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こわくない(Don't be afraid.)/そばにいる(Never so far away.)
(論破2/日狛/左狛)
粛々と燎火が、ゆるされて燃えていた。身体は、まったく驚くべきことではあれども、ひと欠片の疲労さえも感じてはおらず、ふしぎに軽い、本来であれば疾うに倒れ臥して、何事にも向かうことのない身体、獲物と見定めても鎌首をもたげるさえも鬱陶しく、億劫で、そのままにくちてゆく運命であろう。宿命であったかもわからない。どちらにしろ、あくまでも自分自身の限界と可能性を、根拠もなく信じていたときとは違った高揚感と、自負と矜持とが、彼の身体をささえているのだったが。
怠惰のさなかに微睡みは満ちて、いまにも手放されてしまいそうな意識は、つまり正体でもあった、自分の身体の輪郭をなぞるにあたって、見えている部分、視野は、思っているよりもはるかに狭く、指先、つまり、外側、遠心、自分という存在の中心をどこに据えるべきであるのか考えたとき、やはりもっとも熱を知る部分を想定するのは、まさに明察であろうと言える。めぐる血液は、いまひとたび、身体の中心、どこかで絶妙かつ神妙にゆがみ、ねじれたメビウスの、はじまりでありおわりであり、どうしようもなく経過でしかないその場所に、ついぞ戻ることのなかった水溶性の感情についてを思い返している。
胸に穿たれた穴からはかわるがわるに鮮血が溢れ出すことだろう、涙よりもたしかに、それは川をつくるだろう、奔流を、せせらぎを、そうして銀の盃を、なみなみと満たすだろう! こらえがたい飢えも渇きも、たいそう残念なことではあるけれど、何らも我々の精神と生命とに及ぼし、脅かしはしない、たとえ泥水をすすり、辛酸を舐め、自らの血をのみ、屍肉を漁る日が来たとても、この高潔で、なおも卑しい、人間風情の粋がりぶりは、さほども衰えることを知らない。
身体の中心から遠ざかれば遠ざかるほど、自分ではない他人の意識に近づいたような心地にさせられていささか居心地が悪い、と感じていたのはいつのことだったか、自分が、いま、少年として見られているのか、あるいは青年としてみられているのか、子どもとしてみられているのか、大人としてみられているのか、それらを考えるだけで、一日のみならず無限の時間を消化できるような気がしている。
無意識の視線は無遠慮だ、なぜって、それに意図も、意思も、時と場合によっては、記憶や人格すらも、付随してこなかったからだ。それらは少年の過渡期にある彼らを、思うさまに嬲ってゆく。はためいて飜り、肌をたたき、頬を打ち、まばたきの一瞬に訪れて、はるかのかなた、永遠の近似値を、未だに計算しそびれているので、証明がまだ、終わっていない。スーパ・コンピュータをもってしても気の遠くなるような時間のかかる概算を、時間を食いつぶすためだけにはじめたようなものである。答えの正しさや確からしさは二の次にして……、次々にあらわれる数字へ向かって光線銃の一閃でひらり! インベーダ・ゲーム、侵略者をゆるすな! たちまちに撃墜させるのだ。
焔がときおりはぜて、火の粉を撒き、昼も夜もかわらずに���くぬりこめられた悲しみを、引き裂いて断末魔の悲鳴を上げさせている。はじけるたびに、消費されてゆくのだろう、思いつきで奔走する稲光のそれよりも遥かに無秩序かつ無遠慮で、何も考えなしの、真夏の残滓だ。ここには真夏のほかに眠らない。
あんなにも恐れていたものたちを、打ち砕いたというではない、脅威はいまも、彼らのすぐ傍らにあって、生命以上に失われやすいものを、じっと見据えて狙っているというのに、ふしぎだ、眠ってしまうのがいっそのこと勿体無く思えてくるほどに、ピリピリと緊張して、研ぎ澄まされ、本来ならば見えるはずではないほどの遠くがみえる。明かりもろくにないと言うのに、暗闇に浮かび上がるなにかの影がみえている。夜の帳はもう、ずいぶんまえにおりたっきりではあるが、このまま戻ってこないのだとしても……、いっこうに構わないといって笑えるような、気ぶんさえしてくるのだ。目ばかりが冴えている。驚くまでに何もきこえなくなった。焔のはぜているのは分かるが、それもあくまで視覚的な認識である、ちいさく揺らめいていた焔が、ほんの一瞬あかるくなったり、ほんの一瞬ふくらむので、それと知れるだけだ。
なにもきこえない。
潮騒も木々のざわめきも筋肉の軋む音も切らした吐息も吹き荒ぶ海風のはげしさも潜めているなにかの気配もおそれもいかりもおびえも威嚇も狂気も、
愛さえいまの日向創にはきこえない。
一、マグネシウム
ファム・ファタル?
いかにも退屈を噛み殺したというふうで生あくびを噛み殺している九頭龍冬彦がわずかに怪訝そうに眉をよせたので、その段に至って初めて余計なことを口走ってしまったと思ったし言わなければよかったかもしれないと思ったが時すでに遅し、言葉は明確に音となり矢となりて彼の友人のおだやかな耳朶を貫いている。
とはいえ、九頭龍は本当に興味がなかったり不愉快なことがあればあくびを噛み殺す程度のことではなくあからさまに嫌悪感をあらわにしたろうし、そういったときの彼の、心底あきれたという表情のするどさは、慣れてはいても少々こちらを震え上がらせるようなところがあって、口にこそ出さないものの、彼のなかに脈々と受け継がれている血筋、裔、彼の足元を危なげなく支えている、礎それらの、たしかな影を認めざるを得ないのだった。もっとも、それも、今となっては現存しているのかさえ曖昧ではあるのだが。
何もかもが打ち砕かれて、波濤のしろたえ、刺し貫かれてどくどくと溢れ出しているたいそう熱い血潮の燦々、振り返って、振り仰いで、まだそこには焔が燃えているのかもわからないし、まるで前世になってしまったように、冷え切って、燠の爆ぜていたさえも夢のあとさき、もはや永遠の沈黙を守るばかりの何者かになり下がっていないとは、誰にも証言できない。
人間は嘘を吐くいきものだ。その嘘にも、立派なもの、大義名分を持つもの、如何にも胡散臭いもの、あからさまなもの、さみしいもの、さもしいもの、浅ましいものと数あれど、呼吸をするよりもはるかに易く、そのくせをして悪意なく吐き出されるそれらの甘美な輝きや香りや煌きに、どうか騙されることなかれ、騙られることなかれ。
事実に即した言葉であっても、行動であっても、世間一般的には(普遍的な、という意味で)正義とされるものであっても、それが、本当に自分にとって真実であるのかは、ロジカルな基準で決めて良いものではない。人間は嘘を吐くが、おなじだけ偽らない。九頭龍冬彦は徹底している、ようだ、おなじことを二人の人物にきかされたとして、どちらも確からしく、どちらも偽りじみていたとして、しかし九頭龍は、彼のさだめた何者かがそれを告げたのなら、罠であろうと、罰であろうと、断罪であろうと、喜んで飛び込めるのだ。それが彼の信頼であり、陳腐な言い方をすれば愛なのだが、けして彼はそれを認めようとはしない。
最後にきめるのは感情であり、ロジカルでも、シニカルでも、フィジカルでも、ましてや、イズムでもない、彼は答えのかわりに鼻を鳴らし、彼のために判決を下した。誰も九頭龍冬彦を咎めることはできない。彼が決め、彼が選び、彼が定め、彼がゆるしたのに、ほかの誰が、彼を後ろ指指すことができるだろう? 誰も。
しかし同時に、そんな横暴がまかり通っているのが九頭龍冬彦のひとつの終着、ひとつの限界の形であるとも言えた。つまり九頭龍冬彦というこの友人は、彼に起因するもののほかにはなに一つ持ってやいないのだし、いっそ視界に認めることさえも、不可能なのだ。暴君、君臨者、征服者、ジェネラル、彼のそばではおしなべて、形のほかに意味をなさない。形式ばったもので、本来であれば必要のないものだ、と九頭龍自身は嘯いたものの、儀式こそが、安心を買い占めるための手法のひとつになっていることは、まったく明らかなのだった。
おそらく強く意識してのことだろう、分かっていて、絶対的な信頼、自分が、いったい何者であり、何を為し、何を成さなかったとして、揺らぐことのないもののうえで、危なげなく立っている彼には判るまい、そのゆえにけして視線を落とさず、視界を狭めず、こちらの立場に即して暮らし、語り、話すことさえも考えつかない九頭龍冬彦の横暴を、いっそ可愛らしいもの、微笑ましいものと受け止めてわ���って、しまう、ことができたら、あるいは幾ぶんか、彼への感情が異なっていたかもわからない。
泥濘を這って進むような無様を、誰も彼には求めなかったろう。飢えに苦しんで、渇きには癒しが必要だろう、不死の肉を喰らって、あさましくも生きつなぐような軽薄さを、九頭龍は鼻で笑うことだろう。それが彼の高貴さであり、同時にたいへん褒められざる外道さ、下劣さ、日の沈む頃になると活性化する、ジャンキーたちの、ぎらぎらと光る眸、それらはすでに焦点を定めてはいない。そういった、かけ離れた、高潔さからも、真摯からも、嘲られ侮られ、鼻つまみものと揶揄されるような汚らわしさを、上等の仕立てのスーツで、丁寧に磨かれた革靴で、まるで頓着もしないふうにしながら踏みにじっていく無知さが、奇妙に混在し、うまいこと共存しているのだった。
以前の日向であったのなら、彼のそういったところを、どうしようもなく嫌悪したのに違いあるまい。もっとも、それに気がついたとても、九頭龍はすこし、唇の端をもちあげて、ニヒルの真似事、笑顔をうそぶくばかりの反応しか見せまい、とも、確信しており、慣れているからだとか、当然と考え、もはや呼吸のさまで、あるいは心拍のさまで、嫌悪や憎悪や侮蔑や畏怖を、幼い日々のうちから浴び続けてきたからといって、ますます何でもないというふうに受け流せるかといえば、誰にでも出来ることではないだろう。だからこそ彼に与えられた字名は、【超高校級】なのであろうけれども。
彼には数十、ともすれば数百の盾がある。壁がある。守護があり、影があり、つまり、それだけ彼の命だ、人生だ、生命だ。自分のために謹んで、あるいはよろこんで死ぬ人間の数をかぞえて勝ち誇るような小物であったのなら、すでに打ち砕かれ、たいまつのあかりは燃えて、曉仏の鬨のこえは、いまにも押し寄せる軍勢の、理知的でも、理性的でもない、系統だてられているようで、その実はまったく一枚岩になりえない革命軍の蜂起のように、めいめいに好き勝手な方向を向いて好き勝手な武器を握り好き勝手な欲求と主張をし、高揚してあらん限りの声で叫んでいる、もはや個人であるかさえも定かではない、山を降りてきたけもののさまで咆吼しているそれなのだ。
それは、山狗、愛を知らないけもの、朝をしらない、けだもの、恐れを口にしたならば忽ちに喰い尽くされてしまうであろうやわさと、あまさと、たいそう素敵な燦きとを、見つからないように隠しておいて。懸命に隠したとても、それらの鼻はたいへんに鋭い、ほんのわずかの隙間から、ご馳走のにおいを嗅ぎつけて侵入りこんでくる、飢えていないのに幾らだって喰らうことを求めている、あわれな肉体なのである。
当たりまえのことだとおもう。霞を喰っては生きられないのだし、ひねもすを眠って、身体を横たえて過ごしたとしても、時間が経てばそれだけで空腹は、生真面目にやってくる。耐え難い眠気や、むずかるような、一体どこに起因しているのやら特定の出来かねる痛みなら、慣れることはなくとも、気を紛らわせることが、あるいは出来たかもわからない。身体は、おそろしく重たく、泥のように沈んでゆくばかり、星をこぼしてしまっても心配は要らない、おしなべて軽く、また明るく、熱を帯びたそれが、この身体の内側へ落ちてゆくはずがないからだ。さもなくば、自らの体温を保つのに、それらの熱源を頼るふうに、身体を作り替えれば良いのかもわからないが。
粘度と、稠度、わたくしのためにあつらえられたもののすべて、あるいは一部、どれものために彼は手を伸ばし、我々は指を、折った。拾い集めたそばから口へ放り込んでしまったから、何個ひろえたものか、誰かに見せて報告しようにも、あわよくば褒め称えられたいと願っても、証明ができないのだった……、身体は、しろく、皓く、内がわから熱を帯びて光っているようだ、飴細工のような、まったくもって現実味のない、山狗たちの好物そのものの白さと、のっぺりとした薄さ、ほのか香る馥郁のあまさを、魔法のように閉じ込めている。齧ったならそれなりの度数のアルコールに酩酊させられてしまうとわかっていて、そのとりどりの色彩と、香り、目を楽しませる粒なりの宝石を愛でているばかり。
やさしい宵、おだやかに過ぎる夜半、どうか、朝よ、夜明けよ、どうか来ないでくれ……、子どもたちの眠りを妨げないで。あの子たちにはまだ、ゆっくりと眠る時間が必要なのだもの。お腹が空いたら起きておいで、なんて、悠長なことを言って見逃す暴力的な慈悲が、我々を塗り込めて、軟禁して、阻んでいること、疾うに気がついていて、なおかつ怒りをおぼえないのだから、ずいぶん軟弱に飼い慣らされたもので、ある。
祈るように瞼を伏せた、いまにも折れてしまいそうな、線の細い、少年としか呼びようのない少年のことを思い出す。見目だけの話をするならば、いま皮肉に微笑み、高く組んだ足を直したばかりの九頭龍冬彦だって、少年の域を抜けたとは迚もではないが信じられないような成りをしているのだけれども、背後に、あるいは足元に、九頭龍自身が自覚しているか否かはまた別にしても屍の山と命の堆積、幾百幾千の、ちぢに乱れた人生とを背負って、有限の不死を恣にしている彼は、つまりバンパネラなのであり、そもそも、憎むべき、恐るべき、また、崇拝され、信仰されるべき【絶望】の一端を担わないうちから、背徳のいきものであったのだ、節理など、���理など、道理など、彼のまえには意味をなさない。
そういった男である。
少年の成りをしてはいても、屈強な男の人生を彼は生きてもう死んだのだし、これから先にだってそうだろう、言及すれば猛然とした怒りを買うことが予想できるので、あえて口にはしなかったものの(これは、事なかれ主義を日向創が気取っているだとか、余計な諍いの類をおこして件の少年、苗木誠の手を煩わせたりもっと言えば彼の友人であり同胞であり、またかけがえの無い友人でもあるところの、本物のほうの明けない夜、さもなくば永遠の夜明け、そうして永遠の夕暮れの彼や、蝕の日に食い尽くされるあかりと、くらやみ、うすく、希釈されて拡がってゆくばかりのつめたい朝焼けの彼女たちに、余計に関わり合いになりたくない、といった、たいへん不合理で不誠実な願いに起因するものであるとは限らないのだが、良いように受け取られてどのような誤解を生じたとても、もはや否定する気持ちにもならない)、おそらくは日向の持っている、それらの感情のすべてではなくとも、一部くらいは彼、九頭龍冬彦にも詳らかにされていて、なにも言わないでいるのかもわからない。日向が彼に秘密を持つならば、彼とても日向に、秘密をもっていたっておかしくはないのだ。
もしも、もっと若かったなら。あのデータだけの世界で、つねに眠たそうに瞼をはんぶん緩めていた七海千秋が、いまも暮らしているであろう、そうして、今となってはもう、日向にも九頭龍にも触れることのできない、大切な人間たちが死んでいるその世界でそうであったように、希望に満ちて、願ったり叶ったり、自分の姿をあきらかにすることもなしに、振り向いて、影のないことに怯えたりせずに、いられたのなら、バカバカしいと笑い飛ばしてしまえたろうか? 後悔するのはおかしなことだ。
おしなべて、ヴァーチャル・リアリティ、存在していたけれど、実在していなかった世界だ、言葉は簡単にこの喉を揺らし、唇をひらかせたけれども、一度だって誰かの鼓膜に触れはしなかったのだから。だから、澪田唯吹の決行したゲリラライブ(突発ではあったものの規制する人間がいなかったのだから違法性はなかったわけだが)で、笑いながら耳を塞いだのも、何もかもはなかったこと、誰も彼女の歌を聞いちゃいないし、彼女とても歌ってはいなかった。スポットライトは眩しかっただろうか? 外を歩いていてさえ汗ばむほどで、熱帯夜は毎晩のこと、スコールが降らないのだけが救いだったあの夜、この夜、どの夜? 塗り込められたライブハウスで熱狂していたのは澪田ひとりきりだったし、そもそもあれだけの広さを持つ空間に、15人やそこらが集まったところで、熱気のこもるはずもなかったのだ。
つまり、ライブハウスとは熱気と、高揚と、喧騒と、それから酩酊、耳鳴り、それらに満ちているものという誰かの認識(この場合、おそらくは澪田のものであろう、あのなかにライブハウスなんてものに慣れ親しんだ真っ当な人間が混ざっているとは迚もではないが思えない)が、周囲を巻き込んであの場所をつくっていた。人気ガールズバンドのギターを担当していたという澪田唯吹のカリスマ性、というものによるのかも分からなかったし、顔を揃えた面々は、どこかしら皆、協調性に欠いた、自分だけの世界を構築しているやつらばかりだったから、澪田だけが天才だったのでも、カリスマだったのでも、けしてないが。
そういう場所であり、時間であり、空間であり、また、我々はみな、そういう年齢であった。すくなくとも記憶を一時的に喪失していたあの日々の彼らは、間違いなく少年や少女であったのだし、日向にかぎらず、童貞であったり処女であったりしたのだろう。こちらへ目覚めてからというもの、そんなことは知りたくもないし訊ねる必要性を感じないが。
自分がいつしか淡白でかつ冷酷な人格にすり替えられてしまったタイミングについては考えるまでもなく明らかであるが、いまもってなお、その決断と、サインとに、ひとつだって後悔を抱きはしないというのだから、不思議だ、若かりし日の過ちだったのだ、とういつか悔やみ、恐れ、瞼を伏せる日が、来るだろうか、たとえそのときが来ないとしても、まったく問題はないとは言え、近ごろは未来のことばかり考える。
そこには七海千秋がいるかもしれないし、いないかもしれない。すくなくとも、彼女が存在しうる、実在しうる時間軸や次元があるならば、未来をおいてほかにはないのだ。七海千秋くらいしか、日向の思考の表層にのぼってくる人間がない、というのも(もっとも、彼女が本当に、『人間』と呼ばれうるかは定かではない)、またさみしいことだ、つまり、日向創は、たぶんこの島でいっとう、さみしいのだ。
さみしさが人を傲慢にする。卑屈にする。孤独にする。君臨にする。崇拝にする。誰しもが、自分のための箱庭を抱いて、ねむることもできずに、持て余した劣情や欲情の矛先をいったいどちらにむけたものだか考えあぐねて、頻りに寝返りをうっている。右を向いて眠っても……、左を向いても。そこに恋びとの姿はない。なぜって? きくまでもないこと。
日向創に恋びとはいない。
のみならず友人さえない。
日向創は一度だって死ぬことができない。誰も彼のためには泣かないし、彼のために笑ったり、花を投げつけたり、唾を吐きかけたりしない。それでも身体は不思議に腐ってゆかないので、ざんばらに切り落とした、色素の抜けた白い髪が波頭に踊るあの光景を、幾度となく、ただひとりで、反芻してたのしむほかにないのだ。猛烈に喉を焼いてしまいたい、と思い、火をつければうつくしい青色の焔を燃すであろう度数の高いスピリタスを、存分に煽ってみたかった。
のどごし? まさか! 胸をあまく焦がすのが恋なら、ただ焔を飲み込むような、苦痛をともなう灼熱もまた、あるいは、恋であるのだ、歌うことも語ることも、睦言も戯言も諫言も、日向の喉を通らない。吐き出すほうだから。
九頭龍冬彦は片頬を器用にゆがめ、目のしたにうっすらとしわを刻んで、玉手箱を開けて、一夜にして老獪となったかつての青年のように、嗄れた声で笑った。あえかの吐息の、さまであった。一息つくさえ激痛を伴うのではあるまいか、失われた空の眼窩に、かつて埋められていたそれを、彼は一度だって愛と呼ばなかった、呼べなかったのだ! 機能していた日も、あったかもわからないけれど、彼があの世界から目覚めてからこちら数日も経たないうちに腐敗が始まり、それが腐り始めたのだ、と知ったときの、九頭龍の行動には、いっさいのためらいも、遅れもなかった。
清潔な器具は当然ながら、そもそも消毒薬も、麻酔薬もないこの島にあって、埃をかぶっていた百年物のヴォッカの瓶を噛んで開け、ナイフにどぼどぼと注いだかと思うと、止めるいとまもなく、アッ、というまに、彼はその目を抉ってしまった。鎮痛剤だけはあったものの、正気の沙汰ではない、腐り始め、脳へそれらの腐敗菌がおよぶのを防ぐためとはいえ、己の目玉を抉るなんて! またそれを目の当たりにさせられて、空になった眼窩をさらに残されたヴォッカで濯いでいる(浴びるように呑む、を、文字通りに見せられた)さまなどにくらくらと眩暈がしたのは、なにも立ち篭めたアルコールの芳香のみによらない。
生き残った面々の多くは正気を失っているといって相違なかったが、もっとも常軌を逸している��は、間違いなく彼だろう、と思われたし、そのころはまだ、目覚めたばかりであちらとこちらが混線していた日向もそれを指摘したのだったが、返ってきたこたえは実にシンプルであった。
曰く、『こんなのウチじゃ日常茶飯事だ』
そののち何の処置も施さなかったので二次感染を起こさなかったことはいっそ奇跡だが、何もしなかったためにへんなふうに皮膚が結合してしまって、わらっているときにも、いないときにも、はんぶん顔が引きつっている彼の、呼吸はときおりたいへんに苦しそうである。自業自得だ、と、揶揄するでもなければ、気の毒に、とも、同情するでもない日向である。
「ファム・ファタル、ねえ」
九頭龍冬彦に代わりはないが、九頭龍の体が欠けてゆくたび、あるいは、彼の代わりに欠いてゆく人間は、たくさんいたはずだ。目玉をひとつ失って、それでもなお壮絶さのかけらもない彼は、しかし、おそらく、本当の自分の身体をうしなうのは、はじめてではないかと思われる。幾つもの手足を彼は失ってきた、吹き飛ばされた四肢、切り落とされた首、食いちぎられた指、売られた腸、そんなものたちを、九頭龍は幾つも知っている。大した値段がつくわけでもねえが、と何事もなく彼は言う。そんなものか、と思う。
需要がある限りそれらの商売が消え失せることはない。ありとあらゆる明るみに、白日のもとに晒されるものがすべてであったら、彼や、その手足や、同胞は存在していないし、おそらくは、日向とても存在しない。この世の暗がり、ダウンタウン、誰もがだれもを見失う、誰そ彼、そんなところに暮らすのに、生きるのに、矜持もなにもない、革靴に入り込んだ砂粒を忌々しげに捨てながら九頭龍はわらうのだ。まったく羨ましくないだろう? 本当はすこしだけ。
「お前をみてるとたまに思うけどよ」
退屈しのぎのつもりだろうか、いささかばかり食っちゃべりたい、不機嫌を隠そうともせずに引き攣れた頬を引っ掻いてはみみず腫れをこしらえ続ける九頭龍に、訊ねたいことがあるではなかった。あの世界では兄弟のちぎりさえしたのだけれど、九頭龍が、それを覚えていないのはあきらかであったし、だいいちあの約束を反故にしないでいられるとしても、日向とても、あの若さ、あの青さ、あの鬱陶しさ、あの面倒くささ、あの向う見ずを、こちらに持ってこられていないのだから、忘れていてくれたほうが、あるいは都合良いかも分からなかった。
いまはたださみしい、それだけだ……、それだけだ。
「精子バンクで優秀な男の精子を買う女」
九頭龍の手にはとうの昔に乾されたヴォッカの瓶が握られている。重さこそはないものの、うまいことやれば、一人くらいは殴打で殺害できるだろう。対するこちらに獲物はない。体格だけでいうならば、身長も、体重も、筋肉の量も、おそらく日向が勝るだろう、わかっていて九頭龍が、こちらを怒らせにかかっているのが、へんに喉にひっかかるような、底意地のわるい笑いだけで分かった。ただしく暇つぶしなのだ、そこには好意もなければ悪意もない。
なんだか呆気にとられて、それから納得した。九頭龍冬彦は日向創を相手にしていないが、ひとしく、だれのことも相手にしない。半分欠けた視界のためでも、耐え難い疲れや、眠気のためでもなしに。もう、そんな段階に彼はないのだ。正気でもなければ、狂気でもない。これが本然。これが泰然。これが悠然。そうして、超自然だ。
スーパ・ナチュラル。反吐が出るな。なにが自然で、なにが科学、なにが不自然で、なにが人工。うまれつきの天才なんてどこにもいないと誰かが曰っていたけれど、完全な後天、完全な人工、完全な造りものである日向創に言わせれば、ましてや、あの、生来の天才としか呼びようのない白痴の友人を知ってしまったいまとなっては、残念ながら否定しなければならないだろう、否、彼らの流儀に則って言うのならば、論破、というべきか。
とにかく、それらの滅茶苦茶な論法、技法、修飾、理論、積み重ねられているがゆえに一見して完璧にみえるその堆積を、すべて無に帰すような、うつくしい、銀いろの、あるいは、黄金いろの銃弾を日向創は知っていて、その扱い方も手慣れたもので、あろう、これだけは、彼だけが持ち帰ってきたものだ、つまりは、負ではない、遺産であるということ。
誰によって与えられ、誰によって残されたものか、当の日向にしてみても明らかではないが……、自らに望んで、人工の天才、人造の希望、ハリボテの、書き割りの、まるきり嘘じみて嘯いた、しいていうのなら胡蝶の夢、どちらがどちらなのか、という議論は、不毛なのでやめておこう。誰に対して証明が必要というではないし……、ご覧のとおり、すでに日向は、語り部の配役を降りてしまっている。もっとも、与えられた配役には、名前すらなかったわけだけれども。
「なにか言えよ、ヒナタハジメ。それとも、カムクライズルのほうがさわりがいいのか」
呵呵、とばかりにもう一度、少年のなりをした、半分腐っている不老不死の男がわらって、そう、大陸のほうでは彼の名は、クーロン、ときにエネルギの単位と相似する音を持っていることは、おそらく気まぐれか、ぐうぜんに決まっているのだけれども。つまり、ただしく暇つぶしだ。互いに暇を潰し合っている、この状態こそが不毛でどうにもくだらない。
「さあ、どちらでも」
「煮えきんねえなあ」
おまえのいう精子バンクには、いったいどれだけの優秀な遺伝子が貯蔵されているんだろうか、できれば、母親のほうも買い取れたら、いいのに、そうしたら、今度こそソレに、カムクライズルの名前をつけよう。その施設や機能が、有効に働いていないからこその、自分であることもわかった上で、心底にそう思う。
日向創は天才になりたかったのだろうか? もはや、記憶さえも曖昧で、ある、感情や、記憶、情動やそれらに直截につながれていた子どもの、幼い、蹲って眠っているばかりの彼は、どこにもいないのだ。カムクライズルでも、ヒナタハジメでも、どちらにしろしっくりこない、名前のない子どもは、いまごろどこで泣いているんだろう。誰かが迎えに、来てくれたら、いいのに、できれば、酒くさくない、仕立てばかりは整ってうつくしいものの、その高級さと、隙のなさ、粋加減から、どう見てもカタギとは思われない九頭龍冬彦ではなくて。
無意識に、手を引いて欲しいだれかのことを考えている。次々に浮かんでくるのは、たいへん薄情だ、と言われてしまっても仕方がないが、実の血を分けた両親でもなければ、この高校にはいるまえ、昔の学校で親しかったであろう友人たちでもない。たぶん、気の良いやつらだったのだ、とくべつに優秀であったり、とびぬけて周囲や、社会や、他人や、世界に対して及ぼしかける何かを持っていなかったというだけで、日向創に軽蔑されてきたそれらは。
青いあかりでも、赤いあかりでもなくて、ましてや白い、あかりでも、ない、どれもが日向からはずいぶん遠く隔てられてしまったものだ。はじめから彼の手の中には、なかったのかもしれない。こちらの怒りを買おうとひとしきり呷ったあと、思ったような反応が返ってこなかったことに、��かしながら機嫌を損ねるというでもなければ、空になって久しいであろうヴォッカの瓶に未練がましく視線を向けるでもない九頭龍は、顔のこちら側には感情も、表情も、じつをいうと浮かばないのだった。なにせ目玉がないもんでな、彼が言うとずいぶん清々しいのでおかしい。
いったい何人が、彼のために死んだろうか、直截にしろ、間截にしろ、彼にかかわり合いになった人間は、刃傷沙汰にまきこまれるものであろうし、その結果、死を迎えても、なにもおかしなことではない。九頭龍冬彦はひとつの単位、ひとつの計量、ひとつのまやかし、まあ、そんなものだ。ついでにひとつの試験管。うつくしいフランケン・シュタイン。幾億の死体をつないで造られたツギハギなのに、もうあたらしい死体が手に入らないので、その眼窩は空のままであろう。
反論をし損ねたのは、彼に指摘されたとおり、育てる胎もないくせに、日向創はそれらの可能性を買い占めたい、かつて天才の体内にあって、天才とともに育ち、暮らし、過ごしてきたそれを、無造作に、無為にぶちまけてしまいたくもあったし……、飲み干してみたい、とも、思ったからだ。九頭龍に倣って眼窩を抉りとったのならば、そこに注ぎ込むことも、あるいは可能だったか知らん。夢は尽きない。
「まあ、あいつが、誰かにとっての、ファム・ファタルたりえる魅力と、魔力とを、持っていたことはみとめてもいいが……、騙されるんなら、おまえじゃあ役者不足だよ、破滅に誘う女なんて、そんなものに引っ掛けられて、最後には足元すくってやるなんて、荷が重すぎるし、不似合いだろうが」
「本職は云うことが違いますね」
「そうやって突然カムクラぶるの、何かの比喩のつもりなのか? それとも無意識か」
あいつ、と、九頭龍は言った。名前を知らないわけではない、かといって、どれほど、九頭龍とあいつとが親しい関係であったのか、いまとなってはもう、どうだっていいことだ、あいつは死んで、そして死んだ。
ファム・ファタル。
身の破滅を齎す女。
灼熱に焼かれて。
洪水におぼれて。
劣情と、熱感、火照る肌を忘れるな。
上弦の月のさまで完璧な弧をえがく、
その唇の艶めかしさを思い出す勿れ。
暴いた肌の恐ろしい白さを反芻しろ。
思い出せ。忘れろ。思い出せ。
思い出せ!
俺に言わせりゃあ、おまえだって十分すぎるくらい、ファム・ファタルの素質があるぜ。俺は騙されちゃあやらねえけどよ……、もう、決めちまったからなあ。九頭龍の手元でにぶく光る、空のボトル、明るいのだか暗いのだか良くわからない、冷たいのかぬるいのかもわからない雨が降りだすことが、匂いでわかった。
長いヴァーチャル・トリップのあいだ、順応し、麻痺しきっていた五感のうち、さいしょに戻ってきたのは嗅覚だったのは、なぜだろう、清潔に保たれて、こちらを気遣うようにほんのすこし垂らされた、気の良さそうな少年の眉。苗木誠。彼は、彼のファム・ファタルにもう出会ったかしら? すくなくとも、ほんの数日みていただけの姿からは、彼からは退廃や破戒、滅亡のかおりが嗅ぎ取られなかったから、あるいはあの、虫をも殺せぬような顔をしているくせ、すでに魔女を打ち破り、殺害せしめたあとなのかもわからない。ぼんやりと、ひかりのほうへ、誰が彼の手を引いたろう? 日向創にとっての七海千秋のような、輪郭も曖昧な、もうひとりの魔女。
うまれついて、天才、裔と礎の、踏み固められた轍を見せつけられてきた、さもなくばその匂い、硝煙と、きなくささと、時には血潮とにさえ満ち満ちたそれを、嗅ぎながら育ってきたであろう九頭竜には、長く伸びた髪を切り落とす気持ちなんて、きっとわからない、女と揶揄されたとても、この髪が、あの少年の姿から、伸びきるまでの時間をかけて、日向創は天才になったのだ、つまりは、ゆっくりと、緩慢な自殺を試みていた、とも言える。
それまでの日向創は死に絶え……、駆逐され、侵略されつくされて、もはや跡形もない、優秀なものであれば、あらたな文明にも組み込まれて、生き残ってきたかもわからないだけに残念である。胎をそっとおさえて、名づけ親ならばゴッドファーザー、九頭龍の言ではないが、女でなくて却ってよかったかもしれない、下手に子宮なぞ持っていてみろ、件の、あいつ、を、軽蔑できるようなものではないことが、容易に想像できる。
「だいたい、ダブルオー・セブンはスパイで、マフィアじゃねえぞ」
「え?」
やっぱり知らなかったのか、教養の範疇だろうが、見透かされたような笑みに、たまらない屈辱と、羞恥を抱き、まだそんな感情が自分に残されていたことに今度は驚愕した。髪が伸びるあいだ蓄積し、堆積してきた努力や、コンプレックス、それらが、日向創を天才にした要素であったことは、たしかだ、髪を切ったからといって、突然にすべてを捨ててしまえるわけじゃあない。
身体の細胞は、肌に、眸に、鼓膜に、拍動に、吐息に、すっかりつくりかえられて、魂消たなあ、ほとんどは入れ替わってしまったのだ、新陳代謝のたまものとはいえ、破壊と吸収、新生をくりかえしている器官ばかりが身体をつくっているのではない、一度つくられたら、二度と変わってゆかない、細胞分裂によるターノーヴァ、いつだって新しくうまれかわりた���のに……、残念だけれど、ある一定の年齢を過ぎたところから、もうどこにもゆけない。まわりの変化についてゆけないのだ、だからこそさみしくて、だからこそ、痛い、成長痛のようなものだろうか。
「そっちの顔のほうがらしいんじゃねえか」
「らしさ、って、勝手に決めてくれるなよ」
「俺が決めなかったらいつまでも決まらん」
たぶん、九頭龍のこんな横暴さに救われてくれる日が、いつかは来るのだ、なるたけ遠いほうがいい、と、思う自分と、はやいところ楽になってしまいたい自分とが、せめぎ合い争っているのを、肌の下に蠢く感覚で察している。まいったな、こいつは、俺もどこかから腐りはじめたのか? 九頭龍のように、原因が明らかならば切り離してそれ以上の被害を食い止めることもできるかもしれないが、日向自身にさえも判らない、解らない、わからない! 俺はどこから腐ってくると思う? どこもツギハギしていないし、どこも傷ついていない。感染経路は一体どこだろう。
「はは、」
九頭龍は笑って、人差し指を伸ばし、親指を立てて、銃を模すそのポーズ。マフィアじゃなくたって似合いだ。真っ直ぐに日向の額へ向けて……、ばん、静寂のままに反動で跳ね上げる仕草。そのはずだ、九頭龍冬彦なら、おそらく本物だって幾度となく扱ってきたはず。撃ち抜かれて、弾丸、おまえのそれは何色だろうか? 真似事ではあるものの、いま、確実に彼に殺されたのだというだけ、わかった。
「フェアウェル、マイ、ビラヴド……」
日向創がどこから腐りだすのかって?
そんなの、このぽんこつの、藁詰めの頭に決まっているじゃないか。風穴をこじ開けてくれてありがとう。風通りが良くなって、溜まり、澱んだ空気がそっくり入れ替えられてゆくようだ、あたらしい風が、清潔であることだけ祈っているよ。
九頭龍が最後に何を言ったのか、聞き取れなかった。
たぶん綺麗に撃てたと思う。
日向創のファム・ファタルは、
カムクライズルでも、
エノシマジュンコでもない。
すでに彼に感染し、増殖し、蔓延しつつある、
希望であり、
絶望であり、
天才であり、
凡才であり、
卑屈であり、
高貴である。
うるわしのカストラート。
それは狛枝凪斗という青年のなりをしている。
二、リチウム
錆び付いた星と歯車が、交互にあらわれては、なにも組み立てられずに、なににもならないままにもういちど錆びてゆくさまを目の当たりにして、しかしながら諦めきれないというのだから、いい加減にしつこいなあと我ながらにして思うが、あきらめの悪さは筋金入りだ、だからこそこうして生き残っているのかもしれない。伝え聞くばかりでまったく記憶がないものの、どうやら死に物狂いで、そのくせ具体的には何もできないままに、ただ死ななかっただけの男が偉そうに何か曰っているのだ、ということだけは自覚している。
左右田和一。どこかが足りておらず、そのくせをして十分すぎるほどに足りていて、誰かの手を必要としているようでいて、していない。四則演算は得意だ、黄金率を呪文のように唱えながら雨の通り過ぎるのをじっと待っていたが、かといって、雨がやんでもするべきことはない。誰かに何かを命じられて、求められて、応えるだけの日々が、受動的な日々が、まだ項のうしろのほうで甘く、気だるく漂っていたので、つい引きずられて振り返ってしまいそうになるが、たとえぐるりを回ったとても、何も彼を引き止めないし、呼び止めてはいない。
だいいち、一度だって、彼を彼として、親しい友人として、あるいは恋びととして、親愛と親近、好感とをもって見つめた眸はなかった、はず、記憶にないだけかもわからないが、思い出せないことは、覚えていないものと等しい。
新世界。かつて冒険家たちは、喜び勇んで、未知なる大陸を目指し、あらたなる大地や、文化や、金銀財宝の発見者たるべく出港したのだという。そのうちに戻ってこなかったものが、一体どれほどいるのかは定かではないが、本当の意味で発見をし、先駆者となりえたのは、ほんのひとにぎりの人間にすぎない。
あたらしいことをはじめようとするとき、誰も知らない場所や、ものを、発見あるいは創造しようとするとき、人間はおしなべて孤独であり、おなじだけ、混沌と喧騒のなかにある。雑踏はながれ、潮騒はなおも遠く、痛みをおぼえるほどにしずかだ……、そうして、わずかに寒い。ちぢこめた身体を伸ばすのに十分なだけの空間がここにはなく、それもそのはず、左右田は自分の身体のまわりに大量のガラクタを敷き詰めて、それはそれは手厚く彼を埋葬したのだったから。
彼はたいそう賑やかに死んでいた。陽気で、底抜けに明るく、しかしやわらかさや温かさとは無縁の、金属のかたまりのなかに身体をまるめ、膝をかかえて。うまれるまえのように、そのくせ、決死でかき集めた何かを死してなおも誰にも奪われまいと試みるかのごとくに、胎児のさまで死んでいた。そうやって死にだしてどれほどの時間が経ったので、あろうか、なかなか本当の死はここまで追いついてこない。……。
それもそのはずだ。心臓部ともいうべきエンジンや、動力の類をすべて抜き取られて、ただ仰々しいだけの、輪郭ばかりを残しているかつての戦闘飛行機は、ヴァーチャル・リアリティの世界で横たわっていた概念上だけのそれではなくて、実際に空を駆けたことがあった実用機だと、記録を紐解かなくとも蓋を開けてみれば容易にわかった。ただし、それが何年前のことなのか、はたしてものの数ヶ月や数年のあいだ放置されたくらいのことで、これほどまでに��化と老化が進むものなのかは、名目上はエキスパートということになっている左右田にも判断がつかなかった。
抑揚のない朴訥な喋り方をする男だというのが第一印象。どこか機械的で、感情の片鱗を覗かせることもなく淡々と、事務的に、一連の流れを解説させられた彼は、少し喋るたびにどんどん疲れてゆくようで、あった、ずっと眠っていたのだからわけもなく、さもなくば、眠るずいぶんとまえから、彼の声帯はろくろく機能しちゃなかったのではあるまいかと思わせるさまでもあった。とはいえ、かの男のことを、ヒナタハジメと呼ぶべきなのか、カムクライズルと呼ぶべきなのか、いまだ考えあぐねていて、何も気にしたふうもなしに彼を気易く日向と呼べる無神経さ、あるいは慇懃無礼そのものの少年(なんていったっけ、そう、苗木誠)には、尊敬の念をおくってやまない。
更生プログラムなるものが事実上の失敗に終わってから順繰りに目覚めたメンバへの説明役と監視役とを仰せつかったらしい男のことを、覚えているといえばおぼえているし、知らないといえば知らない。解説とはいっても彼はほとんど自分からはしゃべろうとしなかったので、こちらから質問をしなければならなかったが、かといって目覚めたばかりの面々に、すぐに思い当たる疑問がなかったのも事実であったので、おおまかな、表層的な話しか聞かされていないのだが、数日が経って意識のはっきりしてきた今でも、彼を探してまで色々と訊ねてみようとは思われないから、たぶんたいていのことはどうだっていいのだ。
退廃的? さもなくば、投げやり、すてばち、何もかもはとうの昔に過ぎ去って、置いてきてしまったのだ、それでもまだ、誰かが、こいねがい、いのって、手を伸ばしてきたのなら、肋骨のひとつやふたつ、取ってくれてやったものを。そんな人間がいるものか、そもそも、この島に取り残されて、最後の楽園なぞと嘯いてはみても、ほかの場所を知らされず、このまま生き死にを繰り返すだけが、許されたことなのかもわからない。日差ばかりは燦々と、酸素はうすい。
自分がなんらかの褒められたものではない、ともすれば厳罰、為政者による断罪と裁判とにかけられるべき赦されざる背徳のなかに、身体と、命と、心と、意識と、存続とを傾けて浸していることを、痛いほどに分かって、いて、かといって自戒の念や、自責にかられて、塒をこのスクラップの山に求めたのではなかった。しいていうのなら郷愁。
搭載されていた武器のたぐいや、エンジンそれらを引き抜かれて、代わりになにを詰めてもらえるでもなしに、剥製にされるでもなしに打ち捨てられた機械群は、つまり臓腑をうしなった死体だった。もはや熱を発する機関のひとつもなしに、音速を超えて、ソニックブームさえも置き去りにしたはずのボディも、いまや形無しである、恐ろしい高温にも、高圧にも耐えたその機体において、いまもっとも熱量をもっているのが、機関部にもぐりこんで塒にしているこの左右田和一だというのが、如何にも滑稽である。
機械いじりについてたずねられたとき、得手であるだとか、趣味であるだとか、ましてや職業であるだとかの、誰にでも容易に理解しやすい理屈や名前で、説明つくものでないのが、如何にも面倒くさい、それが真実でなくとも、本然を指し示すための言葉でなくとも、適当にかたちを与えてしまえばよかったのだ、必ずしも嘘は害悪ではないのに。
自分を騙すことがもっとも困難で、ある、実直さや真摯さが、左右田に偽りを厭わせたのでないことはすでに明白かで、単純に臆病で、卑怯、たねもしかけもあるばかりの手品を、人知れずひたすらに練習してやっと白日のもとにさらしたのに、なに知らぬ顔で楽しむにはどうも勢いと 、思い切り、厚顔さとふてぶてしさに欠いている。
なにかを得るのには痛みをともなうのだと、誰かが言った、先駆者、先達、偉人に賢者、浮き世の嘆きに名を流し、厭世して隠遁を選んだであろう老獪たち、仙、立ちこめる霧は、しろく、重く、まとわりついて濃い。視界があまりに悪いので次の瞬間には高く切り立った断崖絶壁の、するどく、つめたく、無慈悲な横顔を目の当たりにさせられるかも分からないし、そのときになって慌てて上昇をこころみたところで、わずかの滞空や揚力くらいは得られても、嶺のさきまでも上ってゆける保証はない。
金属のかたまりのなか、ところどころに染み出した油が整備用のそれなのかあるいはタンクからこぼれたそれなのかあきらかでなく、後者であったなら、肌に触れたり、気化した燃料を吸い込むのはけして健康にとってありがたくないものであった、すくなくとも一部の限られた人間のほかにはふれあう必要も必然もないものだ。冒険と同じ、燃費のわるい、無駄で、贅沢そのもの。
健康? いったいぜんたい、なんのために健やかなりや、なにをして康らかなりや? 鉄錆と、燃料油と、どこかで燃え続けている爆発の残滓(考えるまでもなくたいへんの熱源を誇る化石燃料がくすぶり続けているのだから危険きわまりない)のにおい、はぜている、ほえている、もえている、なめている、それは左右田が丸まって死んでいるうちに、埋葬されている夜のうちに、しのびよってきたかもわからないし、遠ざかってゆくかも分からない。
錆びついた金属だ、きまってる、じわりと傷もなしに、色素のほとんどを失った青年のわき腹からあふれでてきた鮮血でなしに! あれは燃えるはずだ、どうりでよく燃えるはずだ、心臓を抜き取られてはいても、飛んでいたことは覚えているだろう? おまえは戦闘飛行機なのだから。
たちこめている煙のしたで燃えているのは漏れ出した燃料だ……、間違っても野辺送りの焚火ではない、点々とたたずんでいる漆黒の、無言の視線は、歪んでしまってもどらない螺子や発条や歯車やパイプやコードであって、間違ってもかなしみに沈む葬列の、陰鬱な参列者ではない。腥いような、なにかが腐るような不快な臭いは、つなぎの合わせをほとんど開けはなって(こういうときこの作業着はたいそう不便だ、継ぎ目がすくないぶん汚れや炎などが肌を焼く心配がなく脱ぎ着がかんたんで寒風に身をすくめる必要もないのでなければ、――これだけ利点をあげられるのだからすくなくとも左右田はこのオールインワンに対してわりと好印象を抱いていることは確かであろう、ささやかな推理)、何のためでなく儀式のように行った自慰行為によるものであって、間違っても屍肉の臭いであるはずがない。
そうでなくとも支えられているようでいて、専門的知識による分解ではない、無知ゆえの破壊によってスクラップと化した剥製は、いつ崩れ落ちたとて不思議はなく、彼は諾々と眠る。すでにみずからを生き埋めにし、埋葬した彼にとって、棺桶に打ち付けられるべき最後の釘が時間によってもたらされるのでも、爆発によってもたらされるのでも、あるいは誰かの手によるのでも、たいした違いはない。
塒とは、それだけの居心地のよさを、整え、排除し、分解しては磨き、油を注し、組み立てる、その繰り返しによって建築された彼の箱庭である。誰にも侵略も、征服も、させてなるものか、討ち滅ぼせ! 死者のねむりを妨げるなんていけない子ね。おはよう。おやすみ。
こんなときになってもまだコックピットに潜り込む勇気がないのだから晴れ晴れするほど臆病だ。べたりと粘つく指先を適当に拭って押し下げたままになっていたジッパを持ち上げるのだが油断すると腹や下着からはみ出た肉やらを挟みかねないので細心の注意を払わねば、想像を絶するような痛みを伴うのだから……、しかし着込んで身動きがとりにくくなるのも歓迎できない。
指先はオイルと、なにかの液体と、いましがたあふれたばかりの詮無い欲求とにまみれて、爪のなかまで真っ黒く汚れている。あつくくすぶった吐息だけがまだ、オーガズムののこり、興奮の追撃として腹の底にくすぶっていて、遠くににぎやかなパレードの灯し火のように、さみしくても見失うことのない家々の竈のように清潔に沸いている。朝なのか昼なのかも、もはや明らかではなかったが、儀式をひとつやっつけて眠りに沈もうとする意識を、唐突な騒音が耳障りにひっかき回したので、ついに彼は墓守りの家を抜け出さなければならなかった。
はじめに視界にみとめたのは、白亜であった。あとをひく吐息の霧は、彼の身体のうえから、うちから、香るようにおだやかに立ちのぼっていた。熱帯夜は我が物顔で、みだらの身体をしとねに横たえていたものと思われたが、抜け出してみると夜は幾分冷える。さもなくば彼が氷河期を連れてきたのだ、雲海に、雪原に、いちめんは銀世界、ひらけた視界にぽつりと佇んでいる長身の影はまぼろし、まぼろし?
だらり力なくしなだれている青年のかたちをした何か、それはとっておきの天使であって、特等の悪魔、半ば引きずるようにしてここまで運んできたらしい日向創の眸からは一切の感情らしい感情を見て取ることができなかった。それは意図的に、あるいは努力のすえに隠蔽されたものかもわからなかったし、同じだけ、平坦化し、均され、起伏もなしに経過してゆく精神かもわからない。
日向は力任せに無抵抗な夜の剥製を、左右田がもぐりこんでいたのではない別の戦闘機のコックピットへ放り込んで、あまりにもその対応と所作のおざなりすぎるさまに腹が立ったので驚いた。
もう、左右田の身体を、代謝を、体温をたもってゆくための熱源は、はるか過去に燃え尽きた焚き火の記憶のみにすぎないのだと思っていた、それがどうだろう、いままさにあたらしく、勢いを増して、長い翳を揺すぶるような、駄々をこねくすぶっているばかりでない炎が、見事に大きくふくらんだ。ちぢこめていたばかりの身体には収まりきられないそれが、忽ちにひろがり、さきほど夜の剥製、ねむる氷河期、墜ちた流星、狛枝凪斗の肌からたちのぼっていたかぐわしさより幾分か野蛮で粗暴ではあるものの、左右田の輪郭を増幅してみせた。
もっとも近い感情をあらわすとすれば怒りだろう、つぎに愛、それから、勇気だ。野次や、まるで心ない鼓舞にあとおしされていきり立つのでなく、さみしさに浮かべた烏瓜の灯のように、しじまのゆえに獰猛の牙を剥く、粛然たる征服者、夜空の勝利者、いつだって争いと諍いが、人間の技術を進歩させる。自分の手によって組み立てられたものが、デザインされ、カスタマイズされ、武器となるのをエンジニアたちが想像しなくとも、それらはあまりにも容易に凶器と化すのであった! 突き放し、打ち払い、目を背けたところで変わりはしない。
ライト兄弟は、かれらの飛行機が、無差別の略奪者になりうるとひとすじも思わなかったろうか? 人間は、発見は、発展は、いかなる時代のうえにあっても、人間のまえに詳かにされるべきものであり、かなしいことではあるが人間にしか、認められない。おしなべて外へ向かうものは、拡散され放散されてゆくものは、広がって、薄まって、誰かのまえに圧倒的に君臨すべきなのだ。人知れず夜を縫う飛行機たちが、厳かの黙り、敬虔ななりをして、頭を垂れて見せたけれど、まったくばかばかしいくらいに滑稽で、道化じみている。
なにせ怒りに身を任せているばかりでひときれの怒号はおろかひとさしの静止もひとひらの誰何さえも、彼は発することができなかった。ただひたすらに燃えていた。ひたすらに……、怯えていたのか? 竦んでいたのか、ひるんでいたのか。それとも、畏れていたのか。おさない日々に彼らを支配したのは父親であって、左右田もまた、いっとうのエディプスであったこと、おもいだしてぞっとし、寛げた胸元から手を突っ込んで自らの逸物の輪郭をたしかめた。
積極的に訊ねたではなく、知らずにすませることができるなら成る可く距離を置いておきたいとすら思われる忌避的感情を以てしてなおも、彼らのあいだに交わされた肉体的交渉と、取り沙汰される心ならぬ婚姻との終着点が、 歓迎されない場所に備えられているであろうことは、すでに当事者でない左右田の目にもあきらかなので、あった、相手を尊重するでも、信頼するでも、ましてや愛するでもなしにつながっているその歪さが、却ってうつくしいのかもわからなかったが、壊したものは戻せても、壊れたものはもどらない。
それは、鍵盤のない、喪服の貴婦人である。どれだけ幼くみえたとても、未亡人の、ヴェールに覆われたうなじの、白鳥もかくやの流線は、なにものかに暴かれて物質的にも概念的にも触れられ、撫でられ、口づけられたのにちがいないのだ! いまだ意識を取り戻していない狛枝凪斗(聞くところによれば彼はかの国、亡国、彼岸にて、一度ならずも二度までも死んだのだというから、戻ってくるのはほぼ不可能であろう、と推理)、彼をして女性的と称するべき外見的特徴は皆無といってよいくらいなのだが、なにせ長身、痩身痩躯、女性特有のふくよかさややわらかさとは似ても似つかないくらいだ。
キャラメルの、キャンディの、梱包を剥ぐような丁寧さで(つまりたいそう乱雑だということ)日向があらわした狛枝は、憎まれ口はおろかひとことの口をきくこともなしにされるがままになぶられている、発揮される日向創の暴力的素質は、普段から慣れ親しんだそれではないぶん、稚拙で、系統立てられてはおらず、まったくもって美的感覚に欠いていた。
つまるところ、芸術的でない、うつくしくない、目を瞠るような、視線と光源を奪われてはなされないような、試合もかくやのエンタテイメント、あるいはギロチンを囲む群衆の、水面下での、待ちわびた春の時代へ浮き足立つフラストレーションと、残酷で滑稽じみた悲劇への後暗い期待とが沸き起こるような見世物、魅せものとしての魅力は、どうしたって足りてやしない。
むろん、彼は俳優ではなく、エンタテイナでも、ないから、誰かを楽しませるそのために、日向創は暴力者であったのではなかった。ましてや命を費やして、その信念と思想と信仰とのために、しいていうのならば職業的な、明日を生くるそのために、やむをえず選択したはずの、獲得したはずの、暴力であったのだろう。それは自己顕示でさえない……、誰かへ向けて表示さえ、暗示される日向創なる人物が、いかなるキャラクタと、個性とを要求されていたのか、いまとなっては誰にも分かるものではない、おそらく当の日向自身にさえも明らかではない。
何もかもを記憶する性能がもし、自分に備わっているとして、しかれども記憶の部位が、可及的速やかかつ不可逆的に破壊されないという保証はないのだ。奇しくも、皮肉なことに、日向創はそれを自ずから証明せしめた。
心臓は明滅をくりかえしている。うすく肉づいた青年の身体からは、死のけはいと、みずみずしくかぐわしく眩暈を誘発しかねないしめった生気が、綯交ぜになって立ち上ってきて日向創少年の内情を否応なしに刺激し鼓舞し愛撫し挑発し興奮させ、どうしようもなくせつなくさせた。
せつなさ?
耳障りの良い言葉に置き換えるのは簡単で、そうして気分がよいものだ、口汚く罵りたくはないし……、断罪や、弾劾の言葉を吐きかけるのには、実際のところ彼らは小心者にすぎた。そのくせまっさらな箱庭をあたえられて、うつくしい世界を組み立てるように命じられてしまったからはて困った。
自分のすきなものや、琴線にふれたもの、まったく理解ができないが世間的にすばらしいとされるもの、 そのすべてにまったく興味がなさすぎて、あるいは自意識そのものへの嫌悪が異常なまでに膨らみすぎて、たくわえたものを適切に配置するだけにしたって、ひっくり返す引き出しさえも空なので、いつまでも空虚のジオラマ、廃墟であればまだ、かつて人間の、文明の、精神の存在した痕跡も遺せようが、なにひとつ並べておきたいものなどなかった。
ほしいものは幾つもあったが、つまり、持っていなかったのだ、悪趣味きわまりない、洪水のような、驟雨のような、遠近感を容易に狂わせ、磁場を乱し、いっしゅんで無重力の宇宙へ放り出されたような錯覚に陥らされるエネミー、どいつもこいつも主張が強すぎる。
埋もれて、害もなく、特筆するほどの徴候がみられるでもない普遍的なものへ成り下がる(この感覚こそが害悪だ、罪悪だ、背徳だ、なにかから飛び抜けて、誰の目にもあきらかであることだけが正義ではない、大多数の曖昧な、しじまの声高、暗黙の共通認識、目を閉じていてさえその輪郭をたどることができる、群衆という、名前のない、淀んでいてしずかに腐ってゆく四季とえづくような慟哭、誰でもない、顔のない、はじまりのない、終わりのない、重たく軽い、その集積からあぶれることは必ずしも歓迎されうるものでなかったことに、逸脱してから気がついたのでは遅すぎる)ことへの潜在的な恐怖が、いつだって彼をすくませたが、結局のところ帰ってくるのは自分自身のほかにはありえないと、もう少し早くに思い知りたかったのかもわからない。
褒めそやされて、飛び抜けて、劇的な人生を送りたかったし、喝采はいつも、彼のために開かれているべきだ、頑なに信じていた。そのことを揶揄するように眉をゆがめ、片目をすがめた友人の姿をわすれない。俺たちはべつだん未来がみえるわけじゃあない、悲劇も、それが起こっているさなかには、誰にも観測されず、誰にもそれと認められないものだ。そんなことは十分すぎるくらいにわかっている。
十分だ……、魔法の呪文をけんめいにおぼえて諳んじてみたところで、物語のように、すばらしい奇跡が起こるのを、日向創はいちどだって見たことがない。かなしいことだけれど、彼は自分のために打ち鳴らされる祝福の太鼓を知らない。踏みならされるオーケストラの、低く深い足踏みを知らない。
世界が一斉に晴、芽吹きだして、華やかに、ひかりとあまったるい匂いとに満たされてゆく、しっとりと露にぬれていた朝を知らない。それらの普遍的なものは、じっさいのところ彼のそばに溢れていたものだったけれども、すべてを擲ち、つまらないものと片付けて、捨ててきてしまったのだから。
後悔があるだろうか?
いまさらそんなものを振りかざされてもこまる。
それらしく取り繕った愛の言葉をいまさら吐きかけたところで、その腕のうちに抱いた、恋びと、そうだ、恋びとと呼ばねばならなかっただろう、彼らのうちに愛はなくとも、かわされた行為は、一般的に愛の延長にあるはずだ、しかし恋びとはすでに冷たい……、はるかに冷たい! 死んでいる、しんでいる、いつまでも吐息を続けてはいられないが、みずからに望んで、贄となるでもなく、穏やかでもなく、恐ろしい死を、孤独に待ちそして迎えた。
見よ、勇者は還る、どこに? 魔王はほろびた、けだものはほろびた、けれども彼らはひとりだって、一閃もなければ、一矢も報いることなしに、ただ開けたばかりの眸が、闇になれてゆくのを待っていたに過ぎない。はじめはわずかな光から、徐々に、西の空の一つ星、どこからか飛来し襲来し到来する、不安を煽る帚星、眸は、光を覚えていったはず。きゅうに眩しくされたらこまるよ、おどろいて、こわくなって、逃げ出してしまうじゃあ、ないか、はじめこそはこの薄暗い、コックピットがお似合いなのだ、とうの昔に死んでいるぼくたちには……。
狛枝凪斗の生前から彼らのあいだに後暗い交流が存在していたことは、左右田ならずとも知っていた。はじめは、もうすこし健全じみた、さわやかで、清々しい感情、憧れや、親愛、または身体の隅々にまで行き渡り洗い尽くされるような洗練さをたもった、清潔な友情そのものが取り交わされていたように、思われる、それがいつから狂ったのか(あるいは外からはまったく観測されなかっただけのことで、はじめから狂っていたものか)、誰も知らなかった。
愛着はいつしか執着となり、
羨望はいつしか嫉妬となった。
信頼は依存となり、
独占欲は暴力にかたちをかえた。
まったくもって日向創は、いまや暴力の権化であった、ありとあらゆる方法と手法でもって狛枝凪斗を辱めるにいっぺんの躊躇も迷いも挟まれることがなかったし、おなじだけ、狛枝のほうにも、肉体的に辱められ痛めつけられるぶんを、日向のやわらかな精神としなやかな魂を、食いちぎるのに余念がなかった。そして、それはおそるべきことに、狛枝が自死を選びまさにとっておきの方法とタイミングで実行するまで、惜しみなく、絶え間なく、続けられた。いっそ喜劇だ! 滑稽のままに、偽りのために偽るのではなく、行為のために行為に至った。
殴られて口のなかをしたたかに切り舌のうえに苦い鉄の味がひろがっているとても狛枝の舌はたいへんによくまわり、何を言っているのか聞き取れるか否かの瀬戸際で、呪詛のように延々と言葉を吐き出し続けていたものだった、彼らの行為のあいだ、さえずらずにはいられないようだった。さえずりにしてはたいそうやかましく、また不穏な言葉がしばしば混ぜられていたものだが。
彼らがこの島において交わったことのない場所など、あるいはなかったと言える。はた迷惑なと誰かが眉をひそめて、それを止めることがあったなら、何かが変わっていただろうか? とてもそうは思われない。あるときは日向のコテージで、あるときはモーテルで、あるときはプールサイドで、あるときはキッチンで、あるときはビビーチの岩陰で、彼らはその戦争のための場所を選びはしなかったし、ひとときどちらかがその気になれば、けして逃亡を試みることがなかったし、それは唐突に始まった。近くに偶然居合わせればたまったものではなかった。男同士の睦言のたぐいなぞ聞きたくもなかったし嬌声はおろか絶頂の瞬間の、断末魔にも似ている悲鳴だって、すすんで聞きたいものではない。しかも彼らはいっこう構いやしない。
のみならず、コテージでその行為におよぶとき、すべての窓を開け放ちさえした……、こちらとしてはたまったものではない。一度などはシャワーを浴びている際に入り込まれて一晩のベッドを明け渡すはめに陥ったこともある。いまでもあの高い声が耳のおくに響いているようだ……、左右田はそっと両耳に手を当てて、そのあまりの熱さに怯えた。熱情が、ゆっくりとただよって、彼のそばへまで這い寄ってきていた。熱帯夜は暑すぎる、いくら南の楽園だからといって、この世の最後の楽園だなどと嘯いたからといって、こんなにも熱くした責任を彼らは果たすべきではないだろうか? 火遊びとはよくも言ったもの、轟々と、恐れを知らぬ劫火が燃えている。
不思議なことには、それだけの賑やかさとはた迷惑を振りまいていたのにも関わらず、吐き出され続けていた呪詛の言葉は、いっそ言祝ぎ、祝詞のさまでうつくしく、歌っているかのごとくに耳にやわらかかったことだ、あまりにそれがすばらしいので、左右田は彼らの房事をのぞき見たことさえある、あるいは狛枝凪斗とは、ああいった青年のなりこそしてはいても、本当はなにか、あたらしい、男でも女でもないアンドロギュノスのたぐいではあるまいかと。
うたうように、いのるように、荘厳で、かつ瀟洒のさまで、彼は喘いだ、さえずった……、うつくしい白磁の肌に興奮がせり上がってきて、ほのかに薔薇いろ、染まってゆくさまを、一部始終目撃できるのは、狛枝の戦争の相手である、唯一の敵であると認識された日向創のそのひとのみであることが、いっそ妬ましくて仕方がない。
むろん戦う気もなければ勝てるとも消して思われないからはじめから左右田では相手になどされないのだろうが……、これは、日向創にのみではなく、よこたわり、みだらの身体をしなだれて、壮絶にわらっている狛枝凪斗にもである。
はじめから負けているのだ、対等に、なにをもっているだとか、何を差し出すことができるだとかいうではなく、また、抽選や、手術によって齎された人工的なそれでなく有効でかつ有望な才覚を有しているか否かではなく、単純に、同じ立場で、同じ視線で、図々しくも土足で踏みいるような荒々しさでなければ、白亜の箱庭に、入ることもできない。左右田はずっと、招かれるのを待っていた。楽しそうに取り交わされる会話や、あそびにくわわるために集まってくる子どもたちの掛け声、じゃんけん、そのうちの誰かが気がついてこちらを振り返ってお前も混ざれよって言ってくれるんじゃないかって、
「左右田クン」
ふざけるなそこには混ざりたくねえよ俺をお前らと一緒にすんなって、
「えっ?」
意識もなければおそらく心臓も止まっていてあの特有のあまったるいような甲高いようなうたうような囀りのすべてをうしなって色づくこともなく春は遠くしかし匂いと気配だけは濃厚に漂わせていた、逆らったり罵ったり逃げようと試みたり日向にさんざん殴られて唇を切りそれでもまだ憎まれ口を叩き続けたりキスすれば舌に噛み付いたりもうしない従順なうすいからだとやわらかい髪とき���いな喉仏と鎖骨ともちろん循環がないために怒張することも勃起することもない性器――どれだけ彼に中性的な魅力を見出したとしても、精神の去勢者としてのあやしさ麗しさを見出したとしてもありありと存在するその輪郭を目の当たりにして狛枝を女性ということはできない象徴そのものとをうすぐらいコックピットのなかで日向創の赤くひかっている眸のまえだけに晒しているはずの狛枝、信じがたいことではあるものの、彼に暴力を振るうことがなにより嫌いで恐ろしいとおもっていた日向創は、同時に思うがままに彼を屈服させられる、彼にとってはけして良い思い出ではないのみならず深刻な心的外傷の原因にもなっている飛行機(くわしく訊ねたではないがいま彼が持っている財産や運命やもはや何にも拠り所のない天涯孤独の理由には、かつての飛行場、かつてのハイジャック事件の悲劇が関係しているらしいことを、図書館に備えられた過去の新聞のデータ・ベースにアクセスして知っていた、)でなされる行為においてのみ、本当の意味で狛枝凪斗をその手にできた、愛せた、慈しみ、愛撫し、憎しみとは切り離された感情で抱いていたのだとすれば、目覚めない狛枝の長身を引きずってわざわざ感傷にひたるように物言わぬ死体を抱くような行為に走ったりしなかったはずだ、
物言わぬ死体?
今しゃべったじゃないか?
そして驚いて漏らしてしまった声でくたりと横たえられた狛枝凪斗の身体をきれいに半分に折り曲げて行為に勤しんでいた、その性の昂ぶりを思うさまにぶつけるべく普段の冷静沈着かつなにもかもを達観したような表情をかなぐり捨てて揺すぶっていた日向がぴたりと抽出の動作を止めるとともに、まだ絶頂に達していないがゆえに血液が集中して怒張し赤黒く激っている弾力をたもった性器を勢い余って引き抜くと、
目があった。
さきほどたしかに左右田の名前を発したはずの狛枝凪斗はその瞬間にも何も反応しなかったが、日向の眸から焼かれて落ちたかわいそうな蠍の焔が一瞬で消火されるのを見計らったかのように、壊れたレコーダのような高笑いをあげた。
ここではないどこか、恐慌状態を起こすこともなしに、日向と対等に、時には生命をたがいに脅かす意図と意識でもって交わっていたそこかしこで繰り広げられていた嬌声と、それは限りなく同じものだった。呪詛でもなければ言祝ぎでもなかったが流暢に歌うようにながれるようにあふれだす、その奔流は、もはやオーケストラのそれであった。
日向創は虚をつかれていたし、彼が天才たりえるために施術された外科手術によって、とっさの判断能力と情動の一部の発現が著しく遅らされていたので、混乱さえもできずに、ぐるりを見回すこともできずに硬直している、ようで、ある、はだけられた狛枝の身体はやはりいつかのぞき見たままに白くうすく、張り伸ばされた剥製の皮、霜が降りて、夜は冷える、そう、自分の塒を潜りでたときに感じた風のつめたさを、左右田はもういちど自覚して、次の瞬間には笑い続けている狛枝凪斗の腕をひっつかんで駆け出していた。膝の近くまで下着と細身のカーゴ・パンツを引き摺り下ろされすでに何回かぶんの性欲の発露となんらかのぬめぬめした合成材料(この島にローションなんて高度なものは存在しなかったことを目覚める前にも目覚めたあとにもディスカウントストアおよびドラッグストアで確認しているのでおそらく本来の使い方とはかけ離れた用途に使用されているそれの正体は考えたところであきらかになるものではなし、そもそも死体相手に行為に及ぶにあたってこんな律儀で形式ばった丁寧さをあの日向創が発揮しているという矛盾がまた違和感をもたらして仕方がない)とに足と腹の一部とを汚している狛枝はそんなのお構いなしに笑い続けていたしそのままじゃあ逃げるにしたって走れやしないのでズボンを引き上げてやって後ろから頭をどついてとりあえず声を止めさせる。以前から訳のわからないやつだとは思っていたがなるほど喧しい、殴りたくなる気持ちもわからないではない、ましてやすこし叩いただけで黙るというのだから。
あのぶんでは日向が現状を把握してこちらを追いかけてくるまでにはそれなりの時間が必要だろう、と判断したとか、なすがままにされている狛枝の姿に哀れみを感じたとか久しぶりに誰かに名前を呼ばれて思いがけず感動してしまったとか、理由は幾らだってつけられたけれどもどれも正しくはない。
ああもう何やってるんだ俺は?
「ひどいなあ、舌噛んじゃった」
知らねえよ!
三、カルシウム
唐突にすぎる不安が疾風の、あるいは韋駄天のすばやさでおそってきてあらゆる音声と感情と色彩を浚っていってしまったのではあるまいかとひととき本気で信じてしまうくらいには、現実に追いついていない意識と精神と認識と肖像とを持て余していて見失いかけている、と日向創は冷静に判断していた。
ときどき自分自身でさえ感動して感涙しかけるのだが日向の制御している感情や情動、おしなべて理知や理性から切り離され、低俗で、野蛮なそれらを、いっそ完璧に抑え込むことは、呼吸のように易かったし、古びてもはや誰もほしがらないような一過性のあるいは季節性の流行ものの量産品のようにだって安かった。そうして、それはほんのわずかの時間のみ、かたちを保っているにすぎない。劣悪なもの、粗悪なもの、壊れかけているもの、はじめから完成していないものを、どれだけ丁寧にあつかったところで、寿命はすぐにやってくるのだ。消耗される、ということ。
持てるものと、持たざるものと、日向は圧倒的後者であり、たいていの場合における無い物ねだりと拗ねた気持ちは、日向創を天才せしめた年月のあいだに失せてしまった髪や肌や眸の色のうえに、重たく暗く、翳りをさしかけて、もとの黒さを取り戻させようと意地の悪い不和を擡げた。
髪は切ってしまったし、戻せないものは少なくない、けれども失ったばかりではないのだと持ち前の明るさと根拠のない自信と矜持と自負とで振る舞い、ずいぶん日向創にも慣れてきたようだ……、このぶんなら近いうちにマスタできるはず。思ったよりも時間を掛けているが許容範囲であろう。
いっとうの上手は、研究と恙なさ、おしみない賞賛と、名声とを見いだしたときにはじめて形をなすものだ、骨格ばかりは変えられない、張り巡らされて縦横無尽、瞼を伏せるそれだけで、それらの交通が手に取るようにわかる。幾重にも枝分かれしたそれは、それぞれにまるで異なった次元へと、その終着を求めている。
せめて分岐点のそこかしこに、親切で、信頼のおける、彼らよりも年配で親切で賢く良心的な誰かがたっていて、間違いを犯さないように指し示していてくれたのならば良いのに、さもなくば、選ばれなかった方の道に、いったい何が待ち構えていたのか、そんなものを想像し夢想するだけの時間的精神的余裕を、モテないほどにせわしない日々ならば良かったのに。
うまくはゆか���いものだ、だからといってすねてむくれてばかりいられないのもまた、つまらないし融通が利かない。憎たらしい、とまでは言わないまでも、何やら得体のしれない、普遍的な、いままで当然のように享受してきたものたちが彼の力ではどうしようもない圧力と暴力とによって奪われてゆくのを目の当たりにして、縫い止められたように動かれない。
怒りや、悲しみ、さまざまの愛と眩惑が、縁になみなみと、表面張力のさまで盛り上がっていた。決壊のときは、すでにそこまで迫っているというのに、そのくせをして大変に遠かった。こわれてしまうこと、あふれてしまうことを恐れていたのは誰だった? 才能のない日向創には、なみなみと注がれたそれが、決壊とともに著しく失われていくであろうこともまた分かっていた。
あとからあふれ出すものだったなら、惜しげもなく、湯水のさまで消費して、ときにはかわいそうな、恵まれないだれかのために譲ってやることができたろうか? 飢え乾いている誰かのために危険をおかし漸くにして手に入れた食料あるいは砂の混じらない冷たい水を譲ってやれるだろうか? そんなはずはない! 日向創は努力した、すくなくとも、罠を張って、そこに獲物がかかるのをただぽつねんと待っていたのではなく、自らに獲得せしめんとして動いたはずだ。だからこそいまの自分があるのだ、そうでなくば、この数年の、数ヶ月の、数日の、悲しみに暮れた日々の痛手を如何様にして癒したらよいのか、一体何によって補間され補充され補填されるのか、考えるだに恐ろしい。まさか、何の根拠もなく信じられた少年の時代を、無為に浪費させられていただけなどとは、夢にも思いたくない。
取り返せるものならずべて取り返してみせよう、欲を貼ってばかりでも、ほんの僅かで良いなどと優等生ぶった回答を望まれているとしても、自分に求められるものの矮小さ、せせこましさ、くだらなさ、日向創のそのひとでなくともできるだろうと思われてならないものたちのために働かされるのは真っ平ごめんだ。誰にでも出来ることなら……、誰でもいい、顔のない、誰だかも定かではない人間に任せておけばいい。そんなところにはもう一瞬だって立っていたくはなかった。
いっそのことくずおれて、こんなにも鈍重で、愚鈍な肉体に、いつまでしばられていなければならないのか、腕の届く範囲でしか、世界は起こらない、両手に足りる数でなければ数えられない、そんなものから、解き放たれてしまいたいと思った。九頭龍冬彦が九頭龍としてうまれたように、はじめから課せられた日向創をまっとうするには、あまりにもつまらなすぎた。
何もできない。
何も持っていない。
これからさきにも、何かを手に入れられるとはとてもではないが考えられない。
それが自分であることにほとほと嫌気がさしていた。
歪んで骨のかたちが見て取れる拳のかたちをまじまじと見つめてみた。すると、じわりと広がった内出血の青と、周囲にべたりとへばりついた、血液と唾液と精液とそれからさまざまの、人間の液体成分が綯交ぜになったきたないものとが、あきらかにグロテスクで見るに耐えないマーブル模様を作りながら彼の視界いっぱいに広がってくる。
視力はそれほど悪くなかったはずだが、いつのまにこんなにも落ちてしまったというのだろう、いまとなっては裸眼では、ずいぶん近づけない限り、肖像の詳細を、適切な解像度で得ることができない。わずかならぬ疲労と、眼球の奥に、焔がはじけるような痛みを唐突に感じたのでいっそ飛び上がるかと思い、痛みを感じたほうのまぶただけをそっと伏せた。
視野が八割ほどに狭められるとともに(しかし二つあるうちのひとつの目玉からの情報が遮断されたというのに完全に視野の半分をうしなうわけではないというのは如何にも不思議である、だからどうということでもないが)、痛みがやわらいだような錯覚に陥る。そんなはずはない……この痛みが一体何に由来しているのか、長い付き合いになってきたので知っている。
それから、片方目を閉じたほうが、視界が明るく開けてくることもおぼえた。つまり、日向創の左右の眸には視力に著しい差が存在しており、いつだって良いほうの眸が、悪いほうに足を引っ張られて、みえるものもみえなくなってしまっている。瞼を伏せて、分厚く、熱を帯びて、しかし清潔とは程遠い手のひらを載せると、己の体温によってじんわりとあたためられて今度こそ激痛が襲ってきた。
あたりまえだ、人間に個人としての尊厳と一個体としての人格を確立するもっとも重要な臓器である脳を保護するために、頭蓋骨はたいそう丈夫で、かたくつくられている、そのなかに閉じ込められた脳が……、圧力を感じるがゆえの痛みなのだ、液体は総じて、あたためられて容積を増すものだ。温められてきえる痛みなど、大したことではない。
しかしながらまだ痛みに引きずられて正気をとりもどせるだけ、この頭のなかには感覚器官が残されていて、どれだけ立派かさだかではないけれど、脳が詰まっているのだ。思考や、思想、記憶などを司るまえに、自分が生きているのを確認するのに、痛みはたいそう役立ったので、頭がきちんとついていてよかった、首がつながっていてよかった、と意味のわからない安堵にため息をもらす日向創である。生きていることは、いっとう単純で、いっとう低俗な幸福であり、そのうえに恙無く、ささやかでものぞみの叶う生活をと積み重ねてゆくうちに、忘れ去られがちの概念でもあった。
生きているだけでしあわせ?
すくなくともかつての日向であったならそんなことは考えなかった。誰に、というではない、特定の個人や、彼よりも優れている天才、秀才、選ばれた子どもたち、彼らによって、自分が辱められた、あるいは損ねられたと思ったことはない。いっそ白羽の生贄でも良い、名前を呼ばれたかった。呼ばれたいと思っているくせに、一度だって手をあげることのなかった少年を、思い切らせたのはなんだったろう? 憧れか、それとも? なんにせよ撃ち抜かれて恋の矢、燃え上がる焔、死んでしまったかわいそうな蠍、痛みについには耐え兼ねてひらかれた眸は、燦々と、皓々と、きらきらと、ひかりを撒き散らしはじめた。
だらり、身体のよこにぶら下げられた腕の筋がすでに伸びきってしまって持ち上げるのにも億劫なほどになっていること、くせになっているので脱臼くらいはたいしたことではないが戻すのが少々こつが必要でやはり面倒なこと、履きつぶし踵を踏んだ革靴で歩くには砂浜は足を取られすぎること、ありとあらゆる要素と事実が、彼に怒りを思い出させたが、自分の感情がどのようにして発露していたのか、いまひとつ曖昧である。なんの衒いも、憚りもなく笑っていたようなきがするし、不機嫌を隠そうともせずに唇を尖らせたり、眉をよせたり、それらは簡単なようでいて、考えて実行するにはあまりにも困難にすぎる。
精神異常者をあぶりだすスクリーニング・テストの問題を並べて遊んでいるクラスメイトたちを低俗と内心に嘲笑いつつもそのテストによって導かれる狂気の回答をせっせと記憶した。もしも彼がたずねられたとき、過たずに異常者の回答をはじき出すことができるように訓練したのだ。自動販売機で買う飲み物は、水でなければならないし、強盗に押し入られたとき、隠れるのはドアの裏側でなければならない。それらしく振る舞い、サイコパスのレッテルを貼られるために、彼は努力した。人とはちがうものになるために、異常の研究に余念がなかった。
思い出すだに笑える。そんなことをしたって、偽物になるだけだ。すでに正常ではなく……、しかし偽物の異常は、彼の精神と肉体とを蝕んであまりある、たいへんに厄介な寄生虫そのものであったといえた。もしも救いがあるとすれば、それによって何かを搾取されていない、という一点のみに尽きるだろう。それらしさを取り繕おうとしている時点で、まったくもって正気そのものであり、狂人を演じるためには冷静の研究、研鑽、観察こそを、磨かねばならなかった。
天才を演じるためにありとあらゆる天才の生態と思考とをトレースしようとこころみた日々を、無駄にはできない、そのぶんをほかのなにか、普遍的な愛や、友情、あとからおもいだして笑い合えるようなかけがえの無い関係をつくり上げることができなかった以上、彼は成功を、約束させられたのだった。誰に対してでもなく、自分にそれを課した自分自身のために、天才たりえなければならなかった。
かわいそうに……、仲間に入れて欲しかったそれだけじゃあないか、ただそれだけのことだったのに。天才ならばそれができると信じてしまったのが、最大の誤りだったと今ではわかっているけれど、戻ることはできない。来た道は、歩くそばから崩れていったではないが、大変にほそく、いまよりも小さく軽い子どもの体重と身体でようやくわたってこられた橋などが点々としていて、とてもではないが恐ろしい。それらを踏み外して落ちた先になにが待っているのか、ひかる眸を手に入れたいまとなっても、その奈落に息づいている化物の吐息の熱さと臭さに震え上がる思いである。たぶん、この世の言葉に置き換えるならば、あれこそが絶望だ。われこそが絶望だ! 暗闇にだって光は差しかける、綺麗事を抜かすな、そんなものは幻だ……、まぼろしだ! 光のふりをして子どもたちの目を焼かないで、ほんとうの光がやってきても、もうこれほどに落ちてしまった視力では、自分のかたちを掴むさえ危ういというのに。
「見えない……」
九頭龍冬彦がそうしたようにこの見えない方の目玉を抉ってみようかしらそうしたらすこしはこの痛みも疼きもおさまるかしら、まさかね、まさかよ。そんな都合よくまるくおさまるはずがないでしょ夢見がちなんてもう卒業でしょ、女をしらない童貞でもあるまいし。
「言っておくけど男相手はノーカンだからね日向クン。それにキミの場合は……、ああこれ、言わないほうがいいかしら」
だらだらと血を流しながら笑う狛枝凪斗はつい先程まで日向の身体のしたで死んでいたはずで、どこにいたってやかましく彼には全く理解できない言語と理論体系でもって囀りまくる狛枝を唯一従順なかわいらしい恋びととして愛でることのできる戦闘飛行機のコックピットのなかで上等のダッチワイフ、生前の――そう死んだはずだこいつはあの心優しい悪意などひとかけらも知らなかった天衣無縫純粋無垢の彼らの天使七海千秋を殺人者にするというもっとも忌むべき害悪をなしとげたばかりか彼女自らにして日向らへの裏切りと悖理を告白させあまつさえ満場一致により彼女を処刑台に送らせるという悪魔の所業を成し遂げて、両親をうしなったときをフラッシュバックするがゆえにあらゆる飛行機のたぐいに対する過敏症を発揮する彼を殴らず首を絞めることもなしに意識を喪失させておもうさま嬲ることができるコックピットは、あらゆるところで交わったうちでも日向にとって気に入りの場所であったと言えたし、生きていても、死んでいても変わらずに行為を楽しめる唯一の場所だったので彼が死んでからも重宝していた。
日向はネクロマンシアではない。が、行為の最中にしなやかな未亡人のそれを彷彿とさせる狛枝の首を殺さない程度にしめつけるのも、窒息しかかり苦痛にゆがむ表情がまさに絶頂をむかえるそのときに酷似していることに気がついたり、時折思い出したようにして狛枝が抑えて苦しむ脇腹を集中的に狙って殴りつけたり、湯船にたたえられたままの水にそのまま頭を沈めてやってあえかの呼吸に乱れるさまを楽しんだりする残虐性は、しばしばなんの先触れもなしに襲来したものである。おさない子が、ちいさな生きものを虐め嬲るような感覚だったかもわからない。頑なに快感と恍惚に身をゆだねようとはしない狛枝にしびれを切らしていたのか。
記憶の通りだ、ますますに匂いやかに、ぼうと浮かび上がる夜行性の花のさまで、遠近感のわからなくなったかわりに夜目ばかりのきくようになった眸にはもったいないくらいの光源を妖しげに放っている。対峙した彼の姿はいっそ神々しく、単なる青年と片付けるにはあまりにもうつくしいなりでありすぎた。
カストラート。
恐ろしく細いとはいえ長身であり、身体のそこかしこは骨ばっていて、女性的なやわらかさはひとつだってない。しなをつくってみせるさまは、確信犯のそれであったけれども、かといって艶かしいかといえば、肉体のそれ、たわわに実っている果実のそれとは似ても似つかない。しいていうのならば声だけが不思議に甘く、高い、それだけだ。
彼はうたうようにして喋った。さえずった、消して耳障りでなく甲高くもなくあくまでもやわらかく夜があければ萎んでしまう一夜きりの花のようにしろくおだやかに光り��がら生きた、死んだ、おどろくべき可動域をほこる彼の股関節を開かせるとき、どうしたって日向の幻想は打ち砕かれ、いっそこれが、誰に対しても胸を張って紹介できる恋びとであったならよかったのに変態だし卑屈だしベラベラとよくしゃべるし従順さからは程遠いしうつくしいかもしれないが俺より背が高いし顔も良いし声も良いし極めつけに男だ、と気分はげんなり重たくなるが、残念ながら普段からくだらない劣情ばかりを処理しても処理しても持て余している性器は萎えやしない。うんざりする。
「左右田はどこ行った」
「いまそれ重要なの?」
「後腐れはなくしたい」
狛枝凪斗と日向創はどちらも同性愛者ではないしお互いを恋びとと思っちゃいないが傍から見たときの客観的事実として頻回の性交渉を行っている時点で世間からそう認識されているだろうとは分かっていた。飛び抜けておかしな人間になりたかったのは否定しない、天才というのは総じて気が触れているものだ、ときおり冷静のままに佇んでいる人物がいないではないが、狂人たちに囲まれてなおも正気を保っていられることがすでに狂気であろう。こんなかたちで逸脱したいと願ったわけではないはずだ、ままならない、複数回の逢瀬を重ねてなおも同性愛者への醜く歪んだ偏見を持ち合わせている日向である。行為に勤しむその姿を誰かに目撃されることにそれほど忌避感はないが、自らで目の当たりにしろと言われたらおそらく発狂することだろう。あるいは発狂したいのか?
たぶん狛枝凪斗のからだのうちで日向創に触れられなかった場所などないだろう、むろんその内臓、はらわたまでをも舐めたわけではないが、それも彼が服毒による死を選んだからでそうでなかったらきっと傷つき槍によって貫かれた脇腹から腸を引きずり出して矯めつ眇めつ、かじってみるくらいの悪食は発揮したかもわからない。
こんな意味のわからない、性別すら明らかでないような精神の去勢者であろうとも、天才にはちがいない、彼には、ラッパと、みずみずしい乙女たちの素足に先導されるパレードへの参列権があり、日向にはそれがない。ただ練り歩くだけのことじゃあないか? プラ・カードを持つまでもなく、彼らはその胸に燦然とかがやく校章を光らせており、ただそれのみにて、人生の成功者たりえるのだ。言い方をかえるとすれば、はじめからレッド・カーペットを約束されている、ということ。そんなものはつまらないと言ってしまえるのは、おまえがそちらの住人だからだ……、いつだって謙遜を抜きにして、日向が喉から手が出るほど欲しいと思っているものを鼻をかんだちり紙のような不用意さで捨ててしまえる人種。履きつぶした靴ではとてもではないが追いつかれなくて、息を切らすまでもなく、無様に転ぶのもおそろしくてやめてしまった。
「やめたほうがいいよ、日向クン」
「おまえは黙ってろ。左右田は?」
「聞けよ。やめてって言ってるの」
「うるさい命令するな、こたえろ」
「厭よ」
だいいちおまえはそうやっていつもいつもいつもいつも俺の邪魔ばかりするし口答えするし生意気だしたかだか幸運ごときの才能しかないくせにそんなものを才能とほんとうに認めていいのかは甚だ謎だし狛枝に至っては付随する不運、否、それどころではない不幸のわりあいと比重が重すぎて全く釣り合いが取れておらず、「ボク燃費が悪くって」などと嘯いているがそれはいったい何のキャラクタの真似なんだ俺にわからない物真似をするのはやめろどうせ大して似てもいないくせに。
「日向クンけんかの才能ないのよ」
「ない才能なんかひとつもないよ」
「なんでもできるってなんにもできないって意味」
堪忍袋の緒が切れた。熱しやすく冷めにくくいつまでも根に持つ厄介でねちっこくて面倒くさい性格だ問われながらほとほと呆れるがかといって一度殴りかかったら構ってもらっていると勘違いでもしているのかきゃらきゃらと笑い始める狛枝のそのこえが静かになるまで拳を振り下ろし続けなければはじまらないしおわらないのは分かっていて、ぽつぽつと続いてきた足跡を蹴り出して靴を投げ出していつのまにかたどり着いていたビーチに彼を押し倒し馬乗りになってしたたかに殴った。殴った。殴った。殴った。
人間の殴り方なんてずっと知らなかった。暴力に訴える男なんて最低だ! けんかの才能がないと揶揄られてたいそう腹をたてたのは事実であるがそれもそのはず一度だって日向は誰かとけんかなどしたことがない、仲違いをするほど他人と深く関わりあったことがなかったので。肩から、全身の体重と力をこめていっそ腕が振り抜けるんじゃないかっていうくらいに叩きつけた拳のうちのいったい何発が的確に狛枝の体を捉えたものやらわからない。本当は全て顔を狙っていたはずだけれど毎回すこしずつ感触が違っているような気がしたし人間の体温にしてはずいぶん熱いときもあればじっとりと濡れて冷たい時もあったから半分くらいは陽光に焼かれた砂を殴っていたろうし打ち寄せた波を弾いていたのだろう。狛枝はたぶん可能な限りの労力で日向の拳を回避していた。よけられていることにまた腹が立つ。
息を切らして肩で息をしているとそれでも幾らかくらったらしい狛枝がこめかみやら鼻やらからだらだらと血を流しながら乗りかかった日向を押しのけ腹筋の反動だけで身体を起こした。剥製のさまのしろさが失われてしまって、あの霜の降りたつめたさも、血のめぐらないがゆえに手に取るように分かった縦横無尽の静脈も、いまはどこかへ消えてしまった。
狛枝凪斗は死んでいるときのほうがうつくしいのだ……、息を吹き返したことを喜ぶべきだった、彼がほんとうに恋びとであったならそれも可能だったろう。口のなかに溜まっていたらしい血をなにか汚らわしいものでも吐き出すように横を向いて吐き捨てて(へんなやつだ、行為の途中に間に合わなくて口腔内に射精されたとしても平然としているどころかそのままくちづけをねだるようなふてぶてしさと貞操観念の持ち主のくせに)、また、たとえるならば日蝕のさまで視野を徐々に昏く狭くする発作に襲われている日向へゆっくりと顔を近づけてきた。甘やかな気はいに油断した一瞬のすきに鼻面に噛み付かれ怒りに吠える前に思い切り振りかぶった額を額へぶつけられた。ヘッドバット、といえば聞こえはいいが単なる頭突きである。
「な、に、しやがる!」
「知ってる日向クン、頭って人間の身体の中で一番丈夫だし重いんだよ。拳なんか何度ふるったってせいぜい口のなか切ったり前歯折ったり鼻血出させたりしかできないでしょう。しかも日向クンって才能もなければ知識もないくせに殴るから自分の拳や筋を傷めているしそのたびに罪木さんに治療を頼んであげてるボクの気にもなってみてよ……」
そんなことを平然として抜かしながら(この石頭、カストラートだなんて、女性的だなんて一瞬でも思ったことはすぐさま撤回された)かぶりを振ってみせる彼のふてぶてしさはやはり記憶にあるとおり。
けして我々は友人ではない。ましてや、恋びとであろうはずがない。我々は戦争をしているし、先だっては彼にひとときの勝利を譲ってしまったが、さもなくば、日向に殺される前に自らに殺すという逃亡を行った狛枝こそが敗北者なのかもしれない。そうだ、おれは、勝ったんだ! 同時に堪え難い喪失と屈辱に膝をつかされたが。
「ああごめん日向クンの頭はひとよりすこうしばかり軽いんだっけね」
*****
喧々囂々と奉り火が、こいねがわれて燃えていた。身体は、まだ、意識と正体とをとりもどしてはおらず、まったく驚くべきことではあれども、ぐるぐると天地を失って回転しているばかりか三半規管をおもうさま揺さぶられている状態のさなかにあって、近いうちに何かしらの手を打たなければ忽ちに崩れ去ってしまうのではあるまいかとさえ思われた。
なにか恐ろしいものが、すぐそばにまでやってきていること、肌の粟立つ感覚だけでありありと感じ取ることができたが、かといって、逃げ出そうにも身体が重たくなりすぎて空腹に喉を鳴らしているその恐るべきけもののまえにその身を横たえている他にない。探していた既知の青年が、二度と戻ってはこないかと思われた亡国から戻ったことを、たぶん喜ぶべきであったのだ、と考えてはみるものの、同時に、ずっと知らないふり、気が付かないふりをしてきたものごとが、ついに彼に容認と承認を求めて書類の束をもってやってきたのだということも分かっていた。彼は小さな国の王である。ふてぶてしく君臨する帝王でもなければ傀儡の皇帝でもなく、多くの国を討ち滅ぼし平定したはいいものの戦争にばかりかまけてついにほとんどその玉座に腰掛けることのないままに死んだあわれな武王でもないが、不格好で悪趣味な有り合わせだけをつめた箱庭の王国を、彼という日向創が統べていた。
彼の戴冠式のすばらしさときたらこれからさき何年にもわたって語り継がれるのに違いあるまい、とひとびとが誉めそやしたたえるもので、あって、それはそれは荘厳で見目麗しく、ためいきのこぼれるさまであった。誰もがそれを祝福した。目が覚めたカストラートも、こいねがわれて彼のためにもう一度歌を取り戻したのだ。いっけん順風満帆な、彼の望んだすべてがかたちとなり結実した未来かに思われた。思われたが、やはりこのかしましい語り手を目覚めさせてはならなかったので、ある、恭しくお辞儀をする、狛枝凪斗の流暢に語るところによればこうである。
目覚めた? ボクが? それ、さっきも左右田クンに言われたんだけれど。ボクに言わせりゃあキミたちいったい何を言っているんだい、というところ。もしかしてあの未来機関の言葉を鵜呑みにして信じているのかい日向クンは相変わらず素直で愚かで可愛いなあ! そんなわけないじゃない。ボクはこの世界で自殺して目が覚めた。そう、この世界で! いちど死んでしまったものだから戻ってくるのにそれはそれは苦労したよ。キミたちなにを聞かされたのかしらないけど、たしかに思い出したのかもしれないけれど、ねえ元に戻られるはずなんかないじゃないボクたちは罪人で更生プログラムなんてものにかけられたからっていちど染まってしまった絶望が闇がほんとうにボクたちの精神から消え去ると思う? そんなはずがあるか! 目覚めているつもりでいるキミたちは現実では昏昏と今も眠っているしその生命与奪の権限はあの虫も殺せませんみたいな顔してすましてる苗木誠が握っているってこと! まあ有り体にいってしまえば箱庭に軟禁されているのさ……、こんな大仰で金のかかる方法つかうなんてまったく世間ずれしていないにも程があるよね、まあ仕方がないか、だいじにだいじに守られた世界の希望さまだものね。なんだいその顔。本当のことだよ……ほんとうのことだよ! ボクいっぺんだってキミに嘘をついたことあった? ないよ、嘘だけれどね。証拠が欲しいなんてそんなくだらないことで泣かないでよ生娘じゃあるまいし、いや、日向クンは生娘といっても間違いではないのかな? ああ、カムクラクンだっけ、どちらでもボクには関係ないよ。どっちにしたってキミはボクを殴ってあのおそろしい空飛ぶ棺桶の中に突っ込んでめちゃくちゃにボクを犯す人間なんだもの。ああいいんだよ、いいんだ、そんなことは。そんなことは重要なことじゃない。いいよ。やさしくしてあげるよ。そんな顔しなくったって……キミはいつだってボクにやさしくされたいしそれよりなによりボクにやさしくしたかったんだ。知っているよ。そんなことを思いながらボクのこと殴ってる日向クンのこと、じつをいうと大嫌いなんだけれど。人にされたくないことはするなとかそんなこと言うつもりはないけど。
ねえ、日向クン、思い出せるかい。九頭龍クンのなくなった目は右? それとも左? ここがデータの中の世界なら七海千秋がどうしていないんだって子どもみたいにごねないでよ。そんなのキミが、キミたちが、気づいてあげないからに決まってる。ここはデータの世界。ヴァーチャル・リアリティ。だからデータの彼女は存在しているはず。ボクにはみえているしわかっているよ。日向クンに見えていないだけだ。ねえ、日向クン、思い出せるかい? 七海さんはどういう顔だった? どのくらいの身長? どのくらいの体重? 髪の色は? 眸の色は? 声は? ねえひとつだって思い出せたかいねえねえ日向クン! なあに、言うよ、まだ言って欲しいの。ここはデータだよボクたちは軟禁されているんだ目覚めたなんて真っ赤な嘘! 知っているでしょ、ボクの身体に傷なんてないってこと。もしここが現実だったとしたら、ボクの身体になければいけない特徴なあんだ。思い出せないでし���う、知らないでしょう。それはね、日向創は知っていてはいけないことだからだよ。キミが決めたんだ、キミが言ったんだ! 日向創として生きていくんだって! だからもう、キミの中に、日向創以外のデータがロードされることはない。悲しいね、せっかく重たい荷物を降ろして、だいじにだいじに守られてた脳まで蕩かしてしまったっていうのに、そこまでしてようやく手に入れた才能だっていうのに! もうキミは思い出せない。そろそろ思い出したかな、日向クン。
七海千秋の髪の色は何色だった?
九頭龍冬彦のうしなった眸は左右どちら?
狛枝凪斗についているべき特徴とは?
はは、いっこも答えられないんだ。
かなしいねえ日向クン、かなしいね。時間なら幸いたくさんあるし滅多なことではボクら死なないから、もう一度髪を伸ばしてみるかい。短く切りそろえた髪が地面に着くまでに何年かかるかわからないけど……、前回カムクライヅルになるまでにかけた時間よりは短時間で、キミは天才に戻れるのじゃないかな?
あっ日向クン、どこいくの? おーい! しょうがないなあ、セックスしたくなったら呼んでいいよ。ホモってなんだよ、その言い草、傷つくなあ、キミだっておんなじでしょ。同じにするなって? こわいなあ。でもさっきの本気だからね。どこに行ってもいいよ、誰と何をしたっていい、プラカードもないパレードだって、キミがしたいならすればいいさ。でも、キミはここに帰ってくるしかないんだ。ボクのことカストラートなんてキミ言うけど。
自分が去勢されていないかどうかなんて誰かとくらべたこともまじまじ確かめたこともないくせに。笑っちゃうよね…………。
[そばにいる Never so far away.]
一、
すんなりと水の流れるさまで淀みなく、そのくせをして沈みきった澱や、重たい、みなそこの星、ほろりこぼした涙の滴のきらめきはヴィナス、灼熱地獄にきみはほほえむだろうか? すくなくとも便利に貼り付けられたヴィンテージ・スマイル、コピーアンドペーストはお手のものと、云って器用に、喉の奥を鳴らすような、ごきげんの午後を軽快に通過している、看過している、経過している、ふふ、わらいごえさえ踊るさなかに。
彼はしとけない肢体を投げだして、もはやなにひとつ知らない、なにひとつとして彼に知られないのだ、といったふうさえも、装ってみせた、とんだこと、たまげたこと……、それらのすべてが、彼にとっては等しく真実であって嘘ではない。無造作に、無作為にばらまかれ散りばめられた星々のかけらが、同じく砕かれた砂の海に埋もれてしまわない保証などどこにもなく、ともすれば砂よりはるかに、耀きのすくなく、粒子のこまかいそれを、その実体を、指よりはるかに感じることのできる器官があるとすれば、おそらく獲物を虎視眈々とねらうくちなわの、のったりと擡げた鎌首のさまで彼のまわりにけだるく滞っていた生命だけであろう。
無邪気は狂気でさえないが、無垢はしばしば脅威である、いったい、なにをもって、何ものにもさらされず、穢されず、導かれることなしに存在しえるもののあったというのだろう、断じて! 我々はたったひとりのそのためだけにすべての常識と感覚と自然、すべてを失わなければならなかった。
しかたがない、そうするほかになかったのだ、言ってしまうのは簡単である。まるきり分かりやすい言葉と、手にふれやすい輪郭や、肖像、かたちのあるもの、偶像、それらはしばしば、触れられないものとは遥かに異なった、いささかばかりか現金にすぎる、即物的の天使なのだ…… 、すでに、それらは乾ききり、触れたそばから崩れてしまうようなはかなさを、自ずからに許しはしないのだったが。ひらたく、傾かず、なめされて乾いた表面を撫ぜてゆく季節風のやわらかさや、ままならないまろさ、いつまでも撫ぜていたい、愛でていたいと思わせるしとけなさを、おもうさまに撒き散らしている、狂気のほかには。
まるきり砕かれた、かたちをとどめない、かつてたち、姿たち、それらを思い出しても、元通りにつくりなおせるとはかぎらない。また、壊れてしまったものを、見てくれだけはそのままに直したとしても、一度壊れてしまったこと、傷ついてしまったことを、それらはけして忘れない。何度となく蘇っても……、付いた傷は、その記憶は、どれだけ奥にしまい込まれたとしても、消えてしまうことはない。繰り返すばかり、砂時計の上下を、ただ決められたルーチンのまま入れ替え続けるだけが、生命ではない。また、どちらかが生へ向かうベクトルというでもなければ、死へ向かうベクトルにも、なりはしないのだ。
かつて、かつてたち、おしなべて倒れ伏して、その残骸だけを風雨に晒しているそれらは、歳月のいかんに関わらず、また、事実と認識との差異にさえ、左右されることなくたしかに、遺跡なのだった。立ち上がっているもの、死んでいるもの、眠っているもの、どれも同じようにたしからしく、同じように不定形である。そこに優劣は存在しないはず。
世界はすでに滅びた。
亡国の末裔たちが、この島には息をひそめながら暮らすばかりで、ある、誰に知られることもなしに、その落ち窪んだ眼窩と、やせ細った肢体、言葉を失って乾いた声帯、瞬きのたびにこぼれおちてゆく、はがれおちてゆく、視界、人間の死について。けもののひとつだって、この国には生き残ってやしない。ただ蠢いているだけだ……、そうして、幸福の時代を、懐かしく思い出して、追憶と憧憬とを、たったひとつの灯火に残しながら。
あんまり眩しすぎるのだ、言葉にするまでもなかったが、探索のさなかに見つけた図書館に、埃をかぶってしまわれていた蔵書のうちに、記憶にあるのと寸分変わらない世界の縮図を発見したものの、現在、このうちのどれだけが、姿をとどめていたものか、さすがに大陸の姿まではかわるまい、そうは考えたものの、たしかめる術をひとつだってもたない彼らにとって、世界はやはり、この紙切れ一枚の、本当には踏んだこともない大陸や、舐めたこともない海水に、満ちていなければならなかった。
生き残った数人のうち、比較的まっとうな精神状態を保っているかのように思われた日向創が、装っているだけで、その実、内情では、もっとも崩壊し、壊滅状態にあること、焼き尽くされてまっさらな焼け野が原であったならばいささか再建の可能性が残されていたかもわからないが、彼の場合、崩れた足場や、十字に交わったままに傾いた鉄骨、張り巡らされた有刺鉄線、それらを、排除することができなかった。
なにもかもを白く塗り込めて、視界をうばうホワイト・アウトも、この南国では望むべくもないので、誰とも口をきかないうちに、日向が向き合ってきたもの、かつてたち、遺跡群。壊れてしまったら、人工物も、自然物もまるきり同じではあるまいかと思わせる崩壊のさなかに立ちすくんで、寂しかったのは誰だろう? わかるような気もするし、分かってやる義理もない。
ただひとつきり。受容も許容も、彼のものではあるけれど、事実、伝えられることがあるとすれば、本来の孤独というものは、さみしいものでも、つめたいものでもない。孤独こそが精神を鍛え、はぐくみ育てるのだ、と言って過言ではないこと、おそらく現在の日向創には、聞く耳を持ってはもらえなかろう。だいいち、いまの彼をヒナタハジメと呼んでいいのかさえ、あきらかでないのだから。
6人は言葉少なに、よくわからないながらもさいしょこそは寄り集まって食卓を囲んでいたもので、あるが、ある日を境にして、ひとり、またひとりとその姿は食卓から消えていった。なにも、顔をたしかめること、それだけが消息のたずねかたでないと、悟ったのではない。はじめから仲間意識にさいなまれて、あるいは、揺り動かされて、熱い涙をほろこぼしながら、暮らしてゆくのに厭いたというでもない。
さいしょに顔を見せなくなったのは誰だったろう? それすらも、左右田のはっきりしない意識と記憶のなかには曖昧である。ひととおりの説明はうけたし、もし疑問が新しく生じれば、あの日向を窓口にして、幾らだって訊ねたら良い、とあの気の良さそうな青年は曰ったが、つまり、左右田をはじめとした我々は、情報統制下にあって、再建されつつある世界にとっての異物、しばしば排除されうるもの、旧世界に、置き去りにされるべきなのであろう。それは、過去という意味ではない。また、刻まれなかった、隠された、意図的に消されてしまった、暗号化された、葬り去られた歴史の一端というでもない。
しいていうのならば、生き残ってはいる、暮らしてはいる、生命は残されていても、抹殺され、処刑され、すでに死んでいるものたちなのである。ああ、かわいて、しっとりと重たく、濡れてさやかに、みなそこの星、あれほどの喧騒と、騒然、雑沓と、渾然、人間の持ちうる最大の活気と高揚感を綯交ぜにし混沌を作り出していた祭りの日々が、一体どこへ消えてしまったというのだろう。
高波にさらわれて、豪快に戦ぐ凪の広場に、まるで命の気配は残っていなかった。すべての生き物が死に絶えて氷河期が来る。隕石は落ちただろうか? その証拠はどこにもない。なにものかに備えたであろう、脅威をうちはらうべく、怯懦と、必要以上の杞憂、なにをそんなにも恐れていたというのだろう、何もかもが怖かったし、なにもこわくはなかった。武力を誇示しなければならない、その立場と、権限と、自治とを守るべく造られて、いまはなすすべなく横たわっている戦闘飛行機の大群が、いっそものがなしいほどにうつくしかった。
それらは心臓とよぶべき機関部を悉く抜き取られて、いまとなっては単純に、鋼鉄のかたまりにすぎない。一度もあの空を駆けることのなかった機体も中には含まれたろう、つくられるだけつくられて、機能させられることもなしに、ハラワタを抜かれた可哀想な子どもたち。死んでしまった……、火山の噴火でもあったなら、塗り込められて石のなか、化石に姿を変えて遠い世界に旅立ってゆけたかしらん、まさかね、そんなにも都合の良い、つじつまのあった物語なんて、実在しているはずがないのだ。すくなくとも、左右田和一のそばに、一度だって横たわっていたことはない。
ビクトリー・ロールのあのGをおぼえているか? さもなければ、撃墜されて、尾を引いてゆっくりと、走馬灯の駆け巡るさまをみつめながら、スロウ・モーション、踊りましょうかつぎの国まで? 玉座はまだ空。振り返ればソニック・ブーム、真円の雲がおきている。おもむろにさしこみをおぼえて懐、知らないはずの物事が、こうも鮮明に、そのくせをして詳細はあきらかでなく、眼前に迫り来るものなのだと初めて知った。おそらくは、自分の知らないうちに、自分でもしらないうちに失われ、紛れ込ませられた外来性のDNA、おまえの生まれ来るのを、手伝わされてしまっている。それも悪くはないと開き直るのには、まだ、時間が圧倒的に足りていないようだ。秒針のふるえるのを、いまかいまかと待ち構えている、たがために鐘は鳴る? 走って、渡りきってしまわなければ、魔法がほどけてしまうまえに。
左右田和一が塒にさだめたのは、撃墜と、硝煙とを、その脇腹に穿たれた傷によってありありと刻んでいる一羽の戦闘飛行機であった。飛行場のそこかしこで、あの重たい、そのくせをして甲高い、ご機嫌のハイ・チューンの多重層を響かせていたはずの複気筒のエンジンのクラスタは、いまはひたすらに沈黙を音楽しているばかりだ。しいていうのならば、もっとも奥まったところにたいせつに安置された、特等の死骸、特等の残骸を、よりよく眺めることの出来る場所に陣取っただけのことだ。
ガレージのその奥、天井の半分は崩落してしまって、まるきり屋根として、雨覆いとしての機能をはたしてはいなかったが、その下において奇跡的に雨ざらしにされることもなく、そのくせをして夕刻の、ほんのわずかに夕闇のせまる時間にのみ差し込んだ光に、炎のように燃やされているその機体は、闇を縫ってゆくために、さもなくばレーダに感知されないために特殊な装甲と塗料とが捧げられており、いわゆるステルス、工作少年の日々になら、一度ならず憧れたであろう御姿であった。
徹底して無駄のはぶかれたもの、機能は、いつだって、無骨さや無粋さ、洗練されきらない野蛮さからはかけ離れて、極度の美へと昇華しうる可能性を秘めていたが、甘さや、妥協、あきらめが、また、足りていない技術が、それらをしばしばだいなしにする。追いつかれないのだ! そう、我々はつねに、それら、天才的、悪魔的の輪郭を、わずかに視界にみとめたとおもった次には、真円の雲に巻き込まれ、引き裂かれて絶命している。
左右田和一はくるくるとレンチをまわして、締めるべきナットも、ボルトもなければ、せいぜい物陰にかくれて、巻き起こった歓声と、こけら落とされた帳と、ギロチン、それらの齎すあたらしい国についてを、やり過ごし、見なかったふりをしている。
けして墓守を気どっていたではない。ましてや、死者の眠りを守り、せいぜいが安らかなることを祈るほど、お人好しでもない。自分の愛したものしか愛することができないが、かといって、左右田がなにを愛し、なにを愛さなかったのか、その答えを、誰かのまえに明らかにする義理もまたないのだった。
彼は愛し、畏み、おそれて、捧げた。戦闘飛行機にはしばしば女の名前がつけられたものだ。だから、この島にあってもっともうつくしいくせ、一度だって空を知らないその淑女、処女にして未亡人、彼女のために傅くならば騎士の真似事もゆるされたかもわからない。
これらは、けして愛ではない。そうして、運命でもなければ、政略でもない。単なるひとつの事実、そうして従順、付き従い、導きを待ち、祭りの終わり。そうだ、何を意味のわからないことを言っているやら、祭りならカニヴァで、パレードではない。
ずいぶんお腹がすいているだろう。
喉が渇いているだろう。
身体がおそろしいほどにつめたくて、重たい、視界がぼうと霞に侵食されつつあるのは分かっていた。いつかこの両の眸が、ひとつの星も拾えなくなるまえに。
取り戻さなければならない、どうしても。
晩餐の用意をしようじゃないか。残念ながら高貴なる血脈を継がない、血統書のない左右田和一には、ほろんでしまった亡国の復興を誓うことはできないけれども。
取り戻さなければならない。
どうしても!
二、
未明にあかるい星をひろうわ、もうすこし、きっと追いつくから、さきへ行って待っていて。スコールから一夜を明けて、屋根の落ちたガレージのなかにも、ひたひたと水が張られていた。
一面の反射は眩しい。切り取られ、落ちかかって、忙しなく、落ち着きなく、はやい流れの雲の影が、水たまりをかき混ぜていた。青と、白。その二色をかき混ぜたなら、一体どんな色ができるかしら。
寄せ集められたかつての天才たちのなかで、しいていうならいっとう芸術家に近いといえたのは赤毛にそばかすの少女、まったくもって自らのさだめだ世界のほかには見えていない、盲目(blind)の写真家(photographer)、ねえ、ファインダ越しに覗いているもの、見えているつもりの世界、そんなものがどれだけ本当のことだろう。
願望と、祈念、人間の恣意的意図が、まったくもって避け得ざる運命のまえに屈服させられないと、まだ信じていられるほどに幼くはない。ようやくにしてひろがりつつある視界を、ことさら狭めるファインダ、エフェクタ、シャッタ。
時間は流れ落ちている……、なにものをも、留めることはできないのだ、あまりの美貌のゆえにみるものの吐息と、時とをとめたというクロノスは永遠に失われてしまって。写実も抽象も、誰かの意図をもって描かれるのなら、そこには善も悪もなく、なにかしらの思想や、進行の含まれるのにちがいない、みずからの信ずるところにない神の偶像をフラスコに刻む芸術家がいるだろうか? 否。
ほのあかるく、おのずからに、内面からほとばしるように輝いていた、冷たく、甘く、やわらかく、半分とけかけたアイス・クリームのような表面は、時折混ざる不純物のおだやかな褐色の流星群が降りそそぐそのままに、みがかれて、彫られ、刻まれ、隆々としてうつくしい天使の、あるいは聖母の、さもなくばピエタの似姿をそっと横たえている大理石だ。 ねえ? とってもとっても。
重たく、軽く、ギロチンの刃をも彷彿とさせるような 鋭い音に耳朶を突き刺されて、愛のたびに開けているピアスホールにしがみついていた彼だけの天使があやうく遠のいてしまうところだった。そもそも、なんでもない、なにものにもなれそうにもない左右田のまわりに漂っているだけの、残滓、それらもまたかつてである、ハイ、天国はうつくしかったかい? 振り返って、彼女の心臓をたいせつに抱きかかえている小泉真昼の姿をみとめて思った。黄金を蒐めて! ぼくの小鳥が死んでしまう。流した涙は宝石にならないし、こぼした約束は星にならない。
彼女は、死んだもののひとりで、あった、殺されたのだ、その犯人さえ我々は暴き立てたので知っているが、はたして彼女は覚えているだろうか。てんでばらばらに、彼らの共同生活を送っていたホテルを皆が離れて暮らしはじめてから(ホテルに未練がましく残っていた日向を除いてはめいめい適当な塒を見定めて暮らした、大体誰がどこに暮らしているであろうとは見当がつくが、確かめたことはない、散策するには狭すぎ、詮索するには広すぎるジャバウォック)、断片的にではあるが意識と記憶とが戻りつつあって、それすなわち、正体である、駆動体は幾らでも外側から手をくわえることができても、本然たる思念に、ふれることは、できかねる、まったく倫理と正義と道徳とに悖る背徳が、大理石を彫るよりはるかにやわらかい頭蓋骨のリン酸カルシウムを破るのでないかぎりは。
目が覚めたのか、彼女もまた。ふしぎと感慨もなければ感動もない。命をうしなったこと、みずからが死に至らしめられたことへの実感のうすい人格からさきに覚醒してゆくであろうとは、あらかじめ記された歴史のひとつで、あった、すでに滅んだ王国に暮らしながら、もはやどこにも続かない、幕は落ちて、まひるのとばり、緞帳は重たすぎて、なにも写真家の彼女だけを盲目たらしめていたではなかった。
いまや、この島に、生きて、暮らす、もしくは、死んで、眠る、その人々は、一体なんにんいたものか、いまの左右田にはまったくもって認識し難い数なのである、おそらく、彼の知らないうちに、左右田和一のかつてのあのクラスメイトたちのほかにやってきた未知なるものがあるとすれば、それが絶望だ、それが哀憐だ。
友人と、まるで何の衒いも憚りもなしに言ってしまえるほどに慕わしい相手とはとてもではないが思われないものの、かといって赤の他人、まるきり、自分とは無関係、こちらからなにか及ぼすこともなければ、なにかをなされることもない、脅威でなければ、安寧でもない、安堵でもない、血縁の、はらからの、自分にとって絶対的な安全と近域に存在しているものと片付けるには、いささかばかりか慕わしすぎる彼らのほかの闖入者、侵略者の無遠慮な攻撃を受けているというのでない限りは、上限だけは明らかである。
我々の帝国、もはや死体さえも残されていないうつくしい夜の女王、ニュクス、彼女は母、本当に? ぼくたちは彼女を愛していたのだろうか、畏怖していたのだろうか、また、あるいは、嫌悪し、蹂躙され、君臨のそばから、革命と改革、蜂起したレジスタンスの姿をなしていたろうか? いまとなってはもはや曖昧である。記録に残っているであろう我々のまるきり人とも思われないような残虐非道のおこないに、他人のふりを演じられるほどに厚顔でなく、恥知らずじゃあないのだ。きっとなじられるのにきまっているけれども。まったく記憶にございません……、そんな愚かな話があってたまるものか。
何もかもを思い出していた。
何もかもを忘れてきた。
手元でぐるぐると、なんだかよくわからないような醜い、鈍色のけむりを黙々とはき、錆び付き、盛り上がって、指先にささくれをこしらえる鈍い痛み、鋭さを欠いて、鮮烈ではありえないからこその疼痛、軸じたる思い、それらに苛まれ続けるにも厭きつつある。いっそここいらで、一息に、おしなべてを排除しきってしまって、ありとあらゆる脅威から解き放たれて自由の身、何も彼を縛りつけはしないし、咎められることもない身分になってしまいたい、そのために握りしめた武器が、たいした重量でもないレンチの一本きりないというのだから不幸だ。
幸福も、不幸も。総量が一生に定められているというのならば。せめて好きなタイミングと分量で、取り出せるシステムをこしらえるべきだ、その設置がなによりも急ぎの仕事として我々に課せられているはず。
そう、コンビニエンスストアでしばしばそうしたように、無人のモニタ、パネル、それらに向き合うだけで手軽に、本日ぶんの幸福と幸運を、引き出すことができる。キャッシュディスペンサが必要なはずだ、もっとも、それができないからこその才能、天運、あらがいがたい、ままならない、この希望ヶ峰の門戸をくぐる価値があると認められた証明であるのだけれども。
ありとあらゆる祝福が我々を苦しめ、断罪し、いまや断頭台へ送るばかりの喝采となりつつあった。意識を取り戻したとはいえ、いまだ混乱する記憶と、にわかには受け入れがたい現実、真実とのあいまにひととき、真昼の太陽、燦々と照るにぎやかさ、絶対の暴力をいまや失って久しいそれに、立ちくらみ、とおくに立ちのぼる陽炎、蜃気楼の楼閣を追いかけてふらりと徘徊している、たもとおっているばかりの少女の赤い髪に、まるきり冗談じみた鮮紅色が飾られていたのはかつてのこと。
せめて雨が降ってくれたら良いのに……、そのくらいで、この重たく濡れ、かたまり、汚れ、不快なにおいさえも染み付ききってしまった身体を洗い流すには不十分であろうともわかっていながら願わずにはいられない。鼻腔をつん、と突き刺す、けして清涼でなく、精錬でもない、まぶたにくらく、耳朶にあかるいその鉄錆の香りにくらくらともうずいぶん長いこと酩酊し続けているみたい。
後生大事に胸元に抱え込んだカメラの、ファインダを覗くことを忘れてしまったかのような小泉真昼の、なにものにも指向性をもたない、目的のない、魔法の終わってしまったあとの、頼りなくもうつくしい足取りは、たかだか数日、あるいは数時間をすれ違っただけの人格にすぎない左右田和一からすればまったくもって脅威にほかならないのだったが、同時に、いまの彼女であったなら、この細いレンチの一本で容易く殺害せしめることも可能ではあるまいか、考えて既に冷静さと道徳とがおのれのうちから綺麗さっぱり洗い流され、どこか遠くの音楽のように、壊れてもはや動かない、形式ばかりの代物に成り下がっていることを感じていた。不思議と恐れはない。
一度ならず二度までもその脳天をかち割られて死んでゆく小泉は哀れだな、いとおしいな、かなしいな、けれども再びの傷ならば、あるいは夢のなかのそれのように、けして消えない、記憶から忘却の川になげうたれてしまったとても、次元が、身体が、損傷させられた遺伝子が、そうしてなによりも、彼女の宿命が覚えているその傷。にわかには理解しがたいだろうが、これは一種の愛の告白とも言えた。
むろん、左右田が本当の意味でそのうつくしい後頭部を陥没させてみたいとおもったのは小泉ではなくてあの崩れかけたガレージのなかで奇跡的にすべてのパーツが取り揃えられて、そのくせ一度だって空を飛んだことのない戦闘飛行機、そのなかに横たえられている、まだ死んでいるひとりの青年、もしくは彼の生きていた日々に、彼をひたすら辱めるに特等の才能を発揮していた漆黒の星のこと。日向創。
あるいはカムクライズル。
そう、いうなれば予行演習。
予行演習だ。本番は一回きりしかない。叩き割るべき頭蓋は、彼を、人工的に天才へと生まれ変わらせるためにこじ開けられた既往があり、しかしそれはあくまでも清潔な、滅菌条件下での、たいへん繊細なオペレーションであったのに違いあるまいが、この場合、左右田はドクタではなく、単なるひとりのエンジニアにすぎない。壊すことも、組み立てることも、左右田にかかればお手の物ではあるが、それはつまり設計図があって、あらかじめ定められた位置を左右田がひとつだって間違いなしに記憶していること、完成形を思い浮かべられるのみにあらず、その順序、水平的、垂直��、前後的、ありとあらゆる軸においてのそれらの関係についてを、あらかじめ知っている必要があった。
それならば、とまさに完璧としか形容しがたい、名状しがたい、かのロイヤリティは微笑み、白磁の肌に焼き付けられたうつくしい青の装飾、ソニア・ネヴァーマインド、彼女のまばたくその一瞬に、世界が遍く変革されてゆく、バタフライ・エフェクトの皇女が差し出したアナトミーアトラスは劣化して糸が切れ、止めていたはずの糊も割れて、みるも無残な体ではあったものの、肉塊たちが、かつてなにものであったのかを知るには、あまりにもうつくしく、残酷で、写実的すぎ、また、正論でありすぎる資料であったことは言うまでもない。
今更グロテスクなものに対する忌避反応や、おそれ、おびえを、その眸や、指先や、そっと伏せたまぶたや、左右田和一というかつての少年、いまもってなおも少年のなりを抜け出したとはいえない身体に満たしているには及ばない。思い出して深夜にめざめ、歌をはじめているあの砂漠の井戸たちに、そっとおしえてまわりたい。夜を縫って、飛ぶよ、きみが笑うまで、きみの目が覚めるまで。
そんなのはるか過去の話だ。
いつだって少年の感情や劣情や愛情や執着や決心や弑逆心や嫉妬や羨望や憧憬や信仰は過去へむけて進んでゆく。致し方ないことなのだろうか、はたして? 本当は、あるいは、もうすこし別のやり方があったのではないだろうか? これほどまでに時間をかけて、回り道をして、恐ろしさに膝をついてしまいそう、言葉のすべてを失って……、強いられて、縫いとめられて、左右田だってきっといつかは死んでいる。
小泉は潜めたはずの左右田の足音に気がついたのかなにかを察したのかこちらをゆっくりと緩慢な動作で振り向いて、それは綺麗なほほえみを浮かべた。その瞬間に握りしめたレンチの手のひらに汗がじわりにじみ出してきて、ああ、どうしよう、あたらしい傷をこしらえるのは忍びない、一度はつけられて、不完全になおり、内がわから盛り上がり、肉芽を吸収し収縮して瘢痕を作っている裂傷、鈍器損傷、まあるい後頭部に、星のようにはびこっている傷を、もう一度丁寧にわりなおすだけのつもりだったのに。彼女はこんな顔をしていたかしら? 思い出せない。
思い出せない!
すくなくとも彼女が胸に抱いた黒い塊はカメラというにはいささか大きすぎる、ような、なぜファインダを覗かないのか? その答えはすぐにあらわれた。小泉真昼の抱きしめていたものにはレンズもレフ板もシャッタも存在しない。それはカメラではない。真っ黒い布に包まれて、いや、包まれてすらいない。真っ黒い何か、長いものをだらりと風になびかせ、雨のふらないこの島と、亡国で、熱せられて朦々と、ゆらめきを持ち上げているアスファルトの表面をなでる風を具象化し、視覚化し、撒き散らされていた腐敗臭と、芳香族ベンゼン環に由来する独特のあのにおいまでも、魂消たなあ、すっかりきれいになってしまった。
苦手な人間にとってはあれほど不快なものもないとは聞くけれど、ラッカ、シンナ、それらを肺のめいっぱいまでも吸い込んで、沈着させ、おもたくどすぐろいコールタール、皮膚呼吸のできなくなるまで浸されていたい、と思うのは、職業病の一種なのであろう。長時間の塗装作業ののちの、眼球結膜のおそろしいまでの乾燥感、灼熱感、へたをしたら、まばたきのひとつで傷つけて、永遠の失明、永久の沈黙と明けない夜とに投げ込まれるのではないか、という危惧でさえも愛おしいと胸を張れる。そう、目に見えるものなんてわずかだ、そうだろう、小泉真昼?
彼女はその胸に墨染につつまれた骨壷を抱いていたのに違いない。それはすでに乾いて、土気色、それから深紅にかがやいていたはず、夏の夜空のしたの方へ引っかかって踏みとどまっていたはずのやさしいさそりのアンタレス、さもなくば軍神のマーズ、燦々、あかあかと燃えていたその眸の表面は、規則正しかったはずの水晶体の配列が乱れて久しいことを証明するように、薄膜がかぶせられたように白く濁っていた。
風がいま一度吹き荒び。
まぼろしはあまねく駆逐された。
腐り落ちない首は虚ろな眸のままに微笑み。
少女はゆっくりと、その肌のうえに散らされたそばかすの星々を再現した。
漆黒を害毒のさまでまき散らしているみしるしは、旅人を導く星にあらず。我々はすでに感染し、さもなくば、かつて彼女、君臨者、女王、座すもの、彼女の内側にのみ存在していた退廃の宇宙はあるひとときを境にそっくり外と内とが入れ替わってしまった。
還元、あるいは酸化。光のどけき幸福の日々、ゆれるサンザシ、かおるクチナシ、ゆりかごのなかの子どもたちは、まどろみのそのままに息絶え絶滅したのだろう。終末を呼ぶ狼が少女の手の甲に浮かび上がる。ああ、もはやこちらは外的宇宙にあらず。
まごうかたなきカムクライズルの髑髏であった。
三、
それからそのまま天高く持ち上げられた澱んだ空気たちは忽ちに冷却されむくむくと不穏なさまさえ漂わせる積乱雲に成長したかと思えばものの数分後には豪雨に成り代わってついに、彼ら、左右田を含めた亡国の子どもたちの身体をあざ笑うかのように、さもなければやさしくいたわるかのように叩きつけて、嬲り、熱源を奪い去ってふるえさせ、凍えさせるようにした。
まるでなにもかも、信じていたなにもかもが蜃気楼のしろものであったかのように、打ちのめされて、ただの一度も死んでいないはずの左右田まで、たいそう塞ぎきるような気持ちを余儀なくされたのだから、たしかに殺された小泉やそのほかの孤児にとってモスキートサウンドより不快で、魂のそこへまで響いてやまないものだったのに違いない。
その証拠というではないけれど、鮮紅の髪に、健康的にやけた肌、そのうえに浮かび上がらせた小泉真昼の姿をした何ものか……いまの左右田には彼女を小泉と断ずることはとてもではないができそうにもなかった、なぜって、気がついてしまったので……。
つねの塒にさだめていたスクラップの戦闘飛行機の、かつてのエンジン・ルームをもぞりと抜け出しながら、ずいぶん鈍感になったものだ、もっと恐ろしさに震えていたって、いいのだ、寝床のあたたかさ、誰かに庇護されている安心感、頭のうえにまで毛布を引きかぶってしまえば、見ないでおけば、まだ、眠りの続きを夢見ていられたかもわからないのにと、どこか他人行儀に考えている。剥離しつつあるのだろうか? 脱皮のようにうまくはいかない。
残念だけれど、もう、彼は目覚めることにためらいがない。寝ても覚めても悪夢には違いがないのだ……、ただし、こちらの悪夢には、すくなくとも彼の思い通りに動作し、起動するしくみが存在しているらしいことも確かのようだから。
どれくらいの時間をねむっていたものやらまるきり見当がつかない。豪雨に撃ち抜かれて、しとどに濡れ、身体中に制服の薄布を張り付かせた小泉真昼がもしまだそこいらに立っていたら何をするかわからない、と思ったけれど、それはすくなくとも何かしらの暴力や、彼女を辱め、強制の婚姻を結ぼうとする試みではない。あの腕のなかの首印を、どうにかしてこちらへ奪取しなければ、なるまい、すべての謎はあの首が握っていると言って過言でない。
記憶が正しければ数日前まではたしかに彼は生きていたはずだ、カムクライズル、すなわち、日向創という、彼らの傀儡の王、さもなくば、腰掛けられるのをいまかいまかと待っているだけの、玉座、真の王たるにふさわしい人物の頭上に、あるいは肌に、飾られるべき王冠や、宝玉、彼ったらそういうものだった。
むろん、国が滅びたのだから、誰も彼をほしがらなかった、ということ、手に入れて、飾り、せいぜい自分を顕示しようと考える荒唐無稽かつ空前絶後の思考回路を、まっとうにはしらせている人格などもはやここにはひとりだって残されちゃいなかったので。もっとも、ただ一人の女王とても、彼のことなんか必要としちゃいなかったのだけれども。
誰かの所有物でしかいられないなんて哀れだね、と、誰が言ったのかわからない。けれどもその言葉じりにはいささかばかりの本気の情が感じ取られなくもなかったから、すくなくとも心を残した誰かだ、そんなやさしい生きものが、まだこの島に生きていたなんて! 感動する。ほんの数秒のカウントダウン、つい先程まで泣いていたような少女が、かんばせをあげ、涙を払い、まだ濡れている頬をそれでも輝かせるまでの時間で、心臓を握りつぶされて死んでしまう童貞諸君にも、その哀れみを分けて欲しい。
感動する……、彼女たちは、ただの一瞬だけでも、自分を女優のかたちに整えるすべを知っているのだ。まったくもって嫌になるね、そんな裏技を使われてしまったら、まるきり逃げ出すことだってかなわないじゃあない。
いいよ。
何度だって撃ち抜かれてあげるよ。
何度でも聞きたいんでしょう。
この心臓が握り潰れて。
断末魔さえあげられない。
かわいそうでしょう。
いとおしいでしょう。
きれいでしょう。
なんてみにくいでしょう。
みすぼらしいでしょう。
こんなにも惨めな気持ちでむかえる、
栄光の日があるなんて!
崩れかけたガレージには当然のことながら先ほどの豪雨が降り注いでおり、おなじく天井の抜けた場所から、今度は嘘のような月光が降り注いでいた。月光というのには、あまりにも、明るすぎやしないか、水たまりが反射してギラギラと網膜を焼く。砂利を踏む音と、水のはねる音が半々くらいで続き、不協和音になりながらもなんとか左右田のあとをついてきていた。
それくらいしか道連れのない、というのもまた、さみしいものではあるのだけれども……。
不安にかられたのは、きっとあの首のせいだ。あの首が、最後にすこし、微笑んだように見えたからだ。そんなはずはない、なにせ彼は、自由自在にうごきまわるために日向創を借りたというのに、今度はそれさえ億劫になって、重たくなって、首から下の肢体をうっちゃってきてしまったのだもの。彼を運んでいた娘、少女、小泉真昼の姿をしてはいたが、その右手には狼の文様、知っている、あれは、姉だ。呼び戻されて……、存在していないはずの姉までもが! 愈々こちらの国も賑やかになって参りました。
日向創のしたことについて、肯定もできないけれど否定も出来かねる。それは、彼が友人だからというではない。同様に、彼にたいして感じる畏怖や、敬意もまた、この友情にはまったく起因しないたぐいの感情である。たぶん遺伝子しか知らない。
それはもう芸術的なほどの才能だった、としか、言いようがなかった。日向創は、カムクライズルになるにあたり精神外科手術を経て人格の大半を欠落させてしまったのだけれども、あの猟奇性と、完璧主義は、元来の彼が持っている芸術へのあくなき探究心と嗜好、また性癖によるものであること、気がついたのはもうずいぶん世界の終わってからだった。
それが遅すぎたのか、早すぎたのか、いまとなっては判断の微妙なところで、あろう、もしも気がつかなかったなら、左右田もまた彼によって絶滅せしめられたあわれな一匹の雄ライオンだったかもしれないし、食い散らかされることもなしに打ち捨てられる無駄な殺生、あくまでも諧謔を弄する、皮肉にみちた優雅の鼻濁音、快楽を潔しとするゲームにまつわるエトセトラ、狩猟民族独特の、高鳴らす蹄のフーガ、繰り返すカノン、コーダはどこだ。
一度は削ぎ落とされたはず、剃り落とされたはず、漆黒というのにはいささかあかるく、かるく、しかし栗色とよぶには平凡にすぎる、やわらかくもなければかたくもない、細くもなければ太くもない彼の焦げ茶色の頭髪は、幾歳月、幾星霜、時間だけにゆるされてなつかしい空を目指したのに違いあるまい。髪が伸びて腰を過ぎ、膝を覆い、ようやくの地へ回帰するまでの気の遠くなるほどの次元が、彼を天才たらしめるのに消費された。
おそらくは相当に、気ぜわしかったで、あろう、気持ちばかりが無慚に急いて、心のやすまる時間などなく、あるいは、一度のまどろみに沈むことさえなしに、つねに高ぶり、奮いたち��なにものかからの侵略と、侵攻と、干渉と、接続を受け続け、昨日積み上げたものを今日波に浚われるような、滑り落ちてゆく一握の砂、はるかに鳥瞰し……、星のたかさにぼくのこの昏睡と酩酊と陶酔と泥濘を味わいながら……、それはすっかり、内側から、日向創の精神を食い尽くしてしまったのだ。穿たれた幾億の孔から洩れ出ずる光を、なんと呼べばいいだろう? 彼の身体を介して、通して、未知なるZ軸のかなたから星が飛来してゆく。
強力な電磁波や、紫外線、小泉真昼やフェンリルの肌にそばかすをこしらえたそれよりもはるかにするどく、高いエネルギーを秘めたそれに内側から晒されて虫食いだらけ、自律性と、聖なる死、正なる死、縮んでゆくテロメアに支配された純然たるアポトーシスさえもみうしなって、破壊されない古い組織が、赤血球が、昨日死ぬ運命のままに循環している彼のからだは、乾いて、しずかに、呼吸さえもひそめてじっと待っていた。つくりかえられて天才へ、組織がターノーヴァしてゆくのを。
かくして彼は天才を手に入れ、ほしいままに、にぎやかの銀河をこぼしながら、騒々しいな、喧しいな、今度こそ本当に眠れない。あなたにだって眠ることができそうにもない。夢遊病のそのさまに、彼はしばしば徘徊していた、白白明けゆく夜のふちを、まろやかで、やさしく、あまい、恋びとのそれに向けるような微笑みと尊敬を惜しみなく注ぎ、丁寧になぞってやりながら、彼はまたまた眠れない。時間は無限のようでもあって、永遠の一瞬まえ、一秒てまえ、進むことも戻ることもなしに保たれて、そろそろ振動が、おわるよ、冷え切って絶対零度。瞼を伏せるだけで世界を残滅せしめたのはいつのことだったっけ、それほど遠い昔でもないはずだ。
この軍事基地の、奥まったところへしまい込まれて、完全の肢体、いちども生きたことのない戦闘飛行機、そのガラスのキャノピィの向こうで死んでいた夜の剥製が、左右田が何も考えずに拾い集め首を刎ねるようにして花弁ばかりを献花に敷き詰めたなかから、白皙の肌をかがやかせ、しろたえの指を伸ばして、ぺたり、その手形を刻み付けるのを目の当たりにしたときの感情を、おそらくは一生忘れないだろう。
左右田は何もかもをかなぐり捨てて駆け寄り、圧縮空気を吐き出しながら、独特の高い衣擦れのような、断末魔のような叫びを上げながら展開されてゆくキャノピィの縁へ手を掛けるとひらり、とびあがり、大量の花に埋もれていてさえ、目をつむっていてさえ明らかなその青年の下腹部、冤罪の槍の瘢痕が刻まれているそこへ、一閃でレンチを叩き込んだ。
憧れていたんだよ。
信じてもらえないかもわからないが。
ほんとうに。
いつわりなく。
かぶりを振るさえ億劫で。
ありとあらゆる暴力的資質を発揮して一貫性と整合性をうしなわせ恒常性など既に打ち砕かれてひさしい、ぐらぐらとたまらなく眠たいのに、視界は妙に冴え渡っている、きこえる、みえる、歌っている……、青々と萌えているオアシスの萌芽を、新芽を、若葉のころを、見逃すわけにはゆくまい。戦闘飛行機のコックピット、処女の彼女にふさわしいのは、おなじく清廉潔白たる処女のパイロットではなく、淫らに、夜の辻に立つ巷に噂のすてきの天使、女優気取りのそのかんばせ、一夜限りのあなたの恋びと、春を鬻ぐ、夜鷹。
暗やみを飛ぶのは危険がつねにつきまとったのに、彼女はあえてそれを選んだし、楽しみさえしたのに違いない。左右田の知っているうちで、もっとも淫らで、猥ら、身体の線を守ることを知らず、しかし誰に触らせ、嬲らせ、姦淫と背徳、熟しきり、満ちきり、なかば腐りはじめているしとけなさ、あざとさは、狛枝凪斗という青年のなりをして、うすかわのうちに引き伸ばされ、希釈されてきた、冬の夜のオオイヌ、おおかみ、焼き尽くすもののシグルス、うつくしい夜の剥製。
だから左右田和一はおそらく人生のうちにいっとう大胆で向う見ず、何者をも彼をとどめることのできない使命感と達成感とを得るためだけに駆け出さなければならなかったし、一体どうやって、死んでいる彼、狛枝の肉体、肢体を、あの安置所から盗み出せたのか、もはや記憶も定かでない。
無我夢中だったのだ、といってしまえばそれまでで、しかし、おなじだけ、安置されていた、死んだもの、殺されたもの、殺したもの、それらの死骸に、見張りなどなかったし、生き残されたもののなかで、執着や信仰を寄せうる人間なぞなかった。ふしだらな淑女でなければ務まらない、パイロットの大役に、これほどふさわしい人間もないだろう。
キャノピィで目覚めたことに気がついたとき、まるで真逆だ、蘇生したばかりというのに狛枝はいっそ断末魔の叫びを上げた。生きているあいだ、カムクライズル、ひいてはヒナタハジメによってはずかしめられ、しこたまに殴られ、したたかに犯されつづけた日々に、彼らはまったくもって他人あるいは周囲あるいは環境に対する配慮というものを持ちはしなかったので、昼も夜も問わずに、また場所さえも問わずにまじわりとまぐわいをひたすらに繰り返していたものの、そのうちでただ一箇所きり、まるでおとなしく、ダッチワイフもかくやのさまで押し黙り、寡黙かつ敬虔に、神にゆるされた婚姻でこそないものの狛枝がふしだらさをうしない、ときには呼吸さえをも忘れてその体を相手へ預ける場所が、この戦闘飛行機群の内部のみであること、左右田は、きくではなく耳にはさんで知っていた。なにせ、いくら線のほそくたおやかな体といっても身の丈180cmはゆうにある、りっぱな一青年である狛枝が、ただ黙って、されるがままに、従順の恋びとでいられようはずがなかった。
日向が暴力に訴えれば、それ以上の害意と悪意とを、狛枝は返したはず。感情と表情の大半を制御できずに能面のような顔をいつもつまらなさそうにすがめていたカムクラにとってみれば、うつくしくない自身の姿を目の当たりにさせられるかのさまで、狛枝の、殴られて血を流し、壮絶のさまにあってなおも力づよくあらがいがたい引力を保っていることは、鏡を覗くよりもよほど恐ろしかったのに違いない。
たぶん彼らはどちらもどうしようもなく間違っていた。それとしって黙っていた、のみならず、嬲られている狛枝凪斗の嬌声を、不快や不安に感じるではなく、いっそ快感と恍惚とに結びつけることができた左右田もまた、彼らをなじることがむつかしい。
いま、ふたたびのフラッシュバック、何も自由のすべてを奪われて、パニック状態のために起こした呼吸困難のみならず、回され、伸ばされた指が、節榑立った指が、自らの気管と頚動脈とを圧迫して血流をさまたげ、チェーンストークス、衡軛反射、かきむしる白魚の指が、たちまち力をうしなって折れてゆくのを、彼の眸がいったいどのように捉えたものか定かでないのだった。狛枝凪斗はありとあらゆる方法で殺されたし、同じだけ犯されたのだ、まるきり自らの意志に過ることもなしに。かわいそうだと同情をよせることが、はたして正解だったのだろうか? それとも、狂気に満ちているとしか言いようのない、日向創のその腕を振り払いその中から狛枝を救出すること、勢いのひとつもあれば、実行するだけは簡単だ。
そう、子どもの恋愛、子どもの逃避行、出会いからただの5日きりでともに死ぬことを選んでしまうジュリエットとロミオの高潔さには遠く及ばないまでも、愛の真似ごとをささやきあったり、いつまでもは続けられるはずのない、駆け落ちの不純で、不穏で、不埒なさま、その瞬間だけは絶対にうまくいくと信じていられる青さを、いつしか失ってしまった。気がつけばあとさきのことばかり考えて身体はすくむ、動かない、動かない、動かない! たった一度、狛枝凪斗を救い出せたとして、おそらく日向はそれをした左右田を許しはするまいし、また、狛枝とても、許されようとはしないだろう。
いちばんに問題なのは……、そうして、壊れかけたなにか、糸の切れかけた人形のように扱われていることに、狛枝があまり頓着したようすがないことでも、日向の腕や、四肢、狛枝にむけて振るわれた暴力が、こちらにも容易く向かいうるものであることでもなしに、左右田が彼ら、とくに狛枝に対して、親愛や、憎悪や、畏怖の情を一片だって抱いてやしないということだ。性行為への依存症状がないとは、どう考えてもみられなかった狛枝を、どうにかして日向から引き離すことができたとして、しかし左右田は、日向ほどに大きな感情を、彼へ向けることができそうにもない。憐憫ならいつだっていだけたろう、その嬌声のかしましさ、あだらしさ、しとけなさ、じゅくじゅくと繰り返しているまぐわいの水音に、刺激される劣情のなかったとは、嘘でもいえない。
癒されていたはずだ、したたかに殴られている狛枝のほそい肢体が、ぐんにゃりと力をなくしてくずおれているさま、日向は当然ながらあとの処理などしなかったから、そのまま打ち捨てられている狛枝の着衣の乱れをそっと整えてやって、実際の行為には及ばないもののそれらの相伴に與っていることへの後ろめたさから、やさしくしてやらねばならないのかと、考えたこともあった。結果としてそのやさしさは、ただの罪滅ぼしの感情であったけれども。
どんな方法でも、どんな形であっても。彼は愛されたがっていたし、また、もうひとりの彼も、愛されたがっていたのだ。愛されたいと願いながらただひとりその可能性を秘めた相手へ向けた眸のつめたさ、拳のかたさは、まるきり愛のそれではなかったとはいえ、同性間での性的な接触における困難や、偏見が、彼らを追い詰めたのでないことはたしかだった。
左右田和一は無力だった、取り戻さねばならない、けれども、取り戻されるべき愛情は、知っている、わかっている、はじめから存在しなかったものと。一度だって左右田は、狛枝を愛していたことがない。ただ、彼が時折かいま見せるおどろくまでの女性性にくらくらと酩酊させられていただけだ。花の香に酔うあわれな羽虫に、すぎない、吸い寄せられて頭から、喰らわれずに済んだだけのこと。
死体のように従順に男に組み敷かれている狛枝凪斗を正面から見つめるのは初めてのことだった。ひくつく喉と、下まぶた、幾らかあばれた彼をとどまらせるには、日向がかつてそうしたように殴りつけ、息を塞ぎ、鼻を折って出血させ、己の血に溺死させるくらいの心づもりでなければ。
いまはその場所に左右田がそっと覆いかぶさっている……、なにもできないと思った。殴ることも首を絞めることも服を乱暴にはだけさせることもあまつさえどれほど白くひかる大理石の肌をしていようとも単なる男にすぎない彼のために性的興奮をおぼえておのれのイチモツを勃起させしめることも、無抵抗の彼に挿入しおもうさまに揺さぶり抽出を繰り返すこともうつくしく引き攣れた腹の傷にやわらかく舌を沿わせることもかたちの良い鎖骨に噛み付いて牙のように尖ったその歯を食い込ませることも。
できないとおもった。
左右田和一は機械のようにそれを実行した。
四、
後悔はふしぎとなかった。悲願や念願が叶えられたとは、ゆめゆめ思われなかったし、行為のすべてをうすい肉付きの男の身体のうえで終えて、つい先ほど意識をとりもどしたはずの青年のなりをした何かが、もう一度死んだようにくたばっているさまに、なぜ興奮できたのか、左右田には射精の絶頂をむかえたいまになっても分からない。
あるいは、日向もまた、わからなかったというのだろうか? それを確かめるために? まさか、そんなことに逐一悩んでいられるほど日向はひまではないし、そんな可愛げがもしあったのなら、すくなくとも開頭オペに臨む必要など、生じなかっただろう。彼のことはよく知っている、知らないでいられようか、なにせこの退廃の亡国は、歴史にさえも刻まれず滅びゆく都は、その玉座は、ほかならぬカムクライズルであって、また、女王は疾うに去ってしまったとはいえ我々はひとしく彼女の奴隷でありながらにしてなにものでもなかった。
江ノ島盾子。
我々、つまり左右田和一や狛枝凪斗や小泉真昼やソニア・ネヴァーマインドや、あのちいさなフェンリルや、それらにとって等しく肉欲と庇護欲と顕示欲と征服欲との恰好の餌食になるはずだった彼女は、しかしながらそのうちのどれにだって興味を指し示しはしなかった。
それでこそ女王足りえたのかもわからないし、さもなくば、江ノ島の捧げた貞操は、愛情は、たったひとつの純潔は、あまねく人間のまえにひらかれる股ぐらにではなくて、密に生え揃った陰毛の奥に隠された膣の入口、あるいはそのなかに満たされた乳酸菌の群れではなく、電子的に、電気的に、彼女���うちに刻まれてやまないものであったのかもしれない。相手が男であるのかどうかさえも、我々は知ることができない。
彼女はすでに物理的に屍と化しており、いまはどこで、なにになっているのだろう、朽ち果てて風化をまっているかしら、凍りついて保たれているかしら、融解をへてどろりとろけているかしら、それともすべて組織ごと置換されて屍蝋かしら、きみはうつくしい未亡人だった……、そうしてどうしようもなく、聖性と、霊感、かなしいかな童貞たちを、悉く去勢してしまった! もはやうずくまるさえできそうにもない。かなしいことだ……、とても!
怯懦で、卑怯、あまりのあさましさに吐き気を催しさえもする老害たちが、ここまでの事態を想定したいたものか否かは定かではない。老人たちは、凡才ゆえに、秀才ゆえに、鬼才たちのその才能が、時間とともにうしなわれてゆくことをおそれた。その才能が、良い方向へ作動するものであっても、作用するものであっても、ひとつの例外さえなしに、あまつさえ選り好みすることもなしに、熱心に蒐集をこころみたし、それらのバックアップを作製するのに尽力を惜しまなかった。天才という生物、天才という生態、天才という病態におちいったそれらの子どもたちはコピィされ、ラベリングされ、レッテルされ、一列に並べて晒され、嬲られ、辱められたことに誰ひとりとして気がついていない。左右田にしたって同じこと。
データベースにはひとつの名前がつけられた。
カムクライズル。
それは個人の名称であって、しかし集合である。真なる天才というものが、じつをいうとすべてクラスタ(cluster)であることに、はじめに気がついたのは誰だったのか? わからない。なぜってみんな死んでしまったので……。未だに江ノ島盾子のことを考えると、左右田の腕は、手は、レンチを取り落としてやんわりと股間へ伸びる。服の上から、あるいは冷たく荒ぶ外気に晒して、もどかしく動かす手は、握り、ゆるめ、片付け、擦り、扱き下ろす手は、自分のものでありながらまるきり思うとおりになったことがないので腹立たしくさえある。
愛の証明なんてできない。
必要性も感じられない。
セックスは別段むつかしいことじゃあない。ただ、疲れるだけだ。ぐったりとつかれきって、たいした達成感も満足感も得られずに、今度こそレンチをぐるぐると回しながら、コックピットで死んでいる狛枝凪斗が次に目覚めるのがいつになるのかな、なんてことを考えてみている。とてもひまだ。
思いついて狛枝に話しかけてみようかと思ったけれど何も話すことがない。左右田はなにも、彼にしてやれないのだ。さきほどまでの自分の行為を棚に上げて勝手に感傷に浸っている。
ごめんな、なにもしてやれなくて。
ごめんな、すきになってやれなくて。
言葉は出口をうしなってぐるぐると渦巻いて漏れ出す吐息にかわり、さきほど絶頂を迎えたばかりというのにふたたび熱を帯びた身体の重さ、ここちの良い火照りに、ずるずると戦闘飛行機の車輪軸に背を預け、彼にとっての脅威が、首のない男が、いまにもガレージのあちらにやってくるのじゃないかと期待を抱いて待っているが、来世まで誰も来やしない。
ままならないなあ。
謝ることなんかなにもないよ。だって左右田クンは、ほんの少し、ボクの中身が気になっただけでしょう?
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(最原と天海)
かわいい怪物 Never enough.
きみってほんとうに、情のないひとね。昼下がりの病室の、かたむきはじめた陽のなかで彼は言って長い睫毛の陰を落とした。ベッドのうえで苦笑にほほをゆるめている天海蘭太郎をなじっているようにみえて、だれかからの借り物のようにまるで内実のない言葉が彼の口から発せられることに、どこか不謹慎なおもしろおかしさが、あって、なるほどこれが、情のない、と揶揄されるゆえんかと冷静に思わなくもない。天海が急死に一生を得て病院に担ぎこまれるのはしょっちゅうで、右腕にわずかに巻かれた包帯の白さがいかにも痛々しいが、なにも彼を何度も死の淵へ追いやり、そうして命の涯から取り戻すのは、稀死念慮に因るものでないことを、天海自身も、そうして、目の前で押し黙っている彼も、克く分かって、いた。
ことのおこりは数日前の夜のこと。なにひとつ特別なことのない平凡な日だった。ただ、偶然居合わせた居酒屋の、となりに座った女に声をかけられて、春の海まで連れ添っただけだ。女は沈み天海は沈まなかった。それだけ。一年の大半はそうした平凡で、無味無臭、色のない一日によって構成されている。ときには平凡な日は、一年以上の歳月を飽きもせずに繰り返し、退屈にうちのめされる若者たちを絶望させる。代わり映えのない日々! かといって、劇的な変革を何度も耐えるほど、こどもたちの精神は成熟しておらず、盤石であるとも言いがたい。結局おおくの刺激的なドラマは、自分ではないだれか、他人の人生や、感情、ときには痛みや死を伴って消費されるほかに味わうことのできないものだ。天海蘭太郎もまた、かつてはそれらの、エンターテイナーのひとりであった。歌を唄ったり、踊ったり、心にもないセリフをあたかも本物のように読み上げるお芝居をしたり、そういった動作はなにひとつしなかったが、しかし天海は、たしかに、適度な悲劇と、適度な滑稽さ、そうして、ふだんならけして許されることのない残虐さと暴力を……、体現した。
かつてどこかの求道者が、罪のないものだけが女に石を投げよと言った。ならばだれしもに石を投げる権利があり、同時にだれひとりとして、自分が石を投げる権利を持つことを明らかにはしたくないはずだ。一度も思ったことがないだって? 弾劾の石礫を投げつけたいと。あるいは、罪もない小さな生きものを傷つけたり、無意味に、ただ愉しむためだけに殺してしまいたいと考えたことが。人間だけが快楽のために生きものを殺すのだというのなら、伴う生理的嫌悪や、仁道に悖るものとして慄くみぶるいの矛盾はどうしたことだろう。あたえられたお人形遊びで、腕や脚をつかんで振り回したり、塩化ビニルの肌にカッターナイフの刃を沈めてみたいと考えたことは? ないはずがあるまい。それらの利己的な考えが、あの閉じられた学園のなかで繰り広げられる、コロシアイというエンタテインメントの惨劇を生み出した。天海は参加者だった。二度に亘って彼は中にいた。彼は消費される生存者であり、被疑者であり、犠牲者だった。おもうに自分たちは、都度誂えられるつぎはぎの人生に生きている。きっとそうしたことなのだ。今回のことだって。
「何回め?」「いい加減やめたらいいのに。」「ドラマティックに死んでしまいたいなんて、あなた、もう、あの学園にいたころとは違うんだよ。まっとうに生きなくちゃ。お話は終わったんだから。」
口々に言う人々をなんだか冷めた気持ちで見遣りながら腕の包帯をなでる天海は、意図せず他人の意識を惹くところが、あって、たしかに優れたあまい容姿や、やわらかい声や、どこか思わせぶりな所作や、うつくしいため息は、彼という男を魅力ある生きものたらしめていたが、そんなものは天海蘭太郎の一部にすぎない。一日が一年の、十年の、わずかな切れ端にすぎないように、調和がとれているようにみえるなにもかもは、繋いであるだけのつぎはぎなのだ。果物籠を抱えてくるでもなければ花の一輪もたずさえずにふらりと病室にすがたをみせた友人が、目深にかむったキャップの下から諦観と、そのくせどこか義務感に衝動されたであろうまなざしをこちらへ寄越したので、天海はやんわりと口角をあげた。ほほえみの近似値。だが彼に笑いかけたのではない。
「きみといっしょに海へ侵入った女の子ね、死んでしまったよ。」
「うん。さいしょに聞いたよ。目が覚めたときに。」
「そう。ならいいけど。」
分かっているならいいんだ。女の子たちは何人か天海に会いにきたけれど、やってきた友だちは彼ひとりだった。そういった旨のことを伝えれば機嫌を損ねられることに間違い無いので、キャップのつばなどを握ってなんとはなしに位置を直すなどする彼のすがたをみていた。お互いにもうあの頃のような少年のなりではないけれども、最原終一、彼にはいつも、見せ掛けの無垢があった。少女のそれのように高い声も、すんなりと小さな手も、長い睫毛も、けして特別なものではないのに、彼のものになった途端、おそろしいなにものかに満ちる。物質的、即物的の愛情すなわち、生けるもののために拓かれた、背徳と信仰の、裏返しのまじないは、常にそのかたちをもって存在して、きた、死体をつないで愛をかたちづくることができるのなら、渇望している! 天海蘭太郎と最原終一、ふたりはこうして取り残された。
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なにひとつご存じない dum spiro, spero.
(最原と王馬)
幸福はいつも、無慈悲に戸口に突き立てられた矢のようだ。つまり、多くの場合に於いて自らの意志で避けえざるものということ。誰の手にも余っており、誰の目にもあきらかなようでいて、誰にとっても詳らかであるとはいいがたい、いくつかの、いくつもの現象が条件を満たしているといえた。証明はたいてい複数の条件に対して行われる。ただひとつの事象を満たすだけでは必要十分とはいえず、同じだけ確からしい条件を同時に満たしえることでノイズを減らす、遊びの部分を減らすことでかたちを整える。Aでなく、同じだけBではないことを確かめるまで、それがCであると断定はできない。しかし都合よく忘れているだけなのだ、AでなくBでもなくとも、Cだとはいえない。いいきられない。たとえば被害者でなく探偵でないからといって、犯人ではないように。そんなことは言うまでもない。不在証明を持ちえない人物は犯人だろうか? 動機を持つ人物は? まだ一度も物語の前面に露顕していない人物は? 指を突きつけるまでもなく、彼が一同をゆっくりと睥睨する、むろん彼自身にはそのような、誰かを告発し辱める意思がなかったとしても、たしかに彼の一瞥が、みんなをしずかに断頭台へ向かわせた。 探偵。最原終一。彼はしばしば断罪者であった。しかし執行者ではない。そら、ここにおまえの罪があるぞと彼はしめす、ときには微笑みさえ浮かべて。思慮深く、冷徹で、いつだってどこか、遠い、ところから、彼らを見ていた。入れ込み過ぎず、しかし疎外感を感じないような距離を彼が保ちたがっていることにはじめから気づいていた男が最初の犠牲者になったのは偶然だったが、いまとなっては果たして本当に偶然であったのか、疑りはじめればきりのないことだ。彼の本質をもしはやくから知っていたならば何かが変わっていただろうか、と考えようにも、仮定は意味をなさず、ゆっくりと時間をとって思考実験にいそしめるほどの猶予はもはや残されていなかった。この場にあって疑わしくない人間などいない。自分自身さえも、あるいは、被疑者として疑われるというのだから皮肉である。自らの潔白を証明しうるのは第一に自分自身であるべきだが、これこの場面に於いて、疑心暗鬼はますます募り、嘆息ひとつ、嚥みこむ唾のひとつさえ、水銀を含んだようにおもたく胸に凝った。あらゆる循環は滞り……、身体は末梢から挫滅し、壊死し、腐り落ちてゆく。 心が、感情が、思考が、なぜこの身体の中心にあったといえるだろう。あるいは一度だって本当の意味での思考をこころみたことがあっただろうか? 否、あるはずもない。あたかも、理知的で、整然とした、組み合わされた回路のように、さもなくば、なべて正しく完璧な調和と秩序で立ちあがった水晶の群のように、切り離されているとは、とてもではないが。呼吸は? まだある。それを生命と呼ぶのなら、あるとは言えないかもしれない。あたたかく湿って、この身体をはなれてゆくものを、生命ともし呼ぶのであれば。呼吸、拍動、もよおされる劣情、くぐもってきこえる、映像ごしの友人の断末魔。うんざりだ、もう、ほんとうにうんざりだ。悲鳴ひとつあげずに、視線ひとつ逸らさずに、ただ流れ出る血液と砕かれる骨とそれから赤くない体液たちだけを残してあらゆるかたちをうしなった、王馬小吉。突き立てられた戸口の白い矢。少年の姿を文字通りにプレス機に押しつぶされ、いけにえとしての価値をうしなってはじめて、彼は呼吸を手に入れた。希望は消えない。生きている限りは。誰の言葉だったか、最原をふくめて、残された人びとは、その無責任な言葉と、その正体を、いまはまだ思いだせない。けれどもひとつだけ分かる。王馬小吉は選ばれ、そうして、拒絶する、そのためだけにたった数時間しかもたないうつくしい赤い鏡になった。最原は覗き込むことができなかった。ただいちどだけ。かつて王馬であった深紅の鏡を覗き込む、その瞬間だけが、彼と見つめあえる、ほんものの時間だったのに。
***** きみはどんなかおをしていたっけ
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カメレオン・ガール the end.
(天海と赤松)
拝啓愛しいひと。どうしていますか。いまどこにいるの? すこしだってわたしのことを考えたりしたでしょうか。わたしがいなくてせいせいしたって羽を伸ばして、あなたの自由を謳歌しているかしら。皮肉なものね。わたし、あなたを理解して、あなたを尊重し敬意を払う、物分かりの良い、理想的な女の真似事がしたかった。実際のところはじめのころはずいぶん上手にやっていたって自分を褒めたいくらいに思っているけれど、あなたにはそうではないかもしれないね。だけどおんなじだけ、地球の反対側、飛行機ですら十何時間とかかるような遠い場所まで、あなたの意思などお構いなしに呼びつけて困らせるような、癇癪持ちのひどい女の真似事もやってみたかったの。誤解をしないでほしいのだけど。あなたにもらった指環のサイズが合っていなかったことだとか、まるきり同じデザインの指環の箱が、あなたの机のいちばんうえの引き出しに無数にしまわれていることに腹を立てたわけじゃあないの。いちばんうえの引き出しには鍵がかけてあるはずだって? そんなもの!たかだか引き出しごときに掛けられるようなセーフティ、探偵の彼にかかれば造作もなく解けるのにきまっているでしょう。これも誤解をしないでね。彼は断ったのよ。わたしが強引に頼んで、彼の職務に準ずるよう、報酬さえも支払うと言ったからよ。もちろん彼は受け取らなかったけど。そんなわけでわたしはあなたが数多の女たちに贈ってきたペアリングの残骸の個数を数えることができたし、そのなかには、到底わたしの、この、うつくしくポロネーゼを奏でる指には似つかわしくない、子どもの手にはめられるような小さくて細いリングもあったわ。わたしの手がおおきいことを、いつだったかあなた、褒めてくれたよね。仕方がないことだわ! 誇りに思うべきだわ、だってわたしのこの手は、あなたからあの小さな指環を受け取り損ねたどんな女たちにもできない天上の音楽を奏でるためにある指だもの。そうでしょう。わたしはつまらない女で……そうして最高の女! リピート・アフタ・ミー。あなたこれだけはわたしに追従して唱えなければならないわ! フォロ・ミー! わたしのピアノはけしてハーメルンの笛吹き男のそれではないし、子どもたちを攫ったところでわたしに何一つ利などないけれど、あなたはいまだけ、わたしを追わねばならないわ。そういう風に仕向けたのが一体誰なのか、予想はついているけれど、指をさして断罪するつもりはない。空港にいるわ! どこかは教えられない。これは演奏旅行の一端じゃあないし、恋人を待ってまどろむハニームーンなんてとんでもない。等間隔にならんでいるベンチには、これから出発するにしろ、到着したばかりにしろ、おもいおもいの姿の人々が腰掛けて名前を呼ばれるのを待っている。いつだったか、わたしも待ったわ! 演奏順が来て、登壇の順番が来て、厳かにまえのひとに倣って立ち上がる、なにか忘れてはならないもののための祭典だったように思うのだけれど……、なんだったかしら? ああ、たくさんの白い花に囲まれて微笑んでいるあなたの写真が、あんなに大きい。すわった人々は一様に神妙な顔つきをしているわ。なんだっかしら……なんだったかしら。ああ、そうね、葬列よ。わたしたちクラスメイトだったわね。わたしは隣でむっつりと押し黙った探偵が立ち上がって、葬列で帽子を被ったままでいるのって、マナー違反じゃなかったかしら、献花の一輪よりもよほどしろい横顔で、震える手で、よく知りもしないクラスメイトのために捧げもつのをみたのだわ。あなたお礼も言わない。ひどいと思わない? 探偵の彼だって、ピアニストのわたしだって、忙しいのよ。だのに、あなたのためだけ、こうして、ええと? ええ、そうよ。空港にいる。どこかは教えられないわ! だって、教えたところで、あなたは来ないでしょう。今頃きっと、わたしのぶんの指環も、あの引き出しにしまわれている。残念ね。こちらは先程ダストボックスに箱ごと投げ込んだところ。電光掲示板がひっきりなしに行き先表示と便名を切り替えてゆくわ。わたし、どこに行くんだったかしら……、優等生ぶったローファーなんて、夜会服のタフタには似合わないし、指環なんて演奏のさまたげにしかならない、わたしには不要のもの。あら、なにかしら? 急に騒がしくなったみたい。掲示板が落ちるなんて、整備の不足じゃなくって? でもいまの音は、いままできいたどんなシンバルよりすてきだった。飛び散る液晶のガラスも、星を砕いたようにきれい。でも、とっておきのドレスに砂ぼこりが……、いやね、いつまでも参列者でいるつもりはないし、出発までいくらか時間が残っている。ラウンジでシャンパンでもいただくことにするわ。もう子どもでは、ないのだもの、ラムネなんて飲まなくてもいいの。ふるい記憶のなかで炭酸の強いラムネは涙の味がした。
*** 「電光掲示板が落ちたぞ!」「女の子が下敷きに!」「誰か!人を呼んで!」「もう助からない、即死だよ」
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はつ恋 Salome
(天海と赤松)
傷つけたかったわけじゃない。傷はいつだって尊くてうつくしいものだ。天海蘭太郎は考えた。誰のことも傷つけたくはない、殊の外気に入りの人間であっても、自らの手を下して傷つけ、きざみ、価値を見出すほどに興味があるのかと問われたら答えはノーだ。イエスマンという人種がいるならば天海蘭太郎はたしかにイエスマンだと言えたが、けして断れないのでイエスを言うのではない。ただ、考えるのが億劫なので、そうして、無知のふりをしているうちは、彼、つまり、少年と青年の過渡期にあって、アイデンティティを確立し、没個性のひとびとのなかで頭ひとつ抜きん出ることもなしに生きている自分になんらかの価値が認められるものと、わけもなく信じていたのだ。容姿はいくらか華美である。そうでなくともあまくととのった顔だち、遠目にも目立つ色彩の髪、ピアスの数を数えるのをやめたのはいくつめからだったか記憶にない。彼は笑う。なぜって、それが、過去の自分から贈られたとっておきのビデオ・メッセージであるからだ。タイムカプセルを開けるのに10年を待たねばならない理屈などない。必要があれば、明日にだって開ければ良い。蜜蝋をおとし印判を捺して、あかぬ封印をほどこされたからといって、まるで一度も開けられていないかのように戻す手段がないわけではないのだ。そうして天海蘭太郎は、知識を得、手段を持っていた。開けられた封印はたやすくふたたび閉ざされる。難易度などなきにひとしいものだ、彼にとっては! たとえば女の子たちが、彼の容姿を褒めそやし、自分勝手に想像力と、はた迷惑な勘違いとで彼に恋慕の情を寄せ、腕をからめ彼のやわらかい髪を撫でうなじをなぞり唇をうばわんとする、ただ応える、天海蘭太郎には容易なことだ! もっとも張りぼての、いっときの惑いと熱に浮かされただけの感情はさして持続しない。早い子は3度目のデートで彼の愛情を勝ちえないことに気づいたし、遅い子でも、処女をささげた翌朝には目がさめる。目がさめたところで手を離すか否かの基準は、こちらにはよくわからないが、たいてい彼女たちの眸をにごらせ瞽にしている好奇心と誤解の星々は満天、へロディアの娘が恋に恋をして舞いながらその肌を晒した7枚のヴェールを、彼女らはかけられている。それは意識に、それから眸に、感情に、理性に、そうして性なる欲求に! かいま見たうつくしい預言者の姿が彼女をくるわせ、呪われた生い立ちの娘は吐きかけられた唾にさえ動じない。絞首台の下のマンドラゴラをみた? あるいは、斬首刑をおこなう際に斬り落とされるロープの縒りを。バスケットはなにも、陽気なピクニックの支度を整えるためだけのものではない。男からしたたりおちるものは、血、脳漿、濁った精液、色のない、しかし粘稠度だけは高く蕩けるような愛の矛盾。どれも女の中にはない、すくなくとも、犯行のあかしを、一度だって天海蘭太郎は残したりしなかった。歴代の恋人たちをみてきて、彼女らが短い期間のうちに目を覚まし彼を見限って去ってゆくことを、天海は経験で知っていた。 「天海くん、怒らないから話してほしいの」 「いやあ、怖いっすねえ……。赤松さんは賢い女性っすから。」 ウソをついているのはきっと気付いていたことだろう。けれども顔もにわかには思い出されそうにもない彼女たちは、幻想の中、彼女のみたい姿の天海蘭太郎だけを、愛していた。誓いだけが彼女たちを衝動し駆り立てているのがわかった。ヨカナーンに口づける、そのためだけに彼女らは、あまりにも不用心に、ヴェールを脱いでその乳房を、腹を、太ももを、そうして脚のあいだのそれを、顕にした。天海は笑う。背中に爪を立てられ、膿んできている開けたてのピアスホールを引っ掛けられて不満に思うが、おくびにも出さずに笑うことができる。 「いままで何人の女の子とつきあったの? 正直にこたえて。」 「さあ、どうだったかなあ……、でもみんな、オレが好きになった女の子じゃ、なかったっす。」
***** サロメ!
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放課後は善い悪魔 When all you need angel.
(天海と赤松)
「学校の七不思議?」 おうむ返しに聞き返してから赤松楓はゆっくりと彼を振り返った。ときは誰そ彼、差し込む夕陽は燃えるようにあかく、はためくカーテンの織りを際立たせながら、日に焼け、ながいあいだ放置されて埃っぽいにおいを撒き散らす。窓を開けたのは彼だった。この音楽室(正確には、『超高校級のピアニストの研究室』であって、文字通り赤松楓のためだけの部屋なのだった)に篭るとき、彼女はけして窓など開けない。ひとりになりたいとき、あるいは、思案の海に沈みたいとき、ただ奏でる音楽の一部となって何者でもなくなりたいとき、繰り返し繰り返し譜面をなぞり機械のように同じ動作をこなせるようになりたいとき、赤松楓はきまってここにきた。そうしてしばしば、日が昇り沈むまで、何時間でも彼女は鍵盤をたたく。白、黒、白、黒。ピアノがうたっているのか、赤松が踊っているのか、音楽が満ちてゆくのか、赤松が溢れていくのか。位置エネルギーが運動エネルギーに変換されるように、総量は一定である。名前を変えたところで、本質になにかかわりがあるわけではない。ここにあるか、ここにはないか。赤松楓のものか、あるいは、彼のものか、それだけの違いだ。もちろん自分のものなら嬉しいが、彼のものであっても、うつくしさ、とうとさ、その価値にかわりはない。何もかもを手に入れられると思っている、理由はないけれど、しいていうのなら赤松楓にはこの部屋があり、ほかの教室にはない、あらかじめ五線譜のためのラインがひかれた黒板があり、掃除が行き届いておらず埃くさいくせにほんの僅かの歪みすらなく調律されたピアノがあり、反響と防音を同時にかなえる壁があり、そうして、演奏用の背もたれのある椅子に、いくらか粗雑なようすで後ろ向きに腰掛けてわらっている天海蘭太郎がいた。彼はふわり、と破顔する。困惑まじりの眉を下げたわらいでも、勝気に口の端を上げたわらいでもなく、呼吸のように。風がつよく吹きこんでカーテンと赤松の髪とをばたばたとはためかせた。たぶん天海には眩しかっただろう。彼女は半身を魔女裁判の火刑に処せられながら、いま一度、彼の言葉を繰り返した。 「学校の七不思議?」 「そう、七不思議。」 そういう子どもじみた、けれどもどこかワクワクするような響きの言葉は、本来なら彼のものではない、と思った。目深にキャップを被って、躊躇いながら、ピアノのまえの長椅子に掛け、赤松に言われるままに鍵盤を弾いてみせた最原終一にこそ相応しいものだ。天海蘭太郎はけして赤松楓の隣に腰掛けてピアノの連弾を楽しんだりはしない。背もたれを抱きかかえ、頬杖をつき、赤松の姿を見ているのか、いないのか、心底楽しそうにわらっているだけだ。彼がくるまでの数時間、ともすれば、十時間を超えて、赤松はひたすら鍵盤をたたきつづけた。もはや譜面は完全に彼女の頭の中にあり、鍵盤すら見る必要はない。睫毛を伏せて……、ほとんど夢遊病患者のように、彼女は目的の曲を弾きこなすことができた。身体がすべておぼえこむまで、赤松は何度もそうした、ありとあらゆる音楽を、リズムを、飼い馴らし手懐けて彼女のものになるまで! この部屋は彼らと彼女のためのとっておきの子供部屋だった。彼らは赤松楓を寝かしつけ、揺り起こし、やさしく撫で、うちのめし、守り、辱めた。彼女のすべてがここにはあった、反響はすべて赤松楓、ここは鏡張りの部屋と相違なく、母親は赤松楓、ねむる胎児もまた、赤松楓なのだ。ここは分娩室、ここは霊安室、ここは浴室、ここは恋人たちが互いを貪りあったモーテルの一室! 窓を閉める。うるさい風がやむ。眩しさを理由に天海蘭太郎がほほえむことができなくなる。ピアノはひとりでに鳴らないし壁の肖像画の目は光らない。かつかつと靴音をたてて彼女が近づくと、天海は立ち上がり椅子をひいて、女王たる彼女へ、玉座を明け渡した。礼を述べて腰掛け、一分の狂いもなくただしい位置にもどされた椅子に満足する。ピアノにたいして真正面、88鍵あるうちの真ん中、中央ハ音。わたしの声のいちばん低く、あなたの声のいちばん高いところ。 「なにを弾きましょうか」 「アイ・ガッタ・リズム」 「素敵ね」 尋ねておいてなんだけれど、天海蘭太郎はピアノなんてろくろく知らないのだ、いまあげた曲だって、ジャズのスタンダード・ナンバだけれど、赤松楓のピアノはたいていクラシックだ。聴いたことくらいはあるだろうが、作曲家も、曲名も彼は知らないし覚えようとも��ない。ぎゅう、と中央のペダルを踏み込んで赤松は睫毛を伏せる。もう夕陽は彼女を焼かない。外して放り投げた指環がどこか見失ってしまってもゆるしてね、駄々をこねて母親の胎を内側から蹴ったりしない。リクエストの曲を弾きながら赤松はわらう。天海がわらっていないか確かめる気にもならなかったが、この部屋に、ほほえみはひとつきり。赤松楓は赤いエナメルの靴を履いた悪魔にだってなれる、あなたが望んでくれさえすれば! 一曲を終えて喝采はむなしい。鍵盤の蓋を閉じて立ち上がると彼女はうつくしく空虚な恋人へ腕を伸ばしキスの雨を降らせようとしたが、彼はやんわりと断った。赤松さんはそんなことしなくていいっす。ベッドで彼のものを口に含もうとしたときとまったく同じトーンで天海が言う。失望して腕をだらんと下ろし、焼け爛れた半身をおもった。たぶんナイフを振り上げても、天海は同じことを、同じ声と、同じ顔で言うのだろう。
*** 恋人ごっこ
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おんなのこはだれでも boy meets girl.
(天海と最原)
卑屈や謙遜や品のない自己陶酔の結果ではなしに最原終一はみずからがごくごく平凡かつおもしろみのない人格であることを自覚していた、あるいは、ともすれば、平均値をとって明確なボーダ・ラインとして引くならば、最原はその僅かに下に、かろうじてぶら下がっているだけの価値のない群衆のうちのひとりにすぎなかった。同級生たちは各々が輝かしい功績と、基づく高い矜持、然るべき未来の約束に紐づけられて、いまにも浮き上がってゆかんというさまだが、肝心の空に何があるのか、誰もわかってやいなかった。ここで宇宙飛行士を目指し、のみならず、かくあることを定められた百田であれば、空の向こう、大気圏外に待っている無重力の世界について詳しく述べることができるのかもわからなかったが、しかしあまりにも、彼の知る現実と、夢想とのあいだに横たわってしどけない姿をあらわにしている障壁は、無慈悲にすぎた。夢まぼろしを覧るごとし、硬質で、つめたく、澄んだ、致死性の毒のある、アルミニウム合金の月を、いつだったかみんなで真夜中に頼んで食べたデリバリィのピザのようにカットして取り分けるような不条理さ。集まった友人の数は奇数だったようなおぼえがある。もとより、きれいに等分し切り分けることなど出来ようもなかったので、あろう。 空腹を満たすのには十分すぎ、幸福を満たすのには、些か不足している。たいていの物事はあちらの尺度で十分でも、こちらの尺度では足りておらず、ままならない、それも致し方ないことだ、重さをインチで測る者のないように、長さをポンドであらわすことはできない。いちばん簡単なものさしをひとつ持とう。人さし指を立てて、親指と直角の形をつくる。両手にすればカメラのファインダーをのぞいたり、絵画の構図を考えるまねごとになったろうが、残念ながらどちらも心得がない。ならばギャングのように拳銃をふりかざすそぶりかと言えば、小心者には荷が重い。しいていうのなら、これは良心をはかるのに向いている。 ごっこあそびの延長でそれらしく振舞うにさえ躊躇いをおぼえるくせ、相反した性質をもまた、最原はそなえた。すなわち、ありとあらゆる天才的悪党、殺人者、そのほか張り巡らされた智略の糸の上にあそぶ思慮の深さである。彼にはそれらを手にとり、翫び、編んではほどき、いっけんもはや修復不可能なまでにこんぐらがった糸玉を、たやすくほどくことができる。いっそ無味無臭で、ありとあらゆる要素から隔絶され、静寂におちる瞬きだけがやかましい無菌室の赤ん坊のように無感動な俯瞰が、最原終一のうなじをいつだって見下ろしている。そのとき彼は彼であって彼ではない。もっとも親しく、もっとも遠く、しかし乱れ狂うような愛おしさと、たまらない恋慕とが、悪と、彼との間にある。最原終一は識者であるとともに愚者である。理知をもって愚をなすおろかさを、愉快と笑うことのできる無邪気さこそが彼なのだ。高潔で、無垢のくせ、その白魚のような指は、あらゆる冒瀆と汚濁を掬いあげるに躊躇いがない。それが最原終一だからだ。 目深にかぶったキャップと、重たく切りそろえた黒髪が、最原終一の、おどおどと彷徨うくせにするどい、捕食者のひとみの上にくらい陰を落とし込んでいる。彼はけして、追い詰められたネズミや、あなぐらにひそむウサギではない。もっともそれらに気づいている人間がいったい幾らいるのかは確かで、ない、彼はじっと押し黙ってはかなげに微笑んだりするようなけなげさを持ち合わせてはいない。しばしば誤解をされがちではあるが。彼の微笑い、には、ともなう内実がないのだ。ただ命じられたとおりに表情筋が唇をつりあげ、眉をさげ、彼に微笑みの近似値をしめさせる。それだけのことだ。 この、近似値にすぎない微笑み、を、持ち合わせる男がここにもうひとりいる。あかるい新緑の髪をあそばせ、ほがらかに眦をゆるめ、うすい耳朶には小ぶりのピアスを少々、がちゃがちゃとやかましくなりすぎず、趣味のいい装飾品は、この男、天海蘭太郎そのものを示しているかのようだった。女の白い肌のうえ、わずかに浮いた鎖骨のラインをなぞりながら煌めいているダイヤモンドは1カラットもないだろうに、計算され尽くされたブリリアント・カットは午后の、傾きかけて人びとをまどろみにさそう光を乱反射して輝いている。他人の思惑や希望などかけらも鑑みない、自己のみにて完結し完成したかたち。その境地にたどり着くまでには紆余曲折があったのには違いないが、まるで何事もなかったかのように取り澄まして、プラチナの台座におさまっている。天海の左手の薬指にはたいてい繊細な細工の指輪が嵌められていたが、そのペアリングの相手がいったい誰なのか、はたしてずっと同じ相手であるのかを、尋ねる気にはならなかった。きっと相手が誰であっても天海は同じように完璧な振る舞いをするのに違いない、誕生日や、種々の記念日をスマートホンのスケジュールアプリで管理して、おはようとおやすみ、高価すぎず、しかしきちんとしたペアリングを贈り、化粧を変えれば気づき、きっちりと時計の針を確認してから女の髪を触るのだろう。滞りなく巡るさまはあたかも季節のようだ、天海が明け方の空にあらわれる明星であるというのなら、最原は月のない真夜中だろう。どちらにも妖しげな魅力があるが、どちらからも差し伸べられる手はない。 「ボクも、天海クンみたいにモテてみたいものだよ」 「赤松さんに?」 あえて削った名前をとなえられて最原終一はそれでも怒りをあらわにはしなかった。椅子の背を抱きかかえるように座り、膝を立てて頰を預け、子どもや女たちがそうするようにあまえた表情と声とでしなをつくってさえみせる天海蘭太郎はしきりに左手の薬指の指輪を気にしている、どうやら少し、ゆるく、みえる、ならばそれは彼の指にはまって数ヶ月の指輪などではなくて、長いことになるのだろうか。怒りに声を荒げないかわりにつとめてゆっくりと瞬きをした最原に、天海はかわいた、そうしてずいぶんくたびれ、ひびわれたわらいをこぼした。使い古されている!すでに。たいていの場合、天海のこのわらいを向けられてきたのは最原のような少年ではなくて、くだんの、赤松や、その時々になって天海の愛を獲得せんと躍起になっている娘たちだったものだが。彼女たちはこのわらいの奇妙なまでの渇望に気づくだろうか、はたして? いまにもほつれ、おちくぼつのを待つばかりの、打ち捨てられて久しい、廃墟と呼ぶほかない夢の残骸に、どれだけ砂糖をまぶし、電飾をばらまき、火をともしたところで。天海は、天海蘭太郎というひと自身は、気づいているのだろうか? いじわるを言ったよと嘯いて肩をすくめる彼は振り向きもせずに背にしたピアノの鍵盤をやさしく撫でる、音は鳴ったが、音楽には程遠い。音楽というものは、もっと。 「魔法みたいっすよね、えーっと、あの、ドビュッシーだったかな、きれいな曲を弾いてもらったことがあるっすけど、俺にはできないな」 魔法使いは彼女だけじゃない、と最原は思う。彼女、赤松楓の奏でるピアノのメロディが格別のものであることは認めよう、あくまでも彼女自身のもつ慈愛と、愉快さ、夢中になって夕日がさすまで叩き続けたという鍵盤の白はもう、濫獲されて絶滅の危機にさえ陥ったという象牙のそれではないけれども、そのうえを軽やかにおどってゆく赤松の桜いろの指先のまろさ、しなやかさは、いつまでも瑞々しく新鮮な印象を受ける。最原には予想もできないような手入れや、魔法をかけられているので、ある、彼女に限らずとも、女の子なら誰でも持っている魔法だ。最原終一はたやすくそれにかけられてやることができるが、天海蘭太郎にはできない。魔法は天海のまえに無力だ。非の打ち所のない、くたびれて使い古されてなおも魅力的な微笑みや、ゆるんだ指輪、朗々と語っているあいだは、彼自身でさえ騙されて、いる、赤松楓を愛していると! 鍵盤をなぞる指が、女の髪を、肌をなぞるさまもまた、たまらなくやさしいのにちがいない。それが天海蘭太郎だからだ。最原終一ではなく。音は鳴る。けれど、音楽からは程遠い。天海はいちど言葉を切って訊ねた、最原クン? 具合でも悪いっすか。そんなことはないよと笑って答える。声が震えることもなく答えを返せたはず。いつだったか彼が述べた言葉を思い出す。『天海蘭太郎、いい名前っすよね。線対称の文字がみっつもあるんすよ。気に入ってるんす。』線対称ということは正中線に沿ってきれいにまっぷたつに折ったらまったく同じかたちに重ねられるということだ。きみをまっぷたつに折り曲げてやりたい。そのとききっと左手の指輪だけがシンメトリから外れるだろう。指輪のある指が、ない指に上書きされるのか、逆なのかは分からない。どちらにせよ、同じ指輪を、天海蘭太郎はたくさんもっているのだから、いまさらひとつ増えたところで問題にもなるまい。あるいは、正中線に鏡を置けばよいのだから、天海蘭太郎は半分で良いのだ。 「最原クンには、線対称がないっすね。」
*** 「彼女ができるたびに買うから、ティファニーの店員さんに顔と指のサイズ覚えられちゃったっす。」
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