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hachikenyakaiwai · 4 days
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【かいわいの時】文久二年(1862)四月二十三日:南画家田能村直入らが大煎茶会「青湾茶会」を開催(大阪市史編纂所「きょうは何の日」)
清湾茶会には、天気がよかったこともあり千二百人もの人が参加したと記録されています(『清湾茶会図録』)。茶席は、大長寺から桜宮まで本席7副席4の11席で、1席の定員10人。1200人だと、延べ120席を11会場で回した勘定になり、1席30分としても6、7時間は要したであろうと思われます。
ところで、この茶会に参加した国学者の近藤芳樹(長州藩士。当時、京にて情報収集活動を行う)が、周防防府の酒造家で文化人のパトロンであった上田光美に送った書簡[註1]によると、
・切符500人前を前日より発売 ・当日に300人前を追加
正規チケットを持った参会者は1200人中800人で、つまり、あとの400人はタダ乗りとゆうことになりそうです[註2]。
船の席は小舟で送迎するので混雑はなかったが、その外の席には一度に大勢の者が押しかけ大混乱。切符を持っている人が席に入れず身動きもとれず、「あいつは切符も持たんと茶ァ飲んでけつかる」などと大声で叫んで大騒動になった。(近藤書簡を超訳)
茶会は、お世辞にも「清風」とは言い難い状況で、そんな中でも、切符をもった近藤さんは、ゆうゆうと全席コンプリートしたと述懐。勤王の志士でも、茶会は別格であったようだ。本人は9席と供述。実際は11席なので、2席は飛ばしたようです。世情穏やかならぬ幕末にあっても、たまたま京・大坂に滞在中であった近藤は茶会を楽しむ余裕があったようです[註3]。
[註1]『近藤芳樹書牘集一』(山口県文書館蔵)。幕末期の国学者。周防(すおう)の人。本姓田中、通称晋一郎、号は寄居(ごうな)。旧長州藩士で明倫館助教。維新後、東京に移り住んで、宮内省御用掛に任じ、御歌所寄人(よりうど)などをつとめた。本居大平、村田春門また山田以文に師事して、国文学、律令学を学んだ。同じ大平門の加納諸平を尊敬して最も歌をよくし、幕末歌壇に際立った活躍をした。学績として《令義解校本》《淫祠論》など、歌論書に《古風三体考》《寄居歌談》、紀行文に《陸路廼記(くぬかちのき)》がある(改訂新版 世界大百科事典 「近藤芳樹」の意味・わかりやすい解説 )。
[註2]売茶翁は、売茶の折、「茶銭は黄金百鎰より半文銭まではくれ次第、たゞのみも勝手、たゞよりはまけまうさず」(『近世畸人伝』1790)とゆう看板を掲げており、切符の代金はいくらであったのか定かではないが、タダで飲まれても文句はいえない。按ずるに、切符は単なる整理券で、茶会はタダだったのかもしれない。「僧侶の身分を放棄し、餓死に繋がる決断を下した売茶翁の声に想いを巡らし、且、清湾茶会が売茶翁の追善と懸賞の爲に開催されたとするなら、“無錢飮食”とゆう表現は、如何なものであらうか」(千三屋)。
[註3]近藤書簡には「伏見も大騒動ニ御座候然處大都會と申ものハ妙なものに而此内ニ過ル二十三日網島ニ於煎茶の大會御座候」とあり、丁度同じ日の夜に起こった伏見の寺田屋騒動にも触れている。
(写真)木村孔陽編・青木夙夜画『賣茶翁茶器圖』1823・1924復刻より「茶籏」 賣茶翁の茶道具は、翁と親交のあッた木村蒹葭堂が其の姿・形を記録した。翁沒後60年の文政6年(1823)に、蒹葭堂の後嗣・木村孔陽が、この圖を蒹葭堂と交友のあッた南畫家・青木夙夜に冩させ、圖譜にまとめて刊行した(千三屋)。高翁(賣茶翁)の衣の紘(切れ端)で作成、「清風」の文字は大典禅師書。
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hachikenyakaiwai · 6 days
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【かいわいの時】文久三年(1863)四月二十一日:将軍家茂警固の壬生浪士組(新選組)、八軒家・京屋に投宿((『井上松五郎日記』)。
乱暴者で聞こえた芹澤鴨は、京都の壬生からたびたび大坂へ出向いては八軒家の京屋忠兵衛に宿泊し、北浜界隈の豪商へ出向いてゆすりまがいの借金を重ねていました。まず芹澤が目をつけたのは、大坂今橋の両替商、平野屋五兵衛でした。壬生浪士組は文久三年(一八六三年)三月に会津藩御預かりとなります。前述したように隊士一人当たり月三両の給金が支払われます。しかし、この三両というのは現在のお金に直すと十二~十五万円*。暮らし向きは厳しいものがありました。ということで、大坂の豪商からの資金調達というわけです。同年三月末より近藤、芹澤、土方、沖田ら七名が八軒家の京屋に滞在。そして四月十二日、今橋の平野家へ出向きます。「主人は留守」ということで番頭が体よく追い返そうとしますが、芹澤のあまりの剣幕にしぶしぶ金百両を提供します。一応借用書が交わされていますがもちろん返すつもりのない借金です。一行はその足で京都へ取って返し、大丸呉服店であのダンダラ羽織や紋付、袴を新調しています。四月二十一日には新選組隊士たちは将軍家茂の警固のために再び大坂へ下りますが、この時にダンダラ羽織を着用したという記録が残っています。列なしてゆく新選組のその姿は道行く人を驚かせ、かつ怯えさせたといいます(平野)。*ママ。文久年間の3両は約60万円(当会)。
(写真)「新選組金銭請取証 山中(鴻池)善右衛門宛」1863(大阪大学経済学部経済史・経営史資料室所蔵史料) 芹澤鴨(光幹)、近藤勇(昌宜)の署名と花押が見られる。額面は200両(現在価値で、約4000万円)。1両(1860)=20万円(現在)で換算。
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hachikenyakaiwai · 6 days
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【かいわいの時】享保十四年(1729)四月二十日:将軍吉宗御用の象、尼崎から大坂に到着。南組惣会所に逗留。
享保13年(1728)にベトナムから牡と牝の象が日本に渡り、長崎に上陸した。この出来事が注目される一の理由は、2頭の象が献上されたものではなく、将軍徳川吉宗(1684-1751)の要請によりもたらされたからであろう。実はその要請が以前から商人のなかで伝えられたようだ。嘉永6年(1853)に林復斎等が編集した『通航一覧』に載せられた第38番東京船主の呉子明の手紙に次のような記述がある《史料9略》結局、2年後象が運搬されて来たが、その船主は呉子明ではなく、享保13年第15番唐船の船主の鄭大威である《略》このことから、当時幕府は多くの商人達に象の要請を伝えたことが考えられる。
黎貴惇は、ベトナムとラオスの国境にあるカムロ(甘露)地方の市場で行った象の売買について次のように述べている。
【史料11】『撫辺雑録』  「一象可載米三十擡、毎擡二十鉢、亦有一市番、駆牛至、三百隻来売、一牛不過十貫、一象價銀二笏」
黎貴惇の記述した「笏」は約10両に相当している《略》つまり、ベトナム国内で売買される象の価格は「二笏」で20 両に相当する。それでは象が日本まで運搬された時、どのくらいの金額がかかったのであろうか。実は、『通航一覧』に載せられた呉子明の手紙には下記のことが書いてある。
【史料12】『通航一覧』  「一象其帯来、小船不堪装載、徒新定造大船二艘、毎艘只装得一隻、但欲定造大船二艘、要用銀一萬餘兩、又唐山發船到暹羅、往来雑費、該用銀二萬餘兩」
史料に書いた造船費用1万両余と雑費2万両余は2頭の象を暹羅から日本まで運搬する見積もりである。つまり、1頭の象につき1万5百両がかかる。実際、鄭大威が広南産の象を日本に運んだ時、幕府にいくら支給されたかについての資料がまだ見当たらない。暹羅からと同じような造船費用と雑費とすれば、ベトナ国内で売買する象の価格の20両より700倍以上も上回るのである。そのため、東南アジアから日本までの象貿易は大変だったが、利益が高いことが窺えるのである(ファン・ハイ・リン)。「前近代ベトナムにおける象の国家的管理と象貿易」『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第4号』2018より抜粋して編集。表記はママ、脚注略。ママ。1万5千両の誤記と思われます。
【見積明細】 ・象(2頭) 銀10両×2=銀20両 ・大船造船費(2艘)  銀1万両 ・運送費       銀2万両 総計 銀3万40両(享保年間)≒銀130貫≒25億円(現在)※銀1両=銀4.3匁=0.07石=2万円で換算。
(写真)尾形探香『象之絵巻物』1848-55(関西大学図書館蔵)部分 享保十四(1729)四月、中御門天皇が京都御所で象を見物する図。ただし、御簾のうしろの天皇の姿は描かれていない。『江戸名所図会』1829によると、天皇と上皇への拝謁のため、象は「広南従四位白象」に叙せられたという。時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重にみるがうれしさ 中御門天皇。
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hachikenyakaiwai · 12 days
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【かいわいの時】明治四十三年(1910)4月15日:京阪電気鉄道(天満橋―五条間)開通。
天満橋南詰より鉄路長く駛つて京都五条橋畔に達する本線の沿道は、風景に於て他に比肩すべきものなきと同時に歴史研究の上に逸すべからざる幾多の名勝旧蹟を認むべし。今吾人をして試みに一乗客となりて本線の沿路を通過せしめんか、浪花の富を一夢と観せる古英雄の覇業を語れる大阪城を後にし。心中夫の網島の艶史を留むる大長寺の甍を左にしつつ、一路直に河北の大郊原に駛出すべし。此時後方遥かに楠氏一門の干城たりし金剛山の翠蓋を指し、右手東の方には葛城山脈の蒼々として打連なる中央に於て、生駒飯盛の翠巒を望見すべし。木村小路、守口に至れば澱江の水溶溶たるが上に軽舟小艇の去来する状、當に一幅の好画題なるを失わず(大久保透)。『最近之大阪市及其附近』1911(国立国会図書館蔵)より。*ママ。いずれも誤植。心中夫の網島→心中天の網島、木村小路→森小路。
(写真)「境内古図」(大宮神社蔵) 秀吉時代の当社を示す絵として描かれたものと伝わります(写真は複製)。寛政元年(1789)奉納。古図には本殿、拝殿の他、櫻門、高良社、北斗社、鬼門守護社、若宮八幡宮、七社相殿、三元殿等があり、南には京街道の「七曲がり」が確認できます(大宮神社=図も)。図の「一の鳥居」の附近に京阪電車の「大宮臨時仮駅」(1913~1920)がありました。
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hachikenyakaiwai · 14 days
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【かいわいの時】明治二十七年(1894)4月12日:みおつくし、市章となる。
▼澪標の意味 類聚国史云 難波江始建澪標 澪ハ水ノ深サヲ云 標ハ印シノ木也 (A)
▼澪標の管理 摂津国衙(平安時代):難波津の澪標:最後の遣唐使船が承和4年(837)に難波津を発った。しかし、その後も平安京への玄関口として難波津の役割が重視された。延喜5年(927)に撰上された「延喜式」には「凡難波津頭海中立澪標 若有旧標朽折者捜求抜去」(およそ難波津頭の海中に澪標を立てよ。もし朽ちたり折れたりした古い澪標があれば探し出して抜き取れ)とあるから、摂津国衙は常に淀川河口における澪標を整えておかなければならなかった。(B)
大坂町奉行(江戸時代):近世町奉行の覚書:大坂町奉行の公務覚書である「川方地対卸用覚書」(正徳年間~元文3 年く1711~38>) に「両川口水尾木数・同建樣」があり、安治川・木津川の両川口に120間の幅、80間の間隔で、沖から1番~10番まで水尾木(杭木)を立てたという記事がある。また、元文3年2月10日の干潮時に水尾木の水深を測ると安治川口で1.45~0.67m、木津川口で1.15~0.64mで、あった。それで廻船の出入りは滞ることはないが大船は潮時を考えて往来せよとあった。(B)
▼澪標のスペック(江戸時代) 一の洲の沖にあるを大一番とし次第に上へ二番三番とつづけ都合十番ニいたる。これを俗に棒木と云即水尾木水尾串なり。其木の長さ六尋余り志かれども半ハ水に入且洋中の広大なるがゆへに爾あらんとハ覚へず。扨また一番の所をさして一の洲と号し此所にある水尾木ハ他に異にして上に志るし木あり。其形鱗魚の尾に似たれバ俗にこれを鯖の尾といへり。是浪花第一の景物なり。此修理料廻船問屋船持仲間の課役たり。(A)。六尋(=36尺)≒10.9m。鐘成は「それほど大きくない」とゆうておりますが、明治時代の絵画史料(写真)を見ると、かなりでかかったことがわかります。
▼澪標のリサイクル商品(江戸時代) 右澪標の古木を以て作る所の雅器品々左ニ記す ○短冊懸○枝折○香合○菓子盆○楊枝○手代板。これらは、暁鐘成が心斎橋通博労町に営んだ土産物屋「鹿廼屋」で、「浪花御土産」と称して販売していた珍品類の一つです。「天保山名器蓬萊型畧図」と紹介されている天保山の形をしている亀の置物もありました。暁鐘成編述画図『天保山名所図会 巻之下』1835より。
▼みおつくしの歌 万葉 ミをつくし心盡して思ふかもこなまももとな夢にしミゆる 拾遺 侘ぬれバ今はた同じ難波なるミを盡しても逢んとぞ思ふ 後撰 難波がた何にもあらずミをつくし深き心の志るしばかりそ 家集 吹風にまかせることも事も澪標まつと志らずやさしてくるらん 千載 難波江の蘆のかりねの一夜ゆへミをつくしてや恋わたるへき 以上、(A) 万葉 遠江引佐細江の澪標あれを頼めてあさましものを(浜松) 詞歌 住吉の細江にさせる澪標深きにまけぬ人はあらじな(住吉)
出典 (A)暁鐘成『摂津名所図会大成 巻之九上』1860頃。 (B)山野寿男「大阪市における水環境の変貌」2011季刊『水澄』創刊号。
(写真)中岳「大阪築港真景」明治~大正(大阪市立図書館蔵) 「なにわの海の時空館」旧蔵資料。沖に澪標あり、桟橋に軍艦が停泊、ほか蒸気船や大型帆船が航行する港の図. 海岸には大型倉庫、市電の線路など(大阪市立図書館)。
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hachikenyakaiwai · 21 days
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【かいわいの時】宝暦十四年(1764)四月六日:対馬藩通詞鈴木伝蔵、大坂に滞在中の朝鮮通信使節随員を殺害し出奔(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
(事件のあらまし) 朝鮮の上々官名ハとううんとうと申を、対州の家中通詞役鈴木伝蔵といふ者、右上々官を鑓の穂先壱尺斗残し是を以て咽を突通し自害の体をしつらいさし殺しけり。右上々官ハ日本にて大目附役の人なるよし其趣を聞に、西国にて人参を荷打せしと偽りて金銀を私欲したる事ありて此役人に伝蔵より返済せねばならぬ金子有しを毎々催促しける、大坂にて相渡べき約束なりしをいまだ相渡さず、よって厳しく催促致しける故、何とやら私欲の義も露顕に及ぶべきやうになりしゆへ止事を得ず、右のごとく害しける由也(『明和雑記』)。
(犯行現場および時刻) 西本願寺津村別院棕櫚の間(朝鮮人来朝大坂旅館西本願寺座割兼小屋掛絵図)。初七日戊子陰寒(『趙済谷海槎日記』)。コメント欄に写真 ▼朝鮮人来朝大坂旅館西本願寺座割兼小屋掛絵図 조선인래조대판려관서본원사좌할겸소옥괘회도 京都国際学園「関西に残された朝鮮通信使の足跡」より。
(殺害方法および凶器) 寝所へ忍入、鑓の穂先壱尺斗残し是を以て咽を突通し、自害の体をしつらいさし殺しけり(『明和雑記』)。関の兼永の槍(『通航一覧』)長さ4寸ほど(『差上記』)。
(事件の目撃者) このとき賊は、三房格軍(水夫)の姜右文の足を誤って踏み、驚いて目を覚ました姜によって目撃されている(『日東荘遊歌』訳注)。
(指名手配) 一 行年廿六歳 一 背ノ高サ五尺三寸中肉にて顏の色白ク眼は少シ大キク張強シ人体骨柄賤からず 一 其節之着類黒羽二重之袷下には群内大嶋の襦袢 右体之者見付次第訴出候ハゝ御褒美被下候間可遂吟味者也 四月九日(「鈴木伝蔵人相書」)。
(犯行の動機) 崔天悰は高麗人参の密貿易に絡んで鈴木伝蔵を叱責した。事の露見を恐れた伝蔵が崔を殺害した(『明和雑記』『摂陽奇観』)。伝蔵の自白によると、人参の取引がもとで殺したというが、真相は到底わからず(『日東荘遊歌』)。
(事件の背景) 朝鮮と対馬の通詞が手を組んで密貿易(積荷の横領)を繰り返していた(『扶桑録』『東槎日記』「海遊録』)。舞台は主に大坂であり、一行はできるだけ長く大坂にとどまろうとした(『扶桑録』)。「裨将の言うままに放っておいたら《略》崔天悰事件のようなこと必ずやまた起こるでありましょう」(金仁謙)。※鈴木伝蔵は通信使が絡んだ密貿易の一味。崔天悰もそうであったかは不明。
(事件の余波) この一件を初めに歌舞伎化したのは並木正三で、67年(明和4)2月大坂嵐雛助座(角の芝居)で《世話料理鱸庖丁(すずきぼうちよう)》を上演。史実に近かったため2日間で中止を命ぜられ、ただちに奥州藤原の世界に改めた《今織蝦夷錦》を上演した。『世界大百科事典(旧版)』【韓人漢文手管始】より。
(写真)「世話料理鰭庖丁 絵番付」1467(『摂陽奇観』所収)
(浜松歌国は)鈴木傳藏の朝鮮信使殺害事件を詳記し、次に其の事件があってから四年目、この事件が角の芝居嵐雛助座に於て、並木正三により新狂言に取組まれたことを書き加へたのみでなく、當時板行の繪番附を其のまゝに貼りつけてゐます。この鈴木傳藏事件が上演されたは、歌國が生れる十年前のことで、その當時の繪番附を手に入れることは容易ではなかつたらうと思はれます(校訂者識)。『浪華叢書 第四』より=写真も。
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hachikenyakaiwai · 2 months
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【かいわいの時】昭和二十年(1945)3月13日-14日:木造家屋を焼き払うために開発されたナパーム弾攻撃によって、大阪市民は「想像を絶する炎熱地獄」にたたき込まれた(『新修大阪市史』)
第一次大阪空襲に当たっては、第二一爆撃機軍団は、東京(三月十日未明)、名古屋(三月十二日未明)の場合と同じく、先導機洋にM47A2焼夷弾を、主力部隊用にはM69焼夷弾を使用した《略》先導機用のM47A2というのは、一〇〇ポンド炸裂型・油脂(ナパーム)焼夷弾である。先導機がまずM47を投下するのは、爆発すると即座に大きな火災が発生し、後続機に目標を示すとともに、日本側の消火活動を混乱状態に陥らせることができるからであった。
主力部隊用のM69は、六ポンド(二・七キロ)の尾部噴射・油脂焼夷弾である。先導機のM47で消化不能の大火災を発生させた後、主力部隊が小型のM69を濃い密度で大量に投下し、目標地域にさらに大きな火災を誘発し、日本軍の対空砲火も減少させるという作戦であった。
ザァーという恐怖の音、身の毛がよだつ恐怖の焼夷弾落下音がおおいかぶさってくる。強大な火の群れが、あちこちで爆発する。火の玉・火の粉が降ってくる。焼夷弾が屋根を突き抜いて、ゴーッという音とともに火を噴く。何発も落ちてくる。あちらでも、こちらでも、壁にも、塀にも、格子にも、畳にも、ハガキ大の碑のかたまりがペタペタとくっついて燃える。くっついたら離れない。身体に着いたら大変である。M69焼夷弾のナパーム剤(油脂)が小片となって噴射され、付着した場所で燃焼しているのだ。アメリカ軍が日本の木造家屋を焼き払うために開発した兵器が、みごとに威力を発揮しているのである。軒先をはうように、紅蓮の炎が流れる。道路や防空壕に突きささっている焼夷弾もある。半鐘も鳴り響いている。「敵機来襲」、「退避」の警鐘は一点と七点斑打の連打であり、斑打の各点に時間間隔を置かないで早打ちする。敵機は次から次へと来襲する、半鐘は乱打の連続となる。日頃の防空訓練は、何の役にも立たない。天空高く、何千メートルも立ち上る火と煙、想像を絶する炎熱地獄の中に何十万もの市民がたたき込まれた。
同日午後四時三十分の大本営発表は次のとおりであった。
昨三月十三日夜半より本十四日未明に亘り大阪地区に来襲せる敵機の邀撃戦果次の如し。 撃墜十一機、損害を与へたるもの約六十機。
日本の大本営発表の数字のすべては、アメリカの第二二爆撃機軍団の報告書記載のものとあまりにも違いが大きすぎた。撃墜一一機と損害を与えた約六○機を合計して、日本の新聞は「九十機中七十一機屠る」と見出しを付けた(『毎日新聞』昭和20・3・15*)。アメリカ軍側によると「爆撃機数二七四機、損失二機、損傷一〇機」であった。『新修大阪市史 第七巻』第三章第四節より抜粋して編集。表記はママ。
(写真)毎日新聞1945年3月15日
1945年3月13日深夜から14日未明、米軍のB29爆撃機274機が3時間半にわたり、大阪市浪速区や西区、南区などに焼夷弾を集中投下した。当時の府警察局のまとめでは、死者3987人、行方不明者678人、重軽傷者8500人。約50万人が家を失った。大阪府内は計50回以上の空襲にさらされ、全空襲での死者・行方不明者は約1万5000人(毎日新聞2015年3月13日大阪朝刊)
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hachikenyakaiwai · 2 months
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【かいわいの時】安永七年(1778)三月十日:蕪村、几菫、旧国の三人、夕暮れに桜宮を吟歩(『戊戌之句帖』)
安永七年三月九日、師の蕪村とともに伏見より昼舟で来板した几菫(きとう)は、翌日、俳友の旧国(ふるくに)も加えて網島に遊びます。句集『戊戌之句帖』には、次のように記されています。
十日 旧国と三人網島に遊び夕暮桜の宮の辺吟歩す
落ちかゝる雲を抱へて初桜 三ツふたつこぼるゝ雨や初ざくら 雨含む雲にけ高し初桜
とばかり案じ入て、今さら信徳が花の林にけをされて、中/\申出べくもあらず 又 都の春のにしきとは、常に聞ふるし見ふるしにたれば
難波津や桜の宮の柳哉
旧国は、姓は安井、名は政胤、通称は大和屋善右衛門の俳号。北革屋町に住し、飛脚問屋を営む。寛延3(1750)年家督を継ぎ、三都随一といわれるまでに家勢を盛りたてた(加藤定彦)。隠居後の享和元年(1801)に大江丸として刊行した『俳諧袋』は彼の第二句集ですが、そのなかで、蕪村のことを「生国摂津東成郡毛馬村の産」と記しており、これが毛馬村を故郷とする(蕪村以外の)唯一の証言となっています。しかし、この句集および第一句集『俳懴悔』にも、この時の句は収録されていないようです。
御大蕪村はとゆうと、安永七年二月の月例句会で
初ざくら其きさらぎの八日かな
と詠んだ句あります。弥生の桜宮ではどんな句を詠んだのでしょう。
(写真)中沢弘光「櫻宮(仮題)」。『畿内見物 大阪之巻』1912(スミソニアン蔵)挿画。 『畿内見物 大阪之巻』には高安月郊「蕪村の故郷」が収録されており、本画は二つある挿絵の一つ(もう一つは「網島」)。一の鳥居の内側から清湾を望み、大阪城・伏見櫓をとらえています。鳥居の刻銘には脱字があります。正しくは 「文化六年己巳春三月日建」。文化六年(1809)は蕪村が吟歩した31年後にあたります。
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hachikenyakaiwai · 2 months
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【かいわいの時】延暦十二年(793)三月九日:難波大宮を廃止し、摂津職を摂津国に改める(『日本後紀』)。
1)摂津国の国務は当初、難波宮および難波津を管理するとともに、摂津国の行政を兼帯する、摂津職とよばれる特別行政機関によって行なわれた。摂津職の官衙は難波京内に置かれたと考えられ、その所在地は現在の大阪市天王寺区国分町のあたりとする説が有力である(Web版尼崎地域史事典「apedia」)。
2)摂津国府の所在地は明らかでないが、大阪市天王寺区にある四天王寺の東方に国分町(もと国分村)の地名があり、摂津国分寺の所在地と考えられるところから、当初国府もその近くにあったとする説(『東区史』第一巻)が有力である(『大阪府史 第2巻 古代編』1990)
3)国司の庁は天王寺区生野町即ち旧生野村国分地方であろう(『東区史 第1巻 総説篇』1942)
4)国分町(近世):江戸期~明治5年の町名。江戸期は大坂三郷北組のうち。明治初年からは玉造を冠称。江戸初期、当地に山城国伏見の町人が移住。はじめは東伊勢町と称したという(初発言上候帳面写/大阪市史5)。町名はかつて当地に摂津国の国府があったためと伝えるが不詳。「玉造いなりうら門前筋より三すじ東の丁大和ばし通り北へ入」の町で(宝暦町鑑)、元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によると家数29軒、役数30、うち無役数1(年寄)、年寄は塩屋半十郎。古代に朝鮮や中国からの使節の迎賓館として鴻臚館が設けられたが、「摂津名所図会大成」は当地をその古址としている(浪速叢書7)。しかし「五畿内志」は現在の天王寺区玉造元町としている。明治2年大阪東大組に所属。同6年東成郡西玉造村となる(『角川日本地名大辞典』)
5)摂津国の国府「大阪市天王寺区国分町・生野区生野西? 1」「同[図書館注:大阪市]東区*法円坂町または森ノ宮中央? 2」(『国史大辞典 5 け-こほ』1985。大阪府立中之島図書館による。*ママ。現在は中央区。
(結論)まったくの謎ですが、古地名との類推から「天王寺区国分町」または「中央区森ノ宮中央」の2地点に絞られています。しかし、摂津職は、国司としての職務に加えて難波津・難波京(難波宮)の管理も行っていたところから、その官衙が難波津や難波宮から離れたところにあったとは考えにくいところから、 当会ではかいわいの内である「中央区森ノ宮中央」を有力候補地としています(下記参照)。
6)古代の摂津国に摂津職が置かれたのは、難波宮と難波津の重要性に着目したものであり、その職掌の中心は、難波宮の維持・管理とともに「津済(難波津の維持・管理)、上下公使(諸外国の使人の応接)、検校舟具(官船・私船の管理・調査)であった。当然こうした職務を担当する官衙は難波津の近傍に設けられていた(中尾芳治「古代の難波と難波津について」2010)。
(写真)「古代摂津職の所在地」(「古代はじめの古地理図」趙ほか(2014)の巻頭図版5に加筆。①天王寺区国分町 ②中央区森ノ宮中央
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hachikenyakaiwai · 2 months
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【かいわいの時】天平十六年(744)二月二十六日:難波宮を皇都とする(続日本紀)。
『続日本紀』によれば、二月二十四日、天皇が突然に紫香楽宮へ行幸、その二日後の二十六日、左大臣の諸兄が難波宮を皇都とするという難波遷都の勅を読んだとされています。二月二日には、恭仁宮から駅鈴、内印・外印(天皇の御璽と太政官印)を難波宮に運ばせたとあり、詔勅および五位以上の位記と諸国に下す公文等には内印(御璽)を捺すと定められていることから、この勅書にも印が捺されていたものと思われます。
静岡県の平田寺には、天平感宝元(749)年閏五月廿日に聖武天皇が下した勅書が保存されており、それには、聖武天皇の宸筆「勅」や左大臣「諸兄」、右大臣「豊成」、大僧都「行信」の署名とともに、書全体を覆う形で御璽印影が見られます(写真)。難波遷都の勅書にもこれと同じ印が捺されていたものと思われます。
(写真)「天平感宝元(749)年閏五月廿日に聖武天皇が下した勅書」(平田寺蔵) 『続日本紀』によると、聖武天皇は天下太平と万民和楽を祈願するため、東大寺など十二大寺に絁、綿、墾田等を寄進した。本文書は、このときの施入願文で、現存する事例はこの平田寺所蔵のものが唯一とされる。また、勅の大字は、聖武天皇の宸筆である。聖武天皇ひいては奈良時代の宸翰は、聖武天皇宸翰雑集(正倉院宝物)など数えるほどしかなく、歴史的にも美術的にも大変貴重なものである(静岡県スポーツ・文化観光部文化局文化財課)。
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【かいわいの時】天保八年(1837)二月十九日:大坂町奉行所元与力大塩平八郎決起(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
難波橋を渡った大塩軍は、二手に分かれて今橋筋と高麗橋筋に進みます。森鴎外の『大塩平八郎』には次のように描写されています。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇(むら)がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は倅格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衛門、同く庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城桝屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々方略に取り極きめてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着つけられる限の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔まいてあつた。(七、船場)
この時の模様は、被害に遭った商人側でも詳細な記録が残されており、たとえば、三井文庫所蔵の史料「天保七年 浪速持丸長者鑑」(写真=コメント欄)には、焼き打ちされた商家に赤線が引かれています。ランク順に並べてみると
鴻池善右衛門(総後見)、三井呉服店(行事)、岩城呉服店(行事)、米屋平右衛門(東小結)、鴻池他治郎(西小結)、鴻池正兵衛(西前頭)、米屋喜兵衛(西前頭)、日野屋久右エ門、炭屋彦五郎、米屋長兵衛、甥屋七右衛門、和泉屋甚治郎、鴻池徳兵衛、長崎屋与兵衛、米屋与兵衛、泉屋新右衛門、紙屋源兵衛、小西佐兵衛、越後屋新十郎、よしの屋久右衛門、大庭屋甚九郎、昆布屋七兵衛、さくらいや八兵衛、平野屋喜兵衛、某
など、25商(店)の名前があがっています。今橋筋、高麗橋筋の商家は軒並み焼き打ちに遇っています。肥後橋の加島屋久右衛門(西大関)はコースから外れていたため難を逃れたようです。
(写真)「天保七年 浪速持丸長者鑑」1837(公益財団法人 三井文庫蔵) 相撲の番付表のように商人をランキングした表で、大塩の乱で被害を受けた商家に赤線が引かれている。三井、鴻池などが被害にあっていることがわかる(三井広報委員会)。
また、諸家の記録から、事件当日の様子や対応策、その後の復旧策を見てみると
(鴻池家)加島屋某筆とされる『天保日記』(大阪市立中央図書館所蔵)では天保八年(一八三七)二月十九日、火見台から望見して「鴻池本宅黒焰大盛二立登、其恐懼シキ事不可云」、幸町別邸めざして落ちのび、そこで加島屋某らが「鴻池於隆君・勝治・和五郎」らと無事出あうところが生々しくえがかれている。和泉町の鴻池新十郎家の記録 『北辺火事一件留』(大阪商業大学商業史資料館所蔵)でも、鴻池本家当主の善右衛門が土佐藩邸、長音は泰済寺、そのほか瓦屋町別荘などへ逃げ、鴻池深野新田農民をガードマンとして急遽上坂させるなど、その被害状況や防衛対策が丹念に記録されている。
(三井呉服店)三井では、同日三郎助高益(小石川家六代)が上町台地の西方寺に避難し、「誠に絶言語、前代未聞之大変にて」と、 ただちにレポを京都に送り、木材・釘・屋根板・縄莚などをすぐ仕入れ、はやくも三月八日に越後屋呉服店大坂店の仮普請完成=開店している様子が詳細に記録されている。(コメント欄参照)
(住友家)住友家史『垂裕明鑑』には、大塩事件のまっただなかで、泉屋住友が鰻谷(銅吹所その他)から大坂城にむけて鉛八千斤(弾丸)を三度にわけて必死で上納運搬したこと、事件による住友の被害として、「豊後町分家、別家久右衛門・喜三郎掛屋敷の内、備後町・錦町・太郎左衛門町三ケ所延焼」に及んだこと、そして住友の親類の豪商としては、「鴻池屋善右衛門、同善之助、平野屋五兵衛、同郁三郎」家などが軒並み“大塩焼け”で大きな被害をこうむったこと等々が、 生々しく記されている。
三井家では、享保の大飢饉の後に起きた江戸における打ち毀し(1733年)に衝撃を受け、以後、食料の価格が暴騰すると近隣に米や金銭を配って援助したり、また飢えた人々に炊き出しをしたりするなど、三都(江戸・京都・大坂)において施行を継続しています。それが、大塩平八郎の乱では標的にされ、襲撃された大坂本店は全焼、銃撃による負傷者まで出るほどであったと伝えています(三井広報委員会)。
儒学者の山田三川が見聞きした飢饉の様子や世間の窮状を日記風に書き留めた『三川雑記』には、乱の前に大塩は鴻池・加島屋・三井の主人らと談じ、富商十二家から五千両ずつ借りれば六万両となり、これで何とか八月半ばまでの「飢渇」をしのげると、「しばらくの処御取替」を依頼していたとあります。同意した加島屋久右衛門は襲われず、三井と鴻池は反対したため焼き打ちに遭ったとも言われています(山内昌之)。
ただし、『浮世の有様』の天保八年雑記(熊見六竹の筆記)には、この話は「或説」として取り上げられており、それによると、「十人両替へ被仰付候処、町人共御断申上候筋有之」とあります。三井はもちろん、鴻池や加島屋にも記録はなく、風評の域を出ないものと思われます。
(参考文献) 中瀬寿一「鷹藁源兵衛による泉屋住友の “家政改革”-大塩事件の衝撃と天保改革期を中心に-」『経営史学/17 巻』1982 三井広報委員会「三井の苦難(中編)」三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.39|2018 Summer 山内昌之「将軍の世紀」「本当の幕末――徳川幕府の終わりの始まり(5)大塩平八郎の乱」文芸春秋2020 山田三川『三川雑記』吉川弘文館1972 矢野太郎編『国史叢書 浮世の有様』1917
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【かいわいの時】天正十六年(1588)二月十六日:出雲大社の巫女、大坂天満宮で神歌・小歌踊りを演じる(大阪市史編纂所「今日は何の日」)。
京博本の「阿国歌舞伎図屏風」は、昭和三十年代に、山本発次郎コレクションとして、しばしば観照する機会を得た。出光本と違って、芝居小屋の内部描写を主題に、役者と観客の交歓を描く。その人物描写(姿・形・配置) や小屋の外の松の姿形に長谷川派の筆を感じたが、拙著『桃山の風俗画』(平凡社、昭和四十二年十月刊)ではなお町絵師出身の逸名の風俗画名手の筆と逃げた。華やかな阿国歌舞伎の図としては、すべてに出光本より適切な表現を見せると言えよう。とくに登場人物が出光本より有機的な関連をもち、見物と舞台が一つに融け合うさまは秀れている。その後、やはり長谷川派の筆だと考え、近稿の「宗宅研究」ではいずれ筆者を特定したいと書いた。もとより、長谷川派でもっとも風俗画に熱意をもつ等学を意識していたのである。
これより、判定の過程を省略して、もっぱら私が等秀や等学と考える風俗画 (歴史画も含める)について述べたい。 まず宗宅の風俗画に触れると、さきの秀吉の醍醐花見図屏風以外では、同じく秀吉が宮中で貴族たちや南蛮人と 一緒に能楽を見る「観能図屏風」(八曲一隻、紙本著色、神戸市立博物館蔵)が同筆と思われる。宗宅は秀吉関係の風俗図だけを描いたのかもしれない。等秀となると、出光本の「阿国歌舞伎図」一点で、ほかには見出せない。地味な等秀は、派手な風俗画には不適と自認していたのであろう。
つぎもすぐ風俗画とは言い難い変った屏風絵だが、「誰が袖美人図屏風」(六曲一双、金地著色、根津美術館蔵)(挿図七八) を取り上げたい。左隻はいわゆる誰が袖屏風に美人図を組み合わせたもので、中央に派手な小袖を着た兵庫髷ふっくらした女性と三味線を左手に持つ禿姿の童女が静かに対峙し、その右方と背後に衣桁・屏風・衣桁を配す《略》ここでさきの等学唯一の署名をもつ帝鑑図を想起したい。それは正面向きの古風な宮殿を奥へ重ねたものだったが、これは最新流行の誰が袖図と扇面散図屏風による知的な構成である。人の女性の姿態や配置は京博本阿国歌舞伎図屏風にも現われているもの。さらに右隻の桜や杉の描法や構図は、前出の「太閤花見図屏風」や等学の妙蓮寺の松・桜・杉図絵などに類似する。以上からこの「誰が袖美人図屏風」が等学筆であるのは納得されると思う。その制作年代は慶長十年ごろの京博本の「阿国歌舞伎図屏風」より後で、サントリー本の「東山・吉野遊楽図屏風」より前であろう。一応、慶長十年代とみておく。コメント欄に写真。
以上、主として等学の風俗画について、彼の金障壁画より得た画風の特徴を基礎に、もっぱら直観による大胆な想定をなしてきた。ここに至ると、理論的にも妥当な等学を京博本「阿国歌舞伎図屏風」の筆者と判定することに、これ以上躊躇する��要もなかろう(山根有三)。「長谷川等秀・等学研究」『国華 第1228号』1998より、抜粋して編集。
(写真)「阿国歌舞伎図屏風」1605頃(京都国立博物館蔵)より 舞台上を見ると、刀を肩にかけたかぶき者、柱のそばに坐す茶屋のかか、頬かむりをした道化役の猿若がおり、これは阿国歌舞伎の代表的演目である「茶屋遊び」が演じられていることを示す。出雲の阿国が北野社の能舞台を代用して「歌舞伎踊り」を始めたのは慶長8年(1603)、本図はその舞台を描いたもので、制作もそれからさほど降らぬ頃と考えられる。囃座も三味線などなく、笛、小鼓、大鼓、太鼓ばかりで、いかにも初期的様相を示す。図中に印象的に配された松の表現が、たとえば妙蓮寺障壁画中のそれと通有する性格を有しており、長谷川派による風俗画の一例とする有力な説がある(e国宝=画像も)。
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hachikenyakaiwai · 3 months
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【かいわいの時】宝永五年(1708)二月三日:曽根崎新地に茶屋株等許可(大阪市史編纂所「今日は何の日)
曽根崎新地は、宝永五年(一七〇八)に蜆川沿の西成郡曽根崎村の地内を開発して成立した。同年二月の町触によって、地代銀の永久免除・十五年間の無役・茶屋株や風呂屋株など諸株所持を認めるという前提のもと入札者を募り、高金額を提示した者が落札する、という方法が採られた。開発後、新地は天満組に編入され、さらに三町に町割りされ、各町に町年寄が置かれた。落札者には町触通り、茶屋株などの所持が認められるとともに、「株付屋敷」も下された。茶屋では一株につき二人の茶立女を置くことが許可されたが、現実には遊女としての営業が中心であった。いわゆる「新地」が、遊里(遊所・遊廓)の代名詞として用いられたのは、このためである。
西高津新地は、享保十八年(一七三三)に西高津村のうち、紀州街道沿の長町以東のニ―七石余の畑地を開発して成立した。谷町二丁目の福島屋市郎右衛門と立売堀三丁目の備前屋善兵衛の両名が、「新町屋」の建設を幕府に願い出て、許可を得たのち開発に着手した。そのとき両町人は西高津村から地所を買い請けている。開発後の地所は、町人の「請地」とされ、翌十九年九月に新地の繁昌や開発者の助成のため、茶屋株三二株が与えられている。延享二年(一七四五)正月には、大坂代官支配から大坂町奉行所支配となり、南組に編入されている。そのとき、新地は九町に町割りされ、各町に町年寄が置かれた。ただし大坂三郷へ編入されても、年貢負担は継続され、さらに町役も他町並に納めるという両役負担となっている。
この二つの新地開発を請け負ったのは町人であり、その点で「町人請負新地」と呼ぶことができる。だが、開発の契機に注目してみると、曽根崎新地は大坂町奉行所の町触、つまり幕府の意向が開発の契機となっており、一方、西高津新地では町人が開発を出願している。その点で二つの新地を区別することができる(松永友和)。「新地開発をめぐる幕府政策と訴願運動-難波新地の開発を中心に-」関西大学史学・地理学会『史泉 巻108』2008より。
(写真)「浪華曾根崎図屏風」1700代(大阪歴史博物館蔵)舟遊び図。
図中央に曾根崎川(蜆川)が流れ、舟遊びに興じる人々が描かれています。左には『曾根崎心中』お初・徳兵衛の道行きの舞台ともなった梅田橋が架かり、橋の下には鰻の蒲焼・酒を売る舟も描かれています。曾根崎川南岸の堂島新地は元禄元年(1688)に開発され、北岸の曾根崎新地は宝永五年(1708)にできました。いずれも新地振興策として幕府から茶屋などの営業が認められ、茶屋や料亭が軒を連ねる遊所として賑わいました(水都大阪2009開催記念事業・企画展「水都大阪再発見」大阪市より)。
「浪華曾根崎図屏風」は六曲一双で、この舟遊びを主題とする左隻と、堂島新地の遊里風景を描いた右隻からなる。
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hachikenyakaiwai · 3 months
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【かいわいの時】明治十二年(1879)1月25日:『朝日新聞』創刊(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
朝日新聞は1879年(明治12年)に大阪で第一号を出しました。今もある全国紙で最も古いのは毎日新聞(当時は東京日日新聞)。1872年の創刊です。次いで読売新聞が1874年。3大紙と呼ばれる朝毎読(ちょうまいよみ)が同じ1870年代に誕生しているのは興味深いですね。このころは、台湾出兵や西南戦争など大きな事件が相次ぎ、ニュースに対する人々の欲求が高まっていたとも言われます。創刊号の紙面の大きさは、今の新聞の約1/3。わずか4ページでした。「善悪を書きわけ、社会の様子をそのまま生きた歴史として映し出す」創刊のあいさつにはそんな精神が述べられています(朝日新聞社)。「朝日新聞社小史 ストーリーズ (1)創刊」より。
(写真)朝日新聞創刊1号(1879年1月25日付)の1・4面(朝日新聞社) 総ふりがな・さし絵入り小型4ページ、定価1部1銭、1カ月18銭、従業員約20人、1~4号は3000部印刷。紙面は、1ページ全3段で、4ページ全12段。紙面構成は以下の通り
官令および大阪府官令:1と1/2段 雑報:8段 寄書:1段 相場:1/4段 広告:1と3/4段 奥付:1/4段
相場欄に「堂島米相場 上米六円二十九銭」(取引は1石単位)とあります。不変の法則を適用して 1石=6.29円(1879)=27万円(現在)より、1円(1879)≒4.3万円(現在)が導かれます。これでいくと、創刊当時の定価は現在価値で約430円、うどん1杯分ぐらいの値段です。月極で約7700円。
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hachikenyakaiwai · 4 months
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【かいわいの時】昭和二十三年(1948)1月12日:大阪SCAP/CIE図書館開設 (大阪市史編纂所「今日は何の日」)
CIE図書館※設置の前年、1947年(昭和22年)1月に大阪府立図書館2階特別室にCIE読書室が開設された。1948年(昭和23年)1月12日、大阪府大阪市東区高麗橋三丁目の東洋綿花ビルに大阪CIE図書館が開設された。開館翌日の1月13日に開館式が行われ一般公開となり、初日は500人の利用者が訪れた。開設当初の開館時間は9時から17時までで、日・月曜日が休館であった。
読書室は河内長野、西能勢、豊中、香里園、岸和田の5か所にも置かれた(豊中市立、岸和田市立図書館の読書室は1948年(昭和23年)4月開設)。
サンフランシスコ講和条約の締結を記念してジェームズ・ミッチェナーの講演会が開催された。歴代の図書館長は アーライン・エリザベス・ボーラー、M.J.ホーファー、ジュヌヴィエーブ・L・フライデイ。
1952年4月の講和条約発効により、大阪アメリカ文化センター*と改称。豊中には大阪アメリカ文化センター豊中分館が置かれた(ウィキペディア)。*現、関西アメリカンセンター
大阪市立自然科学博物館*を立ち上げた筒井嘉隆(筒井康隆の父)は、CIE図書館の創設にもかかわっている。*現、大阪市立自然史博物館
翌二十二年には出向して、進駐軍のSCAP CIE LIBRARY(連合軍総司令部民間情報教育局大阪図書館、今のアメリカ文化センターの前身)の創設と運営管理を担当した。文化施設に通じていて英語もわかるというのが原因であったようだ。高麗橋筋の東洋棉花KK(トーメン)の建物を接収したもので、これも二年ほどでアメリカ人の館長と意見があわないのでやめ、市役所に帰って上司を説き、二十五年の四月から自然科学博物館の創設にとりかかかった(筒井嘉隆)。『町人学者の博物誌』河出書房新社1987より。*ママ。
(写真)「大阪市立自然博物館長 筒井嘉隆(52)」1956。『アサヒグラフ』 1956年1月15日号掲載 チンパンジーは、1951年に購入された天王寺動物園2代目チンパンジーのシュジー。「動物園は近いので今でも遊びに行き 二代目のシュジーと仲よくしています」(筒井)(画像はWikimedia Commonsより)
※第二次大戦後、日本で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)民間情報教育局(CIE)情報課の管轄下に設置された図書館。1945(昭和20)年11月に東京で最初に開館し、その後、京都、名古屋など都市部に計23館が設立された。その目的は、米国の政治・社会や民主主義理念を日本人に周知・啓蒙することであり、当時珍しかった開架制のもとで英文図書・雑誌が利用のために提供されたほか、レコード鑑賞や映画上映、講演会や英会話教室のような文化活動も実施された。図書館長には図書館学を学んだアメリカ人が着任し、職員には英語のできる日本人が雇用された。占領終結とともに整理統合され、全国13都市に置かれる「アメリカ文化センター」へと改組された。図書館情報学用語辞典 第5版 「CIE図書館」の解説
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hachikenyakaiwai · 4 months
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【かいわいの時】明治六年(1873)1月1日:明治政府、太陽暦への改暦を施行。
明治維新(1868)によって樹立された明治政府は、西洋の制度を導入して近代化を進めました。その中で、暦についても欧米との統一をはかり、明治5年(1872)11月、太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を発表しました。これによって明治6年(1873)から、太陰太陽暦*に替わり現在使われている太陽暦が採用されたのです。準備期間がほとんどなく、本来ならば明治5年12月3日が、新しい暦では明治6年1月1日になってしまったので国内は混乱しましたが、福沢諭吉などの学者は合理的な太陽暦を支持し、普及させるための書物を著しています。現在私たちが使っているカレンダーは太陽暦によるものですが、その中にも大寒、小寒など古来から太陰太陽暦で使われた季節を現わす言葉(略)が残っています。毎年毎年新しくなる暦ですが、人間の歴史と文化がその中に刻みこまれているといえるでしょう(国立国会図書館「日本の暦」)。 *太陰太陽暦=太陰暦を基とするが、太陽の動きも参考にして閏月を入れ、月日を定める暦(暦法)のこと。
(写真)「神武天皇即位紀元二千五百三十三年 明治六年太陽暦」 改暦最初の太陽暦。前文に太陽暦の原理と定時法の説明がある。突然の改暦のため、明治5年末までには行きわたらなかった。神武天皇の即位から年を数える皇紀(明治6年は紀元2533年)が入り、上欄には歴代天皇の祭典等が記載されている(国立国会図書館=画像も)
気になるお値段ですが、匁は銭と同じで100分の1の単位(明治4年新貨条例)、明治初期の1円=34000円として、2匁=2銭=680円。
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hachikenyakaiwai · 5 months
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【かいわいの時】慶長十一年(1606)十二月十三日:秀頼、生国魂神社を再建(大阪市史編纂所)
家康は、豊臣家の財力を失わせるため、故太閤秀吉の菩提をとむらうためなどと称し、秀頼に対して、さかんに寺社の造営・修復を勧めた(略)当時、秀頼が造営・修復した寺社など方広寺大仏殿、誉田八幡宮、四天王寺、東寺金堂、石清水八幡宮、生国魂神社、勝尾寺、中山寺、叡福寺太子堂、観心寺金堂、常光寺庫裏、宇治橋、鞍馬寺など(柏原市「玉手山物語」)。※原文ママ
石山本願寺建立の際には、この生国魂神社を隣接地に遷座して建立したとも言われるが、だとするならば石山本願寺は生国魂神社の最初の鎮座地に存在したことになる。また、近年の研究によれば石山本願寺は豊臣期の大阪城の詰之丸に存在したとの説もあるが、これがもし事実ならば、生国魂神社の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周辺ということになる。 戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦で焼失した。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を造営し、天正13年(1585年)に遷座した。このときに造営された社殿は、「生国魂造」と呼ばれる、流造の屋根の正面の屋上に千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風と3重に破風を乗せるという独特の建築様式のものである(いくたま夏祭りみこし会)。
(写真)『摂津名所図会 巻之三』より「生玉神社 其二」(スミソニアン蔵)。
江戸時代には、豊臣秀頼により造営された社殿が慶長20年(1615年)の大坂夏の陣による兵火で焼失したが、江戸幕府により社殿は再興され、社領300石も安堵された。寛永-正保期(1624 - 1648年)の「摂津国高帳」によれば、その社領地は下難波村(現在の浪速区)にあった。また5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院は、黄金若干を当社に寄進したという。『摂津名所図会』では、当時の境内の様子や走馬神事の様子などが描かれている。幕末の『浪花百景』にも絵馬堂、弁天池が選ばれている。弘化2年(1845年)には、社殿の造替がなされた《略》1912年(明治45年)1月には「南の大火」により社殿を焼失し、1913年(大正2年)11月に再建された。しかし1945年(昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲により再び焼失した。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列され、翌1949年(昭和24年)7月に本殿が再建されるも、1950年(昭和25年)9月のジェーン台風で倒壊してしまった。その後、1956年(昭和31年)4月に鉄筋コンクリート造で再建された(ウィキペディア)。
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