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徒然なる脳内
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これは何を隠そう私の脳内である
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instant-timemachine-blog · 5 years ago
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今日もパピコが綺麗に割れない
頭の中身を整理せねばならない。
なにか物を考える際に、とっちらかった思考のままでは答えなど出ないのは自明の理であろう。
かといって、急に頭の中身を整理しろと言われても、そう簡単にはできはしない。
何しろ頭の中には余計な物が多すぎる。
まずは掃除から始める必要がある。
それも、近未来都市のごとく区画整理された土地に画一的な高層ビルが立ち並んで��るような場所なら容易であろう。
ゴミのポイ捨てがあろうとも、どこからともなくお掃除用の無人機が現れすぐさま回収されるに違いない。
しかし、私の頭の中はといえば、荒れ果てた長屋に枯葉が舞い込み、風が吹けば戸がガタガタと音を立てている。
物陰には珍妙な妖怪の類いが跋扈する始末だ。
おおよそ人の脳内に広がってよい空間ではない。
陰陽師を雇うところから始めねばならない。
掃除どころじゃない。
いや、ある意味で掃除ではあるのだが。
そんな事をするくらいなら、いっそ最初から更地にしてしまった方が楽かもしれない。
太宰治は「忘却は、人間の救いである。」と自らの著書に記した。
私も概ね賛同する。
けれど、もちろん忘却が救いとならない人生を送る方が望ましいのだろう。
そういう人生を送るには、私は些か要らぬ事ばかり考えすぎる。
もう少し肩の力を抜いて目先の楽しみを思った方が良いのかもしれない。
たとえば、今はまっているキウイ味のパピコの事とか。
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instant-timemachine-blog · 6 years ago
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あゝ無情、されど強情
ヴィクトル・ユーゴー曰く、人生最大の幸福とは愛されていると確信すること。
本当にそうか?
少なくとも私は、死の淵に立つその時まで、人間の人生最大の幸福について語る事はできないだろう。
何故ならまだ私は人生の道すがらであるから。
まだ私は人生を語るに値しない。
「語りえぬものについては沈黙せねばならない」とはヴィトゲンシュタインの言である。
私がせいぜい語れるとすれば
おべんちゃらな飲み会の後に食べるラーメンの背徳感だとか
ランニングの後に飲むスポーツドリンクの濃厚な味わいと染み渡る感覚だとか
寝不足の朝に通勤電車で齧るカロリーメイトの味気の無さだとか
そんなものくらいだ。
私の人生は今のところ、そういう生活感の塊で出来ている。
最近は何かと上手くいかない事が多い。
語弊があるな。
上手くいかない事が気になるようになった。
これが正しい。
どれだけ準備をしても届かないものは届かない。
どれだけ機を伺っても縁がなければ掴めない。
どれだけ優れた人物も活躍の場がなければただの人。
世の中は無情である。
当然の事実が悲しく思えてきた。
これが老いか。
けれども、私は知っている。
たとえこの世が救いのない地獄でも、どんな地獄に身を置くかは自分の意志で選べる。
だから、人生には夢があるのだ。
そう思って生きている。
私はどんなに無情な世界でも、私の選んだ地獄を生きていきたいと思うのです。
そんな願いを来世に込めて、今日も隈だらけの面でスーツに袖を通して家を出ます。
あなたは今生でもより良い地獄で生きていけると良いですね。
心の底からそう思います。
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instant-timemachine-blog · 6 years ago
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健全な精神は健全な肉体に宿る
健全な肉体はどのように形作られるのか。
健全な肉体は規則正しい生活習慣によって。
規則正しい生活習慣は適切な睡眠と食事によって。
適切な睡眠と食事は余裕ある時間管理によって。
そうやって、健全な人間が出来上がる。
けれど、その生活のどこに余暇が生まれるのだろう。
人生の糧はどこで得ればよいのだろう。
「健全な日常」の外側に重きを置いている人間は、どうやって生きれば正しいのだろう。
「健全」とやらは諦めるしかないのだろうか。
答えの見つからない問いに頭を悩ませる事は愚かであろうか。
否、否。
断固として否である。
できぬと断ずるそれを、できぬと分かっていながら、できるよう努力する事こそ愚直さであり、愚直さのみが人類の見知らぬ領域を切り拓く。
そう信じてやまない私は愚かであろうか。
少なくとも、己が愚かであるかどうかに頭を悩ませる事は不毛であるかもしれない。
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instant-timemachine-blog · 6 years ago
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何度も何度も書いては消した
今の今まで、何度もここに文字を書き連ねて、そして、それらを全て消して、それから私はこれを書いている。
別に書けなくなったとかそういう事ではない。感情が忙しいだけだ。大した事じゃない。大した事じゃないって言葉、大抵本当に大した事じゃない時には使われないよね。 まぁ、いつも通り非言語を言語化できないだけ。
誰だって笑いたい。
誰だって夢見たい。
寂雷先生の言葉が刺さる。
そうだよね。それが叶うように何ができるか。できる事などないのだど、分かっていても、無力感を感じてしまう自分がいる。助けを求められている時、電話が来る時、一緒にいる時、私は間違えずにいられただろうか、と。
いや、それを考えても意味がない事を私は知っている。知っていて、頭を悩ませている。どうしようもなく愚かな私。
けれど、私を許せるのは私だけなので、今日も緩慢な殺意を抱きながら、愚かな私と共に日常を送る。
祈りが届けばいい。
届かないとしたら、それは私の徳が足りなかった結果に過ぎない。
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instant-timemachine-blog · 6 years ago
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明日の事を考えると明後日の方向に進んでしまう
見当違いの方向の事を「明後日の方向」と表現する事があるけれど、明後日は明日の延長線上にあるはず。そうすると、明日に向けて進めば進むほど、明後日の方向、つまりは見当違いの方向に進んでしまうのでは?と思った次第。先の事を楽しみにしたり支えにしたりするのは大賛成ですが、そこにばかり一直線に突き進むのは危ないかもしれませんね。阿呆は今日もそんな事ばかり考えていました。
閑話休題。
先日とても楽しい事があった。今週も楽しい事が控えている。楽しい事がたくさんあるのは本当に嬉しい事だ。
楽しくて楽しくて仕方ないのだけど、心のどこかで何かが引っ掛かっていて、それがどうにも悔しい。楽しい出来事の丸々全てを楽しめていない事は、関わる全ての人に対して申し訳ない事だから。
やっぱり私に人生は向いていない。
私の意識が向いている全ての人が平穏無事でなければ、私の心は平穏無事にならないのだから。
でも、だからこそ私は他人の幸せを心から願える。
きっとそれは悪いことではないから、私は人生を歩むのに向いていない自分をどうにかこうにか許して生きている。
きっとこれを読んでいる貴方も、ままならない世の中や自分、周囲の人々を許して生きているのでしょう?
貴方はとても偉いです。
自分を褒めてあげてください。
許してなんかやらないぜって人もいるかもしれません。
貴方はとても正直ですね。偉いです。
自分を褒めてあげてください。
自分を褒めるのが苦手なら私までご一報を。
貴方の凄さを滔々と説いて差し上げますので。
あぁ、また話が脱線してしまった。
明後日の方向に。
でも、それもいいでしょう?
だって、明後日の方向に進めば明日は来るのですから。
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instant-timemachine-blog · 6 years ago
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これからの「生き死に」の話をしよう
偶には真面目な事を話したっていいだろう?幸い、私はほぼ毎日自分や他人の生き死にについて考えているし丁度良いと思うんだ。つまらないかもしれないけれど、どうか許してほしい。
昨日、私は漫画を買ったんだ。タイトルは「ここは今から倫理です。」
倫理を教える高校教師・高柳は語る。
「倫理は、学ばなくても将来困る事はほぼ無い学問です。」
それでも、彼は生徒達へ倫理を教える。時に授業で、時にそれ以外の方法で。
そんな話。
物語としても好きだったんだけど、私が特に好きだったのはしばしば引用される哲学者たちの言葉。私は非言語的なもの(感情や感覚、あるいは雰囲気やニュアンスなど)が言語化されているのを見るとテンションが上がってしまうのだが、やはりその点では古い哲学者たちの言葉はすごいな。とても色々思う所が多すぎてここには残しきれないが、特に思う所が大きかった一つだけ書こう。
例えば、3巻の話の中で引用されるショーペンハウアーの言葉にこんなものがあった。
「我々は他人と同じようになるために、きびしい自己放棄によって自身の4分の3を棄てねばならない」
そうか、そうなのだな。私は確かに周りに合わせるために自己を放棄している。それは確かにそうだ。けれども、本当はそんなに捨てなくてもいいのかもしれない。作中でも、その言葉は他の生徒とは少し違う感性の生徒に向けられていた。そして言うのだ。
「貴方は決して他人と同じになろうとはしていない。4分の2くらいな気がします、棄てているとしても……。棄てすぎている人よりは、ずっといい。」
ああ、なんと甘美な言葉であろうか。どれだけ優しい言葉であろうか。できればこんな言葉ができるだけ多くの人に届けばいいと思う。別にこの言葉に救われる人がたくさんいるだなんて思っちゃいない。でも、きっとほんの少しだけでも気が楽になる人は結構いるんじゃないかと思うんだよ。
タイトルにもしてる「生き死に」の話をするね。
生きるって結構それだけでたくさんのエネルギーを使う事で。でも、エネルギーの供給はあまりにも少なくて。エネルギーは限られてるからできるだけ好きな事だけに使いたいけど、それもなかなか上手くいかなくて。ままならない自分とか、上手くいかない事に不満を溜めつつ、それでも明日もガス欠にならないように最低限のエネルギーは補給して生きてる。そういう人って多いと思うんだ。んで、そういう生活してたら「死」について考えるのはわりと必然なのよね。
「生き死に」の話をすると出てくるのが「生きてる事は幸せ」論者。これ私はすごく嫌い。絶対バイアスかかってるでしょ。自分が生きる選択をしてるからそれが良いものだって思いたいだけでしょ。別に死んだ事もないくせによく否定できるなって思う。死を救いに思うのは間違ってない。だってそもそも生きていくのって辛いから。
でも、同時に死が本当に救いなのかっていうのも考えるべきだよね。死んだら苦しみから解放されるだなんて、死んでもないのに分かるはずないじゃん。死んだら死ぬ時の苦しみが固定されて、いつまでもいつまでも苦しみ続けるかもしれない。そんなの死んでみないと分からない。だから、死はシュレディンガーの猫みたいものだと思ってた方が良いと思うわけ。死がプラスかマイナスかなんて分かんないけど、死なない限り「死は救い」だと思い続けられるから。メメント・モリ。人生なんて死ぬまでの辛抱だから、死を支えにして苦しい人生の中からどうにかプラスを模索していくのが利口なんじゃないかというのが持論なわけですよ。長くてまわりくどいでしょう?こんな事を暇な時にずっと考えているのです。
まぁこんな私なのですが、このまま続けていきますよ。「じゃあ、プラスを模索ってどうするの?」って話ですよね。それはちょっとぼんやりした解答になるのだけど、自分に従うって事だと思うわけです。自分がやりたいようにやる。やりたい事をやる。それは誰しもにとって楽しい嬉しい事でしょ。でも、実際には難しい。実現できない。たくさんの障害があるから。乗り越えたくてもできなくて、平気なフリをするために、正常でいるために、他人と同じようにする。
本当はそんな事しなくていいはずなんだ。自分にとってのプラスだけを考えて、他人の事なんか考えないで生きていいはずなんだ。だから、ちょっとくらい逸脱するのは素敵な事だと思うのです。平気なフリのためだけに自分の喜びを我慢するより、生きづらくても自分を棄てすぎない貴方の方がよっぽど魅力的だと思うのです。きっとそういう人の方が人生に色んな楽しみを見出しているはずだから。
生きていくのは正直きついし、自分に従って生きるなんて夢のまた夢だけど。それでも、できるところからちょっとずつ棄ててきた自分を拾ってあげたい。誰よりも自分のために。
いや、真面目すぎたし暗いな。反省反省。いつもじゃんと思われた方、概ねその通り。ちなみに、更新頻度が高いのは遅れてきたお盆休みを取っているから。次回は日曜か月曜あたりに書いてしまいそうだ。意外と楽しくて。
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instant-timemachine-blog · 6 years ago
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徒然なるままに、日暮らし、スマホに向かいて……
心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくったものがこちらです。あしからず。
一昨日は王の話をする胡散臭くて素敵な男がネット上で猛威をふるっていたけれど、私は動物界の王の話でもするとしよう。
そう、キリンさんの話を。
もしかすると、一般的な動物界の王ではないかもしれないが間違いなく王と同格である。あの唯一無二のシルエット。堂々たる体格。発達した脚力。凛々しいあの顔に至るまで、王と呼ぶにふさわしいあらゆるものを兼ね備えていると言って差し支えないだろう。差し支えしかない。
この文章を鼻で嗤う者は、おそらく最近キリンさんを間近で見ていない者ではなかろうか。そういう輩は急いでサバンナにでも行って至近距離でキリンさんを観察してくるべきだ。きっとキリンさんの魅力を直に感じれば、二度と立ち上がれないほどノックアウトされてしまう事だろう。主に強靭な後ろ脚などによって。
思えば、いつからこのようなキリンさん大好き人間になってしまったのか分からない。やや狂気の域に達している気がしないでもない。気のせいだろう。
元々キリン好きではあったのだが、決定打となったのは漫画である。「堀さんと宮村くん」というweb発の漫画があるのだが、その作品の中で主人公が落書きとしてキリンさんを描く描写がある。その際に、キリンさんに対して「凛々しい」という表現を使っているのだ。私はちょうど、キリンさんが好きだが何と言っていいのか分からない、と感じていたところであり、その表現は間違いなく私がキリンさんに抱いていた感情をとても的確に表していた。私はそこで「そうか、キリンさんは凛々しいんだ!」と気付いたわけだ。その唯名論的衝撃は、私の潜在意識に「キリンさん=凛々しい」というふざけた式を刻みつけ、それは今も私の中に強く強く残っている。まさか「堀さんと宮村くん」の作者たるHERO���生もあの些細な描写から敬虔なキリン教徒が産まれようとは夢にも思わなかっただろう。きっかけはどこにあるか分からない。まぁ、それでいいのだ。「きっかけはなんだって大丈夫」と765プロダクション事務員の音無小鳥さんも歌っていた。そういうものなのだろう。
ここまでキリンさんについて語ってきた私であるが、実のところ、私はキリンさんについて詳しく知らない。キリンさんのグッズも大して持っていないし、四六時中キリンさんの事ばかり考えてるわけでもない。動物園でキリンさんを見たらものすごくテンションが上がるとかその程度だ。本当にキリンさんが好きなのかと疑われるレベルだろう。
それでも、たしかに好きなのだ。
別に絶対的な好きの根拠も証拠もないけれど、私が確信を持って「キリンさんが好き」と言えるなら、私はキリンさんが好きなのだ。
それは私が決めることだから。
それにね、よく分からないけど、ずっと好きでいたせいか、私自身がキリンに似てるって言われたりする事があるの。
それってとても素敵じゃない?
私の身体が私の愛情の証拠、だなんてとんでもない口説き文句よね。
これからもそう言える自分で居られたらいいな。
『好き』を体現して生きていきたい、というオタクらしい決意を以てこの文章を締め括る事としよう。
この文章を読んでくれた愛すべき暇人に幸あれ。
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instant-timemachine-blog · 6 years ago
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ふぉろわーもすなるたんぶらといふものを……
私もしてみんとてするなり。
脳内を文章化するというのは裸を見られるより恥ずかしいのだけど、やってみなければわからぬ事もあろうと始めてみる。
どうなのだろう。完全に脳内の言葉をそのまま打っているので、推敲なしの原文であるが、読むに耐える代物であろうか。
それは読む人が判断することか。考える意味のないことだ。私がこの文章にまったく意味を感じなかろうと、誰かにとっては金言になりうる。
たまにはそう信じてみるのもいいだろう。
閑話休題。
私はクソッタレなお仕事をこなして帰宅を為した。これは誰かに褒美を頂いて然るべき偉業だと思うのだが、残念ながら褒美をくれるような殿の元には仕えていないので自身で用意をせねばならぬ。したがって、私は自分で自分の褒美を買った。
『シュークリーム』
ああ、なんと麗しき響きであろうか。甘味に目のない私だが、カスタードクリームは特段好んで食するものである。なにせあれはカロリーの権化であり、甘い卵であり、とろりとしたバニラである。素敵の塊である。それを優しさで包んだものが『シュークリーム』だ。
嘘だ。そんなことはない。
ともあれ、私はシュークリームが大好きであるから、疲れた日には必ずと言ってよいほどコンビニでシュークリームを買って帰る。なお、仕事に行って疲れずに帰ってきた試しはない。
家に着くなり、晩ご飯を食べた。それは肉であった。肉は力。赤の仲間。血湧き肉躍る。明日の活力はこれで補給されたと言っても過言ではない。過言である。流し込むように食い尽くす。食後、食器をわしゃわしゃしながら冷蔵庫の中に控えたシュークリームに思いを馳せる。あの舌をとろかす甘味を身体が欲している。身体の餓えに応えねばと思いつつ、私は布団に入り眠りに落ちた。いわゆる寝落ちというやつだ。
そう、ここまでが昨日の出来事である。
今もシュークリームは冷蔵庫に鎮座している。
私は今日シュークリームを食べられるのだろうか。その前に寝てしまうのだろうか。
まったくもって、人の欲とは摩訶不思議である。この世に生を受けて間もなく四半世紀になんなんとする身になったところで、自身の欲の優先順位すら掴めない。いわんや他人の欲をや。
次にこれを書くのがいつになるかすらも、私には預かり知らぬ事である。
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