Don't wanna be here? Send us removal request.
Text

サルメカンパニーの『スウィングしなけりゃ意味がない』を観た。
���台は1942年、ナチス政権下のチェコスロヴァキア。同地の統治者であるハイドリヒを暗殺すべくロンドンからチェコ自由軍のヨゼフ(石川湖太朗)とヤン(村上佳)が派遣される。二人はスウィングキッズであるアタ(國崎史人)やアンナ(井上百合子)、レジスタンス活動を続けるハイスキー(今里真)とラジスラフ、そしてハイドリヒの政策によって夫を失ったローナ(小黒沙耶)たちと仲を深めてゆく。しかし、ハイドリヒの暗殺を実行した二人はナチスに追われることとなる。
3時間近くある芝居を最後まで集中して観れるかどうかちょっと不安だった。けれど始まった瞬間、楽器隊と役者の動きが奏でるビートに一気にグッと引き込まれ、これは大丈夫だと確信した。役者の熱い芝居とそれに呼応するかのような楽器隊の生演奏に胸が高鳴った。
ただ、観ていて違和感を覚えたシーンが何カ所かあった。
レジスタンスのメンバーたちは常々「国のために死ねるか?」ということを相手や自分に問うていたし、事実ラストで彼らは国のために死を選んだわけだけど(史実である)、それが美化して描かれているように感じた。国を背負って死ぬということそのものがドラマチックではあるので、感動を煽るような描き方をされがちだとは思うのだが、果たしてこれを単なる感動ものとして捉えて良いのだろうか。愛国心ゆえの死を美化すること=戦争を美化することに繋がりかねない気がする。
また、ヨゼフをはじめとするレジスタンスのメンバーがハイドリヒが亡くなったことを知って歓喜するシーンはゾッとした。チェコの人々を痛め付け続けてきたハイドリヒを伐ったことが彼らにとって誇りであり喜びであるのは当然なのだが、それが当然になってしまう状況は異常でしかないのである。殺すことでしか国や大切な人を守れない状況が、ダンスや歌を通して純粋な喜びとして表現されていることに違和感を覚えた。
日常生活の中では得ることのできない感動を求めて芝居や映画を観に行く人は多いと思うし、私もそういう節がある。けれどそんな観客の渇きを満たすために、凄惨な出来事を感動を煽るように描いて良いのだろうかと思った。
あとこれはちょっとしたツッコミなんだけど、アンナとヤンの出会いのシーンでアンナがWaltz for Debbyを弾いていたけど、この曲はあの時代には存在しない…。
0 notes
Text
美しさは冷たさ

TARを観た。
スクリーンの中のリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、まるで実在の人物かのようだった。講演中の手の震え、学生に向けたシニカルな微笑、リディア・ターとう人間の複雑な内面が、繊細な身体表現を通して完璧に描かれていた。終始 ケイト・ブランシェットの演技に圧倒されたいた。
ケイト・ブランシェットの演技だけでなく、全てのシーンの見せ方も隙がないように感じた。リディアが自身が犯した過ちによって堕ちていくシーンさえも美しかった。しかし、自己��ゆえの彼女の醜い過ちを美しいプロットの中に組み込むことは暴力的なことのかもしれない。なぜなら彼女の過ちによって一人の人間が亡くなっているのだから。
https://www.atashimo.com/entry/tar_movie
またリンクの記事にあるように、自身の権力でもって他者をねじ伏せようとする彼女の言動には政治的な意味合いも含まれている。もしかしたら彼女がそのような振る舞いをするに至った経緯にも政治的な意味合いが含まれているのかもしれない。(男性社会の中で生き延びるための術だったのかもしれない。)けれどそれらが深堀りされることはない。ただ上辺をなぞるだけだ。そのことに冷たさと物足りなさを感じた。
ラストはなかなかに衝撃的だった。というか、拍子抜けした。この作品の中で保たれていた緊張感と美しさが一気にプツンと切れてしまった。リディア的には堕ちるところまで堕ちたという感じのなのかもしれないが、今一つだった。個人的にはアネットのヘンリーのように取り返しのつかないところまで追いやられたリディアの姿を見てみたかった。
参考記事
・政治的スイッチを切れば芸術的名作として楽しめる『TAR/ター』‐アート、woke、クィア https://www.atashimo.com/entry/tar_movie
・ 『TAR/ター』憧憬と嫌悪の危険な力学 https://cinemore.jp/jp/erudition/2969/article_2970_p1.html
0 notes
Text
せっかくなので映画だけでなく、最近聞いてる音楽も記録しておこうと思う。
Piper at the Gates of Dawn/ピンク・フロイド
ピンク・フロイドのデビューアルバム。フロイドと聞くと思い浮かべる、実験的で神秘的なテイストとは全然違うのが面白い。すごく野生的というか。ドアーズとかと近い感じ。クスリに侵されまくっていたシド・バレットが中心になって作ったせいか、聞くたびに、ラリっちゃうってこういうことなのかな…という気持ちになる。
Wish You Were Here/ピンク・フロイド
ギルモアのギターが泣かせにくる。
youtube
High Hopes/ピンク・フロイド
何度見ても全く意味が分からないMV。でも人智を超えた美しさを感じる。ピンク・フロイドって何者?
In the Court of the Crimson King/キング・クリムゾン
ジャケット含めこのアルバムが大好きなんだけど、これ以外のアルバムを何枚かかいつまんで聞いてみたら、どれもヘボくて幻滅した。ショックがデカすぎて、近々このアルバムも聞けなくなりそう。
I Put a Spell On You/ニーナ・シモン
スタバでシャザムして出会った。ちなみにスタバで流れてたのはFeeling Good。よく店で流れてて良いなと思った音楽をシャザムするんだけど、ヒットした曲が入ってるアルバムを聞いてみるとなんかそうでもないことが多い。でもこのアルバムは総じて最高だった。酒が進みそうだ!(下戸です)
戀愛大全/ドレスコーズ
自分の中で過ぎ去ってしまった季節を慈しむような。志磨遼平ご本人も言ってたけど、ナイトクロールライダーの出だしがマジでフェイ・ウォンの夢中人。あと、二曲目の聖者が大好きなんだけど、これはまんまスミス。
youtube
スミス繋がりで面白かったのがこれ。「もしもレディオヘッドのNo Surprisesがザ・スミスが書いた曲だったら?」というパロディ・パフォーマンス。レディヘverのしっとり感がずいぶん軽やかになっちゃって…。ちなみにスミスはそんなに好きじゃない。
周りにプログレとかジャズが好きな人間がいないのって悲しいな、ということに気づいてしまった2月。好きなものを共有できないってこんなにも寂しいものなのか。
1 note
·
View note
Text
2022映画ランキング

1.『アネット』
2.『さがす』
3.『アルピニスト』
4.『夏へのトンネル、さよならの出口』
5.『ウエスト・サイド・ストーリー』
『アネット』
演出や映像はあまり好みではなかったけど、超・歪んだ自己愛に溺れ破滅していくアダム・ドライバーと劇中歌がとてもとても良かった。Apple Musicの年間振り返りを確認したところ、今年最も聞いていたのは、アン(マリオン・コティヤール)とヘンリー(アダム・ドライバー)が歌う"We Love Each Other So Much"だった。
『さがす』
伊東蒼と清水尋也の演技が良かった。二人の今後の活躍が楽しみ。
『アルピニスト』
自分が何をしたいのかが明確であればあるほど、生きることはとてもシンプルなものになる。マークの潔い生き様と美しくも恐ろしい山々に魅せられ、観た後しばらくぼーっとしてしまった。あと初めて映画のパンフレットを購入した。
『夏へのトンネル、さよならの出口』
主人公がシスコンすぎたことを除けば100点満点。
『ウエスト・サイド・ストーリー』
大きいスクリーンで観る映画はやはりいいなと思わせてくれた映画の一つ。平和が当たり前ではないと痛感した年だからこそ、余計に沁みるものがあった。
【ベスト5に入れようかどうか迷った映画】
・パワー・オブ・ザ・ドッグ
・不都合な理想の夫婦
・プアン/友だちと呼んで
映画好きを自称している割にはあまり観ていないので精進したいですね。某トークイベントで年間700本観ているという���者すぎるおじいさんに出会い、目指すべきはこれだなと思いました。ウォン・カーウァイ特集に行けなかったのが今年一番の心残り。U-NEXTに入ろうと意気込んでいたのですが、未だ入っておらずという状態です。ウォン・カーウァイに限らず多分観たかった映画の1/3も観れていないのは本当に心残りです。あと、あまり期待しすぎるのも良くないなと思いました。期待値が高いほど思っていたのと違った…と感じることが多かったので。(コーダ、戦争と女の顔、よだかの片想いなど)年が明けたらまずはすずめの戸締まりかアバターを観に行きたいです。
1 note
·
View note
Text

ショコラ 他者を受け入れる/私を受け入れる
「ジョニデがめちゃめちゃカッコよかったな…」という記憶に誘われて、何年ぶりかにショコラを観た。そしてやはりジョニデはめちゃめちゃカッコよかった。ラッセ・ハルストレムの映画に登場するジョニデは影があったり(ギルバート・グレイプ)飄々としていたり(ショコラ)掴みどころのない感じが本当に魅力的だ。また、ジョニデのカッコよさはさることながら、おとぎ話のようだけれど、実は決しておとぎ話ではないストーリーもこの映画の魅力だ。
舞台は1950年代のフランスのとある村。この村にやって来た一組の親子、ヴィアンヌと娘のアヌークは空き店舗を借りてチョコレート店を開くが、敬虔なキリスト教徒が多く住む町で���よそ者でかつキリスト教徒ではない彼女たちは、村長に目の敵にされてしまう。そんな中、村の川べりに船上で暮らす人々が乗った船が漂着する。村長はヴィアンヌ同様よそ者であり風紀を乱すと見なした彼らのことも村から追い出そうとするが、ヴィアンヌの作るチョコレートが事態を少しずつ変えてゆくことになる。
ラストシーンでの司教の「人間の価値は何を排除するかではなく、何を受け入れるかで決まる」という台詞がこの映画のテーマを綺麗にまとめてくれているが、では、人間が他者を排除するのではなく受け入れるには何が必要なのか。
夫のDVから逃れてきた女性や漂着した船上生活者=移民(難民とも受け取れるかもしれない)が登場し、やんわりと現実を風刺しているような描写では、力ずくで自分より立場が弱い存在を支配しようとする者(村長や暴力を振るう夫)と立場が弱く支配されようとしている者(ヴィアンヌや夫の暴力から逃れてきたジョゼフィーヌ、そして船上生活者のルー)との対立が描かれているが、支配されようとしている者たちは、支配しようとする者たちに対して力で立ち向かおうとはしない。相手の武装を解除し素っ裸にすることを選ぶ。そしてこの相手の武装を解除するための手段というのが、映画のタイトルにもなっているショコラ、ヴィアンヌが作る甘くてスパイシーなチョコレートなのだ。
かたくなにヴィアンヌが作るチョコレートを食べようとしなかった村長だが、終盤全てに絶望した彼は、とうとうチョコレートを口にする。
どれだけ神への信仰心や理性でもって自分を律したとしても、結局のところ食欲という本能的な欲求に勝つことなどできない。己の欲求に抗えずヴィアンヌのチョコレートを美味しそうに頬張る人々を心のどこかで見下していた村長だが、実は自分自身もそんな彼らと何一つ変わらなかったのだ。自分の姿を見つめ直した村長は、その後他者を排除するのではなく受け入れることを選ぶ。
他者を受け入れるためには、相手を知ろう歩み寄ることが必要だろう。しかしまずその前に、自分の弱さを受け入れることが必要なのかもしれない。日々の生活の中で、異なるバックボーンや価値観を持つ他者を受け入れることの難しさをより感じるようになった昨今において、ショコラにはただのロマンチックな物語だけではない魅力がある。
0 notes
Text

8月に観た映画の振り返りなるものを少し。
1.『プアン/友だちと呼ばせて』
タイ発の映画を観たのはこれが初めて。劇場結構人入ってるな〜と思ったら、製作にウォン・カーウァイが携わっているとのこと。なるほど。納得。
ストーリーは、ニューヨークでバーを経営するボスが、余命宣告をされた友人のウードと共にウード最後の望みを叶えるべく旅に出るというもの。しかしこれはあくまでも前半の話で、後半にはまさかの展開が待ち受けている。
このウードの最期の望みというのが元カノたちに会いたいというものなのだけど、出てくる元カノたちがとにかく皆んな魅力的。夢追い人ってやっぱり輝いているし、芯がある。もちろん彼女たち皆んなが皆んな夢を叶えて幸せになったわけではないけれど。大事なのはそのエネルギーなのだと思う。
車で旅する中でカーラジオ(ウードの父がDJを務めていた番組を録音したカセット)から流れてくる音楽が旅情を掻き立てているのも良い。ストーンズなど古い洋楽の数々がノスタルジックな旅へと誘う。ウードが亡き父へ想いを馳せるシーンは、少し感傷的過ぎるなと感じたけど。
気持ちの良い爽やかロードムービーも佳境、というところでどんでん返しが待っている。後半ではボスとウードの出会い、ウードが夢を追う女性に惹かれる理由などが明らかになる。前半は後半のための助走だったのだ。なんかエモい感じでは終わらせてくれない。(世の中エモいという言葉の便利さに毒されすぎ、と思いつつも使う)
ウードの気持ちが分かるので���楽しい気持ちになった前半から一転、後半は結構気持ちが沈んだ。でも、最後の最後に流れたNobody knowsとボスとウードのその後にちょっと救われた。最後に二人が本当の友情を結ぶことができて良かった。
プアンには様々な種類のカクテルが出てくる。目に楽しい。カクテル飲んでみたいんだけどなあ。お酒を飲めないのが本当に悔やまれる。

2.『ぜんぶ、ボクのせい』
初っ端主人公の優太(白鳥晴都)の顔がアップで映し出された瞬間、「この子、只者じゃない…!」と鳥肌が立った。わずか14歳であんなにも深い絶望を覗いたような目ができるなんて。フライヤーで使用されている写真にもそれが表れているのでは。
主人公の優太、優太が施設から逃げ出し辿り着いた先で出会うおっちゃんこと坂本(オダギリジョー)と、よく坂本の元を訪れる少女・詩織(川島鈴遥)の3人を軸に物語は進んでいく。優太は母親に捨てられ、坂本もまた優太と似た過去を持つ。そして詩織は優秀であることを求めてくる父親と亡き母親との間で鬱屈した思いを抱えている。それぞれに痛みを抱えた3人は、寄り添うようにして心を通わせていく。3人の自分の心に嘘をつかないでいられる関係性は、束の間映画の中で起こっている出来事を忘れさせてくれる。しかしそのような時間が長く続くことはなく、優太はまた振り出しに戻される。
3人の関係性に心が安らいだのは、どうしようもない大人である坂本のキャラが大きい。見知らぬ人の自転車を盗んで廃品回収に出したり、優太に当たり屋をやらせてお金を巻き上げたり。社会の常識に当てはめて考えてみると、もうどうしようもないダメ人間なはずなのに、人間味に溢れていて憎めない。そしてこのどうしようもない坂本をオダギリジョーが演じているのが良い。オダギリジョーだったからこそ、ここまで坂本が魅力的なキャラに思えたのだろう。
劇中なかなかに酷なことが起こっているはずなのに、終始、「優太の捜索願は出されていないのだろうか」ということが頭から離れなくて、ことの深刻さが現実味に欠けていたというか。
あと詩織の抱えている鬱屈とした思いも、あの歳ではありがちだなと思う。どこか自分を持て余してしまう感じ。お母さんの死が実は自殺だったのではないかという疑念も、父親に対する不信から生まれてきたものではあるのだろうけど、同時に死に対する淡い憧れが表れているような気もする。
全体として、なんかありがちだなという感じが拭えずもうワンプッシュ欲しい感じはしたけど、ひとまず白鳥晴都というものすごい逸材の登場を目の当たりにできたのは嬉しい。
0 notes