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jitterbugs-prma · 3 years ago
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月曜日は無重力 Latimeria.
 うつくしいもの。夢中のうちにすぎた夜のおわり、あかるみかけた東の空の低いところに転がっているルシフェル、たった4種類の塩基構造のくりかえしが奇妙にねじくれながら連続してつくりあげるDNAのらせん、洗いさらしの清潔なリネンと肌触りのよいやわらかいタオル、黄身がふたつ入った卵、かたちを保ったまま冬虫夏草の苗床になった昆虫、クレバスの深い溝からのぞく氷のおそろしいまでの���明さ! 寝起きの不機嫌さをまるで隠すこともなしに眉根をよせて新聞に目を通しているレミー・プグーナ。
「おはよ、レミー。よく眠れた?」
「んー、おはよう」
「コーヒー飲む?」
「んー……、ん?」
「ダッサイ寝癖、直して出なよ?」
 ぱたぱたと足音が鳴るのはスリッパの底材が薄すぎるせいだ。以前に気に入って履いていた、ふわふわもこもこの白いウサギのスリッパのときにはこんな音はしなかった。しかし、足音のするといってもたかが知れたもの、なにせルチア・フェックスときたら同年代の女性にくらべはるかに小柄で、朒從のよいとはいえない薄いからだに、目方の大きいはずもない。ともすれば同じ年ごろの、少年にも劣るであろう痩身は、けして不健康や、発育の不十分のために引き起こされたものではない。たしかに、職務上で過酷な条件にあってほとんど休みのとれない日もあるし、そうでなくとも、知的好奇心と、ありあまる叡智への渇望が、睡眠という名の休息をしばしば奪ったのは事実であった。
 少女らしいふるまいをルチアが放棄したのはもうずいぶん前のことになる。着飾るだけがらしさでないことは自明の理であるとは雖も、分かりやすく型に嵌められ高度に記号化されたものに、安堵をおぼえる人間がいることは理解できる。少女らしさ、子どもらしさ、右腕の時計は左利き、数秒ごとに切り替えられる広告のなかの女はしなやかな豹のような四肢を惜しげもなく晒してセックスアピール、街に日が落ちて夜がはじまっても変わらずにどこかに蠢いているひそひそ声、それから善悪。
 この世界にはふたつの人間しかいない。バーニッシュか、そうでないか。性別や、肌の色、信仰のちがい、言語、いったい何をかや? 煩雑なものは多くあったが、はたしてそれらがどれほどの役に立ったというのだろう。背信者はどこにでもおり、無線機のむこう、傍受した暗号文、耳をそばだてて聞いた雑踏のノイズにまぎれた愛のことばほど不誠実なものもほかにない。汝はバーニッシュなりや? これほど無意味な問いがあっただろうか、正体を暴いたところで何かが変わるわけでもないのに。ほかの二値化できない属性よりは確かであるというだけの指標。ひとが終��の獸でないように、死人が饒舌に語ることがないように、覆らないと定められたつまらないものだ。ルチア・フェックスは科学者である。思考の飛躍にはしばしばからだは重たい枷となり、場合によれば人格すらも。ありとあらゆる主観を排除するには、みずからの外殻、朒の鎧、どうしたって座標から逃れられないそれらから、幽体離脱でもするほかにないが、俯瞰の構図もまた、視点の変換が行われただけの主観にすぎないので、あった。可能性、想像! ひとのうちに閃いて、明瞭な輪郭をもったものはすでに、手垢のついたなにものかなのだ。
「レミー」
「うん」
「コーヒー」
「タバスコ2滴でいい?」
「うん」
 未だかつてこんなにも実態のない生返事があっただろうか、むろん彼の分のコーヒーにタバスコをいれるつもりなど毛頭ないけれど、リビングルームのソファで微睡みと目醒めのあいだを揺蕩っているレミー・プグーナに対する愛情についてを語ることばはどこにもない。彼は同僚である。それ以上でも以下でもないが、この家には彼と彼女の暮らしがあった。誰もが羨むようなていねいな暮らしにはほど遠い、激務のゆえにろくろく帰ることもままならない家が、それでも荒れきらないのは、かえってひとの帰らないゆえに停滞し、なにひとつ更新されない、深海のごとくに取り残されているからかもしれなかった。では彼はシーラカンスかしら、彼女は? しんしんと降り積もるのははるか天空にも思える水面でしんだかつての天使たちの死骸だ。冷えきり、もはやあらゆる熱量の励起をうけることもない水底では、朽ち果てることもなければ、魂を売りたくとも悪魔でさえ訪いがない。
 彼と暮らすことになった理由は特にないように思う。放っておけばプログラムや対火装備の開発に寝食わすれてとりくみ、どうしようもなく集中を欠いたりモニタの文字を追いかけるのが覚束なくなれば机のしたに毛布と段ボールをもちこんで路地裏のうすよごれた野良猫のようにまるまってねむり、偏食こそないものの、見たままに食のほそいルチアのようすを見るに見かねて、というほどレミーは面倒見が良いとは言えなかったし、実際のところ、ワーカ・ホリックなのはどちらも似たようなものだった。彼は徹底的な合理主義だ。ときに冷徹に思えるほどの諦観と、割り切った物言いをするけれど、だれの心にも焔はあり、熱はある! 光のほとんど差さない深海で生き延びてきた古代種のシーラカンスにだって。生きている化石? その通りだとも���火消し馬鹿を自他ともに認めるガロ・ティモスだけが���古式ゆかしい正義にたぎり、やれ祭りだと喧騒をたのしんでいるわけでは、なかろう、間違いに極まって、いる、みえているものがすべてだなどとは。
 対外的に、ふたり暮らしにそれらしい理由をつけることはできた。どうせほとんど帰らないのだから別々に家を借りるのも勿体無いとか、前述のとおりルチアの生活の有様がひどすぎるだとか、レミーにとっては煩わしいだけの恋人の斡旋だとか。危険と隣り合わせのバーニングレスキューの職務のさなかにあって、スクリーンのなかにしかないようなおだやかな暮らしに憧れがないとは言わない。そういった日常が、団欒が、彼ら、日々をすり減らしながら生きる隊員たちの慰めになり、また、かならず戻ろうという気概をもたせるのは確かで、あり、実際バリス・トラスには待つひとがあった。多くを語る時間はいらなかった。肩を寄せ、指を絡め、頬にふれて、ひみつを夜に交わしあう。それだけでよかった。
 そういった安寧は、レミーにもまた、あって然るべきだし、彼もはじめは望んでいたように思う。けれど女たちはレミーを理解できず、愛されたふりをするにも耐えられず去ってゆくのだ。うつくしく聡明な男、親切で、やさしく、女の髪や、服や、化粧のわずかなちがいに気づいて褒め、頭を撫で、くちづけはあまくセックスはていねいで、かならずしもハイ・ブランドではないが、いつだって清潔な服を着て髭を剃り髪を整えている。そんな男はどこにもいない。幻想を重ねるならいつまでも夢見心地でいるほかにないが、微睡みはそう長く続かないのだ。
 さきに音をあげたのはレミーだった。かわいそうに! ため息は重たく、折り重なってたおれ、溺死するのを待つばかり。色素の薄いレミーの髪をみる。すこしよれた襟のかたちをみる。文字通りの筋骨隆々としたバリスや、イグニス、新参のガロでさえも蓄えた肩のひろさや胸の厚みをレミーはもたない。しかし、いくら痩せぎすと言ったって、けして女のそれではない身体は、数日とあけずに、ルチアが日々整備と開発に勤しんでいる、旧式と揶揄された装備のいちまいのみをまとって焔のなかへ躍ってゆくことだろう。彼がルチアにとって男の機能をはたしたり、彼女を女として振る舞わせることは一度だってなかったし、これからもないと確信をもって言える。だって、くたくたにくたびれたセーフティ・ブランケットや、抱きしめすぎて毛並みのはげかけたお気に入りのテディ・ベア、手垢にまみれた月並みなことばたち……、あなたのことなんてこれっぽっちも知りたくない。
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jitterbugs-prma · 3 years ago
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赤い靴でわたし生きたわ cheek to cheek.
 
 
 革命、改革、上も下もなく概念のすべてをひっくり返してあまりある力があるとするなら、彼をおいてほかにはなかった。少なくともクレイ・フォーサイトには、為政者として、また、有識者の傲慢さをもって、意図的に他人を評価して選抜すら躊躇わない覚悟があった。もとより感じ入りやすく、よく言えば素直、悪し様に罵る口の言うことには愚かなきらいのあるガロ・ティモスが、実際のところでは言葉ほどクレイ・フォーサイトに心酔しきっていたのではないことを、はじめに見抜いたのはエリス・アルデビッドの聰明な眸で、あった、よく似た姿の妹の快活さや、くるくると万華鏡のように移り変わる表情のゆたかさ、一見して少女らしく、また、どこか愛玩動物のさまを思わせる愛嬌を、エリスもまた持ち合わせていてしかるべきであったが、彼女は概して、それらを積極的に遠ざけた。少女らしくふるまうべき時代は、とうに、エリスから過ぎ去って久しい。なにも年齢が、彼女に、少女らしさをゆるさない要素のすべてではなかった。言うなれば、契機をうしなっただけで、行き場なく滞り霞んでいる、燦々と、あるいは煌々と、かがやくものがすべてではないように。
 夜明けの凌雲をまだらに染めたやわらかい鴇色が妹、アイナ・アルデビッドのものであるなら、エリスにゆるされたのは、そのわずかにまえの時間、ほどけきらない夜のとばりの、群青の気配をのこした薄紫である。ただでさえつぶらの眸をさらにまあるくおおきくし、身振り手振りをまじえて全身で同僚の安否を気遣い、めったにしない姉への懇願さえも口にするアイナに何もかもを打ち明けてしまいたい、と思わないでもなかったけれども、しかしエリス・アルデビッドには、箝口令や、守秘義務のなかったとても、クレイ・フォーサイトと、このプロメポリスで秘密裏に進行している箱舟計画について語る言葉がなかった。クレイの定めた、生き残り、新天地においてあらたなる文明の礎を築いて担う人間の数はわずかに一万を数えるばかりである。突然変異種バーニッシュによる全世界に突発的にもたらされた未曾有の大災害で、人類はすでに半分を失い、多くの都市と、得難い知識と、頭脳たちが、焔になめられて灰燼と帰してきた。エリスは、実際に災害を生き延びた世代ではなく、紛争と呼べるほど組織だってもいなければ、レジスタンスのような、理性と冷静さを欠くことなしに活動する人びとも、物心がつくころにはすっかり淘汰されたあとであった。残されたのはわずかながらもけしてささやかとは言えない脅威、そのくせ、どこか他人事のように、丁重に、丁寧に、マスキングされている。すくなくともエリスにとっては外側の世界のことである。はじめに彼女のなかにねむる叡智の光を見出し、神童と持て囃したのは誰だっただろう、両親だっただろうか? それとも。彼女は気づけば机に向かって、おり、走らせるペンすらもどかしく、ありとあらゆる思考と、嗜好、それから繰り返される試行のすべて、エリス・アルデビッドは極度に完成していた。自転していた。なによりも、重力場をのがれて遠心力にゆがんでゆくものごとを、憎しみにも似た感情で俯瞰していた。彼女は気づくと孤独のさなかにあった。学術の徒として、おなじく研究に没頭する同僚たちには、いくらか年齢の近い者もあったけれども、しかし彼らはけして、友人ではあり得ない。互いに切磋琢磨し、檄を飛ばし、励ましあうような慕わしさを、彼らに感じたことはない。心が凍っている? そんなまさか。エリス・アルデビッドにも感情はある、執心があり、俗物的で、肉慾に類する愛さえ。しかしそれらに耽溺し、たんなるひとりの女であること、孤独にむせび、愛に飢えて喉を枯らすような生きかたに、つよい忌避感をおぼえたのもまた事実なのだった。
 はじめのころは、姉の仕事、研究、この小さな、エリス・アルデビッドという女の全体積の二割にも満たない頭脳がしきりに行なっている微細電流のやりとりについて、妹もたずねてきた。お姉ちゃん、次は何を作るの? よく飛ぶ紙飛行機、割れにくいシャボン玉、無意識のうちにはたらきかける、耳ではきかれないくじらの歌、そういったささいなものから、徐々にエリスが乖離してゆくにしたがって、アイナもあまりたずねなくなっていった。会話がへるにつけて、けして妹に無関心ではないのに、彼女のことを知らなくなってゆく。知的好奇心と、倒錯にちかしい妹へのくるおしい愛情とのあいだにエリスは揺れ、結局、未知なるものへとみずからを投げ出していくことになる。それでも、忙しい合間を縫ってアイナの顔をみれば安堵に胸をなでおろすことができたし、めずらしく非番にあっても、同僚のガロ・ティモスがどうの、ルチア・フェックスがどうのと、たのしそうに話す妹をすきで、あった。
 対バーニッシュ研究分野において革命的で、飛躍的な数々の発明を生み出し、こののちは文字通り人類の存続にかけた暗躍を試みているクレイ・フォーサイトは、いまや象徴的な存在となり、彼のもたらした天才的な閃きを、実際に実用化にむけて試行するのは、エリスたち研究員たちに託された。彼は研究者である以上に、いまでは為政者なのであり、思うように研究にだけ没頭するわけにもいかないのだ、ということが、いよいよエリスにも分かっていた。もっと言うのであれば、こうしてクレイ・フォーサイトが生きながらにして磔になり、石を投げられる銅像の役割を演じてくれなければ、われわれ心無い(と思われている)研究者たちが、人道に悖り、倫理に叛逆して、何食わぬ顔でのうのうと生きていることさえままならないので、あろう、知性はときおり、あたたかな営みを置き去りに、した、無味乾燥した、温度のない、縦軸のめもりが規則的に伸び縮みする対数グラフの無感動だけを共として彼らは彷徨し放蕩する、もっとも生産的で、もっとも非生産的な暮らしのなかにある。一面にひろがる金色の海で重たく垂れた小麦の穂や、水耕栽培の田園風景に隊列をなしていた鴨の親子や、なんの変哲も無い、と、思われてきた光景はもう失われ記録映像のなかにしか残らない。あらかじめ失われたものに思い馳せても仕様がない、夏の日は灰になった、ひとの営みと、都市と、文明の半分が焼き尽くされたときに。眠れない夜にみた、人間をタンパク源として再利用し人々の食糧を確保する映画を思い出していた。食物連鎖を考えれば、弱いものが捕食されていくのはごく自然な、ことだ、しかし、タンパクの変性による疾病が存在するのもまた確かなことなので、生理的嫌悪によって鳴らされる警鐘にも一理はある。たいていの物事の可否、あるいは正誤を判別するときに、指標として持ち合わせる分銅の手数の少なさよ、嘆きはするけれども、そも、天秤にかけるほかに、手段がないのも問題であろう。常に選択と聖別を迫られて、聖者でもなければ、使徒でもない、神などもうない世界をわたし生きたわ、うつくしくはなくとも、いつかは斬り落とされるだけの赤い靴とタ��ンテラを、わたし生きたわ。あなたに頬を寄せて……、妹のめったにない望みと、姉への頼みを微笑みで棄却して、エリス・アルデビッドは、もう、世界の葬列にならぶことさえゆるされない。
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ソイレント・グリーン
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jitterbugs-prma · 3 years ago
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逆光のなか water,wine,oil,and more.
 
 
「食べなさい。最後の晩餐よ。」
 ほとんど味のしない、栄養価だけは約束された軍用レーションと、ひよこ豆となにかの肉、この期に及んでソイ・ミートであるとは思えないが、けして食欲をそそるようなシロモノには思えない煮込み、ぱさぱさに乾いて驚くほどにかたく、噛みしめるたびに口腔からすべての汁気を持ち去ってゆく乾パンをワン・プレートに載せて、謝罪や贖罪を口にするでもなければ、また、この牢獄の収監者であり、とらわれの身分にありながら、ふてぶてしく胡座なぞくんですわって、いる、泰然とした、あるじのようなさまの男へ敬意を顕わすでもなければ侮蔑するでもない、ただ淡々としたようすで姿をあらわした女と顔を合わせるのは、二度目のことであった。エリス・アルデビッド。肩書きで言うならば、弱冠二〇代の嫩さとは思われない頭脳を持ち合わせ、対プロメア研究の先駆にして最高峰のフォーサイト研究所に所属するドクターにして、ほとんどの研究の中心に据えられた女である。ほっそりとした姿や、どこかしんと静まり返った、そのくせ雄弁な眸やらにひそむ叡智は、しかし、たった一つの彼女の、信仰とも呼べる感情のために、いまにも決壊しかねないあやうさを孕んでいた。
 おなじアルデビッドの姓を持ってはいても、ガロ・ティモスのよく知る、明朗快活な少女とは、やはり似て非なる女であるということか。アイナ・アルデビッドを筆頭に、同僚たちのおおくはガロの一本気な性質と、危険を顧みずに動いてしまう彼の身勝手さについて、しばしば呆れ、振り回されて困惑し、ときには罵倒してやりたい日もあったのに違いない。言葉尻を荒げることこそなかったが鉄拳制裁を喰らったことも、幾度となくあった。それでも、彼らが口々にいう、ばかめ、の声に、ガロへの侮蔑が含まれていたことはなかったと、確信をもって言える。ガロ・テ���モスは単純な構造の精神を持ちあわせたが、白昼堂々の闊歩のすべてが世界でないことも、知ってはいた。知識として知っているものと、それらを身のうちにやどす��とは、まるきり別の話である。ましてや、身のうちであると信じたものに手酷く裏切られるなどとは。
 ガロ・ティモスには正義があった。かつて救けられたものゆえの責務として、のみならず、可不可を問うまでもなしに自身へと課すことのできる課題を、いつだって抱いている。人を救うこと。あらぶる火事は消し止められるべきこと。たったふたつだ。ふたつはガロの柱となって、かきわりの夜空に明星をこぼし、満月の黄金、いろ、を、まるで卵をフライパンへ割り落とすくらいの気安さでやってのけた。たったひとりの心ばかりの逸ったところで、成せることなど限られている。ゆえにガロは、組織立って焔へ立ち向かい、救出へ奔走するレスキュー部隊への編入を志願した。彼の後ろ盾たる男、クレイ・フォーサイトは希望を汲んで、ガロをレスキューの補充人員は推薦してくれたが、どうやら意図はほかのところにあったようだ。実際に入ってみれば、分かりきってはいたものの、たった三〇年のあいだに整備されたとはにわかに信じがたいプロメポリス、新市街のなかでさえ、おのれが伸ばし得るかいなとのあいだに、こえようのない、いちど滑落すれば忽ち絶命して、氷の標本と化すほかにないクレバスの裂け目が忌々しくも横たわっていることに、いつだって憤って、いた。
 崇敬を捧げてやまなかったクレイ・フォーサイト、ガロを救い、救われたものとし、人生の筋書きと轍をたしかに曳きながら、同時にしずかに破滅へ向かうよう祈っていさえした男の裏切りをもってなお、ガロ・ティモスに宿ったたましいは灰にならなかった。もしも彼の心が折れたとするならば、いつだって彼を冷静にし、恩人たるクレイ・フォーサイトへの敬意と分別を弁えさせ、ただ静かに、何を語るでもなくたたずんでいるあの氷の湖のうえへ五体を投げ出したり、大気中の塵に反射する夕陽に目を眇め、おのれの不甲斐なさを悔いながら、自らで五メートルは掘ってたしかめたぶ厚い氷の表面へ拳を落としたりする葛藤か、あるいは、ねむっているふりをして、緊急出動のサイレンが鳴り、仲間たちが耐火服に身を包んで駆け込んでくるとともに唸りふかされるレスキューモービルのエンジン音を聞くまでの、絶対の孤独と静寂であろう。おもえば、エリス・アルデビッドについて、いもうとのアイナ・アルデビッドが、比較され、附属品と扱われることに葛藤しながらも愛し、矜持としている旨をきかされたのもあの場所だった。
 この世に涯てのあるのなら、きっと、あの晩、灰となって朽ちるバーニッシュの女の死を、後ろ手に縛られ、見守るほかにできなかった洞窟のさきにあるだろう。ハーメルンの笛吹き男はことば巧みに、あるいは、こどもにだけきくことのできる笛かなにか吹いて、どこぞへとこどもたちを連れ去ってしまった。マッドバーニッシュ、彼らもまた誇り高く、そうして、灰になるさえ救済と信じなければならないほどに、抑圧された民であった。ボス、と呼ばれていた少年は、ガロ・ティモスとたいして年齢も変わらない、ともすれば年下にさえ思われるほそやかな姿をして、これまでにみたどんなバーニッシュよりも強大で精緻に富んだ焔のあつかいを心得ていた。車を手配し、連れ去った焔のこどもたちと、どこか安全な場所へと逃れていったのだから、追いかければきっと彼の行き先は分かったし、常のガロ・ティモスであったなら、這いずってでも追っていたかもしれない。民間人のバーニッシュテロリストへの働きかけが違法というのなら、市民の義務にしたがって通報をすれば良いだけだ。どちらもできなかった。むろん彼らのすべてが危険なテロリストだとは、とても思えず、傷ついたものたちが身を寄せ合い、あたたかい食事を口にし、こどもを慈しみ、苦しみの果てに尽きた仲間の死をまえに怒りと悲しみを眸に漲らせるのを知ってしまった。
 みじかい祈りを口にし、凛と背を伸ばして立ち、去りかけたままにわずか振り返って、ガロ・ティモスの信心を、疑うことなく生きられた人生の幸福を、羨むでも蔑むでもなく、新鮮な驚きに瞠られた眸と、沈痛か、はたまた皮肉か、あまりにも軽すぎる足音の反響だけを残していったリオ・フォーティアの、ほほえみだけが彼を縫いとめていた。むろん、本部への応援を頼むよう言いつけたアイナが、ちかく駆けつけるであろう確信もあったが、それよりも、焔の絶え、音の絶え、光の絶えた洞窟に靜靜とみちてゆく静謐が、ガロ・ティモスを、俯くばかりの木偶の坊にさせた。バーニッシュは? 訊ねるアイナに何と答えたものかさえ定かではない。たしかに彼は昏倒させられ縛られていたのだから、誰かいたのは違いないのに、知らない、おれはなにも、と、答えたのかも分からない。クレイ・フォーサイトがあたえた、彼の救済者たらんとする主軸は歪み、見せかけの天を衝く塔だった。
 放り込まれた房で散々わめき、戸を叩き、涙すらも流したところで、だれもやってこないことは分かりきっていた。暴れようとおもえば幾らだって暴れることができたし、クレイに命じられてガロを牽いてゆく男たちが、対バーニッシュ武装をし、ガロ自身よく見慣れた氷結弾頭を装填したリボルバーを持っており、たいするこちらはほぼ丸腰であることは、抵抗をしない理由にはならない、はずだ。たとえ一度の脱走に成功したとして、ガロ・ティモスの顔貌や、背姿は、先だっての勲章授与のセレモニーで周知されすぎた。逃げ出したところで、なんなりと理由をつけて、ふたたび捕らえられるであろうことは明白で、あり、かといって、この一〇年を生きてきて、初めてみせられたクレイの激昂、彼の本性を、もう一度信じ愛せるといえばうそになるだろう。
 行き止まりの洞窟の底で、押し込められた独房の奥で、ガロはしずかに、 たましいを探していた。火消魂、と彼が呼び、アイナやレミー、バリスにイグニス、はてはルチアにいたるまで、呆れながらも愛してくれた燃える義憤は、すべてがすべて、クレイ・フォーサイトへ捧げ持たれたものではなく、ただひとり孤独になれば、対話すべきものは己がたましいのほかに慰めはない。二度にわたり揺らいだ火消魂が、それでも灰にならなかったことに理由はなかった。ガロが一旦しずかになると、ふたたび押し入ってきた男たちによって、バーニッシュにするような手枷を嵌められ、房を移された。どうやらこののちガロの扱いは叛逆者、しかも、バーニッシュに準ずるものとされることが予測された。手枷くらい何ンともねェ、と考えることができたのは、手足の自由を奪われ、抵抗する意思の折られても、隷民にはならぬとの矜持が、文字通りのゆらめく焔となってたたえられた少年、リオ・フォーティアの眸をすでに知ってしまったためかも分からない。
 エリスはガロの手枷を外し、ろくに灯りもなければ、身体を横たえる寝台も、食事のためのテーブルひとつさえない独房で、いもうとから伝え聞いたであろうガロの性質を信じて、襲いかかられるなどゆめゆめ考えることもない。むろん残っているはずもない反響では、あるが、涙まじりの独白が彼女に聞きとがめられなかったことに感謝した。これらを喰わせるためだけに、エリスがガロに逢いに来たのでないことは明らかだったが、投げかけられる当然の問いに、彼女は毅然として、いっさいの釈明を口にはしなかった。もはやエリス・アルデビッドは選択したのだ。ガロ・ティモスの火消魂、きっかけこそクレイ・フォーサイトがもたらしたたましいが、未だ灰にならないように、彼女のなかにもあたたかく灯る明かりがある。バーニッシュたちのもつ荒ぶる焔でないにしても、硝子の覆いで隠してやらねば掻き消えてしまいかねない儚さでも、それは人間の心をあたためる。アイナのことばをガロから伝えられたエリスが、頰を濡らすとは思えなかった。たとえあと数日、ともすれば数時間ののちに暴かれる悪虐、けしてアイナの敬意と礼賛とに応えたとは言えない研究に従事したことを、エリスは背負う選択をしたのだ。ガロ・ティモスもまた迫られていた。しかし、食べなさい、と与えられた食事に手をつけるまえに、はげしさが街を揺らし、うんともすんともいわなかった独房の壁と天井を引き剥がし、あれくるう焔がのたうちながら市街を征くさまを目の当たりにした。火事だ! それも、バーニングレスキューでしか対応しかねるバーニング火災の、おそらく史上最大のものだろう。晩餐は食い損ねた。ガロは奔った。燃える火消魂、おれのほかにだれが往く。
 
 
 
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「生まれてはじめて火をつけちまったじゃァねェか!」
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jitterbugs-prma · 3 years ago
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神来! estrellas.
 
 …………イヤァ……こいつはドウにもコウにもシチ面倒な事になってきやァがったナ……。
 ビアル・コロッサスがクレイ・フォーサイトの秘書官として付キ随うようになってからもうズイブン経ったので、モチロン調らべさえすれば幾らだって、正確なところはアキラカになるのだがそれこそ、クレイの言葉を借りるまでもなくシチ面倒なので、遣ろうとも思われやしないが、上官の、少ゥしばかり、奇妙なトコロには耳も慣れて仕舞った。クレイがこうした、独トリ言とも、愚痴とも取れぬ言い草をこぼすのは、ショッチュウという程ではないが、けしてこれまでにも無かったではない。この、身の丈何寸かとも思わせるような巨きな軀と、似合わず柔和なホホエミとを湛えた男に、オモテウラのあることはスデに、聡明なビアルには理解りきっている。抑モこの男には、ウラオモテの以上にウラハラのところがあり、軀のなかで、アチラコチラへと忙がしく、トッ散らかっているらしいのだったが、皮肉なことに、どうやら、ピン・ボール、あるいは、ビリヤード台の上で右往左往とさせられる手玉の憐れのようには、男のおもてに顕われ出でては来ない、ものと、みえる。彼にたいする、理解り、は、けしてビアルを得意にしたり、秘書官の仕事をやり易くするたぐいではないなれども、得体の知れない偽善に随がい、疑念のうちに身をおくよりは、イササカ気分のスゥッと、し、胸のすく心地よさがあった。
 指導者の気なぞ幾らかふれて、チガっているのが普遍のコトワリであって、共和国とは名ばかりで、クレイと、彼の持つ財団に因る、ほとんど独裁の国家にあって、体裁だけでもマットウな素振りを保たれているのは、上出来と云えた。このようにしてビアルは、彼の影ともなく、半身とも、片腕ともなく、付キ随う時間の長クなるに伴れて、クレイ・フォーサイトにツイテ識���、それでいて瞽か、啞かのように黙まって、いた。クレイは確固たる忌避と、酷く頑強な嫌悪とをもって、バーニッシュなる突然変異をニクんで、いる、しかし感情とはベツのところで、彼らに就いて詳らかにし、撰ばれた人間として正しさを為すべくして、徹底的に、絶対的に、彼らへの弾圧と制裁とを行なって、来た、邪推を許されるのであれば、クレイの恐怖が、一体ゼンタイ、何ンに起因するものか、ビアルには理解るような気はいがあったが、やはり彼女は知らぬ存ぜぬのツンととり澄ました貌をつくっていた。クレイはジッサイ、巧いこと遣っていた。捉えたバーニッシュをウンと痛めつけ、叛抗らおうという気ぶんの失せるまでタタキノメしてから、生きたままに磔けて、肉を裂��骨を砕かせていたのははじめのころバカリで、近ごろでは彼らのはらわたを暴き、血の色をタシかめることには満足したか、利益のないと判じたか、さだかでないが、彼らの、都市をヒトツ、民族をヒトツ、平気で灼き尽くしえる劫火を、星を航る船の炉の、火種へ使って遣ろうと、目論んで、そうした実験をやるのに執心のようすである。彼の撰らんだことは、たしかに人道に悖ることではある。しかし、スッ裸の男女が、そのくせ奇妙に仮面だけを着けて一昼夜といわず三日三晩に亘って乱痴気騒ぎをやらかしたり、性交のさなかに肚やら、尻やらを鞭で撲ったり、頸を死なぬ程度に縊って愉しむ享楽に耽るよりは、幾らか道徳的であろう。道義と、道徳は、しばしば別の途を辿りえる。クレイの行動が、先のない、怠惰と個人的な肉慾とによるものであったなら、ビアルは忽ちに踵を返していただろう。
 彼らを火種にすることは、クレイのうちでは疾うに極まりきって、いたが、最後まで反発していたのは、弱冠にして研究者たちの要として任命され、彼らから焔をエイとばかりに取り出してムダのないよう扱う技術を構築するよう強いられたエリス・アルデビッドであった。彼女の、薄玻璃の眼鏡の奥、叡智に満たされ、本来ならば慈愛すら、湛えていてしかるべき睛には、憂いを帯びた、僅かの湿度の光があった。女の睛を潤ませ、睫毛を濡らさせるのは、佳い男にダケ認めらる特権であると、ビアルは思った。クレイはけして、ビアルにとっても、エリスにとっても、佳い男では無い。ビアルに至って云うならば、イッソ、知りすぎている、口を噤むだけの賢しさを持ち合わせたために、この場に立ってはいるが、彼にとっての腹心であるとは、ユメユメ思いもしない。かつて、少年の時分のガロ・ティモスを救った際に失なったというクレイの左腕は、ナニゴトも無かった、さまで、空の袖をブラ下げるでもなく、満足に在る。隻腕であるはずの男は、背に回して腕を組み、市民を鼓舞するように見せかけ乍ら、彼の思う通りに扇動する辯論を投げかけ、喝采に応えて万歳の仕ぐささえみせた。義手、義腕のたぐいの精度で、果してそれだけの満足が得られるのか、他聞にしてビアルにはキカレ無い、から、何ンらかの絡繰があるであろうとの推測。クレイはガロをあからさまに依怙ヒイキに振舞っていたが、彼のイノチを救い、英雄と瞻仰を向けられるのにはウンザリしており、ガロを憎くも疎ましく考えているらしいことは、傍らにあれば判った。実験を目の当たりにし、クレイの言葉をスベテ聞き、漸く、イヨイヨ、自らが英雄と崇めた男の本質を知るにつけて、ガロはその驚ろきを増大させて行くらしかった。スナオとは、如何にも滑稽、彼の英雄にあり得るはずも無いと、盲信と、いっそ倒錯的な感情を抱きながらも、チラつかせられた疑念に眼を真ン丸に瞠り、彼の信心を踏み躙った何かへの義憤を漲らせていたガロは、暫くのあいだ、言葉を失ない、瞬きのヒトツも忘れ、滔々と迸るクレイの、薄ッぺらい論説に耳を傾けていたらしかったが、トウトウ、たまらなくなったのか、ギュウ、とばかりに拳をかため、奥歯を噛みしめた音の、聞えたヨウな気はいがあった。「私の遣ろうとしていることが判ったか?」訊ねられて応えてガロの曰ったことには、おそらくクレイ・フォーサイトは、腹を抱え、背を反らし、シンからオカシクって堪らない、とでもいった風に、一笑に付してやりたかったに違いない。クレイは嗤わなかった。代わりに、ガロのしたように、拳を、失われたはずの左をギュウとかため、憤りに燃える青年の腹へ、ドン、とばかりに重たい一撃を呉れてやったのである。予想のほかからトツゼンに殴られたガロは、なされるがままに転がされ、唾を飛ばし乍ら罵倒され、尚も、タッタ今し方起こった兇事さえも嚥下できずに、パチクリとするではなく、瞠る睛のそのままに、彼の虚像を見上げ、ズダ袋か何かのように両脇を抱えられ、叛抗うよりも困惑に絡めとられて退場してゆくさまは、あんまり呆ッ気無い、ミットモナイ、姿であった。イッタイ何処で、誰れに吹き込まれたものやら、極東の、いまはもう亡国の、さらに旧い、見栄なる口上なぞ唱えてみせた貌とは程遠い。
 車を、と短く言いつけたクレイ・フォーサイトの声には常の冷静さが戻っており、付キ随ってカツリと鳴った靴音の反響のほかに、このウツクシい、スバラシい男女のかたちなど何ンな処にも無い。在る訳も無かった。
 むろん、この巨きな男を、それと知ってあいしたこともなければ、愛される積りも無かった。けだし、ベタリの重たくひいたルゥジュとウラハラに、薄ッスラと佩いたダケの頰紅や、少女では無い証左に瞼へ載せた夜明けの藤色などが、騙る迄も無く、ビアルがウツクシく、シタタかな女で、在る、あかしに働らいたのに違いないので、ホホ、と嗤笑うに留めておく、ビアル・コロッサスの、ささやかで、しとやかな矜持が、彼女の背スジをピンと伸ばす。
「サァ、忙がしくなるぞ、エリス博士。」ホンの先刻、ガロ・ティモスの腹を打ち据えたのと同じ掌が、今度は労わるような丁寧さで、しかし重圧をもって肩へ載せられたとき、ドクタ・エリス・アルデビッドは、睫毛の一本に至るまで、ピクリとも動かせやしなかった。彼女はホウボウの体で何ンとか呼吸だけをした。あら、オホホ、イヤだわ、丸で初心な生娘みたいに怯えてみせるなんて、案外この女にも、シタタカな一面があったものか知ら……、つとめてゆっくりと垂直上昇しながらも、���遊感や不愉快な抑圧感を感じさせることのないエレベータの、目的地への到着までの数瞬間、こわばった女の、ロクに睡ってやいないであろう、化粧ッ気すらない側貌を眺めて、居た。
 
 
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 夢野久作概念のビアル、クレイ・フォーサイトと心中しそうすぎて困る。
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jitterbugs-prma · 3 years ago
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コクランズ・キュウ distribution-free.
 
 
 
 きょうも犠牲者はゼロだったな、と苦虫を噛み潰したような表情で言ったのは彼らバーニングレスキューの実質的な指揮官であるイグニスだった。彼は常から重たく色の乗ったサングラスをかけていたので、そのするどい眼光や、困惑や、躊躇がありのままにあきらかになることはなかったが、なにも情緒を語るのは必ずしも眸ひとつではない。イグニスは現場にこそ出ないものの、彼の冷静沈着さと、咄嗟の判断力には信頼が置け、たしかに指導者たるにふさわしい男だった。オレ様が大活躍したからなァ! と鷹揚にわらって鼻高々のガロ・ティモスがこのところのイグニスの悩みのタネであったことは間違いない。ただし、この、順調すぎ、達成されすぎた仕事が続く日々には、根拠のない薄気味悪さがある、暗躍するなにものかの意思が、高度に洗練され、緻密に計算された予定調和にすべて落とし込んで、ほんとうは存在しているはずの鋭角を隠し、まるくおさめているかのような違和感が。バーニングレスキューの誰ひとり口にはしないし、ガロに至っては感づいてすらいないであろう、自作自演の陰謀のにおいが、薄っすらと忍び寄っていないとは、限らなかった。ガロの明朗さは一瞥して心地のよいものであるように思える。単純明快な彼の行動原理を、ばかめ、といって肩をすくめながら、愛していた、同僚であるバリスも、レミーも、アイナも、もちろんルチアも。
 ルチアもまたバーニングレスキューにおいては実務部隊ではない。現場へ急行するレスキューモービルの操縦を担当し、碁盤の目状に整備されているとはいえ、最短経路をあやまたず選んでこのプロメポリスを駆け抜けるのは容易なことではない。ましてや、対バーニッシュ消火装備と、火災現場へ突入する実務部隊のための装備を複数積載したモービルは大型であり、小回りなど望むべくもない。それを、隊員内でもっとも小柄なルチアが自在に乗り回している、というのもおかしな話ではある。彼女が担当するのは機材の整備、新装備の発案と実験といった、おもに外装に関する部分である。旧式と揶揄されはしても、充分な性能を発揮し、危険きわまるバーニッシュフレアの巣窟の中へ同僚たちを送りこむためにルチアは尽力を惜しまなかったが、すべてがすべて、同僚たちや、火災によって失われる被害者たちを救出するためではなかった。この意味でいうならばルチアは救命隊員としては失格なのかもしれず、くだんの新人、おのれの信ずる救急と消防の道に、疑いもたず邁進するガロと真逆の性質にもみえるが、けして、火災そのものを喜んだことはない。イグニスは近頃どうも思案に暮れているようだが、誰の命をも脅かされないのであれば、それがいちばんすばらしいのに決まっているからだ。
 ルチアは一科学者である。学術の徒として、真理を目指すことよりは、より実務的な、実践的な装備を発案し、発明し、机上だけでは限界のある試算を実機運用でまかない、改良を重ねる。ひとえに自己満足の世界である。誤解を受けがちなことだが、科学者というのは、総じてロマンチストが多く、ご多分にもれず、ルチアも、また、そうであった。たとえば自らの発案が特許を取得し、一財産を成すというような、ゴールド・ラッシュの時代に開拓者たちがのぞんだ願望も、ロマンのひとつではあるだろう。結果として自らが金銭的に、そうして社会的にゆたかになり、満たされ幸福な人生を過ごしえるというのならば。あるいは、拝金主義ではあるまいかと下卑た勘ぐりをされようとも揺らぐことなしに、無知にして蒙昧なる大衆、貌のない、有象無象の群体としての幸福をもたらすと信じられるのなら、突き進むのも誤りではない、どちらも、ルチア・フェックスの選ぶ科学者のいのちでは、生き様ではないが。
 種としての繁栄や、覇権のさきを見据えた次世代への愛情を語るには、あまりにルチアは利己的にすぎた。彼女の頭脳、目にも留まらぬ疾風怒濤にして、か��た数百マイルの遠くにまで枝を伸ばす大樹のさまの霹靂もかくやの指先、年相応にはとても見られない、栄養不全と、いちじるしい二次性徴の発現のおくれがみられるとしかおもえない小柄な身体、すべては、彼女のためにしか働くことがない。あたかも、顳顬の中心を撃ち抜き、ルチアの菲薄な皮膚と、わずかにたわむ頭蓋とを突き抜けて脳漿をぶちまけるような、烈しい刹那もあれば、すんでのところでとまりかけた心臓を電流し、現世との強制的の婚姻によって呼び戻すような片時もあれば、すれ違いざまにおとずれ肌をあわ立てる分子間引力のような、ささやかな須臾にふるえる日もある! 瞬間、あるいは、モメント、ひらかれた視界、なにもかも。どちらも、彼女がまだ、ルチア・フェックスのひらめきに愛されているという証明��ある。もしもかのひらめきが、この身体を離れてゆくことがあるというのなら、それは息をしながらにしてくたばっているのと大した違いはない。寝食など、ましてや肉體の慾求など、もはやルチアには重要な意味を持たない、のみならず、審判に値する罪でありさえもした! あるときには。腹が満たされくちくなれば、たいていの人間であれば眠気をおぼえる。頭のなかを駆け抜け、一瞬ごとに息の根を止めて、そうして蘇生するひらめきをもたらすべき血流が、腹のなかの食い物を消化するのにもっていかれるためであるのは、すでに生理学の分野で知られたことであり、焼き魚の、苦みとえぐみをもつはらわたを避けて、等間隔に交叉した脊柱をのこしてきれいに平らげてやる解剖のやりかたくらいには詳らかである。この眠気が、ルチア・フェックスのひらめきと、ここに坐している彼女とを、逆らいようもないつよさで断絶しうるのだ。耐え忍ぶにはあまりにも難い、苦痛である。
「お金になるような発明は邪道だよ。」「わたしの発明は余計な行動じゃなーい。」のたまって憚らない彼女をマッド・サイエンティストとよんでほとほと呆れてみせるレミー・プグーナの言い分は理解できるし、気心のしれたゆえの、礼節を欠いた慕わしさを、擽ったく思うことはあれども疎ましく思ったことはない。ルチアは考えない、ゆたかさを求める人間の本質を拒絶したいとも、飢え凍えないことが、それだけでどれだけ人間の精神を担保しているか、身をもって知っているわけではないが、それくらいの想像力はある。彼女に限らず、夢想に耽るロマンチストの科学者たちは、その想像力、精神的な充足と、物質的な恍惚とのあいだに挟まれて呻き声をあげているのだから。肉體の軀は重たい、はるかに重量的にはおもたいはずのレスキューギアをまとい、火事場せましと駆けずり回るガロ・ティモスのありあまる富は、きっと勇気だ、信心だ、ルチアにとってはひらめきと同義。
 
 
 
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「こんなこともあろうかと、ってヤツよ」
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jitterbugs-prma · 3 years ago
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フラッシュ・バック、かなたより adios nonino.
 
 
 
 仲間が死ぬのはいつだって苦しい。はじめこそ噂としてとどいていた兇悪にして陰惨なフォーサイト財団の遣り口が、確かめるまでもなく事実であろうとは、いつのまにやら確信に変わっていた。すこし考えれば分かることだが、あの人畜無害な、聖人然としたクレイ・フォーサイトという男は、積極的にバーニッシュたちを嫌悪するような行動こそとらなかったものの、犠牲者を悼み慰霊祭でも毅然として立っていたかと思えば、肉親をうしなった少女のために膝をついてやるような振る舞いは、かえって言外につよい選民思想と、蔑視とを滲みださせた。
 バーニッシュとそうではないもの、人類が二種類に分かたれてから、まだ、たったの三〇年である。もう三〇年経ったのだ、とも言える。はじめこそ大変な論争をうんだバーニッシュへの扱いは、突然変異によるものである、と結論づけられ、各地で勃発した焔の暴走や、かれらを恐れた人々による弾圧、兵士ではないものたちを多く巻き込んだ災害が、歴史に刻んだ傷痕はようやく乾いたばかりで、ある、こののち傷が膿んで蛆虫たちの巣穴になってゆくのか、徐々に瘢痕化して癒えてゆくのか、まだ誰にも分からない。極端なバーニッシュへの弾圧の危険性を訴えていたのはクレイの師でもあり、バーニッシュ研究の第一人者でもあったドクタ・デウス・プロメスであったが、志半ばにして斃れた彼もまた、ひとつも人道に悖らなかったと言い切られるまい。すくなくとも我々は、細菌やウイルス感染や、血族的遺伝や、そういった要因によって変異するのでないことばかりを知っているのにすぎない。デウス・プロメス亡きあとも世界は続き、いま、メイスたちバーニッシュは迫害と、ただそこにあるだけで拒絶される憂き目に遭いながら、ひそやかに隠れ、身を寄せ合って暮らすことを余儀なくされていた。
 隠れるものには目眩しが必要だと言ったのは誰だったのか、プラ・カードを持って歩くような生易しい示威運動は疾うに廃れてしまった。バーニッシュたるとはいえ、彼らも平時はまるきり他人と見分けもつかないし、暴走はともかくとして、一部のつよい力を持つもの以外けして脅威ではないのだが、それでも、懐に隠したガン・ホルダーのように、いついかなるときに焔に巻かれるものかと、恐慌が瀰漫するのに長い時間はかからなかった。さらには、メイスと、ゲーラ、そのボスであるリオの三人きりもはや遺されていない過激派テロル集団マッド・バーニッシュの先代とも呼ばられる人々が、力を誇示し、文字通りに暴れまわったこともあって、かのクレイ・フォーサイトが、バーニッシュたちにたいする武力行使を特権として与えた部隊を組織した。無関係な他人であるための安堵を得るのに、これほど重要で、簡易なものがあっただろうか! 抑圧の象徴があるということは。不用意に力を振りかざすものも、そうではないものも、バーニッシュたちは、対バーニッシュ専門部隊フリーズ・フォースによって粛清される。善良で脆弱な、対抗手段を持ち得ない市民にとって、飛行形態への変形機構を持つゆえに、基盤化され整備された道の混雑や、車線の幅、そのほかに制限されることなく最速で駆けつけうる抑止力とは、安心以外の何者でもない。ただし人々の多くは忘れている、意図的になのか、あるいは巧妙に忘失させられているのかは定かでないものの、いっそ健忘、あらわれることのないフラッシュ・バックのように。自らもまた、バーニッシュ足りえない保証などどこにも無く、追われ、手足を凍りづけにされ、磔になり、そうして灰になるだけの運命が、自分にもある可能性を。
 三〇年は長いようで短いが、痛手は残ったままとはいえ、はじめの日を、あるいははじめの火を、知らない世代の人間もずいぶん増えた。ほかならぬメイスも、世代としては二代目というべきだろう。過激派テロル集団、マッドバーニッシュ。その名を継承することに反対したのはメイスだった。しかしリオ・フォーティアは首を縦には振らなかった。どちらかと言わずとも彼の相棒と呼ぶべきゲーラは、先代のやり方に近い考えを持っていたように思えるし、それは、身体中にダイナマイトを巻きつけて、雑踏にごった返す人波の中心で自死を選ぶような、勇敢に見えて単なる無謀でしかない振る舞いのことである。リオは厳しく、リオ自身、そしてメイスとゲーラに戒した、『ひとを殺すな』と。あくまでも人間として振る舞うというにはテロル行為は真逆であるが、しかし、彼の顕した矜持高さは、たしかに失われるべきでない尊厳であった。
 バーニッシュの焔はバーニッシュを灼かない。のみならず、彼らの失われた生気を養い、身体をあたため癒しさえする。ただしこれも、心身が健全である、という大前提あってのことだ。よく食べ、陽を浴び、身体をあたため、宵闇にはすこやかに眠る。それだけのことが、もう長いこと彼らからは奪われすぎた。疲弊している、と言っていい。ほんの僅かな同士だけが、隠れ棲むちいさな集落で、人間らしい生活を享受できているが、それも目を惹いて暴れまわるマッドバーニッシュの担保があってのことだった。生きている間は永遠でいられるとはいえ、それにも限度がある。燃え尽きて灰になった同士を何人も見てきた。そのたびに心は悼み、苦しみがはらわたのなかでぐるぐるととぐろを巻き出すのだが、しかし怒りが形をもって鎌首を擡げるよりもさきに、彼らは流れてゆかねばならないことが多かった。なぜ、と今際の際にもらされたシーマの吐息は、バーニッシュとなった己を受け容れられなかった哀しみと、自らでさえも信じがたい事実を、文字通り皮を剥ぎ肉を裂いて確かめられた凌辱への、たしかな嘆きがこめられていた。彼女がバーニッシュとして目覚めたのは、以前に行われたテロルのさなかのことである。実行犯はゲーラであった。バーニッシュの焔は、未だ気づかぬままに暮らしている同胞に、しばしば問いかけた、おまえは一体なにものか? その身に焔は宿っているかと。幾人もの、知らずにいればそのまま暮らして行けたはずの同胞を、バーニッシュとして追われる身分へと貶めたのは、なにもゲーラばかりではなく、メイスにだって同様の経験が、数え切れないほどにある。もしも、彼らに罪があるのなら、目覚めを願ってはいない同胞たちに、そのきっかけを与えてしまったこと、最期には灰として散るしかない人生を強いてしまった���そのことだけだろう。多くの贖罪を抱えるには、あまりに我々は淘汰されすぎ、減らされすぎた。
 メイスは痩せぎすの、ほとんど骨と皮のような矮躯と、けして消えない隈のある三白眼にすくない口数と、まるで子どもになぞ好かれるはずもない容貌であるが、それでもほかに寄る辺ない子どもたちは、彼の手を取りさえした。メイス自身は聖者とは思われなかったし、だれかを救おうと奔走したこともなかった、リオ・フォーティアに出逢うまでは。いまやメイスは子どもたちのために、けして美味とは言い難い、薄くわずかに塩味のあるだけの缶を開けてやり、縁でほそい指先を傷つけないよう見守ってやるし、ポケットから取り出した板チョコレートのかけらを、くだいて配ってやりさえする。おさない弟やいもうとのあるようだ、彼らのうちのどれだけが、メイスのバーニングフレアに感化されて、親を失ったのかなど考えたくもない。がんばれ、シーマ、声をかけ、もはや光をやどしていない彼女の冷たい手をとってやり、自らにくちびるをよせてやさしさとはげしさの焔を分け与えるリオの姿を見続けるのは、ゲーラにとっても、メイスにとってもあまりに酷といえただろう、リオのかなしみは、すでに、メイスに語りかける焔そのものと密接な繋がりを持って、しまって、いた。彼らはいずれ燃え尽きる。あらたなるバーニッシュたちの新天地、かき混ぜられ、踏み固められた汚泥、継がれてゆく意思と血、そんなものにはなりえず、父もなければ、母もない。バーニッシュに墓標はいらない、あるとすれば、声にできない慟哭と、いつも孤独にたたかっているリオ・フォーティアが、ただひとつ彼らにのこされた愛だけが、衝きたてられて示すだろう、たとえ今宵を生き延びることかなわずに灰と散るさだめが待っていようとも。
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さようなら、わたしの半身
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jitterbugs-prma · 3 years ago
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白昼夢ははるか day dream believer.
 
 
 仲間が死ぬのはいつだって悔しい。風の噂には耳にしていても、実際にたしかめたわけではない、フォーサイト財団によるバーニッシュへの人体実験が真実であると知ったとき、ただ危険分子として社会からはじきだされ、拘束され、拒絶されるのみならず、人でないものとして切り刻まれた同胞がどれほどいるのかと考えると、はらわたが煮えくりかえりそうになった。本来ゲーラはものごとに対して単純で、直截的な視点と思慮のほかにもつことがなかった。これはゲーラという男の本質であり、彼がおろかだから、学がないから、短絡的なのではなく、単純に性質と相性の問題だろうとこともなげに言ったのはゲーラのボスであり、だれよりもつよい悲哀と、悔恨に眸をゆらしているリオ・フォーティアだった。たしかに彼には���がある、うつくしい姿があり、よく通る、こんな時季でさえなかったら大衆に愛されたに違いない声音と、華奢で痩せぎすの身体からはまるで想像もつかないような機敏な動き、望んで選んだとはいえども追われる立場にあって、どこか洗練され、高度に教え仕込まれたであろう所作があった。では、ゲーラはリオの、なにを愛したか? なにがリオに恭順する人生を選ばせたのか? もしひとつだけ選ぶとするならば、彼のことばをきいたからだ。
 バーニッシュとして生きることは容易ではない。ましてや、資質が高いがゆえに、テロリスト組織として、自らにマッドバーニッシュを名乗り、大々的に暴れまわって顕示するようなやりかたでは、命がいくらあっても足らないだろう。そのうえリオは、『バーニッシュは人を殺さない』とまで自らと、部下たちに誓いを立てさせたので、ただ叛逆者であれば良いのとは、また違う難しさがあった。人として生き、人の誇りを持つ。人間を愛しながら、しかし、彼らにささやきかけてくる焔に、耳を傾けてやるのも忘れはしない。焔はぼくらの一部だ、とリオは言ったが、おなじく焔に愛されたものたち、リオを慕ってあつまったものや、身を潜めて暮らす安寧を求めてきたものたちだって、リオにとっては焔であるのに違いない。ゲーラも彼の、焔の一部であろうと思った。それだけのことだ。おなじくマッドバーニッシュの幹部でもあり、リオのもう片腕とも呼ぶべきメイスからは、ゲーラの短慮さ、軽薄さをしばしばたしなめられはするものの、彼がおろかだからといって、肩をすくめはしてもいからせはしなかった。
 バーニッシュの焔が、人類がこれまでに手にした焔とまるきりちがうものであることは、確かめるまでもなく明らかであった。どこからきたのか、どこかへむかうのか、それすら定かではない。明日をも知れぬ逃亡者の身分でありながら、自らがなぜ追われるのかすら理解できない子どもなどをみるとこころが痛む。突然変異である、との見解がいまのところいちばん正解に近いようだ。そしてその変異はいまのところ、焔を噴き出してはじめて発見される。生まれつきのものもあれば、ほかのバーニッシュたちの焔に触れ、その才覚を目覚めさせるものもあるのだ。焔をあやつること、その規模は、個人の資質によるところが大きいが、リオがそうであるように、子どもの姿であるからといって、けして弱くはなく、学ぶ機会をあたえられるのであれば、ともすれば皆が皆、兵士たり得るのかもしれなかった。実際にリオのそばにあって、ゲーラの力も増しているような気さえする。単純に、指向性が定まった、それだけの話かもしれないが。
 収容所で再会した、包帯まみれの少女をバーニッシュにしたのは、まちがいなく誰か他のもの、しかも高い確率で、ゲーラ自身を含む過激派の起こしたバーニッシュ火災の最中であった。彼女自身は逃げ惑うばかりで、火災の発端となったわけではなかったし、犯人として断罪されるまえに仲間として迎え入れたのも記憶に新しい。けれどもほんの些細な油断が彼女を奪い去り、わかく健康的な女でしかないはずの彼女を切り刻む運命がおとずれた。もうほとんど光を宿していない腕がそれ��もなにかを求めるように差し出され、あえかの吐息のうちに、なぜ、と呟いた声を、きっと忘れはしない。収監されたバーニッシュたちはその焔の顕現を感知して瞬間凍結させる特殊な手枷を嵌められていたが、弱りきり、死を待つだけにおもえた彼女には、それすら嵌められておらず、しかしもはや、彼女からは焔がほぼ失われていた。焔だけが彼女を生かしえた。胸のうちにともる、孤独な船乗りたちが目指す灯台のような、譬え話でなく、純粋に、いきてゆく意思である以上に、焔によって彼らは自らに鎧をまとい、自在に疾るバイクをうみだし、きくところによれば失われた手足さえ復元しえるという。ただしそれも、十分に腹が満たされ、からだがあたためられ、リオのいう焔の声に耳を傾けられるだけの精神が残されていればの話である。火を熾しからだをあたためるだけでなく、いくらかの、人数にたいしてはささやかすぎる量の食事を摂りながら、注がれたスープをそっと吹き冷まして啜るこどもの頬に朱がわずかにさすのをたしかめた。こどもたちは大丈夫だ。問題は、火のそばに横たえられはしたものの、食事どころか、白湯のひとくちさえも口にできないまで弱りきった少女であった。おそらく彼女はもうもつまい、とだれもが思った。吐息だけがしずかな洞窟に、さらに耳をそばだてなければならないほど小さく反響していたが、ほぼ胸の上下することもなし、からだの奥までゆきとどいていないことはあきらかであった。がんばれ、シーマ、がんばれと手をとり、名を呼び、懇願するようにして膝をつくリオ・フォーティアに、彼女を奪われたゲーラの失態をいっそ責め立てられたかった。我らがボスが言うはずもない! バーニッシュを人とも思わぬクレイ・フォーサイトを罵りはしても、仲間を譏るなど。車の手配を頼まれてメイスとともに場を離れながら、ゲーラは思った。きっと彼女は、自分たちが戻るまえに、ここで灰になるだろう。リオなら、あるいは、きっと、彼なら、その身に宿った焔を、少女へ分け与えてやることさえ躊躇わないに違いないが、シーマにはその焔すら受け容れられるまい! からだも、こころも。外は日も落ち、洞窟は狭い。けれども、彼女の目にはもはやなにも映っていないのは、暗さのゆえではない。せめて幸福な白昼夢を彼女がみるといい。月の土地を売るような、いっそ不可能な約束のような、詐欺まがいの行為ではあるものの、祈りはささげるほかにない。うつくしく、いっそ少女のように繊細でいてだれよりも猛っているリオが、最期にシーマの手を取るだろう。
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jitterbugs-prma · 3 years ago
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外つ国 Dragon Slayer.
 
 
 悪い夢に魘され続けているようだ、目が覚めたらすべてが夜の重たいとばりとともにすぎさって、いっそどんな夢であったのかさえも忘れ、安寧な朝を迎えることができるような、と口にしたのは誰だっただろうか。まさか自分自身のはずはあるまい、クレイ・フォーサイトは考えた。バーニッシュの出現と、存在によって惹起される物事のすべてが悪夢であれば良いという誰かの虫の良すぎる錯覚、あるいは懇願が、集団幻想のように、いっそ新しい、得体の知れない宗教的ななにかのように、人々へ拡がっていったのならどんなにか良かったか。実際のところ拡散されていったのは恐慌であり、災害であった。なすすべもないものに対して人間が抱くものは忌避か、そうでなければ畏怖である。世界の勢力図すら塗り替えかねない変化は、気づかれるとともに、彼らへ促した、すなわち、恭順すべきか、排除すべきか、黙殺すべきか、���ある。クレイはひとりの研究者、ひとりの学徒として、この新しい人類とも呼び得るバーニッシュの出現に際し、いくらかべつの視点と知見を得、そして、一発の銃弾によって永遠に眠らせてしまった、ただふたり知り得た師の口を塞ぐことで。死人に口なしとはよく言ったものである。如何なる知見も、真理も、未到達のまま、民衆にただしく理解されぬままにあれば、ひらかれていないのと何らの変わりもない。扉はあるか? ひらかれているか。目を瞑ったままの人間には見つけることさえかなわない。クレイ・フォーサイトはその細い目をたしかにひらいて、それをみた。自分以外のなにものかがたどりつき、それを見るまでの間、沈黙を守ることではなく、誰かの瞳がひらきかけるたびに、撃ち殺すことを選んだが。
 一面にぶちまけられた焔のまぶしさに眩みかけてひととき蹈鞴を踏んだ、までの、ことだ、焔はかつて、地を舐め、這い、のたうち、蔓延るものであった。それがどうだ、今となっては、つよい意思と感情を使いこなすバーニッシュの人々の手にあれば、けして制御できないものではなくなったはずだった。ただし、それはあくまでもつよいものだけに許された特権であり、みずからの焔を御しそびれて命を落とすもの、また、己れがバーニッシュであるとの事実を許容できないものにとっては、焔そのものから向けられているとしか思われない破壊衝動に打ち克つ精神力を期待するのは酷というものだろう。ましてやクレイは、バーニッシュたちの焔が、生命体プロメアの、存在の末端にすぎないことを知っており、みずからもまたバーニッシュとして、御しかねた焔のために隻腕となり、アパルトメントの数棟を焼き払った恥ずべき過去がある。師デウスを射殺したようには、事実を隠蔽するのは容易でなかった。このとき偶然にも生き延びた少年が、彼を火事から救いだしたと信じ込み、竜殺しの英雄譚の主人公にしたからだ。このあとも、長いこと彼にとって、ファブニルの血を受けることのできなかった背中、菩提樹の葉の一枚だ!  ガロ・ティモスという少年は。
 ガロは忌々しくもクレイを英雄と崇め、疑うことなく長じていった。クレイもまた、彼を救った功績と、師より奪いとった知見、そして発明たちのお陰で、華々しい順風満帆な人生を歩んでいるかにみられてきた。彼は汚点であるとともに、クレイの、けして秘せられない、みずから手を下すことのできない、恐るべきもののひとつとしてそこにあった。プロメアによる燃焼本能がクレイを昂らせ、その制御に躍起になるたびに、あの日だきすくめた少年ガロの眸が、かつて見、見られ、居竦まれ矯めつ眇めつ、クレイこそが善良で優秀な右腕たりえる、信頼できると確信に至ることのできなかった師デウスの眸でないことを冷静かつ斜にかまえて判断。死んだ男のことを考えるべきではない! 時間は有限、男を殺したのは間違いなくクレイであるが。
 自らもまた醜い突然変異として、バーニッシュの発作をみとめたときから、すくなくとも斯く有る可しに従順に努めようと考えるひたむきさは彼のうちから失われたし、善い行いを積んだところで拓かれる路もなければ救いもないという確信が、倫理観に反する、人道に悖ると後ろ指をさされかねない人体実験の強行まで、あるがままに実行している次第である。膝を折り瞼を伏せて、無限とも思われる幽遠にして深遠のかなたへ坐すものたちのために生きてやるつもりなど毛頭なく、彼は、クレイ・フォーサイトは、誰よりも自分自身のための英雄でなければならなかった。
 タイムリミットはあとたったの半年後に迫っている。人類の生存の可能性を模索し、星間航行船をほぼ完成させるところまでこぎつけるのに払う犠牲など、いくらあっても足りなかった。ガロ・ティモスや、ましてや妹の生存へのつよい執着のために明晰な頭脳と、わかい女の盛りを捧げることに躊躇いのないエリス・アルデビッド、あるいは移民団に選ばれた一万の市民、そんなものたちの英雄になるつもりさえなかった。クレイ・フォーサイトは、自分自身の英雄であり、救済にひたはしるばかりのひとりの男にすぎない。都市をつくった? 少年を救った? 慰霊祭へおもむき、犠牲者のために祈った? それがなんだというのだ。なにひとつとして、クレイのなかにくすぶり反響するプロメアの囁きから、彼の耳を塞いではくれなかった。それはときに泣き喚く赤児の叫喚だ、そうして、わけもわからず、理由なくわらう嬌声だ。金属同士が擦れ合い火花を散らす摩擦の不快だ。小さかった声はいつまでもいつまでも反響し、クレイ・フォーサイトは、荘厳な音楽をかなでるためにつくられた、天をも衝くパイプオルガンの内側に閉じ込められたも同然である。耳鳴りはしない。この音は鼓膜を揺らしはしない。しかし、はらわたのなかに、いつまでもある。孕んだ女が愬える悪阻なるものに近いかもしれないが、産み落とせばおわる女とちがってクレイには終わりがない。親切で善良な為政者として、竜殺しのフリをし、菩提樹の葉におびえ、ガロ・ティモスを疎んじている。彼の功績を讃えようと民衆へ演説しながら、警備の厳重な自分ではなく、ふらりと街中をあるくでさえも勲章を胸にひけらかす男を狙うような悪漢の出現を願いさえした。ここにあらたなる英雄がうまれた。易々とクレイのようには行かずとも、名が知れわたり、民衆をあつめ、力��けてゆくであろう男がまたひとり。さあ! 暗殺者よ! この額を撃ち抜くがいい、いまだ焔の囁きを知らないガロ・ティモスを。
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「おまえは目障りなやつだったよ。」
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jitterbugs-prma · 3 years ago
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しろがねをたなごころに polka dots and moonbeams.
 レミー・プグーナの日常は単調だ。そうでなくとも繰り返される日々の中で人間は慣れ、飽き、倦んでゆくきらいのある生き物ではあるが、それにしたって、日々とはこれほどまでに単調なものであったのかとさえ思える。もっとも、単調であるからといって、けして平穏であるとは言い難いのが悩ましいところで、ある、彼はこのプロメポリスという都市に点在しているバーニングレスキューの部隊の一員であり、都市と、社会の構造からいえば一公務員であるといえる。30年! たったの30年だ。レミーが未だに胎児ですらなかったころ、世界はその姿を1日にして塗りかえた。自由自在に身体から焔を取り出しては形さえも与えて支配するバーニッシュたちの出現である。彼らは一見してまるきり我々と同じ姿をしている。詳しくは知らないが、おそらく、彼らと、レミーとのあいだに、遺伝子的、身体的、感情的に、大きな違いなどないだろう。知らなければレミーは彼ら(彼は異性愛者であるので、彼女らと称するのが相応しいと思われるが)と愛し合えさえするだろう。愛の証明のすべてが、キスや抱き合うことにあるとは、錯覚にもかんがえたことがないが。
 バーニッシュたちのなかにも力の有意差があって、つよい焔、よわい焔の違いはあるらしいが、それがその人間の人格あるいは体格等に左右されるのでないらしいことは確かめられている。レミーが痩せ型で、同僚のバリスがよく馬鹿力と揶揄される筋肉質の大男だからといって、彼らがもしもバーニッシュたりえたとき、バリスのほうがつよい焔を宿すとは限らない。研究はさかんに続けられているときくが、おおくの物事は極秘事項であり、末端の市民にすぎないレミーの耳に入る情報などたかがしれていた。情報は高度に、精密に、そして意図的に操作されている。大衆の知り得ることなど上澄みにすぎず、そしてレミーはそのほか大勢の、特権階級でない大衆の一人であり、巧妙に目隠しされていることに気付きながら生活をしている。
ひとつ。バーニッシュは突然変異である。それは人間の誕生時に定められるものではなく、成長してからバーニッシュとしての変異を顕すものもあるときく。望むと望まざるとにかかわらず、家族や、恋人や、同僚のだれかがバーニッシュであることを隠しているかもしれないし、ある日とつぜんに、焔が宿るかも分からない。
 ひとつ。彼ら��あいだにもあやつれる焔の大きさ、つよさの差異がある。多くの場合、とくに、30年まえはじめてバーニッシュがあらわれたとき、焔は情緒的な変化、とくに怒りや恐怖といった負の感情に付随して顕現したときくが、かならずしもそれだけがトリガーたりえるのではない。
 ひとつ。バーニッシュたちの操る、まるで意思あるとしか思えない、質量と自在の挙動をもつ焔に対して、通常の火災消火装備や設備は無力である。ほぼ唯一の対抗手段である瞬間凍結弾や、装甲などは特許、そして特権としてフォーサイト財団と彼のプロメポリスにみとめられゆるされている。レミーもその恩恵を受ける末端である。
 ひとつ。バーニッシュは遺伝しない。しかし、バーニッシュであるとみとめられたものは性質と力のつよさ、また老若男女の問わずに危険因子としてみとめられ、フリーズ・フォースなるプロメポリスの重装備機動部隊によって拘束されるので、バーニッシュ同士の婚姻はおろか、混血児すら生まれえない、ということになっている。拘束された人々がどこに連れていかれるのか、うっすらと知識はあるが確信はなかった。フリーズ・フォースも表向きは都市に所属する特殊部隊ではあるものの、対バーニッシュ研究の第一人者であり、フリーズ・フォースのみならずレミーたちバーニング・レスキューに支給されている対バーニッシュ装備のほぼすべての発明と特許を取得しているフォーサイト財団の代表にしてこの都市の司政官であるクレイ・フォーサイトの私兵的な側面をかなり強くもっていることは誰の目にもあきらかであるし、フリーズ・フォースの部隊長であるヴァルカン大佐と、バーニング・レスキューの上司でもあるイグニスとのあいだの、並々ならぬ因縁めいたやりとりを、レミーは何度も見てきた。彼らは軍隊であり、我々はあくまでも一公務員である。レミーにも好奇心はある。彼なりの正義感もあれば、恐怖もあり、倫理観もある。いつ起こるともしれない災害が、何食わぬ顔をしてとなりに座っているとすれば、たしかに脅威である。況んや戦争さえ勃発しかねない時代を、社会はまだ超えたばかりであるし、とくにつよい焔をあやつりテロル行為を繰り返しているマッドバーニッシュのリーダーを筆頭とした残党は未だどこかに潜んでいるそうだ。もっとも、警戒すべきなのは、力をむやみに振り翳す者たちであって、それそのも���に悪はない。ただ、体質としてのバーニッシュを嫌悪する感情まではなかった。
 バーニング・レスキューは公務員だが、安定した職業かといえば答えはノーだろう。支給される耐火装備は旧式であり、殉死率も高く、レミーもずいぶん古株になった。彼よりあとに配属され、彼よりさきに去った者もある。もし少しでも一般の職業との違いがあるとすれば、それはフルネームで名乗る癖がつきがちなことだった。通信機器ごしの会話は、カメラが実装されているから表情を確認することも可能だが、点呼にこたえる際に名乗ることがあるからだ。なんとなく、としか言いようのない癖ではある。非番はあるが、かといって完全に自由気ままな時間というわけにゆかないし、職場の同僚たちと顔をつき合わせてほんのささやかな焼きたてピザを楽しむ時間ですらも憩いになるくらいだ。レミーにとっては後輩にあたり、同僚内での評価は満場一致の『馬鹿』であるガロ・ティモスにもイグニスが口を酸っぱくして教え諭したものだが、チームワークと機動性が重要視される彼らの消防活動において、同僚との関係が良好であることは僥倖である。文字通り背中と命を預けるにあたって、ガロの『馬鹿』加減ははじめこそ懸案事項ではあったものの、無茶はしても無理はせず、ときおりみせる機転と発想には少なからずハッとさせられる部分もある。ただあまりにも『馬鹿』の割合が大きすぎるので、もっぱら仲間内での彼の評価が向上していくことがないのは、不遇といえばいいのか、不憫といえばいいのか分かりかねた。ガロ自身はあまり気にした風ではないのが面白いといえば面白い。彼は長いこと『馬鹿』をやってきたのだろう。けして道化としてではなく、彼なりの生き方のひとつとして。それを不器用だと嘲笑することはできかね、また、愚かだと断定できるほど、彼を知らなかった。
 休みらしい休みはない。家族よりも同僚とともに過ごす時間のほうが長いし、家に帰ることすら稀だ。友人がないとは言わないが彼らとの関係は必然的に稀薄になる。仕事は当然ながら危険を伴うし、災害現場へ飛び込んでいくバーニング・レスキューの装備は旧式だと揶揄したのはヴァルカン大佐だ。耐火装甲として作られてはいるものの、たしかに、肌をあらわにしている部分もあるし、砲台にも似た装置で、燃え盛る建物の中へ撃ち込まれるさまは、いっそ大砲に弾丸として詰め込まれるのと大差がない。バーニッシュたちへ向けられる蔑視を何度も目の当たりにし、実際に相対した彼らとの違和感を感じることもあるが、それでも仕事に不満はなかった。火事は火事だ、とは自称『火消し馬鹿』ガロ・ティモスの言である。彼がどうやら傾倒しているらしい極東の島国にはかつて、火事と喧嘩は江戸の華、という慣用句まであったときくから、人間にとって、本来、焔とはそれほど忌避すべきものではなかったはずだ。命を奪うのはなにも焔だけではなく、バーニッシュだけでも、ない、ひとを死に至らしむるものは! レミーはある意味で妥協し、ある意味で諦観していたともいえよう。焼きたてのピザの香味をたのしみ、同僚と和気藹々と過ごしもすれば、けして美味とは言えないインスタント・コーヒーを飲むこともある。すべてがすべて最良のもの、最善のものだけで、日常を形作ることは、おそらく誰にとっても難しいだろう。地位のあるもの、金のあるものにとってだって、むしろ、そのゆえに失われる自由もたくさんあることだろう。小市民であるレミーには想像もつかないことではあるが、街中のいたるところに張り巡らせられたフォーサイト財団の広告や、スクリーンに映るクレイ・フォーサイト司政官の、慈善や、弁論、先日のガロへの勲章授与の式典のようすなどの目まぐるしいほどに移り変わる姿は、彼の分刻み、いっそ秒刻みのスケジューリングさえも予測され、不自由極まりないことだろう。だれしもに捕らわれた檻がある。大小や、��機の違いはもちろんのこと、本人の意思を汲まない束縛も、もちろんある。クレイ・フォーサイトを、ガロ・ティモスを、英雄と呼ぶ人がいるように、もしかしたら名前までもは知らずともバーニング・レスキューを英雄と信じる人もあるかもわからない。レミー自身はクレイのこともガロのことも崇拝したりはしないが、正義や、信念や、欲求はどこにでもあり、どこにもない。30年前の大災害を超えてなおも人類の営みは続いている、ただ、それだけが、こたえだ。今日もレミー・プグーナはトリガーを握り、バーニッシュのそれには及ばないかも分からないが、ダイヤモンド・ダストのさまでうつくしく砕け散る白銀を撃ち出しつづける。
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jitterbugs-prma · 3 years ago
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ライラはうまく踊れない Waltz for Debby.
アルデビッド姉妹
エリス・アルデビッドは天才である、ジーニアス、クレバー、クール、あらゆるすべての称賛は、物心がついたころから彼女のものだった。あるいはギフト、と呼ばれうるものであったかもわからない。30年まえに未曾有の大災害を引き起こした原因不明の人体発火現象と、変異、すなわちそのからだを造り替えられる、意思とは無関係の、いっそ無慈悲にさえ思える神の所業を奇跡というのであれば、エリスもまた、与えられた側のにんげんである。焔に撒かれ、なおも死を迎えることなしに鮮烈に生きる人々を、科学者たちはバーニッシュと呼称した。ひとくちに科学とまとめたところで、その詳細は多岐にわたることだろう。なかでもエリス・アルデビッドが得手としていたのは空間力学、人類がはじめて月へ到達し、あの偉大なる一歩を遺してからまだ幾世紀にもならないが、彼女の才覚を能く評価した出資者が、さらなる深遠、星間航行の技術を実用化へむすびつけるべく、エリスをそちらのチームへ起用した。異例の若さだ、と周囲は言った、エリスはたしかに若かった! 彼女自身があまり自らの見てくれに頓着するたちではなかったために、ハイネックのシャツも、ひざ丈のタイトスカートも、最低限に切り揃えただけの髪と、視力補正と、永遠に続くかと思われる演算作業のあいだモニタを見つめ続けることへのわずかな抵抗をこころみた丸いフレームのメガネも、もちろん研究者特有の白衣も、野暮ったいとしか言いようのない姿ではあったが。
エリスにさして年の離れない妹のあることは周知の事実であった。やわらかく巻いた髪や、天真爛漫の妹アイナ・アルデビッドとは、じつをいえば目鼻立ちはもちろんのこと、すんなりとした立ち姿や、手足の作りなどもよく似通っており、真っ当に着飾って、少女らしく生きる道がエリスにもあったのなら、彼女もまた、アイナのように過ごしていたのかもわからない。知性と老成とが、必ずしも比例し、もはや切除不可能なまでに癒着しているとはエリスは考えなかったが、わずかにルージュを載せてくちびるにとろけるキャンデーの魅力的なつやめきをつくりだしたり、頰にきらめくパウダーをはたいて、あるいは眦に花の馥りの紅を佩いたりしなくとも、嫩いみずみずしさが、彼女たちから失われるわけではなかった。よく似た姉である自分のぶんまでも妹がかわいらしくふるまい、着飾り、恋をし、鏡にむかって口角をもちあげて微笑みのリハーサルに勤しんでいるとも思っていない。女性らしい可憐さや華やかさを、妹へ担保させるつもりもない。キィ・パネルを叩くためといった実用的な理由からではあるが、きちんと切り揃えられた爪が、同じく救命救助用の飛空艇の操縦桿を握るため、手袋のじゃまにならないよう切り揃えられていることが、エリスとアイナの揃いの矜持でもある。ただ、エリス・アルデビッドは、まちがいなく、アイナ・アルデビッドを愛していた。たんなる近親へ向けるものにしては妄執的にすぎたし、それ以上に、姫君へ向けられる騎士の献身にすら思えるさまは、エリスの知性からもっともかけ離れたものであったともいえる。
エリスの職務は責任と、その正体から、かなりきびしい緘口令が敷かれ、強制力の高い守秘義務とをともなった。もとより友人の多い女ではなかったしおしゃべりでもない。もっとも、禁じられなかったとして、エリスはアイナに話をしなかっただろう、肉親である
彼女にさえも! 彼女を性的に愛したことはない。抱きしめあった妹のからだのやわらかさや、健康的なぬくもり、香水だろうか、あるいはシャンプーだろうか、妹から漂う体熱を、あとさきを考えず檄的に求めたこともない。あくまでも姉であり、母にはなりえず、彼女へ無慈悲の、祝福という名の試練を与えるつもりもなかったし、アイナについて、嫉妬をしたことも、数える程しかない。ふたりのあいだに長らく秘密と呼べるものはなかった。すべてをつまびらかにすることが信頼のあかしや、愛の証明であるとはいえない。対話がもたらす意思の疎通は、おそるべきことに傲慢そのものの、天を衝くバベルの塔を作るべきあつめられた叡智を散らすべく降された鉄槌によって一度は阻まれたものの、いまだ有効な手段であることはたしかだ。近ごろはずいぶん仕事に追われてしまって、妹とのこと対話すら、ままなっていないのが現状ではあるけれども。彼女とはまだ、話すことができる。愛を告げて肩を抱き、微笑んで、エリスの人間の部分のおおくを、思い出すことができる。アイナがファイアレスキューという危険な職業へ従事しているのは、けして推奨されうるものでないが、けれども彼女がたのしそうに語る仕事の話が好きだった。個性豊かな同僚たちや、あたらしく入ったという青年の、どこか時代錯誤の振る舞い��芝居じみた言動そして、相対して耳を傾けるだけでわかるアイナの好意が、その実直な男へベクトルしつつあるのを感じていた。アイナのルージュの色がワントーン明るくなったので。
ところで、物事の善悪を思案の天秤へ掛けるとき、既知のもののほかに、懸案へ組み込むべきものがある。かのアルキメデスは、形を変えることなしに、王冠につかわれた貴金属が、ほんとうに純金であるのかをたしかめるため、水へ沈めたという。地表は平らで、空だけが昼と夜とを移り変わり、まわりのすべてが動いているのだと信じられていた時代があった。エリス・アルデビッドの世界もまた、ぐるぐると目まぐるしくまわりながら彼女を取り巻いている。
きっとわたしまだ、と彼女は思った、感じた、考えた。直属の上司にあたるクレイ・フォーサイトを裏切ったときから、エリスは叛逆者であった。追ってくるのは対バーニッシュテロリストの特別部隊、フリーズフォースのリーダーのヴァルカン大佐だ。勝ち目はない。もう何も恐れることなどないのだと、誰かが嘯いて、あるいは鼓舞するように口にしたのを耳にしたが、聞き咎める気にはならなかった。それがうつくしい声でも、醜くとも、穏やかでも烈しくても、自分のものでないこと以外に評価すべき点はない。もしもアイナのものであったなら、耳を欹てたかもしれないが。物事はなべて、自らのうちより惹起させられたものであるか、さもなくば、他人より提示されたものであるかのどちらかでしかなく、稀に、善い隣人からのそれは譲渡や奉仕のかたちをとることがある。エリスにとって長いこと善い隣人は微笑んだクレイ・フォーサイトの貌をしていた。彼はあの研究室で、ガロ・ティモスへ、左手の拳を撃ちつけた時点で消え去った。
誰かの意志を借り指標として歩むのはとてもやさしい、一切の思考をやめ、躊躇を廃し、靴音は高い。道はすでに整えられ、燭に火を入れて、群がっている羽のあるなし有象無象の群舞を横目に黙殺しながら、ただの一歩を踏みしめるだけでよい。雖も、一歩を踏むさえ困難にする厄介な性質が附与されている者もあるにはあるので一概には言えるまいが。少なくとも彼女にとっては、許されて自ずから発散し乗算されてゆく物事は歓迎すべきであったといえる。なまえを持ち、正しく戸を叩き、誰かの投影した夢想でなしに生身のままで他人のまえへ晒されるとき、何一つ損なわれるものなどない。わたしはエリス・アルデビッド。叛逆者の末路は愚かだ。逃げ惑い、緊急用のハッチをこじ開けて登りつめた甲板にすさぶ風は、彼女の夜明けの鴇色の髪や、切らした息や、はためいている白衣の重たさ、エリスの四肢をなぶりいまにも墜落を促していたが、怯えたり、不快を顕わにしてわざわざ知らせてやる気もなかったので、極力、つとめて平静を装ってみせたかったが、さすがに見下ろした街々の、崩壊したさまと吹き上げる風に足がすくんでたたらを踏んだ。バカなことをしたものだ、もう逃げ場��ないぞとヴァルカンが不快な笑みを浮かべたが、男は勘違いしている。逃げ場など初めからどこに存在しない。目を背けていただけだ。そうして、エリスの視界の端で愛が光った! 躊躇いは消え、恐怖は疾っくに、エリスから去っている。あやまたず彼女は舞った。そんなことができるはずがないって? エリス・アルデビッドだって、アイナ・アルデビッドの姉なのだ。
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jitterbugs-prma · 3 years ago
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空せ視・乖離・劫火の日 LIO brûle-t-il?
リオ・フォーティアは泣かずに産まれた。人類の突然変異、ありとあらゆる場所から噴き出す質量のある焔がいとも容易く人々の営みを奪ってからまだ一世紀も経たない。傷口はふかく、培われてきた文化と知性が失われたとはいえるまいが、すくなくとも、焔を得たものと、得なかったもの、それらのあいだには明確な格差が生まれた。バーニッシュ、と称されたミュータントからもたらされる焔は熱のあるばかりではなく、感情の高ぶりに応じて自在にかたちをかえ、うねり、肉體を守る鎧でありさえした。たった30年。人類がなべて平穏と復興を成し遂げるには、短すぎる、かろうじて時代と呼べはしても。
一世代だ。知識としては知っていても、全世界で同時に勃発したあの焔を目の当たりにしていない子どもたちが生まれ、育ち、殖えていった。保守的な平和主義者は、あらゆるバーニッシュを、生ける災害、雑踏に紛れる脅威であり、ゆるされざる隣人であると声高に叫ぶが、しかし同じだけ、バーニッシュたちにも反論があった。メイン・ストリートはプラカードとあざやかな焔であふれ、さらにはおそるべきことに、このあたらしい焔は、単なる水をふきかけたり、酸素を奪ったところで、やすやすと燃え尽きることはなかった。
これらの脅威を鎮めるため、かれらの焔をよく識らんとし、バーニッシュフレアの燃焼、あるいは感情そのものをさえも凍結させかねない技術を開発した研究者たちの尽力あってのことだった。激化するデモに人々は畏怖し、疲弊していた。氷の弾丸が実用化に至ったとき、同時に粛清もずいぶんあった。いくらバーニッシュといえども、あやつれる焔のつよさ、おおきさに差異があることは明らかで、あったが、しかしそれが、焔や感情の御し難さを超えられる精神構造によって巧妙に隠されたのでないことを、確かめるすべはなかった。ただタバコの先へ火種をともしたり、つきかけた暖炉の燠を保ったり、凍える夜に擦ったマッチで夢をみた少女のようなささやかな焔もあれば、常に温泉を噴き出し続ける活火山のようなそれもあった。強靭な焔が、かならずしも強靭な精神に宿るとはいえないが、しかし精神が未熟であるなら��、己の焔に喰い殺されるのも致し方ないことではあった。ましてや赤児に、理知など望むべくもないので、かれらが生まれ落ちた瞬間に、たったふたつしかない快と不快のどちらの感情をなすのかによって、悲劇はしばしばもたらされた。子どもは泣くのが仕事だという人があるが、バーニッシュに至ってはその限りではない。ながらく胎児としてはぐくまれ、いまやっと人間として産声をあげる赤児が、その抗いがたい宿縁のために、なにひとつとして罪を犯さぬままに、おのれこそを劫火として燃えさかるなど、あまりに不遇であろう。
バーニッシュは突然変異である。両親がそうでないからといって、子どもがバーニッシュに生まれつかぬとは神すら知らない。かつて子を産む母親は、産後の肥立ちのわるさや、おおいなる苦痛を伴う数時間のために、しばしば命の危機にさらされたという。バーニッシュがあらわれてからは、それはさらに明白な脅威となった。リオを産み落とした女は、生まれた息子が産声をあげていないことを悲しむべきなのか、かれの産声によって焼き殺されていたであろうおのれの幸運を喜ぶべきであるのか、朦朧とする意識の中でおもったはずだ。立ち会ったリオの父親、医師、そうして産婆も、このしずかな子どもに火をつけて泣かせるべきなのか、躊躇っていた。
その時点ではリオ・フォーティアに、類稀なるバーニッシュとしての才覚が宿っていることを、だれも思ってやしなかったが、子どもがひとりうまれるたびに、それがただしく愛しえる我が子であるのか、はたまた怖ろしいバーニッシュであるのかを、すべての両親は考えなければならなかったし、実際問題、たくさんの女が、ソドムもゴモラもしらぬ無辜のままに焼きつくされて身体を失った。あるいは、バーニッシュたちに科せられたはじめの罪は、母親殺しであったかもわからない。もっとも、バーニッシュのすべてがうまれつき焔使いだというわけでもない。脅威なるものと判断され、迫害され、国を、街を、社会を放逐されてさまよいながら身を寄せ合う中には、人間でありながらバーニッシュの親となり、しかし育てた期間に抱いた情のためにはなれがたく、かれらのスラムに寄せたものもある。リオは母親を殺さなかったはずだが、彼女の行方は杳としてしれず、いまのリオの立場を思えば、再会が必ずしも、幸いをもたらすとは思えなかった。ただ自分を産んだだけの女だなどと揶揄するつもりはないが、それ以上を求めるのもまた、酷であるとわかっていた。生きているにしろ、死んでいるにしろ、彼女へ手向ける花の一輪すら、リオ・フォーティアには持ち合わせがない。
いまやマッドバーニッシュのリーダーにして、ほぼ唯一の生き残りであり、うごめく焔の化身、権化でもあるリオ・フォーティアは泣かずに生まれたが、しかしけして死んではいなかった。過激派テロリスト集団として平穏に仇なし、大災害を逃れてなおも復興しつつある大都市プロメポリスとその司政官クレイ・フォーサイトからは、異分子として、異端者として、また、低俗で、あるいは家畜や奴隷のような扱いをされてきた。クレイがバーニッシュたちを捉えては非人道的な人体実験に手を出していることは、善良で無知、嘆きにすら忘却と鈍感を適応しようとしつつある���民たちには巧妙に隠されている。目を瞑り、耳を塞ぎ、思考を閉じて、ただ自分の置かれているさなかになにが起きているのかだけを見つめて生きて行くのであれば、プロメポリス市民より幸福なものはないだろう。多くが死んだ。ひとり殺せば殺人である。しかし、100万を弑するのであれば、それは叡智と、勇気に満ちた、征服者の英雄の仕事になると語ったのは一兵卒から皇帝にまでものぼりつめた男の言葉だったというが、末路は悲惨なものだったと、歴史は語る。歴史が暴虐をほろぼすのを悠長に待っているつもりはなかった。爭いは、けして推奨されるべきではなく、バーニッシュであろうが、人間であろうが、死は等しくおとずれ、遺されたものへふかいかなしみの十字架をつきたてるものだ。それが、だれかの、たとえば、このリオ・フォーティアの、手によるものであってはいけない。彼にも感情がある。激情がある。辺り構わず喚き散らしたい慟哭が、身体の中で渦を巻くとともに、うまれたころから頻りに話しかけてきた焔の子どもたちの無邪気な声にも、リオはやさしく耳をかたむけ、必要とあらば、かれらのための子守唄や、鎮魂歌すら、口遊む用意があった。焔たちの声が、大人なのか、子どもなのか、男なのか、女のかさえ断言できかねたものの、いちばんはじめにできたリオの友人であることだけたしかで、ある。焔の彼らに湿った涙は天敵だ。ますますリオは泣かなくなった。
迫害されたバーニッシュには、ささやかな日々すらも難しい。腹いっぱいに食らうどころか、新鮮で清潔な食べ物を手にするさえも困難を伴う。彼らにとって、不幸の源である、みずからのうちの焔だけが、たがいの身体を寄せ合いさえすれば、凍える夜だけは免れることができた! 恋人同士が身を寄せあよりも確実に。煌々と燃えさかる焚き火を囲みながら、いつのものとも知れない缶詰の保存食を開け、お世辞にもうまいといえないものを流し込みながら、身体を、いのちを、燃やす焔に薪をくべる作業をしている。遅かれ早かれ見つかる危懼を考えないほど、リオも、メイスも、ゲーラも、愚かではなかったので、これはあくまでも、かれらに人間らしき心地を取り戻させるためだけに饗された宴でもあった。いちぶの厄介な闖入者であるガロ・ティモスを、あやまたず一撃で脳震盪をさそい気絶せしめたのはリオの手刀の一閃である。ガロということ男は、知性があるのに思慮のないのではないか、という不秩序を持っている。火消しを稼業、あるいは生き様と決めて、纏なる旗印を振り回している時には、考えなしのようで理性と冷静さを持ち合わせているようにも思えたのに、武器を備えているとはいえどもただひとりでバーニッシュたちが隠れ潜む洞窟のなかへ這入りこんでくるうえに、気配を絶ったリオに背後を取られるような、間の抜けたところがある。人間がただの一枚岩でないこと、熱情にばかり燃え盛っている男にも哀愁のたぐいがあることを否定はしないが、敵ながら呆れて肩をすくめ���始末である。そのうえ、きちんと名乗ってすらやったというのに覚えも悪い。リオ・フォーティアだ。一度聞いたら覚えろ。吐き捨てて、ガロが揶揄して云った、プロメアも飯を食うのか?という発言に、リオは眦を釣り上げ瞳孔をわずかに開いたが、嘆息や、罵声の代わりに立てたゆびさきを振るだけで、リオの焔が、ガロの頰のすぐそばに迸った。ランプに入れるような、遠くの船や飛行機にしめすような、灯台のあかりや、明け方に地平すれすれにほとんど墜落しそうなたかさでみられる明星のルシファーのような焔だ。マッドバーニッシュはけして人間を殺さない。これこそが誇りだ、と語りながら、リオは立てた片膝を崩した。焚き火を囲む面々には、幼な子もあれば、傷ついたものもある。ほとんど逆光になったリオのととのった白皙のかんばせのなかで、フローライトの紫と、温度のないグリーンの眸だけが燦々と鳴り響いていた。あの眸をくべたなら、激しく音を立てて燃えるだろう。ガロが、あくまでも少年のなりであり、単なる少年よりもよほどうつくしい造作のリオの面ざしやほっそりとした体躯をあなどっているでないことは、はじめてビルの屋上で剣を交えた時からわかっていた。焔によって武装し、鎧をこしらえ、バイクすらもつくりだして機動性を高めても、リオの得手はつるぎのひとふりであった。ガロの一撃によって仮面が打ち砕かれ、わずかのぞいた面差しの幼さに、「なんだまだガキじゃねえか!」と彼は叫んだが、しかしその後にも情け容赦はしなかっただろう。なるほど本人の言う通りに、彼はひとをあいしている。彼のひととなりについて多くは知らないが、リオを捕縛せしめ、救国の大英雄として与えられた勲章を、正装でもない胸元にまでかかげたがる子どもじみたふるまいだけで、ガロの、ひとと、社会、それからそれを作り上げたクレイ・フォーサイトの、表の顔づくりの技量のすばらしさを証明していた。悔しいことだがこちらは若輩である。リオが若輩であることに、ガキじゃねえか、と言われたのは、メイスとゲーラが初めてだったような記憶があった。
いまとなっては腹心の部下としてリオを公にも私にも支え、かれらにも思惑はあろうが、目的と理想の実現のために尽力するメイスとゲーラにとっても、リオがはじめから絶対的なあるじであったわけではない。彼らを、兄であるとも、父であるとも呼ぶのはためらわれる。しばしば軽んじられるのも当然のこと、みずからの幼さが、焔の声を聞き分け、彼らをともだちと呼びえる無垢のあかしでもある、と、リオは考えていた。いまはそれを失うことが恐ろしい。彼を育て、慈しんだ筆頭がマッドバーニッシュ、今もまだリオ自身は彼らを従える統率者であるつもりはないが、力があること、若いこと、見目の麗しいことが、リオをレジスタンスの希望としてうちたてるのに都合が良いのはたしかだった。リオにはそれだけの実力があり、恥じらって話題に上らせるのすら嫌がるが、メイスなどはリオに力比べを挑んで悉く歯などたたずに敗れ去ったことすらある。「あなたさえいればマッドバーニッシュの焔は絶えない!」「ボスの焔はサイキョーだかんな!」叫んでみずからを壁となし、襲いくる粛清の氷から、狡猾で卑劣な策略に嵌められて身動き取れず、死を待つのみのリーダーを逃すかれらの末路は、想像するにかたくない。リオは彼らを振り向いたのに、しかし、塩の柱にならなかった。あるいはなったのかもわからない。火口の中で、荒れ狂うマグマが彼を救うべく、氷を砕き、熱をあたえた。幼い日々から慣れ親しんだ、リオのさいしょのともだちが、彼に死を与えなかった。与えられたくもなかったが。まだ聞こえる! まだ、彼らはリオのともだちでいる。
力あるものをボスとすると、だれかが決めたのではなかった。けれどもリオには、それが自然のように思えた。彼には力があった。つよくうつくしい焔があった。しかし、それがなかったとして、偽りの偶像でもよい、白百合の旗を掲げてだれよりさきに先陣をかけた天啓の処女であっても満足していた! すなわち、自分がマッドバーニッシュのアイコンたり得ることに。
視界のそこかしこで、見知った焔が噴き出しては滾っていた。意思を持ち、腕を持ち、それでも障害物と呼べる摩天楼群たちをつらきぬきおるような横暴でなく、怒れるリオ・フォーティアの焔が、龍の姿をなしてプロメロリスの街を焼く。ヤマタノオロチの伝承を擬えるのであれば、オロチとは、氾濫した大河姿であり、その都度流れを変え、土地を抉って砕き、営みを圧倒的な力で作り変えてきた。しかし焔はどうだろう。リオ自身の矜持がまだ、だれひとりとして殺してはいない、あれほど憎んだヴァルカン大佐や、悪逆非道の限りを尽くし、すべてのバーニッシュに対して異様なまでの憎しみを募らせては人道に悖る実験を繰り返してきたクレイ・フォーサイトにたいしてすら、直截的にはまだ触れられない。世界が焼き尽くされた30年前、リオはまだ胎児ですらなかった。過去を知るものたちは一様に口を閉ざし、かがやく灰となってとけていった。灰となってとけてゆくことを救いだとは、一度だって思わなかった。ガロの、そしてリオの目の前でほどけていった傷だらけの少女は、ほんのわずかであっても、リオから分け与えられた焔のために睫毛を揺らした。彼女、シーマの眸に、すでに光が失われていることは明白であった。それでも彼女は手を伸ばし、リオは応えて手をとった。それしかできないもどかしさが、彼のはらわたを内側からまた灼いたのを、おもった。ひとのかたちをたもってはいるが、この身体の内側は、すでに灰と化して久しいのかもしれない。荒れ狂う龍となり街を蹂躙しながら、はじめての涙を流したが、もはやリオ・フォーティア、涙さえも焔であった。
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特典でメイスとゲーラとの出会い編が出る前にかかなくちゃと思いました。
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