Tumgik
kioku-series · 9 months
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日記_231231
振り返りとやらを毎年やっている気がするのでしたみようかな。
今年は人生で一番悲しい一年だったと思う。その悲しさと対峙するのにいっぱいっぱいで、本当に驚くほどほとんど何もできなかった。何もできないことには慣れている。何年も碌に動けていない人間なので、今さら生産性の無さなどに悲観していたら命がいくつあっても足りない。だから何もしていないこと自体には悲しんでいるわけではない。外的な悲しいことももちろんあるけれど、それ以上に変わっていってしまった人たちをうまく受け入れられない自分の未熟さに本当に嫌気が差してしまっている。頭では理解していても、やはり受け入れるのは難しい。でもこれは時間を掛けて受け入れる方法を理解していけると思っている。だから大切に思う人に対して、狭義でのエゴをぶつけないことにだけは注意して生きていこうと思う。結局のところ、どのように生きるかという姿勢でしか自分の価値(嫌いな言葉だけど)は推し量れないし、本当の意味で自分を肯定する術とはならないから。
あとは生活のパターンを病的に繰り返すことにより人格の投獄には成功している気はするけれど、それが善い人生かと言えばいざ知らず、「ただ何となくそれなりに不幸じゃなければ良い」と多くの人が"夢"みる人生の諦念退職とでもいう思考停止の楽園の入口にたどり着く。「よし、もう少しステップアップしてお金を稼ごう」「今週末にはちょっと良い旅館に泊まってリフレッシュしよう」「そろそろ婚活しないと」「子どもを作らないと」「資産運用をしないと」「子どものために政治のこと知らないと」「親孝行しないと」。そういった生活中心主義自体を別に否定する気はない。しかし"そういうことになっている"とされる全てに引っかかって一歩目から進めなくなる自分の性質を考えると、その轍を進むことはあまりに険しく感じる。またその轍を外れている人への理解が少なすぎることも善い人生の妨げとなっているとは思う。結局は個の尊重を軽んじているだけなんだけど、この言葉さえも理解されないんだろう。それも先に話した悲しいことの一つなんだけれど。いつもの癖で脱線して暗い話になってしまった。グルグルと回る思考の吐瀉物みたいな文章ですみませんね。要するに、同じ生活を繰り返すことによってストレスは回避しているものの、これで良いわけではないよねという話。やればできるじゃないかという簡潔具合だけど、簡潔な言葉で伝えられるとされるものはとてつもなく限定的だとだけ言わせてほしい。相変わらず難儀な人間である。
そういえば今年はクラシックギターをたくさん弾いた。ほぼ毎日弾いていたから少しは上達してきている感覚はあるのだけれど、奥が深すぎて若干の怖さすら感じている。あとは鍵盤も練習し始めたり。本当はピアノが一番好きな楽器なので多少は弾けるようになりたいなと思っているけれど、納得できる程度に弾けるにはどれほどかかるのやら。楽器をやるには人生は短いとすら感じてしまう。
曲はそんなに作らなかった。バンドがなくなってしまってから何に向けて作ればいいのかわからなくなってしまったから。
今年の振り返りなどと言いながら具体的な話が少ないのはひたすら抽象的な生活をしているからで、そういう時期だったとも思う。
とにかく悲しくてつらい一年だった。いまだに死んでしまえばよかったと思っている。
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kioku-series · 9 months
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思想煽り運転
最近姿勢が悪いのか、首のコリが酷いです。おそらく身体が傾いているのでしょうね。
ということで極右の思想をひたすら拝聴して、右傾化をしてみることにしました。うーんなるほど、少し首の調子が良くなってきた気がします。たまには"矯正"も大事というわけですか。しかしあまり傾きすぎてもほかの箇所にガタがきてしまいますので、何事もバランスです。そんなときのBGMはもちろんそうですね、「我愛北京天安門」。神曲ですね。放映チャンネルはご存じのとおり毛思想共産党。たまには"強制"も大事というわけですよ。化学における中和のような処理を全身で浴びている生活、これはすごいですよ。"革命"です。まったくおすすめしません。
今年はそんな人体実験の年ともいえる一年でして。あまり好きじゃない音楽をひたすら聴き続けていたら好きになるのか、という実験もやりました。結果は「結構好きになる」となりました。最初はピクリとも動かなかった口角が爆上がり、高度経済成長期のポンニチかって。いやいやそれじゃあ右肩上がりで左側が上がりませんね。あまずいまずい「我愛北京天安門」を手慣れた手付きで再生。ふう、最近買った多機能なマウスのボタンに再生ショートカット割り当てておいてよかった。さて、バランスがとれて口角が横一文字になりました。その状態で「喜び組」を足すと…。素晴らしい笑顔の出来上がりです。「はいできました~!こちらが音楽再生中の顔となります。」地獄みたいな顔面の四則計算をするYoutubeチャンネルをしてしまいましたね、失礼失礼。このチャンネルは次の投稿で炎上して失踪するのでご安心してください。でも私の笑顔は間違いないです。ウソ、真顔です。コイツ情緒大丈夫か?
まあ結構好きになったことは事実ですがあくまでn=1なので陰謀論程度に聞き流してください。何の音楽かって?言ったらそれを好きだった人に無意味なノイズを与えてしまうかもしれないので言わないです。好きなこと以外見たくない聞きたくないという確証バイアス民にノイズを与えるととても怒られるので辞めましょう。いやほんとに、そんな怒らんでもよくない?と思っちゃいます。こちらはn数まあまあある。ウソ。これはウソと言わんとマズいからね。さてこんなかんじでノイズを与えることを我慢していたらノイズ音楽を作りたくなってきました。ずっと作ってそれを聴きながらニタニタしてます。ウソ、真顔です。私、ずっと真顔ですね。
実際ノイズ音楽の政策はおすすめですよ。これじゃあ思想統制になってしまいますね。ノイズ政治によるノイズ国家は気になるところですが、あまりに芸術への理解が進みすぎた1000年後のN党みたいな存在になるのでしょう。まあSDGsという茶ば…取り組みが実らず人類は居なくなっているでしょうか。これ以上多方面煽ったらマズいのでお開きにしましょう。「この動画で粛清されてほしくないという方は、ぜひともチャンネル登録、高評価、よろしくお願いします。」
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kioku-series · 10 months
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日記_231127
トリプタノールのんでた頃くらい寝ているのではないだろうか。毎日20時間睡眠。こんな小さな錠剤で人間って簡単に肉塊になるんだなと。でもあの時に本当に「治そう」と思った。生きていようと決めた。そしてそれが間違ってたことに最近は気がついてきた。
鬱病は治るとか治らないという次元の何かではない。まず一般的に鬱病だと思われているものはおそらく適応障害のことだ。ストレス源があり、それを取り除いて休息を取れば治る。広義で言えば、パーソナリティ障害や発達障害などを起因とする鬱病のほとんども適応障害に分類できると思う。言うなれば社会適応障害だろうか。そもそも社会がなければ発達障害などという"障害"は定義できないし、他者との関わりをミクロ的な社会と捉えれば、パーソナリティ障害も同様だ。もし脳の構造などから差異を見出されたところでも意味がない。その差異がもたらす障害とやらはあくまで社会におけるものでしかないからだ。つまりパーソナリティ障害や発達障害を起因とした鬱病は、生きづらさを当事者と社会の両側から改善でき十分な休息が取れれば、その先に治ったとされる状態が存在する。
それに当てはまらないような鬱病も存在するような気がする。もちろん現状の医学的な定義としては違うことはなく、DSM-5に則った臨床的な手法で診断する。ただあくまで科学的な手法による測定などは未だに存在していない。鬱の発作(海馬が正常に機能しない状態)などの現象を観測できるようになった程度だ。とはいえそれは必要条件なのかすらも曖昧だ。なぜなら鬱病の定義自体が科学的ではないから。
まあそんな定義がどうとかいう話をしたいわけではなく。自分の「鬱病的気質」とでもいう状態は、「人生や人間というもの自体に対する期待」という希望に起因していると思う。希望によって鬱になるなんて滑稽で自分らしくて良いと思える程度の余裕があるのは成長した証なのか。とはいえ鬱病の起因それ自体が自分の生きる意味になっているので、取り除けないという大きな問題がある。
「人生や人間というものに期待しちゃダメだよ」と諭す人がいるとしたら、それは話しているレイヤーの取り違いか、私が善く生きることを否定しようとしている。逆説的には、期待していない人が多いからこそ、このめちゃくちゃな社会を「しょうがない」と受け入れられるのだと思うけれど。それが自分にはうまくできない。おかしいと思ってしまう。これは正義、ともまた違う気がする。正義とはこうあるべきという価値観の押し付けだと思うけれど、自分の言いたい感覚は逆に近く、こうあるべきという価値観を押し付ける必要がなくなり、その先に見える世界を期待して望んでいるのだと思う。ただ、この考え方自体が正義の定義に収まるという自己矛盾性を孕んでいる。こういった部分にも自罰的感覚が反映されて苦しんでいたりする。
もし正義から社会性を取り除いた概念をうまくリビルドできれば、それが正義という劇薬の処方箋と成り得ると考えている。そしてそれは本当の意味での多様性に他ならない。
だからメディアで少子化がどうこう、マイノリティ、SDGsだとか論じたところで、ただの下層レイヤーでの価値観の押し付け合いのように感じて、全く自分の希望に近付いてないと疎外感を感じている。それの行先は、任意の社会に適応させた正義のアップデートの連続で、永遠に"優位な"価値観自体の呪縛から解き放たれない「正義至上主義」とも言える状態だ。
しかし一部の人は自分と似たような感覚を持っている気がしている。正義のアップデートの繰り返しではなく、正義などない世界へ向かう途中段階としての現代を見ている。そういった人たちは一体どうやって生きているのだろう。そういう人の声は小さい。声高に"正しさ"を叫べば「正義至上主義」の片棒を担ぐことになるからだ。折り合いをつけて粛々と生きているのだろうけれど、不器用な私には難しいなとも思う。結局は自分も人生適応障害みたいなもので、鬱病という言葉は狐憑きのようにそのうち過去の言葉となるかもしれない。
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kioku-series · 11 months
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音楽の神様
みんな音楽なんてそんなに好きじゃなかったんだ。ようやく足りない脳が理解した。勝手に思い込んでいてごめんなさい。物心ついた頃からずっと変わらない。私は思い込みが強い。
でも友人が「音楽の神様はいる」と真っ直ぐに言っていた。当時はそういう考え方もあるんだなと思ったけれど、今は本気で信じているよ。
音楽は、平凡な日々に魔法をかけてまるで夢物語のようにすることなどではなく、儚く消えていく煙を抱きしめることなのだと思う。
なんでこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。何もかもが遅すぎるんだ。自分は。いつもそうだった。たぶんこれからも。
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kioku-series · 1 year
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芸術の価値について
生活という最低限の行為、例えば食事、睡眠、排泄、性欲(子作り)、それらが脅かされない程度の安全が手に入った場合、それ以外のある意味"余った"時間が生み出されることになる。その時に人間が意義を見出したものが「文化的言語」だ。「文化的言語」こそが(他の動物と対比した意味での)ヒトの個としての意義であり、「社会的言語」や「科学的言語」はあくまで人間がより快適に生きるために後天的に生み出されたツールと言える。
「文化的言語」とは、言うなれば個と個の直接的な繋がりである。具体的には、歌を歌うこと、踊ること、絵を描くこと、特別な理由もなくコミュニケーションを取ることなど、「原主観」の共有行為だ。挙げてみると、現在においては芸術として括られているものばかりであることに気がつく。つまり芸術は「文化的言語」の代表的存在と言える。オブジェクト指向のプログラミング言語で言えば、「文化的言語」がクラスで芸術がそのインスタンスに当てはまる。ここまでをまとめると、ヒトの個として見出した意義は「文化的言語」にこそあり、その代表が芸術であるということだ。
芸術の性質として、「全目的」の行為であるという点が挙げられる。「全目的」とは、過程を含めたそれに関わる全ての行為が目的となるという意味だ。作られるそれ自体が目的であり、受け取るそれ自体が目的となる。そしてそれにより感じることそれ自体が目的となる。これは常に「原主観」的であって「文化的言語」の文脈と言える。人間はそれこそ本当の"言語"を手にする前から芸術を手に入れているのは、あくまでツールではないからだと考えられる。
とはいえ芸術であっても、「価格」をつけることで資本主義の「社会的言語」の文脈にも巻き込まれる。また歴史的な価値なども見出されたりする場合もある。それはあくまで��間社会の歴史における価値なので「社会的言語」の文脈である。あとは「集団主観」にも曝される。みんなが好きだから良いものである、といったかんじで。これも「社会的言語」の文脈だ。しかし先ほどの話のように、芸術は向き合っている個々にだけ価値を見出すことができるものだ。そこには相対性も、普遍性も、正当性も、何もない。「原主観」的な価値しか存在しない。だから人数だとかそういった尺度ではその価値は絶対に揺るがない。
あとは、俗にいうアーティスティックなものに対して芸術という言葉を用いる人がかなり多く感じるけれど、それは指しているもののレイヤー自体が違う。おそらく、奇人が理解できないものを創作して、それを奇人が評価しているから"芸術"的なんだなという捉え方をする人が一般的なように感じる。何度でも出てくるが、それは「社会的言語」の文脈だ。結局のところ芸術は「何が」「誰に」生み出されて「誰が」評価したかなんて全く関係がなく、作った人間と触れた人間が何を感じるかという目的だけが存在する。
逆説的に、芸術として価値がないとは「全目的」性の欠損だと思う。目的が「社会的言語」の文脈に曝されてしまう場合が多いと思う。先に述べたことの逆、つまり「集団主観で揺らぐ意義」「資本的価値の有無の必要性」そういったものだ。また「科学的言語」に曝された場合もそうだ。こちらも例を挙げれば、「周波数レンジが広い音源の方が良い」みたいな科学的優位性を示すことなどがそれに当たる。とはいえ科学は主観性と相入れないので、そこまで複雑な状況になることは少ないけれど。
さて、これからの時代において「文化的言語」の重要性は増していくと思う。なぜなら、生産技術の向上やノウハウという情報自体の陳腐化、AIの進化などによって、人間が大衆に対して何かを創造するという行為の「社会的言語」の文脈における価値が破綻していくから。「誰に」受け取ってもらうかや「誰が」作ったかが意味を成さなくなる。そうなってくると「全目的」という芸術の性質の意義は色濃くなっていくはずだ。
芸術を「文化的言語」の代表として挙げたけれど、スポーツなどもこれに当たる。自分が好きな将棋などもそう。特別な理由のない人と人の直接的な関わり合いもそうだ。
(広義での)作り手でも受け取り手でも、それに真剣な人ほど「社会的言語」の文脈で一喜一憂しなくていい。その文脈が楽しくてしょうがない人も多くて、そういう人は現代社会に向いている体質だなと思う。自分みたいにそうでない人は、「文化的言語」の文脈を大切にすることを意識すると良い。それがうまくできれば、人間として生きることを多少なりとも肯定できるはず。
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kioku-series · 1 year
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日記_230817
おそらく20:30頃、突然強烈な鬱の発作がきた。意識は完全にレイプされて、虚無感と絶望感の洪水が決壊したダムのように流れ込む。ベッドに横たわっており、1m先に薬があるが、取れない。そのまま悪夢のような世界をひたすら耐え続ける。どうにか手元のスマホをつかむことが精一杯。文字は打てるか、文を打つほどの判断はできるかあやしい。どうにか落ち着こうと深呼吸をすると、身体の内側から関節が軋むような痛みが全身に響く。とはいえ正直、痛さなんて大したことではない。呼吸だけに意識を集中すれば、数時間程度は痛みの意識はスキップすることができる。
意識のレイプからは多少回復してきてからは薬をようやく取り、飲むことに成功した。あと1時間もすれば弱まるだろう。皮膚のひりつく感じと、指の関節が痛いのはあるけれど。左手の指が痛いのはギターの練習のしすぎなだけか。数年前に比べれば屁でもない長さではあるが、深さに関しては相変わらずだ。どうにかメモした記録を元にここに書き記しておく。どれだけ苦しかったところで、被害者として完結した苦しみによって自殺することはないなとも思った。
「なんで助けられなかったのか」「誰も声を掛けなかったのか」「人間関係の問題があったのでは」「トラウマがあったからでは」そういったメディアのPV稼ぎや、またメディアのそれに物申すやつらのマーケティングに踊らされて絶望してる暇があったら、会おう。話そう。私はここにいる。それによって外的な世界が好転しなくても。
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kioku-series · 1 year
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多元的世界間の言語
多元的世界が個の数だけ存在しているとすれば、そのままバラバラに散らばった世界の中でみんな好き勝手に生きることになる。しかし人間は弱い生き物なので、個と個で繋がったり、社会を形成したりする必要があることが多い。そのためには多元的世界間において価値観のすり合わせが必要となる。価値観のすり合わせがおこなわれれば、「フィルター」と「ビルド」された世界が相互で理解の範疇に置けるからだ。個と個の世界を繋げる手段として人間は言語を使用するようになったけれど、多元的世界においても言語が存在する。それが「社会的言語」「文化的言語」「科学的言語」の3種類だ。
「社会的言語」は、あらゆる社会を形成・保持するための言語。これは現代では一番支配度が高い存在になっている。ルールやモラルはすぐに想像つくと思うけど、もっと広大に浸食していて、ほとんどの場合この文脈に曝されないことの方が難しい。なぜなら私たちはあらゆる社会を形成して生きているからだ。大きいところでは資本主義社会があるけれど、会社や学校、家庭なんかも小さな社会であると言える。
「文化的言語」は、主観的な感情や感性を取り扱う言語。最小の個における主観を他者に共有するためにある。これはつまり、主観を他者に共有する必要があると言い換えることもできる。本来、芸術やスポーツなどはこの文脈下のものであり、資本的な価値の有無などはあくまで「社会的言語」の文脈だ。感動したかどうかにどれだけの人にどれくらい評価されているかなんて関係ないことは、言われればよくわかっていても混同されやすいと思う。「社会的言語」はマクロ的で、「文化的言語」はミクロ的であるとも言えるかもしれない。
「科学的言語」は、客観的で普遍的な事象を取り扱う言語。これは近代になって人間が獲得したいわばツールだと思う。「社会的言語」や「文化的言語」と明確に切り離すためのルールに則り、真理を追究するために存在する。一般的な科学の定義そのものなのであまり触れないつもり。
度々出てくる主観という用語だけど、主観と単に言っても「原主観」と「集団主観」がある。「原主観」は分割できない最小の個による主観であり、一般的な認識としての主観だ。「集団主観」は、集団において共通の認識を持っているという前提のもと、まるで個であるかのように振る舞う主観だ。
ここまで読んでいればわかると思うけれど、「集団主観」は「社会的言語」の文脈であって「文化的言語」の文脈ではない。あらゆる主義思想、また宗教にも共通するけれど、こういった場所における「集団主観」がまるで「原主観」であるかのように扱われると、ただただ人間は社会構造の奴隷になっていく。具体的に例を挙げていくと、「資本主義社会におけるタイパ・コスパ至上主義」「学歴社会における高学歴」「病名がつくかつかないかのグレーゾーン」「ポリコレ警察による私刑」「存在しないゴールとしての多様性」など。
気になる点として、「原主観」が本当に最小の個「だけ」による主観なのかという疑問はあると思う。というのも全く外的な影響を受けずに、純粋な先天的主観を持つことは不可能だからだ。「社会的言語」の文脈によって主観を変容することになる場合も多い(というよりその状態の方が多い)。特に学校は「社会的言語」の感覚を徹底的に植え付ける施設と言っていいと思う。家庭もそうなっている場合が多い。村社会的なものがルーツになっていたり残っていたりするからで、これは元々は人間が地球で生きるための手段だったけれど、現代社会においては個人の実存の肯定の道具になってきていると思う。
この話の重要な点として、いかに「社会的言語」の文脈に曝されて生きているかということと、「文化的言語」の価値は「社会的言語」の文脈と相容れないということがある。「社会的言語」の文脈では個々の感情なんてノイズでしかなく、効率的な集団に感情なんていらないからだ。それはコロナ禍の自粛における「不要不急」がよく物語��ていたように思う。とはいえ「社会的言語」が悪という話ではない。「社会的言語」がなければ一切の秩序もないし、そもそも生活自体ができない。あくまで各々の言語の性質の理解と、ある事象が何の言語の文脈にあるかを認知することが大事ということ。
こんな捉え方したところで結局は絶望しかないと思うかもしれない。しかしどんな絶望との付き合い方においても、一歩目は認知することであると思う。絶望の認知を放棄して幸せの蜃気楼を掴もうと必死な人間が、自身の実存の肯定のために「集団主観」を振りかざしている姿は散見される。ツイフェミとかまさにそうだと思う。そういった人たちが本当に幸せになれているかは個人的には疑問だ。とはいえ絶望を直視することは苦しいから、幸せの蜃気楼と天秤にかけて決めてもいい。何を選んだところで人は最終的に死ぬからその結末をあまり悲観する必要もないし、選択という行為自体が人生の総体であるのかなと最近は思う。
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kioku-series · 1 year
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多元的世界に生きる
世界というものは実際に存在するのだろうか。ここで言う世界というのは、外在する絶対的で客観的な世界のこと。つまり、あらゆる個が同じ世界を見ているといえるのだろうかという疑問を持ったって話。そんな状況は明らかにしっくりこなかったので、言語化してみようかなと思った。これから書くことは答えではなく捉え方の一つである。ということは読んで理解してくれたとしたらわかると思うから言わなくてよかったな。まあいいか。
まず普通に世界を認識するという行為を、3段階のプロセスにわけてみる。
1、「Perceive」: 感覚器官による情報の知覚のこと。
2、「Filter」: 主観的な価値観によって知覚した情報を選別すること。
3、「Build」: 主観的な価値観によって選別された情報を解釈し、それをもとに世界を構築すること。
1つずつ説明していくと、
「Perceive」はいわゆる「見える」「聞こえる」とかのこと。この部分は個体のフィジカル的な特性が強い。例えば可聴領域が人によって違ったり、動物によっては赤外線が見えたりとかする。「Filter」で有名なのはカクテルパーティ現象。自分が必要と思う情報を意識的にピックアップする反射がある。「Build」は認知行動療法とかが含まれている領域。雨が降って「最悪」と思う人もいれば、「お気に入りの傘が差せる」と喜ぶ人もいる。たとえ2人が同じ傘を持っていても。
この考え方だと、世界を認識するというよりは構築するという言葉の方が正しい。外在する絶対的な世界があるかどうかは、全てを知覚できる完全な「Perceive」が存在しないので知る術がない。仮にそういう世界が存在するとしても、「外在する絶対的な世界≠個々がBuildする世界」である。そして後者こそが皆の知っているはずの世界で、個々が「Build」した内在する世界がその個の数だけ主観的に存在する「多元的世界」であると言える。
さらに各段階について考えてみる。「Perceive」は基本的に静的な概念だが、「Filter」と「Build」は違う。価値観や経験、文化的な背景によりいくらでも変容する。その上で「Filter」と「Build」を明示的に分けるのは性質が違うからだ。「Filter」は瞬発的な反応であり、理性的にコントロールできる範囲ではない。「Build」はより理性的で考慮時間が存在する。つまり意識の介入余地がある。
ここで一旦、価値観というもの自体が醸成される仕組みも考えてみる。価値観の醸成は「受容」→「理解」→「体感」という段階を踏む。「受容」は新たな価値を受け入れることができるようになること。「理解」はその価値観の概要を把握することである。「体感」はその「理解」を行動によって実感を伴った経験を得ることでできる。
「Build」における価値観は「理解」があればできる。「理解」していることをベースに理性的な判断ができるからだ。しかし「Filter」における価値観に関しては「体感」がないと意味をなさない。「体感」していないと瞬発的な価値観として機能しないからだ。
少し脱線すると、うつ病(≠適応障害)になりやすい人は「受容」が苦手な人が多いと感じる。その理由は人の数だけあるのだろうけれど。
さて、なぜこんな当たり前な話をしているかというと、この考え方における「多元的世界」は完全に自分で変えられるということを言いたかったから。つまり「Filter」や「Build」のプロセス次第だ。先ほどの傘の例くらいであれば当たり前と思われるかもしれないけれど、おそらくみんなの想像を遥かに超えたレベルで変えられるはず。外在した世界を信仰して絶望しきらなくていい。
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kioku-series · 1 year
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日記_230518
音楽をなるべくハイペースで作るとどうなるかという実験をしてみたけれど、他にしっかり仕事しながらだと1ヶ月に3曲程度が限界かなという感じだった。技術的なクオリティは、意外と時間をかけた場合とあまり大差がないように感じる。ただ問題として、自分の内面においてある程度の妥協が必要となる気がする。曲の体温が微かに低いとでも言えばいいのかな。あとは結局のところ曲を作るという行為自体に楽しみを感じているので、急いで作るというのは確実に楽しむことに悪影響がある。例えば、プリセットされていない音をちまちま創作することは箱庭療法的な楽しさがあるけれど、そういった時間は費やせない。一箇所だけノイズを入れたり、トラックをかなり増やしたりもできない。でも代わりに、素朴な音のレイヤーは普遍性を強調してくれる側面もあるので悪いことばかりではないとは思う。そんなこんなで勢いよく作られた楽曲たちはバンドで磨いたらまた新たな模様が出てくるのだろう。それを楽しみにそっとPCのデータの海の底に沈めておく。
バンド、ね。コロナ禍という言葉を利用してやらなかったことは自分自身が一番よくわかっている。この数年間、メンバーに対して「バンドをやろう」この一言が言えなかった。「やりたくない」と言われて、バンドの存在自体がなくなってしまうことが怖かったからだ。しののめというバンドは、人生で初めての本当の意味での「居場所」だ。みんなの言うところの家庭だとかそういったもの、いやそれ以上のものだと思う。それがなくなった世界を想像することすら自分には厳しかった。しかしバンド活動は1人の意志でやるものではない。メンバーがいるからこそバンドという存在になる。そんな大切なメンバーに対して、自分は今まで何度も何度も傷つけてきた。傷つけてしまうのならば、そんな自分の「居場所」なんてなくなってしまっていいのに。メンバーを大切に思う気持ちがあるなら早く終わらせてしまえばいいだけなのに。言葉ではそう言っても身体は言うことを聞かない。往生際の悪く自分の気持ちとメンバーを天秤にかける日々がだらりと続いている。「そんなこと気にしないで自分のためにやればいいんだよ」などと助言を貰ったこともある。もしその「自分のため」なんていう言葉を素直に受け入れられるほどの主観性は持ち合わせていたら、迷いなく明日生きることも決まっているだろう。そうでなくても自分の音楽の価値を信じて疑わない強さがあれば、色々な犠牲があっても進み続けられたかもしれない。しかしそんな強さももちろんあるわけがない。好きな人たちを不幸にしてまで幸せになるくらいならいっそ、と思う。
悲しみの葛藤の末に自死を選んだとして、何も知らないやつらは「鬱だからしょうがないね。病気だもんね。」などと言うのだろう。数日悲しんだフリをして”日常”に戻るのだろう。想像するだけで吐き気を催すけれど、それはおそらく真実だしそれが"正しい"らしい。鬱で自死した人の気持ちは苦しいほどわかる。あんなもの、助かる見込みがどう考えてもない。苦しんで苦しんで、それで終わり。信頼していた友人たちは敵になり、どんどん離れていく。大抵の人間は思考停止して「精神科にいって専門家の話を聞くべき」みたいなことを言うけれど、病院の先生も結局は本当の苦しみは知らない。そしてそんなどうしようもない事実があることもまた、思考停止人間どもは知らない。医者は統計データを元に定型文を読み上げて処方をするだけだ。仕方ない。それが"正しい"のだから。そしてそれを疑い始めた人間から巻き上げようと、詐欺師たちは涎を垂らして外界で待っている。それがこの世界だ。結局のところ自分の外側には救いなんて全くない。この考えが書籍が言うところの認知の歪みなのはわかっている。そしてそれをわかったところで救われないのも、わかっている。まともな人間は、楽観的なんだ。そうなれない人間は"まとも"じゃない。「大丈夫。大丈夫だから。」一人天井を見上げてうわごとを繰り返すだけ。それだけが自分にとって生きるということだった。
しかしその先の”日常”に自分は居る。生と死の涯(みぎわ)で悲しんで悲しんで、それでも生きている。何かしらの理由で世界が好転したわけではない。それどころか何もかもが悪化しているくらいだ。でも、とにかくまだ生きている。もしこの先の世界を肯定できるのであれば、苦しんだという事実もまた肯定できるということではあると思う。涯の苦しみを抱えたまま生きる人がいる未来の世界が、今の自分を救えるかもしれない。
だからバンドはやる。どんな形になるかはわからない。失うものが多すぎるかもしれない。またメンバーを傷つけるかもしれない。それでも結局、前に進むことだけが自分を救う方法なのは、地獄の日々を介して身を持って理解しているつもりだ。資本の犬も、それに抗う生活主義者も、宗教で搾取される人も、消費コンテンツで腰を振る猿も、思想や主義、欲望、ドラッグ、そういった依存対象や思考停止といったあらゆる外的な"救い"は、自分にとってはただの不安障害の対症療法でしかない。それでも大丈夫。だいじょうぶ。世界の定義は自分次第だから。これすらもうわごとだとしてもいい。「生きること」その何もかもが幻であっても、その幻すら愛せるように。
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kioku-series · 1 year
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日記_230331
うつ病で自殺する人は緊急じゃないんですよ。
救急車はダメ。それはそうだ、"緊急性"がないから。精神病院に電話して入院をお願いするも「予約はされてますか?してないならダメです」うつ病の人は数日かかる手続きを経て検討に検討を重ねた結果、入院の予約ができるらしい。ああ仕方ないね、予約してないので諦めます。精神科の緊急受診も緊急じゃないとダメらしい。緊急って何?死にそうな人を助けるより緊急なことってあるの?念のため調べてリスト化した”命を大切にしたがってそうなダイアル”も知っていたが全部繋がらず。何周回しても同じ。過呼吸とゲロでめちゃくちゃな心拍数をどうにか飼い慣らして何度も深呼吸してから発信ボタンを押す。無機質な自動音声の「かけ直してください」を聞いて項垂れる姿はさぞ滑稽だっただろう。受話器を持つ手の震えで腱鞘炎みたいな症状出ている。痛い。震えが酷くて全身の関節が痛い。吐きすぎてお腹も痛い。身体の痛みなんてうつの苦しみに比べれば大した問題ではないのだけれど。
緊急受診の対応不可に対して「あなたは悪くないですから」と伝えて失礼いたしますと切る。
「あなたは悪くないですから」
思えばこのセリフを人生で何度言ってきたのだろう。じゃあ悪いのは誰?悪いのは希望を見出せない自分ということですか?あれ、頭が痛い。えげつない頭痛で眩暈が起きたがこれって鬱の症状だったのか。てっきり低気圧のせいだと思っていた。どうりで頭痛薬なんて効かないわけだ。
ここは桜がきれいな公園だ。家族連れやカップルなんかがお花をみたり、それを口実にしたりして楽しんでいる。世界も捨てたもんじゃない。わかっている。それと同時にその世界とやらに自分の居場所がないことも実感する。
5時間程度経っていただろうか。海馬もめちゃくちゃで記憶も曖昧なのでわからない。冷えすぎてなのか痙攣が止まらないので、スーパーの冷凍庫の室外機で暖をとっていたら室外機が止まった。ああ、また寒いな。帰ればよいと思うかもしれないがそれは帰れる安全な場所がある人の発想だ。安全な家の中で暖房代が高いとか思うことが"普通の人の不幸"だとしたら、室外機で暖をとっていたら止まってしまって冷えて震える手を擦り合わせているのは"異常者の不幸"とでもいうのだろうか。暖を止めてやろうなんてスーパーの人は思ってないだろうから、これは事故なんだろう。まるで踏みつけられたアリのように誰にも気づかれずに静かに息を引き取るのか。死は、私は悲しくて仕方ないんだけれど、世間様はワイドショーがいじり回している程度の期間までしか覚えてないようだ。そんなことを思ったところで「考えすぎ」とか頓馬のテンプレ回答をいただけるだけだ。さて、脳が少しは修繕されてきたので、関節が痛む脚を引き摺りながら吐きながら歩き続けた。人は、憎しみのために生きるの?愛のために生きるの?生きるために生きるの?
あるはずもない安息の地を求めて歩き続けた。
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kioku-series · 2 years
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日記_230204
最近ありがちなクラウドドライブの過去の写真を適当に理由付けして表示する、人生を振り返りたいほどの楽しめてきた人間にとっては悪くない機能にて、今日もまた無理やりに思い出に浸らされる。
それによるとちょうど4年前の今日、12月という曲のレコーディングをしていた。
「しののめというバンドはやるべきなのか」
それはそのころからずっと考え続けてきたことだ。つまり4年くらいは考え続けている。時にはやるべきだと思い、時には消えるべきだと思う。それの繰り返しが起き続けているだけ。ただ空虚な4年間だった。
本当の答えはわかっている。終わらせるべきなんだ。そうすればバンドの2人は余計な心配を抱える必要はない。私との接点ももう無理して持つ必要もない。
自分はもう「傷つくこと」も「壊れそうになること」も全て受け入れることにした。それ自体が自分にとって生きるということであると思うからだ。そしてそれは得てして不幸と隣り合わせでもある。たぶんその「傷つくこと」「壊れそうになること」をやめて不幸を回避するのがいわゆる”大人”という生き物なのだと思う。だから自分は大人になることをやめてしまったということになるのだろう。
しかしバンドメンバーに対してはどうだろう。「傷つくこと」も「壊れそうになること」も与えたくない。不幸になって欲しくない。”大人”になって、バンドのことや私のことなんて忘れてほしい。そうすれば、今よりは幸せに生きられるはず。少なくともバンドの存在によるマイナスは無くなるはず。
そんなこと言っておきながら最後の最後まで自分勝手でしかないけれど、正直とても怖い。バンドがなくなってしまったその先の自分の人生がうまく想像できない。ショックで立ち直れないみたいなものとは違う。完全な諦めというか、希望も絶望も何も感じなくなってしまうと思う。無敵の人の感覚ってこういう感じかもしれない。彼らのように、微かに残ったエゴの拳銃に命という銃弾を装填することになるのだろう。とはいえ別にもう正義感も5年前くらいには枯れ果てたので、世界に弾痕を残そうとかは思わない。むしろ好きな人たちに少しでも良いものを残せたらいいけど、バンドや自分の存在は忘れてほしい。なんて、そんな都合のいい方法も思いつかず。結局今日も少しずつ命を削り落としてその柔らかい銃弾を装填している。
どうしてあの日に死ねなかったのだろうか。
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kioku-series · 2 years
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日記_230125
まだ音楽を作りたいと思うのか。まだバンドをやりたいと思うのか。まだ生きたいと思うのか。
真っ当な心で生きられないのに他者の為に生きることなんてできるわけがないだろう。たとえ命をかけたとてその命の重さもウスバカゲロウにも満たないと言うのに。太陽は昇って落ちるだけで世界はそれに感謝する。人は、ただ物理法則に則っていれば人に何かを与えられるような生き物ではない。奪い続けるだけだ。しかしあいつらは「生きているだけで素晴らしい」という。何の根拠も持たずに。
この世界は地獄だ。なぜならこの世界は捉え方次第でどうにでもなるとか言う輩がいるから。もちろんその言葉の意味するところは理解できている。ただ、自分には「とりあえず大丈夫かも」みたいな捉え方を選択することはできない。「無理と言うだけじゃなくて具体的な行動をしていかないと」。そんなことは知っている。お前に言われなくとも何百回も繰り返してきた。ただもう疲れきってしまった。「疲れたなら一旦休めばいい」。そんなことも知っている。でももうそれも延々と繰り返してきたループの入り口に戻る行為でしかない。
人と人の絆は素晴らしい。以前にも増して人は繋がりを持ちやすいし。美しい芸術はたくさんある。仕事もイノベーティブになりやりがいも大きい。さらに仕事以外の楽しみも多い。娯楽が無限と言っていいほどある。贅沢し尽くすほどではないにしろ、長い目で見れば世界は豊かになっている。資本主義社会も概ね右肩上がりだ。そのうえ多様な人間が活躍できる世界に向かっている。そんな現代の人の生き方は自由だ。日本においては社会保障も充実している。最悪の場合でも生きていける。治安だって良いからそこまで心配しなくていい。それでも嫌なら海外にも自由にいける。
私はそんな素晴らしい世界ですら生きられないゴミ屑です。皆様のこれからも続くであろう素敵な人生に花を手向けようと思います。おめでとう。
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kioku-series · 2 years
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日記_221231
私は音楽を好きではなくなってしまった。もちろんずっとではない。バンドを始めた頃までは音楽が大好きだった。音楽を作り始めたのも音楽が好きだから以外の何物でもない。しかしバンド活動を経ていつの間にか、「音楽なんてなければ」という気持ちばかりが膨らんでいった。元々興味のないような音楽はもちろん、好きだったはずの音楽も耳に入るだけで吐き気がした。「これは本物の音楽なんだろうか?」と頭をよぎる。その猜疑心で好きなものすら聞けないのであれば、それにも満たない音楽などなおさらである。音楽性がどうということ以上に、「こうすれば売れる」という受け売りの情報商材みたいなものに手を出して下らないプロモーションに走る自称アーティストにも、青田刈りと言いつつ1番大変な最初のPR活動がうまくいったアーティストの果実を刈り取り資本というにんじんをぶら下げられて擦り切れるまで走らせるメジャーという構造にも、そしてそれ以外の選択肢を奪うような社会構造自体にも、何もかもに疲れてしまった。自分のつくる音楽だけは自分にとって偽りがないと気が付き、それを精神安定剤として過ごした。不思議なことにどんなに深い憂鬱にも自分の楽曲はその階まで降りてきてくれる。えぐられ続ける傷に鎮痛剤を打って歩き続けた。行く先は、ない。取り繕ってきたまともさにもほころびが出てきた。もうすでに壊れていた。そうして気づいた頃には自分の音楽すら聴けなくなった。それからはひたすらノイズを垂れ流した。
何も聞きたくない。
音楽どころか、外の音も、街の喧騒も、何も聞きたくない。どうにかしてこの世界とは違うところへと、擬似的に逃避した。なぜなら死後の世界にはどうやら行ってはいけないと幸せな奴らがルールやマナーとして作ったらしいからだ。そしてそれもまた私の目には憎たらしく映った。
そんな日々を過ごしてきた。そして不思議なことにまだ生きていて2023年を迎えようとしている。今はというと、音楽が少し好きになった。理由は色々あるけれど、一番大きかったのは音楽を好きな人にたくさん会えたからだと思う。今年は会えてよかった人がたくさんいた。新しく会えた人もだけど、今までに会えた大切な人の大切さをより強く感じた。死にたいという感覚以上に、もし生きているのであれば少しでも血肉を削って得たものをその人たちに捧げられるようにしたい。しょうもない人間のせいで死ぬくらいなら、好きな人のために生きたい。来年はどんな人に会えるのだろうか。
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kioku-series · 2 years
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日記_20221216
悪意に対して悪意で対抗することは、ただの戦争の縮図でしかない。それを理解しているから悪意を持った行動をせずにいると、そこにつけ込んで相手の悪意は更に増幅していく。利己的な人間はある種の無敵の人だ。宗教でいうところの神=自分なのだろう。そう思うとなんて幸せな人なのだろう。いや、無敵の人はそれはそれで幸せなのだろうか。私の想像力ではわからない。
悪意の嵐を浴びせられた後、最寄りへ向かう冬空の道は連日の快晴。雲一つない空というのは底を知らない深さを感じて不安になる。雲がないと宇宙が近すぎるのだと思う。そんな道すがら、頬の上を滴が通っていることに気がついたけれど、これは涙なんかではない。こんなくだらない世界では悲しむ必要なんてないはずだから。怒りも、持つ必要ない。なにも正されないから。憎しみも、持つ必要ない。憎しみは連鎖し続けるから。私はジョーカーを抱えたまま静かに生きていく。手を血で染めずとも、曲をつくればいい。それで何か変わるかといえば何も変わらない。ただ、こんな気持ちでつくった曲をあいつらは知らないのだろう。それだけは確か。
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kioku-series · 2 years
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にんじんは不遇の人
全国のスーパーに置いていないことがないと断言していい「にんじん」という知名度の化け物みたいな野菜。野菜の名前、有名な順番に並べたとしたら確実に3番目までには入るであろう超ビッグネームな野菜。芸能人でいったらアレだ、
芸能人を全然知らなすぎて例えられないや。
健康に良い野菜ランキング、これもおそらく3番目あたりに入るであろう野菜。コスパの良い野菜ランキング、もやしの圧倒的トップの後ろを走る2位集団の中にいるであろう野菜。にんじんって素晴らしいですよね。
単刀直入にいかせていただきます。「にんじん」が主役の料理ってありますか?
ないですよね?はい、わかってます。「にんじんしりしり」がある!と意気揚々と仰る方がいるのはわかっています。そんなものは知ってるんですよ。でもそれってあくまで沖縄の料理じゃないですか。全国区の野菜がなんで一部地域のマイナーめな料理を看板に生きていかねばならないのですか。例えるなら、全国で顔が売れている大御所芸人が何故がレギュラー番組0本、地方番組の冴えない深夜枠に1本だけ出てるみたいなもんですよ。具体的に名前を出すとしたらアレだ、
芸能人を全然知らなすぎて例えられないんだった。
にんじんの立場に立って言わせてもらいますと、沖縄料理のメジャーどころである「ラフテー」なんて、「豚の角煮」や「焼豚」とほぼ同じなんだからわざわざデカい声で沖縄料理を名乗らなくて良くないですか。味もほぼ一緒ですよね。泡盛入れたから沖縄料理とか言い始めたら、塩の産地が「それ塩入ってるからうちの郷土料理だが?」みたいなことも可能になっちゃうわけです。ルーロー飯くらい個性出してくれたら名前呼んでやってもいいけど?偉そうと思うかもしれないけど、にんじんが受けた仕打ちなんてこんなん比にならないくらいだからね。アンタみたいにチヤホヤされたことないの。孤独に生きてきたんだよ。もちろん、色んな料理には入ってる。でも入ってるだけ。一度もスポットライトを浴びたことのない。そんなにんじんの気持ち、アンタにわかるわけないじゃん。…なんかラノベの強気な女の子みたいな口調になってしまいました。具体的にキャラ名をあげるとするとアレだ、
ラノベ読んだことないんだった。
というかそもそも「しりしり」ってなんやねん。にんじんが主役のたった一つの料理に、往復でケツを横切らせるな。「しりしり」付けるとしたらなんか茄子とか優遇されてる野菜に、なんか味噌を付けただけみたいなちょっとショボめの料理につけてもらいたいところですよ。ショボいとかいっちゃったけど、これナス田楽だわ。悔しいけどおいしいです。「ナス田楽?贅沢な名前だね!今日からアンタの名前はナスしりしりだよ!」…なんか味噌にメタファーを感じるが気のせいですかね。
まあ味がうまいんだからそれくらいのバランス取ってもいいでしょう。この言い方だとにんじんがまずいみたいになってますね。失礼失礼。そんなはずないですよね?ステーキの傍にいる、激烈に甘いバターまみれのにんじんに対して「あれいる?」とか思ってないですよね?
仕方ない、データを持ってくれば納得してくれるですかね。2022年子どもが嫌いな野菜ランキングワースト10、なんと!ランキング外です!
なんとって言っちゃった。失礼失礼。当たり前の結果です。さて、もちろん大人も気になりますよね。
2022年大人が嫌いな野菜ランキングワースト10、なんと!10位です!
なんか3位以内に入ってこないかんじがいかにもってかんじですよね。これもうディスってんな。
色々言っちゃったけどみんなも美味しくにんじんを食べようね。そろそろお別れの時間です。今回はにんじんの栄養素を流しながらお別れしたいと思います。さようなら。
エネルギー 152 kJ (36 kcal)
炭水化物 8.7 g
食物繊維 2.4 g
脂肪 0.1 g
タンパク質 0.8 g
ビタミンA相当量  690 µg
β-カロテン 6700 µg
チアミン 0.07 mg
リボフラビン 0.06 mg
ナイアシン 0.7 mg
パントテン酸 0.33 mg
ビタミンB6 0.10 mg
葉酸23 µg
ビタミンC 6 mg
ビタミンE 0.5 mg
ビタミンK 18 µg
ナトリウム 34 mg
カリウム 270 mg
カルシウム 26 mg
マグネシウム 9 mg
リン 25 mg
鉄分 0.2 mg
亜鉛 0.2 mg
銅 0.05 mg
セレン 1 µg
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kioku-series · 2 years
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怒りについて
怒りという感情がちゃんと出るようになって喜んでいる。そんなことに喜ぶ人がおるんかって話ですが、鬱を拗らせすぎると怒りすらなくなる。たぶん精神的な負荷を掛けないようにあらゆる感覚をシャットアウトしてしまうのだと思う。そもそも怒りという感情を悪だとして教育されてしまったのが元凶なのだが。あらゆる感情は反射でしかないので、感じないということは本来できない。食べ物を美味しく感じるのと同じだ。バチくそにうまいラーメンを美味しくなくなれ!なんてできない。逆に、鬱病の症状で味がしなくなるというものがあるが、それはまさにシャットアウト現象の一つだと思う。そんな感情というものを健康な人間が「感じるな」と言われて律儀に守ってしまったらどうなるか。結局は感じてないフリをするしかない。それを幼少期から繰り返していると、自分すら欺けるようになってしまう。だから自分は最近まで自分がネガティブな感情を感じてるのかが全くわからなかった。
怒りは人を傷つけるだけ。らしい。憂鬱は人も巻き込んでしまう。らしい。悲しみなんてなければないほどいい。らしい。それが全人類の共通の認識。らしい。
過度な一般化や全体化で、自分の意見を正当化しようとする人間はたしかにいて、そういった人間は「他者の矯正」を施す。例えば、自分が悲しいことを感じたくないからあなたに愚痴を言わせない、そのための常套句として「誰もそんなこと聞きたくないんだよ」「みんな不快に思ってる」といったかんじで。たしかにそう感じる人もたくさんいると思う。しかしあくまでそれだけでしかない。そういう人は「マジョリティだから正しい」と信じて疑ってないし、自分がマジョリティだとも自覚している。「マジョリティだから正しい」というのは完全に間違っている。正しさとは人の数だけ(流動的なのでむしろそれ以上)あるものだからだ。
ではなぜ自分の意見を通したいだけなのに「他者の矯正」なんてするのか。自身の存在の不安を解消するためではないかと思っている。「マジョリティだから正しい」という考え方を刷り込むことで、マジョリティの自分ももちろん正しい、と思い込むことができる。つまり正しいから自分は存在してよかったと思える、というからくりだ。世間でのさばる意味不明なマイノリティの弾圧や多数決信仰も、蓋を開けてみればそれだけだと最近は思う。髪の色とかさ、どうでもいいじゃん。もっとも、それらにおいて更に危険なことを企んでる人間もいるだろうが。
そんなこんなでしなしなに干からびてしまったネガティブな感情が、ひょっこりと芽を出している。あなたも居ていいんだよ、と今の自分なら言い切ってあげられる。もちろん扱い方が悪いと悲惨なことが起きてしまう場合がある。様々な軋轢や衝突はその結果が引き起こしていると思う。その時はあくまで感情の取り扱い方を正す必要があるだけ。その人自身や、その感情自体は否定してはいけない。
バンドを組んで音楽制作にネガティブな感情を昇華してきて、ようやく確信した。怒りや憂鬱は在っていい。存在すら否定されて続けた自分のネガティブな感情で人を救えるかもしれない。何より自分自身を。
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kioku-series · 2 years
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絶望の浅瀬より愛を込めて
「年を重ねれば重ねるほど、新品になっていってる気がするんです」
そう言って爆音のファズギターが鳴った。
私は石原さんのことをよく知らない。一ファンである程度である。共通点といえば音楽をつくる人であること、バンドでギターボーカルを務めていることくらいか。
バンドというものは難しい。いや、あくまで「本当にバンドをやる」のであれば、だが。承認欲求を手に入れるためだとか何者かになるためなら、バンドは大体楽しいことばかりだと思う。嫌になったらバンドなんて辞められるからだ。しかし「バンドを目的にしたバンド」となると途端に難しくなる。バンドを辞められないからだ。
自信と信念さえ傷付かなければ、バンドは力強く走らせ続けられる。会社の経営と同じで、多少の犠牲は仕方ないと考えられる神経の図太さや、サイコパス的な才能があった方がバンドはうまく走ることができる。組織を上手に運営するにはそういったものが必要だと思う。
ただそんなバンドしかいない世界だったら私は生きていけないとも思う。自信と信念は傷付くし、その先に割り切れない葛藤があることも知っている。それでも、それも引き連れて生きていく。私はそういった人生を教えてもらった。だからこそ「もう一歩だけ」と明日を迎えられる。
多くの人はたまたま見つけた慰めてくれる居場所に収まって、それなりの生活の上、下には下がいると見下し、世の中に毒付き、明日の仕事に文句を垂れながら死んでいく。「世界はクソだ!」って言って終わり。それでも良いと思う。
SuiseiNoboAzの音楽は「世界はクソだ!」と言い、その後に「でも」と言う。
「世界はクソだ!でも」
その続きは何なのか。それをずっと追いかけているように見える。
生きることに期待することはとても苦しい。どことも知れない海の底に素潜りで"何か"を掴みにいくようなものだ。大抵の人はそんな苦行はやめて、諦める。生きることに期待しなくなる。「まあいいか」と言う。「しかたない」と言う。しかし海の底を目指すロマンチストがいないと、皆がずっと温い絶望の浅瀬で手をこまねいているしかない。
私は石原さんのことをよく知らない。ただ私も、年を重ねるごとに新品になっていっている気がする。そんなことを思いながら、部屋の隅に立て掛けてあるギターを手に取る。絶望の浅瀬から海の底へ潜るために。
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