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二十歳の小さな冒険 中国・31日間の旅・1987年
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30数年前の個人的旅の忘備録
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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あとがき
2020年8月4日 今、これを書いているのは自宅ベランダの夕闇ハンモッグ。 真夏日の熱は少し下がり、夕風は涼風。 揺りかごに揺られていい気分だ。 酒量はずっと変わってないのに、酔わないのは何でだ? ずっと独り呑みだからだろうな。 今日もテレワークで、面倒なお客対応で一日が過ぎた。 毎年11月にドイツで開催される展示会が本当に行われるのか?なんでこんなキャンセル料がかかるんだ!?ほぼ、そんな問い合わせに追われてる。 世の中は全てタイミングの問題だ。 そして巡りあわせの問題だ。 このコロナ、ジタバタしたって、しょうがねえだろ? 中国をはじめ、特に異国の旅で経���した理不尽は、こういう状況で役に立つ。 でも、何とかしたいもんだよなぁ~~~ そんなことを思いながら、より良い明日を夢見る♪ この日記を忘備録として書いてみて良かった。 ただのノスタルジーではない。 自分の足跡を振りかえながら、改めて自分は何なのかを確認できた。 そして記録として整理もできた。 中国のことは今は好きになれない。 その後、出張で北京、天津、大連、上海へ何度も行ったが、行くたびに違和感を覚えた。 台湾で暮らした2年半の影響も大きいと思う。 台湾は常に中国共産党に虐げられている。そして今、中国への懐疑心は香港の問題もあってより強い。 でも、勿論、この中国旅でお世話になった親切な中国人民への感謝は変わらない。 もう亡くなった人もいるだろう。 でも、願わくば、元気で幸せであってほしいと、33年経った今でも純粋に思っている。 以下、この旅日記のベースになった、ダイヤモンドビッグ社(「地球の歩き方」版元)発行の日記帳の画像。
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↑表紙
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↑裏表紙
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↑冒頭の旅のインストラクション
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↑「お便りしようお母さんに」 すげえ、ガキ扱いに涙でる♪
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↑外貨の換算表 西ドイツとかソ連とかユーゴスラビアとか!!
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↑家計簿? 旅費簿
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↑日記
以下は日記帳下段の小見出しにある、旅のアドバイス。 なんだか大きなお世話だぜ、って思うけど、当時はそういう時代だったんだなぁ。。。 どうぞ、ご昭和ください♪
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                                  幕
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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小さな冒険は終わる
始まりがあれば終わりがある。 終わりから、また新たな始まりが始まる。 思えば人間の営みとは、始まりと終わりの繰り返し。 そこで生まれる物語の積み重ねだろう。 行って良かった1987年8月の中国。  
9月5日(土) 31日目
帰りたくない。 素晴らしい思い出の数々。 来て良かった。 睡眠時間少なくても眠くはない。 荷造りをし、折り鶴を一羽折って部屋を出る。 自分自身に言葉を投げかける。 思えば独りで過ごす時間は、絶えず自分に話しかけていた。 だから一人旅の寂しさは一度も感じなかった。 親切だったフロントのおじさんやスタッフの笑顔に見送られてタクシーで啓徳(カイタック)空港へ向かう。 日焼けした肌にザックのストラップが喰い込み痛い。 痛み。 この小さな冒険には喜びや楽しみばかりではなく、いくつかの痛みもあった。 それも世の常。 歩けば転ぶ、ケガもする。 でも歩かなきゃ、何も始まらない。 マニラ経由成田行きのフィリピン航空は定刻通り11時過ぎに香港を発った。 なんでマニラ経由??多分、安かったからだろう。 マニラでトランジット。 荷物検査の検査官が、僕が持っている扇子が欲しいから寄こせと言ってきた。中国民航の機内でもらった安物である。検査官がまさか物乞いをするとは思わなかったから、マニラの印象が物乞いになった。 マニラから成田の機内は、化粧の濃い、ボディコンな雰囲気のフィリピーノがたくさん搭乗してきた。いわゆる「ジャパゆきさん」だ。成田へ着くと、一見してその筋の人と分かるような風体の男たちが出迎えに来ていた。 機内食が美味かった。 隣の席の武蔵美のコの話が面白かった。 定刻より20分遅れ、19:50分頃、成田へランディングした。 ああぁ、帰国だ。 その途端、強烈な寂しさを感じた。 ああ中国よ!中国よ! 寂しい。 あまりにも楽しかった。 トラブルも多かったけれど、それも含めて良い思い出だ! と成田空港で感慨に浸っていると、新たなトラブルに見舞われた。 啓徳空港で預けた荷物がターンテーブルから出てこない。。。 最後に荷物を拾い上げた人からもう20分は経っている。ターンテーブルの奥のほうでガサガサと音がするので、その場に残った10人ほどの客が一斉に音のほうへ顔を向けた。 出てきたのは荷物ではなく、係員のおじさん。彼はそこに残された乗客へ言った。 「大変申し訳ございませんが、お客さんたちの荷物が入ったコンテナがマニラで積み忘れとなったようです。明日、宅急便で送りますので、この用紙に届け先をご記入ください」 ははは、この旅を締めくくるには相応しい終わり方じゃないか♪ 日焼けした体に食い込む荷物が無くなったのはラッキーだった。でも、予定していた静岡の三島に帰る最終新幹線も同時に逃した。 東京駅からは23時台の東海道本線の鈍行に乗った。多分、大垣夜行の1本前かもしれない。日記には2時間立ちっぱなしで、三島駅に着いたのは午前1時を回っていた、とある。 2時間。 たったの2時間、そう、中国の鉄旅に比べたら、まったくもって、たったの2時間。ああ、なんて近いんだろう(^^♪ 夜を駆ける東海道本線は混んでいるにもかかわらず、静かで、旅情は無く、中国の車内とはずいぶん違うものだった。 流れていく神奈川県の夜景を眺めているうちに、車窓に映る自分の顔に気が付いた。31日間の短くも小さな冒険をやり遂げた顔がそこにあった。 そしてその表情の中に僕は新たな決意を確かめた。 その決意は、30数年経った今、記憶にある訳も無く、きっと大したものでは無かっただろう。それでも、当時の僕自身にとって、それはとても大切なものであったことに間違いない。 人間は、その時々、その一瞬一瞬を積み重ねて今を生きているのだから。 こうして僕の31日間の小さな冒険は帰途に就いた。 ありがとう、中国。 ありがとう。
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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眠りたくない最後の夜
この旅の3年前、1984年、イギリスと中国が共同声明を発表。 イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の特別行政区となること、そして中国(=共産党)は、一国二制度をもとに、将来50年(2047年まで)にわたって香港の民主主義体制の変更を実施しないことを約束した。 ご承知のようにここ数年、この約束は反故にされている。 香港の学生や市民を中心とした雨傘デモは、中国寄りの香港政府に厳しく取り締まれ、2020年6月30日には、香港での反政府的な動きを取り締まる中国の「香港国家安全維持法」が施行され、民主化崩壊を危惧する西側諸国から、中国に対する大きな懸念が示されているが、中国共産党はどこ吹く風だ。  
9月4日(金) 30日目
この20歳の旅、小さな冒険も今日で実質最後だ。 あっという間だったなぁと思いつつ、今朝もまずい朝飯(卵料理、特にコーヒーがまずい!!)を食べ、最後の観光に出かける。 目的地は九龍にある宋城という宋朝(960~1275年)の村を再現したテーマパークで、 カンフーの演武や大道芸を見物らしい。地下鉄で最寄りの美孚駅まで行き、ブドウ売りのおじさんに道を尋ね、到着。 途中のアイスクリーム屋からはダイアー・ストレイツの「So Far Away」が流れていた♪    しかし、宋城は高い。昼飯付きで入園料177香港ドル(約3,540円)。やや腰が引けるも、せっかく来たので古典劇を楽しんだり、宋代の立派な建物内にあるレストランで、鶏の丸焼き、牛肉、焼き饅頭などの中華料理を食べたが、何故かまずい。。。というやや残念なテーマ・パーク。 そして、こちらは香港が中国へ返還された1997年頃に閉園になった模様。 その後、九龍の土産物屋とホテル近くのスーパーで土産の買い物。家族へ、友達へ、買い物手帳と睨めっこしながら、買い物嫌いの僕は素早く買い物した。 今でもそうだが、食品系のお土産は地元スーパーでの買い物が手ごろで面白い。この時も、烏龍、ジャスミンなど中国茶14箱、アルコール度数40℃ぐらいの中国蒸留酒、白酒やブドウ酒5本で日本円で260香港ドル(約5,200円)だった。 九龍からホテルへ戻るのに、スターフェリーへ乗った。 地元民の貴重な足でもあるこのフェリーは本当に使い勝手良く、値段も安く、海と風が気持ちいい交通手段だ。東京でもこういった水上交通が発展すれば単純に楽しいと思うが、まぁ、そういう発想は無いだろうな。 お土産購入ミッションも完了。 中環(Central)あたりをブラブラ。屋台のタコの串焼きが美味い!この日初めて美味い物を食った♪ そして和食が我慢できなかった模様で、柳葉という日本人板前のいる店で夕飯を食べた。刺身定食に焼きなす、美味かった!と日記にはある。 ホテルへ戻り、実家にコレクトコール。きっと「明日、帰るから」という電話を父か母にしたのだと思う。 テレビではピンクフロイドの「ザ・ウォール」をやっていた。 明日の朝も早いから早めに布団に入るも、この30日のことをあれこれ思い出していると眠るのももったいなく、おまけに腹も減ってきた。 時刻は午前2時、ホテルの部屋の窓からは、向こうに屋台が見えるので行ってみた。ラーメンがあるので締めの一杯にいただく。魚のミアラが入った塩味の淡白なスープのラーメン、最高の夜泣きソバ!! こうして最後の夜は更けていった。
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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香港海水浴
今でもそうだが、夏の海や川や湖へ行くと泳ぎたくなる。 水がキレイなら尚更だ。 水浴びが好きなカバみたいな性格だと思う♪ 青海湖は凄い透明感だったけれど、冷たくて泳げなかった。 でも、香港は没有問題(問題なし)! この日の出来事は当時の日記をそのまま書き写す。
9月3日(木) 29日目
うわ~~~~~泳げる!! 子供みたいに興奮してしまった。 フェリーに乗って目指すはランタオ島。途中、雷を伴ったスコール。海が雨にさらされ視界はゼロ。いい雰囲気。 でも降船し、バスに乗れば雨はやみ、雲の間からスカイ・ブルー!やったぁ~~~!! バスがどこで停まるか分からないので、適当に、林の向こうに海岸が見えたところで降りた。小径を降りて林を抜ければ大海原。 白い砂。 そして人の姿は延々たる砂浜の先、遠くに見えるだけ。思わず叫んでしまう。 砂浜を思い切り踏みしめ走り回る、キャッキャッ言いながら。
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Tシャツを脱ぎ捨て、海に飛び込む。あああああ、いい気持! 波打ち際に寝転べば眩しい南洋の太陽、ジリジリと肌を焦がす。何もせずボ~~~っっとする。 沖合を船がゆっくりと走る。波が高い。砂は透明に光る。かわいいヤドカリたち。貝殻は細長い渦巻き状。海底の名残はあるだろうかと、そっと耳元に寄せる。
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う~~~む、感激。 こんないいところで泳げるなんて! 「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンみたい。タラ~~~ラ~~~ラ~~というあの旋律が聴こえてくる。 ヘヘヘ、誰もいないから素っ裸で泳ぐ。 岩の上で渡辺美里のラジオ番組にリクエストカードを書く。 頭の中を Simple Mindsの「Someone somewhere in summertime」や  映画「いそしぎ」の テーマ曲「The Shadow Of Your Smile」が流れる。  
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4時過ぎ、この絶景たる海岸を離れ、フェリーで戻る。 甲板のイスに座り、潮風を受けながら、またボ~~~~~っっとする。 いい眺め。 いろんな考えが頭に持ち上がって来る。
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部屋に戻り冷水シャワーを浴び、夜の街へ。 屋台でイカ刺しのような麺にハンペンの入った料理を食べた。これが実にうまい。麺はシコシコしているし、ハンペンもサイコー。 古典劇も見事だった。艶やかな色彩を放ち、華麗に舞う。 いいなぁ、真夏の夜の夢。 部屋にあるテレビではミロス・フォアマンのファンキーなミュージカル映画「ヘアー」がやっていた。 心地よく寝落ち。
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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なぜか香港
旅慣れない若造ゆえの旅程だと今思う。 北京から西寧、また北京。 そして中国東北部から、また北京。 そして一気に香港。 なんか無駄なルートが多いような気がしないでもない♪ なんでこんな重複移動、遠距離移動のルートにしたのか? 最初の北京~西寧を、上海~西寧にしても良かったと思ったり。 最後の香港も、きっと香港にどうしても行きたかったんだろうな当時。。。 と思うようなルート設定だ♪ まぁ、記憶に無いけど、香港OUTが安かった?ということもあるかも。 まぁ、それも含めての若い頃の経験ですなぁ。
9月2日(水) 28日目
「香港は暑い。右も左もわからない。みんな日本人の顔してる。なんじゃこりゃ?」 香港の第一印象を日記にそう書いている。 コンパクトだけど大都会。 共産国ではなく西側自由国家。 僕の服装が光昭村で「香港人みたい」と言われたのも仕方ないことかもしれない。 朝、目覚めがいい♪ シャワーを浴びて街に出る。昨夜から泊まっているのは香港島にある華隆飯店という中の下レベルのホテルで1泊285香港ドル(約5,700円)。場所は対岸に九龍を臨む、 湾仔あたりだったと記憶している。 外は行き交う人の群れ、めまいを起こしそうだが「じきに慣れるだろう」と日記にある。「天気は不安定、今の自分の心境のようだ」とも書いてある。 日系の三和銀行(懐かしい)の支店で両替。違う国に来て通貨が変われば、その国の物価とも併せ、自分の金銭感覚を創りだすのはちょっと大変。対応してくれたお姉さんがニコニコしていて、気持ちが明るくなる。銀行から出ると外は晴れ(^^♪ ホットドッグとコーヒーを朝飯代わりに食べて腹ごしらえも、口に合わない。仕方ない、慣れの問題。 並木道を抜け、ビクトリア・ピークへ行くトラムの駅へ。トラムは27度のすごい勾配をロープで引き上げられ頂上着(下の写真)。
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香港を代表する風景。なるほど良い眺めだが、林立するビル街は当時の僕にはあまりピンと来なかった。 それよりも近くにあった林の小道のほうが興味深かった。人もいなく、驚くほど静か。植生も南洋な雰囲気で、日本とは随分違っているのが楽しく、適当な場所に座って友達に書いた絵葉書には、落ちていた実の汁を適当に絞ってアクセントにした。 誤ってアリの巣を踏みつけて壊すと、大きなアリが怒って僕の足を噛んだ。すまんすまん。 下山後、地下鉄で同じ香港島の銅鑼湾(Causeway Bay)駅へ。 香港の地下鉄駅はホームのタイルの色が全て駅ごとに異なり、そして一色に統一されている。クールな感じでもあり、この色で利用者は、どこ駅なのか?を認識できる仕組みらしく面白い。地下鉄車両もモダンなものだった。 駅からオーボンホー・ガーデンまで行こうとしたけれど、腹が痛くなり、トイレ探しに冷や汗をかいた。現地の言葉で「トイレ、どこですか?」は僕の旅において必須な旅の言葉。 結局、日系のデパート、そごうのトイレのお世話になった。ありがとう、そごう(^^♪ オーボンホー・ガーデン (下の写真、もしかしたら記憶違い)で、退屈な地獄絵図を眺め、今度は香港名物のトラムにも乗った。
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そして、香港島と九龍を頻繁に行き来するスター・フェリーに乗船。 これはいい!!わずか7~8分のクルージングだけれど、潮風を受けて高層ビルが林立する対岸を目指す船移動は気分いい(^^♪ このスター・フェリーのことは、後年読んだ、沢木耕太郎の名著「深夜特急」にも以下のように書かれている。 「六十セントの豪華な航海。私は僅か7、8分に過ぎないこの乗船を勝手にそう名付けては、楽しんでいた」    九龍ではフェリー・ターミナルの目の前にある香港太空館というドーム型の宇宙科学館で、巨大なプラネタリウムを楽しんだ。外は蒸し暑く、中は冷房で快適。DREAM IS ALIVEというプログラム名で上映された映像には、美しい地球の朝焼けが巨大スクリーンに投影され感動的、そしてなぜかその瞬間、香港は自分にとって居心地のいい場所になった。 その後、九龍公園を散策。 夕飯は、星(すばる)という名の和食屋。この旅で初めての日本食屋で僕は牛丼を食べた。「味はイマイチだったけれど、サッポロビールにタクアン、味噌汁サイコー」と書いてある。店内には日本の新聞もあり、インターネットなど無かった当時、まっさきにスポーツ欄を開き、我が愛する近鉄バファローズが最下位であることに凹んだ♪ ちなみ1987年のパリーグの結果はこちらで、優勝はぶっちぎりで西武、2位は阪急だった。
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↑九龍公園 星(すばる)を出て、夜の九龍をブラブラと歩き、星(スター)・フェリーで香港島へ戻る。 灯りのともった高層ビル群を眺めながら潮風に吹かれる。何とも心地よい。 井上陽水の「なぜか上海」の歌詞を変えて歌いながら、僕は船に揺られた。 「海の向こうは 香港~」
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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パンダ パンダ
本場で本物を見た。 本当は四川省の山奥やチベットで野生を見るのがいいけれど。
9月1日(火) 27日目
今日で中国ともお別れ。 寂しい。。。 早起きして、市内某所を目指す。 早朝の市内はオペラの旋律のように荘厳で躍動的(下の写真)。
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やって来たのは動物園。 ヤマアラシ、コアラ、ぶさいくなビーバー、ライオン、チーター、カバにサイ、ニホンカモシカもいて楽しい♪時間が無いので駆け足で園内を巡る。
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そしてお目当てがいたいた。 2匹のパンダ(^^♪ 上野動物園のとは違って、小さいせいかミーミーと甘い声を出して終始じゃれ合っている。これはカワイイ。。。
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ちなみにパンダは中国語で熊猫と書く。 急いでホテルに戻り、荷造りして慌ただしく北京空港を目指す。 夏空が眩しい空港までの真っすぐな道。12時、到着した空港では驚いたことにトウダイセイのガールフレンドと肖銘がいた!思わず叫んでしまった♪ 中国と別れる最後の最後でお世話になった2人に会えたことに感激した。 そしてもう一つの偶然の出会いがあった。 搭乗カウンターでチェックインし、手荷物検査、出国審査を終えて香港行きフライトの搭乗口まで進む長い「動く歩道」を歩いていると、反対側の「動く歩道」を大学の同級生、長谷川さんがやって来るではないか・・・??お互いビックリするも、双方立ち止まる訳にはいかず、 「今から香港です」 「こっちはチューリッヒから到着」 と言葉を交わし 「東京で!!」 と言って笑顔で手を振り合った。 長谷川さんは中国文学科の同級生ではあるけど、北京に1~2年留学していたので、年齢も上、父親が大手報道機関勤務の関係で子供の頃から海外生活の長い 人だった。知識も経験も豊富で、いつも静かに微笑みをたたえ、中国製の手巻きタバコを吸うコスモポリタンで、田舎育ちの僕には大きな存在だった。 今回の僕の中国旅でも、いろいろアドバイスをくれた長谷川さんと、まさか北京空港で会えるとは驚きだった。 その長谷川さんは卒業後、産経新聞に記者として職を得、毛沢東に関する書籍で菊池寛賞受賞や台北支局長歴任など、輝かしい足跡を残している。今頃、どうしているんだろうとネットで検索したらフリーランスのジャーナリストとして活躍していることがすぐに分かった。凄い世の中だぁ(そんな長谷川さんのことを思い出してこれを書いていた2020年7月30日、台湾民主化の父、李登輝が逝去。。。心より合掌)。
そんな驚きの再会2連発を経て、午後1時過ぎのCA109便で僕は中国を旅立った。 お世話になった皆さん有難う!! たくさんのいい思い出を有難う!! 再見!!
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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北京、3度目
これを書いている2020年7月、中国というより、中国共産党は大国としての覇権主義を全面的に打ち出していて、残念ながら世界の頭痛のタネとなっている。 昔はともかく、中国は近代においても文化大革命のように「権力闘争」が命題で、党トップの習近平も自分の地位を脅かすものはいかなるものも打倒するという姿勢だ。 中国が経済的に力を持っていなかったこの80年代、闘争は比較的国内で済んでいたのだろうけれど、経済大国となった今ではアメリカと敵対、香港の一国二制度を形骸化、チベット・ウイグルへの弾圧、南洋への進出と、我が物顔だ。 「金持ち、喧嘩せず」は中国共産党には当てはまらない。 彼らは自分を守るため、手に入るものは貪欲に手に入れようとする、暴力を使ってでも。 この国も命運=中国共産党の命運は果たしてどう進むのか。。。 予測はつかない。 ただ、僕が旅した80年代のような時代に戻ることはないだろう。
8月31日(月) 26日目
明け方、寒気がして目が覚めた。服を着こむが悪寒が走る。ベッドの上で毛布にくるまるも震えが止まらない。そしていきなり吐いた。 旅先でこういう朝を迎えるのはツライ。 まぁ、それでも吐いたら楽になったのは救いだった。 窓の外は朝日。いい天気で長春の街が輝いている(下の写真)。
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音楽を聞きながら荷造り。ホテルの小姐が持ってきた、顧客満足度アンケートは、不満はまるで無いので全ての項目100点で、落書きも描いたら、それが小姐に受け、潤んだ瞳で「また来てね」と言われた(潤んだ・・・は嘘(^^♪)。 ホテル内の売店で松茸の瓶詰が4元(180円)で売られていたので、日本へのお土産として買おうと思ったら、理由は不明だが25元(1,125円)だと言われたのでやめた。外国人だからぼったくろうとしたのか?? ホテルから空港までタクシーを使った。昨日は30元で来れたわけだから、今日も30元と思いきや、運ちゃんは38元だと凄んできて譲らない。こちらも乏しい中国語をフル稼働させたけど、当時は交渉ベタでもあったので、35元(1,575円)がせいぜいだった。 空港では、もはや定番の麻婆豆腐とチンジャオロースをレストランで食べた。滑走路の向こうに夏の青い空が広がっている。 長春から北京へは約1時間半のフライト。ずっと青空が続いて良い気分。隣席のオバサン人民は、身なりも雰囲気も知的な感じで、優しく親しげに話してきた。職業がカメ��マンであることは覚えているが、あとは何を話したのかはさっぱり覚えていない。ただ、楽しかったのは覚えている。 そして3度目の北京。 空港では日本から到着した際にいたインフォメーション・カウンターの小姐もいれば、街中へのリムジンバスの切符売り場にいた小姐もいて、もう懐かしい心持ち。そして明日の香港行きの航空券を701元(約31,545円)で購入。高い。。。でも、もうこの旅もそろそろ終わり、旅費も目途がついたので大丈夫。 リムジンバスで市内へ。相変わらず日差しが強い。 目指すは和平飯店というホテル。しかし、ザックを背負って探し当てると工事中で営業していなかった。今回は楊さん宅への訪問は考えていなかった。さすがに4週間弱で3度も突撃するのは厚かましい♪ 道端で輪タクに声かけ、西苑飯店という、この旅で一番高額なホテルへ向かった。ただし、このホテルの外観はどう見ても旧・赤坂プリンスホテルのパクリだ(下の写真)。輪タクの運ちゃんは結構なおじいちゃん。炎天下、汗だくになりながら走ってくれた。お礼に、初めてチップもはずみ30元(約1,350円)を渡すと、運ちゃんは僕に敬礼した。 そして1泊275元(約12,375円)の大奮発は中国最後の夜だから。
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最後の晩餐はホテルの展望台にあるレストランで中華料理にビール。生まれて初めてピータンを食べた。今は好きだが、初体験はイマイチな味だった。 しかし、テーブルから眺める北京の夜景は素晴らしく、この20数日の旅を思い出したり、日本にいる友達に向かって独り語りをしながら、濃密な時間が過ぎていった。 ありがとう、中国。。。
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↑ホテル自室の三面鏡で 鏡だらけの部屋は、小学生の頃に見たこの資生堂のCMを思い出す
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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心の旅
自分の人生にとって旅と同じぐらいに大切なものの一つが音楽だ。 Tower Recordではないけれど、No Music No Life 音楽は、そのメロディや歌詞が自分の琴線に触れることは勿論、タイムマシーンのように、自分をその時代へ引き戻してくれたり、どこでもドアのように、その場所へ瞬時に連れて行ってくれる。 この日の日記には、チューリップの名曲「心の旅」を口ずさんでいたと書かれている。 いかにも青春ど真ん中の青年に似合う歌ではないか。。。 当時、彼女もいなかった自分でもあるが・爆
8月30日(日) 25日目
ここ数日、いくつもの別れ。 今朝は姜さんとその家族との別れ。朝、目を覚ましても歯は痛い。昨夜の夕飯の残りを皆で一緒に食べる。とても美味いけれど、歯の痛みで食は進まない。 「日本人にはまずいだろう」 と姜さんのお父さんに日本語で言われるとつらいが、どうしようもない。 荷物をまとめて家を出る。表の通りで奥さん、娘のオギちゃん、お父さんと固く握手、お礼を言って、姜さんと空港へ行く路線バスに乗り込む。 バスの混雑は激しく、エビぞりの態勢で踏ん張る。 「この街ともお別れ、すげえお世話になった姜さんともいよいよお別れ、でもまた会えるよね!本当に有難う!!」と日記に書いてある。 残念ながら、その後、姜さんに会う機会は無く、今からも無いだろう。。。 空港は辺鄙なところにあり、掘っ立て小屋のような建物だった(下の写真)。
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軍用機が多く、驚いたことに辺境の地にもかかわらず他にも日本人搭乗客がいた。聞こえてくる会話の内容から大学の関係者で、延吉近辺に何かの調査に来たような印象だった。 長春行きの飛行機はプロペラ機(下の写真)。乗り込み座席に着くものの、搭乗客1名が遅刻しており、出発は遅れるとのことで、全員機外に出され、ブラブラしたり、座り込んだり。やがて遅刻客が慌ててやってくると、人民皆さんは拍手でもって熱烈歓迎。
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いざ、出発、Take Off! 搭乗客の人民は飛行機利用の経験が少ないのか、離陸時も着陸時もエイヨー、エイヨーを連発して大騒ぎ。賑やかなフライトだった。
長春空港からはタクシーで長白山賓館へ向かった。料金は30元(約1,350円)、こちらが外国人と分かって兌換券で払えと言う運ちゃんに対し、人民元で払う。ようやく、こういう交渉も自分有利に進めることができるようになった。長白山賓館では奮発して72元(約3,240円)のフロ付きの部屋にチェック・インした。久々に熱い風呂に入り、手足を伸ばした。歯の痛みも患部を歯ブラシでしごくように磨くと出血し、それを境に痛みがだいぶ緩和された。 これで随分、気分良くなり、街の散策へと繰り出した。まずは市内中心にある南湖公園(下の写真)。
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北の街らしく、白樺の林が美しい(下の写真)
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そして何といっても旧満州国の首都、新京と名乗ったこの街の見どころは、当時のいわゆる日本建築物だ。
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↑ 旧満州国八大部遺跡   満州国軍の最高司令部があった建物 
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↑こちらも旧満州国八大部遺跡
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↑満州国の宮殿となる予定だった建造物 現・長春地質宮博物館  この建物へまっすぐ伸びる道を歩いているときには、まるで磁力に吸い寄せられるように、僕はずんずんと歩いて行った。
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↑偽満州国務院 
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↑曲線の美しい街中の建物 これも旧満州時代のものかな?
黄昏時に賑やかで活気のある街中の商店街を冷やかし歩く(下の写真)。 ドラえもんの粗悪なカラー印刷製本の中国語版が売っていた。感激して5元(約218円)で買い求める。タイトルは「電機猫」だったか?もちろん海賊版で藤子不二雄や小学館の利益にはならないが、こちらの中国語の勉強にはなった。  
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道端で炭火で魚の干物を焼いている露店があった。いいニオイに釣られて買って食べた。歯の痛みも治まったので美味い!そして店のオバサンも中国にしては珍しくニコニコ笑顔で商売しており(下の写真)、こちらもつられてニコニコと。
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↑こちらは風船おじさん
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↑黄昏時の帰宅道
ホテルへは、これまた奮発して初めて輪タクを使った。20元(約900円)。運ちゃんも親切な人で良い思い出。長白山賓館に到着した時に写真を撮らせてもらった(下の写真)。
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夕飯はホテルのレストランで。日記には「可愛い子がいた♪長春よいとこ」と書いてある。 その後、ホテル内の酒吧(バー)で独り、ビールを飲みながら70年代のフォークソングを口ずさんだことが書かれている。その一つが「心の旅」だろうが、きっと「岬めぐり」や「わかって下さい」「なごり雪」「22才の別れ」なども口ずさんだに違いない♪  あ、NHK教育テレビ中国語講座で覚えた「大海啊故郷」も、かな(^^♪
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↑長白山賓館の部屋からの眺め
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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縁は異なもの味なもの 旅の面白さは、やっぱり旅先で出会う人々、出会う風景。 それも全て縁と言えるだろう。
8月29日(土) 24日目
歯の痛みでほとんど眠れなかった。 7元の安宿のドミトリーは快適ではなく、虫の多い部屋にも閉口した。 鏡に映る自分の顔は左の頬がおたふく風邪のように腫れていた。 窓の外は久しぶりに朝日が輝き、いい眺めであることに少し気分は和らぐ(下の写真)。
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同部屋だった共産党幹部を名乗る2人のおじさんたちに中国語で別れを告げ、姜さんの事務所へ行き、荷物を置かせてもらった。今日も街中は朝の通勤ラッシュだった(下の写真)。
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その足で中国民航(CAAC)へ行き、延吉→長春(96元、約4,320円)、長春→北京(196.7元、約8,852円)の航空券を購入した。 どういう経緯か全く記憶に無いが、出発は明日、で、今日は姜さん宅に泊まらせてもらう、という予定。その姜さんは左側が腫れた僕の顔を見て驚いていた。 姜さんの家へ向かう途中、彼は僕に「自分の家があるところはとても臭くて、家の中も汚い」と自虐した。でも、そう言う人に限って、の通り、とても素敵なところで、いい感じであった。 この時、僕は歯痛で熱もあり、寝不足でもあったので、家に着くと昼前から寝込んでしまった。目が覚めると昼飯が用意されており、豆腐やトマトと食べやすいものにビールまでついた。しかし痛みはひどく、日記には「狂わんばかりに、歯、耳、頭に激痛が走り、笑顔も失せ、また寝込む」と書いてある。 3時頃、姜さんの奥さん、娘さん、そして日本留学経験のあるお父さんが帰宅したので起きる。痛みをこらえて3人に挨拶、お父さんとは日本語で言葉を交わす。 その後、夕飯まで姜さんが僕を近所の散歩に連れ出した。もうこちらは痛みに耐えるのみであったが、散歩中に姜さんが言った「日本人はいいなぁ。行きたい国に自由に行けて。中国人にその自由は無い」という言葉は印象に残っている。 家に帰ると奥さんの手料理でもてなしてもらった。 痛みで顔を歪めているのは失礼と思い、「もう痛くない、もう痛くない」と自分に暗示をかけると、あら不思議、痛みが和らいだ!! そして料理はうまく、持参したブドウ酒(10元、約450円)も喜ばれ、話も弾み、和やかな夕餉となった。 姜さんが日本語でしみじみと 「私たちは縁があって会うことができたんですね」 と言った。 ありがたや、ありがたや~~。
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↑右から:姜さん お父さん 娘のオギちゃん 奥さん
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↑歯痛で顔の腫れた自分
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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激辛冷麺
当時、大学生として世田谷のアパートで独り暮らしをしてい���僕は 常に腹ペコだった。 食べ盛りではあるが、カネは無く、いつも空腹だった。 特に親からの仕送り前は、1日の食費が100円なんてこともあり、そんなときには近所の八百屋で100g40円のもやしを味噌でいため、一丁20円ぐらいのセブンイレブンの豆腐で凌ぐことも数知れず。 今では自分でも信じられないが、好きなビールもひと月に1回、2回飲めれば良いほうだった。 体重も50キロ台後半。今より20キロ少ない♪ なので、当時はメシを奢ってくれる人は救世主であり、そこにビールなど付けてくれる人は神であり、後光が差していた♪ そんな貧乏学生が朝から晩まで満腹でもあり、酒が飲めるなど、この世の天国だった。ありがたやありがたや。 それでも、そういうことは長続きしないことも世の理か♪
8月28日(金) 23日目
「今日のバスがある!」という声でこの朝は起こされた。 昨日の村内放送では、今日は豪雨の予報で延吉行きのバスは運休だろうと言われていたが、事情が変わったようだ。 急いで荷造り。そして朝からまたスゴイご馳走。。。 そしてお母さんに別れを告げる。 光昭村に別れを告げる。 善子ちゃんとお父さんが延吉まで同行してくれる。 バス停は見晴らしのいいところにあった。 霧雨の中、風景が霞んで見えた。 「あの山は北朝鮮の山」 と善子ちゃんが教えてくれる。1kmちょっとわずかの距離。 昨夜、善子ちゃんの家で観た北朝鮮のテレビドラマが思い出された。モノクロで殺し屋のような男が夜の袋小路を徘徊するシュールな映像だった。 バスは意外にも空いていた。車窓からの眺めは一年前の夏休みに訪れた北海道のような風景。 「花がみんなキレイに咲きましたね」 「あれはヒマワリ、あれはタバコの葉」 と善子ちゃんが一生懸命、日本語で話しかけてくる。雨だけれど、どれも見事な風景だった。 一昨日はトラブル続きの往路も、平常運行の復路は2時間で延吉に到着。 3人でまずは姜さんの事務所へお邪魔したが本人は不在。王さんが対応してくれた。取りあえず今夜の宿を探そう、ってことで4人で宿探し。 前にも書いたけど、延吉は外国人ツーリストが訪問可能な開放都市になって間もない、それが理由らしく4軒ものホテルを断られた。理由は「外国人向けの衛生管理が整っていない」と。 ようやく5軒目の「物質旅店」という妙な名前の安ホテルのドミトリーで交渉がまとまった。1泊7元(約315円)。そして、お父さんが宿泊費用を払うと言って譲らなかった。。。 部屋に荷物を置いて一休み。 その後、王さんは事務所へ戻り。3人で市内の人民公園へ。そして再びの撮影大会~~
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↑手にする犬のぬいぐるみはお土産として渡された
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↑飛んでみたい 昼飯は冷麺を食べた。 もしかすると人生初めての冷麺だったかもしれない。日記には「麺がまたまた変わってる。何よりえらく辛い!お父さんが普通のスープを持ってきてくれ、それで薄めて何とか食べる」と書かれている。 そして、この頃より歯茎が疼きだす。。。昨日の食事で骨付きの肉料理の骨を誤って噛んでしまい、旅の疲れもあるのだろう、歯痛が始まった。 3人で宿に戻ると、姜さんが訪ねてきてくれた。 光昭村での濃密な時間について話したり、善子ちゃん親子が受け取れと言って譲らないお土産について相談したり。姜さんは「お土産はもらうべきだ」と言うこともあり、上の写真にもある犬のぬいぐるみ(名前は善子)、書を嗜む父親へ筆、母へは8mもある、朝鮮族的な絵柄の生地を有難くいただいた。この生地は母が掛け布団用に縫ってくれ、今でも僕の実家で布団として使われている。 そして善子ちゃん、お父さんとの別れの時。。。 お礼を言って、2人と固い握手を交わす。その刹那、僕のウエストバッグに10元札を2人攻撃でねじ込んでくる~もう、無抵抗(^^♪。 ニコニコとした顔で善子ちゃんが「去吧(行って)!」と言って体を押す。2人は満面の笑顔。3度振り返り僕は手を振る。 善子ちゃん、お父さん、お母さん、村の皆さん、たくさんの親切と思い出をありがとう!! しかし、そしてこの夜から激しい歯痛に襲われることになる。。。
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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戦後初めてやって来た日本人
外国に行って自分の国を知る、学ぶ、ということも良くある話。 この日はそういう一日だった。 教科書では学べない歴史を生き証人たちとともに学んだ。 歴史とは人間の営みの足跡だと思う。 多くは時の権力者、指導者に導かれ、翻弄されて作られた時間。 でも後世の人間が知るのは、ほとんどが大きな歴史的出来事や表面的なもの、一部でしかないように思う。 僕が魅力を感じる歴史とは、英雄や豪傑の話ではなく、その時代を生きた市井の名も無き人たちの悲喜こもごもとした日常の営みだ。 ここ光昭村では、短い滞在だったけれど旧満州国時代のそんな歴史の一部に触れることができた。
8月27日(木) 22日目
「もう7時よ!哥哥(お兄さん)、起きなさい!」 妹妹(妹)の善子ちゃんの声で叩き起こされた。 朴さん一家の朝は早い。みんな5時頃から起きている。 外は曇り空。 そして朝からスゴイご馳走。ビールまで出てくる。。。 昨夜も上にも下にも置かない歓迎ぶりで、たらふくご馳走をいただいた。 善子ちゃんは僕より二つ下の18歳。茶目っ気があり、一生懸命、日本語で話しかけてくる。ちょっと化粧が白すぎるのが気になるが、いい子で良かった♪ お父さんも村の書記長(村長)=共産党幹部、とは思えないような面白い人、お母さんも迫力のある肝っ玉母さん的な人で、仲の良い家族だった。朴という姓から分かるように、一家も朝鮮族の中国人だ。 中国旅ではほとんど朝飯抜きで過ご��てきた僕に、朝からご馳走、ビールは大変ありがたいが、満腹になっても「もっと食べて、もっと食べて」と何度も言うのは勘弁してほしい。 食後は居間にあるちゃぶ台で日記を書いたり、絵葉書を書いたり。善子ちゃんが興味深そうに覗きこんで、 哥哥 は何を書いているのか?と尋ねてくる。居間には直に座っているが、オンドルで床が温められケツがほんわかする。 オンドルとは朝鮮族の住居にある床下暖房。朴家では煮炊き用の大きな釜があり、そこから排出する熱や煙を床下を這わせて外へ放出している。合理的ないい機能だと思う。
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↑ちゃぶ台
我が村を案内しよう、ということでお父さん、善子ちゃんに連れられ、何故か幼稚園へと出かけた(下の写真)。
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幼稚園の教室に入ると、可愛い園児たちが、みんな立ち上がって挨拶をしてくれた。ヒデキ感激(下の写真)
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そして始まった記念撮影大会。 昔も今も、我々アジア人は記念撮影が好きだが、朴さん一家も大好きだった。
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↑そして何故かいつも右前方を見つめる そういう文化らしい 背景は長白山?
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↑幼稚園内の遊具 戦闘機で愛国心を育むのか??
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↑善子ちゃん 謎のポーズ連発  僕の靴は2年前にNZで買った学生靴
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↑作り物ではなく本物の牛
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↑飛ばすぜイエ~~~イ
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↑お父さんもノリノリ
家に戻り、一休み。 善子ちゃん��日本語教科書を見せてもらった。 「我が共産党は、日々、人民のために奉仕しています。」 「ソビエト連邦は、思想的に同志であっても、時折、敵になることもある」 という日本語が例文として載っていて驚いた。。。中国のようなイデオロギー国家では、あらゆる場面で思想教育が行われていることを感じた。
それとは別に朴家の人々は僕に親切だった。 お父さんは唯一覚えている日本語「今日は暑いな、きついな」という言葉を連発しては笑っていた。この日本語は満州時代の幼少だったころ、近くに住んでいた日本人が夏場に良く言っていたもので、今でも記憶に残っているということだった。そんなお父さんは僕の顔をニコニコみながら、僕の頭を何度も撫でるので困った♪ お母さんも常に笑みを浮かべていて、こちらが下痢していると伝えると、物凄い力で僕の頭を抱え込み、その手で額の熱を計った。 昼飯は、近所に住みお父さんの実兄宅でご馳走になった。 お兄さんは医師でもあり、満州時代に日本語教育を受けているため、流暢な日本語を話した。体格の良い、穏やかな表情の男性で、僕は植民地化で日本語教育を受けた外国人の日本語に、この時初めて触れた。それは少し古風ではあるけれども、日本人が喋る日本語と変わりなく、とても驚かされた。 その朴医師と幾つか言葉を交わすと、流暢な日本語で「君の服装は香港人のようだね」と言った。ジーンズにTシャツ、羽織っていたのは西寧で買ったカーディガンだが、ジーンズにTシャツが「香港的」に見えたらしい。それはいわゆる西側諸国では、普通の若者のファッションでもあるわけだけれど、当時の中国では、そういった日本を含む外国情報は少なかったのだと思う。 ここでもスゴイご馳走だった。朝鮮族の食事方法は床に腰を下ろし、食卓に並ぶ大皿から料理を取って食べる。そして最後に白飯で〆る、という流儀のようだった。
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↑朴医師宅での昼飯にご招待 僕の右側が朴医師
ここでもビールが出るし、ブドウ酒も出てきてと、家族総出で歓迎してくれた。 「戦争が終わって、日本人が引き上げて、そのあとこの村へやって来た日本人は君が初めてだよ」 と言われたのにも驚いた。 当時、この村に住んでいた細川という日本人にはとてもお世話になった。君は細川さんを知りませんか?と聞かれ、もちろん知らないので困った。 「一度、日本へ行ってみたい。日本へ行くのが念願です」 としきりに繰り返し、 「日本に行くには日本に住んでいる保証人が必要なんだけれど、君、保証人になってくれないですか?」 と言われ、世の中のことを全然知らない、そして、人に頼まれたら嫌とは言えない当時の性格の僕は二つ返事でいいですよ、と答えた。帰国後、父親にその話をすると叱られた。「保証人ってのは法的に責任取らされるんだから、そんなもん簡単に引き受けるな!」ってことだった。そりゃそうだ。 以下、朴医師宅での写真
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↑ビデオデッキがある
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↑一緒にいる子は善子ちゃんの従姉か? 記憶に無い
再び家に戻り、一休み 今度は歌合戦が始まる♪善子ちゃんは歌が上手い。高いキーをキレイな歌声で軽やかに歌う。楽しいお父さんも、これまた歌がうまく、電子キーボードを引っ張り出し、軽やかに歌うのには驚いた。何だかクレイジー・キャッツのようだ。おまけに僕の両親宛にと言ってカセットテープに伴奏つきで歌を吹き込んでくれた。ヘイララララララ~~ヘイララララ~~~という歌声が、30数年経った今でも耳の奥に残っている。 「四季の歌、 哥哥 、わかりますか?」 と善子ちゃんが尋ねるので、デュエットすると、お父さんが最高、最高!!と囃し立て、今夜の歓迎会でも歌いなさい(^^♪という話になった。 歓迎会というのは、戦後初めてこの村にやってきた日本人青年男子のため、村人有志が村の人民政府集会所で熱烈開催するものだ。何だか凄いことになってきたぞ、と日頃、スポットライトが当たるのが苦手な僕は狼狽したものの、断る理由も無いので流れるままに身を任せた。
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↑親切で楽しい朴さん一家 何故かカメラ目線にしない♪
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↑この青年が誰なのか全く記憶に無い 兄さん? 彼だけはいつもカメラ目線♪
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↑すごい構図の写真 足元の2つの釜がオンドルへ熱を供給 右は玄関
そして夜がやってきて、日本人青年男子の歓迎会が村の人民政府集会所でにぎにぎしく開催された。 40人ぐらいの村人が集まってくれたのには驚いた。女性たちが手料理を持ち寄り、男性たちは酒など抱えてやって来る。 「え?日本人どこにいるの?いないじゃないの!?」 「何言ってるの、ここにいる彼がそうよ!」 「え?その子、朝鮮族の顔よ!!」 「そうね、確かに!!」 と言って、早速、爆笑渦巻き、和やかな雰囲気で歓迎会は始まった。
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↑日本人?朝鮮人? ちなみに服部という姓は大陸からの渡来人の姓
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↑ここでもスゴイご馳走(^^♪
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↑左は朴医師 記憶に無いあの青年は、どの写真もキャラ立ちしている♪
料理も酒も美味く、ほんと感激的な光昭村の夜だった。 弾んだ会話も今となってはほとんど記憶に残っていないが、鮮明に覚えているのは村の学校で校長をしている日本語世代の男性との会話だ。校長は終始、探るような上目遣いで僕の顔を見ていた。会話のきっかけは、この村での白飯が、北京や他の中国の街の物と違い、日本のように艶やかで美味い!という僕の発言だった。 「そんなの当たり前だ!俺たちは昔はお前たちの天皇のために米を作っていたんだ!」 「ああ、そうなんですね。。。」 少し怒気を含んだような突然の物言いと表情に僕は少しうろたえ、中国旅出発前に父に言われた言葉を思い出した。それは、日本と中国は昔、戦争で戦った悲惨な歴史があり、犠牲を受けて、今でもそのことを忘れていない人たちがいるだろうから、気を付けろ、というものだった。 校長は立て続けに、 「日本人は今でも、食事の時に、いただきます、を言うのか!?」 「はい、言いますよ。。。」
校長は僕の答えに心底驚いた顔で目を吊り上げ、
「そ、それは誰に対して言うんだ、天照大神(アマテラスオオミカミ)か天皇か!!??」 と震えるような声で言った。 「ええと、神様とか天皇に対してとかじゃなくて、食事そのものや、その恵みや作ってくれたお百姓さんにだと思いますよ、人それぞれ違うかもしれないですけど」 校長はしばらく驚いた表情で僕の顔を見つめていた。 流暢だけど棘のある日本語でこんなことを尋ねられた僕もいろいろと考えさせられた。この村では日本に関わるそんな歴史があって、今でもこんなことを思っている人がいる、という事実は深く印象に残った。 食事が終わると宴会のハジマリハジマリ。 朝鮮族の皆さんは歌や踊りが大好きなようだ♪ もう主賓は「食え、食え」と言われたあとは「歌え、歌え」となる。歌うのは嫌いじゃないんで歌わせてもらう♪
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↑オバサンたちに囲まれてリサイタル(^^♪
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↑「日本で今一番の流行歌を!」と言われ「科学忍者隊ガッチャマン」を子門真人ばりの声で熱唱。ややドン引きされた・爆
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↑善子ちゃんたちの軽やかな朝鮮民謡と踊り(^^♪ いい絵だ そしてこの盛大な熱烈歓迎会を〆てくれたのは、もちろん、善子ちゃんのお父さん。 朝鮮民謡を歌って踊るお父さんは、まるで植木等が光臨してスーダラ節を歌っているかのような雰囲気で場内は爆笑。腰をクネクネ、ケツをフリフリ。村長である書記長としての仕事がまるで想像できないが、こんな共産党のトップであれば村人も楽しくシアワセだろうと思う。 そして笑いすぎて涙がこぼれた僕におじさんは力を込めて言った。 「中国へ来て、今夜が一番楽しいだろう??」 はい、異議なし、書記長同志!! 忘れられぬ一日となった。ホントにありがとうございます~。
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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朴善子に会いに行く
中華人民共和国 吉林省  延辺朝鮮族自治州 龍井県 光開郷 光昭村  長い住所。。。 この村にペンフレンド、朴善子ちゃんは家族と共に住んでいる。 今回の中国旅で、初めて観光地ではない土地へ行く。 観光地でも無い村はアクセスは悪い。 しかも中国の辺境の地。 よく行けたもんだと思う。 そして光昭村は北朝鮮国境から僅か1.5km。   北朝鮮による拉致被害者の横田めぐみさんが拉致されたのは1977年。 僕がこの村を訪れた時には既に拉致されて10年。。。 そして30数年が過ぎた今も、故国に帰れないでいる。 理不尽極まりない。 そんな中朝国境の村。 今はどうなってるんだろ。 善子ちゃんにその家族、お世話になった村の人々はどうしてるんだろ。 この村にも脱北者も来て緊迫したのだろうか。 今は知る由もない。
8月26日(水) 21日目
明け方目が覚めて自分がどこにいるのか数秒分からなかった。 そりゃそうだ、酔っぱらって、人様の会社事務所のソファで寝てたんだから。 自分が姜さんの会社事務所に泊めてもらったことを思い出すのに5秒はかかった。昨夜は飲み過ぎた。ビール、ビールだったからトイレも近い。そのトイレは建物の外にある。 遠くの空は白みかけていたが、外はまだ暗く、雨でぬかるみ、水たまりのある敷地を歩くのには注意が必要だった。トイレにたどり着くと、小だけでなく、大も催してきたので、個室に入った。驚いたことに、ここのトイレには壁もドアもある!そっかぁ、漢民族と朝鮮族ではトイレ文化が違うのかも、とうれしくなった。 でも電気のスイッチがどこか分からず、そろそろと注意深く足を運び、ぼっちゃん便所に落ちないよう、細心の注意を払ってしゃがみこんだ。ここまでは順調。何と言ってもこんな異国で便所に落ちてXXまみれとなったら、国の恥でもあり���故郷にいる父上・母上にも申し訳が立たない・爆 しかし、ここは中国の便所。そう簡単に生きて返してはくれなかった。。。 しゃがみこんで用足しをしている間に目が暗さに慣れてきて、周囲がいろいろ見えてきてしまった。世の中には見えないほうが幸せだった、ということがあるのだと、20歳の僕はこの便所で学ばされた。 何だと思う?何が見えたと思う?? え? 壁が動いているように見えた。。。 足元の床も動いているように見えた。 幻覚か? いや、確かに動いてる。 を、を、を、、、、何だこりゃ。。。。何だこりゃ~~~~!!! うわ~~~~~~~~~~~~~~~ 壁一面!! 床一面!! う・じ・む・し~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!! 恐怖、恐怖、恐怖(^^♪  目の前も足元もウジ虫の大群。 彼らは糞尿を好んで食べていたのだ。。。 それとは関係なく、姜さんは自転車に乗って、事務所へ爽やかに出勤してきた。 同僚の王さんも一緒だった。 早速、善子ちゃんの住む光昭村行きのバスが発車するターミナルへ連れて行ってくれた。
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↑大変お世話になった姜さん 瞬き少ない(^^♪ 後光が差している
バスターミナルまで路線バスで向かったが、朝のラッシュ時の道路は、凄い数の人民とチャリ。人の波、チャリの洪水。 ターミナルでバス切符を買ってもらっている間に、再び便意を催した僕はトイレへ。ここは何故か中国式でドアは無く、人がしゃがむと隠れる高さの仕切り壁がある程度だった。 今まさに用を足しているその刹那、 「バスが来たよ」 と姜さんが僕に声をかけてきた。 こちらはしゃがんだ態勢。 左斜め45度を見上げると、1m先に瞬きせずにこちらの顔を見つめる姜さんの顔(^^♪ 中国に来て3週間、いまだに慣れないのは当然だよね。。。 姜さんにお礼と別れを告げてバスに乗り込む。 ほんとに良い人に出会えて良かった。また会えるといいなぁ、などと思っていたら、��たすぐに姜さんに会わなきゃいけない事態勃発。。。 バスが1時間近く走ると、来た道を戻りだした。車内の乗客が騒ぎ出す。後方を振り返ると、道路の向こうが浸水している。どうやら昨日の雨は相当な雨量で川が氾濫したらしい。。。車内では運転手と乗客の激しい言い争い。気が付けば至る所で道路が水で分断されていた。 結局、バスは出発した元のターミナルまで戻り、頼るべきは姜さんしかいない僕は、彼の事務所を再び尋ねた。 エイヨ~~~と姜さんの一声。事情を説明するとすぐに善子ちゃんの家に電話してくれ、龍井経由という乗り換えが必要な違うルートで行けるということが分かった。その間にも姜さんは延吉から長春へ戻る航空券手配や両替なども手伝ってくれ、その分、参加する会議を休ませてしまった。申し訳ない。。。 12時過ぎ、姜さんの事務所近くのバス停から龍井行きのバスに乗った。バスは既に混んでおり、心配した姜さんが、同じバス停から乗った男性乗客に僕の事情を説明し、何かあったら助けてやってください、とお願いまでしてくれた。 僕が乙女であったら惚れてしまいそうなぐらい、姜さんは果てしなく親切だった。 龍井へ到着すると、洪水での運行ダイヤの乱れか、バスターミナルは混雑していた。さっきの姜さんが声をかけた同乗者は、40前後の物静かな男性で、薄い茶色のサングラスをかけ、雰囲気のある人だった。 この人に手招きされ、後をついて、次のバスの切符を買った。そして乗車する客の列に並ぶのかと思ったら、「ついて来い」とまた手招きをして、ターミナルの裏側に回り込み、人気のないエリアから発車を待つ数台のバスを確認し、そのうちの一台に乗り込んだ。そして後部座席の一番後ろの席に着くと、身を隠すように身振りで指示してきた。何だか気分は密使を受けた工作員のようだった。 驚いたことに5分もしないうちに、多数の人民乗客が我先にと怒声をあげながら、このバスへ乗り込んできたのである。あっという間に座席は満席となり、立ち客が次から次へと押し込まれてきて、いつもの如く阿鼻叫喚の車内と化した。 車内は怒号が飛び交い、口角泡を飛ばして老いも若きも座席をめぐって言い争っている。聞こえてくる中国語が断片的に理解できたが、このバスの一台前がキャンセルとなり、ダブルブッキングとなった客たちが、この一台に詰め込まれているようだ。 こちらのサングラスおじさんは、そんな眺めに関心がないかのように静かな表情で外を見ていた。 バスはやがて動き出したが、走り出しても乗客の言い争いは一向に収まらないところがスゴイ。。。この国で生きていくことはサバイバルだ。あまりの喧騒にバスの運転手は何度もバスを停め、乗客をなだめたり、言い返したりが続いた。そうこうしているうちに定員の大幅なオーバーもあって、タイヤがパンクした。 乗客は全員降ろされ、運転手がスペアのタイヤと交換した。修理後の乗車時には、またひと悶着があるも、サングラスおじさんの機敏な判断と行動で、僕は再び後部座席へと座ることができた。そして、信じがたい話だけれど、その後、バスは何と二度もパンクをした(今日で21日目を書いているが、今まで一つも嘘も誇張も書いていない♪)。 三度もパンクすればスペアのタイヤもさすがに無く、全員降車して、次のバスを待つ、ということになった。そこは何もない丘のような砂利道で、見渡す限り家も何もなかった。こちらは中国旅でいくつものトラブルは経験してきたが、この時は善子ちゃんにほんとに会えるだろうか?と不安になった。 乗客はみな、地面に座り込んだり、タバコを吸ったりと思い思いに過ごし、汗ばむ暑さの中、バスを待った。僕も座り込んでいると、一人の男が、あんた、どこに行くんだ?と尋ねてきた。朴善子ちゃんの名前を出すと、さすが光昭村の書記長の娘だけあって朴さんのことを知っている人が何人かいた。 しばらくすると荷台がむき出しになったトラックが通りかかった。何人かの乗客がそのトラックを停め、運転手と話をしていたかと思うと、荷台に乗り込んだ。するとそのうちの一人が、僕にも乗れと手招きした。このトラックが光昭村へ行くとのこと。 何だか昭和の青春ドラマの1シーンのようじゃないか(実際、この話は昭和62年だから昭和だけど♪)!!ザックを荷台に放り込み、サングラスおじさんに固くお礼の握手をし、僕は荷台に飛び乗った。トラックが埃を立てて砂利道を走り出すと、おじさんが穏やかな微笑みを浮かべ手を振ってくれた。周りの何人かも手を振って見送ってくれた。僕も手を振りながら、何度も何度も頭を下げてそれに応えた。おじさんは見えなくなるまで手を振っていた。 今でも忘れられない旅の一コマだ。 そんなトラブル、悪路、遠回りを経て、僕は朴善子ちゃんと、その両親が待つ光昭村へ午後5時前についに到着した。
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↑前列左から 善子ちゃん お父さん お母さん 後列の若者は記憶に無い 善子ちゃん宅でのこの日の夕餉風景
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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朝鮮族の街、延吉で犬肉食べる?
島国、日本で生まれ育った僕には漢民族を筆頭に多民族で構成される中国は刺激的でもあった。 蘭州からシルクロードを西に行けばウイグル族、 西寧ではチベット族、 そして、旧満州では満族に朝鮮族。 一つの国に多様な民族、宗教、文化。 延吉へ行く途中の列車で知り合った朝鮮族の姜(ジャン)さんは、街の大通りを往来する人の流れを見ながら言った。 「見てください、朝鮮族の女性の美しいことを。それに比べて漢民族のひどいこと」 いわゆる「おらが街自慢」の一種だが、多民族社会では、自民族優先や差別は、普通に存在することを知った。
8月25日(火) 20日目
案の定、やかましい人民たちの声で目が覚めた。ベニヤ板一枚で仕切られた独房だから、宿の内部の声はよく聞こえる。 夜中に誰かがカーテンを開ける気配もしたが、モノを盗まれるわけでもなく、何とか無事に朝を迎えた。 荷物をまとめて吉林駅へ。延吉行きの切符(6元、約280円)を買って駅舎内で一休み。 列車537次は9時頃発車。しかし、既に満席で座ることはできなかった。延吉まで約310km、10時間ちょっとの旅。 沿線はヒマワリが一面に咲く丘や、すみれ色の花のじゅうたんと美しい。米を栽培する水田が延々と続き、懐かしい日本の風景のように見えた。ビールを飲み、鼻歌を歌いながら4時間ほど立ったまま列車に揺られた。 でも、途中で気分が悪くなり立っているのが辛くなったので、目の前に座るオジサンに身振り手振りで座らせてもらえないか尋ねた。しかしダメ。するとボックス席向かいに座る親切なカップルが詰めてくれ、尻半分ほどのスペースを作ってくれた。僕はお礼を言って座らせてもらった。情けが身に染みる♪ カップルの女性は僕が日本人だと分かったらしく、編み物をしながら、「襟裳岬」を中国語で鼻歌交じりに歌っていた。しかしこちらは気分はすぐれず、筆談攻撃が始まるのは避けたかったので、目を閉じていた。 やがて席が空き、他のボックス席の窓際に座ることができた。寝不足でもあったので爆睡したが、気が付くと向かいのオジサンに揺り起こされた。外は大雨となり、稲妻も走っていた。雨が降り込んでくるため窓を締める。そのために起こされたのだ。 オジサンは角刈りの痩せた容貌で、僕の���舎でお世話になった自動車学校の教官、米谷さんに似ていた。そして遂にこのオジサンが話しかけてきた。筆談のハジマリ・ハジマリである。日記には「中国の服務員は嫌いだと言ってしまった」と書いてある。 そしてこの筆談をきっかけに、姜(ジャン)さんと知り合った。 ボックス席の近くに立っていた姜さんは 「日本人ですか?」 と瞬きしない目で、真っすぐ僕に尋ねてきた。 姜さんは30歳前後だろうか。親世代は旧満州時代に日本語教育を受けた世代なので、父親から日本語を学んだと言っていた。その日本語スキルは今回知り合った中国人(姜さんは朝鮮族)の中で、一番高く、会話も弾んだ。今回の中国旅で気になった中国や人民のアレコレについて尋ねることもできた。何より、姜さんは延吉の人なので、北朝鮮国境にいるペンフレンドが住む村へ行くことも手伝いましょうと言ってくれた。これは助かる! 「延吉に着いたらペンフレンドの朴善子さんに電話することになっている」 と僕が言うと、姜さんは驚いた顔をして 「電話?その村の家に電話があると思えない。何かの間違いじゃないか」 と言った。 「彼女のお父さんは村の書記長で偉い人だと手紙に書いてあった」 「なるほど、それでは家に電話があってもおかしくない」 そんな会話をしていると苦痛だった鉄道長距離移動も楽しく、夜7時半ごろ、20分ほどの遅延で列車537次は終点の延吉に到着した。延吉は吉林省にある延辺朝鮮族自治州の最大都市である。   外は既に真っ暗。西寧では、まだ明るい時間だが、中国大陸の広大さを感じる。 延吉の駅前は雨上がりの路面に淡い街灯の光が揺らぎ、何だか随分と寂しい街へやって来た気分になった。そして無数のハングル文字に、「ずいぶん遠くへ来たもんだ」とゾクゾクとした感慨に浸った。 当時の中国では「電話をかける」というのも簡単ではなかった。 駅に公衆電話など無く、姜さんに連れて行ってもらった民族飯店という高級ホテルにある電話ボックスから、ペンフレンドの朴善子へ電話をかけた。 朴さんとは「パンダ・クラブ」という日中若者交流を目的とした民間組織の「文通相手紹介」のサービスで知り合った。お互いに相手の国の言語で手紙を書き、異文化交流を図りながら語学学習もしてゆくというシステムだ。彼女と文通を始めたのは、半年ぐらい前で、今回の旅の目的の一つは「熱烈訪問朴善子小姐」でもあった。 雑音だらけの音声の中、初めて聞く朴さんの声を聞き、明日、バスでそちらへ行くことを伝えた。ケツの青い若者にはなかなか感動的な電話だった♪ 電話を終えると姜さんが朝鮮料理のレストランで夕飯を食べようと誘ってくれた。 牛肉に豆腐にスイカ、と日記に書いてある。料理もたらふく食べ、ビールもよく飲んだ。黄色いプラスチックのジョッキサイズのコップ、その縁の汚れが気になったが、酔いが回るとそんなことも忘れて、何杯も飲んですっかり酔った。 姜さんも相変わらず瞬き少ない真っすぐな目をしていたが、少し酔ったような表情で僕に尋ねてきた。 「犬の肉は好きか?」 「え?犬?」 「そう、犬。食べる?」 「え?食べる?」 「そう食べる」 「いや、犬の肉を食べたことないし、食べたくない」 と真顔で答えると、姜さんはニヤニヤしながら 「朝鮮族はお客さんが来ると、もてなすために犬の肉を出すから、嫌であれば最初から断っておいたほうがいい」 と教えてくれた。 当時の僕は朝鮮族に犬食文化があることを知らなかった。「冬場は体が温まる」「妊婦に滋養がある」などとも教えられた。翌1988年にソウル・オリンピックが開催され、この時、犬食文化が西洋諸国から批判されたと記憶している。 食事を終えると酔った足取りで姜さんの勤務先の事務所へ向かった。 当時の中国は、外国人観光客が中国共産党が認めた「開放都市」以外に宿泊することは認められていなかった。延吉はその開放都市になったばかりらしく、外国人観光客が泊まれる宿を見つけるのは難しいから、自分の勤務先事務所へ泊まるがいいと、言ってくれたのである。 まったく当時の僕は、何から何まで人様の世話になっている(今も変わらないか~♪)。 そんなことで雨上がりの潤んだ月に照らされながら、薄暗い道を歩いて、姜さんの事務所である、農業技術研究所へ行った。彼はここで技師として働いていると言っていた。 僕は勧められるまま、事務所にある大きなソファをベッド替わりにして寝た。 姜さんは「明日また」と言って家に帰って行った。 いい人に巡り合えて助かった。 有難い話だ。 だから旅は面白い。
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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満州国へ
小5の社会科の授業で、同級生で仲の良かった友達、ぐっちゃん(本名・山口)のお母さんの出身地が「満州国」だと知った時、 「満州国ってどこ?外国?」 「ぐっちゃんのお母さんは外国人?」 「ぐっちゃんハーフ?」 と、満州国など知らない小学生の僕は衝撃を受けた。 日本が満州事変(1931年、昭和6年)によって占領し、中国東北部につくりあげた傀儡国家、満州国。 多くの日本人が開拓団として戦前に渡り、暮らした満州国。 中国を旅していた知り合った日本人で、旧満州国エリアをまわった日本人旅行者からは「反日的な人がいる」「石を投げられた」などという話を聞くことがあった。 はて、実態はいかに?
8月24日(月) 19日目
寝坊した!やばい! 慌てて起き上がって荷物をまとめる。飛行機に乗り遅れる。。。 目覚まし時計は持っていないので、昨夜、楊さんちで相談したら、ホテルへ電話して起こしてあげるという段取りになったけれど、うまくいかなかったようだ(そんなこと自分で何とかしろ~と、今の僕は過去の自分に突っ込みを入れる♪)。 昨夜はホテルでタオルは盗まれるは、今朝は寝坊と、面倒なこと増加。ホテル前に停めておいた人民チャリが無い!!と思ったら、違う場所へ移動されていた。 楊さんちへ人民チャリへ猛ダッシュで向かう。路上は人民ラッシュアワーでチャリンコだらけ、その間を縫うように抜いてかわすも、時々、背負った僕の大きなザックが人民にぶつかり、怒声が飛んでくる。心の中で「対不起、対不起(ごめん、ごめん)」と呟いて先を急いだ。 楊さんちに着くと、皆が待っていた。ホテルにも何度か電話入れ、大変だったようだ。をを~~申し訳ない!ドタバタしながら楊さんにお礼とお別れを言い、タクシーで 中国民航(CAAC) へ。トウダイセイと肖銘が付き添ってくれた。ここからの空港行バスではフライトに間に合わないとのことで、そのまま空港へ。仕事へ行くトウダイセイとはここで別れ、肖銘が空港まで付き合ってくれた。そして、ギリギリ、10時過ぎのフライトに間に合った。 肖銘はニコニコしながらタクシー代を受け取ってくれず困ったが、彼は翌年、日本へやって来たので、再会した時にお返しはした。 そんなドタバタで楊さんたちには多大な迷惑をかけながら、僕は雲上の人となり、夏空に浮かぶ雲や青空を呑気に楽しんでいた。 旧満州国の首都であり、新京と呼ばれた長春は、今は吉林省の省都である。北京から1時間半のフライトで到着。鉄路に比べるとあっという間だ。 北の街、長春は緑が濃く、空港には多数の軍用機が駐機していて、ちょっと物々しかった。 空港からは奮発してタクシーで長春駅へ向かった(31元、約1,395円)。ここから鉄路で今日は吉林まで行く予定だ。列車は夕方の予定なので、市内をブラブラすべく、ザックを駅のクロークへと預けた。ここの受付のオバサンに何故か気に入られ、満面の笑みで対応された。今まで、服務する小姐はみんな不機嫌な連中ばかりだったので、何を言っているのか不明なオバサンであったけれど、ずっとニコニコしながらこちらに何かを言ってくるのは有難いことであった(^^♪ 長春の街並みは北京とは違った。 新京時代の遺物と思うような日本風の建物や瓦も残っていた。モダンと退廃が入り混じったような建造物が、不思議な雰囲気を醸し出していた。この日は曇り空で、ねずみ色の空が街に溶け込んでいるようで、それがまた似合っているようにも思った。 朝鮮族も多く、ハングル語の看板表記も目立った。市場に入ると鯉やナマズが生きたまま売られていて圧倒された。
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↑長春(旧新京)の街並み 架線はトロリーバス用
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↑市電が行き交う
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↑立派なエントツ
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↑ロバも労働
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↑貧しそうな住居 冬は寒いだろうなぁ
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↑馬も労働 この重量を2頭で曳くのは大変だろうに
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↑中国に言論の自由などは無いけれど、線路を横切る自由はある
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↑工場の裏道
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↑北の街風情
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↑レトロな建物
5時12分長春発の列車で吉林へ。 乗車時間は2時間ほどで、このぐらい短い鉄旅もまた良い。切符は硬座席で3.1元(約140円)と激安。 車窓からの風景は北京から西への乾いた黄土とは違って、北海道のような瑞々しい緑の原野が続く。 吉林の駅へ到着すると、見知らぬ人民が声をかけてきた。何だと思ったら宿の客引きだった。今までの街の駅には客引きはいなかったから、こちらも無防備で相手にしてしまった。 結局、その客引きにまんまと丸め込まれ、駅近くの安宿に泊まる���目になった。吉祥旅店。1泊7元(約315円)とこれまた激安だが、窓もない独房のような部屋。笑ったのが部屋入り口のドアがカーテンしかなく、鍵も無い。そのカーテンが掛かった壁に、僕の大きなザックがぶつかると、壁が室内に倒れかかった。ただの薄いベニヤ板が��屋にハメこまれていただけだった。。。 何だか不安でもあったが、他の宿を探すのも面倒だったし、明朝の列車で延吉を目指すので、ここで良しとした。 「吉祥旅店に日本人が泊まってるらしい」という噂が近辺に流され、物珍しさに駆られた人民が宿にやって来て、僕に筆談を求めてきた。 「その腕時計はいくらだ?」 「日本で何を食べてる?」 「日本で流行してるものは何だ?」 「日本の若い男女の正しい交際はいかに?」 やってきた人民は皆、20代ぐらいの若者で、北京や洛陽、西寧で出会った人民と雰囲気が違う。一言で言うと石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」に出てくる、昭和30年代の日本のチンピラみたいな雰囲気の人達ばかりだった。。。 そして、何でか知らないがインドネシアで貿易会社をしているという日本とインドネシア人のハーフのオジサンがやって来て「なんでこんな変な宿に君は泊まっているのだ?」と問い詰められ、辟易とした(^^♪ こうして旧満州国での初夜は過ぎていった。。。
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↑見てのとおりの安宿 映画のセットではない
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↑独房のような客室 左に見えるのはベッド 
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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北京、再び
田舎で生まれ育ったせいか、人の少ないのんびりとしたところが落ち着く。 都会暮らしは未だに苦手だ。 西寧から北京に戻った時にも、北京の過密な人の群れに圧倒され、懐かしさを感じるものも少し気持ちが重くなった。 都会には人を惹きつける魅力が間違いなくある訳だが、僕には合わないなぁ、というのは今も昔も変わらない。
8月23日(日) 18日目
予定より1時間遅れの午前6時10分過ぎ、122次直快は北京駅に到着した。長かった。。。 駅は早朝にもかかわらず予想以上の混雑ぶりに唖然とした。そして、あの子たち二人を見つけることもできず、ガロの「学生街の喫茶店」の歌詞のように「サヨナラも言わないで 別れたよ」となった。 右目のまぶたが少し痛む。 明け方、通路窓下にある簡易イスに座って、車窓からの早朝の眺めを楽しんでいた。開け放たれた窓からの風も気持ち良い。ただ、注意も必要。人民乗客は窓から何でも捨てる。。。 その事実を知らない頃は、「あれ、急な雨か?」と思ったのは、前の車両の人民が捨てたお茶の飲み残しであることに後で気付く。お茶であればまだいい。その日の運勢が悪ければ、ツバ、痰、鼻水の類がこちらに飛んでくることも無くはない。。。そして、空き缶やゴミ。 この朝、僕は投げ捨てられた空き瓶の破片にやられた。砕けた破片の一つが後方車両の僕の席に飛び込んできて、僕の右目まぶたを直撃、イスから転げ落ちた。アブナイ、アブナイ、眼球で無かったのが不幸中の幸い。しかし、人民は本当によくゴミを捨てる。公共心が無いのは貧しさと共産主義が主な理由だろうというのが僕の考えだ。 北京からは北の吉林省を目指す。旧満州だ。 吉林省の延吉という北朝鮮国境近い街から更に国境近くの村に、ペンフレンドがいるので彼女に会い行く。西寧から北京が1,680kmで、北京から延吉が1,380km。3,000kmを超える中国国内大移動。さすがに鉄路は飽きるし、時間かかるので、翌日、飛行機で北京から吉林省の省都、長春(旧・新京)まで飛ぶ予定。今日の北京滞在はその航空券の手配がメイン・ミッションだ。 ミッションと言っても、例の如く人任せにしようという魂胆(^^♪ 北京駅周辺をブラブラして時間を潰し、地下鉄で前門、路線バスに乗り換えて珠市口へ、楊さん宅だ。 2週間ぶりの楊さんとの再会だったが、突然再び現れた日本人青年に楊さんはエイヨ~~と驚き、当然だと思うが、何でまた来た?という感じ、おまけに言葉がうまく通じない二人はギクシャクとした。日本語の少し分かるトウダイセイも勿論、そう都合よくいることも無く、「明日、飛行機で長春へ行く」「今日、その航空券を買う」ということは筆談で理解してもらった。 この日の昼、楊さんちには島田さんという日本人がやって来た。手元にはいまだに島田さんからもらった「株式会社 島田貿易 社長」という肩書の名刺がある。住所は横浜で、ネットで検索しても当然、もう出てこない。何者だったのだろ? 昼飯は楊さんが作ってくれ、潘さんという、これまた突然現れた人民と一緒に食べた。潘さんは、僕の大学の歴史の教授、上保(うわぼ)先生によく似ていて親しみを覚えた。冷えたビールにすっかり酔っぱらった日本青年は、図々しくもソファで寝込み、目が覚めると、潘さんが「ホテルを手配したよ」と教えてくれた。もう完全に他力本願で、何から何まで楊さんに丸投げしていたようだ・爆。 ホテルは歩いて行けない距離とのことで、自転車も借りて、ザックを背負って永定門飯店というホテルまで走った。20分はかかっただろうか。部屋はシングルで24元(約1,080円)。荷物を置き、楊さんちへ戻ろうとすると、道端でトウダイセイの彼女が僕を待ち構えていた。「あの日本人が帰って来た」という情報が既にグルグルとまわっているらしい♪ そして彼女に連れていかれた先は潘さんのマンション。ここで何をしたのかさっぱり記憶に無いが、笑ったのが、潘さんの部屋から1Fへ降りたエレベーター。ドアが開くと、そこは一面、コンクリートの壁。。。足元30cmのところに、誰かの顔と手。信じがたいことに、1Fへ辿り着く直前、誤作動でエレベータ―は止まり、ドアが開いたのだ。しかも、こういう出来事はもはや日常のようで、見えていた顔の人民は管理人らしく、手動でエレベーターの箱を正常位置まで戻して、我々を助け出したのだ。 それまで何の疑いも無く、「エレベーターとは定められたフロアで停まってドアが開く乗り物」と思っていた僕の概念は破壊された。異国での不思議な出来事を経験できる、だから旅は面白い♪ 航空券の購入は潘さんにも手伝ってもらい、中国民航(CAAC)のオフィスで買った。しかし、価格は人民の倍以上、196.7元(日本円約8,852円)。日本の感覚で言えば安い!が、中国の感覚で既に考えているので高く感じてしまう♪ ちなみに   中国民航(CAAC)は当時の国営の航空機関で、翌1988年より、エリアごとに分割され、 国際線は中国国際航空、国内線は東方航空(上海)、南方航空(広州)などとなって今に至っている。 楊さんちに戻るとトウダイセイと再会。 肖銘(シャオミン)という坊主頭のニコニコ顔の丸顔の青年もいた。 夕飯も豪勢で、鶏肉料理に麺、塩辛いタマゴ、トマトの砂糖漬け、落花生にビール。2週間の旅の様子をみんなが興味深く聞いてくれ(たと思う♪)、話は尽きなかった。 ホテルへの帰り道は、途中、大雨に降られ、濡れネズミとなって自転車をぶっ飛ばした。中国式のシャワーを浴び、ベッドにもぐりこんだ僕は深い眠りに堕ちていった。。。   
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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銀河鉄道の夜
一日中、鉄道に揺られて過ごすという経験は後にも先にも、30数年前のこの日、一度限りだ。 高原地帯から大陸内部の低地を走る列車の車内は気温も上がり、三段ベッドの2等寝台は天井につけられた扇風機と、開放された窓からの外気だけが涼を得る手段で快適ではない。 それでもガタゴトと果てしなく続く鉄路の旅は、鉄道好きには楽しいものだった。 日本に今はもうブルートレインも無く、定期運行の寝台電車、サンライズ号は食堂車はもちろん、車内販売さえ無い。 それを思うと、こんな夜汽車の旅が贅沢で貴重なものであったと改めて思える。 しかし、何故かこの日の写真が1枚も無いのは何でだろ? 手持ちのフィルムが終わったのか?ちょっと残念。
8月22日(土) 17日目
暑い。 汗を吹き吹き、三段ベッドの自分のベッドで今更ながらに三国志を読む。朝からずっと読み続ける。関羽が登場するシーンが増えれば増えるほど、洛陽の関林(関羽廟)へ行く前に読んでおけば良かったと、ちょっと後悔。 車内はいつも中国の漫才、または漫談のようなものが常に車内放送のスピーカーから流れていた。もちろん中国語だし、音量もそんなに大きくは無いので、何が面白いのかサッパリ分からない。これを聴いて笑っている人民乗客も見たこと無いので、放送する意味があるのかどうかも不明(^^♪ しかし、中国人民は労働しているときは、どうしてあんなに不機嫌なんだろう?車内の服務員は総じて不機嫌だ。給料も待遇も悪いのだろうか?それとも労働そのものが支配層から強制されたもので、不公平なものとでも思っているのだろうか? 乗車中に困るのが、停車駅では車内トイレがロックされ使用禁止になること。当時の車内トイレはタンク式などでは無く、昔懐かしい「ぼっちゃんトイレ」、そう、便器からストレートに大地へばら撒く式なので、停車中は糞尿禁止だ。問題は停車時間。1,2分ならいいが、大きな駅では20分、30分の停車もある。そうするとトイレも長時間のロック。 一度、便意を催して、トイレの鍵を持つ、まさにキーマンの服務員小姐に「緊急事態・緊急事態」と哀願しても、まったくの知らん顔で鍵を開けてはくれなかった。 車内の食事は、日記によると車内で売り子が販売する弁当をメインに食べていた。日本のように各地の名産をフューチャーした駅弁などは無く、大きな箱に入れて引きずられてきた1種類の弁当を買って食べる、というものだった。 停車駅によっては、地元民が弁当や果物、菓子などを抱えてホームへ売りに来ることもあった。山間の駅で停車した時には、斜面を下ってホームに降りてくる売り子もいて、見ていて楽しかった。 この乗車中、一度だけ、食堂車で昼飯を食べた。日記には「チンジャオロース、肉団子、玉子とトマト炒め、メシ」と書いてある。 時々、トシコちゃんと柴田さんの軟臥(1等寝台、コンパ―トメント)へ遠征した。 ビール飲んだり、間違って10個も買ってしまったアイスを少しもらったり、くすぐり合う2人を眺めてニヤニヤしたり、音楽を聴いて楽しんだり。女の子は華やかでいい。 丁度、彼女たちのコンパートメントにいる時に列車は黄河の鉄橋を超え、僕らは歓声をあげた。 そして、この列車が北京に着けばお別れだからと、住所交換をした。 驚いたことにトシコちゃんの苗字は僕と同じだった。7日間一緒にいたけれど、名前でしか呼んだことがなかったので知らなかった。でも、僕は彼女たちや陶山さんから何て呼ばれていたんだろ?まぁ、いいか♪ 日がとっぷりと暮れ、硬臥の通路にある折り畳み式のイスを壁から倒して座った。夜風に吹かれながら、飛び去る夜の車窓の眺めを見入ったり、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んだり。 しかし、こんな状況下で「銀河鉄道の夜」を読めるのも贅沢だ。主人公、ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河ステーションから列車に乗って旅する物語。旅の途中で出会う人々との交流から、「生きる意味」を見つけ出す主人公に共感する二十歳の自分がそこにいた。 そうだ、あの頃は自分なりに「生きる意味」を真剣に考え、悩んでいたんだと、今、ふっと思い出し、少し茫然とする♪ 僕はあの当時の自分自身に出会ったら、どんな風に声をかけることができるのだろうか?きっと、生きることのポジティブさを伝えることはできるだろう、でも、「どうやって?」と伝えるには、一晩語り明かしても難しいかもしれない。 墨で塗りつぶしたような暗い闇を、列車のイスから見つめる青白い青年。 30数年前のそんな自分の姿を思い出していると、ここにたどり着くまで眺めてきた様々な風景が、車窓からの眺めのように通り過ぎてゆくようだ。
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hh1987zhonguo · 5 years ago
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【青海省 旅の絵手紙】
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放浪同人誌「哀しきインディアン」  「旅の空から」 「中国・青海省編」より 作:ハットリ・ヒロノリ
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