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うめはとりを読んで
みなさんおひさ。ほぼ半年ぶりの更新だ!ハーバード大学経営大学院の博士課程で組織の勉強と研究に精進している。人生を捧げる覚悟を決めた組織論だが、今回生まれて初めて組織論についてのクラス(セミナー)を履修している。これまですべて独学だった割には、思っていたより自分の組織に関する知識量は少なくなく、独学もバカにならないなという毎日だ。それでも、しっかりとしてシラバスがあり、我流で頭の中でまとまっていた文献が体系的にリストアップされているのは非常にありがたい。周りのクラスメイトには頭がいっちゃてる人に見えているかもしれない、というくらいセミナーで爆発している。人の話をよく聴ける能力も学者として重要なので、今週から意識的に口数を2割カットしようともしている。
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昨年ノースカロライナ州のホンダエアクラフトカンパニー社を訪問した際の写真。藤野社長、竹内教授と。
さてはともあれ、しんご先生がいよいよウェズリアンに帰還した。それと同時に「うめはとり」も花開いているようだ。中でも、フェミニズムについての以下の論点が非常に面白い。:
しずは:
脱構築っていうのは、私的には毎日蓄積される、個人レベルの無意識的な習性の源流を意識的にたどるっていう感じ。この「習性」を文化人類学とか社会学ではかっこよくhabitus(ハビトゥス)って呼ぶの。habitus 自分の行動、思考のクセはどうやって生まれたんでしょうねっていう質問を繰り返していく際に、「ジェンダー」とか「人種」とかっていう補助線があると辿りやすいよね、っていうお話。例えばなんで女の人だけ化粧したがるんだろう、とか、なんで「男の人」と「女の人」のボールの投げ方に違いがあるんでしょう、とか。
そして、議論は進み。。。
しんご:
そうかそうか。決定論的な考え方に抵抗したかったわけだ。
でもね、なんか最後のところがよくわからなくて、「もう少し主体的に自分に影響を及ぼすものを選びたくなった」っていうところを説明してもらえると嬉しいかな。
しずは:
なんか世の中には、「○○主義」ってよばれるものや「ジェンダー」とか「人種」とかhabitusを形成するものがたくさんあると思うんだけど、それらからの影響を受けずに自分を形成していくのは社会の中に存在していく限り無理だと思うんだよね。だから、せめて自分がどんなものに影響を受けていて、そのいいところとわるいところはこんなところで、自分が嫌だと思うhabitusは出来る限りデトックスしていって、みたいなことをしたいような。
しんご:
ん?その答えと「自分に影響を及ぼすものを選ぶ」というのは違う話なのでは?自分を取り囲む環境を選んでいこう、という話をしているのかと思った。
あと、どんだけ頑張ったって、そのhabitusを形成するもののリストは無限に続くわけで。どこまでいってもその闘争は終わらないじゃない。一生そのプロセスを続けていくの?
しずは:
うん、そんな意味もある。なんだろうはっきりこれです、っていうものはないから正直答えられない。理由なんて全部後付けの様な気もする。答えたらなんかすごい自己意志力を過信しているようにも聞こえちゃうからそれもいや。それにまだフェミニズム勉強しはじめて2年しかたってないからまだなにもわかっていないような気もする。最初はフェミニズムって自分が今までつながれてた鎖をとってくれたものなんだーって思って嬉しかったけど、しんごさんのいっているように勉強すればするほどフェミニズムの鎖がどんどん自分の想像力を小さくしているようで最近苦しくなってきたような気もする。じゃあ勉強やめてしまえ、えいやっ、ともならない。あれ、こんなに生きるのって難しかったっけっていうのが正直な感想ですわ。
ここで一つ隠れた前提がある。上記の議論に基づけば、habitusは○○主義といった世界観やそれから派生した価値観によって形成されていることになる。つまり、「価値観→ハビタス→実際の行動(アクション)」ということになる。これが、「価値観が社会的に潜在していて、人々がそれに基づいて行動をし続けるため、その価値観自体が存在し続ける」というシステムだ。これは確かに決定論的だ。自分の主体性がない(社会的要素に決定されている)。その場合、しんごの「「自分に影響を及ぼすものを選ぶ」というのは違う話なのでは?自分を取り囲む環境を選んでいこう、という話をしているのかと思った。」という返答はもっともだ。自分の置かれている社会環境に潜在している価値観によって自分の習慣が形成されているから、その環境を変えない限りは自分は変われないということだ。大前研一が「人間が変わる方法は3つしかない。1つ目は時間配分を変えること。2つ目は住む場所を変えること。3つ目は付き合う人を変えること。」と言ったうちの、後者2つがこれに価する。マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」もカルヴィニズムというプロテスタント一派の「一生懸命働くことで救われる」という宗教的世界観が資本主義の発展を牽引したという有名な主張をしている。
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ハーバード大学経営大学院(ビジネススクール)キャンパスの美しい紅葉
一方、この「価値観→ハビタス」の前提は文化社会学者の中ではここ30年で都落ちしつつある視点でもある。社会における「文化」というものが一定の価値観を形成しているのではなく、文化は様々な、時には相反する価値観、世界観、シンボル、ストーリ、ハビタス、などを内包していて、それが「文化資源」として機能しているという考え方だ。Ann Swidler (1986)は次のように言い切る:
Culture influences action not by providing the ultimate values toward which action is oriented, but by shaping a repertoire or "tool kit" of habits, skills, and styles from which people construct "strategies of action" (p.1) .
文化は特定の行動を支持する究極的な価値観を通して人々の行動に影響を及ぼしているのではなく、むしろ、様々な生活習慣や生活上の時術とスタイルが入っている一種の道具箱としての側面があり、人々はその時々の状況に応じて文化の道具箱から特定の道具を選んだり、複数の道具を組み合わせて行動につなげる戦略を立てるのだ。
上記だけだと漠然としているので例を一つ挙げよう。学校の廊下で部活の先輩にばったり会って会話になったとする。いわゆる「日本的な」文化に基づけば「目上の人には敬語を使わなければいけない」という社会的な価値観(習慣と見ることもできる。価値観と習慣がコインの表裏であるいい例だ)がある。さらに、年上のものは「社会的に」自分よりステータスの高い人だという信条も付随している。このシチュエーションに遭遇した場合、ほとんどの人は頭を下げ挨拶をし、敬語で会話をするわけだが、果たして、「目上の人には敬語を使わなければいけない」という価値観によって自動的にそうさせられている(インプットさせらてている)のか?「価値観→ハビタス→行動」論に基づけばそういうことになる。
道具箱としての文化の視点に立ってみると、上記のシチュエーションのニュアンスはだいぶ変わってくる。この場合、「目上の人には敬語を使わなければいけない」という習慣を個人が意識的・無意識的に関わらず主体的に利用し、状況を自分有利に進めようとしていると捉える。個人は別にこの特定の価値観を利用する必要もない。弱そうな奴だったら相手が年上だろうが先輩だろうが無視するかもしれないし、はたまたカツアゲをするかもしれない。相手が強い奴でも後ろに先生がいることが分かっていれば反撃されることはないと踏んでタメ口で話すかもしれない。日本的な価値観が「目上の人には敬語を使わなければいけない」だからといって、状況に関わらず必ず自動的にそれに従わなくてはいけないわけではない。たまたま与えられた状況下でそれが最適な道具だったというだけだ。この場合、個人の主体はかなり確保されているように見える。
そう考えると、いろいろな社会状況に置かれることは自分が利用できる道具を増やす行為と見ることもできる。しずはの言うように「ハビタスをデトックス」しなくても意識的に使いこなせるようになれば良いのだ。マッスルメモリーのように、野球をするときはバッティングの(反復練習の末会得した習慣的な)動き、サッカーをするときはサッカーの動きを使いこなせるようになれば良い。場所と状況を見分けて、最適な文化的資源を最適に利用して行動を起こす。ソーシャルインテリジェンスが高い人はそれができる。
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博士学生の必需品、バランスボール。これで、長時間座り続けてもビクともしないインナーマッスルを創り上げる。
もちろん、個人がどのくらいの主体を担保できるか。つまり、「文化資源」を使いこなすことができるようになるかは難しいところだ。それがものすごく得意な人もいるだろうし、下手くそな人もいるだろうし、練習によって飛躍的に上達する人もいるかもしれない。もしかすると、それがしずはのいう「もう少し主体的に自分に影響を及ぼすものを選ぶ」ことなのかもしれない。大前研一の「時間配分を変えること」もその一つなのか?
これは、無意識的に資源に「使われるか」、意識的に「使うか」ではない。別に無意識的に資源を使うことだってある。目的地に到達するために無意識的に地下鉄という道具を使ったっていい。別に車に乗ってもいいけど、習慣化しているから無意識的に地下鉄に乗っても良い。それは、地下鉄を使うために目的地に向かうのではない。文化資源を自己実現というエンドのためのミーンズと見ているだけだ。
結局、2つの視点はコインの裏表。社会的価値観から見ても、個人を主体に見ても、それは視点の違いでしかない。どちらを、エンドとしてみるかの違いだ。それでも、自分をエンドとしてみたほうが肩の荷がおりる。無駄に社会的価値観と戦わなくても、自己実現のためのミーンズとしてみると主体性を取り戻すことができる。エンドとミーンズはあまりにも簡単に逆転するが、自分をエンドに置くほうが、余計なしがらみに悩む必要がなくなる。例えば、社会的な地位を得るのがエンドになって、自分を見失ったり、それに対抗するために悩むのではなくて、自己実現をするための一つの道具として社会的な地位得たっていいではないか。どの道具をどう使うかは自分次第。
では、しずはやしんごのようにジェンダー論を学ぶこと、あるいは文化資源をコントロールする能力を育成するという観点での教育の価値とは何なのか?実は、こういう能力の育成が社会人として活躍するための重要な要素なのかもしれない。皆はどう考える?
それではまた!
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学者の資質:三種の思考(Beyond Critical Thinking– Three Types of Thinking Skills)
おひさ!充実した日々を送っているからこそ久々の更新になってしまった。現在も元気に一橋大学で研究活動をしている。来年の博士課程進学へ向かっての準備も着々と進んでいる。先月、ハーバード・ビジネススクールを訪問し、ユニバーシティ・プロフェッサー(全教授で1%もらえるハーバード教授職の最高位)のレベッカ・ヘンダーソン教授が私の研究目標に非常に賛同してくれ、ぜひアドバイザーになってくれると言ってくれた。これが入試で吉と出ると良い。野中教授と共著していた論文もついにGlobal Strategy Journalというジャーナルに提出した。めでたしめでたし。
最近日本ではリベラルアーツ教育への関心が高まっていることもあり、批判的思考法(Critical Thinking Skills)の重要性をよく聞くが、その意味を本当に理解しているのは、批判的思考法をある程度会得している人だけのように思う。Japan at Wesleyan創世期の投稿で私なりの批判的思考法の解釈を紹介しているので、興味のある読者にはそちらも参考にしてもらいたい。ただ、あれから月日も立っているからこそ、私なりの理解も変わったというものである。
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(引用元)
学生としてではなく、学者としての生活を始めてから1年近くなる。毎日の時間を研究に費やすことによって、今までのWesleyanでの教育では気づかなかった「学者としての資質」みたいなものが見えてくるようになった。主な発見は、批判的思考力に長けているだけでは一流の発想はできないということである。これはある意味、アメリカ大学教育の落とし穴と言えることかもしれない。批判的思考法の訓練を強調するあまり、他の重要な思考法の訓練をあまりしていないように思える。ではその他の思考法とは何か?今回の投稿はその説明をしてみたい。
批判的思考、創造的思考、曲芸的思考
<批判的思考(Critical Thinking)>
まず、批判的思考法のおさらいをしたい(前述通り、昔の投稿も参照)。批判的思考法は、アイディアやコンセプトが階層をなして関連しているとすると、それをそれぞれ分解し深部まで掘り起こす思考法である(図1参照)。具体的には、”Why?”とか”How?”とか、5W1H系の疑問を通して、表面的には必ずしも表現されていない構成要素を分析する。
(図1)
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アメリカの学部教育はリーディングやその分析を題材とした論文、さらにその議論を通りして、この批判的思考法を訓練する。特に人文や社会科学系分野の教授はこれを職業としている人達なので、ものすごい批判的思考能力を備えていることが多い。
<創造的思考(Constructive Thinking)>
しかし、批判的思考法は必ずしも新しいアイディアや視点の発見に繋がらないことを忘れてはならない。仮にアイディアが階層的に関連しているとして、その構成要素を新たに投合して今まで存在していなかった考え方を生み出すのも重要な思考である。私はこの能力を「創造的思考(Constructive Thinking )」と勝手に名付けてしまった。複雑に関係している多様なアイディアから、より包括的なアイディアを創造するのである(図2)。Charles Peirceというアメリカのプラグマティズムの創始者的な哲学者はこれを、創造的帰納法(Creative Induction)、あるいは、アブダクション(Abduction)とも読んだ。
(図2)
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例えば、理論学者にとってこの能力はある意味で生命線である。極端な話、批判的思考力がそこまで長けていなくても、創造的思考法がとてつもなく長けている理論学者などは多々いる(もちろん両方備えているのが理想ではあるが)。例えば、経営戦略分野でカリスマ的理論学者であるハーバードビジネススクールのマイケル・ポーター教授は、自分の特殊能力についてこう語っている。:
What I’ve come to see as probably my greatest gift is the ability to take an extraordinarily complex, integrated, multidimensional problem and get arms around it conceptually in a way that helps, that informs and empowers practitioners to actually do things. (Wikipedia 参照)
私の最大の才能は、とてつもなく複雑、奇抜、多面的に関係し合っている問題を包括的に再構想し、経営者達が実際に理解して利用することができるようにすることである。
私の「ボス」である、一橋大学の野中郁次郎名誉教授も世界を代表する組織論分野の理論学者であるが、彼もこの創造的思考がずば抜けている学者のうちの一人だ。私自身の研究能力で最も評価されている能力も(良いことか悪いことか)実はこの部分だったりする。と言っても、まだまだ修行が足りない。
<曲芸的思考(Acrobatic Thinking)>
今年になってその重要性を再認識しているのは、発想を自由自在に転換し既存の考え方ではありえないような視点から思考する方法である。勝手に「曲芸的思考(Acrobatic Thinking)」と読んでいる。これまでのコンセプト階層のフレームワークで説明すると、今まで上から下へ階層を解釈していたものを、突如として横から見た状態で階層を作ってみたり、斜めから見てみたり、変幻自在に視点を変えることができる(図3)。これは、ある意味で既存のパラダイムから脱出する方法(think out of the box)として、批判的方法に勝るとも劣らない威力を発揮する。天動説から地動説への転換などが歴史的に有名な例か。パラダイムシフトとも呼ばれる。
(図3)
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良い例は、ポーター教授の代表的理論である、「ファイブフォース分析(Five Force Analysis)」だ。経営戦略の革命的理論とまでもてはやされた理論である。影響力が大きくまた全く新しい理論であったが、その凄さは思考の緻密さや未知の発見というわけではない。その根幹は、今ままでのミクロ経済学において、Perfect Competitionである条件(つまり、Market Failureにならない条件)をそっくりそのままひっくり返して、Imperfect Competitionになる条件としてしまったのである。つまり、Imperfectなマーケットを見つけ出し、それに参入することで勝者になる(市場競争で有利に立つ)ためにはどうすればいいかという理論である。この理論は、発想を全く転換させたという点で革命的だったのだ。
曲芸的思考法はもちろん才能に依存するところも少なからずありえるが、既存の考え方に囚われないかということが重要になってくる。完全に自由に思考するのはもちろん不可能だが、ある程度の自由を得ることは可能なはずだ。例えば、ミシェル・フーコー(Michelle Foucault)などは、社会的に構築された物理的環境自体が我々の身体的構成や機能に影響を与えることによって、既存のパラダイムに思考が制限されると提唱している。新宿や渋谷などに行くと、同じ化粧や同じ格好をした若者たち、丸の内に行けば同じようなスーツやカバンを持ったサラリーマンを見かけるが、彼らも知らず知らずのうちに既存の価値観や思考パターンにはまっているのではないか。
近代美術を鑑賞していると、一見何がなんだかわからないような作品のように見えるが、これらもまた、既存のパラダイムへの挑戦を目的にしているからこその意味不明なのだ。ひょっとすると、渋谷の交差点を逆立ちで歩行するとか、普段ありえないような行動をするなり、格好をするなり、生活習慣を変えたり、今まで経験したことのないスポーツに打ち込んでみるなどをすることによって新たな視点を生み出すことができるかもしれない。
一流の(社会科学系)学者に最も必要かもしれないこの思考だが、専門性が定まれが定るほど、ニッチなパラダイムにハマってしまう可能性がある。常にいろいろな物事を学び、聞き、挑戦する事が学者生活の生命線なのかもしれない。この間、Kotaroと典型的な家庭でいたって健康的で幸せな人は学者として大成しないのではないか、という話をしたのを思い出す。訳ありなくらいでちょうどいいということだ。
そういう意味で、最近個人的に感心しているのは、シカゴ大学社会学部のJohn Levi Martin教授だ。彼とは、同じWesleyan出身である事もあって、一年前くらいから数回メールで連絡を取り合ったが、とにかく彼のぶっ飛び具合には感銘を受ける。見た目もぶっ飛んでいるし、彼のプロフィール写真もぶっ飛んでいるが、Eclectic学者と呼ばれるほどの多様な専門性、彼の著書、Social Structureの内容のぶっ飛び具合に感動した(Mathmatical Sociologyの色が濃いので専門知識がないと読むのに時間がかかるかも)。今年のシカゴ大の入学式で教育について面白いレクチャーをしているので、そちらも参照あれ。
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ウェズリアンでの教育を振り返ると、批判的思考を鍛えるには最高の環境だったが、反面、創造的思考や曲芸的思考を鍛えるカリキュラムはあまりなかったように思える。ウェズリアンの活動家などが、「男女トイレを分ける事は、ジェンダーの概念を二分化する元凶だ」とトイレの看板を破壊していた事などが、今となってはある意味で曲芸的思考を鍛えるようないイベントだったかもしれない。それでも、ウェズリアン大学という組織がとてつもなくリベラルで左寄りだからこそ、それ相応のパラダイムにはまってしまっている感も否めない。”Think out of the box”を意識しすぎるあまりに、その”box”の概念に囚われてしまったり、その”box”から出る行為的概念に囚われてしまっている。
まだまだ、私の修行は足りない。目指すべきところは遥かかなた上。それでも、一歩ずつ「ぶっ飛んで」行こうと思っている今日この頃である。日本に帰ってきて久しぶりに漫画を読んだ。弟に進められて、「史上最強の弟子、ケンイチ」を読んだがこれは非常に面白い。この漫画の登場人物はかなり超人地味ているのだが、その中でも主に以下のような階級分けがされている。:
A)超人級
———————人類の壁——————————————
B)達人級
特A級達人(マイケル・ポーター、ロナルド・コーズ等)
その他各クラス達人(ウェズリアン大学スキルマン教授、ブライアン・フェイ教授等)
———————限りなく厚い壁————————————–
C)妙手級
最も長い修行期間
—————————厚い壁—————————————-
D)弟子級
最強級弟子
強い系弟子
中堅級弟子
弱い系弟子
雑魚系弟子
E)一般人
設定では、主人公ケンイチが最終回でついに最強レベルの弟子になるのだが、その時点で人間じゃないくらいの能力を発揮している。しかし、そのケンイチでも達人の下の下レベルのやつに全く歯が立たない。一見バカバカしい設定に見えるが、なかなか的を得た物の味方だなと思う。学者としてのレベルで考えると、私はおそらく弟子レベルの真ん中か中の上くらいではないだろうか。大学院の博士課程終了時点で妙手に達していたい。そして、死ぬまでには超人になりたい。
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批判としての批判を超えて、未来を創造する
久しぶり!悠作の巻。帰国してからというもの怒涛のような一年を送っており、最近更新ができなかった。近況報告をすると、在米時に出会ったハーバード・ビジネススクールの竹内教授の計らいで、一橋大学大学院国際企業戦略研究科で野中郁次郎名誉教授の研究補助員をしている。キャンパスは国立ではなく神田一ツ橋。神保町駅近くである。自分の興味のあることを1日中できて、それで食べていけ、また将来目標としているような研究成果を出すための道が開けていくのはこの上ないことだ。最近、野中先生が提唱したSECI Modelというのを、自分が興味のある制度進化の観点で応用してみたところ、ピタッとはまってしまった。塾考の必要があるが、ワクワクする。今年の秋からは、当初はシカゴ大学の大学院へ進学予定であったが、先日断りの連絡をして、もう一年一橋で研究を続けることになった。これも、本当に自分のやりたい研究を博士課程で突き詰めるための策だ(この決断に至った経緯は長くなるのでまた今度にしよう)。今は、標的をプログラムとの適合性からハーバードとUCバークレーのPhDに絞り込み、研究成果を出しながら全力で前進している。毎日が楽しい。近くにお立ち寄りの際は是非お会いしましょう!
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現在の職場。個室は最高だ!
批判としての批判
楽しいというと思い出されるのは、ウェスリアン学生がよく陥りやい、「over criticism (過剰批判)」である。批判的思考能力(critical thinking skills)を鍛える訓練をするあまりに、周りのものすべてに批判的になってしまい、ある種の鬱のようになってしまう現象である。私自身も2年生CSS時代には哲学と政治の文献を読みすぎて、すべてに批判的になり鬱のようになってしまったものだ。そのときに精神的な支えとなってくれたのは、周りの友人たちである。
ウェスリアンのような恵まれた環境にいるのになにを贅沢なことを言っているのかと言われてしまいそうだが、批判的思考法の精神的影響は意外に深刻である。薬などに溺れるウェスリアン生の大概はこの類だあるように思うくらいだ。自分を含めた、周囲のもの全てに対して批判的になってしまうことは、直接的な自己否定に繋がる。この手の自己否定は、自己を呑み込む。自分の存在価値を失ってしまうことほど苦しいことはなかなかない。
この件については、ウェスリアン学長のマイケル・ロスが数年前にNew York Timesにて記事を投稿している。ウェスリアン学生、さらにはアメリカのエリート学生の何に対しても「批判的」な姿勢を危惧して、彼は以下のように述べている。:
"Our best college students are very good at being critical. In fact being smart, for many, means being critical. Having strong critical skills shows that you will not be easily fooled. It is a sign of sophistication... But this is thin gruel. "   --Michael S. Roth, President, Wesleyan University
「我々の最も優秀な学生は批判的になることにとても優れている。実は、多くの学生にとって、スマートであるということは批判的になるということでさえある。強力な批判的能力を保有するということは、簡単���騙されないということを示している。それこそは、洗練の印である。だが、これは未熟で薄っぺらい考え方だ。ーマイケル・ロス
批判の為に批判して、挙句の果てには自己否定に陥ってしまっては本末転倒である。 よくわかっていないことや、表面的な知識や印象を元に批判をしたり、自己放棄になってしまう学生が多すぎる。語る前に、まずは食べてみてから、それも、かなり味わってみてからでないと批判の「ひ」の字もわかるはずがない。例え、納得できない考え方やものの見方、前提条件があっても、自分の知らないことを学ぶことによっていろいろと新しい発見はひらめきが得られるものだ。頭っから批判して、味見もしてみなければ、何も得ることはできない。
私自身も人のことを言えたものではない。研究者として、主流派の新古典主義的経済学に批判的な部分が沢山ある。その批判はもちろん、ある程度新古典主義経済を学んだ上で生まれた批判であるし、納得した他の学者の考え方ではある。しかし、私はその道を極めたものというには程遠い。だから、研究の合間をみては、中・上級レベルの新古典主義系経済教科書を使い、せっせと独学ながらいろいろな経済・社会科学理論や研究についての勉強をする。それは、「敵を知る」為でもあるが、常に違った視点をもちあわせたいという考えからのことが多い。実際、そうすることは自分の研究に大きく役立つことが多い。対象がなんであれ、必ず何か学ぶことがある。
創造の為の批判と弁証法的思考(Dialectic Thinking)
結局のところ、批判的思考法とは、新しい物や考え方を創造する道具(Tool)である。新しい物や考え方をゼロから創造することはほぼ不可能である。アインシュタインでさえも、物理の教育を受けていなかったら(というよりは、物理の知識がなかったらと言った方がよいかもしれないが)特殊相対性理論を考えつくことはできなかったはずだ。既存の物を批判的に分析し、そしてそれを合成することによって新しい物やアイディアを創造する。
哲学用語を借りると(解りやすくモデル化する為に)、この「創造」という概念においての批判的思考法は、相反するアイディアを弁証法的に(Dialectic)に合成する過程で重要な道具である。一見相反するアイディア(テーゼとアンチテーゼ)をそれぞれ「競合」させ、それを合成することによって新しい、どちらをも上回るアイディアを創造するのだ。例として、日本典型的な高等教育とリベラルアーツ教育について考えてみよう。日本とアメリカの高等教育は異なる点が多い為、一方をthesisそしてもう片方をantithesisとして捉えよう。※ここでの目的は高等教育に関する議論をすることではないので、実際のポイントは適当に選定した。
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各テーゼとアンチテーゼについて考える際にどのような思考プロセスを辿ると良いだろう?たとえば、日本における典型的な高等教育の利点が「cheap(安価)」であるという点について考察してみよう。日本の国立大学の学費は年間数十万円だと思うが、それは確かにアメリカの多くのリベラルアーツ大学の学費に比べて遥かに安価である(ウェズリアン大学は寮食費を除いても年間600万円位かかる)。しかし、この比較的安価というのはリベラルアーツのアンチテーゼと比較してみての話であり、リベラルアーツ大学の学費についてよく分からない読者は年間数十万円が高いと感じるかもしれない。逆に、日本の典型的な高等教育のConsを見てみてみる。たとえば、入学システムが入試に偏重しているという点は、日本人にとっては入学システム=入試であり、試験を受けてその点数によって入学が決まるというのは当たり前かもしれない。そのような人たちには、「日本の大学の入学システムは試験に偏重している」という批判点が到底思い浮かぶはずもない。他国や日本の典型的ではない大学の入学システム(この場合のアンチテーゼ)に対してある程度の造詣があって初めて批判的な視点を持つことができる。
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このように、一見すると相反する物やアイディアを競合させることによって、双方の弱点や強み、または、特徴を洗い出し、それらを統合してより良い、どちらにも勝った教育システムについて初めて議論することができる。まさに、弁証法的にテーゼとアンチテーゼを競合させ、より高位のアイディアを合成的に創造することができるのだ。
結論
批判的思考法は何かを批判して排除するための手段ではなく、物事の特徴を引き出してより高次の物やアイディアを創造するための道具である。政治に関しても何に関しても、皆さんには批判のための批判ではなく、批判を通して未来を切り開いていってもらいたいものである。自己否定の為 ではなく、自己肯定の道具として、創造力の柱として、批判的に思考してみてはいかがであろうか?
それでは、また!
—Yusaku
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japanatwesleyanyusaku · 10 years
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新年の挨拶と近況報告
物凄くお久しぶり!悠作の巻。Vamos!
あけおめ2015!時が経つのは早いね。
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近況報告から。
最近一型糖尿病の診断を受けた。8月から体重が減っていたのだが、8月から9月の末までに、なんと15KG以上体重が落ちていたことが判明した。9月末にニューヘイブンの教授宅へ遊びに行っていたのだが、その際にあまりにも痩せていたため、教授に近くのクリニックへ強制連行された。 当時はまだ試用期間であったため保険が会社から支給されておらず、高額な医療費を恐れて放っておいたのが仇となってしまった。クリニックで血液検査をしたところ、全数値(血糖値、血中酸性度、血中ヘモグロビン糖値)がクリニックの機器では計測不能で、そこから、イェール大学付属病院の救急救命室へ搬送された。
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そこで、4日間入院。不思議だったのは、全てが異常状態だったにも関わらず、自分の状況に気づかなかったということだ。救急救命室でも、普通に読書等をしていたのだが、普通ならとっくに気を失っていてもおかしくない状況であったそうである。なにがともあれ、病気自体はコントロールできており、食前と就寝前のインスリン注射を除けば、心身ともに好調である。食生活ではなく遺伝が原因で、インスリンさえ投与すれば普通状態と変わらない。食制限等も一切なく、毎日数回血糖値を計測したり、意外に興味深い。正直、自分の体について詳しくなった感覚がなんともいえない。
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今年秋入学に向けて、大学院博士課程出願もほぼ完了した。周知の者も多いと思うが、私の専門は制度(Institutions)、特に法律などの公式な制度に対して、「非」公式な制度(informal institutions)の経済・社会活動への影響・関連性を公式理論化である。非公式制度は、たとえば、ノーム、カスタムなどに含まれる制度的な要素のことである。論文にも書いていることだが、非公式制度の存在・影響はよく主張されているものの、それを体系的に理論化した例は極めて少なく、理論が政策などに反映された例はほとんどない。それをやってやろうというのが、私の夢である。学閥的な問題もあるが、やってやるぜという感じだ。
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ウェスリアン3年の時から徐々に制度経済学にのめり込んでいったのだが、どうやら、完全に「制度バカ」になってしまっているようである。先日、コンサルティング会社のインタビューをしたのだが、専門の話で盛り上がってしまい、試験官は「今日は、institutionsに洗脳されて頭が痛い。全てが制度に見えてきたよ。」と冗談をいっていた。私からしてみたら、世の中は「制度」が相互作用している「状況」である。
たとえば、先日ニューヨークの5番街で非公式制度を見つけた。年末であったため、ものすごい人が歩行していたのだが、サインも何もないにも関わらず、混めば混むほど右側通行になっていた。誰が最初に右側に歩き始めたのかはわからないが、他の歩行者と共に右側に歩くことにより対抗歩行者を避ける作業が必要なくなるため、「低コスト」で歩行する事ができる。5番街ではいつの間にか、「右側通行」がノームとなり、制度と化していたのだった。
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非公式制度が発生した例。最初に曲がった車を避けようとして、他の車までハンドルをきったためこうなった。
人類の「非公式制度」理解に貢献したいと思っている私だが、どの分野からアタックするのが最適かというのは実はあまりはっきりしていない。私が特に最近興味をもっている、非公式制度の組織への影響を研究したいのであれば、組織論研究が盛んなビジネススクールでのプログラムが良いことも多いし、 組織論と制度研究が充実している社会学部も多い。もともと、政治科学部も公式制度研究が強いものの、一部プログラムでは制度についてかなり突っ込んで研究ができるところもある。結局、プログラム内容は様々だ。
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いろいろな大学の教授や著名人に相談したが、この部分に関しては結局絞り込むことができず、最終的に社会学部、ビジネススクール(組織論と戦略論)、政治科学、様々なプログラムに出願するに至った。出願校は、資源豊富度(教授、分野、資金、図書館等)を考慮し、大規模私立校(ハーバード、MIT、イェール、スタンフォード、プリンストン、シカゴ等)中心に出願した。これらはトップ校であるため、競争はかなり激しいが(100人以上の出願者から合格者は年に数名)、良い結果が届くことを願うのみである。結果は春頃に判明するので、それまではおとなしく待つ。
もう一つ報告。今月をもってニューヨークの会社を自主退社し、今月中旬から秋に大学院へ入学するまで、日本に一時帰国し、東京で働くことになった。アメリカ大学進学を目指している諸君には直接会ってお話しをする(または、仕事をする)機会が増えると思われる。帰国は2012年夏以来である。実家もいろいろあったので、家族、日本の友人と再会するのが今から楽しみで仕方がない。
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japanatwesleyanyusaku · 10 years
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国家について:その1ーゲームとしてみる
悠作の巻!以前ゲーム理論についての記事を書いたが、どうも反応がよくなかった。とはいうものの、懲りることなく、今回はすこし異なった視点でゲーム理論を使い、より政治学的な内容を話していきたい。以下の内容は、昨年のクリスマスあたりに、Kotaとケンブリッジの街路を歩いていた時の何気ない会話を発展させたものである(彼がCSSのCompsの準備をしていたためこういう話になった)。国家というものを考える上での参考にしていただきたい。今回はシリーズで執筆する。
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「State of Nature(自然状態)」という用語を聞いたことがあるだろうか?文字通り、社会科学系の学問において、国家状態が「自然」な場合どのような様相を呈するかということを表すために使われる用語である。「自然」ということはつまり、国家が存在しない状態、さらに言えば、ただ単に人々が国家的・政治的制約の無い状況、ということである。
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では、実際に「自然状態」とはどのような状況なのだろう?この問題については、いろいろな社会論・政治哲学者がヒントを与えてくれている。まずは、ホッブスから話を始めよう。先日のKotaとの会話では、State of Natureの本家・ホッブスが中心だったからだ。
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(とても重要なのであるが、例えば、summum bonum vs summum malmなど)���ッブスの人間の生態(Human Nature)に関する説明は省いた上で、ホッブスは自然状態を次のように説明している:
  “Hereby it is manifest that during the time men live without a common Power to keep them all in awe, they are in that condition which is called War; and such a war as is of every man against every man. …In such condition there is no place for Industry, because the fruit thereof is uncertain: and consequently no Culture of the Earth; no Navigation, nor use of the commodities that may be imported by Sea; no commodious Building; no Instruments of moving and removing such things as require much force; no Knowledge of the face of the Earth; no account of Time; no Arts; no Letters; no Society; and which is worst of all, continual Fear, and danger of violent death; And the life of man solitary, poor, nasty, brutish, and short.”
  「人々を制約する共通の力が存在しない状況・時代に置いては、人類は戦争と呼ばれる状況下に置かれる。万人の万人に対する戦争である。(中略)そのような状況では、不安定なため産業は育たず、そして、文化も育たない。海を通して輸入される品物も存在しない。しっかりした建築物も、それを動かしたり取り除いたりする道具も存在しない。知恵も、時間を計るすべも、芸術も、文字も、社会も存在しない。更には、継続的な恐怖心、暴力的な死の危険性が常に伴う。人々の人生は、ひとりぼっちで、貧しく、汚らしく、残酷で短いものである。」(私自身により翻訳)
  有名な「State of war of all against all」というフレーズによって説明されている部分である。ホッブスは、自然状態では、人々は自己欲求追求のため(また、善・悪の主観性により共通した価値観が存在できないため)お互いがお互いと競争・戦いあう状態に陥ってしまうというのだ。この理論を人文学の分野で分析した場合(たとえばCSSでいう、2年生で履修するような視点から)、他の哲学者の理論を読み込むことによって、たとえば、ホッブスの人間の生態に関する前提が正しいのかどうか、更には、その前提が本当に「State of War of all against all」に陥ってしまうのかどうか、ということを考察する。この議論に関しては、政治哲学の王道的な議論になってしまうため、興味のある方は、政治哲学の入門の教科書でも読んでいただきたい。
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War of all against all の図
今回は、このブログのスペースを使い、少し違った、非人文学的なアプローチを取ってみたい。専門的な議論はできるだけ省くことにする。今回はエージェントアプローチ、つまり、個人の幸福追求に重点を置いてみたい。
  自然状態を考える上で、まずは、もっとも単純な状況を考えよう。1対1の対応である。つまり、2人のエージェントが自分の利害を追求しあいながら、交錯する。内容はなんでもよいのであるが、とりあえず、簡単に思いつく例を取り合える。私がまだ小学生のとき、運動会でクラス対抗リレーというのがあった。各クラスから5人選抜されて、リレーで競争するという運動会のプログラムのひとつだ。このイベントは、いってみれば、運動会のメインイベントのようなもので、父兄共々もっとも盛り上がる。それだけ選抜されて者にとってはプレッシャーがかかる。私自身も選抜された選手の一人であったのだが、ある年の運動会で出番を待っているときにこんな話がもちあがった。
  「てかさ、一所懸命に走るのばからしくない?みんなで適当に手を抜いてはしろうぜ。一緒にゴールすればいいじゃん。」
  きわめて程度の低い提案である。小学生の頃の私でさえ、「このまま、手を抜くふりをして全力疾走すればいいじゃん」と思ったものだ。案の定、本番では「手を抜く」という約束をしたものの私を含めて全員が全力疾走した。笑い話だ。
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運動会のリレーの図
馬鹿ような話だが、このできごとはゲーム理論を考えるにはもってこいの例だ。つまり、約束は「non credible commitment」という専門用語によって説明されている。どんなに約束しても、エージェントがそれを守るというのは、利害関係上の信憑性がないということだ。この現象を、私なりの利害関係の解釈をもとに表にしてみた。今回は簡略化し、リレーは2クラス対抗、つまり、2人が一緒に走るものとする。
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ゲーム理論に造詣があまりない人のために基本事項を説明する。それぞれの数字が各選手A・Bの利益をあらわしている。A・Bが両方協力して手抜きをした場合、両方は5の利益を得ることができる(疲れなくてするためや、緊張をしたくてもよいため、などなど)。片方が手を抜き、もう片方が本気を出した場合、本気を出したほうが勝つため、本気を出した選手が10の利益を得、手抜きをしたほうは0の利益をえる。一方、両方裏切って、本気を出した場合、両方疲れたり、緊張したりするものの、それなりの結果になるため、両方2の利益を得ることができる(これに確率の概念を加えることもできるが、ここでは、割愛する)。このようなゲームでは、それぞれの選手にとって最適な選択肢は、常に、「裏切る」ことである。なぜならば、たとえば、Bにとって、Aが協力する場合はう「裏切る」方がよいし、Aが「裏切る」ならば、これまた、Bも裏切るほうが(他の選択肢と比較的に)より大きな利益を得ることができるからである。両方協力するほうが両者にとって総合的に得であるにも関わらず、結果的にA・B両方が裏切ることになる。これをゲーム理論的に、数学者ジョン・ナッシュ(ビューティフルマインドで有名な)「ナッシュ均衡」と呼び、この、「裏切り・裏切り」という結果が、個人が利己的に行動した場合、取調べの状況のメタファーで「囚人のジレンマ」と呼ぶ(囚人のメタファーについてはググっていただきたい)。
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囚人のジレンマ
なにはともあれ、この囚人のジレンマ状況、まさしく、ホッブスが説明している、「お互いがお互いと競争・戦いあう状態」のようである。たしかに、ひとりひとりの選手が個々の利益を追求した結果、自動的にお互いに裏切り会うという結果を招いてしまった。この場合、具体的に利害関係が以下の条件を満たす場合、囚人のジレンマ状態に陥ってしまう。
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囚人のジレンマの条件:  a>c,  b>d, a>d
  これら囚人のジレンマが社会の至る所で発生している状況がホッブスの自然状況であるわけだが、はたして、この状況は避けられないものなのか?国家がそれを防ぐことができるのか?なぜなのか?といったことを次回以降、今回作り上げたゲーム理論の視点を利用して考察していきたい。ということで、stay tuned!
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japanatwesleyanyusaku · 10 years
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ヒューマンキャピタルについて
やってきたぜい、悠作の巻!
先日までイーストビレッジで居候をさせてもらっていた、5年がかりの大親友のヘンリーもついに母国フランスへ帰国してしまった。彼は9月から始まる、英国ケンブリッジ大学での数学の修士学位のプログラムへ備え、体力をチャージしているところである。さすがに彼がいなくなると寂しいもんだ。
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大学1年生時代のヘンリーと私
という訳で、マンハッタンの最北は169th st、ワシントンハイツに引っ越す事になった。1週間たつが、ワシントンハイツとはなかなか良い地域であることが分かって来た。さて、本題へ入ろう。
みなさんはHuman Capital (ヒューマンキャピタル、人的資源)という言葉を聞いた事があるだろうか?人間の能力(知識や技術)などを「資本」と捉える概念である。資本は、(現代経済学では)生産の元となる要素の1つと捉えられている。つまり、人的資源とは、その人の持つ能力を生産の元要素という観点から捉えた概念である。簡単な特徴を例とともに挙げよう:
  1、より能力(知識)がある人間はより少ない時間・物理的資源で効率よく作業を行う事がきる。例えば、数学の知識がある人は統計のタスクをより効率よくこなせるかもしれないし、単純に筋肉質の人の方が、建設現場で資材を運びの効率がよいかもしれない。
2、多くの人的資源は作業に依存している。つまり、例えば、プログラミングの資源は主にプログラミング関係の生産に向いているし、大工さんなら、物を加工したりする職人技術がよりよい建築物造りにつながる。逆に、大工さんの職人技術はプログラミングではおそらく使い物にならない。つまり、彼らの能力はcontext-dependentなのだ。ちなみにこの現象を、asset-specificityと呼ぶ。
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  ここ1年巷で注目の経済書として、フランスの経済学者トーマス・ピケティーによるCapital in the 21st Centuryという本がある。恥ずかしながら、私自身いまだ未読だが、いろいろな学者によるピケティーのレビューはどをよく目にする。どうやら、彼の主張は、現代資本主義は構造自体が不均等な資源分配(必ずしも不平等ではないことに注目)を引き起こすということらしい。この主張の根幹理論として、極端に簡略化すると、資本へのリターン(1ユニットの資本を利用して生産した物から得られる相対的な収入)が経済成長率(の生産量)より高いと、資本の経済全体の規模との相対的なプロポーションがどんどん大きくなっていくということを説明しているーつまり、資本をもっているものがより大きな資本を蓄積していく。なかなか説得力のある理論だ。経済に精通しているものに関わらず話題になっているだけのことはある。
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  しかし、ここで考えなくてはいけないのは、この議論に用いられている「資本」の種類である。実際にピケティーの著書を読んだ訳ではないので、私自身議論をする資格は本来ないが、それにしても、この「資本」を単一化した議論があまりにも目立つ。ピケティーの著書では18世紀半ばの、いわゆる産業革命が始まった頃から現代までの資本と所得差の関係性をデータとして扱っているそうであるが、この「資本」、産業革命時代から現代まで果たして同じ物(というよりも、同じ性質をもったもの)であるだろうか?
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  例えば、当時の生産で最も重要であった資本としては、工場を建てるための土地なのがあるだろうと思う。この場合、地主、つまり、土地の所有者が最初の段階で資本を所有し、それを投資する者である。この場合、確かに、土地は相続されることがほとんどであるため、土地としての資本、そして、その資本から得られたリターンは土地の所有者に代々されていいく事になり、もしそのリターンが(実際の価値として)継続しているものであれば、その元々の資本の所有者はどんどん裕福になっていくこととなる。そう考えると資本の集中化は逃れる事ができないものであるように思われる。
  ここで重要なのは、「土地」という資本は誰もが所有しているものでは無いという点だ。つまり、もともと一部の者しか投資をすることができないものであるため、格差が生じてしまう。もし、全員が同じ量・質の「土地」という資本を所有していたとするとどうであろう?確率的に、所得の分配も均等になるはずである(政治力などの他の要素はすべて同じと仮定した場合)。他のタイプの資本、金銭的な資本も同じ事だ( 近・現代では株式資本などの金融資本の方が意味合いが大きいか?)。
  しかし、科学技術の発達により、状況は変わって来ている。ここで話を戻すが、人的資本の重要性が増して来ているように思われる。特に、インターネット技術の発達により、例えば、「土地」のような一部の人が外的要因として与えられる資本とビジネスの成功との関係は昔ほど密接では無い。極端な話、現代では$200位の安いコンピュータ1台で事業を起こすことだってできてしまう。昔の大富豪を考えてほしい。アメリカではカーネーギーやロックフェラーなどが有名であるが、彼らは皆、オイルや製鉄などさきほどの「土地」のような、フィジカルで量の限られている資本の恩恵を受けている。一方現代の大富豪はどうであろう?有名どころとしては、ビル・ゲイツ、マーク・ザッカーバーグやスティーブ・ジョブスといったところか。彼らは皆、アイディアと知識のみでビジネスを成功させた良い例だ。
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私の専門である、組織論・戦略論の重要なトピックとして、イノベーションというものがある。イノベーションとは新たな技術・知識が開発され、それが一般化される現象のことだ。そういう意味で、イノベーションはある意味、新しい種類の資本を作り上げる作業であり、新たな価値を社会に与える現象である。イノベーション無くして我々の経済の発展はない。そして、このイノベーションは「土地」のような資本よりも、先ほどの人的資本のような類の資本が非常に重要である(その部分の細かい説明は割愛するが、理解してもらうのは簡単であろう。組織構造が人的基本への投資と影響している。私の専門のcapabilities theoryにも密接に関わっている)。簡単な話、新しいアイディアは土地などの資本からくるものではなく、人々の知識・経験などからくるものだる。
  結論からいうと、現代で重要な資本のタイプは人的資本ではないかと思われる。これは、数多くの経済学者(特に開発経済学者)が貧困国開発などの対策としてよく主張している。つまり、人的資本をより分配すること、つまり、教育システムを充実させることが所得格差を減らす鍵であるということだ。そういう意味で、ピケティー信奉者達の、「資本主義の格差を広げてしまう特徴を補うために資本のの再分配が必要だ。」という主張はある意味的外れである(つまり、お金持ちからより相続税を徴収し、それを、低所得層に再分配する)。なぜならば、相続可能な資本(土地など)は現代社会では成功とますます直接結びついていないからだ(教育費への投資など、間接的な関係は存在する)。逆に人的資本は基本的に相続はあまり出来ない。その人が死んでしまったら、おしまいだからである。
  「資本」はひとくくりにしてはいけない概念である。特に、人的資本に関しては、ピケティーが議論している資本とかなり異なる性質がある。それを無視してしまうと、結論がかなり的外れになってしまうこともあるのだ。
  ここで、人的資本の概念とKotaの前回の記事を繋げたいと思う。Kotaの記事は、ウェスリアン大学での教育の様なリベラルアーツ教育は、単純な目先だけの職業訓練という意味での教育にとらわれるのではなく、より大きな意味での様々な価値(感)の評価・想像を促すのに重要であるということを述べている。これは、リベラルアーツ推進派の王道的な主張でもある。では、この議論を人的資本の観点から分析してみたらどうなるだろうか?リベラルアーツは人的資本への投資法として職業訓練よりも優れているということか?それもそうかも知れない。結局のところ、前述のように、人的資本への投資(とくにリベラルアーツ体系の)は新しい価値を想像する(イノベーション)の可能性を秘めているからである。KOTAを含め、リベラルアーツ推進派の主張の根幹はここにある。
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  しかし、私はこの議論に待ったをかけたい。リベラルアーツ教育とは本当にそんなものなのだろうか?私自身、最高質のリベラルアーツ教育を体験した者として感じる事は、リベラルアーツ教育はそもそも投資でもなんでもないということだ。そうであるべきではない。教育は価値を創造するための投資ではないのだ。それはただの結果であり、副産物でしかない。そもそも、人的資本は、結局は人間の能力・知識を「資本」としてみる、数あるうちの一概念でしかない。しかし、人間の能力・知識は「生産の元となる」資本であるだけではなく、他に無限大の意味・可能性を秘めている。そして、それを「資本」という言葉でくくってしまい、「投資」という議論に落とし込んでしまっているだけでとても危険なことなのである。
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  人的資本、便利な概念であるが、教育の意義、人間の知識・能力をこの言葉だけでくくってしまってはいけない。教育の議論をする上で、皆さんにぜひ考えてもらいたいことだ。
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  今議論されている、”is college education worth it?”。 私ならこう答える。”It is not a matter of being worth or not.”
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  それを大前提とした上で、授業料の問題を議論すれば良い。
それではADIOS!
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japanatwesleyanyusaku · 10 years
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卒業後の生活
久しぶりの悠作の巻更新!卒業してしまったが、引き続き投稿させていただく!ついに社会人生活がはじまり、毎日早寝早起きしなくてはならないため、気持ちのいい生活をしている。
とにもかくにも、しばらくブログを更新しない間にいろいろなことが起こった。6月中はウェスの教授でかつ家族ともども(向こう方の)仲良くさせていただいている家の外装を住み込みで行った。住み込みで作業をさせてもらい、とてもおいしい食事を毎日提供していただいて、充実した生活であった。以下、外装作業中のの写真をすこし。
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塗装した家の外観。17世紀に建てられた家だ。
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作業風景
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作業中に見つけた蜂とそいつの巣。私は昆虫ばかなので生かしておいた。笑
その後、その外装で稼いだお金を使い、ドイツのバイエルン州に住む私のガールフレンドのお宅へ1月滞在させてもらった。彼女はレジェンスバーグ大学で分子生物学の修士課程の学生である。しかし、大学があるレジェンスバーグではなく、実家のあるランツフートという町に滞在した。ミュンヘンのあるバイエルン州であるが、アメリカでいうテキサスとよく比べられるように、他のドイツとはいろいろな意味で文化的に一線を隔す。政治的・宗教的により保守的であるというのもあるが、彼らが話すドイツ語自体かなり他地域のそれと異なる。オーストリアで話されているドイツ語に近いそうだ。ちなみにワールドカップ期間中にいたので、優勝フィーバーは半端ではなかった。
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レジェンスバーグの街。UNESCO世界遺産だ。
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ミュンヘンにて
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さすがにドイツは通常タクシーもポルシェやらベンツやら
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ランツフートの城
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滞在中になんと近くにミステリーサークルが現れて大騒ぎになった。しかし、柄が円の派生系の組み合わせであるので、人工的に簡単に作れる形である。私自身もペンと紐で比較的簡単に再現できた(紙上の話であるが)。
と、とても楽しい夏休みを過ごしたわけだが、前述したとおり8月から仕事が始まった。仕事の内容はいづれはなすこともあるかもしれないが、今はあまり言及しないこととしよう。住居は、現在は、親友のヘンリーのアパート(夏インターンシップ用)で居候させてもらっている。9月の新居を見つけなければならない。その件に関しては、現在はクイーンズを中心によい物件を探しているところだ。
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社会人初出勤前。
さて本題にはいろうといいたいところだが、今回はここまでにしておこう。話したいことはいろいろとあるのだが、時効がきているものや、複雑すぎる内容もあるので、どこから話していいのか難しいものだ。いづれにせよ、何かを書くという行為はよい事であろう。最近一年さぼり気味なので、もう少し頻繁に更新していきたい。
それでは!ADIOS!
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japanatwesleyanyusaku · 10 years
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卒業、そして将来への展望
久しぶりの更新だ!悠作の巻!現在はイェール大学近くの教授の家に居候させていただいている。
久しぶりすぎて何の話をしてよいものか。まずは、近況報告をしよう。最近の大イベントは以下:
1)卒業
2)卒業論文の提出とその反響
3)将来へ
とにもかくにも、先週をもってしてウェスリアン大学を卒業してしまった。いろいろなことがあった4年間であるが、最後まで悔いの無い状態で大学生活を「完了」することができたことはとても嬉しい。以下、卒業式の写真から。
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ちなみに、先日あるニュースによると、ウェスリアン大学はコネチカット州で最も授業料が高額な大学であるそうだ。全国的にみても4番目らしい。社会科学的な分析を抜きにして、私が4年間受けてきた教育は選ばれし者した受ける事ができない特別なものだったのだと深く考えさせられる。いろいろな人の投資、善意があって(フリーマン奨学金関係者のみならず、教授や友人)いまの自分がいるのだと思う。
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フリーマン奨学金生の仲間達
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フリーマン奨学金卒業レセプションでのスピーチ
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肝心の論文なのだが、合計144ページのものを書き上げることができた。学部レベルの論文としては少々「アンビシャス」な内容だっただけに、もう少し時間があればもう少し内容の充実したものが書けたような感がある。なにがともあれ、結果として、Honorsを頂ける事になったので、とりあえずは文句なしとしておこう。本当はHigh Honorsを狙っていたのだが、試験官の教授のうちの一人で新古典主義派の経済学者に反感をかってしまい、High Honorsを逃してしまった。しかしながら、論文を私の分野の有名教授に送ってみたところ、素晴らしい返事をいただいた。そのなかでも、私が最も尊敬していて、論文でも何回も言及した、リチャード・ランゴロワという教授に大変気に入っていただき、先日直接お会いする事ができた。彼の作品は日本語訳をされている物もあるので、ぜひ読んでみてもらい。
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論文の表紙とacknowledgement
いろいろランゴロワ教授と相談した結果、一緒に大学院を目指すことで合意した。私の興味のある分野はとても複雑かつまだまだ未発達であるので、学校選択に苦労をしている。ランゴロワ教授もいろいろ聞いて回ってくれているそうであるが、現在のところはビジネルスクールの博士課程、または、一部大学の政治科学系の学部を中心に検討をしている。これから1−2年かけて、彼との関係を深めて行きながらいろいろ準備して行きたい。現在はそういう意味で、次の段階へむけての準備を着々と進めているところだ。
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検討中の一つである、イェール大学経営大学院。立派な建物だ。
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もう一つの検討先である、マサチューセッツ工科大学のスローン経営大学院。MITは政治科学も検討中である(制度-institutionに関する権威でランゴロワの近い仕事仲間が教授しているからだ)。
というわけで、最終的には現在の興味をとことん突き詰めることにしたのであるが、向こう数年間は人生経験の為に就職をすることにした。具体的には、7月中旬からニューヨークのMultiNet International Inc.というIT関連の企業で働かせていただくことになる。という訳で、私のウェスリアン留学は、そのままアメリカでの生活に延長されることとなった。ウェスリアンからの友人もニューヨークで就職したり大学院進学したので、ウェスリアンはこれからも生活の一部であり続けるであろう。ところで、ある統計によると(Kotaroから聞いた話だが)、アメリカの大学卒業後、アメリカにそのまま残る日本人学生は実はかなりの少数派であるそうだ。そういう意味で、留学後のアメリカ生活はどのような物なのかを紹介するという目的を含めて、これからもJapan at Wesleyanで投稿して行ければと思っている(Life after Wesleyanとも呼ぶべきか?)。ニューヨークへお越しの際は気軽に声をかけて頂きたい。コーヒーでも一緒に飲みましょう。
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それでは!
  武田悠作
  P.S. 近いうちに、先日のKotaの投稿に関する見解を投稿したいと思うので、乞うご期待!
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japanatwesleyanyusaku · 11 years
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Normative VS Descriptive
久しぶり!悠作の巻!
前回に引き続き経済の話をしたいところだが、その前に、最近思っていることを書きたい。「考える」ということについてだ。
先日、私が所属する学部、College of Social Studiesで入試が行われた。私自身、例年どおり面接官の一員として教授と候補生と直接面接した。プライベートなので詳しい内容は控えるが、候補生と話す上で、または、彼(ら)の入試を手助けする上で感じたことがある。それは、「考える」ということが何かということを理解していない生徒が多いということだ。つまり、考えているようで実は深く考えることができていない。
まだこのブログも初期の頃、「考える」ことについて紹介した。批判的思考法と「考える」ことがいかに重要であるかということが焦点であった。現代日本人の「思考法」について、卒業生のカヤさんも以前「アカデミックライティング」とからめての記事を書いている。しかし、最近のインターネットでの一般大衆のコメントや批評をみる限り、ライティング以前の問題であるように思える。ということで、今回は、特に、「深く考える」ということがどういうことであるかというお話をしたい。まずは、「考える」ということから。
Normative vs Descriptive
考えが「浅い」なと思う人と話していて気づく事がいくつかある。それは、彼らの主張は「Normative(規範的)」な主張が大概をしめているということだ。つまり、「Aがよい」、「AよりBがよい」、「Cであるべきだ」、「Dを避けるべきだ」といったような主張である。定義するとすれば、「物事の価値に関する主張」ともいうべきか。これを、踏まえて、「浅い考え」は以下の体系をとる:
1)私はAが好きで、Bが嫌い。だから、Aが欲しい。
2)私は、Cが正しいと思う。だから、Dは間違っている。
このような発言は、たとえ、A、B、C、Dがどんなに難しい考えやコンセプトであっても、「浅い」。私が最近聞く例としては:
1)私はリベラルアーツ大学が好きで、大規模大学は嫌だ。だから、リベラルアーツ大学に行きたい。なぜならば、少人数でのクラスはとても良いからだ。
2)私は、同性結婚を許す事が正しいことだと思う。だから、それを支持しない人は間違っている。
3)いじめはいけない。
などといった主張で。実際の場合は、このような主張が複雑に組み合わさって、最もらしい発言に聞こえることもある。しかし、だまされてはいけない。これらの発言は所詮はNormative(規範的)であり、ある価値観を主張してあるに過ぎない。その価値観が受け入れらなければ、なんの意味もない。「私はリンゴが好きだ。」と説明したところで、他の人がリンゴを好きになる可能性は少ない。「そうですか。」でおしまいである。
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Normative to Descriptive
なにかを主張するにあたって、目的は大抵2つある。1)相手を説得する、あるいは、2)相手に自分の主張・立場を理解(認識)してもらうことである。いずれにせよ、ひとそれぞれ、いろいろな価値観・好みをもっているものだ。ただ単に、Normativeな主張をしたところで、話しての価値観に会わなければ理解をしてもらえないし、賛成してくれるのならば、説得する必要は初めからない(もともと、価値観を共有しているから)。なにかを主張するときに本当に重要なのは、価値観が違う人に認識してもらうことだ。そのためには、主張はNormativeではなくDescriptive(叙述的)でなければならない。つまり、(あなたが思う主観的な)ありのままのことをありのままに説明するのだ。その課程において、価値判断は含まれない。
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もちろん、Descriptiveといっても、人間の主観性から逃げる事はできない。例えば、私がAだと認識しているものが、他人にしてみたらBであったということはよくある。しかし、私の主観的な範囲において、私のNormativeな主張は含まれていない。例をあげると:
「私はリンゴが大好きなんだ。リンゴは甘いし、シャキシャキしていて歯ごたえもいい。本当に美味しいよ。」
上記の主張は、単に「リンゴが好きだ」というNormative な主張ではない。単に長くなったわけでもない。「甘い」、「シャキシャキしている」「美味しい」などというのが個人の主観的な感性に依存していながらも、Descriptiveである。これなら、聞き手も共感することができるかもしれないし、もしかしたら、リンゴを食べてみたくなるかもしれない。この発言を要約すると、「私は、甘くてシャキシャキしているので、リンゴが大好きである」となる。次のような発言はどうであろう? 
「私はリンゴが大好きなんだ。私がまだ小さい頃、近所にリンゴの木があって、その木になるリンゴをよく食べてから、リンゴが大好きなんだ。」
これも、よくあるNormativeな主張。自分の経験をdescribe(叙述)することによってdescriptiveな主張をしているように見える。しかし、リンゴについての叙述が全くない。要約すると、「私はリンゴが大好きである」と同じ事だ。
ここまで話せば、NormativeとDescriptiveの違いを理解してもらえてのではないだろうか?ものを考えるということは、物事を(批判的/多角的な視野から)DESCRIPTIVEに考えることである。Normativeな信念をいかに複雑に並べたところで、それは所詮は考えるということではない。そんな主張は説得力もない。
これらを踏まえて、「深く考える」といういうことはなにか。それは、descriptiveな部分をより正確かつ詳細にしていく作業のことである。
それでは!
By Yusaku
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japanatwesleyanyusaku · 11 years
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新古典主義の背骨
久しぶり!悠作の巻!数回更新をさぼってしまったせいで、もう2か月近くブログから姿を消してしまった。更新しなくてはいけないということは認識していたものの、なかなか時間をみつけられなかった。時間があるときも、これまでの埋め合わせをするために比較的大きなトピックを選択してしまい、結果的に書き切ることなく記事をお蔵入りにさせてしまっていた。。。(これらの記事はそのうち投稿しよう)。
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普通なら先学期の総括・今学期の計画などについて書くのが妥当なのだろうが、4年生(特に終盤)にもなってしまうと、生活習慣が当たり前化しすぎて書くほどのことが見当たらないのが現状だ。ということで、生活・学問に関係なく、話したいことをとにかく書くスタイルを貫くことにする。
前回のゲームセロリーの反応がどうもよくなかったため、今回から卒業論文の全貌を少しずつ話していくこととしよう。前述したように、私のトピックは「組織論とヤマハ」なのだが、その重要性を説明するのは難しい。そのためにはまず、メインストリームの経済学、いわゆる、「新古典主義(Neoclassical Economics)」、とくに弱点の部分について話したい。
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冬休みの生活
新古典主義の経済といっても、ピンと来る人が何人いるだろうか。経済学専攻の学生でも区別がついていない者がいるかもしれない。簡単にいうと、新古典主義の経済学とは、大学で勉強する経済学のほぼすべて(もちろん、少数派の例外はあるが、アメリカでは特に大多数派)である。大学で経済を少し(入門レベルを含め)勉強たことがある者は、内容を思い出して頂きたい。以下の用語に聞き覚えはないだろうか?
Indifference Curve (無差別曲線)
Budget Line (予算線)
Marginal Utility (限界効用)
Equilibrium (平衡点)
Etc (他多数)
などなど。これらはもちろん経済用語であるが、新古典派では特に重要な用語である。これらに聞き覚えがある者は、新古典主義を勉強している者であろう。以下、Wikipediaからの説明を抜粋させてもらう:
“Neoclassical economics is a term variously used for approaches to economics focusing on the determination of prices, outputs, and income distributions in markets through supply and demand, often mediated through a hypothesized maximization of utility by income-constrained individuals and of profits by cost-constrained firms employing available information and factors of production, in accordance with rational choice theory.”
「新古典派経済学は市場に置ける、需要と供給によって値段、アウトプット、収入配分が決定されるという視点で経済を学ぶ分野である。特に、合理的選択理論に基づき、個人に置ける効用と企業に置ける利益を、与えられた情報やアセットに基づき最大化するというという前提が置かれている。」
これだけ簡略化してしまうとあまりにも単純で、学者に文句を言われてしまいそうだが、さすがWikipediaとだけあって、一言表すには完璧な説明だと個人的には思う。付け足すと、新古典主義はこのフレームワークに乗っ取り、(ほとんどの場合)代数的計算によって最大値を計算する。視覚的に表す���、以下のような様相を呈する(もちろんこれに限らず):
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どうであろう?みなさんよく見覚えがあるのでは?この形は需要・供給直(曲)線に基づいた値段(または量)変化分析の簡単な図である。この図のなかには、数々の前提が盛り込まれている。ここでは、特に以下に注目したい:
1. Rationality
人間は合理的な選択をするという前提。つまり、自分のself-interest に基づいて効用を最大化する選択肢を必ず選択する。逆に、例えば、AよりもBからの方が効用が得られる場合は、いかなる状況下に置いても必ずAよりはBを選択する。
2. Equilibrium Theory
Equilibriumとは、その状況に置いて、誰も離れる動機が無い状況をさす。つまり、そこから離れることは、そこにいる場合に比べて、”Worse-off”であるのだ。上記のRationalityの前提と合わせ、Equilibriumな状況ではその活動に参加している者のうち、だれも離れることはなく、結果、その状況が続く。
3. Perfect Information (and the subsequent concept of imperfect information)
3. Occam’s Razor
ここで、私はOccam’s Razorという単語を使っているが、意味は単純である。これは、哲学的な考え方で、「なにかを理解しようとするにあたり、より大きな説明力が得られる場合を例外として、出来るだけ簡素な論理が優先的に選ばれるべきである」という考え方である。実際には社会・経済状況はいろいろな要素に影響されているのはあたりまえのことだ。だが、経済学では、現実を完璧に模倣したモデルを作成するのはほぼ不可能であるという理由から、できるだけ簡略化したモデルを元に考察する。そして、その結果を踏まえて、いろいろな要素をオリジナルのモデルに足して行ったり、前提条件を徐々に緩めていき、そのような要素がどのようにオリジナルの考察結果に影響するのかを分析する。
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大晦日の晩餐。一人で調理し食した。
圧倒的な支持を受けていることもあり、新古典主義は敵も多い。だからこそ、有名な学者がいろいろな観点から新古典主義を批判をしている。しかし、すべての批判点を網羅するのはブログである都合上不可能であるため割愛する。
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新年早々、交通事故に遭遇してしまった。幸いけが人もなく(私も含め)、金銭的な責任も負うことはなかった。とはいうものの、冬道の怖さを身をもって体感してしまった。
一つ議論して置かなくてはいけないのは、最初の「Rationality」の前提条件は「経済活動に参加している者全員がラショナルに行動する(つまり、個人の効用を最大化する選択肢を必ず選択する」ということではないことだ。大事であるのは、完全競争(ウィキペディア参照)の状況下に置いては、ラショナルでない選択肢(または、それを選択する個人)は自然淘汰されるため、結果的に市場に置いて観察されるのはラショナルに行動している個人である、ということだ。そういう点では、進化論のような形相を擁している。詳しい説明は割愛するが、この点については、進化ゲーム理論によってより詳しく考察されている。ゲーム理論の部分を省いて説明すると、この理論は2つの大きな前提に基づいていることがわかる。
前提(1)個人の選好(好み)が一定であること。つまり、オレンジよりもリンゴが好きなひとは、いかなる状況下でも、リンゴよりもオレンジを選ぶ。
前提(2)個人は他人を観察・模倣することによって、行動基準を変更することができる。つまり、毎朝10時に起きる習慣がある人が、毎朝7時に起きている人に遭遇したとする。この時に、もし、毎朝10時に起きている人、A君が、7時に起きている人、B君、よりも総合的に少ない効用を得ている感じた場合、A君は最終的にB君の7時に起きる生活習慣を模倣する、ということだ(この例では、10時から7時に変える際のコスト(時間・労力・機会コスト)は省いて考察している)。
これら2つの前提条件が正しいいとすると、確かに理論的には新古典主義のrationality前提は成立する。
ここで、私の卒業論文の視点が絡んでくるのだが、その点については次回お話しすることにする。おしまいに、この点を更に考察する上でのヒントを与えておこう。
前提(2)を説明した際に、「もし、毎朝10時に起きている人、A君が、7時に起きている人、B君、よりも総合的に少ない効用を得ている感じた場合、A君は最終的にB君の7時に起きる生活習慣を模倣する」と書いた。注目してもらいたいのは、A君にとってのB君の効用は、実際にB君が得ている効用ではなく、A君の主観的な価値観・観察に基づいているということだ。例えば、A君が実はサッカー大好き少年だとすると、B君が7時に起きて友達と朝にサッカーをしているから7時に起きることがとても良いことのようにみえるかもしれない。これが例えば、睡眠が大好きでサッカーが嫌いな少年だったら、B君が7時に起きて友達と朝にサッカーしていることがなんにも楽しそうなことではなく、地獄のような生活に見えるかもしれない。両方の例に置いて、B君は全く同じことをしているにも関わらず(7時に起きて友達と朝にサッカーをする)、A君がそれをどのようにみるか(A君がB君がどのくらいの効用を得ていると感じるか)がA君の主観的な価値観・選好によってかなり変わってくることが解る。
これを踏まえて、あなたはrationalityについてどう考える?
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japanatwesleyanyusaku · 11 years
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THE LOVE GAME THEORY
やってきたぜい、悠作の巻!前回はあまりの忙しさに久しぶりにさぼってしまった。。。今週は実は更に忙しいのだが、連続でサボるわけにいかないので頑張って投稿する。長話はできないので、この間みつけた面白い記事を元ネタに、Game Theory について少しお話しする。Game Theoryに造詣がある方にとっては、当たり前の内容であるが、Game Theoryに興味があるけどとっつきにくいなという人には面白い記事かもしれない。
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先日の柔道の合同練習会の写真
今回の元ネタはこの記事:”14 Ways an Economist SaysI Love You (経済学者がI.Love. Youという14通りの方法)”   (http://fosslien.com/heart/)
どの例もとってもよくできていながらも、突っ込みどころもあり、よくできた記事である。一つ一つ説明するのも面白いが、今回は特に「おもしれー」とおもったラストの例、”The Love Game Theory”。
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一見すると当たり前でつまらないのだが、実はとても深い!というのも、発展させると深くなるのである。
例えば、それぞれの点が交互にPlayer AとPlayerBだとする。されに、NOというストラテジーを最初にしたPlayer がそれまで積み立ててきたペイオフを受け取れるとする。これらを念頭に置くと、ゲームは以下のようになる。
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ゲーム構造を理解するためにペイオフを簡略化しているが、別にこの通りである必要はない。注目してもらいたいのは、ゲームが進むためにペイオフが増えていくことである、つまり、ゲームをより続けることにより、手取りのペイオフが増加する、しかし、ゲームを最初にやめたもの(例えば、泥棒、恋愛を楽しんむだけたのしんで一気に振ってしまう、など)がそれまで蓄積してきたものを丸ごと楽しむことになる。この「蓄積」というニュアンスを明確にするために、一回のYESごとに��れぞれ(1,1)がペイオフに加えられることにする。これは、日常の何気ない楽しさとでも解釈してもらいたい。しかし、次の回で裏切ることにより、この足された分の両方である2が前のペイオフから足された状況で得られることになる。
このゲームを理解するうえで重要なのは、(X、Y)、つまり、ゲームの終りの値がどのようなペイオフであるかということである。例えば、Yが8以下であった場合、PlayerBは最期の段階で「NO」を選ぶ、しかし、その場合、PlayerAがその前にNOを選ぶ。結果的にはYが8より下であった場合はこのゲームは最初からプレイされず、PlayerAがNOを選んで2をもらって終了してしまう。これが恋愛関係だった場合は、関係が最初から成立せず、最初の楽しいところだけつかんで、おしまいになってしまうということで(一夜だけの関係、最初のデートで終わってしまう状況)。
では、Yが8より大きい場合はどうだろうか。この場合は、Xが6より大きくなければ、先と同じ理由でゲームはつづかない。つまり、恋愛関係が続くためには、求めている関係の結果が、(6、8)、つまり、どこかで裏切ってしまうことで得られるペイオフよりも大きくなければならないということになる。しかし、実際には、このゲームが4回繰り返されているだけなので、(X,Y)=(4、4)である。これではこのゲームは成り立たない。少なくとも、8回以上繰り返されなければこのゲームは成り立たない。
しかし、実際のところは、恋愛関係の場合は特にそうだが、「完成系」のような明確に終わるものではない。つまり、明確な(X、Y)が存在しない。ゲームが進めば進むほど、裏切ったときに得られるペイオフが増えていく、ということは、関係が続けば続くほど(というよりも、長続きすると思われるほど)、その「完成系」から得られるペイオフが大きくなければ、その直前で裏切るのが得策となるーそしてその結果、最初の段階でゲームが終了してしまうことになる。ゲーム自体がプレイされないのだ。
唯一の可能性は、ゲームが無限にプレイされるという場合だ。この場合、後ろからペイオフを逆算することができない(逆算を始める地点がない)。その場合のペイオフを予測するために、どれだけ未来をディスカウントするかというあたい、rを考える。結果、ペイオフは以下のようになる。
無限に続いた場合のペイオフ: e= 1 + 1xr + 1xr^2 + 1xr^3 +.......  
中学校での数学を思い出してもらう。この式は次のように書き換えられる。
 e= 1 + 1xr + 1xr^2 + 1xr^3 +.......  にr をかける。
re= r +1xr^2 + 1xr^3 +.......   この二つを引くと。
e - re=1 → (1-r)e=1
→ e= 1/1-rということになる。
一方で、直前で裏切ったとすると、先ほどの逆算方式で(2、0)ということになる。つまり、Aが裏切る場合のペイオフは、
E(uragiri)= 2
結果、1/(1-r)>2である限り、このゲームは永遠に続くのだ。計算してみると。。。
r>1/2であるというこになる。つまり、このゲームに置いて、一つ未来のペイオフを半分以上ディスカウントしなければ、このゲームは永遠に続くということになる。
ということは、恋愛関係に置いても、今に価値を置きすぎずに未来に意識を置いたほうが、関係が長続きするということか?
しかし、そうこう考えると、私の親友が2年生の時に新しい彼女と付き合い始めたときの発言が思い出される:「彼女の話だとさあ、別れるときいっつも彼女から話を持ち掛けるらしいよ。俺もそのうち捨てられんのかなあ?それなら、楽しむだけ楽しんで俺から別れたほうがいいのかな?」
当時の彼の頭にあった構造は前述のゲームにかなり近いのではないかと思う。しかし、結果彼は、数々の問題を彼女と抱えながら、なんと2年間も付き合った。最近、ある事件があり別れることになったのだが、いまでも同棲関係が続いている。
人間は結局ゲームで説明できるほど論理的に行動しないのか、それとも、彼らの関係における情報が均等・十分ではなかったのか?ゲームの前提条件自体が硬すぎるのか。
人間は複雑難解である。だからこそ、社会科学は楽しい。
冗談のようで、冗談ではないお話でした。
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japanatwesleyanyusaku · 11 years
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パブリック、プライベート、アイデンティティ
悠作の巻!今回は前回の続きとして、「突然変異」について更に考察しようと思っていたが、アカデミックに成りすぎるとまずいので延期することにする。かわりに今回は、最近何気ない話題に上がった内容で、特に面白いと思ったものを更に考察していきたい。具体的には、「アイデンティティー」について話したい。
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先週から実は、「Thesis Workshop」なるものが始まった。これは、CSS生がそれぞれの卒業論文の内容とその進み具合などを20分位で発表し、その後、CSS関係の教授と他の卒論ライターによって質疑・アドバイスなどを含めた議論をするというイベントである。最強軍団ともいえるCSSの強者教授陣と社会科学系でも特に批判的なCSS生による集中攻撃にあうため、「Public Bullying(公共いじめ)」のような様を呈する。私の回が今週末に控えているため、少し緊張気味だが、それはよしとしよう。
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先日のCSSでのディナー。シンガポール、日本、韓国(2人)、マレーシアとアジア諸国が集結してしまった。
そのThesis Workshopのなかの一つで、ある友人のトピックが目についた。内容は、「イスラエルに置ける、ユダヤ人アイデンティティー」。私自身造形が深い訳ではない分野である。どうやら、イスラエル国籍を取得する要項の中に、「ユダヤ人であること」というようなものが含まれているらしく、私の友人の論文ではその「ユダヤ人」のアイデンティティーを法的にどのようにあつかうのが適当なのか、ということを考察するようである。具体例としては、過去の事例をもとにした現在のイスラエルにおけるフレームワークでは、「ユダヤ人」アイデンティティーはイスラエル国家(正式には裁判所)がMonopoly(独占)しているようで、彼は、「健全な民主主義国家であるためには、アイデンティティーは外的な機関がきめるのではなく、内的に決められるべきだ」という主張から出発し議論を展開している。簡単にいうと、例えば、アメリカ人の両親を持ちながら日本で生まれ育った人がいるとする。見かけが西洋風であろうがなんだろうが、日本で生まれ育ったゆえに「自分は日本人だ」と感じるかもしれない。その際に、「日本人としてのアイデンティティー」は「自分がどう感じるか」ということをもとにして決定されるべきで、他人や日本国がとやかくいうこうべきではない、ということになる。
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フリーマンディナー前の集合写真。Class of 2014
なかなか説得力のある考え方であり、人々が好みそうなアイディアである。しかし、本当にそうなのだろうか?ならば、私自身が日本で生まれ育ったにも関わらず、アメリカで、ウェズリアンで4年間生活して、とても居心地がよいからといって、「私はアメリカ人といったほうがしっくりくるからアメリカ人というアイデンティティーを持つことができる」といえるのだろうか?
私なりの答えは、「YES and NO」である。それはアイデンティティーには2種類存在すると私は考えるからである。
Public and Private
経済学のコンセプトで、Public(公的)とPrivate(私的)という区別がある。Privateというのはその現象が個人で閉じていることをいう。つまり、自分の起こすアクション・決断などが他人に影響を及ぼさないものである。そのようなものを、Private matter という。例えば、自由気ままな大学生である私は現在Privateなことがとても多い。朝何時に起きて、クラスにちゃんと出席して(またはしないで)、昼食になにを食べて、etc.という決断やアクションが他人に影響を及ぼすことはほとんどない。すべて自分で決めることができることであり、その結果は自分の責任である。つまり、Privateなのだ。
かといって、すべてがPrivateであるというわけではない。例えば、私が親から預かっているクレジットカードを使ってしまった場合、これは、Public matterである。なぜならば、そうすることによる影響(この場合はコスト)が私自身にではなく親にかかるからである。経済学ではこの現象をNegative Externalityという(何かに伴うコストがすべて自分に内在せず、外にスピルオーバーすること)。Pollution(汚染、Kotaのことでは無い)などのEnvironmental problems(環境問題)の多くは典型的なNegative Externalityであることが多い。現在なにかを汚染することに伴うコストが、直接汚染元にチャージされないのである。例えば、私が結婚したとする(できれば良いのだが。。。)。この時点で、私の生活習慣はPrivateからPublicになってしまう(正確にはQuasi-Publicというのだが、詳しい議論は割愛する)。なぜならば、起床時間・朝食・出勤時間・就寝などが他人(この場合は妻)に直接影響を及ぼすからだ。そうでないにしても、今の私にとっても「朝シャワーを浴びる)という行為は基本的にPublic matterである。朝のクラスの為に他のハウスメートもシャワーを浴びなければならないため、自分がシャワーを浴びることにより、他のハウスメートがその間シャワーを浴びれなくなってしまう。つまり、自分のシャワーを浴びるというアクションが他人の人生の選択肢に影響しているのだ。経済学的にみると、 「朝にシャワーを浴びる」という行為は「Scarce resource」であるということになる。
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Identities in the Private Sphere and the Public Sphere (プライベートなアイデンティティーとパブリックなアイデンティティー)
PrivateとPublicの違いを理解することによって、アイデンティティーも実はプライベートなものとパブリックなものの2種類あるということが見えてくる。プライベートなアイデンティティはそのアイデンティティが外的な要因に依存・影響しないものである。例えば、私自身が犬が大好きだから、「私は愛犬家である」というアイデンティティーは完全にPrivateなアイデンティティーである。自分自身が犬が大好きであるから、愛犬家というアイデンティティーを自分で認める(ある意味で自己正当化のようなものか)。
一方で、Publicなアイデンティティーというものも存在する。例えば、私の「ウェスリアン大学の学生」というアイデンティティーはPublicなアイデンティティーである。これは、「ウェスリアン大学の学生」というアイデンティティーは「ウェスリアン大学」というPublicな組織(この場合複数人が協調することによって存在しているCollective entity)に「参加」することで得られるアイデンティティーであるからだ。そこら辺の街の人がいきなり「ウェスリアン大学の学生」というアイデンティティーを得ることができないのは、「ウェスリアン大学」というPublicな組織に参加していないからである。
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ここで話を戻す。前述の問題で私が「Yes and No」と答えたのは、プライベートなアイデンティティーとして「私はアメリカ人である」というのは「Yes」であり、「Public」なものは「No」だからだ。私自身がアメリカに馴染んでいて、アメリカ人としての方が日本人としてよりもしっくりくるから、『Privately』アメリカ人としてのアイデンティティーを持つことは可能である。しかし、アメリカ人というアイデンティティー自体が「アメリカ(文化的、歴史的、地理的、政治的何どいろいろな意味で)」というものに参加して得られる者であるという点で、『Public』なアメリカ人というアイデンティティーは、そのものに参加することが許され、実際に参加して初めて得られるものであるのだ。更にいうと、ウェスリアン大学に入学するためには入試に合格しなければならないのと同じように、そのPublicな集合体がExclusiveに(排他的に)参加者を選定することは十分可能であり、そういう意味で、国家がアイデンティティーの選択権を有するということは重々にあり得ることである。
これらを踏まえて、私はWorkshopで次のような質問を投げかけた。
「貴方の論文の趣旨自体が、パブリックなアイデンティティーとプライベートなアイデンティティーの違いを混同しているのではないか?自分が『ユダヤ人』であるというプライベートなアイデンティティーとイスラエル国家が国家として有する『ユダヤ民族国家』というアイデンティティーは根本的に別物であり、前者はプライベートで後者はパブリックだ。そういう意味で、国家がアイデンティティーの決定権を有することはごく普通のことであり、その決定がプライベートなアイデンティティーとしての『ユダヤ人』を決定しているわけでもない。そのことについてはどう思う?」
彼にとって、この質問への明確な答えはなかったようだ。
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先日のハロウィーンより
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japanatwesleyanyusaku · 11 years
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会話に置ける突然変異
悠作の回!新学期も始まって中間も終わり、今学期も徐々にギアが上がってきたね!
最近、いろいろな友人に論文について聞かれることが多くなってきた。やはり、皆興味をもってくれているのか、はたまた、私が社会科学系統のこと(特に経済)ばかりのことばかり考えているためか、日常会話と学問の会話の区別がつかなくなってきているのかも知れない。いずれにせよ、自分が興味をもって取り組んでいることについて話すことはとても楽しい。
というものの、やはり、最大で150ページから200ページくらいになるであろう卒論の話を簡単に説明することはほぼ不可能で、バックグラウンドから説明すると最大限まで簡略化しても、面白味がわかるところまで説明するのにはだいたい1時間くらいは(英語・日本語に限らず)かかってしまう。学問の世界に���わっている人は、常にこの、ある意味世界観の違いみたいなものに直面しているのかな、っと思ってしまう。
しかし、人間の適応能力とは面白いもので、いかに難しいといえども、何度も何度も説明するうちに、「あ、ここの部分から話せば解りやすいのか!」とか「こういう例え話と絡めれば面白く聞こえるのか」とかというものが解ってくる。そして、そのたびに、今まで自分が理解していたと思っているものの理解が更に深まったり、意外な物との関連性が見えてきたりする。これは、簡単にいうとインプットとアウトプットの違いなのだが、深く考えるとなかなか面白く、更に、議論形式の授業が如何に講義形式とものよりも優れているのかの一つのヒントになることも解る。
ということで、今回は論文の話はしないで、このような、コミュニケーションの観点から授業スタイルについて簡単に考察していきたい。というものの、色々考えながら落書きしているうちに、ぐちゃぐちゃになってしまい、というものの、ブログにまとめられるようなものではなくなってしまったので、簡略化してしまった。また、私自身、この分野における専門知識がないので、「あいつ、またなんかほざいてるよ」くらいのつもりで読んでもらいたい。勉強法などの参考になるとよい。
まずは、簡単な授業スタイルの考察から。まずは、授業スタイルは2種類(レクチャーとディスカッション)の形式があるということを仮定して話していく。もちろん他にもいろいろな可能性があると思うが、この二つはシンプルかつ両極端な例であるため、理解しやすいのではないのかと思う。
まず最初に、ある重要なアイディアをご紹介したい。それは、突然変異(Mutation)という概念である。これはただ単に、AさんがBさんにアイディアを送った時に、BさんがAさんが思っていたもののまま情報を受諾するかどうかの指標となる。もし、内容が少し変わったり、違う意味合いでとられたりした場合、そのアイディアが「突然変異をした」と呼ぶことにする。理論的な説明はいろいろ可能だが、簡単にいうと、この場合、BさんのAさんのアイディアの分野造詣の深さ、Bさんのバックグラウンド、得意分野、その日のムード、性別、社会的地位など、いろいろな要素が作用して突然変異が起こると思われる。このような現象は、バックグラウンドなどがほぼ違う人間の間でもよく起りえることなどで、言語・暗黙の常識などが大きく異なる人同士だと、突然変異が起こる確率はさらに上がると思われる。これは、ひとつひとつの単語・文法は共通していても、細かいところでのニュアンスなどや印象などが個人差の大きい知識や経験などに大きく依存しているからだと思われる。
というわけで、突然変異が起こる確率というものが存在するとする。まずは、簡略化するために、この確率が、どのようなバックグラウンドであろうとも、一つのアイディア伝達毎に三分の一であるとする(Pr(mutation)=⅓)。これを踏まえて、次の図を見ていただきたい(汚い字は勘弁していただきたい)。
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一番上の図がレクチャー形式の授業、下の図がディスカッション形式の授業を表現している。両方、教授が一人、生徒がA、B、Cの3人ということで、この点の条件は全く同じである。注目してほしいのは矢印の数である。一つの矢印が一つのアイディア伝達を示している。つまり、一人が発言することによって、そのアイディアが他の三人に伝わる。一回の発言により、3つの矢印が飛び交うことになる。
2つの図を見てもらうとわかるように、レクチャー形式よりもディスカッション形式の授業のほうが、アイディア伝達の数が4倍も多いことが見て取れる。一つのアイディアごとに突然変異の確率が1/3であったので、レクチャーでは突然変異が起こる期待値が1回なのであるのに対して、ディスカッション形式では4回、これまた、4倍である。因みに、この数字は人数に比例しているので、5人なら5倍、6人なら6倍と増えていく。ちなみに、ディスカッション形式の期待値を式にすると、 nを参加者数とすると、以下のようになる E(mutation)=n x (n-1) x ⅓ 。とはいうものの、クラスが大きくなりすぎると発言の機会も減ってしまうので、その分の式も構築して、最大化した数字が最も効率の良いクラスの大きさとなる(理論的なもので、実際は、教授の能力や突然変異の性質によってことなるため、計算するのは不可能である)。
当たり前だといってしまえばそれまでなのだが、この現象は、アイディア発信が複数化することによってさらに顕著になる。つまり、一度突然変異したアイディアがさらに他の人に伝わることにより、さらに突然変異し、最終的にはオリジナルのものとはかなり異なるものになる。その結果、ディスカッション形式の授業ではレクチャーでは考えられないレベルの異なるアイディア交換が行われることになる、よって、マテリアルの理解が深まるのだ。
長くなってきたので、あっさりしているうちに今回はここまでにしておこう(簡略化しすぎてあっさりしすぎた感も否めないが)。次回は、突然変異がどのようにしておきるのかということについて少し考察していきたい。この記事を読んで、言葉の授業・日常会話に置いての「言葉のキャッチボール」のボールの「飛び方」や「取り方」その方向などについて意識できるようになってくれれば、今回の記事は意義があったというものだ。
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japanatwesleyanyusaku · 11 years
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教育の価値は自分できめやがれ!
悠作の回!新学期も始まって中間も終わり、今学期も徐々にギアが上がってきたね!
今回のテーマは。。。「教育」!偶然とは面白いもので、教育についての話をしようかな(実は、すでにディスカッション形式の授業を分析して原稿を執筆していたのだが、それは次回投稿することにする)、なんて思っていた時に、たまたま、二次試験廃止が発表された。更には、私の高校の後輩でもあるブラウンのTaka、そして、ウェスリアンの後輩のKotaroが次々にそのネタに飛びついて、とても面白い議論が展開されている。なにはともあれ、これは日本の将来を左右する重要な問題であるので、この問題について議論しすぎるということはない。ということで、今回は私自身もこの件について少しでも議論に貢献していければ。
未読の方はKotaroの投稿をまず読んで頂きたい。
簡単に要約すると、2つのポイントが挙げられている。
1、人物評価重視だけが、今回の改革の中身ではないはずだ。
2、これまでの、閉じた意味での「優秀な人材」ではなく、ファクターとして特定しきれない要素も含めれる、大きな意味での「優秀な人材」に優良大学での教育の機会、そして、将来の重要職への扉を広げる意味で有効的である。
この2点を踏まえた上で私が思うのは、「なぜ入試制度ばかりが注目されるのだろう?」ということである。やはり、入試偏重の伝統が根強い証拠ではないのか。ちなみに、アメリカでは、一つ一つの大学がそれぞれいろいろな特色・強みを持っており、自分自身がどの学校に適していて、大学側もその学生がその大学に適しているかを見極めて合否を決定する。つまり、アメリカでの大学選びは、あるいみ結婚のようなもので、お互いが相思相愛の場合に限りその学生が入学することになる。
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それを踏まえて見えてくることは、日本教育制度に置ける議論は「入試と大学を別々に考察している」ということだ。つまり、日本人にとって「大学教育」とは、大学が「教育」をあたかもボランティアのように提供し、学生はより有名な大学に入学するために他の学生と競争をする。今回の変革はそういう意味で、その競争の道具が、「ペーパーテスト」から「より総合的な評価」へ変わったことにすぎない。しかし、本来ならば、学生Aが大学Xに出願する理由は学生Aが大学Xの教育が欲しいからであるはずだ。
つまり、「需要と供給」の概念が存在しないのだ。日本の大学システムは一部の有名大学主導���「オリゴポリー(供給側が供給全体をコントロールしている状態)」になっているのだ。需要側の求めているものが「グローバル化」によって変わってきているならば、その需要の嗜好が供給に反影されないシステムになってしまっている。
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オリゴポリーの図
そういう意味で、Kotaの「教育の定義ってさ、逆に国としてはあんまり明確に決めちゃわない方がいいんじゃないかな、って思った。」というFacebookでのコメントはなかなか的を得ている。まさにその通りで、「教育の定義」は一人一人の学生が主観的に定義するものであり、国が定義するものではないのだ。その学生が、「こんな教育が欲しい」と思った物が「教育」であり、あとはそれを提供してくれる大学があるかどうかということになる。一定の需要があるから、大学もそれを供給する動機があるし、それを提供することによって大学も人気になる。人気になれば、学生を絞らなくては行けなくなるから、その大学の提供する特定のも教育に最適の方法で入試を行えばよい。そのようなプロセスにおいて、例えばリベラルアーツ系の大学は、リベラルアーツ特有の少人数主義などの供給の質の根幹の部分を守るために少人数しか入学の許可をださないし、多様性を大事にする。逆に、技術系の大学は、例えば、数学がむちゃくちゃにできるやつだけを集めたいかもしれない。それは、すべて需要と供給のバランスの問題であり、入試制度はその結果により初めてデザインされるものである。つまり、Takaの「人物重視かテストかという議論はそもそも的が外れている」という意見は妥当だが、「国の定義がはっきりしていない」というのは、私としては違うと思う。むしろ、定義なんか最初から無い方が良いのだ。
こういうことを考えていると、先日読んだある記事について思い出される。アメリカでの人文教育についての意義について議論している記事だ。
この記事は、教育の価値とは将来的な「成功」を得るために教育を受けるのではなく「成功」自体を疑問視できる能力を育成することだ、とうことを主張している。そして、これは人文教育に限らず、大学教育、さらには教育全般に通じることである。つまり、自分独自の価値観・生き方などを追求できる能力を鍛える、それが教育なのだ。
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だから、どの大学に行くとどんな職につける、とか、こんなことを専門にした方が将来の職業につながる。そういうことを考えて大学にいくのもよい(それがあなたの「教育の価値」ならば)。だけど、教育とは人間形成の場、つまり、「あなた」という人間を育む足がかりとなる物だということも忘れてはいけない。日本政府が「グローバル人材(どんな定義であろうとも)」を育てたいのではなく、貴方自身がどのような人間になりたいか。それが、貴方自身の「教育」の意味なのだ。
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japanatwesleyanyusaku · 11 years
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再出発とその意気込み:シニア生活その1
Hmmm? What? Already??っと始まってしまった新学期。ついにウェスリアン生活も最終年となってしまった。新入生も大勢加わり、Japan at Wesleyanも良い意味で賑わってきている。
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今年のJ-Crew
さあ、4年目だ。四年目といえば??
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  卒業論文
そう、今年の最大かつ最高の難関は卒業論文である。この代物、日本のように(ほぼ)必修ではなく、だいたい10%位の学生が挑戦する。うまく行けばHonors(優秀賞)かHigh Honors (特別優秀賞)がもらえてしまう重要な物だ。内容は個人や専攻によって様々で、例えば、映画専攻の学生は映画を作成したり(Neoが既に紹介したことがあるが)、数学専攻のひとは新しい理論を発明したりする。
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私が在籍するCSSは、Multidisciplinary Social Science and Humanities Major(社会科学と人文をいっぺんに勉強する学部)であるため、それぞれの学生が興味のある分野での研究を行っている。今年卒業したKayaさんの論文はキルケゴールについての哲学の論文だった(興味のある方はCSSのサイトからダウンロード)。
では、私は?というところだが、私は「Law and Economics(法と経済)」という分野に置ける、「Theory of the Firm(企業論)」というものについて研究している。企業(というよりもFirmという集合体)とはどのような物なのか、どうして存在しているのか、マーケットに置ける影響力はなんなのか、という問題を考察している分野だ。特に私のアドバイザーでもあり、その分野に造形が深いRichard Adelstein教授が提唱した、”Contracts-in-performance”という論理を発展させている。企業論は現在のところ(というよりも経済学全般だが)いわいる “Chaos(ぐちゃぐちゃ)”な状況で、まともな理論があまり確立されていないのが現状であると同時に、経済と法とビジネスの分野にとてつもない意味合いがある内容である。詳しいことについては後々話して以降と思う(というよりも、社会・経済を考える上でとても重要な意味をもつのである)。ayyaaaaa 書き始めると止まらなくなってしまう。
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アデルスティン教授。彼の法と経済学入門のクラスはオンラインで無料で聴講できる。皆さんもお試しあれ。
内容はともかくとして、論文自体は今のところこの上なく良い方向に向かっている。夏休み中の研究がとてもはかどったおかげで、報告書は教授に「This is brilliant! (これは天才的だ)」といってもらえるほどの評価を頂いたし、私自身も、論文がどのような方向に向かっていくのか見当がついているだけでもかなり安心感がある。というものの、複雑難解な分野であるため、約束されているものはなにもない。だからこそ楽しいともいえる。なにはともあれ、学期の始まりに提出した提案書(短縮版)をご紹介しよう(内容がつかめるほど詳しくは書かれていないが)アドバイスなどがある方はぜひコメントをよろしく(本当に、本気で待ってます)。
論文執筆に付随して、先日幸運なことに図書館での個室をゲットした。くじ引きだったのだが、普段運が悪い割にはこういう時に運を発揮してしまうところが私らしい。
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個室の写真
他の履修クラスは、経済のクラスを2つ(ミクロ経済と統計法)とCSSの最終章・Senior Colloquiliam。経済2クラスは大体理解している内容であるし、ミクロ経済については、アドバイザーと散々ボコボコに愚痴まくっている内容であるので、ここまではそんなに大変ではない。将来大学院に行くときのことを考えて「一応履修したことにするため」程度のつもりでいる。
余談ではあるが、こういう経済のクラスを履修していると、一部の経済学者がいかに盲目的に学問をしているかがよくわかる。どんなに良い大学で博士号を取得していようとも、教科書に紹介されている理論を疑がおうともせず、単純に設定されている計算方法・分析方法が絶対だと信じて疑わない学者が多すぎる。鵜呑みにしているということは、完璧に理解もしていないということの証拠でもある。別に現在主流の経済学(Neoclassical Economics)を批判しているわけではないが、専門として扱っているのだから、その根本的な理論を考えずになぜ仕事ができるのか私には理解ができない。経済学はまだ発展段階であるし、社会現象を扱っているのだから、理論が不完全、あるいは、完全に間違っている可能性があることを忘れてはならない。特にウェスリアンで私が思う限りでは、経済の教授はとてつもないキレ者か、軟弱者の2種類しか存在しないように思える。自分は将来なにをしようとも、常にキレ者でありたいと思う。
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論文の参考文献一部
退屈な経済2クラスとは裏腹に、ものすごーーーく楽しいのがCSS Colloquiliam。ウェスリアンでもキレ者と名高いスキルマン教授による(「Don’t mess with Skillman スキルマンにちょっかいをかけるな」というのは、経済の教授の中では合言葉になっているらしい)、社会論・政治経済学をGame Theoryの視点からぶっ壊していくというとてつもなくエキサイティングなクラスだ。取り扱っているい面白いマテリアルやスキルマンの凄腕(というよりも凄脳)がとても刺激的なだけでなく、Game Theoryというまったく新しい視点が素晴らしく面白い!これまででは考えられなかった視点から、これまで考えてきたものを再考察できたりして、これまで素晴らしい体験をさせてもらっている。ウェズリアン生活で最高のクラスと自信をもっていえる。これについてもそのうち軽くブログで触れられると良いなあなんて思っている。しかし、さすがにバリバリの数学が一部関わってきている、文系の生徒は特に苦しんでいるようである。私はもともと生物好きであったため、進化論を数値化できるのこ理論は物凄く面白い!かつ、私の論文にも関係している(どう関係してくるかは、スキルマンと共に現在検討中であるが、主に、組織内で精神的にシェアされているルーティーン、システムの認知などがどのように形成されるかというのがカギとなっている)。
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数学色が否めないGame Theory(数学自体はそこまで複雑ではない)
このような、とても学際的に刺激的な環境に身を置いているおかげで、毎日アデルスティン教授やスキルマン教授と会話をしに行くのが楽しみになっている今学期である。もちろん、柔道も続けている。4年生とは、なかなか良いものである。
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ウェズリアン最終章完了に向け、いざ行かん!
次回、論文について話すのが待ちきれない。。。とうずうずしている私は既にオタクなのかも知れない。
それでは、ADIOS!
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japanatwesleyanyusaku · 11 years
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悠作の巻:宗教・経済・自己正当化ーKotaroの記事へのコメントを再考察
はい!悠作の巻、今夏第2回目!毎日40℃近くまで気温が上がってきたなか、図書館にこもる生活(仕事と研究のため)が続いている。とはいうものの、週に2回は柔道の指導/練習、それ以外は、ジムで筋トレ+体力強化に励んでいるため、食欲もモリモリ湧き、夏バテの無い大変健康的な生活を送っている。
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先日このような物をいただいてしまった。「最優秀技術賞」。嬉しい。
  今回は、私の研究について書こうと計画していたのだが、内容が経済学であるため、専門用語や特定の考え方など、分野に慣れていない読者の方には面白くない、堅物になってしまう可能性もある。それを避けるために、私の研究については今回は保留にして、もっと面白いことについて考えてみたい。長いけどちゃんと読んでね!
  今回は、後輩のKotaroが以前提示した「自殺と宗教」の問題について更に考察していきたい。この問題はとても面白く、また、いろいろな視点からの考察が要求されるのでかなり興味深い。実際、読者の方々からも面白いコメントをいただいている。読んだ事が無い方は、こちらから一読してもらいたい。以下、一読してもらったことを前提に議論をすすめる。
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  このポストのなかで、Kotaroは、アメリカに置ける無宗教信者の増加と自殺者数増加の関連性を示唆している。ここで、読者のかたから以下のようなとても面白いコメントをいただいている。さすがにJapan at Wesleyanの読者の方々とあって、なかなか切れ味の良いコメントをいただいている。
  読者1(ななしさん):
ナチスドイツ時代の強制収容所から生きて脱出した人達の中では、圧倒的に信仰を持っている人の割合が多かったという話がある -- これはユダヤ人が主に収容されたからでないでしょうか。
生死も肉体的に関わることが多く(毒ガス, 銃殺, 栄養失調, 寒さ, 疫病など)、信心の入れ込む隙は少ないように見受けられます。生死ともなれば、生き別れ或いは死別とも分からない親兄弟に頼るより全知全能と言われている神にすがるというのも頷けます。
宗教国家にも殺人があり, 宗教と自殺を主な理由として結びつけるのは疑問の余地を若干残しかねません。
ちなみに、ななしさんのコメントについては、私(悠作)自身から返信をいかのような返信をさせていただいた。
  私(悠作):
ユダヤ人が他の民族より信仰深いかというのはさておき、「ナチスドイツ時代の強制収容所から生きて脱出した人達の中では、圧倒的に信仰を持っている人の割合が多かったという話がある」というのが経験論的に正しかったとするならば、議論されるべきなのは、どのようなメカニズムでそうなっているのかということではないでしょうか?
哲学や宗教に限らず、ナショナリズムなどのイデオロギー全般に言える事ですが、これらのものは個人や集団に「ラベルをつける(自分が『誰』であるかというのをラベル化する)」事を通して、自己のアイデンティティーの形成に強く関与していると考えられます。哲学的な見解としては、人間の他人/社会に置ける自己認識というものにおいてこのアイデンティティー形成は極めて重要であり、それが失われると社会のなかでうまく生活できなくなったり、精神的に病んでしまったり、いろいろな不具合が生じてきます。これは、価値観が多様化している(もしくは、価値観というものの絶対性が崩れている)現代社会ではとくに重要な視点であり、自殺の増加もそのようなメカニズムに関与しているのではないかと推測できます。つまり、良い意味での自己正当化が出来なくなってしまった人々が精神的/社会的に阻害観を感じ、自殺に走ってしまうということです。
宗教国家にも殺人があるという例を出すのは簡単ですが、そもそも「宗教国家」というものの定義・具体例が明覚でないなかで、「殺人」と「自殺」を混同してしまっては、宗教と自殺の関連性を批判するには残念ながら不十分です。
ちなみに、経験論的に、このイデオロギーを伴ったアイデンティティー形成は暴力的な事が多いです。イスラム過激派、ナショナリズム(それと関連した、ファシズム、ナチズムなど)の歴史的な暴力は、イデオロギーにより、他を否定する形での、強引な自身(自身の所属グループ、価値観)の正当化に起因していることが多いです。自爆テロや特攻隊などもこのようなメカニズムが働いていると考える事ができます。
後輩のKotaや私自身も、この問題を考えるヒントになる記事をいくつか書いていますので、参考にしてください。
-Yusaku
http://japanatwesleyan.tumblr....
(若者論もこのメカニズムと関係していると考えられます)
http://japanatwesleyan.tumblr....
http://japanatwesleyan.tumblr....
http://japanatwesleyanyusaku.t...
  読者2 (Kanseiさん):
「現代の人々を哲学・宗教から遠ざけているものは何なのか」
→個人的には、次のように思う。
 途中から宗教を信じることは、何かのきっかけが必要であり、往々にして不幸な出来事がそれに当ることが多い。それがなければ、当然ある日突然信者になろうとは思わないのではないか。
 もう一つ、宗教には戒律がある(多いというべきか)ため、自由気ままに生きる現代のスタイルにとってはいささか邪魔になっている部分も否定できない。元々宗教心の強い家庭で産まれ育っても、身の回りの物的豊かさに掻き立てられる世俗的な享楽と、自分の努力によってあるところまでは順調に生きられる人生があれば、真剣に神を信じようという気持ちが薄れてしまう。「困った時の神頼み」はあるが、困っていない時は頼むべく内容がないので、神様の門を叩くきっかけが減る。そもそも、宗教は「現世を諦めて、来世は幸せになろう」というのが本質ではないかな?したがって、「そこそこ幸せ」の現代は人々が宗教から遠ざかるのも無理はない。奇妙な考え方かも���れないが、宗教心に関する「人間ドック」的なものが実は現代社会に必要かも。ずっと順風満帆ではいかないから、宗教心の足りなさを順調な人生の時に指摘し、いつか落ち込む時に備える必要がある。
 しかし哲学は物事の本質を教えてくれるので、哲学から遠ざかることは、つまり自ら進んで「愚民」になることであり、自分で思考する権利を放棄することだと思う。考えずに生きることは表面上“楽”であり、それに慣れると、“茹でガエル”になる。
  Kanseiさんのコメント自体は、わたしのななしさんへの返事の後に投稿されているのだが、この返信は実は、Kanseiさんのコメントを発展させたものとなっている。
Kanseiさんは、「現代の人々を哲学・宗教から遠ざけているものは何なのか」という問題に対して、以下の2つの視点を提示している。どのポイントもかゆいところをついているので、これらのポイントを専門的な(哲学・社会科学的な)観点にあてはめていき、私のななしさんへの返信をベースに更に考察していく。
  ポイント1、もともと宗教的でない環境出身者が宗教的になるには、なんらかの逆境、苦痛体験など、きっかけが必要なはずであること。
私の見解:人々が宗教を信じる理由・メカニズムは完全に個人に依存すると思う。ある人は、奇跡体験や心霊体験のようなものを通して宗教を信仰しはじめるひとがいるかもしれないし、周りに宗教心の強い人々に囲まれた結果いつの間にか信仰深くなる人もいるであろう。人々が宗教を信じるメカニズムとしては、大きく2つの理由に分化できる。
a) Kanseiさんの主張のように、逆境、苦痛、自分でコントロールが不能な物から逃れるたいという意識的・無意識的な衝動にかられて信仰心を深めることは重々ある。統計的にみても、経済状況・生活水準が低い国・地域の住民の方が、全体的に宗教の影響力が強い(ラテンアメリカやアフリカ、中東などを考えていただきたい)。このメカニズムは、ななしさんへの返事で説明したように、「自己正当化」の必要性と深く関連していると思う。神の存在と結びつけることによって、自己の存在を正当化(肯定化)できるということだ。神という絶対的なものと自分の存在を結びつけることにより、自分の存在を確認することで、本来なら自分でコントロール出来ない物を「神」を通して理解(コントロール)することができる。その結果、社会・世界に置ける自分の立ち位置を自分なりに(精神的に)確保できるということである。
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  b)もうひとつの理由としては、単純に自己のラベル化を通した自己正当化という側面もある。これは単純に、自分が「何」であるのかというのを、たとえば、「クリスチャン」、「カトリック」、「仏教徒」などとラベル化することによって、自分が「何者」であるのか、その意味、などを自分自身で確認する、または、社会(他人)に示すことによって自己正当化をするのである。この場合は神の正当性というのはあまり関係ない。
ちなみにこの意味でのラベル化は別に宗教である必要はない。例えば、私は、「日本人」、「弁護士」、「OX大学卒業」、「OX党員」、「OXファン」など、ありとあらゆるラベルが考えられる。結局、我々は、社会において、数々のラベルを背負って、そして、自分自身をラベル化しながら生活している。それらなしでは、社会で生活していくことも出来なければ、自分自身を正当化することもできない。自分の認知もされないため(これは以前お話しした、認識される欲求と関連する)、欲求不満もたまる。アイデンティティーなしでは社会動物としてうまく機能する事ができない(結果、精神的に病んでしまったりすることもある)。面白い事に、ウェズリアン大学でも、外国人の学生でこのてのアイデンティティークライシスに陥る人が何人もいる。アメリカやウェズリアンの分化になじむ事ができず、そのまま鬱のようになってしまったり、反動で自分の文化に極端に依存したりする。外の文化に触れて自分の文化を知った、といえばそれまでだが、いままでアメリカ的(or かぶれ)であった生徒などが、突然自国の音楽や文化にはまりだしたりするのをみると、もっと不健康な要素が働いているように思えてならない。
ポイント1をまとめると、人々が宗教を信じる理由・メカニズムは、私の見解ではおそらく、(a)神という絶対的なものと自分の存在を結びつけることにより、自分の存在を確認することで、本来なら自分でコントロール出来ない物を「神」を通して理解(コントロール)し、社会・世界に置ける自分の立ち位置を自分なりに(精神的に)確保することと、(b) 自己のラベル化を通し社会的自己正当化、所属意識の促進、この2つの要素のどちらか、あるいは両方のミックスだろうと思う。
  ポイント2、宗教には戒律がある(多いというべきか)ため、自由気ままに生きる現代のスタイルにとって邪魔になっている部分があるー>自由な風習の現代文化によって、宗教的な戒律の妥当性が失われて来ている。現代社会の物質的豊かさが(世俗的な豊かさ)が、信仰心を浸食している。
私の見解:面白い、的確な視点である。ここで提示されている視点は、物質的に豊かな現代文化-->信仰心の弱体化というメカニズムである。これは、ポイント1を発展させた理論である。ポイント1では、逆境・苦痛-->信仰心という構造から、どのようなメカニズムで人々が宗教的になったか、という考察をしてきたが、ポイント2ではその理論を反転させ、逆境・苦痛がない状況(物質経済的に豊かな状況)では信仰心が薄れるということである。
ここで重要になってくるのは、どのようなタイプの逆境・苦痛か?ということである。実際、社会学・政治科学の研究で、経済が人々に及ぼす影響というのはよく研究されている。いろいろな議論がなされているが、結局現在主流になっているのは、「経済が良好であればあるほど宗教やイデオロギーの影響は減少する」ということであるようである。ちなみに、これにともない、人々の政治的関心も減少するようである。我々、社会科学・政治哲学者や学生の間では、「Economic Doping(経済的ドーピング)」と呼んでいる(ウェズリアン内だけの単語かもしれないが)。つまり、この意味での逆境・苦痛は物質的苦痛に限られる。しかし、この現象はあくまで「ドーピング」であり、経済状況が悪化すればするほど隠されていた不満が表向きに成る。そしてこのときの不安が自己正当化によるもので合った場合、人々は(時に暴力的に)ラベルを求める。極端なナショナリズムや宗教運動(宗教関連のテロリズム)などはこのようなメカニズムなのではないかと思われる。以前お話したが、私自身、内戦・経済・イデオロギーの関係性を以前統計的に研究したことがある(その際のペーパー。研究モデルについてなので結果報告がないが、理論の部分を読んでもらえれば内容を理解してもらえると思う)。
以前の投稿を参考!
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  これらから見えてくることは、ラベル化を通した自己正当化無しに経済・物質的な富を追い求めても、精神的に満足するには至らないということである(そしてKotaroの記事のように自殺してしまう人や鬱になってしまう人が増える)。さらには、もしその経済的な部分が失われた場合には暴力的になってしまう可能性すらある。
ではどうすればいいのか?答えは簡単であり、当たり前のことでもあるー自分自身に根拠のある自己正当化をするのである。経済状況がどうなろうと、本当に自分が好きで打ち込めることに全力を捧げる。他人や社会がなんと言おうが絶対に自信の持てる特技・経験(Or信念)を得る。どのような状況・困難におかれても自分が何者で何ができるのか、それを自分自身で定義していく。そういう作業をしていくこそことが、目先の経済的・物質的な富よりも、より幸福な、そしてより安定した人生の過ごし方なのだろう。宗教を通した自己正当化もそのようなツールには確かになりうるのかもしれない。まさに、しっかりとした信念をもち、“茹でガエル”になるなということか。
ランキングよろしく!
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japanatwesleyanyusaku · 11 years
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2013年春学期!
  悠作の回きたぜ!学期中���半があまりにもバタバタ���ていて、ついつい更新を怠たってしまった。現在はついに夏休み期間に突入している(といっても、私はウェズリアンに残っている)。更新を延滞している間にいろいろな事があった分、記事にすると面白そうなこともあるが、学期が終了したということで、今回は前学期の総括をお話する。日本語に最近あまり触れていないので相当なまっている気がするが、日本語が変に成らないように気をつけたい。
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先日行われた卒業式の一枚
・前学期の総括
  1、学業
前学期の学業面はまあまあといったところか。合計4単位分履修しそのうち3つはCSSのクラスであった(以前のクラス紹介を参考)。成績的には申し分ないのだが、もう少し効率よく学べたのではないかな?とう点もそれぞれあり、また、「授業」を履修する事と「研究」することのジレンマの用なものにも直面した。それに伴い、学問という大きなくくりのなかで、自分の好き嫌いがはっきり見えた学期でもあった思う。例えば、以前紹介しなかったクラスで、CSSの経済のクラスもあったが、これについては、「あまり面白くなかった」というのが正直な感想。経済自体は好きな科目なのだが、考えるというよりも情報処理に徹した内容はつまらなかった。結局私は、経済だろうが哲学だろうが、「Theory(理論)」が好きなのだという結論である。
  現代社会論
ウェズリアン名物のBrian Fay教授のクラスであるが、このクラスは本当に楽しかった。課題の哲学書もとても興味深いものが多く、クラスも完全フリーなディスカッション形式であるため、他の生徒や教授の意見を聞いたり、それらに自分の意見をぶつけたりするのが本当に楽しかった。課題論文も、ガチガチのアカデミックな論文ではなく、「哲学的に社会を分析する」というところに焦点がおかれていたため、物事を分析するのが性分の私にとっては、まさに、「天職」といったような課題であった。他のクラスメイトもディスカッションをとても楽しんでいたようだ。
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Fay教授
ちなみに、Brian Fay教授はアメリカでも業界では名のある有名教授である。彼は1972年から、CSSのこの現代社会論を現在まで毎年教えているそうだ(40年間同じクラスを教えているとはすごい!)。そんなすごいFay教授だが、最後のクラスで彼は、このようなことをいっていた:
I’ve been teaching this course for more than 40 years since 1972. I so far had three classes--only three classes--which I thought were special. One was the class in 1998 and another was in 2004.  Guess what the third one is? It's you guys! You guys are so special in my whole career of teaching at Wesleyan, and I learned so much from you guys. Thank you very much, and I am looking forward to seeing you how you change the world in your careers.
「私はこのクラスを1972年から40年以上教授しているが、そのなかで、3クラスだけこれは素晴らしいと感じたクラスがある。最初のクラスは1998年のクラスである。そしてもう一つは2004年のクラス。三つ目はなんだと思う?実は、三つ目はお前達だ!今年のクラスは本当に優秀だった。君たちは私にとってとても特別な学年だし、君たちからはとても多くのことを学んだ。本当にありがとう。君たちが将来それぞれ世界で活躍することを楽しみにしているよ。」
その瞬間、一斉に拍手がわき起こり、最後のクラスが終了した。
そして、先日、期末の論文と一緒に次のようなコメントがFay教授から送られて来た。
I’m really glad you were in this course, Yusaku. You made many, many important contributions to class discussion, to the benefit of all of us, me included. I particularly liked the way you would spell out the steps of some complex argument or parts of some complicated idea, and in so doing render them clear and intelligible. Too, many of your examples were very telling, often from a perspective different from others. Your papers are remarkably well done especially given that English is not your native language. I hope you have a great summer and I look for you on campus next year!
悠作、私は君がクラスに居てくれて本当に良かったと思っているんだ。君の沢山の発言はとても重要な役割をディスカッションで果たし、クラスメイトの皆だけでなく、私自身にとってもとても有益だった。特に、君は課題図書の複雑な主張やアイディアなどを理解するためのとっかかりとなる部分を、明覚に、分かりやすくまとめて発言するのがとても上手だ。さらに、君が紹介してくれた例はとても意味深で、そして、とても説得力があるものばかりだった。英語が母語ではないのにも関わらず、君の論文は素晴らしく良く書けている。君が良い夏を過ごす事を願っているよ。来年は君をキャンパスで見つけるぞ!
  こんな素晴らしいコメントをいただいて、本当に感動した。来年もこれに甘んじず、精進をして行きたいと思うのみだ。
気恥ずかしいが、、比較的評価の良かった論文をここに載せておく。短いし簡単に書かれているので、これを読んで社会論に興味をもっていただければ嬉しい。
環境政策
このクラスもクラス自体はあまりおもしろくなかった。内容自体は面白かったが、暗記主体の試験やレクチャー主体の授業はまさに「つまらない」というのが正直な感想だ。唯一楽しかったといえるのが、期末論文。クラスでは、5ページの分析的論文を5本書くか、20ページの期末研究論文を書くかという選択肢があったのだが、私は研究論文を選択した。内容は複雑なのでここでは紹介しないが、私の専門分野である企業論と絡めた主張を展開したため、教授にとても気に入ってもらえることができた。興味のある方はここで一読を(教授のコメント付き)。
といことで、学業は全体的にはOKといったところか。来年は卒業論文もあるのでもっと頑張りたい。
2、生活
前学期の生活はとても充実していた。デンマーク留学から帰国した友人のアダムを我々の家に引き入れたため、親友のヘンリー、アッシャー、アダム、そして自分と4人で暮らすこととなった。ヘンリーを除いた2人は一年生からのホールメイトだったのだが、我々一味は特に仲がよく、他の数人の当時のホールメイトとともに過ごす過ごす時間が多かった。やはり、友達とは良いものである。ここでは、生活面での写真を紹介する。
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ハウスメイトのアダムとの一枚
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ハウスメイトではない友達と、パンツ一枚の写真。
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インドのお祭り、「HOLI」にて、右端に私がいる。
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皆で購入した購入したプロジェクター。これには大変お世話になった。
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在学中のフリーマン奨学生たち
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ハウスメイトのアッシャー。インターネットに載せたのがバレると相当キレるかもしれない。
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自宅でパーティを開いた翌朝。右にあるタンクのようなのはすべてビール。
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同じパーティーにて。
ということで、前学期は良い学期であった。これからは、もっと頻繁に更新できるはずなので交互ご期待!(今私がしている研究なども紹介していきたい)。
悠作
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