Tumgik
hpmi222 · 5 years
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(山田一郎)
今を
「幸福だったあの頃」にしないために
何ができるのか
全力で考えて走るだけだ
失うことはあまりにも容易いのだと
この体は知っている
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hpmi222 · 5 years
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(碧棺合歓)
かみさまがいることに気づいたのは
おとなになってからでした。
由来を知らない繋がったおまじない、忘れられていなかった誕生日プレゼント、報われないと思っていた約束。
怖くない朝日があるのだと知った日、
私は天を仰いで泣くことしかできませんでした。
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hpmi222 · 5 years
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(さぶじろ)
灼熱の太陽に熱されたコンクリートを夕立が打ち付けた。
「二郎、これ以上は。」
言いかけたぼくの生傷が目立つ手の甲に当たった雨粒は生ぬるくて、まるで知らない誰かの体温に触れた時みたいな不快感で現実に引き戻した。
誰かを殴った拳は痛いのだと、何かの漫画で主人公が語ったセリフが頭をよぎった。だからかわからないけど、ぼくは二郎の握られた手に指を伸ばしていた。触れることはできなかったけど。
ざあっと音を立てて降り注ぐ雨に立ち尽くした両足は、二郎に引かれてコンクリートを蹴る。
目の前で倒れた体を振り返ったら二郎がさらに強く手を引いた。
古びたタバコ屋の前の屋根の下で止まったぼくらは、黙ったまま空を見上げた。二郎がぼくの手を離した瞬間、2人の指先の間を通り抜けた風がやけに冷たく感じて振り払うみたくポケットに押し込む。
制服の中に入り込んでくる雨水の気持ち悪さと、まとわりつく濡れた前髪、ひりひりと痛む手の甲。
引きずる後味の悪さに、負けたのはこちら側な気さえしてきて這い上がってくる惨めさにじゃり、っと地面を蹴った。
「二郎、これ以上は。」
やめてくれ!
それ以上を言わなかったのは、相手を殴った二郎の手がわずかに震えていたから。
いいがかりをつけられるなんてしょっちゅうだ。ぼくらは負け犬なんだ。たくさんの誰かの願いを背負っていたのだ。それを知ったのはバトルの舞台を降りてからだった。
じめっとした路地裏にぼくを追い込んで見つめてきた目の奥は悲痛さがたしかにあった。ぼくはあの目を知っている。施設にいたころ、行き先を告げずに出ていくいち兄を見つめていた、二郎の目だ。
縋るような、願うような、叫び出してつかみかかりたくなるような、一途で行き場のない感情がダダ漏れの悲しい目。
ぼくが護身術を身につけていて鼻血なんか出していなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
雨に薄められた鼻血が口の周りで不快にまとわりついて、行儀悪くシャツの袖で拭ったらべたりと汚れが広がった。
安全なポケットから指をだして、さっき触れなかった二郎の右手に手を伸ばす。ぎゅっと握られた指を1本ずつほどいても二郎は何も言わなかった。くい込んだつま先の痕が手のひらに痕を残している。
「なんで、あそこがわかったんだよ。」
「オレの勘。」
「番犬はよく鼻が効くんだな。」
なあ二郎。お前も痛かったんだろ。殴った手。
「顔見せてみろ。」
ぐい、と顎を捕まれ宝石のわずかな傷でも見逃さない鑑定士のような鋭い目が顔中をぐるりと舐める。
「大したことねぇな。帰ったら手当してやる。」
「自分でできる。」
「かわいくねぇな。」
顎を掴む二郎の手を、触るなと天邪鬼な声色で振り払った。離れていく指先はもう震えていない。
「なんで二郎、傘持ってないんだよ。」
「お前こそ、いつも持ってる折りたたみはどうしたんだよ。」
「干したまま、ベランダに忘れた。」
はあ、とわかりやすくため息をついてまた大泣きする空を見上げる。
誰かを殴った拳は痛いのだ。きっとぼくを殴ったあの人も痛かったんだ。殴られたぼくの顔より痛かっただろうか。
行き場のない感情を握った拳。拳の中の暗闇の中に、潰えた願いが見えた気がしたんだ。
振りかぶられた手を見上げて、ああ、ぼくは殴られるべきなんだって体が固まったあの瞬間、テリトリーバトルのステージで浴びた歓声と罵声と人を傷つける目的のラップが聞こえたんだ。
「なあ三郎、お前は家族だ。おれが守る。だけどお前も自分を守れ。」
こんなときに兄貴ヅラかよ。言葉にする前にじわっと胸に広がった優しさが顔に出そうで慌てて俯く。
ねえ、愛とやらはこんな時、卑怯にぼくを苦しめるよ。嬉しいなんて思ってしまって、ぼくは人でなしかもしれない。
もう鼻血は止まったのに鼻の奥がずきりと痛んだ。
「ばかは考えるより先に手が出るからな。」
「なんだとてめえ、助けてやったのに!」
「でもお前がいてくれて、よかったよ。」
途端に、ふんと鼻を鳴らして「そうだろ、そうだろ。」と上機嫌になる単純さ。
握られた拳の中、ぼくへの気持ちが入っていたことを理解している。
きっと、二郎もそうして守られていたんだ。ありがとう二郎。言わないけど。
「雨、やまなそうだから走って帰るか。」
「お前、怪我してんのに大丈夫なのかよ。」
「まあ大した距離ないし大丈夫だろ。」
二郎の返事を待たずに大雨の中に飛び出す。おい! の声に耳を貸さずに走り続ければ、腕にひっかけていたスクールバッグがひょいと奪われる。さり気ない二郎の優しさは幼い頃からずっとぼくのそばにあった。
「帰ったらぼくが最初にシャワー浴びるからな。」
「はいはい。」
ぬるい雨が顔を滑り、服を叩き、全身を舐めては体から離れていく。鼻血も、痛みの奥に残った言い表せない願いも、まだ洗い流されてほしくないなと思った。
いち兄が待ってる。顔や手の怪我を見てなんて言われるんだろうな。きっと二郎がまた兄貴ヅラするんだろうか。考えたら口元が緩んできたから、ぼくはスピードを上げて家に向かった。
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hpmi222 · 5 years
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(いちじろ)
生ぬるい雨に打たれて呆然と空を見上げる、空っぽになってしまった兄ちゃんを抱きしめた時、
その目がいつまでも乱暴に通話を切った電波の向こう側にいる気まぐれで傲慢なヤクザを追っていて、
おれは早く強い大人になりたいと、歯を食いしばったんだ。
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hpmi222 · 6 years
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(一左馬)
ほとんどなくなった身長差
一センチでも左馬刻の方が太陽に近くあってほしいと、切実に願ってしまった。
胸の奥に巣食った17の頃の自分が、
あなたをヒーローを見る目でまっすぐに追いかけていることを、愚かであったとなじることは今でもできない。
体を走る痛みは懐かしさが血の中を通り抜けたから。
俺にとっては光よりも強い希望。
手を離すことしか選べなかった俺の模範解答は未だにわからないけれど、あれが最善なのだと行き着く度に、自分の未熟さを呪うばかり。
預けた背中、与えられた熱、呼び合う声。
すべて手放したくなかったもの。
誰もがきちんとさらよならが言えるわけではないことを知るんだ。
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hpmi222 · 6 years
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このお話が終わったあと、夢野先生は 「ひみつですよ。」と、
それはやわらかく微笑んだのでした。
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hpmi222 · 6 years
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(碧棺兄妹)
 毎日深くなっていく夜の音だけを追うように耳を澄ます。今日は何も聞こえませんようにと祈りながら目を閉じると、敏感になった耳から入った少しの風の音でも体が強ばるのがわかる。
 想像するの。瞼の裏の暗く深い影の向こう側は今日もきれいな青空。そこは誰もいない浜辺で夏に近づいた風が気持ちよくて薄手のシャツから伸びるお兄ちゃんの腕に空き瓶のひっかき傷は見えない。「合歓」と私に向ける声は柔らかい。お母さんの真っ白なワンピースは、海風に遊ばれて楽しげにはためく。 日焼けを気にしてつけていたはずのアームウォーマーも深い帽子も今日は置いてきたのね。隠さなくていいんだよ、ここではね。だってきれいなのだから。だって私の夢のなか。夢の中は誰にも邪魔されないでしょう?
 青空をかき消す怒鳴り声がドアの向こう側から聞こえてきて私の短い逃避行は終わった。次はお前だと悟るのに充分な当たり散らされる声はただの騒音。声ですらない、音。今日は誰にしようか花いちもんめ。値踏みするような目つきは楽しげで、「合歓」と吊り上げられた口から獣の匂いがした。中古品にさらに傷を重ねるよりも、新品のお皿をフォークでいたずらに引っ掻くことを好む人だった。私たちはそんな日替わりランチのような扱いを受けていた。
 守ってくれる手が何度も私の代わりにフォークを突き立てられるのをあと何度見る? 
 最後のデザートを味わうように丁寧に浅く浅く引っ掻く行為が、決して殺されはしない行為が、かえって恐ろしく思えた。
 恐怖心の扱い方を知っている声の主に呼ばれたら「はい。」と答える以外の選択肢は許されていない密室。上がっていく息を落ち着けるためにぎゅっと手を握る。この部屋に酸素がないように感じられるくらい吸っても吸っても苦しい呼吸。しっかりして、私。治ったばかりのこの皮膚に思い出させる手つきで丁寧に引っかかれるのだろう。メインディッシュを終えた口を甘く癒やすようにゆっくりと。
 たまにねこの夢を見るの。吐く息の温度が一瞬で奪われてしまう冬のベランダ。私が持っているグラスにサラサラとした星が降り注いであっという間に星がきらめくソーダになる。見あげればホウキに乗った魔法使いが軽やかにステッキを振り上げて「甘くなる魔法をかけておいたよ。」と笑ってくれる。私は自分で口をつける前に飲んで欲しい人達がいるからと締め切られた窓を開ける。あたたかいのに神経が削られる空気で満たされている我が家に戻る。言葉にはできない気持ちをこれで伝えたい、これならば伝えられるかもしれないと願いをこめて。
「合歓、待ってろ。」
 この時間が来てしまったのだと心が冷えていくのがわかる。スイッチが何かはきっと誰にもわからないし知ったところで防げるものではない、という諦めが私たちの気持ちを常に縛った。渡されたイヤホンで耳を塞ぐ。持ち主である父の激しい叱責の声が、陽気な童謡の向こう側でお兄ちゃんを責め立てている。凍りついているみたいに冷え切ったベランダでつとめて明るく歌を口ずさむ私は薄情だろうか。
 魔法使いさんお願いします。あの時みたいにこのお水に星を降らせてください。お兄ちゃんにあげたいのです。
 手を伸ばしてコップを夜空に近づける。寒さで唇が震えだしても歌うことはやめなかった。
 しばらくしてお迎えの声がベランダの窓を開けた。 整えきらない呼吸でもう大丈夫だと笑ってくれる顔には擦り傷がついていた。微笑むことはやめない悲しい優しさばかりを見せるお兄ちゃんに差し出せるものは冷え切った水道水だけ。笑顔は伝染するんでしょう? 悲しい顔も伝染するとしたならば私が選ぶのは決まっている。
「星の光が落ちると甘くなるんだって。」
「そうかよ。」
 笑っているのか、泣いているのかわからない顔を見せたと思ったら不意にふたりの冷たい隙間を埋めるように抱きしめられた。わずかにお兄ちゃんの体が震えていることに気づいても、できることはなくて気付かないふりをする私は(やっぱり薄情ですか)。胸にくっつけた耳から届く震える呼吸音。私を抱きしめた腕からはふわりと血の匂いがしてああかみさま、と唇を噛んだ。
 二人で一緒に住み始めた頃は「いつもあった感覚」がいつまでも肌に張り付いて、その度に「らしさ」を取り戻すことに身を削る日々だった。何が正しかったのだろうか。これからどうやって進んでいけばいいのだろう。考えずにいられる日がどれだけあったのかと思い始めて、出ない答えに首を振る。海に打ち上げられたボトルメールの持ち主を探すよりも途方もない、空想。さざなみのように押し寄せてくる不安や焦燥感が私の中で確かに呼吸を繰り返している。
 ねえ何が怖い?
 誰がくれるわけでもない答え。苦しいのか悲しいのか判別できないまま違和感に占領されたベッドの中で涙に溺れることができたら心地よいのだろうか。柔らかなシングルベットの中はあたたかくて、もう瞼の裏に逃げなくても声に追いかけられることはない。ひとつの結末が繋いでくれた結果が今。今は幸せな毎日。もう震えながら玄関の取っ手を握ることはない。これで、よかった。(今の私には、湧いてくるたらればにどう立ち向かっていいのかわからない。)
 みなとみらい地区の観覧車、コスモクロック21のライトがすべてLED化されてからもう随分経つらしい。日没から日付が変わるまでの間、うつくしいイルミネーションが周囲を飾る。
「乗っていかない?」
 答えが決まっている問いかけはずるいのかな。私より先に観覧車へ向かう背中を追いかける。何を話すわけでもない一五分の小旅行。家族が二人になってから通うようになった学校では、まだらしさを取り戻せずにいる。私のぼんやりとした不安にきっと気づいているんだろうけど、何も聞いてこない。そいういうところに助けられている部分は多い。好きなものを好きと口にすることは勇気が必要だった。そんな気の使い方をするだなんて思いもしなかった。今を繋いでくれたひとつの結末に対してどのように向き合えばいいのか答えを出せずにいる。
「きれいだね。」
「ああ。」
 手持ち無沙汰の右手が煙草を欲しがっている。こうして誰かと重なり合う時間を過ごすことは簡単なことじゃないんだな、と転校前のクラスメイトに連絡が取れずにいることに切なさがこみ上げてきた。自分の中で折り合いをつけていくしかない。絡まった気持ちを解いてくれるココアを差し出してくれる優しい手が、煙草を欲しがっている右手が、焦らなくていいのだと教えてくれた。徐々に地上から離れていくゴンドラ。喧騒やあたたかな笑い声、ヨコハマの町並みから遠ざかっていく私たち。現実からどんどん離れていくような気がする。建物が小さくなっていく。ここには沢山の人たちが暮らしている。日々を苦しみ楽しみながら営みを続けて街を作り上げている。その中の一員に、私もなれているんだろうか。探してしまうのは二人で行ったおしゃれなカフェでも、お気に入りの展望台でもない。暴力に染まっていたあの粗末な、家。
「合歓?」
 引き止める声に広がり始めた凄惨な光景が現実に戻る。ゴンドラが頂上まで登りガタンと揺れた。
「なに?」
「別に。」
 ふい、と逸らされる視線に心配されている。思い出に時効というものがあればいいのにな、と誰かに願いたかった。降りていくゴンドラから見えるファッションビルの広告に踊る「諦めを知ること」の文字がいやに残酷に思えてため息が漏れ出た。
 知った諦めの味を、舌を貫いて麻痺させたその鋭さをどこに流したらいいですか。
 そんな意図で書かれたものではないことはわかっているのに、湧き出る攻撃的な感情に目をふせざるを得なかった。上がりだす息を落ち着けようと深呼吸にすれば涙が滲んでまだこんなにも囚われているのだと、どうしようもない悔しさに襲われる。ぎゅっと手を握って耐えているとガチャリとゴンドラの扉が開かれて冷たい空気がわっと流れ込んできた。降りなきゃ、とぼんやりした頭で立ち上がると冷たい指に手を引かれた。冷えた手は私が無事に地上に降り立ったことを見届けても煙草には手を伸ばさずに、私を貫いた広告が貼られたファッションビルへと向かう。ビルの入り口とは別に、道に面した窓にレジを設けるショップで小さな箱を受け取った兄はそのまま私に手渡した。
「お前、これ好きだろ。」
 右手に揺れる四号のチョコレートケーキは日本ではここで出店していないお店の看板商品。特別な時にしか食べないことにしている私の大好きなケーキ。痺れさせられた舌を甘く癒やしてくれる優しさが小さな箱の中に詰まっていた。
「お兄ちゃん、早く帰ろ。」
 だめだめ、今は流れちゃだめ。鼻の奥から外に出ようとする涙を上を向いて喉に押し込む。紛らわすためにスキップして冷たい右手を掴んだ。煙草吸わせろ、の声が後ろから聞こえてきてはいはいと喫煙所へ寄り道をするためにsiriに話しかけた。
 当たりどころがまだよかったと説明された病院で目に入ったのは、清潔なベッドに横たわる兄の姿だった。
 吊るされた薬剤が少しずつ針を通して体の中に入っていく様子が痛々しい。中身は何だろう。念の為、と告げられた言葉の意図を探る。うなされて、苦しそうな呼吸。止まらない汗。額にハンカチを押し当てれば案の定、起きてしまった。
「合歓…?」
 伸ばされた手が私の頬に触れて、安心したように目が細められた。
「お前じゃなくて、よかった。」
 まっすぐなまなざしに見つめられると、込み上げる虚しさに体がいうことをきかなくなる。ベッド横の丸椅子に座って頬の手を自分の手で包む。うまく呼吸ができない。誰にしようか花いちもんめ。たまたま、家にいたのが兄と父だけだった。たまたま、虫の居所が悪くて。偶然が重なってしまっただけで。
 割れたビール瓶のひっかき傷がまだ治っていない反対の手は無傷だった。慣れることなんてできない。いつだって痛い。何も言葉を発さずに、耐えられるだけ。「大丈夫だ。」とだけ口にする度に体は冷たく冷えていくだけなんだよ。泣いちゃだめ、泣いちゃだめ。悲しい時、涙は塩辛くなるんでしょう。塩水は傷によくないから。ぐっと飲み込んで「家に帰ろう。」と口にする私がどれだけ残酷だったのか。私たちにとってあそこが帰る場所なのかという虚しさが毒として体に回る。口が震えっぱなしのもう二度と思い出したくない光景。兄は穏やかな口調でまた大丈夫だからと言った。この日、父は体調を崩した母の代わりに兄の帰りを待っていた。
「つらいならつらいって、痛いなら痛いって言えばいいじゃない。」
 目の前で泣いている女の子が私を責めている。
「誰も聞いていなくても、自分が痛いんだってわかるように。」
 そうしたら私がちゃんと聞いてるから。
 はっと起きたら見慣れない景色で、一拍遅れて病院であることを思い出した。点滴が終わるまでのあいだだけと、眠ってしまったみたい。外は暗く午後八時を過ぎていた。ゆっくり薬剤を落とし続ける点滴がまだ私たちを足止めしてくれている。兄のあたたかな手首に指を這わせると正常な脈拍が手首を叩いていて安堵する。包帯に滲む血はじんわりとシーツを汚していた。巻き付く包帯をそっと取ると、乾いた血に張り付いてぺりぺりと傷の深さを訴えた。ためらいもなく私は晒された傷口にぎりっと歯を立てた。驚いて起き上がろうとする体を押さえつけてさらに歯を立てる。
「おい合歓、何してる!」
 傷口を歯でこじ開けると「痛い!  やめろ!」と声が降ってきたから私はすぐに口を離した。口の中に広がる血の味が生々しくまとわりつく。これは痛みの味。
「ちゃんと、痛いよね?」
 腕を押さえて顔を歪ませている兄は、私の言わんとしていることがわからず状況を伺っている。
「つらいならつらいって、痛いなら痛いって言って。ちゃんと言って。」
 私が、聞いてるから。
 私の右腕のもう治った引っかき傷がずきりと痛んだ。
 噛み付いた腕の傷は大きく開いて負ったばかりの鮮明さで血をこぼす。点滴がもうすぐ終わる。解放されてしまう。終わってしまえばまたはじまるんだ、と暗い気持ちに心が負けていく。
「終わらないで、ほしいな。」
 無邪気でいること。それは私の課題だった。
 歯を食いしばって乗り越えてきたことが崩れていく。砂の城より脆く、さらさらと。願っても願わなくても日々は変わらない(わかってる。)努力は届かない(わかってる。)けれど希望を失えばすべて奪われた暗く冷たい世界になる(わかってる!)
 愛とは何?
 この両目からこぼれている液体にそれは含まれている?
 泣くことでは何も解決しないことを知っている。ぐちゃぐちゃになった気持ちが出ていくだけだ。悲しいのか、苦しいのかわからない。それでも胸が痛い。確かに何かが刺さっている。
「合歓、大丈夫だ。」
 抱き寄せる腕からは鼻を突く血の匂い。愛とは何。愛はなんでこんなに残酷。愛がなければ私たちは…。
 愛しいと書いてかなしいとも読ませるのだと知った時、やっぱりと思った悲しさがいつまでも胸から消えてくれなかった。
「ねぇ知ってる?」
 私を責めていた女の子に手を引かれて石畳の道に二人分の足音が響いている雨上がり。なるべく路地裏は通らないようにと注意された声を思い出しながら薄暗い道を進む。静かすぎて人通りのない道で背後から襲われでもしたら、と周囲を見渡す私を笑う彼女は私より幼い。
「秘密の場所、教えてあげる。」
 魔法使いが教えてくれたの。
「魔法使い…?」
 コツコツと濡れた石畳の階段を降りたら右のトンネルへ。この先は近道だけど魔法使いがいなければ遠回りすること。
「私、この道を知ってる。」
「何度も来たでしょ?」
 振り向いた顔にかかる前髪にいびつな切れ目が入っている。指先を見ればささくれが目立つ小さな手。きっと袖の向こう側にはフォークの痕があるんだ。
「開けて。」
 地下へ続く階段を照らす松明を通り過ぎて握ったドアノブは冷たくて重い扉を体重をかけながら押し開いた。
「秘密の、場所…」
 昨日、寝つきが悪かったからか正午からはじまった私の休日。胸を高鳴らせて開けた扉の先を見ることはかなわなかった。カーテンを開ければ空が高い。小春日和のやわらかな日差しが部屋を明るく照らした。
 着替えてリビングに行くとたまごサンドとポテトサラダのプレートに夕方には帰ると置き手紙が添えてあった。「疲れた時ほど丁寧に食事をすること。」を二人で決めてから一年が経った。手作りの食事は、体の中からあたたかくなることを私たちは知っている。
 帰宅した兄の手を引いて私たちはいつものように変装して家を出た。夕日で赤く染まる石畳を進む。なるべくひとりで路地裏には入るなと忠告した口が、前は誰かと来たんだろうなと後ろから言葉でつついてくる。二人だったけど実際には初めて来たよ。この石畳の階段を降りたら右のトンネルへ。この先は近道だけど魔法使いがいなければ遠回りすること。
「魔法使いが教えてくれたの。」
「魔法使い?」
 はあ? 呆れる声を上げても特に抵抗はしない兄は私の好きにさせてくれた。そうあの魔法使いが、絵本の中で教えてくれた。もらいものの背表紙に傷が入っていた大好きな絵本はヨコハマが舞台のファンタジー。道案内の女の子についていくとそこにはお店があった。そしてそのお店は実在したことに驚いた。
 掴んだドアノブはずしりと重く夢で見たままで胸が高鳴る。思ったより滑らかに開いた扉の向こう側は夜空に包まれていた。星空の下の広いフロアに転々としかない座席は離れ小島のよう。案内人に渡されたランタンのオレンジが揺れると床の大理石に埋められた石が囁くようにきらめいた。ガラステーブルの下を流れる天の川が美しくて私はカウンターを選んだ。薄暗い店内は星の形のライトでほのかに照らされている。少し離れればはっきりと顔を認識することはできない。帽子を脱ぎ、サングラスをしまって、カラコンをはずした。誰も私たちに気づくことはない。お願い、今だけは知らないふりをして。ありのままでいることの難しさはもう充分知ったの。
「星空ソーダと三日月アイスコーヒー。」
 迷う私たちに薦められたドリンクの眩しさに息を呑む。ランタンに照らせて踊るようにグラスの中を舞う光の粒。星がグラスの中で輝くとそれは���くなるんだって昔読んだ絵本の魔法使いが笑っていた。
「お兄ちゃん、見て。」
 ランタンからアイスコーヒーを遠ざけたら真上から降り注ぐ星のきらきらが反射した。
「星の光が落ちるとね、甘くなるんだって。」
「そうかよ。」
 本当は甘党なんだって知ってるよ。嗜好品は贅沢品だったもんね。
「ねぇ、おぼえてる?」
 天井を見ればあわせて見上げてくれた赤い目にきらきらと星が降った。
「真冬のベランダ。寒かったけど好きだったんだ。お兄ちゃんの目が一番きれいに見えたから。」
 北風に勝った太陽にはできなかった。月と星がその目を優しく照らしていたの。確かに思い出すのは決して明るくはない毎日だったけど、その日々がくれたものは確かにあった。
 何も言わずに細められる目からこぼれる気持ちが穏やかになったのは最近のこと。息をするのはやっとだった。水面に口を出したところで吸い込めるのは酸素とは限らない。喘ぎながらそれでも生きることから逃げなかった私たちの過去は忘れたい呼吸の温度ばかりを体に覚えさせた。
「ガムシロップ、入れていいよ。」
 開けたことがないのだと渡されたポーションは二つ。パチリと爪を折って注ぐとろりとした液体。これはほしい、と口にすることをやめた舌を甘く癒す魔法。見あげれば魔法使いがウィンクしている。彼はここのオーナーなのだろうか。壁のイラストにありがとうを心の中で囁く。
 いつか来てみたいと思っていた絵本の中の世界。うつくしい幻だと、実在はしないと心のどこかで自分に言い聞かせていた。安心していいよ、ちゃんとその願いは叶うから。隠れて泣いていた幼い頃の私を想う。
「甘くなる魔法をかけておいたよ。」
 魔法使いの口調はもっと軽やかだった気がするな。人差し指をステッキに見立てて左右に振った。
「合歓、ありがとな。」
 頭を撫でてくれる腕に傷が残らなくて良かった。ストローで回された氷がカランカランと嬉しそうな音を立てた。
 大丈夫。痛みを伴わない「大丈夫。」が少しずつ増えてきたように、私たち歩いて行ける。一度に水を与えてると枯れてしまうから、ゆっくりと水と光を浴びていこう。そして、愛が何かを体に覚えさせていきたい。髪を伝って流れてきた体温にも、手を引く私に付き合ったことも、たまごサンドと置き手紙にも愛という血が通っていた。まだ理由を付けなければ飲み込めないものはあるけれど、いつか、ありったけの愛を渡して受け取れる日がきますように。
 大丈夫。少しずつ、ちゃんと、歩けてる。
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hpmi222 · 6 years
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おやすみのうた
(どひふ)
※10/7 CrazyLyricBattle 無料配布
 会議ばかり続く水曜日の午後。意味あるのかそれ、と言いたい議題ばかりが耳を通り抜ける。当番制だったはずなのにいつからか俺が議事録を書く事になっていて、退屈な会議の唯一の意義になる。休憩もろくにとれないまま日が沈み、朝見たっきりのスマホには一二三からの「行ってきます★」のLINEが入っていたから既読だけつけてポケットにしまった。  取引先からの要望はなぜか急ぎが多い上に確認事項ばかり。この時間から?  が通用しないのは太客だからだ。額を振りかざすクライアントはこちらを犬か何かと勘違いしている。 「かしこまりました。」  この返信しか許されていないあたり、間違っていない気もするが。  人は苦手だ。話すことも、空気を読むことも煩わしい。今は仕事だからやるのであって、それ以上の関係は必要ない。
 今日も遅いんですね。  はい。
 あ、コーヒーは自分でいれるからお気づかいなく。午後十時二十八分の会話は明日には誰と話したかまで忘れる。一二三はすごいな。接客業は未経験ではないけれどもうすすんでやりたくはないな。  待っていた取引先からのメールは待っていたこちらの状況は無視する声色で締切の延長を求めるものだった。
 かしこまりました。
 俺は犬だ。いつだって従順に尻尾を振る。午後十一時四十分終電チャレンジ。神経を使う乗り換えも最短ルートのドア位置を覚えたから余裕だ。煽られるけれど、最終電車は毎回発車を待ってくれる。そういう優しさがちゃんと存在している。  何時間ぶりかの自宅は自分と同じように不健康な匂いがする。木曜日の体はひどく重い。短くシャワーを浴びてソファに横になる。出社まであと何時間?  うとうとしながら、ベッドまで行かないと、と体を起こそうとしても動いてくれない。常夜灯に照らされながら、まあいいかとそのままずるずる眠ってしまった。  こうしてまた一日を消費するように過ごしていく俺は同じ生活をあと何年続けていけると思う?  年々体力は落ちていくしもし大きな病気になったら?  会社は最終的には守ってはくれない。なぜ人として扱ってくれない会社に行く?  なぜ俺はそれを選ぶ? 「幸せになりたいと思ってる?」  突然息が苦しくなって咳き込んだ拍子に目が覚めた。今のは夢か。誰か俺に話しかけてきた気がするけどあれは自分だろうか。 「独歩。」  呼ばれると同時に手を握られていることに気づく。あたたかな指先は震えの止まらない俺の手を包みながら撫でている。すん、と息を吸うと営業用ではない一二三の匂いがしてほっとする。 「一二三?」 「うなされてた。風邪ひくからベッドいこ。」  覇気のない声。もしかしなくても、一二三も疲れている。なのに、そばで見ているだなんて。そんなに俺が心配なのだろうか。そんなに心配させているのだろうか、とひねくれた意地が心にじわりと広がる自分に呆れる。 「ああ。」  腕を肩に回されてベッドまで運ばれる間も頭はぼんやりしたまま。今何時だろうか。俺を引きずる一二三が「独歩おもいー。」と漏らす。ドサッとベッドに落とされ、「子猫ちゃん」にはこんなことしないんだろうとなじりそうになる。いやいや、どうしたんだよ。おかしい、おかしい。俺は自分で考えている以上に疲れているようだ。 「独歩?」  疲れていることを理由に一二三をタオルケットの中に引きずり込む。一二三を抱き込む指先はまだ震えていた。一二三は慣れたように何も言わずその体を好きにさせてくれる。静かな心音が骨を伝い聴こえてきた。どんなヒーリング音楽よりも美しく感じて、なんだか救われた気がする。深く息を吸い込めばシャンプーの匂いが香り、同じものを使っているのに一二三の匂いは誘われるような気持ちになるものだから不思議だ。やわらかな金髪に指を差し込めばくすぐったそうに身を捩る姿にじわりと嬉しさがこみ上げてきて、それと同時に怖くなった。  傷を舐め合うような夜を求めては自分を慰めた日々を重ねてきた俺たちは、何かある度に答え合わせをしてはまともさを確認した。滑稽であることは承知していても、自分たちの経験は無駄ではなかったと証明し続けたい。ごめんなさい、ごめんなさいはもうごめんだ。だから挑むんだディビジョンバトル。始まれば決まる結末に賭けるわけじゃないけど、どんな辛い過去もひっくり返すだけだろう? 「一二三おやすみ。」  流れ星に願うように一二三の閉じられた瞼にキスをする。くすくす笑う一二三の声は、無邪気に明るい。  女性が好む甘い香りで自分を飾って、スーツで嘘を本当にする一二三は今幸せ?  やり直したいなんて思わないさ。自分を不幸だとも思わない。築き上げたものはどんな形であれこの体の一部なのだから。自分が自分であるために選んできた結果なのだから。 「おやすみ独歩。」  寝れるのはあと一時間くらいだろうか。あやすような、なだめるような声で一二三が笑った。  きっと朝には震えはおさまる。起きた時にはいつものように一二三が朝食を用意してくれて「独歩おはよう!」って頭に響く声でこの部屋のドアを開けるだろう。それがいつもの日常。いつもの日常にはいつもの自分しか似合わない。変えてやるんだ。一歩足を出した自分が似合う世界に。選ばれる側じゃない、選ぶ側になるために。  ひたむきだった過去の自分は間違いではなかったけど、今を変えられるチャンスがあるのならばマイクを握る。それだけ。諦めた返答しか許されない日常から、自分から抜け出すんだ。  過去にこの体をめちゃめちゃに切り刻んだ言葉が持つ力を、俺たちは信じてる。
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hpmi222 · 6 years
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もう少し、隣にいさせて
(どひふ)
※10/7 CrazyLyricBattle 無料配布
 些細なことだったかもしれないけど、たった一歩だと笑っていたけれど、それはあまりにも眩しかった。一緒に隣を歩いてきたからこそ、知らないことはない自信がどこかにあった。独歩のことならなんでも聞いて!  いつかの自分の無邪気さは確かにこの心を傷つけた。  終電続き、休憩なしの薄給サラリーマンを何故選び続けるのか。理由を聞いてもアルコールを煽る口からは確かな理由は得られないまま。大丈夫だとも、平気だとも言わない。独歩は正直で心配になるくらい真面目だ。そう褒めると、お前もだろって目をそらしながら呟く時の目が、なんか、好きだ。 「がんばるよ。」  今日はふたりのうちどちらの言葉だ?  知らない声色で電話する独歩を見て随分と置いていかれた気になる。ひとつふたつ、知らない独歩で独歩が構成されていく日々が、少し、怖い。長時間労働で有名な企業は社会人1年目の独歩を手足のように使う。がんばるよ。呪いの言葉だ。それでも、 「応援してるよ独歩!」  そう答えてしまうこの口もまた、独歩に呪いをかけていく。
 今日もでかでかと繁華街を飾る自分のポスターの横を通る。これはNo.1の証。たしかに歩いてきた。きれいな道ではなかったさ。してきたことも、浴びせられた言葉も。それでも応えてきた結果が今にある。努力家という手垢まみれの表現をしてしまうほど、現状を築いてきた自分が好きだ。
 社会人五年目の独歩は、また知らない声で電話をしている。真面目な性格が買われて多数の取引先から愛されている姿にとても嬉しくなったし、とても寂しくなった。(俺の知らない独歩が増えていく。)長時間労働に慣れた体はこうして深夜の宅飲みに時々付き合ってくれる余裕ができて、それにもまた少し胸が痛んだ。 「ひふみ、俺はお前に」  追い付きたかった。  酔った独歩が口を滑らせた。こんなこと泥酔しても言わない。今まであんなに酔っても理性だけは保っていたのだろうか。まさか。 「ひふみ、行かないで。」  宝の地図を広げて今日はどこに行こうか?  そんな話が似合う子どもだった。はやく大人になりたくて、怖いものを減らしたくて、レールに乗った道を逸れた自分には常に後がなかったからがむしゃらだった、だけで。  独歩の隣にはいつまでも歩けないと知った時からこの足は震えている。そんな足で、どこか、なんて。優しい桃源郷はない。汚れた空気と、落ち着かない雑踏。ある程度のものはお金で買えることを知ったからこそ、お金が届かないものを知ったんだ。生活がうまく回り始めるまでの道のりを思い出しながら独歩を見れば、涙の膜が張った瞳に射抜かれた。ああこの目を、苦しげに細められる瞳を、よく知っている。 「何言ってんだよ独歩。」  独歩のほうが!  言おうとして、やめた。最初に踏み出したのは独歩だろ?  怖いものがない独歩の世界にどんなに憧れたかわかる?  謝り癖あるけどさ、独歩はちゃんと理不尽に立ち向かえる。そして自分なりに納得して進んでいくんだ。その背中をずっとずっと、見ていたというのにさ。 「独歩はばかだなぁ。」  寂しさでのたうち回った者がする目に笑って返す。 「ずっと、隣にいたじゃないか。」  なんて、願望。ずっと一緒に歩いてはきた。「前」とはどこかはわからない。暗闇の中を歩き続けた日も少なくはない。終わりが見えないことは苦しい。それでも足を止めなかったのは、背中が見えなくなる前に独歩が振り返っては待ってくれていたことだって、いつ言える。 「ひふみ、行かないで。ひふみが遠い。」  独歩のおぼつかない指先が、指輪に触れてくる。最初の売上で買ったものが親指で、応援として独歩からもらったものが人差し指ので。相当、酔ってるな。 「ひふみはがんばって、先月も売上No.1だ。俺はまた目標未達で、いつまでも底辺で…」  始まってしまった独歩の懺悔をひとつずつ糸をほどくように聞く。数字はわかりやすいからすぐに優劣が明確になるけれど、訪問先の小児科での丁寧な対応、他の営業チームのトラブルに持ち前の几帳面さで火消しをしたこと、独歩を指名しての継続が決まった案件、数えればいくつもある。  どこかへ行ってしまうのは独歩の方だと、思う。独歩が気づいていないだけで、その足ならどこへでも行けてしまうのだから。優しい独歩。自分が優しすぎて、自己犠牲的な部分には目が向かない。 「がんばりすぎない、で。」  それ、独歩がいう?  独歩はさ、俺っちより大事なひとが周りにいる。その時ピンチの人がいたら飛んでっちゃう。それはこっちも同じ。無事な限り、戻ってくるよ、この場所に。独歩の隣に。お互いが、お互いの背中見ていたかもなぁ。 「独歩もね。」  言い終わる頃にはもう寝てる。眠った人間は重いな、とベッドに運んで一緒に横になる。片付けは明日やる。俺っちショートスリーパーだから、独歩が起きる頃には何もかもきれいになってると思うよ。おやすみ独歩。
「もう少し、隣にいさせて。」
 もう少し、後少しだけ。
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hpmi222 · 6 years
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call my name
(どひふ)
※10/7 CrazyLyricBattle 無料配布
「観音坂さん。」
 名前というものは、社会生活においてないと不便ではある。ただそれだけだ。他者と関わる必要がなければ自身の名前を忘れてしまうこともあるかもしれない。  読み手のことを考えてのフリガナは、必要だからだけで、好んで口にされるためのものではない。  交換される名刺。温度のない自己紹介。消費されていく会社代表の自分の影。会社の財産は自分ではなく、自分の名刺と交換した取引先とのパイプ。会社間のパーティではこの体は駒でしかないけれど、これも仕事だからやるしかない。
 観音坂さん  観音坂さん
 律儀に相手の名前を呼ぶのは刷り込みだ。俺もまた誰かにとってはお金に見えているんだろうか。同じように呼び返す自分も同じように見えているんだろうか。呼ばれる度に自分を浪費していくような感覚に最後まで耳鳴りが止まなかった。その名前は会場から出れば忘れてしまうからこそ、名刺を使い古したケースに傷がつかないように丁寧にしまった。  帰宅後の脱力感に抗いながらスーツを脱ぐ。惰性でつけたテレビでは、ニュースキャスターが鮮明な声で今日1日のトピックスを読み上げている。朝からの出来事を振り返る画面の向こう側。今日は何を食べて、誰と話しただろうか。人が群がる有名企業の部長と名刺交換をしたはずなのに、会話は覚えていない。自分もこんな風に誰の記憶にも残らず空気の一部のように扱われてしまうのだろうか。  プッシュ通知に震えたスマホを見れば、亡くなった知り合いの誕生日を無邪気に告げるFacebookからだった。今日のことはあっさり忘れてしまえるのに、随分昔のことは色褪せることなく思い出せてしまう。疲れた口から、意図せずその名前がこぼれた。  明日は午前半休。パーティの後は午前半休が許される。気遣いではなく、午前中を棒に振るまで全力で臨めという意味で。  俺はこれでも真面目に生きてきた方で、起きたら二日酔いの頭痛にベッドから起き上がることをやめた。そこまで広くない1DK、ドアの向こうからの音は漏れ聞こえてくる。時刻は午前六時二十五分。 「また勝手に…」  続きは頭痛に遮られた。生活サイクルがまったく違うからこうして迎える朝は度々訪れる。朝食を用意しているのだろうか。  ガチャリ  経年劣化により静かに開閉しなくなったドアがそっと開けられて様子を伺われている。重だるい体を起こして一二三の視界に映ることにした。 「おはようどっぽ!」  頭に響く声は一瞬にして頭痛を助長させた。目を開けていられない。 「ん?  どうした?  さては二日酔いか?」  わかっているなら静かにしてくれ。ドアの向こうからは焼かれたパンの匂いがしてきたが、あまり食べる気になれない。 「食べられそ?」 「……食べる。」  普段の倍の時間をかけてベッドから這い出る。着替えずにダイニングキッチンに向かえば、状況を理解した一二三が「ゆっくり食べな。」と笑う。  一匙だけ砂糖が入ったコーヒーが慣れた手つきで差し出される。向かいのもてなし上手な指先は丁寧な仕草でベーコンエッグにナイフを入れる。多くの女性たちがもとめてやまない手が無防備にさらされている。スーツを着ていなくても一二三の所作は人の目を奪うんだな、と考えながらコーヒーを飲み下す。一二三がペアで揃えた皿やマグやカトラリーは安物のテーブルには不釣り合いだな。高級品は手によく馴染むし、彩の良い一二三の料理をさらに鮮やかに見せる。食欲が落ちていても口に運びたくなるのはそういうことなんだろう。 「ほら。」  バターが塗られたバゲットの上に乗るベーコン。マーガリンじゃなくて、バター。消費するだけの物から、生きる為に必要な物ばかりが存在するようになってからもう随分経つ。 「ん。」  ずい、と差し出されたそれをパクリとくわえる。それ以外の選択肢はなかったように思うし、そうしたら一二三は満足そうに笑ってくれるから、それでいいのだと思う。自分の��齢を考えてしまうけれど、この光��が広がるのであれば別に些細なことなんじゃないだろうか。それともまだ酒が残っているのだろうか。 「うまい。」  だろ!  無邪気に一二三が声をあげる。だから頭に響くだろ。言わないけど。 「なあどっぽ、会社何時から?」 「十二時出社。」  独歩、ではなくどっぽ。スーツを着ていない一二三はそう呼ぶ。裏になにも隠れていない、何も背負っていない軽い声が、好きだ。 「少しゆっくりできるな、どっぽ。」  一二三は夜の人間なのに。おそらく、玉座の座り心地を知っている王者であるはずなのに、こうして会うことが多いから朝の匂いがする。やわらかくて、あたたかくて、きらきらとしている金髪は太陽のようだ。 「食べたらもう少し寝る。」 「時間になったら起こすよ。」 「いや、一緒に。」  えっ、と驚いた顔は少し赤い。なんだよ、今更こんなことで。そういうとこかわいいな、と思う。やっぱり酒が残ってるかな。 「だめか?」  まだ酔っているから、するするとこんなことを言う俺は別に責められないだろ。会社のためにこうなった俺は優しくされるべきだ。なんて。 「今から寝る。」  まだ顔が赤いままの一二三の手を引いて寝室のドアを開ける。ベッドに引きずり込んだ体はいつもの匂いで安心する。抱き込めば、ふふっと笑う声が胸にあたる。家に来る時、一二三は営業用の香りは持ち込まない。どっぽ、と呼ぶ声と一緒に幼馴染みの体でくる。一二三の、いつもの匂いがする。 「どっぽ、おやすみ。」  さりげなくアラームをセットしてくれる優しさにまた抱きしめてしまう。冷めたベーコンエッグとバゲットは起きたら食べるよ。少しだけ、おやすみ。ひふみ。
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hpmi222 · 6 years
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また一緒に眠って
(どひふ)
※10/7 CrazyLyricBattle 無料配布
 優しいものが怖いのだと力なく笑う一二三は、蜃気楼のように消えてしまいそうだった。
 俺の指先を触って安心すると離さなかった一二三はまるでこどものよう。あとどれだけ俺たちは今のままでいられるのだろう。暗い海を見つめながら一二三は何も言わなかったが、ふとした瞬間にいなくなってしまう危うさをまとっていたことを覚えている。  死に向かって人間は生きていくけれど、あいつは体を燃やしながら歩いているんだ。吸った酸素の分だけ鮮やかに輝いて女性たちを楽しませる。  自分からあらゆるものを奪った存在に、今日もとびきりの笑顔を向けながら。  もう自分を痛めつけるのはやめようって、疲れでフローリングに倒れる俺をベッドに運びながら一二三は呟く。無理はするな、ってどっちの言葉かわからないくらい口にした。無理をしなければ許されない現実は常に口を開けて俺たちを待っている。 「最後は何も持っていけない。全て奪われて骨だけになるんだ。」 欲しいものは何だって手にしてきた顔の王者は表情をなくしてしまった様子で呟く。二人分のスーツを丁寧に畳んだ手が頭を撫でた。手入れの行き届いた指先は誰も傷つけないように常に深爪気味で。 「一二三。」  うん?  と向けられる瞳は哀しいくらいきれいだ。薄い長袖のシャツの向こう側には、嫉妬という名の子猫につけられた傷が回復を待っている。いたずら好きだからと誤魔化す営業スマイルは選ばれた者以外それ以上を許さない。 「もう少し、寝てていいよ独歩。」  午前四時を過ぎたあたりの新宿はまだ静かに稼働を続ける時間。頭を撫でる一二三の手を取る。また少し痩せただろうか。頬を寄せて手首の脈に耳を澄ませた。一二三の音が耳の奥を満たしていくのがわかり、安心してしまう。 「一二三。」 「うん?」 「呼んだだけ。」 「もっと呼んで。」  独歩の声で。  おねだり上手の口がいつもとは違う声色で小さく呟く。いいよ、何度も呼んであげる。 俺たちはすべてを掛けて築いたものを失う時がくることを知っている。大して信じていないし、期待は裏切られ世界はそれでも変わらず回る。俺が誰であっても、一二三が誰であっても変わらないものはある?  失った分、比例するように奪われていく。優しい世界はない。それでもなぜ生きようとする?
 優しいものを傷つけてしまうのが怖い。
 力なく笑う一二三は続ける。この手は簡単に奪えてしまう力を持ってしまったのだと。与えられる側の自由は常に誠意と天秤にかけられるものだ。大金と一緒に払われた人の業を受ける職業は一二三の向上心を食べてはその足を縛り付けていく。 「また、海に行こう。」  今度は晴れた朝に。まだその足で歩けるうちに。 「いいよ。」  暗い自室に蜃気楼を見た。心配になって、いやだと思って何度も呼ぶ。一二三、一二三。 「独歩。」 「行かないで。」  とくとく。  耳を満たす脈拍が早くなる。これは確かな音。今はこれだけが確かなもの。  行かないで一二三。 「独歩、疲れてるんだよ。」  反対側の手が頭に触れる。力が抜けて、瞼が降りて、一二三の手はどうしようもなく好きだって思う。優しい一二三の手はいつもこうして誰かを。 「おやすみ、独歩。」  時間になれば起動するアラーム。それに任せて一二三は朝にはいなくなる。よくあることだ。どこまでを仕事で通しているのだろうか。  重い体を動かして身支度をする朝。用意された朝食は今日は少ししょっぱい。スーツは嫌いだ。会社も嫌いだ。それでも腕を通すのは社会の歯車の一部だからだけじゃない。
 今日も一二三が上客の好む香りをまとって、スーツに袖を通しているからだ。
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hpmi222 · 6 years
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海の影と瞳の色
(どひふ)
※10/7 CrazyLyricBattle 無料配布
 都心から電車で二時間。さらにバスで四十分。嫌味を言われながら半ば無理矢理に取った有給休暇。今日はその二十五日のうちの一日を消化する。  バスは海沿いを走りながら港町の静かな営みをその窓越しに見せてくれる。いつもはお喋りな一二三が今日は隣で静かに眠っている。  月末が近づくにつれて一二三の眠りは浅くなる一方で、グラスに注いでいるシャンパンが硬貨に変わる悪夢を見る日もあるのだとか。月が変わった最初の一日、今日は休みを取ったのだと言うものだからたまにはの気持ちであわせた。出発時間ぎりぎりまで眠っていたというのに、昨日までの疲れがまだ一二三の体を襲っている。 「一二三。」  目的地まであと五分。肩によりかかる一二三を呼ぶ。ゆっくりと開かれる瞼から覗く琥珀色の瞳がこちらを見つめてうつろに瞬きを繰り返す。疲れが滲む無防備な顔はきっと他じゃ見せないのだろう。 「独歩、おはよう~。」  よく眠れたと笑う一二三のゆるい表情を横目に降りる準備をする。初夏の日差しに照らされたコンクリートから横道に入り海岸に向かう。会社行事の使い古しで押し付けられた派手なレジャーシートがようやく役に立った。日陰はまだ少し肌寒いだろうか。商売道具を傷つけないよう、一二三は長袖のパーカーを手放さない。来る途中で買ったスポーツドリンクを煽る姿が絵になりすぎる。  静かなさざ波の音。引いては寄せて、引いては寄せての繰り返しが続くこの場所は学生時代からたまに来ていた秘密基地のようなもの。特に何をするでもなくお互い波の音を聞きながら思い思いのことをする。一二三はためた文庫本を三冊脇に積んで読み始めた。普段目を通す流行りの作家のものではなくて、一二三の好きな作家の本。俺はぼんやりと海を眺める。カモメがじゃれあいながら鳴いている。  前はいつ来たっけ。その頃よりは少しは成長しただろうか。成長とは何だろうか。どれだけ無様な仕打ちを受けても耐えられることだろうか。それならば、少しは進んでいるのだと言える。ただ、これは麻痺と何が違うのだろう。  周りに落ちているシーグラスは人気の水色や薄い緑をはじめ、珍しいと言われる赤や紫も散らばっているところを見ると、まだあまり人に見つかっていない場所なのだろう。ここだけまるで時が止まっているようだ。  高校生の頃に来た時にもあの自販機はあった気がするし、独特の形の岩場に挟まった瓶もそのままだ。一二三がクラスメイトの女子に追いかけられる形になった放課後の出来事を引きずっていたものだから、慰めるつもりで誘った日が最後だ。  怖いものに対しては誰だって敏感だ。不意打ちをされたら太刀打ちできない場所には近づかないし、そんなシチュエーションは可能な限り避ける。その日だって敏感に危険を感じ取った一二三は「独歩やばい」とだけメールをしてきて、俺はすぐに学校内を走り回った。屋上の扉を背に追い詰められてしまった一二三は記憶が飛び飛びしか残っていなくて、しばらくは何があったかを話すことができなかった。  一二三の女性恐怖症は有名な話で、一二三に近づく女子生徒はほぼいなかった。用がある時は人づてでやり取りをする事が恒例化しているけれど、自分ならば大丈夫だと行動してしまう子が少なからずいる。一二三を追いかけた女子生徒は男子生徒の制服を着用し、帽子を被って近づいたのだと言う。これぞ思春期特有の思い込みや勢いといったところか。女子生徒はただ「直接話したかった。」と純粋な理由を悲しげな声で呟いて、止めに入った俺の横を足早に通り過ぎた。  過呼吸を引き起こした一二三を落ち着けながら日が暮れるまで校舎に残った。屋上が立ち入り禁止になっていてよかった、と思うほどの混乱具合で一二三の症状の深刻さを理解した十三年前。進行する人間不信に苦しむのは本人だ。自分の意思に反して疑心暗鬼になることを止められない。そして一二三は真面目だから自身を責めずにはいられない。  珍しい色のシーグラスに相容れないパステルカラーのスコップが落ちている。拾って波打ち際の濡れた砂を掘る。周囲の砂を集めて土台を作り積み上げていく。指や爪の間に濡れた砂が入り込んでいく感触が懐かしさを連れてくる。  砂を触りながら何の実りもない話をする時間は大切だったのだと、今だからこそ思う。一大イベントや、重大な決断を下した日が毎日を作るわけじゃない。 「ここは、こうする。」  横から手が伸びてきてスコップを取り上げる。深爪気味の指先は寝不足の影響か色が白く血色があまりよくないから、出勤前は必ずマッサージをするのだと言う。  丁寧な手つきは歪なオブジェを見事、砂の城へと仕立てあげた。てっぺんは困っている誰かがいたら見つけられるようにと展望台にしたんだと語ったあの時と同じ形の城。助けようとして手を伸ばしても届かないことはある。それはシチュエーションによるし、どうしても仕方なかったこともある。それを責めたりはしなかった。それでも確かに「誰か」を呼んでいて、それは届かなくて、傷ついた事実が過去に暗い色をつけている。 「相変わらず、器用だな。」 「へへ、まかせろ。」  日差しが傾き始めると同時に背後から波が迫ってくる。こうして追われるように日常を過ごしてきた日は少なくない。気づいたら波が口も鼻も塞いで溺れてしまうのではと思う日だってあるわけで。崖っぷちかと問われたら自信を持って否定はできない。  美しく作り上げられた砂の城は、押し寄せる波に少しずつ削られていく。偽りではないにしろ、積み重ねた関係性は肩書きを失えば同時に手からこぼれ落ちていくほど虚ろだ。大きな波に一揉みされてしまえばあっという間に失われてしまうもの。どれだけ美しくあっても、どれだけ堅実であっても、そんな背景は意味がない。その一瞬に耐えられるかどうかだ。社会人は結果がすべて。行程ではない、選択を間違えれば世間にどうされるのか、俺たちはよく知っている。 「先月さ、売上二位だったんだ。あと一万二千円足りなかった。」  引いては寄せて、寄せては引いてを繰り返す波が城を少しずつ削る様を見つめる疲れた目は、合計を数える指先を思い出しているのだろうか。 「トップとそれ以外じゃ、やっぱり、違う。」  今月から減る指名はあるだろうが、そうじゃない。響き渡るシャンパンコールは厚意と呼ぶにはあまりに過激で、真摯に身を削り、時に犠牲的な笑みをたたえながら彼女たちは一二三に捧げる。届かなかったことに対して決して責めることはないけれど、逆にそれが一二三も彼女たちも苦しめるのだ。それが、一二三が生きている世界。  ざざっと勢いよくやってきた波が砂の城を攫っていく。慌てて止めようとしたけれど、さらさらと海水に溶けて飲み込まれてしまった。残ったものは、わずかな残骸。展望台は足元の砂に混じってしまい、もう誰も見つけることはできない。 「一二三、今日さ一緒に飲まないか。」 「明日は早起きなんだろ?」 「いいから。」 一二三の手を引いて、派手なレジャーシートをたたむ。今から帰ればそんなに遅くはならないだろう。手先が器用な一二三に笑われるかもしれないが、夕食は俺が作ろう。 「何か食べたいものある?」 「独歩が作ってくれんの?  ならなんでもいい!」  展望台はなくても、俺が見つけてやる。だからもっと呼べよ。やばくなる前に。傷ついたって言えよ。ヘラヘラしてていいからさ。 「一二三は頑張ったよ。」  えっ、と目を見開いた一二三の口元は少し震えている気がした。人はさ、人として扱われてはじめて回復するし肯定できる。今日は、今日だけは幼馴染の俺のよく知る一二三でいればいい。 「独歩、ありがとう。」  太陽に照らされながら、一二三はやわらかに笑った。
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hpmi222 · 6 years
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答えと決意と迷いとLINE
(どひふ)
※10/7 CrazyLyricBattle 無料配布
今日も厳しい暑さが続きますので水分補給はこまめに行ってください。  ニュースキャスターが毎日同じことを繰り返すテレビの向こう側。弊社は医療関係なこともあり、社員が熱中症になってはしめしがつかないといち早くクールビズをはじめたおかげで、ノージャケット・ノーネクタイが必須だ。外出がある時は五百ミリリットルのペットボトル二本分の飲み物代が経費で落ちるし、塩飴も持たされる。夏は少しの油断で命を落とす。そういう季節だ。高すぎる気温を笑ってしまいそうになる日々があっさりと色々なものを奪っていく。
 行ってきます。  行ってらっしゃい。
 挨拶は必ずすること、のルールは煩わしいなと思うけれどいいな、と感じるときもある。  今日は片道一時間半の小さな診療所へ向かう。そこまでやらなくていい、と言われた小さな案件ではあるけれど、たまたま小さい頃に一二三と一緒にお世話になった病院で誰もやらないならと手を挙げたことがきっかけだ。静かな住宅街に佇む地上三階建てのそこは、少しでも落ち着けるようにと中庭があり季節に応じて様々な植物がその顔の覗かせるところだった。受付の女性は穏やかな対応で担当の先生を取り次いでくれる。席をはずすタイミングで渡されるイチゴ味のキャンディーに対して「塩飴ばかりじゃ飽きてしまいますよね。」と微笑まれ、少し肩の力が抜けた。きっとここの先生は相変わらず誰に対しても優しい先生なのだろう。
 用事を終え、また一時間三十分かけて会社へと戻る。直帰でもいいけれど、まだやることが残っているし。(そんなことを言っている間は終電帰りを変えることはできないって、一二三はきっと笑うだろうな。)診療所を出て、周りを見渡すと最後に来てから少し風景が変わっていることに気づく。懐かしさと新しい発見とが混ざり合って複雑な気持ちを覚えながら、寄り道をしてみることにした。  診療所の横にある公園は遊具が撤去され、ベンチだけが佇むガランとした空間が広がっていた。古いベンチは何年も雨ざらしにされているのか塗装ははげているし、座ればギシリと不安げな音を立てる。  そういえばここで一二三は人生の一大決心を話していたんだっけな。極度の女性恐怖症である自分を奮い立たせるためにホストになるんだと語った目の奥は、隠しきれない不安で揺れていた。何が一二三をそこまで駆り立てたのかはわからない。一二三の決心は揺るがないことをその時知り、今までずっと隣にあった肩は一歩二歩と先に進んで、これが置いていかれる感覚なのかと焦りを覚えた。ぼんやりとした不安はあったけれど、何の根拠もないまま、けれど一二三といれば大丈夫と思い込んでいた自分の浅ましさに絶句した。  成績は悪いほうではなかったから、とりあえず目指せる大学を洗い出した。自分に何が向いているのか、何がしたいのか。自分の可能性を信じていなかった分、選択肢は自分では出てこない。笑ってしまうほどの回数、向いている職業の適性検査を受けた。結果を受け入れられなかったからこそ増える回数分、自分が惨めになっていくのがわかる。どうしよう。何ができる? 誰が求めてくれる? のしかかってくる税金の額は恐ろしい。 「独歩はさ、丁寧にやるからさ営業やってみればいいんじゃん?」  はぁ? 驚きすぎて声も出なかった。丁寧と営業が繋がらない。そもそも俺は営業なんてガツガツした職業に向いているとは思えない。 「なぁ独歩、できない理由を探すよりさやってみればいいじゃんか。」  公園の中、夕日に照らされた一二三の瞳は真っ直ぐに俺を射抜いていた。怖いもの、一番恐ろしいものに正面から立ち向かっていく自分と俺の弱さを比べているのだろうか。やってみ��よ、と背中を押すような、突き放すような、その声色と視線に体が一瞬強張った。俺の答えを待っている一二三は目を逸らさないまま、まばたきを繰り返す。 「……」  このまま背中を追いかけているだけで、いいんだろうか。一二三には一二三の人生があって、俺には俺の人生がある。お互い、お互い以上に大切なものがあって(俺は、あるんだろうか)それを守りながら生きていく必要があるんだ。この足でまた一二三の隣を歩けるようになるのであれば、がんばってみても、いいかもしれない。一歩を踏み出すことがこんなに怖いことだなんて、決心をすることがこんなに勇気がいることだなんて、知らなかった。一二三は、 「すごいな。一二三はすごい。」 「大丈夫だって。だめだったら選び直せばいいんだって。」  自分は選び直す気なんかないくせに。ばかだな、ほんと。若いってこういうことを言うんだろ? 「やってみる。がんばるから、お前もがんばれ。」  誓いのような決心。やった分だけたまる知見を生かしていけばいいこと、と震える足に言い聞かせた。  この公園でお互いを激励しあう自分達が見えるようだ。安心しろよ二人とも。ちゃんとやれてるよ。今だって完璧にはなれない、迷いは消えない、不安は絶えない。それでもさ、積み上げてこられた。無駄にならないものばかり。糧になっている。  ギシリと鳴くベンチを後に駅まで歩く。さっきもらったイチゴ味のキャンディーを口に入れる。あの頃はこのキャンディーがこんなに優しい味がするとは思わなかった。そこに気づけるようになった自分の選択が完全に間違っていたわけじゃないって、思うよ。  選びなおしたい瞬間はたくさん、そりゃもうたくさんあったけれど、今が答えだ。ありがとう一二三。未完成だからこそ選択していける自由があったことを一二三は教えてくれた。
 独歩、今日も仕事遅い?
 突然のLINEの相手は、今日は休みなんだという。往復三時間分の仕事のロスは少なくはないけれど。
 今から帰る。
 会社に直帰連絡をメールで入れて一二三に返せば、おつかれ! と料理のスタンプが次々と送られてきた。今日は一二三が作ってくれるらしい。久しぶりだなぁと足が軽くなるのを感じて、やっぱり一二三が好きなんだと不意に自覚する。  一二三は売れっ子ホストで、俺は一般的なサラリーマンで。比べてしまえばそこには大きな差があるけれど、俺はさ、今は隣を歩けているって思ってる。幼馴染の一二三がこうして何気なく連絡をとってくれることこそが、答えだと思っているから。
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hpmi222 · 6 years
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おはようのうた
(どひふ)
※10/7 CrazyLyricBattle 無料配布
もぐりこまれた布団の中はあたたかくて離れがたい。起こさないように忍び込んだ一二三の体は掛け布団からはみ出している。冷えた肩に布団をかけやれば、ん、と声をもらした。  今日は月初だ。数字に追い込まれた一二三がようやく落ち着ける最初の日。規則正しい生活を好む一二三が自分に許した数少ない寝坊していい日。  クマが残る目元を指先で撫でてなるべく冷たい空気が入らないように最小限の動きで布団から抜け出し、リビングで着替える。いつの間にか縫われたスーツに、シミの消えたシャツに腕を通す。ネクタイを結びながら朝食はどうしようかと考えていたら、一二三の料理に恋しさを覚えた体が腹を鳴らした。  惰性でつけているニュースは音が気になるので今日は見ない。雨が降らなければまあ、どうにでもなるか。コンビニに寄るために一本早い電車に乗ろう。カバンを持ち上げれば昨日より重くて中を確認すると「ファイト♪」と瓶に書かれた栄養ドリンクが忍ばされていた。  そういえば、と思い出してカバンの内ポケットからメロンとレモンの味の四角いキャンディがセットで入った袋をテーブルに置く。食べられないタイミングでも頭が回るようにと持ち歩いている飴が役に立った。偶然にも一二三の色に似ている。 ……………… おはよう一二三。 いってきます。 ………………  味気ない書き置きだろうか。それでも一二三は喜んでくれるだろう。キラキラした顔でLINEを送る一二三が見えてくすぐったくなってしまう。  また始まる俺たちの日常。当たり前でなくなる日がくるまで、このままで。 「いってきます。」  月初めの空気を吸って一歩を踏み出した。
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hpmi222 · 6 years
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(さぶじろ)
ファッション感覚で謳歌される恋愛事情に触れないで生きてきた、経験のない指先でおまえに触れる。
触りあって、汚しあって、ようやく形が見えるこの愛情という器に、ぼくはきっと途方もない期待を寄せている。
器用であることはとくに正解はない。適切な選択は不器用なやつがするほど愛される。非合理的なことを選ぶには忍耐力が必要だと知った。ぼくは味気ない?
はらはらと夜から盗まれた星がきらめくみたいに、朝日に照らされた埃が部屋をまう。まだ静かに閉じられた瞼の向こう側にはぼくだけが知っている満月がある。うつくしい虹彩の模様をまじまじと見つめた昨日、これが幸せなんじゃないかって胸をすっと満たした何かの呼び方を知った。
ああ、ぼくもあちら側の世界にきてしまったのだろうか。もうしらなかった時には戻れない。名前をつけてしまった夜、踏み越えたのだと一瞬だけ体の芯が痛んだ。
おはよう、じろう。
おはよう、新しいぼく。
窓から差し込む淡い太陽。これがはじまりの朝。昨日とはまったく違うぼくらのお互いを見る温度。
じんわりと広がる切なさの意味を考えながら、これは絶望なんかじゃないと祈るようにまだ満月を覆う瞼にキスをした。
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hpmi222 · 6 years
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冷えた手をためらいもなく引く熱い手のひらは、きちんと血と正義が通っていてる。
※TDD時代
お題:手(@ichisama_one)
#一左馬ワンドロワンライ
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hpmi222 · 6 years
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(いちじろ)
アザが治らないくらいの強さで腕を掴んで、中が裂けるくらい突いて、突いて。
まぼろしに縋る気持ちで、この野蛮な愛情に夢を見ている。
もっと残酷なキスをして。もう戻れないのだと笑って。
痛いほど、生きているって感じる俺に優しくしないで。
兄ちゃんはさ、はまっとうだった。
まっとうでいてほしかったよ。
兄ちゃんが、俺を、満たしてしまった。
美しい獣は相も変わらず俺の肌に噛み付いて、所有印にほほえむ。
弱い部分を擦りつけあってひとつになったのだと錯覚している時の高揚感に声は奪われ音だけが口からもれる。
名前を呼び合うだけなのに、体は痺れて、涙はこぼれて、息はふるえて。
ザラザラした気持ちがたまっていく。
なんで、こんな感情を与えたんだって当て付けのように噛み付いたら柔らかく撫でられて目を閉じることしかできなくなる幸せにうなづいてしまいそう。
まるで、この日常が正しいのだと疑うことを忘れて。
消えない傷はどうやったら残せるだろう。
何度でも思い出す甘さを兄ちゃんにもあげるよ。
傷をつけるためのキスマークのつけ方を教えたのは、今俺をおさえつけているその口。
舌を絡めて、息も混ぜて、全部全部半分こして。
秒針と一緒に近づいてくる朝にまだ来ないでと願いながら、今夜ももう1回を何度もせがむんだ。
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