isawa-nkb
isawa-nkb
NEVER KNOWS BEST
60 posts
音楽とか美術とか���品批評や感想など。脳内デフラグ用として、溜まり積もって形を成した日々の雑感の廃棄出力先。 neverknowsbest138(at)yahoo.co.jp
Don't wanna be here? Send us removal request.
isawa-nkb · 5 years ago
Text
裏ドラ現代芸術論
かねてより私は「芸術作品はスタンドアロンであれ」という��の主張をしてきた。
スタンドアロンな作品ってなんぞや、となるが、要は「作品をぱっと見たときのその情報だけで楽しめる」作品である。いや逆から言った方がわかりやすいか。「作品の背後の情報――作者の人となりや、作品を作るに至ったきっかけや過程、発想元つまり元ネタ、あるいは作品やキャンバスの材質、素材、はたまたそれが作られた時代背景、エトセトラエトセトラ――を、理解しないと楽しめないような作品はクソだ」ということを主張していた。「芸術作品は作品外の情報から切り離されたスタンドアロンであれ」ということだ。今も基本的に考えは変わっていない。
しかし、実際として「作品のウラ話を知っている方がより楽しめる作品」はあるし、あるいは私自身の好きな作品やアーティストでも、その作品の背後情報や、その作家の人となりを知っているからこそ、余計に素晴らしく見える、なんて作品や作家は沢山いる。この辺の矛盾――とはいかなくても、その辺の整合性を、なんとかはっきりさせたいな、とは考えていた。
そうぼんやりと考えたりしなかったりして数年。私は最近新しい趣味として、麻雀を始めた。そして麻雀用語を覚えていくうちに一つの概念に出会った。裏ドラである。 裏ドラをかなり雑に説明すると「自分で狙うことはできないボーナスポイント」である。懸賞役、と言われるものの一つだ。麻雀を知らない人にどっから説明するかはかなりめんどくさ……難しいのだが、裏ドラに話を絞ると、「リーチ」を宣言したうえで、目星のものを引き当てて「アガった」時に、それまで隠されていた「裏ドラ」を初めてめくることができ、自分がアガった手のなかにその指定された裏ドラが含まれていると、追加でボーナス点が入る、というものだ。だから狙って裏ドラを手札に組み込むことはできないし、そもそも条件を満たさないと裏ドラをめくることもできない。 そして、「裏ドラ」も「表ドラ」も共通だが、ドラを手札に組み込んでいるだけでは「アガる」ことはできない。チョンボになる。麻雀で「アガる」ためにはそもそも「役」が必要だ。それこそ「リーチを宣言する」ことも役の一つであり、これを宣言しないとアガれない、点数がそもそも貰えない場合もある。そしてボーナスポイントをもらうためには、その役を作って、つまり「そもそも得点をつけたうえで」、アガる必要がある。逆からいえば「ドラ」とは純然たるボーナスポイントで、そもそも点数をもらえる場面において、さらに高得点をもらうためのチャンス、なのだ。
この「ドラ」というボーナスポイント、「それだけでは得点にならないのだが、もし得点を付けてアガることが出��たときにはより高得点をもらえる」という概念。これは私の提唱する「芸術作品は作品外の情報から切り離されたスタンドアロンであれ」という主張と、「芸術家の人となり等といった作品外の情報を知っているとより作品を楽しめる」という事実や現実に、似ているのではないか、ある種の相似を見出せるのではないか、と思いついたのだ。というわけでこの「裏ドラ現代芸術試論」を、例を挙げながら検証していきたいと思う。
例えば、私の好きな作家であるJ.M.W.ターナーの作品、『平和、水葬』を見てみよう(https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-peace-burial-at-sea-n00528)。茫漠たる海の真ん中に、真っ黒に塗られた帆船が漂っており、その船の中ほどには明かりが、いや炎が煙を上げて煌めいている。 この絵には裏情報が非常に多い。そもそもこの絵は、ターナーの友人の画家、サー・デイヴィッド・ウィルキーが船上で没し水葬された場面を描いたもので、ターナーは追悼としてこの絵を描いたのだ。暗い海面をよく見ると、船と同じ黒色で小さな海鳥が飛んでいるのを発見できるが、これは鴨、mallard であり、Joseph "Mallord" William Turner のもじり、すなわち作家ターナーが鴨として絵画上の葬儀に入り込み立ち会っているものだと言われている。また、この作品は『戦争、流刑者とカサ貝』という絵との対作品であり、恐怖さえ感じる赤い暖色系のそれと並べて展示することを前提に、『平和、水葬』は非常に対比的な寒色系の配色で描かれ、お互いがお互いの色彩をより鮮やかにより引き立てるような色遣いがなされている。その穏やかな寒色の真ん中に配置される真っ黒な船は、言わずもがなターナーの深い悲しみをあらわしている。 数年前、上野でターナー展があったとき、私はこの作品の実物とようやく対面することができた。私はターナーの大ファンなので、上記の情報を全部知ってる。上に書いた通り、この『平和、水葬』と『戦争、流刑者とカサ貝』もきちんと並べて展示されており、二対で完成する鮮やかな色彩の対比も完璧に感じ取ることが出来た。……しかし、そんなことはどうでもよくなるほど、この絵は圧倒的に美しかった。PCの画像や図録の印刷とは比べ物にならない、息をのむほどの美しさがその作品にあった。上で垂れ流した裏情報、「裏ドラ」など、この絵がそもそも持っている美しさの前では何の意味もない……。あるいはそんな思考さえも掻き消えてしまうほど、この絵の圧倒的な完成度の前に、私は我を忘れてしまったのだ。
主観で申し訳ないが、私の言いたいことは伝わっただろうか? 作品の裏情報は��局裏情報でしかない。勿論それらがあれば作品をより深く味わうことはできる、キャプションや注釈で補足されることもあるだろう。しかしそんなことを忘れさせる、とまではいかなくても、それらの情報がなくても名作は名作なのだ。裏情報を知らなくても名作は楽しめる、裏情報はボーナスポイントでしかないし、ボーナス点など無くても名作はそれだけで勝負できるのだ。
例えば草間彌生の作品群。キャンバスを、会場を埋め、無限に膨張し続ける水玉模様や光や突起物。これらの作品の元になったのは彼女の幼少期のトラウマや精神病やそれらからくる幻覚である、ということを、どれほどの人が知っているのか。勿論彼女のファンならば多かれ少なかれ知っているかもしれない。だが、彼女の水玉模様の絵画やオブジェは、彼女の手を離れて膨張し続け、フランスはリールの駅前や、日本でも新潟県まつだい駅前には彼女のオブジェ作品がでかでかと置かれてあったり、あるいはユニクロとコラボ製品が作られたり(http://sprzny.uniqlo.com/jp/products/kusama/)、もはや草間彌生という名前さえも知らない人にも、彼女の水玉模様が受け入れられている事実があるだろう。これは「草間彌生の水玉模様は彼女の見ていた幻覚から由来している」という事実や「この作品を作ったのは草間彌生という人です」という情報さえ最悪知らなくても、それらを受容させられるだけのポテンシャルを作品が持っているからではないだろうか。作家の名前さえ伏せられようともスタンドアロンで成立する強度、ポップさがあるからこそ、彼女のオブジェは駅前にそびえ立ち、服やバッグやスマホケースの柄として浸食できたのだ、と考えることはできないだろうか。
絵画や芸術だけじゃない、音楽だってそういうときがあるだろう。私の大好きなバンド、the pillows、彼らの代表曲『ハイブリッドレインボウ』の歌詞。「きっとまだ、限界なんてこんなもんじゃない」「ここは途中なんだって信じたい」……。普通に聞けば、リスナーを鼓舞する応援ソングに聞こえるだろう。しかしピロウズファンは知っている、この曲は彼らピロウズ本人たちが、音楽業界の仕組みに絶望し、売り上げも伸び悩んでいたとき、それでも自分たちの音楽を信じて進むために作った、彼ら自身のための曲なのだと。自分たち本人のための曲を誰もの曲に聞こえるようにする主語の転換がうまいのがピロウズなのだが(Funny Bunnyとかスケアクロウとかそういう曲は多い)、一粒で二度おいしいというか、初めはそういう情報がなくても聞ける、しかし彼らのバックボーンを知るとより楽しめる、さらにはこの曲がRadiohead等洋楽オルタナへのオマージュということがわかると尚面白く聞こえる、そしてもちろんこれらの裏情報を知らなくてもこの曲は名曲である、というスタンドアロンとボーナスポイントがうまく絡み合い共存併存しているのがピロウズだ。メロディと歌詞と��ウンドだけで、スタンドアロンで勝負できる、もしかしたら「この曲は自分のために作られた曲だ」とぶっ刺さる人もいるかもしれない、しかしその奥、裏ドラをめくると、彼ら自身の足跡がこの曲に刻み込まれ柱になっていることがわかるのだ。
ああそうだ、こう例えれば早かっただろうか。あるバンドが新譜のアルバムを出したとする。そうしたら、リリース記念で音楽雑誌やニュースサイトで、新譜に関するインタビューを受けることがあるだろう。これを読むのは誰か? そのアルバムを聞いた人、あるいはこれから聞く人、そのバンドの元からのファン、この三択しかない。なるほどそのインタビューや(セルフ)ライナーノーツを読めば、新譜がどういうものか、どういう思いが込められているのか、どういうものから影響を受けたのか、そういった裏情報を得て、よりその新譜を楽しむことができるだろう。だが逆に、それを読まないと理解できない新譜なんかリリースするだろうか? あなただってそうだろう、音楽を買って、それを最初に再生するその瞬間。前情報なんて何もないし、無論、前情報を仕入れる必要も全くない。ただ再生される音楽を、再生されるまま楽しめばいい。そのアルバムは完成品としてリリースされているのだから、その音だけを楽しめばいいし、その音だけで楽しめる、勝負できる作品になっているはずなのだ。むしろ、余程のファンしか読まない、大抵の人は知るはずもない裏情報を読んで、ようやく楽しめる音楽アルバムなんて、要するに失敗作ではないだろうか?
あるいは、裏ドラを自ら投げ捨てる例だってある。アルバート・ムーアという芸術家を知っているだろうか? 彼は「唯美主義」という、「美しければなんでもええやろ」という芸術主義のなかで、古代ギリシア人(の格好をした人)にバイオリンやバドミントンのラケットを持たせたり、西洋人に東洋風の格好をさせ東洋の小物を持たせたりした。時代考証をぶん投げたのである。時代考証という筋が通っていれば、きちんと調べて描いたのだろうみたいなボーナスポイントが付いたりしたかもしれない。だが彼は「美しいだろ、だったらその辺の間違いなんてどうでもええやん」と開き直ったわけだ。その唯美主義の作品が現代まで残っているという事実そのものが、ボーナスポイントを投げ捨てても、作品そのものの美しさだけで勝負し、それだけでスタンドアロンで存在できるという証左にならないだろうか。
いや、あるいはその「美しければ多少の間違いなど些末な問題である」という唯美主義的思想そのもの、その強さこそが裏ドラだろうか。芸術のための芸術を目指す唯美主義思想、それに裏打ちされた作品群。あるいは「なんで古代人がバイオリンやラケットを持ってるねん」という疑問を持った人が、アルバート・ムーアという人物の人となりを探ろうとするかもしれない、そしてそこで彼を貫く唯美主義思想を掘り当てるだろう。
結局のところ、裏ドラとは作家の思想の強さ、意志の強さであり、それは作品の表にも滲み出てくるものなのかもしれない。いや、そこまで強い意志だからこそ、鑑賞者は裏ドラをめくりたくなるものなのだ。こんなことを思ったことはないだろうか? 「なんて素晴らしい作品��んだ、”一体何を食べれば、こんなものを作り出せるのだろう”」と……。芸術作品だって、それ単体で勝負できるくらいの、スタンドアロンで成立する強度を持っているからこそ、その裏まで知りたいと思わせられる引力が発生するのだ。これは、自力で手を作り必要なものを揃えてリーチを宣言し、その上でアガってようやく裏をめくれる、麻雀と似てはいないだろうか。 若干皮肉に思えるかもしれない、結局裏ドラ裏情報なしでスタンドアロンで成立する作品を作るためには、その裏打ちや土台や背骨として確固たる意志が無ければならない、すなわち裏ドラが背骨を支えているからこそ独力でスタンドしているのだ。(勿論、メッセージなんて特にない、ただうまくなりたい、を繰り返して、恐るべき完成度まで到達した外骨格みたいな作品や作家もいるが……)。だが同じく皮肉なことに、裏をめくりたくさせるには、やはり作品そのものにその引力が無ければならない、すなわち裏まで読み取りたくなるほどの美しさが無ければならず、すなわちその時点でスタンドアロンで成立する強度、裏ドラ抜きで勝負できる強力な手を持っているからこそ裏をめくれるのだ。
その辺を勘違いした現代ア~チスト気取りが、毎晩メシと酒と錠剤の画像をアップして、質問チャンスとかいってマシュマロを開設していたりする。バカ野郎順序が逆なんだよ。「何食ったら、これを作れるんだ?」というのが思考の順番で、これを食べてるので私はこれを作っていますじゃねえんだ。晩飯じゃなくて作品を作れ、アンタになんか興味はない。 私は遠い昔、『「アーティストの人間性のクソさと作る音楽の良し悪しに関係はあるか」もとい「アーティストの人間性がゴミクソだったときいかに作ってる音楽が良くても聞けるか」問題は、すっごい身も蓋もないこと言いますが、情報を知る順番の問題だと思います。』とTwitterに書いたことがある。裏ドラ理論でいくとどうだろう、「先に裏ドラをめくってから、どこに裏ドラがあるか答え合わせをするように作品を鑑賞する」みたいなことになるのだろうか? そういうのもあるのかもしれないが、私は賛同しかねる。だいたい裏ドラありきでようやく勝負できる程度の作品が、裏無しで戦える強力な作品に勝てる道理があるのだろうか? それなのに裏をのせることばかり腐心して肝心の手役作りが疎かになっている、承認欲求に敗北したア~チスト気取りばかり目立ってしまう。明槓で裏ドラは増えねえよルールを覚えろバカタレ。
芸術作品はスタンドアロンで成立すべきだ。裏ドラをめくるのは作者じゃない、批評家の仕事だ。批評家に仕事をさせたくなるような強度の作品を作るのが作家の仕事だ。アガらないことには裏をめくれないし、一番早くアガった人間だけが点数をもらえるのが麻雀なのだ。
4 notes · View notes
isawa-nkb · 5 years ago
Text
Nishiogikubo Flashback
償いにも似た郷愁と憧憬みたいな 花飾りをつけた少女の目撃が相つぐ
大仰なカメラを抱えた共同幻想中毒者が 身代金携え街の底のペットショップへ
狂い咲きの夜桜は歌う猫を抱いて散った 星が落ちた夜に咲いた百合だけが本物だった!!
盲目の刑事が嗅ぎ当てた 事故物件の地下スタジオ 突入したらもぬけの殻だ ピアノの上で受話器が遊んでる
団地の屋上 回送列車 番外地の街灯 途絶えぬ目撃談
塗り潰されたネームプレート 彼女の名前を思い出そうとした 今か昔か知ってた筈なんだ そもそもありやしない 妄想かもしれない 路地裏の奥の どん詰まりに誘う 野良犬が咥えた 小鳩の死骸
俺は泥酔した深夜零時半 癖毛の少女が俺に手を振ってた 俺は動揺して目をこすったら 消えてしまってた 幻みたいに
あるいは本当にそうだったのか? それとも俺の妄想なのか? その時、声が聞こえた気がした
https://twitter.com/he_tale_bass6/status/1231576446667067392
**********************************************************
ライナーノーツとか楽曲解説とか歌詞解説とかキャプションですらも宗教上の理由で本当なら書きたくないのですが、まぁ今回はボーカル外注したりコンピに提出したり小ネタをちょいちょい入れたり喋ること喋りたいことがわりかしあるので久々に文章を書こうと思います。
というわけでサークル「非実在性芸音科学」様主催『NUMBER ZAZEN COMPILATION』に、伊38 from ZAZENFOXXとして「Nishiogikubo Flashback」という曲を書き下ろして提供させていただきました。 お声がけいただいたあおいん様にあらためて���礼を申し上げます。このような機会をいただけまして大変楽しかったです。
https://twitter.com/aoiiiin/status/1229745997380648963
自分の話としては学生時代にナンバガのコピバンをやって、特に向井コードは自作の曲でもかなり拝借しまくってるので事実上伊38が一番影響を受けたバンドなのですが、ここまでもろナンバガリスペクトな曲を書く、というのはあらためて新鮮で面白い経験でした。いや今までもcabsやmiimiのパk……リスペクトな曲を書いたりしたんですけどね! ただ逆に、これまでのリスペクト作曲の経験から「直でそのバンドを拝借しようとするとちょっと外れた感じになる」という自身のノーコンさもわかってきたので、今回はナンバガというよりナンバガフォロワーのバンドをちょこちょこつまみ食いする形で作業を進めました。実際自分が好きで聞いてるバンドもナンバガに直接・間接的に影響を受けているバンドばかりなので、好き勝手書いてもナンバガっぽくなってたかもしれないんですがが。
というわけで実際に参考にしたのはまず、はな/szak/松本文紀による『終末の微笑』。
https://www.youtube.com/watch?v=zCjxVXX-YLE
なんなら自分がナンバガを真面目に聞き始めたのはケロQの『素晴らしき日々』、の主題歌『空気力学少女と少年の詩』からなんですよね。そのちょっと前からiPodにはナンバガ入ってたと思うんですが、当時は聞いても「ボーカル聞こえづらいしコードもディスコードしてるどころかダイアトニック使ってなくね……?」みたいに全く理解できなかったんですね。大体の人がそうだとは思いますが! でも当時はバンプとピロウズというポップロックしか聞いてなかったので……。 そんななかで偶然耳にした『空気力学少女と少年の詩』があまりにも名曲で衝撃を受け、すばひびをプレイし、ゲームも曲もナンバガ直下の作品だという情報を得て、あらためてナンバガにチャレンジしました。その直後にナンバガのコピバンを組んで自分で演奏して、ようやくナンバーガールというバンドとその曲の良さを理解し始めたという順番だった気がします。 そしてこの『終末の微笑』はゲームのED曲の一つ(挿入歌的なポジションの方が正しいか)なのですが、聞いていただいてわかる通りもろナンバガ直系というか、初めて聞いた時なんかドラムが入った瞬間にあまりにもアヒトサウンド過ぎて爆笑してしまいました。とても爆笑できるような精神状態じゃなかったはずなのになぁ……。そんなこんなでszak/松本文紀氏はぼくが最も尊敬している作曲家・ギタリストの一角なのでございまして、今回はこの曲を、特にCメロの急展開らへんを拝借させていただきました。ちなみにエゴサとかしてたらコンピ聞いてくださった人ですばひびを感じ取ってくれた方がいらっしゃったようで大変嬉しく思っております。意図が伝わってガッツポーズです。
あと直接的に拝借したのはハヌマーン『ハイカラさんが通る』。ぼく自身はコピーしてないのですがサークルの先輩同輩後輩でコピバンが沢山あったので耳に残っていて自主的にコード拾ったりしてました。ただ最初は「ハヌマーンぱくるぞおお」と思っていたのに最終的にアウトロでもろ引用するだけにとどまってしまったのが良かったのか悪かったのか。 この他参考にしたのは僕が最も尊敬する作曲家/ギタリストのもう一角、cabsの高橋國光コードだったり、あるいは初期きのこ帝国『国道スロープ』だったり、あるいは今回はあまり意識してないですがコピバンやったことのある透明雑誌やうみのてだったりでしょうか。他にはSuiseiNoboAzをパクるアイデアもなくはなかったのですが、ボアズは引用するのがかなりムズイというか骨格はどシンプルな歌モノに過ぎないしボアズ感を出すには頭からケツまでボアズを意識し続ける必要があって現実的じゃないなと思って却下したり。 というかナンバガコピバンでコピーしたのが透明少女・タッチ・ URBAN GUITAR SAYONARA・ZEGEN VS UNDERCOVER・TATTOOあり・CIBICCOさん・NUM-AMI-DABUTZ・OMOIDE IN MY HEAD・IGGY POP FANCLUB……なので、今思えばこれら全部からちょいちょい要素をパクってるなぁという。や���ぱ飲み込んだものしか吐き出せないんだなぁと。
ともかく、  こういったナンバガフォロワー群を聞いてたからか、ミックスを知人(というかZAZENFOXXをミックスしてくれたぷれしお君)にチェックしてもらったら「ナンバガというより残響系に聞こえる」とのコメントをもらったり。そりゃあナンバガいなかったら残響レコードなんてなかったよなぁ。というかナンバガのあのクッソ音の悪い音源(そりゃ20年前なんだから悪くて当たり前だ)を現代風に作り直したら残響になるよなぁ。という当たり前だけど地味に盲点だったところに気付かされたりしました。
サウンド面でもう一つ話すとするなら、ひさ子パートというか右チャンネルのリードギター。ナンバガのひさ子もザゼンのカシオメンもそうなんですが、二人ともリードギター単体だとダサ……割とへちょいというか「こんなフレーズ普通採用しねえだろ」なリフを弾いてるんですよね。ただ伊38的にはそんなフレーズは弾きたくない……というか録る前にボツにしちゃうので大変困りました。しかしいいフレーズも思いつかず、結局Bloodthirsty butchersの『Jack Nicolson』のメインフレーズを改変。というわけでここでもナンバガをちょっと外しつつ引用した形になります。でもサビやCメロのひさ子コードは頑張って自力でひねり出しましたよ。 そうそうひさ子パートはブッチャーズに合わせて3カポなのですが、向井パートの左ギターは1カポ……というか半音上げチューニングです(cabs仕様ですね)。つまり右と左でカポ位置を変えることで和音構成が確実にずれるような仕掛けを施しています。
サウンドはこのくらいにして歌詞の話。向井的な歌詞、ナンバガの殺伐感を出すにはどうしたらいいのか。というかそもそも言いたいことが無くなって久しいので歌詞とかどうしたもんかと迷ったのですが、そんな中で思いついたのが「とりあえず鳩羽つぐを始点に考えてみよう」という。
https://www.youtube.com/watch?v=xXaLxqYlRNk
現代の座敷童だの、幼少期の曖昧な記憶という概念の擬人化だのいろいろ言われつつも未だに謎に包まれた鳩羽つぐ。本家のみならずVRチャットにも模倣犯が現れ、しかしその模倣犯すらも名前が伏せられていて正体が掴めない。憧憬、あるいは後悔。非実在、あるいは実在。初恋あるいは失恋。記憶探し、しかしそれは妄想。ロックトランスフォームド状態におけるフラッシュバック現象。思い出したのか、はたまた幻覚だったのか。どうとでも解釈できる彼女は思考の出発点として個人的に重宝するというかどの方向にでも歩を進められるので思考を阻害することなく、しかし宙に浮いたままどこから始めればいいのかわからない創作作業において初めの一歩目あるいは零歩目として思考の地平に着地させてくれるのですね。というわけで今回は彼女そのものの曖昧さ、不穏さ、あるいは事件性を、NUMBER GIRL的冷凍都市解釈にスライドし、ZEGEN VS UNDERCOVER的世界観にもっていこうとしてみました。そして思い浮かんだワードが「西荻窪Flashback現象」。彼女のことが見える、彼女を思い出す、知ってると思い込む、しかしそれは記憶か妄想かMABOROSHIか、混濁していて何もわからない。ここに事件性や殺伐感を高めあるいは鳩羽感を薄めるために伊38的2019年ベスト映画『見えない目撃者』要素を入れようとしたんですが「盲目の刑事」のくだりしかねじ込めなかった。あと『Serial experiments lain』要素とか入れようかと思ったんですがさすがにとっ散らかるのでやめた。あと「街の底」のペットショップはEastern Youthへの目配せですはい。
という方向で曲と歌詞を書き始めた、のが忘れもしない2019年12月4日。鳩羽つぐ以上の事件が起きた日。バーチャルユーチューバーグループ「アイドル部」から、夜桜たま、猫乃木もち契約解除の発表。 あまりにもショックでその日は何も手につかなくなってしまいました。ああそうだ、これがバーチャルユーチューバーなんだ。所詮Virtual、仮想現実。きっといつしか彼女の動画のアーカイブは消され、我々の頭の中にしか思い出は残らない。いや、記録が消され頭の中にしかない記憶と妄想はいかにして峻別できるというのか。OMOIDEはしかしいつしか妄想に変わっていく。ああ、そもそもアイドル部という名前。偶像と最初から銘打たれていたじゃないか。我々が熱中していたものは初めから砂上の楼閣に過ぎない。実在していないものに熱中する狂気。西荻窪Virtual Insanity状態。存在を知ったころには解散していたナンバーガール。画面の向こう側でしか見たことのない存在。台風によって中止されたRSR初日。初めから実存の保証なんて一切されていない。頭の中のそれらの区切りは頭の中という理由そのものによって余りにも酷く醜く脆弱だ。こんなにも儚いものに熱中している、あるいは熱中していた我々そのものの儚さ。
4日とその翌日が非番日だったので録音作業を進めるつもりだったのですが、この発表によって完全に何も手につかなくなってしまいました。というわけで鳩羽つぐで書こうとしていた曲に、たとえ文脈が不自然になろうと、この日を忘れないためにも2行をねじ込ませていただきました。たとえ桜が再び咲こうと、墜ちた星は二度と戻ってこないのだ。
という感じで作詞作曲録音作業は行き詰まりしかし逆に火が付き、なんとか1月にはオケが完成。そして下旬に後輩の紫水さんのボーカルを録音、提出という流れでした。 よく完成させられたなこの曲。ちなみに11月時点では一切進捗がなく過去曲のリメイクリテイクかストック曲の放出を考えていたんですが、12月頭にイントロのギターが降ってきて、その勢いでギリギリで描き下ろし新曲を提出することができたのでした。
スケジュールに余裕がない中歌っていただいた紫水さん。軽音サークルで東京事変やきのこ帝国やandymoriを歌っていたのを見て、あとギリギリ頼める年齢差と顔見知り具合だったのでお声がけしたのですが、数テイクでばっちりOKテイクを出してくれました。大変ありがとうございました……! 主催様の「ナンバガを女の子が歌ったらどうなるか気になる」との言葉から頼んでみたのですが、題材的にも野郎が歌うより女声の方がばっちりハマったので大正解だったと思います。重ね重ね御礼申し上げます……!
という感じで出来上がりましたNishiogikubo Flashback。が入った『NUMBER ZAZEN COMPILATION』。 ジャケットも素晴らしいし僕以外の曲もみんな名曲で曲順も完璧なので手前味噌でなく名盤なんじゃないかという気がしています。  現在通販準備中&今後のイベントでも頒布可能性ありとのことなので、今からでも興味が出た方は主催のあおいん様(https://twitter.com/aoiiiin)の動向をちぇけらです。
2 notes · View notes
isawa-nkb · 7 years ago
Text
平成の音楽を振り返る回、を振り返る
Twitterで散々告知していた、「軽音サークルOB(と現役)が集まって、『平成(OO年)といえばコレ』な曲を各々30曲ほど持ち寄り、平成を彩った名曲を振り返ることで平成という時代を総括する会」の第一回を、先日8/11の夜に執り行いました。その時に流した曲のリストが出来上がったので、会の模様を録音していた駄弁りデータを参照しつつ、ぼく視点で改めてコメントをつけてこの会の様子を残したいと思います。 一応ブログ末に録音したmp3を詰めた泥箱のリンクを貼るつもりではいますが、 会議が6時間を超える長丁場になってしまったのでさすがにそれを全部聞く暇人はこの世に存在しないだろうということで、文章にまとめた方がまだ追体験しやすいだろう、というのがこのブログ執筆の目的です。 録音データの書き起こし、というわけではないですが、脱線や菓子の受け渡しみたいな雑音が入ってるよりはむしろこの方がいいかと。勿論このブログ形式にしてしまうことで、筆者のバイアスがかなりかかってしまうことは重々承知してはいますが。
というわけで今回集まったメンバーから紹介。 ・ぷれしお 今回の首謀者。ブリットポップやシューゲイザーが専門ながら、J-popをほとんど網羅している平成の申し子。今回は「平成各年のオリコンシングルチャートTOP100を参照しつつ」「取り上げるのは1アーティスト1曲で被らないように」30曲を持ち込み、個人の思い出ではなく売上データからの分析的な検証を試みます。 ・まえぴ ぷれしおの同期。高校時代はジャズピアノを、大学軽音サークルではベースに持ち替えて精力的に活動したマルチプレイヤー。今回は「これぞ平成」な懐メロを多数用意してくれました。 ・伊38 筆者。賑やかし役。このブログに辿り着く人ならぼくの趣味はわかってると思うので割愛しますが、基本的に「他の人が持ってこなさそうな曲」をセレクト。このブログ内での「平成の語り」はぼく視点によるものなので文責はぼくにありコメントはぼく宛でお願いします。 ・各方面 軽音サークルの大先輩。筆者より10歳くらい上なのかな……? 今回は各年にハマった音楽を「表プレイリスト」「裏プレイリスト」にまとめ、交互に触れていくことで時代を多角的に検証します。年長者として、10代の多感な時期を平成と共に過ごした年代としての語り口に期待。 ・かっしー 軽音サークルの後輩。筆者より4歳くらい下。激動の平成音楽シーンにおいて数歳の差でいかに音楽体験が異なるのか。年少者からの視点が必要だとして今回参加。
この5人でお��りします。そして出来上がったプレイリストがこちら。 https://twitter.com/Plesio_/status/1028826230232047616 https://twitter.com/Plesio_/status/1028826235890102272
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
わかりづらいですが、一人が一気にプレゼンすると平成30年を一息に駆け抜けてしまうので、「平成をだいたい10年ごとに分け、それぞれの年代で自身が聞いていた曲を5人がそれぞれプレゼン、それを3セット」という形式を今回採用しました。つまり上記プレイリストで誰がどの曲を持ち込んだかは結構ばらけています。その辺はぼくのこれからの語りで解説・補完していければと。
それでは前置きが大変長くなりました、適宜コメントをつけつつ、各曲を紹介し平成を振り返る回を振り返りたいと思います。
 第一部、平成初期(平成元年~10年くらい) まずは主催ぷれしおから10曲ほど。開幕はプリプリのダイアモンド。昭和じゃねえんだコレ、と思うのはぼくがまだ生まれてないからか。開幕にふさわしい明るいナンバー。 たまのさよなら人類。平成2年売上トップ10てマジ? 小田和正。ドラマから有名ですからね。 浜田省吾。「平成4年は売上トップにビッグネームが並ぶので、(彼の課したレギュレーション上)被りを避けるために」とのこと。 ZARDは平成初期では外せないですね。というか某番組のおかげで今も通用してますし。 ミスチルからはイノセントワールド。この後もスマッシュヒットが続きますが、そ���後のヒット曲の紹介のためにここでミスチルのカードを切ることに。しかしこれ「百万枚売れるメロが書けた!」と桜井が言うだけありますね、ラスサビからの畳みかける歌詞もエモ。 B'zもここで紹介。しかしこのLOVE PHANTOMイントロ長いな。当時は色々余裕があったというか。そして4つ打ち。と言いつつ現代の4つ打ちとはノリも扱いも違うけど。ちなみにB'zの松本氏はその時々の最新のギターの音色で録音するので、B'zファンを呼んで30年分振り返るだけで平成のギターの音色の変遷がわかるのでは感も。詳しい人を呼びたい。 SPITZ「空も飛べるはず」。これ以降ずっと何かしらの曲でランキングに居座り続けるモンスターバンド。ちなみに会ではデモ版「めざめ」を流していました。「君と出会えた奇跡が」を「君と出会えた痛みが」に変えるだけで歌詞の意味がぜんぶ変わるという、スピッツがいかに歌詞を大切に考えてるかという好例。 Kinki Kids「硝子の少年」。「20年経っても歌えるから」とごり押ししつつちゃんとスマッシュヒットを叩き出す作曲・山下達郎もすげえし、山下達郎の曲というプレッシャーを跳ね返して歌い上げたキンキもすげえ。 そしてGLAY「誘惑」。この10年で出てくるミュージシャンは平成をずっと席巻し続けるあたり、平成初期10年間がいかに強かったかわかりますね。というわけでぷれしお第一ターン終了。
次はまえぴのターン。一曲目は平成元年1月11日リリースという、滑りこみで平成な美空ひばり「川の流れのように」。平成の幕開けというよりは、これで昭和が幕を下ろしたといった方がいいでしょうか。ちなみに美空ひばりは同年に亡くなっているそうで、最晩年にこのテイクをCDに吹き込める美空ひばりもバケモノだなぁという……。 BE MY BABY。つい最近流行ったけど。初出はそりゃ平成だよなと。 おどるポンポコリン。そりゃ我々世代聞いてない人間いないよなぁ……。実際B.B.クイーンズはBeingの凄腕ミュージシャンを集めて出来たバンドなので演奏がすごいんですよね。 めざせポケモンマスター。説明不要。 チャゲアス「On Your Mark」。チャゲアスから敢えてこれを持って来るという。 MISIA、「Everything」。歌うっま……。先日のフジロックでの名演も記憶に新しく。20年以上通用し続けた歌唱力……。 残テ。ヱヴァはついに平成の間に幕を下ろせなかったね……しかしこのスネアやバスドラ、メタルというかハードロック的処理の音ではないかという。 ウルフルズ。優勝。バンザイ。しかし平成初期のポップス、重心が高いというかウワモノ勝負みたいなサウンド。キックやベース��低音が決め手になっていくにはまだまだ時間がかかります。 もののけ姫。平成ジブリといえば外せない。 あ、リストから漏れてますがここで安室奈美恵「Can you celebrate?」が流れました。平成を振り返る回をやろうと言い出したきっかけは最近話題になってた安室奈美恵からだったりします。 そして1999年、椎名林檎「丸の内サディスティック」でまえぴの第一ターンは終了。20年経っても軽音サークルのスタンダードであり続ける椎名林檎嬢の強さ……。
さてお次は不肖わたくし伊38のターン。Spookey Ruben「These days are old」タイトルではピンとこないかと思いますがYoutubeで10秒再生すれば「これぞ平成」とわかるかと。 小松未歩「氷の上に立つように」、倉木麻衣「Secret of my heart」。というかコナンのOPEDを30年分振り返るだけで平成を振り返られるんじゃないか? アニソンつながりで「月灯りふんわり落ちてくる夜」 小川七生 。オラはにんきものと迷ったけど、色々あったクレしんEDの中で唯一、かつ強烈に覚えてるのはコレ。 ポケットビスケッツ・ブラックビスケッツをそれぞれ。バラエティ番組の一企画として生まれたバンドだけど、今聞いても全然聞けるくらいオケが面白いし、千秋とビビアン・スーがべらぼうに歌うまいので企画バンドの枠を超えてると思う。実際ゴールデンタイム発でヒットチャートを動かそうというわけだから金かかってるんだろうけど。つまりは当時は色んな余裕があったんだなという。 ジュディマリ「そばかす」。ぼくリアルタイムではないんですが。YUKIの歌とTAKUYAのギターが圧倒的で未だに軽音サークルでコピーされるあたりね。 あと最後、一曲分枠が余ったので1999年RSRのブッチャーズを軽く流しておきました。というわけで次の方へ。
大先輩各方面氏。1989年はガンヘッドのテーマから開幕。そして1989年裏リストはBoredoms。これ持ってくるのか。 米米CLUB「浪漫飛行」。これも平成なんすね……で裏がHANATARASH。さっきボアダムス流したじゃないすか……ちなみに選外に人間椅子、ビョークの幼少期ジャズアルバムなど。 「SAY YES」チャゲアス再登場。歌うまいしメロがつよい。そして裏はマイブラとニルヴァーナ。1991年の選外としてはレッチリも。 1992年は「それが大事」大事マンブラザーズと、裏リスト「戦え! 何を!? 人生を!」筋肉少女帯。筋少も代表曲に困るバンドですが今回はこちら。 「EZ DO DANCE」。キンプリ、というかプリリズからリバイバルしてましたしね。そしてその年に裏で鳴っていたのがレディへ「Creep」。ちなみに翌年表プレイリストもTRF連チャンで「BOY MEETS GIRL」。 1995年、黒���「SEE YOU」。90年代V系を持ってくるのはリアルタイム世代じゃないと……。裏リストはBjork「Hyperballad」。 電気グルーヴ「誰だ!」そしてBloodthirsty Butchers「二月」。ちなみに1996年はLUNA SEA「STYLE」X JAPAN「DAHLIA」 L'Arc〜en〜Ciel 「True」とV系の重要シングルが立て続けに出た年という。 1997年、Cornelius「Star fruits surf rider」、裏に池田亮司「+/-」。テクノ(?)な選曲。 1998年、HIDEの死んだ年ということで「ever free」。裏リストはまたBoredomsで「Super You」。選外にBoom Boom SatellitesとかSystem of a downの1stとか、ゆら帝「3x3x3」など重要盤が並ぶ。ちなみにリストでは先に出てましたが、Boa「Duvet」もこの年。
10年振り返ったのでここでプレゼンテーター交代、後輩のかっしーのターン。ただし平成初期は生まれて間もない(!)ので、当時見ていたアニメから「ニャースのうた」(クソ名曲)、おじゃる丸「詠人」(北島三郎なんだね……)を流して終了。生まれたときにはポケモンが存在していた世代……。
 というわけで第二ターム。プレゼンテーターは一周してぷれしおに回り、平成11~20年のヒット曲を俯瞰するターン。 1999年、宇多田ヒカル「Automatic」。説明不要。ちなみに会では岡村靖幸によるトリビュート版を流していました。 福山雅治「桜坂」。ちなみにこの年サザンの「TSUNAMI」も出てましたが、 サザンからは翌年の「波乗りジョニー」をチョイス。しかし桑田佳祐もつよいボーカリストですよねぇ。 「ピクミン愛のうた」。ゲームキューブってこの年だっけ……。 そしてSMAP「世界に一つだけの花」。クソ流行りましたねぇ。槇原敬之最大のヒット作というべきか。 ラルク「自由への招待」。イントロのドラムパターンが印象的だからとセレクト。 トラジ・ハイジ「ファンタスティポ」。堂本剛の歌がめちゃくちゃ上手い。 TOKIO「宙船」。会では中島みゆきのテイクを流していました。このように平成中期はジャニーズがかなり時代を持っていくチャートになっているとのこと。 「千の風になって」。クラシックでチャート入りしたのはこれと平原綾香「Jupiter」くらいなはず。 「羞恥心」。まぁ流行りましたからね……。ぼくはTwitterでさんざ言ってますがJ-popを殺したのは島田紳助とヘキサゴンだと思っています。実際この後年にはAKBが出てくるので、J-popの印象が変化するきっかけと言えなくもないという。
そしてまえぴにバトンタッチ。日立グループこの木なんの木はいいとして。 グランツーリスモより「Moon Over The Castle」。T-Square安��まさひろ。まえぴが一番最初にやったテレビゲームだから、とのチョイス。そういや平成となるとゲーソンとともに過ごした人間とか呼んでみたい。 そしてレースゲームつながりで、リッジレーサー4より「Urban Fragments」。アイマス以前のナムコのゲーム音楽はつよい。 一青窈「ハナミズキ」。流れてたなぁそういや。 「知恵と勇気だ! メダロット」。ポケモン出したからには出さないわけにはいかないよなぁ。���者は普通にコロコロ派でしたがメダロットとかサイボーグクロちゃんとかはアニメ見てた気がします。覚えてないけど。 Do As Infinity「冒険者たち」。そういやこの時代、女性ボーカルとトラックメイカーの野郎、みたいなユニット多かったですよね、デイアフタートゥモローとかガールネクストドアとか。そーいや遠ーい昔どっかで、「ガールネクストドアはテレビ主導・Mステ主導で流行りを生み出せるかどうかの最後の実験だった」という言説を読んだ気がします、実際ガルネクはイマイチぱっとしないで消えたような。時代の流行りとテレビ(と時代の変化)の関係も詳しい人に語ってもらいたい。 ちょっと時代遡って、「渚にまつわるエトセトラ」、「ハッチポッチファミリー」。ハッチポッチのインチキ洋楽カバー聞き直したい。 森山直太朗「さくら(独唱)」。そういや平成中期はバラードも結構ヒット曲多かったですね。Youtube前の時代なんで90秒で掴む、みたいなこともなかったですし。 というわけでヘラクレスオオカブト……じゃなくて「カブトムシ」aikoでまえぴの第二ターン終了。
というわけで伊38第二ターンですが、ぼくも平成10~20年は小中学生だったのでまだテレビっ子で音楽にも目覚めてない時代なんですね。 スキマスイッチ「全力少年」。当時はズームイン朝で若手ミュージシャンをプッシュする謎のコーナーがあったんですよね。そういう余裕があった時代ってわけですが、スキマスイッチは頑張ってましたね。雨宮天の「奏」は神。 続いてもズームイン朝枠で、nobodyknows+「ココロオドル」。ニコ動でも不動のMAD素材。というか映える声のMCを贅沢に5人も抱え、トラックも面白いし、ヒップホップブームの今再評価に値するのでは。今も活動してるか知らないけど。 矢井田瞳「My Sweet Darlin'」。どこで聞いたんだっけ…… 奥井亜紀「Wind Climbing~風にあそばれて」。グルグル見てたはずなのに全然覚えてない…… 塊魂を流そうと思ってサントラ借りたら入ってなかったので仕方なく流した「塊オンザスウィング」。松崎しげるも歌うまいな……。 ここまで誰も流してなかったので「Butter-Fly」かけときました。「カサブタ」と迷った。 申し訳程度ですが菅野よう子も流さなきゃなぁ。ということで「Tank!」を。というか菅野よう子詳しい人に菅野よう子クロニクル解説とかしてもらっても平成振り返れそう���ていうか誰も「プラチナ」流してねえじゃねえか今回。筆者はCCさくら見てないのになんでオタクになったんだろう。 FLOW「DAYS」。エウレカも見てないのになんでオタクになったんだろう俺。 「リライト」も「メリッサ」と迷った。 最後は岡崎律子のために割いた枠で、メロキュア「Agape」を流して伊38第二ターン終了です。メロキュアもリアルタイムじゃ聞いてないんですけどね。なんでオタクになったんだろう俺。
というわけで各方面氏。この辺から表リストと裏リストの境が曖昧になってくる気が。 1999年。Mad Capsule Market「MIDI SURF」、Merzbow「Electric for ICC」。選外にハイスタなど。 Radiohead、KidAより「Everything in its right place」。エイフェックスツインが「ダサい」と一蹴したとかなんとか。裏は大友良英率いるGround Zero。 Daft Punk「One More Time」。が出た年にデビューしたのがDCPRG。選外はOwls、Ghost and votka、レイハラカミ、ASA-CHANG&巡礼などなど。 2002年「Num-ami-dabutz」ナンバガ。裏はオウテカ。 Prefuse73「The End Of Biters」。裏はチルボドの4thより「Needled 24/7」。 2004年のアジカンからは「振動覚」というチョイス。裏は想い出波止場「触媒」。 選外にSquarepusher「Ultravisitor」、アジカン「ソルファ」、フジファブリック・ZAZEN BOYS・東京事変それぞれの1st 。ザゼンと事変が同い年って。 Bloc Party「Like Eating Glass」。裏は吉田達也率いる高円寺百景「Rattims Friezz」。 NATSUMEN「Whole lotta summer」、裏は日本エモ界の隠し玉・倉地久美夫「あつい日本」。 そしてここでヤスタカをセレクト。Capsule「Starry Sky」。ヤスタカのキックは2007年には完成してたということですね。裏は大槻ケンヂと絶望少女達「人として軸がぶれている」。 andymori「Everything is my guitar」。裏にgroup_inou「Coming out」。同年は9mm「Vampire」、相対性理論「シフォン主義」が出て第二次バンドブームでもある年。というわけでこれで1999-2008の10年間の(偏った)振り返り。かっしーへバトンタッチ。
1999年でもまだ1桁年齢のかっしーのターン。やっぱその辺の時代での音楽体験はアニメやテレビからが主に。 松本梨香「OK!」、クレしん「ダメダメのうた」。既に出た「めざせポケモンマスター」、「月灯りふんわり落ちてくる夜」に対して、同じアニメでも入り口が違うというジェネレーションギャップ…… 「カービィ☆マーチ」。筆者は実は当時好きじゃなかったんですが今ヤバいアニメとして再評価されてますね。もっかい見直したいなぁ。 そしてもう一つポケモンから、そもそもルビー・サファイア世代(!!)ということで���アドバンス・アドベンチャー」。筆者、逆に知らない曲だ…… ナルトより「悲しみをやさしさに」little by little。オアシスフォロワー。 ロードオブメジャー「心絵」。CCさくらじゃないんだね……。 「青春アミーゴ」。めちゃくちゃ流行ったなぁ。 その流れでKAT-TUN「Real Face」。ホント当時破竹の勢いだった。 嵐「Love so sweet」。やっぱ平成中期はジャニーズ外せない。 GReeeeN「キセキ」。流行ったなぁ…………というわけで第二ターム全員終了。怒涛の平成晩期へ続きます。
 というわけで平成21年~からの音楽。まずは例によってぷれしお氏によるヒットチャート分析リストから。 2009発売、2010にヒットしたゴールデンボンバー「女々しくて」。 そしてきゃりーぱみゅぱみゅ「つけまつける」。Capsule、Perfumeで実験を重ねたヤスタカの結晶。 進撃の巨人より「紅蓮の弓矢」Linked Horizon。まぁ紅白出てたしなぁ。 SEKAI NO OWARI「Dragon Night」。この辺からキックがえぐくなってくる。 BUMP OF CHICKEN「Hello World!」。EDのUNIZON SQUARE GARDEN「シュガーソングとビターステップ」と並んで名曲。 星野源「恋」。売上基準のリスト故触れないわけにはいかない。 そして小沢健二「流動体について」。なんか熟練戦士たちが復活してきたみたいなリストになってますね。 というわけで趣味をなるべく排して売り上げ参照したぷれしおの俯瞰リストは終了。余り枠は彼の趣味を。 ゆらゆら帝国「昆虫ロック」。ゆら帝は全部マストなのだけど、1stからこちらの選曲。 the brilliant green「冷たい花」。1998年。というかまんまOasis。彼らはBlurのカバーとかしてるし生粋のブリットポップの民。 アイドルからはBABY METAL「ギミチョコ」。というわけでAKBにまみれたランキングからうまいこと外した選曲をしてくれました。
続きましてまえぴ第三ターン。 「マツケンサンバ2」からスタート。あったなぁ……。 「群青日和」。説明不要。 「メルト」。Supercell。ついにボカロが出てきた。 「恋のマイアヒ」。そう、平成といえばおもしろフラッシュ倉庫を外すわけにはいかないんですよ……。日本で唯一オリコンチャートに食い込んだルーマニアの曲。 ゆず「栄光の架橋」。ちらっと書きましたがバラードが流行りましたよね平成中期。 「最初から今まで」冬のソナタ、流行ったねぇ……。韓流ブームも触れないわけにはいかないよなぁと。 というわけで少女時代「Mr TAXI」。日本の市場をアテにして日本語を歌いだす韓流アイドルたち。そういや会が終わった後にエクストラコンテンツとして「江南スタイル」流しました。 相対性理論「LOVEずっきゅん」。やくしまるえつこ、平成晩期の女性ボーカリストのスタイルとして触れないわけにはいかないですよね……これ以降ウィスパーボイス女性ボーカリストがぐんと���えた印象。しかし相対性理論のキモはバックバンドのシンプルかつクソ上手い演奏でもあります。というか真部のコード進行とかもかなり独特なので詳しい人にみっちり解説してほしい。 ここで今まで誰も触れなかったAKB48「ヘビーローテーション」。 そして最後、まえぴ曰く「平成に始まり、平成で終わったジャンル」こと”””青春パンク”””からガガガDXを。確かにメロコアはともかくとして、ゴイステから始まった青春パンクはもはやフォロワーもいないし、創始者の峯田和伸自身が石原さとみとキスするような俳優になってしまったという点からも、青春パンクはジャンルとして終わってしまったと言って差し支えないと思われる。実際ゴイステの曲とかは平成のノスタルジーを抱えた平成の人間じゃないと書けないというのは間違いない。ここ詳しい人に語ってほしいですね。というわけでまえぴのターン終了。
さて伊38の第三ターンです。一番書きたかったパートゆえ、少々長くなりますがご容赦を。 BUMP OF CHICKENから「グングニル」。第一・第二ターンではテレビ経由の曲を紹介した伊38ですが、それに対して(当時)絶対にテレビに出なかったバンプは、いうなれば「オルタナティブ」でした。まぁ僕がバンプを知ったのは中学の先輩だったか、おもしろフラッシュ倉庫だったか、あるいはその両方だったか覚えてませんが。 その流れでピロウズ「ハイブリッドレインボウ」。「テレビに出ない」どころか「永遠のブレイク寸前」たるピロウズは本当にオルタナティブだった。 そのオルタナティブという枠に、「ロックンロールは鳴りやまないっ」神聖かまってちゃんを。そして先日映画「恋は雨上がりのように」主題歌に採用された同バンドの曲「フロントメモリー」。 ただ映画主題歌版は、女性ボーカリストを呼び、亀田誠二がリアレンジしたもので、非常に聞きやすくなっているというか、の子自身のポップセンス・メロディセンスが非常によくわかる構成になっている。しかし「フロントメモリー」の神聖かまってちゃん本家版、それもYoutubeのPVテイクはどうかというと、ピアノが何やってるかもわからないし、高音がきついし音も悪い、非常に「聞きづらい」ものになっている。しかし”””それこそが神聖かまってちゃんだった”””というか、「そもそもポップな人間だったの子だが、売れるため・認知してもらうため・ニコ動で頭一つ出るために、敢えて尖ったことをしていた」、それはよく知られる神聖かまってちゃんの破天荒なエピソードだったり、そして音源そのものの粗さ・聞きづらさ・尖った音質であったのではないか。あるいは、ニコ動という”場”がそもそも、そういったパンクで破天荒な振る舞いを要求するような場だったのではないか、それこそがニコ動文化だったのではないか。という仮説を立てられないだろうか。ここはもっとニコ動にどっぷり浸かっていた人間にコメントをお願いしたい。 さてニコ動からボカロ文化をぼくからもほんの少々。「初音ミクの消失」。初音ミク登場当時に生まれた「機械のボーカリストが人間に勝てる部分とはどこか?」という問いに対しての安直な回答として「人間には歌唱不可能な超高速詠唱」���生まれた、その元祖の曲だと思う。これがヒトリエとかミイラズみたいな、後年の高速ラップ邦楽に逆輸入される流れになった。 もう一つ、「般若心経ポップ」から始まる一連のムーヴメントを。同曲が流行った際に、製作者がボーカル音源を配布したために「般若心経ブーム」が起こり、「般若心経ロック」やら「般若心経シューゲイザー」など、ありとあらゆるジャンルの般若心経が生まれた。この般若心経タグを巡っていろんな音楽ジャンルを知った、なんて人間もいただろうし、これに限らず「初音ミクが歌ってさえいればどんなジャンルでも聞ける」というリスナーは沢山いたと思われる。これは(にせものさんの言葉を借りれば)”””ガワの文化”””というか、初音ミク以前・以後でも「V系なら・アイドルなら・好きな声優なら、どんなジャンルの音楽でも聞ける」という、ある意味逆にボーダーレスな音楽趣味を持つ日本人の特殊な音楽観に繋げて語ることができると思われる。この辺も詳しい人たちと議論してみたいところ。 さてニコ動文化はこのくらいにしてぼくの高校時代からの邦ロック趣味変遷に戻ります。9mm parabellum bullet「The World」、あるいは「Discommunication」。バンプ狂いだった自分が衝撃を受けたテクニカル・バンド・ブーム。 そして凛として時雨。今回は「ハカイヨノユメ」。発売日にこれ買って、CDプレイヤーに入れた瞬間に吹っ飛んだ思い出の曲です。しかし、パワーコードとオクターブ奏法さえできればバンプ・エルレ・アジカンがコピーできたぼく世代に対して9mm・時雨・ホルモンが出てきたほんの数代下のバンドマンたちとは技術的に大きな隔たりがあるのが未だにコンプレックスです。 そしてこの辺をきっかけに残響レコードにハマっていく伊38。ハイスイノナサ「平熱の街」、そして「鏡面の波」。残響レコードの中でも最先端に尖っていたハイスイノナサがアニソンに接続したとき、得も言われぬ感慨にふけった思い出があります。 さて最後に、こうやってニコ動や残響レコードを経由してアンダーグラウンドに潜っていったぼくが辿り着いたのがネットレーベル文化。その中から未だ伝説的扱いをされている「HanazawaEP」より「恋愛サーキュレーション(Shoegaze arrange)」。ニコ動とはまた違う、宅録ミュージシャンの発表の場というものは刺激的でした。というわけで永遠の名曲「ヴァイオリンケースの夢を見る」を流してぼくの��終ターン終了。ケンセイオガタさんはやく公式円盤出してください。
さあ各方面氏。残業にまみれた暗黒期から抜け出したという平成晩期を振り返っていただきます。 2009年、モーモールルギャバン「Pop! 烏龍ハイ」、そして裏リストといいつつポップな、Neco眠る「猫がニャ~って、犬がワンッ!」。実際この辺からアンダーグラウンドですらポップになってくるという。同年の選外はNuito、TTNG「Animals」、サカナクション「シンシロ」、相対性理論「ハイ��ァイ新書」など。 2010、七尾旅人「Search Boy」、神聖かまってちゃん「ロックンロールは鳴りやまないっ」。 2011年、the cabs「キェルツェの螺旋」、TTNG「Adventure」。超絶技巧ギターバンド2つが並ぶすげぇ年だ。 そして震災を経た2012年からは、LOSTAGE「Blue」、そして裏は面影ラッキーホール「おかあさんといっしょう」。震災を経て日本人は何を歌ったか?、に対してこの二つはとりわけ振り切れてますね…… KANA-BOON「1,2,Step To You」。に対して裏はうみのて「もはや平和ではない」。笑っていいともさえ終わってしまった今、もはや平和ではない日本でこの曲はある種象徴のように鳴り響く。 の翌年、Wienners「Video Girl」。言わずと知れたでんぱ組のコンポーザー。の裏で生まれていたのはD'Angelo And the Vanguard「エイント・ザット・イージー」。 2015年。ceroより「Summer Soul」一切の音すべてが必然のもとに鳴らされた 大傑作Obscure Ride。 に対してChon「Splash」。これまた妥協の一切ないサウンド。好対照な年。 MUSIC FROM THE MARS「Seaside, Seaside」。そしてこの辺から裏リストというより同率一位という感じになってくる。この年の裏選曲はOdol「逃げてしまおう」。 2017年、ものんくる「ここにしかないって言って」。 この辺りで各方面氏は菊池成孔のラジオを聞き始め、その影響で裏選曲としてジャズドミュニスターズ「革命」。 2018年。tricot「potage」。しばらく見てないうちに一皮どころか二皮くらい剥けたトリコ。ドラマーの交代らへんから音楽性が更なる深化を見せ、世界ツアーで得た経験値を完璧に開花させた名曲。そして裏選曲にCRCK/LCKS「No Goodbye」。ポップスといいつつ非常に複雑で難易度の高い音源をリリースする注目の音楽集団。を流して最終ターン終了。 そして番外編として「 BEAMS 40周年記念プロジェクト『TOKYO CULTURE STORY 今夜はブギー・バック(smooth rap)』MV」。平成を振り返る回、これさえ流せばよかったんじゃねえの?
というわけにいかないということで、大トリのかっしー。 宇多田ヒカルの再登場、キングダムハーツより「光」。平成において宇多田ヒカルは説明不要ながら何度でも取り上げたい。 AKB48「ポニーテールとシュシュ」。彼はハマった世代。そりゃそうか。 BUMP OF CHICKENから「ゼロ」。FF零式の主題歌。同じバンプでも入り口が全然違う……。 そして放課後ティータイムから「U&I」。曰くこれがなかったら彼は軽音サークルに入ってなかったという。実際当時は相当勢いがあったし、サークルでのコピバンも沢山あった。けいおんが与えた影響はやはり計り知れないと思う、もっと詳しく掘り下げてもよかったかもしれない。 UNIZON SQUARE GARDEN「流星のスコール」。ぼくがユニゾンの1stを聞いたときには「これで下北系の音楽は終わったな」と思ったのだけど、ユニゾンは以後どんどん音楽性の進化を深め、アニソンとも接続してファン層広げつつ、しかし核の「ユニゾンぽさ」を消して失わず、器用なだけのバンドとは違って非常に強度のあるバンドとして邁進していったなという印象。 Champagne「Starrrrrrrr」。ドロスでなくシャンペインが好きとのこと。しかしこの辺の音楽をバンド音楽ネイティブとして聞いてきた年齢層ズルいなぁ。 アジカン「ソラニン」。彼が軽音サークルに入って初めて演奏した曲だからとの選曲。アジカン何曲か上がったけど全然被らないな…… KANA-BOON「さくらのうた」。これきっかけにギターを猛練習するようになったとのこと。ちなみにKANA-BOONはこの曲がウケたのをきっかけに4つ打ちをやり始めて音楽性が変わっていったというが、この曲自体はそこまで4つ打ちを全面に押し出してるわけではないという。 Base Ball Bear「Perfect Blue」こちらも自身が組んだコピバンから。ベボベも取り上げる時期によって全然違うけど、こちらは非常にポップな時代。 そしてthe cabs「anschluss」。ぼくからはなんも言うことはありません。KEYTALKは殺す。 最後はtricot。Potageをかけるつもりだったが挙げられてしまったので「Wabi-Sabi」を。しかしどうやってバンドで合わせられるんだtricot。しかし、懐古的・郷愁的になりそうだった「平成を振り返る」というコンセプトの中で、最後にtricotやCRCK/LCKSといった「最新を更新し続けるバンド」の名前が挙がったのは、非常に前向きな最後でよろしかったのではないでしょうか。
というわけで以上、録音を聞きながらざっと書いてみました。ぼくのパートだけ長くなってしまったのは本当に申し訳ないですが、いずれにせよここまで読んでいていただき、長々とありがとうございました。 「あの曲がない、やり直し」などは今後の開催の際の参考にさせていただきたいのでお気軽にコメントを残してもらえればと思います。次回は9月頭に身内で、また何もかも未定ですが都内でも似たようなことをやれたらと思うので、直談判殴り込みの際はぼくのTwitter垢へリプかDMを。お待ちしております。
というわけで今回の駄弁りの録音です。平成のノスタルジアに浸りたい暇で暇で仕方ない方は適当に聞いてみてくださいまし。 https://www.dropbox.com/sh/rtbrnot2r26eyqx/AADxdHGXuJmtUx8TgYqYQ7x6a?dl=0
10 notes · View notes
isawa-nkb · 7 years ago
Text
[ネタバレ注意]サクラノ詩感想――トゥルーエンドの下を歩む――
ふにゃっちさん��サクラノ詩をめでたくクリアしたっぽいので、まぁ発売からしばらく経つしこれからやるって人はもう少ないだろうということでネタバレ上等で感想です。といいつつ致命的なネタバレはあんましないと思うけど、サクラノ詩全クリしてない人にはなんのこっちゃな文章にはなりそうなので、そのハードルとゲームをクリアしてない人には向かないよってことでこのタイトルに。
本題。サクラノ詩の何がいいって、トゥルーエンドで主人公が童貞のままってのが素晴らしいよね。
だってさ、普通のギャルゲーなら、メインヒロインと結ばれるのが製作者側の一番見せたいルートというか、それこそが正しい道筋というか、最も意図した正史というか、とにかくメインヒロインと結ばれるのが「最もあるべき姿」として描かれるんですよ。なんならメインヒロインと結ばれて、それによって何故かいざこざやしがらみが全て解放されることを「グランドエンディング」としてゲームの最後に据えたり、その結末を見せることでゲームが大団円を迎えると、そういう構造をしているのが普通なんです。
ところがサクラノ詩のトゥルーエンドルートはどうか。主人公の草薙直哉は、学生時代には沢山の女の子と接点が生まれ、それこそ選択次第ではその女の子と仲良くなって恋人として結ばれることだってできたのに、結局誰ともくっつくこともなく童貞のままで、そのまま大学も卒業し、そうしてるうちに大切な人はみんな離れていってしまい、いまや独り非常勤講師として食いつなぎつつ、学生時代のクラスメイトのモブ男と安居酒屋でホッピー飲みながら昔話を繰り返すという、そんな毎日を送っている。 これのどこがトゥルーエンドなのか。なんなら、「女の子と結ばれることもなく男友人どうしで"友達っていいよな"と慰めあう」ような結末は、普通のギャルゲーでは「バッドエンド」として描かれるものである。
しかしサクラノ詩ではこのバッドエンドかと見まがうこのルートこそ「トゥルーエンドルート」であり、このルートの結末を見届けることで最後のスタッフロールが流れ物語が幕を下ろす。このルートこそ「グランドエンディングルート」なのだ。 自分は、ここにこそ『サクラノ詩』最大のメッセージがあると考えている――すなわち、この『サクラノ詩』というエロゲをプレイしているキモ・オタクに、「童貞でもいいんだ! キモオタでもいいんだ! それでも生きてていいんだ!!」と、この作品は呼びかけているのではないだろうか。
『サクラノ詩』は、前作『素晴らしき日々』で繰り返された言葉「幸福に生きよ!」の先、幸福な日常を描くために作られた。しかしその先の「幸福な日常」において、主人公たる男、プレイヤーが自己を投影するような男が、誰ともくっつくことなく童貞のままであることが、なぜトゥルーエンドなのか? それはそのまま答えであるのだ、「童貞だろうと、天涯孤独になろうと、幸福に包まれて生きることはできるのだ」。サクラノ詩はそれを描こうとしたのではないか。
言ってしまえば、主人公がヒロインと結ばれてありふれた幸せを手にする場面を描くことは簡単だった。しかしそうしなかった。女の子を落とすことをイ��ール幸せだとするような描写はむしろ、キモ・オタクに「まぁこの主人公イケメンだしな」と断絶を与え、プレイヤーたる童貞キモ・オタクに「やはり自分は幸せにはなれないんだな」と絶望を与えかねない。だからこそ逆に、主人公を誰ともくっつかせず、童貞のまま、非正規底辺労働者のまま、それでも幸福に生きる姿を、トゥルーエンドルートにしたのではないか。
幸福とは何か? 幸福に包まれて、永遠に生きるとはどういうことか? それはこのトゥルーエンドルートに至るまでの間に、形を変えて変奏されながら繰り返し提示され主張される。腕を、体を壊し、未来を諦め、自分の名がどこにも残らないとしても、目の前の人間のために、自分が後悔しないために、たった一瞬の煌めきのために、すべてを捧げて取り組むこと。たった一瞬の高揚、たった一瞬の感動、たった一瞬のためだけの全力。陳腐な言い方をしてしまえば「青春」。そのたった一瞬が、永遠(のように続くバッドエンド)を生きるわたしたちに、「生きていていいんだ」と語りかけ、肩を支えてくれるのだと、そういったことをこの作品は示してくれる。
何もその青春は、大それたことでなくてもいいのだ。確かに作中の主人公たちは、主人公の父親の天才芸術家が遺した設計図を頼りに歴史に残りうる大作を完成させた。だがそんな大きな経験をしろと言っているのではない。その作品制作過程だって細かく見れば、ただ美術部員全員が力を合わせて夜なべして一つの作品を作り上げた、言ってしまえば合同合宿のようなものでしかない。そもそも青春なんて外側からみたらちっぽけなものではないだろうか? 部活で合宿に行って朝から晩まで練習に明け暮れたとか、学祭の準備のために毎日居残りをしたとか、なんなら大学のオタク友人同士で集まって酒を飲みな���ら深夜アニメを見て語り合いながら夜を明かしたとかでもいい。そういった青春、永遠を刻むような一瞬さえあれば、童貞だろうとバッドエンドだろうと、幸福の下を歩むことはできるのだと、そういうことを言いたかったのではないだろうか。
主人公が童貞のまま、名前を刻まれることもなく、それでも幸福に生きていくこのルートのエンディング曲が、オープニングと同じ『櫻ノ詩』なのは全くの必然である。梯子の上に広がる『サクラノ詩』の世界において、答えは最初から提示されていたのだ。その歌詞を引用することで、この文章を締めくくりたい。
――すばらしき刻、瞬間を閉じこめた永遠こそ、 わたしたちの意味、そして意義だと君は知るだろう――
0 notes
isawa-nkb · 8 years ago
Text
【ネタバレ注意】ガルパン最終章論考 ー なぜ今、最終章を描く必要があるのか/閉じるのではなく、解放するための物語についての試論
さっき風呂に入ってたとき浮かんだとりとめもなきよしなしごと感想思いつきを忘れないうちに。多分3~4ツイで終わりそうな内容だけどちょっとツイに書くような内容じゃない妄想分多めの内容だし、2話以降見て予測とか外れたらツイだとはずいけどブログ(?)ならその当時の記録ってことで~って逃げられる(???)し。
本題。今回のガルパン最終章、何がいいって戦う理由がしょぼいのがいいよね。
ガルパンTVシリーズ、及び劇場版において、大洗女子学園の戦車道とは学園の廃校を阻止するための戦いであった。彼女たちが戦車で戦い、勝たねばならない理由とは何かと問うた時、学園の廃校阻止という問題に触れないわけにはいかなかった。
それが今回はどうなったか。今回戦車道冬大会で上位を目指す理由は、生徒会メンバーで三年生の河嶋桃の留年(浪人)を防ぐためだという。いや本人にとっては重大だろうが、廃校を食い止めるために戦っていたこれまでのシリーズからしたら相当しょぼい理由である。最終章と銘打ってこれかよ、と初見時は思ったものだ。
だがガルパンというコンテンツの最終章、これを以てガルパンコンテンツを終了する。と言うにあたって、ここの理由はしょぼければしょぼいほど良かったのだ。非常に考えられていると思う。 要するにこの最終章は、ガルパンを終わらせるための最終章ではない。ガルパンを、大洗女子学園戦車道を、解放し、終わらせないための最終章なのだ。
上述の通り、大洗女子学園戦車道とは大洗女子学園廃校阻止の戦いと同値であった。彼女らにとって戦車とは、学校を、自らの居場所を守るための戦いだった。その戦いの理由がなくなってしまった今。それを自ら否定し、終わらせ、廃校阻止のための手段という物語と同値だった大洗戦車道から解放するために、この最終章は作られたのだ。「彼女らにとっての戦車道とは、学園を守るための戦いではない」、「彼女らにとっての戦車道とは、ただの日常、ただの青春にすぎず、物語のために戦車に乗るのではない」と言い切るために、この最終章は必要になったのだ。
逆に言ってしまえば、これまでのTVシリーズ・劇場版までは、「大洗女子学園の廃校を防ぐために、彼女らは戦車に乗らなければならなかった」という言説が通ってしまった。だからこそ、廃校撤回(の条件をクリア)してみせた劇場版を以て、彼女たちの戦いは終わった、彼女たちの物語は終わったと、視聴者はーー少なくとも私はーーそう思ったのだ。これ以上続編をどうやって作りえるのか? とそう思ったのだ。 実際、例えばこのガルパン最終章で、文科省役人がまた難癖をつけて「やっぱり大洗女子学園廃校にします、それを阻止するにはまた大会を勝ち上がらねば」、というストーリーにするのは簡単だっただろう。だがそうしなかった。今回迫っている危機は一個人の浪人という(廃校に比べれば)かなりスケールの小さなものだ。そして来年以降に至っては恐らく、なんの理由もなくとも残ったメンバーで戦車道の夏の大会に出場し、なんの理由もなくとも彼女らは戦車に乗るだろう。そう、物語がなくとも、彼女らは戦車に乗り続ける。物語が終わっても、彼女らは戦車に乗り続け、ガルパンは継続し続ける。そこに至るまでの物語、物語がなくても問題ないと言い切るための物語こそが、今回のガルパン最終章なのではないか。
と考えると、逆説的ではあるが、「生徒会メンバー川嶋桃の留年(浪人)を回避するために戦車に乗る」というのは二重の意味を帯びてくる。すなわち、「大洗女子学園廃校阻止のために駆け回り、最後の手段として大洗戦車道を復活させた、それこそ『大洗女子学園廃校阻止のため、戦車に乗った』生徒会メンバーを”卒業”させるために」戦車に乗る、という物語がここにあるのだ。廃校撤回という物語と戦車を結び付けさせ続けた、物語と戦車を結び付けなければならなかった旧生徒会を、大洗女子学園から卒業させる。それは「彼女らにとっての戦車道とは、ただの日常や青春にすぎず、何の理由がなくとも、何の物語がなくても、彼女らは戦車に乗るのであって、物語のために戦車に乗るのではない」というガルパン最終章のテーマと完全な相似の関係にある。「廃校撤回という物語を戦車道に結び付けさせた旧生徒会メンバーを、大洗女子学園から送り出し、卒業させる」ことと、「ガルパンから物語を切り離し、戦車道から理由を切り離し、ガルパンや戦車道を何の意味も目的も無いただの日常と青春へと昇華させる」ことは等値であるのだ。と考えると、生徒会メンバー河嶋桃の留年(浪人)を阻止し卒業させるというガルパン最終章のストーリーはむしろ必然であったとさえいえるだろう。物語の駆動力であった生徒会メンバーを残留させることなく送り出し卒業させなければならない、ガルパン全体の新たな命題を前にしたとき、川嶋桃の「浪人」を「留年」と言い換えたのは間違いや勘違いではなく必然であったのだ。 なんと考えられているのだろうか……。
ガルパンは今やとんでもなく巨大なコンテンツになった。大洗を巻き込み、立川シネマシティを巻き込み、もはや公式の手を離れ自立して生きているコンテンツとなっている。しかしそうすると、TVシリーズ~劇場版というガルパンの物語、「廃校を阻止するために大洗の生徒は戦車に乗っていた」という物語がネックになり始めていたのだ。学園廃校の危機が過ぎ去った彼女らに戦車に乗る理由などなく、つまりこのガルパンというコンテンツが存在し続ける理由もなくなってしまっていたのだ。大洗のあんこう祭りやシネマシティのオールナイトガルパンなどのイベントで生き長らえているように見えたが、その実ガルパンという物語そのものは完全に閉じていて、我々はあたかも解散したバンドの曲を聴き続けるかのように、終わったガルパンのDVD/BDをリプレイし続けていただけだった。
そこに流れてきたガルパン最終章という報。最終というからには、もうガルパンは終わりだからお前らもこれっきりで祭りをやめろ、という通達に最初は思えたのだ。ところが蓋を開けてみればどうだ、これは物語を終わらせるための物語ではない、物語を”解放”するための物語であり、何の理由もなくなっても、ガルパンが終わっても、戦車道はなくならないということをいうための物語なのではないだろうか。
「終わった物語に対して、終わった先を描くのは非常に難しい、サイドストーリーやスピンオフやエピソード0の過去編を描くのは簡単だが」という言説を見た。しかしガルパン最終章はそれに挑戦した、いやむしろそれ以上にさえ挑戦しているのではないか。終わった物語を解放し、なんの物語も理由もなくてもコンテンツは存在しててもいいのだと、そういう新しい着地の仕方を、いや滞空の仕方を探そうとしているのかもしれない。ガルパン最終章が終わり、ガルパンの卒業が訪れたとしても、我々は戦車に乗り続けていいのだ、ガルパンに乗り続けていいのだと、そう伝えるための物語が始まったのかもしれない。
0 notes
isawa-nkb · 8 years ago
Text
BADEND・AFTERSTORY
「自分は音楽に己の実存のすべてを、己の青春のすべてを懸けていた」、 そんな過去にしがみつくように日々を過ごしている。
練習する気も、演奏する予定さえもないのにベースを買ったり。 どうせ気にしないのに音質重視の高価なスピーカーを買ったり。 まるで供養するかのように物欲を発散させている。 どんなに本気だったとして、過去にもはや価値などないというのに。
ぼくのこれまでの制作履歴を詰め込んだ『若者のすべて/All About Adolescence』。そのリリースにあたって、ぼくの半生のまさしく総括として書き下ろしたタイトルトラック。あるいは自作をリミックスしてもらったお祭り企画『Sunset Summer Never Sunset』。二作品の連続リリースを終え。ぼくはもはや、全く、全く音楽を聞かなくなってしまった。せいぜい掃除するときとか料理するときとか、頭を使わない作業のBGMとして、聞き飽きるほど聞いた第一プレイリストをシャッフルして流してるだけだ。 新しく音楽を掘るなんてのはもってのほか、自作でさえ「やっぱ自分が作った曲だから最高に俺好みだナ~、無限に聞いてられる」とか思って死ぬほどリピートしてたのに、ミックスチェック・マスタリングチェックを終えいざリリースしてみたらぱたりと聞かなくなってしまった。なのにどうして、スピーカーやらターンテーブルやら、年に何度使うかもわからない機材を買い集めているんだろう。
何より。あんなに切実で、あんなに夢中で、「俺にはこれしかないんだ」と思い込んでいた音楽が、生活からこぼれ落ちてしまっても。別段普通に生きていられる自分が、何よりショックで、何より拍子抜けで、拍子抜けしたことさえショックだった。
スタッフロールも流れない、バッドエンドの向こう側。最初からいなかった魔王。報われなかった若者のすべて。画面の外で死ぬことは、確かに覚悟したけれど。いつまで続くと知れぬこの地獄は、いったい何の報いだろう。 終わってしまった未来はもう、これから二度と終わることはない。もうわかっている、わかっているんだ。しかしこの見え切った見果てぬ未来を、ぼくはいつか愛せるのだろうか。
1 note · View note
isawa-nkb · 8 years ago
Audio
拙作「Sunset Summer」をカバー・リミックス・リアレンジしていただいたものを詰め合わせた一曲コンピレーション・アルバム、「Sunset Summer Never Sunset」を先日リリースいたしました。 今回謝辞が多すぎるのでそれをまとめつつ、各曲簡単にコメントを付けながら紹介させていただこうと思います。
はじめに全体的な謝辞をば。今回、楽曲全体のマスタリングはKota Chikahisa様にお願いし、ジャケットデザインはオオイシ様にお願いしました。 Chikahisa氏とオオイシ氏は、拙作「真空少女E.P.」で協力してもらってからこれまで何度も何度も我儘を聞いていただき、本当に頭が上がりません……。曲調もバラバラでまとまりようの無かった今回のアルバムをまとめ上げ、一つの方向性すら示すことができたのは、ひとえにChikahisa氏のマスタリングによる全体の調整と、オオイシ氏によるジャケットイメージの提示によるものであり、二人の協力が無ければこの作品は作品としてまとまりきらなかったと思っています。 重ね重ね、本当にありがとうございました。
そして今回参加いただいたのは、  かんちゅ様、だぶみやこ様、ぷれしお様、こじかP様、Yきち様の5名。 僕の我儘にお付き合いいただき、曲を作り上げてくださって本当にありがとうございました……! 正味な話……今回、原曲のコードと歌詞をテキストファイルに打ち込みパラトラックデータを配布してから気付いたのですが……Sunset Summerという曲は、リミックス大会の課題曲としては非常に難しいものだったと思います。イントロもAメロもサビもコード進行は変わらず、展開はメインメロディの変化と楽器の数を増やすか減らすかだけで表わされ、各楽器も非常にシンプルなシーケンスを延々繰り返すのみ。これは当時ぼくがループサンプラーに吹き込む前提でこの曲を書いたためこのような構造になってしまったのですが、このような楽曲をリアレンジするのは非常に骨だったと思います。展開の乏しい、プレーンすぎるこの曲を解体し、再構築するにあたって、いかにして展開を作り抑揚をつけるか? というのは非常に難しい問題だったと思います。 ま���原曲は、シューゲイザー・ロキノン歌モノギターロック・シンセポップ・四つ打ちダンスチューン、などといった要素が絶妙に混じっており、言ってしまえばどのジャンルにも中途半端な曲でした。ここからどの要素を抜き出してフィーチャーし、あるいはどの要素を切り捨てるか、この取捨選択には各人相当頭を使ったかと思います。しかし、その取捨選択そのものがそれぞれの味となり、各リアレンジの面白さに直結したとも思っています。結果的に全員がバラバラの要素に着目し、言ってしまえばネタ被りが起こらなかったおかげで、バラエティに富んだ非常に面白いアルバムになりました。そして、そもそもこれらの難題を乗り越え、カバー・リミックス・リアレンジとして一曲を完成させた、それだけでも皆様には驚きと感謝が尽きませんし、その上それら各曲がすべてピカイチの完成度だったことは、作曲者として主催者として本当に驚きであり、本当に感謝しても感謝しきれないほどの喜びです。 その分だけ編集にも頭を使うことになりましたが、先述のようにマスタリング・エンジニアのChikahisa氏とアートワーク担当のオオイシ氏の尽力によりどうにか作品集として形を取ることができました。集まった楽曲のジャンルも2mixの音量もバラバラで、マスタリングを丸投げしたKota Chikahisa氏にはどれほど苦労をおかけしたかと思うと足を向けて寝れませんし、同じくバラバラの曲から、それらを包括するような一枚のイメージを生みだしてくださったオオイシ氏のアイデアにはただただ感嘆するばかりでした……。本当に皆様には感謝してもしきれません。皆様の協力のおかげで、このアルバムは非常に聞きごたえがあるアルバムになったのではないかと、心からそう思います。
それともう一つ、このアルバムを制作するきっかけについても書いておきましょう。それはFragile Flowers様の曲「麗しのオルタンス」です。(https://fragileflowers.bandcamp.com/album/asylum-piece-bad-end) この曲は、Fragile Flowers様がSunset Summerをいたく気に入って下さり、「あの感じを出したかった」と言って作って下さった曲で、デモが出来たときにも真っ先に僕に連絡をくれた曲です。(今回Fragile Flowers様にも参加をお願いしていたのですが、連絡がつかなくなってしまい、やむなく連絡を待たずにリリースをしてしまいました……。詳しくは「La Belle Hortense[Lakeness Remix]」の項で)。そしてこれを皮切りに、ぷれしお様もSunset Summerのドラムトラックを拝借した「See Something in a Visio」のショート版を制作してくださり、またかんちゅ様も「リミックスしたい」と言ってくださったことなどが重なり、「これはアルバムとしてまとめられるくらいの規模になりそうだ」と確信したことから企画を立ち上げました。
元々僕がこの曲を書いたときには「このSunset Summerはこのアレンジ、このミックス以外あり得ない」と確信していて、これ以外の形を取りようがないほど完璧な出来だったと思い込んでいました。しかし「麗しのオルタンス」をきっかけに、「自分は作曲者ではあるが、自分のアレンジが唯一絶対の解ではなく、あくまで一つの解や��解にすぎない、あるいは間違いでさえあるかもしれない」と思い直し、一つの曲に関する可能性を、あるいは自身の未熟さを確かめてみたいと思うようになり、それが今回のアルバムの企画の最大の動機となり、最大の焦点となりました。結果として、オリジナル含めて今回集まった8曲、全てがそれぞれ確固たる一つの解であり、解釈であり、可能性であり、そして一つ残らず正しいものだったと思い知らされました。また自作曲を解体してもらい再構築してもらったことは、僕自身を解体してもらったとも言うことができ、言わば打ちのめされてしまったとも言えますが、それはネガティヴなものではなく、前向きな自己解体であり、まさしく僕自身を再構築してもらえたのであって、そういう意味でも今回参加していただいた皆さんには、僕を生まれ変わらせてくれたということもあり、本当に感謝してもしきれません。
さて前置きが随分長くなってしまいましたが、ここから各曲ごと解説しながら謝辞を書かせて頂こうかと思います。
1.Sunset Summer(Original) 最初に比較対象という意味も込めてオリジナルを持ってきました。上述のようにミニマルな構成にプレーンなトラックを重ねた曲構造になっています。 作曲・録音・打ち込みは私いさわが手がけ、打ち込みの調整とミックスを(今回も参加いただいている)ぷれしお氏にお願いしてこの曲は完成しました。 真空少女e.p.(https://shortcakecollagetape.bandcamp.com/album/shinku-shojo-e-p)に既に収録されていますが、今回はさらにChikahisa氏によるリマスタリングが施されているので、より聞きやすくなっているかと。
2.Sunset Summer [Kanchu Remix] かんちゅ氏による「夏のレイヴフェスをイメージしたハードコア」リミックス。今回集まった曲の中で最も大胆なアレンジをしていただいたので(リアレンジ勢の中で)トップバッターに持ってきました。BPMを早くしたのは彼だけのはず。また展開毎に裏メロが変わっていき、多彩なフレーズがどんどん繰り出され詰め込まれ、一曲の中で曲の様相が目まぐるしく変わっていくのも面白いです。ラストの波音とセミの声のサンプリングもグッド。
3.Sunset Summer [Dubmiyako flip] だぶみやこ氏によるリミックス。かんちゅ氏が足し算のリミックスだとしたら、こちらは引き算のリミックスといったところでしょうか。オリジナルのトラックを多く採用しつつも、サビの飽和感のために、Aメロでは音数を絞ったりベースラインを細切れにして、空白や間隙を多くとってそれを生かすような構造になっています。曰く「 メロディは好きだけどアレンジが気に入らない曲だったのでremixしました 」そうですが、非常に的を射たようなリミックスになっていると思います。 個人的に一番好みだったり……。ボーカルがケロ声になってて聞きやすくなってるのもいいですね。
4.La Belle Hortense [Lakeness remix] Fragile Flowers様の「麗しのオルタンス」を、「Sunset Summer」制作時のスタッフ……プロデュースいさわ、ミックスエンジニアぷれしおの両名でリミックスしたものです。Fragile Flowers氏が「あの感じを出したかった」と言っていたので、「じゃあ元ネタを作った我々がリミックスしてみようではないか」ということで制作。というかFragile Flowers氏とお互いの曲をカバー・リミックスしあってスプリット・シングルを出そうかみたいな話がこのコンピのきっかけだったりもします。なのでFragile Flowers氏にもSunset Summerのカバーをお願いしていたのですが、途中で連絡が取れなくなってしまいました……未だ連絡がつかないので心配しています。 「麗しのオルタンス」のパラデータをもらい、データチェックをしていたところ、原曲では埋もれていたシンセフレーズを多数発掘し、それらをフィーチャーしてこのような形になりました。歌とバッキングギターはいさわが録り直しています。また例えばアウトロにギターソロを持ってくるのはいさわのアイデアですが、歌が全部終わった後にもう一度サビのオケを流してアウトロに行く構成はぷれしお氏のアイデア。という感じで二人で話し合いながら作業しました。そして、作業中たまたま遊びに来たNo Enemy氏に、アウトロのギターソロを無茶ぶりして弾いていただきました。アウトスケール気味のソロが非常にエモくなったのではないかと思っています。この場を借りて感謝を。 音もトラックも違えばぷれしお氏の作業環境も変わっていますが、スタッフが同じなだけで不思議とSunset Summerに雰囲気が近くなったのではないかと。
5.See Something in a Visio - Feat. MaePi そのミキシング担当ぷれしお氏による楽曲。Sunset Summerからインスピレーションを受け、ドラムトラックも拝借? したもの。ちなみに楽曲のブラッシュアップのためにベースをMaePi様に担当してもらった、とのこと(タイトルのそれですね)。 The Pains of being pure at heartやSlΦtface、あるいはthe pillows、Plastic girl in closetといった、ぷれしお氏の趣味であるインディーポップやローファイポップ感溢れるロックナンバーとなっています。Sunset Summerからインスピレーションを受け、同じ構造と展開のはずなのに、こういった軽快かつ陰りあるロック・チューンに接続する発想・知識・技術に、「そうきたか」と唸らざるをえませんでした。
6.Sunset Summer (by kojikaP) 実は一度だけSunset Summerをバンドセットでライブ演奏したことがあり、そのときにサイドギターを担当していただいた大学のサークルの同期、kojikaPによるカバー。ロキノン歌モノという側面に着目し、歌メロをフィーチャーし引き立てるようなバンドサウンドと共に再構築してくださいました。イントロが非常に好みですね……そうすればよかったな、と自分でも思うくらい。またカバー・リアレンジ勢の中で唯一、メインのシンセ・フレーズを使っていないのもグッド。ほとんどゼロから再構成したことになると思うのですが、新しいベースラインやリハモしたコードが上手く収まったカバーになっています。
7.Sunset Summer (by Ykichi from Nerine) Yきち氏によるカバー。非常にドープな……ファズとリバーブにまみれたディープで重々しいシューゲイザーアレンジです。かなりBPMを落とし重心の低いサウンドにも関わらず、暗すぎず沈み過ぎず浮遊感のある曲になっています。しかもこれで6分半で収まっているあたり構成の取捨選択もグッドですね、ぼくなら平気で8分とかやりかねないので…… 間奏のノイズパートが震えるほど美しいです。 こんなファズファズしいシューゲを宅録? で聞けるとは思っていませんでした。原曲では要素だけだったノイズギターを前面に出し、かつカバーの範囲にきちんと収め聞きやすく着地している、見事なバランス���覚によるアレンジと思います。
8.Sunset Summer (afterdark ver.) セルフカバーです。作曲者として、主催として、「作曲者が一番ポンコツやん」「原曲よりアレンジの方が全然ええやん」とか言われるわけにはいかなかったので今回のアルバムにあたり制作。自分で締めるのかよ……とも思ったんですが、どの曲もよくて順番が決められず……。 作曲者だからこそできる大胆なアレンジ、他の参加者の意表をつくようなアレンジはできるか? と考えた挙句、Fishmansの「ナイトクルージング」……をカバーしたクラムボンを元ネタに、このようなアレンジが出来ました。 ただそれを思いついた時点で「これは自分の持ってる技術と音源ではクオリティを確保できない」と思い、今回助っ人をお願いしました。ベースを半裸帝国のバツヲ様に、ピアノを如月メトロームのArice様に依頼。お二方とも普段は東方アレンジをしたり楽譜が真っ黒になるような超絶技巧を練習していらっしゃるのですが、無理を言ってスローテンポの曲を弾いていただきました。ただただ感謝しかありません、本当にありがとうございました……。休符を意識できて録音知識があり、かつ機材が強いということで依頼しましたが、御陰様で格段にいいものが出来たと思っています。
こんなところでしょうか……。ぼくの語彙の足りない部分もありましたが、どの曲も本当に素晴らしいものであり、新しい命を吹き込まれた曲をこんなに沢山聞くことが出来て、作曲者冥利、主催者冥利に尽きます。本当に何度感謝しても足りません。勿論参加者の皆様だけでなく、ご協力いただいた一人一人に最大の感謝を。 「Sunset Summer」は夏の終わり、夢の終わりに際して書いた曲でした。ネットの海に消えていくはずだった、どこぞの辻音楽家の書いた、夏の終わり、夢の終わりを歌った曲が、沢山の縁によって、沈むことなくまた浮かび上がった、その奇跡を「Sunset Summer Never Sunset」と題し閉じ込めることができたという、一作曲者としてはあまりにも身に余るほどの幸福。一つの曲が様々な可能性を与えられ、バラバラのかたちで息を吹き込まれる、そういったユニークな企画を自分の曲で出来て本当に幸せでした。是非皆さんにも、バラエティ豊かなこの8曲を楽しんでいただければと。
0 notes
isawa-nkb · 8 years ago
Text
思考のアップデート
かねてより自分は、「音楽でも美術でも、作品の外側で解説が必要なのだとしたら、それは作品内で言いたいことを完結させられてない、いわば未完成品だ」「タイトルも、解説も、一切の言葉を必要とせず、作品そのもののみが語り、そして鑑賞した人間も一切の言葉を失うような、そういう作品こそが『完璧な、完成した美』である」という考えを持っていた。その考えの元で批評したことも幾度かあるし、出来てるかは別問題として自身が曲を書く時もそれを頭に入れながら制作���行っていた。
しかし、自分が例をあげるまでも無く、「タイトルや解説を見て初めて作品の全体像が浮かび上がる」作品、「タイトルや解説によって、作中で語られた意味が反転する」作品、「作者が制作秘話としてその作品にまつわるエピソードやモチーフをインタビュー等で語ることで、新たな意味が見出されるような」作品、そういった作品はこの世にごまんと溢れているし、実際自分もそういう作品に触れ、タイトルや解説を読み直してその秘められた意図に気付かされ、改めて感心し感銘を受けたという経験は枚挙に暇がない。そう、先述した、自分にとっての「美のイデア」とでも言うべき芸術論・作品論は、あまりにも例外が多すぎるのだ。
これは少々具合がよろしくない。1つ2つなら例外として処理できるのだが、ぱっと自身の経験を振り返ってみても10や20では収まらないし、なんなら叙述トリック全てを認めないことにもなりかねない。なんとかならないものか。
そう思って考え直し、考え付いた結論はこうだ。 「『作品それだけでまず完結するもの』が完成した作品であり。『解説が無ければ』完結しない作品は未完成品である」。
完成品と未完成品には天と地の差がある。一切の情報をマスクし、抜き身で作品と対峙して、それで美しいと思える。それが作品として最低限クリアしなければならないラインだ。それをクリアしたうえで、「タイトルを見たら、解説を読んだら、素材を知ったら、外部の情報を知ったら、他人による批評を読んだら、地域や時代性をあてはめ直したら、そのときは改めて作品に意味が宿る」、そういう順序があれば、それはそれで認めるべきであろう。しかし「作品単体としてはどうしようもないが、タイトルや解説やあるいは時代性や地域性といった批評を組み込んで、ようやく価値が生まれる」ような作品は、未完成であり作品としてリリースすべきではない。という考え方はどうだろうか。
例えばエヴァンゲリオンなんかは物語上でも説明すべき所を端折りTVシリーズでは物語を投げっぱなしで終幕するが、一方けものフレンズはシリーズとしての物語は過不足なく説明しきちんと幕を閉じており考察の余地はあくまでおまけ・外部コンテンツとして、無視したところで物語に支障をきたさない。 例えばライブのMCで「次の曲は××について歌ったものです」と言ってから曲を演奏するのは「そうやって先に言わなきゃ歌の意味がわからねえのか? それって曲の中で言いたいことを完結させられてないんじゃないの?」って問いただしたくなるが、一度CDで再生していい曲だなぁとなった後に雑誌のインタビューなんかを読んで「あれは普通に聞くとラブソングですけど実際はメンバーのことについて歌ってるんですよね」とネタばらしされたら「そうだったのか!」となる、この場合では「その情報を知らなくても曲単体としては(ラブソングとして)成立しているし、その情報を知る必要も本来無いが、知った後ではまた違った風に聞こえてくる」ということで作品は作品として成立している、という具合だ。
「一粒で二度おいしい」はいい。だが、「最後まで噛めばおいしくなる」はダメ��。自分なんかは素人だから一口目が苦かったら吐き出すし、最後に希望が出てくると知っていてもパンドラの箱を開け続ける気力は多分無い。あるいは、「タイトルを、解説を読んでください! そしたら意味がわかるから!」という作品なら、そのタイトルや解説を読みたくなる導線を、作品の中に仕込んでおくのが最低ラインであり。タイトルや解説を見直すまでいかずに、キャンバスの前から離れてしまうようなら、イヤホンを外してしまうようなら、席から立ってしまうようならば、それは作品として失敗しているのであり、未完成品である、と言えるのではないだろうか。
解説があれば二度おいしい。と、解説を読んで初めて全貌が分かる。と、解説を読まなければ作品として成立しない。の差。特に「解説を読んで初めて全貌が分かる」ならば、解説を読みたいと思わせるための導線が仕込まれ用意されているかどうかの差。これを勘違いして、作品そのものが未熟なのに「あいつは俺の作品をわかってない!!!」なんてわめくのはどうなのかと思うのだ。まず��品単体として完成させ、作品単体で美しいと思えるものを。そのうえで、解説を読ませたかったら、そこに導くための補助線を作品中で引いておく、これをスマートにできるかも含め作者の技量だろう。 そしてこの考え方は、最初の 「音楽でも美術でも、作品の外側で解説が必要なのだとしたら、それは作品内で言いたいことを完結させられてない、いわば未完成品だ」「タイトルも、解説も、一切の言葉を必要とせず、作品そのもののみが語り、そして鑑賞した人間も一切の言葉を失うような、そういう作品こそが『完璧な、完成した美』である」という上位命題もギリギリで矛盾しないのではないか。「言葉がいらない作品こそが最上の美のイデアではあるが、そこに外から言葉を足すことでまた面白さが浮かび上がる」という下位命題・サブ命題であるからだ。
というわけで自身の美のイデアに対して膨大な量の例外をまとめてサブ概念として突っ込むことができた。あーすっきり。勿論そのうえでアーティスト気取りメンヘラクソゴミカス野郎どもの作品未満のナニカを切り捨てることもできた。あーーすっきり。そしてこんなことを書かねばならなくなったのはひとえに「自分が蒔いた地雷を自分で避けなければならなかったから」……いや自作品は一切の解説なく成立するように十分配慮してはいるが、そうはいっても謝辞やらなんやら書かなければならない時は来るわけで、それなのに「タイトルや解説無しで作品は成立すべき」なんて書いたの失策だったのだ。その枷をようやく外すことができたということで、次は先日出したコンピの謝辞と全曲コメント記事を書こうと思います。でわでわ。
0 notes
isawa-nkb · 8 years ago
Audio
https://soundcloud.com/never_know-s_best/fragile-flowers-studio-lakeness-remixshort-version
0 notes
isawa-nkb · 8 years ago
Text
絵画の海に溺れていく、僕らいつも間違えようとした
「芸術はスタンドアロンであるべき」と「作品批評において作者の人間性に言及すること」は矛盾しているのか問題。
初めにことわっておくが、これは俺の美術論を深めるために俺が自主的に書くごく個人的な文章にすぎない。決して「お前は俺の宿題をやってきてない」と啖呵を切っておきながら、俺に(何故か)与えられた宿題を放置するのが気持ち悪いとか、「俺は宿題をやったんだからもう貴様に逃げ道は無いぞ」と迫るためではない。ぜったいにないんだからね。
ある芸術作品を語る際、その作品を作った人間の人格から作品を語ったりしない、作家性から切り離されたスタンドアロンな批評を書けるのか。結論から言おう。無理だ。それはお前の言う通りだ。全く持って正しい。でもお前、批評とはそもそもそうであることをわかってんのか? 作品はスタンドアロンであるべきとは、何からスタンドアロンなのか、ちゃんと考えたのか?
確かに、批評とはワケのわからん作品に出会ったとき、それに補助線を引き、時代や文脈を紐付けることで、その作品の理解を助けたり、その作品に立ち位置や価値を与える。そういう活動の方が批評の本来の仕事であるのだ。でもここで問題にするのはそういう部分じゃない。
そして何度でも言うが、俺は(芸術)作品はスタンドアロンでインディペンデントでなければならないという思想や理想を持っている。本当にそう思う。だが、作家性とは、作品から切り離せるものなのだろうか?
逆に考えてみよう。人が作ったものではない、作家性を完全に切り離した作品とは何なのか。と考えると、多分グーグルとかの人工知能が描く絵とか、そういうのになるだろう。機械が作る、すなわち作家性さえ切り離されたスタンドアロンの極北だ。さてあんたに聞きたいんだが、それについてどう思う? そんな作品見て面白いと思えるか? そんな作品にどんな感想を抱けるというんだ?
素材の問題や、時代や地域、文脈、そういったものを作品から還元し分解していった際、それでも最後に作品に残るのは。その作家本人である。もうちょっと言えばその作家の技術であり、そしてその作家の人間性だ。(うち後者はさらに着眼と解釈、の二つまで分解できるという見解もある。)この技術と人間性の二つのうち、実は技術は作品から意図的に排除することが出来る。切り絵やコラージュならば筆を捨て筆致を捨てることが出来るし、なんなら既製品を持ってきて置くだけの、レディメイドという芸術ジャンルさえある。 が、作家の人間性は、作家の意図は作品から排除できるのか? 出来たとしても「この作品は"作家の意図を排除する"という意図、が込められている」と言うことが出来てしまうのではないか? そう、ここが臨界点だ。レディメイドだって、既製品の置き方や切り口を変えて芸術として転換する、作家の意図や人間性があると言えないだろうか?
だから、作家の人間性を語らずに作品を語るのは無茶である。いや出来ないことも無いんだろうが、かなり難しいだろう。それこそ、今書いたレディメイド作品への屁理屈のように、どんなに慎重に批評を書いても「それは作家性」「それは着眼」「それは作家による世界解釈」といくらでも難癖つけられる。(そしてお前はそういう難癖をいくらでもつけてきて自分は悪くないと言い続けるだろう。そういう人間だ。ここまでやりとりすりゃわかるわ。)
となるとここでもう一つの疑問が浮かぶ。芸術作品および批評には(少なくとも作家性を切り離した)スタンドアロンなものは存在しない。ならば俺の言う「作品はスタンドアロンで存在すべき」という前提が間違っているのだろうか? というわけで俺の言う作品はスタンドアロンで存在すべきという主張を精査、補足、場合によっては変更する必要が出てきたわけだ。
芸術作品は、神話や宗教画からその時代背景と密接に関わっていた、芸術がスタンドアロンであった時代など無い。という人間もいる。が、俺は唯美主義をもってこれに反論したい。 唯美主義とは19世紀イギリスらへんで勃興した芸術潮流であり、読んで字の如く美しさだけを尊ぶ考えだ。「この絵の意味は美そのものだ。存在することだけが、この絵の存在理由(raison d'être) なのだ」という言葉がそれを端的に表している。そして唯美主義作家の一人、アルバート・ムアの作品には、古代ローマ人だったか古代ギリシャ人がバイオリンを弾いたりバドミントンをしたりと時代考証そっちのけな突拍子もないものが数多くある。美しけりゃなんでもええやろとでも言わんばかりに。あるいは時代錯誤を意図的に作品にぶち込むことで、いかなる時代からも切り離し時代性から独立しようとしていると言うことさえ出来るかもしれない。
もう一つの反論としては、歴史的名画そのものが反証として持ち出せる。確かにその作品は、作られた時にはその時代背景や地域性や作家の所属やその他色んな文脈と密接に関わっている。だが、それを今現在出自も違う我々が見る際、それらの情報は重要だろうか? 歴史的名画は時代を超えて現在まで残っているから名画なのではない、歴史的価値があるから名画なのではない。その作品が、時代や地域や文脈から切り離されてなお、我々に訴える美や強度を持っているから名画なのだ。作品の描かれた時から時代が流れ、作品の描かれた故郷を離れ、あらゆる付加価値や情報から切り離され、それでなお美しいから名画なのだ。その作品がその作品だけで成立する独立した絶対的な美を、あるいは時代も地域も乗り越えた普遍性を持っているからこそそれは名画なのだ。
そしてそれは作品と作家性の不可分性と矛盾するだろうか? 上述の文章は「作家が時代も地域も乗り越えた絶対的なあるいは普遍的な美を理解し、美学を持ち、美意識を持っていたからこのような名画が生まれたのだ」と言い換えることが出来ないだろうか?
作家の絶対的な美学や美意識こそが作品にスタンドアロンな美しさや強度を与える。それらがあるならば、例え古代人がバイオリンやバドミントンやスマートフォンを持つような多少の矛盾や時代錯誤があっても問題ではない。これが俺の掲げる(俺個人の)「唯美主義」の正体である。 多少の矛盾や間違いや技術の稚拙さが作品にあっても、そこに作家の美意識が感じられれば俺はそこを追求しない。美学に基づいた必要不可欠な間違いならば、「その間違いはこの作品にとって必要だったのだ」「このミスタッチこそがこの作品に唯一無二の美しさを与える魔法として機能している」とさえ俺は批評するだろう。一応釘をさしておくが俺は「矛盾があるから美しい」とは決して言わない。「確かに矛盾している。しかしそれはこの作品の根底にある美において必要不可欠なものである」という言い方をする。
さて。俺がお前の作品を批判した時なんと言ったか。「生殖行為の醜さやおぞましさや気持ち悪さを指摘していながら、その生殖行為によって自分は生まれて来たという自身の原罪についての判断を保留している」「これを美しい世界という為には現状の世界は美しくないという前提や現状の偏見という前提がありそれに依存している」「このヘタクソな……もとい子供の絵のようなスタイルでは絵的要素が属性や差分に還元されてしまい描きたかったであろう本質から切り離されてしまうのでこの絵にこの作画スタイルは適合していない」。 いずれも俺は作品に内在する矛盾を指摘しているのであり、あるいはその矛盾は作品や美にとって必要不可欠とは言えないという不純や不徹底や不貫徹や不完全性を、俺は指摘しているのである。そこを解消出来てないのにスタンドアロンで絶対的な美など存在すべくも無いだろう。仮に他の作品によってその矛盾への回答が得られたとしても、その事実は「二つを並べて見ないと美にならない」すなわち作品一点ではスタンドアロンでは成立しないことを証明してしまうだけだ。 もう一つ言えば「その解釈は間違いだ、俺の込めた意図はこうだ」と言われても、それを伝えられてない時点で絶対的美からは程遠い不完全な作品であることを自ら喧伝してるだけであり、「俺の込めた意図はこうだ」という外部の解説が無ければ成り立たない作品はスタンドアロンしていないだろう。
「外部の解説が無ければ作品は成り立たないならそれはスタンドアロンしてない」という俺の言い分から「作品を批評するとき作家性に言及するな」と反論するのはやめていただきたい。この二つは矛盾しない。俺が唯美主義でもって非難するのは「この作品は時代や地域や文脈に依存しないと成立しない、作家コメントがなければ理解ができない」という事実に対してである。「スラングや元ネタを知らないと理解できない」ポプテピピックや生徒会の一存は俺だって好きだけど、それは俺がその流れに乗れた幸運な人間だからであり、俺が15年後の人間ならそれらの作品を面白いとは感じなかっただろう。同様の試論として「賞味期限が生まれるから携帯電話とか固有名詞とかそういうのは作詞の際入れないようにしている作詞家」とか「いい曲はジャズやボサノバやメロコアにアレンジしてもいい曲」「この曲ってなんかの映画の主題歌らしいけどそんなの関係なくいい曲だよね」「ビートルズはいつまでも新しい」などなどがある。そして「そのままの味でも楽しめるけど、もう少しだけ理解したいマニアのために」存在するのが作家コメントであり、批評家のコメントであり、人文学者の歴史調査なのだ。初めに絶対美あり、初めにスタンドアロンあり、なのである。我々批評家と批評家の引く補助線はどう足掻いても後手にしかなれない。が、補助線を引かなければ理解できない作品ならば、作者が初めから補助線を引いて作品に初めから補助線を組み込んでおくべきであり、作家が作品と定規を両方与えるのはルール違反であると、俺はそう言っているのだ。
しかしまあ、俺が俺の批評文に関してこんなクソ長い解説をしなければならないとは思いもよらなかった。批評というのは批評対象たる作品の存在を前提にする後手であり依存性の強すぎる作品であるのは仕方ないかもしれないが、さらに後手でこのような補助線を引かなければならないあたり、俺の文章もまだまだ完全や完璧や絶対には程遠いようだ。
0 notes
isawa-nkb · 8 years ago
Text
無言の形――『聲の形』、島田についての試論
いさわは批判・酷評しかできないネットによくいる毒吐き肥溜め2ch住民クソヤロウだとか思われたくないので褒める方のレビューを書きたいと思います。というわけで今更感やばいですが昨年映画化された『聲の形』を。
恥ずかしながらこの作品のこと知らないで、殆ど予備知識の無いまま劇場版を見まして、案の定心の奥底まで衝撃を受けまして。「これはとんでもない作品だ、リリィシュシュの再来だ」と興奮し、ほどなく原作全巻購入に踏み切った、まぁ愚かな消費者を演じたにわか野郎なんですが。それでもこれは間違いなく僕の一生に残る傷痕をつけた――あるいは思い出させた――作品になり、そして色々考えることもあったので、今回その一部を「形」にしてみたいと思います。 何度も「こんなんみんなわかってるだろうしわざわざ書く必要ないかなあ」とは思ったけど、まぁそんなこと言い出したらツイッターやめろって話になるしね。あと劇場版から入ったのでそっちの方で書こうかとも思ったのですが、あれについては正直何も語りたくないので……。で、原作を読んで一番気になった、あるいは一番気に入ったシーンがあり、そこなら自分としてはまだ「語れる」レベルなので、こうして書いてみたいと思います。以下『聲の形』原作コミックス読んでない人には意味不明の文章になると思いますがご容赦を。逆に原作を持っている方は、是非『聲の形』7巻を、お手元にご用意して読んでいただきたい。まえがきだけでこんなかかってしまった。
さて『聲の形』。主人公石田将也のいる小学校のクラスに、聴覚障害を持つ西宮硝子が転校してきて、様変わりするクラスの中で、彼女をからかうように接していた石田は、いつしか逆にクラスでいじめられる標的になってしまう。ほどなく西宮も転校し、そして人と接することが苦手になった石田は、小学校での罪と罰を抱えながら高校生になり、西宮に再会することを決意する。西宮との再会をきっかけに、人づきあいが苦手でクラスでも孤独でいた石田にも友人ができ、石田は西宮や、友人や、自身の過去と向き合うようになる――。しかしここで、原作版と劇場版で『聲の形』のシナリオは分岐をする。原作版では、石田に新しくできた友達である永束くんが映画に興味を持ち、映画の自主制作を始めるのだ。
劇場版『聲の形』では、自主制作映画に関するエピソードはまるまる全て省略されている。勿論そのエピソードだけでなく、いわゆる脱線やシナリオ上無駄なシーンは徹底的に削ぎ落とされているのだが。しかし実際、原作版においては、自主制作映画のくだりは石田や西宮やそのほかの登場人物をめぐる話と並行する二本柱のひとつではあるものの、心理描写を掘り下げるかと思ったところで映画作成というフィジカルな話に戻されてしまったりと、話の軸が行ったり来たりする原因にもなっており、シナリオを煩雑化させている側面もある。劇場版映画作品はマンガと違って読み返しが効かないうえに2時間という短い尺の中で話をまとめなければいけないため、このエピソードを削り物語をスリム化し、石田個人に焦点を当てた一軸で一本道のシナリオにしたのだろう。実際にその試みは正しく、そして成功していることは劇場版を見た人には分かってもらえると思う。
だが勿論この映画制作のエピソードは「必要だから」シナリオに組み込まれているのである。一つは、表面上は映画の自主制作という高校生の青春ぽいことをやっていながら実際は集まったメンバー全員がばらばらの方向を向いている、という『聲の形』全編を貫くテーマ「コミュニケーション不全」を体現するための装置であるということ。あるいは上述のように心理描写や登場人物同士の対話があるべき場面で映画の話にシフトし、言いたいことや本当に言うべきことが避けられ躱され表層上のコミュニケーションだけを取るという、物語上の軸のぶれそのものがコミュニケーションのぶれを表わしているということも指摘できよう。だが、本当にこの自主制作映画のエピソードが必要になる場面はその先にある。
彼らが作った映画は新人映画コンクールに出品され、予選を通過し、公開選考会にて講評されることになる。しかしそこで彼らの映画は、脚本も美術も役者もそもそものコンセプトも何もかも酷評を受けることとなる。映画製作に携わった一人一人が、それぞれを担当したというのに、それぞれのトラウマを的確に刺激する言葉をもって、だ。
この選考会に至るまで。石田やその友人たち――自主制作映画に関わる人間たち――がいさかいを起こして不仲になり、その直後の事件で石田が入院してしまった時、石田以外のメンバーは、西宮を中心に再び集まって映画製作を再開する。そして完成した映画は石田の高校の文化祭にてクラス企画として発表され、丁度退院した石田がそれを見ていたく感動し、そしてそれが、久々に再会した石田たちが仲直りをするきっかけになった。そこで石田はこう言ったのだ――「俺…みんなのこともっと知りたいよ」「だからこれからも仲よくしたいし…」「みんなと遊んで…ケンカもしたい」「みんなで文化祭見て回りたい」。
そう、石田や、もちろん映画制作に携わった全員が、表層上の付き合いではなく、みんなと向き合っていきたいと、そう決意した。明日からみんなの顔をちゃんと見る、明日からみんなの声もちゃんと聞くと。きちんと向き合って、聞くべきことを聞き、伝えるべきことを伝え、ちゃんとコミュニケーションを取ると決意した、その矢先に。選考会で酷評を受けたのだ。すなわちこの映画の選考会での酷評は、コミュニケーション不全を克服した石田や登場人物たちにとっての、次なる、そして初めての試練であるのだ。伝えるべきことが伝わらなかった。そのときそれをどう乗り越えるか。そのことを描写するため、この映画制作のエピソードは絶対に不可欠なものとして立ち現れ意義を持つのだ。
しかしこの試練の克服はいささか奇妙な形で行われる。はじめは酷評に対し責任のなすりつけ合いから口論が始まってしまう。しかし、そこで石田が「ふざけるな!!」「みんな最高だろうが!!」と一喝し、「俺もう一度ちゃんと見てくれるように言ってくるよ」と言う。そう、ここで石田は、自分(たち)の意図が伝わらなかったことに対して、「伝わるまで何度でも向き合う」という解決を図ろうとするのだ。コミュニケーションの失敗を乗り越えてきた石田らしく、何度でもぶつかろうという解法。
そこに、唐突に。「やめろよ 石田 相変わらずダセーな」という言葉が挟まれる。
それを言ったのは、映画の劇伴音楽を担当し。かつて小学校で石田をいじめた主犯格。島田一旗だ。 そしてこう続ける。「糞みてーなやつに認められて嬉しいのかよ」「片手間だしこんなモンだろ」。
そう、ここにきて。コミュニケーションの失敗に直面したとき。もう一つの別解が提示されるのだ。聞く気の無い、伝えるべきではない相手に、伝える必要はない。という別解。それがよりによって、石田をいじめ、石田にトラウマを植え付けた張本人たる島田によって示される。
石田と島田はこれが小学校以来の再会というわけではない。作中でも以前一度会っている。しかしそのときも「こーいうお節介いらないから」と再会の機会を作った相手を窘めているだけだ。そしてこの二度目の再会でも「おせっかいはやめろってんだろ」と同じ言葉を言い残している。 そう、「伝えない」という選択肢を提示するのが島田であることは偶然ではない。『聲の形』において石田は小学校の友人と数年ぶりの再会を何度も果たしている、"いじめていた"西宮にも、"いじめられた"植野にも、他にも。その全員が映画制作の中心メンバーだ。しかし島田は、音楽担当ではあるが植野や永束とデータ上のやりとりしかしておらず、石田が顔を合わせたのはここと上述の二回しかない。(実際は石田が入院することとなった事件の際に、意識不明の石田を助けたのが島田なのだが、再会とカウントするには微妙だろう)。そしてその二回とも「お節介はやめろ」と言っており。明らかに再会を拒んでいるのだ。だから他の誰でもなく、彼が「伝えない」という別解を提示するのは偶然ではない、彼にとってはそれが今まで使ってきた道であり処世術であるのだ。
過去に対峙し、過去に傷つけてきた人間ともう一度向き合い、直接に声を交わしてきた石田に対し。島田は真逆の存在として立ち現れる。過去の罪も罰も切り捨て、向き合わないように、再会しないように生きる。伝えなくていいものは伝えない。そうやって、過去を振り払いながら、沈黙しながら生きる存在。実際、彼は高校を卒業したあと、フランスへと音楽修業に行ったらしい。それこそ、進学のためではなく、絶対に過去を振り返らないために、絶対に知り合いに会わない遠い地に行くために、フランスという場所を選んだのではないか、と思わされるのだ。 勿論、本当にそうだとしたらやや中途半端ではある。本当に石田と再会を拒んでいるのであれば、石田と島田の再会を企んだ植野の提案から切り捨てるはずだし、映画の音楽担当を引き受けることもしないはずだ。しかしそれは「全てを伏せた上で連絡した植野にまんまと引っ掛かりハメられた」という可能性も考えられるため、確定はできない。……そして自分にとっては、島田はそうやって、過去に向き合わないように、何も語らないように生きる、そういうタイプの人間であるように、読んでいて思われたのだ。
さて。では島田に「無理に伝える必要はない」というコミュニケーションの別解を提示された、石田や永束や映画制作メンバーはどうしたか。衣装美術担当である植野は「そうよ」「こんなのただの片手間」と言い。同じく衣装美術の佐原は「これが全力だと思われたくないね!」と応える。そして酷評を受け落ち込んでいたメンバーたちは顔を上げ、前を向く。そう、彼らはこれまでに自分たちで向き合い得てきたことを、「伝わるまで何度でも向き合う」ことを、きちんと選択するのだ。別解は別解のままで、きちんと自分たちの方法を選択する。こうして新たなコミュニケーション不全の試練は乗り越えられる。
『聲の形』は成人式の同窓会に向かう部分で幕を閉じる。過去に向き合うこと、きちんと対話をすること、コミュニケーション不全にきちんと立ち向かうこと。それらをもって「つらい過去」は「可能性」に変ずるかもしれないと、そう締めくくっている。さてでは、その扉の向こうに、島田はいるのだろうか? 二度の再会を経たあとに。石田が島田の連絡先を聞くシーンが作中に存在している。「成人式に来るか聞くだけ」「話してみたいんだ」「ちゃんと」と言いながら。最終回での演出から見ても、島田が同窓会に来ているだろうとはたしかに予測出来る。だが――もし石田が島田に連絡を取っていなかったら。島田は同窓会に来ていたのだろうか? フランスへの音楽修行というのも、過去に向き合わないため、絶対に知り合いに会わないためというのもあるが、それ以上に、「フランスにいるから成人式は行けない」と、相手を、なにより自分を納得させるための言い訳として、物理的に同窓会に行かないために、フランスへ発ったと考えることはできないだろうか? そんな疑問が、残る。 しかし、それは語られない。島田は頑として語ってくれないだろう。
なぜこの批評を書いた僕が、ここまで島田にこだわるのか。それは僕が、成人式の同窓会をサボった人間だからだ。これ以上は、語らない。
0 notes
isawa-nkb · 8 years ago
Text
好きよあなたが殺したいほど愛しても三分の一も伝わらない
一体どうやったらお前を殺せるんだろう。 一体どうして俺はお前にこんなに執着するんだろう。 お前は前回の個展で、「この人に案内を出さないわけにはいかないだろう」と言って、名指しで俺に来てくれと言った。 その意味がわかっているのか? あのリプライが無かったら、俺は新宿まで行く移動費と移動時間を使ってコンビニで菓子を買い込んでガルパンのDVDを見るという無意味で有意義な週末を過ごせるはずだった。 しかしそれでも俺はお前の個展を見に行った。 その意味がわかっているのか? 名指しで俺を招待したんだ。よりにもよって、先の展覧会をボロクソ批判したこの俺を。 言ってしまえば俺はあの時、お前を見直してたんだ。 あの文章も読んで、俺の連投ツイも読んで。それを受け止めているお前を見直したんだ。 「そこまで言うなら」と、俺は個展を見に行ったんだ。 「そこまで言うからには、きっと一味違うんだろう」そう思ったんだ。 俺を名指しで招待するからには、前回のグループ展なんかよりも余程いいものを、俺がぎゃふんと言うようなとんでもないものを作ったのだろうと、そう思ったんだ。 勝算があるから。俺を招待したんだと思ったんだ。 負け戦なんかに招待するはずがないと思ったんだ。 勝つか負けるかわからない、自信がないのに、招待なんかするはずないと思ったんだ。 だから俺はわざわざ見に行ったんだ。 きっとお前は俺を打ち負かしてくれるんだと信じて。 きっとお前は、俺を殺してくれるんだと信じて。 俺はお前に、殺されたかったんだ。 お前は俺に期待をさせたんだ。 俺はお前に期待をしてたんだ。
それなのにお前は期待を裏切った。 自分で招待をして呼んでおいて。自分から喧嘩を売っておいて。 それでそのうえ、噛みつかれたら、俺を無視して逃げたんだ。 だから今度こそ、俺はお前を――。
********************************
しばらくぼんやり考えていて脳ミソのメモリを食いまくってる考えがあらかたまとまったので投下して吐き出してすっきりしてデフラグをしよう作戦。
以前アーティスト気取りメンヘラゴミカス野郎の個展を見に行って(だって向こうが来いって言ってきたんだもん)、
Tumblr media Tumblr media
それをボロクソに中傷したとき(ここ http://twilog.org/he_tale_bass6/date-161010/asc の中盤あたりからあるので暇で暇で仕方なくかつ今日のこの文章を楽しみたい人は是非読んでみてください)。俺は「この批判という名の中傷を拒絶するな。向き合って、俺を殺���てみろ」って言ったんですが。
Tumblr media
そしたら、俺が全く別口で性癖の話題になった時の「リョナは理解不能」という発言を引っ張り出して「性癖が違うならわかりあえない」と言い出しやがりましてね。あまつさえ、俺が全身全霊の軽蔑を込めて書いた言葉を勲章かなんかのように言ってやがりまして。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
ふざけんじゃねえよ、せっかく俺が書いた文章をまさか性癖の違いだけで逃げようなんざいい度胸じゃねえか、と思いまして、それがぐるぐる頭の中を巡っていたのですね。 というわけでリョナを芸術と言い張って作品(笑)を作る人間に向けた文章を書こうと思います。性癖という最後の絶対的な障壁を超えることが目標です。見てろ、俺は何度だってお前を殺してやる。
まず言っておかなければならないのが、自分は確かにリョナを理解できないけど。自分は痛みやらを共感しやすい人間というか、「人が痛がってる姿を見ると自分も痛みを感じるから見れない」ていうアレでして。 そういうわけで「女の子が流血したり痛がってるのを見て『うわぁ……痛そう……なんでそんなひどいことするの……うわぁ……』って言いながらマスをかく」のは、確かにミリも理解できないけど。 一方で、腕や脚が一本くらい欠損してるくらいだと全然平気なんですよ。 いや勿論街中で見かけたら「ん」とはなるけど、そのくらいで済んでて。シルヴィちゃんで普通にシコれるし。
ちょいと自分語りを一つ。実は地元で兄の同級生に(先天か後天か知らないけど)左腕が肘までしかない人がいまして。でもその人も、兄含めたクラスメイト達も、そんなことほとんど気にしてなかったし(勿論普通学級)、その隻腕の人は中学では野球部に入り、右手にサウスポー用グローブを付け、左の二の腕にバットを寝かせ右手でスイングし、あまつさえ二塁手として内野ゴロをグラブトスで捌き、他の健常者に混じって野球をしていて。 そうやって、隻腕でもまったく普通に生活をしていたので、四肢の一つくらい無くとも別に僕らとはなんら変わりないんだなぁと、そういうことをぼんやりと思いながら生きてきたのであります。 地元の知り合いにそういう人がいただけでなく。自分が小学一年だった時分には、担任の計らいで聾学校の生徒との交流授業なんかがあったりして。「この人達は、耳が聞こえないかもしれないけど、耳が聞こえないだけの普通の人なんだなぁ」と幼心に発見をしたことを何となく覚えていて。 そしてあるいは、時間は飛ぶが大学に入って同じ学部で、未熟児だったために脚が発達せず車椅子に乗っている人と友達になったり。同じ授業を割と多めに取っていたから、彼の車椅子を押しながら教室に向かったことも何度もあったし、それは障碍者だからというよりも、単に友人として「せっかくだし上り坂くらい車椅子押してやるよ」という感覚であり。それは背の低い友人のかわりに棚の高いところにある本を取ってあげるのとなんら変わりはなかった。というかそもそも進学先が、車椅子に乗ったり白杖を突いたりしている人がちらほらいるような大学だったので、その辺に関しては他の人よりはわりかし見慣れているというか耐性があって。 まぁ自分はそういうバックボーンがあるのです。僕にとって、車椅子と、弱視の人のための眼鏡との間に、なんら本質的な差異は存在しないのです。
なぜこんな長大な自分語りをしたのか。なぜ俺はリョナは無理だが欠損は大丈夫だと表明したのか。左腕がなくとも野球をする知り合い。車椅子で大学に通う友人。彼らと触れ合ってきた俺にとって、欠損そのものに衝撃はない。だから、絵を見てるときに不意に手足の欠損した人物が現われても、そこに驚きは無いし、欠損という属性しか他の作品との差異がない絵ならば、それこそ俺には響かない。お前は俺がリョナ趣味を持たないからお前の絵を理解できなかったのだと思ったのかもしれないが、そうではない。俺はリョナ属性で評価を変えないからこそ、お前の絵の浅薄さを見破ったのだ。好きの反対は嫌いではなく無関心だとはよく言ったものだ。
さて、では作品を見ながら解説していこう。前回ちらりと書いた『A beautiful world』を例に挙げる。
Tumblr media
ビューティフル・ワールドと銘打っただけあって、描かれた舞台は一面の花畑。ストレートすぎるのでジョークか皮肉かもしれない。そしてそこに佇むモノクロの人間たち。その人間たちは、腕や脚が無かったり、眼帯をしていたりする。 この時点で――隻腕や隻脚の人間を見た時点で――うっ、となる人間が大体なのかもしれない。あるいはそういう反応を期待してこの作品は描かれているのかもしれない。隻腕や義足といった、直視に耐えがたい特徴を持った人達。何があったのかを聞けるべくもなく。できれば目を逸らして生きていたかった。しかし見てしまった以上。知らないまま、バイアスの無いままではいられない。だが、そういった人間たちが、偏見も無く、一緒になって平和に暮らす世界になったなら。それこそが美しい世界だ。……ストレートにみればそういう解釈がまず第一に浮かぶだろう。――そして言ってしまおう、そういう道順で解釈をさせる、その一歩目がまずもう既に姑息なのだと。
俺は欠損については幼少から見慣れている。欠損を持ってなお普通に生活する人の姿を。だから俺にとって。「腕や脚の無い人が偏見もなく健常者と一緒に暮らす世界」は、理想でもなんでもなく、ただ「当然」で「普通」で「当たり前」の世界なのだ。わざわざ美しい世界だと言い直す必要がないのだ。 無論、実際の世界がどうなっているかは別だ。俺の周りこそが特殊な環境で、それこそ隻腕の人間が最初からいたからそれに対する理解が深まっていた、そういうのがデフォルトな場所に運よく所属していただけかもしれない。しかしここで問題としたいのはそこではない。つまり。隻腕や隻脚に、良かれ悪かれ偏見を持っている人間を、この絵を見て多少なりともショックを受けるような人間を、この絵は想定し対象としている、そのこと自体が。作者にある種の偏見が存在することを示唆しているのだ。
俺はこの絵を逆立ちしたって描けないだろう。なぜなら欠損や車椅子になんら思うところがないからだ。欠損や車椅子の人間が健常者と共生してる世界を俺は「わざわざ」ビューティフルとは言わない。なぜならそれが普通でデフォルトだからだ。……ここまで言えばもうわかるだろう。このような風景をわざわざ『A beautiful world』と銘打った作者こそ、欠損に対して偏見があり、そしてこの絵は作者と同じように欠損などに何かしらの偏見を持っている人間を想定して描かれ、あるいはその偏見を助長するはたらきを持ってしまっている。たとえそのベクトルが「欠損に対する目をあらためよう!」だとしても、その裏には「欠損に対してある種のよくない偏見がある」ことが内包され、前提とされている。 そう、この絵は偏見に依存しているのだ。もしこの世界が、欠損や障碍やそういったものに対する偏見が一切ない美しい世界だったら、この絵はわざわざ描かれるまでもなかったはずであり、そもそも価値を持たなかったはずなのだから。そうではないという現状を、意識的であれ無意識であれ��作者は利用してこの絵を描いているのだ。
この絵に限らない。wall-hand氏は欠損のみならず流血やら残虐表現を得意技としてかなり多用している。それらは確かにかなりショッキングな表現ではあるが、しかし逆に言ってみよう、もしも欠損や流血がもっとカジュアルなもので、インパクトもなくショッキングでもない表現になっていたとしたら、それらの手法を使ったのだろうか? 義手や車椅子や白杖が、眼鏡と同じくらい普及し珍しくなくなった世界で、これらの絵は通用するのだろうか? そうなってしまったら困るのは、俺ではなく、wall-hand氏の方なのだ。 そう、欠損や流血がショッキングな表現であるということに、全面的に依存しているのはお前だ。 お前は欠損や流血やリョナが特殊性癖であることを利用して絵を描いているのであり、むしろそれらが特殊性癖なまま固定され、ショッキングなままであることを願ってさえいるのではないか。それを助長��ようとしているのではないか。 世界と戦うんだ、理解されたいんだと言って作品を作りながら。本当はお前は、理解されたくないんじゃないのか。 だから俺はこう言おう。リョナ属性のある作品は最初から破綻しているのだ、と。
一旦トリックがわかってしまえば、それが欠損だろうと流血だろうと問題ではない。大体、アウトサイダーアート(笑)はこのトリックに全面的に依存している。欠損、流血、目玉や臓器、あるいは根本的な作品の大きさ、そういった見た目にインパクトのあるショッキングな題材や属性を画面全体に押し出し、観客の目を惹きつけようとする。それらに慣れてない人が相手ならなおさらだ。初見のインパクトと驚きはその作品の印象に大きく寄与する。万一それを見慣れている人間が相手でも、リョナに理解のある人間なら大目に見てもらえるし、なんなら性癖の話で盛り上がることもできるだろう。実に巧妙でよくできたトリックだ。スベる確率が低い、出し得のコマンド技である。
だから俺は嫌いなんだ。リョナが苦手だからではない、ましてリョナに理解があるからでもない。リョナ属性、リョナ要素が無ければ見てられない程度の作品が、見た目のインパクトだけで印象になり話題になってしまう。属性が属性だけで消費されてしまう。それで評価だと勘違いされてしまう。なんならその要素によって、本来表現できるはずだった切実さや誠実さを伴なったテーマが、相対的に背景に押しやられてしまう。もっと上手いやり方があっただろうに、全部持っていかれてしまう。
リョナは無理でも肢体欠損程度なら気にならない俺にとって第一の疑問がこれである。では今度はもう少しリョナラーに歩み寄って考えてみようか、しかしそこでも俺はリョナ要素のある作品に疑問を持たざるを得ない。そもそもメンヘラどもが隻腕隻脚隻眼の人間("""なぜか"""少女であるパターンが非常に多い)の絵を描く、その行為そのものが、非常に疑わしく感じられるのだ。
言ってしまえば「お前はその被写体を『肢体が欠損してるから』という理由だけで絵に描いたのではないか?」という疑問。それはつまり、「この人がもし五体満足だったら、お前はこの人を絵に描こうと思ったのか?」という疑問である。
これと類似の試論はすればするほど疑念が深まっていく。「ここに一人の健常者がいたとして、今ここでこの人の腕を切り落としたらお前は絵を描き始めるのか?」「腕が欠損してるからこの絵を描いたということは、腕が欠損してなかったらこの被写体の人間には価値はなかったのか?」「あなたは私のことが好きなの、それとも私のメガネが好きなの? じゃあメガネとセックスしてればいいじゃない!」 そう、この仮定が真であった場合に導かれるのは、被写体本人ではなく、その人の『属性』しか目に入っていないという、被写体に対して不誠実極まりない態度なのだ。
いや、そういうのも美術として割り切った場合のアプローチとしてはアリかもしれない。しかしそれを徹底する場合、つまりは「被写体その人には全く興味がなく、その属性だけを追い求める」という態度を貫徹する場合には。例えば眼鏡フェチなら被写体一人がありとあらゆるシチュエーションで眼鏡をかけているところを網羅するだけでは足りなくて、幼児や未就学児から老婆に至るまで、勿論男性も含めて、被写体の領域を拡大し、眼鏡以外のありとあらゆる要素をばらけさせる必要がある。そうでなければ「お前は眼鏡フェチって言ってるかもしれんけど、妙齢の美少女が眼鏡をかけているのしか好きじゃないんだろう?」という反論が生まれ、美術と銘打ったはずがただの性癖博覧会へと堕してしまう。しかもそれは「眼鏡をかけていなかったらその人を作品にしようとは思わなかった」という不届き極まる潜在意識とも共存しうる。貫徹せずに先細りし中折れした中途半端な思想は、作品の浅薄さに繋がり作品の寿命を縮めるというのに。そうなれば被写体のみならず作り手も受け手も、対象とする範囲がどんどん狭くなり、ごく限られた愛好家しかいなくなってしまう。いや、同人サークルの主催として同好の人達とわいわいやりたいだけなら、それでもいいとは思うんだけど、ね。
しかし多分そうではないのだろうし(だって芸術家名乗ってるんだろ、芸術家は世界と戦うんだって言ってただろお前http://seikan313.wixsite.com/wall-hand-works/3rd )、もう一度言うが自分が問いたいのは「お前はその被写体を『肢体が欠損してるから』という理由だけで絵に描いたのではないか?」という疑問、ないしは被写体に対する誠実さなのだ。繰り返しになるが、例えば俺が交通事故で脚の一本でも吹っ飛ばした直後に「あなたの絵を描かせてくれませんか?」ってオファーが来たらブチギレる。俺にとっては、欠損も車椅子も眼鏡もとい弱視も個性の一つではあるがその人の本質ではないという考えなので、そういう風に属性が付与された瞬間に興奮しだすのはちょっとこう、個人としてはとしてはともかく芸術家としてはどうなんだ、と感じるのだ。俺にとってすずさんは右手があってもなくてもすずさんだし、シルヴィちゃんでシコるのにケロイドの有無は重要ではないのだ。
そして残念なことに、このwall-hand氏の絵と作風からはそういう疑問を抱かずにはいられない。ちょっと作品群を見てもらえばわかるかと思うが、そこに描かれる人物はまるで「子供の落書きのような」……横長の楕円に、ごく簡単な線で描かれた白目と口、それらはどの絵を見ても全て同じ人間のように、不気味なほど一様に同じ微笑みをたたえており、体の向きが変わろうと首だけは真正面のこちらだけを向いていて、というか体の向きや姿勢が変わることすらほとんどなく、関節がどこにあるかも見えず、顔つきや体つきの凹凸や盛り上がりはおろか一切の遠近がわからない……ひとことで言えば「デッサン力が皆無」なうえに、「人物が全員同じ顔をしている」絵なのだ。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
「人物が全員同じ顔をしている」。この時点でその人物や絵は必然的に「付与された属性の差分を比べる」といった性質を帯びることになる。ここで着目される差分というのは、髪型や髪の色や服装といった、人物そのものから乖離され還元されたパーツのことであり。そしてここでは欠損ですらそういった属性の一つに堕してしまう。最初に懸念した通り、人物そのものではなく、欠損といった属性を描きたいという動機しか感じられなくなってしまうのだ。
勿論、欠損を属性ではなく、その人ないし被写体の美の本質として取り扱うことも描きようによっては十分できるはずだ。ミロのヴィーナスなど「この像には両腕が無いからこそ美しいのだ」なんて批評文が高校の国語の教科書に採用されているくらいである。大学の先輩が「あの批評書いたやつは絶対欠損フェチだよ、それを隠しながらあんな文章を書いたんだ」と言っていたが。それは逆に、やりようによっては属性やフェティシズムを一般的な美へと一段階上げることも可能であるということの証左だ。しかし、彼の「子供の落書きのような絵」に、その魅せ方や技量を求めることは、残念ながらできない。
いいではないか、欠損だって髪型や服装や眼鏡といったカジュアルで付け外しの可能な属性の一つに過ぎないのだ、そういう価値観の転換をこそ狙っているのだ……。そういう言い分があるのかもしれない。それこそ先に分析した『A beautiful world』に限っては確かにそういう解釈が可能だ。しかし、欠損やリスカや流血といったグロテスクな要素を持った彼の作品群において、そういった要素は大抵の場合作品のテーマや根幹を為しており、作中人物にとっては切実なものとして現われ、それをことさらに強調している。表現としては取り外しの可能な属性に過ぎないものを、作品のテーマとして取り上げようとすること。……それは例えば連作という形を取るなどして、表現の差分とテーマの差分が一致するよう場合には有効かもしれないが。一枚絵としてスタンドアロンで成立すべき作品の場合には矛盾であり悪手でしかない。『A beautiful world』はそれが偶然にも一致した奇跡的な一枚だが、他の絵はそうはいかない。(そして『A beautiful world』においてその試みが初めから破綻していることは先に述べた通りである)。彼の絵はあらゆる意味でちぐはぐなのだ。個々の作品テーマは誠実で切実なものでありながら、絵的にはそれらを差分や属性といった付随的な要素として記号的表現で取り扱うことしかできない。
彼のリョナ的作品は最初から不誠実と軽薄の塊であり、手詰まりであるのだ。「欠損そのものを描く」となると「欠損という属性そのものを描く」ことになりその被写体を蔑ろにしてしまう。「欠損は初めから属性に過ぎないのであって、眼鏡と同様カジュアルなものだ」と言い張るにはそれら属性さえも軽薄に描かねばならない、そして被写体の切実さは捨象せねばならない。唯一の方法として、被写体に誠実に向き合い、その被写体の人となりを為しているような欠損を描くためには、欠損を属性ではなく、むしろその美の根幹をなすような表現をせねばならないのに、それらを差分としてしか描くことのできない彼の「子供の絵のような」技量やスタイルではそれを望むべくもない。そしてそもそも根本的に、鑑賞者や世界が持っている欠損に対する偏見に向けた挑戦を描くことそのものが、その偏見を助長し浮かび上がら��強化することにつながってしまう。あるいは、欠損や流血で、絵的にショッキングでインパクトのある表現で、切実さや誠実さを表現しようとする行為、そのものが不誠実でまったく逆効果であるという問題。
これらを踏まえてもう一度。俺からの最終試験だ。 お前は本当にちゃんとものを考えているのか。 お前は自分の限界をちゃんと理解しているのか。 世界と戦うんだ、理解されたいんだと言って作品を作りながら。お前は理解を拒むことを助長しているのかもしれない、そのことに気付いているのか。 世界から理解されたいと言いながら。本当はお前は、理解されたくないんじゃないのか。
***********************
本当にわかってんのか? 俺はお前を全否定してるんだぞ? お前の作品がクソだから攻撃してるんじゃあない。 自分から喧嘩を売っておいて、自分が不利になったら理解を放棄し拒絶して逃亡し、自身にフィードバックもせず、自分の作品と向かい合い反省することさえもしない、お前の態度がクソなんだと言ってるんだ。 そんな人間の作った作品に心を動かされることなんて、絶対にありえない。 お前がその考えを改めない限り、俺がお前の作品に心を打たれることは絶対にありえない。 もっと言えば。作品には作者の思考や姿勢が否応なくにじみ出るものであるから。お前のそんな浅薄で軽薄な思想しか下敷きにしてないとしたら、お前がその考えと姿勢を改めないかぎり、お前は俺の心を、人の心を動かせるような作品を、絶対に作りだすことはできない。 お前の作品も、お前の主題も、お前の技術も、お前の思考も、お前の性癖さえも。 お前の何もかもがクソだって言ってるんだ。
逃げるんじゃねえ。 俺に向き合え。 俺はお前を殺す。だからお前も、俺を殺してみろ。
*****************************************
2016/02/04 追記
お返事いただきました。リンクだけ貼っておきます。https://note.mu/seikan313/n/ne8d58eb223ba
2 notes · View notes
isawa-nkb · 9 years ago
Text
若者のすべて / あるいは、青春の消費期限について。
軽音楽サークルの先輩方(全員卒業して社会人をやっている)がオリジナルバンドを組み、その初ライブがあるというので、昨日はそれを見に行っていた。 オリジナルバンドを組んだといっても、元々サークル内で長いこと一緒にコピーバンドを組んでいたメンバーで、いわば卒業後もそのままバンドをやるためにバンド名を変えオリジナル曲を作り始めた、といった方が適切であろう、まぁそういうバンドだった。 東京のライブハウス、所謂ブッキングライブという、ハコ側がバンドの方にライブの日にちを交渉して都合がついたバンドをそろえる、まあインディーズではよくある形式のあれだった。そして先輩方は初ライブということもあって一番手だった。
先輩方は相変わらずかっこよかった。最近宅録もしなくなって基礎練を怠りまくっている僕なんかでは、ちゃんと卒業して就職してからも普通にギターを弾けるくらい指が回っていることそのものに感動するくらい閾値は落ちていたが、それを差っ引いても順当にかっこよかった。あの頃の先輩の姿がそのままあった。
だが、ライブの一番手だった先輩のバンドが終わって、二番目のバンドが始まり。三番手のバンドが演奏をし、それが終わった時点で。僕はなんだかとてもいたたまれない感情に襲われ。 「つらい。つらいから帰る」とだけ後輩に言い残し、ライブハウスを後にしてしまった。
まぁオーガナイザーが自分で方向性を定め知り合いに出演を交渉する企画ライブなんかとは違って、ハコのブッキングライブでは、ハコが雑多に用意したバンドを見るわけで、ようするにたまたまその日都合がついたというだけのジャンルもテイストも違うしょっぱいバンドを見なければいけないということはしょっちゅうある。そして、そういう風にライブハウスに出入りしてブッキングライブをたくさんやってきた自分だからこそ、そういう空気を久々に吸って、色んなものを思い出して、それでつらくなったというのもある。
それでも先輩方はかっこよかった。場所がサークルのライブ会場から実際のライブハウスに変わっただけで、先輩方はいつも通り、以前通りかっこよかった。 でもきっと多分、そのせいで、僕は余計につらくなってしまったのだ。
サークルの音楽室に組んだステージに立つ先輩方は本当に憧れだった。 そんな先輩方が、いざ他の知り合いでもなんでもないバンドと一緒にライブハウスのブッキングライブに出演している姿そもそもが、多分僕には耐えられなかった。
言うなれば、先輩方のバンドは、一介の社会人バンド、一介のおっさんバンドの一つとして。ライブハウスのブッキングライブにあてがわれるようなバンドの一つでしかなくなってしまった。その事実が、ぼくにはとても耐えられなかった。 あんなに演奏が上手くて、ステージ上での振る舞いや魅せ方をわかっていて、あんなに憧れた先輩は、あんなに真剣だった僕(たち)の青春は。こうやって卒業してから、学外のライブハウスで観たら、なんてことはないバンドの一つとして見られる、そう見られかねない、そんな事実を、僕は遂に見せつけられてしまった。
青春は青春時代にやりきっておかねばならない。青春には消費期限がある。そんなことがわかってしまって。僕は本当に悲しかった。あんなに真剣で、あんなに何もかもを注ぎ込んで向き合ってきた青春は、一たび外から見れば、こんなものでしかないことが、僕にはただただ耐えられなかった。
いや、きっと最初から、意識してないだけで全部わかっていたんだ。だから、バンドをやりたかったけど出来なかった高校時代とか、サークルに馴染めず飲み会でもずっとぼっちだったとか、学生時代にセックスできなかったとか、そういった青春の不在を僕がずっと嘆いているのは、青春には消費期限があるということをずっと昔から理解していたからだ。学生時代に体験していたかったことを体験できなかった、青春を青春のうちにきちんと駆け抜けておくべきだったということを、多分僕だけでなく、誰もが無意識のうちにわかってるんだろう。
たまに、青春の不在、とも言うべき不治の病が耐えられなくて、いい年こいてそれを取り戻すように友達と旅行に行ったりバーベキューや花火をやりたがる人達がいて。僕はそういう人たちを流石にこじらせすぎだとやや冷笑してたけど。 この青春の不在、青春の消費期限はもっと深刻なものだったのだ。どうやっても取り戻すことのできない青春、それを歳を取ってから焼き直しをしようとする試みは、それ自体があまりにも滑稽であり、尚更青春の消費期限の存在を痛烈に思い出させてしまう。ああ、なんて皮肉だろうか。もう一度青春を、と思えば思うほど、青春は遠い過去に置き去りにされたままであること、いやそもそも存在しなかったことを、まざまざと見せつけられることになる。
先も言った通り、僕もかつては、ライブハウスでハコが引き合わせたバンドと一緒にライブを何度もやっていた。それを客席から見たら。こんなにもこんなものだったなんて。僕が信じていた、あれだけ注ぎ込んだ青春は、ただ、こんなものでしかなかったんだ。
僕もミュージシャンになりたかった。それは、終わることのない青春を、終わるまで続けていられるからだったのかもしれない。
6 notes · View notes
isawa-nkb · 9 years ago
Text
仮象のはるいろそらいちめん
(2016/09/20 twitterからコピペ)
俺からするとメンヘラゴミ野郎どもの作品のようなナニカはSNSに上げたリスカ痕写真と大差無いんですよ。つまるところやっぱり向き合ってる対象が自分自身でしかないというね。(ついでに言えば自分を改善する気もなくありのままのクズの姿を愛してほしいというのが透けて見えるところ。)
じゃあ俺が感銘を受けるような芸術作品って何かというと、「その作者が"美しい"と思って切り取った風景」なんだよな。勿論風景に限らないけど。つまるところその作者の着眼点、作者の美意識を追体験することをある程度期待してるし、逆に作者そのものにはほとんど興味がない。
そうやって自分が好きなもの、美しいと思うものを表現するために技法の選別や基礎(デッサン力とか彫塑能力とか)を突き詰めるのではないかね、というのが朝の狂想に対する反論。表現を突き詰めるのが芸術というのも半分までは当たってるが、やはりそれは何のためかの方が重要だと
で、作者そのものに興味がないってのはある種ビョーキではあるんだが、そういう俺にとって自らの内面しか見てない作品はとんと興味が湧かない。それに、これは俺自身メンヘラだからだが、内面を見る行為は自分でさんざんやってるからこそそういう作品を見飽きてるという側面もある。
俺は世界を見る方法を知りたいんだよ。自分を見つめる方法なんてありとあらゆるものを試し切ったわ。作品を見ればその作者が見てる世界を追体験できる。新しいものさしを手に入れられるかもしれない、それが俺が芸術に求めるものだ。
さてメンヘラ作品はどうだ。どいつもこいつも自分を見つめた心象風景ばっかり。なるほど自分を見つめるための新しいものさしは手に入るかもしれない、が、それを試すためには展覧会場から出て自室で独りになるのを待つしかないじゃねえか。ならこのメンヘラ博覧会という会場の意義はどうなる。
メンヘラが部屋から出てきて外の世界に開かれたと思いきや、そこはどこにも繋がっていないのだ。メンヘラは自身と対峙することが世界と対峙することだと思ってるかもしれないが、その作品もその展示会場も世界に対立する窓を有してないのだ。んじゃなんのためにこんなもん作って見せびらかしてるんだ?
そうだよ、俺がメンヘラクソ野郎どもの作品を見て感じたことをごく端的に表せば、「美しくない」に尽きるんだ。心象風景の優劣などありはしないし、あっても俺は知らん、興味がない。ていうか大体作者もそれを美しいと思って作ってんのか? 「敢えて醜悪なものを〜」じゃねえよ。正攻法でこいバ��。
俺はノイズミュージックが好きだ。何故ならそれを美しいと思った人がいて、なぜ美しいかを説いてくれて、ものさしをくれたからだ。俺だってお前等メンヘラが「ぼくはこれが美しいと思う」ってものを持ってきてくれたら多分頑張るよ。でもお前が嫌ってる醜いお前をなんでわざわざ見なきゃいけねえんだ。
お前が嫌ってる醜いお前を見るのも御免だし、実際見てみたらその醜い自分を醜いままで愛していること、愛してほしいことが透けて見えるからダメなんだよ。憎みきれてるならまだ自分を憎みきるための方法がわかるかもしれん。が、大体はダメだ。お、最初に戻ってきたな。
とりあえずこんなもんか。今駅のホームのベンチで飯も食わずにツイッターやってるわけでもう寒いからとりあえず帰るわ。ちゃんと全部読めよアーティスト気取りメンヘラ展アジテート展関係者ウスラバカゴミクソ野郎ども。
1 note · View note
isawa-nkb · 10 years ago
Text
コンプレックス信仰
コンプレックスって実はひとつの信仰で、「自分は○○で、自分の○○なところが嫌いだし、自分は○○だから物事がうまく行かないのはしょうがない」っていう、うまく行かないことへの救い?となる一面があって。実はそんなことなかった、自分の○○は劣っていなかったんだと知ってしまったときに、じゃあなんで自分は駄目なんだって、信仰が崩れることのほうが怖いんですよ。劣っていると信じていたかったのに、裏切られてしまう。 自分は不細工だからモテないだとか、コミュ障だから友だちがいないとか。単に人から嫌われてるから人が寄ってこないと気付いてしまったら破滅しちゃうじゃないですか。 だから変に励まさないで欲しい。コンプレックスはコンプレックスのままでいい。うまく行かないのはそいつのせいだ。仕方ないんだ。
5 notes · View notes
isawa-nkb · 10 years ago
Quote
フローラ派の友人たちはみんなリアルで結婚していった…
Twitter / heppoko (via hutaba)
800 notes · View notes
isawa-nkb · 10 years ago
Quote
そもそも「Aとは何か」という命題が成立するためには「A」の存在について何かを知っている必要があるからです。「Aとは何か」というときに「A」について完全に何も知らなかったならば、もとより「Aとは何か」という命題さえも成立し得ません。そうすると、「神とは何か」という問いを哲学的に探求することとは、単に「神」を言語化するにすぎないことになり、究極的には単なる「同語反復」という「袋小路」と代わり映えしないことになります。 これをウィトゲンシュタイン的にいうと「われわれは語り得るものしか語ることができない。つまり、言語で語り得ることしか知ることができない」ということになります。そして彼の有名なマキシム「語りえぬものについては、沈黙しなければならない Whereof we cannot speak, thereof we must be silent.」が示されるわけです。つまりわれわれが「神」を言説化しようとしても、それはわれわれが言語で神を語り得る範囲を決して超越することはできない(つまり、究極的な同語反復の範囲を決して超えることはできない)。しかし形而上学の問題は、それをごまかしていることである、と。 語りえないものを語り得ると思い込み、言葉を尽くし何かを得ようと試みるのが、形而上学(もっといえば、倫理・宗教・芸術)である、と。ウィトゲンシュタインとしては、そのような「言説化」に対しては「沈黙」しなければならないというのです。ただし、これは哲学的試みを完全に否定するものではありません。むしろ、ウィトゲンシュタインの主張するところは、哲学のもつ役割を変えなければならないということを意味します。「語りえないことを無理に語りつくす」のが哲学の役割ではなく、「何が語り得ることであり、何が語り得ないかを明確にしていく」こと、この行為と探求自体が哲学が本来担うべき役割であると提唱するわけです。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 (via petapeta)
241 notes · View notes