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したがって、こうした理論構成、すなわち人間の全人格からの抽象、抽象的な視点のもとに人間を包摂することを脱却するような人間関係は、すべて、こうした人間意識の物象化を打破する方向にむかっての歩みなのである。しかし、このような歩みは、全人格の傾注を前提とする。このことから、ブルジョア的な組織における自由の形態は、事実上の不自由についての「虚偽の意識」以上のものではないということ、すなわち、人間が、その本質とは無縁な必然性の体系のなかにはめこまれている自己の状態を、形式的に自由に考察し、このような観想のもつ形式的な「自由」を真実の自由と取り違えるような、意識の構造にほかならないということが、明らかになった。共産党の規律、つまりすべての党員が、全人格を傾けて、無条件的に、運動の実践に専念することが、真の自由を実現するためにとりうる唯一の方法であるという、われわれの以前の主張のもつ外見的な逆説性は、こうした洞察によってはじめて克服されうるのである。
── ルカーチ『歴史と階級意識』第八章「組織問題の方法論」(城塚・古田訳)[p521]
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なぜならば、社会の強制手段は個々の場合には物質的にきわめて頑丈で残虐なものになりがちであるけれども、実はいかなる社会の権力も本質的にはやはり一つの精神的な力であって、こおの力からわれわれを解放しうるのは認識だけだからである。しかも、このわれわれを解放しうる認識とは、たんに抽象的な。頭のなかだけにとどまっている認識(多くの「社会主義者」たちはこれまでこの種の認識を持っていたのだが)ではなく、一つの血肉化された認識であり、マルクスの言葉によれば一つの「実践的・批判的な活動」なのである。
── ルカーチ『歴史と階級意識』第六章「合法と非合法」(城塚・古田訳)[p428]
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そして、幽霊についての意見、二次原因についての無知、人びとが恐怖するものへの帰依、および偶然のものごとを前兆とおもうことの、これら四つのことのなかに、宗教の自然の種子があり、それは、個々人のさまざまな想像、判断、情念のために、ひとりの人が使用する諸儀式の他の人にはこっけいであるほどに、さまざまな儀式へと発展してきたのである。
── ホッブズ『リヴァイアサン』第十二章「宗教について」(水田訳)[(一)p186]
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この永続的な恐怖が、くらやみのなかにあるかのように、原因についての無知のなかにある人類に、つねにつきまとうのであって、それは対象としてなにかをもたないわけにはいかない。したがって、見えるものがなにもないときは、かれらの運命の善悪いずれについても、責を帰すべきものはlある見えない力また動因(エージェント)しかないのである。おそらくこの意味で、昔の詩人たちのうちあるものが、神がみは、はじめ人間の恐怖によって創造されたと、いったのであろう。それが神がみについて(すなわち異邦人のおおくの神がみについて)かたられたのは、まったく真実である。しかし、ひとつの永遠・無限・全能の神をみとめることは、きたるべき時においてふりかかるはずのものへの恐怖からよりも、自然的諸物体の原因、それらのさまざまなあ能力と作用からのほうが、容易にひきだしうるであろう。
── ホッブズ『リヴァイアサン』第十二章「宗教について」(水田訳)[(一)p183]
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同じように、社会的な真理というものは、つねに、ある時代の魂がそのなかで自己を表現するときに──つまり、その方法に対応する現実がそこで自己を具体化していくような時代に──見出されるものだということも、けっして偶然ではない。そでにわれわれが述べてきたように、していくようなとはまさしく資本主義社会の自己認識にほかならないのである。
── ルカーチ『歴史と階級意識』第五章「史的唯物論の機能変化」(城塚・古田訳)[p382]
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このような意味において、史的唯物論のもたらした決定的に重要な成果は、ブルジョア階級の科学の生硬な、抽象的な、非歴史的な、表面的なカテゴリーではとらえられない、資本主義の総体性とその原動力とを、概念的に把握しうるところにある。したがって、史的唯物論は、まずさしあたり、ブルジョア社会とその経済的構造の理論なのである。
── ルカーチ『歴史と階級意識』第五章「史的唯物論の機能変化」(城塚・古田訳)[p378]
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このように、史的唯物論のもっとも重要な機能は、けっして純粋な、科学的な認識という点にではなく、それが行為であるという点にありえたのである。つまり、史的唯物論というものは、けっして自己目的ではなく、それによってプロレタリアートがある状況をはっきりと認識し、このはっきりと認識された状況のなかで自己の階級状態にふさわしい、正しい行動をとりうるようなものだったのである。
── ルカーチ『歴史と階級意識』第五章「史的唯物論の機能変化」(城塚・古田訳)[p371]
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心によって仮想され、あるいは公共的にみとめられた物語から造影された、みえない力への恐怖は、宗教とよばれる。公共的にみとめられない物語からのものは、迷信 SUPERSTITION とよばれる。そして、造影された力が、ほんとうに、われわれが造影するとおりのものであるばあいには、真の宗教とよばれる。
── ホッブズ『リヴァイアサン』第六章「ふつうに情念とよばれる、意志による運動の、内的端緒について。およびそれらがひょうげんされることば」(水田訳)[(一)p106]
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なぜか、およびどのようにしてかを、知ろうとする意欲は、好奇心 CURIOSITY とよばれ、それは、人間以外のどんな生きた被造物にもないようなものである。したがって人間は、かれの理性によってだけではなく、この独特の情念によっても、他の動物から区別されるのであって、後者においては、食物の欲求および他の感覚の諸快楽が、優越していることによって、諸原因を知ることへの配慮をとりのぞく。この配慮は、心の情欲であり、それは、知識の継続的であくことない産出という快楽に執着することによって、どんな肉体的快楽の短いはげしさにもまさるのである。
── ホッブズ『リヴァイアサン』第六章「ふつうに情念とよばれる、意志による運動の、内的端緒について。およびそれらがひょうげんされることば」(水田訳)[(一)p106]
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したがって人は推理にあたって、語に注意しなければならないのであって、語というものは、われわれがそれらの本性について造影する、〔当のものごとの〕意味のほかに、はなし手の本性、関心による意味をも、もつのであり、徳と悪徳にかんする諸名辞は、そのようなものである。すなわち、他の人が恐怖とよぶものを、ある人は知恵とよび、他の人が正義とよぶものを、ある人は残酷とよび、他の人が度量 magnanimity とよぶものを、ある人は浪費 prodigality とよび、他の人が愚鈍とよぶものを、ある人は沈着とよぶ、等々である。
── ホッブズ『リヴァイアサン』第四章「ことばについて」(水田訳)[(一)p81]
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個々の人間は、その生活状態の狭さと偏見に事実上とらわれているが、そのようなとらわれを克服しなければならないのであり、同時にまたかれらは、その時代の社会の経済的構造と、そのなかでのかれらの地位とが規定する限界を越え出ることは許されないのである。したがって階級意識は──抽象的に形式的に見るならば──同時に、自分の社会的・歴史的な経済状態についての、階級的に規定された無意識なのである。
── ルカーチ『歴史と階級意識』第三章「階級意識」(城塚・古田訳)[p109]
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ところでこのように生産過程のなかの一定の類型的状態に基礎づけられ、それに合理的に適合する反応が階級意識なのである。したがってこの階級意識は、階級を構成する個々の人間がかんげたり感じたりなどするものの総計でもないし、その平均でもない。
── ルカーチ『歴史と階級意識』第三章「階級意識」(城塚・古田訳)[p108]
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したがって具体的な研究とは、全体としての社会に連関させるということを意味する。なぜならこのように連関させてはじめて、人間が自分の存在についてもつその時々の意識が、そのあらゆる本質的な諸規定をもってあらわれるからである。すなわちその意識は、一方では、主観的には、社会的・歴史的な状態から何か正しいもの、理解されるもの、理解すべきものとして、したがって「真実の意識」としてあらわれるのであり、同時に客観的には、何か社会的発展の本質に触れないもの、その発展に適合していないし、その発展を表現していないものとして、したがって「虚偽の意識」としてあらわれる。他方ではこの同じ意識は、同じ関係において、主観的には自分で設定した目標を果たしそこねるととに、その意識が知らないし、また知ろうともしない社会的発展の客観的な目標を促進し、また達成するものとしてあらわれる。
── ルカーチ『歴史と階級意識』第二章「マルクス主義者としてのローザ・ルクセンブルク」(城塚・古田訳)[p107]
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私は、我々の幸福な状態が我々の憲法に由来すると確信するが、それは、これの単一な特定部分でなくてその全体に、つまり、我々が変更もしくは追加してきた要素にだいぶbん由来している。我が国民は、彼らが保有する財産を侵害から防衛するための真に愛国的な自由で独立的な精神を、今後も十分に発揮するだろう。私は変更を必ずしも排除しない。だが、変更を加える場合にも、それは保存のために行われるべきである。わたしは非常な苦痛に接して初めて、私の救治策を講ずるだろうが、それを実際に行う場合にも、私は我が先祖の手本に見習いたい。
── エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』(中野訳)[下p199]
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彼らは、こうして各種の商売を破滅させた。彼らは、王冠からは装飾を、教会からは献金皿を、民衆からは彼らの個人的な勲章を掠奪した。これら自由の僭称者たる青二才ども創意は、実際には老いぼれた専制主義の最も貧弱な手段の一つの奴隷的な模倣以外の何物でもない。彼らはルイ十四世の時代後れの安物を詰め込んだ衣装箪笥から、昔の大仰な垂れ髪の鬘を引っ張りだして、国民議会の若禿げ頭を隠すのに利用した。
── エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』(中野訳)[下p172]
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指導者連中は民衆に向かって、あらゆる封建制度を野蛮な圧制として憎悪し拒絶するように教えておきながら、後になって今度は、彼らにこの野蛮な圧制ののどれだけの部分を今後も我慢強く耐えるべきかを命令する。彼らは、苦情について光明を気前よく分与しながら、それの是正には極端なまでに吝嗇であることに国民は気付く。
── エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』(中野訳)[下p157]
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植民地は自らも自由な憲法と自由な貿易を要求する。彼らは軍隊で抑圧されねばならない。一体、貴下の人間の権利の法典の第何章に彼らは、他人の利益のために彼らの通称の独占や清玄を甘受することが人間の権利の一部をなす、などと書かれたものを読むのか? 植民が貴下に叛乱すれば、今度は、個人らが彼ら植民者に対して蜂起する。もう一度、軍隊だ。──そして殺戮、拷問、絞首刑。これらが貴下の人間の権利である。これが勝手気儘に制定され、恥知らずに撤回された形而上学的な宣言の果実なのだ!
── エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』(中野訳)[下p156]
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