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イデアの棲む洞窟にて
とあるものを書き表したいという衝動に駆られた時、人は何を手にするのか、
洞窟のスケッチは問いかける
それが武器であるとするならば、書き表されるもののあらましは恐怖心の成り代わりである。
一致団結して、立ち向かわなければならない、打倒しなければならない、圧倒しなければならない、そういった使命感にでも駆られているのだろうか
恐怖心を克服した果てに残るのは数々の戦いの歴史と、事のあらましすら分からないほど肥大化した著述不可能な悪意である。
鉱物や炭のかたまり、あるいはそれに類するものであるとするならば、書き表されるもののあらましは好奇心の成り代わりである。
ことのあらましを正確に、精緻に描写することでやっと見えてくる輪郭線のようなものを描き表したいという衝動、遺すこと、後世に残ることで、その喜びや知らせたいという気持ちごと書き表わせれば良いという思いに至るのだ、斯くして人はその精緻さを追い求める、没入する、対象そのものを超越するまでの存在感を放ちはじめる、人はそこに喜びを見出すのである。
ともすれば人々は新たな叡智である火の発見に心躍らせたその気持ちごと書き表したかったのかもしれない。
解釈は時代を映す鏡である。
取るに足らない言説が、時代を経て残ることは決してない。その精緻さに執着した思いごと、残ることを願うばかりである。
一方でアートは諧謔的であるように思う。高尚であることが持て囃された途端に意味のないものとなり時代から人知れず消え去るものであるべきだ。
言葉を尽くしてもなお伝わらない衝動性、伝えるべき言葉を喪った果てにある無力感に苛まれ、蔓延っている嫌悪感。暗に批評性を帯びている、と好事家に取り沙汰されることで体裁を辛うじて保っているようなきらいがある。はてさて好事家の真意はほんとうに作品に対する共感であったり称賛から成り立っているのだろうか?
アートが担うのは純粋なる産業ではない、産業として成り立つだけの市場規模が既に存在しているからこそかろうじて成り立つ商業的な機構によって支えられている。
代表的なのが芸能である。
美というものに絶対な価値は存在し得ない。
人は絆されるものだからである。とりわけ日本人は定義されることを有難がる風潮がある。血液型ごとの性格診断、アンケート方式の性格分析の流行をみれば明らかだろう。選択したつもりでいて、場の状況に、強い言説に流されるがままに浸るのである。
かつて神7と呼ばれる存在が居た。
彼女たちを理想づけるための枷であった恋愛禁止というルールが存在していたのは、
所属しているアイドルたちはいわゆるファンと「婚約状態」にあることで、アイドル的な価値と純潔性を高める効果があったように感じる。結婚ドレスにも似た衣装を着てグループを卒業していくアイドルたち。そうしたファンとの結婚とグループからの離脱を経て、グループ外の芸能活動へと移行していく。精神的な繋がりを持ったファンたちがアイドルを裏切ることはないのだろう。アイドルとファンは精神的に永遠に結ばれているのだから、
こうした尤もらしい体裁を取ることで、ファンと交流するための大義名分や、握手券の効力の範囲内で疑似恋愛を繰り広げることへの道義的な正当性を担保していたのだろう。
しかしながらあまりにも商業的な思惑が過ぎるのではないだろうか?
芸能活動を経て特定の人と結婚していく彼女たちを見て思わずには居られない。ファンとの関係性を蔑ろにしているからである。物理的な接触を断てば、彼女達にとっては精神的な繋がりは雲散霧消する類のものであったというのがありありと分かるのである。
ファンとの関係性が疑似恋愛ですらなかったこと、あまりにも造り物であることが明らかになった時、彼女たちの姿をみることは二度とないだろう。まさしくファンに対する不貞行為であるし、恋愛禁止というルールが芸能活動を続けていく限り、絶対的に必要な要素であった筈なのだから。
#AKB商法
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私と哲学
私は哲学が好きだ
哲学というのは、確かな答えなんてない、なんてことのない日常の中に潜んでいる、物差しのようなものだ。
物差しの間隔は一定なのだが、その間隔を一定に保ったまま、伸び縮みするようなそんな代物だ。
プラスチック製の物差し、きりりと黒い線がアクセントになっていてなんとも、格好良いのだ。しかし、学用品として重宝されるその物差しは、あっちこっちでびゅーんと、机の上を飛んでいく。傷だらけのその姿は、目一杯遊んだ証。勲章もんだ。
竹の物差しは、よくしなる。ソーイングのときに沿うように作られてるんだっけ?
幾重にも重なるステッチ用のペンシルの軌跡。
それはまるで奇跡みたいな、創意工夫の証。
アルミの物差しはどこか冷たい。図面を描くのに引っ張りだこ。多少の傷じゃあびくともしない、堅牢な作りをしているで候。
素材に限らず、精緻に刻まれた目盛りそのものが、物差しの良さなのである。
私はそういう物差しになりたい。
ひとびとをお決まりの尺度で斟酌するのではなく、物の在りようを矯めつ眇めつする、そんな物差しを
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懐古主義、秘するは思いのたけくらべ
人生は一行のボオドレエルに若かないと芥川龍之介は云った。
貴方の人生は一行如きで済むような代物では無かった筈だと此岸と彼岸を隔てるガードレール越し、
反駁を抑えつつ、明治時代の文豪と私は邂逅するのだった。
果たしてレトロとは何なのか、懐古主義には程遠い、表層をなぞっただけの紛い物に過ぎないと思うのだ。昔に触れあうことなく、唯馴れ合うためだけに消費されるアーカイブたち。それを守り続けてきた人たちの涙の意味も知らずに。
過去からの怨嗟の声が今にも聞こえて来そうだ。カラフルなデザインも各時代背景にそぐわずちぐはぐしている。懐かしいという人の声はどこか空虚なのだ、記憶がまるでごっそり抜け落ちたかのようで。
現代に智恵子が居たらこう云うだろう。哀しみを誘うレモンの芳香と共に。
「あはれ何を呼びたまふや、今は無言の領する夜半なるものを」
今、世界は夜の闇に包まれている。願うなら、私は無言のままで居たかった。それでも表現したい何かがある、言葉がある。だからこそ、私はこうして言葉を綯い、社会の流れに抗おうとしている。
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「喝采」論エンターテイナーとしての気概
喝采
作詞 吉田旺 作曲 中村泰士
いつものように幕が開き
恋の歌うたうわたしに
届いた報らせは 黒いふちどりがありました
あれは三年前 止めるアナタ駅に残し
動き始めた汽車に ひとり飛び乗った
ひなびた町の昼下がり
教会のまえにたたずみ
喪服のわたしは祈る言葉さえ失くしてた
つたがからまる白い壁
細いかげ長く落として
ひとりのわたしは こぼす涙さえ忘れてた
暗い待合室 話すひともないわたしの
耳に私のうたが 通りすぎてゆく
いつものように幕が開く
降りそそぐライトのその中
それでもわたしは今日も恋の歌うたってる
以下、考察
主人公は歌の道に入らんとする強い想いを抱いて上京していった。恋人は出発のすんでのところでなんとしても思い留まって欲しかったのであろうか、しかし次の頁では恋人が、主人公におそらく告げていなかったのだろう病か、あるいは不慮の事故かによって突然の死に見舞われたのだった。これは回想であり、死の知らせを主人公が初めて聞いた時の心情は語られない。しかしながら、「つたがからまる白い壁」にわずかにその痕跡を残している。
喪服の黒、祈る言葉さえ失くしていた茫然自失となった状態が白い壁という対比を伴った言葉に託され、からまるツタはわずかばかりの情念を示唆している。
細くなった影は、こぼす涙さえ忘れていた主人公の痩せ細った心の灯火だったのだろう。
しかして、心象風景がステージに移った時には、様相が一変する。リハーサルを終えて、幕が上がる直前、ステージに上がった時の自分を想像する。
そうなると歌姫としての自分に立ち戻り、人々の期待や情念がライトとなって主人公を照らし、誰に宛てたわけでもない匿名希望の恋の歌を歌うのだった。
かくしてエンターテインメントとは自分の心のありようとは全く異なる面を出しきってなお、評価されるとも分からない世界である。しかしながら、焦げるようなライトの煌めきに曝された時に渇望するのは人々の賞賛ではなく、思いの丈を一心に集めた歌の旋律なのであった。
かくいう私もそうでありたい。
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表現の自由という体裁
最近ネットリンチと呼ばれたり、テレビ番組内で、いじめと取られかねないやり取りが横行している。
その手口は実に巧妙で、確かに発する言葉の内容自体それそのものが他人の名誉や権利そのものを棄損する内容ではない、と一応は断言することが出来る。
だがしかし、発言の内々に悪意を持って言葉を発すれば如何様にでも他人を傷つけることが出来るのだなという途轍もなく不愉快な感覚、悪の所在とはそのようなものであるのだという感傷をのこすのだった。
労いの言葉ですら、時と場合に応じて嫌味にもなる。
理不尽ともとれる相手方の叱責も、自分の認識次第で汲むべき事情があったのだな、という肥やしにもなるのだ。しかしながら大抵の叱責に関しては単なるストレス反応の押し付け合いだとしか言いようがないのであった。
時は金なり、人の縁なんて吹けば飛ぶようなご時世である。これはタイパやコスパという言葉の流行、さらにはコロナ禍を経て得られた一種の諦念のようなものである。
その発言や言葉に込められた真意を探る行いそのものが敵意があると見做されやり込められてしまうことだってある。
さらに言えば「表現の自由」という言葉が横行するあまり、あらゆる悪意を以てして生まれた言葉たちが、「表現の自由」という大義名分の下で、それを発する人たちの悪意はそのままに蔓延っているのが現状ではないだろうか。
言葉を駆ることそのものに犯罪行為は生じえない。
未必の故意という言葉があるように、犯罪者としての意識そのものを罪に問うのではなくとある行為によって被害が発生した、という因果を伴った関係によってのみ、犯罪行為が成立し、裁判の場で裁かれるべきであるもの、ということを暗に示唆している。そうでなければ検察が証拠をかき集めて立証したり、弁護人が被告の立場に立って弁明することそのものが出来なくなってしまうからだ。
被害を受けたという感情のみで犯罪行為を捕らえることが出来ないのは、なんとも歯がゆい現状ではあるが。
実際に罪を犯した犯罪者の弁明を聞けなくすることだって出来る。とりわけ、違法薬物に手を出して捕まった芸能人が顕著な例だろう。あらゆる出版物や、出演した映像作品が発禁扱いとなる。その時になってはじめて表現の自由の有効性を思い知るのだ。まるで善良な人が、罪に染まっていくプロセスを過去を辿りつつ学ぶことは社会にとって価値があるからだ。罪を犯した人の話は犯罪行為そのものから人びとを退ける理由付けとなる。それは大多数の人にとって価値があるからこそ認められているに過ぎない。それによって犯罪行為を行ったほうが得だ、という考えが横行すればその吹聴する行��そのものが罪に問われることとなるだろう。犯罪行為の助長こそ、社会全体が危機意識を持ち、避けるべき事態であるということは自明である。
表現の自由という言葉は言い訳に使ってはいけないのである。社会的に意義があるからこそ、付与されるべき権利なのである。そういった構造的な受け皿があってこそ、真なる表現の自由が保たれるのである。
決して個人の尊厳であったり、権利を棄損するようなものであってはならないのである。
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ファッションのこと
"男、女を被覆する衣服"
女の衣服は不便である、と殊更に言われることがある。男の服と比べポケットが無いだの、薄くてテロテロしてるだの。
メンズ服を愛好する私にとっては敢えて言いたいことがあるのだった。
女の服は飾り立てる為の服であり、男の服は装甲の為に存在する服なのだと。
女の服は体型をある程度隠しつつ、まっさらの状態よりもよく魅せるような相違工夫に満ちている。女のからだは曲線で出来ておりくびれや丸みを帯びた体つきを強調するのに、お尻の部分が財布などでっぷりと膨れたズボンを履いている場合ではないのである。そして変化に敏感な女は、流行の煽りを一身に受けることとなる。コスパを追求する為というわけでもなく、生地は単価が安くなるというわけでもなく、ワンシーズンをいかに快適に過ごすかに注力される。素材の軽やかさで季節感を演出するのも女の服ならではの表現のような気がする。
男の服は装甲の為に存在すると言ったが、だからこそ直線的で、替えの効きやすいワードローブで組めるような配慮が成されている。アクセサリーを付けることも好まれない。要するに変化を拒むかのようなつくりになっているのである。変化は拒むがその時に応じた機能は最低限要求され、鞄を持ち歩くのも煩わしいのでポケットになんでも突っ込むような行為が容認されがちである。衣服の耐久性も当然それに呼応し、上がるのであった。着ていた服が着られなくなるまで着る経験は、女性だとものぐさを象徴する出来事であるが、同じ衣服を着ることが賞賛されるのは男性に特有の事象である。また、男と女という括りではあるが、とどのつまり消費行動そのものがデザインを象っているのである。
女の衣服は体型に自信が無くても、アイテムを選ぶ勘所さえあれば、見栄えは上がる。一方で、男性の戦闘服であるスーツは体型によっては残酷なまでに服に着られている感を強調するシロモノとなっている。
女はシーズン毎に試行錯誤しているうちにだいたいのワードローブが定まってくるのに対し、男は自分と同じような体型(所謂マイサイズモデル)の人を探してコーディネートするのが容易い筈であるのに、こうした流れは女性のほうがやはり早い。しかもその流れが誰に見せるわけでもない下着にまず及んでいることに注目したい。要するに先に述べた通り、衣服で覆われている時の体型のほうがよく見えるからである、と言えるのではないだろうか。
身体を纏う衣服はそうした意識の装いによって成り立っている。
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2024年11月15日
芸能人となるべく、ノーリーズンファームの門戸を叩いた。どうやら合格らしい。所属に際しての面談があり、広島から東京に赴く。意気込むあまり、あれやこれやと企画していたプレゼン資料を出すタイミングを見失い、若干の狼狽えを見せつつも話を聞いていくうちに、新しい世界に踏み入れんとする己は奮い立つばかりであった。
ただ茫漠たる想像上の世界であった芸能界。
足を踏み入れる理由は漠然としていたが、何かを創りたい、表現したいと思っていた自分にとってはまたとない機会なのだった。みすみすこの機会を逃す訳にはいかない。不安は主に金銭的な事由であった。ならば、恐れる理由はほとんど無いに等しい。
これからは自分探しではなく、何が表現として今、求められるのかを探ることが肝要で、そうであるならば、振り返れば悲壮感に満ちていた自分の人生だってすべて無駄じゃないと思えるのだった。
一見無駄なものに理由をつけてはならない、全てが無駄に思えてくるから。
ここに居るべき理由は自分で創り出すしかない。
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