅子をより高みへと導いている。俺の代わりに椅子に座る誰かには見えないのだろう。その誰かはこれまでの俺のように遠くばかりを見て、足元の骸の山なんて省みない。椅子に縛られて不自由そうにしながら、視線だけを彼方に向けている。俺はその様子を椅子の下敷きになって眺めている。もう一度その座を取り戻したいと思う気持ちはあったが、体が動かない。よく見れば胸元には剣が突き刺さり血が滴っている。そこでようやく俺は腑に落ちて、素直に台座の一部になろうと全身の力を抜いた。横を見るとキバナ、キミの体が横たわっていてまだ息をしている。傷だらけの、それこそ俺なんかよりひどい怪我のキミが隣にいて、それなのに椅子に手を伸ばそうとするんだ。俺はそんなキミを止めるように抱き締めて、だけどやっぱりキミは腕を伸ばす。どうしてそんなにもその場所に執着するのだろうかと疑問に思いながら、キミの低い体温を感じていた」 それ以上、言葉は紡がれなかった。これがダンデの夢のおわりだった。これまでのものとは違った、結末だった。 「キバナ、おやすみ。よい夢を」 キバナが新しいおわりに何かを告げる前に、通話は一方的に切られた。それ以降、ダンデからの真夜中の電話はない。この夜から数ヶ月後、ダンデは王の座から引きずり下ろされた。かつてのダンデのような幼子に彼はその心臓を貫かれ、王としての彼は、死んだ。 チャンピオン・タイム・イズ・オーバー。そんな言葉で自分の最後を締め括ったダンデの姿を、キバナはどんな感情で眺めていたのか自分でもわからない。記憶はある。しかし、感情は抜け落ちてそれはただの資料映像でしかない。 夢を、同じ夢を、見るようになった。はじまりとおわりがいつも同じ夢だ。あのときのダンデの残像からはじまる、キバナの夢。そして霞む目で玉座を睨みつけながら手を伸ばすところでおわる、キバナの夢。そこに誰が座っているのかなんてもうわからない。それでもそこに、彼の残像が、あの輝きが残っている。誰かがいる。隣で違うと教えてくれる声が聞こえているが、よくわからない。よく聞き取れない。追い続けた影があるんだ。何度でも苦しみながら喰らい付いた筈の、それに似た何かがいる。もう随分と疲弊していて殆ど見えないし、手を伸ばすことすら辛い。でも影がある。その影がある限り、キバナは腕を伸ばしてしまう。そんなふうに、キバナは作りかえられてしまっていた。 「夢を、見たんだ」 静かな夜だ。誰もが寝静まった穏やかで優しい真夜中。一言だけ送ったメッセージに、折り返しの着信があった。キバナはその電話に、そう告げる。通話相手は何も言わない。たぶん、眠いのを我慢しているのだろう深い息遣いだけがある。キバナが、かつてそうであったように。 キバナは、同じはじまりと同じおわりでできた夢を語る。彼は、ダンデは、それをただただ聴く。眠りの使者に置いてけぼりにされたふたりは、世界にたったふたりのようになりながら、はじまりとおわりが同じ夢を、わかちあう。
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fushigilabyrinth · 2 years
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停滞の夜の、その先に
ガラルは寒冷な土地だ。ゆえに、この地に住まう人々の冬に対する備えは強固である。余程のことがないかぎり鉄道は止まらず、空飛ぶタクシーも多少吹雪くくらいならばものともせずに目的地まで飛んで行く。 しかしそれでもなお、苦しむような日が年に数度ある。真冬の凍てつきが、より一層鋭くなる日、すべての動きは停滞する。それがまさに今夜でダンデはその凍てつきを、ひとり車窓から眺めていた。 列車が止まってすでに一時間が経過していた。長距離特急の一等車のため、ダンデが座る席は個室になっており外の騒ぎはわからないが、三等車ではそろそろ短気な客が痺れを切らして車掌に文句を言い始める頃合いだ。とりわけ今夜のこの列車は乗車率が高いようだった。三等車はきっと、人で溢れ座ることもままならない。疲労と苛立ちとに、我慢という言葉は意味をなさなくなる。 外は暗く、何処までも吹き荒れる雪の姿しかない。灯りの一つも見えず、吹雪に何もかもが飲み込まれている。窓は冷え切り、暖房が効いた室内との温度差で結露ができていた。真夜中にはシュートシティに着いている予定だったが、このままだと翌朝になるだろう。明日は朝から仕事の予定だが、難しそうだ。秘書にスケジュールの調整をしてもらうしかない。幸いにも、明日は書類仕事しかなかったはずである。面倒な会議やインタビューなども、今週は少ない。 ダンデがチャンピオンの座を降りて、もうすぐ八年になろうとしていた。ガラルの王者として彼が君臨した十数年は、遠い過去になりつつある。それでも、彼は未だにガラルの王だった。現チャンピオンは毎年、熱い戦いを見せリーグを盛り上げてくれている。まだまだその地位と強さを誇示し、新しくやってくる挑戦者たちを叩きのめしている。 しかし、その燃気とダンデが築き上げてきた威光はガラルの人々にとって、まったく違う輝きだった。ガラルのリーグを今の形へと作り上げたのは、まさしくダンデとローズ氏の二人だった。弱冠十歳で王者となったダンデはローズ氏が望んだ、また自身もそうあるべきと考えたチャンピオンという肩書に相応しい自分となった。それが良かったのか、悪かったのかは、ダンデにはわからない。大人へと成長する過程で普通の少年が歩む道を、ダンデは知らない。けれど、彼は彼以外にはなれない。その道を歩むと決めたのも、ダンデ自身だ。だからダンデは普通の人が普通に得られる幸せを犠牲にしていたとしても、それを不幸だと感じたことは一度もなかった。王は、頂に立つ者は、いつだって孤独だ。リーグ委員長になった今も、根本的な孤独は変わらない。そもそもに人は、誰しもが本質的に独りである。 だが、ある男の顔がダンデの脳裏を過ぎる。王の座は一つで、そこに座れる者もまた、一人だ。そんな世界でダンデにずっと喰らいついてきた男が、かつていた。懐かしい男の横顔が、照明と夜の闇とで鏡のようにダンデの顔を映し出す車窓に重なる。 無敗の王として君臨したあの日々の中で、キバナはダンデに最も肉薄した男である。現チャンピオンの強さとは違う、もっと精神的な意味合いにおいてダンデを苦しめ高揚させた唯一無二のライバルだった。あれ程の男にはもう会えないだろうと、ダンデはそう思っている。バトルは荒々しく気迫に満ち、ポケモン達を介していたにも関わらず生身でぶつかり合うような、そんな体感があった。他の誰でもなく、キバナとしか味わえぬ戦いの昂りが二人を包んでいた過去は、今なおダンデの胸中で真新しい。 キバナはドラゴンストームという二つ名に相応しくバトルの時こそ嵐のように苛烈であったが、普段は気さくで物腰の柔らかい青年だった。気位の高い種であるドラゴンタイプの使い手として、また最後の関門であるナックルシティのジムリーダー及び宝物庫の番人として申し分のない人柄であり、様々な意味合いでその重責に見合うだけの力量を持っていた。 まるで二重人格だと、ダンデは彼に向かって言い放ったことがある。その言葉を聞いたキバナは一瞬、間の抜けた顔をしたが「それ、そっくりそのままお前に返すわ」と苦笑した。それはどういうことかと訪ねても、彼は揶揄うようにはぐらかすばかりだったが、そのやり取りさえ面白おかしかった。キバナは、ダンデの数少ない友人の一人でもあったのだ。 ダンデはあの当時、この関係が永遠に続くのだと思っていた。王としての自分、そしてそんな自分に挑むことを止めずいつ何時も喰らいついてくる彼。終わることのない王座、終わるこのない戦い。しかしそれらはダンデが考える以上に儚く、瞬く間に消えゆくものだった。この世界に永遠の物はない。何もかもが有限で、だからこそ愛おしいのだと今となってダンデは考える。 ダンデの失脚が、彼がこの地を離れた理由ではないことくらい理解していた。それでももしかしたら、と思うことがある。王座に座り続けていたならば、キバナをこの地に縛り付けたままでいられたのではないかという夢想だ。烏滸がましいにも程がある。だが、それだけの力がダンデにはあり、またそのような高慢さがなければ王ではいられなかった。強い者たちは往々にして皆、何処かしら不遜で自分を愛している。 キバナがガラルを離れて、すでに五年が立つ。まるでダンデがリーグ委員長として落ち着くのを見計らうように、キバナはジムリーダーを辞した。ダンデにはそれを咎めることも、引き止めることもできなかった。そもそもにキバナが誰かに引き止められるような隙を作るはずがなかったのだ。彼が自分の後継にと推した人物は確かにあのナックルのジムを背負って立つだけの度量があり、様々な引き継ぎ業務はすでに終わっていた。残るはダンデのリーグ委員長としての了承のサインのみで、そもそもにそのサインすら突き詰めれば不要だった。どうやっても、キバナがこのガラルから離れることを回避する手立てはなかったのだ。 当時あれだけソーシャルメディアを駆使していたキバナであったがジムリーダーを辞した後、彼のアカウントが更新されたことは一度もない。直接連絡しようにも、全ての彼へと通じるものが不通となっていた。電話もメールも、何もかもが彼には届かない。他のジムリーダー達も同様で、その時点でお手上げであった。後を追うことすら叶わず、ライバルとしても友人としても何も知らされなかった。わかったことは、キバナが出国したことだけだった。 何を考えてキバナがガラルを去ったのか、ダンデにはわからない。当初こそ、様々な推測や憶測をしてみたものだが、そのどれもが正しそうで、そして間違いでもあるような気しかしなかった。考えれば考えるほど深みに嵌るだけで、しかしダンデにはそのような深みに嵌り続けている暇はなく、結局何もできぬまま時だけが経った。リーグ委員長及びバトルタワーのオーナー、その他ローズ氏から引き継いだマクロコスモス関連の代表職など、ある意味でチャンピオン時代よりもダンデが担うものは増えた。ガラルの英雄という重荷は降ろせたが、リーグとマクロコスモスグループを率いるトップとして何千という人々の生活を守る義務がダンデにはのし掛かっている。目の前から突如消えてしまった友人を探す時間などあるわけがなく、また何も告げなかったキバナの意思を尊重すればこそダンデはその場にただ留まるしかなかった。 車内アナウンスが列車の再出発を告げている。しかし次の駅止まりになってしまうらしい。雪が、行く手を阻むのである。まるで今のダンデのようだ。この先へと行きたいのに、抗えぬ流れに阻まれている。誰が悪いわけでもない、そんな停滞がダンデをこの場に立ち止まらせる。十歳でチャンピオンになってから休むことなく駆け抜けてきたダンデにとって、それはまるで緩やかに、だが確実に自分を死へと誘う毒に似ていた。 ◆ ナックルシティまで、あともう一歩という地点にある小さな駅に列車は停まった。普段ならば長距離特急は停車しない駅である。吹雪が酷過ぎて、それ以上先に進めないのだ。 ダンデの秘書は仕事がよくできる。車内アナウンスを聞いた時点で連絡を取り事情を説明すれば遅い時間にも関わらず、すかさずスケジュール調整とホテルを手配してくれた。 雪によって同じように道中半ばで列車を降りる事になった人々に混ざって、ダンデも駅の構内へと向かう。構内は人でごった返して、妙に暖かい。 列車の車内と駅の構内は、この雪で何処にも行けなくなった人々に対して一晩開放されるそうだが、皆柔らかなベッドが恋しい。なんとか帰宅しようとすでに長蛇の列になっているタクシーの待機列に並ぶ者、雪の中を強行して歩く者、近隣のホテルを探す者、早々に腹を括りベンチに横になる者等々、皆それぞれこの大雪の晩をやり過ごそうとしていた。 ダンデは秘書からホテルの人間が迎えに行くから駅で待つよう言われていたため、エントランスが見渡せるベンチに腰掛けた。一応変装もしているし、何よりこんな夜である。他人のことより自分のことで手一杯な人々はダンデに気付かない。 十分程して一人の男が慌てた様子でやって来た。服装からしてホテルの従業員だろう。ダンデが立ち上がり声をかけると、案の定そうだった。従業員は遅れたことを謝罪したが、彼に非はない。 さらにそこからホテルまでは三十分程かかった。普段ならば十分もかからないそうなのだが、この雪による路面の悪化と交通渋滞のせいだった。頭上を飛び交うタクシーも風雪に煽られて大きく揺れている。陸路にしろ空路にしろ、時間はかかったに違いない。 チェックインの手続きを済ませていると、全身雪にまみれ目深にフードを被ったバックパッカー風の男がやって来た。きっとダンデと同じで、この大雪で足止めを食らい仕方なく宿探しをしているのだろう。しかし記帳しながら聞いたフロントの話では、このホテルも全室埋まってしまっている。可哀想だが彼は他のホテルをあたるか、駅に戻るかのどちらかだ。少々罪悪感を感じながら鍵を受け取り、その場を去ろうとした時だった。 「げぇ、まじかよ。ここも埋まっちまってるのか」 懐かしい声が、聞こえた。反射的に振り返る。男の肩や頭部に積もった雪が、室内の暖かさに溶け出し滴になって落ちる。それを払うように、男はフードを脱いだ。忘れようにも忘れられない横顔がそこに、あった。 「キバナ……」 ダンデは、そう一言呟くだけで、精一杯だった。 窓から見下ろした街は、雪で埋もれている。街灯も吹雪に掻き消され、光は薄い。未だに道で混み合う車のテールランプが吹雪の彼方へと続く闇を照らしているが、まるで死者の葬列の灯火のようだ。見ているだけで全てが凍りついてしまいそうである。 「謝らねぇぞ」 長い沈黙の後、視線を窓の外に向けたままキバナが言った。 「謝って欲しいなんて、思っていない」 深く、ダンデは息を吐き出した。全身が緊張している。こんなにも緊張するのは何年ぶりだろうか。もしかしたら、初めてかもしれない。幾度となく王座を賭けあらゆる人間と戦ったが、このように全身が強張る程の気の張り方はしたことがない。バトルの緊張感は、もっと清々しい。今ダンデの体を支配しているそれは不安や焦り、そして安堵によるものだった。 キバナだとわかった瞬間、ダンデは彼の手首を強く掴んでいた。掴まれたキバナは目を見開き驚いたが、ダンデの顔を見て納得したような唸りを上げた。宿泊代は二人分払うと有無を言わせぬ圧を込めフロントの人間に告げて、ダンデはキバナをそのままの勢いで強引に部屋へと押し込めた。そうしなくては、また目の前から消えてしまうと思ったのだ。 五年ぶりのキバナは、ほんの少しだけダンデの記憶の中の彼よりも老けたようだった。実際、時間は経過しているのだから当たり前なのだが、頭の中で繰り返し思い描いていた彼の姿に馴染んでしまっていた。時の経過を共有せずに、いきなり目の前に時空を越えて彼がやって来たかのようである。 言いたいことも、聞きたいことも、たくさんある。そうだというのにダンデの口からは言葉が出てこない。ただ目の前からキバナが消えてしまわないように、瞬きもせず彼を見つめるばかりだ。 「そんなに睨まなくてもキバナ様はどこにも行かねぇし、行けねぇし。この雪のなか外に出たら死んじまう」 先に痺れを切らしたのはキバナだった。かつてのような気やすさが滲んだ声で、話しかける。そうする事でこれまでの五年を有耶無耶にしてしまいたいという意図が、丸わかりだった。昔はそんな誘導に乗ってあれこれと彼の好ましい方に場が流れてしまうことが多かったが、流石に今回ばかりはそうはさせない。 「キバナ、今まで何処で何をしていたんだ?」 ようやくダンデの口から告げられたのは、そんなありきたりな問いかけだった。本当に訊ねたいのは、別のことだ。だが、それを口に出す勇気がダンデにはなかった。ダンデは自分でも驚く程に、キバナに対して臆病になっていることを悟った。もう間違うことはできないと、そう囁きかける自分がいる。しかし、間違うとは何のことなのかわからない。 「いろんなとこを旅して回ってたんだ」 「旅……」 「そ、オレ様ガラルを出たことなかったからな。知らないトコに行って、知らないコトを知って、見聞を広げる的な」 そう言って笑った顔は、あの頃のままだ。少し軟体動物めいた、けれど人懐っこいあの笑みが、今再びダンデの前にある。二人で馬鹿みたいに酒を煽った結果一つしかないトイレを奪いあったり、キャンプでカレーを焦がして炭の味がするのを無理矢理流し込んだりと、そんなたわいないじゃれあいを楽しんでいたあの頃の、キバナの笑みだった。 この笑みがガラルに戻ってきた。その事実だけで充分に違いない。そうだというのに、ダンデの心は全く納得していない。内側にどす黒いものが渦巻いて、張り裂けそうになっている。 「そうだったのか」 「いろんなとこに行ったぜ。ジョウトはもちろんのこと、イッシュにアローラ、その他いろいろ。俺の知らないものがたくさんあった」 平静を装っているが、そろそろ我慢の限界が近い。何を我慢しているのかはダンデにもわからない。全てが普段とは違う。こんなにも情緒が不安定になることなど、これまでなかった。キバナが消えた時すら、そういうものだと頭で理解していた。しかし、今思えばそれは表面上だけだったのだろう。あの頃からこれまで、ダンデは何一つ納得も理解も共感もないまま五年を過ごしていたのだ。 その事実に気付いてしまったら、抑えることは難しい。奥底で少しずつ溜まっていったあらゆるキバナに対する感情が、まるで嘔吐のように迫り上がって溢れ出しそうになる。 「どうしてキミは何も言わずに行ってしまったんだ?連絡だって取れなかった……どれだけ心配したか」 ダンデは再び問うた。キバナから答えを得なければならないことが、山のようにある。ひとつひとつを丁寧に紐解いていけば、きっとこの溢れだしそうな感情も治まるだろう。 「は?どうしてって、そもそもお前に言う義務が俺にあるのか?必要なことは全てきれいに終わらせて俺はガラルを出た。文句を言われる筋合いはねぇよ」 しかし、返ってきた言葉は辛辣だった。まるで深い溝か、もしくは強固な壁が二人の間にあるかのような、そんな隔たりを感じさせる。キバナとの関係はこんなにも希薄なものだっただろうか。十年以上に渡って良き好敵手として、良き友人として過ごしてきたと思っているのはダンデだけで、キバナは同じように考えていないのか。 ダンデは何も言い返せなかった。頭の中が疑問でいっぱいになってゆく。何故、どうして、この想いは自分だけなのか。それらの疑問は際限なくダンデの内側から湧き上がり、今度は段々と怒りに変わる。怒りは容易く、ダンデを解き放つ。元チャンピオンとして、リーグ委員長として、そんな外付けの理由で抑圧していた感情が全身を駆け巡り、もうダンデの言いなりには、なってくれない。 体が動くのは瞬間であり、思考が追いつくのはその数秒後だ。妙に冴えきった自分が、怒りに我を忘れる自分を俯瞰して眺めている。神の視点、というよりは単に力ない者が力なき故に何もできないのに似ている。ダンデの理性とは、そのときそんなものだった。 胸ぐらを掴んで、キバナを乱暴にソファに押し付けていた。振りかぶった拳がそのまま宙で停止していたのは、幸いだった。だが、握り込んだ強さに拳は少し震えている。切っ掛けがあればすぐにでもキバナの頬を殴るだろう。キバナは鋭い眼光で睨みつけはするが、抵抗はない。ただ、ダンデが少しでも動こうものなら即座に対応できるよう全身で警戒していた。二人の間に、張り詰めた糸がある。バトルのそれとは違う、酷く人間臭い何かだ。 「俺は、キミがいなくなってしまってからキミは元気だろうかと、生きているのだろうかと、そんなことばかり考えた。キミがいないガラルは毎日平穏無事で、それは良いことなんだが……俺は、俺には……」 「泣くなよ、ダンデ」 言われて、ダンデは自分が泣いていることに初めて気がついた。気づいてしまうと、堰を切ったかのように涙が両眼からこぼれてゆく。泣きたいわけではない。しかし、止まらないのだ。次から次へと溢れ出て、キバナの深い褐色の肌を濡らしてやまない。 黄金の瞳が涙に濡れ、揺れていた。それがどんなにか稀有な出来事であるかを、キバナは知っている。眼前の男は、このガラルで最も強い男だ。バトルのことではない。生き方それ自体における強さの話だ。チャレンジャー時代はわからないが、少なくともダンデはチャンピオンになってから涙を見せたことはない。プライベートでもキバナが知る限り、彼は涙の一筋すら流したことはなかった。そんな男が、まるで子供のように泣いている。泣きたくなるようなことなど、これまでもっと他にあっただろうにダンデは今、キバナのせいで泣いていた。拳はいつの間にか力なく下ろされ、ただただ弱々しく縋るようにキバナの服を握っている。ダンデの涙は降り注ぐ雨のようにキバナの頬に落ち、重力に導かれて首筋を伝った。 「俺はお前のそばにいる資格がない。そう思ったんだ」 今度は睨み付けるのではなく、自分の意思を伝えるためにキバナはダンデの瞳を見据えた。黄昏のような黄金の中に、自分が写っている。初めて出逢ったときは、暁の黄金だった。しかし太陽は昇り、そして沈んでゆくのが定めだ。どんなに光り輝くものもいつかは闇に飲み込まれる。それが世の常で、そして唯一ダンデを解放してやれる術だった。本当は自分がその役を担えれば良かったのだが、キバナにその資格はついぞ訪れずダンデは王座を降りた。 悔しかった。ダンデと共に走り続けることができるのは自分しかいないと思っていた。だからこそ、ダンデをあの座から解き放ってやることも、自分にしかできないのだとキバナは傲っていた。ダンデというあまりにも輝かしい太陽のそばに晒され続けたキバナの瞳は、恐ろしいまでに深く焼かれて何も見えなくなっていた。そのことをキバナは現チャンピオンに教えられた。無敵のダンデが負けたあの日あの時、彼を引きずり下ろす者は自分ではなかったのだとまざまざと現実を叩きつけられたことで見えるものがあった。 そして同時に、王座に座る者に必ず降りかかるチャンピオンであり続けねばならぬという呪いから逃れられた安堵もあった。ダンデを追いかけ続けたからこそ、彼の苦しみを間近で見ていた。キバナは自分の弱さを改めて痛感した。結局、かつてチャンピオンになってしまった幼き日のダンデと変わらぬ年頃の子供に、その重責を担わせることになったのだ。何も知らない、ただただ憧れと夢とに突き動かされて歩いてきた子供に、キバナは先を越されあまつさえ呪いを引き受けさせる。きっとダンデはできうる限りの力で、その呪いから幼子を護るだろう。しかし自分には何ができるだろうか。負けたダンデの顔は晴れやかで、彼はこのまま突き進んでいける。王座を降りても、王であり続けるだろう。そんな王のそばに、喉元に喰らいつくことすら叶わなかった竜がいる場所は、ない。それがキバナの結論だった。 「なぜ?誰がそんなことを言ったんだ」 純粋な気持ちだけで問い掛けていることがわかる柔らかなダンデの声は、まるで幼き日に戻ったような錯覚をキバナに与えた。ダンデはもしかしたら、あの幼い日からずっとそのままだったのかもしれない。チャンピオンという祝福に呪縛され続けた彼の時計は、キバナと同じ時を刻めずに肉体だけが走り続けている。だからこそ、このまま駆けて行ける。キバナが追いつけないその先まで、彼はきっと辿り着く。 「誰も何も言ってねぇよ。俺がそう考えただけ」 ゆえに、身を引かねばならない。身を引くなんて物言いすら許されないかもしれないが、とにかく潮時なのだ。五年前にガラルを飛び出して、ダンデにはもう会わないと決めたというのに運命の女神は残酷だ。ダンデに引き会わせ、さらに雪に閉じ込め逃げ道をなくした。降りしきる雪の中、誰もが何処にも行けない。停滞の一晩は、皆に平等に降り掛かる。 「キバナ、キミは酷い思い違いをしている。キミはこの俺が、無敵を誇ったこのダンデが唯一ライバルと認める男だ!キミ以外にはありえない……キミがいないガラルは俺を満たしてはくれなかった。キミだってそうだろう?俺がいない世界でキミは満たされたのか?」 なんという高慢、なんという自惚れだろうか。数多のトレーナーの屍の上で、悠々と王座に座り続けてきただけはある。だが、ダンデの言葉は真実だった。 キバナはガラルを出て初めて外の世界を見て聞いて触れて、そして知った。見知らぬ地に降り立ったときの、皮膚に触れる馴染みない空気は気分を高揚させた。それは確かだった。 けれど、あの興奮は得られない。どんなトレーナーもダンデと対峙したあの瞬間の言いようのない歓喜を与えてはくれなかった。血が沸き、肉が踊る。まさにダンデとの勝負はその言葉通りで、目の前が真っ白になるまで焼き切れる。あの研ぎ澄まされた永遠のような一瞬は、ダンデからしか得られない。 「満ちるとか、満ちないとか、そんな問題じゃないんだ。俺は……俺が許せない」 ダンデが流した涙で濡れる頬に、別の涙が混ざりそうになる。この苦しみも悲しみも不甲斐なさも、ダンデにはわかりようがない。彼はずっと王の道を生き、そしてこれからも王として生き続ける。そんな男に、この感情がわかるはずがない。 「キミの許しなんか必要ない!キバナ、キミは俺のそばに、このガラルにいるべき人間だ!もう何処にも行ってくれるな……お願いだ……」 再び涙の雨が降る。涙は拒絶されるようにキバナの肌に弾かれるが、ダンデは彼を強く抱き締めた。このまま彼が自分の腕の中で死ぬのなら、それでも良いと思いながら骨が軋む程に腕に力を込める。キバナが息を詰めるのがわかった。苦しげに踠いて、逃げようとする。そんなにも自分のそばは嫌なのか。そうだとしても、もう離してやれない。ダンデは身の内に密かに巣食っていた禍々しい欲を知ってしまっている。キバナにしか飼い慣らせないし、彼でしか抑えられない。それがキバナの不幸なのだとしてと、ダンデは彼を手離せない。 暴れるキバナを抑え込みながら、ダンデは彼の胸元に顔を埋めていた。全身からキバナの温もり伝ってくる。心臓が激しく脈打ち、鼓動している。何もかもが現実で、腕の中に生きたキバナがいることを教えてくれていた。涙が、さらに溢れ出す。ダンデは自分のことも、キバナのことも、何もかもがわからなかった。子供のように泣きじゃくり駄々を捏ね、キバナに縋る。ダンデは今だけ、ただのダンデだった。チャンピオンでもなく、リーグ委員長でもない。ただただダンデという男としてキバナに触れていたかった。 そのうちに抵抗が止み、静かな呼吸だけが残る。胸が呼吸のたびに小さく上下して、その慎ましい揺れが昂ぶった感情を宥めてゆく。ダンデは涙に濡れた顔をそっと上げて、キバナの顔を見た。深い深い海の底のような色に、ぶつかる。キバナの二つの目玉が、ダンデを覗き込んでいた。記憶のなかの彼の瞳は晴れ渡った空色をしていた筈なのに、眼前の彼は寂しげな海の底にいる。きっとダンデがそうさせたのだろう。深く暗く息苦しい海の底に、ダンデがキバナを引きずり込んだ。彼は海では暮らせないと知っていながら、それでも無理矢理にそばに置こうとして愛しい人を窒息死させてしまう人魚の古い昔話を、ダンデは思い出していた。棲む世界が違ってもキバナならきっと、もしだめだったとしても彼の抜け殻は永久にダンデのそばにある。 街に雪が降り積もる。吹雪のなかを飛ぶタクシーも歩く人も、もう誰もいない。雪だけが停滞した世界の中で、唯一生きていた。全てを覆い隠して、その冷たさであらゆるものを氷漬けにしながら、雪は闇の中で降り続ける。夜明けを望まぬ人々の祈りを聞き入れんとして、尚のこと激しく吹雪く。けれど、明けぬ夜はない。朝焼けの光は、醜い物すら白日に晒して明日を呼び寄せる。希望の朝は必ずしも、祝福ではない。
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fushigilabyrinth · 2 years
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