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学問の普及と継受
はじめに ― 一九六九年 ―
筆者は現在、東京大学文学部西洋古典学研究室に所属しているが、この研究室が独立したのは、一九六九年(昭和四四年)のことである(以下、『東京大学百年史 部局史1 文学部』に従う)。もっとも、大学院では既に一九五三年に(駒場に)西洋古典学専門課程がおかれ、また学士課程では一九六三年に文学部第三類(語学文学)の中に西洋古典学専修課程が設けられている。日本の大学の目的が西洋の学問の継受であることを思うと、これらの動きはいかにも遅いという印象を拭えない。もちろん、かのケーベル先生(Raphael von Koeber 一八四八―一九二三)をはじめとして、戦前から西洋古典学の受容は盛んに行われた。詳細は、上記の『東京大学百年史』四〇二―四〇九頁を参照されたい。 ところで、一九六九年という年はどのような年であったか。二〇一一年度の東京大学入学式は東日本大震災のため日本武道館での開催が中止となり別のところで開催されたが、その模様はインターネットで配信された。来賓祝辞の中で久保正彰先生は、西洋古典学研究室の設立と「大学紛争」、特に「安田講堂事件」が同時であったと述べられた。当時、高等教育が大きな曲がり角を迎え、学生運動は全世界的な広がりを見せていた。「西洋古典学(Classics)」という、貴族とは言わないまでも、「ミドル・クラス」以上の階層のための学問の代名詞のように響くこの学問は西洋諸国では「危機」に瀕し、学問の民主化が声高に叫ばれていたころである。その象徴的出来事が、わが国では「安田講堂事件」であった。 この二つの事柄の同時代性をどのように解釈すればよいのか。筆者にはよくわからないが、一つ言えることは、哲学(プラトン・アリストテレス)や歴史学(「アテネの民主制」)は普及していたが、西洋古典学という学問は日本にはまだ遠い存在だったのである。いや、もしかしたら、哲学や歴史学を通じて「古典古代」研究が普及していたゆえに、かもしれない。換言するならば、西洋の学問継受が近代日本の高等教育の目的であるが、少なくとも公教育レベルでは、その過程で宗教(キリスト教)を「脱脂」した。他方、西洋諸学問全体のもう一方の基礎である古典古代の学問遺産は「脱脂」はしなかったが、何かを意識的、無意識的に、「濾過」してきたのではないか。この濾過される前のいわば「原酒」を求めて、筆者は西洋古典学の周辺を三〇年間さまよってきたことになる。オデュッセウスの旅が帰郷の旅だとすると、筆者の旅は離郷の旅である。
法学部研究室と西洋古典学研究室
「生まれながらの古典学者(born classicist)」というのが珍しくないこの学問分野で、筆者のようなギリシア・ラテンの世界に無縁の学生が「本山」に近づいていくには、多くの偶然があった。その中で、特に三人の先生との出会いを忘れることはできない。 「どうぞ。」第一のそれは、ノックに対するこの返事から始まった。本郷に進学して三年生の夏学期(一九七六年)、筆者は法学部教授、片岡輝夫先生の「ローマ法」の演習に参加した。参加者は驚いたことに、私一人であった。後でわかったことだが、ローマ法の演習では一人というのは珍しいことではなかった。この年、先生は病気療養から復帰されたばかりであり、研究室での演習に際して、時々横になられることもあった。ラテン語はおろか、ドイツ語もおぼつかない筆者に対して、先生は実に寛容に、丁寧に接して下さった。当時はローマ法研究の最後の輝きともいえるドイツ語の体系書・研究書が現れた時期であったが、先生は、ごく少数の例外を除いて、それらの研究��向に非常に批判的であった。先生が自らに課していることが、恐ろしいほどに大きく、厳しいものであるということは、学部三年生の筆者でも推測できた。演習の教科書は、フリッツ・シュルツ(Fritz Schluz)の『ローマ法の原理』であった。筆者が最初に知ったローマ法学者がこのシュルツであったことは、筆者の研究関心に決定的な影響を及ぼした。 演習に参加するために、毎週法学部研究室に赴き、受付で誰何され、名前と要件を告げて中に入っていく。最初のうちは極度の緊張を強いられたが、慣れるにつれて次第に職業としての研究者に対するあこがれを抱くようになった。当時、法学部には学卒助手制度があり、地方出身者である筆者には魅力的というよりも、この制度無くしては研究者への道は考えられなかった。学業成績の芳しくない筆者は大学四年生の夏休みに一種のエッセイを書いて、先生の助手にしていただいた。しかし、その後の道がいかに険しいか、筆者は愚かにも知らなかったのである。無知ほど怖いものはない。先述のシュルツの主要研究領域の一つは、古代ローマ法学の学問史・思想史である。その中で筆者が選んだ研究テーマはローマ法学とギリシア・ヘレニズム思想の影響関係である。当然のことながら、ギリシア(語)の勉強の必要性を痛感し、文学部西洋古典学研究室の門をたたくことになった。ところで、シュルツがナチズムの難を逃れて亡命した先は、オクスフォード、しかも、彼を支援したコレッジはクライスト・チャーチとベイリオル・コレッジであった。今思えば、筆者とオクスフォード、特に両コレッジとの縁はこの時に既に始まっていたように感じる。先年、シュルツのオクスフォードでの住所を尋ねて探し当て、その建物の写真を撮った。この建物にシュルツが住んでいたかどうかを確かめはしなかったが、彼がこのあたりを歩いていたかと思うと、感慨ひとしおである。 二番目の出会いが、西洋古典学研究室の初代教授久保正彰先生である。一九七八年、筆者は先生の「プラトン『ゴルギアス』」そして翌年「アリストテレス『弁論術』」の授業に出席させていただいた。久保先生の第一印象は、「この先生は何か他の先生と雰囲気が違うなあ」というものであった。それもそのはず、先生は大学教育をハーバードで受けられたのだから。昨今、大学の国際化・グローバル化が叫ばれているが、一対何人の日本人の大学教員が学士課程教育を外国の大学で受けているだろうか(久保先生のハーバード・カレッジ時代の回想については、鈴木佳秀・葛西康徳(編)『これからの教養教育―「カタ」の効用』東信堂を参照されたい)。我々がみな魅了されたのは、「原酒」が放つ芳香が原因である。鼻が悪ければ、酔うことはなかったのだが。 一九八二年、幸運にも筆者は新潟大学教養部に職を得ることができたが、研究の方針は定まっていなかった。つまり、ローマ法学とギリシア思想の関係を考察するといっても、まずどちらか一方から勉強しなければいけない。当時の筆者は、助手論文で扱った「説得(peitho)」というギリシア語で頭が一杯だった。そこで考えた挙句、久保先生に留学について相談に伺った。そこで読むように薦められたのが、『イーリアス第九巻』とブリストル大学ギリシア語教授ジョン・グールド先生の論文「嘆願(hiketeia)」である。この二つを読破するのにひと夏を費やした。筆者にとって、西洋古典学はまだまだ「遠い世界」であった。
古典学の展開
一九六八年から一九六九年にかけ、大学紛争の嵐は世界中を駆け抜けたが、イギリスでは何も起こらなかったのだろうか。最後に、イギリス留学時代の恩師であるジョン・グールド先生(John Gould 一九二九―二〇〇一)の紹介をしながら、この時代が西洋古典学研究と教育に対して持った意義を考えてみたい。最近先生の回想録が公刊されたので、詳細はそちらに譲りたい(Biographical Memories of Fellows of the British Academy, IX 239-263, 2012 By Nick Fisher)。
グールド先生の父親は有名なラテン語教科書の著者であり、先生は、典型的な「生まれながらの古典学者(born classicist)」である。ケンブリッジのジーザス・コレッジを卒業し、兵役の後、古典研究者の道を選ぶ。先生はプラトン研究から出発したが、処女作『プラトン倫理思想の展開』(The Development of Plato's Ethics, CUP 1955)の中で、当時では珍しくプラトンの『法律』に注目している。この著作がオクスフォードの欽定ギリシア語講座教授ドッズ(E.R.Dodds)の目に留まり、一九五五年、ドッズは彼を自分のコレッジであるクライスト・チャーチの古典学のフェローに据える(クライスト・チャーチはフェローを「Student」と呼ぶ)。クライスト・チャーチ時代のほとんど唯一とも言える研究業績は、Arthur Pickard-Cambridge, The Dramatic Festivals of Athensの共同改訂である。この改訂版は実質的には二名の改訂者(もう一人は、碑文学の泰斗David Lewis)のオリジナル作品と言ってもよいほどの大幅改定であり、現在でもアテナイ演劇研究の基本文献である。この著作では、ギリシア悲劇・喜劇を歴史的現場において理解するための基本資料を、文学作品、歴史碑文、壺絵など絵画・考古学資料から網羅する方針が貫かれている。一九六〇年代初め、先生は新設のハーバード大学付属ギリシア研究センターのフェローとしてワシントンD.C.に一年滞在し、ここで久保先生と出会う。久保先生によれば、二人は来る日も来る日も、ギリシア悲劇と能の比較、仮面の意味などについて議論したそうである。留学先として久保先生が筆者にグールド先生を紹介してくださった遠因は、ここにあると思われる。
他方、教育面ではグールド先生は、オクスフォードの古典学コース(「Literae Humaniores」)のカリキュラム改革をドッズとともに提唱した。つまり、改革派であった。オクスフォードの古典コース(一年三学期全四年一二学期)は、前半五学期を「Mods」、後半七学期を「Greats」と通常呼んでいる。伝統的に前者は「語学・文学」、後者は「哲学・歴史」を内容とする。改革派は後半を「哲学・歴史学・文学」の中から二科目選択に変更しようとしたが、強い抵抗に遭い、挫折した。改革が実現したのは、グールド先生がオクスフォードを去り、ドッズが退職してからずっと後のことであった。
この改革の意図するところは、「文学」を「哲学」および「歴史学」と対等な科目にすることである。ではどのようにすれば「対等」になるのか。ドッズは著作『ギリシア人と非理性』によってそれを示唆した。しかし残念ながら、グールド先生は在職中それを具体化することなく、クライスト・チャーチを去っていったのである。
一九六八年、先生はスウォンジー(Swansea)大学古典学教授としてウェールズに移る。ここでまた古典教育の改革に大きく関与する。大学での古典コースに「翻訳」を導入したのである。抵抗勢力の怒りは想像に難くない。当然のことだが、本音では誰も賛成していないこの「改革」は、皮肉なことに今日では、少なくともイングランドでは広く普及している。教育の民主化が進む中で、大学入学時の学生の古典語の知識はもはや前提にはできないので、古典学科を維持しようとする限り、一定程度の翻訳利用はやむを得ない。とはいえ、大学入学後に初めて古典語に接する学生に対しても、古典語の習得を必修とする従来のコースを開設しなければならない。では、どうすればよいのか。
その方法は、ギリシア語・ラテン語サマースクールの開設と、そのための教材作成である。このプロジェクトを推進したのがグールド先生であり、かの古代史家モーゼス・フィンレイもその支援者の一人であった。このコースの履修者は、高校生、大学生そして社会人など様々であるが、この試みのおかげで、ヨーロッパ大陸諸国と異なり、イギリスは大学での古典学習者の減少を食い止めることができた。クライスト・チャーチとスウォンジー、このイギリス的意味で最も対照的な二つの教育機関で教えた教員は、おそらく後にも先にもグールド先生くらいではないだろうか。もっとも、このサマー・コースが先生個人の人生に、大きな転機をもたらすことになった。
スウォンジー時代、グールド先生が世に問うた研究成果が、前述の「嘆願(hiketeia)」論文である。ドッズへの賛辞で始まるこの論文の中で、先生はギリシア文学とそれを生み出した社会の��の、一筋縄ではいかない、しかし無関係ではない対応関係を、伝統的な西洋の価値と社会にではなく、文化人類学的知見によって当時明らかにされつつあった非西洋社会との間に探求することを通じて、ギリシア文学研究理解に新平面を開いたのである。ギリシア文学と西洋人の関係は、従来は親と子供の関係と同じように考えられていた。これに対してグールド先生は、西洋人とは異質なギリシア人が異質な社会に対して語り、さらに不可解で矛盾する物語や詩の中で語っている、と理解する。多くの場合、ギリシア文学(特にギリシア悲劇)は主人公の社会への適応の失敗と挫折を記述している。一方、西洋人がそれらを「理解」しようとする場合、その試みは多くの場合、自らの価値観や社会観を持ち込もうとして、挫折し失敗する。この「二重の挫折」こそが西洋古典学を学ぶ意義である。先生が学生に伝えたかったのは、このようなことではなかったかと、筆者は考えている。
一九七四年、グールド先生はスウォンジーからブリストル大学のギリシア語教授に迎え入れられた(一九九一年退職)。古典学教授ではなく「ギリシア語教授」という講座を持つ大学はイギリスでは、オクス・ブリッジを入れても、現在ではほんの一握りになってしまった。筆者が留学した一九八〇年代後半、先生はヘロドトス研究に没頭されていた。一九八九年出版された『Herodotus』という本は「妬ましいほどスリム」で、非常に高い評価を受けた。先生は一般に時間の費消を厭わずインフォーマルな会話を好まれた。また、古巣のオクスフォードに講演その他で行かれる折は、必ずと言ってよいほど筆者を連れて行って下さった。非西洋からやってきた「外人(xenos)」である私は先生にとって格好の情報提供者であり、実験材料だったに違いない。とりわけ、日本人にしては例外的に「おしゃべり」である筆者の場合は。ただし、我々は、古典テクストを「共有」する。この共有物の解釈をめぐって(お互いに)情報提供するのである。
筆者が学位論文で主張したことは、ホメロスにおける「説得」を意味するギリシア語動詞の中動相と能動相の相違を、単に文法的意味において求めるのではなく、関係当事者のスピーチや社会関係の文脈で把握すること、そしてこのようにして理解された両者の相違点からホメロスの両詩を読むことによって、ホメロス及びそれ以降のギリシア文学の世界に新しい知見を提供できるのではないか、というものであった。「結論先取り(begging the question)」、つまり、この両者の相違を前提にしてホメロスを解釈するというファウルをしているのではないかをめぐって論文指導はよく中断した。ここにレフェリーとして割って入ってくださったのは、もう一人の論文指導教員のリチャード・バクストン(Richard Buxton)先生である。この先生抜きでは、グールド先生とは別の意味で、私の学位論文は絶対に完成しなかったと思う。「共同指導(joint-supervision)」が私の場合は幸運なことに、理想的な形で行われたと思う。しかし、バクストン先生について紹介するのは残念ながら別の機会に譲りたい。さらにもう一人、学位論文の私の英語を最初から最後まで見てくれた、ライブラリアンのデイヴィッド・ヒューズ(David Hughes)氏にも、名前を挙げることだけでお許しいただきたい。
この「結論先取り」がもっと高次のレベルで問題となっていたのは、ヴェルナン(Jean Pierre Vernant)やヴィダル=ナケ(Pierre Vidal-Naquet)らの構造主義的古典解釈であった。グールド先生もバクストン先生も、この学派の功績をおそらく当時のイギリスの学会の中では最も評価していたと思う。次頁の写真は、一九八七年の夏、グールド先生の推薦でヴェルナンにブリストル大学名誉博士号を授与したときのものである。尚、ヴィダル=ナケには後年、バクストン先生の推薦により同じく名誉博士号が授与された。
しかしながら、大変印象深かったのは、グールド先生はこの学派の「結論先取り」的論法にはいつも懐疑的だったことである。その一番良い例は、ギリシア悲劇におけるコロス(合唱隊)の研究である。よく先生は会話の中で「may be, I am not sure」などと連発されて、指導を受けている身としては大いに困った経験がある。また、先に述べた中動相と能動相の区別では上手く説明できない例が出てきて、私が不幸な顔をすると、「そのような例がある方が立論の説得力は増す」と言われたことがあった。今ではある程度納得できるが、当時は非常に困惑したのを覚えている。
一九九二年の年明けに行われた学位論文の口頭試問を何とか通過した後、筆者はお礼を兼ねて、当時フランス(ル・マン近郊)在住のグールド先生夫妻を訪ねた。先生は退職後、筆者から見れば貴族の館のような大きな家を購入して自分で改修していた。夕食後、筆者は今後の進路について、「できればオクスフォードに行って勉強したい」と素直に告げた。西洋古典学を志したものならば、誰もがいつかはこの「本山」にあこがれる。
グールド先生は、その場でただちに電話をかけた。「ピーター」と呼びかけたその相手は、クライスト・チャーチの世界的パピルス学者、欽定ギリシア語教授ピーター・パーソンズ(Peter Parsons)先生であった。筆者は、二人の間に師弟関係があることをこの時初めて知ったのである。「本山」オクスフォードへの道が見えた瞬間であった。
翌朝筆者は、フランスからそのままオクスフォードに向かい、クライスト・チャーチでパーソンズ先生に面会した。翌年、留学は実現した。しかし、オクスフォード大学とは無縁の筆者は、最初はなかなか居場所が見つからなかった。「あなたのコレッジはどこですか」という質問ほど残酷な問いはない。雨宿りする軒先がないのと同じである。それゆえ、軒先どころか、種々の便宜を図ってくださったパーソンズ先生にはいくら感謝してもしすぎることはない。さらに筆者は幸運にも、一九九九年、今度はベイリオル・コレッジという、クライスト・チャーチとは非常に対照的なコレッジにアタッチすることができた。両コレッジからうけるベネフィットの大きさを、この二〇年間オクスフォードを訪問するたびごとに実感している。
結びにかえて ― 二〇一一年 ―
二〇一一年、筆者ははからずも大妻女子大学から東京大学文学部の西洋古典学研究室に移ることになった。もし、グールド先生がクライスト・チャーチを去ることなく、ずっとオクスフォードに留まっていたらどうなっていただろうか。私はおそらく先生に出会うことはなかったであろう。そして、現在につながるほどに西洋古典学にコミットすることは多分無かったと思う。他方、先生がオクスフォードに留まっていれば、ドッズの目指した古典学の新しい可能性をもっと早く、そして大きく展開していたであろう。また、結局果たされずに終わった二つの企画が実現していたのではないだろうか。即ち、一つはペンギン・ブックスの『ギリシア悲劇』、もう一つは、ケンブリッジ大学出版局から出る予定だった『比較演劇史』のシリーズの中の古代ギリシアの巻である。これらの著作の中で、能や歌舞伎との比較が縦横に展開され、また久保先生が深く関与された昭和三〇年代の「東大ギリシア悲劇研究会」の資料が収録されていたかもしれない。もちろん、グールド先生の意思(遺志)は受け継がれ、ギリシア演劇研究の分野ではオリヴァー・タプリン教授やピーター・ウィルソン教授などにより、研究の方法、領域、水準が格段に拡大・向上した。他方、上記の二冊の代わりということにはならないが、先生の論文集(Myth, Ritual, Memory and Exchange -Essays in Greek Literature and Culture-, Oxford 2001)が死の直前出版された。思えば、先生は私が留学中の一九八七年、片方の目を失明し、またその後は種々の病気に悩まされ、車椅子使用を余儀なくされた。それでも死の直前まで意識ははっきりしていた。見舞いに来た家族が大声で話していたので、静かにするように咎めた夫人に対して、「話し続けてくれ。私は聞きたい」これが先生の臨終の言葉だったそうである。
筆者の手許には、ペンギンから出る予定だった『ギリシア悲劇』の最初の三〇ページのタイプ印刷原稿がある。夫人の話ではコンピュータにある(はずの)他のデータは、残念ながら結局取り出せなかったそうである。この三〇ページの原稿は筆者の宝であり、他人に見せることはない。
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競争と闘争
― 競争なくして教育なし ―
本年七月末から八月にかけ、イギリス(連合王国)の首都ロンドンにおいて、オリンピックが開催さ��た。開会式において、ミスター・ビーン(Mr.Bean)が登場し、背景に映画『炎のランナー(Chariots of Fire 1981)』のシーンが流されたのを記憶している人も多いと思う。そこに登場するイギリス人はみな「白人」であった。一方、閉会式では、いわゆるダンスミュージックを中心に、様々な人種が登場した。みなイギリス人である。では、オリンピック選手はどうか? ここでも様々な人種のイギリス人が活躍した。実際、ロンドンのヒースロー空港で我々がまず見かけるのは、インド系イギリス人である。『炎のランナー』と「ロンドンオリンピック二〇一二」の間には一世紀の隔たりがある。この間、何が起きたか? 「世界史」で勉強してほしい。 ところで、『炎のランナー』の実在した二人の主人公は確かに「白人」たるイギリス人であるが、決して典型的な、あるいはイギリス人の多数派ではない。一人はスコットランド人であり、もう一人はユダヤ人である。二人は、よくいじめられる。この二人が巻き起こす種々のトラブルは、現在まで続くイギリスという国家、宗教、社会の特徴をよく表している。是非、一度映画(ビデオ)を見てほしい。もう一つお薦めの映画を挙げるとすればShane Meadowsの『This is England』(2007)である。日本とイギリスを比較した本は、枚挙に暇がない。その中で推薦本を一冊だけ挙げよといわれれば、私は躊躇なく池田潔『自由と規律』を選ぶ。この本は実質的に第二次世界大戦前の話であり、その意味では『炎のランナー』に近い。また、著者のパブリックスクールでの生活経験を基にしており、高校生諸君には何かと身近に感じるのではないかと思う。
本日は、グローバル化時代において、「Frontier Man(Woman)」という視点から両国(民)を比較してみたい。近世から近代にかけて、ヨーロッパ人は世界各地に進出したが、その中でもイギリスは、一九世紀から二〇世紀初めにかけてイギリス帝国を形成し、「太陽の沈まぬ」国となった。被植民地からみればかかる『帝国主義』はもちろん許し難い行為である。では、植民した人にとっては、どうだったのであろうか。この植民者の視点は、植民地を全て失った戦後の日本人には、ピンとこないかもしれない。せいぜい、諸君はおじいさんやおばあさんから聞いたくらいではないかと思う。また、イギリス国内での被支配集団、マイノリティ・グループにとってはどうなのであろうか? 確かに、イギリスの街を歩いていていつも感じるのは、つらそうな顔をしているのは、有色人種が多い。しかし、同時に白人も珍しくない。一方、弁護士や医者には有色人種(インド系)が多いのに驚く。つまり、イギリスでは社会的競争が、宗教、民族、人種や階級を超えて多様であるということである。この複雑な「競争」を具体的に示しているのが、『炎のランナー』なのである。ここで、重要なことは、これは「競争」であって、「闘争」ではないことである。もちろん、闘争や武力衝突もないわけではない。諸君は、北アイルランド問題というのを聞いたことがあると思う。余談だが、ロンドン・オリンピック開催が決定したのは、私の記憶が正しければ、二〇〇五年七月七日、ロンドンの地下鉄などが「テロ攻撃」を受けた時だった。奇しくも私はこのテロに巻き込まれたので、忘れたくても忘れられない。 さて、「Frontier Man(Woman)」というのは、アメリカ西部開拓者の「フロンティア・スピリット」のことも含むが、ここでは必ずしもそのことを意味していない。また、私は諸君に「アフリカに行って、現地の人々にボランティア活動をしなさい」と言っているのではない。「Frontier Man(Woman)」というのは、「競争」と「闘争」の境界に立って、「移動」していく人間のことである。では、「競争」と「闘争」はどこが違うか。「スポーツ」と「けんか」はどこが違うか。これは大変難しい問題だ。 普通は、「ルール」の有無が、「境界」だといわれる。しかし、話はそう単純ではない。なぜか。考えてほしい。スポーツでも勉強でも、ルールに従うから、それでいいというものではない。例えば、スポーツでも入試勉強でもルール(配点)を変えれば、勝敗に影響する。ルール自体が批判の対象になる。審判の判定の間違いもある。また、平等な条件というのはあるだろうか? イギリスの学校を私はたくさん見てきたが、これが「同じ高校か」と思うくらい、条件や設備が違う。先生が違う。いい学校で学んだ方が有利にきまっている。しかし、設備のいい学校の授業料は目の玉が飛び出るほど高い。まるで貧しい人は勉強するなと言わんばかりである。では、お隣のフランスはどうか? イギリスほど学校間の差はないかもしれない。でも、あるフランスの学者はこう言った。「両親の学歴による『文化資本』の差がある」と。 このように見てくると、「競争」といっても、みんなが納得する「フェアー」な競争はあるとは思えなくなる。実際、『炎のランナー』では、主人公の一人であるユダヤ人は、お金を使ってプロのコーチを雇おうとすると、大学の先生は「そうまでして勝ちたいのか?」と非難する。しかし、オリンピックのアマチャリズムは大昔の話だ。我々はこのシーンを見て、ケンブリッジ大学の先生の偽善性を疑う。ユダヤ人を応援したくなる。スコットランド人の主人公の場合は、もっと深刻だ。それは宗教が絡んでいるからだ(ユダヤ人の場合もそうなのだが)。安息日である日曜日に試合が組まれていた。敬虔なスコットランド長老派の信仰をもつ主人公は、出場を拒否する。これは国王(イングランド国王とスコットランド国王は同君連合で法律上は対等合併)と教会(神)との戦いである。これは、カネではカタがつかない。「競争(オリンピック)」が危うく「闘争」に展開しそうになる。 ここで仲裁にはいるのが、貴族身分をもつ、同僚の選手である。かれは、自分の出場する枠をスコットランド人に譲る。そして、スコットランド人は優勝する。しかし、彼は第二次世界大戦中、布教先の中国で日本軍に殺される。話を戻すと、教会、国王、貴族、どれも諸君にはピンとこないだろう。民主主義や国民主権はどこにも出てこない。そもそも、イギリスは近代立憲主義の母国、議会主権の国とは言われるが、デモクラシーの国といわれたことはあまりないと思う。皆さんは驚くかもしれないが、イギリスにはいまだに、書かれた憲法典も、民法典も、おまけに刑法典も無い。「不思議の国のアリス」、「ハリー・ポッターの魔法」の国だからね。このくらいのことで驚いてはいけない。 話を元に戻そう。競争と闘争、そしてその「境界」で生きる「Frontier Man(Woman)」。これを我国あるいは諸君におきかえるとどうなるか。私事で恐縮であるが、私と大井校長先生の時代は、振り返れば幸運な時代であった。「競争」のルールが、比較的「フェアー」に感じられた。もちろん、フェアーではない面はたくさんあったと思う。大学紛争も(我々が中学生の時)起こった。ベトナム戦争はじめ世界各地で紛争があった。国内では、今から思えば驚くかもしれないが、国鉄のストライキが頻発し、よく授業が休講になった。ストライキは労働法上認められた権利であるから、闘争とは言えないかもしれないが、しばしば、闘争に発展した。国内外で、競争と闘争が併存していた時代であった。 それから四〇年たった現在はどうか? 国外では相変わらず紛争は絶えない。国内は、一見闘争はあまりないように見える。少なくとも、ストライキはない。では、ルールがフェアーになり、「競争」だけの社会になったのだろうか? しかし、流行本によれば、日本は「中流社会」から「下流社会」や「格差社会」になったという。また、世代間の格差も大変深刻であるという。一体、実態はどうなのだろうか。 もし、闘争が表面上少なくなっている原因が、「ルールがフェアーでない」という主張が通らなくなり、それ故「競争」の正当性が根本から疑われることが少なくなったことにあるとすれば、それは望ましいことなのだろうか? 或いは、特に大学入試の場合のように、受験生総数が減少して、競争しなくても(大学を選ばなければ)入学できるようになり、闘争以前に競争が少なくなっているからであろうか? あるいは、社会の欺瞞性に慣れっこになって、批判もする気が起きないのか(実は我々の時代は「シラケ世代」と呼ばれた)。 しかし、いずれにせよ、ルールを作るのは人間(あるいは神の名を借りた人間)であり、通常の場合は自分または家族や仲間に有利なようにルールを作る。そして、想定された人間以外の者が勝利をおさめると、意地悪をする。「ご破算で願いましては」というのは、現��社会には無いのである。では、どうするか? 卓袱台をひっくり返して、相手を殴るか、あるいは出てゆくか? どちらの場合も、新たなる「ゲーム(競争)」を始めなければ生きてはいけない。 私は、諸君にいかにルールがフェアーでないと見えても、いきなり「闘争」へは移らないで頂きたいと願う。競争と闘争の境界に立つ人、即ち「Frontier Man(Woman)」であり続けて頂きたいと願う。 我々二人が一緒に学校生活を送ったのは、高瀬中学校時代のわずか三年間にすぎない。その時の校長先生が生徒一人一人に書いてくれた色紙には「人生は健康と人物で勝負する」とある。還暦が近い年齢になって、この言葉のもつ意味をますます重く受け止めている。
参考文献・映画 池田潔『自由と規律』岩波新書一九四九年刊 『炎のランナー』 Shane Meadows『This is England』。
研究テーマ ① 古代ギリシア・ローマの弁論術(レトリック 修辞学)と法 ② 西洋学問(法学、文学、哲学、歴史学など)の日本への受容史。教養教育の歴史。
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