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iwanakutemo · 2 months
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ひとりで弾き語った
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7月19日、一年以上ぶりに弾き語りをした。GROWLYのみんなに聴いてもらうのもものすごく緊張したし、人もたくさんいたから開場ギリギリまで動悸が止まらなかった。緊張を解くためお酒に頼ってしまい、本番では耳が鈍くなり焦った。でも終わったあと、良かったと言ってもらえたことが嬉しかった。
以下、今までで出演した弾き語りのイベント。パトリシア単体は夏にしかやらないらしい。
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曲はかいていないです
自身、the loquiseaとYear After Yearでギターを弾かせてもらってるうえに歌まで歌わせてもらってる。でも、実は私は一切、曲をかいていない。
the loquiseaでは、ドラムの凜くんと、ギターの眠気くんが曲を作っています。私は凜くんみたいに、癖になる曲はかけない。眠気くんみたいに、繊細で美しい音と歌詞は表現できない。
Year After Yearでは、からかわひかりがメンバーを導かせてくれるほどの、自分という強い個性を持った曲から進めています。歌詞と曲構成にすごくこだわりあって、私には到底できない。
19日はバンドの曲を歌った。でも、よくよく考えたら、「これってコピーじゃない?」って。
7月19日セットリスト、
Soil and Sea / the loquisea
ひらく夏 /からかわひかり(Year After Year、知らないひと)
おやすみ /パトリシア
うねり /the loquisea(あぶく宇宙)
はずむ /パトリシア
じぶんの曲も、やっと入れてみた。初めて弾き語りをした2020年はもっとあったと思う。
最後に歌った"はずむ"は、今年の春終わりに完成した。完成できたことに感動して最後にしちゃった。作っているとき、歌って練習するとき、脳内イメージでは自分はかっこよく歌えて、完璧に場を盛り上げている妄想をしてしまうよね。ただね、後から動画を見返したら、幻滅しちゃうときが大概だ。
でも、この日は終わった時に聴いてくれた何人かが、最後の曲をたくさん褒めてくれた(多謝!)。きっと、そん時は私はかっこよかったのかもしれない。私は楽しかった。
これでいいんです
周りを巻き込んで音楽がしたいな。私の強いこだわりはこの一個。つまり、バンドで曲をかくかと言ったら、現状無いに���しいと思う。なぜなら、バンドメンバーを作曲者と巻き込ませたい空気洗浄機のような立ち位置にいたいから。かも。アロマ付きで。香りは石けんとかがいい。
繋げて言えるのは、バンドのボーカルだけがもし弾き語りしているとして、彼らはきっと全然違う伝え方をすると思います。私はそれを感じ取ることを、ひとつの楽しみにしています。
パトリシアもちょっとずつ、見守ってください。なにとぞ。
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iwanakutemo · 10 months
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西洋と東洋の美しさへの気づき
西洋と東洋で思う美しいが違うからこそいい。東洋といっても、日本を指す。
楽譜に残し、色んな人が憧れて引き倒してもなお苦戦してきたクラシック音楽に、そのまま自然のものを残していく日本のもつ伝統的な美しさはさまざまな分野で現れている気がした。
大学にて、ピアノを学んだ。初めてだったのでその時は、"どれだけ楽譜に沿って弾き、表現できるか。"というものだった。一音でも抜けば、やり直しはもちろんだったし、その時の私は音楽と表現を食い違っていたので何がいけないのかわからなかった。
定義のある丸や三角、四角の概念に沿って建物やガーデニングを作り一瞬見た時、聴いた時の美しさにこだわるのが西洋の美しさではないだろうか。
私も、揃っていないと気になって仕方ない時がある。本屋に行くとき、文庫新書コーナーを見ると背丈が揃っていて気持ちがいい。そのような感覚に等しいだろう。
楽譜だけが残っていれば、そうは思わなかったかもしれないが皆がそれを弾き続けていることにこのように"美しい"が考えられてるのではないかと思われた。
日本では、山から流れてきた石の削られた自然の状態を美しいと感じてきただろうし、庭には小さな池、木々の背丈が違えどそのままを味わう。まるで小さな森がそこにあるかのように。
松や木々はのびのびと育つようもちろん整えはするものの四角や三角、丸に沿って合わされることはなかっただろう。
日本の音楽に関してはもっと全く知識はないがこの感性で考えればきっと、自然に出た音というものを愛していたのではないかと考えられる。また機会があれば調べたい。
今は、どちらも融合し組み合わせながら共存していく美しさへの進化があるが、ふと後ろを見返し揃った美しさと自然そのままの美しさに気づきながら嗜みたいと思ったのである。
どうか、大人数が好まれるように創られたものだけに囚われずに、もっと広い範囲で美しいをみたい。見つけたい。知りたい。
マジョリティのための生産物は触れやすいし勝手触られる。そこにある個性の美しさは勿論存在している。
しかしながら、私は純粋に美しいに触れたいだけである。勝手に触れるのは御免ですし。だからこそ、目的がお金のものに狂わされるのがすごく怖い。
お金は道具であり選択肢を増やすものである。私もみんなも狂わされないでね。美しさはそこら辺にあったりする。
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iwanakutemo · 1 year
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夏前におもうこと
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電車通勤のお話から。先週にちょっとした車の事故に遭い、運転を控えていたのでここ最近は電車で通勤をしていました。
前までは、田舎に住んでいてどこにいくにも遠くて移動が億劫でしたし、車移動がすごく楽しかったのを覚えています。でも、車を運転するようになってからは、自身が飽きたのだろうか寂しくなったのだろうか、全然楽しくなくなってきて。
だから、ここ数日の電車通勤がとても心地よかったです。イヤホンから鳴る音とすれ違う赤の他人の風景で、ひとつのシーンができていくような感じが良かったし、窓側を眺めて黄昏る人たちが何を考えているんだろう、と、どんな生活をしていて何に悩んでいるんだろう、とか、考えるだけで片道50分の通勤が一瞬にして終わったのです。
あと、自分で動かしているわけではないですから、まるでどこか遠くに連れて行ってくれるのではないだろうか、とか期待感のようなものがありますし、モニターから行ったことのない地名を見てどんな所だろうな、行ってみたいなと思わせてくれるのも頼もしかったのです。
私はいつも遠くに行きたいと思っているらしい。きっと、逃げたい気持ちに言い訳してそう言葉にしているだけだろうけれど。その中で、からかわひかりは、私をどこか知らない遠くにいつも連れて行ってくれる。京都・大阪は言わずもがな、東京だったり長野だったり広島だったり。彼は滋賀にもたくさん来たし、「君はどこの人なの?」と問いたくなる。
そしたら彼は「鳥取」と答える。
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広島。誕生日の当日に行ったうどん屋さん「小福」で流れていたQoodowのEP「水槽から」を聴いては未だに抜けきれない幸福感に襲われて何度も目が湿った。
頼んだひとつの肉うどんを半分こしようと言っていたのに、ほとんど私が食べてしまった事、コンビニに入ったとき大人数の喧嘩に少し巻き込まれて光さんを見失ってちょっと泣いてしまった事、原爆ドームの前で寝てしまっていつのまにか朝を迎えた事、みそんぬちゃんと光さんの企画を最高の場所で、最高の人たちに囲まれて誕生日を祝ってもらえた事、ギター2本と歌で好きなだけ音楽を楽しんだ夜の事、朝まで意識が朦朧とするくらい呑んだ事、そのあと朝まで飲みすぎて予約していた朝食に間に合わなかった事、尾道の商店街と海や街並み、空気のすべてが気持ち良かった事、帰り道に真剣な話をした事。
まだまだいろんなことがありました。こんな旅をしたのです。
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正直、生活のために社会の型にはまるような過ごし方に侵されていたような気がする。彼の歌にあるように、そのことを"色が無い"と言うなら、私はこの広島をきっかけに"色は有りたい"と改めて自覚しただろう。からかわひかりに乾杯。広島に乾杯。といった所でしょうか。
『ひらく夏』は私だけでは完成させられない。まだ私にとって救われる歌であるから、まだ聴かせて欲しいと思うのです。
そんな彼と私は、一緒に組んでいるYear After Yearで夏を迎える1日を作っていくそうな。私だけでは完成させられないなら、みんなと一緒に。光さん、太陽、尾賀に、来てくれるみんなと。
ほな、7月15日にまた。
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iwanakutemo · 1 year
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私は実にナイーヴな人間でして。どんな媒体でも表現したあとは途中過程でも疲弊してしまうのですが。そんな時に思い詰めて綴るわけですよ。今晩だけ許されたい
私と言う人間、本当に音に関しては鈍いのです。つまり、いつまで経っても上達しない技術と戦っているわけです。それでもなぜ音楽をしたいと思うのだろうか。そんなこと毎日考えるわけですね。(ほぼ毎日運転している時に考えるので大変憂鬱です。)
結論はね、音があって揃う表現を理想としているからだと思う。音がなければ、いけないのです。視覚的な芸術を音に変換したくなる欲も同じようなこと。
私が尊く慕っている方が言っていました。「音楽には本当詳しく無いけど、アートだからね。表現することに変わりはないから。」私の知っている中でも嘘くさくない真実を歌って、語って伝えていた貴方の言葉なので強く信じています。異議なし。貴方がそう思いながら音楽をしていたなら、私も今よりもっと貴方のようにカッコよくなれるんじゃないかって。
表現者という言葉も肩書きに使われつつある。アーティストという言葉も同じ。ただ、その中身は全く違うからもっとその奥までみんなには尋ねてきてほしい。私たちは抽象的な言葉に、溶かされないように明確な輪郭を作っていくことが使命なのでは。
私はそれができていないのになぜ語ろうとしてる?と言われてもいない被害妄想に駆られて保険をかけた話に今から切り替えるわけですが。
表現をする達成感を補える唯一の代わりは"人間関係"だと考えるのですね。簡単に言ったら、恋人であったり友達であったり。楽しいんです。人間として認められていることが。ストイックな私にはどこかこれが甘えなのではないかと思う日もありますし。
でも、君たちがいなければまさに死を選んでいたと思うし。生きていける感謝は君たちにある。ありがとう。というそれだけのことです。
おやすみなさい。
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iwanakutemo · 2 years
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パトちゃんと璃詩亜さん
私は一度名前を変えている。そのことを話す。
育ての父は、40年間の人生で3〜4回名前を変えていたそうだ。そんな父から、私が名前を変える前に伝えてくれたことがある。
「名前を複数持っていると、まるで違う人間が2人いる感覚になるよ。パトレシアはそれでいいのか。」 (父はパトリシアが読めなかった)
まだ小学生だった私は、学級社会に負け名前を変えたいと強く思っていたため、父の言葉は何も気にならなかった。そして新しい名前を使うことになった。
璃詩亜という名
違和感。呼ばれても振り向けない。私ではない。そんな感覚だった。私が日本に住んでいて、外国人であることが嫌だった訳ではなかったと今では思う。ただ、小学生のパトリシアはみんなから違ったものとして見られていたのが嫌だったんだろう。
13歳から"璃詩亜"という名を使い、今年で10年目である。"璃詩亜"と呼んでくれるのは、お世話になった先輩・先生か自宅に送られてくる郵便物くらい。
慣れていないよ。慣れることはない。けど、最近は璃詩亜さんに頼りっぱなしである。例えばこんな時。
すごく気持ちの面で動きたくはないけど、タスクを進めなければならない時。
璃詩亜さんは非常に無機質で機械的で無頓着であるから、感情を表に出さない。真面目で、為せば成ると過ごしている。とても面倒見がいい。綺麗好き。私の中核となるパトリシアとは正反対である。パトリシアは、自由奔放、好奇心旺盛、元気、明るい。愛に生きてる。情熱で溢れているパトリシアは非常に精神が脆い。ふたりは私の中に存在している様子。
父に言われた言葉を元に、私の中で解釈したのが「パトちゃんと璃詩亜さん」である。つまり、感情と理性の違いであり、誰にでもある二面性の話、誰もが持っている性質の話である。
璃詩亜と呼ばれること
今では、璃詩亜と呼ばれることが嬉しいと感じるときがある。パトと璃詩亜、なんだかんだ同じ人間であるから、区別しないようにしたい気持ちの変化だろう。ただ、名前なんて変えなかったらよかったと時々思う。父にもう一つ言われたことがある。
「名前なんて変えるもんじゃない。」
そうね。勿論、生まれてから付けられた名前に違和感があればそれは別の話。
選択すること、自己決定していくこと。周りを気にしないこと。それが父の教えだったのだろう。
パトリシアをよろしく
日本では、パトリシアと聞くと珍しい名前だ。しかし、世界で統計を出すならば圧倒的に珍しくない名前である。ただ、私は「Patricia」ではなく「パトリシア」でありたいと強く思う。現在は、海外へ行く予定があるため本名だった「Patrizia」と表記をしているが、皆からは「パトリシア」として親しまれたい。璃詩亜として出会っている人々からは、「璃詩亜」として親しまれたい。そんな感覚。どうかよろしく。
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パトス
理知的な精神に対して、感情的・熱情的な精神。
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taken by 杏実
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