Don't wanna be here? Send us removal request.
Text
FF7REMAKE エアリスの新しい設定とは? メタ的考察と妄想
※※ 注意 ※※ この記事は、該当作品の核心に触れる記述が含まれている可能性があります。
フィーラーとニコニコ弾幕
フィーラーは、すっと画面の端をよこぎったり、うじゃうじゃと大量に現れたりする。この動きと反応は、あるものに似ているよ��に思う。それはニコニコ動画に流れる弾幕コメントだ。動画の重要な場面になると現れてきて、その動画の成りゆきを見守るように飛びまわる。運命の番人、フィーラーとは、このニコニコ動画のコメントをメタファーしたものかもしれない。
弾幕: ニコニコ大百科 https://dic.nicovideo.jp/a/弾幕 ネットミーム: wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/インターネット・ミーム
流言、ネットミームをビジュアル的に表現する上でニコニコ動画は、もはやスタンダードな存在であるように思われる。この表現と視聴感覚は、現代の世代の新しいスタンダードであり、これを新しいゲームの物語に組み込むことはクリエイターの思考としては、当然の帰結であるようにも思われてくる。
バルス祭り 2013 Twitter ニコニコ実況 2ch https://www.youtube.com/watch?v=nZLPQJBSDrU ニコニコ弾幕大辞典 https://www.nicovideo.jp/watch/sm2898941
たとえば、なろう系や異世界転生ものなどで、とつぜん空中にプロパティ・ウインドウが現れるのは、ドラクエやMMORPGの感覚を小説や漫画に取り入れたものだろう。これと同じように、ニコニコ動画などの視聴感覚をRPG世界に持ってきたものがフィーラーかもしれない。これによって、ネットミーム=模倣=ジェノバ因子という批評表現を成立させているとも言えるだろう。
エアリスはゲーム実況配信者?
スクエニのインタビューで、リメイクにおいてエアリスには新しい設定が追加されたと語っていた。フィーラーがニコニコ動画のコメントだとすれば、もしかしたらクラウドは一緒に配信を見ている視聴者であって、エアリスは配信主ということになるかもしれない。
そうすると、よく言われる「エアリス2周目説」も、あながち間違っていないようにも思われてくる。エアリスはゲームを楽しく配信することが目的であり、VTuberに近い存在なのかもしれない。フィーラーもクラウドもエアリスの中では大事なフォロワーであって、一緒にFFのゲーム世界を楽しむことを目的としているとも思われてくる。
Aqua Ch. 湊あくあ (VTuber) https://www.youtube.com/channel/UC1opHUrw8rvnsadT-iGp7Cg 10万人のハートを撃墜した星井美希(765プロ)の生配信 https://togetter.com/li/1557561
つまりクリエイターは、リメイクの製作をゲーム実況配信になぞらえることによって「現代に合わせた設定」を試みたのではなかろうか。そう考えてみると、エアリスの英語版声優に実績のあるゲーム実況配信者を起用したことも繋がってくる。エアリスの演技には、配信者特���の心理を微妙かつ的確に表現できなければならないからだ。これが「エアリスの新しい設定」なのかもしれない。
Briana White(Youtube): Strange Rebel Gaming https://www.youtube.com/channel/UCm7oVGkl_IWV6bgv9GY6rjw
RPGは演じるということ
RPGとはロールプレイングゲームの略である。会社などでテレアポの講習をするときに、お客さん役とスタッフ役に別れて、電話での会話シミュレーションを行う。これをロールプレイと言う。つまり、演じることがRPGの根本的な意味だ。
実況配信者やVTuberも、この意味でロールプレイだ。番組としての顛末を考慮しつつ配信を進行させ、有意義なエンターテイメント体験を提供する。また、定められたゲーム世界を出ることはできないながら、実況配信者はコメンテイターのように批評的にも振る舞う。FF7がポリゴンによる人形劇的世界なら、リメイクは受肉バーチャルアイドル配信劇なのかもしれない。
RPGは、もともとテーブルゲームから生まれた。カードやフィギュア、サイコロを使って、物語世界をプレイヤー同士でシミュレーションするゲームだ。ここから進行役のゲームマスターをコンピュータに置き換えることで、コンピュータRPGは生まれる。テーブルトークRPGとは、FF7の世界からすれば古代種のような存在と言えるものかもしれない。少し前に流行ったカードゲームの「人狼」は、この源流の系譜を継ぐものと言っていいだろう。
会話型心理ゲーム 人狼DX https://www.amazon.co.jp/dp/B010ELIFMY/ wikipedia : テーブルトークRPG https://ja.wikipedia.org/wiki/テーブルトークRPG
エアリスは古代種セトラの子孫であるから、このテーブルトークRPGの演技的な要素を、物語において体現する存在であるのかもしれない。テーブルトークRPGのゲームマスターとゲーム実況は、ある意味でよく似ている。どちらも「ゲーム」という場所と時間をプロデュースして提供するものだ。そして、この「演じる」という行為は、ライフストリームの思想とも関係が深い。「人は死んだら星に帰る」というのは言うなれば「人が生きる」ということは「魂が生物を演じているだけ」だとも言えるだろう。
これはクリエイターがよく体験する精神状態で、自分は本当は何者でもなく、いまはただその役割を演じているだけに過ぎないというような思いだ。クリエイターは深い部分で、このような確信を持てるからこそ、人を共感させるようなリアルな表現を生み出すことができるとも言える。
何者でもないからこそ何者にでもなれるのであり、本当に何者にでもなれなければ物語は紡げない。他者の境遇を自分のものとして感じられるからこそ、そこにリアルなドラマを展開させられるのである。ライフストリームというのは、この何者でもなく、そして何者にもなれるもの、あるいは同時にすべての人間、時間と場所を包括しているものだろう。
模倣であるネットミームも、これと共にある。ただ模倣は��直的であり、しなやかさが欠けている。熱狂や短絡さによって増殖するミームは、クリエイティブな表現を生み出すことはできない。模倣は演技にはなりえない。それは自分の考えた安全圏に留まろうとする行為だからだ。ライフストリームとジェノバ因子、あるいはクリエイティブと模倣の違いは何かといえば、主体的にリスクを取る「冒険心」ということにもなるだろう。
模倣を越える主体的な体験「約束の地」
テーブルゲームやカードゲームのコンテンツとは、あくまで「楽しむためのツール」なのであって、そのゲームが楽しいものになるかということは、参加者の技能次第というところが大きいと言える。しかしこれがコンピュータゲームになると、主体的に遊ぶということがだんだんと希薄となり、与えられたものがどうかということになっていく。ネットのレビューが気になるということは、自分の中でほとんど主体性をなくしてしまったことを意味するのだ。
ジブリの宮崎駿が、子供に毎日DVDを見せているという母親に対して、不機嫌に苦言を呈したように、クリエイターには模倣というジレンマがある。自分が大切に思っていること、重要だと感じることを作品として表現して評価されたあとには、えてしてその本当に大事なものは見失われて、自分の作品表現の模倣だけが世に広まっていく。それは「売れるシステム」となりビジネスとなり、もうそれを止めることは誰にもできなくなる。
クリエイティブと模倣とは、このように相容れない。同人誌、続編とナンバリングタイトル、作品ジャンル、いいね、バルス祭り、インフルエンサー、バズる、聖典、救世主の復活、生まれ変わり、社会運動と政党。あらゆるものが、この模倣にもとづいている。クラウドがソルジャー・セフィロスに憧れたように、それは依存的で主体性を欠いた感情である。
Twitchにまん延する性的ハラスメントの存在が明らかに https://gigazine.net/news/20200624-twitch-harassment-boycott/ ゲーム業界で女性差別問題が再燃している https://note.com/ktadaki/n/nf5e6546e2e6a コロナ・ショックとBLM、再燃する#METOOなど。海外のゲーム動画配信界隈も揺れているようだ。おそらく、これらがリメイクの続編とフィーラーに影響することは、避けられないかもしれない。
FF7の物語のテーマとは、この模倣に打ち勝つことだろう。元ソルジャー・クラウドは仲間に助けられながら、セフィロスという大きな敵に立ち向かっていく。それは原作プロデューサー坂口博信にとっての、ドラクエの福嶋康博やガンダムの富野由悠季であり、また、リメイクのプロデューサー北瀬佳範にとっての原作スタッフや、名誉会長の福嶋康博かもしれない。坂口や北瀬はこの模倣を自分のこととして描き、そこからもがき挑戦していく過程を表現していく。それは単に物語としてではなく、創作活動の挑戦と二重写しとなるからこそ、人を感動させるのだ。
「約束の地」とは、つまりは模倣を越えた精神のことだろう。それは、ライフストリームという創造力が涌き出す「物語がやってくる場所」と言えるかもしれない。ジェノバは断片になり増殖し、1つになろうとする。模倣とは不完全な状態であり依存的な状態である。自分で自分の中に何も見つけられないために、その飢餓感から貪欲に外部のものを求めようとする。それはときに暴力的となり争いを生み出していく。模倣にとらわれたものはモンスターとなるのだ。
主体性を失ったプレイヤーは貪欲にゲームを求める。それはゲーム市場を生み出し、拡大し増殖する。ドラクエもガンダムも、あるいはFFシリーズも様々な模倣を生み出しながら拡大してきたと言える。それは神羅カンパニーのミッドガルのように、ライフストリームを吸い上げシステムを作り上げたが、その影で星は本来の活力を失う結果となっていった。
システムをどんなに大きくしたところで、それは模倣にもとづいており創造性は枯れていく。人間は、あるいはクリエイターは、この模倣を越えなければ「約束の地」へはたどりつけない。それは、かつて信じたもの、依存したものを乗り越えていく冒険ということでもあるだろう。ゲーム製作で既に確立したパターンに頼ることなく、常に新しい表現や技術を求めることは同時に先輩や英雄を打ち倒すことであるのかもしれない。ドラクエがマリオを、ガンダムが鉄腕アトムを、あるいはシャアが「地球の重力に魂を引かれた人々」を粛正しようとしたように。
たとえばリメイクで追加され印象的な、セフィロスがエアリスやクラウドの肩に触れるシーンは「それなら君、頑張ってみたまえ」というような、会社でよくある上司の行為に見えないだろうか。
誰もがフィーラーを持っている
YoutubeやInstagram、GoogleやFacebookに慣れた私達は、ジェノバ因子を持った存在だと言える。クチコミやレビュー、実況動画やインスタの画像を見ることは、若い世代ほど日常になっている。ソーシャルメディアの普及によって、私達は誰もが配信者や演技者になっているとも言えるだろう。誰もが自分を取り巻くフィーラーを恐れ、そして模倣の中でもがいている。
インスタを履修するようにタピオカを飲み、自分も他者と同じ体験をするためにゲームをする。「結果や結末の分からないことに手を出すのはリスクだ」「コストパフォーマンスが悪い」と感じてしまう。あらゆる声が、自分の中に入り込んできて告発する。「原作改変は許せない」「日本の国体を守れ」「健全な育成に害悪だ」「この設定は差別を助長する」「黒人にも生きる価値がある」エトセトラ……。
誰もが自分のタイムラインにフィーラーを持つ。空虚で陶酔的な熱狂、虚しさの裏返しとしての攻撃性。あるべき未来から引き出され具現化した存在。それは、このちっぽけ自分を守ることからくる恐怖。こうあらねばならぬ未来が失われることの恐怖……。「未来は白紙だよ」というエアリスの言葉は、未来を作るのは「あなた」だという意味でもある。誰も、どんなレビューもどんなYoutuberも、あなたの人生というプレイを決めることはできない。
私達は「この流れてる文字列はなんなの?」とニコニコ動画を見た人に聞かれたら、低い声で「運命の番人という理解が最適だ……」と答えねばならないかもしれない。
参考YouTubeチャンネル(非ゲーム系)
岡田斗司夫ゼミ https://www.youtube.com/channel/UC0FFHRF1mytLDhs6nxqGIQg 山田玲司のヤングサンデー https://www.youtube.com/channel/UC09D3M_DdLaZMJnZp0v4pLQ おまけの夜 https://www.youtube.com/channel/UCyDorohZS_8P4csyytQ3AZg
参考YouTubeチャンネル(ゲーム系)
てつお / ゲーム考察&ストーリー解説 https://www.youtube.com/channel/UCVWwxCSms3O8bryzbxWcaIQ ジハンのゲームちゃんねる https://www.youtube.com/channel/UCBLkQt1wO8aVI6oFhI9uWPA ゲーム夜話 Evening Chat of GAME https://www.youtube.com/channel/UC-HNwUxGklhKSe67EitgqgA KINACHANNEL 2 https://www.youtube.com/channel/UCiBzyegWBSCRtJLoNe3rJRw 中川翔子の「ヲ」 https://www.youtube.com/channel/UCGlWnxRgmii2-InQLp8HmiA
ブログ内関連ポスト
FF7REMAKE セフィロスの目的とは? メタ的考察と妄想 https://tmblr.co/Z8cTmUYVjfIhui00 FF7REMAKE フィーラーは原作ファンか? メタ的考察と妄想 https://tmblr.co/Z8cTmUYUv2QH8m00
0 notes
Text
YOGA 人間の自我の4つの傾向
ヴェーダ哲学に、岡田斗司夫の4つのタイプ、出口光の四魂の窓などを絡めて、すこし書いてみる。人間の自我の傾向は、行動面と精神面の2軸から、それぞれ、陰性(受動性)と陽性(能動性)に分類し、4つのタイプに分けて考えることができるだろう。これにヴェーダ哲学のカースト、ヨーガなどを当てはめると、次のようになると思われる。
注目型・チャーム・関係性重視-反応的・愛-幸魂 友人関係・子供意識・バクティ・ヴァイシャ 豊かさ・感情的・ラジャス-タマス・多神教的 感情・楽しむことで学ぶ・資本主義的
司令型・リード・内面性重視-反応的・勇-荒魂 母子関係・英雄意識・ラージャ・クシャトリア 権勢・合理的・ラジャス-サットヴァ・一神教的 思考・人に教えることで学ぶ・封建主義的
理想型・イデア・関係性重視-観念的・親-和魂 師弟関係・侍女意識・カルマ・シュードラ 調和・抽象的・タマス・儒教的 感覚・師匠につくことで学ぶ・共産主義的
法則型・ルール・内面性重視-観念的・智-奇魂 対等関係・学者意識・ギャーナ・バラモン 知恵・客観的・サットヴァ・仏教的 直覚・時間をかけることで学ぶ・学問主義的
wikipedia : 一霊四魂 https://ja.wikipedia.org/wiki/一霊四魂 wikipedia : 出口光 https://ja.wikipedia.org/wiki/出口光 欲求の4タイプ 岡田斗司夫 http://blog.freeex.jp/archives/51332751.html wikipedia : カースト https://ja.wikipedia.org/wiki/カースト
カースト制度はクシャトリアの視点
カーストにもヨーガにも本来、序列は存在しない。個人の性格的傾向に応じての、説明論理の中で、その順序や方法に違いが出てくるだけに過ぎない。
ヴェーダ聖典において、カーストがなぜ階級序列として説明されるのかと言えば、それはクシャトリア(指令型)向けの、説明だからである。ヴェーダとは本来、その都度バラモンが語るものだ。固定した聖典という形が必要になるのは、日本の古事記や日本書紀の例から分かる通り、それによって国を治めて他国に対抗するためである。ゆえに聖典は、クシャトリアから見た序列としてカーストを説明しているということになろう。
つまり、カーストの序列とは、クシャトリアが国を統治するための理屈なのであり、同時にそれは人間の精神を統御する論理、ということにもなる。人間精神において、思考した���意思決定したりする機能は、国家の中のクシャトリアと見立てられる。ゆえに国家を統治する理屈は、二重の意味として人間個人を統御する論理にも、なるわけである。(もちろん、それは理屈で納得しようとする場合でだが)
そこで、バラモンがなぜ、最高位なのかといえば、それはクシャトリアが学ぶべきものだからだ。思考は常に直覚によって始めなければならない。それでなければ、その理屈は我田引水のようなものだ。政治分野で御用学者などと揶揄される状態は、バラモン、つまり直覚の不在を意味することになる。
バラモンやシュードラ、つまり法則型や理想型は、もともと階級などというものを、重要視しないものだ。自分がどういう階級であるとか、誰より偉いとか、そういうことには無頓着な傾向にある人間である。階級を意識するのは、関係性を重んじる司令型や注目型なのであり、カーストの序列とは、そういう人向けの、方便のようなものなのである。
すべての教えは局所的な方便
あるいは、グナについて、なぜサットヴァが良い性質とされるかも、似たようなことである。「一番良い性質は何か」と、損得勝ち負けの見地から問うような者は、クシャトリア(司令型)だけだからだ。法則型は人が何と言おうと自分で確かめるだろうし、理想型はそんな理屈で割り切れるものでないなどと主張して、自分の理想を譲らないものだろう。
バクティの教えで、よく語られるものの中にギャーナで悟るには5万年かかる、というものがある。瞑想と思索によって悟る、ギャーナ・ヨーガでは、いまの生で輪廻から解放されることはない。というような説明がされるのである。これも、良くできた方便ということができるだろう。
いまの生で悟ることができるのか、という問題は法則型の人間には無意味なことである。彼らは何と言われようと、自分で確かめるまで納得しないのであって、自分で納得することなく、いまの生から解放されるということを求めない。逆に言えば、そのような何があっても自分で悟ること以外には、何者も信じないという意思がないかぎり、瞑想と思索は不可能なのだ。
あるいは逆に、ギャーナの教えの方でも似たようなことは、言われることがある。3度生まれ変わらなければ本当には悟れない。これもまた、自分の意思を問うものと言ってもいい。自分は悟れるのかという結果を意識しているなら、瞑想と思索は不可能になる、ということなのだ。注目型や指令型はギャーナの教えに向かないのだ。
法則型の人間は、何事も自分で確かめたがる。結果がどうであるかということには興味がない。3度生まれ変わらなければと言われれば、それはいったい、どうい���ことなのかと思って、その真理を極めようと考える。えてして彼らは、そのことだけに楽しみを見いだそうとするのである。あるいは、5万年かかるというのも同様のことだ。5万年とは何なのか。自分で体験してみなくては、どうにも気がすまない人間なのである。
このように、ヴェーダの教えというものは一種の心理テストのようなものでもあって、これに素直に従えば、自分の傾向にあった環境に自然と行き着けるように配慮されたものであろう。4つのヨーガというものは、このように宗派ごとに対立する教えをしているようにみえて、本当は、うまく役割分担をできるようになっている。ただそれも、おそらくは��代と共に崩れてきており、今では機能しない場合もあるのかもしれないのだが。
言葉の背景的意味は忘れられていく
このような役割分担の認識は、考えられた当初には、多くの人の中で共有されていたはずであろうが、だんだんと、それができなくなってきたのだろう。日本人がきまぐれでヨーガの教えを学ぶくらいでは、なかなか、このような認識に行き着くことは、難しいことになっているのかもしれないと思われる。
宗教の教えというものは、翻訳できるものではない。それは、その国の習俗や歴史と一体のものであって、そこから理屈だけ取り出すのは、ナンセンスなのだ。ゆえに、日本文化に生きる日本人がそんなに簡単にヨーガを理解できるはずはないと思ったほうがよい。宗教とは何なのかという自分の住む文化の中での生きた反省がないかぎり、その本質に辿り着くことは、なかなか難しいのではないかと思われるのだ。
教えというものは正しい理屈などでは決してない。それは多くの場合、二重三重の意味を持っている。ある傾向にある人間には有益な意味として伝達され、それ以外の人には限定的な意味しか示さないような、複雑な意味を持った方便である場合が多いのである。
「言葉で言い尽くせる真理」なんてものは存在しない。教えとは常に方便のようなものであって、それでなければ意味がないものであるだろう。人間は常に見たいものしか見ないものだ。常に人間は、その人が求めているものに応じて言葉を解釈しようとしてしまうものなのである。
ゆえに言葉とは常に、偏見と表裏一体のものだ。偏見がないところに言葉というものは存在できない。言葉の中の真理とは、偏見が偏見であるところの認識へ向かう眼差しのようなもの、だろうと思われる。ゆえにそれは、そこから理屈だけを取り出して、これが真理だなどとは決して言えないものなのだ。言葉とは常に、それが語られることの眼差しの中で理解されなくては、まったく意味を失うものだろう。
自分を理解する診断法 (岡田斗司夫ゼミ) https://m.youtube.com/watch?v=06fHDd9N3n4
0 notes
Text
FF7REMAKE セフィロスの目的とは? メタ的考察と妄想
※※ 注意 ※※ この記事は、該当作品の核心に触れる記述が含まれている可能性があります。
この記事は以下の記事の前段階として書いたものです。 https://fuyukky-text.tumblr.com/post/621184652918587392/
フィーラーとはクリエイターの恐怖
フィーラーはフィアー(恐怖)をつかさどるもの。メタ的に読み解けばプロデューサー北瀬氏の恐怖そのもの。創作活動(クリエイティブ)とは既成概念(こうあるべき)を壊していく作業であり、それには恐怖が伴う。たとえば売れる要素という既成概念に縛られれば作品は凡庸(コモディティ)になるように。一方���ドラマ(物語)というものは、システム(組織)とアンチシステム(反組織)のせめぎ合いで展開する。たとえば古い自分と新しくなる自分のせめぎ合いが、成長物語であるように。ファンタジーやSFの文脈というのは、この創作活動の葛藤を仮想世界のドラマとして投影(メタファー)して描くこと。北瀬氏の中の葛藤が、エアリスとフィーラーなのかもしれない。
君は、シャア・アズナブルという男を知っているかね? 山田玲司 https://www.youtube.com/watch?v=CSDJaawGOyc
象徴化されたキャラクター
クラウド = リメイクのプレイヤー エアリス(ライフストリーム) = 北瀬氏・野村氏 フィーラー = クリエイターの恐怖 古代種 = オリジナル版スタッフ(旧スクウェア) アバランチ = 若手クリエイター ミッドガル = 現スクウェアエニックス 神羅カンパニー = 持株会社?役員?ソニー? セフィロス = ???
既成概念と恐怖の関係
若手クリエイターは新しいゲームをイチから作りたいが、大きくなった会社は組織(システム)を維持するため売れるゲームを求める。また最近の消費者はエンタメにシビアであり、ネットの評価(システム)で良いものしか購入しない傾向にある。その結果、アニメでもゲームでもほとんど有名作品のリメイクしか企画が通らない。クリエイターの恐怖が会社を維持することから来るなら、プレイヤーの恐怖はつまらないアニメやゲームにお金と時間を無駄にする恐怖から来る。おそらく、こういうもの(システム)を打破することがテーマになるのではないかと思う。「おまえら、ネットの評価(既成概念)で消費活動(プレイ)してんじゃねえよ。おれたちと新しい物語(リメイク)を紡ごうぜ。そこにだけ「約束の地(初めてオリジナルをプレイしたときのあの感動)」がある(リユニオンがある)んだよ!」っていうメッセージなのかも。
スマホに頼らず孤絶するひとり旅のススメ 角幡唯介さん https://danro.asahi.com/article/12651177
セフィロスはドラクエの象徴
オリジナル版のセフィロスは何の投影(メタファー)だったのかと、考えるとやはりそれはドラクエなのだろうと思う。FF7はドラクエ3というモンスタータイトルに打ち勝つために企画されたのではなかったか。そして、このときのエニックス社長の福嶋氏が、現在のスクウェアエニックスの持株会社の筆頭株主、名誉会長である。福嶋氏はまだファミコンがそれほど普及していない時期に、ビジネスチャンス(アンチシステム)を見出しプログラムコンテストを開催。後にチュンソフトを起こすゲームクリエイター中村氏を見出す。またジャンプ編集部ともパイプを作り、鳥山明、堀井雄二らと出会い、ドラクエシリーズをプロデュースしていく。ドラクエシリーズは爆発的ヒットを飛ばし、その模倣がコンピュータRPGというジャンルを確立していく。ファイナルファンタジーはドラクエの模倣という形で生まれながら、多くのファンを獲得しFF7でついに、それに打ち勝てるまでに成長した。ちょうどセフィロスとクラウドのように。ただし、このときはあくまでセフィロスは倒すべき相手だった。
wikipedia : 福嶋康博 https://ja.wikipedia.org/wiki/福嶋康博 ドラクエ vs FF 国内売上本数ランキング 動画でわかる統計・データ https://www.youtube.com/watch?v=zw-r7gGbjTw
セフィロス・オリジナル = ドラクエⅢ・福嶋氏 セフィロスコピー = ドラクエ模倣・実況動画・なろう系
本当の敵はジェノバ(模倣作用)
オリジナル版のミッドガルは国内ゲーム業界くらいの感覚だったのだろう。その中に英雄でありバケモノのセフィロスがいて、その模倣であるセフィロスコピーが存在する。これを現代のリメイクに置き換えると、ドラクエはいまだにかつての英雄として存在し、なろう系コンテンツの多くはその模倣と派生で、YouTubeにはRPGの実況動画、ネットにはゲーム攻略サイトが溢れる。セフィロスコピーがクラウドに未来を見せるというのは、ゲームプレイヤーにネットメディアがゲームの展開をリークするようなもの。そしてこれがエアリスが言っている「本当の敵」なのかもしれない。それはYouTuberやネタバレをするユーザー自体ではなく、これを見たいと思ってしまうゲーマーの性質のほうのことを言っているのではないか。たとえば、リメイクの長編CMでゲームマニアの男性が「これだからネット世代は!」といきどおるのは、クリエイターの本音でもある。ネットで得た知識で知った気になる、ネットの評価が気になる、ネットで話題になってないゲームに手を出すのはリスクだ、というような思考が「本当の敵」であって、これによって「星が死ぬ」。それは単にゲームが売れなくなるということではなく、RPGやクリエイター(あるいは、起業家)の根幹となる「冒険心(アンチシステム)」を消してしまうことになるからだろう。「運命にあらがってみないか」というセフィロス・オリジナルの台詞はGAFA時代の私達への福嶋氏のメッセージなのかもしれない。
竹中平蔵 vs 福嶋康博 リスクを取らないことが経営者のリスク http://kigyoka.com/news/magazine/magazine_20141024_23.html
参考YouTubeチャンネル(非ゲーム系)
岡田斗司夫ゼミ https://www.youtube.com/channel/UC0FFHRF1mytLDhs6nxqGIQg 山田玲司のヤングサンデー https://www.youtube.com/channel/UC09D3M_DdLaZMJnZp0v4pLQ おまけの夜 https://www.youtube.com/channel/UCyDorohZS_8P4csyytQ3AZg
参考YouTubeチャンネル(ゲーム系)
てつお / ゲーム考察&ストーリー解説 https://www.youtube.com/channel/UCVWwxCSms3O8bryzbxWcaIQ ジハンのゲームちゃんねる https://www.youtube.com/channel/UCBLkQt1wO8aVI6oFhI9uWPA KINACHANNEL 2 https://www.youtube.com/channel/UCiBzyegWBSCRtJLoNe3rJRw 中川翔子の「ヲ」 https://www.youtube.com/channel/UCGlWnxRgmii2-InQLp8HmiA
参考kindle本
新・冒険論 集英社インターナショナル新書 角幡唯介 https://www.amazon.co.jp/dp/B07DNPZY1R/
0 notes
Text
FF7REMAKE ���ィーラーは原作ファンか? メタ的考察と妄想
※※ 注意 ※※ この記事は、該当作品の核心に触れる記述が含まれている可能性があります。
エアリスの反応と2014年のPSX
クラウドとエアリスが出会うシーン。「これ、なに?」というのは、エアリスはこれまでもフィーラーを認識し抗がってきたけれど、クラウドに触れることでフィーラーの行動が、これまでと違うようになったということだろう。エアリスというキャラクターはクリエイター自身の投影であり、フィーラーは彼(彼女)の抱える恐怖を投影している。クラウドとはリメイクのプレイヤーであり、エアリスがクラウドに出会うということはリメイクの物語が始まることを意味する。即ち、クリエイターがFF7Rという作品に取り組む局面を意味する。リメイクを製作することは、これまでの作品とは異なる恐怖の症状が現れてきたという意味だろう。それは何よりネットで多く言われているように原作ファンの存在ということになる。エアリスの「これ、なに?」というのは、2014年のPSXでトレイラーが炎上した、あの事件のことを象徴しているのかもしれない。
FF7リメイク 海外の反応 Reaction [All links in description] E3 2015 https://www.youtube.com/watch?v=V7POp3qIX9U この動画のFFファンたちをカダージュと重ねてみるとクリエイターの気持ちがよく分かる。まるでゴルゴダの丘で死んだキリストが復活したような、ありさまだろう。
フィーラーとクリエイターのジレンマ
「フィーラーが触れるたび、わたしのカケラが落ちていく」というのは、エアリスの過去の記憶というよりは、むしろ未来(の記憶)だと思われる。エアリスとはクリエイター自身であり、どんな未来も彼(彼女)自身の中にある。つまり、ライフストリームがクリエイティビティ(創造力)の象徴なので、エアリスはこれと対話することで、未来を引き寄せることが出来る。ただし、それには恐怖が伴う。ゲームの評価が悪かったり売れなかったりすると、次の作品を製作することが困難になるからだ。フィーラーがエアリスに触れるというのは、クリエイターのジレンマの象徴であり、評判の企画とか売れる要素とか、そういうものに抗がって新しい何かを創造しようとすることの困難を現わしている。
創造力の物語と冒険心
リメイクの物語での状況というのは、原作通りにそのまま作れば物語のテーマ自体が死んでしまうということになる。FF7とはライフストリームという創造力の物語。つまり、プレイヤーとともにクリエイターが冒険心を持って紡いていく物語だろう。原作のセフィロスや神羅カンパニーとはドラクエやファミコン陣営の象徴であり、クラウドやアバランチはFF7とプレステ陣営の象徴だった。常に新しいこと(表現や技術など)に取り組んでいくというのがFFタイトルのテーマであり、それがファンタジーRPGの冒険心とシンクロするところにFFの面白さの根幹がある。「カケラが落ちる」というのは、この一番大事にすべき創造力や冒険心が削がれてしまうことを意味している。FF7Rとはクリエイターとプレイヤーがともに、恐怖にうちかって冒険心を取り戻していく物語なのだろうと思う。
ネット社会と評価経済
高度なネット社会は私達の冒険心を殺し、ネットのレビューや口コミで何でも判断する傾向に流れていく。けれど、それでは唯一自分だけの体験というものが失われる。それは模倣(ジェノバ因子)になってしまう。原作版の頃はネットもそれほど普及しておらず、ゲーム雑誌はあったにせよゲームを買うということは、まさに冒険だった。現在のように発売日にネタバレ��報やゲーム実況がネットに溢れるということはなかった。そういうものでゲームを買うか判断することはなかった。多くのプレイヤーは攻略本も読まず、独りでプレイした。ゲームとは履修するものではなく冒険するものだった。ジェノバはクラウドに未来の運命を見せる。エアリスは「未来は白紙だよ」とつぶやく。長編CMでゲームマニアの男性が「これだからネット世代は!」といきどおる。これらはやはり、ネット世代の冒険を忘れたプレイヤーを描いているということではなかろうか。
FINAL FANTASY VII REMAKE 特別長編CM(Special Edit) https://www.youtube.com/watch?v=HwI6bHKyF94
「ゲーム機」が終わる未来
時代は5Gへと変わりゆく。それはゲーム機の終わりを意味している。「この星は力尽きようとしている」という言葉が象徴するように、AIとストリーミング技術が世界を一変させるであろうことは、テクノロジー業界の人間なら多くが感じていることだろう。セフィロスが「終末の7秒前」と呼ぶものは、まさにこのような業界人の心境だと言えるかもしれない。スクウェア・エニックスは、携帯電話ゲームやゲーム・ストリーミングにも早くから取り組んできた。リメイクでセフィロスが単なる敵役ではない描かれ方をしているのは、据え置き型ゲーム機の開発を打ち切って、新しい世界に旅立とうとする経営陣たちのことを描いているからなのかもしれない。
スクエニ、AI開発で新会社 ゲームで培った技術をエンタメ全般に活用 https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2005/28/news089.html ソフトバンク、「GeForce NOW Powered by SoftBank」 6月10日に正式サービスを提供開始 https://corriente.top/geforcenow-softbank-20200610/ Google Stadiaのすべてが間違っているのか? https://jp.gamesindustry.biz/article/2002/20021001/
参考YouTubeチャンネル(非ゲーム系)
岡田斗司夫ゼミ https://www.youtube.com/channel/UC0FFHRF1mytLDhs6nxqGIQg 山田玲司のヤングサンデー https://www.youtube.com/channel/UC09D3M_DdLaZMJnZp0v4pLQ おまけの夜 https://www.youtube.com/channel/UCyDorohZS_8P4csyytQ3AZg
参考YouTubeチャンネル(ゲーム系)
てつお / ゲーム考察&ストーリー解説 https://www.youtube.com/channel/UCVWwxCSms3O8bryzbxWcaIQ ジハンのゲームちゃんねる https://www.youtube.com/channel/UCBLkQt1wO8aVI6oFhI9uWPA KINACHANNEL 2 https://www.youtube.com/channel/UCiBzyegWBSCRtJLoNe3rJRw 中川翔子の「ヲ」 https://www.youtube.com/channel/UCGlWnxRgmii2-InQLp8HmiA
0 notes