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白群に揺れる―壱
時は幕末。 悪霊跋扈する世に安寧齎す為に寺社仏閣は『寺社奉行』によって統括されていた。 職にあぶれることなくうまい汁をすすることが出来る次男坊。その立場に生まれ落ちた事を好機と見たか稽古をサボり、学業はそこそこに行う決して褒められない所業を行ってきた鬼柳一派の正統なる後継者……彼を、後継者と呼ぶのは余りにあほらしいと力ある陰陽師たちは言った。 だからだろうか、そんなあほにも危機が訪れる事となる。 「は? 寺社奉行の政策に反対? 何言ってんだよ」 鬼柳一派を統率する女首領は柔らかな笑みで「言葉の通りよ」と微笑んだ。 鬼柳 篠はぽかんと口を開けた息子を地獄へと叩き落す様に、天使の笑みで「ウチは寺社奉行の統括から抜けますからね」と告げる。わざとらしく小首を傾げて甘えた仕草をする彼女の様子からはそれは重大なことにも思えなかった。 「待って」 「待ちません」 しかし――それは思いの他、ぐうたら次男坊にとっては重大な事件だ。 家を継ぐのは長男の役目。陰陽師という職だけで食っていける程に鬼柳家の力は強くない。寺社奉行の許しを得て神職へ就いた兄の元でそこそこの陰陽師を行って暮らしていけばいい。そうだ、嫁を貰う必要もなければ、アホ息子と呼ばれながらだらだらと暮らしていける次男坊という立場で居れたはずなのだ、それなのに――それなのに、寺社奉行の政策に反対すれば最悪家はお取り潰し、自分は『ニート』になってしまうのだ。 「お母様……?」 「篠ちゃん」 「しのちゃん?」 震える声で次男坊――鬼柳 菊次郎は母親の顔色を窺った。 嗚呼、いつ見ても涼しい顔をしている母である。 「分かってる……? 最悪、ウチ無くなるんだよ?」 「だって、菊はウチを継ぐつもりはないでしょうし、花はそもそも力がないんですもの」 家が潰れたって損はないという様に母は綺麗に笑った。 花――兄の花太郎は残念ながら幽霊を見る力が無ければ妖怪を祓う事も出来ない。 しかし、そんな神職位どこにでもいる。要は家柄さえ何とかなればOKなのだ。花太郎が何となく神主になり、母が何となく祈祷を行って、自分が何となく祓う生活を続けていけばそれで家は続き、自分は楽をし、花太郎だって職に就ける。全てにおいてが幸せになるはずだ。 「花兄ィが無職になっちゃ困るだろ……ウチはお役人になれるほどに頭良くないわけで、しのちゃんは陰陽師出来るけど、オレはさ、その……」 「菊が陰陽師になればいいのよ」 母は、またしても綺麗な顔をしてそう言った。 「は?」 「菊は陰陽師になれるから大丈夫。篠ちゃん、菊の為にお役所に頼んできたからね」 ほら、と手渡された札と鞄。 菊次郎の表情には嫌な汗が流れ始める。じんわりと掌に滲んだ汗をぬぐう事も出来ないまま、彼は「しのちゃん」と己の母親の名前をゆっくりと呼んだ。 「これは?」 「――かわいい子には旅をさせろって言うでしょ」 ◇◆◇ ライオンは子供を崖から落とすらしい。ならば母がかわいいかわいい息子に行った非道なる行為もそれの一角だろうか。 お取り潰しを免れるために自分が奉公――言い方は悪いがこれがぴったりだ!――しろというのは母による体の良い厄介払いか。 懸命なる抗議は母お得意の式神たちによって封じられた。何だかんだで彼女は聡明な陰陽師と言う事か……母の術を見るとそこから彼女の言葉を曲げさせることが難しいのだと良く理解させられる。 「……それで?」 それでから、どうだ。 行って来いと手渡された紙には奉行所の場所と、訪ねるべき部署名が記載されている。 妖鬼同心――名から漂う下っ端臭が菊次郎を不安にさせた。 「ようき、どうしん……」 帰りたさが心の底から溢れ出した。 町中だと言うのに奉行所の前には豆粒ほどの小鬼がういしょういしょと言いながら大きな風呂敷を運んでいる。 妖ならば祓ってやらねばどうにもできない。表情を固く凍らせた菊次郎は己の荷物の中に数枚の札が入っていたことを思い出し、いざという時はと後ろ手にそっと握りしめた。 小鬼は奉行所の中へと風呂敷を運んでいく。その体には似合わぬ大きな風呂敷はずるりずるりと引き摺られ中から小豆をぽろぽろと溢し続けているではないか。 視えない人間からは勝手に豆が飛び出た様に思えるのか……いや、そもそも豆如きに気付かないか。 「……おい」 ゆっくりと小豆を拾い上げ、菊次郎は小鬼に落としたぞと差し出した。 その声に大きく肩を震わせた小鬼が「ひぃん」と鳴いたのは予想外のことだったのだが。 「儂が見えるんで!?」 「残念なことにバッチリみえてるよ……。お前、こんなトコで何してんだ? ヘタすると霊能力者とかうさんくせー奴に蹴られるわ、詰られるわ、祓われるぜ」 やれやれと肩を落とした菊次郎に怯えた顔をした小鬼は「へえ」とだけ呟き肩を竦める。どうやら意思疎通ができる上に悪いやつではないらしい――尤も、子供の頃に悪霊と友達になった以外は妖の類には精通していない菊次郎には善し悪しの判別は適当なのだが。 「まあ、見た所、悪い奴じゃねぇだろうし話を聞いてやろう。その風呂敷運ぶのか?」 「へ、へい、儂は見ての通りちっぽけな小鬼でして……妖鬼同心の兄さんに頼みごとをするために小豆を運んでおりやす」 妖鬼同心――その言葉だけで声を掛けなければよかったと、菊次郎は死ぬほど後悔した。小鬼なんて見えないふりをして、『陰陽師の血だけ持ったボンクラ』扱いしてもらうために奉行所にやってきたというのに。 「その、小豆が……重くて運べやせんので」 嗚呼、その次の言葉は予想がついている。 鬼の癖にその輝かしいまなざしを向けるなんて卑怯そのものだ。 「兄さんが暇でらっしゃるなら」 良い、言わないでくれ。 できれば、小豆運ぶのは諦めたからまたの機会にと言ってくれないか。 「一緒に……」 ――現実は無常だ。 片手に小鬼、もう片手には小豆の風呂敷を手に奉行所に入ることになるなど……。 途中で肌がちりりと灼ける感覚を覚えたが嫌悪感をそのように感じただけかもしれない。掌の上で小鬼が小躍りしているが、最早それもどうでもよかった。 用意周到な母に渡された紙には地図が添えられてる。迷うことなく奉行所の中を歩み、人気ない方向へ進めば木々が鬱蒼と繁り始める。 「妖鬼同心の詰め所は昏いんでやすね……」 「昏いかどうかって聞かれれば最悪な職場だって思う」 鴉の鳴き声が周囲に響き渡り、辺り一面が昏く包まれている。昼だというのに鬱蒼と繁った木々が空を隠すものだから夜と何も変わりはなかった。 適当に吊るされた提燈が茫と光り、手招く様に存在しているがそれも不気味だ。 (……化け物部署か何かかよ。幽世(かくりよ)の雰囲気を体現してみましたってか?) 奉行所の中にこんな場所があったものかと首を捻りながら歩む菊次郎の手首に抱き着きながら小鬼は怯えて「兄さん」と幾度も呼んでくる。 鬼の癖にこの空間に怯えるとは馬鹿者である。寧ろ、真人間の自分が怯えて幽世に住まう妖怪である小鬼が「全然安全でやす!」位言えないものなのか。 「あ、兄さん……ひょっとして儂は兄さんを妖しい場所に連れ込んでしまったんでしょうか」 「俺もそれ聴きたかったんだけど、お前怯えてるから悪い妖怪じゃないっぽいけどさぁ……一般人を幽世に引き摺り込んで存在を食いたいとかそんな感じ?」 見下ろせば、くりくりとした瞳でこちらを見上げてくる小鬼は「儂にはなんとも」ともごもごと濁すように呟いている。仕草一つ一つから奇妙な外見に似合わぬ鬼である。 いざとなれば母お手製の札の準備もあるのだ。現世に位なら幾らでも舞い戻れるだろうと奇妙な自信を胸に菊次郎は「そうか」とだけ返した。 「兄さんはこんな鈍間な小鬼を良く信じられますね……」 「なんつーか、俺もなんでお前に声かけたんだろって100回位後悔してるし、死にたいほどに後悔してるし、寧ろさ、俺はなんでお前が見えたんだ?」 「さ、さあ……」 八つ当たりである。 菊次郎の口撃に怯えた様にくりくりとした瞳を向けてくる小鬼は不安げに手首へとぎゅ、と抱き着いてきた。その仕草は美女であればときめくのだが――生憎、不細工と呼ぶに相応しい小鬼だった。 「大体さ、聞いてくれよ。俺は働かずにぐーたら次男坊やってたかったわけで、どう考えても霊力とかそういうの使って頑張るってタイプじゃないだろ? あの鬼婆ァが政策に反対だなんだ謂わなかったら今だって家でだらだら春画でも読んでるわけだよ」 「は、はあ……」 「家も追い出されて、里帰り程度しか来るなって言われて遥々奉行所ですよ。はー、何の楽しみもない社会人(しごとにんげん)になるってのはごめんなワケ。小鬼、判るか?」 「は、はい……」 「そんで心の底から鬼婆ァを呪ってたらお前と出会ったんだよ。無能ぶりを見せつければさっさと家に帰らされる事だろって思ってたのに計画丸つぶれだよ。なんでお前に声かけたんだよ……あー、畜生……」 マシンガントークに小鬼はドン引きと呼ぶに相応しい反応を見せ、困った様に身を丸めていた。 口撃は留まることを知らず、とりあえず聞いてくれと掌の上で丸まり勘弁してくれと頭を下げるまで続ける事となった……。 「で、」 周囲を見回せば鴉がカァカァと鳴いている。鬱蒼とした木々はだらだらと続き、『妖鬼同心』の詰め所に到着する気配もない。 「ここは何処だ」 「は、はい……同じ場所をぐるぐると回ってる気がしやす」 念の為と懐に忍ばせた小豆を落としておいたと有能ぶりを発揮する小鬼は菊次郎の前を指さし「儂の小豆でやす」と困った顔を見せる。 どうやら同じ場所を(ストレス発���の間)回り続けていたらしい。奉行所の大きさからして、この距離を歩かされることはなかった筈だ。 「あー……」 気づかなかった自分も情けないが何となくでも小鬼が気付いてくれていたらこの距離を歩く事もなかったのだがと菊次郎は項垂れる。 無駄な労力を使用するのは嫌いだ。 さっさと状況判断を終えていれば、この『迷路』のような空間から抜け出すのは簡単だった。 先ほどのびりりと体に奔った感覚は奉行所の結界が反応したという事か。自分自身の霊力もそうだが小鬼を連れていたことも相俟っての事なのだろう。 「小鬼、お前は妖鬼同心に行ったことは?」 「な、ないでやす……」 「じゃあ、この結界の事は?」 「あ、あ……���や、仲間は紹介されたら行くことが出来るとかその……」 つまりは、妖鬼同心に行くには何らかの『キーワード』が必要で、小鬼は『紹介』されて来た訳ではなくごく個人的に小豆を持って依頼に訪れたという事か。 小豆を持って奉行所にえんやこらしょと尋ねたところでこの結界に阻まれ辿り着くことが出来ない。 振り返れば奉行所の入口出会った場所がすぐ傍に見えている。 ――力ある陰陽師か、はたまたそれに類するものの仕業か。 ぞくりと心の底から沸き立った好奇心はこの場所に訪れてよかったと初めて感じさせるものだった。 「結界位、俺が解いてやるよ」 唇の端が吊り上がり、母親の見様見真似で札を手にする。 足元に下した小鬼が怯えた様に草履の上によじ登り足首にしがみついてくる。ここまでくると案外かわいいやつである。 「俺を誰と心得る!」 一度言ってみたかった決め台詞である。 どうせ、小鬼しか聞いていないのだし心の底から格好つけたいのが男子だ。 「俺こそ鬼柳流後継者――鬼柳菊次郎様だ!」 シュ、と音立て木々が霧散してゆく。 暗闇から解き放たれたように鮮やかな昼の太陽が差し込み、ゆっくりと――ゆっくりと顔を上げれば穏やかな瞳と目が合った。 「かっこいい」 ……聞かれていたのだろうか。 「菊次郎様か」 その男は菊次郎が札を振るった真似をする様に立ち上がり、台詞を一字一句間違えずに唱えている。 「な――」 「あ、妖鬼同心様!」 ぴょん、と足首から降りた小鬼が菊次郎の掌を差し出し「小豆をお代にお願いをかなえてください」と頭を下げているのが見えた。 妖鬼同心……? サァ、と頬まで熱が上がってくる。 散々歩いていた、結界の中にいたというのはあくまで『こちらの話』で相手側から見れば結界の中身は全て見えていたという事なのだろう。 何が高名な陰陽師だ。 何がそれに類するものの仕業か。 昼下がりの男の暇潰しの結界ではないか! よく考えればそれほど強い結界ではなかった気までしてくる! 「やあ、君が鬼柳の次男坊かい? こんにちは、君と会えて嬉しいよ」 穏やかな笑顔に湯呑はよく似合う。のんびりと縁側に腰かけた細身の男は菊次郎を上から下まで眺めてこてりと首を傾いだ。 「……どこに行ってたのかな?」 帰りたくなった。
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先輩組 鬼柳 梅之介(きりゅう うめのすけ) 白澤 蒼士(しらさわ そうし) 六月一日 杏(くさか あんず) 都市伝説課課長 illustrator:えぃ
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春日原 雨月(かすがはら うづき) 春日原 晴陽(かすがはら はるひ) 曲真賀市出身 都市伝説課配属 illustrator:えぃ
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涼風に鳴る幽かの怪―肆
ぽてぽてと短い肢で歩み寄ってきた猫は、猫と呼ぶには余りにずんぐりむっくりとしていた。 大きな鼻と球体と譬えてもいいようなまん丸とした体。猫と言うよりかこれは――豚だ。 二股に分かれた尻尾が猫らしさを感じさせるが、目つきの悪さと鼻のでかさがその印象を薄れさせる。長い尻尾を二本持った真っ白な豚がそこには存在していた。 (ぶ、ぶさいく……) 口から出かかった言葉を飲み込んでたまは視線を逸らす。先程、言葉を喋っていた。 言葉を……? 「ね、ねねねねねねね?」 「たま?」 正治と猫。 緋桐と猫。 交互に見直しても、猫の姿は変わらない。「なんじゃ、その小娘は」と大欠伸を漏らした豚のような猫にたまの表情は更に引き攣った。 「ね、ねねっ」 「そうじゃ、わしは猫じゃよ。豚なんかじゃありゃあせん」 豚でないことを驚いている訳じゃない。確かに第一印象は豚だが――でっぷりと太った様子がかわいいという言葉を発してあげれない自分が切なささえも感じるが、そうではない。 猫が。 猫が、喋ったのだ。 「ね、猫が、しゃ、喋っっっ!?」 外見に気取られている場合じゃない。猫は、普通に意思疎通を行ってきている。 指さし、思わず竦んで後退するたまに緋桐は首を傾ぐ。怪奇現状だ。狐のクオーターとか、陰陽師とか、蛇女とか、そういった事からすれば些細なことかもしれないが自分の『まともな人間回路』は未だ麻痺していなかった。 「そりゃあ、喋るわいな……」 困り顔の猫にたまは絶句した。 「猫が喋る事位あるだろう?」 (あるわけないでしょ! 妖怪『目付き悪い』め! まともだって信じてたのにっ) たまの中にある正治は案外まともという幻想ががらがらと音を立てて崩れていく。 乱雑に置かれた埃だらけの椅子にへたりこみたまは頭を抱えた。……妖怪の世界では猫は普通に喋るし、狐は意地悪で……ああ、なんてことだろう。 埃だらけの古びた写真館。映像を映し出す事はない廃墟と化したその場所で猫は大欠伸を漏らし緋桐を見上げていた。 「その嬢ちゃんは『こちら側』の癖に胃弱じゃの。吃驚病で死んでしまうんでないかい」 「吃驚病なんてものがあればね」 びっくり病なんて謎の奇病の話に花を咲かせ始めた猫と狐。 不憫に思ったのか、そっと肩を叩いてくれた正治の表情は、いつもより優しく感じられた。 「……それで、こんな場所まで何の用じゃ? 八月朔日の坊の事はよぉく知っておるがの。 吃驚病のお嬢ちゃんは何じゃ? 見たところ、わしに会わせるために連れて来たんじゃあないじゃろうに」 二股の尻尾をゆらゆらと揺らしたでっぷりと太った猫は首を傾ぐ。 埃をある程度払って、懐から使い古された風呂敷を取り出した正治はたまをそちらに座る様に促し、猫の様子を見つめている。 「こちらはたま。幽霊退治の依頼人だ」 「奇抜な依頼人じゃの」 くあ、と大欠伸を見せた猫はその瞳に爛々とした色を乗せる。 含みある言い回しで緋桐を見上げた彼女――きっと、前説明通り彼女なのだろう――は短い前足で頭をかしかしと掻いた。 「わしは雪洞。可愛いかわいいお猫様��ゃの」 ふりふりと尻尾を揺らした豚猫。たまはこの猫が猫語で喋って居てくれたらここまで驚くことはなかったのにと頭を抱えた。 ……猫語とは何なのか、彼女はよく知らないが。 「それで、何用かの。狐塚」 「ああ。君さぁ、政友会のオッサンのこと口説いた訳? 例のお役所から探されてるけどさ」 床に無遠慮に座り帽子を膝の上へと置いた緋桐は困ったような顔で頬を掻いた。 例のお役所と言うのが正治へと依頼を出したところなのだろう。緋桐と正治と過ごすようになってから政府には『例のお役所』と呼ばれる場所があり、妖怪たちと深い関係性にあるのだという。政友会のオッサンを口説いた結果が役所からの捜索命令と言うのは何ともおかしな話だ。 「……そうじゃの。適当に遊んだだけじゃ」 詰まらなさそうに雪洞は言う。その言葉に困った様に緋桐は大きな息を吐き出した。 「適当されても困るんだけどさぁ」 「狐塚がわしで困るなら楽しいわいなぁ。紛い物(おもちゃ)遊びは楽しむもんじゃ」 雪洞はちら、とたまを見遣る。その視線にたまと正治は顔を見合わせ小さく首を傾いだ。 玩具遊び……自分は雪洞にとって『緋桐』の玩具に思われているのだろうか。 「奇妙なお客人を玩具にするのは可哀そうじゃろうて」 「遊んでるわけじゃないさ」 猫の言葉に引っ掛かりを感じるのは自分だけではないと思いたい。たまが首を捻れば正治も同じようにじろりとたまを見つめてくる。 上から下まで、まるで値踏みするような視線は緋桐が向けて来たものにも似ていた。 「……な、なんですか?」 「いや、普通だ」 「そ、それ、馬鹿にしてるんですか……」 女の子なんですが、と唇を尖らせたたまに正治は慌てたように顔をあげ「すまない」とごにょごにょと呟く。 外見は十分大人びているが、こう言った所は初心な青年らしい。寧ろ、緋桐の方が『女性慣れ』している雰囲気を感じさせるのかもしれないが――謝られた以上、気にするのは野暮な話だ。 「余計なことは言わないでくれよ。大福餅」 「のう、狐。猫にお願いをするときは小馬鹿にするもんじゃないぞ」 凄んだ猫に緋桐は悪いねと小さく笑う。大福餅の呼び名は雪洞の外見にぴったりだった。 欠伸を噛み殺す猫の背をぽんぽんと叩いて何事かを耳元で囁く緋桐に猫は「なーお」と鳴いて見せた。 「ん、で、適当に遊んだだけだっていう役人はどうする? 雪洞はあっちに帰ったって言うかい?」 「そうじゃなあ……どうしたもんか」 向き直った緋桐に雪洞はわざとらしく首を傾ぐ。 尻尾をたしりと揺らした彼女はぱちぱちとわざとらしく瞬いて、その姿を美しい女性へと変えた。 「わし、美しいからのぅ」 ――確かに、美人だった。 腰まで垂らしたのは長い黒髪。瞳は猫の頃と同じく、鮮やかな水晶を思わせた。縁取った睫は長く、着崩された着物からわかる体のラインは柳の様に靭やかだ。 「化けると『人』が変わるよね」 「猫が変わるんじゃよ」 わざと残していたのか二股の尻尾がゆれている。化け猫と漸く同じ目線になったたまは女性としての敗北を感じた様に胸元に手を当て、大きく息を吐き出した。 「あ、あの……」 猫でないなら、会話だってできる。 ゆっくりと息を吐き出しながら声を発したたまの視線はあちらこちらに揺れ動く。 「雪洞さんは、適当にお役人さんと遊んだ? だけ、なんですか……?」 「妖怪と人間は生きる時計が違うわいね」 ぴしゃり、と言ってのけた雪洞にたまは「時計」と小さく呟いた。 「オレの外見と君の時間がずれていると感じてくれたら簡単じゃないかな、たまちゃん」 幼い緋桐の外見に、たまは何となく頷く。 妖怪は長く生きるのだという――それこそ、本物の妖怪であれば華やかな平安の世界で陰陽師たちと過ごしたものもいることだろう。緋桐の様な4分の1では影響も少ないのだろうが雪洞は本物の妖怪だ。何時から生きているのか……それを、時計の針の動きが違うのだと彼女は譬えた。 「わしは狐塚の所の『お嬢』とは違うわいね」 「ばあさんのことは言わないでくれないかな」 困った様に笑った緋桐はたまに「オレのおばあさんは本物のお狐なんだ」とだけ告げた。 雪洞は緋桐の祖母が幽世からひょこりと顔を出し、人間と出会い恋に落ちた事を物語の様にたまに言って聞かせた。 「初耳だな」と呟く正治は興味深そうに彼女の話を聞いている。狐と人間の恋は、儚いままで終わる事無く無事に成就し、半分だけ狐の力を受け継いだ子供を産み落とす――そうして、その娘から生まれ落ちたのが緋桐だというのだ。 「じゃ、じゃあ、雪洞さんだってお役人さんと上手くいって、子供ができて、その……幸せに」 ぼそぼそと呟くたまに雪洞は冷たく「上手くいくことが多い訳なかろうに」と発した。 冷たい一瞥にたまは小さく息を飲む。それは、良く分かっていた。 お役人による片恋の相手探し。相手が妖怪であることを知っているのに探してしまった――その彼の気持ちはどうなるのか。 恋に恋する乙女、たま。ぎゅ、と掌に力を込めて「でも、好き合ってるなら……」と声を震わせる。 「まあ、たまちゃん。妖怪にもいろいろあるんだよ」 宥める様に笑った緋桐の言葉に雪洞は小さく欠伸を漏らす。その仕草さえも何処か色香を感じさせるのだから頭の固い役人が彼女に揺れた気持ちも理解できる。 「妖怪以外にもいろいろあるじゃろうて。八月朔日の坊が六月一日のお嬢が持つはずの刀を持って居るのも色々の内じゃ」 雪洞の言葉に、表情を凍らせたのは正治だった。 あまり触れて欲しい所ではなかったのだろうか、腰に下げた刃に触れて、正治は表情を凍らせる。 「『くさか』のお嬢……?」 「ああ、六月一日っていうのは正治の家の本家に当たるおうちだよ。お嬢って言うのはそこの跡取り娘だね」 聞きなれない名前に首を傾げたたまへと緋桐は解説する。 六月一日家という由緒正しき陰陽師――本家は不幸にも男児に恵まれず、強い力を持っていた跡取り娘は男児として育てられていた経歴がある。 それはこのご時世なればよく聞く話であった。跡取りに恵まれなければ、養子をとるか婿取りを行い家を存続させていく。陰陽師の家ともなれば、婿や養子を選ぶのにも難しいという事か、それ故の待望の男児を頂く分家に『家宝』を授けたというのは何もおかしくはない。 「本家に生まれたのがお嬢で分家に生まれたのは望まれた男児となれば、そうもなるわいね。 ……そういえば、何処かの女郎蜘蛛の一族もそんな話を聞いたことがあるのぅ」 「女郎蜘蛛の話は知らんが、本家のお嬢を護るのも分家の役目だと聞いている。 その為の力として霊刀を頂くのは何も可笑しな事ではないだろう。いや、寧ろ……」 意地悪く言う雪洞に正治は唇を引き結ぶ。何処か言い辛いかのように彼は視線をうろつかせ、緋桐をちらりと見やった。 困ったときは狐頼りとでもいうように正治は「狐塚」と小さく呼ぶ。 「……まあ、ほら。本家のお嬢――『ていちゃん』は霊刀なんて必要ない位に強いからね」 助け舟を出したと言う風でもなく、何気なく緋桐は付け加えた。 誰にだって事情はあるのよね、とたまは僅かに納得し、美しい女の姿をした妖怪をじっと見つめた。 「でも……その、どうするの? お役人さん、探してるんでしょう?」 話が脱線し続けたが、たまは自分の目的を思い出したという様に三人へと向き直る。 一人は『色恋に首を突っ込むのも野暮だ』と言う様に眉を顰め、 一人は『わしゃ何も知らんわいね』と言う様に子供のようにふい、と視線を逸らした。 そして、残る一人はと言えば、 「ああ、それね。雪洞はお役人の事好きなの?」 直球を投げ入れることを厭わず悪戯っ子の様に笑って見せたのだった。 緋桐さん、と呼んだ声は僅かに震えた。このご時世だ。お家の事情で結婚相手も選べない、このご時世に惚れた腫れたで話をするのは野暮も野暮。 「惚れた腫れたで共に居られる関係でないと雪洞は言っただろう」 「人間同士ならお家の都合もあるだろうけど、オレ達は妖怪だし?」 慌てて口を挟んだ正治にも緋桐は何もおかしくはないと小さく首を傾いだ。 この状態の彼に何を言っても伝わらないと理解しているのか頭を抱えた正治は大きく息を吐き出す。 「……時計が、生きている時間が違うと言っていただろう」 妖怪がお家事情に縛られないとするならば――命の長さは理由にならないのか。 雪洞は長きを生きたことで普通の猫より妖怪へと変化した。その彼女はたまや正治が想像する以上に長きを過ごし、長きを生きる事となるだろう。 「もし、雪洞さんがお役人さんのことを、す、好き……でも。 夫婦になっても、その……何時かは死に別れてしまうんでしょう?」 「そうだね、きっとその時は来るだろうね」 妖怪と人間である以上は、そうなるのは当たり前だと緋桐は大きく頷いた。 その悲恋に胸ときめかすのはあくまで物語の中だけだ。袴をぎゅ、と握ったたまは胸中の思い��どう言葉にしたものかと正治をちらりと見つめた。 「お前は、どういいたいんだ? 狐塚」 「オレは雪洞次第だと思ってる。どうせ、お役人は勝手だよ。 妖怪は長い時間を生きていかなきゃいけない。人間はすぐに心移りするだろうけれどね」 妖怪と人間の違いは外見や住む場所だけではないのだと緋桐は言った。 長く生きる妖怪は、人間が一生のうちに感じる心の変化をゆっくりと刻んでいく。 役人の青年が今、雪洞に熱を上げたとして、明日には忘れてしまうかもしれない。 それでも、雪洞は彼のことを百年は思い続けることができるだろうと緋桐は言った。それ程に妖怪は長きを生き、心の揺らぎを少なく過ごしている。執念深い、と付け加える彼に雪洞は大きく頷いた。 「ここでわしがあやつと結ばれたとて、所詮はわしは妖怪じゃ。 あやつの気まぐれにわしが振り回されてやる道理はありゃあせん」 「……雪洞さんは、悲しい片思いのまま、ってこと?」 たまの言葉へと、「乙女なことを」と雪洞は小さく笑った。 「人間なんてそんなもんじゃ。何時かは大事な相手だって忘れてしまう。 大切な友の事も、何時の日か情を酌み交わした相手のこともじゃ」 尻尾がゆらりと揺れる。暗がりを照らした灯りの下で雪洞は『猫』のように笑って見せた。 「――一晩でいいんじゃ。わしに時間をおくれ。全く、人間はわしを惑わせる」 活動写真館を後にしたたまは妖怪と人間の違いを改めて考えていた。 正治と自分は『普通の人間』で、緋桐は4分の1が妖怪の血を含んでいる。 雪洞の言った『時計』を感じることがない自分たちが彼女の気持ちを大きく揺らがせたのは、あまりに無遠慮だったのではないかと思ってならない。 「たまちゃん、何考えてる?」 屋敷について、正治が茶の準備をしている最中に緋桐は何気なく問いかけた。 彼にとっては当たり前の妖怪と人間の違いは、たまにとっては新しい世界であり、全く知らなかったものだった。 「ねえ、緋桐さん。妖怪のこと……教えてもらってもいい?」 「君は、そうやって危ない橋を渡るのが好きなんだね」 からりと笑った緋桐は困った様に肩を竦める。 霊力のある正治が妖怪について学ぶのとは大きく違う――たまは、普通なのだ。 「オレが妖怪について教えてあげるのは簡単だよ。 雪洞の事、オレの事、正治の家の事……でもさ、それを知ったってたまちゃんは何もできない」 「何も」 何処か、突き放すかのようなニュアンスを含んだ言葉にたまは唇をきゅっと引き結んだ。 こういう時の緋桐の目がたまは嫌いだ。全てを見透かす様な色をしているから、何も言う事が出来なくなる。 「たまちゃんは優しくて頑張り屋だから、雪洞の為に何かできないかって思ってるのかもしれないね。 でもさ、今のたまちゃんには何かをすることはできないだろうからね。雪洞の答えを待とうよ」 ね、と笑った緋桐にたまは首をふるりと振った。 何もできないから、待って居ろ――自分たちが、彼女の心を揺さぶったのに? そう思えば、ハイと頷くことができなくて、たまは唇をぎゅ、と引き結ぶ。髪にしっかりとつけていた椿の髪飾りを勢いよく机の上に置いてゆっくりと立ち上がった。 「緋桐さんの冷血漢」 たまちゃん、と制止する声を振り払い勢いよく屋敷を後にする。 夜の帝都の風が冷たかろうが、銀座が遠かろうが関係ない。 雪洞が一人で悩んでいるのだ。親身になって話を聞いて、彼女の力になってやりたい。 あの美しい女は、一人で泣いているのだろうか。 不細工な猫だと知っている役人は今宵も彼女のことを思っているのだろうか。 まるで、文学のような美しい恋物語が、たまの脳内では組み立てられていく――恋は、無常なものだから。 人々の間を擦り抜けて、走るたまを誰もが気に留めることはない。 未だ灯りの消えぬ帝都の街を行く馬車は夜会に向かうのか何処か楽し気だ。 誰の目にも見えていないかのように、走りながら雪洞の居た活動写真館へ向かうたまの足は『いつも』よりも軽く感じた。 (わたし、こんなに走れたの――?) どうしてか、自由に足が動く感覚が妙に心地よい。 身体が羽の様にふわりと浮いているようにも感じられた。 土を踏みしめ、帝都の街を奔るたまは背後に奇妙な違和感を感じ始める。 周囲の灯りが次第に暗くなり、今まで明るかった筈の背後も暗闇に囲まれ始める。 (……あれ?) 暗がりに手を伸ばせば、目の前を塞ぐ何かがそこにはある。 ぺたぺたと触れれば固い壁のようなものがあることにたまは気付いた。 戻るにも灯りは消えて、目の前には壁がある。少し横に進んでみようかとゆっくりと歩き出せば、その向こうには茫と輝く提燈が存在していた。 帝都の街には余りにも不似合な提燈の回廊は赤い鳥居の下で続いている。 「こんなところ、」 銀座へ向かう道に会ったかしらと小さく呟くたまは不安を感じ頭へと触れた。 勢いよく机に叩きつけてしまった緋桐からの贈り物。お守りの役割を持っていたと思われるそれ。 (きっと、お守りがないから変な物に化かされたんだわ……) 暗がりからの不安に息を飲みこみ、緋桐さんと名を呼ぼうと息を吸う。 ふと脳裏に過ったのは彼が告げた言葉だった。 『――たまちゃんは何もできない』 心の奥底から、何かがこみ上げる。 助けを呼んではいけない気がしてたまはゆっくりと灯りの方へと歩き出した。 灯りがある方向に行けば、きっと誰かがいる。そう思えば、緋桐がいなくったって自分にも何かできるのだという根拠のない自信が湧き上がってきた。 「大丈夫」 正治がいなくったって、自分は可愛い箱入り娘ではないのだから。 「大丈夫よ」 緋桐がいなくったって、妖怪に化かされたとしてもきっと、彼らは話せばどうにかなるはずだ。 次第に近づく灯りに心が落ち着く。そうだ、人間は話し合えば何とかなるはずだ。 聞こえた笛の音、微かな太鼓の音。灯りはゆらりゆらりと誘う様に揺れている。 その最中、たまの眼前でふわりふわりと幾つもの焔が揺れていた。 「ッ、」 それは青白く何かを燃やしたものだった。まるで花の様にその焔を散らし、たまが訪れたことを歓迎するように無数が点いて消えてを繰り返す。 勢いよくへたり込み、背後を見遣れど、その向こうに来た道は存在していなかった。 ガチガチガチと何処からか、大きな音が聞こえる。 まるで何かをぶつけたかのような。 ガチガチガチ……。 (……何……?) 赤い鳥居の向こう、白い何かが見える。 ガチガチ、 絶えず音鳴らすそれは、その白いものから聞こえるのだとたまはしっかりと認識した。 「ひ、」 その白いものが――人間の骸骨だという事を認識したのも、その瞬間であっただろうか。 巨大な骸骨が鳥居に手をかけ、歯を大きく鳴らしていた。空洞となった肋骨が風に揺らされ悲し気に鳴いている。 息を飲みこんだたまは、巨大なそれに気付かれることが無いようにゆっくりと下がろうとして『壁』に背を付けた。 「え……?」 今まで、そこには壁が無かった筈なのに。 言葉は出てこなかった。 髑髏はしっかりと『たまのことを見つめていた』のだから。 周囲に茫と焔が浮かび上がる。瞳が入っていたはずの空洞はたまのことを見下ろしている。 (あれは、何? 妖怪? ……なんの妖怪?) 脳は混乱していた。目の前にいるものが、何か――それを理解できないままにたまは緋桐さんと小さく名前を呼ぶ。 骸骨の腕はゆっくりとたまへと伸ばされる。 捕まればどこかに連れていかれてしまうのだろうか? 臓腑の詰まらない巨大な髑髏はその手で自分を握りつぶしてしまうのだろうか? 徐々に血の気が引いてくる感覚がする。下がろうにも後ろには道はなく、目の前には骸骨と妙な焔が存在している。 「緋桐さん、」 呼べど、愛らしく笑う狐はそこにはいない。 「正治さん」 不愛想な顔をした青年将校もここにはいない。 ――私が、悪かったんだわ。 無遠慮に口を挟もうとしたのは自分の方だった。 ――私が、悪かった。 お守りだと、普通の自分が妖怪の世界に足を踏み入れることは危険だと言われていたのに。 どうして髪飾りをはずしてしまったのか。 どうして、彼の言う事を聞けなかったのか。 じわりと涙が滲みだす。じりじりと近づく掌から逃げる様に背を壁へとぴたりとつけてたまは「緋桐さん」と呼んだ。 「女の子の夜歩きは危険だよ。簡単にあの世にご招待だ」 茫と浮かび上がった青白い焔は先程までのものとは違う。 青白く、何処か美しいそれを狐火と呼ぶのだとどこかで聞いた気がした。 金の結った髪に細い手足、意地の悪い言葉はもう聞きなれたもので。 「緋桐さん」と彼を呼んで顔を上げれば、そこにあったのは深い紅色の瞳だった。
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涼風に鳴る幽かの怪―参
その日は、昼過ぎから少しばかり俄雨が降った。 未だすっきりとはしないが辺りに立ち込めた雲は夕方になるにつれて徐々に通り過ぎていったようにも感じる。 西洋作りの街灯は雨のせいで夜と昼の区別がつかなかったのか途惑うように点滅している。通りの向こうから覗いた夕日は沈まぬままに此方を覗いていた。 「夏の雨は大袈裟だからね」 雨傘をくるりと回して、振り仰いだ緋桐はたまを手招いた。もう雨は随分前に止んでしまったというのに、彼は傘をさしたままだ。 こうして、彼と調査と称した散歩に出る様になってから三日経つ。一度、家に戻って旦那様に言わないとと進言したたまに必要ないと言ってのけた緋桐は悪巧みをするような子供の顔をして調査契約を行った日の夜に雨を理由に逗留を促した。 「ねえ、そろそろ帰らないと」 「帰らなくていいよ」 ぴしゃりと言ってのけた彼は金の瞳を光らせた。 自分が家に帰らないままでは旦那様が心配するという言葉には緋桐は正治にたまを預かった旨を届けて欲しいと伝えておいたという。幾度繰り返しても帰ってもいいという話にならないあたり、やはり詐欺師だったのではないか――そう考えるのも無理ない話だ。 「あの……捜査って具体的には何をするの?」 幽霊退治の依頼をしに来たはずなのに、彼と散歩を行うだけの毎日。あまりに理解不能な行動に流石に痺れも切れてくるころだ。 「本当に狐に化かされたみたい……」 ぼやいたたまは水たまりをぴしゃりと踏みしめる。揺れた水面はあまりの衝撃だったのかたまの顔を映してはいなかった。 「明日になったら本格的に始めようか。 今日はもう遅いし――それに、雨雲もまだ残っているからね」 表情は暗い――晴れ間が出ているというのにぽたぽたと雨が降る。それを、狐の嫁入りと呼ぶのだと誰かが言っていた。 朝になれば、見慣れぬ天井がそこにはある。客間に用意されていた布団はふかふかとしており、実家や病院の固い煎餅布団との違いに驚かされた。 一先ず階下に下がればぼさぼさとした髪を結わえる事無く机に突っ伏している緋桐が存在する。どうやら、早朝から起きて何かしらの作業を行っていたらしい。 「緋桐さん?」 「んー……うん、おはよう。たまちゃん」 僅かに頭をあげて、ひらりと手を振った彼へと近づけば、ひとまず風呂に入った後なのだろう。その心地よさでうたた寝をしていたことが分かった。濡れたままの髪を布で拭き上げ、櫛で鮮やかな髪を梳く。適当に近場においてあるリボンで結わえれば美少年の完成だ。 「ありがとう」 小さく返されたそれに頷けば、玄関から正治がいつも通りの強面で訪れる。だらしがないと緋桐に小言を漏らしながら朝食を用意するのが彼の日課のようだ。 「毎日、こうして緋桐さんのお世話をしているの? 大変ね」 「まあ、それなりに世話にはなっているからな」 ふい、と顔を逸らした正治にたまは照れてるのね、と小さく笑う。生真面目な彼のことだこの状況居なってからは毎日の緋桐の世話も一つの仕事だと認識しているのだろう。 ソファに座っていれば日本茶がやってくることをたまは知っている。どうしたことか、この生活にすっかりなじんでいる時分がいることに彼女は不思議と嫌悪感はなかった。 「食事をしたら今日は幽霊退治の調査に出かけようか」 食事が終われば、彼は英国紳士のように着飾った。ブーツと袴と言った普通の女学生という格好のたまとはあまりに不思議な組み合わせにも思えた。 街に出れば、たまは「ハイカラね」と何度も繰り返している。最も、ここから数年経てば、緋桐の服装もそうそう違和感を感じるものでもなくなっているだろう――最もここから数年経てば男性は山高帽子にセーラーパンツに細身のステッキを手に街を闊歩し女性はアッパッパ等を纏ってショートカットで赤いルージュを引きながらモダン・ボーイ、モダン・ガールという時代が到来するのだ。 「……そういえばさ、たまちゃんはスカートって履かないの? 興味あるなら1着位買ってあげるけどさ」 「スカートは、その……はしたなくないかしら? 世間様ではパーマも流行っているけれど私は、ちょっとね」 曖昧な返事を返した自分が居心地悪くて、たまは肩を竦めたまま石畳を見下ろした。流行のファッションに関しての話題は苦手だ。たまは世間の流行に触れる事が無かったからとぼやき、石ころを蹴り飛ばした。 「――……ああ、じゃあ、髪飾りとかはどうかな?」 「髪飾り?」 突拍子もなく、告げられた言葉にたまは首を傾げる。その言葉に首を傾いだのは正治も同じようだった。髪飾りを贈られる間柄でなければ、彼と自分は依頼者と探偵だ。報酬の関係から調査を共に行っているだけだ。 「たまちゃんは可愛いからね。それに、幽霊退治を一緒に行うんだよ? 妖怪のオレや『特殊』な正治なら兎も角さ、何の耐性もない君が一緒だと危険な目に合うかもしれない」 裏路地の片隅に存在する店を指さして緋桐は「ね?」と小さく首を傾いだ。彼の言は尤もだ。妖狐のクオーターであるという緋桐と、特殊――特殊な? 「特殊な、って……?」 不安げに正治を見つめるたまは彼が『妖怪』の類なのだろうかとゆっくりと息を飲む。 そうだとしたならば問題だ。狐の手の内に転がり込んでしまったことの証明になってしまう。 「あれ、言ってなかったっけ? 正治は簡単に言えば『視える』人だよ」 「視え……?」 視力がいい、と言う訳ではないのかもしれない。 帝都の街の中、行き交う人々はそんな会話に何も目を止めやしない。緋桐の言葉に、何の返答も返さぬまま正治は口を閉ざしていた。 「幽霊とか。正治は小さい頃から妖怪とか、そういうの得意でしょ」 「……普通に視えているからな。区別は、つかないが」 ぼそり、と小さく呟いた正治はその血筋の事を言いたくなかったとでもいう様に顰め面を見せる。 曰く、彼には幼い頃から幽霊や妖怪と言った幽世(かくりよ)の存在が見えるのだというのだ。日本には古来から陰陽師が存在し、幽世の存在が現世(うつしよ)へ影響を及ぼす事を防いでいた。その正統なる血筋――の分家だと緋桐は正治の紹介を改めて行った。 「オレみたいな紛い物よりさ、正治の方がよっぽどキチンとしてるってことだよ。 妖狐(オレ)を見たから、たまちゃんはすんなり信じるだろうけどね、こういうのって偽りだなんだって良く言われるそうだよ」 だから、言わないんじゃないかなと緋桐は傍らで渋い顔をした正治を見上げる。 小さい頃は、普通に視えていたから何もない所に話しかける事があり、家族以外の周囲の人間からは気味悪がられていたこともあるそうだ。 区別がつかないという事は、しっかりとその存在が見えているという事だ。陰陽師としての技能を詰め込んだわけではない以上、彼が出来るのは見る事だけだそうだが。 「じゃあ、緋桐さんよりよっぽど幽霊退治なら信頼してもいいってこと?」 「オレは幽霊とそうじゃないものの区別はついてるんだけどな? あと、結構強いよ」 ふん、と胸を張った彼に正治は「だが、普段は弱い」と付け足した。 拗ねた様に地団駄を踏んだ子供のような仕草にたまは彼を信頼していいものか、悩ましいと泣き出しそうな空をぼんやりと見上げた。 「……いいの、かしら」 雲の切れ間から太陽が見える。日傘を差した女性たちの間を擦り抜けて、帝都の街を行く馬車に気を付けながらたま子は慣れた様子で進む緋桐を追いかける。 「たまちゃん、ここだよ」 帝都の路地の裏、人目を避ける様に存在していた雑貨類を取り扱う商店は西洋街の真ん中にあるはずなのに茫と赤い提灯を垂らしている。妙に違和感を感じる様相だ。我が物顔で入店する緋桐に手招かれるままにたま子が足を踏み入れれば、商店の奥から「いらっしゃい」と軽い声が返ってきた。 「あれま、紛い物のおにいさんが女連れかいな。 あの陰陽師の血のおにいさんはどうしたの? もう死んだ?」 「まさか! 正治は中々死なないよ」 軽口を交わした二人の様子に、たまは馴染みの店なのかと小さく首を傾ぐ。 「へえへえ、かわいい女の子じゃないかい、美味しそうな……」 射干玉を思わす髪を簪で一つに纏めた美しい女は、書物の遊女のようだとたまは思う。 その彼女が、近寄ってくるまではその感想だけでよかった。 たまの許へと近寄ってきた彼女が動くとずるりと何かを擦る音がする。 「え、」 そこにあったのは蛇。女の胴によりしたには蛇の尾が存在していたのだ。怯え竦んで肩を震わせたたまに、店主は「あらま」と小さく笑う。 「お嬢ちゃん、妖怪の世界は馴染みないのかい?」 「え、ええ……」 こうして妖怪が様々な場所に居るのだと思わなかった。そう呟けば蛇女は楽し気に笑った。この店は妖怪達が利用する場所であるそうだ――普通の人間が訪れることはそうそうないのだと店主は続ける。 「そんで、そんなお嬢ちゃんを連れて何の用だい?」 「髪飾りが欲しくってね。訳アリだよ」 これがいいな、と彼が手に取ったのは椿の髪飾り。緋桐曰く、それはお守りなのだそうだが……妖怪の店で買ったものにそのような効果があるのかは疑問だ。 本物かどうかを聞こうにも正治は隣にいない。 そういえば正治は店内にいないのだな、と振り仰いだ時には買い物も終了していたのか店舗から退出するようにと緋桐に促されたのだが。 「ほら、たまちゃん」 鮮やかな紅色の椿に少しばかりの装飾が愛らしい。お洒落をしたいのは女性としての素直な欲求だ。こうして、男性にプレゼントされると思えばたまの頬も自然に赤らんだ。 この際、お守りかどうかなど気にならない程に可愛らしい髪飾りだ。……妖怪の店で購入したものでなければ、だ。 「……緋桐さんって、意外にシュミいいのね」 実年齢を知った後ではあるが、同年代にしか見えない彼についつい軽口をたたいてしまうのはたまの中に芽生えた気恥ずかしさからか。 そんな言葉にも楽し気に笑った緋桐は「ハイカラかな?」と冗句を交えてたまを見遣った。 「ハイカラか。ハイカラといえば、エス……えすかれーたー……? とやらがあったな。俺はあれをよく知らないが狐塚は見に行ったと言っていたな」 「まあ文化ですから」 茶化して告げた緋桐に『妖怪の店』から出て来た二人に何気ない日常会話���続ける正治。先程の蛇女の衝撃から抜け出せないたまは椿の髪飾りを握りしめたまま視線をあちらこちらへとうろつかせた。 「ええと……これ、は、」 「あ、つけておいてね」 気恥ずかしい、それに、妖怪の店で購入したものだ。 一寸した戸惑いを感じるのは人間として当たり前じゃないか。 そう言う事も出来ないままに髪に据え置かれた椿。困り顔のたまに似合うとしどろもどろになりながら返した正治にたまは曖昧に頷いた。 (……思ってもないことが言える人じゃないんでしょうけれど) それでも、妖怪の商店に彼がいなかったことは少しばかり裏切り者、と罵ったっていいんじゃないだろうか――そんな気持ちになったのだって仕方がない。 「はいはい、じゃあ調査に向かおうか。 とりあえずは猫探しからだね。正治、たまちゃん」 「ねこォ?」 にゃん、と鳴いて見せた狐。 幽霊退治と何か関係があるのかと問い質したくなる気持ちをぐ、と答えてたまは頬を膨らました。 今までの事で頬を膨らませることくらい許して欲しい。 「いや……役人からの依頼で先に熟しておいて欲しいんだ」と頬を掻いた彼に、顔に似合わず苦労性なのねと失礼なことを考えながらたまは何とか気持ちを鎮めた。 「そんな目で見ないでよ」 じとりと見つめるたまに緋桐は何食わぬ顔で笑う。目での抗議は失敗だ。それ所か何か言っても彼は適当に受け流してしまうことだろう。「にゃん」ともう一度鳴いた彼に何かを言う気もなくなってたまは小さく息を吐いた。 「……で、どんな猫ちゃんなんですか?」 「ぶさいく、だそうだ」 「もう一度」 「ぶさいく、だそうだ」 「それで、判ると思うたか!」 たまは吼えた。冷静な顔をして得てる情報はこれだけだと告げる正治に我慢ならなかったのだ――様々な思いを混ぜ込んで吼えた彼女を行き交う人々は振り仰ぐ。大和撫子、これでは只のはしたない女性になってしまう。 「ほら、たまちゃんどうどう。 一先ず情報は僕から話すから、こっちへおいで」 ぶさいく猫だなんて帝都にはたんまり存在しているのにと憤慨するたまを宥めながら緋桐は銀座へ向かおうと馬車を呼ぶ。頬を膨らませるたまは正治を横目で見据えながら唇を尖らせた。 「帝都にぶさいくさんなんて山ほどいるんだもの……。美人猫さんだってたんまりと存在しているもの……。そんなの情報にならないわ」 自分の依頼をそっちのけでぶさいくな猫を探せなんて堪らない。たまを馬車へと乗せて、気まずいと視線を外へやったままの正治に笑いをこらえて緋桐はたまと向き直った。 「馬車の中だからちゃんと話しをしようね」 馬の蹄の音と馬車の車輪が回る音がする。拗ねたたまに緋桐は「正治」と傍らの友人へと呼びかける。 「尻尾が二本あって、言葉を喋るぶさいくな猫ってちゃんと言わなきゃ分からないだろう?」 「そっちの方が分かる訳なかろ!」 またしてもたまは吼えた。さも当然のように妖怪を探す依頼だった時、人間はどんな顔をするべきなのだろうか? そもそもだ、そもそも妖怪は当たり前のこととして、現世に『存在してはいけない』ものだ。緋桐がその身に流れる血に妖怪というものを孕んでいようとも、蛇の店主が店を営んでいようとも、だ。普通の人間の前には妖怪は存在してはいけないのだ。 それを言い出してはキリもない。たま自身も幽霊退治を依頼したのだから。 「……それで、なんで妖怪の猫ちゃん何ですか?」 「……いや、何分訳ありな猫でな」 もごもごと幾度も口の中で繰り返す正治はどう説明したものかと珍しく緋桐へ視線を送っている。 足を組み窓の外へを視線を投げる彼は正治の視線に気づかぬ儘、茫としている。金の瞳は何処か胡乱だ。 「……あの?」 いつもの調子なら楽し気に笑って小粋な冗談を交えるであろう彼は小さく舌打ちをひとつ。子供のかんばせには似合わぬ大人びた態度にたまはびくりと肩を揺らした。 「ああ、今日も正しい意味で晴れてはいないからな」 彼の態度に何かを悟った様に正治は視線を落とす。先程、簪を付けた際に緋桐がたまに持たせた小さな鞄にはびいどろを思わせる粒が入っていた。 「狐塚」 慣れた手付きでいくつか掴んだ正治が緋桐へとそれを差し出す。たまには一体それが何であるかは分からない――『健康体』であったたまには、薬であることなど、判らない筈なのだ。 「……正治、たまちゃんの前で薬は出さないで」 「お薬……?」 やっぱり、と呟いたことにも彼女は気付かない。 正治の掌からすぐにそれを奪って緋桐は何食わぬ顔で笑みを溢した。 「依頼の話をするのだったね。彼女は化け猫ちゃんなんだけどさ、まあ、ブサイクって言われるのは猫の姿だけでさ……その実、千里眼持ちだとか美女に化けるだとか言われているんだ」 新聞に載っちゃう恥ずかしいお話だと笑う緋桐に普段通りだと安心したたまは僅かに首傾ぐ。今までしおらしい態度だっただけに、突然の豹変に聊かついていけない。 「わ、」 どう反応するのが正しいのだろうか。恥ずかしいと顔を隠し、ちらりとこちらを伺った狐。その態度に普段の自分なら飛び出して思わず殴りつけているだろう――さあ、どうするべきか。 答えは、ひとつだった。 「わぁ~、ききたいなぁ~」 「たまちゃん、無理しなくていいよ。ごめんね」 にたりと笑った緋桐にたまの惑いはバレていた。 一々演技掛った口調で話すという事には数日間の間に良く理解してたが、真面目でない相手の反応には惑ってしまう。 『真面目な人間が周囲に多かった』からか――それとも。 「狐塚、冗談は止してそろそろ説明してやれ」 「お前が出来ないからって押し付けておいてそれかい?」 何処か拗ねたように言う緋桐は「美人に化ける化け猫ちゃんって言葉がぴったりだよ」とその言葉をつづけた。 「化け猫……」 「そう、さっきの蛇やオレと一緒。妖怪はどんなところにも存在するんだ。中々に美人に化けるもんだからね。お役人さんが一目惚れ。ううん、事件だ」 面白おかしく言ってのける緋桐。時代も時代だ。たまは世相に疎いためにあまりその辺りは理解していないが、成金が増え、中流層には民主主義が台頭したこのご時世だ。スキャンダルともとられるネタは大正デモクラシーだなんだかんだと騒がしい時代にあまりにも似つかわしくない。化け猫に惚れた役人だと周囲に流れてしまえば、政府が『妖怪』の存在を見つめたとゴシップにされてしまう。 「つまりは、化け猫に惚れた役人はどうしても彼女を探したい。だが、相手は妖だ。下手にそれが出回れば、妖の存在が世間を騒がせ、統治に響くかもしれない――だからこそ、狐に頼んだ、と」 「娯楽でやってる探偵業だってね、お客さんがいなきゃつまらないでしょ。正治が『持って』来てくれた仕事だし?」 ちらりと視線をやる緋桐に「借りを返した」とだけ告げる正治。本当に腐れ縁なのかしらんとたまは朝食の準備まで担当する正治と緋桐の関係性を計り知れないと首を傾いだ。 外見からは分からないが中身だけを見れば年下の男を虐める兄貴分という図式が出来上がっている。そう思えば、このような貸し借り勘定がまかり通る関係も男同士の友情らしくてよいのだろう。 つまり、正治はパシりなのか、とたまは一人で結論に至るが――「今、よからぬことを考えただろう」 勘が鋭い青年将校だ。 ぎろりと睨みつけるその視線にたまは肩を竦め、慌てて馬車の外へと視線を送った。 往来は賑わい、走り抜けるバスから立ち上った砂埃が何処か擽ったい。たまは到着だと告げる緋桐に手を引かれ馬車をゆっくりと降りた。 見慣れぬ街は人々でごった返し、愛らしく着飾った女性たちが西洋の傘を開いて語り合う。フルーツパーラーに視線を奪われたたまの手をくいくいと何度も引いて緋桐は困った様に首を傾いだ。 「そんなに行きたい?」 「……いえ、その、そんなことは――」 行ったことないのだから興味がないわけではない。 今度はたまが口の中でもごもごと言う番だった。 曇天に昏く見えた街中を困った様に笑った緋桐に手を引かれ進んでゆく。フルーツパーラーは今度ね、と何となく付け加えられた言葉にたまは小さく頷いた。 「それで、どこへ?」 「……さあ? どこだろうね」 帽子をかぶり大衆向けの新聞を手に政治がどうだと議論を酌み交わす紳士や学生の間を擦り抜ければ、気づけば路地の中。往来の賑わいとは違った雰囲気を感じさせた。たまはその異様な空気に慣れないと背後をゆったりと歩く正治へと視線を向けた。 目線はやや下向きに。議論を酌み交わす青年たちとは目を合わせぬように息を殺した青年将校にとって、彼らは異教徒と呼ぶにふさわしいのかもしれなかった。 どうしたものかと視線をうろつかせるたまはぴたりと緋桐が止まった事に気づく。慌てて一歩下がった彼女の前には古びた活動写真感。木造建築なのであろうか、傾いだ看板が風にばたりばたりと音たてて揺れている。 周囲に転がった酒瓶をブーツの爪先でつん、と触ってたまはぱちくりと瞬いた。 「ここ――」 古びているからか、何処かいかがわしい場所に見える。清廉潔白な少女としては頬を赤らめずにはいられないとたまは目線を下げた。 幻灯機が置かれたこの場所は表通りの人気の場所……なのだが、古びた活動写真館となれば状況が違う。裏にヒッソリと隠れたその場所では女学生にはとても口にできないものの上映が行われているに違いなかった。 それが、たまの妄想上のものだとしても、緋桐は見逃さない。 「どうしたの? 厭らしい事でも考えた?」 「え!?」 「……やだなぁ、図星? オレ、『君』みたいなのに興味はないよ」 「失礼ね!?」 含みのある言い方をされ、カチンとくるたまに緋桐はさも当然でしょうという顔をした。 一方で、その言葉に引っ掛かりを感じた正治が首を傾げたが、緋桐は正治の様子を見て見ぬ振りをしてずんずん��活動写真館の中へと足を進めた。 「ちょ、ちょっと、緋桐さん? 話は終わってないっ!」 慌てて走り緋桐の許へと飛び込む。ぐん、とたまに腕を引かれれば、小さな緋桐の躰は簡単に傾ぐ。 頬を赤らめ、眉を寄せて抗議がましい顔をしたたまは「あのねえ」と緋桐に向き直る。 「確かに私、ちょっと体が弱くって内気ですけ……ん? 私、明るく元気な事がとりえで、��えと……」 「それ、誰の話?」 唇を尖らせ話して居たたまの足がぴたりと止まる。 緋桐の言葉に何故だか竦んでしまった。彼の煌めく金の瞳が濁って見える――まるで、血の色のような……その感覚にたまの背には何か嫌な気配が流れた。 ぞ、とした感覚を振り払う様に「やだなあ」と小さく笑う。 「たまちゃん?」 彼の声は、彼の瞳は全てを見透かすようだから――誰の話、それは、 明るく元気な事が取り柄で女学校は途中で行かなくなった……。 大好きな友達がいて、風鈴が……。 ちりん―― 「たま?」 訝しげに覗きこむ正治の顔が真っ正面にある。小さく首を振り、なんでもないのと囁いたたまの事を緋桐はじっと見つめていた。 胸の中を擽られる感覚がする。まるで見透かされているかのような瞳が――気持ち悪くて。 「緋桐さん……その目、止めて下さい。怖いんですけど」 「ああ、ごめん。つい」 見ちゃった、と初めて会った時と同じような人懐っこい子供のような笑みを浮かべる緋桐にたまは居心地の悪さを感じる。彼のその笑顔は嘘が塗り固められたものだと、何となくだが知ってしまったからだろうか。 「狐塚」と嗜める様に呼んだ正治は緋桐の代わりにすまないと小さく頭を下げる。 「あ、あの……正治さんのせいじゃないのよ」 髪飾りをくれて少しは見直したのに。ああやってすぐにからかうのだから――ひょっとして贈り物をしたはいいけれど、似合っていないとでも言いたいのかしら! (全く、失礼な人っ!) 頬を膨らませた少女はずんずんと活動写真館の中を進んでいく。 先ほどまでの恥じらいも何もかも忘れてしまったように彼女は苛立ったように場を踏み荒らす。緋桐なんて置いていくという様に進むたまに「たーまーちゃーん」と彼の声が聞こえた。 「転ぶよー」と続いた言葉の通り、ずる、とたまの足は縺れた。 「痛いっ! もうっ!!」 「がっ」 転んだ姿勢から勢いよく起き上った……ものの……今――? 緋桐の笑い声が聞え、慌てて振り返るたまの目の前では勢いよく後ろに倒れ込んでいる正治。もしかして、とたまの血の気が引いていく。転んだからと手を貸してくれようとしていたのに気付かずに勢いよく起き上がったせいで彼の顎へと攻撃を喰らわせてしまったのだろう。 そういえば、後頭部が痛い……。 「え、えっ!? 正治さん、大丈夫ですか!?」 「あ、ああ……石頭だな……」 褒められてるのかしらん、と微妙な気持ちになりながらたまは苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。 けらけらと笑う緋桐は怒ることも泣くこともできず曖昧な表情を見せる正治が面白いという様に両の手を叩き始める。 「も、もう、緋桐さんの笑い上戸!」 正治に手を差し伸べたまま、たまは頬を膨らませる。 「ご、ごめんね……面白いなあ……――とか言ってたら、おでましかな?」 涙を滲ませた金の瞳を揺らす緋桐はゆっくりと顔をあげる。暗がりの奥へと視線を向けた彼につられてたまと正治もそちらへ視線をむけた。 何かが、歩いてくる音がする。草履がぺたぺた地面を擦る音でなければブーツや靴底がぶつかる音でもない。それでも闇の中に目を凝らせば何か白いものが此方へ向かってくる事だけはわかる。 「……何……?」 身構えるたまの腕を掴み、庇う様に前へと出る正治。二人に走る緊張は緋桐の許にくる依頼が大概『オカシナモノ』だという共通認識があるからだろうか。 白い存在はどうやら思ったよりも小さい。人間ではなく、犬よりも小さな――動物だろうか。 奥から歩いてくる存在へと警戒心を露わにする正治の前をゆっくりと進む緋桐は肩を竦めて小さく笑った。 「うるさいのぉ」 聞こえた声は、老婆を思わせる。 「やあ、君は相変わらずだね? 元気だったかな?」 そこに居たのは、ずんぐりむっくりとした、白い猫だった。
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涼風に鳴る幽かの怪―弐
客間に誂えられた豪華な椅子は西洋の物なのだろうか。畳みの敷かれた六畳間の隣には本で見た事があるような『書斎』が広がっている。西洋机に、ふかふかとした布地を尻の位置へと宛がった椅子は何とも座り心地が良さそうだ。 招き入れられて、ふかふかとした長椅子へと腰掛けて待てと命じられたたまは首を捻る。西洋箪笥に手を駆けて、ティーカップへと静岡県産の日本茶を注いだ正治は我が物顔で椅子にふかぶかと腰掛け、たまへと一つ差し出して居る。 「あ、ど、どうも……」 着席したままで大げさに首を擡げたたまはその姿勢の侭、硬直する。正治は部屋の主へと声を掛ける素振りも見せない。ましてや、勝手に棚をあさり、高価な陶器で茶を入れてよこしたではないか。 (えええ……? 八月朔日さんってここのお抱えの方ではないのかしら……? てっきり軍人さんだもの――お抱えの用心棒かと思ったのだけれど、え、まさか、も、もしかして、彼が成金の息子さんだったりして、そうしたら私ったら、とんでもない無礼を働いたかもしれないわ!) 机の上の白磁を眺めながら袴を強く握りしめたたまに正治は頬を掻く。彼女の動きは『挙動不審』のぴったりと当てはまる行為そのものだ。うろうろと蠢く視線は西洋造りの屋敷をしっかりと捉え――不安に潤み始めている。 「八月朔日……さま」 「くく……っ」 涙が睫毛に引っ掛かってしまった、と。震えるたまがゆっくりと顔を上げる。誰も存在しなかった筈の書斎から幼い笑い声が聞こえたからだ。 「は」と小さく漏らしたたまに居てもたっても居られなかったのだろうか。椅子の背凭れ越しに吹きだす音とばんばんと椅子を蹴る音がする。 「狐塚」 「だ、だって……オレの事すっかり忘れて、恐縮しちゃっててさぁ……ふっ、ふふ――面白いなあ」 やれやれと肩を竦めた正治に「御無礼を」と慌てて立ち上がったたまが書斎机に向き直り頭を下げる。慌てた雰囲気に更に笑みを零したのか声の主は大きな椅子をぐるりと回転させて、「面白い!」と両の手を叩いて見せた。 西洋品の椅子は回るのかとたまが驚きに顔を上げる刹那、息を飲んだのは何も『見慣れぬ西洋品ばかりの空間』だからではない――椅子に腰かけていた少年は宵の月を思わせる鮮やかな髪をしていたからだ。 「西洋人……?」 「とんでもない。お嬢さん、『僕』は生まれも育ちも日本だよ」 「え?」 西洋人と恋に落ちた場合は血を分かつことがあると聞いた事がある――そういう『日系の方なのかしらん』とたまが小さく瞬けば、少年は可笑しそうにからからと笑って「珍しいかい」と丸い瞳を細めて見せた。 愛嬌のある顔立ちに緩く結んだ尻尾の様な髪が彼の華やかさを更に強めているのだろう。細められた眸もまた、鮮やかな月色だ。まるで、文学の中で語られる異国人の風貌にたまは頬を思わず赤らめた。 「――惚れない方がいいよ?」 冗句めかして、口元を緩める少年にたまの頬は更に赤らんでゆく。まるで薬缶のようだと頬を抑え俯いたたまの様子を見かねてか「狐塚」と叱咤の声が一つとんだ。 「なんだい? レディと遊ぶのだって嗜みの一つだと思うなぁ。ああ、それか――やきもち?」 なんてことを言う子供なのだろうか。 そう感じるのと同時に、正治ではなく彼がこの屋敷の主であり、たまの探し求めていた『道楽探偵』なのだと直感した。 「初めまして、たまちゃんだったかな? 『僕』は狐塚 緋桐。緋桐と呼んでくれると嬉しいな。 あんまり狐塚と呼ばれるのは――そうだな、好まなくて」 冗句めかして告げる少年に「え」とたまは小さく零す。あれほど親し気に呼び合っていたというのに、思えば正治は彼の事を「狐塚」と名字で呼び続けている。 「――……」 あまり仲が良くないのか。いや、それは屋敷での過ごし方ひとつで否定できる。高価な呈茶セットを我が物顔で使用しているのだ。しかも、無言で茶まで淹れている。 それならば、思い当たったのは緋桐が女性には浅薄であるという事柄だけだ。上流階級では妾の一人や二人存在するという。そんな両親を見て育ったのだとすれば、愛らしい少年のうちから女性に対して『妙に甘えた』なのは十分に理解できた。 「たまちゃん」 からからと笑い始める緋桐にはたまの考えることなどお見通しなのだろう。徐々に笑いは深まっていき――腹を抱えて嗤い始めた。 ――何も言っていないのに。 少女の胸中に浮かんだのはそれだけだった。見透かしたような態度も中々に癇に障るがそれ以上に、こうも笑われるとそれ程面白いことがあったのかと疑いたくもなる。何かおかしな仕草でもやっただろうか。 少し拗ねた雰囲気のたまは踵で毛足の長い絨毯をてしりと蹴ってティーカップへと視線を落とした。 「狐塚」と対照的に落ち着いていた正治が語調を強める。 「あまりからかってやるな。だから狐と言われるのだ」 「失礼だなあ。オレは狐はキツネでももっと崇高なお狐様だよ」 それは、彼が嘘吐きだとでもいうのだろうか。 化かされた気分になりながらたまは「狐みたいだわ」とぼやいた。金の髪に宝石の如き瞳色――そ���は寓話の中の狐を思わせた。悪い冗談でも笑って受け流せる関係性なのだろうか、それにしても正治の言葉は厳しい色を感じさせる。仲が悪いというわけではないのだろうが、良い訳でもないのかとたまは二人の関係性が理解できないと困ったよう首を傾げた。 「レディがお困りだよ」 椅子に深く腰掛け足をぶらりとさせた緋桐が正治に視線を向け冗談のように「どうにかしなよ」とけしかけている。 「……」 「冷たいなあ……。それで、たまちゃん。『僕』に何の御用かな? 幽霊でも出た?」 ――無視されている。 しかも、こちらの目的を『理解して』会話に織り交ぜてきた。 「え、なんで分かるんですか? まさか、聞いてた?」 扉は確かに閉まっていたのにと呟くたまに緋桐は曖昧に濁して笑い「話してたじゃないか」と付け加えた。 聞いていたのならば話は早い。眉間にし皺寄せあからさまな程に嫌悪感を示した正治とは対照的に瞳を煌めかせたたまは緋桐が『道楽で幽霊退治』をしてくれるのではと期待に胸躍らせる。費用の事は脳内から抜け落ちて、幽霊退治と言う面白おかしい事件への参入を進める様に「じゃあ」と唇を歓喜に震わせる。 「本当に祓っちゃてもいいのかな?」 子供の様な無垢な表情で緋桐は首を傾ぐ。 目を丸くしたのはたまも正治も同じことだった。 「狐塚、こいつは『幽霊退治』を依頼しに、」 「正治は黙って。オレはね、たまちゃんと話してるんだよ? 君はまじめだからオレの言うことが理解できないのかもしれないけれどさ――こういう時、オレは冗談なんか言わないじゃないか」 饒舌に正治を説き伏せる緋桐は、先ほどまでの甘えたの子供のような表情から一転し、苛立ちを見せる。鮮やかな金の色は細められ正治を捉えている。 「それで、たまちゃん? 『本当に祓っていいの』? だって、その幽霊ってさ――いやぁ、これは、まあ、いいかな。からかってるわけじゃあないよ。正治がどう言おうともね。オレはオレの考えで動くから」 意味ありげに呟く彼は「それで幽霊ってモノを君たちは信じているかい?」と頬杖をついたままに投げかけた。 「わ、私は信じて――」 「俺は信じていない」 身を乗り出したたまの隣でため息交じりに言った正治は詰まらないと小さく息を吐く。その対照的な反応に、緋桐は愉快だとくすくすと笑い整ったかんばせを『いじわる』に歪めた。 「正治、オレの存在も否定するみたいだね? 有名な怪談噺や河童などの妖怪の類でもいい。あるいは中国に存在する麒麟や神の類だってかまわない。目に見えないものを信仰することと、目に見えない存在を認識することに全く違いはないよ」 机の上でゆらりと揺れたティーカップの中身。その鮮やかな琥珀の色は甘ったるい香りを放っている。 せっかくの紅茶が覚めてしまったことにも構わずに、楽し気に目を細める緋桐は顔を背け、会話を拒絶するように背を向けた正治を眺めている。 「あの、緋桐さん」 その空気は重苦しい。僅かに声を震わせ、首を傾いだたまは緋桐と正治の間に割って入る様に立ち、椅子に深く腰掛けた少年の顔をまじまじと眺める。 「『オレの存在』って……?」 その言葉はまるで――まるで、自分が妖怪や幽霊の類だというようではないか。 「目敏い女の子は嫌いじゃないよ」 「じゃあ、やっぱり、緋桐さんはよ、妖怪? 河童?」 話の中に出てきたのは河童だけだった。 何処か意味ありげに深い笑みを湛えていた緋桐の肘がずるりとひじ掛けから落ちる。眉間に皺寄せた正治の表情は拍子抜けしたように緩み、深いため息に似た何物かを吐き出した。 「莫迦か」 え、と瞬くたまの声と同時に、椅子から滑り落ちる様に膝から崩れ落ち、クッションに頬を預けたまま愉快愉快と転げ笑う緋桐がばしばしと床を蹴る。 子供の様な仕草と大笑いに圧倒されながらもたまは訳が分からないと困った様に眉根を寄せた。 「え、え?」 「た、たまちゃんさァ、『僕の名前』を呼んでみて?」 「え、と、狐塚 緋桐さん?」 いまだに笑いを含めた緋桐の表情が僅かに緩む。彼の瞳から零れた金の光は笑顔の反動で滲んだ涙で輝いて見える。 名前を呼べと強請られた理由も分からぬままに彼の瞳をきれいだと見つめたたまを現実に引き戻したのは、この中で最も落ち着いてた正治の声だった。 「狐塚、お前は見知らぬ女に素性を言うのか」 責め立てるような声に、時勢はこうも落ち着いて安寧なる平和が横たわっているというのに、どうして怯えるのかとたまはを丸くする。やはり三十も近い青年将校が言う言葉なのだから、西洋人形のように整った外見の緋桐の素性は世間に知らしめてはならないことなのだろう。 「狐塚さん、大人の言うことは聞いた方がいいですよ」 「お、大人……?」 「そうです! 15も過ぎぬ小娘の私や狐塚さんじゃ世界の危険や子供を狙った悪党の話なんて御伽噺みたいなものですもん!」 ね、と念を押す様に緋桐へと告げるたまに彼の表情はみるみるうちに赤らみ――またも、笑みが弾けた。 次はクッションすらもばしばしと殴りつける時間だった。ひい、ひい、と声を漏らし、過呼吸を起こしたかのように大袈裟な息を続ける緋桐はたまの疑問や声も聞こえてはいない。 「わ、私、何かおかしなことを……?」 正治さん、と呼ぶ相手も落胆したように肩を落としている。何かまずいことを言ったのかと慌てたたまは二人の間で視線をうろつかせた。 「い、いやぁ……正治……お、お前、よ、よかったなぁ……」 ばしばしと机を叩く緋桐。何が一体こんなにも面白いのか。愉快愉快と笑い転げる少年の笑いのツボが可笑しいのか、それとも自分が奇天烈な事を言っているのかたまには皆目見当もつかないが――正治の落胆ぶりからみるに後者であるようにしか思えない。 「すまないが、驚かないで聞いてくれるか」 「え、ええ……」 「俺は23歳だ」 彼の表情を盗み見る様に視線をあちらこちらに揺れ動かして。こんなに真面目そうな青年が嘘を吐く訳ない、と頭の中では独白が続いている。笑い過ぎの呼吸困難でもはや動くこともできなくなった緋桐を見る位に、事実であることは確かなようで……。 「え?」 「そりゃあ、驚くでしょ。ひひっ……くっ……」 転げ回って腹痛を堪え切れないと言わんばかりの緋桐。 申し訳ないという様に頭を垂れた正治も報われない。寧ろ、年齢を大幅に間違えたたま自身も居心地の悪さに襲われる。 「……すまない、昔からこの様な出で立ちなんだ」 「いえ、いいのよ、いいのだけど……」 ――ああ、こんな空気になるなら彼に余計なことを言わなければ良かった。 たまは、出会ったばかりの道楽探偵に忠告を行ったことをこれ程までに悔いたことはない。 適当に、曖昧に、『学生時代のように』笑顔で凪いでいればそれでよかった筈なのに。 「たまちゃん、ごめんね。面白くって……」 くい、と袖を引く緋桐は帰らないでねと念押すようにこちらに近寄り見上げてくる。幼い子供のような顔立ちに、金の瞳がちらりと鮮やかで。思わず息を飲んだたまは曖昧に笑って彼へと大丈夫だと告げた。 「ついでだが、狐塚は―――」 「僕は、たまちゃんと同い年のかわいい男の子だからぁ」 甘えた様に言う彼に、苛立ちを抑えきれないと正治が立ち上がる。傍らに据え置いた日本刀を握りしめる彼を諫め乍らたまはちらりと『同い年であるはずの少年』を見つめた。 「しょうがないなあ。知りたがりさん」 改めて椅子へと座りなおした緋桐はやけに大人びた顔をしてたまと正治を見つめる。 「僕は今年で28になったよ」 よろしくね、と首を傾げ、持ち前の愛らしさを前面に出す笑顔。息を飲み、正治の腕を幾度も叩きながら彼と緋桐を見つめるたまは絶叫しかかった言葉を飲み込んで、「え」だとか「う」だとかを幾度も繰り返す事となった。 「んふふ」 詐欺師がいるとしたらきっと彼のような存在だ。 最近は巷でも詐欺や窃盗が横柄しているという。取り締まる軍警も西洋街ではあまり役に立っていない――と言う話も耳にする。こうして道楽で探偵をしているという彼は有能な詐欺師なのでは……? 脳裏に浮かんだ『ありえない』物語を組み立てるたまの表情に緋桐はくすくすと楽しげに笑った。 「まあ、実年齢がバレた以上、僕とか言ってる場合じゃないよね。 改めてオレは狐塚 緋桐。たまちゃんはキツネに化かされたって気分だよね? ま、それも正解っちゃ正解だから……可愛い男の子じゃなくてごめんね?」 僕と言う口調に、子供のように袖を引く仕草。そのすべてを計算ずくでやっていたというのだから有能な詐欺師だ。 まさしく『狐に化かされた』という言葉が似合う。 冗談は休み休みに、とぼやくたまに緋桐は「冗談じゃないさ」と正治を振り仰いだ。 「狐塚は今は嘘をついていないな」 「ええ……?」 狐に化かされたことが――正解? 「オレは普通の人間じゃあない。 妖狐のクオーター。妖怪の血も随分と薄れてはいるんだけどね、髪と瞳……それから外見にだって現れているだろ?」 どうだい、と微笑む彼は西洋の人形の様で。 ここまで美しい金はそうそうお目にはかかれないと彼は言った。鮮やかな金、お月様の様な色――それに魅せられるようにたまはじつと見返した。 「きれいだけれど」 奇天烈愉快な道楽探偵。一寸した設定を隠し味にした方が世界は楽しいとでも言うように、彼はころころと笑う。 「信じられないなら、一緒に過ごして信用してよ。 君がオレ達に持ってきた『依頼』だって、他の人間に言ったところで意味がない――それ所か、君はオレ達以外に依頼をすることが出来ない筈なんだ」 「それは、どういう……?」 饒舌に依頼をすることを進める緋桐にたまは首を傾ぐ。彼の言葉は余りに突拍子もなくて、あまりに理解不能で、あまりにも――納得してしまったからだ。 「試してみるかい?」 どうせ、だれにも相手にされない気がしてならない。 けれど、試してればいいと言われるような気がして、たまはゆっくりと緋桐の屋敷を後にした。 帝都の街は、様々な要素が混在している。西洋の雰囲気を多分に含んでいるのは���時代柄と言う事もあるのだろうが、たまは余り慣れないと背を伸ばす。 元から、女学校と家を往復するだけだった学生生活だ。こうして、街中を行くのはどうにも生きた心地がしない。 (……依頼をすれば、いいのよね?) 西洋街の中には紳士淑女が歩き回っている。先程の緋桐が洋装であったように、周囲にいるのは皆、西洋の衣服を身に纏った西洋人ばかりだ。和装でこうして歩き回るには余りに不似合な気がして、頬に朱が登る。 (あの言葉に乗らなければよかったわ……) ブーツが石畳に音たてる。舞い上がる砂埃を払いながら進めば、緋桐の邸宅よりもよっぽど『探偵』らしい事務所看板を発見した。ノックを何度か、ゆっくりと繰り返してたまは小さく息を吐く。 「あの、すみません」 ゆっくりと扉を開くのを待てば、紳士然とした男は周囲を見回してから首を傾いだ。 「あれ? 今、確かにノックが……」 男性の視界に自分が入らないわけではない、なのに見えていないかのように彼は振る舞っていた。 「……え?」 たまが「あの」と小さく声を発するのも待たずに扉はぱたりと閉められる。これが相手にされないという事か――所詮は西洋街に住まう事も出来ない庶民だと言われた気がしてたまは唇をきゅ、と噛みしめた。 「ひどい話だよね、全く」 「……緋桐さん?」 どうして、と呟けば背後に立っていた緋桐は丸い金の瞳を細める。三日月が、その中で揺れている。 「『相手にされなかった』でしょ」 ゆっくりと、狐は嗤う。 まるで、見えていないかのような――そんな。 手招かれ、ようやく陽が沈み始め街灯の明かりが足元を照らし始めた事に気づいた。 「オレはそれなりに高いよ。でも、君がオレ達と一緒にこの事件を解決するというならタダにしてあげてもいい」 差し伸ばされた掌の白さに目が眩む。 関わらない方がいいと正治が言っていた――きっと、化かされているんだわ、私。 そう思えどゆっくりと彼へと近づく自分にたまは気付いた。かつ、と小石を蹴り飛ばせど現実世界である証左を得られるだけで。どうしてか、自分を認識してくれるのは彼だけのように思えてしまった。 「でも、緋桐さんは祈祷師でも陰陽師でもないでしょう? ……わたしのことをだましているわけでは、」 「そんなことはないよ。元気で明るくて、だれよりも一生懸命な『たまちゃん』」 柔らかに微笑んだ彼の指先は夏の終わりだというのに、冷たかった。
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涼風に鳴る幽かの怪―壱
リン―― 鈴の音が聞こえる。何処からだろう……。鈴なんて、この部屋には無かった筈なのに。見慣れぬ嫁入り道具に、着古した袴が何処か懐かしさを感じさせた。 「――ま、ちゃん……」 ……何て? 「た――ちゃん……」 どこかで。 「たま、ちゃん……」 「――え?」 私を、呼んだのは、誰。 薄らと開いた視界の向こうには見慣れぬ明るい朝の景色が広がっている。滲み一つない天井に、ふかふかとした布団が自分の身体を護る母体の様に感じて違和が胸を過ぎる。 いや、違う。これは何時もと変わりない『朝』の筈なのだ。 使い古した枕に頭を埋め、畳みの目を眺め数える。嗅ぎ慣れた香りが心を落ち着かせる。妙に懐かしさを感じる夢が、頭の中を渦巻いていた。 ……何の夢だったのだろうか。あれは、何処かで体験した事のあるような――何処かで聞いた事がある声だったのだろうか。 たまちゃんと、そう呼んでいた名前には覚えがある。 覚えが――ある……? 小さな欠伸を漏らしながら小鳥の囀りを茫と聞き続ける。 水を掛けられたかのような感覚ですくりと起きあがった『たま子』は「懐かしいわ」とぽつりと呟いた。 長い髪を結わえながら、布団の上から立ち上がった彼女は纏わり付いた寝間着をさっと脱ぐ。何時までもこの格好では義母が頭ごなしに叱る事を彼女はよく理解していたからだ。 「もう朝ですね、起きてらっしゃる?」 はぁい、と間延びする声を返して彼女は朝餉の用意の為に板張りの廊下を走る。義母の事など、どうでも良いがたま子にとっては腹を空かせた愛おしい旦那様の方が一大事なのだから。 年若くして良縁に恵まれ嫁いだ彼女は頬をぺちんと叩く。やる気を漲らせる様に淑女にはあるまじき「よしっ」と発した声は若草香る女学校の頃に教師達に叱られた仕草だが、嫁いだ後も抜ける事が無い。 「たま子さん!」 叱るような声に慌てて走る『たま子』は小さな息を付いた。 毎日は代わり映えしない。 数年前にはお上の神人なる方が死去し、『明治』から『大正』に改められた年号が何処かくすぐったい。年号が変わると言うのは重大な動乱だ。その波に乗じてか世間では様々な革命や騒動が起こっている。それでも安寧なる生活が送れるのは女学校で習った内閣制度や政治制度を制定した英雄達のお陰であろうか。もしも、英雄たちがいなければたま子だって今の旦那様とは出会えていなかった――かもしれないのだから。 浪漫を語るのは女学生ならばお手のもの。それこそ殿方に見初められる経験をしたならば、それに拍車がかかるのも仕方がないというものだ。 「ふふん」 鼻を鳴らし誰へとでもなく勝ち誇ったたま子は朝餉の用意を中途半端に済ませた義母へ何と声を掛けようかと考えながらゆっくりと廊下を進む。 ちりん―― 『また』だ、と。感じたのは夢の中でも聞いた音だったから。 懐かしい夢だ。旦那様に見初められ、女学校を去る際に、親友に手渡した風鈴。そして、その会話。 嫁入り後に幾度か交わした手紙も何時しか途絶えてしまった。人の記憶が箪笥に例えられるならその奥深くに仕舞いこんでいた思い出とでも言えば随分とを感じられる。 「八重ちゃん……」 鈴の音は、その名前は、懐かしい音色を孕んでいる。 訝しげな表情を浮かべながら洗い場へと降りて行くたま子の背に彼女の『旦那様』は「いかがなすった」と可笑しそうに笑ってみせた。 珍しく朝寝坊をした嫁が訝しげな表情をしているのだから、気にも止めるというものだ。からからと笑う旦那君にたま子はむっと唇を尖らせて「あのねえ」と振り仰いだ。 「鈴の音が聞こえるのですわ」 「鈴? 風鈴などないけれどね」 首を傾げる彼へとたま子は小さく頷く。 また可笑しな事を言って気を引いたと笑う旦那君にたま子は拗ねた様な顔をして背を向ける。 たま子は勝気で明るい娘だ。成金の娘や財閥の令嬢と違い、脊髄反射で動き考える少女だったのだから、旦那君が可笑しなことを言うのは気を引く為だと笑うのだって致し方が無い。 「酷い御方ですこと」 「母さんが居るからと、そう肩肘を張らないでおくれよ、たま。そんな気難しい顔をして、鈴の音が聞こえただなんて……夢の続きを見ている様な顔をしているよ」 肩を竦め、御名答ですことと小さく返す彼女に旦那君はからからと更に笑った。年の数は幾分か離れている。だからこそ、幼さを感じさせるたま子の仕草を旦那君は気に入っていたし、旦那君は童話を語る嫁が己との対話の為に作り話をしていると考えたのだろう。 「夢で見たのです。嘘ではないですよ」 「嘘でないと」 はて、と首を傾げる彼へと記憶をなぞる様にたま子は語る。 嫁入り前に親友とした会話がありありと思い出される。 あの時、彼女に手渡したのは――鈴だったのではないだろうか。己の後ろに何時も隠れていた可愛い小さな『八重ちゃん』。病がちで女学校を休んでいた彼女の健康を祈って手渡した風鈴の音に似ている気がする。そう言えば、彼女は―― 「……悪い夢ですこと」 ふるりと首を振ったたま子に青年は「そうかね」と椅子へどかりと腰掛けて興味深そうに呟いた。 たま子の思い出は何処までも美しいものだった。 『たまちゃん』 結った髪が風に揺れている。秘密の場所と咳込む彼女の手を引いて、二人きりの場所へと走って行った。 『ねえ、たまちゃん』 記憶を辿って、たま子は静かに眸を伏せる。 風鈴。そんな季節になったのだろうか――夏の気配を存分に孕んだ空を見上げてたま子は小さな溜め息を付く。 風鈴……。軒先に風鈴を飾る家は少なくない。この家には飾って居ないはずなのに、どうしてこうも近く聞こえるのだろうか……――。 ちりん―― (風鈴ね、きっと――……) ふる、と首を振る。違和感が首を擡げたまま存在している事に『脊髄反射』で動く彼女はどうしても抑えられぬ衝動を我慢する様にうずうずと身体を動かした。 あの時、彼女と話した内容はよくよく覚えている。 白い肌に、良く映える臙脂色の召し物は結婚式には伺えないからとわざわざ誂えたものを着てきたのだと言っていた。 秘密の場所で、向かい合って二人きり。臙脂色に包まれた彼女は何処までも高尚な存在に見えて――眩しかった。 『結婚するのよ』 ゆっくりと、その言葉を彼女へと告げた。 知っていますと頷く友人は切なげに笑って手にした花束を差し出してきた。両の掌に抱えきれない大輪は百合の花――令嬢が選んだ一番に愛おしい華なのだという。 『たまちゃん……』 呼び声に、小さな咳と瞬きが今も鼓膜や網膜に張り付いている。頬に張り付いた髪に、涙の意味が分からなくてたま子は小さく首を振った。一緒に居られないと手を伸ばし、抱きしめた華奢な身体は微かに震えていた事を覚えている。 『たまちゃん、幸せになってね』 『ええ。わたし、幸せになる為に結婚するのよ』 きっと、彼女は幸せになれない―― 心のどこかで知っていたのかもしれない。老い先短い彼女と共に在る己に優越感を感じていたのかもしれないし、その短い生で誰かを思いやる彼女の高尚さにお得意の浪漫を感じていたのかもしれない。 『わたし――……たまちゃんみたいになりたかった』 八重ちゃん、と唇の端から漏れだした声に旦那様は首を傾げる。そうだ、八重子ちゃん。彼女は今、どうしているだろうか。 ゆっくりと炊事場から歩きだし、玄関先へと歩を向ける。 電報を実家に飛ばせば彼女の事は解るだろうか。 八重ちゃん。八重ちゃん――かわいい、私の親友。 ちりん―――― 「そうだわ、風鈴……わたし、お渡ししたの」 「たま子?」 背に走った寒気にたま子は大げさな程に身震いを一つ。気付いてはいけない事に気付いたと顔を覆った。血の気が引いて行く感覚に、ふらつく足が縺れて畳みへとへたり込む。 「大丈夫かい?」 「風鈴、風鈴だわ! きっと、そうよ。そう違いないわ」 玄関先へ向かう足は震えて立てやしない。彼女の言葉に首を傾げた旦那君は「幽霊でも出たのかい」と冗句のように投げかけた。丑三つ時ですらない、ましてや早朝のこんな時間に幽霊などと余りに可笑しな話ではないか。 「冗談はお止しになって」と小さく笑ったたま子の胸に感じた妙な違和は『八重ちゃん』のその後を嫌な程に連想させた。旦那様は冗句の心算で発したのかもしれない。 死を想起させた病に罹った親友が生きているという証左もない――『風鈴』『幽霊』 もしかして……。 「ふふ、幽霊かしら? 風鈴のお化けなんて風流ね。貴方が怖がらせるからつい足が縺れてしまったわ」 「ああ、きみはそんなに怖がりだったかな? 虫だって平気で殺せてしまうだろうに」 小さく笑った旦那様にほっと胸を撫で降ろしてたま子は午後の予定を考えた。確かめよう。彼女の事を。 ちりん、と聞こえたその音色の意味を。彼女は、今―― 蝉の鳴き声が煩わしい。暦を数えて春を終えて、夏へと変化する頃に、怪談話はいくつも増えてくる。居間からは幽霊の話を交わす男女の楽し気な声が聞こえてきた。 買い出しに言ってくると告げた言葉に返事はなかったが、彼女は気にするそぶりもなく玄関へと足を向ける。 残暑だというのに求愛を口にする蝉たちのせいで耳から暑さが倍増されていく。開け放った玄関の向こう側は青々と茂った葉が妙に鬱蒼として見えた。 「お化けなんて家に居て堪るものですか」 拗ねた様に呟く彼女は玄関先の下駄に目もくれず洋物のブーツへと足を通す。履き潰すと決めていたのに、まだ使えるのだから英国からの流通品は中々に勝手が良い。慣れない紐を縛って、小さく頷く彼女は結わえた髪を確かめてから「よしっ」と気合を込めた。 「直らないものね」 先生から言われても、と付け加えたのは口癖の様になった『よし』の気合の入れ方。 幽霊が居るから陰陽師を呼びましょうと絵巻物で読んだ嘘に頼るのも、性質の悪い除霊師に頼むのも莫迦らしい。 そもそも、彼らに依頼するのは大金を叩いて自己満足を満たすだけではないだろうか。解っているのだ。記憶の中にあるその姿が、『幽霊』の正体だと――その正体を知っていて、知らない振りをしているのだから。 だから、彼女は『風鈴の幽霊』とそれを呼んだ。 ちりん―― 聞こえるその音に「いやね」ともごもごと口の中で呟いた彼女の視線はぴたりと柱へと向けられる。空き家になった軒に張り付けられた古びた紙切れは幼い子供の悪戯にも見えた。 「西洋インクだわ……」 何処かの商家の坊ちゃんの落書きであろうか。 滲んだ文字が読み取り辛いが、愛らしさも感じる文字の一つ一つを読み取ることが出来る気がする。じつと目を凝らした彼女はその文字を口にしながらゆっくりと読み上げた。 『ゴイライ オウケシマス ネコサガシ カラ ユウレイタイジ マデ』 なんともまあ、胡散臭い広告だ。 訝しげな表情で広告から目を離さない彼女の背後で女学生たちがくすくすとささめきあって笑っている。 「探偵様の広告はまだ張ってありますのね」 「本当。御依頼あるのかしらん」 巷では話題になるのだろうか。暇潰しや話題に作りには丁度良いのかもしれない――こんな西洋の高価なモノを使用した悪戯などそうそうお目に書かれない。 しかし『探偵様』。高価な紙にこの様に書いて帝都に張り巡らせるだけの財力があるならば、相当に頼りがいがあるのではないだろうか。もしくは、成金の道楽か。 女学生の噂の的となる位に胡散臭いのならば昼下がりの暇潰し程度でも良い。『お暇な探偵様』ならば困り顔で少女が尋ねれば相談位には乗ってくれるだろう。もしも凄腕であれど、仕事に困っていれば格安で引き受けてくれる可能性だってある……。 何より、探偵が幽霊退治をすると明言しているのだ。 霊能力者でもないくせに、ともごもごと呟きながら彼女は広告を剥ぎ取り描かれた住所と地図を辿り往く。 和洋の入り交じった街の中は、見慣れぬ物も沢山あった。 日本も随分と侵食されたものだと父達は口々に言っていたなと薄く記憶に残っている。馬車が走り、汽車が往く。三越にぞろりと集まる人波に目もくれず――否、誰の目にも止まらず、彼女は人気のない西��の住宅の並ぶ丁番を目指した。 急ぎ足なブーツの踵を行き交う人の群れに取られてごろん、と大きく転ぶ。鼻先を擦り、肘に出来た傷口に痛いと不平を述べる彼女へと差し伸ばされる手は無い。知らん顔で歩く紳士に「酷い方」と彼女は悪態をつきながら立ち上がる彼女に帝都の風は冷たい。 よく、帝都は様変わりしたと言う人が居る。西洋の人間は和の心を持たず、素知らぬ女が転んだ所で助けることもないのだろう。これが、『帝都が様変わりした』『冷たい』とでも言うことなのだろうか。 文句を漏らしながらもゆっくりと立ち上がり、身震いを一つしながら足を向けたのは煉瓦に覆われた西洋街。帝都の街並みなんかより、もっと豪奢なその群れは、異国の情景の様だと彼女は息を飲んだ。 「……違う国の様だわ」 余りに見慣れぬ『帝都』 田舎町とは違い、明治期に完成した日本鉄道の巨大な駅。皇居の正面に出来上がった東京駅はとても美しい建築美だ。西洋の煉瓦作りの住居と比べ、祖国はまだまだ土と木で出来た『おんぼろ』ばかり。戯洋風建築だとか女学校では言っていた気がする――が、そんなこと忘れてしまった。 「凄い、おうちだわ……」 詳しい事までは知らないし、学問など軒並み役に立たないが、これはまるで西洋の強国へと紛れこんでしまったみたいではなかろうか。一度、紳士が講師としてやって来た時に、「英国の建築は実に素晴らしい」と褒め称えていた気がする。 素晴らしいの言葉に尽きるが、純和風の国で育った彼女にとって、この場所は居心地が悪い。 煉瓦の『西洋街』をそろりそろりと抜ける彼女は広告の地図を幾度も見直した。帝都の外れの空き家の軒先へと広告を張り付ける『なんとも奇天烈愉快な胡散臭い探偵』のイメージと掛け離れた豪華絢爛な街並みは庶民にとっては政府のお役人たちでなければそうそう足を踏み入れない場所でしかない。 「こういうの、横濱や長崎にあると聞いた事があるわ……」 ぶつぶつと呟きながら、彼女はゆっくりと地図から手を離す。そうだ、きっとこの洋館の群れを抜けた先に郊外の寂れたお屋敷がある筈だ。そうして、そこで探偵がボロを纏って待って――待っては、いない。 「……嗚呼」 思わず一歩、後ずさった。 これでは『道楽探偵』だろう。格段の安さで受けて貰うなんて夢のまた夢。成金か財閥の坊ちゃまや嬢が道楽の為に、適当に張った広告だったのだろう。 『脊髄反射で動くのはやめなさい』とはよく言ったものだ。 まさしくその通り――ここで幽霊退治など……。 「……貴殿、何を突っ立っている」 「は、はひっ」 眩暈を起こし、ぐらぐらと揺れた彼女の肩を『がしり』と掴んだ大きな掌は、少女を混乱させるに容易かった。 まるでの様に首を動かして振りむいた彼女を見下ろした青年は「何をしていると聞いた」と無愛想な表情で苛立ちと露わにしている。 齢にして三十が近いだろうか。ぴしりと襟を締めた陸軍の軍服は見慣れぬもので。日ノ本で神人へと誓いを立てた軍人様の問い掛けに少女は首をふるふると幾度も振った。 怯え、答える事の出来ぬ様子の少女にどうしたものかと青年将校は頬を掻く。短くしっかりとっと尾の得られた黒髪から彼の誠実さを伺えるが――そう言ってはいられない。西洋街に出入りすると言う事は、ここは何処かの『要人』の家なのだろう。そして、彼はそれを護る守衛とでも言った所か。 「……あ、あの……」 ぽつり、と零した言葉に耳を傾ける様に青年は「ふん」と小さく呟く。 「わ、私……広告を、見て、えっと」 「広告? ああ……狐塚の奴、広告を張ったのか」 『狐塚』 聞き慣れない言葉に首を傾げた少女へと青年将校はどうしたものとかと首を捻る。先程まで感じさせていた威圧感は何処か遠くへ飛んで行ってしまったかのように――幼い子供が悪戯を失敗したかのような表情を見せている。 「あ、あの」 ぽそりと呟く様に声をかけた彼女へと青年将校は鋭い眼光で射ぬく様に視線を動かして「なんだ」と口の中で言った。 正しく言えば『もごもご』と呟いた――のだろう。 軍人にしては可笑しな素振りだと茫と考える。そもそも、彼女は女学生の様な幼い風貌をしているのだ。そんな彼女に遠慮の一つをして見せる等、軍人としてあるまじき態度ではなかろうか。 (軍人さんというのは、案外お優しいものね……) 彼の顔をまじまじと見つめれば、鋭い眼光は煩わしいと言わんばかりにぎょろぎょろと動いている。 「なんだ、と聞いた」 「ん、ええと、い、依頼が――あの、依頼がしたくって……」 依頼、と。 ��の響きを幾度も繰り返す青年将校に少女は怯えきった表情で「だ、だめですか」と小さく呟く。 胸中では広告を出しておいてと憤って居ても、相手は武具を持った軍人だ。余りに勝手なことは出来ない。 「名前は」 「え、た、たま」 「では、たま。どんな依頼に来たんだ」 青年将校の態度は一貫して冷たい物だ。『たま』は要人護衛の任に就いた彼が曲者であるかを判断すべく質問しているのだと勝手な認識をしていた。 そう認識してしまう程の豪邸なのだ。財閥や成金、華族の住居だと言われても納得してしまうし、それこそ政府の要人の別宅だと言われても頷ける。 ああ、来なければ良かったと彼女の胸の中を駆け巡る後悔の念など知らずに青年将校は依頼の内容を教えろと苛立った様子でたまを見下ろしているではないか。 「う、あの、幽霊が……幽霊退治をしてくださると聞いて、お、お願いに来たの、です」 風鈴の幽霊――到底信じては貰えない事だろう。 幽霊を退治すると広告に書いてあるから来たと付け加えて視線をあちらこちらへと揺れ動かしたたまは青年将校の困り顔に肩を竦める。 「幽霊退治……ね。ああ、喜びそうな話だが――止めておいた方がいい。ここの主は、」 関わらない方がいい、と。 青年将校が告げた声に子供の明るい声音が被さった。 「お客さんなのかい?」 先程まで閉じられていた屋敷の扉が僅かに開いている。声の主は部屋の奥へと引っ込んでしまったのだろうか。その姿や影は無い。 頭を抱えた青年将校は「たま」と立ち竦んだ少女を手招いて扉へと手を掛けた。彼の困り顔は本当に情けなさを感じさせるものだ。まるで子供に手を焼いている様な――そんな、青年将校らしからぬ表情をして。 「どうやら狐塚はお前に興味を持った様だ。……どうなっても知らんがな」 狐塚と言うのは先程の声の主のことなのだろうか。 声からして年の頃はまだ若い。それこそ学生だと言われても納得してしまいそうな、柔らかな童の声。大層な悪戯っ子なのか、それとも手もつけられない財閥の坊ちゃまなのか――どちらにせよ、たまにとって『不運』であることには違いないと青年将校は念を押す様に付け加える。 「あ、え、」 「入れ。元より、招かれなくとも入るつもりだったろう」 「あ――……はい。あの、お、お名前は」 「ああ、俺は八月朔日 正治。 それでこの屋敷の主人は狐塚――狐塚 緋桐。 これは経験則から物を言うのだが、最初に忠告しておく。 あいつに関わると碌な事が無いからな。……まあ、もう遅いんだろうが」
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涼風に鳴る幽かの怪―序
「やあ、君も災難だったね」 冗句めかして言うものだから、が悪い。 幼さを滲ませた愛らしさはどんな悪女であれ騙せてしまいそうな柔和さを感じさせる。それ故に、こういう言葉が似合うのだ――『性質が悪い』のだ、と。 素敵なお方ですねと言う女の気も知れぬ。こんな狡猾な存在の何処を評価できると言うのであろうか。優しい顔をして、平気で死体を蹴るような存在だ。その微笑みに惑わされて、ついて行けば狐に抓まれた様な気持ちを味わえよう。そう、奴は狐なのだ。 「いいや、狐に小豆飯とか言ってくれた方が僕の神聖さも感じられるだろうに。それに、君はよぉく知っているだろうにさ。狐につままれた――じゃなくって、狐なんだよ、って」 逐一、人の神経を逆なでする男だ。 口癖は「君も災難だったね」 こいつが外見通りの『可愛らしい少年』であったはずならば、子供の戯言に惑わされる帝国軍人の恥だと嘲笑われる事だろう。無論、周囲の同僚からはそう見られている事は重々に承知だ。異国の子供に玩具が如く扱いを受ける学徒。由緒正しき武士の子。 童に遊ばれる等と、莫迦にされずいれるのは彼の外見が異国の子と一括りには出来ないものであるからだ。宵の月を思わせる眸が爛々と笑っている。異人の子の如き髪色も、鈍色に輝いている。 彼は、異形なのであろうと人々は噂した。否定も肯定もしない。奴は人間であり――妖なのだ。 冗句ではなく、これは俺の経験則でいうことだが。 ――狐塚 緋桐。職業は『道楽』探偵。 これは俺の経験則だ。 彼には近付かぬ方がいい
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