kkagtate2
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小説置場(縦)
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kkag君の頑張り(縦書き) pixiv twitter 横書き版
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kkagtate2 · 5 years ago
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ふくろう便
俺の妹が珍しい病気にかかった。名前の読みにくいその病気は、とある女性ホルモンを異常に分泌させ、体の一部分を際限無く大きくしてしまうのだと医者は語った。一月前から始まった突然の巨大化、それはまだほんの序章であってこの先どうなるのか、どこまで大きくなるのか、医者にも判断が付かないのであった。俺を含め、家族の誰しもがまだ前兆であることに震えた。妹はまだ11歳の小学生だった。体の一部分とは彼女の胸のことだった。一月前、胸が痛いと訴えだしてから突如として膨らみ始めた彼女の胸元には、この時すでに���人顔負けのおっぱいが、服にシワを作りつつ大きくせり出していた。事の発端は夏休みに入ってすぐのことだった。最初彼女は何らの変化も無かった。ただ胸にチクリとした痛みが走ったかと思えば始終皮が引っ張られるような感覚がし、夜中から朝にかけて最も酷くなった後日中ゆっくりと時間をかけて溶けていく、そんな疼きにも似た心地がするばかりであった。が、日を経るに従って疼きは痛みへと変わり、胸が膨らみだした。初めの幾日かは様子を見ていた妹は、八月も一週間が経つ頃には自分の胸が異様に膨れつつあるのを悟った。四六時中走る痛みに体の変化が加わって、彼女は漠然とした不安を抱いた。誰かに聞いてもらおうと思った。胸の内を打ち明けたのはある日のこと、俺の膝の上に頭を乗せながら黙々と本を読んでいた時のことであった。「おっぱいが大きくなるのってこんなに痛いんだね、お母さんもおっきいけどこうだったのかな」と、妹は本に目を落としながらぽつんと呟いた。「春、」―――俺は妹の名前を呼んだ。「おっぱいがおっきくなってきたのか?」「うん。でもすごく痛くてなかなか眠れないの。」「それはだいぶ酷いな。ちょっと待ってて、どこかに軟膏があったはずだから取ってくる、」と、そうして俺は軟膏を取りに行った。「これを塗れば少しはましになると思う。お風呂上がりとか寝る前にちょっと手につけて練り込むように塗るんだ。ちょうど今日はもう寝る時間だから早速お母さんに塗ってもらいな。話を聞いてもらうついでに」と、軟膏を妹に手渡そうとした。妹は受け取ろうとしなかった。「今日はお兄ちゃんに塗ってもらいたい、」―――そう言って服を捲くり上げる。身に纏うていた寝間着一枚が取り払われ、彼女の胸元が顕になる。俺は息を呑んだ。妹の胸は本当に膨らんでいた。「変じゃない?」心配そうにそう尋ねてくる。「変じゃないよ、綺麗だよ。さあ、もう少し捲くってごらん、塗ってあげるから、」と軟膏を手に練り込んで、俺は妹のおっぱいに触れた。暖かかった。俺は必死に冷静さを保って塗った。静かなものだった。俺も妹も固く口を閉ざしていた。妹はさらにじっと目を瞑っていた。「いいかい? 今日は塗ってあげたけど、今後は自分ひとりで塗るか、お母さんに塗ってもらうんだよ」「うん、ありがとうお兄ちゃん。少し楽になったような気がする。」「よしよし、じゃあ今日はもうおやすみ。友達と遊び回って疲れたろ」と、促したけれども彼女は不服そうに居住まいを崩さずにいる。「今日はお兄ちゃんと一緒に寝てもいい?」―――そう言ったのはちょっとしてからだった。「いいよ、おいで。少し暑いかもしれないけど、それでいいなら、………。」俺はこの時、あまりにも心配そうな顔をしている妹を放ってはおけなかった。そして聞いた。胸の痛みのこと、胸の成長のこと、不安のこと、誰かに聞いてほしかったこと。いつしか寝入ってしまったその背を擦りながら、眠くなるまでそれらのことを考え続けた。「春、―――お兄ちゃんはいつでも春の傍にいるから、甘えたくなったら甘えてもいいんだよ。これくらいだったらいつでもしてあげるから、」と気がつけば呟いていた。そっと顔を覗き込むと、ちょっと微笑まれたような気がした。明くる日、夜になると先日同様妹は俺に軟膏を塗るようにねだってきた。その明くる日も、またその明くる日もねだってきた。けれども、お盆が終わる頃にはその役は母親に取って代わられた。さすがに誰が見ても妹の胸元には小学生離れした膨らみが出来ていた。母親は妹を連れて下着を買いに行った。E カップもあったということを聞いたのは、その夜いつもの様に妹が本を片手に俺の部屋にやってきた時のことだった。「そんなに大きいの?」と彼女は俺のベッドに寝そべりながら聞いてきた。「ああ、俺の友達でも何人かしかいないんじゃないかな。春はお母さんのを見慣れてるからそうは思わないかもしれないけど、もう十分大きい方だよ。」「そっかぁ。でもやっぱり自分だとわかんないなぁ。お兄ちゃんは大きいと思ってる?」「それは、………まぁ、もちろん思ってるよ。」「お兄ちゃんはおっきい方が好き?」「もちろんす、………こら、お兄ちゃんをからかうでない」「えへへ、ごめんなさい。」妹はいたずらっぽく笑いながら言った。それから二週間弱という時が経った。妹の胸は日を経るごとに大きくなって、異常を感じた両親に病院に連れられた頃には、寝間着のボタンが留められないくらいになっていた。L カップだと母親は医者に言った。「胸に痛みは感じますか。」妹は黙って頷いた。「どれくらいありますか。我慢できないくらいですか。」これにも黙って頷いた。普段ならばそつなく受け答えをするのだが、胸が膨らみ始めた頃から彼女は酷く引っ込み思案になっていた。「少し酷いようです。昼間はそうでもないんですが、それでもやっぱり痛みはずっと感じているようで、胸元を押さえてじっとしていることがよくあります。」俺は代わりに口を開いて言った。「昨日も寝ている最中にうなされていましたし、肌着が触れるのも辛そうです。」「まあ、それは、―――」と、医者であるおばあさんは優しい笑みをこぼした。「それは辛かったでしょう。よく今まで我慢したね。」「はい、………。」「お薬を出してあげるからね、きっと楽になるよ。」「あ、ありがとうございます。」かすかな声で言った妹は、ここでようやく安心した顔を見せた。診察はそれから30分ほどで終わった。両親が結果を聞いている間、俺はあの小さな肩を抱いてやりながら静かに待った。結果は言うほど悪くはなかった。医者にも専門外過ぎて分からないことが稍々あるものの、妹の体は健康そのものだった。俺はひとまず胸をなでおろした。巨乳化の影響が今後どのような形で現れるにもせよ、健康であるならそれに越したことはない。俺はただそう思った。その日も妹は俺の部屋にやって来て、ベッドの上に寝転がりながら本を読んだ。「お兄ちゃんは魔法使いだったら、ふくろうと猫とカエルのうちどれを飼う? 私はふくろうがいいなぁ、………白くてふわふわな子にお兄ちゃんからのお手紙を届けてもらいたい。」―――そう云った時の妹の顔は、本当にそういう世界が広がっているかのようにキラキラとしていた。
実際、妹はその魔法使いの話題、―――はっきりと言ってしまうが、ハリー・ポッターを話題にする時はいつもそんな表情をした。彼女はあの世界に強く憧れていた。きっとこの世のどこかには魔法の世界があって、自分にも手紙が来るかもしれないと思っていた。毎夜持ってくる本は松岡訳のハリー・ポッターだった。どんなに虫の居所が悪くなっても、それさえ話題に出せば立ちどころに機嫌が良くなった。この夜もそうであった。妹は次の日の始業式に言いようのない不安を感じていた。彼女は自分の胸がクラスメイトたちにどう見られるのか、どういう反応をされるのか怖かった。それに彼女は私服で学校へ向かわねばならなかった。胸が制服に入らなかったのである。「どうにかならないの」と言ったが、どうにもならなかった。「行ってきます。」翌日、出来るだけ地味な服に身を包んだ妹は玄関先でぺこっとお辞儀をした。また一段と大きくなってしまった胸は、この時M カップあった。俺は「胸は大丈夫なのか」と聞いた。妹は「うん、お薬塗ったから今は平気」と答えた。寂しそうな顔だった。途中まで見送りに行こうと草履を引っ掛けたけれども、首を横に振られた。「お兄ちゃん、行ってきます、」―――そう言って妹は玄関から出ていった。俺はこの時どうなることかと思った、が、お昼ごろになって帰ってきた彼女は、行きよりはずっといい顔で家に入ってきた。「おかえり、春。学校はどんなだった?」俺はホッとして聞いた。「えっとね、大丈夫だったよ。みんなすっごく驚いてたけど、ちょっと見られただけであんまり。………あ、この制服はね、行ったら先生が貸してくれたから保健室で着替えたの。」言われて彼女が制服を着ていることに気がついた。袖も裾も余っているけれども、胸元だけはきつそうだった。「そうだったのか。貸してくれてよかったな。」「うん、でもちょっとぶかぶかだから変な感じがして気持ち悪い。………」「春は昔から小さい方だからなぁ。まぁとにかくお入り。一緒にお昼ごはん食べよう」「うん!」―――妹は元気よく答えた。それから彼女は今日のことについて楽しそうに喋った。俺は安心した。何となく、これからまたのんびりとした日が始まるように思った。けれども違った。彼女の胸はそんな俺の思いなどお構いなしで大きくなり続けた。薬を塗らなければ痛みでブラジャーすら着けられない日が続き、始業式の日には90センチ台だったバストは、次の週には100センチを超え、次の次の週には110センチを超え、そのさらに次の週には120センチを超えた。V カップ、というのが彼女の下着のサイズだった。「ブ、V カップ?!」母親からそれを聞いた時、俺は思わず聞き返した。「春の胸はそんな大きいのか、………。」「そう、だからあの子に合う下着なんて、どこのお店にも置いてない��よ。」母親は深刻な表情をして言った。妹は、胸が大きすぎて自分が着けるべき下着が無かった。彼女は普通の女性で言うところのO カップのブラジャーを着けて居たにも関わらず、胸が締め付けられて苦しいと訴えていた。俺は時々彼女の無防備な姿を見た。少なくともブラは着けておかなければいけないと思った。あの姿を友達に見られでもしたらと一人心配した。「買うとなると、後は海外のものすごく大きいブラジャーしかなくってね、………。」―――母親はそう言った。果たして妹は、翌々日に初めての海外製のブラをつけることになった。母親が言った通りものすごく大きいブラジャーだった。そればかりでなく、分厚かった。どこもかしこも肉厚で重みがあり、肩の部分にはクッションのようなものが誂えてあった。ホックも四段あって、これを妹が着けると思うと少し可哀想な感じがした。でも、妹は文句も何も言わずにホックを留めて制服を着た。「行ってきます。」と言う声はいつもどおり明るかった。彼女が明るかったのは、そのわずか二日後に行われた運動会を楽しみにしていたからであった。けれども当日、妹は開会式と閉会式に姿を見せただけだけで、後は自分のクラスのテントの下に小さくなって、クラスメイトが走ったり踊ったりするところを見ているだけだった。妹の胸はトラブルの原因になりかねない、として学校は急遽彼女に自粛を要請したのである。のみならず、運動会の直前で不審者情報が寄せられたために、妹はタオルまでかけられていたのであった。俺は耐え切れなかった。2、3の競技が終わるとすぐに妹のところに行った。「先生、久しぶりの母校を見学させてもらえませんか。」「宮沢くんか。昔のように窓を割らなければ別にいいが、くれぐれも物だけは壊さないように。」「ありがとうございます。もちろんです。―――小春、一緒に行こう。」「えっ? う、うん、―――。」先生は何も言わなかった。結局俺たちは校内を散策するのにも飽きると、閉会式まで黒板に落書きをして遊んだ。妹は星やふくろうの絵を描いたりした。テントの下で居た時よりもずっと楽しそうな顔で、………。そしてその夜のことだった。「お兄ちゃん、入ってもいい、………?」彼女にしては少し遅い9時過ぎに、妹は部屋にやって来た。「春か、………おいで。」「お勉強中だった?」「大丈夫、ちょうど今キリが良いところまで終わったから。」「ほんとに?」「まぁ嘘だけど、遠慮せずに入っておいで。」「ごめんね、おじゃまします。」そう言って入ってきた妹を見て、俺は少なからず狼狽えた。彼女がいつもハリー・ポッターの松岡訳を持ってくることは言った。けれどもその日は本ではなく、いつか病院で処方された塗り薬が携えられていたのであった。「お兄ちゃんにお薬を塗ってほしいの。」………そう彼女は言った。「………鍵をかけてこっちにおいで。」俺は読みかけの本を閉じた。カチリという音はすぐに聞こえてきた。大人しく従うということ、妹は理解してこの部屋にやって来たのである。目の前に立った彼女を、俺は見つめた。「服を脱いでごらん。」妹は小さく頷く。裾に手をかけ、ゆっくりと寝間着を脱いでいく。―――「ブラジャー、だいぶきつくなってきたな。」「だって、もうY カップもあるんだもん。ブラなんてもう外国にだって無いかも、………あっ!」「どうした?」「ホックが、………。」「お兄ちゃんが外してあげる。」と、俺は背中に腕を回して外してあげた。ホックが外れると、ブラジャーはすぐに彼女の足元に落ちた。あのY  カップだと言った妹のおっぱいが目の前に現れる。「お兄ちゃん、どう? 私のおっぱい、こんなに大きくなっちゃった。」「すごいな、春の顔が小さく見える。」「お兄ちゃんの顔も小さく見えるよ。倍くらい大きいかも。」「さすがにそんなにはないだろ。触ってもいいか?」「どうぞ。―――」俺がおっぱいに触れた時、妹はビクッと体を震わせた。だが嫌がっている様子はなかった。びっくりしただけのようだった。そして、もっと触って欲しそうにもたれ掛かってきた。「お兄ちゃん、私、―――。」その後、俺は妹の胸に薬を塗ってから今日の出来事を日記にしたためた。主に運動会のことについて書いて、妹が部屋にやって来てからのことは書かなかった。俺が日記帳を閉じた時、時刻は既に12時を過ぎていた。妹は静かに眠っていた。嘘のように可愛いかった。こんなに小さな体をしていたとは思わなかった。「ごめんな、春は痛かったろう。明日はゆっくりしてな。」俺は明かりを消して妹の傍に臥した。翌日、学校から帰ってくると机の上に一通の手紙があった。内容は俺への感謝の気持ち、友達のこと先生のこと、自分の胸のこと、そして運動会への悔しさと、―――11月にあるマラソン大会では絶対に走りたいという思い。それらが妹の綺麗な字で綴られていた。「お兄ちゃん、いつも私のおっぱいを心配してくれてありがとう。とってもうれしいです。これからもよろしくお願いします。小春より。」俺はマラソン大会に少しく不安を感じながら、同じように返信を手紙に書いた。そしていつか買っておいたふくろうのぬいぐるみと共に、妹の机の上に置いた。
(―――だいぶ長く続く―――)
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kkagtate2 · 6 years ago
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azsklhjebf/awhjkilebf
先年、とある二つの一軒家にて二人の男女の遺体が見つかつたと云ふ。一方は県中央部の騒々しい住宅街にて、他方は県境近傍ののどやかな湖畔沿いにて、前者は男の家、後者は女の家、二人は夫婦でありながら既に別居状態、こゝ数年間は交流すら途絶えてゐ、知人の少ない女はもとより、男の方も仕事場の同僚に拠れば、めつきり夫人の噂を聞くことは無く、前々から変はつた人だとは思はれてゐたが、矢張りこゝ数年間は殊におかしく、気狂いのやうに意味の分からぬ戯言(たはごと)を云つて、突然息を荒げ出すことが珍しくは無かつたのださうである。司法解剖の結果から両者共に服毒自殺との判断が為され、静粛な葬儀の後、早々に、夫の方は夫の親族の眠る墓地へ、妻の方は其の母親の傍に埋葬され、今となりては地下にて眠る。死んで尚離れ〴〵になりしまゝ、如何があらむとは思へるが、残されし遺書の何方にも、さう願ふ旨が記述されてゐるとの事。幸ひ男の御両親に話を伺ふ機会に拝見した所、我々夫婦にとつて最も良い埋葬法とは、互ひを切り離し、声の聞こえ無いやうに、目の届か無いやうに、何処にゐるのかさへ分から無いやうに、存在を悟られ無いやうに地下へ埋めることのやうに思へる。願はくば此の身を其の地へ、妻の身を彼の地へ葬り給へ。心安く還りなむと柔らかな筆跡で綴られてをり、その後に、されども我妻が安らかに眠れるやう、無いとは思ふが意見の相違がある場合は譲る事にすとあり、凡そ埋葬先までは示し合はせられてゐなかつたと考へらる。交流こそ無けれども、夫婦揃つて同じ考へに至るは愛の為せる偶然か。伺つた先々に於いても、互ひの凹凸の見事に嵌つた、付け込む隙の無い夫婦でありはしたけれども死に際まで共にするとはと偲び〳〵此の事件を語る。蓋し読者の中には妻の愛など疾うに無くなつてゐると考ふる者が居ようが、当時の日記から、夫の気が狂うてからも思ひ続けてゐた事は事実にてある。けふもまた好みのけしやうをし、いつものやうにほこり一つないよう家ぢうをそうじゝ、いつものやうにふたり分のれうりを朝晩つくり、いつ連絡があつてもいゝやうに受話口の前にたゝずみ、いつたずねられてもいゝやうにゑ顔をたやさず、いつ求められてもいゝやうに体を清め、写真をながめてはため息をつく日々にたえきれなくなつてゐるやうな気さへする、向かうにあるなくなることのないみそ汁にすら思ふことおほしと記してある事から、生木を裂く心地にあつたゞらうと思はる、浅はかな推測は差し控へるべし。事実、十五もの歳の差のある夫婦なり。其れ程の歳の差なれば、例には行き違ふ日も出来るべき、理解し合へぬ事もあるべきなめれど、先達て友人の伝を辿り、男の上司に当たる大学教授の端本幸希氏に話を伺ふに、寧ろ、話してゐる内に何方と喋つてゐるのか分から無くなるまで、似通つた夫婦であつたと、又、余り似過ぎてゐるのでおつかない感じがしたとも仰る。彼の変はり者として名高い端本氏だに此のやうな印象を持たるゝのであるから、両者の差異は単に生殖器の違ひでしか無い。何故其処まで似通うてゐたか、思ふに、女側が擦り寄うてゐたからでは無いか、其れすら勝手な想像ではあれども、見初められた時分、未だ少女とも云ふべき年齢であつた事実を考慮するに、憧れにも似た心地を抱きて、知らず識らず男の考へに染まりつゝあつたのでは無いか。而して己に残つた己が別居後に開花する事も無く、正確には開花する前に、終には果敢無くなつてしまはれたのでは無いか。其の可能性があつたからこそ、男は遺書に、無いとは思ふが意見の相違があつた場合はと書いたのでは無いか。死人に口無しと云ふには少々違ひはあれど、今となりては聞くことも出来ず、矢張り想像するしかあらず。斯と云つて安易に推測するべきで無い特殊な夫婦事情に、件の事件に纏ひ付く不思議な香りの原因があるとの事、本物語は事件の解明を目的とした文章では無い事と共に此処に記す。
  とばかり陽を見るのも難(むつか)しき夏の頃、同好の士が云ふに、新聞記事の隅に興味を惹くべき内容が載つてゐるとあり、大学図書館を訪れたのが、深入りをする端緒となつたのであるが、凡そ一年(ひとゝせ)の月日を経て男の家を尋ぬれば、青紅葉の美しく生え渡る季節にて、庭には大きな木陰が出来、家の壁、隣家との境には何とも知らぬ蔓草が蔓延り、入る前より耐えられぬ心地となる。周囲の家々、地域柄を思ふと、尚更哀れに感じらる。三階建ての、黒緋(くろあけ)に似る濃い色の洋なる邸宅に加えて、日本家屋めく小さな離れあり、蔓、草、共に避けるが如く其処には生えぬ事から、此の離れが男の部屋だと察す。思ひきや其の佇まいは未だに人が住んでゐるやうで、母屋も蔓に覆はれてゐるのみで、見える壁、窓、屋根、塀、柱、どれも雨の跡すら無く、察するに単に手入れを怠つた結果か。子を失くした親は廃人のやうにて早々に発つ。扠、女の家に赴いてみれば、湖畔のほゞ湿地帯に位置するために、虫の飛び交ひが酷く、加えて木の生い茂りも酷ければ、道と云ふ道、家と云ふ家、店と云ふ店から断絶され、地平面となる湖のみ目の前に見える、侘しい日本家屋なり。蔓は伸びぬものゝ此方には竹が、皮を足元に散らしながら息苦しいまでに生ゆ。春先まで親縁の者が住み込みで遺品の整理に当たつてゐたと云ひ〳〵、筍を処理せず、其れ切り来客すら途絶えて久しいと見える、あらはに毀ち散らされ、破れ〳〵に成つた障子の隙間から中の気色を覗くに、粛として乱雑、未(いま)だ二十歳代の娘とは思へぬ程、古代の家財道具が立ち並び、褥一つ取りても平らか且つ不揃いの布に縫���れ、落つる書籍は並(な)べて茶色に染み付き、唯一の電子機器である電子風琴(オルガン)に至りては、骨董品とも云へる型にあり、女の暮らしの非情だつた事が察せらる。彼女はね、生まれる前からものすごく貧乏だつたのだよと同好の士が云ふ。事に凡そ三十年前、未(ま)だ産声すら上げられぬ頃、母親の胎内に其の種を撒きし男が絶えてしまはれた事から始まつた一家の凋落に、気づけば自身は見窄らしく、幼年期より耐へ忍ぶ事多く、汚げな身形をはひ隠しがちに、常に孤独、後年の口癖に、捨てゝも見放してはくれるなとあるは、幼き心の傷の名残だと解釈するが良からう、特徴の一つである卑屈な性格も此の時点で早くも醸成される事になる。尚、父没前の生活は定かで無い。ある者に問へば豊かな生活を送つてゐたと、別の者に聞けば買ふ物も買へぬ日々を送つてゐたと云ひ、全くの不明瞭であるが、後の母親の言動から状況は良からじ。甲斐無き人にありはしたけれど、家を譲らばこの身も、と。対照に、男の家は今よりも一層富み栄え、地元紙に拠れば、時を同じくして頂点に達すとあり、話題に上げるには未(ま)だ早いにしも、何故男が此の卑しいばかりの女に惚れたのか、抑々見る事はおろか、知る事さへ叶はぬ身の丈の違ひのみならず、既に行末も定つてゐるやうな女童の後見をするには見目悪く、事実、残された写真を見るに、美麗とも可憐とも決して形容出来ぬ其の姿は、田舎者特有の晴れぼつた顔立ちに、汚げにねぢくる髪、痩せて甚く細うなりし肢体を持ち合はせ、褒める所無く見ゆるものから、同時に、眉の甚く優しげに垂るゝ様、手付き口付きのいとつゝましやかなる様から、儚い愛嬌を感ぜられもし、世の中に良くあるやうに、斯くある少女こそ美しげに育つと見抜いてゐたのか、其れとも何者にも染まらぬ無垢な少女に変態的な欲望を抱いたのか、其れとも己とは全く趣を異にする少女に不思議な魅力を感じたのか、本人以外の口をして語るべきにあらず。湖の先に綺羅びやかに消えて行く太陽まことに美し。頑な親に捨てられ、恨みも無く独り小石を用いて遊ぶ様を、引き込まれるがまゝ湖畔沿いに佇みながらたゞ思ふ。
  出会ひは唐突であつたと云ふ。時、女十二、男二十七の秋。家の様子は今と然程変はりは無かつたと云ふ。理由は定かで無けれども、酷く気を病む事があり、紅葉の名所として名にし負ふ彼の地に静養中、湖の周りを歩(あり)いてゐる内、一軒の寂れた家の屋根が見えて来、此のやうな家は今の今まであつたかと驚いて赴いてみれば、無人の如く静まり返りてゐたと云ふ。無常な心地に包まれて立ち止まつてゐると、後ろから呼ぶ声す。どちらさまでいらつしやりますかと思ひの外稚い女の声なれば、再び驚いて、振り返つて其の姿を見ゆ。残念ながら誰も其の時の様子を見た者は居らぬし、結局推測するしか無いが、女の日記帳に、なぜ、どうして、などの言葉が立ち並ぶ事から、実際に口に出した言葉もさうであつたかと思はれる。互ひに見つめ合ひながら、湖のさゞめくを聞くとは我が想像に過ぎず。後に、運命とは斯くある事を云ふのだよ、君のは全くもつて平凡で詰まら無いと惚気ける程の出会ひ、両者共に親煩ければ、静養中は密かに立ち寄りて見つゝ、種々の施しを与え、契を結び、時には遥か遠くにまで連れ出し愛づ。都会に帰りて後、暫し間を開けて逢ふ。以降、半月に一度程度の頻度で逢つてゐたとは友人の証言だが、男がありつる家に訪れる事は最早無く、一方的に女を呼び寄せては前段の離れに閉ぢ込めてしまひ、況して独り暮らし得る住処であれば、家の者すら気づきもせず。やう〳〵訝しんでみれば、酷く口上手な男に、唯一秘密を覗きける猫をして丸め込まるゝに、あの日本家屋めいた離れの中で何が起きてゐたのかは全く不明である。防音処置された一室に、幼少期より慣れ親しむ電子風琴(オルガン)あり。習はせてゐたとは男の証言にて、取り繕うた言葉には違ひはあらねども、而して女の母に嗅ぎ付けられる契機となつた事実を顧みるに、事実、事実にてありけるべし。二つの風琴(オルガン)とは二人の母の物である。読者は此の共通点、如何が思へるか。並べて世の例に漏れず、姦通の有無を疑はるゝにあたりて共に首を振らざりしを、行為に及んでゐたと解するは尤もであり、結果、其の後(ご)数年の時を隔てる宿命となるが、否定するも肯定するも、如何ともし難いやうに思へてならず、虚実をもつて引き裂かれし思ひの程、如何があらむ。男の体には火傷の痕がある。まだ幼き時、過ぎたる悪戯の一貫として火の燃え盛る焼却炉に体を押し付けらるゝに、左半身は臀部から腰、右半身に至りては肩甲骨近く且つ右腕の根を焼き焦がし、溶けた衣服が皮と肉と一体となりて泣き叫ぶが、多くは醜い瘢痕として残り、心をすら蝕みてある様にてあれば決して人に見せず、たゞ女のみ甚く心を痛めて、なぜまだこれが私にもない。なぜ彼ばかりなのか。おかしい。この世は壊れている。と思ふ事から、男の生肌を彼の離れの一室で見たは事実、然れども性交を行つてゐた事実には関係あらず、先にも云ふやう常識の通じぬ夫婦にて、例へ互ひに息を切らしながら抱き合うてゐたとしても、安易に決めつける事無かれ、事実はより捻くれるに、我々夫婦には夜の営みなど必要ない、たゞそこに居てくれさへしたらよい。抑々考へて見給へ、僅か十二歳の少女と体を混じらはせるなど強姦に相当するではないか、そんなこと、貞操観念の堅い我と彼女がするとでも思ふのかね、と語るのすら意味を持つ。後の段にて詳しく述べる。火傷の傷跡、女の心に強く残りて夜離(よが)れの日々を送るうちにも、辛きことを嘆く。此の時男の飼ひし猫が死ぬに合はせて、唯一の友人である佐伯苗香氏を事故で失ひて、予てより燻つてゐた過ぎたる悪戯を受けるが、如何に除け者にしやうとも、如何に暴力を振るはうとも笑つて済ます、又は、親より受け継がれし強情な気質を以て反逆をす、結果、心の傷となりて残るを、当時の人物の云ふ、感謝すると云ひ微笑む仕草、再び薄汚く成り行く身形なれば、時を待たずして収まる。一方の男、再び気を病みて療養との事だが、静養地に湖の沿岸を指定するは、爽やかに移ろひて行く景色のみならず、密かに女の様子をはひ隠れ見るためであるとは、夜な〳〵彷徨ひ歩(あり)いて日の上ると共に帰る行動からも、彼はそんなに辛さうにしてゐなかつたといふ端本氏の証言からも容易に理解出来る。昔人に擬へて忍び〳〵に会ひ、遣戸を引き開けて同じ月を見、時には静かな声にて歌をすら詠んでゐたと知る者は云ふ〳〵。然と思はせて実際には堂々と会うてゐたやうだが、一体誰が知つてゐやう。
  端本氏の評価に拠れば物事を整理、整頓し、尚且つ其れを公の場で伝ふ能力に長けてゐたとあるを、狡猾に用いて女の教育を承りて、会ふ事を許されて後、例の屋敷に日々引き入れて教へるを、矢張り人の聞こえが程々に悪うて、家の者は当時の彼らには嫌と云ふ程困らされました。お二人ともご主人様のお言葉をお聞きになりませんから、間に立つ私がいつも被害を被つてをりました。中でも特に頭を悩ませたのは、女様の通ふ学校の先生が御出でになつた時でせうか、注意喚起をしたいとおつしやりましたが、男様は帰つてもらへと一言。もちろん引き下がりなどしませんので、しばし往来してゐると、不機嫌におなりなされた男様に、お前は云ふ事が聞けんのかと云はれ〳〵、恥を知れとも云はれ〳〵、泣く〳〵ご主人様に訴へますと、今度はあの子も色々あるからとおつしゃつて相手にしてくれません。困り果てゝかの離れに三度伺ひますと、蛻の殻のやうになつてゐまして、言訳を致しますのにどれほどの時間がかゝつた事やら、あの時ほどこの家を離れやうとしたことはありません、と語るを聞くついでに、仕事を取られし恨みも聞く。時に女、十四歳となりて既に真似事でもなく男の妻として身の回りの世話を行ひしに、部屋の清掃をすら行ふ。でなければ彼の部屋は紙くずで埋め尽くされてしまふ、私がやらなければ誰がやると云ふのか、特に雨の日は朝に行つたとしても床が見えぬ程騒然とするから、かさの増えた湖に足を取られつゝも、あの屋敷へと向かはねばならない、と義務感に駆られてゐたと云ふが、此の紙屑なるものは男の用いた計算用紙であつたことが察せられる。端本氏の云ふには、世の成り立ちを希求する学問の中でも殊更に計算量の多き分野に属し、等号の次、等号を書くまでに紙一枚、二枚を隔てるは大抵の事、時には作用の構成に半年を掛く、気力集中力を持たねば力尽く、床を紙で埋めども自然な事、男は深夜にかけても計算を行ふ、臥す間に女が片付ける。まことや女に学問を教ふに、いよ〳〵交際を公言するやうになりなば、嘗ての同僚福井大貴氏曰く、あいつは俺と同じくらゐ理解力がいゝ、なまじ完璧な馬鹿よりはあのくらゐあつてくれた方が助かる、と誇りを持つて云ふものを、されど伝へ聞くに、女は然こそ賢くは無し。当然の事、此れまで本を読むことも出来なければ、学ばうともせず、耳につく事其のまゝに過ごしければ、感覚が育たぬ。机に向うのさへ厭ふやうであれば、救ひやうもなし。世に良く云ふ、一年の勉学のみをして大学の地を踏む物語は夢物語にもならず。そも人のやり方を真似して、己の体質に合はぬ方法をし続けて何になる、全ては世の人の言葉を全て忘れる事から始まるとは男の言葉であるが、全く持つて其の通り、思慮も無く著名の人を信頼するは白痴のする業なり。女幸運にして幸ひに、傍に仕へて感覚を養ふと共に教へを受け、甚く努力をして次なる段階へと駒を進め、男は其れをも大なる声を以て福井氏などに云ひ放ちて暫し疎遠となるが、此の無学な女を才(かど)ありと言い張りしが災ひとなりて、教師と生徒の淫らな関係を訝しめらるゝに、女の傍ら痛きを強いして春の時分、桜の咲き乱るゝ丘陵地帯にて花見を行ふに引き連れて、姿を公に晒して、見目形など前評判と少々違ひければ、幾許か物足りなく感じるものゝ、元はあの地の生まれにしては華奢で愛らしく、話し掛けば押しも引きもせず至極上品に笑ひ、男の傍から離れぬを、時が経ちて場に慣るゝにやあらむ、話してゐる傍(はた)から口を挟み、思ひ浮かんだ疑問質問意見を率直に述べる、果たして誰と似通ふかなと思へば男であり、彼の端本氏の云ふ、話してゐる内に何方と喋つてゐるのか分から無くなるとは此の事、福井氏も又同様の事を思うて、この界隈はその方が都合がいゝことが多いのだけど、あの歳にして物怖ぢをしないのは逆にこちらの方が恐ろしくも感じると云ひ〳〵、あんなに言動が逸脱してゐる彼と対等に渡り会へるのは彼女だけだつただらうと思ふ、似た者夫婦だつたよとも云ふ、華奢で愛らしい女の様子、如何に見たいと思うてももうをらぬ。花見は春の凪にて穏やかに進み、紛れ込んだ一輪の花に、男も女も皆挙つて湧き上がつたとぞ。
  扠、花見の際、福井氏は女の姿を一目見て大層驚いたと云ふ。此の方、男の良き古き友なれば種々の内証事を教へるに、断じて漏らしてはいけないと云ひて変はつた趣味を持つ事も語り、写真文章其の他を我に見せる、皆女に似る女性の写真なり。此れは彼かと同好の士が尋ぬるに驚いて今一度見れば、顎の形、肩の盛り方、手首の尺骨、指の関節、出ぬ尻など、どれも男性の特色を滲ませてありはするものから、目元口元頬鼻のみ見えれば矢張り女其の物の顔とのみ見ゆ。同好の士のさらに云ふ。彼は女装癖を持つてゐたのだよ、と。福井氏に拠れば元々女装癖自体は凡そ少年時代から行つてゐ、其の筋の催物にも屡々足を運んでゐたやうであるが、二十台後半、詰り女と会ひし時より隠れた趣味とは最早云へぬ程打ち込み、日常に於いさへ何処か色気を発するやうになつてゐたと云ふ。召し物も然る事ながら、髪の毛も鬘を被らぬやう長くし、手入れを怠らず。振り向けば匂ひ満つ。体を痩せに痩せさせ、骨の太きを取り繕ひ、逆に胸に至りては、何をしけるにか、詰め物をせでやはらかに丘を為す。書く文字をすらたをやかなるを、目付き口調から其の姿は強く美しき女性にて、男は元より女にも云ひ寄らるゝ事多し、或る時暴漢に襲はれ声も届かぬ室内にて衣服をひん剥かれしに、男と思はず両性具有と思はれ、暴漢の股座萎える事無く突き抜けさうになりて以来、少々隠るやうなるけれども艶やかな魅力消えること無し。たゞ何故己の女に姿を寄せてゐたのか。福井氏の写真に映る男は何れも将来妻となる者とほゞ合致、二人で写るもあれば、同じ顔をして笑ふ。昔、例の離れ屋に入らせてもらつたことがあるんだが、あの中ではあの子の服を着ていたみたいだと福井氏の云ひしが、同好の士、女もまた男物を着て、外を練り歩く。見給へ、背丈さへ揃へば男と同じだらうと、或る写真を指差すを、よう考へれば、性交の有無の一件も自ずと理解されやう。男も変態であれば、女も変態である。惟ふに変態とは体を重ねて欲を満たさず、遥かに尊い悟りの中で性の喜びを感ず。理解出来ぬならば、己に眠る真(まこと)の性癖を目醒してゐざるに過ぎず。奇しくも互ひに似通ふ変態なれば、服を取り替へ化粧をし、並々ならぬ衝動を抱ふるがまゝに、女は女となりし男の姿を、男は男となりし女の姿を、互ひに眺めるのみ、性交は無し、あらば男は女の物を、女は男の物を��りて手淫するまで、接吻だになかりけるべし。時を経て、俄に愛する者に近づきつゝある自身の姿も又、格別なるべし。福井氏は男の秘密を知る者にて、入れ代はり立ち代はり、日毎に互ひの姿を真似して恰も振り子の如く性別を入れ替へる二人と共に永平寺へ訪ねるに当たりて、ぱら〳〵と海苔の懸つた、五目飯(ちらし)の下等にはあらぬが、鮨を食ふとて暖簾を潜りて腰を下ろすに、色違ひの着物だつものを着なし、髪の長さは同じにて、同じ化粧、同じ装飾、同じ仕草、同じ気色、夕闇の小暗き店内、声すらも真似て話をするは真に恐ろしき有様、されど其れこそが彼の夫婦の性癖なれば、時折目を血走らせて熱き息を苦しげにつぐ。柿葉鮨のほのかな匂ひに、鯖の脂の旨味、酢飯の滑らかな口当たりなど、何も感じず。店の者に如何為されたと憂へらるれど、茶を飲みて取り繕ひ、共に席を立ちて厠へ向いて、返つてくれば同じ笑顔にて、此の俺の耳元の艶めかしいのが美しいと女の耳を舐りながら、此の私の鎖骨の隆々としたのが美しいと男の首を舐る、魚籠の中に鮮魚(あざらけき)は採れてゐたか。採れず、代はりに蚰蜒(げじ)の大なるが入る。ならば刺身にして食はせよ、俺も食へ。其れは天照大御(おほん)神の悪み給ふ事、斯く口賢しき書は神風にて沈む。古も斯くやは人の惑ひけむ、などゝ語り合ひしが耐へられず、先に店から出たものゝ宿にても斯くあるを、次の日になれば睦まじい男女となつて、精進料理を細やかに食す。流石に仏様の御前では煩悩を直隠(ひたかく)しにして跪く事にしたか。けふは男の姿にて、同じ器の同じ料理を同じ分量だけ箸に取りて、同じ時に口へ運ぶ。互ひに美男ではあるが、却りて無気味な心地に包まるれば、其れ切り二人を置いて逸早(いちはや)く大阪へ帰り、後の事は想像もしたく無いと嘆く。尚、当然の如く、二人の間に子供は居ない。要らぬ。此の俺に子供など、邪魔になるだけである。少しはまともな思考をしたらどうかねと子をなす事を勧めた者を邪険に扱うたが、過去に孕ませた女の子と屡々人目を偲んで会ひ、養育費教育費其の他諸々を生涯に渡つて援助し続けたとあるは、自分の妻以上の高待遇故、未だ以て理解出来ぬ事である。
  純潔を守り通す事がどれ程の意味を持つかは二人にしか分からぬが、結婚すらも厭ひて、女が学業を収めるが変はらぬ生活をし続け、約二年の時を経て叔母をして云ふ、神に仕う奉る巫女となれと、首を振りて肯定するに、先の叔母の仕る神社なれば疾く巫女となり、疾くしろたへの小袖に色鮮やかな緋袴を着なして生業と為す。時に女、二十歳となりてあざやかに育つ。髪を結ひ、朝靄の幽かに広がる中を悠々と歩く様、口寄せの時代を彷彿と、恰も神との戯れをなし得るが如し、由々しき思ひさへす、背筋が冷えに冷え入りて、汗が止まらぬ、あの有様では物の怪をも飼ひ慣らせるめり、物恐ろしとは叔母なる者の云ふ事、甥が初めてあの者を連れて来た時分、大して可愛くも無いと率直に思ひはしたが、あのやうな艶めかしい美女の様相を呈するやうになつてゐたとは。仕事ぶりも悪くは無ければ愛想も程々に良く、度々近所の子どもたちに神社での作法を教へてゐたと云ふを聞くに、其の微笑ましき様子を絵にでも書きたいと思ふものを、更に聞けば、此の時神社に移り住んでゐたと云ひて、男との交流も途絶えがちに雑務、神主の補佐に打ち込み、夫はどうしたと聞けども、彼は忙しい身ですのでと答えるのみで要領を得ず。寧ろ同じく神に仕う奉る同僚の巫女と共に、未婚女性としての悩み愚痴を云ひ合ひ笑ひ合ふ日々を過ぐす。或る時、或る者云ふ、其れ程愛しき女に男居らぬは奇し。居るべきなりと。女大いに恥じらいて云ふ、凡そ十年前より思い染める者ありと。嘸(さぞ)かし酷く妬まれ、酷く羨ましがられたであらう。巫女の仕事は力を伴ふ仕事にて、辛くも苦しくもあらめ。されど神社に仕る人々、皆良き人なれば、此の時ばかりは女も頭を悩ませず充実してゐたと、叔母なる者は云ふ。此れらは恐らく男の計らひであつたゞらう。男も又女の自慢をせざりければ、一体どうした、到頭(たうとう)逃げられたかと云はれども否と答ふのみにて、上司同僚には口を閉ざすが、酒の席にて酔の廻りし時、直属の生徒に対して、俺は俺に世の中といふものを知つて欲しかつた、俺は俺以外の人間を何も知らぬ。それでは対応にならぬと珍らかに落ち着け払ふ声にて云ひ、其れから女がありし湖畔の家に帰るまで、身を案じ続けてゐたと云ふ。巫女装束を艶やかに着なす女の姿いとたをやかに、噂を聞きつければ己も買うて髪を結ひ、眉を剃うた其の姿、姿は見ねども瓜二つであつたとは、云ふべきにもあらず。夫婦の離別は斯く始まるが、男の祖父亡くなりし時、女の母、予てより病を患ひければ、雪のはら〳〵と降り積もる師走十五日、愈々(いよ〳〵)面は黄に、肌黒く痩せ、古き衾(ふすま)のうへに悶え臥すやうなる。粥を作りて与へるが口の先にて舌を以(も)て吐く。水を飲めども息苦しきに噎(む)す。女の身にて子を一人成人にまで養はゞ、斯くの如くなりけるか、痩せ衰へたる指にて箪笥の元、衣類に高く埋もれたる山を指す。親族は無し。女が近寄りて山を掻き分ければ、鴛鴦、鶴、鶴亀の描かれし三枚の風呂敷なり。共に白髪の生ゆるまで、叶はぬ願ひを娘に託して戌の中刻に、遂に絶え果てぬ。身は冷え〴〵と、相貌も疎ましく変はり行く程、たゞ其の胸に抱きて、暗う物怖ぢせざるを得ぬ家の中、男も来て共に悲嘆に暮れる。明朝、湯を沸かすとて厨に立つ。此の程、誤つて薬缶を足の甲に落とし、流れ出た熱湯に女は重大な火傷を負ひて、家の中を這ひずり回り、凍てつく湖の水にて足を冷やすを、醜い痕となりて其の後数ヶ月間、靴すらも履けず。以前読みし小説に、狼狽の餘りの所爲でもないその夜春琴は全く氣を失ひ、翌朝に至つて正氣付いたが燒け爛れた皮膚が乾き着るまでに二箇月以上を要した中々の重傷だつたのである。などゝいふ一節があつたが、此の女の場合は治癒までに一ヶ月も要せず、何を以て数ヶ月も生足で土を踏みしめてゐたのか、佐助のやうに師と同じ傷痕をして同じ世界に住む悦びを感じたのか、もう語れる者は居ないが、あゝ、待ち遠であつた、時間が問題だつたのだ、私にも漸くあの醜い瘢痕が出来上がる喜び、最早云ひ様もないと歓喜に湧き上がれば、跪きて、否、時間とは無意味である、我は毎日、時間を空間にし、時間を空間と共に回転させ、尺度をも変へる者である、かうなるのは当然の事、と、ほの白い脚、其処にへばり付く瘡蓋に愛ほしく口付けす。己も背中の瘢痕を曝け出し、足首の肉を食み出せば、云はれずとも口を大きく開け、ぬら〳〵と濡れし舌で舐む。此の一件を以て巫女の職を辞し、二人は契りを交はす。されど男は例の離れ屋敷にて、女は例の湖畔を望む家にて住む。男の女装癖は此の時が頂点だつたと見える、性転換こそせざるものゝ生きる全ての時に於いて女物の服を着、毎朝化粧に時間をかけ、厠へ行けば鏡の前にて小一時間佇み、遠出をすれば男を誑かす、如何に変人の多い界隈と云へども其の佇まいは限りなく異質、時には講義中、股間を膨らませ、俺が、俺が、俺が、俺が居る、俺が居ると声を荒げて、棟から飛び降りるが如く階段を駆け下りて居なくなる事すら少なくなく、言動の著しさが原因となりて謹慎を受けるに、女から譲り受けし巫女装束にて舞を踊る。女も又、男物の衣服を着、嘗ての職場へと足を運んでゐたさうだが誰も気づかず、其の事実を以て夜な〳〵淫猥な声を発しゝが原因となつて捕まへらる。然れども男は女への愛を忘れず、女は男への愛を忘れず。如何なる時も女の身を案ず。如何なる時も二人分の酒飯の設けをす。けれども見ることは最早あらず。死の決意は婚約から三年後の事なり。男の手記には、限界だの一言。女の日記には、限界だの一言。最後の最後、毒を貰ひ受けるに当りて偶然の再開を果たすが、言葉も交はさず。冒頭部に戻る。両者の遺言に沿うて男は三親等乃至四親等の親族のみ、女は嘗ての同僚の内数人のみを招いて同人数とし、厳かな葬送を行いて骸を遠く離れた地へと葬り、弔ふ人はまばらにてあるが、向い合ふ二人の墓の気色、恰も空の上にては一つの雲となるが如し。尚、毒を譲つた者が何者であるか、其れは我が興味の範疇外にて関係者各位の尽力に期待する事にす。
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kkagtate2 · 6 years ago
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やまのこみち
紹介しといて何やけど、あの人昔から呪はれてるみたいで気色悪いけん、気いつけときなさい。まんでなんかあつても、あたしらなあんもできんけんな。んなことなつたら、あんたもなんちやならんやろ。ま、うんでもえゝ云うんなら、止めはせんけどと、かなり怪しげに紹介された住職の元へ赴いたのは、もう夜も更けてすつかり暗くなつた頃合ひであつたから、傍に生えてゐる何々と云ふ草のざわ〳〵云ふ音に怯えつゝ、お邪魔しますと云つて出てきたのは、顔色も良ければ感じも良い、つるつぱげの男であつた。
話はお聞きしてゐます、今日は山を超えてお疲れになつたでございませう、大したものではありませんが夕食と風呂を用意してをりますと云ふのがありがたく、挨拶もほど〳〵に体を清めて呼ばれるがまゝ食卓に向かうと、てつきり精進料理めいたものが出てくるかと思へば、そこには意外にも魚の煮付けだつたり、魚の竜田揚げだつたり、魚の和え物だつたり、魚の出汁でとつた味噌汁だつたり、手まり寿司だつたり、うどんだつたりと、兎に角、魚料理ばかりであつたが、どれもこれも豪勢で非常に美味い。特に鮎の塩焼きが美味で、三匹も頭を残して尻尾まで食べてしまつた。香ばしい匂ひもさることながら、ふつくらしつとりと湯気の立つ白い身は、骨すらも柔らかく、もうほとんど巡礼の終はりである者にとつては、これほどまでに食欲を掻き立てる食ひ物は無い。いくらでも食べられますでせう。明日の朝もおすそ分けしてくれると思ひますから、またお焼きしませうかと、怪我をして手の部分が丸くなるほどに包帯でグル〳〵巻きになつた左腕をかばいながら、器用に自分の分の鮎を食べ初める。さすがにこの地域の特産だけあつて、うどんも美味い。顎が疲れるかと思ふほどの食感も、いくら啜つても途切れることのない長さも、角のはつきりした切り方も素晴らしく、出汁がちやつと甘いなと思つたら、この辺りではいりこで出汁を取るのだと云ふ。と、そこでチリン! と云ふ軽快な音がしたので振り返つてみると、そこには一匹の大きな黒い猫が扉を潜らうとしてゐたのであるが、あまりにも大きいので、最初はRetriever 種の犬が部屋に上がり込んで来たのかと思つて、うわあ、何だ〳〵と粗忽(そゝ)ツかしく絶叫してしまつたものゝ、見てゐると、クン〳〵と机に足をかけて匂つては住職にはたかれ、匂つてははたかれして、しまひには、にやうん、……と悲しげな声を上げてこちらを見て���る。お前の分もあるけんやめんかと猫に云ひ、ちやつとこの子をてがつといてくれませんかと私に云ひ、冷蔵庫へと向かい、大きめに切られた刺し身数種と、さう云へばお出しするのを忘れてをりましたがついでに酒でもどうですかと、凱陣の一升瓶を持つて来て、刺し身の皿を猫に、杯を私に手渡してくれる。
それからは、歩いて弘法大師様の道を歩かれる方は久しぶりでござりますので、ぜひ話を伺いたく、……などゝ云ふので、これまでの旅の心もとなさを語つた。特に隣県のやまあひを歩く時なぞは、人も居なければ車も通らず、家もあるにはあるけれども、抜け殻のやうに触れば崩れさうで、旅の始まりだから余計に寂しかつたと云ふと、それは大変でございました。わたくしもあそこに行くことは度々あるのですが、車に乗つてゐたとしても音楽を聞きながらでないと、とてもではないですが通らうとも思ひませんと、心底尊敬の籠もつた眼差しをする。そのあひだにも、大きな猫は猫らしく、非常に美味しさうな口をしながら住職の周りをウロ〳〵したり、手やら腹やらを舐めて毛づくろひしたり、こちらを不思議さうな顔で見つめてきては、グイ〳〵と途方もない力で頭をこすりつけてきたり、はたまた遊べと云はんばかりにわざとらしくゴロンと寝転がつたり、地響きのやうなゴロ〳〵と云ふ音を、その喉から鳴らしたりする。確かに気味が悪いと云へば、気味が悪いくらゐに大きいがそれまでゞ、季節が季節であつたし、酔ひも回つてきたこともあり、何かもつと気味の悪い話を聞きたくなつてきて、寺の和尚さんなんだからさう云ふ話の一つや二つくらゐもつてゐるだらうと問へば、とつておきが一つだけあるのだと云ふ。眠さうに香箱座りをする猫の頭に肘を乗せつゝ語り始めたのは午後九時、近くの小川から蛙のいびきが聞こえて来る時節である。
これからお話しするのは私がまだ小学生の頃、もう一五年ほど前でございませうか、半袖短パンを着て虫を追ひかけ川遊びをする、まさにわんぱく小僧と云ふべき時分に、わたくしどもの家では一匹の犬を飼つてをりました。黒色のGolden Retriever の、くり〳〵とした目をいつも輝かせて、私の行くところにはどこへでもついてくるやうな、かはいゝやつでございまして、中々の血統なので英国風のいかめしい名前がついてをゐましたが、一家ではその美しい毛並みからラプンツェルと呼んであげてゐました。ラプンツェルは良い子でございます。体も大きければ力も強いのに、私と散歩へ行く時にはいつも傍に寄り添つて引つ張らず、落ちてゐるものも食べず、知らない者に出会つても吠えず、用を足す時には一度こちらを伺つてから行ふ。ある時には、母親に怒られてしよんぼりする私に寄り添つて、離れなくなつてしまつたこともありますし、またある時には、学校から帰つてくる私を、何メートルも向かうから出迎へてくれたこともあります。そんなラプンツェルと悪餓鬼な私はある日、いつもどおり散歩を云ひ渡されましたので、リードを片手に携へて田んぼ道へと駆けて行きました。冬になれば凧揚げが出来るほどに広々とした田には、夏真つ盛りでありますので、ふつくらとし初めた稲穂のさゞなみが出来てゐ、輝く太陽の下でその稲穂の凪ぐ音ばかりが聞こえ、眼の前では熊蜂のぶうんと呻りながら飛ぶのが見える、……今思ひ出しても、今体験しても、のどかな光景が前にも後ろにも広がつてゐました。散歩道としては、その田んぼたちを眺めるだけでよかつたのでありますが、なんとなく冒険心が湧いてゐましたから、今日はこつちへ行つてみようぜと、へつ〳〵〳〵〳〵、……と、ベロをベロンと出して息をするラプンツェルに云つて、共に山へ向かつて行きます。かういふ折にも彼女は忠実に着いてくるのでした。彼女はやつぱり、……いゝ子でございまして、頭を撫でると気持ちよさゝうにするのがなんとも可愛らしい。あぜ道から舗装路へ、舗装路から山道へと入つて行くにつれて、徐々に世界から切り離されて行くやうです。自分の庭みたいな山でありますけれども、誰にも云はずにひつそりと入つて行くことに、わく〳〵するのは何も私だけではございませんでせう。しかもこの日の私には一つの企てがありまして、それと云ふのが、昔々から気になつてゐたある一つの小路を探索しようと思つてをりまして、近くにあるボロ屋敷から中の薄暗さから何から何まで不気味なものですから、今までどこへ通じてゐるのだらうと不思議に思つてゐながら、たゞ見てゐるだけで、……まあ、つまりは勇気が無くて立ち入れなかつたのです。いよ〳〵その入り口を前にするや、深く深呼吸をして目を据ゑます。木の枝を掻き分け、大量に降り積もつた笹の葉を踏みしめながら入ると、そこは鬱蒼と生い茂る木と竹に覆はれた、人が一人やつと通れる山道で、陽の光が入らないせいか草すらも一つも生えてゐません。生えてゐるのは、名前も知らぬ毒々しいきのこくらゐで、後は幾重にも張られた蜘蛛の巣と、いつ設置したのか分からない狩猟の檻があるばかり。さう云へばお前は狩猟用の犬だつたらしいなあと、飼い主の不安を他所に臭ひを嗅ぎ回るラプンツェルに云ひつゝ登つて行きますと、ボロボロになつて朽ち果てたお墓が見えて来ます。――いえ、これは別に恐ろしいとも何でもありませぬ、田舎には普通のことですぞ。――と和尚が云つたのは、私がひいと云ふ情けない声を出したからであつたが、彼はそのまゝ酔い口に任せてとろ〳〵と話を続けた。
恐ろしいのはこゝからでありまして、手を合はせてお墓をお参りしてゐますうちに、その裏にまた山道があるのが見えたのです。あん? いつもはお墓までゞ道が途切れてゐるのにいつたい? と思つて、ラプンツェルと共に見てみますと、まだずつと遠くまで山道は続いてゐる。しかも今度はもつと細くて、もつと急で、もつと暗くて、もつと木が生い茂つてゐる。……行くか、ラプンツェル? と問ひますと、相変はらずおとぼけた顔でへつ〳〵〳〵〳〵〳〵と笑つてゐるので、危なさうだつたらさつさと引き返すことを約束に、足を踏み入れることにしました。ですが、小学生のわんぱく小僧に危ないなんて言葉は、逆に好奇心を掻き立てるものでしかないのは、男の子ならみんな同じでありませう、わく〳〵は止まらず、ラプンツェルも居ましたから恐怖も感じず、どん〳〵登つて行つてしまひました。道はかなり険しく、しだいにえらくなつてきても、足が止まりません。ラプンツェルもまた、珍しくグイ〳〵と引つ張ります。途中、肌寒くなるまでに涼しい風の吹く場所があつて、そこでほんの少し足を留めましたが、やがて木々の開けたところが見えて来て、これで終はりだらうとほつとすると同時に、得も云はれぬ達成感がこみ上げてきて、たうとう走りだします。笹の葉は滑りやすく、足をずつこけさせながら駆け登つて見えてきたのは、麓と青空を一望する絶景、……などゝ云ふやうな清々しい景色ではなく、へんに冷たい空気の漂ふ墓所でございます。その不気味さと云つたらありません。細長い石が、ざく〳〵と、黒くなるほどに腐敗した落ち葉の上に、いくつも〳〵無造作に突き立てられてゐるのです。汗だくで登つて来た私は血の気が引くのを感じました。背筋にゾク〳〵とした寒気が走り、途端に風の吹く音も大きく聞こえ、坂道の途中で足が止まつてしまひました。嫌な空気です。こんなところがあるだなんて、聞いたこともなかつたものですから、しばらく思案に暮れます。――いえ、墓だと云ふのはもう分かつてをりました。昔から動物を弔ふ時は、かう云ふ小さな石でもつてお墓を立てゝやるのが一家のしきたりでしたし、実際に後になつて母親に、あれは大昔に捨てられた猫たちのお墓だと云はれましたので、せめて安らかに眠れるよう、手を合はせてやります。
この時、実際に手を合はせて額づくやうに猫を弔ふので、私も釣られて手を合はせてまだ見ぬ猫たちの安らかな眠りを祈つた。大きな猫のすでにゴロンと丸くなつてゐるのがなんだか愛らしく、こんな和尚なものだから捨てられずに幸せに暮らすだらうと思ふと、境遇の差とは無慈悲なものである。行きしなに風の涼しいのが吹いてゐた場所があつたのは、覚えていらつしやいますでせうか、と、そんな声が聞こえてきたので、小休憩したところですかと返すと、さうでございますと云つて、猫の頭を撫でながらさらに話を続ける。登る時には全く気が付かなかつたのですが、あそこは風穴と呼ばれる場所でございまして、真夏であつてもひんやりとした風が山の内側から吹いてくる、……これは実際に体験してみるのがよろしいかと。少し遠回りになりますが、ぐるりと山道を縫つたところにもございますので、明日からの旅路で行つてみるとよいでせう。何もないやうなところですが、一つの見ものとなつてをりますから、ぜひ御覧ください。で、話の中に出てくる風穴といふのは、ほんたうに〝穴〟でございまして、ラプンツェルが一匹入れるかどうか、陽の光が入らないとは云つても、そこだけなぜか青々としたつるやうな植物が生えてをりまして、ちやうどその穴を覆つてゐるものですから気が付かなかつたのでせう、入り口からして湿つた落ち葉が降り掛かつて非常に汚らしい。中を覗いてみますと、ヘドロのやうなどす黒い水が溜まつてゐまして、とても手を付けようとは思ひませぬ。と、そこで気がついたのですが、穴の奥に何かキラリと輝いたものがある。眼光のやうなそれは、私を睨んでゐるやうな、そんな気がしてなりません。不気味な墓の真下でもありましたから、気味が悪くつて来ました。ほらラプンツェル、もう行くよと云ひました。が、ラプンツェルは動きません。もう喉がカラ〳〵だつたのか、ベロを突き出して、コクツ、コクツ、コクツ、……と、その汚らしい水を飲むのです! あゝ!! こら!! そんなもの飲むな!! と怒鳴つて彼女を止めようとしましたが、もう遅い。私の左の手首から下も、一緒になつて水に触れてしまふ。とろりとして粘つこく、急いで手を引いてかざしてみますと、血の滲み出てゐるかのやうに赤い。――もう無我夢中でございます。あー! 痛い! 痛い! 痛い! と、絶叫しながら、私はすぐに山を下ります。ラプンツェルは、……よかつた、ついて来てゐる。……
そこから先の話は、和尚が泣き咽びだしたのであまり聞き取れず、ほんの少しばかり想像も入つてはゐるものゝ、おゝよそは正確であるかと思はれ。ちやんと聞き取れたとて、関西弁かと思はれる地元の方言で母親からの叱責を語るので、ところ〴〵の単語の意味が汲み取れなかつたかもしれず、後から〳〵猫の寝息を聞きながら思ひ出すのに苦労をした。和尚の猫を撫でる手はいよ〳〵もつていとほしくなり、喉から脇から腹から丁寧にさすつてやる。彼が見たと云ふ細長い石で出来た墓は、かつて捨てられた猫のものであるのは先述の通りそれから途中で出会したボロボロのお墓と云ふのは、曾祖母の眠つてゐるお墓らしく、なぜそんなところに建てられてゐるのかと問へば、途中で人の墓を見たやろ? 猫を飼いすぎて、うるさいし、汚いし、臭いしで、嫌はれてたからあんなところに建てられたんや、だからお前には話したうもなかつたんやと、今はなき母親に代はつて答へる。未だにあの辺りでは、にーにーと子猫の鳴く声が聞こえ、しば〳〵訪れて弔はねば距離の離れたこの家にまでやつて来て、枕元で鳴くのだと云ふ。また、続けてかうも母親に云はれたと云ふ。それで、猫の墓にはなんもしとらんやろな? あんたはその血を引いとるから、もつと祟られるで。穴のことは忘れろ。ラプンツェルのこともゝう諦めろ、――と。私が聞いたのはそこまでゞある。そこまで語つた時、肘の下で寝てゐた大きな猫が大きなあくびをして起き上がり、そのまゝすた〳〵と部屋から出て行かうとしたのである。その時、私は確かに聞いたのであつた。和尚がラプンツェル、……とつぶやくのを。――
明朝再び鮎の塩焼きに舌鼓を打つた私を見送る際に、例の大きな黒猫も一緒になつて木の開けた交差路までついてきた。昨夜勝手に人の寝床に入つて来て、散々人の睡眠を邪魔して来たのであるが、大きさもさることながら、和尚の足元にきちんと座つてゐる様を見るに、なんだか猫らしくもない。未だに人が大好きですのでもう一回撫でゝやつてくれませんかと云ふので、喉を撫で擦つてやると、ゴロゴロ、……と喉を鳴らすのは猫だけれども、こちらが歩き始めた際になつて見せた目は、今になつて思ひだしてみれば、Retriever 種の犬のごとく別れを惜しむ切ない目なのであつた。
 (をはり)
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kkagtate2 · 6 years ago
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お地蔵様
里帰りした男の話。
これは実に二十年ぶりに里帰りした時の話である。思ひ立つたのは週末の金曜日、決行したのは明くる日の土曜日であつたが、何も突然と云ふことではなく、もう何年も昔から、今は無き実家の跡地を訪れなければならないと、漠然と思つてゐ、きつかけさへあればすぐに飛び立てるやう、心の準備だけはしておいてゐたのである。で、その肝心のきつかけが何なのかと云へば、私が小学生の時分によく帰り道を共にした女の子が手招きをするだけといふ、たわいもない夢だつたのだが、私にとつてはそれだけで十分であつた。一泊二日を目安に着替へを用意し、妻へは今日こそ地元の地を踏んでくると、子供へはいゝ子にしてゐるんだよと云ひ残し、一人新幹線に乗り込んだ私は、きつかけとなつた夢を思ひ出しながら、生まれ育つた故郷へ真直ぐ下つて行つた。
実のことを云ふと、この時にはすでに旅の目的は変はつてゐたやうに思へる。私の故郷といふのは、周りを見渡せば山と川と田んぼしかないやうな田舎で、目を閉じてゆつたりと昔を懐かしんでゐると、トラクターに乗つてゆつくりとあぜ道を走るお爺さんだつたり、麦わら帽子を目深に被つてのんびり畑を耕すお婆さんだつたりと、そんなのどかな光景が頭に描かれるのであるが、新幹線のアナウンスを聞きながら何にも増してはつきりと思ひ出されたのは、一尊のお地蔵様であつた。大きさはおよそ二尺程度、もはや道とは呼べない山道の辻にぽつんと立つその地蔵様には、出会つた時から見守つていただいてきたので、私たちにとつてはもはや守り神と云へやう。私たちはお互ひ回り道になると云ふのに、道端で出会ふと毎日のやうにそのお地蔵様を目指し、ひとしきり遊んだ後、手を合はせてから袂を分かつてゐた。さう云へば最後に彼女の姿を見たのもそのお地蔵様の前であつたし、夢の中でも彼女はそのお地蔵様の傍にちよこんと座つて、リンと云ふ澄んだ鈴の音を鳴らしながら、昔と同じ人懐つこさうな目をこちらに向けてゐた。ちなみにこゝで一つお伝へしておくと、彼女の夢を見た日、それは私が故郷を離れ、大阪の街へと引つ越した日と同じなのである。そしてその時に、私は何か大切なものをそこへ埋めたやうな気がするのである。――と、こゝまで考へれば運命的な何かを感じずには居られまいか。彼女が今何処で何をしてゐるのかは分からない。が、夢を通じて何かを訴へかけてきてゐるやうな気がしてならないのである。私の旅の目的は、今は無き実家を訪れるといふのではなく、彼女との思ひ出が詰まつたその地蔵を訪れる��と、いや、正確には、小学校からの帰り道をもう一度この足で歩くことにあつた。
とは云つても、地元へは大阪からだと片道三四時間はかゝるので、昼過ぎに自宅を出発した私が久しぶりに地に足をつけた時にはすつかり辺りは暗くなりつゝあつた。故郷を離れた二十年のうちに帰らなかつたことはないけれど、地方都市とは云つても数年と見ないあひだに地味に発展してゐたらしく、駅周辺はこれまで見なかつた建物やオブジェがいくつか立ち並んでゐて、心なしか昔よりも賑やかな雰囲気がする。駅構内もいくつか変はつてゐるやうであつたが、いまいち昔にどんな姿をしてゐたのか記憶がはつきりしないため、案内に従つてゐたらいつの間にか外へ出てしまつてゐた程度の印象しか残つてゐない。私は泊めてくれると云ふ従妹の歓迎を受けながら車に乗り込んで、この日はその家族と賑やかな夜を飲み明かして床についた。
  明くる日、従妹の家族と共に朝食をしたゝめた私は、また機会があればぜひいらつしやい、まだ歓迎したり無いから今度は家族で来て頂戴、今度もまたけんちやんを用意して待つてゐるからと、惜しまれながら昨晩の駅で一家と別れ、いよ〳〵ふるさとへ向かふ電車へと乗つた。天気予報の通りこの日は晴れ間が続くらしく、快晴とはいかないまでも空には透き通るやうに薄い雲がいくつか浮いてゐるだけである。こんな穏やかな日曜日にわざ〳〵出かける者は居ないと見えて、二両しかない電車の中は数へられるくらゐしか乗客はをらず、思ひ〳〵の席に座ることが出来、快適と云へば快適で、私は座席の端つこに陣取つて向かひ側の窓に映る景色をぼんやりと眺めてゐたのであるが、電車が進むに連れてやはり地方の寂しさと云ふものを感じずにはゐられなかつた。実は昨晩、駅に降り立つた私が思つたのは、地方もなか〳〵やるぢやないかと云ふことであつたのだが、都会から離れゝば離れるほど、指数関数的に活気と云ふものが減衰して行くのである。たつた一駅か二駅で、寂れた町並みが現れ始め、道からは人が居なくなり、駅もどん〳〵みすぼらしくなつて行く。普段大阪で生活をしてゐる私には、電車に乗つてゐるとそのことが気になつて仕方がなかつた。さうかと云つて、今更故郷に戻る気もないところに、私は私の浅ましさを痛感せざるを得なかつたのであるが、かつての最寄り駅が近づくに従つて、かう云ふ衰退して行く街の光景も悪くは無いやうに感じられた。それは一つにはnostalgia な気持ちに駆られたのであらう、しかしそれよりも、変はり映えしないどころか何もなかつた時代に戻りつゝある街に、一種の美しさを感じたのだらうと思ふ。何にせよ電車から降り立つた時、私は懐かしさから胸いつぱいにふるさとの空気を吸つた。大きいビルも家も周りにはなく、辺り一面に田んぼの広がるこの辺の空気は、たゞ呼吸するだけでも大変に清々しい。私はバス停までのほんの少しのあひだ、久しく感じられなかつたふるさとの空気に舌鼓を打ち続けた。
バス停、……と云つてもバスらしいバスは来ないのであるが、兎に角私はバスに乗つて、ちやつとした商店に囲まれた故郷の町役場まで行くことにした。実のこと、さつきまで故郷だとかふるさとだとか云つてゐたものゝ、まだ町(ちやう)すらも違つてをり、私のほんたうの故郷へは駅からさらに十分ほどバスに揺られ無ければ辿り着けず、実家へはその町役場から歩いて二十分ほどかゝるのであるが、残念なことにそのあひだには公共交通機関の類は一切無い。しかしかう云ふ交通の便の悪さは、田舎には普通なことであらう。何をするにしても車が必須で、自転車で移動をしやうものなら急な坂道を駆け上らねばならず、歩かうものならそれ相応の覚悟が要る。私は自他ともに認める怠け者なので、タクシーを拾はうかと一瞬間悩んだけれども、結局町役場から先は歩くことした。母校の小学校までは途中まで県道となつてをり、道は広く平坦であるから、多少距離があつても、元気があるうちはそんなに苦にならないであらう、それに何にも増して道のすぐ傍を流れる川が美しいのである。歩いてゐるうちにそれは美化された思ひ出であることに気がついたけれども、周りにはほんたうに田んぼしか無く、ガードレールから下をぐつと覗き込むと、まだゴツゴツとした岩に水のぶつかつてゐるのが見え、顔を上げてずつと遠くを見渡すと、ぽつぽつと並ぶ家々の向かうに輪郭のぼやけた山々の連なる様が見え、私はついうつかり感嘆の声を漏らしてしまつた。ほんたうにのどかなものである。かうしてみると、時とは人間が勝手に意識をしてゐるだけの概念なやうにも思へる。実際、相対性理論では時間も空間的な長さもローレンツ変換によつて同列に扱はれると云ふ。汗を拭いながら足取りを進めてゐると、その昔、学校帰りに小遣ひを持ち寄り、しば〳〵友達と訪れた駄菓子屋が目に入つて来た。私が少年時代の頃にはすでに、店主は歩くのもまゝならないお婆さんであつたせいか、ガラス張りの引き戸から微かに見える店内は嫌にガランとしてゐる。昔はこゝでよく風船ガムであつたり、ドーナツであつたり、はたまた文房具を買つたりしたものであつたが、もう営んではゐないのであらう。その駄菓子屋の辺りがちやうど田んぼと人の住処の境で、県道から外れた一車線の道先に、床屋や電気屋と云つた商店や、古びたしまうたやが立ち並んでゐるのが見えるのだが、どうもゝうあまり人は居ないらしく、その多くはピシャリと門を締め切つてゐる。中には荒れ屋敷化してしまつた家もあつた。
と、そこでやうやく母校の校庭が見えて来た。町役場からゆつくり歩いて二十五分と云つたところであらうか、時刻を確認してみるとちやうど午前十一時である。徐々に気温が上がつて来てゐたので、熱中症を心配した私は、適当な自販機を見つけるとそこで水を一本買つた。小学校では何やら催し物が開催されてゐるらしく、駐車場には何台もの車が停まつてをり、拡声器を通した賑やかな声が金網越しにぼや〳〵と聞こえてきたのであるが、何をやつてゐるのかまでは確認はしてゐない。おそらく子供会のイベントでもやつてゐたのであらう。さう云へば私も昔、めんだうくさい行事に参加させられた憶えがある。この学校は作りとしてはかなり平凡であるのだが、さすがに田舎の学校ともあつて緑が豊富であり、裏には先程沿ひながら歩いて来た川が通つてゐる。久しぶりにその川にまで下つてみると、記憶とは違つてカラリと乾いた岩がゴロゴロと転がつてをり、梅雨時のじめ〳〵とする季節でも涼を取るには適してゐるやうに感じられた。一体、こゝは台風がやつて来ると自動的に被害を受ける地域で、毎年子どもたちが夏休みに入る頃には茶色く濁つた濁流が溢れるのであるが、今年はまだ台風が来てをらず、降水量も少なかつたこともあつて、さら〳〵と小川のやうな水の流れが出来てゐる。昔、一度だけ訪れたことのあるこの川の源流部でも、このやうな流れが出来てゐたやうな憶えがある。が、源流のやうに水が綺麗かと問はれゝば、決して肯定は出来ない。手で掬つてみると、太陽の光でキラキラと輝いて一瞬綺麗に見えるけれども、じつと眺めてゐると苔のやうな藻がちらほら浮いてゐるのが分かり、鼻にまで漂つて来る匂ひもなんだか生臭い。それにしても、この手の中で漂つてゐる藻を藻と呼んでいゝのかどうかは、昔から疑問である。苔のやうな、とは形容したけれども、その色は生気を感じられない黒みがかつた赤色で、実はかう云ふ細長い虫が私の手の上で蠢いてゐて、今も皮膚を食ひ破つて体の中に入らうとしてゐるのだ、と、云はれても何ら不思議ではない。さう考へると、岩に引つ付いてうよ〳〵と尻尾を漂はせてゐる様子には怖気が走る。兎に角、話が逸れてしまつたが、小学生の時分に中に入つて遊んだこの川はそんなに綺麗では無いのである。むしろ、影になつてゐるところに蜘蛛の巣がたくさん巣食つてゐたり、どす黒く腐つた木が倒れてゐたりして、汚いのである。
再び母校へと登つて、先程通つて来た道に戻り、私は歩みを進め初めた。学校から出るとすぐに曲がり角があつて、そこを曲がると、右手には小高い山、左手にはやはり先程の川があり、その川の向こう側に延々と田んぼの並んでゐるのが見える。この辺りの光景は今も昔も変はらないやうである。道の先に見える小さな小屋だつたり、ガードレールだつたり、頼りない街灯も変はつてをらず、辛うじて残つた当時の記憶と綺麗に合致してゐる。私は変はらない光景に胸を打たせつゝ、右手にある山の影の下を歩いていつた。そして、いよ〳〵突如として現れた橋の前に辿り着くや、ふと歩みを止めた。彼女と学校帰りに会ふのはいつもこゝであつた。彼女は毎回リンリンと軽快な鈴の音を辺りに響かせながら、どこからともなく現れる��それは橋の向かふ側からゆつくりと歩いて来たこともあれば、横からすり寄つて来たこともあつたし、いきなり背後を取られたこともあつた。私はゆつくりと目を閉じて、ゆつたりと深呼吸をして、そつと耳を澄ませた。――木々のざわめきの中にかすかな鈴の音が、確かに聞こえたやうな気がした。が、目を開けてみても彼女はどこにも居ない。今もどこかから出てきてくれることを期待した訳ではないが、やはり一人ぽつんと立つてゐるのは寂しく感じられる。
橋の方へ体を向けると、ちやうど真ん中あたりから強い日差しが照りつけてをり、反射した光が目に入つて大変にまばゆいので、私はもう少し影の下で居たかつたのであるが、彼女がいつも自分を待たずに先々行つてしまふことを思ひ出すと、早く歩き始めなければ置いていかれてしまふやうな気がして歩き始めた。橋を渡り終へてすぐに目に飛び込んで来たのは、川沿ひにある大きなガレージであつた。時代に取り残されたそれは、今も昔も所々に廃材が積み上げられてゐ、風が吹けば倒れてしまいさうなシャッターの中から、車だつたり、トラックの荷台だつたりがはみ出してゐるのであるが、機材や道具などが放りつぱなしになつてゐることから、未だに営んではゐるらしい。何をしてゐるのかはよく知らない。が、聞くところによると、こゝは昔からトラックなどの修理を行つてゐるところださうで、なるほど確かにたまに危なつかしくトラックが通つて行つてゐたのはそのためであつたか。しかし、今見ると、とてもではないが生計が成り立つてゐるやうには思へず、侘しさだけが私の胸に吹き込んで来た。二十年前にはまだ塗料の輝きが到るところに見えるほど真新しかつた建物は、今では積み上げられたガラクタに埋もれたやうに古く、痛み、壁なぞは爪で引つ掻いたやうな傷跡がいくつも付けられてゐる。ガレージの奥にある小屋のやうな家で家族が暮らしてゐるやうであるのだが、その家もゝはや立つてゐるのが限界なやうである。さて、私がそんなボロボロのガレージの前で感傷に浸つてゐたのは他でもなく、彼女がこゝで遊ぶのが好きだつたからである。する〳〵と積まれたガラクタの上を登り、危ないよと云ふこちらの声を無視して、ひよい〳〵とあつちこつちに突き出た角材に乗り移つて行き、最後には体を蜘蛛の巣だらけにして降りてくる。体を払つてやらうと駆け寄つても、高貴な彼女はいつもさつと逃げてしまふので、仕方なしにそのへんに生えてゐる狗尾草(エノコログサ)を手にして待つてゐると、今度はそれで遊べと云はんばかりに近寄つて来ておねだりをする。その時の、手にグイグイグイグイ鼻を押し付けてくる仕草が殊に可愛いのであるが、だいたいすぐに飽きてしまつて、気がついた時には喉をゴロゴロと云はしながら体を擦り寄せて来る。これは愛情表現と云ふよりは、早く歩けと云ふ彼女なりの命令で、無視をしてゐるとこちらの膝に乗つてふてくされてしまふので、帰りが遅くならないようにするためには渋々立ち上がらなければならない。
さう云へばその時に何かを食べてゐたやうな気がするがと思ひ、私は彼女との思ひ出を振り返りつゝ辺りを見渡してゐた。するとガレージの横に鬱蒼と生い茂る草木の中に、柿の木と桃の木の生えてゐるのが見つかつた。だが、ほんたうに一歩も入りたくないほどに、大葉子やら犬麦やら髢草が生えてをり、当時の私が桃やら柿やらを毟り取つて食べてゐたのかは分からない。しかしさらに見渡しても、辺りは田んぼだらけで実のなる木は無いことから、もしかしたら先程の橋を渡る前に取つて来て、彼女の相手をしてゐるあひだに食べてゐたのかもしれない。先程道を歩いてゐる時にいくつかすもゝの木を見かけたから恐らくそれであらう。なるほど、すもゝと云ふ名前にはかなり聞き覚えがあるし、それになんだか懐かしい響きもする。それにしてもよく考へれば、そのあたりに生えてゐる木の実なぞ、いつどこでナメクジやら毛虫やらが通つてゐるのか分からないし、中に虫が巣食つてゐたのかもしれないのに、当時の私はよく洗いもせず口にしてゐたものである。今思ふとものすごく怖いことをしてゐたやうに感じられる。何にせよ、彼女はいつももぐ〳〵と口を動かす私を不思議さうに見てきては、差し出された木の実を匂ふだけして興味のなさゝうな顔をしてゐた。なんや食べんのか、お前いつたい、いつも何食べよんな。と、問うても我関せずと云ふ風に眼の前で伸びをするのみで、彼女は彼女でしたゝかに生きてゐるやうであつた。
気がつけば私は座り込んでゐた。眼の前では彼女が昔と同じやうに、なんちやら云ふ花の前に行つては気持ちよさゝうに匂いを嗅いで、恍惚とした表情を浮かべてゐる様子が繰り広げられてゐた。少しすると彼女の幻想は私の傍に寄つて来て、早く行きませう、けふはもう飽きてきちやいました、と云ふ。そして、リンと鈴の音を立たせながらさつと身を翻して、私の後ろ側に消えて行く。全く、相変はらず人を全く待たない子である。いや〳〵、それよりも彼女の亡霊を見るなんて、私は相当暑さにやられてゐるやうであつた。すつかりぬるくなつた水を口に含むと、再び立ち上がつて、田植えが行われたばかりの田んぼを眺めながら、彼女を追ひかけ初めた。
ところで、もうすでに読者は、延々と続く田んぼの風景に飽きてきた頃合ひであらうかと思ふ。が、そのくらゐしか私のふるさとには無いのである。私ですらこの時、懐かしみよりも飽き〳〵としてきた感情しか沸かなかつたので、もう今後田んぼが出てきたとしても記さないと約束しよう。だが歩いてゐると、いくつか昔とは違つてゐることに気がついたので、それは今こゝで記しておくことにする。まず、田んぼのあぜ道と云ふものがアスファルトで鋪装されてゐた。それも最近鋪装されたばかりであるらしく、未だにぬら〳〵と黒く輝いてをり、全くもつて傍に生えてゐる草花の色と不釣合ひであつた。かう云ふのはもはや都会人である私の嘆きでしか無いが、こんな不自然な黒さの無い時代を知つてゐるだけに残念である。二つ目は、新たに発見した田舎の美しさである。これはガレージの道のりからしばらくして空を仰いだ時に気がついたのだが、まあ、順を追つて説明していかう。断末魔のやうなツクツクホーシの鳴き声を聞くために足を止めた私は、ぼんやりと眼の前にある虎杖(いたどり)を眺めてゐた。ゆつくりと目を動かすと、崖のような勾配の向こう側に田んぼがだん〳〵になっているのが見える。決して棚田と云へるほど段と段が詰まつてゐる訳ではないが、その棚田のやうな田んぼのさらに向かふ側に、楠やら竹やら何やらが青々と茂つてゐるのが見え、そして、もう少し見渡してみると空の上に送電鉄塔がそびえているのが見えた。この鉄塔が殊に美しかつたのである。濃い緑色をした木に支へられて、淡い色の空をキャンバスに、しつかりとした質感を持つて描かれるそれは、赤と白のしま〳〵模様をしてをり、おそらく私は周りの自然とのコントラストに惹かれたのだらうと思ふ。この旅で最も美しかつたものは何ですかと聞かれたならば、空にそびえ、山と山を繋ぐ鉄塔ですと答へやう、それほどまでに私はたゞの鉄塔に感銘を受けてしまひ、また来ることがあるならば、ぜひ一枚の作品として写真を撮りたいと思ふのであつた。
ところで読者はその鉄塔の下がどのやうになつてゐるのかご存知であらうか。私は彼女と一緒に足元まで行つた事がある。行き方としてはまず田舎の道を歩くこと、山の中へ通ずる道なき小さな道を見つけること、そして藪だらけのその道に実際に飛び込んでみることである。もしかすると誰かのお墓に辿り着くかも知れないが、見上げて鉄塔がそびえてゐるならば、五分〳〵の割合でその足元まで行きつけるであらう。お地蔵様へ向かふために山道(やまみち)に入つた私は、その小さな道のある辻に来た時、つい鉄塔の方へ足を向けさうになつた。が、もうお昼時であるせいかグングン気温が上がり始め、路端(みちばた)の草いきれが目に見えるやうになつてゐたので、鉄塔の下で足を休めるのは次の機会にと思ひ、山道を登り始めた。別に恐ろしいと云ふほどではないけれども、車の音がずつと遠くに聞こえるせいか現世から隔離されたやうで、足取りはもうずいぶん歩いて来たにも関はらずかなり軽快である。私は今頃妻が子供と何をしてゐるのかぼんやりと想像しつゝ、蔓のやうな植物が、にゆる〳〵と茎を伸ばしてゐる柔らかい落ち葉の上を、一歩〳〵よく踏みしめて行つた。日曜の夕食時、もしかするとそれよりも遅くなるかもしれないが早めに帰ると云ふ約束の元、送り出してくれた妻は、今日はあなたが行きたがつてた王子動物園に行つてくるからいゝもん、と仰つていらつしやつたから、思ふに今頃は、子供を引き連れて遊びに行つてゐるのであらう。それも惜しいが、ペットたちとのんびりと過ごせなかつたのはもつと惜しい。特に、未だに懐いてくれない猫と共に週末を過ごせなかつたのは、もうかれこれ何年ぶりかしらん? あの猫を飼ひ始めてからだから、恐らく六年ぶりであらう。それにしてもどうして猫だけは私を好いてくれないのだらうか、家で飼つてゐる猫たちは、もう何年も同じ時を過ごしてゐるのに、私をひと目見るや尻尾を何倍にも膨らませて威嚇をしてくる。そんなに私が怖いのか。――などと黙々と考へてゐたのであるが、隧道のやうな木の生い茂りが開けた頃合ひであつたか、急に辺りが暗くなつて来たので空を仰いで見ると、雨の気配のする黒い雲が太陽を覆ひ隠してゐた。私は出掛けに妻に、どうせあなたのことだから雨が降ると思ふ、これを持つていけと折り畳み傘を一つ手渡されてゐたものゝ、これまで快晴だつたからやーいと思つてゐたのであるが、次第に埃つぽい匂いが立ち込めて来たので急いで傘を取り出して、じつと雨の降るのを待つた。――さう云へば、昔も雨が振りさうになつた時には彼女も傘に入れて、かうしてじつと佇んでゐたな。たゞ、そのまゝじつとしてゐてはくれず、雨に濡れると云ふのに、彼女はリンリンと軽やかな鈴の音を云はせながら傘の外に飛び出してしまふ。そして早く行かうと云はんばかりに、山道の少し上の方からこちらを見下ろして来くる。――懐かしい。今でもこの赤茶けた落ち葉と木の根の上に、彼女の通る時に出来る、狼煙のやうな白い軌跡が浮かび上がつてくるやうである。と、また昔を懐かしんでゐると、先程の陰りはお天道様のはつたりであつたらしく、木の葉の隙間から再び太陽が顔を覗かせるやうになつてゐた。私は傘を仕舞ひ込むと、再び山道を練り歩いて行つた。
だが、雨が降らなかつたゞけで、それからの道のりにはかなり恐ろしいものがあつた。陽が辺りに照つてゐるとは云へ、風が出てきて木の影がゆら〳〵とゆらめいてゐたり、ふつと後ろでざあつと音がしたかと思ひきや、落ち葉が何枚も〳〵巻き上げられてゐたり、時おり太陽が雲に隠れた時なぞは、あまりの心細さに引き返さうかとも思つた。そも〳〵藪がひどくて木の棒で掻き分けなければまともに進めやしない。やい〳〵と云ひながら山道をさらに進んで行くと、沼のやうにどんよりと暗い池が道の側にあるのだが、物音一つ、さゞなみ一つ立てずに、山の陰に佇んでゐるものだから、見てゐないうちに手が生えて来さうで、とてもではないが目を離せなかつた。そんな中で希望に持つてゐたのは、別の山道を登つても来ることの出来るとある一軒家だつたのだが、訪れてみると嫌にひつそりとしてゐる。おや、こゝはどこそこの誰かの父親か親戚かゞ住んでいたはずだがと思ひつゝ窓を覗いても誰もをらぬ。誰もをらぬし、ガランとした室内には酷く傷んだ畳や障子、それに砕けた天井が埃と共にバラバラと降り積もつてゐる。家具も何もなく、コンロの上にぽつんと放置されたヤカンだけが、寂しくこの家の行末を見守つてゐる。――もうとつくの昔にこの家は家主を失つて、自然に還らうとしてゐるのか。私は急に物悲しくなつてきて手の甲で目元を拭ふと、蓋の閉じられた井戸には近づかずにその家を後にした。行けば必ずジュースをご馳走してくれる気のいゝお爺さんであつた。
私の憶えでは、この家を通り過ぎるとすぐに目的のお地蔵様へと辿り着けたやうな気がするのであるが、道はどん〳〵険しくなつて行くし、全く記憶にない鉄製の階段を下らなければいけないし、どうやらまだ藪と戦はねばならないやうであつた。もうかうなつてくると、何か妖怪的なものにお地蔵様に行くのを拒まれてゐるやうな気さへした。だが、引き返す気は無かつた。記憶はほとんど残らなかったけれども、体は道順を憶えてゐるのか、足が勝手に動いてしまふ。恐怖はもはや旅の友である。先の一軒家を超えてからと云ふもの、その恐怖は猟奇性を増しつゝあり、路端(みちばた)にはモグラの死骸やネズミの死骸が、何者かに噛み殺されたのかひどい状態となつて散乱してゐたのであるが、私の歩みを止められるほど怖くは無かつた。途中、蛇の死体にも出くわしたけれども、どれも色鮮やかなアオダイショウであつたから、全く怖くは無い。そんなものよりよつぽど怖かつたのは虫の死骸である。私の行く手には所々水たまりが出来てゐたのであるが、その中ではおびただしいほどのカブトムシやカマキリが、蠢いているかのやうに浮いてゐて、ひやあ! と絶叫しながら飛び上がつてしまつた。別にカブトムシの死骸くらゐ、夜に電気をつけてゐると勝手に飛んでくるやうな地域で幼少期を過ごしたから、たいしたことではない。問題は数である。茶色に濁つた地面に、ぼつ〳〵と無数の穴が開いて、そこから黒い小さな虫が目のない顔を覗かせてゐるやうな感じがして、背中がゾク〳〵と殺気立つて仕方がなかつた。かういふ折には、ぼた〳〵と雨のやうに蛭が落ちてくるのが御約束であるのに、まつたく気持ち悪いものを見せてくるものである。
と、怒つたやうに足を進めてゐると、いつしか私は恐怖を乗り越えてゐたらしく、勇ましい足取りで山道を進んでゐた。するとゞうであらう、心なしか道も歩きやすくなり、轍が見え始め、藪もほとんど邪魔にならない程度しか前には無い。モグラの死骸もネズミの死骸も蛇の死骸も、蓮の花のやうな虫の死骸も、気がつけば道からは消えてゐた。そして一軒家を後にしてから実に二十分後、最後の藪を掻き分けると、そこには確かに記憶の通りのお地蔵様が、手をお合はせになつて私をお待ちしていらつしやつた。私は地蔵様の前まで来ると、まずは跪いてこゝまで無事に辿り着けたことに、感謝の念を唱へた。そして次々と思ひだされる彼女の姿に涙をひとしきり流し、お地蔵様にお断りを申し上げてから、その足元の土を手で掘つて行つた。冒頭で述べた、かの地蔵の傍に埋めたなにか大切な物とはこのことである。二十年のうちに土がすつかり積み重なつてしまつてゐたらしく、手で掘るのは大変だつたし、蚯蚓やら蟻やらよく分からない幼虫やらが出てきてゾツとしたけれども、しばらくするとペットボトルの蓋が見えてきた。半分ほど姿を見せたところで、渾身の力を込めて引き抜き、私は中にあつた〝それ〟を震へる手で握りこんでから、今度は傍にあつた漬物石のやうな大きな石の前に跪いた。手を合はせるときに鳴つた、リン、……と云ふ可愛らしい鈴の音は、蝉の鳴き声の中に溶け込みながら山の中へ響いて行き、恰も木霊となつて、再び私の手の中へ戻つてくるのであつた。
  帰りの道のりは行きのそれとは違つて、かなり楽であつた。恐らく道を間違へてゐたのであらうと思ふ。何せ、先程見たばかりの死骸も無ければ、足をガクガクさせながら下つた階段も無かつたし、何と云つても二三分としないうちに例の一軒家へとたどり着いたのである。私は空腹から元の道へは戻らずに一軒家の近くにある道を下つて県道へ出、一瞬間今はなき実家の跡地を眺めてから帰路についた。いやはや、なんとも不思議な体験であつた、よく考へれば蝮に噛まれてもおかしくないのによく生きて帰れたものだ、とホツとすると同時に、なんとなく肩が軽くなつたやうな心地がした。――あゝ、お前でも放つたらかしにされるのは嫌なんだな。――と、私はもう一度顔が見たいからと云つて、わざ〳〵迎へをよこしてくれることになつた従妹を小学校で待ちながら、そんなことを思つた。
結局あのペットボトルは再びお地蔵様の足元に埋めた。中に入つてゐたものは私のものではなく、彼女のものであるから、あそこに埋めておくのが一番であらう。元はと云へば、私のなけなしの小遣ひで買つたものであるから、持つて帰つても良かつた気がしないでもないが、まあ、別に心残りはない。
さて、ふるさとに帰るとやはり思ふものがありすぎて、予定してゐたよりも大変長くなってしまつたけれども、これで終はりである。ちなみに、こゝにひつそりと記した里帰りの話は、今の今まで誰一人として信じてくれてはゐないので、もしどなたか一人でも興味を引き立てられた者がいらつしやれば本望である。
 (をはり)
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kkagtate2 · 6 years ago
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無題
えっちだから注意。テスト。
2735 グラム、――掃除中、ふいに出てきた写真を眺めているうちに思い出した数字である。写真の中にはまだ生まれて間もない女の子の姿が写っておりこれがまさかあんなに可愛らしい少女へと育つのだと思うと、感慨深くもあり懐かしくもあり愛しくもある。彼女は物凄く活発な子で、俺のお下がりの遊び道具をめちゃくちゃにしては母親に怒られ幼稚園で誰それを泣かせたとか何やらで先生に怒られ、話によると幼少期の自分よりも手がつけられなかったらしく本当に今の姿からは想像も出来ない。まだ彼女が物心もつかない頃にはしばしば家の近くにある公園へ引っ張られたものであったが、ひとしきり暴れまわるものだから体中が砂と泥にまみれてしまいいじめられたのではないかとよく疑われたものである。妹とはもうその頃から何をするにも一緒であった三才違いだから小学校へは三年間一緒に通ったし中学校もほとんど小学校の横にあるようなものだからその後も手をつないで一緒に通学した。違う部屋を割当られていたけれども家の中ではずっと一緒に居た寝る時も彼女が小学四年生に上がる頃までは一緒に布団に潜り込んで、その日学校であった事を聞いているうちに気がつけば朝になっていた。思えば妹が落ち着き始めたのも若干距離が離れ始めたのも彼女が高学年へ上がってからである先の一緒に布団に入らなくなったのは一つの例で実はお風呂も一緒に入っていたのであったが、急に恥ずかしがるようになったかと思えばそれも直に無くなっていった。もしかすると当然かも知れないというのも思春期特有の問題として成熟し始めた体に心が追いついていなかったのであろう特に問題だったのは彼女の胸であった妹は昔からの習慣で自分の部屋で着替えをせずわざわざ制服をこちらの部屋にまで持ってきて寝ぼけ眼の目をこすりながら、「んっ」と言って手をバンザイしてパジャマを脱がせようとしてくるのであるが、その時ジュニアブラを通して見えてくる膨らみが日を追うに連れてどんどん大きくなって行くのである。小学五年生に上がる頃にはぷっくりと先端の突起が現れていたし、小学六年生に上がる頃にはもはやジュニアブラでは覆いきれなくなったのか可愛らしい刺繍の編み込まれた普通のブラジャーをつけるようになっていた恐らくすでに彼女の握りこぶしぐらいの大きさであったかと思われる。妹がそれをどんな思いで見せていたのかは分からない思うに単に寝ぼけていただけであろう手をバンザイして来た時にそのままにしておくと、パタンと布団の上に倒れ込んですうすうと寝息を立ててしまうほどに妹は朝が弱いのである。何にせよ彼女の胸は同年代はもとより大人の女性と比べても遜色ないほど、小学生にして大きくなっていた。正直に言って男の俺からするとたまったものではない手が伸びたことの一度や二度は当然あるだが妹が小学生の頃に実際に触れたのは一度だけである。確か大晦日の夜のことでおせちやら何やらの準備で気の立った母親が時間の節約と言う名目で、「もう二人してダラダラするならさっさとお風呂入って来なさい、ほら、行った行った」と言ってくるので仕方なしに立ち上がると妹も渋々立ち上がっている。トイレに行ってくると言う彼女を残して先に浸かっているとちょっとしてガラガラと音がして入ってくる手で胸元を隠しながらかけ湯をして、そっと水面を波立たせないように足から浴槽に入って来て、こちらに背を向けそのまま俺の足と足のあいだに体を潜り込ませ、ゆっくりと体を倒してくるしばらくは無言で互いの鼓動を聞き合うだけであったが、鼻に当たる彼女の柔らかい髪の毛がこそばゆくてついくしゃみをしてしまって以来、一年の終わりともあって色々と話がはずんだ。そうこうしているうちにすっかりリラックスした妹は手も足も体もだらけさせてしまったので溺れないよう俺は彼女を支えてあげていたのだが、うっかり手が彼女の胸に触れてしまう。妹はピクッと体を震えさせてこちらを見てくるだけだっただがそこには嫌悪感はなくびっくりしただけだったようである、俺はさわさわと撫でるように触り続けた。手のひらにちょうど収まるおっぱいの心地よさは何物にも比べ難くこのままずっと触っていられそうだった。彼女は俯いて声が出るのを抑えているようで時おりひどく色っぽい鼻息が漏れ聞こえてくる思い切って先端にある可愛らしい突起を摘んでみると「お兄ちゃん、そこはダメ、……」と言って弱々しい力で手を取ってくるが、やはりそこには拒絶はないむしろ迷っているような手付きであった。だがその時、あまりにもお風呂の時間が長かったために痺れを切らした母親の怒号が飛んできてドスドスと中にまで入って来てしまったそれきり俺たちは大人しく体を洗いもう一度だけ一緒に浴槽に浸かるとお互い恥ずかしさのあまり静かに新年を迎えた
  妹は俺と同じ中学には通わず区内にあるお嬢様学校に進学することになった。あの大晦日の日以来俺と妹との関係がどのように変わったのかは分からないお風呂を一緒に入ると言うのもそれ以降しばらくなかったはっきりと言えるのは会話が増えたことと妹がどんどんお淑やかになっていくことと逆に二人きりだとどんどん無防備になっていくことである。朝の着替えはもちろんのこと、お風呂から上がるとタンクトップ一枚になったりバスタオル一枚をちょうど谷間が見えるように体に巻き付けたり、そもそも妹が中学校に上がってからというものお風呂に一緒に入ろうと誘われることが多くなったしかもそれが机に向かっている最中に後ろから抱きついて、「おにーちゃん! 今日こそ一緒にお風呂に入りましょ? んふふ、隠しても無駄だよ。ほら、行こう?」と指を顔に這わしながらささやくものだから、頭を包み込んできそうなおっぱいの感触と耳元のこそばゆさで俺はどうにかなってしまいそうだった。妹は兄である俺を誘っているようであったそしてそれが実際に誘っていることは追々分かることになる。今はそれよりも彼女のおっぱいについて語ることにしよう。中学生になっても成長の止まらない妹のおっぱいは一年生の時点で俺の手では包みきれないぐらい大きかったと記憶している当時俺は高校生であったが、同学年でも上級生にも妹より大きいおっぱいの持ち主は居なかった時々本屋で目に飛び込んでくるグラビアモデルなぞも妹には敵わない日々洗濯物としてベランダで干されて居るブラジャーはもはや俺の顔を包めるほどに大きく装飾は同年代の女の子のそれと比べると地味で、時々三段ホックのものが干されている時なぞは彼女の兄であるにも関わらず心が踊った。妹はバスケットボールを部活でやっていたやうだが体操服にやっとの事で収めたおっぱいが走る度に揺れに揺れてしまい手で押さえつけていないと痛くてしょうがないと言うそもそも成長痛で始終ピリピリとした痛みが走っているらしく、俺と話している途中にも幾度となく胸元に手をやってストラップとかカップの位置を調整する最も文句の多かったのは階段の上り下りで、殊に激しく降りてしまうとブラジャーからおっぱいが飛び出てしまうから一段一段慎重に降らなければならないそういう時にはさり気なく手を差し伸べてエスコートしてやるのだが、失礼なことに妹はそうやっていたわってやると「えっ、やだ、お兄ちゃんがそういうことをするなんて、似合わないんだけど」としごく嬉しそうに笑って手すりから手を離してこちらにもたれかかってくる。その時すごいと思ったのは上からチラリと見える谷間よりも下に広がる彼女の視界で、足先はかろうじて見えるけれども階段の段差などは全く見えないのである「苦労してるんだなあ」と呑気に言うと、「ようやくお分かりになりまして?」と澄ました顔で言うのでつい笑ったら頬を突かれてしまった。さて話を妹が俺のことを誘う誘わないの話題に戻そう。ある日のことである彼女が中学二年生に上がって何ヶ月か経った頃、家族でどこか温泉でも入りに行こうと中々渋い提案を父親がするのでそっくり乗った母親と何やら良からぬことを企んでいそうな妹に流されて、家族総出でとある山の中にある温泉地へと向かうことになった旅行としては一泊二日の極々普通な旅であったが、事が起きたのは夜も更けきって良くわからない蛙だとか良くわからない鳥とか良くわからない虫が大合奏をし始めた時のことである。泊まることになったペンションと言うのが中々豪勢で温泉地の中にあるせいか各部屋ごとに備え付けの露天風呂があり夜中に目を覚ました俺は、せっかくだしもう一回入っておこうと唐突に思うや気がついた時にはもう温泉に浸かっていた。深夜に自然の音を聞きながら入る露天風呂はかなり良い大学生になったら温泉巡りなども趣味に入れようかと思いながら小難しいことを考えていると、カラリと言う扉の開く音が聞こえてきた。一応これほどにないまでこっそりと露天風呂にやってきてかけ湯も極力音を立てないようにしたのに家族の誰かが聞きつけたらしいその者はそっと音も立てずにこちらにやってくるとまだあどけなさの抜けない顔をこちらに向けてしゃがみこむ。「なんだ里穂か」と言ってみると、「なんだとは何です。お兄ちゃん愛しの里穂ちゃんですよ。となり良いですか」彼女が裸になっていることに気がついたのはこの時であったいつものように遠慮しようにも時すでに遅く妹はするすると足から湯に浸かると隣ではなく背を向けて俺の足の間に入って来る。そしてしばらく無言が続いた。この時のことはよく憶えている眠いのか船をこぐ妹を支えつつ耳を澄ませて山の音を聞くそれは何とも幻想的で桃源郷にいるような印象を抱いた。この時俺は彼女のお腹を抱きしめるようにして彼女の体を支えてあげていたのだが、ちょっとでも腕を上へ滑らせるとふわりと浮いているおっぱいに手が当たるのであるこれが桃源郷でなくて何なのか。文字通り桃のような妹の膨らみは最高としか言いようがなく彼女が寝そうになっていることに調子付いて何度も上へ下へ浮き沈みさせてその感触を楽しんだ。するとのぼせそうになった頃合いに妹がお尻をぐりぐりと動かして来るのである、しまったと思って手を引っ込めたけれども途中で掴まれてしまった「えへへ、お兄ちゃんってほんとうにおっぱい好きですよね」と彼女は俺の手を自身の豊かな胸元へ。「毎回毎回、ちょこちょこ触って来ては、こんなに大きくしちゃって。大丈夫? 痛くないですか? お兄ちゃんのために大きくなったようなものなんですから、もっと触って良いんですよ?」妹はもにもにと俺の手を思いっきり動かして自身のおっぱいを揉ませてくる。この時聞かされたのだが妹は全部知っていた意外とうぶな彼女はあの大晦日の夜、俺がしたことをいまいち理解していなかったようだったけれども今となってはそういうことだったのだと理解してしまっており、俺に逃げ道はもう無かった彼女の質問に頷きつつ、彼女のおっぱいを揉みしだき、彼女のお尻に大きくした〝ソレ〟を刺激される。最後から二番目の質問は、「うわ、ほんとうに変態さんじゃないですか。じゃあ、こういうこともされたかった?」この言葉を言うや妹はするりと拘束から逃れて俺を温泉の縁にある岩場に座らせるよう促す。何が起きるのかはもはや分かりきっていた、彼女はすっかり大きくなった俺のモノをずっと大きな自身のおっぱいですっぽりと包むと体を使ってずりずりと刺激してくる行為の最中俺のモノは一切見えず、あの蠱惑的な谷間と頭の中がとろけそうな色っぽい声に俺は一瞬で果ててしまった。肉棒をずるりと抜き取ると妹は、「気持ちよかった?」と最後の質問を言ってきて精液でドロドロになった谷間をゆっくりと広げていく。その顔には中学生の女の子のものではない、何か微醺を帯びたような一人の成熟した女性の持つ色香が確かにあった
  こうして俺は妹の虜になり、果ては彼女の胸の中で種を放ってしまったのである。旅行の次の日には俺と妹は昔のように引っ付き合っていた帰って来てもずっと離れることはなく久しぶりに夜をともにした。以来、俺は妹のおっぱいを事あるごとに揉んだ二人きりで居る時はもちろんのこと、外に出かけた時も周りを見計らって揉んだし、登下校中にも彼女が良いよと言ってくれたら隠れて揉んだそこから次の段階に発展するようなことはあまりないようなものの、胸でしてくれたり手でしてくれたりするのはよくあることであった。中学二年の終わり頃には、妹のおっぱいは世間では全く見られないような大きさに達しており、俺も驚けば本人も驚き、時々来る彼女の友達も私服姿を見てびっくりするなどしていた。ベランダで干されているブラジャーの大きさもどんどん大きくなっていきとうとう俺の顔がすっぽりと包めるほどの大きさになっているのであるが、俺には女性の下着をどう見たら良いのか分からないからこの辺にしておくことにするただ言えることはめちゃくちゃ大きい本当にこんなブラジャーがあるのかと信じられないぐらい妹のブラジャーは大きいのである。そう言えば中学三年の春、彼女がそのめちゃくちゃ大きいブラジャーをくれたことがあったというのも、「私が修学旅行に行っちゃうと、お兄ちゃん寂しがるでしょうから。はい、これ、プレゼント。もう合わないからあげます」とそんな馬鹿げた理由だったのだが実のことこの時くれたブラジャーは大学生になった今でも下宿先に持って行って時おり寂しさを紛らわせているのは確かであるタグには32K と書かれているけれども俺には良くわからないので当時中学3年生だった妹のおっぱいがどれほどの大きさだったのかは聡明な読者のご想像にお任せする。ただ彼女の大きな胸が残酷な現実を呼び寄せてしまっていたことは伝えねばならないまず痴漢は日常茶飯事であった電車に乗れば四方八方から胸はもちろん、案外豊満なお尻にも手が伸びてくるので必ず俺が壁となって彼女を守らなくてはならないそもそもの話として男の視線そのものが嫌だと言っていた。そして一人にしておくと何かしら知らない男が近寄るのでおちおちトイレにも行けない機嫌が良ければ、「あの人お兄ちゃんよりかっこよかったね」と言ってケロリとしているのであるが、そうでない場合はひどく面倒くさいことになってしまう。痴漢と言えば学校でもあるらしくこれは男よりも同性同士のじゃれあいで触られると言うそして彼女が一番心を病めるのは同級生からの妬みであった当然あんなに大きなおっぱいをしているものだから妹はしばしば泣きはらした目で帰ってくることがあり、それとなく話を聞いてみると今日も詰め物をしているのではないかと言われて激しく揉まれた、私だって好きでこんなに大きくしたんじゃない、あの子たちにはあまりおっぱいが無いから私の苦労をわかってもらえない、私の半分でもいいから分け与えてみたい。と言って最後には、「でもお兄ちゃんが満足してくれるなら何でもいいんだけどね」と笑いながら言うのであった。しかしこれらは彼女にとっては大したことではないかもしれない妹が本当に心の底から泣きはらしたのは、彼女が中学三年の夏真っ盛りの頃、あれほどに悔しそうにしている我が妹は後にも先にも見たことはなく恐らくずっと先の将来に渡ってもあの姿を見ることはもう無いだろう。先に彼女はバスケットボールを部活としてやっていたと言ったが、中学3年生の夏頃にもなると胸が痛くてもはや激しく体を動かすことなぞ出来なくなっていた聞けば試合に出ては足を引っ張り自分のせいで負け幾度となく涙を流していたと言う彼女の最後の試合は見に行った常に胸に手をやり動いては胸を抑えて痛がるものだから、ボールが来ても反応が一瞬遅れてしまって折角のチャンスをものにできていない兎に角ひどい動きだった。だが、当然とも言える何と言ってもバスケットボールとそれほど遜色ない大きさの膨らみが胸に二つも付いているのだからむしろそれで試合に出て、あれほどまで体を動かせると言うのはかつてやんちゃだった妹だから出来たのであろう誰が称賛せずに居られようか迎えに行った時、彼女はバスケ部の同期後輩に囲まれて声を上げて泣いていた意外とあっさり引き渡してくれた理由は考えたくもない彼女にとっては最後だったけれども、三年生の試合としてはまだ序の口であるという事実はさぞかし悔しかったであろうその日はひたすら頭を撫でてやった。そんな妹であったが明くる日の朝には早くも復活して、「次は受験だねー」と飼っている猫に向かって呑気に言っていた。彼女はこの時ボケて居てこんなことを言ったけれども、中高一貫校なのだから何も心配はいらないむしろ受験で大変なのは俺の方で今度は俺が妹に頭を撫でられる羽目になろうことは目に見えていただが彼女の危惧はそちらではなくこの一年間を終えると俺は地元を離れてしまう、そのことが気にかかっているようであった何せ、「実は合格してほしくないって思ってる。お兄ちゃんが居ない生活なんて私、嫌」とまで言ったのだからよっぽどである。それでも俺は頑張った決して妹を蔑ろにしたわけではないけれども兎に角頑張った気がついた時には彼女もまた応援してくれるようになっていた。だから受験は上手く行って、俺は別に泣きはしなかったけれども妹は泣いて喜んでくれた。その涙がどこから出来たのかは分からないだが俺の顔をあの巨大な胸の谷間にすっぽりと入れて何度も何度も背中を擦ってくれるそれはかなり息苦しかったけれどこれほどにないまで気持ちの良い抱擁であった。そして実家で暮らす最後の日、俺たちは前々から約束していた通り次のステップに進んだ。外から何者の音も聞こえない深夜、彼女は震えながら俺の部屋へ来るとまずキスをせがみゆっくりと服を脱いでいった合う下着がないからと言って、おっぱいの溢れかえるブラジャーを取っ払い綺麗に畳んで一糸まとわぬ全身を俺に見せる。よろしくおねがいしますと彼女は言った俺も彼女の要求に答えて手をしっかりと繋いで秘部に自分のモノを出来るだけ優しく入れたこれ以上は何も言うまい最後に妹は目を潤わせながらこう言った。「お兄ちゃん、私のことを忘れないでください」と。ところでここまで言っておいて何であるが、別に妹はその後何事もなく高校生活を歩んでいるようであるそして俺は突然初めた片付けが終わらずに嘆いているところである妹の写真やらブラジャーやらを見つけて以来全く進まぬ少し前に連絡が来た時には彼女はあと15分くらいで着くからと言っていたならもうすぐである。俺は片付けの途中でむしろ汚くなった部屋を眺めてどう言い訳したらいいのか考え始めたが、あの妹のことだから言い訳なぞ通じないであろうと思うとベッドに横たわって彼女の訪れるのを待つことにした
  (終わり)
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kkagtate2 · 6 years ago
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偽善者の涙[十](完結)
[十]
旅の醍醐味と云へば、何も目的地で目的を果たすことよりも、その目的地に向かふまでの道のりにおける土地々々の特産品や名所、景色、それに人々と触れ合ふことにあらう。殊に何ヶ月前の金沢への旅行では、敦賀を抜けた辺りから広がる真つ白な景色に、お弁当を食するのも忘れて深く見入つてしまつたものであつた。今日は互ひの妻が京都に出かけると云ふので暇になつた里也と、多佳子の夫の東一は、残された者同士どこかへ出かけませんかと云ふ提案の元、京都とは別の都である奈良に向かつてゐた。子供が居るので僕が車を出しますよと云ふ東一の言葉にそのまゝ乗つた里也は、出発してからと云ふもの、車に揺さぶられながら、時おり後ろからかゝる子供らしい高い声に相手してゐるのであるが、何とも和やかでたゞ座つてゐるだけでも楽しいではないか。今年小学生三年生になる女の子は緊張してゐるのか静かに座つてゐるのであるが、小学六年生になる男の子の方は多佳子や佳奈枝の血を濃く受け継いだのか、をぢさん、をぢさん、これ見て〳〵と助手席に居る彼に話しかけては携帯端末を渡して来て、話が止まらないのである。里也はこんな賑やかな場は久しぶりであつた。実のこと、子供を相手にするのが苦手な彼は、東一が子供を連れて来ても良いですかと云つた時、少々ゾツとしないでもなかつた。が、どういふ心境の変化が自分の中にあつたのか、今ではかう云ふお喋りな子供を相手にするのも悪くはない。子供とはやはり可愛いものである。
「それにしても奈良なんて久しぶりですよ、小学生の時以来かもしれません」
と里也は東大寺の看板を見ながら云つた。
「はゝゝ、私も、……と云ひたいところですが、実はついこのあひだも来まして、……」
「へえ、さうなんですか。理由を伺つても?」
「大したことないですよ。会社の連中と遠足と称して来たゞけですから。で、その時やつぱりこゝは子供を連れて来た方が良いと思ひまして」
「確かに、鹿を見ると子供は絶対にはしやぎますもんね」
東一がその言葉に笑つてゐるうちに、駐車場を見つけたらしく、二人と二人の子供は滅多に降り立たない奈良の地へ足をつけた。生憎のこと今日は関西全域が雨雲に包まれてをり、こゝ奈良でも、さら〳〵と細やかな雨が振つてゐる。里也は持つて来た折り畳み傘を開いて、子供が自分の傘を開いてゐるあひだに濡れないよう、上からそつとかけてあげた。将来、佳奈枝と子供を授かつた時もかうして自分は雨に打たれながら笑顔を見せてゐるのであらうか、と感慨に耽りながら辺りを見回すと、こんな雨の中でも人通りは思つたよりもあつて、皆朗らかな表情を浮かべながら南大門の方へ歩いてゐる。
「意外と人が居るもんですなあ」
と通りを歩きながら、里也も周りの人間と同じやうな表情を浮かべて云つた。
「それはもちろんさうですよ。なんて云つたつて、奈良の大仏がありますからね」
「お父さん! をぢさん! 居る! 鹿が!」
と南大門の見える交差点まで来た時に子供が声を上げた。
「鹿煎餅を買つてあげよう。里也くんもやりますか」
「あ、いや、僕はトラウマがありますから、遠く離れたところで見るだけにしておきます」
と云ふのも昔、小学生の時分、遠足だか修学旅行だからで東大寺を訪れた時に、あまりにも鹿がバクバク(点々)と煎餅を食べるものだから、その勢ひと顔の恐ろしさに当てられて泣きさうになつてしまつたのである。それ以来、彼は鹿と云ふ生き物がそれほど好きではないのであるが、特にこの奈良県の鹿は、広島の宮島に居る鹿とは違つてグイグイと寄つてくるので、傘に隠れながら、先程からその姿を見る度にビクビクと小さく震へてゐるのであつた。東一の子供はそんな恐怖は感じないらしく、男の子の方はもとより、大人しさうな女の子の方も、可愛い〳〵と云ひながら鹿煎餅を食べさせてあげてゐる。里也はその微笑ましい光景を、我が子のことではないけれども、写真に収めると、お辞儀する鹿を思ひ切つて撫でるや、俺は持つてないからあの子らのとこに行きな、とやつぱり怖くなつて来て手で向かうへ追ひ払つた。
「おー、……」
南大門の前に佇んだ時、里也は思はずそんな歓声をあげた。小学生の頃とは違つて体が大きくなつた(点々)せいか、幾分迫力は減少したやうに感じたが、それでも歓声をあげるのには足りる風格があつた。
「あ、東一さん、写真撮つてあげますよ」
「ほんたうですか? ありがたうございます。ほら、お前たち、並んで〳〵」
ではよろしくおねがいしますと云ひながら手渡して来たデジカメを構へて、里也はシャッターを切る。久しぶりに一眼レフ以外で写真を撮つたが、やはりデジカメは良い。小さくて軽いくせに、一目では一眼レフカメラと遜色ない鮮やかさと細かさを持つた写真が撮れる。楽しさと精巧さで云へば圧倒的に一眼レフの方に軍配が上がるが、単純な取り回しの良さで云へば圧倒的にデジカメの方に軍配が上がる。かう云ふ手軽さを味はつてしまふと、もはや一眼レフには戻れないやうな気がする。その後も二三回続けてシャッターを切つて、一応撮つた写真を確認すると、黒縁眼鏡の奥で微笑んでゐる父親と、その両脇にこれほどにないまで楽しさうな子供の姿が写つてをり、兎に角「微笑ましい」の一言しか云ひやうが無かつた。
「里也くん、写真撮るの上手いですね。多佳子から聞いてはゐたんですが、実際目にするとやつぱりすごいですね」
「いえ〳〵、そんな褒められるやうなものぢや、ありませんよ。少し構図のことを知つてゐるだけでも、見栄えは遥かに良くなりますし。――ま、僕は一眼レフを持つてゐると云つても、そのくらゐしか知らないんですけどね」
「いやあ、それでもすごいですよ。今日のカメラマンを頼んでも良いですか」
「えゝ、良いですよ」
「え、ほんまに良いんですか?」
「良いですよ。今日は自分のカメラを持つて来なかつたから、手が寂しいんです」
里也はそれから東一親子専属のカメラマンとなり、三人の姿を写真に収めたり、忍び寄つてくる鹿にレンズを向けたりして、彼らについて行つた。しとやかな雨はもはや止みさうになく、強くなりもしなければ、弱くなりもせず、淡々と静かに傘の上へ落ちて行つてゐるのであるが、新緑の季節ともあつて、中で植えられてゐる木の葉の濡れてゐる様は、色鮮やかに、艷やかに、我々の目を楽しませてゐる。恐らく人が誰も居なければ、さら〳〵としたこそばゆい音が頭の奥底にまで響いて来たゞらうけれども、生憎、耳を澄ましても人々の和やかな話声しか聞こえてこない。里也はふと立ち止まつて、てら〳〵と光を帯びた一枚の綺麗な葉つぱを写真に撮つた。さう云へば今頃京都ではどんな旅が繰り広げられてゐるのだらうか。彼女たちもまた、自分と同じやうに新緑を楽しんでゐるだらうか。このくらゐのしと〳〵とした雨に打たれてゐる青紅葉はさぞかし綺麗であらう。沙霧も佳奈枝も多佳子も、まるで細雪の一場面のやうに、みんな歓声をあげて苔のむした石畳を歩きつゝ、写真を撮つたり撮られたり、時には甘味処で立ち止まつたり、時には土産屋に立ち寄つたり、思ひ〳〵の楽しみ方をしてゐることであらう。………
もはや里也は限界であつた。先程被写体に選んだ一枚の葉を前に、胸の痛みが無くなるよう懸命に沙霧の顔を思ひ浮かべたが、今となつてはもうそれすら無駄だつた。
「里也くん、どうしましたか」
と呼びかけられて、やうやく三人の幸せさうな親子を追ひかけ初めたが、いよ〳〵東大寺に入ると、人と云ふ人の、のどかな声に包まれてしまつた。
 (をはり)
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kkagtate2 · 6 years ago
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偽善者の涙[九]
[九]
「ふん、ふん、……それでな、沙霧をな、あー、……たぶん一時か二時頃、……ふん、行くで。……ふん、佳奈枝も来るで。でも、たぶん俺らすぐ帰ると思ふから、……あ、さうなん? ぢやあ、沙霧に、一時半ぴつたりに下の和室の方に来といて、て伝へて欲しいんやけど、……ふん、ありがたう。お土産的なものはテーブルの上に置いとくから、……あ、さう〳〵、ちやんと佳奈枝も来るつて、あいつに伝へといてな。……ふん、一時半で。ぢや、――」
「お母様は何と?」
「いや、いつもと変はり無い。今回は云ふだけだから、ちやんとしてくれると思ふ」
「なら良かつた。はい、いつものヨーグルト」
「ありがたう、いたゞきます」
夫婦が決起した翌週の火曜日、――ちやうどゴールデンウィークに入つたばかりの四月三十日、元号が平成から変はる前に家庭内のごた〳〵を片付けたかつた里也は少々無理して暇を取り、沙霧と佳奈枝のあひだにある不和を解消すべく、実家を訪れようとしてゐたのであるが、電話口で母親に頼み事をしたのは、妻から強く、もう夫婦ごつごはするな、そも〳〵もう沙霧ちやんの部屋には入るなと、云はれてゐたからであつた。食後のヨーグルトをスプーン一杯口に入れては思案し、口に入れてはぼんやりと空を見つめる今日の彼は、妙に臆病になつてゐるのか昨晩寝る前から無口である。いつもはお喋りな母親の世間話に付き合はされて、電話であらうとも二三十分は話すと云ふのに、さつきは要件だけを伝へてさつさと切つてしまつた。かう云ふ臆病な性格が、結局のところ沙霧を不幸にするのだとは理解してゐるけれども、やはり土壇場に来ると身の縮む思ひがする。里也は先週、妻の涙に誘はれて沙霧を見放すことを選んでしまつたのだが、出来ることならばやりたくはなく、もし話がこじれるやうなら、沙霧に寝返らうとも考へてゐた。だがそんな胸くその悪いことなぞ彼には出来るはずもなく、もう後は楽観的な未来を頭に描きながら、二人の女の成り行きに身を任せるしかなかつた。
「ごちそうさま(ごちさうさま、ではない)」
朝食を終へた後、里也は佳奈枝と一緒に休日の日課となつてゐる軽い体操をして、部屋の掃除をして、妻の入れてくれたコーヒーを飲みつゝ、ソファに座つてのんびりとアウトヾア系の雑誌を読んでゐた。音楽から徐々に熱が無くなるにつれて、急に他の趣味が気になりだしたので、こゝ一年間で色々と手をつけてゐたのであるが、一番興味をそゝられたのはこの、普段の出不精な自分からは想像も出来ないアウトヾア関係の趣味であつた。キャンプはもとより、自分の手で火を拵えてダッチオーブンで料理を作つたり、ナイフで木を削つてその場で遊び道具を作つたり、特にチタンで出来たマグを片手に燃え盛る炎を眺めるのなぞは最高の体験であらう。さう云へば山の中にある佳奈枝の祖父の家にお邪魔をする時、妙に心が躍るのはこのせいであつたか。近い将来出来るであらう子供が大きくなつた暁には必ずや、道具やら何やらを車に積み込んで、佳奈枝にやれ〳〵とため息をつかれながら遊び尽くしたい。もうその頃には沙霧の一件も落ち着いて、彼女も新たな人生を歩み始めてゐるだらうから、何も心配はない、一途な愛を我が妻と我が子に向けて、幸せな家庭を築いていかう。里也はさう思ひながら、楽しげな表情をした父子が丸太を前に立つてゐるペーヂを眺めてゐたのであるが、急に奇妙な感覚に囚はれてしまひ、勢ひよく本を閉じてしまつた。それは例の恨めしい感覚であつたけれども、今感じたのはまた別種の、もうどうしやうもないほどに強い感情であつた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない。……」
里也はそれから、気持ちを紛らはせるために佳奈枝と二言三言喋つて、話題が尽きるとまた静かに雑誌を開いた。
自宅となつてゐるマンションを発つたのは午前十一時を過ぎた頃であつたのだが、さすがにゴールデンウィーク中日とあつて十三の駅は人でごつた返してゐるやうであつた。里也らはそれを横目で見つゝ、阪急の神戸線へ乗り換へて、彼の実家の最寄り駅へ降り立ち、軽い昼食をしたゝめてから、やることもなくぶら〳〵と周辺をそゞろ歩きして時間を潰し、やうやく沙霧の待つ家へと向かつた。もう気温じたいは夏とそれほど変はり無いと思つてゐるのか、時々見かける外国人はもう半袖姿で、大きなリュックサックを背負いながら歩いてゐる。以前見かけた桜の木はすつかり花を散らせて、今度は色も感触も柔らかい実に綺麗な緑色の葉を伸ばしつゝある。さう云へば今年はたうとうこの木の花を見ずに終はつてしまつた。結局京都へは嫌々ながら二日もかけて、東の平安神宮、西の嵐山、と云つた風に訪れ、どん〳〵歩いて行く佳奈枝を時おり見失ひながらカメラを片手に練り歩いたのであるが、行けばやつぱり気分はすこぶる高まつてしまふもので、それなりに楽しんだものであつた。沙霧はその時の写真を見てくれたゞらうか。来年は一緒に来てくれるだらうか。いつか遠い昔のやうに、二人で手を繋いで家族の誰かに、――今なら佳奈枝にカメラマンとなつてもらひ、ちら〳〵と降る桜の花びらの中、微笑ましい表情で一緒に写真に写つてくれるだらうか。もう今年は時期を逃してしまつた。寒い地域ならば咲いてゐる可能性もなくはないが、そこまで遠くへは出かけたくないだらうから、また一年と云ふ長い期間を待たなくてはならない。今年は特に長くなるかもしれないと思ふと、一転して里也は自然に憂鬱な気分になつたが、出来るだけ彼女にも楽観的な気持ちを抱かせるためにも平常心で、実家の玄関に手をかけた。
話によると、今日は両親は二人共どこかへ遊びに行つてしまつたらしく、家の中は耳鳴りがするほどしいん(点々)としてゐたのであるが、さう云へば沙霧はちやんと伝言を受け取つたのであらうか。母親に電話をしたのは午前中であつたから、伝へられた時にはまだ寝てゐたかもしれず、もしかすると自分たちが来ると云ふことすら知らないかもしれない。そんな心配事をしつゝ、里也は一階にある和室の引き戸に手をかけた。そつと引いて中に入ると、彼女はだゝつ広い机の前できちんと正座をしてぼうつと俯いてゐた。そして、開口一番に、
「ごめんなさい!」
と土下座をしながら謝つてくる。
――呆気に取られてしまつた。それは佳奈枝も同じなやうで、口をぱく〳〵と開けながら目を見開いてゐる。こちらからはまだ何も云つてゐない。たゞ和室の中へ入つたゞけである。里也には今の沙霧が自分の妹のやうには見えなかつた。小さな背中を丸め、長い髪の毛を彼方此方(あちらこちら)に散らばらせ、病的に白い肌を季節外れでボロボロの衣装で隠す、――それはまるでやせ細つた乞食のやうで、見てゐて居た堪れなかつた。
「さつちやん!(点々) ど、どうしちやつたの?」
と最初に駆け寄つたのは佳奈枝であつた。
「佳奈枝お姉さん、すみません、すみません、……」
「あゝ、ほら、顔上げて、……もう、せつかく綺麗な顔なのに、そんなにして、……ほら、さつちやん、笑顔、笑顔」
「すみません、ごめ、ごめんなさい、……」
里也は先程から佳奈枝が沙霧の事をさつちやん(点々)と呼ぶことに得体の知れない気色悪さを感じながら、黙つて二人の様子を見守つてゐたのであるが、いつたいどうしてしまつたと云ふのだ。今妻の胸に抱かれてゐる沙霧の顔には涙こそ無いものゝ、もう何日も寝てない日々が続いた時のやうにひどい隈が出来てゐるではないか。いつもはどんなに見窄らしく見えてゐても、可愛い〳〵と云ふ里也であつたが、そんな彼でもさすがに今の彼女には不気味なものを感じずにはゐられなかつた。
「沙霧、……」
「里也さん、里也さん、コヽアとか蜂蜜の入つたホットミルクとか、さう云ふ優しい飲み物を作つて来てくださる? ちやつとこれはあかんわ」
「分かつた。すぐ持つてくるから、――」
それから里也は、冬のあひだに使ひ切れなかつたのであらう粉を牛乳に溶き、火にかけて一杯のコヽアを作ると、すぐに沙霧のもとへと持つて行つた。かなり急いだつもりであつたが、再び和室の中に入ると、沙霧は佳奈枝のなすがまゝ背中をぽん〳〵と叩かれてゐた。
「ほら沙霧、久しぶりのお兄ちやんのコヽアだぞ。砂糖が足りなかつたら云つてくれ」
と、努めて朗らかに云つた。
「兄さん、……すみません、すみません、……」
「まあ、なんだ、取り敢へずそれを飲んでくれ」
しばらく沙霧はコヽアの入つたマグカップを見つめたまゝであつたが、佳奈枝が両親にもと作つてきたクッキーを渡して、ついでに俺も食べたいと云つた里也がポリポリと音を立て始めると、ゆつくりではあるが飲んでいつた。
それにしても久しぶりの取り乱しやうである。彼は一旦は動揺したものゝ、実のところこれまでにも何回かあり、最も記憶に古いもので、両親にいぢめのことを隠すように頼まれた時であつたゞらうか、沙霧が落ち着いてくるにつれてむしろ懐かしさがこみ上げて来たのであるが、恐らく自分以外にかう云つた姿を見せるのは初めてゞあらう。彼女の隣には佳奈枝がをり、もう絶対に手を離さないだらうと思つて少し遠くに座つた彼は、二人に座布団を渡しつゝ、彼女が変はらうとしてゐるのは確かなのだと思つた。沙霧はもはや自分の姿を見られることすら恥ずかしいと感じてをり、況してやこんな取り乱した場面を里也以外に見られるなど、自分を殺してゞもその屈辱から逃れたいと思つてゐるに違ひなく、それをこれまでもこれからも付き合つて行くことになる佳奈枝に見せると云ふことは、相当の覚悟があると云ふことである。その覚悟が何かと云へば、やはり前に歩みたいと云ふこと以外何があらう。里也はまさか突然見せつけられるとは思つてゐなかつたけれども、何にも増して自分の考への至らなさに深く恥じ入ると共に、彼女がそこまでの覚悟を見せてくれたことに、悲しくも嬉しくも感じるのであつた。
たゞ、なぜこんなことになつたのかは、彼にも分からなかつた。彼女の目に濃く刻まれた隈はまさか自分から塗つてゐる訳ではないだらう。色白な肌をしてゐるものだから隈が出来たらすぐ分かるのであるが、今までそんな目の黒ずみなんて憶えてゐる限りでは一度も出来たことは無く、あのコンサートの時以来、彼女が如何に自分を責めに責めゐたのか、なんとなくではあるが分かつてしまふ。さつと見たところ、腕に新たな傷は出来てゐないやうなので、悪く捉へるのも程々にして良い方向に捉へてみると、どういふ形であれ、一度素の自分を曝け出しておくことで、話が円滑に進むかもしれない。かう云ふ時は兎に角本人の思ひを聞かなくてはならないと知つてゐる里也は、まず優しく声をかけた。これまでなら二人きりでなければ話し初めなかつたけれども、彼女の決意がほんたうならば、自分よりもむしろ佳奈枝に聞いて欲しいはず。さう思つて、佳奈枝に目配りをして事前の打ち合はせ通り妻の方から話を促した。
「ごめんね、さつちやん。もうぼんやりとしか憶えてゐないけれども、確かに私の記憶の中にはさつちやんを見放した光景があるわ。ごめんなさい」
と佳奈枝は未だに手をつないだまゝ、素直に頭を下げた。
「いえ、いえ、お姉さんが謝ることは無いんです。全部〳〵、私の勘違ひだつたんです。お姉さんは悪くないんです。頭を、……頭を上げて、私を叱つてください。……」
と、沙霧は沙霧で佳奈枝よりも深く頭を下げる。
「そんな、勘違ひだなんて、……」
「いえ、勘違ひなんです。兄さんに云つたことは私の記憶違ひで、お姉さんは何にも悪くないんです。……えと、悪くなかつたんです。一度盗まれた教科書を探しに行つた時に、あんなに丁寧に応対してくださつた方はお姉さんたゞ一人で、……あゝ、とにかく途方も無く失礼なことをしでかしてしまひました。ごめんなさい!」
とまた土下座のやうな格好になつたので、佳奈枝はその顔を上げさせて、
「いゝえ、私の記憶違ひでも、あなたの記憶違ひでも、私はさつちやんがいぢめられてゐるのに、見て見ぬふりしてしまつたわ。それだけは確実だから、謝らせてちやうだい。ごめんなさい」
と深々と頭を下げた。傍から見てゐると、互ひに向き合ひながらどちらが頭をより深く下げられるか競ひあつてゐるやうに見えて、ひどく滑稽に思へてしまふのだが、里也はなぜかその様子に心を打たれてゐた。そして知らず識らず涙を流してゐたらしく、
「どうして里也さんが泣いてるのよ」
と、そんな彼を見つけた佳奈枝が云つた。さう云ふ彼女もまた、目を赤くして今にも泣きさうになつてゐる。
「さうですよ、兄さん。どうして兄さんが泣いてゐるんですか」
さう云つた沙霧は、涙こそ流してゐないものゝ、軽口を叩く程度には笑顔が戻りつゝあつた。その笑顔を見て、佳奈枝もまた、ふゝ、……と笑つた。そしてもう一度、ごめんなさいと謝ると、沙霧もまた、ごめんなさいと云ひ、つひには再び謝罪合戦が始まつてしまつた。
さうやつて互ひ謝り続けた二人はその後、専ら里也を弄るといふ共通の目的の元、家に来たときとは打つて変はつて朗らかな声で話をしてゐた。基本的に里也は聞くのみで、見る限りでは音楽の話題で無かつたせいか、沙霧は相変はらずかなり言葉に詰まつてゐたけれども、少なくとも彼には、沙霧の見えない壁が、完全にとは云へないけれども薄くなつたやうに思へる。そも〳〵昔は佳奈枝と話すとなると急に黙りこくつてしまひ、言葉も発せないやうであつたから、話せるやうになつたゞけでも充分な進歩と云へやう。たゞ、話せば話すだけ疲れてしまふ性質だけはどうしやうもないはずであるから、二三十分が経過しやうとした頃合ひに、一度席を立つて沙霧���使つたマグカップを片付けて、佳奈枝を促した。
「ほんなら沙霧、……あれ、いつだつたか」
と、三人とも玄関口に立つて、里也が云つた。
「十二日よ。ゴールデンウィークが明けた次の週の日曜日」
「さう〳〵、十二日。……の、何時頃?」
「たぶん十時頃」
「らしい。そのくらゐに佳奈枝が迎へに来るから、そのつもりで。大丈夫、心配しなくても、これを機会にいくつか文句を云つてみるといゝ。あと佳奈枝〝お姉さん〟と云ふのもやめてみるといゝ。それとロシア音楽についても語つてみるといゝ。嫌かもしれんけど、沙霧はそのまゝが一番可愛くて魅力的なんやから、さう身構へずに自然にな。ま、今日はゆつくりと寝てくれ」
「うわ、私の見てる前で口説かないでくださる? 嫉妬しちやうから」
「くつ〳〵〳〵、悔しかつたら沙霧くらゐ可愛くなることだな。――ま、さう云ふ訳でぢやあな、沙霧。また会はう」
「バイ〳〵、さつちやん。また明々後日に会ひませう」
と、二人は沙霧に別れを告げて玄関をくゞつた。
一人戸口に立たされた沙霧は、少しのあひだぼうつとしてゐたのであるが、ハツとなつて動き出すと、開け放されたまゝになつてゐた和室の引き戸を締めて、自室に向かはうと階段を登つて行つた。一段〳〵踏みしめる毎に鳴るトントン、……と云ふ音は、今も昔も変はらず軽やかである。階段を登り終へるとすぐ左手にかつて兄が使つてゐた自室があるのであるが、こちらはもはや昔の面影など残つてをらず、今ではすつかり物置と化してしまつてゐる。沙霧はふとその扉の前に佇んだ。昔、――もう十年以上も昔、何気なしにかうやつて兄の部屋の前で佇んでゐたら、美しくも物悲しいヴァイオリンの音色と、力強くも虚しいトランペットの音が代はる〴〵聞こえて来て、以来、深夜の両親が寝静まつた頃合ひを見計らつて、その漏れ聞こえてくる音楽に耳を澄ましたものであつた。彼の曲の聞き方と云へば、同じフレーズを繰り返し〳〵飽きるまで聞いて、飽きたか満足したかするとやうやく先へ進み、再びたつた五秒にも満たないフレーズを繰り返し〳〵聞く。そんなものだから曲名こそ分からないものゝ、体が勝手にその一フレーズを憶えてしまつた。
「ふゝ、……」
沙霧は何だか可笑しくなつてきて、昔と同じく笑みを溢してゐた。が、昔と違つて、今は自分の声以外、しいん(点々)と物音一つすら聞こえない。唯一変はらないのは、廊下の行き止まりにある窓から差し込む光で、キラキラと照らされた埃たちであるのだが、いつたいそれに何の意味があるのか。
沙霧はギユウつと手首を握りしめると、やう〳〵自室へと入つて行つた。外からはまだ何か楽しげなことを話してゐるらしく、ほんたうの夫婦の声が、時おり笑ひ声を交へながら聞こえてくる。期待をしてゐなかつたと云へば嘘になるが、やつぱり悔しかつた。彼女は今日は絶対に涙を流さない決意を密かにしてゐたのであるが、外から漏れ聞こえて来る声を聞くうちに、たうとう堪えきれなくなつて、膝を付き、手をつき、自分でも笑つてしまふほど惨めな格好で泣いてゐた。少しでも上を向かうと、顔を上げたけれども、今に限つて愛する兄と最後に二人で撮つた写真が目についてしまつた。真暗な部屋の中を一度たりとも輝かずに落ちた雫は、音も立てずに闇に飲み込まれ、誰にもその存在を悟られることのないまゝ消えて行つた。
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kkagtate2 · 6 years ago
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偽善者の涙[八]
[八]
「それで、話つて何かしら。たぶん沙霧ちやん関係だとは思ふけど。……」
と、佳奈枝は自身の楽器にポリッシュをかけながら云つた。二人が再び楽器を取つてから三十分が経たうとした頃に、たうとう里也が唇の疲れを訴へゝばりだしたので、しやうことなしに開放してあげたところ、今お前と面と向かつて話し始めると嫌な気持ちが芽生えるから、楽器を触りながらでもいゝか。と、云ふので、里也はソファの上で、佳奈枝はダイニングテーブルの上で、――とそんな風にして夫婦は思ひ〳〵の場所で楽器を弄つてゐた。先週にも大方同じことをした彼女は、もう楽器を磨くことぐらゐしか残つてをらず、かうして久しぶりにポリッシュをかけてゐるのであるが、里也もまたやることが尽きたらしく、さつきからスライドの滑り具合を確かめるだけになつてゐるのが背中越しに見える。
「さう、沙霧のことなんだが、これはお前にも関係してゐてな、――」
と、里也はスライドごと机に移動してきて佳奈枝の対面に座つた。普通、金管楽器と云へば、ピカ〳〵と目も眩むほどに輝いてゐるものであるが、彼の楽器は長年蓄積された汚れで鈍い輝きしか放つてゐない。
「なんだ、その、……少し前に沙霧とコンサートに行つた時から話せばいゝのか、……」
「歯切れ悪いわね。どうしたの、たうとう嫌はれちやつた?」
少し冗談めかして云つてみたが、
「いや、さうぢやない」
と何事も無かつたかのやうに返されてしまつた。
里也が沙霧との会話を語るのにはそれから十分もしてからであつた。何週間か時間をかけた割にはどう切り出せば良いのかもはつきりしないまゝに、気分に任せて佳奈枝に話し始めてしまつたから、沙霧との約束とどう折り合ひをつけたらいゝか迷つたけれども、結局は率直に云ふことにした。どうも沙霧が云ふには、中学の時にお前にもいぢめられてゐたらしいんだ。内容はかう云ふのだつたり、あゝ云ふのだつたり、――佳奈枝が沙霧を恐怖に陥れたあの目の話はしなかつたが、それ以外については聞いたことを全て云つた。
「それで、まず聞きたいのは、今云つたことはほんたうなのか? 昔のことだからいまいち確証も無くて、別にあいつのことも、佳奈枝のことも疑つてゐるわけぢやないんだが、兎に角はつきりさせておきたくてな」
「さうね、……」
と云つた佳奈枝は記憶の中をまさぐり初めた。――が、彼女の頭の中には、今と同じやうに身を縮めて誰にもその存在を悟られることなく、そして時には無視されて、物を取られて、知り合ひとも云へない連中に心無いことを云はれて、静かに、声もあげずに階段の踊り場で泣いてゐる、――そんな姿ばかりが思ひ浮かんでくる。しかも、どれもこれも遠くから眺めたやうな、云はゞ廊下を歩いてゐるときにたま〳〵見てしまつたやうな記憶であり、とてもではないが、自分がいぢめの加害者であるとは思へない。よくて傍観者であらう。彼女と会話をしたのはかつて里也に云つた通り、ある日自分の教科書を探しにわざ〳〵遠く離れたクラスに来た時くらゐなものだし、いつたい何をもつて沙霧は自分にいぢめられたと云つてゐるのか、しかし、もしかしたら憶えてゐないだけで、もしかしたらいぢめたことがあるかもしれないが、取り敢へず思ひつける範囲内では、そんな彼女を傷つけた記憶なんて一つもない。………
「ほんたうぢやないかもしれないわね。何年か前にも云つた通り、私はあの子とは友達でも知り合ひでも何でも無く、クラスも遠く離れてゐたし、話したのも一回だけ、……あとこれは怒られても仕方ないけれど、いぢめは遠く離れたところから見てゐるだけだつたわ。だから、ほんたうに、私とあの子との出会ひは三年前のあの日が最初なの。たぶん、云ひづらいけど、沙霧ちやんは、……」
「いや、その先は云はないでくれ。分かつた。佳奈枝は沙霧をいぢめたことなんて一度もない、さう思つていゝんだな?」
「えゝ、私は沙霧ちやんをいぢめたことなんて一度もないわ。誓つても良い」
「さうか。………」
里也はなんだか肩の荷が降りたやうな心地で目を瞑つた。もし沙霧が嘘を云つてゐたとしたら再起できないほど落胆するだらうなとは思つてゐたけれども、取り敢へず佳奈枝に確認が取れたこと自体に安堵してしまつて、事実がはつきりしたかなぞどうでもよくなつてしまつた。と、云ふよりも、むしろ事実がはつきりしないまゝになつたのが純粋に嬉しい。もしかしたら、ほんたうに佳奈枝がいぢめを行つてゐたと云つた時の方が怖かつた。彼は安堵感から佳奈枝を促して楽器を片付けると、今度は彼女とソファに並んで座つた。この部屋に移り住んだ当初から二人は重要な話をする時には、先程のやうにテーブルで向かひ合ふよりも、かうしてソファに肩を寄せ合つて、コーヒーとか紅茶でも飲みながら他愛もなく声を交はすことを好んだ。それはかつて、出会つたサークルの部室でよくボロボロのソファに座りながら、二人だけの世界に浸つたからかもしれない。佳奈枝の顔を見てゐると、里也は、いぢめたことなんて無いなど嘘に決まつてゐるだらう、沙霧がどれほどの屈辱を受けたか、そして、どれほどの勇気を出して告白してくれたか、お前は分かつてゐるのか、ほんたうの事を云へ、あいつが嘘を云ふ訳が無い。と、責め立てさうになつたが、お互ひさう云ふことが無いように、感情的にならずゆつくりと話し合へるように、思ひがすれ違つても最終的にはこゝへ集へるようにと、そんな思ひで買つた上質なソファと上質なコーヒーの香ばしい香りに釣られて、この一二週間程度落ち着けようとしてきた自分の憤りがやうやく収まるのを感じた。ふう、と息をつくとそれは佳奈枝も同じなやうで、二人して笑ひ合ふと、里也はもう一���コーヒーを啜つた。
正直に云へば、里也は自身の気持ちさへどうにでもできれば、佳奈枝がいぢめをしてようがしてまいがどちらでもよかつた。重要なのはこの後どうするかであつて、過去のことはどうでもよい、――沙霧からすると十中八九さうではないだらうが、その過去のことをどうにかするのは彼女自身の内側の問題であ��て、自分が出来ることゝ云へばその手助けくらゐであらう。何しろもう十年以上も昔のことなので、どちらの云ひ分も簡単に信じるにはいかない。ならどうするべきか、沙霧のトラウマを取り払ひつゝ佳奈枝を悪者にしない、そんな幸せな道は無いかしらん。と、ぼんやり思ひながらカップの内側でもく〳〵と湯気の立たせてゐる真つ黒な液体を見てゐたところ、
「もしかしたら、勘違ひかもね」
と佳奈枝が唐突に口を開いた。
「勘違ひ?」
「うん。今思ひ出したんだけど、さう云へば私と背格好が、……そんなに似てはなかつたけど、髪型が、……も似てはなかつたけど、とにかく雰囲気が私と似てる子が居たのよ。どのクラスだつたかは忘れたわ。でも二三回話した限りでは、確かに似てゐたわ。もしかしたらその子がやつたのかもね」
「ふむ、……なるほど確かにたゞの勘違ひの線もありえるな」
「と、云ふよりも私にはもうその線しか考へられなくて、……」
「せやな、……さう考へると何か丸く収まりさうやな。そのまゝ云ふと、あいつ恥ずかしさで死んでしまふかもしれないけど」
「ねえ、――」
佳奈枝はぐいと身を乗り出して、
「それはぼやかして云ふとして、どうして沙霧ちやんがそんなことを云つたのか、考へた?」
「うん、たぶん今度の京都で身を縮ませたくはないんだらうとは思つた。前々からお前と話しをする時に、変に考へ込みすぎて変な事を云つてたからな、もうさう云ふのが無いようにしたいんだらう。たぶん」
「私はさうぢやないと思ふのよ」
「ほう、……と、云ふと?」
「たぶんもつと先のことまでどうにかしたいんだと思ふ。すんごく抽象的に云へば、沙霧ちやんも前に進みたいのよ。いぢめの傷跡を乗り越えて、これまでの自分を変へて、新しい人生を自分の力で歩んで行きたい、止まつた時計を動かしたい。ねえ、さう云ふ思ひが伝はつてこない?」
「さう云はれると、たしかにそんな気がするが、……」
「でも、さうするには一つ大きなことをしなくちやいけない。何か分かる?」
「ふむ? 何なんだ?」
と聞き返すと、佳奈枝が手を差し出して来たので、その上から自分の手を重ねたのだが、良くわからないまゝにはたき落とされてしまつた。
「さうぢやない。あなたよあなた。里也さんよ。あの子はあなたから離れなくちやいけないのよ、自分の足で自分の道を歩むには」
「なんと」
「いつも私はあなた達の夫婦ごつごを見て思つてたわ、これがあの子が引きこもりから脱却できない原因だつて。何だかんだ云つて面倒を見てくれる両親に、過保護になつて、しかも夫を演じてまで甘やかしてくれる兄、……私だつたら気持ち悪くて里也さんなんか蹴飛ばしてるところだけど、あの子はあなたしか居なかつた。あなたしか頼れなかつた。でもあなたは変はつてしまつた。私と云ふいけ好かない女を愛して、結婚をして、もう頼ろうにもどこか、自分の及ばない遠くへ行つてしまつた。もうあの子には自分を変へるしか道は残されてゐない。それしか、自分が生き残る道は無い。でも最後に気持ちだけは伝へたかつた。勘違ひでもいゝから、最後に自分をこんなにした切ない気持ちをあなたに聞いてほしかつた。………」
これを語る佳奈枝の声はひどく鼻にかゝつてゐた。一度はたき落とした里也の手を握りしめて、その手にひとしずくの涙を落としてから、やう〳〵目元を拭ひ始めたが、次から次へと溢れ出てくるのか、里也が脱衣所からタオルを持つて来るあひだに、顔中がすつかり濡れてしまつた。夕方の柔らかい陽の光に照らされて、美しくも儚く輝くその雫を、里也は優しく丁寧に拭きながら続く話に耳を傾けた。
「だから、……ね。里也さん、もう、あんなこと止めなさい。ほんたうに沙霧ちやん、……沙霧ちやんのことを思ふのなら、冷たく突き放して、あの子に人生を歩ませてあげなさい」
「でも、それは、それはあまりにも」
と云ふ里也の声もどこか鼻にかゝつてゐる。
「あまりにも辛い。それであいつが消えてしまつたら、もう生きてる限りは会へなくなつてしまつたら、……さう思ふと辛くて、辛くて怖くてしやうがなくて、……」
「私も辛い。あんなに見放された子を、今度は自分が見放すかと思ふと、これでいゝかなつて思ふ。けど、やらなくちやいけないのよ、やらなくちや。里也さん、これはあの子の人生なの。私たちが邪魔しちやダメだわ」
「いや、それでもダメだ。俺には出来さうにない」
「決心なさい。あの子が勇気を出して前進しようとしたのと同じやうに、あなたも決心するしかないの。これはあの子のためなの。沙霧ちやんのためなの。さう思ふと私にはできたわ。里也さんは?」
一度息をついた。彼の中ではとつくに決心はついてゐたが、それを口に出すと云ふことはもう後戻りができないと云ふことだと思ふと、どうしても気が引けてしまふ。だが、佳奈枝の云ふ通りである。このまゝ沙霧を我が子のやうに、我が妻のやうに接し続けると、必ずや彼女は不幸せになつてしまふ。ならば、常々彼が理解してゐる通り、いぢめで受けた傷を克服するためにも、一度彼女から離れ、それ〴〵がそれ〴〵の生活を送るべきであらう。沙霧をかうしたのは自分なのだから、いぢめの原因を作つたのも、その傷跡をそのまゝに甘えさせたのも、そしてぐだ〳〵とその関係を続けたのも自分なのだから、引導を渡すのは自分で無くては一体誰がやると云ふのか。里也はたうとう云つた。その声は涙に枯れて上手く発せられなかつたけれども、佳奈枝にはちやんと伝はつてゐた。
「ふゝ、さうね、あの子を幸せにしてあげませう。だつて、私たちの可愛い妹だもの。ね、ほら、指切りしましよ」
差し出された小指に自分の小指を絡めて、里也は指切りをした。だけどもさうすると余計に催されてしまひ、つひには二人してわん〳〵声をあげて、日の暮れるまで泣きはらしてしまつた。
「それで、これからどうするかなんだが、……」
と、すつかり落ち着いた里也は夕食を粗方片付けた後、杯の縁を嘗めながら切り出した。
「俺はそも〳〵沙霧がそこまで勇気を出してくれたこと自体が嬉しくてな、この件はそれだけにしようとも思つてたんだ。でも、あいつを突き放すとなると、それはそれでどうしたもんだか、……」
「まずは彼女の気持ちを整理してあげましよ。何も一気にすることはないわ。かう云ふのは時間をかけていかなくちやいけない、あなたはいつもさう仰るぢやない。だから、沙霧ちやんが前進しようとしてくれたことに免じて、私、悪役にならうと思ふの」
「あん? 悪役?」
「さう、悪役」
「悪役、ねえ。……」
「まずは京都の前に、あの子に会ひに行きましよ。それでいぢめの件が勘違ひなのか、嘘なのか分からないから、かう、やんわりと、……」
「やんわりと?」
「さう、やんわりと肯定して、……でも見て見ぬふりをしたのは事実だから、そこは全力で謝る。さうすると沙霧ちやんの心が晴れる、……かもしれない。里也さんはどう思ふ?」
「確かに一言謝るのとさうでないのでは結構な違ひがあるだらうな。あいつの心が晴れるのかどうかは、やつてみないと分からないんだが、心の中のわだかまりは多少なりとも解けると思ふ。けど、それで充分だらうか。なんたつてあいつは、……」
「まあ〳〵、話が通じたゞけでも、きつと楽になつてるはずやねんから、後は佳奈枝お姉さんに任しときなさい。里也さんが思うてるよりも、上手いことやつたげるんやから」
「うわ、やつぱ心配になつてきたわ」
いつもの調子を取り戻し始めた里也は、その後佳奈枝が食器を片付けようと立ち上がる際に、
「あゝ、それはそれとして、多佳子姉さんが今度の京都について来る、と云ふのはちやんと云ひなさい」
と云つたのであるが、手早く食器を積み上げられるや見事に逃げられてしまつた。
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kkagtate2 · 6 years ago
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偽善者の涙[七]
[七]
「ぢやあ沙霧、元気でな。近々佳奈枝と一緒に来るかも知れへんけど、そのときは必ず伝へてから来るから、会ひたくなければ云うんやで。大丈夫、そのくらゐであいつはお前のことを嫌つたりせえへんから、今日は気分ぢやないとか適当云へば、あらさうなの、ならいゝわ、くらゐで済むから、な。あゝ、さう〳〵、さう云へばまたこのあひだ中古のCD ショップを漁つてたら、――」
「あ、あの、兄さん」
と沙霧は珍しく里也の話を遮つた。
「どうした?」
「えと、……今日のお話したことについてなんですけど、……えつと、あの、……口に出したら急に楽になつたので、あまり真剣にお考えになさらないでくださると有り難く、あ、とにかくそんな昔のことですし、そ、それに、大したことないです、……」
「落ち着け〳〵、何が云ひたいんかはだいたい分かつてるから。んで、沙霧はどつちだ? 佳奈枝に伝へてもいゝと思つてるんか、思つてへんか。それだけははつきりと教へてくれ」
「えと、お姉さんには出来るだけ伝へずに、……でも無理ですよね。……一応その覚悟は、出来てるつもりです。……」
「分かつた。俺が真剣に考���るか云うんは、全然はつきりと約束できへんのやけど、佳奈枝に伝へるかどうかつて云うんは、云つてもぼんやりとしか伝へないと約束しようぢやないか。事を荒げたくないんは一緒やらうし、なんかゝう上手いこと行くやうな方法を考へてから、事を運ぶことにしよか。そのあひだ不安かもしれんけど、とにかく気楽にな」
「ありがたうございます、兄さん、ほんたうにありがたうございます。……」
「いや、ほんまによく勇気を出して云つてくれたもんやで。あゝ、それでな、さうやつて勇気を出してくれた沙霧にご褒美としてな、」
と里也は一つのCD を取り出して、
「これを差し上げよう。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第二番なんて、なか〳〵見んからつい〳〵買つてしもて、俺はもう自分のパソコンに取り込んだから、後は沙霧の自由にしてやつてくれ」
「ふゝ、……」
と沙霧は可笑しさうに笑つた。
「あん?」
「兄さん、これ二枚目ですよ」
「あれま、……」
「でも、ありがたうございます。大切にします。またこの目の覚める素晴らしい作品を聞く機会が出来たゞけでも、私にとつては宝物のやうなものです」
中古の掠れのあるCD ではあつたが、沙霧はそれを大事さうに胸にしまひ込んでから、丁寧な手付きで本棚に収めた。
「そろ〳〵新しい本棚を買つてあげんとな」
と里也はどの段も端から端まで隙間の無くなつてしまつた本棚を見ながら云つた。
沙霧とはコンサートが終わつてから真つ直ぐ家に帰つたので、妻の待つマンションの一室へ戻るのには申し分のない時刻ではあつたが、里也は今すぐ佳奈枝の顔を見てはきつと沙霧との約束を破つてしまふから、一旦喫茶店に立ち寄つて、一杯のコーヒーを三十分もかけて味はつた。外に出た頃には日も暮れかゝつて、影といふ影を長く寂しく作つてはゐるけれども、今年は特に雨も風もなかつたおかげで桜の木は未(いま)だ白い小さな花びらをひら〳〵と揺らめかせてゐる。その散らうにも散れないゝぢらしい有様を見ながら、里也は電車に乗り込んで、ぼんやりと今日のコンサートで受け取つたチラシを眺めた。さう云へば沙霧と行くと毎回、私がお持ちしますよと云はれて結局取られつぱなしになるのだけど、今日は例の話の前に返してもらつたので、かうして持つて帰る羽目になつてしまつた。中はだいたい似たやうなものばかり、――千住真理子のヴァイオリンリサイタルには惹かれるものがあるが、おゝよそ誰でも知つてゐさうな曲だつたり、去年も一昨年も一昨々年も演奏されたものばかりである。里也はたうとう佳奈枝と行くことになつてしまつた六月のコンサートのチラシを見つけると、それ以外は袋の中へしまひ込み、後はうと〳〵と変はり映えのしない窓の景色を見ながら、十三で乗り過ごさないよう意識だけははつきりとさせつゝ電車に揺さぶられてゐた。
日はずいぶん長くなつたとは云へ、半日ぶりにマンションへ戻つて来たときには外はだいぶ暗くなつてをり、ぼつ〳〵と明かりが灯つて行く中、玄関を開けてみると、耳慣れた声と耳慣れぬ声がリビングの方から両方聞こえて来た。
「多佳子姉さんぢやないですか。何しに来たん」
「かはいゝ〳〵妹と弟の顔を見に来たのよ。さつきまで弟の方は居なかつたけど」
「里也さん、おかへりなさい。どうだつた、コンサートの方は?」
一瞬、沙霧の話が思ひ浮かんだが、
「思つたよりも良かつた。日本のオケもやつぱりやるもんやな。たゞ、死の島はちやつと急ぎ足なところがあつて、響かし切れてないところがあつたから、そこだけは減点かな。でも全体的にはすごく良かつた」
と何気ない体で云つた。
「うわあ、……また音楽の話してる」
と多佳子が云ふ。
「大の音楽狂が何云つてるんです。多佳子姉さんも久しぶりに行つてみたらどうです? ほら、今日はチラシを持つて帰れたんで、よければ差し上げませうか?」
「それ佳奈枝ちやんにも似たやうなことを云はれましたー」
「似たやうなことを云つちやいましたー」
と佳奈枝はひどく楽しげである。
「それで、沙霧ちやんはあの後どうだつた? 一応綺麗にしてあげたけど、どこか変だつた? やたら静かだつたからお姉さん心配で〳〵」
「緊張してたみたいだな。ホールに入ると結構喋りだしたよ」
「なんであんな綺麗な子が自信無いのかなあ、……」
「さうだ、沙霧ちやんと云へば里也くん、写真見せて」
「えゝよ。ほら、――」
里也が写真を見せると多佳子は確かに綺麗な子だねと云つて、里也と似てゐるところを挙げて行くので収拾がつかなくなりさうであつたが、その後すぐにクッキーの残骸を目ざとく見つけた里也が俺も食べたかつたのにと云ひ出すと、話題はなぜか遠く離れた伯父伯母の話となり、多佳子の友達の友達の話となり、今度は自分の家で飼つてゐる犬の自慢になつてゐた。里也は嵐のやうな二人の姉妹を前にしてすつかりへと〳〵になつてしまつて、けれども沙霧の話題がこれ以上出てこないところを見ると、ほつと息をついて話の止まらない二人を眺めるだけになつてしまつた。結局多佳子が帰つたのは、里也がこのマンションの一室に戻つてきてから三十分が過ぎた頃合ひではあつたが、あまりにも目まぐるしく話題が変はるので面白くなつて数えてみると、合計で十個もある。なるほどこれでは疲れるのも無理は無い、よくもまあこれだけ話題を切り替へて話を続けられるものだ、いや、そも〳〵よくそんなに話の種がポンポンと思ひ浮かぶものだ、聞けば多佳子はちやうどコンサートが始まつた頃に家にやつて来たと云ふ、それでこんなに話せると云ふのは一つの才能なのかしらん、それとも女性とは皆さう云ふものなのかしらん。佳奈枝が夕食を準備してゐる最中に、彼はそんな適当なことを思つてゐたのであるが、やはりそこで浮かんで来たのは沙霧の顔であつた。いつも彼女と話すのはたつた一つの話題、――基本的には音楽と、たまにそこから作曲家への思ひを馳せるためにその生まれ育つた国について、ほんたうに他の話題に飛んだりせず、じつくりと静かに話し合ふのである。尤も彼と沙霧とでは以心伝心のやうなところがあつて、何も云はなくてもお互ひのこと、したいことなぞ分かつてゐるやうなものであるのだが、同じ血を分けた者同士で、あそこまで云ひたい放題云つてゐる様を見て羨ましい気持ちが沸かなかったと云へば嘘になる。自分は兎も角として、沙霧は未だにどこか腰の引けた話し方をする。今日のラフマニノフ談義だつて、話の初めに云つた、実は最近ではさうでもないみたいです。の一言を云ふのにどれだけの勇気が必要だつたのであらう。それによく考へれば自分だつて、彼女の意見を尊重しすぎて、つい云ひたいことを押し殺してしまふ時があるのである。たゞ彼は、この日一番疲れたのが佳奈枝姉妹の相手をしてゐる時であつたことを思ふや、隣の芝生は青く見えるだけだと納得すると、今日は面倒くさいと云ふ割にはかなり手の混んだ佳奈枝の料理に素直に舌鼓を打つた。
さうかうしてゐるうちにすつかり夜も更けて来たので、夫婦は同じ寝床に入つて一言二言話した後ぼんやりしてゐたのであるが、里也が再び沙霧の話を真剣に考へ出したのはこの時が初めてゞあつた。実のことを云ふと、彼は喫茶店でコーヒーを飲んでゐるうちにすつかり落ち着いてしまつたので、以降は例の恨めしい感情と折り合ひをつけながらそれつきりになつてゐたのである。さらに実のことを云ふと、里也には未だ信じ切れないところがあるのであつた。決して沙霧を疑つてゐる訳ではないのであるが、佳奈枝が彼女をいぢめてゐたと云ふ事実を受け入れるのは、例へそれが嘘であつたとしても、今の彼には到底できさうも無かつた。それと云ふのが、彼は今の今までいぢめ加害者を許してゐないのである。ほんたうならば今直ぐにでも加害者の元へ行き、一人〳〵に証拠を突きつけた上で謝罪の言葉を沙霧に云つて聞かせたいのである。が、そんなことをして一体何になる。それはまるで、かつて学校へ殴り込みに行つた両親のやうではないか。そんなことをして誰が幸せになれると云ふのか。自分が出ていつたところで被害者の沙霧も、加害者の名も知らぬ者たちも不幸になるだけではないか。昔さうやつて両親が学校へ行つた結果、いぢめは収まらず、事を大きくしたゞけで、たゞ沙霧だけが精神的な苦痛を味はつたではないか。そんなことを思ひながらも里也は、一人でもいゝから謝罪の言葉を聞かせれば、彼女もいくらか楽になれるのではないかと云ふ気持ちがあるのであつた。佳奈枝からいぢめは小規模だと聞いてゐるから、どうせいぢめを行つた者など見つかる訳がない。どうせ可能性が無いのなら、もし運良くその一人を捕まえられゝば必ずやかつての行いを懺悔させる、さう思つて何が悪い(で、夫婦の話し合いで謝ってよとやんわり云う)。己はまだ彼女の腕に残つてゐる数々の傷跡を忘れた訳ではないだらう。――里也はそれが自分のエゴだと知りながら、決意だけはもう何年も前から持つてゐたのである。が、なぜよりによってその一人が自分の妻なのか、………
考へが堂々巡りしてゐるあひだに寝てしまつてゐたらしく、いつも通り佳奈枝に叩き起こされた里也は、いつも通り会社へと赴いて、何時も通りの日々を過ごさうとしてゐたのであるが、やはり先日の沙霧の話が時間を追ふ事に気になり初めてしまふと、いよ〳〵仕事も身を入れて取り組めなくなつてしまつた。だが仕事をするときは我を忘れられるからいゝにしても、何にも増して困つたのは家に帰つた時で、笑顔で自分を迎え入れてくれる佳奈枝を見てゐると、怒りと云つていゝのか、憤りと云つてゝのか、それとも憎しみと云つていゝのか、良くわからない気持ち悪い感情が自信の胸の内に芽生えて来るのである。いつものどかな風景を見て感じる恨みに似てゐると云へば似てはゐる。彼はまだ佳奈枝には沙霧の話を伝へる気は無かつた。彼女らが京都へ行くのに一ヶ月しかないが、しかし一ヶ月もあるのだからゆつくりと自分の気持ちを整理して、佳奈枝が沙霧をいぢめてゐたことを受け入れて、今後どうするか佳奈枝とじつくりと話し合つて、京都に向けて出来る限り波の立つてゐない航路を進みたい。恐らく結果としては沙霧との約束、――佳奈枝には極力彼女の話を伝へない、伝へたとしてもぼやかして伝へる。を破つてしまふことになるだらうけれども、それは事を大きくしないためであつて、決して彼女のことを裏切つた訳ではない。理由を話すときつと彼女は了承してくれるはずである。今は兎に角、佳奈枝に向かつてあらぬことを云はないよう時間をかけて、沙霧の言葉を噛みしめるのみであらう。
それにしてもなぜ沙霧は今になつて急にそんなことを云ひだしたのか、かつて佳奈枝と初めて顔を合はせた時にはそんな雰囲気すらおくびにも出さなかつたのに、いや、そも〳〵佳奈枝の名前を出した時にさへ、何も云はなかつたのである。いぢめられた日付まで正確に憶えてゐる彼女が、佳奈枝と云ふ名前に心当たりがなかつたとは云ひ難く、これまで黙つてきたのは単に勇気が無いからだと解してゐたが、かなり不自然に思へる。なぜかと云つて彼女はあの時、かなり砕けた調子で佳奈枝との交際そのものに恨みを募らせたのである。あれほどまでに恐怖を感じたと云ふのならば、いつもの沙霧を思ふと名前を出すだけでも怯えて話にならないはずで、況してやそんな冗談めかしく佳奈枝との交際について突つ込めはしないであらう。しかし彼女の話が嘘であるならば、あんなに情のこもつた話し方をするなぞ、それこそいつもの沙霧を見てゐる自分からすれば考へられない。結局また考へが堂々巡りして何も分からなかつたので、里也はその日は、もう難しいことは無しにして沙霧の話を受け入れるだけにしよう、と思ふだけに留めて寝てしまつた。
翌日も、翌々日も、彼は何時も通りの日々を過ごした。なんだかそは〳〵してゐる様子が佳奈枝には分かるのか、しば〳〵病気を疑はれたり、また人間関係がこじれたのではないのかと思はたりして心配されたが、努めて明るく接することにしてゐると、次第に妻からの突つ込みは無くなつて行つた。そして一週間もすれば、沙霧の話は一時の衝撃であつたのか、ずいぶん彼も落ち着いてきて、やうやく事を前進させようと云ふ気になつてきた。で、週末にいよ〳〵佳奈枝に打ち明けようとして準備ゐたのであるが、ちやうど折悪しく妻が雑貨を見に行きたい〳〵と云ひだしたので、面倒くさいことは極力先延ばしにしたい彼は、ゴールデンウィークまでにはまだ二週間ほどあることを思ふと、なんだかほつとしたやうな心地で佳奈枝について行つてしまつた。
「や、���は雑貨ぢやなくて、こゝのホットヾッグが食べたかつたゞけなんだけどね」
とマスタードをふんだんにかけたホットヾッグを頬張つて、しきりに頷いてをられる。
「それ気持ち悪くならへんの?」
「や、実はこんなにかけるつもりぢやなくて、間違うてしまうて、めつちや辛(から)くて辛(つら)くて、……でも里也さんもそれケチャップかけすぎでしょ、また血圧高すぎつて怒られるわよ」
「このくらゐのケチャップがえゝねん」
彼らの側にはこの日買つた余計な小物たちが袋の中でガチャ〳〵と音を立てゝゐた。里也はその日、実は帰つてから話し合はうかと云ふ気が無いでもなかつたが、久しぶりに外食もしたいと云ふ妻の機嫌を損ねるのも後々面倒だと思つて先延ばしにし、次の日は次の日で、昨日買つた物たちを飾るついでに部屋の模様替えもしたいと意気込む妻の勢ひに一日中飲み込まれてしまつた。
「このぬいぐるみはどうするの」
「それは沙霧にあげようと思つて」
「メルヘン度がさらに増すわね。……」
でも可愛いから沙霧ちやんに持つて行くまで飾つておきましよ、と佳奈枝がクマのぬいぐるみを寝室の片隅に飾つて、その日は終はつた。
明くる日、少々帰りが遅くなつた里也は駅で意外な人物に呼びかけられて、その場ですつかり話し込んでゐた。その人物とは多佳子であつたけれども、今日は何とか云ふ派手な集まりの帰りであるらしく、四つも五つも若く見える装ひをしてゐるものだから、里也は最初、佳奈枝が前から歩いて来てゐるやうな面持ちを抱いて(japanese? )妙にあたふたしてしまつた。
「お子さんは変はりなく元気ですか」
「もう元気すぎて大変なくらゐね。あ、でも今日は塾の日だから、たぶん嫌な顔してる」
「はゝゝゝ、子供つてさう云ふところありますよね」
「まつたく、いつたいどうやつたら佳奈枝ちやんとか里也くんみたいに頭良くなれるのやら」
「云うて僕そんなに頭良くありませんよ」
「たぶんさう云ふところね。もう少し謙虚と云ふものを知つて欲しいわ(最後、子供を登場させた時に忘れない)。――さうだ、」
と多佳子は一転嬉しさうな声で、
「謙虚と云へば、今度佳奈枝と沙霧ちやんが京都に行くんですつて?」
「えゝ、さうなんですよ。佳奈枝が云ふ事を聞かなくて、……」
「あの子も相変はらずね。それにしても私も楽しみで仕方ないわ、何だつてあの沙霧ちやんを見られるんだもの」
「え? どういふことです?」
と里也はついひようきんな声を出してしまつた。
「あれ�� 聞いてないの? 私、佳奈枝ちやんから京都に行くのに誘われたんだけど、やつぱダメだつた?」
「あ、いや、姉さんが来たいと云ふなら、ぜひさうして欲しいんですが、……」
「なんか歯切れ悪いわね。どこか引つかゝるところがあつたりする?」
「大丈夫です、大丈夫です。本人も昔多佳子姉さんに会つてみたいつて云つてましたから、たぶん大丈夫です」
「それ絶対大丈夫ぢやないでせう。佳奈枝にも云つたけど、私は別にどつちでもいゝからね? 本人が無理つて云うんだつたら、会へなくてもいゝからね?」
「いゝんです。ぜひ来てください」
その後も来ても良い、行かなくても良いの応酬が続いたが、むしろ佳奈枝の暴走を止める役になつてもらへると嬉しいと里也が云ふと、多佳子もそれに納得した形で袂を分かつことになつた。
その帰り、里也は少々急ぎ足で自宅なつてゐるマンションまでの道を歩きながら、多佳子が京都への旅に来てくれることに対して内心喜びを抱いてゐた。先程の、多佳子に佳奈枝の暴走を止める役になつてもらひたいと云ふのは、本心から出た言葉であつた。佳奈枝が沙霧を引きずり回してゐるあひだ、彼はどこかへ追ひやられてしまふ。彼がついて行けないと云ふのなら、クッションとして誰か妻が許可してくれさうな人、――それも沙霧と相性が良くて、佳奈枝に強いことを云へて、なほかつ後で様子を聞けるよう里也もよく知つてゐる、そんな人に代はりに行つてもらひたい。だが二人に接点のある人物と云へば、大学時代一緒だつたサークル仲間くらゐしかゐないし、彼らも就職だとか何だかで大阪から出て行つてしまつたから、わざ〳〵呼び寄せるのも悪いし、そも〳〵そんな微妙な距離感の連中と沙霧を引き合はせる訳にはいかない。誰か良さゝうな人は居ないかしらん。と、彼は今の今まで多佳子と云ふ上記の条件にぴつたり合ふ人物をうつかり忘れてゐたのであるが、よく考へれば自分と同じくらゐ多佳子は沙霧に良い影響を与へさうな気がするのである。同性だからと云ふ点もあり、なんだか長男長女同士で同じ匂ひがすることもあり、それに佳奈枝とは姿形こそ似てゐるものゝどこか自分たち兄妹が好きさうな雰囲気を身にまとつてもゐる(多佳子の性格を少しだけ沙霧寄りにする)。だから安心して沙霧を預けられる、とまでは行かないものゝ、沙霧の新たな刺激としてはまず〳〵と云つたところであらう。彼女なら上手くやつてくれると信じたい。
もちろん里也は、この時さう云ふ楽観的な考へのみを抱いてゐた訳ではなかつた。喜びは彼が感じた感情のうちの一欠片でしかなく、胸の内を埋めいたのは勝手なことをした佳奈枝に対する怒りと、沙霧に対しての申し訳無い気持ちであつた。特に後者の感情は強すぎるほどで、彼の頭の中には恰も映画に出てくる幽霊のやうな憎悪に満ちた沙霧の顔が浮かんでをり、ぬるい風がゆらりと通りすぎる度に彼は身を震わせてゐた。沙霧のことだからそんな顔は決して見せないとは思ふけれども、しかし、多佳子が京都に行く時について行くと伝へると、必ずや嫌な顔は見せてくるはずである。何せさつきの会話で多佳子の件についてお墨付きを与へてしまつたのだから、その感情は彼女の心の内側へは行かず、自分に向けてくるであらう。
里也は一刻も早く佳奈枝に件のいぢめの話を云つて、沙霧に件の京都の話を云はなければならない気持ちに駆られた。が、駆られたゞけでどう切り出さうかと思つてゐるうちに日が変はつてしまつてゐた。いつもぐだ〳〵と簡単なことを先延ばしにして、結果、ハードルを高くしてしまふのは彼自信もよく理解してゐることではあるが、思つたよりも沙霧を傷つけたといふ事実が彼を臆病にさせてゐるらしく、どうしても最初の一言が云へないのである。と云つてもまだ妻に確認を取つてゐないから、件の件が事実だと分かつてゐる訳ではない。もし事実であつたとしても、佳奈枝には大して感じるものがないとは分かつてゐる。が、それでも云ひ出せないのだ。結局里也はその週の平日を、丸ごと悶々としながら過ごすしかなかつた。
佳奈枝は夫の行動のおかしさにはとつくの昔に気がついてゐたが、以前、かう云ふ時は自分から云ひ出すまでそつとしておいてほしいと云はれてゐたので、ちよく〳〵心配した声はかけてゐたものゝ、夫が普段どおりの生活を送れるよう、何事も無いやうな態度を取つてゐた。たゞこの一週間くらゐはその落ち着きの無さに磨きがかゝつて、何を云つても上の空だし、滑稽なまでにこちらをチラ〳〵見てはさつと目を逸らされてしまふし、黙つて待つてゐるのもさすがに限界と云ふものがある。彼の様子が変はり初めたのは多佳子が来た時、つまり彼が沙霧とコンサートに行つた時だから、彼女絡みで何か悩んでゐるのであらう。あの男は自分の妹のことになると、異様に過保護になつて隠し事の「か」の字も無くなるほどに動揺してしまふのである。当然これまでにもかう云ふのは幾度となく起きてきたのだから、むしろ沙霧以外に何が原因となつてゐると云ふのか。明日は趣味で所属してゐるアマチュアオケの練習があるから今日はその練習をしておきたい佳奈枝は、さつきまで防音室で気持ちよくトランペットを吹き回してゐたのであるが、休憩ついでにソファに寝転がつてゐた夫に話しかけると、彼はのそりと起きて、差し出された緑茶を一口飲んで、それから何をするわけでもなくずり〳〵とソファからずり落ちて行つてしまつた。背中側でシャツが引つ張られて露わになつたお腹をポン! と叩くと、彼は何するねんと云つて、お返しにこちらのお腹を突いて来たのだが、それが妙な力加減で脇腹に触れてくるものだから、実にくすぐつたい。彼女はそのやらしい手を取つて、せつかく楽器も取り出してゐるとこだしたまには悪くないだらうと思つて、この暇さうに休日をを過ごしてゐる夫に、
「ねえ、久しぶりにトロンボーン吹いてみない?」
と声をかけてみた。
「はあ、……つまりは練習に付き合えと?」
と里也は言葉こそ冷たいが、ニヤリと笑つて云つた。
「うん。さすが里也さん、分かつてるぢやない。ニールセンのよく分かんない序曲にファーストヽロンボーンとユニゾンするところがあるのよ。ほら、昔を思ひ出して、あの湖岸で一緒に好き放題楽器を吹き鳴らした思ひ出に浸らうよ、ねえ、ほら、ほら」
「嫌や、あそこのことはもう思ひだしたくない」
とは云ひながら、佳奈枝の予想に反して里也は、仕方ない、たまには触つてあげないと楽器も痛むしな、と云つて立ち上がると、寝室でインテリアと化してゐたトロンボーンを持つて来て、丁寧にグリスを塗り直し初めた。彼の楽器の手入れは意外と細かく、ほんたうに薄く均一にグリスを塗つていくから、佳奈枝もたまに頼むことがあるのであるが、がさつな時はとことんがさつで、昔は半年に一回程度、突然マウスピースからペットボトル一本分の水を入れたと思つたら、今度は思ひつきり空気を吹き込むので、一体何をしてゐるのかと聞けば、楽器の手入れだよ、昔からやつてきたんだ、楽しいから佳奈枝さんもやつてみたらどう、と云ふのである。確かに金管楽器は水に強く、楽器をお湯につけて汚れを浮かしたりすることはあるけれども、さすがに中に入れた水を思ひつきり追ひ出すのは負担が大きすぎる。金管楽器と云へどもそれはさすがに痛むからやめなさいと、よく叱つたものであつたが、彼は、いや、クリスチャン・リンドベルイは楽器を海に沈めて泳いでゐたから、このくらゐでは壊れないと云つて聞かないのである。だが彼は同時に、楽器にとつて最高の楽器の手入れとは毎日使つてあげることだ、と云つて、ほんたうにどんなに忙しい日でも練習場へ赴いて音出しをしてゐたから、限度を超えて楽器を粗末に扱はないとは知つてゐる。今の彼はその最高の手入れとやらをやつてゐないけれども、かうしてそのぷに〳〵とした指の肉を使つて、馬鹿丁寧にグリスを塗る様子を見るに、彼の楽器を大切に思ふ気持ちは今でも変はつてゐないのであらう。
彼らの所属してゐたサークルでは、毎年春と秋の二回、琵琶湖の沿岸にある非常に安価な(点々)宿泊施設で合宿が行はれてをり、ゴキブリの這ふやうな嫌な思ひ出しか持ち合はせてゐない里也は、ゴールデンウィークとシルバーウィークが近づくに従つて、その思ひ出をこれ見よがしに語る佳奈枝に渋い顔を向けるのであつたが、かうして二人で楽器を持ちながら肩を寄せ合ふのはほとんどその時以来で、なんだか妙に懐かしい気味合ひである。里也はスライドの滑り具合を確かめながら、まだポジションの感覚が残つてゐることにほつとするや、すぐさま姿勢を正して、昔のやうにそつと息を吹き込む。この時だけは誰の邪魔も入れてはならない。ロングトーンだつて一つの曲なのだから出来るだけ伸びやかに、特にトロンボーンは神の楽器なのだから、自分は今プロテスタントのおごそかな教会に居て、賛美歌の伴奏をしてゐる心地でなくてはならない。――気持ちだけは当時と変はらなかつたが、出てくる音は及第点にも及ばない、汚く、芯の通つてゐない、薄つぺらで軽い音であつた。だが今はそれよりも、すぐ隣に居る佳奈枝の視線が気になつて仕方がなかつた。
「やつぱ二人だと狭いな。と、いふかトロンボーンがでかいだけだわ。俺もトランペット初めようかな、それともバストランペットとか、テナーチューバでも買はうかな」
「B 管のトランペットなら貸すよ?」
「あ、なんか今めつちゃバストランペットやりたくなつてきた。Schagerl のつて、いくらぐらゐなんだらうか。……」
「バストランペットは知らないなあ。百万くらゐ? か、もう少しするかも。……私のでそのくらゐしたから、たぶんもつとかゝると思ふ」
「なるほど〳〵、無理〳〵。諦めた。いや、いけなくはないとは思ふけど、そこまで金を出す情熱はもう無い。……で、楽譜ある? スコアでもいゝけど」
「さつき印刷してきた。譜面台、一つだけしか無いから、我慢してね」
音出しのあひだ、静かにその様子を眺めてゐた佳奈枝が足元に置いてゐた楽譜を譜面台にかけると、
「なんでこんなマニアックな曲を選んだんやねん」
と里也はこれから練習する曲の方に文句を云つた。
それから一時間程度、彼らはカール・ニールセンのフェロー諸島への幻想旅行と云ふ曲を、昔のやうにあゝだかうだ云ひながら練習した。この曲は題名とは裏腹に、幻想的な旅の様子と云ふよりも式典で演奏される様相を呈してゐるのであるが、それでもところ〴〵神秘的な響きがあつて、里也はかなり気に入つてよく聞いた。フェロー諸島と云ふのはアイスランドとノルウェーのあひだにあるまことに美しいデンマークの自治領で、とある雑誌では世界で一番訪れたい島に選ばれたと云ふ。同じく時の作曲家に音楽の題材にされたヘブリディーズ諸島は、写真を見る限りでは緑が少なく殺風景な印象を受けるのであるが、こちらはまさにお伽噺、それも指輪物語のやうな風景が広がつてをり、もしホビットがこの世に居るのならばかう云ふところに住むであらう。ニールセンの曲はさう云ふことを思ひ浮かべながら演奏するとたいへんに気持ちがいゝ。名曲とは云へないかもしれないけれども、演奏会の始まりを意図するのならこれほどまでにぴつたりな曲は無い。
「あゝ、やつぱりダメだなもう。全然上手く吹けないわ」
と、里也は楽器を地につけてすつかり項垂れてしまつた。それは久しぶりに楽器を持つたことによる疲労もあつたが、一番には自分の実力が不足してゐることに落胆したからであつた。
「そんなことないわよ。ちやんと音程も合つてたし、抑揚もついてたし、私は満足よ?」
「いやもう、佳奈枝さんの音についていけてない。と、云ふより圧倒されて、ホールでやつたら俺の音なんて聞こえてこないやろな。もうダメやわ。……」
「ちやつと、……そんなこと云はないでよ。数年間のブランクがあるにしては、かなり上手かつたから、ほら、今度のゴールデンウィークにもまたしましよ? ね?」
と優しく声をかけられて、里也はふと沙霧のことが思ひ浮かんだ。たぶん沙霧はいつもこんな気持なのだらう、そして、例の話を云ひ出す直前には、今の自分のやうに悶々と気持ちを燻らせてゐたのであらう。さう思ふと里也は、一体それで彼女の保護者が務まるのかと自分を激して、口を開いた。
「佳奈枝、一つ話があるんだが、今いゝか?」
「えゝ、いゝわよ。でもゝう少しだけ練習に付き合つてくださる?  まだ吹き足りないのよ」
と、云ふ彼女の声を聞いてから、里也は少しだけだからなと云つて、楽器に再び息を吹き込み初めた。
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kkagtate2 · 6 years ago
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偽善者の涙[六]
[六]
一方その頃、――正確には佳奈枝のもとに多佳子がやつて来るつい三十分ほど前であるが、里也と沙霧はシンフォニーホールのとある席、――正確には舞台真向かひの二階席、ちやうど正面に指揮台のある演奏を楽しむのにはうつてつけの席、――そこに並んで座つてゐた。外に出るとめつきり喋ることの無くなる彼女は、今日はいつも以上に静かであつた。里也が例へば、
「意外とガラガラやな。やつぱりラフマニノフの一番て、人気無いんやろか」
と云つても、
「さうですね。……」
としか返つてこない。道を歩いてゐる時ならまだしも、ホールの中に入つてもこの調子なのは珍しく、普段沙霧とコンサートへ訪れて上記のやうな適当を云ふと大抵の場合、やんわりと訂正した後普段喋らない分饒舌に薀蓄語りが始まるのである。それが無いといふことは、やつぱり気分では無くなつたからだらうか、それともゝう疲れてしまつたからだらうか。
今日の彼女はそれとは別に妙に小奇麗であつた。普段は洗つてゐるのかも分からないボサボサの髪をばう〳〵にして、ちやんとしても微妙に時期を外した格好をしてゐる姿に見慣れてゐる里也は、よくもまあこゝまで綺麗になつたものだと感心してゐた。先日に佳奈枝がふらりとゞこかへ出かけて、何故か梳きバサミを買つてきて、まさかと思つてゐたらほんたうに練習台にされて、そのせいで彼はすつかり髪が薄くなつてしまつたのであるが、シャクシャクと小気味良い音を立たせながら綺麗になつて行く沙霧の姿を見られたゞけでも安いものである。彼女が押し黙るやうになつたのは、その時からなのであつた。以前美容室に連れて行つた時は、嫌々ながらも鏡を見てほつと安心したやうに息をつくだけであつたけれど、いつたいどうしたのであらうか。化粧も服も含めて慣れない自分の姿に戸惑つてゐるのであらうか、それとも髪を切るなどとは彼女には伝えてなかつたから機嫌を損ねてしまつたのであらうか。
何はともあれ里也は久しぶりに沙霧と一緒にコンサートに来ることが出来て満足であつた。上手く返事が返つてこないとは云へ、彼に手を引かれて歩いてゐる彼女の顔には笑��が見られたし、今も食ひ入るやうにプログラムやらパンフレットやらを見つめてゐる。かう云ふ時に話しかけては興も削がれるであらう、――里也はさう思つて自分も今日の演目を眺めることにした。前曲、中曲は兎も角として、やはり楽しみなのはメインのラフマニノフの交響曲第一番である。
かの作曲家の作品は往々にしてあひだの曲、――交響曲なら第一番と第三番のあひだにある第二番、ピアノ協奏曲なら第一番と第四番に挟まれた第二番三番が特に有名なのであるが、だからと云つて他の曲に味はひが無いかと云へば全くさうではない。単に知られてゐないだけで、例へばピアノ協奏曲第一番に関して云へば、耳をつんざく運命的なピアノの下降音形から始まり、ラフマニノフ特有の音と音を隙間なく丁寧に繋いで奏でられる耽美な旋律や、後年を思はせる第三楽章の一転して小気味良いリズム、それにオクターヴで駆け上つて絶頂へ達する華々しいクライマックスが聞ける。後期の作品よりもさらに哀愁に満ちた息の長い旋律には、ピアノ協奏曲第一番にしか持ちえない美しさと希望の薄さがある。だが、何に増してピアノ協奏曲第一番が素晴らしいのは、神秘に満ち溢れた第二楽章であらう。人気のある第二第三番と比べて緊迫感の無い楽章ではあるけれども、人間の不安とか焦りだとか、さういふものとは関係のないところで音楽が鳴つてゐるやうな気がして、ほんたうに何時間だつて聞いてゐられる。ラフマニノフの評論で必ず云はれる甘く切ない旋律も鳴りを潜め、ただ〳〵美しい調べが止まること無く永遠に続いて行く。若い時分には後年のアダージョのやうに絶望と希望の減り張りに大いに感動を憶えたものであるが、このピアノ協奏曲第一番に関してはそんな緊迫感なぞ無い方がいゝ。絶望と希望に揺れ動くことすらないほどに打ちのめされたある一人の男が、川のせゝらぎを聞きながらじつと佇んでその時を待つてゐるやうな情景は、それこそこの緩徐楽章の味である。有名なピアノ協奏曲第二番ではもう少し希望はあつて、第一楽章で提示された鐘の音がかなり絶望的ではあるけれども、曲を追ふに連れて見えてくる天からの微かな希望を、決して届かないと云ふのに手を伸ばして掴まうとしたり、もう諦めてしまつたかのやうに項垂れたり、何とか自分を奮ひ立たせて立ち上がつたり、でもやつぱり掠りもしないから恨めしく天井を仰ぎ見たり、……そんな絶望と希望のあひだを行つたり来たりするところが、第二番第二楽章の味と云つたところであらう。尤もこの場合は本来はロマンスであるから、希望云々といふ話は邪道かもしれないが、しかしそのやうな葛藤がピアノ協奏曲第一番では見られないのである。兎に角ラフマニノフのピアノ協奏曲第一番は、作曲者自身が後年になつて改訂したとは云へ、他のピアノ協奏曲とは若干違ふ、苦くも決して不味くはない味はひを持つてをり、どうしてこれがもつと世に知られないのか、里也は疑問に思つてゐるのであつた。
そしてその疑問は今日聞くことになつた交響曲第一番でも云へるのである。だがこれについては確かな理由があるかもしれない。
「グラズノフも酷いもんだよな、あんな酔つ払つて指揮するなんて。ロシア人つて云ふのはそんなに酒飲みなんやろか」
何でも初演時に、指揮を努めたアレクサンドル・グラズノフが酷く酒に酔つたまゝ舞台に上がつてしまひ、それは〳〵大変な演奏をしてしまつたらしい。当然笑ひ話で済むはずがなく、その結果、ラフマニノフはピアノ協奏曲第二番を途方もない神経衰弱に陥つたまゝ作曲したと云ふ。
「………」
沙霧は相変はらず静かであつた。チラリとこちらを見てきたやうな気がするが、このときに振り向いてしまふと余計に押し黙つてしまふので、こちらも変はらずパンフレットに目を落としてゐると、
「実は、最近ではさうでもないみたいです。………」
と聞き取れるか聞き取れないか怪しい音量で云つてくる。振り向くとすぐに目線を逸らされてしまつたが、話は続いた。
「と、云ふと?」
「えつと、………兄さんもご存知ですよね、この曲の楽譜が一旦喪失したことを」
「たし���亡命時に家に置きつぱなしで、以来行方不明なんやつてな」
そして今日に至るまで元々の総譜は発見されてゐない。
「さうです、さうです。さすが兄さんです。それでラフマニノフの死後、レニングラード音楽院の図書館からパート譜が発見されて、そのパート譜からスコアが復元されて、一九四五年にアレクサンドル・ガウクの指揮で復活した、……とこゝまではいゝのですが、そのパート譜からスコアを復元する時に問題があつたさうで」
「ほう? と、云ふと?」
沙霧はむず痒く笑つて話を続けた。
「その復元されたスコアとパート譜の食ひ違ひがあまりにも多いらしいのです。例へば、……例へば、………えつと、第一楽章のオーボエの第二主題の、………」
「どこだ、………」
「あ、……えと、こゝです。………」
と身を寄せて小さく歌つた。それは中々一言が云ひ出せない朴訥な男が語りかけてくるやうな、聞いてゐる側からすればもどかしい主題で、沙霧がうたふとひどく魅惑的であつた。
「あゝ、そこか。思ひ出したわ。哀愁があつて綺麗なんやけど、なんか微妙やな」
「ふふ、……さうですよね。でも、その微妙さこそが原因なのです。ラフマニノフの交響曲は往々にしてリズムだとか音量の濃淡が重要でして、……あ、それは第二番を実際に演奏なさつた兄さんの方がお詳しいですよね」
「うむ。……あんなに細かく強弱記号で音量を指定されたのは初めてだつた」
これは楽譜をたゞ眺めるだけでも分かることであるが、ラフマニノフの交響曲第二番は鬱陶しいまでに強弱記号で演奏者を縛つてゐる。冒頭にある教会での礼拝からしてピアニッシモからクレッシェンドデクレシェンドで音量を支配されるし、その後のディエス・イレを思はせる動機もまた、たつた三小節弱の旋律ではあるけれども五つもの強弱記号が付いてゐる。そんな風に、その後も裸のまゝ投げ出される音符は無いと云つても云ひ過ぎではないのだが、そこへ持つてきて第一主題ではさらに一小節刻みでpoco rit. だとかa tempo と云つたリズムの変化も細かく指定される。交響曲第二番はさうやつて出来た緩急の匙加減が演奏における醍醐味と云つたところで、客席に居る者は交響曲と云ふよりはむしろヴォカリーズを聞くやうな心地にさせられるのである。たゞし、素晴らしい演奏では気が付かないほど巧妙に料理されて出てくるので、コンサートなぞで聞いた暁にはもう一度聞きたい衝動に駆られてしまふ。恐らく一度も演奏しないまゝ、一度も楽譜を見ないまゝ、何も考へず何も意識すること無く聞くのが、交響曲第二番を味はへる最高のコンディションであらう。
「先程のオーボエの主題における濃淡といふのは、リズムの濃淡でして、らら~、ら~ら、らら~、……とほとんど同じことを繰り返すだけなんです。だから記憶にもあまり残らないし、なによりはつきりとしないので、うつかり記譜を間違へてしまうんです」
「それでスコアとパート譜が食ひ違つてるつて訳か」
「――えゝ。スコア譜では先程の音形が、……らら~、らら~、らら~、………になつてゐたりします。あ、それで話を戻しますと、ラフマニノフが死んだ後に復元されたスコアで、しかも主題でそんな間違ひを犯すほどですから、初演時には一体どれだけの不備があつたことやら、……」
「なるほどなあ、……確かにそれはあかんなあ」
「で、最近ではそんな記譜上の曖昧さが混乱に次ぐ混乱を呼んで、結果、演奏もはなはだひどかつたと、そんな見解が広がつてゐるらしいです」
「へえ、なるほどなあ。練習の時にグラズノフは何も文句を云はなかつたんかな」
「さあ、どうでせう? あの演奏はかなり放漫であつたらしいですから、それこそ酒に酔つて、練習も本番も勢ひで乗り切つたのかもしれませんね」
ふゝ、と沙霧はさも可笑しさうに笑つた。
「はゝゝ、かもな。ありがたう、勉強になつたよ」
「いえ、そんな、……私はこのあひだ読んだことを話したゞけですから、……」
「いや〳〵、同じラフマニノフ信者な俺でも知らなかつたんだから、そんな謙遜せんでえゝんやで。さすが沙霧やん」
「そんな、……ふゝ、そんなおだてゝも、これくらゐしか出てきませんよ。ふゝゝ、……」
「あゝ、さうだ。さう云ふ話を佳奈枝にもしてやつてくれ。まだネタはたくさんあるだらう? あいつはすぐ俺を知識で負かさうとしてくるから、ぎやふんと云はしたつてくれ」
と、里也は、普段あゝだかうだ云つてくる佳奈枝の顔が突然浮かんできたので、冗談めかしくさう云つたのであるが、
「………」
と沙霧の顔からみる〳〵うちに消えていく。
「沙霧?」
と再三呼びかけたが、崩れた笑みはもう戻つてこなかつた。
今日の客入りはほんたうに少ないらしく、開演時間間近になつても自分たちの両隣に人が居ないほど空席が目立つてゐた。少しばかり立ち上がつて一階席の方を覗き込むと、いつも客席を埋めてゐるご老人方がそれなりに居るやうであるけれども、やはり数は少ない。かう云ふ折には大学生くらゐのキラキラとした集まりがいくつもあるものだが、それもまたちらほら見かけるだけである。里也は日本のオーケストラを聞くのは学生の頃以来で、昔はよく講師の先生からチケットを安く買つては佳奈枝と共に訪れてをり、今日はその思ひ出にも浸らうかと密かに考へてゐたのであつたが、かうも学生が少ないと少し残念にも感じられる。学生として最後に訪れたコンサートは、たしかセザール・フランクの交響曲ニ短調を聞いた時であつたゞらうか。折良く定期演奏会の一月前に同じ曲をプロの演奏で聞けると云ふので、練習終はりに同じ金管楽器の連中と、楽器を背負ひながらこのシンフォニーホールに訪れたことはよく憶えてゐる。もちろんその時も佳奈枝は居て、隣りに座つてきたかと思へば、ブルックナーと同じくオルガン奏者であつたフランクへの愛を熱く語つてゐた。この交響曲の魅力はやつぱり何と云つてもその重厚かつ上品な響きにあつてゞすね、今日はそれが楽しみで来たんですけど、演奏に依つてはほんたうにオルガン版とオーケストラ版つて同じ響きをしてゐてゞすね、あ、でも悲壮感はオルガン版の方が上ですね、やつぱりあの強烈な響きには勝てません、やつぱりフランス人なのでオーケストラにするとどうしても音が華々しくなつてしまうんですかね、ま、兎に角、暗雲立ち込める冒頭からしばらく経つて、空が晴れ渡つた時の、あの天が歌つてゐるやうな抱擁感! もう素晴らしいとしか云へません。と云ふより、そも〳〵調性がニ短調の時点ですでに天上の音楽ですよね。それで、第三楽章へ向けてのあの例の主題がですね、――これ以降は忘れてしまつたが、演奏に関しては佳奈枝の望む通り、重厚かつ上品な響きに美しい旋律がそつと乗つてゐるやうな、そんな印象を受けた記憶がある。たゞあまりにも素晴らしい演奏をしてくれたものだから、第二楽章でやつぱり寝てしまつて、後で佳奈枝にこつぴどく怒られてしまひ、今でもコンサートの前には必ずと云つていゝほど寝ないでよね、と里也は云はれてゐるのであつた。
今日はそんな彼女がゐないので、里也は意識が遠のくほど存分に、自分の世界に入り込んで演奏を聞くことが出来た。プログラムもよく把握しないまゝに訪れた演奏会ではあつたけれども、ラフマニノフの死の島が始まつた途端から、船に纏はりつくやうにうねる海に心が囚われてしまつた。隣に座つてゐる沙霧は、里也以上に演奏に聞き入ってゐるのか瞬き一つすらしない。昔、彼女から聞いた話ではこの曲は、アルノルト・ベックリンの「死の島」といふ油絵か何かを見たラフマニノフが、その霊感に感動して作曲したさうだが、なるほど確かに原画を思ひ浮かべながら聞くと一つのストーリーのやうなものが現れる。死の島と云ふからおどろおどろしい想像をしてしまふけれども、ベックリンの意図では全体が墓場となつてゐる島ださうで、そのことを頭に入れておくと、不思議なことに不吉さは感じられず、代はりに何かしら形容し難い存在、いや、存在と云ふよりも概念と云つたところであらうか、それこそ死の概念がすぐに頭に上るけれど、しかしそんな人を恐怖に陥れるやうな概念ではない、葬送と追悼の意味をも込められた畏れ多い何かを、ラフマニノフの死の島を聞いてゐると感じる。里也は美術についてはかなり疎く、いまいちこの曲についても理解出来てゐないところがあるのだが、それでも同じ交響詩である岩よりも好きであつた。想像以上の演奏に、オーケストラの団員が舞台から去つても彼は目をつむつたまゝ、しつとりと心地よく響いてくる話し声や足音にじつと耳を傾けてゐた。
ふと隣を見てみた。隣では沙霧もまた彼と同じやうに静かに、身動きすること無く、演奏の余韻に浸つてゐるやうであつたが、なぜかじいつと里也の目を見つめてゐた。普段ならば目を合はせるとすぐに逸らされてしまふけれども、今だけは首を彼女に向けてもしつかりと見つめ返して来てゐる。軽く笑つてみてもそれは変はらず、つひにこちらが耐えきれなくなつて目をそらすと、彼女は目を閉じて深呼吸を一つした。
「兄さん、話しておきたいことが一つあります」
と沙霧は決意を新たに背筋を伸ばして座り直す。その目はやはり里也を真直ぐに捉へてゐる。
「どうした、そんなに真面目な顔して、何かあつたか?」
「いえ、……あ、いえ、あながち間違つてはゐませんが、さうではありません。これはずつと、……ほんたうは一生黙つてゐるつもりでしたが、どうしても兄さんにはお知りになつていたゞきたくて、……」
一生、の部分で彼女の手が震へてゐるのに気がついて、里也はそつと手を伸ばしたが、静かにはねのけられてしまつた。
「すみません、せつかくのコンサートにこんな真面目なことを。ご容赦くださると、たいへんありがたく存じます」
そこで沙霧が頭を下げたので、一旦目線は途切れることになつた。里也はほつとしたやうな心地になりはしたが、再び頭を上げた彼女の目元から、コンサートホールの薄暗い照明に淡く照らされて、一筋の涙のこぼれ落ちるのが確かに見えた。
「……よし、準備出来たぞ。なんかよくわからんが、もし何かあつても見捨てたりはせえへんからな、云つてくれ」
「ありがたうございます、兄さん。愛してをります。ですが、こゝまで真剣になつておいてかう云ふのも何ですが、私が大げさな態度を取つてゐるだけで、もしかすると大したことないかもしれません。気楽にお聞きになすつてください。それと、今日はこのことがどうしても気になつて、兄さんの言葉に反応できる余裕がなく、大変失礼な態度を取つてしまひました、ほんたうにすみません。………」
「大丈夫〳〵、かうしてその原因を語つてくれるんだから、別に何も気にしてへんよ。――ぢや、気楽に聞くとするかな。俺の分のパンフレット返して」
と客席に座る際に預けたまゝになつてゐたパンフレットを受け取つてから、里也は何気ない体を装つて眺め始めた。実際には手が震へるほど動揺してゐるのであるが、かつて壁に話しかけるやうにそつぽを向いて、自身の身の上を曝け出した彼女を思ふと、やはり今日も自分は物云はぬ壁になつた方が良いやうな気がした。それになぜか嫌な予感がするのである。彼女の云ふとおり、大したことがなければいゝのだが、………
沙霧はありがたうございます、と再び云つてから一つとして言葉に詰まること無く語りだした。それは十年以上昔のことながら日付まで憶えてゐるほどに細かゝつたが、要点を掻い摘んで云ふと、私が中学生の時分に受けたいぢめの中には、兄さんに云つてゐない部分が多々ある。それは当時伝へきれなかつたものから、別に伝へなくてもよいものまで多数あるが、今から話すことはその中でも後者に属してゐた(点々)ことである。と云ふのもこれは佳奈枝お姉さんに関することで、単刀直入に云ふと彼女にも私はいぢめられてゐたのである。その内容はありきたりなものだつた。ある日は隠された教科書の在り処を訪ねる私を門前払いしたり、ある日はいくつも鞄を持たされた私を嘲笑つてゐたり、ある日はこちらを見て友達数人と大きな声で陰口を云つたり、そんなことは日常茶飯事であつたので、何も感じてゐないと云へば嘘になるが今では記憶が薄れつゝある。が、絶対に忘れられないことが一つあつて、それは体育の授業中に三人の組を作らなければいけなかつた際、ちやうど一人でぼんやり立つてゐた佳奈枝お姉さんに勇気を出して話しかけたところ、(――こゝから先は涙声で上手く聞き取���なかつた。)嫌さうな目だけをこちらに向けて、あつち行けと云はんばかりに背を向けられてしまつた。言葉は無かつた。あの時の目は今でもお姉さんの姿を見るだけで思ひ出される。鬱陶しさうな、冷たい、憎しみすら紛れ込んでゐる恐ろしい目、――あんな目を見せたのは今にも後にもお姉さんたゞ一人だつた。怖かつた。今でも怖い。いつまたひよつこりあの目が私の前に現れるかと思ふと、怖くて仕方がない。あの人を前にすると私は萎縮してしまふ。あの人の声を聞くと私の頭の中は空つぽになつてしまふ。あの人に髪を切られてゐると、命を刈り取られてゐるやうな気分になつてしまふ。私はもうお姉さんとは自然にお話が出来ないかも知れない、もうお姉さんとは仲良くなれないかも知れない、でも私にとつてはかれこれ十四年ぶりの友達だから、しかも趣味を同じくしてゐて、とても私では敵はないほど沢山のことを知つてゐて、人望もあつて、何でもかんでも出来て、私の理想とも云へる人だから、それに、今度の京都ではいよ〳〵二人きりで行動するのだから、……でも怖い。怖いし、何より当時の恨みがどうしても思ひ浮かんで良からぬことを企んでしまふ。もうずつと〳〵〳〵、あの人に対する恨みが募つて〳〵〳〵、どうすることも出来なくなつてしまつた。でもあの人は兄さんの、兄さんの、―――
「沙霧、もういゝ、いゝから、――」
と里也はたうとう耐へきれなくなつて沙霧の言葉を遮つた。
「沙霧、……もう何も云うな、云ひたいことはだいたい分かつたから。今はもう、何も考へずにゆつくりと演奏を楽しんでくれ。いゝな?」
沙霧はありがたうございます、と消え行く声で云つて、ゆつくりと目を閉じた。濡れた瞼の縁から溢れ出た涙を拭はうと、里也はハンカチをポケットから取り出したのであるが、今直ぐでは一層涙を誘ひ出しさうな懸念があるので差控へた(パクリなので変える?)。
気がつけば舞台の上ではオーケストラがオーボエのA の音を基準にチューニングを行つてゐた。ふつと力の抜けた里也には突然聞こえてきたやうなものなのであるが、さうかうしてゐる間に指揮者が壇上へとやつて来て、拍手が鳴り止まぬうちに交響曲第一番の復活を意図する強烈な一手が聞こえてきた。指揮者が出てきた時に弱々しく拍手をしてゐた沙霧の方を見てみると、項垂れてはゐるけれどもゆつくりと呼吸をしてゐるらしく、平らな胸元が静かに上下してゐる。クラリネットで奏でられる最初のDies irae を聞きながらひとまず話に区切りがついてほつとした里也は、沙霧の話は後で考へることにしてそつと深く腰掛けると、長く息をついて自身も項垂れてしまつた。交響曲はもう冒頭部分が終はつたらしく、最初の頂点を目指すべくトロンボーンで奏でられるDies irae が聞こえてきて、本来ならば耳を澄ますところなのであるが、しかしいつたいどうしてこんな時にこんな不吉な曲を聞かねばならないのか。
ラフマニノフの交響曲第一番には人間に優しいところなぞ何一つ無く、そこには神によつて無理やり復活させられた一人の人間の、気が狂つて必死に慈悲を乞うまでの物語があるだけである。冒頭から聞こえて来るグレゴリオ聖歌のDies irae を聞くだけで、もうこの曲は死の曲なんだな、といふことが分かる。と云ふのもDies irae は当時の作曲家、――例へばフランツ・リストだつたり、エクトール・ベルリオーズだつたりが死を象徴するモチーフとして使つたからで、同じロマン派に属するラフマニノフがその意図でDies irae を使はなかつた訳はなく、むしろ最初から最後まで幾度となく聞こえてくるところを顧みると、幻想交響曲のやうにある楽章だけ、と云ふのではなく全楽章に渡つて死後の世界が描かれてゐるのであらう。そして冒頭の強烈な三連符を、キリストによる死者の蘇生だと解するならば、明日があるさなどと呑気に云つてゐる場合ではない、天国に行けるよう目まぐるしく動き回らなければならない。最初の頂点を経て沈静部に入つた時こそ諦めに身を投げだしてゐるやうな気持ちであるが、やがて思ひ出したかのやうに暴れまはる。しかし男にはやましいことがあるのであらう、何度も〳〵もDies irae を聞くうちに正気を失つていき、ひとたび神が強烈にDies irae の主題をうたふ、――のかは知らないが、神の楽器による途方もない冷たさのDies irae が聞こえてくるとつひに気が狂ひ、大声で泣き叫ぶ。それが収まるのが第一楽章の後半、フルートで奏でられる悲哀の籠もつた美しい旋律が流れてゐる箇所であらうか、男は落ち着きを取り戻すものゝ、最初の審判を目にするや直ぐさま不安に襲はれ、再びDies irae が聞こえると共に気を失ふ。
第二楽章はそんな男の見た夢であらう。悲劇的な第一楽章の結尾から一転して可愛らしい妖精のスケルツォではあるけれども、いゝところでDies irae に邪魔をされる。が、実に良い夢である。舞踏会そのもの、と云ふよりは舞踏会を抜け出して、この世にあらざる者たちの踊りを見に行くやうな背徳感を感じる。しば〳〵天から降り注ぐDies irae は、しかし甘いお菓子に塩を加へるのと同じく、可愛らしい妖精たちの踊りをより可愛らしく見せるのに役立つてをり、彼女たちもそれに上手く乗つて踊る。が、最後の最後でヴィオラ以下の弦楽器によつて突然奏でられるDies irae はひどくおぞましい。今まで楽しく遊んでゐた妖精たちが突然踊りを止めたかと思ひきや、一斉にこちらを向いてDies irae を歌ふ、そんな心地がして一気に背筋が冷たくなつてしまふ。しかもそこで唐突に曲が終はるものだから、嫌な感覚のまゝ目を覚まさゞるを得ない。しかし、目を開けるとそこにはかつて愛してゐた女性がこちらに手を差し伸べてきてゐ、彼女に導かれるまゝ、最後の審判で沸き起こる人々から遠ざかり愛を囁き合ふ。遠くでは神が次々と判決を下してゐるのが見え、これが長くは続かないことを悟る。――第三楽章はそんな甘く切ない愛のシーンであらう。せつかくオーボエが甘美な旋律を歌ひ上げてゐるといふのに、ヴァイオリンが耳障りな音でそれに纏わりついたり、ホルンのシンコペーションで強烈に不安を煽られたりするが、ラフマニノフ特有の永遠に続きさうな旋律によつて表現された二人の優雅な愛が、その甘さで観客をとろけさせつゝも屋根の元で暮らすやうな安堵感を与へる。
そんな二人の甘い時間は民衆に巻き込まれる形で突如として終はりを迎へることになる。それが第四楽章の冒頭なのであるが、何と勇ましいファンファーレであらう。第一楽章への回帰と云ふドイツ人ならば必ず勝利の意味を込める構成よりも、その華々しさに目が行つて、第三楽章で寝てしまつた人のための目覚ましのやうにも感じられる。だが、第三楽章で目が覚めたと思つてゐた男も、ほんたうはこゝで目覚めるのであらう。しばらくは愛の余韻に浸るのであるが、木管の民族的な旋律が流れてゐるコントラバスの奇妙な蠢きに駆られて、やはり気が狂つてしまふ。眼の前に夢で見た妖精の踊りが見える。かと思ひきや、壮大な自然が見える。いや、今度はかつての恋人が見え、名も知らぬ肌の黒い美人が見え、一体どこの世界に居るのか、自分が生きてゐるのか死んでゐるのか分からぬ。何もかもが現れては消えていく。……そんな情景が繰り返された後、気がつけば神の御前に向かつて歩いてゐる。体の自由が効かぬまゝ無理やり一歩〳〵確実に歩かされ、絶頂へ達した民衆によつて神の元へ突き出され、一瞬の静寂のうちに必死に懇願する。懇願するが、圧倒的な存在を前に体中が焼き焦げていく。皮膚は溶け、髪の毛は抜け、目の玉は飛び出す。だが耳だけはゝつきりと聞こえる。もう何度も聞いたDies irae が確かに聞こえてくる。男は神の楽器による神の判決を聞きながら灰となつて散つていく。―――
聞いてゐると勝手にこんなストーリーが思ひ浮かぶものだから、里也はラフマニノフの交響曲第一番には何ら吉祥(きちじやう)ごとを感じられないのである。同じ天から降り注ぐ曲としても、フランクの交響曲ニ短調は神の抱擁であるが、ラフマニノフの交響曲第一番は神の審判である。いつもの彼なら、この希望の無さが素晴らしいんだよと云ひながらじつくりと耳を傾けるのであるが、やはり沙霧の話がチラついて結局最後の最後まで集中出来ずにゐた。かう云ふときには同じラフマニノフであつても交響曲第二番の方が、「暗黒から光明への道」といふベートーヴェンから続く交響曲の流れを汲んでをり、今の気分に合致してゐる。演奏が終はつた後、里也はいつものやうに動けずにゐた。違ふのはそれがなぜかと云ふことだつたけれども、自身の心の痺れから素晴らしい演奏をしてくれたのには間違ひなく、隣に居る沙霧を見てみると、彼女もまたどこか柔らかい表情をしてをり、試しに無言で笑ひかけてみたらくすりと笑ひ返されてしまつた。彼女があの後何を云ひたかつたのかは、何となく分かつてはゐる。恐らくは自分に、避けやうのない佳奈枝との関係をほんたうの意味で取り持つてもらひたいのであらう。今まで云ひ出せなかつたのは単に勇気がなかつたとしか云ひやうが無いが、今度二人きりで出かける際にもう怯えたくない。自然に佳奈枝と話し、自然に佳奈枝の友人として振る舞ひ、出来るだけ恥ずかしい事が起きないように、出来るだけ二人のあひだで問題が起きないようにしたい。もうあの旅は避けやうが無いのだから、せめて何事も滞りなく一日を過ごしたい。過去を忘れたい。さう云ふ思ひがこの二週間で募りに募つてしまつたのだ。いや、これまで佳奈枝と会ふ度に募つていつたのが、三年の時を経て今こゝで爆発してしまつたのだ。もし里也があの時沙霧と佳奈枝を引き合はせなければ、あの時佳奈枝を人生の伴侶としてしなければ、あの時佳奈枝を変な後輩だとしか思はなければ、あの時佳奈枝と出会つてゐなければ、………云ひ始めるとキリが無いが、佳奈枝の存在を彼女に伝へなければ、妹は過去のことなぞ自身の薄い胸の内に秘めて、決して外へは出さなかつたであらう。里也は自分たち兄妹の爛れた関係が変はりさうな予感がした。舞台の上ではもうすでに椅子が片付けられ初めてゐ、自分たちの周りに居たお客は皆居なくなつてしまつてゐた。
「そろ〳〵帰らう」
「………はい」
彼にとつて沙霧とはたゞの妹だつたかもしれない、愛しい恋人だつたかもしれない、物云はぬ傀儡だつたかもしれない、夢見がちなお姫様だつたかもしれない。しかしせめて今だけは、自分の妻としてこの憐れな妹を愛してあげようと思ひ、そつと手を差し出して、その冷やつこい小さなぬくもりを握り込んで、かつて新婚旅行と称して二人きりで行つた金沢への旅行に思ひを馳せた。
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kkagtate2 · 6 years ago
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偽善者の涙[五]
[五]
夫と義理の妹を送り届けてから、一人寂しく自宅となつてゐるマンションに帰つて来た佳奈枝は、府道を挟んで、駐車場を超えた先にある病院の一室を、紅茶の入つたコップを片手に、たゞぼんやりと眺めてゐた。実は去年の九月頃までは見えなかつたのであるが、家は揺れ、電柱は宙を舞ひ、船は流され空港の連絡橋に打つかつた、文字通り猛烈に強い台風のせいで木が折れてしまつたゝめに、ちやうど窓の先にある部屋が丸裸になつてゐるのである。と云つても、小さな窓であるし、病室ではなさゝうだし、書類か何かで半分くらゐは埋まつてゐるし、何より遠いので、見たところで人影が動いた程度しか分からない。病院であるから不吉なことを考えてしまふけれど、まさかこんな真昼間にチロチロと、しかも広い道に面した窓に姿を現す必要などないに決まつてゐる。本物の人間が忙しなく行き交つてゐるだけの、何も面白みのない、いつもの光景である。だが彼女は今日はそれすら楽しめるほどに暇であつた。別に、十三で夫らと別れた後、すぐに帰つてくる必要はなかつたのであるが、朝から何となく体がだるくてさつさと帰つてきてしまつた。それで一度ソファに腰掛けてしまふと、もう何もする気が起きなくなり、しかしかう云ふ休日の優雅なひとゝきを逃すまいと思つて、取り敢へず紅茶を入れてみたのであつた。さう云へば季節の変はり目に弱いのは昔からである。毎年春と秋になると、何となく体が云ふことを聞かない日が出来てしまつて、よく姉に、今日は大儀やから学校休む、……お母さんにはそれつぽく伝へといてと、寝起きに甘えたものであつた。今ではすつかりその役目は里也に取り換はつてしまひ、今朝は十時前まで一緒にベッドで微睡んだゞらうか、平日は兎も角、休日は怠けに怠ける彼は、起きてはゐるが頭は働かないと云つた様子で、そろ〳〵起きる? と問ひかけても、うんと唸るだけなのであつた。
「あー、……暇だわ。……」
佳奈枝はすつかりぬるくなつた紅茶をすゝつて伸びをすると、自然にそんな声を出してゐた。何をするにも億劫なので、里也から読んでみればと云はれて手渡された高野聖も開く気になれないのであるが、暇と云ふよりはつまらないと云つた方が良さゝうである。体を動かさず、夫もをらず、誰も訪れないのは、いまいち刺激が足りない。……と、ふとその時、佳奈枝の頭の中に沙霧の顔が浮かんだ。さう云へば今のこの状況は、いつもの彼女と一緒である。今日こそ里也に連れられて陽の光を浴びてゐるものゝ、いつもはあの暗い部屋の中で、しかも一人で過ごしてゐるのだから、刺激不足で毎日が退屈であらう。里也から彼女は音楽を聞いたり、本を読んだりして過ごしてゐるとは聞いてゐるけれども、ほんたうにそれだけで満足なのだらうか。そも〳〵自分の場合、すでに寂しさで死んでしまひさうである。彼女は口でこそ寂しくなんてありませんと云ふけれども、心の中では人肌が恋しい思ひをしてゐるに違ひあるまい。
佳奈枝はそれも来月にはまず〳〵解消するであらうと思ふと安心してしまつて、やつぱり何かしら〝音〟を聞きたくなつてきた。テーブルの上にある端末に手を伸ばすと、ぱゝつと操作し始める。ほんたうなら喋るだけでも良いのであるが、それにしてもすつかり便利な世の中になつてしまつた。子供の頃の自分に今の世のことを云つても、恐らく信じてはくれないであらう。 里也は未だにアナログなやり方が好きで、――と云ふよりほんたうにアナログが好きなのか、今でもレコードをいくつか中古屋で買つてくるほどなのだが、そんな彼が新しいものにすぐに飛びつくやうな性格をしてゐなければ、今ごろ時代に取り残されてゐたかもしれない。
そんなことを考へながら、自然に選んでしまつたブルックナーの交響曲を聞きながら、紅茶を飲みながら、時にはクッキーを摘みながら、佳奈枝は優雅な午後のひとゝきを過ごしてゐたのであるが、ちやうど交響曲第三番第四楽章のクルクル〳〵と目まぐるしい冒頭が始まつた頃合ひにピンポン、ピンポンと呼び鈴の鳴るのが聞こえたので、渋々立ち上がつて出てみると、
「お姉ちやんだよー」
と云ふ間の抜けた声が聞こえてきた。
「姉さん、急にどしたん」
と、佳奈枝は姉の多佳子を迎へ入れながら云つた。彼女はどこかへ遠出でもしてゐたのか、片手にキャリーバッグ、もう片手に二つ三つ袋を引つ提げてゐる。
「いやね、たま〳〵近くに寄つたから妹夫婦の顔でも見ておかうと思つて、……はい、これ差し入れの品」
と多佳子が袋のうちの一つを手渡してくる。
「なにこれ」
「羊羹らしいんだけど、形がピアノらしくて、佳奈枝ちやんかう云ふの好きでしよ?」
「え、ほんとに? うわ、姉さんありがたう」
「筍も持つて来れたらよかつたんだけど、……」
「筍はもういゝわ。どうせおじいさんのところで掘つて来たやつでしよ?」
「もう余つて〳〵仕方ないねん。……」
泣き言のやうに云ふ姉に、こつちもさうだから絶対に持つてこないでと、佳奈枝は釘を刺しながらリビングへ向かふと、未だ鳴り響いてゐた音楽を止めて、テーブルを挟んで向かひ合ふ形で座つた。佳奈枝の姉の多佳子は、里也よりも年上の今年三十四歳になる夫人で、現在は夫が単身赴任をしてしまつて家には彼女が一人と、女の子が一人と、男の子が一人をり、兎角子育てに追はれてゐると云ふ。休日は夫が家に帰つて来るので、かうして急に訪れるのは基本的に平日しかないのであるが、聞くと彼女は、今日は夫が東京に息子娘共々連れて行つてしまつて暇だから、――ほんたうはちやつと疲れちやつたから一人になりたくて甘えた形なんだけど、さつきまで木村ちやんと福井に居て、今帰つて来たばかりなのよ。で、たま〳〵とは云つたんだけど、帰るにしては微妙な時間だから、ほんとはわざ〳〵高槻で降りてこゝに来たと云ふわけ。それにしても元気にさうで良かつたわ、と云ふのであつたが、その後続けてあなたも早く子ども作りなさいと矢つ張り云ひ出したので、実のところ佳奈枝は、暇な時に来てくれたのは有り難いのだけれども、この姉の良心に忠実なところは全くと云つていゝほど歓迎してゐなかつた。
「姉さんはかうして元気さうだからいゝとして、旦那さんはどうなの。あんなゝりしてるから、骨の一本や二本くらゐ軽いんでない」
「あはゝゝゝ、でも大丈夫だから、あゝ見えてあの人、意外と体は丈夫なのよ? 風邪なんてひいたことないんぢやないのかな」
多佳子の夫は見た目からすると華奢で、恰幅の良い里也と並ぶとその細さが引き立つて見えるため、二人はよく比べ合つて笑つてゐるのであつた(この姉妹は元々がいじめっ子気質)。反対に、彼女らは瓜二つと云つていゝほどに似てゐるため、二人の夫は笑はれる度に、なんや、お前らは似すぎてゝ面白くないわ、どつちがどつちか分からん、はつきりせえやと口を尖らせて云つた。
「ほんに。里也さんなんてすぐに音を上げて無理するから、止めるのが大変で、……」
昔から二人の姉妹仲は甚だ良く、今でも会へば気兼ねなく愚痴を云ひ合つたり、夫の不満、家庭の不満を漏らしたり、――と、云ふよりは、云ひ方を悪くすればだいたい人の悪口に花を咲かせるのである(もっと婉曲な表現に置き換える)。今日はちやうど互ひの夫で話が始まつたので、ひとしきり普段は云へない不満点やら、旦那の癖やら、寝言の内容やらで話がはずんだ。話題が変はつたのは佳奈枝がクッキーに手を伸ばして、一瞬会話が止まつた時であらうか、サクサクとした食感に彼女が顔を緩めてゐると、
「あなたゝち相変はらず音楽ばかりなのね」
と、多佳子はテーブルの上に置きっぱなしであつた総譜を勝手に取つてパラパラとめくる。そして、しまつた、これブルックナーぢやない。あゝ、また佳奈枝ちやんの薀蓄がたりが始まつてしまふわ。……と嫌な顔をしながら云ふので、そんな云はないでいゝぢやない。だつて、ブルックナーなのよ? と云ふと、どうせこれが第何稿目で、何処其処の小節が削除されて、フィナーレがどうのかうのと云ひ出んでせう? と云ふ。――全く、失礼な話である。稿問題はブルックナーの交響曲において本質的とも云へる問題であるのだから、何回議題に上つても上りすぎることはない。今、姉がパラパラとめくつてゐるスコアは交響曲第三番、俗にワーグナー交響曲と呼ばれる巨匠アントン・ブルックナーの記念すべき五番目の交響曲、――の世にも珍しい初稿版で、今日最も演奏される第三稿とは様々な箇所が違つてゐる。その大部分は「削除」といふ悲しい改訂なのであるが、もつと悲しいのはそれが作曲者本人からの要望で行はれなかつたことであらう。初演は実に酷く、ブルックナーが自身の手で幕を引いた時、観客席にはほとんど人が残つてをらず、そこには完全に途方に暮れた聴衆と、熱狂的に拍手喝采してゐる一握りの若き「信者」しか居なかつたと人はみな云ふ。その時点でこの交響曲は第二稿、つまり演奏時間にして初稿版から凡そ十分ほど短縮されてゐたのであるが、ブルックナーは初演の失敗を受けて、さらにそこから五分ほど短縮する。初稿が何故短縮されたのかと云ふと、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が上演を拒否したからであると云はれる。とすれば一連の改訂は、果たしてほんたうに作曲者本人の希望で行はれたことなのであらうか。交響曲第四番ほどではないにせよ、初稿と第三稿はほとんど違ふ曲である。確かに改訂によつて一つの曲として纏まりが良くなつたかもしれない、より分かりやすく馴染み深くなつたかもしれない。しかしせつかくの味はひを消してしまつてゐるやうに見える。ワーグナー交響曲の味はひとは、神の世界、――つまり自身の教会音楽と、祝祭、――つまりワーグナーの楽劇、その二つの世界を行つたり来たり、時には共存させたりして、途方もなく広い世界を作つてゐるところにある。改訂に当たつてブルックナーはこの部分をほとんど取り去つてしまつた。第二第三稿でも様々な世界との対話が多々見られるけれども、やはりワーグナーの楽劇と自身のミサ曲を同じ〝交響曲〟において引用する、その破格さに比べるとゞこか物足りなく感じてしまふ。当時の聴衆はそんな不敬とも云へる味はひを殺したのである。彼らに合はせる形で書き直された第三稿が果たして交響曲第三番の「ベスト」であるかどうか、二十世紀に入つてさう云ふ問ひが出てきたのも当然であらう。
と、交響曲第三番の稿問題について佳奈枝はひとまとめにしてもこれだけのことをつい語つてしまふので、多佳子はもとより里也すらも嫌な顔にさせてしまふのであつた。しかし、ブルックナーの交響曲を聞く際にはこれだけの前提知識を踏まえなければ失礼である。里也はどんな音楽でもすぐに自身の感性に身を任せてしまひ、標題音楽的な聞き方をするのであるが、 ブルックナーに関してもさう云ふ聞き方をしてしまふのはあまり感心できない。彼は音楽とは感性で聞くものだと云ふけれども、アントン・ブルックナーといふ作曲家は自身の作曲法を体系化し、同じ構造を取りながらそれぞれが違ふ色彩を帯びた交響曲を作り出す、そんな実直で理論的な作曲家なのである。ブルックナーの交響曲を聞く際にはそのことを頭に入れておかなければならない。静寂から始まることも、特徴的な主要主題も、いきなり登場する歌唱楽段も、第一部を締めくゝる結尾楽想群も、切れ目のない展開部再現部も、楽章を跨ぐ巨大なアーチ構造も、全て綿密に計算され尽くした結果なのだから、そこからどのやうな世界が広がつてゐるかを知るにはまず彼の作曲家に対する深い知識を得ることから始めるべきであらう。すると先に出てきた交響曲第三番では、第一楽章冒頭のトランペットの主題が幾度となく、――最後には第四楽章のクライマックスにおいても回帰するといふ、たゞの作曲技法にも楽しみを見出すことが出来るやうになる。簡単に云へば交響曲をある偉人の伝記でも読むやうな感覚で聞くことが出来るやうになると云つたところか。そんな単純な楽しみ方も、知れば知るほど出来るやうになるのである。里也はそこが甘いのであるが、しかし元々学者肌な彼のことだから、一度さう云ふことを教へるとその後数週間はずつとブルックナーの世界に浸つてしまふ。その惚けた表情を眺めるのもまた別の楽しみだけれども、沙霧と同じくロマン派と云つても情緒的なロシア音楽ばかり好きになつて行く彼が、そこまで引き込まれてしまふのである。況してや自分が聞けば云はずもがなである。まつたく、ブルックナーの交響曲といふ、取つ付き易いのか取つ付き難いのかよく分からない十一個の曲には、恐ろしいまでの魔力が込められてゐるのであらう。(味が無い文章なので後で書き直す)
「でも、たまにやめたくならない?」
多佳子は再び総譜を開きながら聞いた。やはり本格的に読んで行くといふよりは、手持ち無沙汰にたゞ眺めてゐると云つた風である。
「もう生まれてからずつとやつて来たからね。さうは簡単にやめられないわ」
「いゝなあ、私も一つくらゐ、長いこと続く趣味と云ふやつがあればなあ。……」
「それなら姉さんもピアノかフルート再開すればいゝのに。ピアノは電子ピアノがあるし、フルートは安いのだと十万円くらゐからあるよ?」
多佳子もまた里也と同じく、大学を卒業してからはゞつたりと楽器を演奏するのをやめてしまつてゐた。彼と違ふのは情熱が失はれたと云ふよりも、家庭が忙しいと云ふ理由からではあつたが、楽器が手元にあつたところでピアノの鍵盤を開くのすら、フルートを組み立てるのすら、億劫に感じて結局続かないかもしれない。佳奈枝はそれが残念で、生まれて間もない頃から、この姉から熱心に音楽を教へてもらつてゐたゞけに、会へば必ずと云つていゝほど、楽器を再開してみればとそれとなく提案してゐるのであつた。
「あんたゝちとは違つて、こつちは薄給なんですー。それに、もう楽譜が読めないから、無理。無理無理。これ何の音?」
と、適当に開いたペーヂにあつたとある音符を指差す。
「どれ〳〵、――それはE の音よ。でもそれハ音記号だから私もパツとは分かりづらいわ」
「それでもちやんと読めてるからいゝぢやない。私はもうドから追つていかないとだめだわ。再開しやうにもそこが面倒でね、……」
「それ里也さんも似たやうなこと云つてたわ。俺はもうトロンボーンのパート譜しか読まない、何がA 管だ、何がF 管だ、全部ドはドの音で書いてくれ。やゝこしいわ。もう知らん!――つてね。いつたい、何年楽譜を読んできてるんだか」
「あはゝ、彼も苦労してるのね。――さう云えばその里也くんは? 私、彼にもお土産を買つてきたんだけど。……」
「今日はデートに行つてる」
「デート?」
「ほら、例の沙霧ちやんと。……」
「あゝ、なるほど、それで佳奈枝はお留守番といふわけか。ほんたうに里也くんの独占状態ね。――うわあ、いゝなあ! めちやくちや可愛いんでせう?」
と、身を乗り出して云ふ。一体全体、多佳子は未だに沙霧の写真すら見たことがないのであつた。佳奈枝から可愛いといふ噂話しか聞いてゐない彼女は、妹夫婦の結婚式をまた別の意味でも楽しみにしてゐたのであるが、新郎側の参列者をいくら見渡してみてもそれらしい姿は見当たらないし、挨拶ついでに聞いてみると里也からお姉さんすみません、私からも強く誘つたのですが、何分妹はかう云ふ場には慣れてゐないどころかトラウマがあるやうで、本人の意思を尊重した結果、出席しない運びとなりました。代はりと云つては何ですが、よろしくおねがいしますと云つてゐたことを申し上げます。さらに勝手な都合を重ねて申し訳ありませんが、口ではあゝ云つてをりますが本心では彼女もまた、人と人との繋がりを望んでゐる者でございます、ですので私からも、今後もしお会ひした時には仲良くして頂きたいとお願ひ申し上げます。と、今となつては笑つてしまふほど畏まりながら云はれてしまつた。以来、多佳子は一回くらゐは会つておかねばと思ひながら、しかしこれと云つた機会がないために、なあ〳〵になつてしまつてゐるのである。
「そんな姉さんに良い知らせがあるんだけど、聞きたい?」
「え、なに? 良い知らせなら聞きたい。沙霧ちやん関係?」
「うん。今度のゴールデンウィーク、……になるかは分からないけど、私と沙霧ちやんの二人きりで京都に行くことになつてるの。それで、――」
佳奈枝は今日この姉の姿を見た時から考へが浮かんでゐた。きつと里也は苦い顔をするだらうから今まで躊躇してゐたのであるが、あの男は頑固なところが見えて、解きほぐすのが面倒な問題にはあつさりと手を引いてしまふのである。今回は妻の姉を交へた約束事を破棄しようとするけれども、彼女が強く云へば何も云へまい。相談すれば必ず怒られて止められてしまふであらうから、さうなる前に今この場で決めて、彼には後から知らせよう、この件はそれだけでいゝはずだ、――と彼女は思つて、
「姉さんもどう? 一緒に来ない?」
と、多佳子を新緑の京都へと誘つた。
「行きたいのは山々だけど、それほんたうに行つてもいゝの? だつて彼女、今にも死にさうなくらゐ繊細な子なんでせう?」
「いゝの〳〵。今回ばかりは大真面目に、沙霧ちやんを引きこもりから脱出させようといふ、……ま、それでもピクニック程度なんだけど、目的が目的だから、姉さんが来た方がむしろ効果的ぢやないかしらん?」
「さうかなあ、……一応里也くんと相談した方がいゝぢやない? それで行つてもいゝよと云はれたらで、お姉ちやんはいゝです」
「えゝ、……姉さんも来なよ。会ひたいんでしょ? 姉さんがさう云はないとダメなのよ、この話は」
佳奈枝は少々強い口調でさう云つたのであるが、多佳子はほんたうにどちらでもよいらしく、その後も再び総譜に落とした目をそのまゝに生返事をするだけである。しかしかう云ふ態度を取られるのは初めてゞはない。何かに似てゐると思へば、この態度は夫のそれと同じである。彼もまた、どうでもよい話には適当に返事をして、適当に頷いて、すぐソファに寝つ転がつて本を読み始める。佳奈枝は自身の姉がそんな態度を取つてくるのがたまらなかつた。姉さんが昔から会ひたいと云ふから、せつかく誘つてあげてるのにどうしてそんな態度を取るのであらう。こちらとしてはむしろ姉さんを思つて云つてゐるのである。それを適当にあしらふなんてひどいではないか。彼女の頭の中には自分たち姉妹と上手く意思疎通が出来ず、意味不明なことを云ふ沙霧の姿が思ひ浮かんではゐたが、それもまた社会復帰への練習であると考へれば、やはり姉が来た方が目的に適つてゐるやうに感じられた。それに、自分よりも幾分柔らかい物言ひをする多佳子は、沙霧の緊張を解きほぐす上でも有効であるに違ひなかつた。
結局佳奈枝は、少々無理矢理ではあるけれども姉の首を縦に振らせることに成功してしまつた。が、総譜を引つたくつた際に不機嫌にさせてしまつたらしく、
「あんたほんまに無理無理やな。そんなこと他の人にしたらあかんで。特に沙霧ちやんみたいな繊細な子は、それだけでも怯えてしまうんやから、絶対にするな。それに、あの子はいぢめられてたんやろ? そんなら、古傷をえぐることになりかねんから、な? 分かつとる?」
と久しぶりに説教をしてくる。さつきまで里也と同じ態度を取つてゐたかと思へば、今度は里也と同じ口調で同じことを云ひ出す。佳奈枝はそれもまたゝまらなかったが、云はせるだけ云はせると、多佳子は静かになつて自分の分の紅茶をすゝりだす。机の上で育てゝゐるマザーリーフは今では葉の端つこの芽がちやんとした茎になつてきて、そろ〳〵鉢に植え替えた方がよいのだけれども、そこから可愛らしく生えてゐる小さな葉つぱが、親の葉のやうに大きくなるかと思ふと何だか嫌である。その葉を一枚一度突いてからクッキーの入つた底の深い皿に、佳奈枝は手を入れたのであるが、優雅な午後のひとゝきを過ごしてゐるあひだにほとんど食べてしまつてゐたらしく、残りはあとたつた一枚となつてゐた。
「あらゝゝゝ、……残念、姉さんの分はもう無さゝうね」
「なんと、……佳奈枝ちやんのクッキー美味しいのに、もう無いの?」
「姉さんにも食べてほしかつたけど、残念だつたわ、――」
と佳奈枝は最後のクッキーを口に放り込んだ。
「うん、美味しい。美味しいわ、姉さん。姉さんも食べたい?」
「……仕方ないなあ、私もほんたうに面倒くさい妹を持つたものね。一緒に作り、……いや、疲れたからちやつとこのまゝで。いやはや、楽しい二日間だつたわ。……」
と多佳子が腕を目一杯上にして伸びをするのを見届けつゝ、佳奈枝は立ち上がつた。疲れてゐると云つた割には姉は口を動かす元気はあるらしく、小麦粉を取り出し、卵を取り出し、バターを取り出しなどして生地を作つてゐるうちに彼是(あれこれ)と話しかけてきたが、まず云つたのは、それにしても楽しみだわ、沙霧ちやんと会へるなんて、ちやんと楽しませてあげなくつちや、――といふことであつた。
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kkagtate2 · 6 years ago
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偽善者の涙[四]
[四]
自宅となつてゐるアパートを出た頃と云ふのが、昼もとうに過ぎ去つた頃合ひであつたからであらうか、駅に降り立つた里也はまばらな人通りの中、重たく肥えた足を前へ〳〵と動かしてゐた。先々週あたりに佳奈枝とコンサートに行つてからずつと足取りは重いのだけれども、今日は特にさうである。毎晩〳〵、沙霧を連れ出さうと躍起になつてゐる彼女の相手をして、一応の折り合ひがついて、この週末こそゆつくり羽を伸ばせるかと思つたら、時は金なりと云はんばかりに彼自身が連れ出されてしまつた。これほどまでに気を重くして里帰りするのは久しぶりである。心なしか空模様もまたどんよりと重苦しい。今日は雨は降らないのには違ひないのであるが、さつきまで見えてゐた太陽がすつかり姿を消してしまつたので、はるさめ程度は降るんぢやなからうか。里也は空を見上げてゐた顔を、隣でふわ〳〵と舞ふ髪の毛に向けて、ふう、……と静かに息をつくともう一度空を見上げた。
「やつぱり雨降りさうやな」
「大丈夫でせう。もし振つたとしても帰る時には止んでるわよ」
「さう云ふものかね」
「さう云ふものよ」
と云ふ佳奈枝の声音はどこか和やかなのであるが、今日に限つてどこもかしこも和やかである。桜の開花にはまだ早い時分ではあるけれども、今しがたひよつこりと姿を現した桜の、赤々とした色味を帯びたつぼみは、のんびりと春の穏やかな風を待つてゐるやうに見える。それに今日は一段と暖かい。来週になるとまた冬のやうに冷え込むらしいけれど、またすぐに暖かい日が続くと云ふ。里也は例の恨めしい気持ちに気分を悪くしながら、今年はいつ頃京都に向かはうかと考えてゐた。付き合ひたての時から、この夫婦は毎年春になると京都に行つて花見をするのであるが、元々は家族で行つてゐたものが、沙霧が引きこもつて以来里也一人で行くやうになり、それなら一緒にどうと誘つたのが始まりではある。が、最近は人混みを避けたいと云ふ理由から、佳奈枝が行きたいと云はなければ、沙霧が写真を見たいと云はなければ、もう彼は行かうとも思はない。外国人観光客が増えるのは確かに結構なことではあるけれども、小さい神社でなければまともに参拝どころではないし、殊に渡月橋は歩くことすらまゝならないと云ふ風で、それだけの労力を要してまで行かなくても日本には到るところに美しく桜が咲いてゐる。佳奈枝は兎も角、沙霧ならたつた一本ほかの樹木に紛れて咲いてゐるだけで情趣を汲み取れるのだから、わざ〳〵人混みに紛れなくても良いのではないだらうか。確かに平安神宮に咲く桜の花は大阪城のそれとは違ふ趣があつて、見てみたい気もするが、桜の前でしたり顔をする佳奈枝も同時に目に映ることになるから、いつそのこと彼女を一人残して沙霧と一緒に行かうかしらん? 里也はそんなことを思つたけれど、昨夜の話では残ることになるのは自分だと云ふことを思ひ出すと、またもや静かに息をついてしまつた。
「それにしても、――」
佳奈枝は信号待ちで立ち止まつた際に伸びをして、
「――すつかり春になつたわね」
と、里也の恨めしい気持ちなど素知らぬのんきな口調で云ふ。
「だなあ。そろ〳〵蕗のたうが出てくる頃合ひだらうから、よろしく頼むよ」
「天ぷらでよろしくて?」
「天ぷらでお願ひします」
「はい〳〵。でも里也さんはその前にたけのこ掘りに行かなくちやね。蕗のたうもその時にくれると思ふから」
「あゝ! たけのこのことを忘れてた。掘るのは楽しいからいゝんだけど、さすがに毎日は飽きるわ」
何でも佳奈枝の祖父が山で仙人のやうな生活をしてゐて、これからの時期はそこら中に筍が生えてしまふから、処理(点々)するのを手伝つて欲しい、取つた筍はそのまゝ持つて帰つてもいゝし、捨てゝもいゝから兎に角この辺にある、かういつた出つ張りから彼処にある大きいのまで全て残らずこいつで根本から掘つてくれ。この歳になると斜面に登るのも、ほれ、そこに居る孫に怒られるから、頼んだぞ。根こそぎとは言つたけど、里也くんも危ないと思つたら、そいつはもう放つておいていゝからな。――と、云はれて毎年新年度をまたぐ間二週間程度は、週末に泊まり込んでまで筍を掘りに行つてゐるのであつた。
「あはゝ、あれでもけつこうおすそ分けしてるんだけどね。里也さんが掘りすぎなのと、あと持つて帰りすぎなのよ。お父さんだつて、あんなに張り切らないのに、……」
「だつて、もつたいないぢやん? それに、飽きると云ふても、あの山のたけのこは妙に美味しいんだよなあ。なんでやろ」
「料理する人の腕がいゝからぢやない?」
佳奈枝はわざとらしく腕を曲げて、ポンポンと浮き出もしない力こぶを叩く。
「あん? ほら、青だぞ」
「つれないなあ、……」
と、先に歩き出した里也を追ひかけるやうにして、佳奈枝も歩き初めた。あゝ云ふ冗談にはいつも笑つて相手をするのであるが、今日は虫の居所が悪いせいか相手をしてゐられない。それは一つにはのどかな風景に恨めしさを感じること、もう一つには毎夜妻の相手をして疲れたこと、また、若干花粉症気味で頭がぼうつとすることもありはするけれども、全く、自分でも中々の心配性と云ふか、結局は沙霧と同じ血が流れてゐると云ふか、たまにかう云ふ風に不安で調子が出ないことがある。昔も受験だつたり、就職活動だつたり、普通ならば逆に不安をバネとして活用できる場面で、考へ込みすぎて勝手に意気消沈してきたのである。で、今は、佳奈枝が沙霧を思慮無く連れ回さないか、いや、そも〳〵その前に話を切り出した時に何か不安を煽るやうなことはしないかゞ、ひどく気になつて仕方がないのである。何と云つても佳奈枝のことであるから、沙霧が首を縦に振らうが、横に振らうが関係なく自分の意見を押し通してしまふのは目に見えてゐた。実際に里也自身もこの数日間で押し切られてしまつた。今日彼がついてきたのは、他でもなく二人の様子を見守るためであり、もつと正確には無理を云はれた沙霧の愚痴でも聞いてやらうと思つたからである。ほんたうならば電話の一本でゞもいゝので沙霧には自分から伝へて、考へる時間を与えればよかつたのであるが、生憎のこと電話は持つてゐないから直接云ひに行かねばならない。親を間に隔てゝ伝へてもらはうとしても、沙霧に届くか分からないし、届いたところで返事を面倒臭がられて有耶無耶にされてしまふ。別に電話機の一つや二つくらゐ訳ない家計ではあるから、与へてもよいのではあるが、極端に電話が嫌いな彼女のことだから単なる文鎮と化すであらう。いや、文鎮ならまだマシかもしれない。沙霧と自由に連絡が取れることに嬉しくなつた里也や佳奈枝が、日に何通も何件もメッセージやら通話やらをするだらうから、終ひにはベッドと壁の隙間の埃になる可能性の方が高い。要は、沙霧に何かを伝へる要件がある場合は直接赴かなくてはならないのである。佳奈枝からすると、電話一本で何をそんなに怯えてゐるのか全くもつて理解出来ないから迷惑千万ではあるけれども、里也からすると、何となく気持ちは分かる気がするのであつた。と云ふのも彼は昔は少々悪さをすることがあつて、たまに先生からかゝつてくる電話にビクビクとしたものであつたが、沙霧はそのビクビクとした感情がまだ残つてゐるのではないだらうか。ちやうど彼女が不登校になつた頃、毎日のやうに学校から電話がかゝつてきて、だいたいは受話器を受け取つてくれたけれども、三割くらゐはもう嫌だ〳〵と泣き喚いて布団の中へ潜り込んでしまつたから、もう時が止まつてしまつた彼女にとつて、電話とは一つの恐怖に数へられるのであらう。かと云つて直接会ふのも相当に慣れ親しんでゐないといけないから、――それに今日は沙霧の心を乱してしまふ話題を持ちかけるのだから、ほんたうは夫婦仲の方を乱してゞも佳奈枝を家に置いておくべきだつたかもしれない。里也は年々減少しつゝある沙霧への思ひに自分のことながら辟易すると、眼の前に落ちてゐた石ころさへも恨めしくなつて、気がつけば足で蹴つてゐた。
「いや、だからダメだつて。呼び鈴はあいつが驚くから、……」
「でも、里也さんがしなかつたところで、誰か押すでしよ?」
夫婦は玄関の前に立ちながら、軽い小競り合ひをしてゐたのであるが、その内容とは呼び鈴を押すか押さないかと云ふ、一見するとゞうでもよいものであつた。
「それはさうなんだけど、出来るだけ怖がらせる回数を減らしたいんだよ」
「またすぐさうやつて甘やかす。さう云ふのがいけないのは分かつてらつしやる?」
と、佳奈枝が手を伸ばしたところで、里也がその手をはたき落とす。その光景はこれまでにも数回繰り返されてをり、傍から見れば夫婦で漫才をしてゐるやうにも見える。――が、夫の目は少々真剣すぎるかもしれない。
「と言つても、最初から怯えさせなくてもええやないか。沙霧は、知つてる人が呼び鈴を不必要に鳴らすと滅茶苦茶機嫌が悪くなるんだからさ」
「まあ〳〵、今日はさう云ふのも含めて覚悟してきたんだから、――えい」
結局、二人の芝居は、取手に手をかけようとした里也の不意をついて、呼び鈴を押した佳奈枝に軍配が上がつた。先行きは不安である。この調子で人の心に土足で上がり込み続ければ、沙霧はきつと心を閉ざしてしまふ。たゞでさへ酒の一杯や二杯は飲ませて饒舌にしないと、自分から自分の意思を上手く伝へられないと云ふのに、これでは本末転倒になるのではないか。里也は佳奈枝の頭を軽く小突くと、まずはのんびりとしてゐるであらう両親に挨拶をするべくリビングへと向かつた。
彼らは案の定、二人仲良くテレビの前に座つて、雑誌か何かを懸命に見ながら早口で云ひ争つてゐたのであるが、挨拶も程々に話を聞くと、里也たちが金沢へ旅行に行つたのが羨ましくなつたから、自分たちもどこか遠出して遊びに行きたいと云ふ。元々この一家は毎年夏と冬の二回、家族旅行と称して東へ西へほとんど計画も無しに家を飛び出す事があつたのだが、沙霧が引きこもつて以来、さう云ふことはおざなりになつてゐた。
「で、どつかえゝところあらへんか」
「どつか云うても、あんたら昔は計画も無しに行つてたやないか」
「まあ、さう云ふなや。もうそないに歩き回れるほど体力無いから、行くとこ決めなあかんねん」
と、里也の父親は「広島」と大きく印刷された雑誌をパタパタと振りながら云つた。
「さう云はれてもなあ。……」
こんな一家なものだから、里也もそんなにたくさん旅先を知つてゐる訳ではない。今でこそ金銭的に余裕があるから、佳奈枝とたまに遠出はするものゝ、昔は家族で旅行するのは控えてゐたし、時間のあつた大学生時代は色々と出費が多くて、学会やら研究会やらのついでにたつた半日間だけその近くを回つたくらゐで、ついぞ旅行らしい旅行をしたことがなかつた。彼が金沢に突然行かうと沙霧に持ちかけたのは、別段特別な思ひ入れがある訳ではなく、たゞ単に金沢はいゝ雰囲気だと、どこかで聞きかじつて来たからに過ぎない。とは云へ、思ひの外金沢旅行が楽しかつたのは事実であるから、暇を見つけては此処に行かうかしらん、彼処に行かうかしらんと、密かに計画を練つてはゐる。が、どこも穏やかで落ち着ける場所だからこの両親が楽しめるかどうか、むしろ自分に聞くよりは佳奈枝に聞いた方が有意義な答えが返つて来るかも知れない。
「あゝ、ならあそこはどう?」
と、それまでクスクスと笑つてゐた佳奈枝が、ちやうど良いタイミングで口を開いた。
「あそこ?」
「あそこ。……あー、名前が出てこない。前行かうとして、結局時間がなくて行かなかつたとこ」
「……ふむ。さつぱりわからん」
「こゝまでは出てきてるのよ。こゝまでは、――」
佳奈枝は喉のあたりを擦つてみせた。
「――けど、……あゝ! ――で、どこだつけ?」
「どこやねん! ……まあ、えゝわ。で、旅行に行くのは別に構はんけど、そのあひだ沙霧はどないするつもりや」
「あの子は、……ま、なんとかなるからえゝやろ。二三日放つておいたところで、むしろ一人で過ごせて嬉しい云うで、知らんけど」
と、夫婦が持つて来た土産物を一通り漁り終へた母親が云つた。
「そんな適当ぢやあかん。うちに預けてもえゝからちやんと考へな。でないとなんもアドヴァイスせえへんで」
とは言ひつゝも、里也は母親の云ふことを完全には否定できなかつた。確かに沙霧なら、両親が数日間家を空けるとなれば喜んで孤独を楽しむはずである。が、いち監督者としてそれで良いのかと問はれゝば、決して良いものではない。もし留守中に彼女が精神的なバランスを崩して、―���当然さう云ふ時はこれまであつたから、沙霧を一人家に残すことを断念し続けて来たのであるが、また三階の窓に足をかけてしまつた時に一体誰が止められると云ふのであらう。普段は彼女のことを鬱陶しがつてゐる母親もまた、心のどこかでは心配してゐるからこそ、あゝやつて毒を吐きながらも一応は毎日声をかけてゐるのである。こゝ数年間は里也が駆けつけるやうなことは起きてないにせよ、油断してゐるうちに取り返しのつかない事態になる可能性がある以上、今この場に居る誰かゞ目を光らせる必要は当然ある。変はらず曖昧な返事をし続ける両親に、里也は声を荒げそうになつたが、嫌な話題はさつさと切り上げるに限るので、隣で彼の意見にうん〳〵頷いてゐる佳奈枝に目を配らせた。
「まあ、えゝわ。今日は俺たちは沙霧に用があつて来たから、また後でな」
と言ふと佳奈枝もまた、失礼します、と丁寧に一礼しながら言つてついて来る。何を言つてもうんともすんとも云はない沙霧と違つて、かう云ふ取り繕つたやうな良妻らしさが両親には受けるのか、佳奈枝はかなりこの家に受け入れられてゐた。ともすれば実の娘以上に娘として可愛がられてゐると云ふ風で、母親は里也についてリビングを後にしようとする佳奈枝に、佳奈枝ちやんまた後でゐらつしやい、前来た時にほしいつて云つてた例の物を渡したいから、里也には知られないように、とわざと大きな声で云ひ、それに対して佳奈枝も、まあ、ありがたうお義母さん、でもたつた今知られちやいましたわよ、とこちらも負けじとわざとらしく云ふのである。里也はもうその頃には階段に足をかけてゐたのであるが、それでも二人の会話が嫌にはつきりと聞こえてきて、逃げるやうに足取りを早めて登つて行つた。
「起きてるやろか」
「さすがに起きてるでしよ。もう夕方よ? いくら夜型でもこんな時間まで寝てはゐないわよ」
さつさと二階へ消えてしまつた里也を追ひかけてきた佳奈枝は、沙霧の部屋の前で佇んでゐる里也のつぶやきに答へつゝ、彼の向かふ側にある窓の、さらに向かふ側を見つめた。
「ま、それもさうか」
「それで、今日もやるの? あれ」
と窓に向けてゐた顔を一転させて、ニヤニヤと里也を覗き込む。
「うるさい。あれでも沙霧は真剣にやつてんだよ。絶対に無下にはできん」
「ふうん、そ。ぢやあ、早く入りましよ。きつと夫の帰宅を待つてるんでせうから」
当然のことながら里也が一番困るのは、かうして沙霧と佳奈枝を同時に相手しなければいけない時である。彼は毎度どつちつかずな態度を取つてはゐるけども、佳奈枝からすると目の前で浮気現場を見せつけられてゐるやうなものだし、沙霧にしてみれば初恋の相手を奪つて来た女と面しろと云はれてゐるやうなものだし、ある意味では両手に華と云へば華ではあるが、自分の一言で修羅場と化してしまふと思ふと、いつも冷や汗をかゝずにはゐられなかつた。しかもどう云ふ訳か、佳奈枝を連れて行くと必ず、沙霧の言動が一段とそれ(点々)つぽくなるのである。それを一々真剣な態度で相手するのは正妻である佳奈枝には面白かろうはずはないから、彼はいつも帰りがけに付き合つてやつてゐると云ふ口調で誤魔化すものゝ、やはり沙霧の事情を考へれば、そして自分の事情を考えれば、彼女の要求を真摯に受け止めざるを得ない。心が離れつゝある今ではもはや形骸化してゐる感はあるも、やはりそこには自分たちの繋がりが残つてゐる。
里也は毎度の事ながら、それでも機嫌を悪くするだけで傍に居てくれる佳奈枝に感謝するのであつたが、さうやつて感謝すればするほど、沙霧に冷たくなれない己の非情さを痛感してしまふのであつた。今自分が「夫婦ごつこ」を続けてゐる理由は何のか、己はもう小さな欲望を満たして喜ぶやうな下衆な存在ではなくなつてしまつた、なら沙霧もいゝ加減「夫婦ごつこ」の繋縛(けいばく)から開放されて、過去を断ち切つて、一人の淑女として生きるべきではないか。あの程度のことを止めたところで自分たちの繋がりが切れる訳ではあるまい、住んでゐる場所もさう遠くは離れてゐないのだから、別れたとてはなれ〴〵になる訳でもない。怖気づいてゐても何も変はらないのだから、佳奈枝の云ふ通り、もう荒療治でもいゝから無理やりにでも外へ連れ出すべきではないのだらうか。昨夜、佳奈枝に小言を云はれながら彼は、そんなことを思つてゐた。そして、もう妻に全部任せて後は成り行きに身を投げても良いのではないかと思ひもした。頭の中には妻に連れ回されて、無事笑顔で彼のもとに戻つて来る沙霧の姿が浮かんだ。現実には疲れ果てゝ項垂れるだらうけれど、口上手な佳奈枝の話にはさう思わせる何かゞあつた。驚いたのはそこで最悪の場合を考へなかつたことである。いつもの彼なら、いや〳〵でもそれでも、さう云ふ風に沙霧が戻つて来るのは考へにくいから、どれだけ慎重を期しても慎重すぎることはないと云つて、己の不安が払拭するまで話し合ふし、現に一昨日まではさうしてゐたのであるが、一度佳奈枝の口から「夫婦ごつこ」と云ふ単語が出てくると、もう目の前で涙を蓄えてゐる瞳に辛抱ならなかつた。昨晩の話し合ひはそれきりにして床についた里也は、居残つた不安に襲はれつゝも、隣で寝息を立てる憐れな女に改めて思ひを寄せた。深夜の感傷的な気分だつたせいか、朝には不安が胸に渦巻いてしまつてゐたけれども、少しくらゐ妻を信用しても良いではないか、いくら自分が沙霧を大切に思つてゐるとしても、それは妻も同じである。彼女だつて、沙霧を大切に思つてゐるからこそ、今の今まで黙つてついて来てくれたのではないか。三年前、自分はほとんど無条件に彼女を信用してゐたからこそ、沙霧と引き合はせたのではないか。――里也は昨夜意識が落ちる寸前に思つたことを頭の片隅に、扉に手をかけた。ふと隣を見ると、佳奈枝がさつきとは打つて変はつて真剣な眼差しで見つめてきてゐる。
「なんかドキドキするな」
と、思はず里也も真剣な眼差しになつて云ふと、佳奈枝は、
「ふ、ふ、……やつぱりいつも通りでいきましよ? 真顔だとそれこそ沙霧ちやん怯えちやうわ」
と笑ひながら云つて、彼の脇腹を突いた。
「こら、やめんかい。――でも、さうだな。沙霧、入るぞ。――」
そつと扉を開けて部屋に入ると、沙霧は佳奈枝と一緒に行くことを母親から聞いてはゐたやうであつたのか、意外にも小奇麗な格好をして、机の前でパソコンに食らいついてゐた。それでも古臭くなつた衣服ではあるが、彼女は佳奈枝の前では着飾りたいらしく、髪の毛も櫛を通したのかさらりとしてゐる。彼女は部屋が明るくなつたのに気がつくと、イヤホンを外してびつくりしたやうな顔をこちらに向けて、口をぽかんと開けた。何かを言はうとしてゐるのか、それとも単に口が開いてしまつたのか、里也には分かりかねたが、
「やつほ、沙霧ちやん。久しぶり、元気にしてた?」
と、まず最初に佳奈枝が声をかけたので、彼も乗ることにした。
「俺は久しぶりでもないな。けど、ま、久しぶり、……か?」
「一ヶ月くらゐ会つてないんでしよ? それは久しぶりつて云ふのよ、里也さん知らなかつた?」
冗談を云ふ佳奈枝を他所に、沙霧は言葉が上手く出てこないのか、
「兄さん。……」
と云つたきり、しばらく口をもご〳〵させてゐた。が、じきに、
「兄さんに、お姉さん、お久しぶりです。特にお姉さんは、あ、……えつと、お正月にお会ひした時以来で、――」
「さう〳〵、もう二ヶ月とちやつとぶりね。年賀状はちやんと届いてた? 今年のはこの人が後回しにしてたから遅れちやつて、ごめんね」
と佳奈枝は沙霧の声が詰まつた瞬間に自分の言葉を重ねて云つたが、これが良くないと云ふことに里也は何となく感づいた。恐らく彼女は予め言葉を決めてゐたのであらう。目はずいぶん上で泳いでゐるし、言葉を紡ぐと云ふよりは思ひだしてゐると云ふ口調だし、何より佳奈枝の言葉に反応できてゐない。昔彼女が語つたことによれば、自分は、――特に目上の人に対してはさうなのであるが、よく知らない人に面すると、頭の中が真つ白になつてしまふ。どれだけ心を落ち着かせやうとも、どれだけ云ひたいことを反復しやうとも、いざその瞬間になるとどうしても頭の中から言葉やら考へやらが消えてしまふ。感覚としては、緊張すると云ふよりは頭がぼうつとするのに似てゐるだらうか、兎に角、人が眼の前にゐると途端に頭が働かなくなるのである。だから自分は人と上手く喋れないのであるが、どうしてお姉さんにもかうなるのかは自分でも良くわからない。別にお姉さんのことを嫌つてゐる訳でもないし、知らないと云ふ訳でもないし、それに今は義理の姉だけども昔は同級生だつたから、特に目上の人と云ふわけでもない。でも何故かあの人を前にすると言葉が出てこなくなつてしまふ。それで兄さんには申し訳ないですが、お姉さんと話す時には一緒に居て、手助けをしてくださると大変嬉しいのですが、……と、さう云ふことらしいので、一旦沙霧の言葉を区切つてリズムを崩してしまへば、余計に言葉が出てこなくなるのは明らかである。
「届いてるよ。前来た時には母さんが持つてたから、まだ下にあると思ふ」
困つたやうに目線を送つて来る沙霧に代はつて、佳奈枝の問ひかけにはさう里也が答へた。彼の目には、申し訳なさそうに小さく頷く沙霧の姿が映つてゐた。
「なら良かつた。――あゝ、良かつたと云へば、元気さうで何より。お正月の時はぐつたりしてたからお姉さん心配してたけど、今日は顔色も良さゝうだし、安心したわ」
「ふむ、……確かに、今日はどうしたんだ。いつもはあんなにボサボサな髪なのに、お前ほんたうに沙霧か?」
と近寄つて屈んで、ヘアピンでまとめ上げきれてゐない前髪をはらりと掻き分けると、相変はらず真白ではあるが、暗がりに紛れて艷やかな光沢のある頬が見て取れる。心なしか色の薄い唇すらへんに扇情的で、情欲と云ふものをくすぐられる。
「こ、この一週間くらゐは早く寝てたから、……」
「ね、佳奈枝さん、だつてさ。早く寝るだけでこんなゝんの?」
「なんない、なんない。ほら、里也さん、少し退いていたゞける?」
「はい〳〵」
と佳奈枝も近寄つて来て、慣れた手付きで前髪を整えてやる。もとがもとであるし、今は褒められてはにかんでゐるものだから、たつたそれだけで余計に可愛らしくなつて行く。……里也は歳の離れた姉が、中学生くらゐの妹の面倒を見てゐる、そんな光景を見てゐるやうな心地で、ベッドに腰掛けてゐた。それにしても今日のやうに夫婦でこの家に来ると、時たまこんな微笑ましい光景に出くわす事があるのであるが、一体この二人が同い年だと誰が気がつくであらうか。沙霧は若く見えすぎてゐるにしても、佳奈枝もまた方々からまだ学生に見えるだのと云はれるほど若々しく、里也もうち〳〵ではその事を自慢にしてゐるのであるが、いざ並ばせてみると、やはり佳奈枝の方がお姉さんのやうに見える。しかも年々歳の差が開いてゐるやうに見えるのは、気のせいではあるまい。と云ふのも、佳奈枝は最近は母にならうとする傾向があるのか、食事をする時や夜の営みを終へたあとによく〳〵見てみると、肉付き(ししつき)のよくなつた二の腕などが目についてしまふのである。別にその程度で愛が変はることはないのだけれど、そんな老けて(別の色っぽい言葉に置き換える)行く妻の体つきを見てゐると、方や普通の人生を送つて来た女、方やいぢめを理由に塞ぎ込んできた女の、違ひと云ふものに慄然とするのである。先に微笑ましいと形容したけれども、里也にとつて義理の姉妹の戯れ合ふ光景は、一種のホラー映画でしかなかつた。
「髪の毛、やつぱり切つた方がいゝわね。綺麗には伸びてるんだけど、長さがまち〳〵で私ぢや上手くまとまんないわ。何なら私が切つてあげてもいゝんだけど、それだと里也さんの髪が大変なことになつてしまふし、……」
と、しばらく沙霧で遊んでゐた佳奈枝は、後髪を一束持ち上げながら云つた。
「なんで俺?」
「練習台」
「あ、さう。……」
まだ続く夫婦漫才に、くすりと笑つた沙霧の顔は、しかしすぐに顔をしかめたかと思ひきや、
「くしゆつ!」
と、見た目相応に可愛らしく嚔をする。
「今日は曇りだからそんなに飛んでなさゝうなんだが、やつぱりさうでもない?」
「……いえ、天気はあまり関係ありません。むしろ雨が降つてゐる時の方が、……あ、ふ、――」
と、またくしゆん! と嚔をする。彼女は毎年この時期になると、花粉症に喘ぐことになつてゐるのである。そして花粉に続いて、いや、かう云ふのは鶏が先か卵が先かと云ふ話でしかないけれども、何にも増して里也が気の毒に思ふのは、他にも林檎だとか枇杷と云つた果物もアレルギーで食べられないことで、昔はパク〳〵とたくさん食べてゐたゞけに、ひとしほ憐れに感じるのであつた。
「あゝ、ほら、ティッシュで鼻をかみなさい」
と、すん〳〵と鼻をすゝる沙霧に、佳奈枝がバッグの中から取り出したティッシュを渡した。
「すみません、ありがたうございます」
「このくらい別に感謝しなくていゝわよ」
「いえ、でも、――」
「いゝから、いゝから」
再び沙霧の言葉を遮つたことに里也は顔をしかめたが、素直に鼻をかみ始めた様子を見るに、沙霧にとつて佳奈枝はやはりそれなりに安心出来る相手であるらしかつた。
「あの、それで、……お二人は今日はどのやうな事情でお見えになられたのですか? 母から話がある、とは聞きましたが、……」
鼻をかみ終はつて、一同が卓袱台の周りに会した時に沙霧はさう聞いた。並びとしては右回りに沙霧、里也、佳奈枝と云つた風ではあるが、円形ではなく少しだけ楕円を帯びた机なので、里也の真左には沙霧が、正面には佳奈枝が、――と云ふ風に座つてゐた。が、しかし、佳奈枝は何か不服なのか、一度唸ると、
「それなんだけど、――」
と、立ち上がつて、壁際にまで近寄つて、
「でもその前に、やつぱり電気つけない? 切れてる訳ぢや無いでしよ?」
と、言ひつゝスイッチに手を伸ばした。やはり彼らを照らしてゐたのは小さな電球一つのみであつたのだが、パチリと云ふ音一つで眩しいまでに部屋が明るくなる。……
「待つて、待つて、佳奈枝さん。せめてカーテンを開けるだけにしてくれ」
「どうして?」
「沙霧がダメなんだつて。ほら、こんな感じに」
里也の言葉通り、沙霧は彼の体にその小さな身を埋めて、蛍光灯の白い光から逃げてゐた。しかし、それでも佳奈枝は問答無用と云つた風采(とりなり)である。
「里也さん、――いや、沙霧ちやん、今日の話つてかう云ふことなの。私たちはね、あなたにこの光に慣れてほしくてこゝまで来たの」
「それでも電気は消しといてくれ。慣らすなら陽の光からだろ。今日は曇りだし、そつちの方がショックは少ない、――」
「里也さんも、今日は一応の覚悟を決めて来たんぢやなかつたの?」
「それはさうだけど、とにかくカーテンを開けるだけにしてくれ」
「ふん、ほんつとに甘々なんだから」
と、佳奈枝は文句を言ひながらも電気を消して、少々荒つぽくカーテンを開けて、今度は沙霧の正面に背筋を伸ばして座つた。その沙霧と云へば、部屋に漂ふ雰囲気だけで何もかもを悟つたらしく、顔色を変へてキユツと小さく縮こまつてゐた。
「それで話つて云ふのはね、――」
里也から出来るだけ穏便にと云はれた佳奈枝は、しかし単刀直入にはつきりとした物言ひで喋りだした。先月から沙霧を連れ出したいと夫と議論してゐること、それは一日、もしくは半日だけで絶対に無理はさせないこと、行き場所については別にあなたの行きたいところでいゝ、それに行きたくなければ首を横に振つてもいゝこと、そして最後に、自分がどれだけ沙霧を思つてゐるかと云ふこと、連れ出した結果が何であれ、決して見放したりはしないこと。――中には里也も初めて聞いた内容が紛れてゐたものゝ、大体は昨夜も聞いた事柄ばかりであつた。下を向いて黙りこくつたまゝの沙霧に彼女の演説がどう聞こえたかは分からない。が、時たま鼻をすゝるのは何も花粉症のせいばかりではなからう、私は里也さんと同じくあなたがどうならうとも絶対に見放さない、彼の夫として、あなたの姉として、最後の最後まで見守つてあげるわ、あなたには私たちがついてる、と佳奈枝が云つた時、さつと目元を拭つたのを彼はこつそりと見てしまつてゐた。里也は未だ俯いてゐる沙霧の様子にある意味安心して、佳奈枝からティッシュを貰ひ受けると、膝の上で力なくもみ合つてゐる手にそつと乗せてやる。
「里也さんから何か云ふことは?」
「ふむ、さうだな、……」
と、里也は一つ二つ沙霧の不安を取り除く言葉を言はうと口を開いた。
佳奈枝は夫のこの上なく優しい声を聞きながらほつと一息ついてゐた。それは云ひたいことを言つた開放感もあるが、少々強めに言葉を云へた快感があるのも事実である。今日は優しく、兎に角優しく、里也が文句のつけやうも無いほど優しく、このしをらしく夫に凭れかゝつた女を遊びに誘はうとしてゐたのであるが、久しぶりに聞いた妙な敬語を聞くうちに、――いや、その前に、彼女がかはいく嚔をした瞬間にふつと、弱い者に向けるいたはりの心と云ふものが消えるのを感じた。代はりにやつてきたのは、イライラした気持ちであらうか、一度彼女の事が疎ましく感じると、鼻をすゝる音さへ煩く感じられる。――全く、この義理の妹を見てゐると、自分までもが昔に戻つたやうな心地がして良くない。佳奈枝は目を閉じて鼻をかむ沙霧と、それをいたく献身的な態度で労る里也を、時折下唇を噛み締めつゝ互ひ違ひに見てゐた。
カーテンのかゝつてゐ��い窓からは春らしくもない弱々しい光が差し込んでゐるのであるが、それでもいつも以上に部屋は明るい。さう云へば、さつきカーテンを開ける際に一瞬間外を眺めたところ、六甲の頂きと摩耶の頂きの、なだらかに連なつてゐる様子がちやうど見えたから、景観はかなり良い部屋のやうに思へる。部屋を与へられる際に里也が、いや俺はこつちの方が良いよと云つて、沙霧にはこの部屋が与へられたのを佳奈枝は昔聞いた事があるのだが、せつかくの眺めを殺してしまふのは非常にもつたいない。以前この部屋に来たのは去年の秋頃のことであつたから、その時も今のやうにカーテンを開けると、ぽつ〳〵と紅色に染まつた大地の肌(はだへ)が見られたのであらうか。二人が未だに互ひを慰め合つてゐるので、呆れた佳奈枝は目を離すと、前回は暗くてよく見えなかつた、横にだゞつ広い本棚を見つめた。と云つても、暇を潰さうにもこの部屋には本棚くらゐしか机の他に置いてゐないのである。中には意外と洒落た本たちが、きつちり背の高い順に整頓されてゐるのであるが、それ以上に気になつたのは大量のCD ケースで、三段ある本棚のうちの、下一段をまるごと埋めてゐるから数にして百枚近いはずである。聞くところによると里也がこの家を離れる際に、持つて行くのも面倒だからと全て明け渡したと云ふ。本棚の上は小物置きにしてゐるのか、猫の置物やら、丸い時計やら、丸太の形をしたトヽロの小物入れやらが置いてある。そして、さう云つた小物に隠れるやうに、隅の方に、静かに、誰にもその存在を悟られないように、一つの小さな写真立てがあつた。薄暗くてあまりはつきりとは見えないけれども、目を凝らしてじいつと見つめてみると、ちやうど今のやうな季節の節目だつたのか、立派な桜の木を背景にやんちやさうな男の子と、大人しさうな女の子とが方を寄せ合つてゐる。尤も、肩を寄せ合つてゐると云つても、女の子の方は男の子の胸のあたりにしか辿り着けぬ程小さいから、実際には手を繋いでゐるくらゐなのだが、二人とも同じやうな顔を同じやうに崩して、幸せさうな笑みを浮かべてゐる。それはかつて里也と沙霧が、両親に連れられて京都へ花見に行つた時の写真であらう。両者ともまだ色濃くその面影が残つてゐる。――なるほど彼女はこんなに自然に笑へてゐたのだな、佳奈枝は素直にさう思つた。そして、沙霧が時折自分に見せる笑顔を思ひ浮かべた。今まで見たことのある彼女の笑顔なぞこれに比べればずつとぎこちなく、時として里也が、今日は機嫌良かつたからつい撮つちやつたよと、子供のやうにはしやながら見せてくれる笑顔だつて、この写真の中の彼女には全く敵はなかつた。沙霧が笑顔を取り戻し、誰かに何を云はれやうとも動じること無く、社会に出て自然に振る舞へるやうにする。それが自分の務めであつた。それこそがこの憐れな少女に向けるべき愛であつた。佳奈枝は写真に写る陽気な二人を目に焼き付けると、努めて明るい調子で声をかけた。
以降の話し合ひは、急にいつもの調子を取り戻し初めた佳奈枝のおかげで、ずいぶん穏やかに進んだやうに里也は感じた。議題としては沙霧がどこへ行きたいか、と云ふものであつたが、本人が一向に自分から此処行きたい彼処行きたいと云はないから苦労はしたものゝ、
「ふむ、……ならもう日帰り旅行みたいな感じにしてしまへばえゝんやないの。俺だつたら、さうだな、……今なら天の橋立に行きたいのと、あとこれは去年行きかねたゞけなんだが、紅葉を見に行きたい」
と、里也が言つてからは、それなら昔から行つてみたかつた場所が、……と云ふ。たいそう恥ずかしさうにしてゐるので、さう急かさずに話を聞くと箕面の大滝を見に行きたいと云ふ。何でも昔、里也が大学の講義の一環で滝の高さを測つたことがあつて、その時の彼の話をまだ憶えてゐたらしく、一度は見てみたいと云ふのである。で、一度自分の事を喋つてしまふと枷が外れたのか、意外と色々な場所を挙げて行くので、里也はそれを、なるほど〳〵と云ひつゝ特に何も考へないまゝ、一つ〳〵メモに取る。一息ついた頃合ひに佳奈枝に意見を伺ふと、彼女は彼女で自分の行きたい場所を云ふ。それを聞いて、沙霧はさらに範囲を広げて自分の思ひついた場所を云ふ。そんな風に結局何も纏まらなかつたが、さうかうしてゐるうちに佳奈枝が母親に呼ばれて部屋から出て行つてしまつたので、残された二人は唐突に訪れた静寂に身を委ねてゐた。
「……沙霧」
と、しばらくして沈黙を破つたのは里也であつた。
「はい」
「お前、意外と行きたいとこあつたんやな」
「はい、………」
沙霧は久しぶりにたくさん話して疲れたのかぐつたりとしてをり、何をするわけでもなく、たゞ、机の上にあつた里也の指を摘んで、いじ〳〵と弄んでゐた。
「金沢行く前に、もつと軽い場所で慣らしておけば良かつたねんな」
「いえ、あそこはとても楽しかつたですから、……」
「なら良かつた。――ま、それはまあ、えゝとして、たぶん佳奈枝のことだから、俺みたいに甘くはあらへんぞ。知らん店にもズカズカと入るやろし、疲れたなら疲れたつて言はんと、立ち止まつてもくれへんし、……」
「……えゝ、一応は分かつてる、つもりです」
「さよか」
「………」
指をいじる手を止めた沙霧は目を閉じて、ゆつくりと深呼吸をした。
「沙霧はどうしたい? 行きたいんか、行きたくないんか。佳奈枝には言はへんから、正直に云うてみ?」
里也はさう問うたが、沙霧は依然として静かである。と云ふことは、何か遠慮があつて声を出しづらいと云ふことなのであるが、遠慮があると云ふことは、少なくとも肯定的な答へを持つてゐる訳ではなからう。先程の熱弁を聞いた手前、その弁を奮つた者がをらずとも、自分の意見を云ひたくない、況してそれが否定的ならば頭にさへ浮かべたくない、蓋し沙霧はさう云ふ心持ちなのである。
「やつぱりさうか、……」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
と、俯いて震へる。
「あゝ、いや〳〵、えゝんやで、沙霧はそれでえゝ。行きたくても、行きたくあらへんでも、別にどつちでも間違うてはゐないんやから」
と、里也は丸まつた背中をすり〳〵と擦つてやる。自分でも移り気であるとは理解してゐるけれども、かうも簡単に、やじろべゑのやうに佳奈枝の味方についたり、沙霧の味方についたりするのは大変よろしくない。かと云つて、どちらか一方に一方的に着くことも、やはり出来はしない。強いて自分が出来ることゝ云へば、出来るだけ穏便に事が収束するよう佳奈枝を説得しつゝ、少しでも沙霧を外の世界に慣れさせることなのであるが、やる気になつた妻は何を云つても頑なに意見を曲げぬし、やるならとことんやらなければ気がすまぬのである。恐らくこの外出は彼女にとつて最も辛い外出となるであらう。彼女の内気な性格も、人見知りな気質も、内向型の性質も理解出来ない佳奈枝は昨晩、矢面に立たせるやうな真似をさせるとも云つてゐた。問題なのは「させる」と云ふことなのを妻は分かつてくれない。沙霧のやうに、自分の意見すら上手く云へない人には、――それが例へ間違つてゐたとしても、まず自分の意思で行つたことを称賛してあげなければいけないと云ふのに、受け身な態度を取らせ続けては根本的な解決にはならないはずである。だから里也は、この一二週間は、何処其処に行かうかしらんと楽しげに云ふ佳奈枝を止めて、沙霧の行きたいところ、いや、場所はどこであれ、まずは彼女のやりたいことを優先させよと、何度も〳〵云つてゐたのであつた。さう云ふ点で云へば、先程の話し合ひは上手く行つたやうな気がするのである。実のところ沙霧が挙げた場所は、ちやつとばかし遠かつたり、ほとんど登山しなければいけなかつたり、訪ふのに手続きが必要だつたりと、種々の理由で面倒くさい場所が主であつたけれども、佳奈枝も里也も一々突つ込まず、むしろ彼らも一緒になつて色々な場所を挙げてゐた。が、それは里也が前日に口酸つぱく忠告したおかげであつて、さう長くは続かないであらう。沙霧には彼是(あれこれ)させたい、可愛い子には旅をさせよとはよく云ふではないか、彼女にはそも〳〵の経験が足りないのよ、と云ふ佳奈枝を思ひ出すと、里也はやはり妻を完全に信用することは出来ないやうな気がした。いつたい、自分が味方についてやらなければ、沙霧の傍には誰が居てやれると云ふのか。佳奈枝には知り合ひも大勢居るし、家族関係だつて良好であるし、もつと云ふと里也の両親にすら好かれてゐる。が、沙霧の味方とは、自分を除けば一体誰が居るのであらう。今、佳奈枝は彼女のことを思つて色々と尽くしてくれてはゐるけれども、それが少しズレてゐるせいで、このまゝ事が進めば妻もまた加害者になつてしまひかねない。さうなると、もちろん沙霧にとつては不幸であるし、佳奈枝にとつても気持ちの良いものではなからう。滅多に泣かない佳奈枝が、あれほど簡単に涙を見せるのだから、相当に沙霧を思つてゐるのは確かである。連れ出すのを止めるのは難しいにしても、妻が加害者になるのだけは何としてゞも止めなければならない。
「ま、でも、まだすぐにとは決まつてないから、しばらくのんびりしてな。そのあひだに佳奈枝もずいぶん穏やかになるだらうし、沙霧は沙霧で心の準備が要るだらう」
里也は依然として小さく丸まつたまゝの背中を摩りながら云つた。佳奈枝が穏やかになるかどうかは分からないが、時間があると云ふことは、これからゴネるであらう自分を思ふと、確かであつた。いや、むしろ、外に出るのに詳しい日時と充分な準備期間が無くてはならない沙霧のために、これから彼は子供じみてゞもゴネなければならないのである。彼ら夫婦からすると数週間前から持ち上がつてゐる話ではあるが、沙霧からすると今日が初めてなのだから、せめてゴールデンウィークまでは引き伸ばしたい。里也は手のひらに感じるぼんやりとしたぬくもりを大事に仕舞ひつゝ、すつと立ち上がると、もうすつかり暗くなりかけてゐる外を眺めてからカーテンを閉じた。とある文豪の小説によると、かつてはこの辺りから、頂上のホテルに灯の燈つてゐるのが見えたさうなのであるが、今ではすつかりボロボロの廃墟になつてしまつてゐるし、今日はたうとう一度たりとも星と云ふ星を眺めずに終はつてしまつた。カチツと云ふ音がしたので振り返ると、沙霧が机の上の小さな灯りを灯したらしく、赤々と照らされた真白な顔が見える。
「それにしても、今日はようあんなに喋つたわ。遠くて行けへん場所もあつたけど、いつかは行かうな。――佳奈枝には内緒で」
返事は返つてこなかつたが、頬が赤く染まつてゐるのは何も白熱灯の色味だけでは無いやうであつた。
「里也さん、これ食べてみてよ、これ、これ、これ! 美味しいから!」
「はい〳〵」
と、佳奈枝が取り皿をぱつと差し出すので、里也はそれを受け取る。彼は今しがたまで沙霧といちやついて(点々)ゐたのであるが、いつものやうに佳奈枝にご飯よと呼ばれて、先程のしんみりとした雰囲気が嘘のやうに騒がしい食卓に座つてゐた。彼女はその時に二人のごつご遊びを見てしまつたので、少しだけ機嫌が悪いのである。皿の中には舞茸を豚肉で巻いて、それからたぶん蒸したものが一本だけ転がつてゐた。地味な色合ひではあるけれど、胡麻の風味が嫌に漂つて来て、なか〳〵美味さうである。が、里也は苦い表情を露骨に見せて、
「俺、そんなにきのこ好きぢやないんだけど、……」
と、くす〳〵と意地悪く笑ふ佳奈枝に向かつて文句を云つた。
「うん、知つてるわ」
と、彼女は変はらず笑つた。彼は好き嫌いは昔から無いやうなものゝ、きのこ類だけは出来ることなら口に入れるのを憚つてゐるのである。何と云つても、あの食べ物らしからぬ色と、形と、それに口に入れた際のぷよ〳〵とした食感が苦手で、同じくきのこ類が嫌いな沙霧と共に、昔はよく母親に文句を云つたものであつた。里也の憶えでは、彼女は小学生の時にはよく食べてゐたやうな気もするのであるが、いつ頃のことであつたか、彼が椎茸の煮物を前に顔をしかめてゐると、実は私もそんなに好きぢやなくて、……としごく恥ずかしさうに云ふので、それからはきのこ嫌い同士でゐるのである。が、そんな沙霧はと云へば、
「まあ兄さん、好き嫌いは良くありませんよ。あーんしてあげませう」(テンションが高すぎる。要修正)
と云ひながら、彼がテーブルに置いた取り皿を横からくすねる。彼女は両親から逃げるやうにして里也の隣に座つてゐるのであるが、先程彼といちやついたおかげで大方復活したのか、よく喋るやうになつてゐる。実際には、佳奈枝に呼ばれた手前、そして、遠慮したけれども一緒に食べようと連れ出してくれた手前、場をしらけさせないよう少々無理をしてゐる感じではあるけれども、本人はそれなりに楽しんでゐるやうであつた。
「こら、やめなさい。……やめろつて! ――あゝ、もう! あー、……」
と里也の開いた口に、件の巻物が放り込まれる。
「美味しいですか?」
と里也が口の中の料理を飲み込んだ段階で沙霧が聞いた。
「……食べてみれば分かるよ」
と、彼は小高く積まれてピラミッドのやうになつてゐるところから、ポロツと一個取つて来て、
「ほら、沙霧も口開けて。分かてゝ俺にきのこを食べさせたんだらう?」
「うゝ、……兄さんのいぢわる。……」
「いぢわるなのはどつちぢやい」
沙霧は文句を云ふのを止めて、目を閉じて、小さく口を開けて、その時を待つた。が、待てども〳〵、一向にその時が来ない。……
「ふつ〳〵、そんな縮まらなくてもえゝやん」
そんな笑ひ声が聞こえて来たので、恐る〳〵目を開けた沙霧は、もぐ〳〵と口を動かす彼を見るや、
「もう、兄さんつたら、……ほんたうにいぢわるなんですから」
と云つて、ふゝゝゝと笑つた。
当然、佳奈枝からするとこんな光景を見せられるのは面白くない。あなたきのこ類はダメだつたんぢやありませんでしたつけ? と一言くらゐ云ひたくもなつてくるのであるが、それ以上に気になつたのは、沙霧の態度であつた。里也の話では、彼女は食事の際にあまり話をしないたちであるらしいのだが、自分が見る限りでは、いつだつて彼と楽しげに話してゐるのである。それも、自分はあまり食べずに、ポイポイと里也の口の中へ料理を放り込んで行く。佳奈枝はこの家に来た時には、久しぶりに会ふことになる義両親の相手をしなければならず、毎回心をざわめかせながらも、二人のいちやつくのを見てゐるのみであつた。だが今日は、さつきまで料理を手伝ひつゝ話してゐたから、いくらか手持ち無沙汰である。
「里也さん、里也さん、再来週のラフマニノフの話してくれた?」
と、ちやつとしてから彼女は二人の仲に割つて入つてやつた。
「おつと、忘れてたわ。沙霧、再来週にな、――」
「私が説明するわ」
「なら、よろしく」
さう云ひながら里也が日本酒の杯を片手に、すつかり背もたれに凭れかゝつてしまつたので、佳奈枝は好機とばかりにぐいと身を乗り出して、未だ彼の顔を見つめてゐる沙霧に向かつて喋り初めた。――
「沙霧どう? 行きたい? ラフマニノフの一番なんて、あんまりないから良いと思つたんだが、……」
パンフレットを見せながら一通り説明し終はつた頃合ひに、それまで静かにしてゐた里也が入つて来た。
「あつ、えつと、……」
「沙霧ちやん?」
沙霧は里也の顔と佳奈枝の顔とを交互にチラリ〳〵見てゐた。
「どうしたの?」
「いえ、その、……兄さん」
と、今度は里也に助けを求める。
「あ、ついて行くのは俺だけな」
と里也が云つた。そして、ほら、行かう、行かう、沙霧はラフマニノフ信者やろ、行きたくないとは言はせんぞと、彼にしては少々無理やり誘つてゐるのであるが、顔は赤いし、口調はやたら砕けてゐるし、顔はニヤけきつてゐるし、どうもすでに酔つてゐるやうであつた。一体、酒に関しては彼はめつぽう弱く、ともすれば沙霧の方が強いと云ふ風で、彼女は彼女で里也に注がれるまゝ飲んでゐるのだけれども、一向に酔う素振りを見せないのである(緊張してるから酔わないだけ)。
「な、沙霧、行かうぜ。お兄ちやん久しぶりに沙霧とコンサートに行きたいなあ」
「はい〳〵、里也さんはもう喋らなくてよろしい。で、沙霧ちやんはどうしたい?」
と佳奈枝は里也を再び椅子に凭れかけさせて、沙霧にさう問うたのであるが、彼女は、
「あ、それは、ラフマニノフは好きで私もよく聞いてゐて、このあひだはピアノ協奏曲を、――」
と脈絡のない事を云ひ始める。
「うん?」
「えゝと、ですから私はラフマニノフの曲が好きで、ピアノ協奏曲もさうで、ひいては、……」
「沙霧ちやん?」
「あえ、えと、せつかくのコンサートですから、お姉さんは、……」
「いや、私のことはいゝから、沙霧ちやんがどうしたいか云つてくれるだけでいゝんだけど、……」
沙霧が未だに良くわからない事を云つて返事を返してくれないので、佳奈枝はさう云つてみたのであるが、
「あ、さうぢやなくつて、……えつと、ごめんなさい」
と、無理やり打ち切られてしまつた。一対一だとたまにかうである。里也に対しては、こんな賑やかな食事の場であつても中々流暢に話すのであるが、佳奈枝を前にすると言葉が詰まつたり、変な声を出したり、このやうに脈絡も無いことを云ふ。夫はまだ慣れきつてゐないんだよと云ふけれども、もう三年目の仲なのだから、まさかそんなことは無いだらう。人間、数ヶ月に一回程度とは云へ、三年も会つてゐれば慣れも緊張も何もない、自然に話せるはずである。いや、そも〳〵最初に会つた時には今以上に話が弾んでゐたのだから、彼女はそんなに会話が苦手ではあるまい。佳奈枝は期待も込めて、頭を垂れる沙霧をじつと見つめてみたのであるが、彼女は振り向きもしない。さう云へば、まだ目も全然合はせてくれないのである。そのくせ、例の「夫婦ごつこ」の際には、これ見よがしにこちらを見てくるのであるが、それはどうしてかしらん? 状況が状況だけに、里也を奪つたことを恨んでゐるのかしらん? それとも彼女にも悪いことをしてゐる自覚はあつて、申し訳なさゝうにしてゐるだけかしらん? どちらにせよ、目くらゐ、さう恥ずかしがらずに合はせてくれたらいゝのに。でも、さう云ふ臆病とも云へるほど奥ゆかしいところが、夫の好みなのであらうと思ふと、佳奈枝は少しばかり沙霧が羨ましくも妬ましくも感じるのであつた。
「そんな、何も難しいこと考へずに、感じたことをそのまゝ云へばいゝのよ。ふゝ、沙霧ちやんはほんたうに恥ずかしがり屋ね」
「……すみません」
「俺が思ふに、沙霧はたぶん行きたいんだよ。――」
酔ふのも早ければ冷めるのも早い里也は、杯を持つたまゝ座り直して言葉を続けた。
「かう云ふ場だから、考へが上滑りして上手く言葉にできないだけで、頭の中ではちやんと分かつてるんだから、まあ、さう急かすなや」
「さうなの? いや、里也さんに云つたんぢやなくて、行きたいつて云ふのはほんたうなの? 沙霧ちやん」
「は、はい。……」
「ほんたうに?」
「出来れば、……」
そこでくつ〳〵と里也が笑つた。
「さう云ふことだから、沙霧、再来週の十一時頃に迎へに来るからそのつもりで。それよりも今は食べよう。佳奈枝が微妙なところで話を切り出すから、鯛めし冷めてしまうたやん。……」
と、里也は茶碗に目一杯盛られた、醤油色にぬら〳〵輝く鯛めしを口へ放り込むと、それにしてもめつちや美味いなこれ、と嬉しさうに感想を述べた。
この家に来ると夫婦は中々帰らせてくれないのであるが、今日もそんな調子であるらしく、父親に捕まつた二人は中途半端になつてゐた旅行の話をさせられてゐた。で、それが終はると、老夫婦を放つておいて、今度は沙霧と一緒に、これまた中途半端になつてゐた日帰り旅行の話をしようと、一人もそ〳〵と煮物をおかずに鯛めしを食べる沙霧に話しかけた。彼女は里也が食事を終へる頃になつてやうやく自分の料理に手をつけ始めたのであるが(もちろん夫婦ごっこ)、いつにも増して味はひながら食べてゐるらしく、米粒を一粒〳〵口に入れるが如き食べやうなのである。そんな折に話を振つたら余計に食事が進まないので、里也は時折首を振る程度の質問は投げかけながら、極力佳奈枝と話してゐるのであつた。沙霧ちやんは静かなところがいゝんだよね、せやけど意外と騒がしくても慣れてる場所ならついて来るで、慣れてる場所つてどこよ、神社とかたぶん上賀茂下賀茂伏見稲荷あたりは来るんぢやね、なるほどさう云ふ場所ね、あと昔行つた場所とかもいゝかもしれんな、いゝわねそれけど云うて私君らがどこに行つたことあるか全然知らないけどね、追々云ひますわ沙霧はそんな感じでもいゝ?――と、例を出してみれば夫婦はこんな会話をしてゐるのであるが、当の本人はもう話し疲れてしまつたのか、うん〳〵と頷くばかりで要領を得ない。さう云へば、そろ〳〵夜の九時であるから、いつもだつたらもう里也に促されて自室に籠つてゐる時間である。彼女にしてみればもう限界と云つたところであらうか。別にその気持は分かりはしないけれども、行き先も決めずに逃げられるとこゝまで来た意味が無いので、佳奈枝は小用から帰つて来た折に、ちやうど空いてゐた沙霧の隣の席へ腰掛けた。里也が邪魔でよく見えてゐなかつたのであるが、見たところ、彼女は粗方自分の分を食べ終へてゐるやうである。
「ねえ、さつちやん、お姉さんと一緒に京都へ新緑でも見に行かない?」
佳奈枝は沙霧のことを「さつちやん」と呼ぶことがあつた。
「新緑、……ですか?」
「そ、新緑。紅葉の逆ヴァージョンみたいな? さうでしよ? 里也さん」
「さう〳〵、下賀茂の糺の森とか、ちやつと遠いけど今宮神社とか、紅葉が綺麗なところはだいたい綺麗なんぢやなからうか。それに春とか秋とは違つて、初夏だと人が少ないから、沙霧にも行きやすいと思つたんだが、……」
自分では行つたことは無いがと云ふ口調であるが、実際彼は京都と云へば春の花見くらゐしか行つてゐないのである。が、だいたいの光景は目に浮かんでゐるから、賑やかさを求める佳奈枝のたちと、静かさを求める沙霧のたちを考慮すると、新緑の季節の京都と云ふのはちやうど両者の中間を縫つてゐるやうで、中々良いのではないだらうか。――と、彼は思つてゐるのである。
「わ、わたしは、――」
「さうだ! 里也さん〳〵、アレ持つて来てるでしよ、アレ。貸して〳〵」
アレと云ふのは里也がいつも肌身離さず持ち歩いてゐるタブレット端末なのであらう。里也はふらりと立ち上がつて、それを持つて、またふらりと元に戻つて来くると、沙霧の眼の前に置いて、けれども慣れた手付きで扱ふ。
「さつき云つてたのつて、どこだつけ」
「貴船と祇王寺と瑠璃光院」
「待つて、待つて、ひとつずつお願ひします佳奈枝さん。あと貴船神社は遠いから却下」
「えー、……里也さんが行くわけぢやないのに。……でも〳〵、瑠璃光院は行きたい。定番でしよ」
「瑠璃光院は〝映える〟から、時期が外れてるつて云つても、人多いだらうなあ。……もう一つはなんて名前だつたか」
「祇王寺。里也さんも行つたことあるわよ。もしかして憶えてらつしやらない?」
「あゝ、なるほど、こゝのことね。佳奈枝が石に躓いて転びさうになつたから、よく憶えてるよ」
と、写真を眺めつゝ里也が云つた。
「もう、忘れてよ。せつかく忘れてたのに」
「ふつ〳〵〳〵、いやあでも、派手に転けなくてよかつた」
と、里也は笑ふのも程々にして、「京都 新緑」と検索窓に打ち込む。時節柄、新緑と云ふよりは桜の開花に話題が集まるやうな気がしたが、もう今年向けのペーヂはあるらしい。可愛らしい春の雰囲気から一転した、青く美しい様子が映し出される。写真だから、実際にはいくらか感じ方は違ふだらうけれども、青々と生ひ茂るもみぢの木と苔は、秋には見られない美しさを醸し出してをり、何より目に優しいのは真夏ほど日差しが強くないからだらうか、それでも至極鮮やかに、葉と云ふ葉が照らされてゐる。殊に神社の朱色とのコントラストが素晴らしい。なるほど、これはもしかしたら、物凄くいゝ提案をしてしまつたのかもしれない。――里也は内心得意になりながら、佳奈枝と共にペーヂを手繰つてゐたのであるが、ふとその時、
「兄さん」
と、自分を呼ぶ声がすぐ傍から聞こえてきた。
「ん? どうした」
「あの、えと、……ら、ら、……」
「うん?」
「えつと、……あ、やつぱりなんでもないです。……」
「おう、さうか。――それより沙霧、俺のカメラ貸すから写真撮つてきてくれないか? 俺も行きたいのは山々なんだが、たぶん止められるんでな。……」
「それどう云ふことよ」
と佳奈枝が云つた。
「お前らについて行つていゝ?」
「ダメ」
「ほらな。だから沙霧頼んだわ」
「沙霧ちやんにお願ひしなくても、違ふ日に里也さんも行けばいゝぢやない。今年のゴールデンウィークは長いんでしよ?」
「まあ、せやけど、どうも京都は気軽に行けすぎていかんねん」
「ふ、ふ、なにそれ」
「京都より奈良の方が行きたくならない?」
「なんないわよ、遠いから。ところでこの常寂光寺つてとこもいゝわね」
「ふむ、たしかに。さつきの祇王寺とも近いし。――あゝ、と云ふことは嵐山の辺りなのか。もうそれなら二人とも、嵐山周辺でも散策すればいゝんぢやないの」
――と云ふ里也の提案に佳奈枝がそつくり乗つたので、二人の姉妹の日帰り旅行は嵐山周辺の散策になつたのであつたが、彼女としてはもう少し練り歩きたいらしく、話し合ひはそれからもしばらく続いた。
「沙霧、俺らそろ〳〵帰るからな。――」
と、里也は、夫婦に挟まれていつの間にか眠つてゐた沙霧を部屋に送り届けた後、ベッドに寝かしつけながら云つた。
「……はい。兄さんお元気で」
「再来週の日曜、――たしか七日か、十一時すぎくらゐ、……遅くても十二時までには迎へに行くから、……あー、そんで、その後は佳奈枝に色々してもろて、ご飯食べて、俺と一緒にシンフォニーまで行つて、ラフマニノフ聞いて帰つてくるだけやから、ま、そのつもりで居てな」
「……分かりました」
「よし。ぢやあ今日はこんなもんで。今日はよく喋つたし、よく食べたし、よくこの時間まで下に居たよ、えらい〳〵、――」
と、沙霧の頭を撫でてやる。
「今日はもう寝るねんで。分かつたな? それぢや、ばい〳〵沙霧。――」
と、沙霧がなよ〳〵と手を振り返してくれたのを見てから、里也は階下に下りて行つたのであるが、今一度両親に佳奈枝が捕まつてゐたので、まだ帰らせてくれないやうな気がした。
「それにしても今日は、――」
と、帰りがけ、阪急の駅に向かつて歩いてゐる時に佳奈枝が口を開いた。
「私も沙霧ちやんと話ができてよかつたわ。いつも里也さんに取られつぱなしだもの」
「本人は死ぬほど疲れてると思ふけどな」
「ふゝ、でも楽しかつたわ。この調子で京都も無事に済むといゝわね」
「お手柔らかに頼むよ。ほんまに、――」
彼ら一家が夕食を食べてゐるあひだに雨が降つたのか、街頭の明かり、車の明かり、信号機の明かりで道がてら〳〵と光を帯びてゐた。里也は冷やゝかな夜風を頬に感じながら、酔いどれた足で角を曲がり〳〵して開けた場所に出ると、空を仰いで見えるはずの無い真白なお月さまを見ようと目を欹(そばた)てた。
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kkagtate2 · 6 years ago
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偽善者の涙[三]
[三]
翌週の土曜日、里也と佳奈枝は梅田に降り立つた後、昼食をしたゝめて「シンフォニー」へと向かつてゐた。途中、地下道を抜けるまではガヤ〳〵と人の喧騒で話し声も通りづらかつたけれども、グランフロントを遠くから眺めるやうになる頃にはその喧騒もどこかのどかに聞こえる。梅田からシンフォニーホールまでは意外と距離があるのである。かと云つて、別段バスを利用するほど離れてはゐないので、眠くなつちやわないようにと佳奈枝の提案で歩いてゐるのであるが、しかし歩くとなると十五分ほどかかつてしまふ。里也はだから、沙霧と来る時は彼女が機嫌を損ねないように気を張り詰めなければならず、このホールに関しては佳奈枝と来た方が気が楽であつた。何より昔、午前中にあつた練習を終えて、楽器を背負つたまゝよく二人で歩いたものだから、かうして歩いてゐるとその思ひ出が、ふとした拍子に頭に思ひ浮かぶのである。たぶん佳奈枝もそれは同じなはずで、だからこそ歩かうと提案したのであらう。今はもう楽器を開くこともしなくなつてしまつたし、互いの関係も、呼び方も変はつてしまつたけれども、この城下町のやうな街を歩きながら音楽の話題に花を咲かせるのは、今も昔も変はつてはゐない。
「私はさうでもないんだけど、シンフォニーは里也さん久しぶりなんぢやない?」
コンビニのある角を曲がつて、ホールがもうそろ〳〵見えて来ようかと云ふ頃合ひに、佳奈枝が聞いてきた。まだ二月も半ばであるので着込んだ彼女は、丈の長いコートに片手を突つ込んでツカ〳〵と歩いてゐるものゝ、今日はどこかお上品である。女性のファッションに疎い里也にはそれくらゐしか分からなかつたが、聞くところによるとやつぱりクラシックのコンサートは一定の格があるのだから、適当な装いで無ければならないと云ふ。彼もその意見には賛成してゐるのだが、少々行儀が良すぎる気もする。
「うーん、……半年ぶりくらゐ? 前はいつ来たんだつけ?」
「あれぢやない? ほら、夏にあつた、ロシア響のチャイコフスキーを聞いた時」
「あゝ、ぢやあ、ほんたうに半年ぶりつて訳か。さう云へばあの時も五番だつたやうな気が、……」
「さう〳〵。メインはチャイ五だつたけど、あの時は前曲が火の鳥だつたわ。覚えてる?」
「覚えてる〳〵。第四楽章でトランペットが例の八分音符を鋭くタンギングしてくれたから、あの演奏には何の文句も無い」
例の八分音符とはチャイコフスキーの交響曲第五番第四楽章の再現部、具体的に云へば三百五十七小節から数小節間続くトランペットの八分音符のことなのであるが、昔から言つてゐるので「例の八分音符」と云へば、どの八分音符のことなのか分かつてくれるものゝ、その良さは未だに分かつてくれないのである。
「確かにあそこを鋭く吹くとキユツと引き締まりはするけど、引き締まりすぎであんまり好みぢやなかつたわ。里也さんもゝう少し大らかに生きて行かうよ、真面目すぎるのも疲れるでせう?」
「……そんな真面目でも無いんだけどな。それにしてもあの演奏は良かつたなあ。相変はらず化物みたいなオーケストラだよ、あれは」
「ふゝ、化物つて、確かにさうだけど、ふゝゝ。……あつ、でも良かったのに、沙霧ちやんは結局来なかつたね。ロシアだつたから、沙霧ちやんこそ来るべきだつたのに、……」
「まあ、色々あつてな。……いまさらだけどチケット持つてるよな?」
話しながら歩いてゐると、いつしか二人はシンフォニーホールの正面入口にある階段に足をかけてゐた。開場から十分ほど経つてゐるせいか、すでにぞろ〳〵とお客が入つてゐて、タクシーも数台眼の前の公園前に止まつてゐる。里也は他のお客の邪魔にならぬよう、柱の陰に佳奈枝を誘導して自身もチケットを取り出した。いつもこの瞬間は妙に気分が高まるものである。一人で来ても、佳奈枝と来ても、沙霧と来ても、かつてのサークル仲間と来ても、それは変はらない。演奏が楽しみだからと云ふのもあるけれど、今自分の周りに居る者たちがみんなクラシック好きで、みんな自分と同じやうな表情を浮かべて、みんな音楽の話題で盛り上がつてゐると云ふ状況がたまらない。昔はまだ大学の交響楽団に在籍してゐたからよかつたものゝ、もう今となつてはクラシックが好きですと云ふと、たいていの場合、云つたゞけになつてしまふか、高尚な趣味を持つてゐるかのやうな反応をされてしまふ。確かにワーグナーの歌劇あたりはさう〳〵理解出来ないし、音楽理論やら歴史やらの知識もあるに越したことはないけれども、音楽と云ふものはその上で感覚的なものなのだから、もつと気楽に聞けばよいのである。今ホールに入つていく人たちもさう云ふ人がほとんどであらう。実のこと里也自身も知らないものは知らないとして、ただ感覚で聞いてゐる時がある。けれどもそれでいゝのである。クラシックだからと云つて何も身構える必要など無いのである。里也はいつもさう云ふのであるが、けれども未だについてきてくれた人がをらず、結局佳奈枝と沙霧だけしか話し相手がゐないのであつた。
「席どこやつけ」
受け付けでもらつたパンフレットを袋に入れながら里也は聞いた。
「二階の後ろ真ん中あたり。いつもと一緒な席」
「あゝ、あのあたりね。了解」
と分かつた風に答へてから、佳奈枝について行くやうにして階段を上り初めたのであるが、先程まで我先にと歩いてゐた夫が、今度は一歩下がるやうになつたのに気がついたのであらうか、 階段を登りきつたちやうどその時、佳奈枝はふと足を止めてニヤリと笑つた。
「もしかして里也さん、まだ覚えてゐないの?」
「久しぶりだと思ひ出せないもんなんだよ。ほら、邪魔になつてるから行つた〳〵」
と急かすと佳奈枝は呆れた顔をしながらも、仕方ないと言つて、里也の腕を軽く取つた。一体全体シンフォニーホールは迷いやすいのである。入り組んだ階段に、親切でない標識に、ごつた返す人々に、代わり映えしない壁など、よくホールスタッフに案内されているお客を見かける。殊に二階席だと云ふのに、なぜか三階へ上がらなければならない場合があるのは、さすがに弁護のしやうが無い。その昔沙霧と来た時、彼女がトイレに行くと云ふので一人歩かせたところ、見事に迷つて開演直前になつてやうやくスタッフに連れられて帰つてくる、と云ふこともあつた。しごく恥ずかしさうにして、同じ公演があるならこれからは京都の方に行きませう、もうこゝは嫌です、もう来ませんと、珍しくはつきりとものを云ふ彼女を宥めるのは大変だつたけれども、それほどこのホールの作りはやゝこしいのである。残響二秒を唄ふのは良いのだが、残響のために犠牲にしたものが多すぎる、トイレの数だつてあまりにも少なすぎるし、そのせいでショップやカフェの前は常に渋滞してゐるし、そもそも交通の便が良い場所に立地してゐる訳でもない。さう云ふこともあつて里也は「シンフォニー」が嫌いで、実を云ふとあまり足を運びたくはなく、同じ公演があるなら京都の方、具体的には京都コンサートホールへ向かいたくなるのは、沙霧と同じであつた。少し遠いと云ふ不便さはあるけれども、あちらは駅を降りれば眼の前にあるし、螺旋状のスロープを登れば広々としてゐて大ホールまで迷うことはないし、トイレの数は数えるまでもなく多いし、何よりホールとロビーを隔てる〝間〟が素晴らしい。彼も沙霧に云はれるまで気が付かなかつたのであるが、京都コンサートホールにはさう云ふ〝間〟があつて、薄暗い間接照明に照らされたそこに入つた途端、ロビーの賑やかさは聞こえなくなり、人の世から切り離されたやうな感覚でホールに入る事が出来るのである。また、演奏が終わつた後も余韻に浸るのに都合がよく、自分の感情は自分の中で消化するたちの里也と沙霧は、いつもしばらくその〝間〟の隅で佇んだ後やうやく一言、そろ〳〵帰るかとだけ云ふ。シンフォニーホールではさう云ふことは出来ない。ここは佳奈枝のやうに、互いに感想やら評論やらを云ひ合ひながら帰路につく質の人のためのホールであるやうに思へる。常に賑やかで、人の波に飲まれて、気分も何もあつたものではない。
だから里也は今日の演奏もほんたうは京都コンサートホールで聞きたかつたのであるが、生憎のこと若干プログラムに違ひがあつたし、佳奈枝はシンフォニーホールの方が良いと云ふし、それにいくら好きでは無いと云つても、残響二秒を実現したその拘りには脱帽するしかない。きつと今日も素晴らしい演奏を響かせてくれるであらう。里也は子供心にワク〳〵しながら、佳奈枝に導かれるまゝにホール内へと入つて行つた。
「ほんたうにいつもの席やん。そろ〳〵飽きてきたわ」
と里也は腰を下ろしながら、もうプログラムを眺めてゐる佳奈枝に言つた。
「いいぢやないこの席、色々座つたけど結局こゝが一番だよ」
「そんな色んなとこになんの?」
「さうね、安い席だとあつちの、――」
と舞台横にある席を指さした。
「――方だつたり、悪い時には上の隅にもなることもたまに。でも舞台横の方は木管群が真横から見えて面白いから、私はけつこう好きよ?」
「へえ、さうなのか。お前が木管楽器のことを考へるなんて、よつぽどなんだな。ま、でも俺はやつぱりこゝが良いな。何より落ち着くし、――」
と、次の言葉を云ひかける前に佳奈枝が口を開く。
「あ、先輩〳〵、これ見てよこれ」
「はい〳〵、なんですか佳奈枝さん」
佳奈枝は笑ひをこらえながら、プログラムの一つである「モルダウ」をトン〳〵と指で叩いてゐた。
「沙霧ちやんが見たらすつごく怒りさう」
「ふつ〳〵〳〵、確かに。……モルダウでは無いです、ヴルタヴァです、つて絶対に云ふだらうな、あいつ」
「あはゝゝ、確かに云ひさう。別に、モルダウでも間違つてはゐないのにねえ。……」
「あゝ、でも今日はチェコのオーケストラなんだから、ちやんとヴルタヴァつて書いて欲しかつた。だつてスメタナはモルダウなんて曲は書いてないんだから。ドイツの色を混ぜるんぢやあない」
「まあ! 先輩までそんなこと言つて! ……それはそれとして沙霧ちやん、元気さうにしてた? 前会つた時は相変はらずしよんぼりしてたけど、……」
と佳奈枝の顔もしよんぼりとする。妻は相当沙霧のことを気にかけ���ゐるのか、彼女のことになるといつも我が身のやうな口ぶりになるのである。
「んー、そんなにひどくは無かつたな。むしろ、……あー、うちの母親と面した時以外は始終上機嫌だつた」
「さう、……ならいゝんだけど。あの子、まずは自分の感情をコントロールする必要があるわね。でもどうしてあんなに浮き沈みが激しいのかしらん。……」
「たぶん自分の内面の世界が広いからなんだと思ふ。俺にもまだ萎縮してるところがあつて、あれでもまだ語り足りないやうな、そんな気がするんだよな」
「なら言つてくれたらいゝのに。私、考へ事つて人と話しながらするものだと思つてるの。だから彼女もゝつと自分を打ち明けて、――」
「それが出来ないんよ。俺も沙霧寄りだから分かるんだけど、人と話をする時は一言ずつ噛み締めていかないと、もう訳が分からなくなつてしまつて、だから議論つて苦手なんだよな。たぶんその傾向が沙霧は滅茶苦茶強くて、人と話しながら考え事をするなんて、たぶん東大に合格するよりも難しく感じてるだらうよ、つて云ふか昔本人がほんたうにさう言つてた」
「へえ、さうなの。でも里也さん議論が苦手つて云ふ割に今はえらい饒舌だね」
佳奈枝が覗き込んで来たので、里也は鬱陶しさうに目を舞台の方へ向けた。別に誰も居る訳では無いが、椅子に凭れかゝつてゐるコントラバスの、あのニスの鈍い輝きを見ていると、かつての興奮と情熱が蘇つて来て懐かしい。昔はあの楽器と音程を合はせなければならず、音が細い〳〵と云はれた記憶しか無いけれども、今となつては良い思ひ出と云へやう。
「そりや、沙霧とは似てる部分があるかもつて思つて、よく考へたからな。議論すると云ふよりは、それを吐き出してるだけ。俺たちつてたぶんさう云ふ人類なんだらうよ。一人になる時間が無ければ生きていけない。沙霧は特にさうなんだ、きつと」
「でも寂しくならないのかしら���もう中学を卒業してからほとんどずつと一人なんでしよ? 里也さんも、一人で居て寂しくならないことはないんでせう?」
「ある程度はあかんね、やつぱり。でも思ふに、あいつは一人で居て寂しいなんて思つてないんぢやなからうか。俺でも一週間やそこらは人と会はなくても平気なんだから、沙霧の場合一ヶ月や二ヶ月は大丈夫で、昔から俺がけつこう話してたし、だとその周期くらゐで俺たちが会ひに行つてやつてるから、実は今まで寂しいと云ふ感情を抱いたことが無いと思ふ」
「うーん、……分かんない。そんな一人で居ると退屈で死んぢやわない? ふつう」
「それが最初に言つた内面の世界に繋がるんだよ。沙霧は自分の中の世界が広すぎて、今は音楽と云ふ刺激を頼りにそこを探検してるやうなもんなんだらう。それだけで十分楽しいんだよ、知らんけど」
「でも、その自分の世界つて云ふものを外に出して欲しいわ。何考えてるのかいまいちわかんないんだもん」
「まあ〳〵、ご理解お願ひします佳奈枝さん。たぶんそれとなく意見を求めることが出来たら話してくれるよ。さつきのモルダウヴルタヴァ議論だつて、たぶんヴィシェフラドからあいつのこだわりを全部語つてくれるよ。いやなに、簡単だよ。グイ〳〵攻め立てないで、何か考へてるな、と思つたら辛抱強く待つだけだから。何と云ふか、議論を吹つかけるんぢやなくて、意見を取り出すつて感じ、……その感覚さへ掴めば沙霧はいくらでも喋つてくれるはずだから、……な?」
「うん、なんか、今の里也さんを見てゝなんとなく分かつたから、ちやんと覚えておくわ。私も沙霧ちやんとは今度こそ仲良くしたいんだから。……」
今度こそ、――と云ふのは、佳奈枝は実のところ沙霧とは中学時代の同級生であり、その時実際に言葉を交はしてゐながら何も出来なかったと、さう自分を悔いてゐるからなのである。彼女の記憶の中にはおぼろげながら、いつも除け者にされて白い顔をさらに青白くさせて、それでも必死にクラスの子たちと仲良くならうとしてゐる沙霧の姿が、未だに残つてゐた。話をしたのは彼女が不登校になる直前であつたゞらうか、とは云つても隠された教科書を探しにやつて来た時に、知らないと言つたくらゐではあつたが、よく覚えてゐるのは自身の感じた嫉妬心であつた。なるほど確かにこんな綺麗で、おど〳〵してゐたらそれは浮きもする、たぶんこの子がいぢめられてゐるのはさう云ふことが原因なのであらう。と、一目で分かるほどだつた。今ですら自信をつけさせるために髪の毛を梳いてやり、着るものもちやんとしてあげると、雛人形のやうに可愛らしい姿になつて羨ましく感じてしまふ。しかし自分はその時あらうことか、その嫉妬心にまかせてついぞ見て見ぬふりしかしなかつたのである。別にあのいぢめなんて範囲が狭かつたのだから、無理矢理にでもこちらのクラスへ呼び寄せて、せめて休み時間だけでも居場所を作つてやるべきだつたのである。一人とぼ〳〵と、友達とも云へない子たちの後ろをついて行く姿を見て、自分はいたゝまれない気持ちになつたではないか。あの子には関はらない方が良いよと云はれて、自分は何を言つてるんだらうと疑問に思つたではないか。佳奈枝は幾年かぶりに沙霧と会つた時、――でもあの時から全く変はつてゐない弱々しい姿を見た途端、今度こそは彼女の力になつてあげよう、今度こそは彼女を救つてあげよう、そして今度は一人の家族として愛してあげよう、――そんな決意が自然に芽生えるのを感じた。正直に云ふと、どうして過ぎ去つたことをいつまでも考へてゐるのか、早く過去のことなんか忘れて今を見据えればいゝのにと、思つてゐた折もあるにはあるけれども、想像以上に沙霧の傷は深いやうであつた。が、最近ではずいぶん笑顔を見せてくれるやうになつてゐるから、もう一歩のところまで来てゐるはずである。もう少しで彼女は救はれ、自分は決意を果たせられ、そしてこのどうしやうもなかつた後悔から逃れられる。……
ところで里也が佳奈枝から沙霧のことを知つてゐると聞いたのは、彼女と出会つてからほんの一週間か二週間ほど後のことであつた。彼らの出会ひは大学のサークルの新入生歓迎会で、その時秦と云ふ苗字と出身地を聞いた新入生の佳奈枝がもしかしてにもしかしてを重ねて尋ねたのがきつかけなのであるが、まさか沙霧を知つてゐやうなどと云ふ者が居るだなんて思ひもしてなかつた彼の驚きやうは如何ほどであつたか。実はその時も新歓と称した(――彼らのサークルとは交響楽団だから、金管楽器の飲み会、弦楽器の飲み会、トランペットメンバーだけの飲み会、ヴァイオリンメンバーだけの飲み会など、かう云つた歓迎会は何回でも人を変へて行はれるのである。)飲み会だつたので、彼の驚きは居酒屋の喧しさにかき消されてしまつたけれども、二人は沙霧を媒介にして、次の日にはすつかり打ち解けてゐた。それはただ嬉しかつたからかもしれない。何せ沙霧と云へば今まで家族内でしか話題に上がることは無く、友達どころか知り合ひすら居るとは聞いたことがなかつたのである。佳奈枝から、秦つてもしかして、私と同い年の子が居たりしますか、と云はれた時、彼はひどく驚きながらも喜びに動悸を打たせたものであつた。が、さうは云つても現状が現状だつたし、原因が原因だつたので結局沙霧の話題はそれきりになつてしまつた。けれども当時トロンボーンを担当してゐた里也とトランペットを担当してゐた佳奈枝は、同じ金管楽器同士距離が近いこともあつて、一度仲良くなつてしまへばお互ひ惹かれ合ふまでそれほど時間はかゝらず、最終的に結婚してゐるのは見ての通りである。
沙霧について次に話題に登つたのは、里也が退団する直前だつたのであるが、実は彼はその前に本人に佳奈枝のことを尋ねた事があつた。それは佳奈枝と交際を始めるほんの一週間前のことで、沙霧の中学時代の同級生だと云ふことはさう云ふことなのだらうかと考へてしまつて、ふと「復讐」と云ふ言葉が頭にチラついたからであつた。全然違ふクラスだつたから、ひどかつたと云ふことくらゐしか知らないんですけど、……と云つた彼女の言葉は嘘ではないであらう、さすがの里也も沙霧愛しさのために、初対面の女性を最初から疑ふことは出来ない。心配したのはいぢめた、いぢめてないよりも、傍観したか否か、いや正確に云ふと沙霧が佳奈枝のことを知つてゐるかどうかであつた。と云ふのも、彼女の恨みと恐怖は何も加害者だけではなく、傍観者にも及んでゐたからであつたが、これ〳〵かういう人と付き合はうかと思ふんだが知つてるか、と思ひ切つて云ふと、彼女は一瞬間はつとなつたものゝすぐに首を傾げて、居たやうな居なかつたやうな、……もう忘れてしまひました。それにしてもたうとう兄さんにもさう云ふ人が出来たなんて、この浮気者。と、むしろ佳奈枝との交際の方に恨みを募らせた。
斯くして二人の女は全くの無関係では無いものゝ、恨みも確執も因縁も無いと分かつたので、里也は三年前の今日のやうな春の和やかな日に、佳奈枝に沙霧と会つてはくれまいかと頼み込んだのであつた。沙霧には数ヶ月前から根回しゝてゐたからあとは佳奈枝の一存を残すのみであつたのだが、案の定彼女は二つ返事で承諾し、その日のうちに会ひに行くことになつた。沙霧は果たして佳奈枝と仲良くなつてくれるのであらうか、もし沙霧が怖がつて何も話さず佳奈枝に愛想をつかれてしまつたら、もし沙霧が不意に復讐の道を歩み始めたら、これで一層引きこもつてしまつたら、……とそんな不安を、里也は道すがら楽しみで仕方がないと云ふ雰囲気の妻と歩きながら抱いてゐた。そも〳〵沙霧は人と会ふだけでも恐怖を抱いてしまふ。話し声だけでもビク〳〵としてしまふ。それでも彼が二人を引き合はせたかつたのは、結婚云々の必然と云ふよりも、それが沙霧にとつて良い刺激であることのやうに感じたからだつた。何より佳奈枝が交響曲と云ふものを愛してゐて、里也とは微妙に違ひはするものゝ確固たる信念を持つて演奏をするから、趣味が合ふと思つたのであつた。とは云へ、沙霧はロシアなどの民族主義的音楽に惹かれるのに対して、佳奈枝はドイツオーストリアの均整の取れた音楽に惹かれることから、若干の食ひ違ひはあるだらう。でもこれまで塞ぎ込んでて、自分しか話し相手のゐなかつた沙霧の新たな友達となつてくれたら幸ひである。彼はある種賭け事にでも参加するやうな気持ちで、嫌々云ふ沙霧を部屋から連れ出したのであつたが、意外なことに彼女たちはすぐに相容れてゐた。佳奈枝は里也の忠告通りあまりガツ〳〵せず、あくまで新たな友達として接し、沙霧は久しぶりの友達に会つたときのやうに朗らかな笑みを浮かべる。むしろ大変なのは里也で、沙霧を孤立させないやうに、でも彼女にとつて丁度よい頻度で話題を振る。時折、話が止まらなくなつたり、話を遮つたりして佳奈枝が暴走しさうになれば、気を使つてゐるのを悟られない範囲で止める。沙霧がいつもの調子で「夫婦ごつこ」をして甘えてきさうになれば、心を鬼にしてそれを制す。途中、ひどくトイレに行きたくなる時があつたが、絶対に居なくならないでと云はれてゐたので、ひたすらに耐える。沙霧が疲れてぐつたりし始めたら、そろ〳〵お開きにしますかと云つて、佳奈枝に促す。さうやつて里也は、もう少し居ようと云ふ声を押し切つて、沙霧を部屋に連れて行つて、ベッドに突つ伏したその頭を一度撫でて、佳奈枝と帰路についたのであるが彼女はまだ物足りないと云ふ顔をしてゐた。一人妹、と云ふより姪が出来たやうな心地がして良かつたわ。でも沙霧ちやんずつとよそ〳〵しいし、里也さんにも敬語だし、反応が一歩遅れてるやうな、そんな気がしたんだけど、いつもさうなの? と電車のつり革に捕まりながら変はらずもどかしさうな顔で彼女は聞いた。それは沙霧が遠慮してるからなんだよ、あいつはこの人なら自分を出しても嫌わないと確信しなければ全然話したがらない、むしろ最初にしては中々良かつたと思ふ。昔、彼女の友達だと云ふ子が来た時はひどく怯えて会話にならなかつたから、やつぱり趣味が合ふつて重要なんだなあ。と云ふと、でも彼女、凍りつくやうな曲ばかり好きなのね、……あゝ、もしかして先輩がショスタコーヴィッチとか好きなのつてさう云ふ、……と、その後はいつも通り音楽的な好みから対立してしまつたが、しかしあまり上手く行き過ぎて気味が悪い。彼は実のところ一言二言言葉を交はせば良いだらうと思つてゐた。それが終はつてみれば、佳奈枝はまだ喋り足りないと云ふ様子ではあるものゝあゝ云ふロシア狂と話が出来て満足さうだし、沙霧に至つてはベッドに突つ伏しながらも小さな声で、楽しかつた、お姉さんにはこれからお世話になります、すぐ疲れて申し訳ございませんと、兄さん悪いですがお伝へ下さい。今日はありがたうございました。とさへ云ふ。表情こそ見えなかつたものゝ、そこまで云ふなら彼女も満足さうな顔をしてゐたに違ひない。里也はほつとしたやうな、困惑したやうな心地で電車に揺さぶられてゐたのであるが、その後の二人の様子を見るに、ゆつくりではあるけれども順調に良好な関係を作つてゐるやうであつた。とは云つても、時には東西に分裂して嫌な空気が流れることもあるにはあるのだが、……
「でも云ふて、沙霧もけつこうお前のことを信頼してると思ふけどな。でないとあんなに自分の好きなことを話したりなんかせんだらう。たぶんまだよそ〳〵しく見えるのは、二人きりで居るのが嫌なんだらうよ」
「それつて結局、信頼されてないつてことぢやないの。私、その気持が分からないんだけど、……」
「会話の途中に変な間が出来ることあるやん? あれがどうしやうもなく嫌らしい。でも、今なら別に平気さうには見えるけどなあ。あゝ云ふのつて、何か話さないと〳〵と思つて気を張るからいけない、とはよく聞くから、別にあいつもゝうそこまで緊張はしてないんだから、……」
「なら、里也さんは一日放牧させておいて、沙霧ちやんは私に任せておくつて云ふのはどう? そろ〳〵一気に距離を縮めたいのよ」
「放牧つてお前、……でもそれやるとなあ、後々面倒なことになりさうなんだよなあ」
「あら? 私が信用出来ない?」
「出来るつて言はないと?」
「怒るよ?」
「うげ、……」
それきり会話は途絶え、二人はしばらく無言でゐた。佳奈枝がパンフレットの束を開け始めたので、里也は所在なさげにぐるり〳〵と周りを見渡した。眼の前には白髪を黒く染めて若さを取り繕つてゐる、一見上品さうな老婦人がゐた。が、別にさう云ふ人は珍しくはない、もう客席もずいぶん人で埋まつてきたけれども、大体はこの老婦人のやうな年寄りばかりである。若い人も居なくは無いが、恐らく彼のやうな働き盛りの男性は全くと云つていゝほど居ない。しかしよく〳〵見てみると、制服をきちつと着た中高生や、きら〳〵と目を輝かせてゐる大学生は意外なことによく目につく。思へば自分が最も音楽を楽しんでゐたのは、このきら〳〵としてゐた頃であつたであらう。高校生の時は帰宅部に所属してゐたから、それほど思ひ入れが無いのだけれども、吹奏楽部に入つてゐた中学生の時分には、やれコンクールだの、やれコンクールだの、やれコンクールだの、ひたすら人と競ふことを強制され、ついぞ楽器ケースを開くことすら嫌になつてしまつた。どうして人はこゝまで競ひ合ふのであらうか。今でもテレビを点けると、コンクールで金賞を狙ふ高校生達が練習で涙してゐる場面を、恰も感動せよと云はんばかりに放送してゐるのに出くはすのであるが、一体そこまでして何が楽しいのであらう。先生先輩後輩と云ふ厳しい上下関係のなか、怪しい宗教家のやうに叱咤と激励を繰り返され、野球部やサッカー部のやうに曲に乗る乗らないを云ひ渡され、最終的に出来上がるのは客に媚びたやうな何の含蓄もない、たゞ綺麗にまとまつたゞけの音の集まりのみ。そしてコンクールが終はれば結果が何であれ、みんな何故か涙するのである。高校時代に音楽から若干離れたのは、一つには受験勉強に専念したかつたのもあるけれども、それが気持ち悪くて仕方なかつたからでもあつた。一体己はこんな楽しくもない環境で何をやつてゐるのか、これが何の足しになるのか、果たしてこれがほんたうに芸術と云へるのか。里也はさう云ふ疑念を抱きつゝ大学のサークルの一つである交響楽団へと入部したのであるが、弦楽器はもとより吹奏楽部出身の多い管楽器ではさう〳〵状況は変はらず、けれどもコンクールと云ふものから開放された彼らの目はそれまでとは違つてゐた。そこには純粋に音楽を楽しまうとする思ひで溢れてゐた。上下関係もどこか希薄に感じられる。実際練習も始終穏やかに進み、全員が全員で素人ながら一音〳〵を丁寧に攫つて行く、時にはたつた一つのアクセント記号を巡つてその解釈に対立したり、時にはこの旋律は何処其処の何々と云ふその地域で昔から歌はれてゐるフレーズだから云々、……と薀蓄を語つて止まらなくなつたり、でもそれがよく〳〵勉強になつたりして、必死に守つてゐた音楽の楽しみと云ふものを存分に味はつたものであつた。決して人と競はず、純粋に楽譜に描かれた音符と記号と楽語から作曲者の芸術を忠実(点々)に奏でる。指揮者もほんたうのプロを呼んで来る訳だから、出来上がつた曲は未熟ながらも含蓄に富み、昔のやうに媚びたやうなわざとらしさは見受けられなかつた。
佳奈枝とは上記のやうな意味では意見が一致してゐたから、こんなにも仲良くなつたものであつた。彼女も中高時代の部活にはうんざりとしてゐて、ふと里也がぽろりと思ひを漏らすと、先輩もさう思ひますか? 私悪い子だつたからよく勝手なことをして怒られて、それで反発した口なんですけど、ちやうどその時ヴァント指揮のミュンヘンフィルのブルックナーを聞いちやつて、もうダメでしたね。あの時の衝撃は先輩が時々吹く六番のコーダを聞いてるだけでも思ひ出しますよ。あのオルガン奏者特有の伸びやかな低音の上に、分厚く音が重なつて、もう暴力ですよ、暴力。和音の暴力ですよ。私はあれに殴られてやつと目が覚めたんです。それで、……と、酔つた勢ひなのか話が止まらなくなつてしまつたのであつた。佳奈枝とはそれから急激に距離が近づいた覚えがあるのであるが、音楽に対する心持ちを同じくする者が近くに居たことは、彼にとつて嬉しくもあり、頼もしくもあつた。里也は今でも目を閉じて彼女の声を聞いてゐると、ふと二人であらゆる曲を、トランペットとトロンボーンのアンサンブル曲にして遊んでゐた光景が、昨日のやうに思ひ出される。講義に行くのが面倒で部室に行くとなぜか彼女も居て、何やつてんねんと互ひに云ひ合ひながら、楽器をちやつと離れた、一階に軽音楽部の入つてゐる建物の上の階から取つて来て、後ろからフルートの可愛くも悲しくもある音色を、横からヴィオラの刻む地味だけれども面白いリズムを聞きながら、精神を研ぎ澄ましてロングトーンをする。こゝだけは絶対に邪魔が入つてはならない、これもまた一つの曲なのだから出来るだけ伸びやかに、特にトロンボーンは神の楽器なのだから、今自分はプロテスタントのおごそかな教会に居て、賛美歌の伴奏をしてゐる心地でなくてはならない。ロングトーンはよく大自然の中に居て遠くまで音を飛ばすやうにと云はれるがトロンボーンは違ふ、慎ましい柔らかな音色こそこの楽器のほんたうの美しい音色である。そつと、F の音を中心にして下へ一オクターブ、上へ一オクターブ、それ〴〵均一に息を吹き込んで行く。一通り音を出して満足したら、今度は時間をかけてリップスラーやらタンギングやらコプラッシュやらで段々唇を慣らして行き、一時間程度経つた頃にやうやく佳奈枝に声をかける。大抵はすぐに音を合はせることなんてせず、ぐだ〳〵と休憩も兼ねて話してゐるうちにどん〳〵賑やかになるのであるが、二人が今一度楽器を手に取ると妙な釣り合ひが取れてしまふのは、共に力強く(点々)演奏するたちであつたからだらうか。殊に先にも出てきたブルックナーの交響曲を遊びで合はせる時などは、同じ金管楽器の仲間さへうるさいと文句を云ふ。さう云ふ時は、いやブルックナーなんだからなどとは文句を云はずに笑つて音量を抑へるか、別の曲に移動するかして、結局セクションの練習が始まるまであゝだかうだ云ひながら一つの曲を仕上げて行く。――それは里也にとつて、怡々とした夢のやうに楽しい日々であつた。唯一沙霧と云ふ不安の種を抱えながらも、時間的にも精神的にも余裕の出来た大学生時代は、一人の演奏者としても音楽に携はることが出来て、だから里也はこのきら〳〵と輝いてゐた時が今でも恋しくて仕方ないのである。
「でもさ、――」
佳奈枝の声が突然聞こえて来たので、里也はとろ〳〵とした眠りからはつと我に返つたのであるが、彼女は依然としてパンフレットに目を落としてゐた。
「――ほんたうにそろ〳〵仲良くなつておかなくちや、沙霧ちやんのためにもならないんぢやない? もう彼女も若くは無いんだから、いゝ加減人に慣れて、社会に出ないとほんたうに一生あのまゝになりさう」
「さうは云つても、沙霧もまだ心の持ちやうが整つてゐないんだから、もう少し待つて、――」
「いつまで? いつまでかゝるの? 里也さんがさう云ふから、ずつと待ち続けてるんだけど進展してるやうには見えないの。……ねえ、ほんたうにもう遅いかも知れないのよ。まだ十代ならまだしも、今年二五歳、いや私と同じだから二六歳か、そろ〳〵誰からも構つてもらへずに、いつまで親の脛をかじつてゐるのつて云はれる年齢ぢやない。もう結婚どころか、子どもが居てもおかしくはないのに引きこもつてるだなんて、……それで辛いのは里也さんぢやなくて、沙霧ちやんでせう。ほんたうに分かつてるの?」
「それはさうなんだけど、やるにしてもゝう少し段階を踏んでいかんと、今度こそあいつの心は壊れてしまふ。荒療治をすると却つて逆効果になりかねないんだから、むしろ俺はこゝぞと云ふ今こそ、もつと慎重にならなくちやいけないと思つてるんだが、……」
この時、里也の頭の中には「夫婦ごっこ」を止めたくないと云ふ愚かな欲望が芽生えてゐた。沙霧を今のまゝにしてゐるほんたうの原因に自分があることを、彼自身知つてはゐる。知ってはゐるが、このまま愛人同様の関係で居続けることが、彼女にとつても、自分にとつても良いやうな気がする。しかし一体どちらが愛人なのであらう。実を云ふと彼は沙霧と佳奈枝のどちらに心を背けてゐるのか分からないのである。書類の上では佳奈枝の方が妻であるけれども、まだ心の中では沙霧の方に惹かれてゐる自分を顧みるに、想像よりも「夫婦ごつこ」の罪は重い。こゝでもし、あのごつこ遊びをやめる事が出来るなら、もちろん沙霧を社会復帰させる気にもなるのであるが、いつも嫌なことはぐだ〳〵と先延ばしにしがちな彼は、現状のままでも沙霧は一応は幸せさうに生きてゐるのだから、いまいち足を踏み出せないでゐるのであつた。
「さう言ひ続けて何年になるのよ。それに里也さんは最初に言つたぢやん、私が沙霧ちやんの新しい刺激になればつて。でも今やつてることは里也さんと同じで、段階を踏むどころか、むしろ戻つてゐるやうな気がするの。ねえ、お願ひ、ここは一日この佳奈枝お姉さんに任せてもらえない?(これを話すために次は実家へ二人で向かふ、コンサートはその前のクッションとして行く)」
「でも、……」
「私が信用出来ないと?」
「いや、出来るけど、……」
「なら、やりませう。ほんたうなら今すぐに引きずつてゞも心療内科に連れて行つて、話を聞いてもらふべきだわ。電話の着信音にもあんなにびつくりするなんて、正直異常としか云へないから、私なんかに何か出来るかどうか分からないけど、ね」
「でも沙霧滅茶苦茶嫌がると思ふから、あんまり賛成は出来ないな。やつぱりこゝはもう少し様子を見てから、――」
「もう! 逃げないで。私だつて嫌なの。もうあの子が何か発言して、しーんとなる場面を見たくないの。荷物持ちにされて、あの細い体に三つも四つも鞄を持たされて、でも辛いとも何も言はなくて、でもあいつらが満足したら居ないもの扱いされて、結局泣き崩れて、でもそれすらも邪魔みたいに扱はれて、壁に手を付きながら一人とぼ〳〵と校舎の影に消えて行く姿、……あれを私は見たのよ。もうそんなの見たくないの。私はあの子をなんとかしてあげたいの。……」
薄暗くて気が付かなかつたが、佳奈枝が目元を拭つた時、一瞬だけきらりと、指輪の輝きに混じつて煌めいたものがあつた。里也にはそれが彼女の涙だとは分かつたものゝ、ちやうど開演時間になつたのか、拍手と共に舞台の上には、続々と肌の白い欧羅巴の楽団員が楽器を手に持つて現れ初めたゝめ、そちらに気を取られてしまつた。
「分かつた。分かつたけど話は後で。今はこれからの演奏を楽しまう」
「さうね。ごめんなさい、つい熱くなつちやつて」
「いや、俺も沙霧に関しては存分に反省しなくちやいけないから、……」
と、里也のその言葉は拍手の音にかき消されてしまつたけれども、隣に居た佳奈枝には聞こえてゐたらしく、肘で軽くこづかれてしまつた。
今日の演目はベドルジハ・スメタナの我が祖国からモルダウ、……ヴルタヴァに、アレクサンドル・ボロディンの交響曲第二番に、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの交響曲第五番と云ふ組み合はせなのであるが、今この場に沙霧が居ないことが何より残念である。特にチェコの国民音楽であるヴルタヴァをチェコのオーケストラで聞けるのだから、相当悔しがつてゐるに違ひあるまい。舞台の上では楽団員全員がすでに着席して、拍手の鳴り止んだところでオーボエのA の音を基準にチューニングを��てゐた。里也はそのA の音色一つで先程の佳奈枝の言葉を忘れると、チューニングの光景にすつかり魅了されてしまつた。客席の方からはまだめい〳〵喋つてゐる人も居るくらゐ地味な光景ではあるけれども、オーケストラのコンサートでまずどこに感動を覚えるかと云へば、このチューニングである。第一にその音程の良さに愕然とする。団員たちは意外と好き勝手に倍音を鳴らしてゐるのであるが、それがてんでバラバラかと云へばさうではなく、適当に音を出してゐるはずなのに一つの曲を演奏してゐるやうに思へてくるのである。そも〳〵最初のオーボエの音からして、パカンと竹を割つたやうに美しい。恐らく佳奈枝が〝生〟の音を聞きたいと云ふのは、かう云ふことを云ふのであらう。里也は指揮者が出て来るあひだ、拍手をしながら早速余韻に浸つてゐた。が、コンサートの始まりはこゝからである。
前曲のヴルタヴァはチェコのオーケストラだからと云ふ選択であらうが、しかしこれが無ければ里也はこの演奏会に来なかつたかもしれない。沙霧ほどでは無いにせよ国民楽派と呼ばれる作曲家が好きな彼は、殊にロマン派の曲はその作曲家が生まれ育つた国のオーケストラで演奏するのが一番と云ふ信条のもと、ずつと楽しみにしてきたのである。尤もさう云ふ信条はかつては抱いてはをらず、沙霧にロシアの音楽はロシア人にしか解せないと思ふんですよ。例へばチャイコフスキーの交響曲第一番をドイツ人が演奏すると、あまりに整いすぎて冒頭からして陰鬱な雰囲気が出てゐない、……その後もソリで雪原を駆け抜けるやうな軽快な躍動感ぢやなくて、もつと勇ましい、馬か何かで移動する王様のやうな、……あゝ、なんと云つたらいゝのでせう、……クラリネットの色つぽい旋律もあんまり民謡つぽく演奏してくれなくて、美しいには美しいですがもつとかう、……あの辺りの生々しい生活が浮かばなくて、……と言はれて、さう云ふもんなんかねと適当に返事をしてゐたのであるが、ある夏の日に聞いたロシア国立交響楽団のチャイコフスキーの交響曲を聞いてから、沙霧の云ひたいことを納得して、彼女の信条を自分の信条にしてしまつたのであつた。プログラムとしては交響曲第四番から第六番まで、マンフレッドを除いて全て行ふと云ふ活気に(点々)満ち溢れたものであつたが、当時大学生であつた里也はあまりにも感動しすぎて、聞き終はつた後に友達とその演奏会の感想を言ひ合つてゐたのである。何にそんなに感動を催されたかと云へば、普段は感情を抑へに抑へて演奏をするプロのオーケストラが、ついナショナリズムにほだされて心をえぐる音を鳴らしてしまつてゐたからであつた。と云つても彼は普段はそんな情熱的な演奏は好きではない。むしろ嫌いである。彼がピアニストとしては、ボリス・ベレゾフスキーが特に好きなのはさう云ふところにある。ベレゾフスキーは決して前のめりになつたり、感情を顔に表して演奏したりはしない。全く淡々として、どんなに難曲だらうがあつさりと弾きこなし、演奏が終はれば客に笑顔を振りまく訳でなく、さつさと舞台裏へ引き下がつてしまふ。それで響いてくる音も淡色なのかと云へばさうではない。あの熊のやうなロシア人の演奏には、並大抵のピアニストが辿り着けぬ情趣ある響きがある。あゝ云ふ風に表現を七八分に押し留めたからこそ、胸の内側にまでラフマニノフのあはれな旋律が染み込んでくるのだし、何回聞いても味はひのある音楽になるのであらう。彼がクラシックに魅了された理由の一つはそこにあつた。が、あのロシア響の演奏は違つた。あの演奏には感情とは云つても、個々の感情がせめぎ合ふと云ふことは無かつた。祖国を誇りに思ふ尊ひ想ひで一つの筋が通つてゐた。四番の冒頭のファンファーレからして、いかにロシア人がチャイコフスキーを誇りに思つてゐるのか、それが一瞬で分かつた。あの押しつぶされさうなファンファーレこそ、チャイコフスキーの描いた「運命のファンファーレ」なのであらう。さう思へばよく聞くベルリンフィルのは音が軽すぎる。楽譜にはsostenuto とあるのだから、ほんたうに作曲者に忠実にならうとするならば、ロシア響のやうに重々しく演奏しなければならない。かと云つて、それを芸術に出来るのはロシア人しか居ないであらう。やれと云はれてやつても、旧ソビエト諸国以外の人々では、恐らく品格を保つたまゝあそこまでの絶望感は表現できまい。里也は不覚にも涙を流しながらその演奏を聞いて、沙霧がどうしてロシアの音楽はロシア人にしか解せないと珍しく断言したのか、やうやくその意味が分かつたのであつた。
で、それから里也は、音楽においてもナショナリズムに目覚めたと云ふ訳なのであるが、今日のヴルタヴァはどうであらうか。我が祖国は半分が戦争の話で、半分がチェコの国の風土を歌つたものである。国外的にはドヴォルザークの方が知名度は高いけれども、チェコ国内ではスメタナの方がチェコ音楽への影響力は大きいと云つて、尊ばれてゐると云ふ風潮があるらしいから、まさに里也の好むところである。生まれたばかりの小さなヴルタヴァ川を表す旋律が聞こえた時、彼はあまりの美しさに震えた。この部分は楽譜もまた流れるやうに美しいのであるが、一体彼らはどれほどスメタナを崇拝してゐるのであらう。ヴルタヴァ川の二つの源流が、時折岩に打つかつて小さな飛沫を上げつゝ、小さな支流と合はさつて徐々に大きな流れとなる光景が目に映るではないか。フルートとクラリネットからヴィオラに旋律が移ると、その力強さにヴルタヴァ川が目の前に迫つてくるやうな感覚さへ覚える。我が祖国は交響詩だからこのヴルタヴァにも物語があつて、誰しも一度は中学校で習ふのだけれども、しかし話を忘れてゐてもこの演奏を聞けば勝手に情景が思ひ浮かんで来さうである。話としては、二つの源流から始まつたヴルタヴァ川が合流し、森のなかで狩りをする人々や、華々しい婚礼衣装を着て結婚式を行ふ農夫の側を通り過ぎた後、夜の月明かりにぼんやり照らされながら妖精たちが優雅に踊る。殊にこゝの部分が美しいのであるが、しかし感動するところはそこではない。ヴルタヴァ川はそのまゝ流れて行き、激しい戦争のやうな激流にうねりを上げ、そしてたうとうプラハにあるヴィシェフラド城にたどり着く。我が祖国の第一曲であるヴィシェフラドを聞いたことがある人はこゝで涙する。ヴルタヴァ川はその後ラベ川と合流してついにはドイツへと流れて行く。……と、さう云ふ物語なのであるが、あまりに有名な主題はあまりに有名だから嫌気を差すこともあるけれども、この曲に込められた祖国への愛は人々のナショナリズムを喚起するのに足りる。特に先にも述べたやうに、ヴィシェフラド城に辿り着いた場面は必ず涙してしまふ。と云ふのも我が祖国第一曲のヴィシェフラドの主題が、まるで国を救つた英雄を城へ迎え入れるかのやうに管楽器で華々しく演奏されるのである。ヴィシェフラドはある一国の栄枯盛衰をハープを持つた吟遊詩人が唄ふと云ふ曲であるから、決して希望があるわけではない。ヴィシェフラド城も戦争で取り壊されてしまつた。今も観光地ではあるものゝボロボロのまゝである。が、このヴルタヴァでは城の真横を流れる美しい川が、復活したチェコ国に迎え入れられるかのやうに描かれてゐるのである。そこが素晴らしい。文句なく名曲である。
演奏が終はつた時、里也は佳奈枝に悟られないよう静かに鼻をすゝつた。録音された演奏を聞く際にはこんなことにはならないのだけれども、観客を前にするとオーケストラも力が入るのか、音がよく耳に響く(点々?)。今日は二つの源流が合流した場面からして危なかつた。他の国の人々なら強弱記号につられて力を抜くところを、彼らは音を弱めながらもしつかりと(点々)鳴らす。確かにデクレシェンドの頭なのだから、楽譜に忠実に、かつ誇りを持つて弾かうとするとかう云ふ感じになるのであらう。ある意味ではロシア臭くも感じられる。民族音楽に関してはより造詣の深い沙霧が聞けばきつと、つー…と、ヴルタヴァ川の源のやうにしおらしい流れを、その真白な頬に浮かべながら、身動き一つ取らなくなつてしまふかもしれない。さう云へば明日も京都コンサートホールで同じヴルタヴァは聞けるから誘へば良かつたのだけれども、生憎のこと里也が野暮用で逆方向行かねばならないから、一人で行くのも佳奈枝と行くのも嫌な彼女は断つてしまつたのであつた。
拍手の鳴り止まない中、舞台の上ではすでに指揮者が指揮棒を振り上げてゐた。一瞬の間の後(のち)、ボロディンの重々しい冒頭が耳をつんざく。――実のことを云へば里也は交響曲第二番がどんな曲だつたか、すつかり忘れてしまつてゐたのであるが、この冒頭だけで全てを思ひ出してしまつた。かなり簡素な曲である。一度聞けば耳につく旋律が、ボロディンの天才的な感覚で和音に乗せられてゐるやうな、そんな曲である、――と云ふことくらゐしか里也は知らない。知らないとは云へ、一度大学生の時に合宿で演奏した覚えがあつて、演奏してゐても非常に愉快だつた記憶がある。冒頭の重々しさからどうしてこんなに愉快な物語があるのかと云へば、沙霧曰くオペラを描くつもりだつたのがかうなつたんですよ、だからあんなに情景を思ひ浮かべやすい面白い流れ、――一つの映画のやうな感じで描かれてるんです。でも冒頭は王様達が集まつてる様子だから重々しいとはちやつと違ひますね、……とそんな感じらしいのであるが、トロンボーン吹きからすると出番が与へられるだけでも嬉しいものである。全くトロンボーンと云ふ楽器は不遇な楽器とも云へる。初めてオーケストラで使はれたのはベートーヴェンの交響曲第五番であるが、第四楽章までずつと休みだし、出てきたかと思へば第一トロンボーンは理不尽な高音を冷え切つた楽器でいきなり出さなくてはならない。この傾向は後の作曲家にも受け継がれ、何十小節と云ふ休みを耐へてはほんの数秒のハーモニーを奏でてまた休みに入る。さう云ふ使はれ方をしてゐるにも関はらず、大方トロンボーン協奏曲となつて終はるブルックナーの交響曲第六番だつたり、はたまたまことに美しい旋律を奏でるシューマンの交響曲第三番だつたり、そんな曲でそこ〳〵活躍したとしても、コンサートが終はつて讃えられるのは、横に居るトランペットと反対側に居るホルンである。そも〳〵せつかくの出番を潰してしまふ指揮者もゐる。だが、それでいゝ。トロンボーンと云ふ楽器は元々他の楽器を寄せ付けぬほど美しいハーモニーを奏でてゐた楽器なのだから、それでいゝのである。そも〳〵ハーモニーを作る事自体、オーケストラにおいては何故か旋律を奏でる以上に楽しいのである。不思議なことに吹奏楽の曲ではその楽しみは味はへない。それは思ふに、一つ〳〵の音符が欠けてはいけないからではないか、そこにトロンボーンの音色があつて初めて曲として成り立つから、作曲者はトロンボーンにハーモニーを作らせたのではないか。吹奏楽はすぐに人数を増やして、一人〳〵の責任を薄めてしまつて、結果自分の居る意味が分からなくなつてしまふ。ほんたうは惰性で音符を打つたやうなつまらないリズム打ちに原因があるのではあるけれども、恐らくそんな点も原因にあるのであらう。
里也は終始聞こえてくるバストロンボーンの割れた音を聞きながらさう云ふ愚痴にも似た考へを反芻してゐたのであるが、それにしても人間味を感じる生々しい演奏である。tutti で鳴つてゐるところは、ぐわつと胸ぐらをつかまれるやうな凄みがあり、たゞの創作とは分かつてゐながらつい怯んでしまふ。尤もボロディンのやうなロシア五人組は民族主義の果てに位置する人なのだから、当然と云へば当然とも云へる。が、五人組を省いたとしてもロシアの音楽にはひどく人間と云ふものを感じるのはどうしてだらうか。それを何故と云つて追い求めるのは非常にやゝこしい領域に足を踏み入れなければいけないから、もう考えるのはやめてしまつたけれども、人間嫌いな沙霧が自分以上にロシアの音楽に魅了されてゐるところを見るに、人間臭いと云へどもやはりどこか浮世離れしたものがあるのであらう。その点だけを見ればすぐに神々の音楽を作りたがるドイツ人と似てはゐる。けれども、ロシアの音楽にはどこか陰鬱な雰囲気があつて、長調の明るいメロディを歌つてゐたとしても、どこかそこには人間の苦しみや悩みや悲しみが隠されてゐるのである。恐らく沙霧はそれに当てられたのであらう。さう云へば彼女はまた、シベリウスが好きなのであるが、最も有名なフィンランディアからしてどこを切り取つても物悲しい。終幕の勝利感だつて、断崖に立たされた上で敵側から勝利を言ひ渡されてゐるやうな虚しさがある。なるほど民族主義に隠れて彼女はもしかしたら、感傷的な気分で自分を慰めてゐるのかもしれない。……
「ほんと、なんで沙霧ちやん来なかつたのかしらん。あの子のためにあるやうなコンサートでせう、これは、……」
二人は休憩時間になつても立ち上がれないでゐた。別に小用が近い訳でもないからわざ〳〵人混みに紛れたくないだけではあるが、佳奈枝まで座つたまゝでゐるのは珍しい。明るくなつた客席に人が���るのは半分〳〵と云つたところである。それでも狭いシンフォニーホールでは階段まで人でごつた返してゐるであらう。
「スメタナにボロディンにチャイコフスキーなんて、今ごろ行けばよかつたつて泣いてるかもな」
「里也さん、ちやんと説得してくれたの? どうせいつものやうに一言だけ言つたゞけなんぢやないの?」
「ちやんとやつたわ。ほんたうに来なくていゝのか? つて三回くらゐ聞いたからな」
「ふうん。……さう。……」
「あ、信じてへんな。まあ、えゝけど」
「ほんと、沙霧ちやんのことになると、とことん甘いんだから。……それにしても、あのモルダウはこれまで聞いて来た中でも一番綺麗だつたわ。さうは思はなかつた?」
「せやな、めつちや綺麗だつた。けど、全体が綺麗と云ふよりは、アレだな。弦楽器の音が滅茶苦茶綺麗なんだわ。しつとりかつなめらかでなまめかしくて、……まあつまりはエロかつた」
先程の演奏の話になつても、涙を流してゐたことには触れてこなかつたので、里也はふうと息をつきつゝ答えた。
「いや、うん、……うん。聞かなかつたことにするわ、さう云ふのを音楽に持ち込むの好きぢやないから。でも、ハープのアルペジオで妖精の踊りが艶かしくなつてゐたのは認める、確かにあそこはエロかつたわ」
「だろ? あゝ云ふ感じでエロくするのもアリなんだね。トロンボーンやつてた頃はその後に神経を尖らせてたから、全然意識したことなかつたんだけど、充分雰囲気に合致してる」
「うん、……うん、まあ、さうね。でも管楽器はあんまり鳴つてないやうな気がしたわ。ヴィシェフラドの主題に返つて来るところはもつとトランペットが出ないと」
「そこがよくない?」
「好きぢやない。木管ばかり聞こえて風の音になつてるのは嫌」
「それ佳奈枝さんが木管嫌いなだけぢや、……?」
「ふゝ、……ま、さう云ふ曲ぢやないのは分かつてるんだけどね」
「あゝ、それにしても沙霧を無理やりにでも引つ張つてくれば良かつた。感想だけ云ふのも酷だし、ちやつと連れて行こうかな。何か良いのあつた?(ラフマニノフの交響曲にしよう)」
と里也は佳奈枝の膝上にあるパンフレットを指差す。
「ふむ、……さうね、あの子、里也さんみたいな変な拘りあるんだよね」
「うん。俺以上に曲者だけど、俺と一緒だとたぶんどこでもついて来るから、まあ、良いと思つたら何でもえゝで」
「もう、何でもいゝ、て云ふのが一番困るつていつも言つてるのに。……あ、でもあつたわ。これ〳〵」
佳奈枝はパンフレットの中から一枚抜き取つて、里也によこした。
「さつき見せようと思つてたの」
「ほう、……ラフマニノフの交響曲か。えゝやん〳〵。あいつも絶対来ると思ふわ」
「でも京都だから遠いよ?(京都にするか、kobelcoにするか。kobelcoだと舞台裏のサインネタが書ける)」
「大丈夫、大丈夫。当日券で行けるよな? 久しぶりだからよく分かんないけど」
「行けるでせう。私に一日任せる前に行つておいで」
「お前まじでやるつもりなのか」
「もちろん。里也さんほどぢやないけど、私の決意も固いわよ?」
「まあ〳〵、でもちやつと待つて。それについては、家に帰つてからもうちやつと話さう。な?」
正直に云つて、里也には不安しか無かつた。と云ふのも、沙霧の気質をあまりよく理解してゐない佳奈枝が、彼女を引き連れて賑やかな場所を歩き回るのは目に見えてゐたし、さうなると後々苦労をするのは自分であることを理解してゐたからであつた。彼はまず最初に、沙霧が人と会ふのに信じられないほどエネルギーを使ふ性質であることを、佳奈枝に理解してもらいたい。そして一人任せるのは百歩譲つていゝとしても、出来るだけ閑静な、――例へば博物館やら美術館やら、さう云ふ所へ連れて行くのに留めてもらひたい。誤つても万博公演やら大阪市内やら、最近では京都も連れて行つてはならぬ。疲れ果てゝその後がどうなるか彼にも分からないから、もしそんな場所へ連れて行きたいと云ふなら、それ相応の覚悟と責任感を持つて臨んでもらふことにする。さう云へば自分たちの実家の近くには谷崎潤一郎記念館があるから、そこへ連れて行つてみてはどうか。彼女は少々文学の方にもたしなみがあるから、きつと喜ぶはず。――と、さう云ふ忠告と提案をしようと思つてゐるのであつた。
「仕方ないなあ。……ぢや、その代はりと云つてはなんだけど、これからチャイコフスキーの五番ぢやない?」
「待つて〳〵、それはあかん。やめてください佳奈枝さん」
「そろ〳〵先輩に何があの時あつたのか聞きたいんだけど、話してくれない? しやうもないつて云つても、そこまでもつたいぶられたら聞きたくもなるぢやない?」
「いやもう自分の中で深く反省してるから許して、まじお願ひします佳奈枝さん。――」
里也の云ふ通りしやうもない話である。チャイコフスキーの交響曲第五番の第二楽章では、二回だけ「運命の主題」が重々しく金管楽器で演奏されるのであるが、その一回目で緊張のあまり音が出なかつたと、それだけの話である。しかし、トロボーンをやつてゐた身としては、それだけでは済まされない。当時彼はバストロンボーンを担当させられて(点々)ゐたのであるが、件の「運命の主題」と云ふのは、ある意味では他のどんな場所よりもバストロンボーンの見せ場である。と云つても旋律を担当するわけではない。トランペットで「運命の主題」が奏でられた後、それを逆ブルックナーリズムのやうな三連符で受けるだけである。難しいことは何一つ無いが、緊張する箇所ではあつた。総譜を見てみると同じ動きをするのはファゴットだけであるから、自分が頑張らなくては、何一つ音が聞こえなくなつてスカ〳〵になつてしまふ。指揮者からも、講師の先生からも、もつと〳〵鳴らせと云はれてゐるからしつかりと息を吹き込まなくてはならない。――が、一つだけ不幸だつたのは、その演奏会では彼はもう一つの曲でテナートロンボーンを使つてゐたのであつた。これは経験者しか分からないであらうが、テナートロンボーンとバストロンボーンは違ふ楽器である。特にマウスピースの違ひから、テナートロンボーンに慣れてゐる者がバストロンボーンに触れると、そも〳〵音を出しづらい。管が一本多いからその分重く、どこか体の使ひ方も違ふ。で、同じ演奏会で二つのトロンボーンを使わなければならなかつた彼は、結局最後までバストロンボーン特有のゆつたりとした息の使ひ方に慣れず、楽器を鳴らさなくては〳〵と思へば思ふほど、どん〳〵鳴らなくなつて、肝心の見せ場で体が縮こまつてしまつたのであつた。
――と、さう云ふ事が、佳奈枝の入学前に起こつたのであるが、里也がこの年になるまで引きずつてゐるのは、チャイコフスキーの交響曲第五番には特別な思ひ入れがあるからである。人々は交響曲第六番をチャイコフスキーの最高傑作だと云ふし、作曲者本人もさう云つてゐるし、里也も気持ちがぐら〳〵することもあるにはあるけれども、やはり一番好きなのはこの交響曲第五番である。まず多くの人に誤解されてゐる点がいゝ。まことこの曲を情熱的だとか云ふ人が後を絶たないのであるが、これほどまでに冷たい曲は、――もうずいぶんと色々聞いて来たけれども、未だに出会つたことがない。最も演奏に適した場所は、冷え切つた早朝、太陽は見えぬ、道には雪で溢れてゐる、人はまばら、家の窓は締め切つてゐる、さう云ふロシアの街に堂々とそびえるロシア正教の教会内であらう。ロシア正教では神を賛美するのは人の声のみであるから、実際には御法度かもしれないが、兎に角目を閉じてこの交響曲を聞くと、始まりから終はりまで冷え〳〵としたロシアの町並みな思ひ浮かぶ。それほどまでに、この曲は冷たい。第一楽章の、「運命の主題」から始まり、最初のクライマックスを経て落ち着くまで、人はどのやうな気持ちを抱いたであらうか。多くが情熱的と評価するだけに、恐らく溜まつた感情が爆発してゐるやうに感じてゐるのかもしれない。が、同時にどこか身を大海に投げ出したやうな心地がしなかつたであらうか。いや、もつと云ふと第一楽章から第四楽章まで全て、荒波に流されるやうな心地は抱かなかつたであらうか。恐らくこの交響曲は、たゞ単に人間の感情などを表したものではない。信仰の抱擁に身を委ねた人々の、完全な服従、――簡単に云へば振り回されてゐる様子が描かれてゐるはずである。さう思へば情熱的などとは評価できまい。冒頭の「運命の主題」は、教会で神の御前に跪いて、絶望に打ちひしがれてゐる人々の様子である。決して単に重苦しい主題を歌つてゐる訳ではない。その「歌」と云へば、終始どんなに金管が鳴つてゐても歌を聞いてゐるやうな心地になるのは、器楽を禁止し、人の声を重視するロシア正教の教へが存分に発揮されてゐるからではないか。第四楽章のコーダの、勝利感で満ち溢れたフィナーレもまた、フィンランディアと同じやうに、仮初の勝利に喜びを湧き上がらせて騒ぐ人々の無常さが表されてゐるのではないか。この曲に感じる冷たさとは、さう云ふところにある。チャイコフスキーの交響曲第五番は人々の感情を皮に被つた、人間では抗い難い神々の曲である。
しかしこの事は全て沙霧からの受け売りである。里也が初め彼女から聞いた時、正直な事を云へば、たうとう宗教に寄りどころを見つけてしまつたのかと思つてゐた。が、家に帰つてよく〳〵聞いてみるとたしかにさう云ふところがある。と、云ふよりは実際にチャイコフスキーはあゝ云ふ神への服従を頭の隅に置いて作曲したのであらう。彼のメモ帳には、人に計り難い神の摂理の前での完全な服従だとか、進行の抱擁に身を委ねるべきではないか、だとかそんなことが書かれてゐるのだと云ふ。彼女はたぶんそのメモ帳の内容をどこかで聞きかじつて来たのであらうが、しかしすでに感覚的に曲の深いところまでを感じ取つてゐて、例のメモ帳によつて全てを確信をしたのかもしれない。全く沙霧の感性は侮れないものである。楽器が出来る出来ない以前に、かう云つた音楽的センスがあることは非常に羨ましい。天分を与えられてゐるやうな気がする。もし彼女がいぢめられて引きこもらずに、部活で里也と同じ吹奏楽を選んで、自分に合ふ楽器を見つけてゐたとしたら、いやその前からずつとピアノは習つてゐたから、音楽を生業にして生きていくことも充分に視野に入れられやう。唯一の心配は極度の恥ずかしがり屋だと云ふことで、実はこつそりと実家にあるピアノを弾いてゐるとは近所の人から聞いてゐるのであるが、決して本人はそれを披露したりせず、言及しようとするならばその日一日は口を聞いてくれなくなつてしまふ。だが、それが彼女の自信の無さからくるもだとするならば、コツ〳〵と成功を積み重ねて克服することは出来るはずである。ほんたうに、いぢめさへ無ければ良かつたのに。いぢめさへ無ければ、沙霧も一人の才能ある女性として生きていけたのに、……
「あゝ、もう。素直に云ふわ」
「おつ、やつと云ふ気になつた?」
舞台横の掲示では10 と表示されてゐるのであるが、ほんたうはあと五分と少しなのであらう、客席には徐々に人が戻り初めてゐた。里也の前に居た老婦人も、話してゐるうちに居なくなつてゐたものゝ、いつの間にか戻つて来て隣に居る同じやうな老婦人と話してゐる。耳から聞こえてくるざわ〳〵とした話し声は、コンサートホールの壁と云ふ壁、天井と云ふ天井に無数に反射されて妙に心地よい。さう云へばシンフォニーホールの天井は二枚組の反射板が吊り下げられてゐて、中々整つた作りをしてゐる。里也は佳奈枝の得意顔が見えないように、その天井を眺めてゐたのであるが、先程の演奏の余韻がすつかり消えてしまつたので、仕方なしに彼女の方を向いた。
「恥ずかしいから忘れてな。第二楽章でバストロがタタタターンターンターンつてやるやん?」
「あー、……あ! どこか分かつたわ。それで?」
「で、全然音が出せんかつたつて、……ま、さう云ふこと」
「あれ? それだけ? 私としては、里也さんがバストロやつてたことの方が驚きなんだけど」
「あの時はバストロやつてた先輩が抜けて、んでお前の知つての通りオーケストラのトロンボーンなんて人気が無いから人が居なくつて、まさか一年生に乗らせるわけにもいかんから、俺がやるしかなかつた、とさう云ふことなんすよ」
「Bach?」
「Bach 。あの時はアレしかなかつた。命が吸ひ取られるかと��つた」
Bach とは楽器メーカーの名称である。正式にはVincent Bach と云ふ。里也は自分の楽器を買う時にずいぶんと試奏したものであつたが、このメーカーだけは最初から除いてゐた。何しろ良い音を出すのに、魂を削る思ひで息を吹き込まなくてはならない。やはり日本人の自分にはYAMAHAのトロンボーンが一番いゝ。程よい体の使い方で欧羅巴的なしつとりとした音が鳴る。ならドイツのメーカーもと思つたが、あちらの楽器は音色が少しだけ暗くて、周りのハイカラな(点々)音と音程を合はせるのに苦労しさうだつたから、それに値段も倍近くしてゐたから諦めてしまつたのであつた。
「ふゝゝ、確かにあのメーカーはさう云ふとこがあるわね。でもさう云へば、あの時前曲でファーストやつてたんでせう? 別に仕方がないと云つて開き直つてもよろしくて?」
「さうは思ふんやけど、あのオケでやつたチャイコフスキーの交響曲つて、後にも先にもその時だけだつたから、余計に悔しくて仕方があらへんねん。しかもあの時は沙霧が聞きに来てたから、恥ずかしいところは見せたくなかつたし、――」
「え?」
佳奈枝はこれまでに見たことがないほど目をまん丸くした。
「うそ、……あの子が来てたの」
「俺も後から聞いてびつくりした。一応両親には沙霧の分もチケットを渡しておいたから、もしかしたら連れられて来たのかもしれん」
「でも里也さんのトロンボーンを聞くために来たのかもしれないわよ?」
「ほんたうにさうだから恥ずかしいんだよ。ほら佳奈枝もゝう忘れて。……いや、そんな顔してないで、お願ひします佳奈枝さん」
「ふつ〳〵〳〵、あの程度のこと、誰も気にはしないし、もうみんな忘れてるわよ。里也さんこそ、そんなこと早く忘れなさい」
あなたが気にしすぎなだけで、誰もあなたのことなんて気にはしてないんだから、もつと堂々としてれば良い。――里也もよく云ふ台詞(セリフ)である。だが、その気にする対象があまりにも自分にとつて大きければ、――要は一種のトラウマのやうになつてゐるならば、さう〳〵簡単に気にしなくなるなんて出来ないのではないだらうか。それに、気にするのは他の誰でもなく自分なのだから、他人がどう思はうが関係は無いのである。里也は佳奈枝から普段沙霧に云つてゐる言葉を云はれて、そんなことを思つてゐた。彼の失敗談はトラウマでも何でも無い。たゞ云ひたくないだけの笑ひ話ではあるのだが、それでも彼にとつてチャイコフスキーの交響曲は特別なのだから、自分からならまだしも決して他人からは茶化されたくない。――恐らく沙霧はこれと似た思ひを抱いてゐるのではないだらうか。昔から何か口を開かうとする度に徹底的に無視をされ、馬鹿にされ、笑はれ続けてきた彼女のことである。親にだつて自分の悩みを取るに足りぬものだと云はれ一蹴されてきたのである。そんな彼女に、他の人はお前の事を全然気にしてゐない、などと云つても、本人はもう批判されるのが怖くて仕方ないのだから無駄でしか無い。相手の方が何を思つてゐらつしやるのか分からないから、上手く話せないんですよねと彼女が応へる時、顔は笑つてゐながら心の内では途方も無い感情が渦巻いてゐるはずである。里也は自身がよく云ふ台詞を自身に云はれて、やうやく沙霧を傷つけてゐたことを悟つたのであるが、それにしてもなんと無責任な言葉であるか。今の時代、恥をかいたり失敗をするところを残す手段は、まさか人間の記憶だけではあるまい。やらうと思へばそれこそ永久に残すことだつて出来るし、不特定多数の人物に見せることだつて出来る。そんな中で気にするなだとか、忘れろだとか云つて一体何になるのだと云ふのか。己は虚飾を張つてゞも彼女を傷つけたくはなかつたのではないのか。
「さうだなあ。でも忘れたいけど、結局この演奏を聞いたらます〳〵強く頭に残るだらうなあ」
里也は目を閉じて愉快な口調で言つた。
「でせうね。まあ、人生にはさう云ふ経験も必要だから、覚えておいて損は無いかもね」
「さうだなあ、――」
と里也が言つたところで客席が暗転し始めた。彼は己の不甲斐なさと不注意にため息をつきたくもあつたが、これからは第二楽章の「運命の主題」を聞く度に沙霧を傷つけた後悔も浮かんでくるだと思ふと、拍手の鳴る中やはりため息をついてしまつた。
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kkagtate2 · 6 years ago
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偽善者の涙[二]
[二]
「それぢや、行つて来るよ」
「行つてらつしやい。沙霧ちゃんによろしく言つておいてね」
里也の実家へ金沢旅行のお土産を持つて行つたのは翌週の事であつた。尤もかう云ふのはいつも佳奈枝がささつと済ませてしまふのだけど、先週散々沙霧の事を思ひ出して顔が見たくなつてゐた里也は、いいよいいよ、二人で行くと絶対に何だかんだ云つて帰りが遅くなるから、実家へは俺がお土産持つて行く。お前はゆつくりしておいで。昼過ぎには戻つて来れるとは思ふけど、もしかしたら昼食はあつちで食べるかもしれないから、その時はまた連絡する。と、妻に少々云ひ聞かせるやうな感じで言つて、朝から嬉々としてゐたのであるが、一人阪急に乗つて眺める景色は余りにものどかである。雲ひとつ見つからない空の下には、線路に沿つて所狭しと家々が立ち並んでゐるのだが、そこには冬に特有のどんよりとした空気が流れてゐない。どことなく沿線を歩く人々の顔もなごやかである。いつもかう云ふ時は下を向くか佳奈枝とお喋りをする里也は、しかしそんなのどかな風景を嫌悪感を持つて、――とまではいかないまでも、どこか恨めしい目で見てゐた。彼にもその理由は分からなかつた。実のことを云ふとかう云つた感情は、今のやうに時がゆるやかに経つてゐさうな晴天時には、必ずと云つていいほど感じてはゐるのであるが、それが何時頃から始まつたのかも分からぬ。気がついた時には陽の光の下でのう〳〵と歩いてゐる老人すら恨めしく、時には隣で呑気な声を出してゐる妻にすらさう云つた感情を向けてゐた。が、やはり理由は分からない。彼自身、さう云ふのどかな天気が嫌いな訳ではない、むしろ自分もそのゆつたりとした時に身を任せて日向ぼつこをしたいとすら感じる。道行く人達がのんびりと歩いてゐたと云つても、今の生活に何ら不満も不便も感じてゐないのだから、別に恨めしく思ふ必要も無い。里也はいくらか気を紛らわしてくれる佳奈枝の存在が恋ひしくなりがらも、さつきから電車が揺れる度にガサガサと音のしてゐるお土産の袋を握り直して、一人暗い部屋に閉じこもつてゐるであらう少女、――と云つても彼女ももう二十台後半に差し掛かつてはゐるけれども、彼からすると今も昔も変はらない一人の少女の姿を思ひ浮かべた。沙霧のことを思ふと不思議なことにいつも恨めしい気持ちが消えて行くのである。もちろん彼にはその理由も分からないのだけれど、そもそも原因すら掴めてゐないのだから、さうする他無い。実家の最寄り駅に降り立つた頃には、すつかり気持ち悪い感情もどこかへ消えてしまつて、里也は再び嬉々とした足取りで歩いてゐたのであるが、相変はらずゆつたりと体を通り過ぎて行く空気に、何か心の中で燻るものを感じずにはゐられなかつた。
「ただいま、――」
と里也は玄関をくぐりながら言つたが、この家は殊に玄関からリビングまでが遠く、声を張り上げないと聞こえないため、靴を揃えて床に上がつた。
「ただいま、母さん」
「呼び鈴を鳴らせといっつも言ふとるやろ」
老境に差し掛かつてひどく寒気を訴えるやうになつた母親は、室内ですら何枚も重ね着をした上で、暖房を点けて、一人テーブルの上で雑誌を読んでゐた。呼び鈴を鳴らせ、とはほんたうに毎回言はれてゐることではあるけれども、あの間延びしたやうな無機質な音に沙霧がひどく怖がつてしまふので、もうかれこれ十年近くボタンを押したことが無かつた。
「親父は?」
「今日はバイクで有馬の方まで行くつて言つて、さつき出てつた」
「元気だなあ、……あ、これこないだ金沢に行つた時のお土産。麸の味噌汁と加賀棒茶」
「……と、これは何や?」
と母親が手に取つたのは、達磨のやうな可愛い人形が描かれた一つの箱である(――「起き上がりもなか」と云ふ名前がついてゐる)。
「それは沙霧へのお土産。さう云へ��沙霧は? 上に居る?」
「あいつが外に出るとでも思ふか? 静かだから寝てんのと違ふ?」
と母親は「沙霧」と云ふ名前を聞いた途端、あからさまに不機嫌になつて、投げるやうに言つた。沙霧に対するこの態度は昔からで、毎度の事ながら里也はムツとしながらも、グツと自分を抑えて口を開く。
「そりやさうか。相変はらず滅茶苦茶な生活してんだな」
「ほんま、佳奈枝ちゃんがあんたの嫁に来てくれて良かつたわ。あたしはあんな――、」
とそこまで聞いて我慢ならず、話の途中で起き上がりもなかを引つたくつた。
「さう云ふなよ、沙霧だつて、……まあええわ、ちやつと渡して来る」
「はいはい」
里也は云ひ知れぬ気持ち悪さを感じながらリビングを後にして、階段を登つて行つた。一段一段踏みしめる毎に鳴るその音は、今も昔も変はらずトン〳〵、……と軽やかである。階段を登り終えるとすぐ左手にかつての自室があるのであるが、こちらは昔とは違つて、もう物置と化してしまつて、開け放たれた扉から段々に重なつたダンボールが見える。里也はそんな自室だつた部屋を通り過ぎて、廊下の袋小路にある窓に照らされた、しいんと佇む扉の前に辿り着いた。沙霧の部屋は今も昔も変はらず、鍵なんて無いのに鍵がかかつたかのやうに固く閉ざされてゐる。その木の模様を背景に、先に云つた窓から差す陽の光で、空を漂ふ埃がキラ〳〵と輝いてゐるのが見えたのであるが、少し首を伸ばすと楽しさうに歩く女生徒の組が目に飛び込んできてしまつた。彼は魔が差してドアノブを掴みかけた手を引つ込めると、チラとお土産に目をやつて、鼻で深く息をついて、それからそつと中指でノックをした。――が、それでも扉は依然しいんとしてゐた。
「沙霧、入るぞ」
先程、まだ寝てゐるかもしれないと云ふ話があつたが、もし起きてゐたところで反応してくれないのは分かつてゐたので、できる限り音を立てないように扉を開ける。今日はほんたうに快晴で、雲ひとつ見当たらない綺羅びやかな日であるのに、部屋の中は薄暗く、一歩間違へれば夕方だと錯覚してしまふ。敷居をまたいで見渡したところ、つい先月訪れた時と様子は変はり無いやうであるが、ゴミの散らかり具合は増したやうな気がする。里也は充満してゐる女の匂ひにムツとしながら、床に落ちてゐたお菓子の袋を拾つて、そのまま電灯のスイッチに手を伸ばすフリをした。
「あっ、だ、だめ、点けないで。……」
「やつぱり起きてたんか。――まつたく、こんなもの食べて無いでちやんとご飯食べなさい」
と摘み上げたゴミをゴミ箱に入れて、ベッドに近づく。沙霧は布団に頭まですつぽりと包まつて、バラバラと無造作に伸びた髪の毛を散らばらせながら、屹度した目でこちらを見てきてゐたのであるが、里也がベッドの側まで寄つて、膝を着く頃には上半身を起こして目を擦つてゐた。恐らく昨日も、――と云ふよりは今朝も日が昇る頃まで起きてゐたのであらう、聞くところに寄ると最近では夕方頃になつて初めて目を覚ますと云ふ。しばらく待つてゐると、ベッドに腰掛けるやうに座り、目を細めただけの中途半端な笑みをこちらに向けて来た。
「――ただいま、沙霧」
「おかえりなさい、兄さん」
彼女は今度こそ自然な笑みを顔に浮かべた。
今年二十六歳となる沙霧は俗に云ふ引きこもりであつた。毎日を陽の光も入らぬ暗い部屋で過ごし、たまの外出と云へば深夜にコンビニへ行くのみ、数年前の金沢旅行なぞは実に半年間は説得に費やして実現した奇跡である。手は色白なんてものではなく、遠目からでも静脈の青い筋が分かつてしまふ。彼女を抱く時に見える薄い胸元は余り白すぎるので色気も感じられない。もう十年以上伸ばし続けてゐる真黒な髪の毛は、未だ艶やかさを保つてはゐるけれども、理容室に行くことも怖がつて出来ないので、ボサ〳〵と彼方此方(あちらこちら)に散らばつてしまつてゐる。着てゐるものと云へば、袖が広がつてしまつたボロ〳〵のパーカーに何年も昔から履いてゐるジャージだけで、そこに「おしやれ」などと云ふ単語は見受けられない。薄暗い部屋の中で見えるその姿は、人間と云ふよりも人形であり、今にも闇に溶け込んで消えて行きさうである。二人は立ち上がつて、里也はくるりと反対側を向き、沙霧はその背中側から肩に手をかけて、馬鹿丁寧に外套を脱がしてやる。
「して、今日は何用で来なすつたの。私、兄さんが来るとは聞いてませんでしたよ」
「母さんには云つたんだけどなあ、……前来た時、金沢に佳奈枝と行くつて言つてたろ?」
「楽しかつた?」
「――まあまあな。佳奈枝だと落ち着かつた、とだけ云つておかうか」
「ふ、ふ、――この浮気者。……」
「ほつとけ。それはそれとして、お土産が、……」
とちやうど外套をそつとラックにかけ終わつた沙霧にもなかの化粧箱を差し出す。
「あら、起き上がりもなかぢやないですか。わざ〳〵買つて来てくださつたんで?」
「色々悩んだけど、前おいしいつて言つてたからな。満足した?」
「いえ〳〵、兄さんからいたゞいた物に不満はありません」
沙霧は受け取つたもなかの箱を眺めながら心底嬉しさうに笑つてゐた。いくら不摂生な食事と不健康な生活を送つてゐるとは云つても、その顔は非常に可愛らしい瓜実顔で、きちんと髪を整えて着る物もちやんと用意してあげれば、男の一人や二人は簡単に釣り上げられさうではあるのだが、少々可愛らしすぎるかもしれない。もうあと二三年経てば三十路だのなんだの言はれる年齢ではあるのだけれど、かれこれ十年以上引きこもつてきたせいで、年齢の割にはずいぶん若く見える、――と云ふよりは幼さが抜けきつてゐない。時が止まつてゐるやうにも感ずる。実際里也は、里帰りをする度にさう云ふ印象を抱いてゐた。今彼の目に映つてゐるのは、今も昔も変はらない一人の愛ほしい少女であつて、決して佳奈枝のやうな一人の妙齢の女性ではなかつた。
二人はそれから部屋の真ん中にある卓袱台に並んで座つて、早速お土産の包みを開け始めた。依然として部屋の電気は点けさせてくれなかつたが、机の上にある豆電球のやうな白熱灯の明かりを頼りに、沙霧は丁寧に包み紙を取り除いてゐた。聞けば蛍光灯の光は非常にうるさいらしく、浴び続けてゐると疲れ切つてしまふのだと云ふ。可愛い包み紙を取つ払つて箱を開けると、中にはこれまた可愛い人形たちがじー、……とこちらを見つめて来て、里也には少々不気味に感じるものゝ、沙霧にはこの瞬間がたまらないらしい。
「こんにちは、可愛い〳〵お人形さん。今からここに居る心無いをぢさんに食べられちやうけど、覚悟の方はいかが?」
「あ、俺? 沙霧が食べるんやないの」
「ふゝ、せつかくだから一緒に食べませうよ。どうせ私にはもつたいないですもの。……」
沙霧はその可愛い人形を一体摘み上げて、ピリ〳〵と包装を剥がして、手の上で達磨のやうにコロ〳〵と転がした。白熱球の柔らかい光に照らされた顔には無邪気な笑みが溢れてはゐるけれども、その目はどこか焦点が合つてゐないやうだと、里也はそれとなく心付いたが黙つてその様子を眺めてゐた。
「あら、どうしませう?」
「なにが?」
「どうやつて二つに分ければ良いのでせう。……」
「適当でええんちやうの。真ん中から、かう、……ズバツと、一思ひに」
「お人形さん、やつぱりこのをぢさん心が無いやうです。せめて美味しく食べてあげますから、許して、ね?」
沙霧の口調と表情が余りにも様になつてゐたせいか、里也はいつの間にかくつ〳〵と笑いだしてゐた。
「もう一つ開けようや。一番それが手つ取り早いやろ」
「それもさうですね。――お人形さん、良かつたねえ。半分に切られずに済みさうですよ」
とうつとり言ふのを眺めてから、里也は「お人形さん」を取らうとしたのであるが、真白い指が横からさらりと伸びて来る。
「あゝ、兄さんはこちらを、……」
ひんやりとした柔らかい指であつた。くるりと手の平を上に向けられて、今しがた話しかけてゐた「お人形さん」をちよこんと乗せられる。
「お先に召し上がつてくださいな」
と沙霧はお人形さんをもう一体摘んで、またもやピリ〳〵と包装を剥がし始めた。里也は器用に動くその指と自分の手に乗つた「お人形さん」を、今ごろ暇さうに音楽でもかけて過ごしてゐるであらう佳奈枝を頭に描きながら、互ひ違ひにぼんやりと眺めてゐた。
「もう、……私に遠慮なさらなくても。……」
「せつかく一緒に食べるんやし、たまには一緒のタイミングで食べようや。ほら、お土産を買つて来たお礼だと思つて、さ」
「でも、……」
「まあまあ、さう言ふなよ。俺は沙霧と一緒に食べたい」
沙霧はまだ文句を言つてゐたが、それでも渋々もなかを口の前に持つて行つたので、里也はいただきますと言つて人形の頭にかぶりついた。アイスのもなかはさうでもないのだが、やはり和菓子のもなかは皮の部分が歯の裏側に張り付いて気持ち悪さを感じる。が、あんこの絶妙な甘さとサク〳〵とした食感の前ではそんな気持ち悪さなどどうでもよからう、非常に美味で、沙霧が気に入つたと云ふのも頷ける。――と、そんなことを思ひながら横を見ると、話題の沙霧は「お人形さん」を持った手はそのままに、里也がもぐ〳〵と口を動かすのを、嬉しさうな笑みを浮かべながら見てゐた。
もし身なりを整えて、食べてゐる物がもなかなどでは無く彼女の手料理であれば、その姿は時代遅れで甲斐〳〵しい妻のやうに見えたかもしれない。毎度のことながら彼女がボロ〳〵のぼろを着てさう云ふ、謂はば「夫婦ごつこ」をするので佳奈枝にはいつも笑はれるのであるが、二人は至つて真剣で、里也などは外套をわざわざ沙霧に脱がせるために、しばらく着たまま家中を歩き回るのはすでに見た通りである。一体いつからかう云ふことをし始めたのかと云ふと、沙霧の口調がやたら謙り初めた頃に遡るのだが、そのためにはなぜ彼女が引きこもりになつたのか語らねばならぬ、全ての原因は彼女が味はつたいぢめの苦痛にあるのだから。
事の始まりは沙霧が小学六年生の時だつたはずである。「はず」と云ふのは本人がはつきりと言つてくれないからなのであるが、ある日ただでさへ少食な沙霧が夕食を全く食べずに残して、母親にこつぴどく怒られてゐたことがあつた。実を云ふとその前の日も、前の前の日も、前の前の前の日も、食欲が無いと訴へて料理を残してをり、たうとう堪忍袋の緒が切れた、とさう云ふ次第である。とは云へ沙霧が食事を残すことなんて別段珍しく無いし、残したところで里也が食べるだけであつたし、それに母親はどこかカラツとしたところがあつて、叱り終えれば普段通りに戻るので、里也はただその様子を見てゐたのであるが、沙霧はその後もずつと縮こまつた体をさらに縮こまらせて力なく俯いてゐた。それが里也が沙霧の異変に気がついた最初の日であつた。彼女はいつもなら無理をしてでも笑つて、里也に励まされてゐるうちに元通りになるのである。が、その日はいくら励まされやうとも小さく縮こまつた体は小さく縮こまつたままで、何かを言はうと口を開きかけるものゝすぐにしよんぼりとしてしまふのであつた。
一日だけなら、彼もさう云ふ日も時にはあるだらうとあまり気を留めなかつたかもしれない。しかしそれからと云ふもの、沙霧は家に居てもひどくしよんぼりとして、全く喋らうともしなくなつて、何を聞かれても「うん」としか返さなくなつてゐたのである。何より彼を心配させたのは、朝学校へ登校するのを渋りだしてゐたことで、一ヶ月が経たうとする頃には遅刻寸前までもた〳〵して、親に尻を叩かれなければ家を出られなくなつてゐた。彼はもう気が気でなかつた。異変を感じた日に沙霧が何を言はうとしてゐたのか、この行動だけで大方予想がついてしまつた。助けを求めたくても言ひ出せない、誰かに頼りたくても頼れない、それはかつていぢめられた経験のある彼だからこそ理解できた。だから彼はまず話だけでも聞かうとしたのであるが、それが実現したのは実に三ヶ月後であつた。なぜかと云つて、そもそもいぢめと云ふのは誰かに話しづらいのである。放つて置いたらそれこそ取り返しのつかない事態になるまで黙つてゐることもあるであらう。それに、よくいぢめは恥ずかしいことだと云ふが、傍観者または加害者には感覚が分からないだけで、いぢめられてゐる側の方がよつぽど恥ずかしいと感じてゐるのである。だから里也は、元来恥ずかしがり屋な沙霧がさう〳〵自分の事を打ち明けることなんて無いと分かりきつてゐたから、何度も何度も根気よく接した。するとある日、決して自分から話しかけることの無くなつてゐた沙霧が、お兄ちやんと言つて、部屋から出て行かうとする彼を呼び止めたのである。
いぢめの内容としてはいはゆるハブられであるから、詳しくここに書く必要はあるまい、しかしその原因が里也にもあつたことは述べねばならないであらう。彼は異変を感じる少し前に、沙霧に面白がつて中学で習ふ内容を教へたことがあつた。彼自身何を教へたのかも忘れてしまつてゐたのであるが、話を聞いてゐるとどうやらそれを宿題か何かで使つたのだと云ふ。教へた方が忘れてゐると云ふのに、ちやんと覚えてて、しかも使つたのだから、その記憶力と応用力に本来は鼻高々となるところではある。が、担任の先生からの反応は微妙であつた。どうしてかう云ふのを使つたの? どこで知つたの? 今はまだ習つてゐないのだからまだ使つてはいけないよ、――など、それを語る彼女の声はひどい涙声で聞き取りづらかつたけれども、そんなことを云はれたと彼女は言つた。これがもし職員室かどこかで相対して云はれたなら問題は無かつたかもしれない、繊細な彼女の心は一時は傷つきはするがすぐに立ち直つたかもしれない、しかしクラス全員の前で云はれたとなれば話は別である。たつたそれだけでも、恥の感情に敏感な沙霧は極度に恐怖を感じて、回復までしばらく内にこもらねばならぬと云ふのに、もつと悪いことにきつかけとなつてしまつたのである、いぢめの。
里也が後から聞いた話では、元々沙霧と云ふ女の子は非常に物静かで意見をあまり言ひ出さず休み時間も一人で過ごしてゐるやうな子で、嫌なことを嫌とはつきりと言へないからちよく〳〵使ひ走りにされてゐたらしく、先述の一件で完全に火がついてしまつた、と云ふあらましではあるのだが、彼が感じた責任感は如何ほどであつたか。俺のせいで沙霧を追ひ込ませてしまつた、俺のせいで沙霧にいぢめの苦しみを味ははせてしまつた、俺があの時少なくとも学校では使ふなと云つておけば、――今でも沙霧の姿を見るとさう云ふ後悔が胸の奥底から湧き上がつて息が詰まるほどである。彼は沙霧が一息ついた後、しばらくたつても何も言へずにゐた。一応いぢめだとそれとなく気がついてゐたから取りあへずの言葉は用意してゐたが、まさか自分にも非があるなどとは全く考えてゐなかつた。咄嗟に出てきた言葉は、あと数ヶ月もしないうちに小学校を卒業するのだから、もう少しの辛抱だ、中学校に入れば環境が変はつて、ハブられるのも無視されるのも無くなるはず、それまではかうして話を聞いてあげるから、そもそもさう云ふことをする人は沙霧が羨ましいだけなんだから、気にする必要なし、――のやうな適当で無責任な言葉であつた。今思へばたゞ泣き寝入りしろと、さう云ふ事を言つたゞけにすぎなかつた。
扠、中学校に入つて状況が変はつたかと問はれると全くさうでは無かつた、むしろ悪化したやうにさえ感じる。里也は彼女の部屋から夜な〳〵泣き声がするのを聞いた。それは彼がカウンセリングもどきをした後彼女が寝静まるまでのほんの十分ぐらいではあつたけれども、余り毎日続くので両親にいぢめのことが知られてしまふのでは無いのかと、ヒヤ〳〵しながら眠りについてゐたものであつた。と云ふのも沙霧はいぢめられてゐる事をひた隠しにしたかつたからなのであるが、どうしてそこまで秘密にしておきたかつたのか、里也には頭で分かつてゐたものゝ、感覚的にはさつぱり理解出来なかつた。今でこそぽつ〳〵と当時の事を語つてくれるので、それが彼女の恥に対する恐怖心と、純粋な人への疑心と、打ち明けた際に訪れる状況への不安から来たものだと、何となく分かりかけてはゐるがしつくり来てはゐない。兎に角当時の彼には、ただでさへ環境の変化に弱い彼女がさう云ふ状況で友達を作れてをらず、一人ぼつちを恥じてゐること、何か悩んでるなら話してごらん? ほら、話すだけでも気が楽になるから、などと教師に云はれて逆に途方も無いストレスを感じてゐること、そして知られてしまつたら最後、必ず学校まで行つて、散々文句を言つて、加害者に対して過激な事を言つて、いぢめを加熱するであらう両親、……いや、蓋しそもそもさう云ふ両親の反応自体、彼女には耐えられないであらうこと、――それくらゐしか分かつてゐなかつた。殊に両親に知られてしまふ事に対しては、沙霧ははつきりと恐れを抱いてゐた。お願ひ兄さん、お母さんとお父さんだけには、お願ひ、ほんたうにお願ひ、……とほとんど土下座に近い体勢で里也に言つたこともあつた。それほどまでに彼女にとつて自分の胸の内を知られるのは耐へ難い苦痛であつた。
結局その願ひは彼女が中学二年の冬頃までしか叶はなかつた訳であるが、しかし実際の両親の反応は彼女をどれだけ傷つけたのであらう。彼らはまず沙霧にかう言つた。あんた昔からなよ〳〵してるからそんなことになつたんや、里也みたいにやられたらやり返せばえゝんや、なんで黙つたまゝをるんや、……顔をあげなさい、さう云ふのがあかんのやで、まずその自信なさげな格好をやめなさい、友達がをらんのだつたら誰でも良いからさつさと話しかけて作りなさい、一人でうぢ〳〵してゐてもなんも変はらん、ええか? どうせいぢめてる奴なんてしようもないんやから見返してやつたらえゝんや、分かつたなら返事くらゐせえ、とりあへずあたしは明日学校に行つて担任の先生と話して来ます、……里也、上に連れて上がつてくれ。――と一方的に言つて、次の日ほんたうに学校へ向かつた。何をしたのかは里也には分からないが、噂を聞く限りではその日の夕方、クラス一同を集めた教師は一枚の紙を配つて、どうしていぢめなんてしたのか、彼女を無視したりした人はその訳を、見てゐた人はどうするべきだつたかを、匿名で良いから書いてくださいと、さう云ふ、恐らくは親に云はれて思ひついた策を実行したのであつた。――が、彼女はそんなことされたくなかつた。彼女はただ穏やかに過ごしたかつたゞけだつた。静かに、誰にも見つからずに、幽霊のやうに、ただ一人でゐたかつた。いぢめられることよりも、それを大事にして恥をかく方がよつぽど彼女にとつては辛かつた。次の日から学校へは通へなくなつた。
里也にとつてはそれからがほんたうに大変であつた。激高して無理やり引きずり出さうとする両親をなんとか宥めつけ、沙霧の世話役を名乗り出たのは良いものゝ、部屋から全く出てきてくれないので、扉の前で一言二言話しかけた後ずつと佇んでゐたのであるが、その気配すら鬱陶しいらしく何度も何度も、ごめん兄さん、今は兄さんの声も聞いてられないからそつとしておいてください、お願ひします、……と云はれ追ひ払はれた。彼が上手かつたのはそこで単に食ひ下がつたり、無理やり食ひついたりしなかつたことで、よく〳〵沙霧の気持ちが落ち着いてゐるタイミングを見計らつてノックをし続けた。「し続けた」と云つても、彼の感が今では無いと云ふ日が続けば数日間放つて置くこともあつた。次に顔を見たのはほとんど年度末に近い頃合ひだつただらうか、関西圏にしては珍しく細かな雪がはら〳〵と降つてゐたから、まだ三月にはなつてゐなかつたはずである。扉の前へやつて来た彼はいつものやうに、――それはひどく冷え込んだ日の朝であつたから、沙霧、寒くないか、お兄ちやんは今まさに凍えて死にさうです、さう云へば来月にセンチュリーがサン=サーンスの交響曲をやるんだが、一緒に来る気は無いか、と世間話を、――今でこそ当たり前となつた音楽の話題を切り出したところ、思ひがけないことに少しだけ、ほんたうに少しだけ扉が開いたのであつた。兄さん、えつと、……すみません、それにはご一緒出来さうに無いです、すみません〳〵。と云ふ彼女の目は先程まで泣いてゐたせいであらうか、やたら腫れぼつたく、他人行儀に敬語を使つて謝罪されたことなんて些細なことのやうに思へた。里也は伸ばしかけた手をグツと引いて、まあまあ、ちやつとあの曲の良さを語り合ひたい奴が欲しかつただけだから、――あ、なんなら聞いてみるか? CD なら二つ三つはあるから貸してやるよ、個人的にはモントリオール響が一番綺羅びやかで厳かな雰囲気を同時に実現できてゝ好きなんだが、沙霧はどうだらう、もう少し落ち着いた方がお好き? それともシカゴフィルみたいに爆音がお好き? まあ、無理にとは云はないけど減るもんぢやないから取つて来るわ。――音楽の話題になると止まらないのは彼の癖で、それにその日は再び顔を見せてくれたのが嬉しくて仕方なく、少々舌が回りすぎたかもしれないと思つたが、彼女は扉を閉めることなく待つてくれてゐた。が、部屋の中はちやうど今日のやうに真暗であつた。里也が件のCD を手渡すと、沙霧はしばし眺めた後、ほんたうに私なんかゞ兄さんの物を借りてもよろしいのですか、とおず〳〵と聞いた。えゝで〳〵、ま、いらんって云つても仲間を増やしたいから勝手に置いてくけどな、と笑ひながら云ふと、でもやつぱり兄さんに悪いですし、それに私なんかゞこんな、……と云ふ。里也はこの時、先程感じてゐた喜びがどこかへ去つて行くのを感じた。そして、昔ならありがたうと言つて嬉しさうな顔を浮かべる場面であるのに、身を縮めて申し訳なささうな顔を浮かべる沙霧の変はりやうに、たうとう胸の中にこみ上げるものを抑えきれなくなつてゐた。涙声で遠慮なんてしなくていゝ、俺よりも沙霧の方がかう云ふのは似合うから、俺だけはこれからもずつと沙霧の味方だから、だから、すまん沙霧、すまん、……と途中でいぢめの原因を作つてしまつたことを思ひ出して、自身の言葉の薄つぺらさを嘲笑ひながら云つた。沙霧もそれを受けて泣きながら、ありがたうございます兄さん、ありがたうございます、……と返したが、彼女の場合それが本心から出たのであらうと思ふと、一層自分の浅はかさに不快感が募つた。
沙霧はその日里也から三つもCD を受け取つて実際に全部を聞いたらしく、一週間もすればあゝだかうだと里也と感想を言ひ合ふやうになつたのであるが、不登校引きこもりと云ふ現実は変はつてをらず、家の外へは全く出られなくなつてゐた。たまに会話にさう云ふことを促すやうなことをそれとなく入れてみたこともあつたけれども、そも〳〵学校へ行くなどと云ふ選択肢が無いやうな口ぶりで返された。折しも年度末であつたから、時間はたつぷりあると思つて四月からの新学期までには復活するよう、里也はゆつくりと沙霧を説得してゐた。それを邪魔したのは学校の先生方で、彼らはしばしば家に訪れては固く閉ざされた扉の前まで行つて沙霧に呼びかけたり、電話をかけてきては嫌だ〳〵と言つてゐるのにしつこく話をさせろと言つてきたり、余りにも頻繁なので里也は学校への復帰どころか、怯えた彼女を宥めるので精一杯であつた。先に呼び鈴を十年近く鳴らしたことが無いと云つたのはこの時が原因である。ピンポーンと無機質な音が鳴る度に沙霧はビクツと体を縮こまらせて、里也の胸に顔を埋めて震へてゐた。
しかしそれでも里也の努力があつたおかげか、無理のない程度ではあつたけれども翌年度から学校へ通ひだして関係者一同ほつとしてゐたのであるが、こじれた親子関係と歪んだ性格だけは里也には直せなかつた。結局卒業まで両親は一人静かに居たかつた彼女を理解できなかつたし、先生方は相変はらずヤケになつて彼女を目立たせる行為をし続けたし、沙霧は沙霧で里也への依存を強めて他の誰にも心を打ち明け��かつたし、それに彼女の口調は謙る一方であつた。二人はあの日、――扉を開けてくれた日から顔を突き合はせれば決まつて音楽、特に里也の趣味であるロマン派の楽曲の話題で盛り上がるのであるが、どれだけ楽しさうに話が進んでゐても、沙霧は決してあの変に謙つた敬語を崩すことは無い。沙霧は変はりに変はつてしまつた、俺にすらもう気楽に口調を崩してはくれないのか、もうあの頃に戻ることは出来ないのであらうか。……里也はしかし、さうは思ひながらも口角が上がるのを抑えきれなかつた。(何故かと云つて)彼にとつて理想の女性とは、男の云ふことを何でも聞き、男の思ひを何でも叶へ、自分は決して出しやばらずどんなに理不尽でも文句の言はない、さう云ふ傀儡のやうな人間であつた。その点からすれば、いつも敬語を使つて自分を一段も二段も下げる沙霧の存在はまさに彼の理想とするところであり、むしろいぢめた者たちに感謝しさうにさへなつてゐた。彼が今日に到るまで沙霧に尽くして来たのは、いぢめの原因を作ってしまつた責任感があつたからかもしれない、大切な家族であつたからかもしれない、同情心もあつたからかもしれない。しかしある時からは、普通の女性では満たされない何かを満たしてくれるから、などと云ふ不純な理由になつてゐた。そしていつしか、その何かを満たしたいが故に彼女のしたいことは何でも受け入れて、より申し訳無さゝうな顔をさせるやうになつてゐた。――つまり彼は沙霧と云ふ哀れな少女の心を弄んで自分の欲望を満たすやうになつてゐた。「夫婦ごつこ」はさうやつて始まつた。そして「夫婦ごつこ」はそのために今でも続いてゐる。彼は対外的には沙霧に社会復帰してほしいと望みながら、心のうちではこのまま自分の理想の傀儡であつてほしいと思つてゐるのであつた。
だが経緯が経緯なので、さう云ふ自分に嫌気が差してゐるのも事実である。いくら自分の理想とするところでも、今もなお無力で、復讐したくても出来ず泣き寝入りすることしか出来ない沙霧を見てゐると、やはり愛欲やら情欲よりも先に、いぢめの種を撒いてしまつた後悔が先行してしまふ。その復讐と云へば、今は何も出来なくても将来楽しそうに生活するだけで十分復讐になると、人はよく云ふし、里也の両親もよく云つてゐたのであるが、果たしてそれが復讐になるとほんたうに云へるのであらうか。いぢめと云ふのはいつだつて加害者は忘れ、被害者はいつまでも覚えてゐるのである。そして加害者はそんな過去のことなんて忘れて良い人生を生き、被害者はまずいぢめで受けた痛みを克服しなければならないのである。沙霧にはそれができなかつた。彼女は人生のレールに戻る苦痛を味はふ前に、里也に甘えきつてしまつた。だが甘えさせたのは里也であるのだから、――自分の欲望を満たすために彼女の望みを叶へたのだから、いくら人の心が無いやうな彼でも、心の痛みを感じない訳はなかつた。しかし今更どうやつて動いたら良いのであらう。時として沙霧は愚痴をオブラートに包んで吐き出すことがあるのであるが、出てくるのはいぢめてきた者に対する羨望の念と、自分に対する強烈な否定の念であり、一体彼女がどれほど自分を蔑んでゐるのか、少しでも間違えれば霧のやうに消えて行きさうな気がして、里也は彼女を突つぱねることが出来ないでゐるのであつた。
「美味しいですか?」
沙霧は相変はらず微笑みながら言つた。
「……うん、美味い。それにしてもあれやな、この粒あんがそも〳〵美味いんやな」
「でせう? その粒あんと、もなかのかはの香ばしい風味が合はさつて、しごく上品な味はひになる、……そこが私は好きなんですよ。まさに和菓子だと思ひませんか?」
「せやな。それはそれとして、沙霧もそろ〳〵食へよ。眺めんのも飽きてきたやろ」
「さうですね、兄さんを眺めるのには飽きてませんけど、私もいたゞくことにしませう。さ、お人形さん、お仲間が食べられて怖いでせうけどゝうぞこちらへ。――」
「ふっ、……」
と里也が小さく笑ふのを見てから、沙霧は両の手で持つたもなかを啄み初めた。一口〳〵が小さいのでしばらく時間がかゝると見た里也は、目を閉じてゆつくりと口を動かすその姿を見ながら、カーテンからぼんやり漏れ出てゐる陽の光に意識を集中させてゐた。家を出る時間が時間であつたから、たぶん今は正午を回つたくらゐだと思うのだがどうかしらん。さう云へば佳奈枝に昼食をどうするかそろ〳〵云はねば、また後でむくれて面倒なことになつてしまふ。里也はそんなことを思つてゐたものゝ、実は昼食に関してはもう決まつてゐるやうなものであつた。食事に関しては元々無頓着だつた沙霧の最近の食べ物と云へば、母親がお情けで買つてくれる弁当や、たまに行くコンビニで買つたお菓子くらゐなのであるが、あまりにも不摂生なので見かねた里也がかうして実家へ赴いた時には必ず、一緒に飯でも食はうと提案してゐるのである。そんな、何も私にお気遣ひなさらなくてもと、彼女に毎回遠慮されるものゝ、たまにはお前の料理が食ひたくなるんだよと言つて、無理やりキッチンへと向かはせてゐた。外で食べないのは沙霧が極端な内向型で、人の気配がするだけでも疲弊してしまふからではあるのだが、さうやつて料理を作らせるのは、食事もまた彼にとつては「夫婦ごつこ」の一環にすぎないからであつた。普段まともなものを食べない彼女がそんな美味しい料理を作れるはずがなく、毎回、兄さんごめんなさい、美味しくないでせう、無理してお食べにならなくてもいいですから。やつぱり私には料理なんて無理なんですよ、……と泣きさうになりながら云ふ沙霧を見て、それでも彼の命令に忠実になつて作つた料理は、佳奈枝では満たされない何かを十分満たしてくれた。最近では中々上達してきてゐて、まともなものを食べて欲しいと云ふ願ひも果たされつゝあるのであるが、当の本人は元々少食な上に体を動かさないから、全くと云つて良いほど食べてくれないのである。……
「さう〳〵、さう云へば、六月のシンフォニーにドレスデンフィルが来るんやけど、どう? 行かへん?」
沙霧がもなかを食べ終はつて、しやり〳〵と包み紙を弄び初めた頃合ひに、里也はわざと思ひ出したやうに聞いた。
「どの曲を演奏なさるのか、聞いてからでも?」
「あゝ、すまん。たしか、シューベルト、ベートーヴェン、ドヴォルザークで、後ろ二人は五番と九番。シューベルトは忘れた」
「まあ、〝新世界〟つて、兄さん来週お聞きになるのでは?」
「さうなんだよ。だから行くかどうか決めかねてゝ、沙霧が行くつて云ふんだつたら、俺も行かうと思つてゝ、……」
沙霧は相変はらずしやり〳〵と包み紙を弄んでゐたのであるが、突然丁寧に折りたゝみ始めた。
「でもお高いんでせう? 私そんなにお金持つてませんよ」
「いゝから〳〵。お金のこと抜きで、沙霧はどうしたい?」
「それなら、とつても行きたいのですけど、……」
と、折りたたんだ包み紙をキユツと手の内に握り込んで、
「お越しになるのは兄さんだけですか? それとも、……」
と言つた。その言葉の先には、お姉さんもお越しになるのですか? と、さう云ふ問ひかけがあるに違ひなく、里也も絶対聞いてくるだらうとは思つてゐた。別に彼女は佳奈枝を嫌つてゐる訳ではない、むしろ好いてすらゐる。が、やはりあゝ云ふ順風満帆な人生を送つてきた人物にはどこか引け目を感じるらしく、話すのに気を使ひすぎてぐつたりとしてしまふから、あまり会ひたくは無いと昔遠回しに云はれた事があつた。里也にもその傾向はあるので気持ちは分かるのであるが、今回は恐らくそれよりも、三人で居るのに一人になつてしまふ状況が起きやすいことに、彼女は恐怖を感じてゐるのであらう。たゞでさへ人が近くに居ると頭の中が真白になつて言葉が出てこぬ沙霧のことである、最初は元気があるから良いものゝ、少しでもすると上手く受け答へが出来ず、金魚のフンのやうに夫妻について回る様子が目に浮かんでゐるに違ひない。里也はだから佳奈枝も来るとは伝へずにコンサートに誘つたのであるが、結局彼女が来ないことは分かりきつてゐた。
「云ひ出しつぺはあいつだから、それは、……ね」
「さう、……ですか。すみません、せつかくお誘ひ頂いたのに、えつと、その、……」
沙霧は最後まで言葉が言へずに俯いてゐた。
「あゝ、いや、俺の方こそすまん。佳奈枝の事を云はずに誘つてしまつて」
「いいえ、兄さんは何も悪くないんです、悪いのは私なんですから、私だけなんですから、……」
「いや今のは完全に俺が悪い。……あゝ、こら泣くな。沙霧には沙霧の、人との付き合ひ方があるんやから、佳奈枝もそのことは分かつてくれてるんやから、ゆつくりと慣れてけばえゝんや。まだ心を打ち明けられないんだつたら、それでえゝから、な? 沙霧は沙霧のペースでやつてくれ給へ」
……でもあと何年かゝるのであらう。もうすでに沙霧と佳奈枝が対面してから三年も経つと云ふのに、彼女はまだ妻を信用できてゐない。里也は普段は二人の仲人を買つて出てはゐるものゝ、たまに面倒に思ふこともあつて、いゝ加減さつさと仲良くなつてくれよと愚痴をこぼしたくなる折もあるにはあつた。
「さう云へば兄さん、バラキレフのイスラメイと云ふ曲をご存知ですか?」
沙霧が落ち着いた後、二人はいつものやうに音楽の話題で盛り上がつてゐた。彼女はそれ意外はからつきしなのに、音楽となると途端に饒舌になるから、慰める時はいつもかうである。
「あの気狂ひみたいに難しいやつか?」
「さうです〳〵。久しぶりに聞いたら、やつぱり一つ〳〵の音が踊つてるのが気持ちよくて、こゝ二週間ほどはずつと繰り返してるんですよ」
バラキレフのイスラメイはその昔、里也もずいぶん聞き込んで、実際に弾かうとしてすぐに断念したことがある。冒頭からして音が跳ね回つて愉快ではあるけれども、それがオクターヴの跳躍やら素早いパッセージにまで発展して手に負へないのである。よく聞いた割にはあまり知らないのであるが、あの曲が人間の世界を描いたとは思へない。かと云つて神の世界を描いたとも思へない。何なのかと強いて云へば、踊り狂ふ東洋の美男美女を音で表現したと云へばよからうか、沙霧の云ふ通り例へスラーがかかつてゐたとしても、激しく足を踏み鳴らしながら音が踊つてゐる。……
「あー、あー、あー、ダメだ。一度思ひだすともう止まらん。どうしてくれるんだ」
と里也は少々わざとらしく言つた。
「ふゝゝ、私なんて今日兄さんに起こされてからずつとですよ。ほんたうに麻薬ですよ、麻薬。ある意味幻想交響曲みたい」
「もう何年と聞いてないんだけど、未だに頭にこびり付いてるからよつぽどやでえ。……ちなみに誰の演奏を聞いたの」
「あゝ、それは、――」
と沙霧は体をビクツと震はせて、扉の方を向いた。明らかに怯えてゐるやうであるが、階段を上る足音が聞こえてくるに従つて、里也はなんとなく原因が分かつてしまつた。
「沙霧、そんな怯えなさんな。今日はお兄ちやんがついてゐるから、無理して声を出さうとしなくていゝ。ほら、落ち着いて」
と手を握つてやるが相変はらず表情は固いまゝである。なんとかしてやりたかつたけれども、足音の主はぱつぱと部屋まで近づいて、案の定無遠慮に扉を開いた。
「里也、もう昼やけどご飯どうすんな。食べて帰るんな」
母親は小さく縮こまつた沙霧には目もくれずに里也に問うた。
「飯なら沙霧に作つてもらふから、えゝわ。ま、食べて帰るつてことで」
「さよか。ぢやあ、あたしはこれから出かけて来るから、後は勝手にやつてくれ」
「へい〳〵」
と母親が去つてから沙霧を見ると、いくらか和らいではゐたけれども不満げな顔でこちらを見つめてきてゐた。
「まあ〳〵、母さんこれから出かけるんだから、ちやうどいゝぢやないか。今日も美味しいご飯を作つてくれ」
「兄さんのいぢわる。美味しいと思つてないくせに、……」
「いや〳〵、最初はさうだつたかもしれんけど、最近は腕を上げたよ。ほんたうに。沙霧のご飯は美味しい」
と、そこまでおだてゝやうやく沙霧の顔は晴れ上がりだす。嘘を付くことは、しかし最近はほんたうに料理の腕を上げて来てゐるので、気が悪くなることは無くなりつゝあつた。
「もう、仕方ありませんね。そこまでおつしやつて頂けるなら、作らざるを得ません。けど、――」
と彼女は恥ずかしさうに笑つて、
「――その前にシャワーを浴びてもよろしいですか?……」
と、さう言つてゆつくりと立ち上がつた。
「あゝ、行つておいで。――」
と里也は沙霧が部屋から出るのを見届けてから電話を取り出して、今日もやつぱり食べて帰ることになつたと、たいそう不機嫌さうな声を出す佳奈枝に伝へた。
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kkagtate2 · 6 years ago
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偽善者の涙[一]
引きこもりの妹を巡って、夫婦があれこれする話。歴史的仮名遣ひ。これこそ純文学っぽくなれば良いなぁ。
[一]
一方の里也は、夜暗にもく〳〵と立ち上つて行く湯気をぼんやりと見ながら後悔してゐた。何の因果があつて旅行先に金沢を選んでしまつたのか、どうして同じ旅館に泊まることになつてしまつたのか。金沢への旅行は避けられなかつたとしても、加賀にはいくつも温泉郷があるのだから、それに一つの温泉郷に一つしか旅館が無いなんて事は無いのだから、いくらでも選びやうはあつたはずである。わざ〳〵数年前と同じ二月の三連休に、同じ場所へ向かは無くても良かつたはずなのである。旅の計画を立ててゐる段階で、さう云ふ予感はひし〳〵と感じてゐたのであるから、私は美味しい蟹が食べられればどこだつていいわ、と言つて、楽器の手入れに夢中な妻に当てられて横着する必要など無かつたのである。
里也は墓穴を掘つたやうな心地で三度ため息をつくと、ちよろ〳〵と岩の隙間から流れ落ちてゐる湯の音に耳を傾けた。ここへ来るのは人生で二回目なのだが、尤も数年前は貸切風呂ばかり入つてつひぞ暖簾すら見ることの無かつたせいで、妙に新鮮である。眼の前の川からはざあ〳〵と岩にぶつかる音がしてゐて、見やうによつては寒々しさを感じるものゝ、しかし澄んだ暗闇から聞こえてくるその音には、幾つもの木や葉つぱや岩に反射して耳に届いてゐるのか、包み込まれるやうな心地良さがある。彼からするとちやうど真上から伸びてゐる木には、枯れて落ちかかつた葉しか付いてゐないのであるが、それもまた悪くは無い。せめて雪が降つてゐればもつと綺麗であつただらうに、生憎ここ一二週間程度は雪が降つてゐないのだと云ふ。……気を紛らわせるためにさう云ふことを思つてみたのであるが、不意にむき出しの肩に冷え〳〵とした風を感じると、またもや里也はげんなりとしてしまつた。目を閉じた彼の視界には、早々に内湯から露天風呂に移つたであらう妻が、広告に出てくる女優のやうに、したり顔で肩に湯をかけてゐる姿が映つた。彼女はゆつたりと温泉を楽しむやうな女性では無い。もし楽しんでゐるやうに見えたのなら、事実それは、雅な温泉に浸かつてゐる自分に酔つてゐるだけである。佳奈枝はさう云ふ女である。試しに温泉の感想を聞いたらどんなに詰まらない返事が返つてくるのだらう。山中温泉の名勝とも云はれるこほろぎ橋を見て、どんなに仕様もない事を思つたのであらう。さう云ふ所が数年前とは、――沙霧と加賀の温泉郷に遊びに来た時とは違つてゐた。沙霧なら今彼が感じた事を言ふだけでも話がはずんだだらうし、むしろ彼が思ひもよらぬ事を見出して、今ごろ歌すら詠んでゐるのかもしれない。そぞろ歩きだつて、派手で洒落た土産屋には行かず、苔のむす小さな神社の神妙な空気を楽しんだに違ひない。彼女らの差はそれこそ仕様もないものであらう、だがその微妙な差こそ、里也がいまいちこの旅を楽しめてゐない理由であり、そして里也が後悔してゐる理由なのであつた。
佳奈枝とロビーで袂を分かつてかれこれ二十分が経たうとしてゐて、里也もそろ〳〵微醺を帯びたやうに頭をぼうつとさせてゐた。が、まだ温泉から上がる気は無かつた。まだもう少しだけ数年前の思ひ出に、純粋に浸つてゐたかつた。食事の時、彼の目にはまだはつきりと、病的なまでに白くしなやかな手で酌をされる瞬間が見えてゐた。浴衣の袖が料理に着いてしまはないように気をつけながら、力の無い指で日本酒の入つた徳利を摘み上げて、そうつと傾けて、慣れないながらも盃にとろ〳〵と酒を注いで行く。沙霧のその動きは流れるやうに自然で、上品で、盃の中で波打つてゐる加賀の地酒は、匂ひや味すらもう一段階格を増したやうに感じたものであつた。それが今日は佳奈枝の酌なものだから、――別に文句をつけたい訳では無いが、学生時代からの名残でどこか荒つぽい。さう云へば蟹を食ふ時も、佳奈枝は始終お喋りをしながら身をほじくるのであるが、沙霧はもく〳〵とスプーンを器用に使いながら身を削ぎ落として行く。里也はそんな風に、今朝サンダーバードに乗つた時から妻と沙霧を比べてしまつて、妻なら妻、沙霧なら沙霧、と云ふやうに頭の中を一人の女性で埋めることが出来てゐなかつた。不幸にして幸ひにも、沙霧と入つた貸切風呂がどれも使用中だつたので、今かうして沙霧との思ひ出に浸つてゐるのであるが、しかしこれだけで沙霧への思ひを押し込められるかどうか。佳奈枝からは夫婦ごつこと云はれ笑はれるけれども、かつてはいの一番に愛した女なのだから、無理かもしれぬ。……里也は自分でもひどい男だと思ひながら立ち上がつて、ふら〳〵とした足取りで脱衣所まで足を運んだ。
「遅かつたぢやない?」
佳奈枝はロビーラウンジ横にある足湯に腰掛けて、棒茶をすゝりながら夫が大浴場から出てくるのを待つてゐた。いつもは茶色に染めた髪がふわ〳〵と揺れ動いてゐるのであるが、湯上がりの今はバサリと肩に下りて、その隙間からピアスのキラリとした輝きが見え隠れしてゐる。
「いやあ、初めてだつたからついつい、……」
「あれ? 沙霧ちゃんと来たことあるつて言つて無かつた?」
「あいつは恥ずかしがつて貸切風呂にしか入らなかつたんよ。――俺もお茶飲もうかな。そこにあるんだよね?」
ラウンジにはカウンターがあつて、そこにはコーヒーやら紅茶やらがサービスされてゐるのであつた。一応聞いてはみたものゝ、妻がそこでお茶を拵えて来たことは分かつてゐたので、里也はそのまま足湯を通り過ぎようとした。
「待つて待つて。里也さんのも入れてきたからあるよ。ほら、――」
よく見れば佳奈枝の側にはもう一つ湯呑があり、熱くないのか彼女はそれを手で掴んで里也に差し出して、
「冷めちやつたけど、どうぞ」
と言つた。
「ありがたう。もう一歩のところでのぼせさうだつたから、このくらゐがちやうど良いや。……」
「まつたく、せつかく入れてあげてたのに。男湯でのぼせても助けに行けないんだから、しつかりしてよ」
「ごめんて」
すつかり冷めてしまつた棒茶は、しかしそれでも香ばしい匂ひが鼻を突き抜けて来て、火照つた体にとことん優しい。……さすがにもう温泉は良いので、足湯には浸からずに佳奈枝の隣に座ると、彼女はすでにお茶を手放してタブレットで何やら一生懸命に見てゐるのである。
「そのページ、……色合ひ的にシンフォニーか」
「――正解。夏に入る前にもう一つ行つておかうと思つて」
シンフォニー、とは大阪のシンフォニーホールのことで、佳奈枝はそこの公演スケジュールを見てゐるのであつた。最近熱の抜けかけてきた里也とは違つて、まだ熱心に楽器の練習をしてゐる彼女は、少なくとも三ヶ月に一回は〝生〟の音を聞かなければ気が済まないらしく、国内外のオーケストラの動向をチェックしては夫を誘つてコンサートに赴いてゐた。今月も二週間後に「シンフォニー」にチェコのオーケストラが来るからと言つて、チケットを取つてゐるのであるが、気の早い彼女はすでに七月のロシア響のチケットも取つてをり、そのあひだを埋めたいと云ふつもりなのであらう。
「何か良いのあつたつけ? 六月にイタリアの交響楽団が来る、と云ふのはチラリと見かけたんだけど」
「里也さんの満足しさうなのは無いね。さつぱり。でもこのドレスデンフィルのはいいんぢやない?」
別段通ぶつてゐると云ふ程ではないのだが、里也には一つ拘りがあつて、その国の音楽はその国の楽団が演奏するのでないと聴きに行く気が起きないのであつた(ロシア響のチャイコフスキーのネタは後で書く)。贅沢と云へば贅沢ではあるけれども、大阪に住んでゐる以上さう云ふ贅沢が許されるのだから、熱が冷めて来たと云つても、学生時代からの名残でその拘りを通し切つてゐるのである。
「ほう、シューベルトにベートーヴェンに、……ドヴォルザークか。惜しいなぁ、メインもドイツで締めくくつて欲しかつた」
「しかも新世界だから、わざ〳〵チェコの風を感じた後に聴かなくてもつて感じがするよね」
「せやね。しかしまぁ、……ベートーヴェンの五番を中に持つて来るとは、さう云ふ軽い曲だつたんかな、あれ」
「パスにする?」
「うーん、……一応保留で。もしかしたら沙霧が聞きたいつて言ふかもしれんし。それよりも、ちやつと明日行く所を相談しよう」
温泉に入つてゐる時に思ひついた提案ではあつた。数年前と現在が被つて見えることに散々悩まされた里也は、それならせめて明日の行き先を変えようと思つたのである。予定としてはこのまま旅館で朝食をしたためた後、金沢駅へと向かひ、そこを中心に様々な場所を巡る、――と云つてもほんの数時間しか無いから、兼六園とかひがし茶屋街とか妙立寺とか、さう云ふありきたりな場所を数箇所見繕つてゐたのだが、残念なことに沙霧と行つた。その中でも兼六園は、ここを行かずしてどうして金沢へ来たのか、と言ふべき名勝だから外せないにしても、数年前は結局時間の都合で断念した箇所が、――それも大体は沙霧が行きたいと言つてゐた所ではあるが、たくさんあるから行き先を変へることくらゐ訳は無い。それにほんの少し調べただけでも、金沢21世紀美術館とか近江町市場とか、沙霧なら行きたくないと言ふであらう観光地が続々と出てくる。里也はせつかくならさう云ふ所へ足を運んでみるのもアリかなと思つて、佳奈枝と一緒に考へようと提案したのであるが、しかしやはり未だに腕に残る弱々しい感触を思ふと、結局は沙霧���面影がチラついて楽しめない事は分かりきつてゐるのであつた。
「あら、決めてたんぢやなかつたの?」
「バスに乗つてどこでも行けるんよ。さう云へばお前の希望を聞かずに勝手に決めちやつたからな。一緒に決めようや」
「そうね、……」
と佳奈枝はあまり興味が無ささうに言つて、
「なら部屋に戻つてからにしない? もう足がふやけてとろけさう。……」
と血行が良くなつて真赤になつた足を、湯からぱツと上げた。
「せやな。……はい、タオル」
「ありがたう。それにしても良かつたわ、かうして何時でも足湯に浸れるなんて。写真もたくさん撮つちやつた」
と妻が開けつぴろげに正面を向きながら足を拭いてゐる姿を、里也はやはり数年前と重ねて見てゐた。彼はその時もかうして自分は足湯には浸からず、一緒に旅をして来た沙霧と、棒茶を飲みながら音楽の話をしたものであつた。が、自分の体を極力人に見られたくない彼女は、素足を見せることすら厭つて、彼の体に身を隠しながら小さい白い足をタオルでさつと拭いてゐた。温泉に長々と浸かつてゐながら、やはり沙霧の面影を忘れることの出来なかつた事実に、里也は旅の先を思ひやられながらも、湯呑を二つ手に取つて、右足を拭き終わつてやうやく左足にかからうとする佳奈枝が立ち上がるのを待つてゐた。
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kkagtate2 · 6 years ago
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マジックハンド
巨乳な後輩のおっぱいを揉む話。
真夏、――と言ってもまだ六月ではあるけれども、クーラーの入るか入らないかギリギリの季節の図書室は、地獄と言ってもそれほど違和感は無いにも関わらず、陸也は後輩に勧められるがまま手渡された短編集を開いていたのであるが、もうかれこれ三十分ほどは字を追いかけるだけで内容なんてちっとも入って来ていなかった。正直に言って本を読むことなんて二の次なのだから、別段この灼熱地獄を耐える必要など無い。が、眼の前に座っている後輩、――汀沙(なぎさ)などとおだやかそうな名前をしている一つ歳の離れた女子が、パタパタと下敷きで自身を扇ぎながら、瞬きもあんまりせず熱心に目を上から下へ動かしているので、仕方無いけれども彼女が一息つくまで待たねばならぬ。陸也は暑さに耐えかねて静かにため息をつくと、本を少しだけ下ろして、視界を広げて、器用に片手でページをめくる彼女の姿を覗いた。彼女とはここで初めて会った、……というのは嘘だけれど、ちゃんと話したのはこの図書室が初めてなのだから、そう言っても良いであろう。その時から小生意気で、先輩というよりは友達感覚で接してきて、これがあの人の妹なのかと、ついつい声が出てしまったのであるが、それでも黙っていると美人なものは美人で。彼女の日本人らしい黒髪は、短いけれども艶々と夏の陽で輝いているし、すっと伸びた眉毛から目元、鼻先は性格に似合わず小造りであるし、パタ………、と止まった手首はほの白く、全くもって姉と同じ華車な曲線を描いている。陸也はそれだけでもかつて恋い焦がれていた〝先輩〟を思い出してしまうのであるが、机の上に重々しく乗って、扇ぐのを再開した腕に合わせてふるふると揺れ動く汀沙の、――およそ世界で一番大きいと言っても過言ではないおっぱいを見ていると、いつしか本を閉じて机の上に置いていた。
「せんぱい、せんぱい、それどうです? 面白いでしょ?」
目ざとく陸也の動きに反応した汀沙が相変わらず自分の顔を扇ぎながら言う。額にひたひたと張り付いていたかと思っていた前髪が、ふわりと浮いては、ふわりと額を撫でる。
「せやな。………」
「先輩?」
「んん?」
「その本の一番最初の話を七十字程度に要約せよ。出来なければジュース一本おごりで。――あ、二本でもいいですよ」
と得意げな顔をして言うのは、陸也が暑さで朦朧としているのを知っているからである。
「あー、あー、おごってあげるから、俺もそいつで扇いでくれ。………」
「やっぱり。仕方ないですねぇ」
と本を置いて、ぐいと、体を前に乗り出し、バサバサと両手で下敷きを持って扇いでくれる。図書室は狭いくせに結構広めの机だから、陸也に届く頃にはさらさらとしたそよ風になっていたけれども、あるか無いかでは大違いであった。だが長くは続かない。………
「はい、お終い!」
と再び自分をパタパタと扇ぎ初めた。
「えー、もう?」
「えー、じゃないです。扇ぐ方の身にもなってください」
「……俺、先輩だし。………」
「っていうか、先輩が隣に来たら良いんですよ。たぶん横の席は涼しいと思いますよ?」
とニヤリと目を細めて言い、ぽんぽんと左手にある席を叩く。確かに、汀沙の言う通り隣の席に行けば風に当たることは出来よう、しかし彼がそういう風に座らなかったのは、今更示しても無駄な理性が働いたからであった。先程、汀沙のおっぱいは世界で一番大きい、と言ったのは全くの嘘ではなく、自身の顔を超え、バスケットボールを超え、………いやそうやって辿って行くと果てしがないので一気に飛ばして言うと、バスケットボール三つ分よりもまだ大きい。恐らくこの世には、机におっぱいが乗る女性などごまんと居るであろうが、片方だけでも西瓜よりまだまだずっと大きい彼女のおっぱいは、乗る、というよりは、乗り上げる、と言った方が正しく、こんもりと山のように盛り上がったおっぱいは彼女の顎にまで当たりそうで、そして両隣の席にまで大きくはみ出しているのである。制服に包まれてその姿は拝むことは出来ないが、自身の重さで描かれるたわやかな楕円だったり、ここ最近の成長に追いつけずパツパツに張っている生地を見ていると、それだけで手が伸びてしまう。隣に座ればきっと我慢することなど出来やしない。心行くまで後輩のおっぱいを揉みしだいてしまう。だから陸也は彼女の隣に座らなかったのであるが、結局はいつものように汀沙の誘いに誘われるがまま、席を立つのであった。
「せんぱいのえっち。でも今日は、いつもより耐えられた、………ような気がします」
「いつも思うんだけど、どうしてすぐに触らせてくれないの。………」
そういえば去年の冬、試験勉強をしている最中に消しゴムが彼女の胸元へ転がって、拾おうと手を伸ばして、ちょっと触れてしまったことがあった。その時にひどく怒られて以来しばらく、陸也はすぐに彼女のおっぱいには触れられなくなったのであるが、そんなこともうどうでもよくなった汀沙からすると、今では何だか面白いから続けているようなものだし、窒息して気を失うまで胸元に押し付けられた陸也からすると、今では新たな性癖が芽生えて自分で自分を縛っているだけである。
「私はお姉ちゃんのように甘くはありませんからね。――あ、どうぞどうぞ、こちらへ。………」
とガラガラという音を立てさせつつ椅子を引いてくれたので、大人しく座った。おっぱいに引っ張られて床と平行になった胸ポケットから名札がこちらを覗いていたが、すっと目の前に出てきたのはしなやかな指に挟まれた下敷きであった。
「ん? ――」
「先輩、扇いでください。さっきは私がしてあげたでしょう?」
「………えー」
「えー、じゃないですってば。後少しで切りの良いところにたどり着くので、――ほらほら、でないと私帰っちゃいますよ?」
「しゃあなしやで」
こうやって焦らされるのはいつものことだけれども、今日は特に上機嫌なせいか、特にいじられている気がする。陸也は手でボールを転がすようにおっぱいを揺すっている汀沙に下敷きを向け、パタパタとちょうどよい力加減で扇いであげた。たなびく髪の影からちらちらと彼女のうなじが見えて来たけれども、ちょっと艶めかしすぎるので目をそらしてしまったが、今度は制服を突き抜け、インナーを突き抜けてその存在を主張するゴツゴツとした、きっと巨大であろうブラジャーが目に飛び込んできて、もうどうすることもなしにただ校舎の外に植えられているクスノキを眺め初めた。傾きかけた陽の光が木の葉に映って綺麗であった。――
汀沙の「後少し」は、ほんとうに後少しだったのか五分ともせずにパタンと、本を閉じて陸也の方を向く。
「先輩、切りの良いところまでたどり着いたので、気分転換に〝ミステリー小説を探しに行きましょう〟」
これが二人の合言葉であった。汀沙は手を机について立ち上がると、制服の裾を引っ張ってだらしのなくなった胸元をきちんと正し、ついでに肩にかかるストラップがズレているのが気に食わなくて正し、そうすると次は、そろそろ収まりの悪くなってきたブラジャーから何となくおっぱいが溢れているような気がしたが、よく考えればこれは昨日からだった。無言で陸也と視線を交わして、図書室の奥の奥、……自分たちの住む街の町史だか何だかがある、決して誰も近寄らず、空気がどんよりと留まって、嫌な匂いのする場所、……そこに向かう。図書室には基本的に人はあまり来ないから、そんな変な匂いに包まれることも無いのだが、陸也がどうしてもここでと言うからいつもそこである。今一度見渡してみると陽の光は入らないし、天上にある蛍光灯は切れたままだし、やっぱりカビ臭いし、聞こえるのは布の擦れる音と、自分と陸也の呼吸だけ。………もう誰にも見られていないに違い無いので、彼の胸元に自分の大きく育ちすぎたおっぱいを押し付けながら、強く強く抱きついた。もし、服を着ていなければ、きっと上半身をほとんど包み込めていただろうが、こうやって私と、陸也の力でぎゅっ……と距離を縮めるのも悪くはない。汀沙はそっと手を離して、半ば陸也の拘束を振りほどくように、くるりと回って背を向けた。
「先輩、今日こそ優しくおねがいします。………」
と小声で、両手を股の辺りでしっかりと握りながら言うと、背中から彼の体がぴったりと密着してくる。脇の下から彼の手がそっと通ってくる。その手は迷うこと無く自分の一番敏感な部分に制服の上から触れ、こそばゆいまでに優しくおっぱい全体を撫で回す。もう一年以上、同じことを休日以外は毎日されているけれども、この瞬間だけは慣れない。汀沙は顔を赤くしながら口を抑えると、背中を陸也にすっかり預けて、砕けそうになる膝に力を入れて、すりすりとてっぺんを撫でてくる手の心地よさに必死で抗った。
やっぱり今日も、魔法の手は魔法の手だった。姉から、りっくんの手は魔法の手だから気をつけて。ほんの少しだけ触れられるだけでこう、……何て言ったら良いのかな、おっぱいのうずきが体中に広がって、背筋がゾクゾクして、膝がガクガクして、立っていられなくなるの。上手くは説明できないけど、一度体験したら分かると思う。よくスカートを汚して帰ってきたことがあったでしょう? あれはりっくんの無慈悲な手を味わい続けて、腰を抜かしてしまったからなの。女の子の扱いなんて知らないような子だから、毎回抱き起こすのが下手でね、しかもあの魔法の手で背中を擦ってきてね、腰の骨が無くなっちゃったような感じがしてね、――と、しごく嬉しそうな顔をしてのろけられたことがあったのだが、その時はまだ高校に入学する前だったので、何を言ってるんだこの姉は。よくつまづくから自分でコケたんじゃないか、と半信半疑、いや、あの常日頃ぼんやりとしているような男に姉が負ける訳が無いと、全くもって疑っていたのである。けれども一年前のゴールデンウィーク前日に、廊下を歩いていると、後ろから名前を呼びかけられると共に肩を叩かれた事があった。陸也は手を振ってさっさと去ってしまったが、妙に肩から力が抜けたような気がしてならぬ。いや、そんなことはありえないと、しかしちょっとだけ期待して図書室へ行ったが彼の姿はどこにも見当たらなかったので、その日は大人しく家に帰って眠って、ほんの一週間にも満たない休日を満喫しようと思っていた。が、やはりあの手の感触が忘れられない、それになぜだか胸が張って来たような気がする。中学生の頃からすくすくと成長してきた彼女のおっぱいは、その時すでにIカップ。クラスではもちろん一番大きいし、学年でもたぶんここまで大きい同級生は居ないはず。そんなおっぱいがぷっくりと、今までに無い瑞々しいハリを持ち始め、触ってみたらピリピリと痛んで、肌着はもちろんのことブラジャーすら、違和感でずっとは着けていられなかった。
結局ゴールデンウィークが開ける頃には彼女のおっぱいはJカップにまで育っていたが、それよりも陸也の手が気になって気になって仕方がなく、久しぶりの授業が終わるやいなや図書室へと駆け込んだ。姉からりっくんは図書室に居るよと伝えられていたし、実際四月にもしばしば姿を見かけていたので、適当に本を一冊見繕って座って待っていると、程なくして彼はやって来た。汀沙を見つけるとにっこりと笑って、対面に座り、図書室なので声を潜めてありきたりなことを喋りだす。だがこれまで挨拶を交わす程度の仲である、……すぐに話のネタが尽き無言の時間が訪れたので、汀沙は思い切って、姉から伝えられていた〝合言葉〟を口に出した。――これが彼女にとっての初めて。Jカップのおっぱいをまさぐる優しい手付きに、汀沙は一瞬で崩れ落ち、秘部からはとろとろと蜜が溢れ、足は立たず、最後にはぺたんと座り込んで恍惚(うっとり)と、背中を擦ってトドメを刺してくる陸也をぼんやり眺めるのみ。声こそ出さなかったものの、そのせいで過呼吸みたいに浅い息が止まらないし、止めどもなく出てくる涙はポタポタと床に落ちていくし、姉の言葉を信じていればと後悔したけれども、ジンジンと痺れるおっぱいは、我が子のように愛おしい。もっと撫でてほしい。………
その日を境に、汀沙のおっぱいは驚異的な成長を遂げた、いや、今も遂げている。最初の頃は二日や三日に一カップは大きくなっていっていたので、ただでさえJカップという大きなおっぱいが、ものの一ヶ月で、K、L、M、N、O、P、Q、R、………と六月に入る頃にはTカップにまで成長していた。姉からはなるほどね、という目で見られたが、友達たちにはどう言えばいいものか、特に休日を挟むと一回り大きくなっているので、校舎の反対側に居る同級生にすら、毎週月曜日は祈願も込めて汀沙のおっぱいは揉まれに揉まれた。ある人はただその感触を味わいたいが故に訪れては揉み、ある人は育乳のコツを聞くついでに訪れては揉み、まだ彼女のことを知らぬ者はギョッとして写真を撮る。汀沙はちょっとした学校の人気者になっていたのであったが、休み時間は無いようなものになったし、お昼ご飯もまともに食べられないし、それに何より放課後そういう人たちを撒くのに手間取り陸也との時間が減ったので、かなりうんざりとしていた。が、そういったいわゆる「汀沙まつり」も六月の最終週には収まった。――とうとう彼女のおっぱいがZカップを超えたのである。たった一ヶ月で頭よりも大きくなり、二ヶ月でアルファベットで数えられなくなったおっぱいに、さすがの女子たちも、それに男子たちも気味が悪いと感じたのであろうか、触れてはいけないという目で見てくるようになって、居心地の悪さと言ったらなかった。以前のように行列を作るようなことは無くなったどころか、仲の良い友達も自分のおっぱいを話題に上げることすらしない。どこか距離を置かれているような、そんな感じである。
だがそれは自分から話題を振るとやっぱり、彼女たちも我慢していたのか以前と変わらない接し方をしてくれ、週明けには何センチ大きくなった? とも聞いてくるようになったのであるが、さて困ったのは授業である。と言っても普段の授業は、机の上におっぱいが乗ってノートが取れないと言っても、出来るだけ椅子を引けば膝の上に柔らかく落ち着かせることが出来るから、そこまで支障は無い。ほんとうに困ったのは体育である。体調も悪いのでなしに休むことが出来なければ、見学することも出来ない。かと言って意外に真面目な彼女は仮病なんて使いたくない。幸いにも水泳は無かったからブラジャーと同じでバカでかい水着を買うことは無かったけれども、やはり少しくらいは授業に参加しなければならず、たぷんたぷんと揺れるおっぱいを片腕で抑えながら行うバスケやバトミントンは、思い出すだけで死にたくなってくる。殊にバスケではボールを手に持っていると友達から、あれ? ボールが三つもあるよ? などと冷やかされ、どっちの方が大きいんだろう、……などとバスケットボールとおっぱいを比べられ、うっそ、まじでおっぱいの方が大きい、………などと言われ、ちょっとした喧嘩に発展しそうになった事もある。今では片方だけで十キロ以上あるから基本的に体育は見学でも良くなったものの、去年一年間のこと��もう思い出したくもない。陸也との思い出以外には。………
おっぱいを触れられてから恋心が目覚めるなど、順番がおかしいように感じるが、汀沙はあの魔法の手でおっぱいを揉まれてからというもの、その前後に交わす会話から少しずつ陸也に心が寄っていくのを感じていた。姉妹揃って同じ人物に惚れるなんてドラマじゃあるまいし、もしそうなったらドロドロになりそうで嫌だなぁ、と思っていたら現実になりかけている。「なりかけている」というのは若干の諦めが混じっているからなのだが、それが何故なのかと言うと、陸也はやっぱり姉の方に心を傾けているのである。先輩は決して遊びで私のおっぱいを揉んではいないけれども、どこかよそよそしく感じるのはどうしてだろう、姉は魔法の手でおっぱいを揉みしだかれたと言うが、私はもにもにと軽く力を入れられた記憶しかない。それだけで十分といえば十分ではあるが、やはり物足りない。やはり先輩はお姉ちゃんの方が好き。もうこんなに、――歩くのも大変で、況してや階段を降りるなんて一段一段手すりに捕まらなければ出来ないというのに、毎朝あの巨大なブラジャーを付けるのに十分は手こずるというのに、お風呂に入ればお湯が大方流れて行ってしまうというのに、毎夜寝返りも打てず目が覚めては布団を掛け直さなくてはならないというのに、電車に乗れば痴漢どころか人をこのおっぱいで飲み込まなければいけないというのに、振り向くどころか姉の影すら重ねてくれない。汀沙は今ではやけっぱちになって、陸也を弄っている折があるけれども、内心ではいつか、と言っても彼が高校を卒業するまでもう一年も無いけれど、いつかきっと、……という思いがあるのであった。
「――汀沙、そろそろ揉むよ、良い?」
と一人の女の子を快楽で悶えさせていた陸也が、今までやっていたのは準備体操と言わんばかりに軽く言う。実際、彼はおっぱいの感触を楽しむ、というよりはそれをすっぽりと包む純白のブラジャー、……のゴツゴツとした感触を制服越しになぞっていただけであった。
「お、おね、おねがい。……」
普段はよく舌の回る汀沙も、魔法の手には敵わない。ここに居る間は原則として声を発してはいけないことになっているから、陸也からの返事は無いが、次第におっぱいを持ち上げるように手を下に入れられると、指がその柔らかな肉に食い込み始めた。ブラジャーを着けて支えていてもへそを隠してしまうおっぱいは、中々持ち上がりそうに無く、ギシギシとカップの軋む音だけが聞こえてくる。特注のブラジャーはいたる所にワイヤーが通されてかなり頑丈に作られているから、ちょっとやそっとではへこまないのであるが、そんな音が聞こえてくるということは、相当力を入れているのであろう。そう思うだけでも快感が頭にまで登ってくる。
「んっ、……」
思わず声が出てしまった。呼吸が苦しくなってきたので、口から手を離して息を吸うと、彼もまた浅く荒く呼吸しているのが分かった、目はしっかりと見開き、額に汗をにじませながら彼女の、巨大なおっぱいを揉んでいる。……汀沙はその事実がたまらなかった。例えお姉ちゃんを忘れられずに行っている陸也の自慰行為とは言っても、ただの想像だけではここまで興奮はしないはず。今だけは姉のおっぱいではなく、私のおっぱいに注目してくれている、私のおっぱいで興奮してくれている。けれどもやっぱり、その目には姉が映っているのであろう、私もその愛を受けてみたい、あんまりおっぱいは大きく無いけれど、私に向けられて言うのではないけれど、その愛を感じてみたい。――と思うと汀沙は自然に陸也の名前を呼んでいた。
「りっくん。………」
とは姉が陸也を呼ぶ時のあだ名。
「遥奈。………」
とは姉の名。あゝ、やっぱり、彼は私のことなんて見ていなかった、それにお姉ちゃんのことを「先輩」なんて呼んでいなかった。陸也の手は汀沙が彼を呼んだ時に止まってしまっていたけれども、やがて思いついたように、再びすりすりとおっぱいを大きく撫で回していた。その手を取って、無理やり自分の一番敏感な部分にピタッとつけると、ここを揉めと声に出す代わりに、魔法の手の上から自分のおっぱいを揉む。
「汀沙?」
「今は遥奈でもいいです。けど、そのかわり遠慮なんてしないでください。私をお姉ちゃんだと思って、……おねがいします。――」
言っているうちに涙が出てきて止まらなかった。汗ばんだ頬を伝って、ぽたりぽたりと、美しい形の雫が異常に発達した乳房に落つ。その時眼の前が覆われたかと思えば、意外とかわいい柄をしたハンカチで、ぽんぽんと、優しく目元を拭われていた。
「汀沙、やっぱりそれは出来ない。汀沙は汀沙だし、遥奈は遥奈だよ」
「ふ、ふ、……さっき私のこと遥奈って言ったくせになにかっこつけてるんです」
ぺらりと垂れ下がったハンカチから、極端にデフォルメされたうさぎがこちらを覗き込んでいるので、涙が引くどころか、笑みさえ浮かべる余裕が出来たのである。
「まぁ、うん、ごめんなさい。――今日はこの辺にしておく?」
「それは駄目です。もうちょっとお願いします」
「えー、……」
「えー、じゃないって何回言えば分かるんですか。早くそのファンシーなハンカチをしまってください」
と陸也がハンカチをしまったのを見て、そういえば昔、家でああいう柄をしたハンカチを見たことがあるのを思い出すと、またしても心が痛くなったけれども、所詮叶わぬ夢だったのだと思い込んで、再び魔法の手による快楽地獄に身を任せてから、シワの入ってしまった制服を整えつつ席に戻った。
「そろそろ帰るかー。暗くなりそうだし。それに夜は雨だそうだし」
と背伸びをして、陸也はポキポキと首を鳴らす。外にあるクスノキの葉は、夕焼けに照らされて鈍く赤く輝いてはいるけれども、���くの方を見ると墨を垂らしたような黒い雲が、雨の降るのを予見していた。
「ですね。それ、借りていきます?」
と指さしたのは、例の短編集で。
「うん。まだ最初の二三話しか読めてないしね」
「ゆっくり読んでくださいね。あと声に出すともっと面白いですよ、その作者の作品はどれも、――私は好きじゃない言い方なんですけど、異様にリズムが良い文体で書かれているから。……」
「なるほど、なるほど、やってみよう。……ちょっと恥ずかしいけど」
「大丈夫ですよ。聞いてる側は鼻歌のように感じますから。……って、お姉ちゃんに言われただけなので、あんまり信憑性が無いですけどね。――」
汀沙が本を書架に返しに行っているあいだに、陸也は後輩おすすめの短編集を借りて、二人は一緒に学校の校門をくぐった。薄暗い図書室よりも、夕焼けの差す外の方が涼しくて最初こそ足は弾んだが、袂を分かつ辻にたどり着く頃には、二十キロ以上の重りを胸に着けている汀沙の背に手を回して、足並みをそろえて、付き添うようにゆっくりと歩くようになっていた。あまり車通りの無いのんびりとした交差点だからか、汀沙はふと足を止めると、不思議そうに顔を覗き込んでくる陸也の腕をとって言う。
「先輩、お父さんも、お母さんも居ないので、今日こそ私の家に来てくれませんか?」
途端、それまで柔和だった陸也の顔が引き締まる。
「それは、……駄目だろう。バレたら今度こそ会えなくなる」
「でも、一目だけでも、お姉ちゃんと会ってくれませんか? ずっとずっと待ってるんですよ、あの狭い暗い部屋の中で一人で。――」
「いや駄目だ。あと六ヶ月と二日、……それだけ待てば後は好きなだけ会えるんだ。あともう少しの辛抱なんだ。………」
陸也は現在、汀沙の姉であり、恋人である遥奈と会うことはおろか、電話すらも出来ないのであった。詳しく話せば大分長くなるのでかいつまんで説明すると、陸也は高校へ入学して早々、図書室の主であった遥奈と出会ったのであるが、もともと似た体質だったせいかすぐさま意気投合して、何にも告白などしていないにも関わらず、気がついた時には恋仲となっていた。妹の汀沙も高校一年生の時点でIカップあって胸は大きかったが、姉の遥奈はもっともっとすごく、聞けば中学一年の時点でKカップあり、早熟かと思って油断していると、あれよあれよという間にどんどん大きくなっていって、魔法の手を借りずとも高校一年生でXカップ、その年度内にZカップを超え、高校二年に上がる頃にはバストは百七十センチとなっていたと言う。当然、そんなおっぱいを持つ女性と恋仲になるということは、相当強い理性を持っていなければ、手が伸びてしまうということで、陸也はこの日のように図書室の奥の奥、……自分たちの住む街の町史だか何だかがある、決して誰も近寄らず、空気がどんよりと留まって、嫌な匂いのする場所、……そこで毎日のように遥奈と唇を重ね、太陽が沈んでもおっぱいを揉みしだいていたのである。ここで少し匂わせておくと、娘が毎日門限ギリギリに帰ってくることに遥奈らの両親は心配よりも、何かいかがわしいことをしているのでないかと、本格的な夏に入る前から疑っていたらしい。で、再びおっぱいの話に戻ると、陸也の魔法の手によって、高校一年生でIカップだった汀沙がたった一年で(――遥奈は別として、)世界一のバストを持つ女子高校生になったのだから、高校一年生でXカップあった遥奈への効果は言うまでもなかろう、半年もしないうちに、立っていても地面に柔らかく着いてしまうようになっていた。もうその頃には彼女は、そもそも身動きすらその巨大なおっぱいのために出来ず、学校へ行けなくなっていたので、陸也と会うためには彼が直接家まで向かわなければいけない。だが、ここで問題があった。彼女らの両親、……母親はともかくとして、父親がそういうことに厳格な人物らしく、男を家に上げたがらないのである。しかも親馬鹿な面も持ち合わせているので、娘が今、身動きすら取れないことに非常に心配していらっしゃるらしく、面と向かって会うのは避けた方が良い、それにお忍びで会うなんて何か素敵だよね、と遥奈が言うので、陸也は両親の居ないすきを突いて遥奈と会い、唇を重ね、おっぱいを揉みしだき、時には体を重ねた。その時唯一知られたのは、ひょんなことで中学校から帰って来た妹の汀沙であるのだが、二人の仲を切り裂くことなんて微塵も思って無く、むしろ両親に悟られないように手助けすると言って、ほんとうにあれこれ尽くしてくれた。――が、そんな汀沙の努力も虚しく見つかってしまった。それはクリスマスの少し前あたりであった。幸いにも行為が終わって余韻に浸りながら楽しく喋っているところではあったが、冷たい顔をした父親に一人別室に呼び出された陸也はそこで根掘り葉掘り、娘と何をしていたのか聞き出されることになったのである。若い男女が二人、ベッドの上で横に並び合い、手を繋いで離すなど、それだけでも父親にはたまらなかったが、何より良くなかったのはお忍びで会っていたことで、何をこそこそとやっとるんだ、もしかして遥奈の帰りが遅くなっていたのはお前のせいか、俺は娘が嘘をついていることなんて分かっていたが、やっぱりそういうことだったのか、などとまだ高校一年生の陸也には手のつけようが無いほど怒り狂ってしまい、最終的に下された結論は、二年間遥奈と会わないこと、通話もしないこと。お前もその時には十八歳になっているだろうから、その時に初めて交際を許可する。分かったなら早く家へ帰りなさい。――と、遥奈に別れも告げられずに家を追い出されたのである。
だから陸也はもう一年以上、あのおっとりとした声を聞いていないし、あのほっそりとした指で頬を撫でられていないし、あのぷっくりと麗しい唇と己の唇を重ねられていないし、あの人を一人や二人は簡単に飲み込める巨大なおっぱいに触れられていないのである。二年くらいどうってことない、すぐに過ぎ去る、と思っていたけれども、妹に己の欲望をぶつけてしまうほどに彼女が恋しい。今も一人この鮮やかに街を照らす夕日を眺めているのだろうか、それとも窓を締め切って、カーテンを締め切って、一人寂しさに打ち震えているのであろうか、はたまた無理矢理にでも攫ってくれない自分に愛想をつかしているのであろうか。――頭の中はいつだって遥奈のことでいっぱいである。汀沙から毎日のように状況は聞いているが、自分の目でその姿を見られないのが非常にもどかしい。陸也はもたれかかっていた電柱にその悔しさをぶつけると、その場に座り込んだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
「無理かも。……」
「あ、あの、……無理言ってごめんなさい。……」
「いや、汀沙が謝ることはないよ。全部俺の意気地が無いだけだから。……」
「……先輩、私はいつだって先輩とお姉ちゃんの味方ですからね。だからあと半年感、――ちょっとおっぱいは足りないけど、私をお姉ちゃんだと思って好きなだけ甘えてください。ほら、――」
さらさらと、汀沙が頬を撫でてくる、ちょうど遥奈と同じような力加減で、ちょうど遥奈と同じような手付きで。………
「ありがとう汀沙、ありがとう。………」
絞り出したその声は、震えていてついには風切り音にかき消されてしまったが、側に居る汀沙の心にはしっかりと響いていた。
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kkagtate2 · 7 years ago
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乃々香の部屋に入ったのは、別に昨日も来たので久しぶりでも何でも無いが、これほどまでに心臓を打ち震わせながら入ったのは初めてだろう。今の時刻は午後一時、土曜も部活だからと言って朝早く家を出ていった妹が帰ってくるまであと三時間弱、…………だが、それだけあれば十分である。それだけあれば、おおよそこの部屋にある乃々香の、乃々香の、-------妹の、匂いが染み込んだ毛布、掛け布団、シーツ、枕、椅子、帽子、制服------あゝ、昨晩着ていた寝間着まで、…………全部全部、気の済むまで嗅ぐことができる。
だがまずは、この部屋にほんのり漂う甘い匂いである、もう部屋に入ってきたときから気になって仕方がない。我慢できなくて、すうっ……、と深呼吸をしてみると鼻孔の隅から隅まで、肺の隅から隅まで乃々香の匂いが染み込んでくる。-------これだ。この匂いだ。この包み込んでくるような、ふわりと広がりのあるにおい、これに俺は惹かれたと思ったら、すぐさま彼女の虜となり、木偶の坊となっていた。いつからだったか、乃々香がこの甘い香りを漂わせていることに気がついた俺は、妹のくせに生意気な、とは思いつつも、彼女もそういうお年頃だし、気に入った男子でも出来て気にしだしたのだろう、と思っていたのだった。が、もうだめだった。あの匂いを嗅いでいると、隣りにいる乃々香がただの妹ではなく、一人の女性に見えてしまう。彼女の匂いは、麻薬である。ひとたび鼻に入れるともう最後、彼女に囚われ永遠に求め続けることになる。だからもう、いつしか実の妹の匂いを嗅ぎたいがゆえに、言うことをはいはい聞き入れる人形と成り果ててしまっていた。彼女に嫌われてしまうと、もうあの匂いを嗅げないと思ったから。だが、必死で我慢した。我慢して我慢して我慢して、あの豊かな胸に飛び込むのをためらい続けた。妹の首筋、腰、脇の下、膝裏、足首、へそ、爪、耳、乳房の裏、うなじ、つむじ、…………それらの匂いを嗅ごうと、夜中に彼女の部屋に忍び込むのを、自分で自分の骨を折るまでして我慢した。それなのに彼女は毎日毎日、あの匂いを纏わせながらこちらへグイッと近づいてくる。どころか、俺がソファに座っていたり、こたつに入っていると、そうするのが当然と言わんばかりにピトッと横に引っ付いてくる。引っ付いてきて兄である俺をまるで弟かのように、抱き寄せ、膝に載せ、頭を撫で、後ろから包み込み、匂いでとろけていく俺をくすくすと笑ってから、顎を俺の頭の上に乗せてくる。もう最近の彼女のスキンシップは異常だ。家の中だけではなく、外でも手を繋ごう、手を繋ごうとうるさく言ってきて、…………いや声には出していないのだが、わざわざこちらの側に寄って来てはそっと手を取ろうとする。この前の家族旅行でも、両親に見られない範囲ではあるけれども、俺の手は常に、あの色の抜けたように綺麗な、でも大きく少しゴツゴツとした乃々香の手に包まれていた。
……………本当に包まれていた。何せ彼女の方がだいぶ手が大きいのだ。中学生の妹の方が手が大きいなんて、兄なのに情けなさすぎるが、事実は事実である、指と指を編むようにする恋人つなぎすらされない。一度悔しくって悔しくって比べてみたことがあるけれども、結果はどの指も彼女の指の中腹あたりにしか届いておらず、一体どうしたの? と不思議そうな顔で見下されるだけだった。キョトンと、目を白黒させて、顔を下に向けて、………………そう、乃々香は俺を見下ろしてくる。妹なのに、妹のくせに、小学生の頃に身長が並んだかと思ったら、中学二年生となった今ではもう十、十五センチは高い位置から見下ろしてくる。誓って言うが、俺も一応は男性の平均身長程度の背はあるから、決して低くはない。なのに、乃々香はふとしたきっかけで兄と向き合うことがあれば、こちらの目を真っ直ぐ見下ろしてきて、くすくすとこそばゆい笑みを見せ、頬を赤く染め上げ、愛おしそうにあの大きな手で頭を撫でてきて、…………俺は本当に彼女の「兄」なのか? 姉というものは良くわからないから知らないが、居たとしたらきっと、可愛い弟を見る時はああいう慈しみに富んだ目をするに違いない。あの目は兄に向けて良いものではない。が、現に彼女は俺を見下ろしてくる、あの目で見下ろしてくる、まるで弟の頭を撫でるかのように優しくあの肉厚な手を髪の毛に沿って流し、俺がその豊かすぎる胸元から漂ってくるにおいに思考を奪われているうちに、母親が子供にするように額へとキスをしてくる。彼女には俺のことが事実上の弟のように見えているのかもしれない。じたい、俺と妹が手を繋いでいる様子は傍から見れば、お淑やかで品の良い姉に、根暗で僻み癖のある弟が手を引かれているような、そんな風に見えていることだろう。
やはり、乃々香はたまらない。我慢に次ぐ我慢に、もう一つ我慢を重ねていたいたけれども、もう限界である。今日は、彼女が部活で居なければ、いつも家に居る母親も父親とともに出かけてしまって夜まで帰ってこない。ならばやることは一つである。大丈夫だ、彼女の持っている物の匂いをちょっと嗅ぐだけであって、決して部屋を滅茶苦茶にしようとは思っていない。それに、そんな長々と居座るつもりもない。大丈夫だ。彼女は異様にこまめだけど、ちゃんともとに戻せばバレることもなかろう。きっと、大丈夫だ。……………
  肺の中の空気という空気を乃々香のにおいでいっぱいにした後は、彼女が今朝の七時頃まで寝ていた布団を少しだけめくってみる。女の子らしい赤色のふわふわとした布団の下には、なぜかそれと全く合わない青色の木の模様が入った毛布が出てきたが、確かこれは俺が昔、…………と言ってもつい半年前まで使っていた毛布で、こんなところにあったのか。ところどころほつれたり、青色が薄くなって白い筋が現れていたり、もう結構ボロボロである。だがそんな毛布でも布団をめくった途端に、先程まで彼女が寝ていたのかと錯覚するほど良い匂いを、あちらこちらに放つのである。あゝ、たまらぬ。日のいい匂いに混じって、ふわふわとした乃々香の匂いが俺を包んでいる。…………だが、まだ空に漂っているにおいだけだ。それだけでも至福の多幸感に身がよじれそうなのに、この顔をその毛布に埋めたらどんなことになるのであろう。
背中をゾクゾクとさせながら、さらにもう少しだけ毛布をめくると、さらに乃々香の匂いは強くなって鼻孔を刺激してくる。この中に頭を入れるともう戻れないような気がしたが、そんなことはどうでもよかった。ここまで来て、何もしないままでは帰れない。頭を毛布とシーツの境目に突っ込んで、ぱたん…と、上から布団をかける。------途端、体から感覚という感覚が消えた。膝は崩れ落ち、腰には力が入らず、腕はだらりと垂れ下がり、しかし、見える景色は暗闇であるのに目を見開き、なにより深呼吸が止まらぬ。喉の奥底がじわりと痛んで、頭がぼーっとしてきて、このまま続ければ必ず気を失ってしまうのに、妹の匂いを嗅ごう嗅ごうと体が自然に周りの空気を吸おうとする。止まらない。止まらない。あの乃々香の匂いが、あの甘い包まれる匂いが、時を経て香ばしくなり、ぐるぐると深く、お日様の匂いと複雑に混じり合って、俺を絞め殺してくる。良い人生であった。最後にこんないいにおいに包まれて死ねるなど、なんと幸せものか。……………
だが、口を呆けたように開け涎が垂れそうになった時、我に返った。妹の私物を汚してはならない。今ここで涎を出してしまっては彼女の毛布を汚してしまう。--------絶対にしてはいけないことである。そんなことも忘れて彼女の匂いに夢中になっていたのかと思うと、体の感覚が戻ってきて、言うことを聞けるようになったのか、呼吸も穏やかになってきた。やはり、毛布、というより寝具の匂いは駄目だ。きっと枕も彼女の髪の毛の匂いが染み付いて、途方も無くいいにおいになっていることだろう。一番気持ちが高ぶった今だからこそ、一番いい匂いを、一番最初に嗅ぐべきだと思ったが、本当に駄目だ。本当にとろけてしまう。本当に気を失うまで嗅いでしまう。気を失って、そのうちに乃々香が帰ってきたら、それこそもう二度とこんなことは出来なくなるだろうし、妹の匂いに欲情する変態の烙印を社会から押されるだろうし、その前に彼女の怪力による制裁が待っている。……………恐ろしすぎる、いくらバレーをしているからと言って、大人一人を軽々と持ち上げ、お姫様抱っこをし、階段を上り、その男が気づかないほど優しくベッドの上に寝かせるなんてそうそう出来るものではない。いや、あの時は立てないほどにのぼせてしまった俺が悪いが、あのゆさゆさと揺れる感覚は今思い出してみると安心感よりも恐怖の方が勝る。彼女のことだから、決して人に対してその力を振るうことはないとは思うけれども、やはりもしもの時を想像すると先ほどとは違う意味で背中に寒気を覚えてしまう。
ならばやるとしても、少し落ち着くために刺激が強くないものを嗅ぐべきである。ベッドの上に畳まれている彼女の寝間着は、………もちろんだめである、昨夜着ていたものだから、そんなを嗅げば頭がおかしくなってしまう。それにこれは、もう洗濯されて絶対に楽しめないと思っていた、言わば棚から牡丹餅と形容するべき彼女の物なのだから、もう少し気を静めて鼻をもとに戻してから手に取るべきであろう。なら何にしようか。早く決めないと、もう膝がガクガクするほどにあの布団の匂いを今一度嗅ぎたくて仕方がなくなっている。
そういえばちょうど鏡台横のラックに、乃々香の制服があるはず。…………あった、黒基調の生地に赤いスカーフが付いた如何にもセーラー服らしいセーラー服、それが他のいくつかの服に紛れてハンガーに吊るされている。その他の服も良いが、やはり選ぶべきは最も彼女を引き立たせるセーラー服である。なんと言っても平日は常に十時間以上着ているのだから、妹の匂いがしっかり染み付いているに違いない。それに高校生になってからというもの、なぜか女生徒の制服に何かしら言いようのない魅力を見出してしまい、あろうことか妹である乃々香の制服姿にすら、いや乃々香の制服姿だからこそ、何かそそられるものを感じるようになってしまった。-------彼女はあまりにもセーラー服と相性が良すぎる。こうして手にとって見るとなぜなのかよく分かる。妹は背こそ物凄く高いのだが、その骨格の細さゆえに体の節々、-------例へば手首、足首やら肘とか指とかが普通の女性よりもいくらか細く、しなやかであり、この黒い袖はそんな彼女の手を、ついつい接吻したくなるほど優美に見せ、この黒いスカートはそんな彼女の膝から足首にかけての麗しい曲線をさらに麗しく見せる。それに付け加えて彼女の至極おっとりとした顔立ちと、全く癖のない真直ぐに伸びる艶やかな髪の毛である。今は部活のためにバッサリと切ってしまったが、それでもさらりさらりと揺れ動く後髪と、うなじと、セーラー服の襟とで出来る黒白黒の見事なコントラストはつい見惚れてしまうものだし、それにそうやって見ていると、どんな美しい女性が眼の前に居るのだろうと想像してしまって、兄なのに、いつも乃々香の顔なんて見ているのに、小学生のようにドキドキと動悸を打たせてしまう。で、後ろにいる兄に気がつくと彼女は、ふわりと優しい匂いをこちらに投げつけながら振り向くのであるが、直後、中学生らしからぬ気品と色気のある笑みをその顔に浮かべながら、魂が取られたように口を開ける間抜けな男に近づいてくるのである。あの気品はセーラー服にしか出せない。ブレザーでは不可能である。恐らくは彼女の姿勢とか佇まいとかが原因であろうが、しかし身長差から首筋あたりしか見えていないというのに、黒くざわざわとした繊維の輝きと、透き通るような白い肌を見ているだけで、あゝこの子は良家のお嬢様なのだな、と分かるほどに不思議な優雅さを感じる。少々下品に見えるのはその大きすぎる胸であるが、いや、あの頭くらいある巨大な乳房に魅力を感じない男性は居ないだろうし、セーラー服は黒が基調なのであんまり目立たない。彼女はその他にも二の腕や太腿にもムチムチとした女の子らしい柔らかな筋肉を身に着けているが、黒いセーラー服は乃々香を本来のほっそりとした女の子に仕立て上げ、俗な雰囲気を消し、雅な雰囲気を形作っている。------------
それはそれとして、ああやって振り向いた時に何度、俺が彼女の首筋に顔を埋め、その匂いを嗅ごうとしたことか。乃々香は突っ立っている俺に、兄さん? 兄さん? 大丈夫? と声をかけつつ近づいてきて、もうくらくらとして立つこともやっとな兄の頭を撫でるのだが、俺が生返事をすると案外あっさりと離してしまって、俺はいつも歯がゆさで唇を噛み締めるだけなのである。だが、今は違う。今は好きなだけこのセーラー服の匂いを嗅げる。一応時計を確認してみると、まだこの部屋に入ってきて二十分も経っていない。そっと鼻を、彼女の首が常に触れる襟に触れさせる。すうっと息を吸ってみる。-------あの匂いがする。俺をいつも歯がゆさで苦しめてくるあの匂いが、彼女の首元から発せられるあの、桃のように優しい匂いが、ほんのりと鼻孔を刺激し、毛布のにおいですっかり滾ってしまった俺の心を沈めてくる。少々香ばしい香りがするのは、乃々香の汗の匂いであろうか、それすらも素晴らしい。俺は今、乃々香がいつも袖を通して、学校で授業を受け、友達と談笑し、見知らぬ男に心を寄せてはドキドキと心臓を打たせているであろうセーラー服の匂いを嗅いでいる。あゝ、乃々香、ごめんよこんな兄で。許してくれなんて言わない。嫌ってくれてもいい。だが、無関心無視だけはしないでくれ。…………あゝ、背徳感でおかしくなってしまいそうだ。………………
----ふと、ある考えが浮かんだ。浮かんでしまった。これをしてしまっては、……いや、だけどしたくてしたくてたまらない。乃々香の制服に自分も袖を通してみたくてたまらない。乃々香のにおいを自分も身に纏ってみたくてたまらない。自分も乃々香になってみたくてたまらない。今一度制服を眺めてみると、ちょっと肩の幅は小さいが特にサイズは問題なさそうである。俺では腕の長さが足りないので、袖が余ってしまうかもしれないが、それはそれで彼女の背の高さを感じられて良い。
俺はもう我慢できなくって着ていた上着を雑に脱いで床に放り投げると、姿見の前に立って、乃々香の制服を自分に合わせてみた。気持ち��い顔は無いことにして、お上品なセーラー服に上半身が覆われているのが見える。これが今から俺の体に身につけることになる制服かと思うと、心臓が脈打った。裾を広げて頭を入れてみると、彼女のお腹の匂いが、胸の匂いが、首の匂いが鼻を突いた。するすると腕を通していくと、見た目では分からない彼女の体の細さが目についた。裾を引っ張って、肩のあたりの生地を摘んで、制服を整えると、またもや乃々香の匂いが漂ってきた。案の定袖は余って、手の甲はすっかり制服に隠れてしまった。
---------最高である。今、俺は乃々香になっている。彼女のにおいを自分が放っている。願わくばこの顔がこんな醜いものでなければ、この胸に西瓜のような果実がついていれば、この股に情けなく雁首を膨らませているモノが無ければ、より彼女に近づけたものだが仕方ない。これはこれで良いものである。最高のものである。妹はいつもこのセーラー服を着て、俺を見下ろし、俺と手をつなぎ、俺に抱きつき、俺の頬へとキスをする、-------その事実があるだけで、今の状況には何十、何百回という手淫以上の快感がある。だが、本当に胸が無いのが惜しい。あの大きな乳房に引き伸ばされて、なんでもない今でも胸元にちょっとしたシワが出来ているのであるが、それが一目見ただけで分かってしまうがゆえに余計に惜しい。制服の中に手を突っ込んで中から押して見ると、確かにふっくらとはするものの、常日頃見ている大きさには到底辿り着けぬ。-------彼女の胸の大きさはこんなものではない。毎日見ているあの胸はもっともっとパンパンに制服を押し広げ、生地をその他から奪い取り、気をつけなければお腹が露出してしまうぐらいには大きい。さすがにそこまで膨らまそうと力を込めて、制服を破ったりしてしまっては元の子もないのでやりはしないが、彼女の大変さを垣間見えただけでも最高の収穫である。恐らく、いつもいつも無理やりこの制服を着て、しっかりと裾を下まで引っ張り、破れないように破れないように歩いているのであろう。あゝ、なるほど、彼女が絶対に胸を張らないのはそういうことか。本当に、まだ中学生なのになんという大きさの乳房なのであろう。
そうやって制服を着て感慨に耽っていると、胸ポケットに何か硬いものを感じた。あまり良くは無いが今更なので取り出してみると、それは自分が、確か小学生だか中学生の頃に修学旅行のお土産として渡したサメのキーホルダー、…………のサメの部分であった。もう随分と昔に渡したものなので、その尾びれは欠け所々塗装が禿げてしまっているが、いまだに持っているということは案外大切にしてくれているに違いない。全く、乃々香はたまにこういう所があるから、ついつい勘違いしそうになるのである。そんな事はあり得ない、----決してあり得ないとは思っていても、つい期待してしまう。いくら魅力的な女性と言えども、相手は実の妹なのだから、-------兄妹間の愛は家族愛でしかないのだから。…………………
ちょっと湿っぽくなってきたせいか、すっかり落ち着いてしまった。セーラー服も元通りに戻してしまった。が、ベッドの上にある妹の寝巻きが目についてしまった。乃々香が昨日の晩から今朝まで着ていた寝巻き、あの布団の中に六七時間は入っていた寝巻き、乃々香のつるつるとした肌が直に触れた寝間着、…………それが、手を伸ばせば届く位置にある。---------きっと、いい匂いがするに違いない。いや、いいにおいなのは知っている。俺はあのパジャマの匂いを知っている。何せ昨日も彼女はアレを着て、俺の部屋にやってきて、兄さん、今日もよろしくね、と言ってきて、勉強を見てもらって、喋って、喋って、喋って、俺の部屋をあのふわふわとしたオレンジのような香りで充満させて、こちらがとろとろに溶けてきた頃に、眠くなってきたからそろそろお暇するね、おやすみ、と言い去っていったのである。………その時の匂いがするに違いない。
それにしてもどうして、………どうして毎日毎日、俺の部屋へやって来るのか。勉強を教えてほしいなどというのは建前でしかない。俺が彼女に教えられることなんて何もない。それは何も俺の頭が悪すぎるからではなくて、乃々香の頭が良すぎるからで、確かにちょっと前までは高校生の自分が中学生の彼女に色々と教えられていたのであるが、気がついた時には俺が勉強を教わる側に立っており、参考書の輪読もなかなか彼女のペースについていけず、最近では付箋メモのたくさんついた〝お下がり〟で、妹に必死に追いつこうと頑張る始末。そんなだから乃々香が毎晩、兄さん兄さん、勉強を教えてくださいな、と言って俺の部屋にやって来るのが不思議でならない。いつもそう言ってやって来る割には勉強の「べ」の字も出さずにただ駄弁るだけで終わる時もあるし、俺には彼女が深夜のおしゃべり相手を探しているだけに見える。それだけのために、あんないい匂いを毎晩毎晩俺の部屋に残していくだなんて、生殺しにも程がある。
だから、これは仕方ないんだ。乃々香のせいなんだ。このもこもことしたパジャマには、悔しさで顔を歪める俺を慰めてきた時の、あの乃々香の大人っぽい落ち着いた匂いが染み付いているんだ。------あゝ、心臓がうるさくなってきた。もう何が原因でこんなに心臓が動悸してるのか分からない。寝間着を持つ手が震えてきた。綺麗に丁寧に畳まれていたから、後できっと誰かが手を加えたと気がつくであろう。だけど、だけど、このパジャマを広げて思う存分においを嗅ぎたい。嗅ぎたい。…………と、その時、するりと手から寝巻きが滑った。
「あっ」
ぱさり…、という音を立てて乃々香のパジャマが床に落ちる。落ちて広がる。袖の口がこちらを見てきている。たぶんそこから、いや、落ちた時に部屋の空気が掻き乱されたせいか、これまでとはまた別種の、-------昨日俺の部屋に充満した、乃々香がいつも使うシャンプーの香りと彼女自身の甘い匂いが、俺の鼻に漂ってくる。もうたまらない。パジャマに飛びつく。何日も食事を与えられなかった犬のように、惨めに、哀れに、床に這いつくばり、妹の着ていた寝間着に鼻をつけて思いっきり息を吸い込む。-------これが俺。実の妹の操り人形と化してしまった男。実の妹の匂いを嗅いで性的な興奮を覚え、それどころか実の妹に対して歪んだ愛を向ける男。実の妹に嫌われたくない、嫌われたくない、と思いながら、言いながら、部屋に忍び込んでその服を、寝具を、嗅いで回る変態。…………だが、やめられない、止まらない。乃々香のパジャマをくしゃくしゃに丸め、そこに顔を埋める。すうっ………、と息を吸う。ここが天国なのかと錯覚するほどいい匂いが脳を溶かしてくる。もう一度吸う。さらに脳がとろけていく。------あゝ、どこだここは。俺は今、どこに居て、どっちを向いているんだ。上か、下か、それも分からない。何もわからない。--------
「ののかっ!」
気がつけば、声が出てしまっていた。-------そうだ、俺は乃々香の部屋に居て、乃々香のパジャマを床に這いつくばって嗅いでいたのだった。顔を上げ、そのパジャマから鼻を離すといくらか匂いが薄くなり、次いで視界も思考も晴れてくる。危なかった、もう少しで気狂いになって取り返しのつかない事態になっていたところだった。だが、パジャマから手を離し、ふと首を傾ぐとベッドの下が何やらカラフルなことに気がついた。見ると白いプラスチックの衣装ケースの表面を通して、赤色と水色のまん丸い影が二つ、ぼやぼやと光っている。こういうのはそっとしておくべきだが、そんな今更戸惑ったところで失笑を買うだけであろう、手を伸ばして開けてみると、そこには嫌にバカでかい、でかい、………でかい、…………何であろうか、女性の下着ということは分かるが何なのかまでは分からない。いや、大体想像はついたけれども、まだ信じられない。これがブラジャーだなんて。……………
とりあえず目についた一番手前の、水色の方を手に取ってみると、案の定たらりと、幅二センチはある頑丈なストラップが垂れた。そして、恐らくカップの部分なのであろう、俺の顔ほどもある布地がワイヤーに支えられてひらひらと揺れ動いている。片方しか無いと思ったら、どうやらちょうど中央部分で折り畳まれているようで、四段ホックの端っこが二枚になって重なっている。俺は金具の部分を持って開いてみた。………………で、でかい。…………でかすぎる。これが本当にブラジャーなのかと思ったけれども、ちゃんとストラップからホックからカップから、普通想像するブラジャーと構造は一緒なようである。……………が、大きさは桁違いである。試しに手を目一杯広げてカップの片方に当ててみても、ブラジャーの方がまだ大きい。顔と見比べてもまだブラジャーの方が大きい。とにかく大きい。これが乃々香が、妹が、中学生が普段身に着けているブラジャーなのか。こんな大きさでないと合わないというのか。……………いや、いまだに信じられないけれども、ところどころほつれて糸が出ていたり、よく体に当たるであろうカップの下側の色が少し黄色くなっているから、乃々香は本当に、この馬鹿にでかいブラジャーを、あの巨大な胸に着けているのであろう。そう思うと手も震えてくれば、歯も震えてきてガチガチと音が鳴る。今まで生で見たことが無くて、一体どれだけ大きな胸を妹は持っているのか昔から謎だったけれども、今ようやく分かった気がする。カップの横にタグがあったので見てみると、32KKとあるから、多分これがカップ数なのであろうと勝手に想像すると、彼女はどうやらKカップのおっぱいの持ち主らしい。………なぜKが二つ続いているのか分からないが、中学生でKカップとは恐れ入る。通りで膝枕された時に顔が全く見えないわけだ。
-------あゝ、そうだ、膝枕。乃々香の膝枕。アレは最高だった。もうほとんど毎日のようにされているが、全くもって飽きない。下からは硬いけれど柔らかい彼女の太腿の感触が、上からは、………言うまでもなかろう顔を押しつぶしてくる極上の感触が、同時に俺を襲ってきて、横を向けば彼女の見事にくびれたお腹が見える。それだけでも最高なのに、彼女の乳房にはまるでミルクのような鼻につくにおいが漂い、彼女のお腹にはあのとろけるような匂いが充満していて、毎晩俺は幼児退行を経験してしまう。だがそうやって、とろけきって頭の中から言葉も無くなった俺に、妹はあろうことか頭を撫でてくるのである。そして、子守唄でも歌ってあげようか、兄さん? と言ってきて本当に、ねんねんころりよ、と赤ん坊をあやすように歌ってくるのである。あの膝枕をされてどうにかならないほうがおかしい。もう、長幼の序という言葉の意味が分からなくなってくるほどに、乃々香に子供扱いされている。-------だが、そこにひどく興奮してしまう。彼女に膝枕をされて、頭を撫でられて、子守唄を歌われて、結果、情けなく勃起してしまう。俺はもう駄目かもしれない。実の妹に子供扱いされて欲情する男、…………もしかしたら実の妹の匂いで興奮する男よりもよっぽどおかしいが、残念ながら優劣を決める前にどちらも俺のことである。…………あゝ、匂い。乃々香の匂い。--------彼女の布団が恋しくなってきた。動くのも億劫だが最後にもう一嗅ぎしたい。…………………
これで最後である。もう日が落ちかけてきているから、そろそろ乃々香が帰ってきてしまう。この布団をもう一瞬、一瞬だけ嗅いだら彼女のブラジャーをもとに戻し、パジャマを出来る限り綺麗に畳み、布団を元に戻して部屋に戻る。まだまだ満足とは言えないが、こういう機会は今後もあるだろうから、今日はこの辺でお開きにしよう。
そんなことを思いつつ体を起こして膝立ちの体勢でベッドに体を向けた。布団は、先程めくったのがそのまま、ぺろりと青い毛布とシーツが見えている。そこに吸い込まれるように顔を近づけ、漂って来るにおいに耐えきれず鼻から息を吸う。------途端、膝が崩れ落ちた。やっぱりダメだった。たったそれだけ、………たった一回嗅ぐだけで、一瞬だけ、一瞬だけ、という言葉が頭の中から消えた。ついでに遠慮という言葉も消えた。我慢という言葉も消えた。ただ乃々香という名前だけが残った。頭を妹の布団の中へ勢いよく突っ込んだ。乃々香の、乃々香��まの匂いが、鼻を通って全身に行き渡っていく。あまりの多幸感に自然に涙が出てくる。笑みもこぼれる。涎もだらだらと出てくる。が、まだ腕の感覚は残っている。手を手繰り寄せ、上半身を全て乃々香の布団の中へ。------あ、もう感覚というかんかくがなくなった。おれは今、ういている。ののかの中でういている。ふわふわと、ふわふわと、ののかのなかで。てんごくとは、ののかのことであったか。なんとここちよい。ののか、ののか、ののか。……………ごめんよ、乃々香、こんなお兄ちゃんで。----------------
  気がついた時には、いよいよ日が落ちてしまったのか部屋の中はかなり薄暗く、机や椅子がぼんやりと赤く照らされながら静かに佇んでいた。俺はどうやら気絶していたらしい。まだ顔中には信じられないほどいい匂いを感じているが、それにはさっきまで嗅いでいた布団とは違う、生々しい人間の香りが混じってい、------------あれ? ………………おかしい。俺は確か布団の中で眠ってしまったというのに、なぜ部屋の中が見渡せる? それに下からは硬いけれど柔らかい極上の感触が、上からは顔を潰さんと重々しく乗ってくる極上の感触が、同時に俺を襲ってきている。しかもその上、ずっと聞いていたくなるような優しい歌声が聞こえてきて、お腹はぽんぽんと、軽く、リズムよく、歌声に合わせて、叩かれている。……………あゝ、もしかして。……………やってしまった。乃々香が帰ってきてしまった。ブラジャーもパジャマも床に放りっぱなしだったのに、布団をめちゃくちゃにしていたのに、何もかもそのままなのに、帰ってきてしまった。きっと怒っている。怒っていなければ、呆れられている。呆れられていなければ、もう兄など居ないことにされている。…………とりあえず起きなければ。----------が、体を起こそうとした瞬間、あんなに優しくお腹を叩いていた腕にグッと力を入れられて、俺の体は万力に挟まったように固定されてしまった。
「の、乃々香。…………」
「兄さん、起きました?」
「あ、うん。えっと、………おかえり」
「ただいま。------まぁ、色々と言いたいことはあるけどまずは聞くね。私の部屋でなにしてたの?」
キッと、乃々香の語調が強くなる。
「あ、……いや、………それは、……………」
「ブラジャーは床に放り出して、寝間着はくしゃくしゃにして、頭は布団の中に突っ込んで、…………一体何をしていたんですか? 黙ってないで、言いなさい。--------」
「ご、ごめん。ごめんなさい。………」
「-------兄さんの変態。変態。変態。心底見損ないました。今日のことはお父さんとお母さんに言って、もう縁を切ってもらうつもりです」
「あ、………あ、…………」
もう言葉も出ない。ただただ喉から微かに出てくる空気の振動だけが彼女に伝わる。が、その時、あれだけ体を拘束してきた腕の力が弱まった。
「……………ふふっ、嘘ですよ。そんなこと思ってませんから安心して。------ああ、でも、変態だと思ってるのは本当ですけどね。………」
「あ、うあ、………良かった。良かった。乃々香。乃々香。……………」
「あぁ、もう、ほら、全然怒ってないから泣かないで。そもそも怒ってたらこんな風に膝枕なんてしてませんって。………ほんとうに兄さんって甘えんぼうなんだから。………………」
と、言うと、またもやお腹をぽんぽんと叩いてきて、今度はさらにもう片方の手で頭を撫でてくる。俺は、乃々香に嫌われてなかった安心感から、腕を丸めてその手の心地よさに身を任せたのだが、しばらくして、ぽんっ、と強く叩かれると、頭を膝の上からベッドの上へ降ろされ、次いで、彼女の暖かさが無くなったかと思えば、パチッ、という音がして部屋の中が明るくなる。ふと目を落としてみると、いまだ床にはブラジャーとパジャマが散乱していて、気を失うまでの興奮が蘇ってきて、居ても立ってもいられなくなってきて、体を起こす。
「あれ? 膝枕はもういいんです?」
隣に腰を下ろしつつ乃々香が言う。
「まぁ、ね。いつまでも妹の膝の上で寝ていられないしね」
「ふふふふふ、兄さん、いまさら何言ってるんです。ふふっ、昨日も私の膝の上で子守唄を聞きながら寝ちゃっていたのに。--------」
「うぅ。……………それはそれとして、ごめんな。こんな散らかして」
「別に、このくらいすぐに片付けられるから、何でもないですよ」
------それよりも、と彼女は言って俺をベッドの上に押し倒し、何やら背中のあたりをゴソゴソと探る。
「今日は何の日でしょう?---------」
今日、…………今日は確か二月一四日、…………あゝ、バレンタインデイ。……………
「せっかく、本当にせっかく、昨日兄さんに見つからないように作ったんですけど、妹のブラジャーを勝手に手に取る人にはちょっと。…………」
「ほんとうにごめんなさい。乃々香様、チョコを、--------」
と、ふいに、顔の上に白い大きな、大きな、今日嗅いだ中で最も強烈に彼女の匂いを放つ布、-------四つのホックと二つのストラップと二つのカップからなる布が、パサリと、降ってきた。
「ふご、………」
「兄さんはその脱ぎたてのブラジャーと、……この、特製の、兄さんを思って兄さんのために兄さんだけに作ったチョコレート、どっちがいいですか? と言っても、そこに落ちてるブラよりもっと大きいし、それに私さっきまでバレーしてて結構汗かいちゃったから、チョコ一択だと思うけど。…………」
ブラジャーのあまりにも香ばしいにおいに脳を犯され、頭がくらくらとしてきて、ぼうっとしてきて、またもや乃々香のにおいで気を失いそうだが、なんとか彼女の手にあるハート型の可愛いラッピングが施されたチョコレートを取ろうと、手を伸ばす。…………が、途中で力尽きた。
「落ちちゃった。……………兄さん? にいさーん?」
「ののか。……」
「生きてます?」
「どっちもほしい。…………・」
「そこはチョコがほしいって言うところでしょ。…………まったく、変態な変態な変態な兄さん。また聞きますから、その時はちゃんとチョコがほしいって言ってね。---------」
と、言うと乃々香は俺を抱き上げてきて、こちらが何かを言おうとする前に俺の顔をその豊かな胸に押し付け、後頭部を撫で、子守唄まで歌いだしたのであるが、いまだに湿っぽい彼女の谷間の匂いを嗅ぎながら寝るなんて、気を失わない限りは到底出来るはずもないのである。---------
  (おわり)
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