◆序章 昏キ夜
世界は滅んだ。
乙女桜という花は純白の花弁を持ち、神力と浄化の力に満ちた小さくも清廉な花で、この神域一面に咲き誇っていた。
しかし、荒廃した神域に残る乙女桜はもう数少ない。
穢れで黒く染まりきったものが、まばらに残るだけだった…。
この世が魔に覆われし時
三神仙に導かれ
四聖幻臣に認められ
五天の守護者を従えて
世界の意思により
聖剣と共に降臨す―――
この世界に伝わる【聖王伝説】
だが、世界が滅亡の一途を辿っても、聖王は降臨しなかった
天(そら)が、世界が終わる。そう確信するには十分すぎる光景だった。
大きな赤い月が、大地に溢れる邪悪な者たちを赤く照らしていた。
横たわる我(ワタシ)の周囲にだけ、黒く染まった乙女桜が僅かに残っていた。その神性を犠牲に守られている気がした。
穢れから生まれた魔物―昏(クラ)キ物たちの赤い眼光が集まる先に、一つの座り込む人影があるのに気付いた。
我(ワタシ)は未だ混濁する意識の中、重い頭を上げ霞む目を凝らした。
結い上げた髪は乱れ、高貴な身分と一目でわかる衣裳は破け、気高さと品格を感じさせる居ずまいごと血泥にまみれ、いつの間にか、左腕が無くなっていた。
それでもその人物は、残った右腕で誰かを抱えていた。
我(ワタシ)が気を失っていた間に何が起こったのか、想像に難くない光景だった。
どうにか呼びかけようとしたが、かすかなうめき声を漏らすのが精いっぱいだった。力を込めても指先が微かに揺れるだけで、動くことすらままならない。
視界に入る黒い乙女桜が血生臭い風に揺らされた。まるで、動けない我(ワタシ)を嘲笑うかのようだった。
ふと、座り込む人影の前に、この状景には場違いに白く輝く何かに気付く。
それが砕け散った剣だと思い至るまでに、そう時間はかからなかった。
(ダメだった。)
胸の奥から、何か苦しいものが込み上げてきた。
(我(ワタシ)のせいだ…。)
根拠は無いが、そう確信していた。
自身の両目から、涙が零れた。
他者が流す光景は何度も見てきたが、このような感覚だったのか。そう思置くほどに、涙は溢れて止まらない。
それでも我(ワタシ)は、この光景から目を逸らさなかった。
逸らしたくなかった。
「―――」
呻くような声が我(ワタシ)の耳に届いた。
人影が、抱えていた誰かに顔を埋めて泣いていた。
「――――」
何か言っているようだが、聞き取れなかった。
悔しいのか、悲しいのか、怒りなのか……その声音を聞いても我(ワタシ)には判別ができなかった。
だが、その様子に周囲の昏(クラ)キ物たちがざわつき始めたのはわかった。
「――――――っ!!」
大声で泣き叫ぶその姿を、赤い視線の持ち主達がじわじわと距離を縮めていく。
だが人影は、間もなく訪れるだろうその最期には反応せず、ただ大声で泣き叫んでいた。
その光景から目を離せなかった。
逸らせなかった。
より一層大きく、悲しみの咆哮が世界に響き渡る。
同時に怪物達が人影に群がり、腕の中にいた誰かは投げ出され、人影はバリバリと嫌な音を立てながら形を崩していった。
ドクン
世界が揺れた気がした。
人影を食った奴等の姿が合わさり、歪み、黒い穢れと肉の合わさった塊となっていく。
(行かなければ――)
これだけの光景を目にしても、我(ワタシ)は諦めることができなかった。
我(ワタシ)は生き残らなければならない。
痛みに悲鳴を上げる身体に鞭打ち、上体を起こす。自身に残された神力を練り上げ、あの昏(クラ)キ物の意識がこちらに向く前に、ここから逃げる事さえできれば――次では失敗しない。
失敗してなるものか。
強い決意に呼応するように身体から白い光が迸り、頭上で魔法陣が形成され始めた。
周囲の黒い乙女桜が光で浄化され、元の純白に戻っていく。
術の発動という確かな手応えに浅く息を吐き、ゆっくりと頭を上げる。ふと、いつの間にか静かになっていた世界を、生暖かい風が撫でるように通りすぎた。
人の形となったそれと、目が合った。
息を呑んだ。
(早く、早く、あいつを相手にしてはいけない)
恐怖に俯いて無理矢理に視線を外し、唇を噛んだ。震える手を握りしめ、術を発動させる事だけに集中する。
嫌な汗が、頬を流れ落ちた。
(次はきっと上手くできる。ここから離れることさえできれば……)
ぐしゃり、ぐしゃりと乙女桜を踏み潰す音が近づいてくる。
確実に一歩ずつ距離が縮まっている。こみ上げる本能的な恐怖に身体の震えが止まらない。
大丈夫だと言い聞かせて焦る心を抑えつけた。
「ぅ――、ぁぁあああーー!」
恐怖を紛らわせるように、自分を奮い立たせるように声を大地に叩き付け、魔法陣により一層神力を注いだ。
ほんの僅かな時間を長く感じながらも、とうとう魔方陣が燐光を振り撒き花開いていく。
純白の花を模した紋様が、辺りを強く照らした。
次への道が開けたのだ。
(やった……!)
掴み取った一縷の希望に顔を上げる直前、手元の白い乙女桜が、黒い足に踏みつぶされるのを見た。
我(ワタシ)は反射的に顔を上げてしまった。
眼前に、見知った姿となったそれの真っ赤な両目が並んでいた。
0 notes