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『万引き家族』の感想

今回は是枝裕和監督の『万引き家族』。カンヌのパルム・ドール受賞ってこともあってミーハー心をくすぐられたオレはさっそく先行上映で観にいきました(1回鑑賞)。 自分の是枝チェック度というと、『空気人形』『そして父になる』『海街diary』『三度目の殺人』は観てて、どれもそこそこ好きって感じです。 で、この『万引き家族』なんですけど、役者さんの演技もいいし、��像もいいし、いつもどおりの抑制の効いた感じというか、ジリジリするあの感じも好きで、良い作品…のような匂いはする…、と思いつつも、なんだか腑に落ちないところがいろいろあるなぁ、って感じで(これは『三度目の殺人』でも似た印象)、観終わった後あれこれ考えれば考えるほど、不満が出てくるという(よくある)タイプの映画。 なので、軽く褒めつつも、そのひっかかるところを消化してみようと思ったしだいです。書いてるうちに考えがまとまることってあるからね。
▽いちおう軽いあらすじと人物/キャストおさらい 東京の下町の超ボロボロの家に暮らすとある底辺一家。おばあちゃんの年金と、わずかの労働、そして万引きによる食料・日用品の調達による合わせ技で暮らしていた。ある日、近所の団地の廊下で部屋から締め出されている幼い女の子をみかねて連れ帰ってしまうが…。 ・おばあちゃん 初枝/樹木希林 ・治/リリー・フランキー ・治の“妻” 信代/安藤サクラ ・信代の妹 亜紀/松岡茉優 ・治の“息子” 祥太/城桧吏 ・連れてきた女の子 じゅり/佐々木みゆ
▼家のよさ 劇中で一家が身を寄せ合って暮らすガチでボロボロの家。映画を観ながら「このガチで汚ぇ感じは美術スタッフのエイジグじゃなくてガチかな」と思ったら、やっぱりスタッフが都内で探し当てたガチのボロボロの家だそうです。セットじゃない、と。このちょうどいい家が見つかったってのが、この映画の見た目的な部分での成功に大いなる貢献をしてるし、「こんな家入ったら絶対めちゃめちゃ臭そうだな」っていう、ふすまの汚さ、風呂の汚さ。うっそうとした庭木が秘密の家庭を隠している感じ。どれも良好。なんというか、こんなボロ汚い家が都内にまだ残ってるし、「空き家問題」なんてものありますけど、そういう日本が抱えてる、まだ解決し切れてない負の遺産みたなのの象徴っつーか、それを映画のセットとして実際に使うことができたってこと自体がひとつ象徴的な出来事みたいにも思えます。
▼で、演技の良さ なんといっても、保護された女の子「ゆり/じゅり/りん」役の佐々木みゆちゃんの、あのなんとも言えない“顔”の感じがめっちゃ良いですよね。あと、髪型も。「マジでどこかで拾ってきたのか!」という感じもある。みゆちゃん最高です。めちゃめちゃかわいい。 あと、ババア役の樹木希林。入れ歯ナシモードでの参戦ということで、マジでいつもより数倍老けて見えるし、目つきのヤバみもいつもよりも数段上って感じで、観てて本当に「マジでボケてて、マジですぐ死にそうだな!」という感じ。観る前は「映画でババア出てくるときは全部樹木希林かよ、またかよ」って正直思っちゃったところもあったけど、観終わったあとでは「ババアの完成形だな!」というよくわからない感想を抱きました。(それでもやっぱりまたかよ感はあるんですけど…) あと、安藤サクラ。劇中で、警察との会話シーンとか、クリーニング屋の同僚に「バラすぞ」の話をされるときとか、カメラが真っ正面から安藤サクラを捉えて、とてもデリケートで説得力のある芝居をしなきゃいけないシーンを、ちゃんとやってて(当たり前だけど)、素直に、うーんよくやり遂げたなぁ、えらいなぁと思いました。“リアル”と言っていいのかわからないけど、是枝映画全体の雰囲気からして、そこいらの映画とは一線を画した、生々しくてジリジリする演技をしなきゃならないわけで、それをちゃんと受け止めてやり遂げられる役者さんってことで、すごいなと思いました。 あと、池脇千鶴の太り具合がよかったです。
▼で、けっきょくイマイチ じゃあ自分的にいい映画だったのかと言われると、やっぱりイマイチだと思ってて、それは、けっきょく何が言いたいのか、なにを提示したかったのかがボンヤリしてる印象があるから。『そして父になる』の方がまだ明確でよく伝わってくるものがあったのに対して、この映画って、なんだろう、「万引きはいけません」ってことが言いたいわけじゃないでしょう?「罪でつながる家族があってもいいじゃないか」という方面のメッセージを伝いたい部分もあるのかもしれないけど、そんな気持を喚起させるような描写、つまり、観客が罪を重ねる登場人物たちに“同情”する、まさに“情状酌量”する部分がちゃんと伝わってこないからだと思うんです。あの境遇に追い込まれる不可抗力の感じが伝わってこない。 そもそも、あの夫婦(実際には夫婦じゃないけど)の子ども「祥太」は、自分が理解した範囲だと、 「ある日、パチンコ屋の車を車上荒らししたら、中に幼子が放置されているのを発見。子どもが居ることを知らせると自分が車上荒らししたことがバレるし、治と信代は、子どもが欲しいけど子どもができない状態なので、つい連れてきてしまった」 ということだと思ってます(違ってたらごめんなさい)。 ある程度はその心情もわかります。車に放置するような親のとこにいるよりもマシだろう、って言い訳なんですけど、それはそれで誘拐だし、もっと不可抗力的な状況で二人が追い詰められているなら同情の余地はあるんですけど、自ら行った犯罪であるし、むしろ子どもが、夏のパチ屋の駐車場で熱中症で死にかけていたから、というのをひとつの“自分たちへの言い訳”として誘拐を正当化してしまうという心の弱さが発端で、あんな窮屈な暮らしをしているわけで。リリー・フランキー効果もあって、一見そんなに憎めないような存在に描いてはいるけど、実際はほんとうにただのヤバい奴なんですよね。だから、同情の念が起きにくい、と。 「二度目の誘拐」であるじゅりちゃんの保護も、たしかにいっぺん返しに行ったし、じゅりの家庭はネグレクトというかほぼ虐待状態でめちゃくちゃ、それは確かにわかるけど、それも結局、自分たち、とくに信代の側の、子ども欲しい欲(美しく言えば、どうしても捨てきれず、抑えきれない母性)により、リリー・フランキーはけっこう返す気持が強そうだったところを、半ば強引に連れ帰ってきてしまったわけで。 確かに、じゅりちゃん自身も、あの万引き一家の方を選んだってことで、実の親がヒドい場合は別の家庭で生きていくほうが全然マシ、─その辺は『そして父になる』の変奏でもあるんですけど─、それは確かにそうだとは思うんだけど、判断力がちゃんと育ってない子どもへのむちゃくちゃな2択だけで“選んだ”ってことにしちゃうのは、かえってとてつもなくヒドい無責任さの表れであって、だってあのまま育てたとして、じゅりちゃんの将来どうすんの? 信代のセリフで「選んだ絆の方が強いんじゃない?」と言うけど、いや、ただの誘拐なんだし、そんなニコニコしながら爽やかに言うセリフでもないからね…って感じがして。 治と信代がもっとちゃんと育てるならわかるけど、万引きさせて、身分もちゃんと名乗れない状態になって、将来性ゼロじゃないですか。一時避難的に元の虐待家庭から遠ざけたとしても、ただたんに「別の種類の地獄」に変化してるだけでね。それを映画ではなんとなくリリー・フランキーと安藤サクラの人の良さそう感でどうにか取り繕ってるけど、地獄には変わりないからね。そこは結局大人のエゴで振り回してるだけって意味では変わらないんですよね。だから不快に感じる人もきっと多いはず。 じゃあ、万引き一家にある程度の正当性を見いだすための対比として、“じゅりの家庭”がどれくらいヒドいのかについて考えたいんですけど、そのヒドさが映画としてちゃんと伝わってない(自分にはね)という感触があって、虐待受けてるならもっと火傷の跡とかあってもいいし、じゅり家の描写がほっとんどないから、「どう、どのくらいヒドいのか」がそれほどちゃんと伝わってこないんですよね。 そりゃまあ、火傷させたり、冬の日に部屋の外に出しといたりは、ヒドいですよ、でもかといって万引きさせて、犯罪者として今後生きていかせるのもいいのかよってことですよね。そもそも、一度でも児童相談所とか警察に連絡しようと思ったのかよって話。匿名でもいいじゃん連絡は。結局、あの一家を、本当の意味で救うのは、罪をちゃんとかぶることなわけで、警察に捕まってよかったねって話なんですけど、警察、とくに池脇千鶴をちょっと悪い人的に演出するあたり、是枝さんちょっと、印象操作ヒドくない?って思います、率直に。 というわけで、普通は(?)「万引き家族だけど、そんな家族になってしまったのは、いたしかたない状況によるものだし、それを除けば良い面もあるよね。かわいそう。。。」的なふうに受け止める映画なのかなーと思うじゃないですか。でもどうやらそうでもなくて、実は結局、「どっちの家族もクソ」という状況の映画なんですよね。そのくせに、あの一家をどこか一種の楽園的に描いているので、結果として何が言いたいのかよくわからない映画になってしまっている、と。 で、最後にこの万引き一家を破壊するのが、祥太くん。この映画の唯一の希望というか、本人曰く「わざと捕まった」ことで、万引き一家のすべてを崩壊させた、ラピュタで言うところの「バルス!」効果を発動させた男の子で、このコの存在がこの映画のキモというか、唯一腐りきっていないのは、ピュアな子ども。しかも、妹のような存在ができたことで、いつも自分がしている万引きという犯罪行為をちゃんと客体化して見ることができて(駄菓子屋のおじちゃんのこともあって)、それにより、このままじゃいけないって思ってくれたっていう、救いのあるヤツ。ちゃんと更生していい大人になって欲しい。 この「唯一正気なのが若いコドモ」ってあたりは、昨今の日大アメフト問題なんかがどうしてもオーバーラップしちゃって、結局大人はダメダメな人ばっかりだし、そんな中、若い人のピュアさが結局世の中を浄化していくんだっていう点が、僕がこの映画をみて唯一しっくり来たメッセージです。でも、だからこそ、映画よりも現実の方がわかりやすく善悪がわかれてたりするんだなぁって思っちゃって、よく映画とかでは「善悪はそんなに簡単にわけられないんだっ!」みたいなことを言いたがるけど、いや、現実の方がわかりやすく、ダメなやつはダメというか、日大の広報とか、紀州のドンファンの嫁さんとか、ものすごくわかりやすい漫画っぽいキャラじゃないですか、なんてことを最近のニュースを見て思います。映画という創作物の方がそれに負けてる。
▼「わざと捕まった」? …えと、でもこの祥太の「わざと捕まった」ってセリフも受け取り方がちょっと微妙なのがくせ者で…、捕まって家族に転換点を与えるのが最初から目的だった…、という解釈が基本ではあるんだけど、だとしたら、店を出てすぐに捕まってもよかったはずだし、わざわざ橋?から落ちて足をケガする意味がよくわからなくなってくる。じゃあ、「じゅりちゃんを庇うためにわざと」という限定的な意味に受け取るのだとすると今度は、治たち家族のことを本当に考えて、“コレではいけないと思ってワザと”捕まったっていう解釈で生まれる「美談の度合い」が弱くなってしまう、と。んー、どの段階でわざと捕まろうと思ったんだろう? じゅりを庇うためにとっさに店員の気を引いたのは確かだと思うけど、あんだけ疾走して逃げるんだから、その段階では逃げる気マンマンだったはずだし、ケガ覚悟で飛び降りたんだから、本当に最後まで逃げ切るつもりだったのかもしれない、ってことは、「わざと捕まった」っていう語りそのものが、治に反省をうながすためのウソなのかい?っていう風にも、考えることができちゃうし…、結局、是枝監督の見せ方が、ちょっと曖昧なために、なにをどう感動していいのかよく伝わりきらずにぼんやりしちゃってるところがあるんじゃないですか、っていう感想なのです。
▼お前はそれでも万引きのプロか そもそも、ディテールに対してのツッコミとして、まず生活の一部になってるぐらい万引を日常的にやっている“プロ”の万引き犯なら、万引きする前にあんなジェスチャーしない、と。これは観た人全員不自然に思うんじゃないかなー。あの指回しをしておでこに手をチョンってやるおまじないみたいな仕草ね。アレなに? 監督の配慮として「これから万引きしますよ~」っていうのを観客に周知するための装置なのかなんなのか知りませんけど、なんかすげー余計なことをやってしまったなって感じする。なくても別に映画としては成立するはずだし。店員の目を盗んで一瞬でヤらなきゃいけないことなのに、あれで3秒ぐらいムダにしてるし、万が一、人に見られてたら余計に不自然だし。映画全体がある程度リアルに、生々しく撮られているだけあって、そこだけ妙に浮いたムダな装置だなって感じ。あれで万引きシーンの緊迫感が削がれてると思う。もっともっと自然にササッと盗む方が、「完全にあの罪深い生活が体に染みついてしまっていることの悲しさ」みたいなのが出るんじゃないかという気もあるし。万引を日々行っているという設定のわりに、なぜか慣れてない感じが出ちゃってるし、どっちつかずなんだよ、そこも。
▼ごめん松岡茉優 どうやら松岡茉優のキャラクターは元々、もっとポッチャリしたキャラクターの予定だったようだけど、なんか知らんけど、普通にかわいい松岡茉優になっちゃったみたいです。そこは絶対に普通にちょいデブ(ブス?)のいかにもダメそうな女の子の方が悲哀があって良かったでしょう。ブスでメンヘラだから普通の仕事ちゃんとできないけど、とりあえずJK風俗で働いてます、根はすごくおばあちゃんコで優しいです、って方がよかったのになああああ。日和ったな。代わりのちょうどいい太めの女優が思いつかないので、これは無名な女優さんでも全然いいから、もっと哀愁ある女子の方がよかった。松岡茉優って普通にすげーかわいいだけじゃないですか。あの家庭からもわりと浮いた存在になっちゃってるからね。実際のところ。 あと、そのJK風俗に現れる4番さんこと、池松壮亮の描き方の雑さはなによ?具体的なエピソードなどなんもなしで、ただ泣いて「えー、あとは観客が各自に悲しい背景を想像するように」って、さすがに適当すぎる。なんだろう、この『万引き家族』って映画は当然、世の中のいろんな映画とかドラマの監督さんも観るだろうけど、「え!? あの是枝さんが手がけて、その程度でいいの?!ズルくない?!」って絶対に思うはず。意外と適当なところもある映画だな〜という感じ。
▼なにがダメだと思ったかのまとめ 「万引き一家も社会の被害者」と言うのであればその説明が不足だし、 「万引き一家はただの悪い奴」と言うのであればそのわりにポジティブな雰囲気で描きすぎだし、 結局、万引き一家って「そんなに万引きする必要がなさそうな境遇でもあるのに、臆面もなくヘラヘラと罪を重ねすぎ」ている存在って感じで、ただのヤバイやつらにしか思えない、そのくせになんだかいい人そうな雰囲気もある、と。 つまり、 祥太があの一家から抜け出すというクライマックスが観客に喚起できる感情として2つの方向性があって、 (1)クソダメな家族から抜け出せたという、“嬉しさ”のベクトル=観客にとってのカタルシス (2)良い家庭から引き剥がされてしまうという、“悲しさ”のベクトル なんだけど、あの家族は「クソダメ性vs良い人性」という、互いに打ち消しあってしまう要素がうまくミックスもせずにただ並列してるだけなので、(1)と(2)、どちらのベクトルの感情をも高めきることができず中途半端に終わってしまった、という感じです。 で、しかも、その矛盾ぷりが登場人物の実在感も下げていて、映画全体としては説得力がない。せっかくいろんな社会問題へと想いが広がっていきそうな要素を散りばめていながらも実はリアリティ不足で、ただの「是枝的要素を寄せ集めたただの作り話」って感じになっちゃてる印象。 この「(やってることは)悪い人だけど、(根は)良い人」っていうのをちゃんと成立させるためには、「やっている悪いことが、それ以外の選択肢がない、本人たちにとってどうしようもない境遇・不可抗力によるものである」という設定が必要になってくるんですけど、この映画ってそれを感じさせる部分があんまりないんですよね。治も信代ちゃんと仕事探して働けばいいし、じゅりちゃんのことも樹木希林とか民生委員を通じて通報でもすればいい。
▼次は全然違うテーマの映画でおなしゃす よく言えば、是枝さんはテーマが一貫してるってことなんだろうけど、「多様な(家族の)絆」映画ってもう何度もやりすぎって感じがするし「また、樹木希林とリリーさんか…」って内輪で廻してる感じ(福田組かよみたいな)も含めて、是枝さんが自分の過去作の要素を繋ぎ合わせただけみたいにも見えちゃうし。。。カンヌでの評価とは裏腹に、反復とコラージュで作られた惰性のようなものも感じちゃう。そうなると、やっぱりそのコラージュ元である『そして父になる』あたりの方が、作りが純粋なぶん、強度があるというか、自分としては断然、メッセージがちゃんと伝わってくるし、作品としてのまとまり感も高いと思います。なので、次回作はいっぺん全然違う方向性のやつをやってリフレッシュしてほしいっす。 ──────────────────── 『万引き家族』 http://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku/ 監督・脚本:是枝裕和/撮影:近藤龍人/音楽:細野晴臣 出演: リリー・フランキー、安藤サクラ、松岡茉優、池松壮亮、城桧吏、佐々木みゆ、緒形直人、森口瑤子、山田裕貴、片山萌美、柄本明、高良健吾、池脇千鶴、樹木希林 (C)2018フジテレビジョン ギャガ AOI Pro.
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『シェイプ・オブ・ウォーター』��感想

この映画について語るなら、何を話そう? いつ観たかって? 公開初日のレイトショーとその一週間後。 観た場所を教えようか? 海には近いけれど ほかには何もない田舎町(実際そうなのです) ハンサムな王子の時代はきっとまだ終わらないけど、この映画がひとつのアンチにはなっているだろう。 声を失った王女はとてもステキだった。 または警告しておこうか? もちろんネタバレ全開だしちょっと長いってことを─。 ・ 今回消化したいのは『シェイプ・オブ・ウォーター』。劇場で2回鑑賞。 とても面白かった!音楽も好き!「半魚人とのラブロマンス」ということだったので、もっとホワホワとして、かつちょっと難解な部分もある映画かなぁと思ってたんですけど、実際にはけっこうスパイ映画成分多めで、サスペンスフルハラハラ展開がベース、なので意外と万人向けな感じもする映画でしたねぇ。全体的なおもしろさ自体はけっこう直接的にわかりやすくて、説明はあんまり必要ないんですけど、細々した部分でいろいろ「あーなるほどね」みたいなのが多くて、しかもそれがなんつーか、芸術的に意味深だし、面白いのでいろいろ考えちゃう。でもまぁこの映画の良さの肝はやっぱりそのロマンチックさ。想像が膨らむあのラストを思い返すたびギュン!ってなります。 ちなみに「パシリム」と「パンズ・ラビリンス」は観たことあって、パンズは観たのが昔すぎてそんなに記憶ないけど良かった印象で、パシリムは別にそれほど好きじゃないので、ようするにギレルモ・デル・トロの熱いファンとかではないです。 「大アマゾンの半魚人」とかは観てないです。アンデルセンの「人魚姫」は読みました。
■いちおうコピペあらすじと主な登場人物おさらい 1962年、アメリカ。政府の極秘研究所に勤めるイライザは、秘かに運び込まれた不思議な生きものを見てしまう。 アマゾンの奥地で神のように崇められていたという“彼”の奇妙だが、どこか魅惑的な姿に心を奪われたイライザは、周囲の目を盗んで会いに行くようになる。子供の頃のトラウマで声が出せないイライザだったが、“彼”とのコミュニケーションに言葉は必要なかった。音楽とダンスに手話、そして熱い眼差しで二人の心が通い始めた時、イライザは“彼”が間もなく国家の威信をかけた実験の犠牲になると知る─。 【主な登場人物】 主人公/イライザ(声を失った孤独な女性) イライザの隣人/ジャイルズ(ゲイの絵描き) 掃除婦仲間/ゼルダ(黒人のおしゃべり女性) 施設の警備/ストリックランド(電気警棒が武器) 良心的なロシアスパイ/ホフステトラー博士(本名:ディミトリ) 不思議な生き物/半魚人の“彼”(ハゲを治せる)
■新しいヒーロー映画としての一面 てなわけで、アメリカの研究施設から半魚人ちゃんを盗み出すというヤベェ展開なので、けっこうヒヤヒヤものなんですけど、一般的には映画の中でそういうミッションインポッシブルなことをやり遂げるのって「超優秀なスパイ」だったりするんですけど、この映画では一介の「掃除婦」(と貧乏絵描き)。しかも愛や友情が動機となってそれを成し遂げる。そこがひとつ萌えポイントですよね。スパイ映画は毎年飽きるぐらい何本も公開されているんですけど、なかなかないタイプかなって。 掃除婦イライザは“彼”への愛のために、イライザの隣人ジャイルズは唯一の親友イライザのために、掃除婦仲間のゼルダもまは友情のため、ホフステスラー博士はミッションを超えて美しい生き物への一種の科学的な崇拝のために。 声を失った掃除婦、ゲイの貧乏絵描き、当時はまだまだ差別されていた黒人、そしてロシア人スパイ、という当時のアメリカの中心からしたら「アウトサイダー/弱者」な人たちが協力して、冷戦のために一つの美しい命を蹂躙しようとした大国アメリカに立ち向かったっていう構図なんですけど、ある意味では『アベンジャーズ』みたいな「超強い超かっこいい集団が巨悪を倒す」っていう、もはや“ありきたり”な構図へのアンチにもなってて、そこまた痛快でカタルシスもあるかなって。『アベンジャーズ』いったい何本作る気なのよ?
■いろいろ含まれてる冒頭の語り。王子・王女・モンスターについて。 で、それとちょっと関連して映画冒頭の語り(あれジャイルズの?)を引用します。 ・ “あのことについて語るなら、何を話そう? そうだな、いつの話かって? あれはハンサムな王子の時代が終わりに近づいたころ 場所を教えようか? 海には近いけれど ほかには何もない田舎町 または、そうだな… 彼女について知りたい? 声を失った王女のこと または警告しておこうか? 真実と─ 愛と喪失の物語について そしてすべてを壊そうとしたモンスターについて” ・ で、この中から三箇所ほど気になるというか、おもしろいなって点を挙げます。 ①「ハンサムな王子の時代が終わりに近づいたころ」。 この言葉でいわば、ダイレクトにこの映画の立場を宣言してるというか、この映画の王子様は、醜く不気味でもある半魚人、相手の王女様は、いわゆる美人とはちょっと違うアラフォーの掃除婦。どんな映画でも、けっきょく「優秀な美男美女」が活躍する話だったりして、今後もそういった映画はずっとずっと作られ続けていくんですけど、あえて挑発的に「ハンサムな王子の時代は終わです」って宣言してるところがまた痛快でシニカル。監督のギレルモ・デル・トロ自身も「美女と野獣はけっきょくハンサムな王子に戻るから好きじゃない」みたいに言ってますけど、じゃー、この映画の半魚人ちゃんがハンサムじゃないのかっていうと実はちょっと微妙な気もして、スタイルは良いし、世界で唯一の生き残りの種かもしれない希少性と、神のような治癒力の魔法を持つことから、やっぱり「特別な王子様」性はもっちゃってるわけだから、映画や物語でラブを描くにあたっては、どうしてもあらゆる意味での“スペシャル”な人との恋愛を描かざるを得ないんじゃないかっていう一種の呪縛は残されたままなのかなぁって気もします。
②で、次「声を失った王女(プリンセス)」って部分。 この王女って言葉は、最終的に王子様と結ばれた人、ってだけの意味で考えて納得してもいいんですけど、イライザの首に生まれつき(?)3本のキズがあるってことと、それがラストでエラに変化することから考えて、あらかじめ結ばれる運命を「決定づけられた存在」ではないかということが予感させる語りになってるなぁって、まあこれは当たり前なんですけど。
③で、次、「すべてを壊そうとしたモンスター」。 映画をはじめて観たときは、モンスターだから半魚人ちゃんのことなんだろうなって思ってたんですけど、映画を観終わって落ち着いてから、この文章のことを考えてみたら、「ん? べつに半魚人ちゃんって“すべてを壊そうと”してなくない?」って思ったんですよね。じゃあこのモンスターってなんだ?ってなったんですけど、この映画の中で唯一明確に「壊されそうになった」ものって半魚人ちゃん自身ですよね。それを壊そうとしたのは、直接的には、悪役のストリックランド。電気警棒を持ったあの人です。ストリックランドは非常に怖く描かれているので、彼をモンスター扱いしてそれで済ましてもいいんですけど、彼は彼であくまで中間管理職的なポジションというか、彼の上には全然頭の上がらないモルト元帥がいて、モルト元帥の上にはアメリカそのものがある─。つまりモンスターってアメリカのこと?って思うんですけど、「すべてを壊そうとした」っていうのもちょっと大げさ。なので、もっとしっくりくる解釈に辿り着こうとしたら、モンスターっていうのは人類が起こす“戦い”っていう概念そのもの、という解釈が自分的には落ち着きます。じゃあその戦争はなぜ起きるのかっていうと、この映画のメインテーマである、「アウトサイダーへの愛」との逆の排他的な思想/精神ですよね。それがひいては「すべてを壊す」ことに繋がるぞっていう平和のメッセージをオシャレに込めているあたり、とても素晴らしい…っ!
■プリンセス・イライザのこと/人魚姫 この主人公イライザ。2回目観たときにちゃんと把握したんですけど、「川で拾われた(?)孤児」なんですよね、しかも「生まれつき不思議なキズが首にある」ってことで、じゃあもう、元半魚人?みたいなこと?! って考えると、この映画のはじまるまえの物語にいろいろ想像が膨らんでしまって…。 この映画と関連して『人魚姫』ってアンデルセンの童話が挙げられたりしてますけど、そのお話って、たまたま本持ってたんで読み返してみたんですけど、主人公は海の底に住む人魚の王族の六人娘の末っ子。ある日、船で難破し海に放り出された、まさに「ハンサムな王子」を助けて好きになってしまった人魚姫は、魔女の力により「声を失う」代わりに足を得て人間になります。ですが、最後はけっきょく失恋して死ぬっていう、なかなかヒドい話なんですけど、イライザも「声を失っている」し、「元々ある首のエラ状のキズ」「川で発見」ってことで、イライザが実は元半魚人で、男性の方の半魚人ちゃんと実はもともと結ばれれていた存在だったけど…とか考えると想像が広がりすぎて、もう収集つかなくなります。半魚人王子が彼女の元にはるばるAmazonから配達されてきたのも、とっても運命的だし、結末はある意味では彼女の“死”なんだけど、半魚人としての“再生”でもあるので、悲劇とハッピーエンドが交錯して、いったいどちらの話なのか最終的なシェイプが定まらないあたりの深さも面白いっす。あとなんか、イライザ(サリー・ホーキンス)さんって言ってみればサカナ顔だしね…。
■不自由な男たち 映画全体にずっと登場し続ける「水」というモチーフが、ひとつには「自由」を象徴しているかと思いますけど、それと対照的にこの映画に登場する男性諸氏は、悪役のストリックランドをはじめ、それと逆の「不自由さ」の足かせをつけられた、固着した存在として描かれています。 ストリックランドは、薬やキャンディーや警棒が手放せず、上司のモルト元帥には頭の上がらない存在で、不本意ながら田舎の暗い地下施設の警備を任されています。 隣人のジャイルズは、カツラが手放せず、ゲイであることを隠して生きている。 ホフステトラー博士は、アメリカとロシアどちらからも、いつ始末されてもおかしくない身分。 半魚人ちゃんは、鉄の棺に閉じ込められたり、あるいは重い鎖に繋がれています。 ゼルダの旦那は、腰痛のため、椅子からほとんど動くことができません(彼は仕事をしてるんでしょうか?)。 これと対照的にイライザとゼルダという二人の女性は、社会的弱者で暗い地下施設の掃除係でありながらも、その身分の中で十分に気ままに楽しく仕事をしているようです。けっこう緊張感のある職場な感じするんですけど、ゼルダったらずっとおしゃべりしっぱなしで、なんか宙に吊るされたデカイ機械もふつうのはたきでパタパタ掃除するあたりのシーンもユーモラス。 そしてダンスや音楽や映画が好きなイライザは、慎ましい生活の中でも、決して自由な心を失ってはいない。
■ストリックランドと緑と白に依存する男たち 映画の一番の悪役はマイケル・シャノン演じるストリックランドさんなんですけど、彼の醸し出す緊張感なしにはこの映画のおもしろさは絶対に成立しないぞってぐらいの存在でとても重要な役どころ。強硬なアメリカを象徴しているといえばそうなんでしょうけれど、悪役ではあるけど、最後は殺されてしまうのでちょっとかわいそうかなって気もします。彼はすごく偉そうにはしてるけれど、組織全体からしたら身分はそんなに高くないぞって感じで、しかもモルト元帥にビビってる存在です。半魚人に指2本喰われるわ、買ったばっかりのキャデラックを壊されるわで、「ギレルモさんちょっと酷くない?笑」って印象もあります。キャデラックにさぁ、ぶつかりそうになってギリギリあたらないとか、ちょっとドアが凹むだけ、とかでもよかったんだけど…、まー、あのシーンを痛快に思える人もいるんでしょうけどねぇ。 ストリックランドはイライザやゼルダのミドルネームについて旧約聖書がどうのこうのと、かなり聖書に詳しい知性はな部分も垣間見せるので、もしかしたら幼少期にはかなり厳格に育てられたんじゃないかって想像もしちゃいます。いや、もしかしたら当時のあの年代のアメリカ人にとってはある程度当然の知識なのかもしれないですけど。 考えてみると、アメリカ政府にとっての“道具”である点においては実はストリックランドも半魚人ちゃんも同じ立場で、それゆえにストリックランドは半魚人ちゃんにきつくあたるのかって感じもあります。まるで不自由な自分自身を鏡に映して見ているかのようで。半魚人が運ばれてきたときの水槽みたいな緑色(ティール)のキャデラックに乗ったり、半魚人ちゃんのお風呂に塩とかが必要なように、彼も常に薬を服用しなければならない存在。そんな風に、対照的な立ち位置ながらも、呼応する部分もある似た者同士でもあります。 ちなみに、半魚人の風呂に入れなきゃならない成分は確か緑っぽい粉と白い塩で、ストリックランドが口にするのは、緑のキャンディーと白い薬じゃないですか?このへんの呼応のさせ方もね、かなり計算されてます。 さらにジャイルズが食べに行かなきゃならないのは、緑のゼリーに白いクリームが乗ったキーライムパイ。ここまでピチッときている呼応は偶然ではないはず。
■緑と青と赤/海の部屋のお姫様 そんな風に“色”も印象的なこの作品。 映画鑑賞2回目ともなると、ストーリーを理解するための脳のリソースに余裕ができて、美術などを眺める余裕が出てきます。 ビジュアル面でずっと強調されるのは、美しいグリーンとブルー、そしてそれへのアクセントとしてのレッド。前述のキャデラックの色は「ティール」と呼ばる青緑だけど、検索してみるとこれ「鴨の羽色」だそう。“彼”も青緑だし、掃除婦の制服もそんな色だし、研究施設内のあちこちのセットや、街の「 TV」のネオン、まずいパイの店内のネオン、などなどもきれいな緑色。そして、それとのアクセントで印象的に赤が登場。ジャイルズはゼリーを赤から緑に変えさせられ、劇中には赤軍というワードも登場。ストリックランドは赤い電話からかかってくる元帥からの電話に怯えている。赤い血の手形は3回ほど登場し、映画館のシートも赤。“彼”と結ばれたあとのイライザは靴もカチューシャも赤に染まって、当初、深緑のコートや、優しい黄緑のカーディガン?を着ていたイライザは、ラストには真っ赤なロングコートを着こなす女性に。そんな色彩設計の確かさ・美しさもとても素敵。 ところで美術に関してですけど、パンフにはイライザの部屋に葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」の絵が描かれているってあったので、どれどれっつって2回目観たときに気にしてたけど、ごめん、それはわからなかった。ただ壁にいわゆる日本伝統の「青海波」の文様があるのはわかります。日本びいきのギレルモさんらしいってことか。ちなみに青海波はチラシのビジュアルにもあります。 つまり、イライザは“海の部屋”に住んでるお姫様ってことなので、そうかやっぱり人魚姫なんだなぁって。
■You'll Never Know ビジュアルだけでなく音楽も重要なこの映画。テーマソングは劇中で2回、エンドロールでも流れる「You'll Never Know」。元は1943年の映画音楽みたい。本作ではルネ・フレミングさんが歌います。 歌詞は、“私がこんなにも愛していることをあなたは知ることがないでしょう”みたいな歌詞です。切ないでしょ。 この歌詞の元の意味合いは当然、人間と人間の恋愛がモチーフで、「なんらかの事情」で想いを伝えられないって歌詞でしょ、つまり、遠く離れてしまったから伝えられない、みたいなことがまず一つ目の意味としてあるんですけど、この映画でイライザのメッセージとしてこの歌が歌われるときには、その「なんらかの事情」として第一に挙げられるのが、相手が「半魚人だから」なんですよね。この、そもそも「種が違う」っていう絶対的な隔たり。たしかにお互い愛し合っているし、ある程度思いが通じ合ってはいるんだろうけれど、人間を相手しているときのようなコミュニケーションはできない。たとえイライザが言葉を喋れたとしても、ですよね。その切なさ。両思いだけどどこか片思いっぽさも残ってるっていう特殊な状況をちゃんと想像してみると、そこがまた余計に切ないなぁって。このテの違う種族と愛し合う異類婚姻譚的な話はたくさんあるんですけど、そういうおとぎ話ってけっこう相手の動物も人間と同じように話せてコミュニケーションがちゃんと取れるっていうのが前提になってることが多くないですか? そこへきてこの映画のコミュニケーションの不自由さって意外と斬新なんじゃないかって感じがします。 で、その種の違いによるディスコミュニケーションだけじゃなくて、もうひとつ、この愛が「You'll Never Know」になってしまう理由をあげるとしたらやっぱり死ですよね。イライザは最後に死んでしまったんだ、そう考えると本当に永遠に「Never Know」のままなので、これまた切ないです。死にゆくイライザの最後の想い、別れを告げる歌ともとれます。 そしてですね、さらに視点を変えて、“半魚人ちゃんから”の視点でもまた「You'll Never Know」な気持ちを想像することもできるじゃないですか。半魚人にとっても異種族である人間の女性に愛を伝えることができないっていうもどかしさもあるんじゃないか。ペットを飼っている人は多いと思いますけど、犬とかがなんだかワンワン吠えてきたり、すり寄ってきたりってよくありますけど、正確には言いたいことわからないじゃないですか? エサかなと思ってあげても食べなかったり。それを犬視点で考えてみると、人間に言いたいことが伝わらない!っていうもどかしさはいつも抱えていると思うんです。そんな切なさともどかしさ。 そしてそして、この映画の結末があの通りなのか、それともただの創作されたお話なのかもまた観客にとって「Never Know」で、それがエンディングで流されるあたりも、これまたオシャンな気がする。 あとは、二人が愛し合うシーンで流れる「La Javanaise」。セルジュ・ゲンズブールがジュリエット・グレコってシャンソン歌手のために書いた歌らしくて『ゲンズブールと女たち』って映画にも使われてて、これもいちおう映画音楽ってことにもなります。しかもですね、この『ゲンズブールと女たち』には、半魚人を演じるダグ・ジョーンズがセルジュ・ゲンズブールの分身を演じてるみたいなので、じゃあもう、半魚人ちゃんの側からの歌なのかってことですよね。劇中では女性ボーカルなんですけど、「別れを選んだのはあなただ」なんてフレーズもあるので、半魚人からの歌って気分で受け止めるとなおさら沁みます。これさぁ、劇中でこの曲が使われるってこと知らずに「ゲンズブールと女たち」のファンの人が観たら、きっとこの曲が流れたところで「オイオイ笑」ってなりますよね。おもしろいなぁ。ちなみにこの曲の歌詞も、ジャバを踊っている間だけ愛し合ったねという、“束の間の愛”を歌ってて本作にぴったり。 上記の2曲はですね、もし映画と関係なく聴いていたとしてもフツーに好きな曲としてフツーに聴くんじゃないかというぐらいフツーに好きで、最近よく聴いてます。You'll Never KnowにはAlternative VersionとしてよりJazzyなアレンジのもあってそれまた良し!
■ところで映画館のシーンがすごく好きだ 説明はできないんですけど、という前置きをしてから話しますけど、途中で半魚人ちゃんが映画館の中に入ってしまうシーンがあるじゃないですか。特に初見の時なんですけど、なんかあのシーンが妙~~~~に「うわぁ~~~!」ってなってね、自分の中で。 なんていうのかなぁぁ、半魚人ちゃんという文明から遠く離れたところで生活してきた存在がですよ、いきなり文明・文化の象徴ともいえる映画というものを目の前にして、それに見とれているという、「邂逅」って言うんでしょうかね、そんなシーン。半魚人ちゃんは多少の知性はあるからこそ、その映画というものを少しは理解できるけれど、完全には理解できない、そんな絶妙なニュアンスの状況で、しかも、(僕らから見たら)レトロで素敵で誰もいない劇場の中、美しい赤いシートを照らし出すスクリーンの光のなか、異形の“彼”が凛々しく立ち尽くすっていう画的にも斬新(もしかしたら元ネタなんかあるのかな?)ですごく印象的。観客としては半魚人が逃げ出してしまった!というかなりやばい状況で、しかもイライザが職場からアパートへ来るのにおそらく数十分はかかっているので、半魚人ちゃんが多くの人に目撃されたり、遠くへ行ってしまったりしているのではないか、という不安が頭をよぎる中、そのオチとして、誰もいない映画館で(おそらく数十分間)その映像を観ていたっていう、オシャレかつホッとしてユーモラスで平和な結末。あの映画館ってスクリーンの裏からの映写してるのかなぁ、座席の後方からだったら映写技師の人が半魚人ちゃんを目撃しちゃってた可能性ありますよね、どうだったかなぁ? ともかく、そのぉ、、伝わるかどうかわかんないけど、半魚人って存在がね、映画っていうものを観ているっていうその…組み合わせの妙ですかね、シュールというかデペイズマンというか、想像を膨らませられる取り合わせがたまらんちょでした。そもそも、客が誰もいない映画館ってだけでなんだか平和なんだよな、それ自体が。
■燃やせ、チョコレート工場 覚えている方は少ないかもしれないけれど、映画の冒頭ではなぜか「街のチョコレート工場が火事」になります。 こればかりは本筋とは全然関係ないエピソードで、なくても映画は成立するので、この映画で唯一「なんだろう?」ってなるところなんですけど… 映画でチョコレート工場って言ったらもう「チャーリーとチョコレート工場」しか僕は出てこないんですけど、冒頭で「ハンサムな王子の時代は終わり」って言ってることから、ジョニー・デップ的なモノが嫌いなの?みたいな。そういう「ジョニー・デップ的なハンサム野郎が出てくるクソヌルいファンタジー映画は燃やす!!!!!!!」っていう挑発的な宣言なんでしょうかねえ? それか、チョコといえばカカオ、カカオの原産国の一つであるペルー、ペルーにあるアマゾン川、大アマゾンの半魚人っていうつながりもあるとえいばあるので、カカオが燃える=半魚人の身に何かが!みたいな、おばあちゃんの写真が倒れた時間におばあちゃんは死んでいた!的な話にも見えるし、差別される黒人たちへの想起を促されたり…、そういうことなのかなー?
■舞台・ボルチモア 作品の舞台は、たしか劇中で一回ぐらいしかセリフで出てこないけど「ボルチモア」ってところ。ワシントンの北東あたりに位置する「海には近いけれど ほかには何もない田舎町」。作品の時代設定は1962年で、ボルチモアのWikiをみてみると、「1960年代から施設の老朽化が進み人口が流出していった…」って書いてある。いろいろ歴史があるボルチモアについてWikiで語る際に、わざわざこのトピックが書かれていることから、その現象がボルチモアを表す代表的事項ってことなのでしょうか。 まさに映画はそんなボルチモアって土地全体が翳りを見せはじめていた時代の出来事ってことで、土地自体がアメリカ全体からアウトサイダーになっていった時期とも言える。もしかしたら前述のチョコレート工場の火事もその「施設の老朽化」を象徴する出来事として描かれていたのか?なんて思ったりもします。 そんな街の映画館には人がワンサカ来るわけじゃないし、人を呼べるような映画がかかるわけでもない。
■カメラと照明 カメラの画角選びはとくに無駄に目を引くようなワイドショットとか望遠とかを使わず、フツーに見れる抑え方。だけどカメラ��動き自体は流麗で、最初観はじめた時は、素直に「水みたいになめらか」なんてことを思わされました。物語も展開も途中でダレたりもせずにずっと流れるように進んで最初から最後まで集中して見れる。 ラブロマンス映画でもあるんだけど、彼とイライザ、二人が見つめあって愛が通じてるって印象を与えるシーンは意外と少ない。それどころか、たとえばホフステトラー博士とイライザがなんとなく目配せしてなんとなく意思疎通するみたいなシーンもなくて、つまりそもそも人物のドアップは少ない。そこがまた抑制の効いたというか、よくある過剰に感情的な映画に堕さずって感じで好きなんだけど、それがないゆえに、彼とイライザが愛し合っているのがなんだか唐突に思える気もする面もあって、このへんはギレルモさんのシャイさみたいなのが出ている部分なのかなって印象もあります。 それでも人物の表情はとても印象的に捉えられていて、その助けをしているのが照明の効果。 この照明・ライティングに関しては、時代や場面設定のため、ほとんどが暗い部屋の中のシーンが多く、あくまでその環境にあるライトや蛍光灯、窓の外の街の明かりが顔に当たってますよってテイの自然なライティングなんですけど、それにより暗い部屋の中で人物の顔が浮かび上がって見えてとてもドラマチック。イライザがジャイルズに手話で迫るシーンのライトは、イライザの瞳にキレ~イにキャッチライトが入って絶妙な効果。あの画ヂカラだけでグッとくる。イライザの感情が高ぶって彼女の中にある芯の強さが表に溢れ出るシーンにふさわしい表情を作り出してるなってライトです。もちろんこれぐらいの配慮をした照明を当てるのは映画づくりとしては当然なんだろうけれど。
■イライザ イライザはなにか特別な能力があったり、特別な地位にいあったり、有名だったりセレブだったりはしない人。むしろ声が出せなくて、ちょっと不美人で、ゼルダとジャイルズぐらいしか友達がいない、孤独なアラフォー独身女性。そんな彼女がヒロインとして、愛のため彼を救ってしまう映画。つまり彼女はアンジェリーナ・ジョリーじゃないし、シャーリーズ・セロンじゃないし、ガル・ギャドットでもない。そんな彼女がこの一大ミッションをやり遂げることができたその一番キーになる能力ってなんだったんだって思ったら、愛のためのまっすぐさってことでしょ。それは別に特別なパワードスーツとかソードをもっていない、僕ら「ノーネーム・ノーランク」(ホフステトラー)な一般人でも“真似のできそうな=模範にできそうなヒロイズム”ってことで共感できるし、君もそう生きなよって鼓舞されてるみたいに感じる。 普通のヒーロー映画ってなんかちょっとね、あくまで観客は外からその特殊な超絶能力を眺めている感じがあるけど、イライザは思わず力を貸してあげたくなる身近さがある。それに彼女はただ声が出せないってだけで、頭はいいし、たまたま唯一の親友のジャイルズの絵描きの能力は役に立ったし、ホフステトラーがいてくれた幸運もある。いわゆる美人とはちょっと違うけど、とても目がキレイだし、サカナ顔っぽい感じもあるから半魚人にモテるのも納得。 それに、音楽やダンスが好きだったり、オシャレも気を使っているようで、身分は低いながらもちゃんと生活を楽しむ心の余裕とか豊かさを失っていないところがステキ。そういえばアンデルセンの人魚姫はその軽やかな足取りのダンスが得意なキャラクターでした。そんな優雅さに対して、指を入れた紙袋を差し出すシーンの表情の堂々とした不敵な笑みとか、FUCK YOUのシーンとか豪胆さも持っていて、やっぱりもともとプリンセスなんだなぁって思わさせられる貫禄と気品があります。 サリー・ホーキンスの当て書きで脚本を書いたというギレルモさん。この映画でのサリーの名演技の白眉は、やっぱりジャイルズに救出作戦を手伝って!と手話で迫るシーンじゃないかな。この映画でもう一度見たいシーンといえば自分的にはココ。あの手話と表情の熱心さ。ここに説得力がないと政府を相手に盗みをはたらくという大胆な行動の説得力も出ません。名演技。で、この説得シーンのしめくくりは、予告編でも観れる「彼を助けなければ私たちも人間じゃないわ」。この手話の直前の壁を拳でドン!もいいですよねぇ。人間(=良い人間)かどうかを決めるのは、属性や肌の色ではなくて、誰かを救おうとしたりする優しさを持っているかどうかによって決められるもの。まぁつまり愛を持ってるかどうかなんですよ。愛。
■想像が膨らむラストと、あの詩 映画のラストのあのエピソード。“彼”の魔法でイライザにはエラが与えられたというシーン、とってもステキですよね。なんだかシャレてるし、「ぎゅん!」ってなります。 現実的にはジャイルズでさえあの水中の様子を目撃することはできないので、そのステキなおとぎ話が事実かどうかは本人たちしか知らないし、おそらくはジャイルズの創作 ─ジャイルズ自身がイライザを失った悲しさを慰めるための創作でもある─ ってことなんでしょうけれど、そうすると、じゃあエラの元となるイライザの首の傷も、もしかしたら、このステキなオチを盛り上げるためのジャイルズの創作による設定だったのかもってことになる。この映画自体が証人であるジャイルズの語り?により始まったことがここで活きてくる感じ。 でも、もちろん、映画で見たことがそのまま事実だったんだって解釈するのもまた自由で、ラストの語りの通り「二人は幸せに暮らしたと信じたい」って思いたいところ。 で、このジャイルズの語りは、この話を思い返す時一篇の詩を思い出すと言っています。うろ覚えですが、その詩の字幕はこんな感じ── “あなたの姿はなくても あなたの気配を感じる あなたの愛に包まれて わたしは優しく漂う” (この詩はどうやら映画オリジナルのもののようですが、実は劇中の字幕よりもパンフの町山智浩氏のレビューの中で紹介されてる氏による普通の翻訳の方が原文に忠実だったりする) ネット検索でみつけた原文と、僕が町山さんの翻訳をちょっと変えた適当翻訳はコレ。 “Unable to perceive the shape of You, I find You all around me. Your presence fills my eyes with Your love, It humbles my heart, For You are everywhere.” 「あなたの姿(シェイプ)がわからなくなっても、わたしのまわりにあなたを感じる。あなたの存在は愛とともに私の瞳を満たし、それが私を謙虚にする。あなたはどこにでもいるから。」 この「どこにでもいる」って部分。あ、そうか、タイトルの意味って……
■水のカタチ と、このラストの詩を聞かされてようやく、「そういやタイトルの意味は結局なんなんだろうな」って我にかえったりします。 水にはカタチがないのに、その「水のカタチ」っていう反語になっているこれまたオシャレなタイトル。禅問答かよ。 観る前にはとりあえず、「んー、水は自由なカタチをとるから、その自由自在さってことなのか?」と思ってたんですが、それだけでは収まらなさそう。 とりあえず、その自由自在さという意味からすると、愛の在り方の自由さ。相手が半魚人であっても、あるいはゲイ同士であっても、愛することの自由さ。美男美女の男女だけでなく、どんな組み合わせの愛のカタチがあってもいいじゃないか、というメッセージ。その愛はもちろん友情という意味もあるし、ホフステトラー博士が“彼”に抱いたように、科学や芸術の対象として感じる対象への美も含まれている。不定形な水のようなどんなスタイルもありえるし、他者がカタチに嵌めることができない愛。 “彼”との間で肉体的な愛の営みを行ったイライザが、その後、雨降るバスの中で窓ガラスの水滴のダンスを指で追うというとてもロマンチックな最高シーン。これまた名場面だし、とても芸術的。ここで自分が気付かされたのは、「そうか水はカタチが自由なだけじゃなくて、二つの水滴が一つになったりする!」っていう単純なこと。本当の愛で結ばれれば、まるで元からひとつの水滴だったかのように、ひとつに溶け合ってしまう。そういう水みたいな個を超える愛。 ラストで水中へ連れて行かれたイライザ。そこで語られる、あの詩、「あなたに包まれて」または「あなたはどこにでもいる」。そうかそうか、半魚人さんとか、水の中に棲む存在にとって、水って自分のまわりを包むように存在するモノ。それがまるでいつでもどこでも感じられる本当の愛のような「遍在」の比喩になっている、と。これは人間の視点ではなかなか気づけない。ってことで、一瞬ちょっとわかりにくいタイトルだけど、「不定形性/非個別性/遍在」という性質をもつ水でもって、似たような性質をもつ愛を表現した、しかも単純に「水」じゃなくて「Shape of …」で反語にして、ちょっと観客に考える引っかかりを持たせた���手なタイトリング。良い。
■というわけで 長々書いたけど、なんも考えずに観てもフツーにすごく面白い映画! それでいてあれこれ考えさせられるディテールが詰まってる(ってこれは良作映画ではあたりまえのことなんですけど)。 今のところ、2018ベスト映画(※まだ3月だしあんまり本数観てない)。
──────────────────── 『The Shape of Water』(2017/アメリカ) http://www.foxmovies-jp.com/shapeofwater/ 監督・原案・脚本:ギレルモ・デル・トロ キャスト:サリー・ホーキンス、マイケル・シャノン、リチャード・ジェンキンス、ダグ・ジョーンズ、マイケル・スタールバーグ、オクタビア・スペンサー、デビッド・ヒューレット、ニック・サーシー、ナイジェル・ベネット、ローレン・リー・スミス、マーティン・ローチ、モーガン・ケリー (C)2017 Twentieth Century Fox
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『レッド・タートル ある島の物語』の感想

今回の感想文はジブリの『レッド・タートル ある島の物語』。劇場で1回、テレビで2回鑑賞です。 監督・原作・脚本はオランダ人のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットさん。1953年生まれ。アニメーターとして活躍した後、短編アニメをいろいろ作成してて評価が高い人、と。自分は観たことないけど『岸辺のふたり』なんてのがアカデミー受賞とかしてるそうです。んー、みてみたい。このレッド・タートルは、監督の要望で高畑勲さんの協力のもとシナリオ作りなどが詰められていったよう。 で、この『レッド・タートル』の僕の感想はといいますと、だいぶ好きな作品でして。この感想文を書いててより、好きになったというか、理解が深まったし、名作のひとつだなーと思ってます。静かな感動が沁み沁みしてくるといいましょうか、舞台は一つの無人島と海だけだし、登場人物は少数で、ほんとうにシンプルなストーリーながら、美しく夢のような映像が展開して実は飽きさせないし、セリフなしゆえに、ついつい引き込まれちゃうっていう作品。で、実は音楽もすばらしいし、抽象的・象徴的なので観た人それぞれに解釈にいろいろ幅がありそうで深い。たぶん、観る回数を重ねるごとに好きになっていきそうな予感がします。人生とか運命とか愛とか、そういった大きなものをじんわり感じとれる作品って感じで、劇場の大スクリーンで観てよかったのはもちろん、円盤で暗い部屋で一人じっくり見るのも向いてそう。
◎ネタバレあらすじ 小舟に乗っていた一人の男が嵐で無人島に流される。島に豊富な竹をつかってイカダを作り脱出を試みるがそのたびに赤いウミガメにイカダを破壊されてしまう。あるとき、島で赤いウミガメを見つけた男は、脱出を邪魔された怒りにまかせ、赤亀をひっくりがえして放置し殺してしまう。後悔の念に襲われるが、見ると赤亀は人間の女性に変身していた。彼女とふたりで島で暮らすようになり、やがて一人のこどもを生み、育てる。3人で暮らす平穏な日々だったが、ある日、島に大津波が押し寄せ、島の竹林などは破壊されたが、3人は無事に生き延びることができた。その津波がなにかのきっかけとなったのか、少年は海の向こうへの好奇心を胸に、両親を島において、3匹の亀とともに島を巣立っていったのでした。。。完! という話です。それだけの話です。 で、じゃあ、こんなシンプルな映画の何が魅力なんだっていう話。
◎色彩 まず、パッと見でよくわかるこの映画の魅力は、映像・色彩の美しさですよね。画面に映るのは、海と空と砂浜と林ぐらいのもんなんですけど、そのシンプルな無人島の景色が、時間や天気の変化による光の移ろいで、多彩な表情を見せて、それがどの瞬間も美しくてですね、そりゃまーいろんなアニメにせよ、実写にせよ、きれいな海も空もいろいろ目にするんですけど、この作品が一番美しいんじゃないかと思うちゃうぐらいでして。そのカットのひとつひとつがイラストレーション一枚絵として価値があるってなぐあいで「きれいやなぁ」としみじみ思います、きれいっていうか「色の選択のセンスがイイ!」って感じですかね(でもその美しさをどやぁ!と見せる映画でもない)。 その画面の美しさの一つの要因が「粒状性」かな、とも思います。画面全体はザラザラした、たとえば、細かい凹凸のある画用紙やキャンバスのようなというか、フィルムの写真のようなというか、そういった趣があって、色だけでなくその粒状性もまた、観る人を引きつける要因なのは間違いないわけで、自分も趣味で写真を撮ったりしますけど、レタッチするときに、あまりにデジタルっぽすぎて気持ち悪いなって時は、粒状性を加える処理をすることが、多いです。というか、趣味で撮った写真であればほぼ100%粒状性の処理を加えてるかも。この処理によりですね、なんというか、人の心にスッと入るような画になるというか、そんな作用があるとおもいます。 場面が夜になると、作品世界は色のないモノクロームになるんですけど、それもまた美しくてですね。このモノクロ化のアクセントも含めて、舞台は無人島だけのソリッドなものにもかかわらず、観客に変化に富んだ印象を与えているといいましょうか、昼間の鮮やかな空と海のブルー、夕暮れの中間色の美しさ、神秘的な夜のモノクロームと、「彩度」のパラメーターがけっこう頻繁に移り変わることで、シーンが切り替わるたびに、ハッとさせられて、鑑賞の新鮮味というか、興味の持続というか、そういう効果がありますよね。なんちゅーか、ご飯食べる時も、ご飯、味噌汁、おかず、別のおかず、漬け物、、てな具合に舌が飽きないようにローテーションして食べますけど、そんな感じですかね。
◎夢 モノクロの夜になると、主人公の男はシュール?な夢を見ます。桟橋を飛ぶ夢、カルテットの夢、亀が天に昇る夢。 この夢のシーンは、映画のみどころのひとつ。どれも、象徴主義とかそのへんの銅版画みたいな雰囲気とインパクト。けっこう好みです(マックス・クリンガーみたいなね)。 一個目には長い桟橋の夢が出てきますよね。島からの脱出を夢見た男の願望をそのまま表したような。このシーンは予告にもあったんだけど、自分は予告をちゃんと観ずに鑑賞したし、この映画がどのくらいのファンタジー度合いの映画なのかも知らずに観たので「おや?この橋は現実に出現したモノ?!」などと一瞬思っちゃうんですけど、はー、夢か、と。 次には、砂浜で弦楽四重奏楽団・カルテットが演奏しているというステキ、だけどちょっと不気味な場面。このカルテットたちの装いがけっこう昔の装束って感じなので、本当にバロック音楽時代のガチのやつみたいなね。なので、もしかしてこの映画の舞台は、それぐらいの時代なの??って推測もできちゃうんだけど、まぁ、そのへんの時代性というか、この作品にたいしてそういった具体的な数字を当てはめるのはナンセンスですよね。どこでもない場所の、いつでもない時代の、抽象的な物語として観た方がヨシです。このカルテット、あまりに異質で、素敵ではあるんだけど、曲調も含めて不気味でもあります。まあ、少なくとも主人公の男はあのカルテットを観たこと、聴いたことがある?ぐらいの文明のあるところから、あの島にやってきてしまったということでしょう。あ、カルテットの服装はバロック的なんだけど、演奏してる曲はドビュッシーとかラヴェルとかの弦楽四重奏みたいな感じです。そこもなんか怖い。 3コめの夢は、赤亀を殺したあとにみた、ひっくり返した亀が天に昇っていくという夢。もうこのね、ビジュアルのアイデアだけでなんか賞あげたいというか、このワンシーンのイマジネーションだけで、自分の中では相当加点されてます。モノクロの映像で、亀が、逆さまで、星空に、昇ってく!すばらしいよね。「ああああっっ!」ってなる。で、その直後に赤亀が女に変身するんだけど、この絵ヅラも斬新つうか、大きな甲羅の中に女性が横たわっているっていう、アートかよ!みたいなね。そのあとの、青い海と空の中でポツンと女が海の中から顔を出している絵ヅラもまたおもしろいしね。 そして、映画の後半では、息子も夢を見るんですけど、これはカラー。“制止した波”の夢、彼がこの島にとどまっているということの象徴みたいに高い壁としてそそり立つ波ですけど、主人公の夢はモノクロなのに対して、息子の夢はめちゃめちゃ綺麗なエメラルドグリーンみたいな色の海でね。で、その波の上の方に泳いで昇って振り返ってみた夕日なのか朝日なのかの、海と空の色彩の美しさ!
◎映画の節度の話となぜか急に人間のエゴの話をする私 自分が映画を観るとき、演出が大げさだと、うっとうしいというか、暑苦しいというか、押しつけがましく感じてしまってそういうのは好きじゃないんです。それに対して、そのへんの演出・煽りの度合いが控えめだと自分はいつも「節度があるなぁ!」と思って好感を持ちます。この映画を観てみると、そのあたりの控えめさ、味付けの薄さにはちゃんと美学の筋が一本通っているような印象で、まず冒頭のあたりにある、男が海辺の岩に囲まれたところに落ちちゃって、決死で潜らないと脱出できないってシーンありますよね。あそこなんか、狭い岩の間に挟まりそうになってギリギリだし、観ててヒヤヒヤするんだけど、“案外”あっさりスルっと脱出して、ホッとするんですけど、ここなんてまさに、さっき“案外”ってカッコつきで書いたように、ごくフツーの映画だったらもっと、緊迫感を煽る派手なBGM付けたり、もっともっともがき苦しんだりして、観客を煽るじゃないですか、そういうのをやらないんですよ、この映画。いい意味でやらない、緊張感のあるBGMは控えめに鳴らしてますけどね。 それこそ『ダンケルク』みたいにクリストファー・ノーランだったらニコニコしながらあれこれ緊迫演出ドヤァ!したくなるようなピンチ場面なんですけど、“案外”あっさり切り抜けられるという部分での、リアル感とか、別にそういうことを観せたい映画ではない、という意思表示ともとれるし、美学というか、こういう部分で制作者の上品さみたいなのを感じて、良いなと思います。 このいい意味での素っ気なさみたいなのは、全編を通じて表現されてて、最初に書いたように、自然の描写が美しいんですけど、別にそれも「どやーっ!!!!」といって見せてるわけじゃなくて、こっちは「このきれいな夕焼けの風景もうちょっとみてたいなー」とか思ってるんだけど、映画はそんなサービスなしで、あくまでたんたんとサッサッと場面は転換していきます。実際の夕焼けが人を待ってくれないように。 モノクロの夢のシーンも、桟橋にせよカルテットにせよ、こっち(観客)がおもろいなー、興味津々、ってなるにもかかわらず、まさに短い夢のようにさらりと終わる。実際の夢がそうであるように。 てな具合で、一般的な映画におけるサービス演出ってようするに人間のエゴに与するものっていうか、人間が映画とか物語に対して意識的・無意識的に求めてる浅薄なドキドキハラハラへの希求に対する「こういうのお望みでしょう?」っていうアンサーなので、どうしてもそこから���られるメッセージ性も人間中心的になってくるっていうか、それがエンターテイメントなんですけど!ですけど!それが限界じゃないですか!人間が求めてるモノに、理想的な答えをあたえてるってだけで、ただの自慰でマッチポンプじゃないですか。どうしたってそれを超える契機が失われているでしょう?原理的に。 なんてことを、今書いてて思って、、、、じゃあそれを(ある程度)廃したらどうなるかっていうと、そうすることで映画が伝えてくるメッセージが、より人間を越えたモノというか、運命とか自然とか神とかが人間にたいして与えるモノ(普段与えているモノ)に近くなるというか、、、嵐に流されるのも人間のチカラではどうしようもないし、津波が襲ってくるのも人間のチカラではどうしようもないし、日が沈むのもどうしようもないし、おもろい夢がすぐ終わるのもどうしようもないし、そういう儚さ、「おまえの浅薄な欲求が簡単に全部満たされると思うなよ」という、ごく当たり前のことに、うっすら気づくというか、、(『ニーチェの馬』なんかもそんな印象ありますけど) 、だからこそ、ただ「あー、おもしろかった」で済まないような、この「LIFE」「運命」「宇宙」「自然」に対する畏敬の念というか、どうしようもなさ、諦念みたいなものに意識が向く感じがして、そこがこの映画の深みなんでしょうなああああああ。。 で、それってつまり、あの島であの男が、海の向こうを時折思い返したり、不思議な亀と不思議な女との不思議な縁、そこへ自分を運んだ嵐のイタズラとか、そういったいろいろなものに対して感じていたであろう、この世界の不思議な運命のハタラキに対する畏怖の念とか、とかとか、そんなものに通じてるような気がします。
◎そもそもこ��映画は何の話なのか ─甲羅流しとイカダ流しのシーン─ 赤亀の女と男が一緒になる前に、女が甲羅を海に流して、男がそれに応えるように作りかけのイカダを海に流して捨てるシーンがあって、、、なんか儀式的だし、象徴的だし、「どういう意味なんだろうなー」と考えつつあらためて録画を観てみたんですけど(3回目鑑賞)、あのシーンで表してるのってようするに、こんなことかな、と思いまして、、、、、まず、この映画のストーリーがそもそも、赤亀の側から考えると、好きになった男が去ってしまうのをイカダ破壊という暴力的な手段で止めるという“未成熟な愛情表現”を最初はしてたんですが(※ココたしかに異論あります。明確にイカダを破壊したのが赤亀である描写はないので)、それを、それに対する男の怒りにより否定されたことで“一度死んで生まれ変わり”、今度は人間の女としてのよりナチュラルで対等な交流での愛へと発展したという“メンヘラ女成長物語”みたいにも読み解けてるんじゃないかと、そう考えるとおもしろいし、自分はしっくりくる。 で、今度は、男の側からみると、最初はイカダ破壊を悪意によるものだと思っていたのを、あ、実は自分が島を去って行くのを惜しがっていた好意によるものなのだなーと理解したっていう、“悪意→好意への理解の転換”があって、それが起きたのが、作りかけのイカダを海に流してしまうシーンなんだと思ったわけです。 そして、そのお互いの成熟・理解の変化が起きるためには、一度“殺し”という感情を正直にぶつけるプロセスが必要だった、と。ねー、実際の人間関係でもあるとおもいます!いろいろと!ねえ!みなさん! つまり、女は自分の暴力性を否定されたことで、その未熟な時代の象徴たる亀の甲羅を海に流して捨てて、より成長した存在になったということをあの甲羅流しのシーンで表したのだと思うし、男は男で、そうして成長して、“精神的に美しくなった”(もちろん映画では人間の姿になるということで表現される)女性を認めて、それならばこの島に一緒にいますよってことで、イカダを捨てて女を受け入れたわけだし、そういう相互理解・受け入れが起きた場面なんですよね。 な、わけで、観る人によっては「は?」ってなりそうな映画でもあるんですけど、単純に「ラブストーリー」の映画として観てもいいよねって。特にラスト、男と女が夕焼けの波打ち際で静かにダンスするシーンなんかは(超いいよね)、まさにラブ映画の締めくくりシーンって感じですよね。
◎居場所の物語 そうした愛の物語であると同時に、男とその息子の自分の“居場所”をめぐる物語という感じもあって。 男は最初、島の外へ帰りたかったんですよ、元の生活へ。それがね、あの女に出会って、愛し始めてしまったことで、島で生きる決意をした。単純に言えば「愛する人がいる場所が、自分の生きる場所」っていう居場所の決断。現実にみなさんも、仕事の関係とかで恋人と離れて暮らさなきゃならなくなる場面とか、片思いの人ができたから引っ越したくないとか、好きな人が住んでいるであろう街へわざわざ引っ越すとか、なんかそんなことあると思いますけど、そのへんを想起させる映画でもある、と。 かたや息子は、あの島にずっといても、おそらく両親のようなパートナーにはめぐりあえないわけだし、ガラス瓶をながめては思う、島の外の世界・文明への憧憬・好奇心っちゅうものもあるわけなので、最終的には自分の本当の居場所を求めて旅立っていく、そんな話でもあるのかなって。 この津波、当然日本人としては3.11の津波を想起させるし、実際にあの地震や津波がきっかけでなにか思うところがあって、違う土地に旅立ったとか、仕事を変えたとか、別に避難区域になったからとかじゃなくて、災害が精神的ななにかのキッカケになって、新たな居場所・生き方を求めて行動を起こした人、実際にいるんじゃないでしょうか。
◎まとめ どうまとめたらいいんだ、この映画。夫婦の話でもあるので「愛」の話でもあるし、どこでどう生きるかを巡る「居場所」の選択の物語でもある。そうした個人の人生に起こる出来事を左右する「運命的なもの」も感じさせるし、そんな人間と自然界をひっくるめてものごとが運行してゆく、いとなみ全体としての「生命」の映画でもある。 で、結果として畏敬の念を感じる映画ってことで、やっぱり稀有な映画だと思うんですよね。 話が象徴的な感じがするんで、語ってきたようにいろいろ解釈できるし、したくなる、想像を掻き立てる作品であると同時に、そういった解釈・想像をするのを、しだいにあきらめたくなる映画というか、人間の浅薄な考えとは関係なしに、自然は運行していくぞ、ただこの「ある島」でこういう男がいて、不思議な女がいた、こどもが生まれた、生きた、老いて死んだ、うん、そうなんだ、美しい自然に囲まれて、嵐、津波、出会い、いろいろ起きる、そして生きて死んだ、それだけなんだ、うわーーーーーーって、ひれ伏したくなるような映画でした。 自分的には名作です。また観ます。
─────────────── レッド・タートル ある島の物語 La Tortue rouge 原作・脚本・監督:マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット アーティスティックプロデューサー:高畑勲 脚本:パスカル・フェラン 音楽:ローラン・ペレス・デル・マール http://red-turtle.jp/index.html
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『ブレードランナー2049』の感想

えー、今回の作品は『ブレードランナー2049』。劇場で吹替え版で1回鑑賞。 前作はというと、劇場で字幕で1回だけ鑑賞してハマらなかった(しかも途中ちょっと寝てしまった)、という状態。原作小説は未読。 自分自身はSFはそんなに観ないし、別にブレランの熱いファンでもないので、ごくまっさらな気持ちで、どれどれ観てみるかーというテンションで鑑賞。 同じ監督、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』をこないだ観てイマイチだったので、若干の不安を感じつつ…、でしたけど、やっぱり『メッセージ』と似たような印象を受けた感じはある。語り口というか、映像はキレイですし、メッセージと同じく、ずずーーーーんみたいな音楽と効果音の中間みたいな音がずっと鳴ってて、雰囲気を醸し出している感じそれ自体はまったくイヤではないし、展開自体がダメなわけではないんだけど、なんだろう、、、狙ってのことだろうけど、その展開を下支えするはずの、ベースの設定のとこで、いろいろ説明不足というか、説得力が自分的な規定値に達しないままに、物語が進んでいく感じ。その説得力不足のいちばんの根幹はやっぱり、「レプリカントってなんなのよ?」ってとこなんですけど、それを中心にして、いろいろとハテナマークが発生するので、ハマりきれないまま終了って感じでした。 とにかく全部が曖昧で、象徴的なので、SF映画というよりは、「星の王子さま」的な寓話として観たほうがいいんでしょうけれど、もし「いや、ぜんぜん曖昧じゃないよー、よくわかるよー」って言う人がいるなら逆に解説して欲しいんですけどね、いろんなこと。レプリカントはどう作られるのか? オフワールドがどんなところなのか? ウォレス社の目的は? ニンニクをあんな強火でほったらかしで煮る料理とはなんなのか?
レプリカント/あらすじ ブレランの物語の中心となる、人造人間「レプリカント」。「これ結局なんなのよ!?」って感じなんですけど、自分が把握した範囲では、 ・パッと見では人間との区別はつかない ・瞳をケーサツが持ってる機械でスキャンすると区別はつく(?) ・質問形式のテストでも区別はつく(?) ・旧型と新型がいる。旧型はなんかしら欠陥がある。 ・思考や感情も人間とはちょっと違うみたい。ニーズによりカスタムできる。 ・偽の記憶を埋め込まれることで精神を安定させてるみたい。 ・傷口を接着剤みたいなので塞げる(?)。 ・基本的には労働力として生産される奴隷である。 ・身体能力は普通の人間よりもちょっと高い(?)。 ・おそらく大人の姿で生まれてきて成長はしない(?) ・生殖能力はないはずだったのだが………!!!!!! って感じかなー。 この『2049』の、ネタバレあらすじをさっと書いておくと、 「Kは旧型レプリカントを追う過程で、埋葬されたレプリカントの骨を発見。レプリカントではありえないはずの、妊娠・出産をした形跡があった。その子を探すことに。しかも、K自身の中に、自分がその子自身なのではないかと思わせる記憶もある…。その記憶のキーアイテムである“木馬”の生まれた地へ赴くと、そこにはかつてのブレードランナー・デッカードが。デッカードの仲間?みたいな人に、その奇跡の子どもは女であるとの情報を知り、捜査過程で訪れた記憶作家の女博士がその子であると知り、デッカードを連れて行く……親子ご対面……完。」、、、みたいな。 おもしろみの軸としては、Kが自身のルーツを追求してくドラマでハラハラさせておきつつの、でも実はステリン先生の方でした~~~っていうひとひねりが脚本のおもしろみで、素朴っちゃあ素朴な仕掛けです。
人間と非人間/レプリカントって結局なに? 前作ブレランもそうだし、2049の妊娠レプリカントと、ホログラム女子?のジョイちゃん(アナ・デ・アルマス)含め、人間と非人間の愛はありえるのか?みたいなのが、ひとつトピックになってるので、そこの問題提起で思索にふける方もいるんでしょうけれど、今の時代このテーマって、それこそアニメやラノベ含め、いろんな作品で取り上げられるんで、えーと、自分が観た中では、少ないけど、『her 世界で一つの彼女』『空気人形』『イヴの時間』…ぐらいか?少ねーわ。まあいいや。でも、きっと自分では観てないけど、あらゆるバリエーションで、描かれていると思うんです、でもって、今や使い古しの感じはあるんだけど、では、そこでこの2049がなにか新しいなにかを提示できてるのかってことなんですけど、そもそもレプリカント自体が人間と区別つかなくて、妊娠もするんならもう、「いやそれ、もう人間ってことでいいじゃん!」ってレベルまで行ってしまっているので、逆に緊迫感とか、葛藤がないって言うか、なにか重大な人間との差異があれば「うわー、どうしよっかなー、やばいなー」ってなるんですけど、この映画ってそこをぼやかすというか、人間とレプリカントの区別の定義をわざと曖昧にしておくことによって、成立しているという、ちょっとずるい方法論で作ってあるので、そのことがかえって、「え!レプリカントと繁殖?!」という驚きが、実はそんなに無い。ショックでもない。だって「アニメキャラが俺の精子で妊娠して、2.5次元の子どもが産まれた?」の方が驚くじゃないですか。で、たぶんそういう作品はすでにこの世にいくらでもありそう、ラノベとかで。だから、この2049の表現がそんな先端でもないだろう、と。 レプリカントとは違う、ジョイちゃん、いたずらっぽい顔でかわいいですよね。ホログラムという技術とは違うのかもしれませんけれど、そんな感じで発生させられてるバーチャル彼女。この映画に対する評価の中には、ジョイちゃんの可愛さによる加点があるんですけど、まあ、それはいいや、このジョイちゃんとね、Kが人間の女性を介してエチする場面あるじゃないですか、ここでまた一つ疑問が出てきちゃったんですけど、「Kさん性欲あったんすか?!」ってことですよね。Kはレプリカント、レプリカントは本来、繁殖・妊娠しないので、おそらく性欲は、無い、または、弱い、という状態で作られているんじゃないかと思うんですけど、ついに、自分のアイデンティティが揺らいだ精神的ショックゆえと、あとはジョイちゃんとの別れを予感してなのか、よくわかんないすけど、、、で、蛇足で言うと「このとき相手した人間の女性との間に子どもができる可能性を作っておくことで、次回作への布石です」ということなんでしょうかね。 あ、あと、Kはレプリカントと人間のハーフの可能性があるので、そういった意味でも性欲というか、キレイに言うと「愛」という感情を持っているのですね、という場面なんでしょうかねー。 でも、このねー、Kは結局デッカードとレイチェルの子なの?って部分も、曖昧だったりするじゃないですか?(僕がバカだからわかってないだけ?)「それはパズルの1ピースにすぎない」みたいなセリフでふわっとかわされてませんでした?そこも含めて、自分の印象としてはこのブレランって「曖昧さ」を武器に戦ってるなーって感じします。 ファンの人は気を悪くする書き方かもしれないけど、まず、世界観・雰囲気・映像・ディテールによってファンを獲得する、次に、物語の根幹部分では、曖昧な説明しきらない部分を作っておく、で、その余地により、議論を盛り上げる、みたいな作戦により作られてるのかなって感じしまっす。善し悪しは別にして。たぶんエヴァみたいな感じ? あ、えーーと、また「人間と非人間の愛」の話に戻りますけど、レプリカントよりもさらに非人間的なアニメキャラを愛してる人なんて今の日本にも山ほどいるわけだし、そのアニメ美少女がプリントされた抱き枕と日夜セックスしている人もごまんといるわけだし、そういうヤバい愛が現実にいくらでもいるわけで、そんな中でこのブレラン2049って、2049年を描いていてところどころジャパンカルチャーオマージュをデコレーションしてるワリに、その異類婚姻譚的な部分に関してはちょっと攻め方が地味というか、そんな掘り下げてないし、2017年よりも進んだ感じはしてない……ですよね。なので、そこでちょっと不満もあります。 人造人間のレプリカントに、感情的にも身体的にも「愛=生殖機能」が備わってしまった!ってことが、展開としての面白みであるとした場合、それが観客にとってある程度の衝撃を持つためには、まず「もともと、レプリカントに妊娠の機能なんて備わるようなもんではないはず」っていうのを、一度提示しておく必要があるはずなんです。それあるかな? そもそも、レプリカントの作り方、組成、脳はどうなってるのか、などなど、レプリカントがどうやって造られてるのかが、明示されずにホワホワッとした存在なので、、、それとの対比としての「人間」との愛にせよ、差別にしても、葛藤にしても、常に弱~いままなんですよね。 レプリカントって、袋からベチャっと落ちて誕生するんで、なんか培養的な方法なのかなって気もするんですけど、手術台でロボットアームに作業されてるシーンもあるし、製造過程が曖昧なまま。だからもし人間の細胞を元に培養的に作ったんだとしたら、ただたんに「妊娠出産とは違うルートで産まれた人間」というような認識もできちゃうから、「んー、別に恋しても不思議じゃないし、妊娠してもそれほど不思議じゃないんじゃね?」みたいに思えちゃう。 そのレプリカントと人間との区別が弱いってことが、ひとつの象徴・・たとえば本質的ではない人種差別みたいなものへの批判みたいにも読めなくはないかなーとは思うんですけど。。。レプリカントって奴隷だから、その奴隷と人間の間にできた言わば身分違いの子という異質なモノの誕生譚としての2049ってことでしょうか。かといってねー、それだとしても、そんな話いくらでもあるし、何度も書くけど人間とレプリカントの差異が明示されない限りは、その間の子って言っても別にだからどうしたって話だし、免疫疾患の人は普通の人間でもいるわけだし。。んー。。 あと、Kが腕をパックリケガしたときに、「接着しておきます」みたいなことを言って、傷口を接着剤みたいなのでつなげるんですけど、それがレプリカントだけでしかできない処置なのか、あの時代では普通の人間にも使える医療処置なのかも、ちょっとセリフ的に曖昧だったんですよねー。 現代でもね、別に生命を作るってできちゃうじゃないですか、2017年の時点でね。なので、逆にレプリカントが、試験官ベイビー的な作り方ではない作り方で、つまり、愛や妊娠がそもそも無理じゃねっていう手法で作られているのを提示しない限りは、ただたんに「セックスじゃない別ルートで作った人間」ってだけみたいなことになっちゃって、対比がなくなっちゃうんですよ。 それならば、「レプリカントと人間は区別できない!」っていうのが、「実はオチ」だとしたらそれはそれでおもしろいんだけど、そうなると、逆にじゃあ劇中の連中はなにに葛藤してるんだってなるし、あちらを立てればこちらが立たず構造に、みずからが嵌ってる映画って感じもしてる。 …えっと、ところで、なんでウォレス社のあのボスって、レプリカントを妊娠できるようにしたがってたんだっけ?
ビジュアル的なことなど なんせ2049年の話なので、未来っぽいものも数多く出てくるんですけど、まあ、ジョイちゃんとか、無菌室にいるアナ・ステリン博士のバーチャル空間がその最たるモノで、おもしろいなと思うんですけど、この作品の個性ってそこじゃないし、今時すごいCGの作品なんていくらでもあるから、そこが褒めポイントでもなくて、そこで勝負しようともしてない。むしろその2049年の中にところどころ出てくるレトロ、ローテク感ですよね、おもしろみって。 KがDNAの記録を調べるのも、でかい顕微鏡みたいな機器なので、映画観ている人(2017年の人)の時間的距離感からすると、昭和のマシンを使っているようなイメージ(昔の機器だからね)。 ウォレス社にあるレプリカントの記録も、最終的には保管庫の中のガラス板みたいなの個別に刻まれてるし、そのへんのちょっとアナログ感(実際にデータを長期保存しようとしたらああなるのかも、データ消えた歴史もあるようだし)。あと、同じくウォレス社かな、これまたガラス玉みたいなのの中の雪の結晶みたいなのに刻まれたデータね。それを読み込むのがガラス玉の周囲をレーザーかなんかでスキャンするぐるぐる回る機械なんだけど、これみたとき「CDっぽいな!」って思っちゃいました。その辺の、あえて未来感とレトロ感のミックスを狙うあたりは、おもろいセンスだなと思います。天然でやってるんならアホですけど。 Kがデッカードのとこにいるのがバレるのって、あの娼婦?が仕込んだ発信器みたいなのだったりするあたり、「実は発信器仕込まれてました」って、これまで映画で何回観たよ!ってのも、もうちょっとひとひねりした手段なかったかねー? その場面であのウォレス社のラヴさん?がデッカードだけ連れ去ってKは確保せずにほったらかし、っていう流れもちょっと不自然だしなー。 ブレラン的街並みも前作からそれほど変わってないというか、ホログラムっぽいのが飛び出してるぐらいで、基本的テイストは変わってない。30年間の技術進歩みたいなのはなくて(荒廃した世界だから、テクノロジーの進歩が遅いのかな?)、むしろ、昔のブレランファンさん(45歳オーバーぐらいの)に、「どうすか!みなさん方が期待してるやつですよ」って配慮してる感じでね。いや、いいんだけどね……うん…。 でもまさに、今の時代ってすごいビジュアルのSFなんて溢れかえっているので、ブレラン勢としてはそこでの勝負は避けたというか、そこで勝負すると、前作公開の当時は(たぶん)画期的だったブレランとしても、今の成熟した技術で魅せられるSF界で真っ向勝負しても意味ないし、ファンもそれ別に期待してないと思うので、オールドファンへの配慮をしながらの、ちょっとズラしたレトロ感が混ざったイビツな感じが、かえって個性になっててよいのかなとは感じた。むしろもっと遊んでくれてもなーってのも。
しめ なんか、やっぱり35年モノ続編ってこともあって、往年の大御所芸人のネタ見せられたみたいな感じもあって、先進的というよりは、やっぱり懐古的で、そこをちょっと微笑ましく見つめるみたいな、感じになって。 自分的には、まさにブレランフォロワーなんでしょうけど、朧げな記憶ですが『攻殻機動隊』あたりの方がすんなり面白いと思えたかな。コレをたとえるならば、ビートルズは聴かないけど、ビートルズで育ったミュージシャンの曲は好きになれるみたいな。で、この2049は、自分にとってはビートルズの新譜(とかリミックス)みたいな感じで、影響力は認めるけど、それ自体を直接楽しむには、ちょっと古さも含めて自分の守備範囲を超えてるぞ、と。自分は、SF的ディテールで萌えれるような性分でもないので、そこは自分自身も損してるとは思うんですが。 あとはまぁ、『メッセージ』も別に好きになれなかったので、もうドゥニ・ヴィルヌーヴ作品は避けようかと。『メッセージ』で感じた細かいツッコミどころを放置してる感じ、この作品においては、Kがモバイルを常に着信音アリにしている感じが、「バイブにせんのかーい!笑」って思ってみてました。警察の事情で常に音アリにしてる設定とか? そういう納得の仕方すればよいの? それにしても音量でかくね? てな感じです。今、感想書いてて知ったんだけど、163分もあったのか。
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ブレードランナー2049(2017/アメリカ) Blade Runner 2049 監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ/製作総指揮:リドリー・スコット/原作:フィリップ・K・ディック 出演:ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード、アナ・デ・アルマス、シルビア・ホークス、ロビン・ライト、マッケンジー・デイビス、カーラ・ジュリ、レニー・ジェームズ、デイブ・バウティスタ、ジャレッド・レト、バーカッド・アブディ http://www.bladerunner2049.jp/
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『エターナル・サンシャイン』の感想

今回の感想文は『エターナル・サンシャイン』。 原題は『Eternal Sunshine of the Spotless Mind』。 2005年日本公開の映画で、監督はミシェル・ゴンドリー。彼のほかの監督作はというと、まだ観たことないんですけど『ブルー・ジャスミン』『恋愛睡眠のすすめ』とかです。 この映画は、アカデミー脚本賞を受賞してるんですが、脚本は『アダプテーション』『マルコヴィッチの穴』のチャーリー・カウフマン。『アダプテーション』は自分も好きな作品の一つです。 キャストはけっこう有名な人が出てきてて、主演がジム・キャリー(ジョエル)、相手の女性役はケイト・ウィンスレット(クレメンタイン、クレム)。記憶を消す会社のスタッフに、イライジャ・ウッド(パトリック)なんかが出てます。 僕の感想を端的に言うと「おもしろかった」です。何回も見直してるぐらい。で、何回も見直すだけの、情報量が詰まってるし、見直すたびに、オッって気づく細かいポイントがいろいろあって、楽しいです。つまりよくできてる映画ってことですよ。 おおまかな部分では、やっぱり脚本のユニークさと映像(演出)のおもしろさが魅力の柱なんですけど、もっと細かい部分での解釈の余地が、“折り込まれた次元”みたいに詰まってて、そこも実は大きな魅力かなと思ってます。 なわけで、このTumblr作って5作目にしてやっと「褒め」ですね。うわ-、よかったね。
作品紹介 いちおうサッと作品紹介すると、恋愛モノです。プラスちょいSFみたいな。SFっていってもサイコロジー・フィクション・ラブコメみたいな。 主人公は、とある恋人同士、ある日ケンカがきっかけで彼女の方が「彼の記憶を消す」手術を受けます(こういう会社が存在する世界なのね)。で、それにショックを受けて彼の方も彼女の記憶を消す手術を受けるんだけど、その記憶消去のプロセス中、彼の脳内では彼の意識自身が、楽しかった日々をさかのぼっていき、記憶を消すことに抵抗するように…って話。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 自分は予備知識完全ゼロで観はじめたので、オープニング後に、不思議な機材を持ったラクーナ社の人間がジョエルのアパートに押し入ってきた時点で「ん、普通の恋愛モノではないのですね」と知ってやや驚き、そこからの脳内描写で独創性を感じて、一気に引き込まれて見てました。 映画でも小説でもよくあるパターンですが、映画の冒頭は、物語内の時系列でいえば、ラストのあたりから始まります。これがバレンタインデーからの3日間なんですけど、オープニングになるといったんバレンタインのちょっと前の日までさかのぼるという構成。自分は初見の時にこのことを把握しきれなくて、混乱しちゃったんですけど、劇中の人物たちがバレンタインについてどう語っているかをちゃんと聞いてれば混乱しないかと。 余談ですが、その冒頭、バレンタインの朝は、主人公が部屋の中で目覚めるシーンからはじまります。ここで流れる淡々とした曲が良くて、iTunes Music Storeで着信音見つけちゃったから、普段着信音なんて買わないんですけど、250円だして買ってしまいました。これを目覚ましのアラーム音に設定するととてもよいのです!
脳内世界の描写のおもしろさ 自分的にはこの映画の魅力の中では、「脳内世界の描写」が、とくにおもしろくて、ユニークであると同時に、リアルだなーってました。リアルっていうのは、夢とかイメージ世界の中におけるリアルさ。どういうことかっていうと、たとえば“人物の顔がよくわからない”シーンが何度かでてきますが、とくにパトリック(イライジャ・ウッド)に対してのシーンで、主人公ジョエルは彼の顔をちゃんと見たことがないので、その脳内世界でも、“顔を見ようと、振り向かせようと思っても、一瞬首だけがグルッと回るけど、顔は見えない(顔が後ろも前も後頭部で、しかも一瞬回転するだけ)”っていう、ちょっと文字で説明するとめんどくせぇ描き方で、「夢の中に顔がよくわからない人が出てきた感」を見事に表現するセンスの良さ。このへんうまいぜー。わかってくれるかなぁ? あと、同じパトリックの顔が今度は、目だけ上下逆?みたいになった変な顔になってるシーンもあって、そういうのも「あ~、こういうこと夢でたまにある!」って思うし、そういう意味でのリアリティを作り出すセンス、というか賢さというか、その発想力がすばらしいなと思いました。 あとは後半のあたりで出てくる、ジョエルが幼少期の記憶へさかのぼろうとするシーン。ジョエルは子どもの頃、軒下で雨宿りした日を思い出すんですけど、そのトタン風の波板の屋根と、今、意識内でジョエルとクレムがいるリビングのテーブルがイメージとして混ざり合ってメタモルフォーゼするんですよね。つまり、テーブルの天板が波板になって、テーブルの脚が屋根の支柱みたいになる、と。なんか自分はこの描写で不思議とちょっと泣きそうになったというか、古い記憶がよみがえると意味もわからず泣きそうになる感じって、あるじゃないですか。いや、実際に日常生活ではそんな経験はない気がするんですけど、たとえば『千と千尋の神隠し』では、子どもの頃、川で溺れた記憶がよみがえるシーンが、理屈は説明できないけれど、妙に感動的であるみたいな、そういうこと。そんな感情を、なんだろう、テーブルが子どもの頃の家の屋根に変身しちゃう、しかも部屋の中で雨が降ってる、というビジュアル的なおもしろさ&美しさとともに見せてくれたこのシーンで、謎の感動をしました。いや、これ、ぜんぜんうまくは説明できてないんですけど、とにかくすごく印象に残るシーンなんですよ、誰かわかってくれ!おい! あと、パトリックの眠りが浅いために、現実世界でのパトリックたちの会話が聞こえてしまうシーンもおもしろいですよね。ジョエルは自室で眠らされていて、まわりではパトリックたちが雑談しながら記憶消去の作業としている…、しかも、パンティ盗んだみたいな話。ジョエルは脳内で、現実世界でパトリックたちがしゃべっている場所(キッチンとか)を見に行くんですけど、当然そこには人はいない、でも、眠りつつも潜在意識で声は聞こえてるから、部屋のその場所から声が聞こえるって感覚はある、という状態での、脳内と現実が交錯するシーン。ここも、うまいし、おもしろいよなぁ(この映画、ディテールを文章で説明するのが難しい!)。 現実(実際の記憶)と脳内イメージの交錯というと、脳内で博士がパトリックのことを「パァ…トリック ベイビー・ボーイ」と呼ぶシーンもあります、なんでこんな言い方なのか、自分も最初はわからずに、ひっかかってたんですけど、その、ただ不気味さの演出なのかな~?みたいに。でも、ちゃんと見直してみると、本屋でクレムがそう言ってるんですよね。記憶を消した後の本屋のカウンターにパトリックがやってきたシーンでクレムが甘い声で「パァ…トリック ベイビー・ボーイ」って言ってる。その記憶がジョエルの中で合成されて博士がその言い方をするって状況になるという、えええ、ここもウマい!うまいんだけど、それならばクレムのセリフの字幕も「パァ…トリック ベイビー・ボーイ」に統一した方がよかったんだけど、そのへん実は、字幕書いた人も気づかなかったってことなのかなー、惜しいなー。字幕だと、クレムのセリフは「パトリック 私のベイビー」になってるから気づきにくいんですよねー。
ひつまぶし 脳内だけでなく、現実世界パートの人間模様もおもしろくて。これは構成の妙といいましょうか。 記憶消去の作業はジョエルの部屋の中でずっと話が進むから、言わばワンシチュエーション。下手をすると退屈になる場合もありますが、この映画では、その部屋にいる、ラクーナ社のスタッフたちの組み合わせが変化していくことで、その場の緊張感とかキャラクターがみせる表情が、その都度変化していって、まるで薬味で味が変わっていく「ひつまぶし」的な楽しみ方というか、構成になってて、巧みなんですよ。 まずは、ジョエルの部屋には、スタンとパトリックの二人だけ。男同士でパトリックがクレムのパンティーを盗んだ話したり、あげく彼女にしちゃった話とかをするの。軽いノリがすごいっていうか。ラクーナ社の技術のすごさと、スタッフのチャラさの落差がユニークでおもしろいです(逆にここで違和感感じてイラつく人もいるよう…)。 で、お次はそこにメアリーを加えた3人に。メアリーとスタンのアツアツ?の関係性と、パトリックを嫌ってるメアリーの関係性の対比がおもしろく、パトリックがいかに女受けが悪いモテない奴かもよくわかるシーンになってます。 次はそのパトリックがクレムのところへ行っちゃうので、部屋の中はメアリーとスタンの二人に。マリファナ吸って、下着でダンスしてという、乱痴気騒ぎで、記憶消去するスタッフのクセにまったく教育されていない感じにツッコむ人もいるかもしれませんが、その「ふざけちゃう」っていう悪の描き方のリアルさ?ここも面白いですよね。 その次は、トラブルをきっかけにハワード博士が加わった3人。メアリーの秘めた?恋心がめちゃわかりやすくわかるシーンですよね。スタンとしては緊張する上司であり、恋敵の登場ってことで、一気に萎縮しちゃって、メアリーの迫り方も含��て緊張感が一気に増して、さっきの乱痴気騒ぎとのコントラストの妙。 なわけで、気まずくなったスタンが「外の空気を吸う」ってことで、部屋の外へ行くので、部屋には博士とメアリーの二人きりに。メアリーがいきなりのキスで、うわーっ!となります。 で、この、ひつまぶし展開の締めくくりとして、部屋の外には博士の奥さんが登場して修羅場に。メアリーと博士の「過去」を暴露するというオチ。 という具合に、各々のキャラクターと人間関係を説明&浮き彫りにしつつ、緊張感の変化で観客を飽きさせずに、物語を展開させていくという、見事さですよ。 メンバーの変化をまとめると、 ①スタン+パトリック ②スタン+パトリック+メアリー ③スタン+メアリー ④スタン+メアリー+博士 ⑤メアリー+博士 ⑥メアリー+博士+博士の奥さん という、ワンシチュエーションながら、豪華6パターンのひつまぶし展開!どおですか名古屋のみなさん!(適当)
ラクーナ社のおもしろみ このラクーナ社の存在感自体もおもしろいなーと思ってて、たとえば、映画の中で「記憶消去の会社」なんてのが出てくる時なんて、たいてい世界征服でもしそうな大組織として出てくるようなイメージありません??? で、その組織が悪だとした場合、その組織なりの「悪の思想」みたいな大層なものがあったりする、、でも、この映画は、そういうのとは違うアプローチでこのラクーナ社って組織をみせてて、まず、規模としてはあくまで街のクリニックって感じで、記憶消去なんて高度な技術を提供してそうな会社にしては、インディーズ感というか、そのへんの歯医者みたいなたたずまいじゃないですか、部屋の雰囲気とか狭さ感とか。あと、受付で大事なはずの記憶消去を知らせる手紙をほぼ丸見えの状態でプリンターで出力してるあたりの、ゆるゆる感とか。 で、スタッフがみんなチャラくて適当な奴っていう設定もおもしろくて、崇高な悪の思想をもった奴の集まりとかじゃなくて、ただ「軽薄」とか「雑」っていうレベルの「悪」。という、この新鮮さと、リアルさ。本当の意味で身近でリアルな悪って、こういう軽薄さとか、不真面目さだったりしますよね。
みんな失恋する映画 この映画ね、大事なポイントなんですけど、結局、ジョエル、クレム、スタン、パトリック、メアリー、博士、博士の奥さん、そしてジョエルの元カノとなるナオミも!ってな具合に、主要登場人物全員失恋してるんですよね。いや、もっと言えば、ジョエルの友達夫婦も険悪だったり(あの後どうなったかわかったもんじゃないですよ)。 だから“全員悪人”ならぬ“全員失恋”映画っていうか。俯瞰してその全体像が見えたときのせつなさ。いや、主人公ふたりは再出発してますけどー…、じゃあ、他の人はどうなんだろう。博士と奥さんはどうなったんだろう。根はまじめなメアリーのことだから、奥さんに改めて説明に行ったかもしれない。 映画全体はコミカルな雰囲気がありつつも、みんながそれぞれの失恋を体験する失恋群像劇。最後は再び結ばれた二人だって、絶対あの後もケンカ繰り返してるだろうなーって思うしね。どうなるやらですよ。
詩・詞 ご存じの通り、この映画のタイトルは、アレクサンダー・ポープの詩からとられてて、この映画のテーマみたいになってるんですけど、劇中ではこの詩以外にもいろんな詩・詞が登場して、それぞれがちゃんと映画の内容と響き合ってるので、そのへんもちゃんと理解すると楽しい。 冒頭では珍犬ハックルの歌をクレムが歌いますけど、その歌詞が、 「わが愛しのクレメンタイン 君に去られてどんなにつらいか」 なんです���ね。これもう、そのまんまじゃねーか!というか、記憶消去の次の日にこのシーンだから、ちゃんとわかったうえで観ると、すごい皮肉として笑えるし、悲しいとも言えるし、うまい仕掛けでありつつ、初見では絶対にそこまで汲めないので、もう、何回も観るの前提の映画かよって感じです。 こどもの歌というと、終盤で、ジョエルが子どもの頃の記憶を思い出すシーン(雨の日のね)でのこんな歌、 「ボートをこいで川を下ろう 楽しい楽しい夢のような人生」 ってのが出てきます。記憶をさかのぼることを比喩してるような「川を下る」って詞との響き合い!「夢のよう」もそうだし、この歌詞だけでもう、これまたこの映画そのものみたいな歌詞!気づくとなるほどっ!ってなります。 あと、エンディング含め、劇中で何度も流れるベックの歌「Everybody's Gotta Learn Sometime」。この歌は主題歌って感じなので、歌詞もストレートに、「気持ちを変えれば、大切ななにかに気づく」みたいな感じなんですけど、この歌の歌詞の中にもね、ちゃんと「Sunshine」ってキーワードが出てくるので、タイトル(=ポープの詩)とも共鳴してて、そこでもまたうまいポイント獲得でしょ。 で、後は、メアリーがいわば博士をくどくというか、背伸びした知性アピールで語る、ニーチェの「忘却はよりよき前進を生む」という詩?。これは忘却を後悔したジョエルの映画であることを考えると「そんなことないよー、逆だよー」とも思うんですけど、一方で、お互いの記憶を忘却するプロセスを経た上で、より絆が深まった(かもしれない)ふたりのことを考えると、いやー、たしかに“忘却”がよりよき前進を生んじゃったなーって感じで、これまた、この映画そのものだなっ!って、なります。 そして、肝心のタイトルにもなっているアレクサンダー・ポープの詩。 字幕通りだと、 「幸せは無垢な心に宿る/忘却は許すこと/太陽の光に導かれ/陰りなき祈りは運命を動かす」 ちなみに原文はコレっっぽいです、 「How happy is the blameless vestal's lot! The world forgetting, by the world forgot. Eternal sunshine of the spotless mind! Each pray'r accepted, and each wish resign'd.」 この「忘却は許すこと」と詩にありますけど、記憶除去を逃避の術として使った二人が、ラストでは、そういった嫌な具体的記憶を無くしたうえで、かつ、運命的にモントークで再開して自然とまた恋に落ちてしまったというどうしようもない事実を突きつけられた上での、再スタートということで、その忘却しているということが、擬似的な「許し」として機能しているわけですよね。まぁ、あのあと二人がうまくいったかはさだかではねぇんですけど。 あと、「陰りなき祈りは運命を動かす」ってありますけど、二人がお互いに記憶を除去してしまったという、本来ならなかなか再開できない状態の中で、ちゃんと再開できたってことが、そのままですけど、ふたりの「陰りなき祈り」が「運命動かした」って感じしますよね。
NiceとOK とまあ、こういった知的な引用とか、記憶除去手術、意識と無意識とか、むずかしそうなコトガラが飛び交ったりもする映画なんですけど、中心にいる二人は見ての通りあんまり難しいことは語らない人間で、いたってシンプル。直感で好きになって、「Nice」(字幕では“いい人”)だねと褒め合って惹かれ合い、ラストのジョエルがクレムを、クレムがジョエルを受け入れるセリフは「OK」の一言。いたってシンプル=「無垢な心に宿る」で、この最後のOKなんか、愛とか、受容とか、諦めとか、ユーモアとか、いろんな意味が含まれた豊かさのあるOKって感じがして、いいなって思います。 クレムったらジョエルに「ボキャブラリーも貧困だ」って言われてますからね(テープで)。
好きになる人ってどうやって好きになりますか この映画ではラストになるとやっと、二人の出会いのシーンに到達するわけなんですけど、そこでジョエルはクレムの後ろ姿を見ただけで惹かれたって言ってるし、クレムはジョエルがパーティーの輪から離れて、一人座ってるところを見ただけで「仲間を見つけた」と思ったって言ってます。もう、言葉を交わすよりも早く直感でお互いもう好きになっちゃってるということ。ホントに運命的だなーって。 で、ここで自分の体験を振り返ると、好き同士というかそういう関係になっちゃうような女の子とは、確かにちょっと写真を見ただけとか、同じ空間にいるときになんとなく気になって目が合うとか、じっくり話すよりも前に、そういうレベルで妙に気になっちゃうってことは確かにある(あった)なー、と(特にクレムみたいな、ちょっと変わった女の子は)。で、あっという間に仲良くなっちゃったり、、、映画でも、出会った直後にクレムはジョエルの食べてるチキンを遠慮なく取って食べちゃったり最初から「まるで恋人みたい」ってな具合に、惹かれ合うような人とは距離の縮まり方が、やっぱり他の人とは格段にスピードが違う、最初から。で、繰り返すけど確かにそんなことはあるな、と。自分としては体験的になんとなくわかるからそのへんのリアリティも感じます。映画って全体はもちろん非現実なんですけど、ディテールの部分でリアリティを感じると、もう説得力とかおもしろさが断然増すなーと思います。 劇中でのジョエルのクレムへの一目惚れについて、もういっこ書くと、意識がジョエルの子供時代にさかのぼった時に、クレムが家政婦になっちゃうんですけど、その家政婦の服のセンスにクレムが興奮するって小ネタがあるんですけど、それによって、おそらく幼少期にちょっと異性としての好意を(無意識的にであれ)感じていたかもしれない家政婦さんと同じような嗜好を持ったクレムを、大人のジョエルが一目惚れ的に好きになってしまうことへの説得力というか、バックボーンの説明がこの小ネタで発生してるんですよね。巧妙~~。クレムに家政婦さんのおぼろげな記憶を投影しているといいましょうか。あとは趣味の共通性ということで、やっぱり似たような人に好意を持つのかなぁって。
さよならぐらい言ったことにしましょ この映画、記憶をさかのぼってるので、擬似的なタイムスリップ映画っぽい印象も感じるんですけど、タイムスリップものというと、過去をやり直すのが面白味だったりしますけど、この映画はあくまで記憶の反芻なので、やり直しはできない。でも、ジョエルの記憶とクレムのテレパシーみたいなのが作用しているので、実際の記憶とはちょっと違ったやりとりが発生します、で、それの一番美しいカタチが、クレムの「“さよなら”ぐらい言ったことにしましょ」って言うシーン。ラストのあたりの、あの忍び込んだ別荘の夜。まあ、この意識内ではクレムが言ってるセリフなんですけど、実際にはジョエル自身の、だまって去って行ってしまったあの日のちょっとした後悔の念が、そういう夢をみせてるってシーン。 なんだろうな、過去はやり直せないし、ジョエルが別荘をだまって去ったことも、理由が無くそうしたワケじゃないんですよ。クレムに危険なニオイを感じたからね。でももし、ほんのちょっとだけ、ストーリーは変わらなくても、ほんのちょっとのやりとりだけやり直せるとしたらっていう、その“ちょっとしたやり直し”が、「“さよなら”ぐらい言ったことにする」。なんか、そこはかとなくおしゃれだし、かわいらしいし、人は記憶を都合よく書き換えることもあるって知見を微妙に反映してるトコもあるし。いや、でもやっぱりおしゃれだな。 で、「さよなら」「愛してる」って会話したあとに、クレムのセリフとして意味深な感じで言われる「モントークで会いましょう(meet me in montork)」。ハイ、これがこの映画一番の奇跡。というか、この一点に二人の絆とかが集約されてる。 解釈としては、この脳内に出てくるクレムを完全にジョエルの意識の構築物とするのか、それとも、クレムの意識がテレパシー的に作用しているのかという二択には、議論ありそうですけどね。 単純に言えば、ジョエルの中に出てくるクレムも他の人物もみんなジョエルの意識が作り出しているバーチャルなものと言えるんですけど、ジョエルが記憶消去している最中にクレムが「消えそうで怖い」とパニックになっていることからして、この映画ではそういうテレパシー的な作用があるってことが前提となっている映画のようです。なので、このセリフをやっぱり「クレムのメッセージ」とする解釈もアリといえばアリで、このあたりはお好きにどうぞ、というか、こういう意味のブレというか、解釈が定まりきらない謎を含んでいるからこそ味わいの深い映画になっちゃってるし、それが魅力だし、知的でもあるしってことです。
オシディウス座 急に序盤の話に戻りますけど、“初めて”会った日の夜、「明日の夜 氷上ハネムーンを」という電話の直後に、場面は夜のチャールズ川へと、ササッ��転換。そこで、この映画の印象的なシーンの一つである、凍った川に寝そべって、冬の星空を眺める二人のシーン。チラシビジュアルにもなってるかな。二人はここで、星空について話してるんですけど、“映像では一切夜空は映さない”ってのがオシャレですよね。そういうの好き。 映さないんだけど、二人が寝てる氷のヒビ割れとか模様?がなんだか、星座とか宇宙をふわっと彷彿とさせるようで、星座そのものを映像的に隠すことと、ヒビによる比喩とが重なって、想像力を刺激してオシャレなんすよ。 しかもジョエルが言う「オシディウス座」という嘘星座もちょっと一瞬そんなのあったっけ?と思考を刺激して、とってもとってもイメージが広がるシーンになっているあたり。うまい!ホント星空そのものを映さなくて正解。っていう制作陣のこのセンスね。こういうところなんですよ。
まとめ まとめるとー、って言っても難しいんだけど、この映画の良さ、というか、良さを支えているだろうその地盤として、作った人、つまりミシェル・ゴンドリーとチャーリー・カウフマンが人間の意識・無意識・記憶についての知見をちゃんとしっかり持ってる(調べた)ってことがまずあって、そこがディテールの説得力につながってるから複数回の鑑賞に耐えるような、映画に仕上がっているじゃないかなーってことと、それに加えて、各演出のオシャレさ、センス。センスはセンスだから、もうセンスなのよ。それが良いか悪いか。それが良い。あとは人間に対する目線というか、みんなちょっと変わってたり、エキセントリックだったりするんだけど、一皮向くとっていうか、失恋を体験して弱くなった時にはみんな優しくて弱い人なんだなってのがわかってくるあたりの、なんでしょう、その人間の弱さと優しさ=spotless mind?を見つめてる感。そこが好き(spotlessって言ってもみんな表面的には欠点だらけの人なんですけどね)。知的でリアルでセンスがあって優しい。だから好きな映画。あと音楽もね。また、何回か観てみて気づいたことがあったら書き足してみよう。しかし誰が読むんだろうか。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 『エターナル・サンシャイン』(2005/米2004) Eternal Sunshine of the Spotless Mind 監督:ミシェル・ゴンドリー(『ムード・インディゴ うたかたの日々』) 脚本:チャーリー・カウフマン(『アダプテーション』『マルコヴィッチの穴』) 音楽:ジョン・オブライオン 配給:(米)フォーカス・フィーチャーズ/(日)ギャガ ▽登場人物/キャスト ジョエル・バリッシュ/ジム・キャリー クレメンタイン・クルシェンスキー/ケイト・ウィンスレット パトリック/イライジャ・ウッド メアリー/キルスティン・ダンスト スタン/マーク・ラファロ ハワード・ミュージワック博士/トム・ウィルキンソン ロブ/デヴィッド・クロス
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『メッセージ』の感想

今回の映画は『メッセージ』(2017)。 柿の種とかばかうけに似てると話題になった謎のUFOが出てくるSFですが、原作小説のタイトルは「あなたの人生の物語」というSFとしてはちょっと違和感のあるタイトルなので興味を持っていました。なんか実存的なメッセージがある映画なのかなぁ~って。でもその原作は未読、という状態で劇場にて1回鑑賞。しかも丸の内ピカデリーでの爆音上映という形態で鑑賞。初めての爆音上映体験でしたが、思ったより全然爆音じゃなかったのでモノ足りなかったです。たぶん爆音上映って言われなかったら普通の上映と区別がつかないと思う。。。 映画自体の感想は、核となるメッセージがピンとこなかったし、SFとしての仕掛けとか設定も素直に飲み込めず、劇中の人や国の言動も、えー?と思うようなものがあり、全体的にはいまいちな印象でした。
あらすじ まず、軽くあらすじを説明しますと、ある日突如として地球各国12カ所に謎のばかうけUFOが出現。各国がそれぞれにそれに対応するんですが、アメリカにいる物語の主人公となる言語学者の女性ルイーズ・バンクスが、宇宙人と接触して、言語を解読・研究して、その宇宙人の目的を探るというストーリー。その宇宙人は7本足の巨大なタコみたいな奴で、足?から墨みたいなのを空中に出して、それこそ墨と筆で書いた円みたいな文字を作り出します。これがまた禅の円相みたいで、なにかフカミがあるのか、と思わせ振りですが、そういう見方をしない人にはただのタコですよね。
中国人バカにしすぎ問題 映画全体から伝わってくる質感は、とてもちゃんと作られた映画という感じがするのですが、ちょいちょいと気になるポイントもいろいろ。まず、この謎ばかうけに対して各国が、一応情報共有しながら対応するのですが、特に中国がやたら好戦的でですね、ちょっと中国人をアホっぽく描きすぎなんじゃないかと、でも、これはラストで効いてくると言うか、ラストの重要なエピソードに中国のシャン将軍ですかね、その人が関わってくるので、それに対するネタ振りの意味が実はあるんですけど、それにしても普通に考えて、なんにも攻撃してきていない、しかも、どのぐらいのテクノロジーを持っているかわからない宇宙人に対して、戦争おっぱじめようなんていうのは、さすがに現実的じゃないんじゃないかな、と。仮に中国が1つのばかうけを破壊しえたとしても、残りの11個のばかうけが想像を超えた武力で反撃してくるかも知れないじゃないですか。つまり勝算がないままそんなことする国家なんてあるのかね、って。 しかも、この主人公の言語学者ルイーズは、ホワイトボードに文字を書くことで最初は宇宙人とコンタクトするんですけど、一方、中国ではどうやら麻雀牌?を使ってコンタクトをとろうとしてたらしいんですよね。いやこれ冗談でいってるんじゃなくて、劇中でそう言ってるからマジなんですけど、SFであること以上にそのあたりの中国政府のバカぐあいのフィクション感がすごくないかって。いくらなんでもそんなことはしねーだろと、誰のアイデアなんだよ、と。で、この映画っていうのは、「使う言語が変わることで思考方法も変わる」というのが一つの拠り所としているルールと言いましょうか、主張なんですよね。これは劇中でも言ってますけど「サピア=ウォーフの仮説」という実際にある考え方なんですけども、劇中でこのことがどういう流れに使われるかというと、「中国の宇宙人に対して中国人が麻雀言語でコミュニケーションしているので、麻雀のような勝敗(=戦い)を基本ルールとする言語を宇宙人に教えてしまっては、宇宙人も勝敗で物事を考えるようになってしまうので、戦争につながってしまうのでは?!これはヤベェぞ!」という話の流れになってるんですが、いやいやいやいや、なれへんよ、と。 宇宙人たちはそもそも宇宙人としての言語を持っていることは、すでにちゃんとわかっているわけですし、テクノロジーからして地球人以上の知性を持っていることも推測できるわけでしょ?その宇宙人がたまたま麻雀教わったからって、「チキュウジンホロボス…」ってなるか???教わったとしても、宇宙人にとっては、一時的に習得したただの第二言語ですよ。それが思考をそんなに支配しますか、と。たったそれだけで、元々の地球に来た目的を捨ててまで、戦いを仕掛けてくるのでは?という主人公たちの推測(=映画の流れ)がさすがに無理ありすぎでしょう~。ここ普通に納得しながら観てる人なんかいるのかね?そもそも地球上の12カ所の宇宙人たちは、どうやら連絡を取り合っているらしいですし、中国だけアレだからって、その推測はねぇな…って。そこの強引さは残念。 というか、だったら逆にそれ観てみたいっすよ、中国側ではどんなやりとりが繰り広げられてたのかをさ!「あなたの人生の物語」じゃなくて「メッセージの中国側の物語」。なにをどうやって宇宙人とやりとりしてたのよ。「キョンシーズ」でも麻雀好きの親方がキョンシーになったときに雀卓でゆさぶろう作戦とかあったけど、そういうアレ?それとも「サマーウォーズ」のラブマシーンと花札対決とかそういうアレ?いや、絶対中国目線版のメッセージでもう一個映画撮れるっしょ。あの将軍?がなんて言われたのか気になるしね。 いや、なんていうか、その設定自体の気持ちはわかるというか、この「言語が思考(=現実)を作る」とか、実際にあるナントカ仮説・ナントカの法則を拡大解釈して、想像の羽を広げて「もしもシリーズ」を作り出すのは、SFモノ創作の出発点としては常套手段なんでしょうけれど、もういっこなんかプラスの設定を持ってきて説得力を増すとかなんかなかったのかなーと無い物ねだりです。 そもそも、中国以外の国同士も、その国民も宇宙人がなーーーんにもしてきてないのに、暴動起こしたり、民度低いんですよね。実際、今この現実世界にばかうけが出現したとしても、ばかうけたちはなんにもしてこないんだから、案外地球人たちはのんびり落ち着いてるんじゃないかなぁって想像しますね。浅野いにおの漫画「デッドデッドデーモンンズ デデデデデストラクション」では、東京上空に巨大な宇宙船が浮かんだまま、人々はわりと普通に暮らしてて、漫画自体はふざけた感じもありますけど、リアリティに関してはこの映画よりもよっぽど上だな-、と思っちゃう。 映画では国同士も意外と非協力的で、すぐ情��共有拒否っちゃうし、そこはもっと各国が得た知識の断片を組み合わせることで、なにかこう問題が解決するみたいな流れがあったら面白かったんじゃないかなぁ。
時間超越問題 ラストのオチというか、クライマックスの見せ場となる展開はというと、主人公が時制のない宇宙言語を習得する=時間を超越した思考回路になる=未来の予知みたいなことができる=未来で教わる中国の偉いさんのケータイ番号に連絡する=中国が態度を翻したのをきっかけに各国が再び結束=宇宙人への武力行使をやめて平和的に!という流れです。なるほど、ちょっと特殊なタイムリープものといいましょうか、ちょっと違うけど「ナミヤ雑貨店の奇跡」的な「未来からの知識で今助かる」というやつ。この仕組み自体はおもしろいなとは思いました。かっこいいな、と。でもその理屈としては、前述しましたけど「時制のない宇宙人言語の理解により、思考回路が時間を超越して、未来のことも今わかるようになった」ということなんですけど、それがそもそも無理ないか、と。いやあんた、それも含めてSFですよ、と言われたらそれまでなんすけど、言語体系として時制がないのと、実際の物理的時空を飛び越えて情報伝達が行われるっちゅうのが同じ扱いっつーのはどうなんだ、と。僕も非二元論とか興味あるのでそのへんの本とか好きでよく読むんですけど、たしかに悟り開いた人の話では「時間という感覚は実は幻」というのは口をそろえて言うことです。これは定番。でも、かといって未来のことがわかります、という奴はいないんですよね(一部怪しい人はそんなこと主張するでしょうけど)。彼らが主張するのは「あるのは今だけ」という、実は悟ってない人にも実感できるごく普通の結論を語るのが常です。で、えーと、まあ、だからこのSFエンタメとしてのこの映画の前提を、僕みたいに本当にそれが現実的かどうかをジャッジしながら観ること自体が楽しみ方として間違っている、ということはそりゃそうなんでしょうけれど。
娘の存在は結局なんだったのか あと、もう一つの映画的仕掛け(※編集上の)としては、冒頭で主人公の娘が死ぬくだりがいきなり出てきて、そこから宇宙人が出てきてストーリーが進むので、なんとなく娘が死んだ後の話なのかなーと僕は思いながら観てたんですけど、実は、その娘ってのは、宇宙人対策のパートナー(理論物理学のイアン・ドネリー)と結婚してできた子どもだったっていう、ひとひねりがあることですね。これも最初は混乱したんですけど、なるほどね、と。でも、そこの「へー、ひねってるね」感はいいとして、かといってその娘が、なにか宇宙人問題の解決に関わってきてたかなーというと、別にそうでもなかったはずなので、ただの「へー、ひねってるね」感のためだけの役割なんですよね。そこもちょっと説得力足りないかなーと。
宇宙人の目的 肝心の宇宙人の目的ってなんだったのかっていうと「3000年後に地球人が自分たちを助けてくれるからその下準備として宇宙言語を教えにきた」みたいなことだったんですけど、これまたとんでもねぇ話だなって言うか、3000年もあったらそのプラン自体破綻しないかなみたいに普通の思考回路でツッコんじゃうんですけど、まぁ、宇宙人さんは時間を超えた思考回路で、未来も知っているので、ぜんぶわかったうえで彼らの行動としてはこれがベストなんでしょうね。ベストっていうか、この映画の世界観ではおそらく「未来は決まっている」ということですから、選択とかそういうことではなくて、すべてが宇宙のなりゆきといいましょうか、そういうことなんでしょうか。アレ?自分でなに言ってるのかわかんなくなってきたな。えー、でも、劇中ではたとえば「未来は努力で変えられる」みたいな、普通のことは言わないんですよね。そこはやっぱり決定論的な世界観の映画です。
メッセージのメッセージって?(注:英語の原題はArrivalです) いちおう問題が解決して、宇宙人が去った直後に、主人公の女が、相手の男にこう聞くんです「もし未来がみえたらどうする?」と。その問いに男は確かこんなようなことを返していました、「自分の気持ちをもっと素直に伝える」。ちょっと違うかも知れませんがこんな感じ。なんか、このやりとりがあることで、映画全体が人間味を帯びてくると言いましょーか、なんとなく良いメッセージだなとは感じました。 でもね、結局、この二人にどういう結末が待っているかというと、主人公の女は自分の娘が若くして病気で死ぬこともわかってるし、その前に離婚することもわかって、男と一緒になるんですよ。男の方はあるとき女から娘が病気で早く亡くなることを告げたことで、離婚につながってしまう、と。えーと、ということは、、、どういういことですか、、女から未来を告げられたことで、男は「未来がみえた」状態に擬似的になったんですけど、その男は「じゃあ亡くなるまでちゃんと寄り添おう」とかじゃなくて、よくわかんないですけど別れちゃうんですよね。「うそつけ!そんなの信じないぞ、変なこというバカ女!」みたいなことだったんでしょうか?このへんの流れもどうなんだろう?? 男がちょっとアホというか、、でもでも、そーれーも含めて、女はわかったうえというか、つまり未来が見えて、かつ、未来を知ったところで変えられないという、決定論の世界観なので。 だから結局この『メッセージ』が観客に与えるメッセージってなんだったんだろう、って振り返ったときに…、実はよくわかんないんですよねー、起こることはすべて受け入れようってことなのかなと考えると、だとしたら、そもそも宇宙人とのやりとりのくだり全部がその点とそれほどつながってきてないな、とか思ったりするし、どちらかというと、「コミュニケーションの重要性」ってことがメインテーマだと考えると、そっちの方が納得できるかな、と。でもでも、そうすると今度は、この宇宙人問題を解決したのって、コミュニケーションに対する努力とか誠実さとかじゃなくてやっぱり前述の、「中国の人のケータイ番号を未来からの知識で知った」というSF的というか、世にも奇妙な物語的なというか、そういうギミックの方の功績が大きくて、そうなると、別に平和的コミュニケーションの重要性を謳うというには弱くなるな、と。
感想のまとめ だからたぶん僕のこの映画にたいする、ガッカリとまでは言わないけどモノ足りなさの原因って、「期待しすぎた」ってことなんですよね。ごくごく普通に変わったSFとして軽い気持ちで観ればよかったのに、邦題がメッセージ、原作のタイトルが、Story of Your Life ってなもんだから、やたらと自分の好きな死生観モノ・実存モノみたいな深みのある話を期待しちゃってたんですけど、実はそうでもないんじゃないか、と。いや、たぶん、作ってる側はそういうつもりで作ってるのかも知れないけど…、でも、そうだとしたら、いやそれほど伝わってねーぞ、と。自分的にはね。なんというか、軽くシャマラン映画みたいなニオイも感じて…。この映画の評価はそこそこ高そうだから、気に入ったという方は、みなさんそれぞれ、なにか感じることがおありなんでしょうけれど、僕はちょい肩すかしだったかなーーーって。 そんな感じでした。 そんな『メッセージ』のドゥニ・ビルヌーブ監督の新作は『ブレードランナー2049』。この『メッセージ』と同じ日に、同じ爆音上映で『ブレードランナー』観てみたので続編ってことで、『2049』の方も観てみようと思います。
http://www.message-movie.jp/ 監督:ドゥニ・ビルヌーブ /原作:テッド・チャン キャスト:エイミー・アダムス、ジェレミー・レナー、フォレスト・ウィテカー、マイケル・スタールバーグ、マーク・オブライエン、ツィ・マー
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『ダンケルク』の感想

今日の感想文はダンケルク。クリストファー・ノーラン監督作。普通の劇場(非IMAX)で1回鑑賞。字幕版です。でも吹き替え版は無さそうですよね? えーと、ノーランものというと自分は、『ダークナイト』『インセプション』は観たことあります。『ダークナイト』の感想は、面白いけどツッコミどころ多いんじゃない?って感じで、『インセプション』は、むしろ嫌いな映画で、その理由は、せっかく「夢の中」というユニークな舞台を設定しておきながら、それを活かしきれてなくて、ツッコミどころは多いし、最終的にやってることは、ピストルバンバンの追いかけっこという、ありがちなスパイアクションものみたいにおさまっちゃってるところが不満でした。だって「街全体を曲げる」ぐらいのことができるというのを提示しておきながら、なんでクライマックスでは銃撃戦なのよ、ってなるでしょう普通。途中にあった階段の錯視の場面もアレ別に夢とか関係ないから!なにそのズレたセンス!たとえば、夢が舞台だったら『パプリカ』みたいに思いっきり遊んで、かつメタファー的な含みを感じさせることもできるし、夢とはちょっと違うけど『エターナル・サンシャイン』なんかの脳内描写の方が「夢っぽさのリアル感」がはるかに上でしょう。そのへんの不満がひっかかって、インセプションはむしろ嫌いな映画という印象です。でもノーラン作品ってちゃんとヒットするあたり、その理由もわかるってい��か、映画的な見せ方、盛り上げ方がウマいって感じで、でもまさにその映画的盛り上がりのために、丁寧なディテールを捨ててしまって「こまけぇこたぁいいんだよ!」精神で作っちゃってるところを感じるので、本人に悪気はないかもしれないけど、自分とは合わない監督だなって思ってました。 で、この『ダンケルク』の感想ですね。感想をざっくりいうと、ダンケルクという“大勢の人間が大勢の人間を助けた”ことがポイントの史実の映画化のくせに劇中で描かれているエピソードがちまちましてる、って印象。で、この舞台設定と劇中のエピソードのショボさの落差が『インセプション』の印象と同じなので、「ノーランだな!」と納得しました。
大勢の無名の人が協力してなにか一つのことを成し遂げるってなんか感動的じゃないですか。たとえば『サマー・ウォーズ』の花札戦でピンチになったときに地球上のいろんな人たちが自分のアカウントを使ってと協力してくれる場面のあの感動。対極には一人の特別な能力を持った人が全部解決しちゃう系のヒーローものもありますけど、まぁ、サマーウォーズのそのくだりは、両者の合わせ技って感じですけど、特になんの能力もない僕らみたいな一般人は、そういう小さな力の積み重なりが大きな働きをするってことに感動したりするわけで…、なんかそういう方面の感動がある映画なのかなーって予想しながらこのダンケルクを観たんですけど、ノーランさんがやりたいことってそんなんじゃなかったんですよね。予算なのかなんの都合なのか知りませんけど、“30万人救った”という史実を画としては全然描かずに、ラストあたりの将校さんですかね、あの人の「3万人じゃない、30万人だ」みたいなドヤ顔のセリフで済ましちゃうあたり、オヨヨーー?となりました。肝心の民間の船が助けに来る場面でも、画的に見える船の数はたかが知れてて、バーンみたいな音楽は鳴ってた気がするんですけど、30万人も助けたという事前情報からの脳内イメージで期待していたモノとの落差が大きくてガッカシという感じ。いや、もちろん、この映画って、ダンケルクの戦いの事実を大局的な視点で見せるんじゃなくて、あくまで個々人の視点からみた戦争みたいな感覚で描いているから、助けに来た船もあくまで、あの場所から、あの瞬間に見えた限定的な範囲の船舶ってことで考えれば確かにリアリティがあるし、生々しい描き方とも言えるんですけど、やっぱりこっちの期待がそれを超えてたがゆえのガッカリ感ですよね。それが消化不良な気分につながってしまった、と。極力CGを使わないことにこだわって撮ったらしいんですけど、そもそもCG(VFX)の技術が成熟してどこからがCGかもわからない映像を作れる時代に「CG使ってません」にどれぐらい意味があるのか疑問で(やたらと無農薬にこだわるおばちゃんが滑稽なのに似てる)、いやCG使っても別にいいから、もっと30万人が助かった感をどうにか映像的カタルシスとして、見せてくれてもよかったのではないかと思いましたです。 で、まず映画の冒頭のあたりで、担架で怪我人を運ぶことで、自分たちも船に乗って海岸から脱出できるかも!急げ!というシーンがあるんですが、ここでの無駄に緊迫したBGMをつけて観客の心を煽ろうとしてくるあたりですでに「いやー、こっちは別にそれほど緊迫してないんスけど…」というテンションになってしまって、なんかつまり作ってる側が「この程度の演出で客って簡単にドキドキするっしょ」ていう、客のレベルを低めに考えてそう感が見えてしまって、なんかやだなー、アタシそういうのやだなー、って感じました。まぁ、このシーンは、それぐらいに焦ってまで逃げたい場所なんだ、この海岸は、つまりとても追い詰められてヤバいんだということを表現する役割もあるんでしょうけれどね。 で、似たような感じで、中盤ぐらいですかね、船に乗せた軍人の入っている部屋のドアを開けようかどうかシーンでも、なんかやけに「開けるか…開けないか…ドキドキ…!」みたいな見せ方で映してて、それもなんだか、実際の観客の心情と、ノーランちゃんが想定している「これぐらい緊張して観てほしい」っていう希望のレベルがズレてる、つまり、少なくても自分の中ではズレてて、なんか無駄な過剰演出に感じてしまって、「いいからサラッと進めてよ」となっちゃいました。 このドアシーンとか、あと海に墜落した戦闘機のコックピットから脱出できるかどうか、ああ、やばいやばい、うわー助かったー、みたいなのが多くて、ようするに、戦争を舞台にした映画なんですけど、パニック映画とかホラー映画とかそれ系の演出手段をポチポチ入れ込んでくるんですよね。だから、戦争映画でこっちが期待するモノって、もちょっと崇高な人間ドラマみたいなのをどうしても観客は求めるんですけど、ノーランがやりたいのって、そうじゃなくて、とにかくハラハラさせようという、かなり安っぽくて志の低い映画イズムなのかなーって思うわけです。実際はどうかしらないけど、少なくても自分にはそう見えちゃったと、そう見えちゃった以上は、自分にとってはその程度の映画であったわけで。 この映画のチラシでも「ノーランが実話に挑む!」みたいなのを一つの煽り文句・売り文句としていたんですけど、たとえばその細かい、「やばいやばい!死ぬ!わー、ギリギリ助かった!」みたいなエピソードは確かに実際の第二次大戦のさなかはいっぱい存在したでしょうけれど、ダンケルクの戦いを題材として映画を一本作ろうって時に、そのチマチマパニックエピソードを何個も選んで並べる必要性ってあるのかな?って思いませんか? 民間の船舶も「徴用」してまで、みんなで協力して30万人助けたってのがこの史実自体の個性だと思うんですけど、それを舞台に設定するなら、そっちを、つまりイギリスからドーバー海峡を渡って、軍艦でもない船が戦地へ向かうということにおいての、逡巡とか、いろんないざこざ、人間の弱さ、崇高さ、英雄精神、逃げたい気持ちとか、いろいろもうちょっと題材にできるエピソードあるんじゃねーの?!って思っちゃうわけです、でも、ノーランが選んだのは(うん、ノーランじゃなくて脚本家さんとか、もっと上の意思決定の人かも知れませんけれど)、そういうエピソードじゃなくて、「水が入ってきた!死ぬ!わー…助かった!」みたいなのなんですよね。ちなみに劇中で水没で死にそうになって助かったシーンが3つぐらい繰り返されてたと思います。。 ダンケルク側で、何人かの兵士が漁船を見つけて乗り込んで、満潮になるのを待つエピソード。待っていると、船が銃撃されて穴が開いて水が入ってくるってヤツ。観ていた自分としては穴が4つ、なんなら3つ開いた時点であきらめたんですけど、登場人物さんは、もう20個ぐらい穴が開いて、体の8割ぐらいが水没してからやっと「あきらめろ」って言って外に出たんで、「いや、根性すげえな!」って思いました。たしかに不意に外に出たら、敵がたくさんいるかも知れないし、その銃撃も「訓練射撃」らしいので、もしかしたらそのうち止まるかもっていう考えはわからなくもないんですけど、単純に被弾して死ぬ可能性も高いし、穴を塞ぐちゃんとした手段が無いなら、満潮になったとしても、ドーバー海峡は渡れないわけだし、かえって下手に沖まで行ってから船が沈むよりは、さっさと見捨てた方がいいという判断もありそうなんだけど…、んー、どうなんだろう? もし撃ってるヤツが一人二人だったら、こっちの方が数は多いからあっさり勝てるかも知れないし、とかも思っちゃうし、そもそも戦争の最前線でなんで船に訓練射撃なんかしてるんだ?というのもあるし、この船と、あのお偉いさんのいる桟橋までの地理的な距離がどのぐらいなのかも、けっこう曖昧なのでは?ここにドイツ側の最前線の兵士が来れるってことは、えーと、どういうこと?あの場所にイギリス・フランス軍がたむろってること自体は別に秘密ではないわけだし…。んー。最終的には、ほどほどに沖に行ったあたりで、船がバーンって助けに来たので結果オーライってやつではあったんですけどねぇ。 その船襲撃シーンもそうなんですけど、この映画ってドイツ軍が全然出てこないんですよね。あくまで視点を絞って描いてるってことなんでしょうけれど、じゃあそれがなにか良い効果を与えていたのかどうか問題?映画ってやっぱり劇中で映像と音声・文字として提示されたモノで世界が構築されるので、ドイツ軍と戦っているなら、どこかポイントでちゃんと見せた方が緊迫感とか絶望感が伝わりやすかったんじゃないかなとも思うんです。そりゃ一兵士の視点からみたら、目の前にドイツ軍がいなかったら、そりゃ目には見えないからリアルではあるんですけど、実際の英仏軍の兵士は実際にドイツ軍と一戦交えて逃げてきたヤツとか、情報としてどのぐらいの戦力がどのへんにいるのかみたいなのが、脳内に内在化されていると思うんですよ。それを観客にも共有させるためにも「一方その頃ドイツ軍では…」みたいなのがちょいとあったら、どうなんだろう、と。いや、少なくとも戦争のリアル感はむしろ見せた方が高まったのでは?見せないままだと、ドイツ軍のリアル感がどうしても乏しい。相手の見えないパニック・ホラー映画というか、やっぱりノーランさんこの映画作るときにそのテのパニック・ホラー映画をチラリとは参考にして作ってると思います。好きなんでしょうね、そう言うの。知らんけど! というわけで、やっぱり自分の中では冒頭に書いた『インセプション』と似た印象で、つまり、インセプションにおいては「夢の中」、ダンケルクにおいては「ダンケルクの戦い」という、ユニークな舞台設定をして、「おっ、よさそうだね!」と興味を惹かせるものの、その中でやってることはといえば、ごく普通のパニック映画的な、「ヤバいよヤバいよー → わー、ギリギリ助かった!」みたいな、ありきたりの演出の繰り返しなので、そのガッカリ感の落差で余計に、映画の評価が下がっているって印象。パッケージ詐欺とでもいいましょうか。。。そりゃまあ、映像とかはキレイですし、細かいことが気にならないというタイプの人は普通に手に汗でもにぎって、普通に楽しめるんでしょうけれど、自分はもうちょっと独創的で新鮮なモノを期待しちゃ��がゆえに残念な結果。自分の中でのノーランのイメージも固まってしまってですね、今後は新作ができてもわざわざ観ようとは思わないでしょうね-、という感じです。以上です、編集長。
ダンケルク(2017/アメリカ) 現代:Dunkirk 監督:クリストファー・ノーラン キャスト:フィオン・ホワイトヘッド、トム・グリン=カーニー、ジャック・ロウデン、ハリー・スタイルズ、アナイリン・バーナード、ジェームズ・ダーシー、バリー・コーガン、ケネス・ブラナー、キリアン・マーフィ、マーク・ライランス、トム・ハーディ、マイケル・ケイン 配給:ワーナー・ブラザース映画 http://wwws.warnerbros.co.jp/dunkirk/
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『ムーンライズ・キングダム』の感想

今回感想文を書くのはウェス・アンダーソン監督『ムーンライズ・キングダム』です。あらすじとか、ウェス・アンダーソンの作風とかはまったく知らずに観ました。なんとなくチラシのビジュアルに惹かれて観たみたいな感じですね。 ざっくりした感想はというと、確かに全体的にオシャレで、こだわりが盛り込まれてるし、嫌な印象はない映画かんですが、自分としては登場人物への感情移入がどうにもしずらくて、感動しきれなかったという感じでした。 映画の概要をクソざっくり書くと、ちょっと問題のあるボーイとガールが駆け落ちをする話。なんですけど、まずここが問題というか、主人公の少年がすごく特殊で周囲とうまくやれない変わり者みたいな設定なんですけど、映画の冒頭でそのへんをちゃんとうまく描けてないんですよね。
というのも主人公サム・シャカスキーが所属する「カーキ・スカウト」というボーイスカウトの組織があって、その描写があるのですが、これがかなり大げさに描かれていまして、そのカーキスカウトの少年たちが、高くて細い木の上に家を作ったりと、ちょっとぶっ飛んだことをすでにやってるんですよね。ぶっ飛んだというか狂ったというか。通常のリアリティを超えたようなことを、主人公ではないカーキスカウトの少年たちがすでにやってしまっている、と。なので主人公サムが“変わった子”であると、いくらセリフで説明されたところで、僕としては「いやいや、まわりの少年たちもだいぶ狂ってるし。その狂った少年たちが受け入れられているこの映画の中の世界では、“正常”ってどの程度の話なの???」ってなってしまうわけです。 なので、まずここで主人公の特殊性を、その他の少年の正常さと対比することで、浮き彫りにする=主人公をキャラ立ちさせるということにおいて弱いわけです。弱いというか逆のことをやっている。サムが普段の生活、家庭とボーイスカウトの活動において、どのように周囲と軋轢を生んでいるかの具体的な描写が無いんですよね。なぜか知りませんが、そこをちゃんと描かずに、とにかく登場人物たちの証言で“変わってる”で済ませている、と。なんじゃそりゃ、と。そもそもカーキスカウトが高い木の上に家を作っちゃったというリアリティを下げるネタは、この映画にとって本当に必要だったのかと、ただの監督にとって「ちょっとやりたかった小ギャグ」なんだとしたら、いやそこもったいないんじゃないのか、と思いました。 で、このサムが問題児だとして、さてどれぐらい問題児なのかが、あんまり描写されないまま物語が始まっちまうんですが、せいぜい女の子と出会う日の描写で、観劇の最中に勝手に抜け出してしまうってことぐらい?その抜け出した最中に目に付いた水飲みのボタンついつい押しちゃうという、多動と言っていいのかよくわかりませんが、そんな描写があるぐらいです。もちろん「ボーイスカウトを脱走して女の子との駆け落ち」するという行動そのものが、特殊性の表れと言えばそうなのですが、そのようにして世を捨てなければならない理由としての、正常な周辺社会とのズレがそもそもなんだったのかがよく伝わってこないままだったりします。なので、軽く「?」マークが頭に点灯したまま映画を観ることになります。 女の子、スージー・ビショップちゃんとの出会いの描写もかなり唐突で、劇を見ている最中に抜け出して、楽屋裏みたいなところを探検してたら、たまたま見つけて一瞬で一目惚れした、みたいな流れなんですけど、さすがに唐突すぎません? この映画が好きな人はその唐突さみたいなのを面白がるんでしょうけれど、自分みたいな人間はもうちょっと理由とか根拠の細かい積み重ねがないとしっかり感情移入できないなと思います。いや、一目見てコイツ良いなってなる感情は確かにわかりますがね。 そうして出会った二人は手紙のやり取りの中で、お互いが家庭に居場所がないようなことを語り合って、意気投合します。ここは良いな、というか、この映画の中では珍しく?主人公たちの不憫さと、なぜお互いが惹かれあっているのかを観客に納得させるための説明機能をちゃんと果たしているシーンです。まあ、これで良いなと思っちゃうのもどうかと思いますがね。たとえば、サム側にせよスージー側にせよ、彼らが困った行動をしてそれによって親が困って呆れてため息をついたり、親同士がそれが原因でギスギスするシーンとかを2、3挿入してあればもっとフツーにわかりやすくて、より感情移入しやすい映画になって、それゆえに映画全体のカタルシスを高めることにもなったんじゃないかと思うんですが、ボーイスカウトのシーンは前述の通り、むしろ逆効果に作用しているし、スージーの家庭の描写も別に、具体的に親や兄弟と緊迫した状況に陥るわけでもないので、やっぱりそのへん弱いかなぁって思います。 でー、駆け落ちですね、サムのボーイスカウトでの技術を活かして?のサバイバル。サムは本格的な格好なのに、スージーがピンクのワンピースなのが笑えます。サムが無駄にボーイスカウトの技術を使いたがるのも、小さい男の子あるあるって感じがしてかわいいです。そうして逃げている二人は結局、カーキスカウトの他の連中に見つかってしまうんですが、スージーがハサミで隊員を刺したことで追い払います。その際に、犬(スヌーピー)が、矢で首を刺されて死んでるというショッキングかつコミカルな展開があるんですけど、このワンちゃんが死ぬまでの2回ぐらいチラっと登場するシーンでは、あんまり存在感なく出てるんで、せっかく首刺されて死んでるのに、「この犬なんだっけ?」みたいになっちゃってたんですよね、せめてその刺されシーンの直前にはもっとアップで映すなりなんなりして、観客に存在を再認識させるとか、それぐらいやってもいいのになって思いました。このへんもやり口が弱いんですよね。しかも、矢は別にサムが持ってたわけじゃなくて、相手側のカーキスカウトの追っ手が持ってたやつだと思うんで、なんで犬に刺さったのかもちょっとボヤボヤして、せっかくのネタが活ききってないという印象です。惜しい気がする。 そんなこんなで展開していくうちに、スージーがキレやすいということが確認できたり、親のセリフで「問題が多すぎる」「友達はいない」ということが一応わかってきて、観客としてはスージーの闇の部分を徐々に知っていく、ということなんですけど、親のセリフはあくまで説明セリフって感じですし、やっぱり闇の部分は冒頭でちゃんと描いていた方が、感情移入しやすいというか、観客が映画に入り込むための装置として機能すると思うので、後出しじゃなくて最初にもっと印象的な形で提示した方がフツーに効果的なのでは、と思いました。冒頭の描写だと、レコードから聴こえる解説付きのクラシック音楽がやたら印象的で、でもそれ別に映画のメインストーリーとは関わってきてないし、というわけで、やっぱりこの監督さん、自分のこだわりを入れ込むのはいいんですが、それがストーリーテリングとして、効果的かどうかは実はそれほど考えてないんじゃないかと感じてしまう。 サムが夢遊病で火を付けてボヤ騒ぎを起こしたことがあるみたいなのも、途中で描写されますけど、後出しであることの効果が別に「ああ、そうだったんだ!」っていうアハ体験的な快感にならなくて、「今更やっとどのぐらいの問題児なのかがわかってきたぜ、遅いぜ」みたいな印象なんです。 タイトルにある「ムーンライズ・キングダム」はこの逃避行の途中で見つけた入江が、もともとかたっくるしい変な前だったので、代わりに自分たちで付けたオリジナルの名前ってことなんですけど、そこのパラダイス感というか、二人だけのユートピア的なことに関しても、えーと私ずっと同じこと言ってますけど、「そもそも二人のもともとの生活がどれぐらいヤバかったのかの描写が無い」ってことで、ずっとその弱いままなんです。スージーに関しては、広くて優雅な音楽が流れるかわいいお家に住んでるし、サムは家庭での様子の描写がほとんど無くて、脱走の直前までいたカーキスカウトの生活は、だいぶシュールなことをやらかしても許容されるような状況だし、隊長さんも優しそうだし、なにがどう問題だったの?と、全然そのへんの納得感がない。だから、ふたりでユートピアを見つけてラブラブってなっても、対比が弱いから、観客としてはそのへんのカタルシスがない。「ああー、あの嫌〜な生活から抜け出して、解放されてよかったねー」とならない。わりとずっとフラットな気持ちのままで観ちゃう。 サムを嫌がっていたカーキスカウトのコたちが、最後はサムが逃げるのを手伝うために心変わりするんですが、その理由も見てて全然ピンとこないんですよね。え、なんで急に? みたいな。さらにはサムを引き取ることとなるシャープ警部(ブルース・ウィリス)も、優しい人なのはわかるけど、里子にする覚悟が醸成されるぐらいに心を通わせていたかのような描写があったかというと、それもちと微妙かと。さらにはその逃避行に別のボーイスカウトを巻き込んでしまえるというあたりの理由もよくわからんままだったな。 サムにカミナリが直撃しても平気だったりするあたりのリアリティラインといいましょうか、そのへんもなんか、んー、むしろ感情移入をしづらくしているのでは、という感じ。このリアルガチの雷が落ちても平気なら、福祉に連れて行かれて電気ショック療法をされても、別にかわいそうでもなくない?だってその何千倍?ものガチ雷食らっても平気なコなんだしー、って思っちゃった。 冒頭のテントから脱出したところの、ショーシャンク的なギャグなんかは好きだし、「トランポリンの前で気持ちを確かめてこい」みたいな意味不明のくだりもちょっとは好きですよ。 スージーが言う双眼鏡が好きな理由「遠くのものが近くにあるように見える 自分にとっての魔法のよう」という素敵なセリフは、物語全体とどう結びつけて解釈したらよいものやら、と悩んでしまいました。コガネムシと釣り針のピアスも、インパクトはあるけど、意味があるのかと言われると、ウーン、って。 問題のある子の駆け落ち逃避行という、もっとギュンっと感情移入ができそうな設定がありながらも、小手先のファッション性みたいな方面に注力しているために、映画全体の味わいもその表面的な部分にのみとどまってしまった映画、っていう印象になっちゃったかなー、自分としては。なんか女の人は好きなんでしょうね、カワイイもの好きな人とか、ちょっと変わったもの好きな女の人。だからもっと芯の部分でカチッとしてないと落ち着かないという自分みたいな人間には合わない映画、合わない監督かなと思いました。いや、いちおうそのうち『グランド・ブタペスト・ホテル』も観てみようとは思いますけど。はい。
http://moonrisekingdom.jp/ 監督:ウェス・アンダーソン/脚本:ウェス・アンダーソン、ロマン・コッポラ キャスト:ジャレッド・ギルマン、カーラ・ヘイワード、ブルース・ウィリス、エドワード・ノートン、ビル・マーレイ ほか 配給:ファントム・フィルム(2013) ────────────────── ◆解説(映画.comサマより転載) 1960年代の米東海岸ニューイングランド島を舞台に、12歳の少年と少女が駆け落ちしたことから始まる騒動を、独特のユーモアとカラフルな色彩で描いたドラマ。周囲の環境になじめない12歳の少年サムと少女スージーは、ある日、駆け落ちすることを決意。島をひとりで守っているシャープ警部や、ボーイスカウトのウォード隊長、スージーの両親ら、周囲の大人たちは2人を追いかけ、小さな島に起こった波紋は瞬く間に島中に広がっていく。 ──────────────────
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『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の感想

今回感想文を書くのは、原作小説を先に読んだ「ナミヤ雑貨店の奇蹟」。劇場で1回鑑賞。
小説の感想はというと、こんなファンタジックな仕掛けの話だということを知らずに読み始めたので、ちょっと面食らったものの、登場人物たちのヨコのつながりと、現在と過去の時間を超えたやりとりのループが、つながっていくサマは、ああ、東野圭吾っぽいなと思えて面白かったです。で、この奇蹟全体の原因となっている、「暁子」というキャラクターとナミヤ雑貨店店主の秘話ですよね、そこもステキだったなぁと。
で、映画版なんですが、まずは小説同様、現代パートの主人公の3人が犯罪から逃げるシーンから始まるのですが、彼らは犯罪から逃げてて、職質とかを警戒してるセリフも言ってるくせに、やったらにバタバタと足音を立てて、しかも走ってる道はけっこう街灯も点いてて明るいのに、持ってる懐中電灯をつけっぱなしで、アホみたいに目立ちまくって逃げてるんですよね。はい、もうこの時点で、「あ、ダメ映画クサイな」と思っちゃいましたね。ここで、まず集中力減です。
で、お次は、逃げ込んだナミヤ雑貨店のシーンなんですが、映画では小説と違って、みんなで一旦その雑貨店から逃げ出すんですよね。で、ここで不思議なファンタジックなシーンが映画オリジナルで追加されてましてですね、やおら夜の商店街のライトがピカピカと光り始めたりしてですね、で、その商店街の道に急に、過去に走っていたであろう、バスですかね、アレは、まあ幻のバスなんですけども、3人がそれに轢かれるというか、バスの中をすり抜けるという、原作好きの方からしたら「アチャーッ」と思うような、しかもCGもだいぶ安っぽいんですけど、そういうシーンが追加されててですね、コレ必要だったのかな? ここでもまた映画全体が安っぽくなってしまったというか、原作小説って、あくまで話全体はリアルで、その中で唯一ファンタジックなのは、あの“ナミヤ雑貨店”だけなんですよね、不思議ゾーンをナミヤ雑貨店だけに絞ってるところが節度があってよかったんですけど、映画版ではなにを思ったのか、街全体がジブリといっちゃ大げさですけど、不思議空間にしてしまっている、と。この点もちょっとアレって感じでした。 で、その3人のところに、過去からの手紙が届いて、それに返事書くんですが、そこまではいいとして、その返事に対してまた、過去から返事が来るじゃないですか、それがどのくらいの時間差で来たのかを、全然説明してくれてないんですよね、小説未読の人はどうやって消化したのかな、つまり、ナミヤ雑貨店の中での数分は、過去(1980年ごろ)にとっての1日ぐらい、みたいな時間の流れの差、ここはもうちょっとあの3人がしっかり気づいて納得する場面を入れたほうがよかったんじゃないかな(もちろん小説ではちゃんとそこを消化するくだりがありますけど)。 で、その最初の手紙は、まず「魚屋ミュージシャン」というエピソードなのですが、この作品、手紙が一番のキーアイテムなのに、手紙の文面とか、内容をあんまりフィーチャーしないんですよね、手紙の2、3行分ぐらいだけナレーション的にかぶせられるだけで。だから、過去と現在が手紙によって繋がっているという感じが、それほど伝わってこないといいましょうか、もっと、たとえば画面内では物語が進行してて(画的にわかる範囲で)、それに手紙の内容をある程度の分量キッチリとナレーションで聞かせてあげたらどうだったんでしょうね、それだと観客の理解が追いつかないんじゃないかという心配があったんでしょうけれど。 この「魚屋ミュージシャン」のくだり全体は悪くはないんですけど、林遣都くんもいい雰囲気の役者さんですしね。問題は、誰もが思うだろうけど、門脇麦ちゃんの歌の途中でなーぜーか挿入された砂浜でのダンスシーン。MVかよと。突然すぎるし。映画全体から浮いてる。どういうセンスなんだろう。と、ここでもまた気持ちが冷めてしまいました。 あと、この映画、シーンとシーンがちゃんとわかれて撮られてて(いい意味ではなく)、たとえば林遣都が火事の中で、息絶えるシーンにオーバーラップさせてセリ(門脇麦)の歌の前のMCの声をかぶせたら、なんかより良さげじゃないですか? または3人が書いた返事の内容(あなたの歌は残ります)をもう一度提示するとか、なんかそういう一工夫みたいなのがないんですよね。あ、あと、この松岡克郎(林遣都)が丸光園で歌うシーンで、最初にクリスマスソング歌った後に、いきなり、あのタツローのさみしい曲(主題歌リボーン)始めるんですよ。え、もうちょっとMCで、例えば「ちょっと暗い曲なんですが、自分オリジナルの思い入れのある曲なんで聞いてください」とか、一言あってもいいじゃないですか、そういう小さい心配りが抜けてる映画なんですコレ。しかも、そのシーンね、僕はクリスマスソングを何曲も歌った後に、最後の締めでその曲歌ったのかな~と思ってたら、そのあとの子どもセリちゃんのセリフで「あの2番目に歌った曲、なんて曲ですか?」って言ってたからよけいにビックリ。えええっっ!?、子ども向けのクリスマスのイベントで!クリスマスソング1曲しか歌わずに!いきなり2曲目で、あの暗い曲?! しかも歌詞なし! 林遣都のセトリ作るセンスの無さよ!そりゃダメだわ、売れないわコイツ、と思いましたね。 あ、ちなみにセリの歌そのものは良かったです、門脇麦ちゃん本当にカリスマミュージシャンっぽいし、きれいな声だし、いい曲だし、まぁあれが劇中での大ヒット曲みたいな設定はどうかなと思うっていうか、山下達郎の曲ってちょっとクセがあるから、そんなに大ヒットはしないよなーなんて思いました。でも、本当に麦ちゃんの歌とても良かったです、ハイ。 次のエピソードは「グリーンリバー」さんだったかな? 川辺みどりさんが子どもを産むか産まないかで悩むというくだりですね。ちょっとしたことですけど、入院中の浪矢雄治が息子に新聞の切り抜きを見せて、新聞で報道されてた川辺みどりがグリーンリバーじゃないかと思うシーンがあるんですけど、なぜそこで“新聞の切り抜きの川辺みどりの顔写真と名前が入った箇所”をインサートで映さないんだ、とヤキモキ。ちょっと入れるだけで、画にも変化が出るし、わかりやすくもなるのになぁ。 で、さて、その入院の途中で、浪矢雄治が病院から抜け出して、ナミヤ雑貨店に戻って、息子に“遺言”を渡すシーンがあります、で、息子(萩原聖人)が車の中でその遺言を読むんですが、泣きそうな顔で読んでるんですよね、いやこれ違うんですよ、遺言の中身って「私が死んだ後、三十三回忌にナミヤ雑貨店一夜限りの復活を世間に周知してくれ」って内容なんですよ。こんなもん読んだら普通「ファ?????」ってなるじゃないですか、息子はその奇蹟の感じとか全然知らないわけだから、当然、映画の観客も(小説の読者も)、「どういうことなんだろう?」って思うシーンだから、萩原聖人もそういう「心配と不思議が入り混じった表情」じゃなきゃダメなんですけど、この安っぽいセンスの監督さんの演技指導では、とにかく泣きの一手。遺言の内容が「今までありがとう」とか普通の内容だったらその泣きの演技でもいいんですけど、はるか未来に「ナミヤ雑貨店一夜限りの復活」を託すシーンですよ? 作品中で一番の奇蹟が起きるシーンと言ってもいい場面なんですけど、“泣かしにかかりたかった”んでしょうね。なんか安っぽいなぁ。 でー、しかもその後ですよ、西田敏行一人で入った雑貨店中に、“皆月暁子”(成海璃子)というオバケが出てくるんですよね。小説版ではもちろん出てきません。っていうかその前の、病院のシーンでも、不自然に出てきてた! バルコニーから西田敏行を見ているという、とってもセンスの悪いシーン。ココ、門脇麦のダンスシーンぶち込みよりもセンス悪い。画的にもダサいし、観客は「?」ってなるだけだと思うし、撮影の構図込みでセンス悪かった。安物のホラーかよ、と。ここはダメだわ。 皆月暁子ってようするに西田敏行(浪矢雄治)と過去にかけおちをした愛し合った中で、しかも丸光園の創設者、つまり、ナミヤ雑貨店で起きる奇蹟が何故ゆえに丸光園とつながりまくっているのか、の根本原因。この奇蹟全体が、浪矢雄治と皆月暁子の強い愛情によってもたらされているんだという、一番感動的な仕組みの種明かしのための重要キャラなんですけど、それはもっと後半に、たとえば昔の写真とか手紙とか(原作がどうだったかちょっと忘れたけど)で、サラリとかつ印象的に判明する方が全然カッコ良かったじゃーーーーん、って思いました。しかもこのオバケ、浪矢雄治に毛布をかけたりしちゃうから、“浪矢雄治の心が見せた幻”みたいな理解の仕方もできなくなっちゃって、「え、毛布に触れるってことは下手したら物理的に存在すんの?!」みたいに、ファンタジーが薄れてる。せっかく、踏み込んでファンタジー演出してるなら、ファンタジックなままの見せ方をしなさいよって。 ��の皆月暁子が、丸光園の創設者ってことは、後半(尾野真千子パート)で、丸光園の偉い人(PANTA)=皆月暁子の弟が、いかにも説明のための説明ゼリフみたいな下手なセリフで説明してくれます。もっと演技力のある人にやらせればよかったのに…。そのシーンも、後ろに立って、チョークで変な演技してる手塚とおる(刈谷)が邪魔臭くて、気が散っちゃって、画面的にも整理できてないし、感動的でもないし、まぁ普通に見せ方が下手かと。 あとはなんでしょう、グリーンリバーの娘のエピソード、アレ、すんなりわかった人いたのかな。つまり、最初は母親が無理心中したと思い込んでて、母親に恨みを持ってたけど、門脇麦がグリーンリバーの手紙を持ってきたことで、母親の愛情を知ったみたいな流れなんですけど、ほとんど門脇麦の説明セリフで済ませてるんですよね。あそこは、もっとそのグリーンリバーさんの手紙の文章そのものをもっと聞かせることによって、説明することはできなかったのかなあ?って。せっかく手紙がキーアイテムの作品なのに、門脇麦が全部喋って済ます?なんかもったいないシーンな気がした、映子(山下リオ)の自殺の仕方も、飛び降りなんですけど、無駄にショッキングにしすぎというか、小説版はどうだったっけ? でー、ラストでは、物語の最初にグルグル巻きにしちゃった尾野真千子が、丸光園にとって大事な人だと判明したので、若者3人がそこへ向かうんですけど、なんか肝心の主人公の敦也(山田涼介)が、それほどいい奴に見えないというか、こいつが一番素行が悪いですからね。そのくせに、ラストの手紙では「自分たちが手紙を書いたのはただみんなに幸せになって欲しかった」そんなような綺麗事をいきなり言い始めるんですよ。えーー、いやアナタが一番、手紙書くことに消極的は反対してませんでしたっけ?という印象。誠実な他の二人に対しても暴力的だし…。このへんの流れも適当に感じちゃいました。 そんなわけで、口コミを見るとわりと感動した人も多いみたいですけど、僕としては小説が読めるなら、小説の感動だけに留めておいた方がよろしいのではないでしょうかという感じです。歌はいいし、ところどころちょっとウルッときそうなところもあるし、ラストの敦也(山田涼介)が仲間のケツ叩いて、尾野真千子のところへ、“行くぞ”みたいな感じで歩いてくシーンがあるんですが、そこの爽やかさとかは良かったんですけどね。けどまあ全体的には、なんかダサく感じたり、センスを疑うようなシーンが多くて、自分としてはダメな方の映画かなという感んじでした。というわけで以上です。
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http://namiya-movie.jp/
監督:廣木隆一/脚本:斉藤ひろし/原作:東野圭吾/主題歌:山下達郎 キャスト:山田涼介、村上虹郎、寛一郎、成海璃子、門脇麦、林遣都、鈴木梨央、山下リオ、手塚とおる、PANTA、萩原聖人、小林薫、吉行和子、尾野真千、西田敏行 配給:KADOKAWA、松竹(2017) (C)2017「ナミヤ雑貨店の奇蹟」製作委員会────────────────────────── ◆解説(映画.com様より一部省略・書き直して転載) 東野圭吾の小説を実写映画化。 過去と現在が繋がる不思議な雑貨店を舞台に、現実に背を向けて生きてきた青年と悩み相談を請け負う雑貨店主の時空を超えた交流を描く。2012年。養護施設出身の敦也は、幼なじみの翔太や幸平と悪事を働いて1軒の廃屋に逃げ込む。そこは、かつて町の人々から悩み相談を受けていた「ナミヤ雑貨店」だった。 廃業しているはずの店内で一夜を過ごすことに決める3人だったが、深夜、シャッターの郵便受けに過去(1980年)からの悩み相談の手紙が投げ込まれる。敦也たちは戸惑いながらも、当時の店主・浪矢雄治に代わって返事を書くことに。 やがて、この雑貨店と浪矢の意外な秘密が明らかになり……。 ─────────────────────────
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