Don't wanna be here? Send us removal request.
Link
0 notes
Quote
7月6日@早稲田での、スガvs外山恒一トークイベント、200人超の大盛況。このイベントの画期的意義は、2001年サークル部室移転反対闘争以来、早稲田構内立入禁止処分の花咲政之輔が突如登場し、200人で防衛し抜いたことだ。この力は必ずや当局の脅威であり、今後の力となるだろう。
https://twitter.com/suga94491396/status/1015266022700380160
0 notes
Quote
巨額の金が動くため、ナマコの密漁ではこれまでの密漁の常識が通用しない。 「これまでの密漁なら、力仕事なのでチームは全員男だったが、ナマコには女がいる。取り締まりが厳しいから海保や警察の裏を掻いて、ブツ受け渡しの現場に女を行かせるんだ。現実に検問にあっても女だとフリーパスだし、尾行も付かない。それに女のほうが度胸が据わってる」(同前) 取材最終日、市内の老舗料亭でナマコの密漁を行なって��るという女性に取材できた。正真正銘、本物の「黒いあまちゃん」は自らの黒い仕事と正反対の美白で、真っ白なブラウスを着ていた。かわいらしい顔だ。23歳だが、高校生といっても通用するだろう。 「(密漁の)仕事は夜やるんで、昼間はずっと寝てます。だからほとんど日焼けしないです。ナマコは浅い海域にいるし、手で拾い上げるだけで獲れる。でもその分、腕のないチームが乱立して迷惑ですね。いきなり仕事に出て潜水病になったり、耳を潰したり。自業自得ですよね。おぼれた仲間を見捨てて��げたり、海保に電話して助けを求めたりするのもいて、仁義がなさすぎって思う」 ドラマの主人公とは正反対の、任狭精神あふれる毒舌にぶったまげた。
https://www.news-postseven.com/archives/20130911_210383.html
0 notes
Quote
インターネット上で著作物の利用を拡大する改正著作権法が18日、参院本会議で可決、成立した。著作権者の許諾なしに書籍の全文を電子データ化し、特定のキーワードを含む書籍をネットで検索できるようにする規制緩和などを盛り込んだ。一部を除き来年1月1日に施行する。 著作物の全文データ化は、原則として著作権者の許諾が必要だった。本文中のキーワードで検索が可能になれば、欲しい書籍を探したり、論文などに盗用がないか確認したりしやすくなる。 著作者の権利保護のため、検索結果として表示できる範囲は、書籍のタイトルや本文の一部などに限定する。
https://this.kiji.is/370054498091074657
0 notes
Quote
「日本では最初、私たち留学生には機会均等など与えられませんでした」とサコ教授は語る。「ですが、私はそれを意識しないように努めた。京都大学の学生時代にも、クラスメートにはアフリカ人だけでなく中国人や韓国人もいました。そして留学生みんなが日本人と距離を置いているように見えました。 日本人はこれを見て、彼らは『他の人』なんだなと思っていたのです。なので、自分はそういう外国人と思われないようにしよう、と決めたのです。だから私は日本語だけで会話しました。研究室での研究も、講義やレポートも、すべて日本語でやりました」。 故郷のマリにも連れていった このやり方で、サコ教授は中国でもそうしたように、自ら日本と世界との懸け橋としての地位を確立した。 「海外には行きたくない、外国人から学べることは何もないから、みんな日本に来て日本人から学んでいる、と言っていた日本人のクラスメートがいました。ですが私は、自分の所属研究室で研究リーダーも務めていました。 そして自分の指導者としての役割を使って日本人の目を外の世界へと広げたのです。ほかのアジア諸国への旅行の段取りをつけました。ベトナムのような、国民が苦労しながら一生懸命働いて発展しようとしているのを見ることができる国々です。研究室の中では決して見ることのできないものです。これにはたくさんのクラスメートが衝撃を受け、『ウスビと一緒に海外に出ればたくさんのことが学べるぞ!』と言う人が増えるようになったのです」 「マリにも連れていきました。帰る頃までには、みんな何か大事なことを学んでいました。国が発展国か後進国といった問題ではなく、人間の真の姿に関することです。ほかの人間から学び、感じることができるようなことです。日本社会が忘れがちなことであり、思いきって日本の外に出てはじめて学べることです」 こうした視野を広げたり、よそ者扱い化を止める努力が功を奏し始めた。 「間もなくして、自分がもはやそういった外国人として扱われていないことに気付きました。日本人は私を日本人として扱ってくれるようになっていたのです」と、サコ教授は振り返る。「子どもの頃のテレビ番組の話とか、他の外国人の批判とかについて話してくることもありました。私が日本人ではないことを完全に忘れてしまって」。
https://toyokeizai.net/articles/-/220085?page=4
0 notes
Quote
今年4月5日に亡くなった高畑勲監督(享年82歳)を偲ぶ「高畑勲 お別れの会」が5月15日(火)、東京・三鷹の森ジブリ美術館で行われ、高畑監督の息子である高畑耕介氏が“父”の素顔と思い出を語った。 耕介氏によると、高畑監督は昨年4月に手術を受けて以来「発熱、せき、味覚障害に絶えず苦しんでいた」という。それでも今年の2月末まで講演会などに登壇しており、その忍耐力と精神力は「医者も驚くほど」だったのだとか。 そんな高畑監督は今年3月10日、耕介氏とともに近所の公園を散歩したそうで「芽吹き始めた木々、さえずる小鳥について、教えてくれたことを昨日のことのように思い出します」。3月末に入院した際には、「呼吸が苦しく、言葉を発することもできない状態となり、見守る私たち家族もつらい思い」だったといい、「人に話を聞いてもらうことが生きがいだった父にとってこそ、それはしんどく耐えがたいことだったと思います」とふり返った。 亡くなる1年前ほど前から、講演会や対談といった高畑監督の仕事に付き添うようになったという耕介氏。移動中は「体調は大丈夫だろうか」とヒヤヒヤする一方、いざ講演が始まると「話はいつも面白く、時間はあっという間に過ぎてしまいました」。それだけに、「映像作品以外の父の言葉や姿に触れて、もっと知りたいという思いが強くなったいま、父の��を聞くことがもうできない現実を前にすると、悔やみきれず、胸が詰まる思いです」としみじみ語っていた。 「既成概念に囚われることなく、何よりも自身の感覚、直感によって物事を捉え、言葉や表現に変えていきました。対象の全体像を捉えるために必要なことは何でも調べる貪欲さ、理想に近づきたいという往生際の悪さ、一種の感覚的、また即物的な視点と切り口によって、当たり前のように感じることも、日常をも再発見させられる父なりの物の見方は、いつも私を惹きつけました」。 「古今東西の文物に美を見出し、そこにあるトリックや魔法を見つけることが楽しみで、父は何か発見があると、嬉々としてそれを語ってくれました。現実への冷徹で客観的なまなざし、共同体から世界まで、社会は少しずつ良くすることができるはずという期待、不器用で間違いだらけの人間の肯定というものを、何気ない会話からも感じさせるので、自然に私もそのように考えるようになりました。ある種の捉えがたいものに光をあて、言語化する。明確な答えはないけれども、大事な何かをそのまま問いかけ、考えさせるというのが父のスタイルだったと思います」。 最後に耕介氏は「純粋な好奇心と、日ごろの勉強から得た発見や着想を、実験的なやりかたを交えて、各分野の才能豊かな仲間たちと表現し続けることができた。父は本当に幸せな人間だったと思います」と語り、「父が望むものは、人間が人それぞれの個性と、育てられた社会的、文化的背景をお互いに理解し、尊重する。そして、それらは活かし、助け合い、譲り合って、小さいものや弱いものも安心して、暮らしていける世の中だと思います」と締めくくった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180515-00000011-cine-movi
0 notes
Link
上海のある会社が資金不足で倒産しそうになったとき、その会社に出資したのが毎日お掃除に来ていたおばちゃん。1億円ほどのキャッシュをボンと出したそうだ。理由は、皆が一生懸命に良い雰囲気で働いている姿を見たいからだとか。ウソみたいな話ですが、そんなエピソードなんか楽しいですね。
0 notes
Photo

https://twitter.com/ls16059j/status/991219930673561601
0 notes
Quote
「いいかい、君たち。分からなければ聞けばいい。持っていないなら借りればいい。逆に聞かれたら教えるべきだし、持っているものは与えるべきだ。人間、一人でできることなど高が知れている。技術の世界はみんなで共に創る『共創』が肝心だ」 終戦直後にGHQの要請で米国に渡り、一線の技術者に教えを乞うて技術を学ぶとともに人脈を築き、「共創」の精神を身につけた佐々木さん。1964年に懇願されてシャープに入社した頃には、国内外に信じられないほど豊かな人脈と見識を有していたという。部下が何か課題について相談すると、「それなら○○社の誰それに聞けばいい」と言いながらその場で電話をかける。まさにロケット級のスピードだ。
https://newswitch.jp/p/11909
0 notes
Photo

こんなんww 青い線が全部平行って言われてもww だまされないしwww https://twitter.com/RawheaD/status/983148727295717376
0 notes
Quote
Nobuyoshi Araki and Yayoi Kusama at the Tokyo Mus. of Contemporary Art by Akira Asada 草間彌生の勝利(「波」7月号)/浅田彰 なんというエネルギーだろう。東京都現代美術館で開かれた草間彌生の回顧展を見て、私はあらためて圧倒される思いだった。鮮烈な色彩に輝く水玉状の形態や男根状のオブジェが、とめどもなく増殖し、いたるところに氾濫する。そう、それは、生涯にわたって精神の病いと戦い続け、その苦しい戦いを華麗な芸術に転化しおおせたひとりの女性の、輝かしい勝利の記念碑なのだ。 一九二九年に生まれた草間彌生は、早くから旺盛な芸術活動を展開し、とくに五七年にアメリカに渡ってからは、ミニマル・アートやポップ・アートの先駆者として世界的に注目されるようになる。そこで重要なのは、個人史における心的な必然性と、美術史における形式的な必然性が、ぴたりと一致したということだろう。たとえば、幼い頃からいたるところに斑点の見える幻���に悩まされていた彼女は、キャンヴァスの上にも執拗に斑点を並べていく。まさしく強迫神経症的な斑点の増殖。だが、それがある閾値を超えるとき、図と地、ポジとネガのめくるめく反転が生じ、観る者を窒息させる斑点の群れに代わって、それらの間の網目状の余白のほうが、前面に浮き出してくるだろう。そのとき、神経症的な自己は、「無限の網(ルビ:イン フィニティ・ネット)」のコズミックな広がりのなかへと消失してゆくのだ。あるいは、男根的なものに脅かされてきた彼女は、そういう男根的なオブジェで、机を、椅子を、いたるところを覆い尽くしていく。だが、ここでもまた、ある閾値を超えるとき、それらはおぞましいというよりむしろ滑稽なものとなり、ユーモラスな不能性を露呈してしまうだろう。増殖による去勢? いや、単一のシンボリックなファルスによる抑圧やそれへの反抗という図式を逃れ、無数のイマジナリーなペニスと戯れてみせる彼女の戦略は、去勢そのものの去勢と呼んだほうがよい。このように、増殖を通じた消失(ルビ:オブリテレーション)や去勢の去勢という草間彌生の逆説的戦略は、彼女にとって心的な必然性をもっていたと思われる。それがたまたま、一様な色面にまで行き着いた後でその混沌から抜け出そうとしていた美術史の動きと一致したのだ。こうして、単純な形態の増殖によって構成される彼女の作品は、最小限の要素の反復によって新しい形態的秩序を作り出そうとするミニマル・アートの先駆けとなり、いたるところにカラフルな水玉を貼り付けて自己と世界の消滅に向かう彼女の過激なパフォーマンスは、美術界の枠を超えて派手な表現を展開しようとするポップ・アートの先駆けとなって、世界的に注目されるようになったのである。 死に至る反復強迫を逆手にとって芸術へと転化し、それによって自己治癒を図る。しかし、その過程は一度かぎりの勝利をもって終わるはずもなく、草間彌生はたえず振り出しに戻って苦しい戦いを繰り返さなければならなかった。とくに、七三年に日本に帰って、七五年に入院する(さらに七七年に再入院して現在に至る)、その前後の時期は、彼女にとって大きな危機だったのではないか。「ねぐらに帰る魂」(七五年)や「君は死して今」(同)といった小さなコラージュは、その弱々しくもナイーヴな表現でむしろ観る者の胸を衝き、作者がもう生きる力を失ったのではないかという予感すら抱かせる。それ��けに、その直後に起こる圧倒的な爆発は、観る者を驚嘆させずにおかない。鮮烈な色彩の形態が、はたまた銀色のオブジェが、ときには十メートルにも及ぼうかというスケールで氾濫し、絢爛豪華な生の饗宴を繰り広げる。そう、ぎりぎりまで死に接近した彼女は、この芸術によってはじめて生き延びることができたのだ。そして、彼女はなんと見事に生き延びてみせたことだろう! それはもはや芸術による自己治癒といったレヴェルをはるかに超えたものだ。草間彌生はたしかに芸術によって自らの病いをなおしてゆくのだとも語っている。だが、支離滅裂な全体のなかに閃光のようなパッセージをちりばめた処女小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』(七八年)では、さらに、「病いは死よりも強いというのが、結論であった」という恐るべき洞察が語られている。そして、作者は、「自殺未遂を何回もして、病いをおどろかしてやりたいの」と、いたずらっぽく付け加えるのだ。病いと同一化し(晩年のラカンが、症候を解消するのではなく、症候と同一化することを最終目標として、それをという古語で表現したことが思い出される)、病いを芸術に転化することで、死に打ち克つ。先に述べたとおり、それは一度かぎりの勝利をもって終わるような過程ではない。だが、草間彌生は半世紀を超えるその戦いに見事に勝ち抜いてきた。天井と床の合わせ鏡の間に梯子をかけて無限過程を現出する「我ひとり逝く」(九四年)のような近年の作品になると、もはや死すら恐れぬ境地に到達しつつあるかのようだ。その意味において、繰り返そう、この回顧展は草間彌生という芸術家――病者ではない、紛れもない大芸術家の 、輝かしい勝利の記念碑なのである。 ちなみに、東京都現代美術館では、草間彌生の回顧展と並んで、荒木経惟の写真展が開かれている。コラボレーションや対談も行なっているとはいえ、実のところこの二人ほど対極的な存在はない。ひとことで言えば「本もの」と「偽もの」、あるいはニーチェの言葉で言えば「強者」と「弱者」というところだろうか。実際、「センチメンタルな写真、人生」と題する荒木経惟展に見られるのは、まさしくセンチメンタルな私小説の写真版でしかない。妻との新婚旅行。その妻との死別。妻の死後、空っぽのヴェランダから空を撮り続ける写真家。そしていま、そのヴェランダにはカラフルな花々が溢れ、写真家の分身であるらしい爬虫類のフィギュアが這い回っている。死を超えた生の横溢? いや、そこにあるのは、そういうセンチメンタルな物語にすがることでしか生きられないひ弱な「私」、しかも、そのような自分を売り物にして弱者の群れの歓心を買おうと計算するさもしい「私」でしかないのだ。もちろん、「弱者」は実際にはつねに多数���であり、その意味ではむしろ強者といってよい。現に、一昔前なら私小説に夢中になったであろうひ弱な「文学青年」たちが、「写真評論家」や「美術評論家」を自称し、寄ってたかって荒木経惟の「私写真」を「芸術」に祭り上げてしまったのであり、その展覧会は、草間彌生展を上回る数の大衆を惹きつけているのである。何よりも問題なのは、どうやら写真家自身が自分でも「芸術家」のつもりになっているらしいことだ。百歩譲って言えば、『写真時代』(白夜書房)などの「エロ雑誌」で猥褻表現の限界をめぐって警察とゲリラ戦を展開し、「恥部屋」と称する狭い空間の壁から天井からすべてを女性器の写真で埋め尽くしていた頃の荒木経惟の写真は、いわば徹底して薄汚れてあることによって、逆に一種のマイノリティとしての気概を感じさせた。いま残されているのは、希薄化されたその形骸でしかない。写真そのものはもとより、プリントやディスプレイからしてすでに、徹底してチープでもなければ、徹底してゴージャスでもない、つまりは、いかにも中途半端なのだ。それにしても、こういうウェットな感傷にまみれた薄汚い写真が日本の現代芸術の代表とみなされ、公立の美術館で大規模な展覧会が開催されるというのは、なんという倒錯だろう。 だが、荒木経惟展が草間彌生展と同時に開かれたことは、草間彌生がいかに偉大な芸術家であるか――紛れもない「本もの」であり「強者」であるかを一見して悟らせるという意味で、逆説的な有効性をもっていたとも言えるだろう。実際、草間彌生ほど「センチメンタルな人生」から遠い存在はない。センチメントは、それを感じる自己を前提とする。ところが、草間彌生の場合、自己は、そこで病いと死の闘争が展開される非人称的な場と化しているのだ。そこに「人生」はない。ただ、死とのぎりぎりの闘争において見出された生だけがある。その凄絶にして絢爛たる闘争の記録は、胸を衝く切実さをもちながら、しかも、それをはるかに超えた強度によって、作者の病歴をまったく知らない者をも圧倒するだろう。その作品のひとつひとつは、ウェットな感傷からかぎりなく遠いところで傲然と屹立し、ただ作品それ自体として観る者の感覚を震撼するだろう。だからこそ、それは芸術と呼ばれるにふさわしいのだ。草間彌生は、その芸術によって死の誘惑を超え、潔い孤独のうちに生きる。満身創痍でしかもひとり歩み続けるその後ろ姿に、私は心からの敬意を捧げる。
http://www.assemblylanguage.com/reviews/KusamaAraki.html
1 note
·
View note
Link
スリープソートとは var src = [3,1,4,1,5,9,2]; var dst = []; src.forEach((v) => { setTimeout(function() { dst.push(v)} , v * 1000); }); 大体9秒後にはソート終わってます
1 note
·
View note