浮き草のように暮らしている人の文章、小説、写真、動画ぼやきなどをリレー形式で繋いでいくサイトである。浮き草の生活はいつも楽しく、華やかなものとは限らない。 KOMOGOMOはそんな生活を違った形、角度で発信していく。登場するメンバー、つまりバトンが回ってきたメンバー同士が、メンバーと読者が交々することを目指し情報発信をしていきたい。
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ジョージア再発見の旅

出発前日。火曜日。 ジョージア西部のアチャラ地方でワイン造り修行中のカンジから電話がかかる。 「もしもし、お疲れ~。」とはつらつなカンジ。 「もしもし、お疲れ様です。元気ですか」と自分は応答する。 「元気やで~」そしてカンジは申し訳なさそうに続ける。「いや、前に言ってたぶどう収穫の日、明日か明後日になりそうで、来れる?」
今後の天気予報が四日後に雨だとかで師匠が収穫を早めたそうだ。自分はケンさんに携帯を持っていき、三人で相談する。「いつでも出れるけど、ゾノさんも行きたいって言ってたし、一回相談するわ」とケンさんが電話を切る。
そしてゾノさんに電話をかけ、翌日、車の後輪が未だにスペアタイヤなので、タイヤを交換してから、出発する事で決まる。 その予定をカンジにも連絡し、家に残ったご飯を食べる。この前作ったラーメンがまだ残っているのだ。おまけに麵は消化が早く、小麦粉は身体に吸収されにくいのか、食べても食べても、お腹が膨れる感じがない。食べた直後は、多く茹で過ぎたと後悔するのだが、三十分後に胃が空いてる気がする。
作ったラーメンはカレーラーメン。日曜日に子供達と日本のカレーを作ったのだが、その残ったカレーと鶏がらスープを混ぜて、旨かった。
翌日、朝九時四十分に太陽の日差しで頭が暑くて目が覚める。実際は庭のソファで寝ずに色々と想うことに耽っていたら、朝七時とかでそこから目を瞑った瞬間、頭が熱かった。 久しぶりにカンジと会えることや、ゾノさんやケンさんと旅行に出れるって事で、自分はウキウキと遠足を待ち望む子供のように寝れなかったのだ。何はともあれ、十時前に起きれた自分を褒めてやりたい。 11時頃、ゾノさんを拾いに出発。家まで行くとすぐに登場。 「おはようございます。」とゾノさん。「いや実はもう一人一緒に行きたいと言ってる日本人がいるんですが、今連絡取れないんですよね~」と続ける。
その人は日本で畑を持っておりぶどうとワイン作っているそうだ。まずタイヤを履き替え、連絡を待ってみようということになり、途中見つけたタイヤをバラ売りしている修理屋を発見。「今出来るか?」、聞くと「どうした?」���の返答。「タイヤ交換したいんやけど、四本交換できる?」 すると修理屋の兄ちゃんはタイヤの状態をチェックした後「この一本だけ変えればいいやん」とスペアタイヤを指差し言ってくる。ほかの三本も表面ツルツル気味で、これで大丈夫やと思うか尋ねるとあと一、二か月は大丈夫でしょうとのこと。いやそれなら今変えても一緒でしょと皆言うが、一本だけだと安いのもあって、それで交換してもらうことに。
修理屋の兄ちゃんはその後、テキパキと作業を進め、最後に全部のタイヤに空気を詰めてくれると、二十分くらいで、どうぞと車を渡してきた。 自分たちの予想では、二時間は色々なごちゃごちゃした事で長引くだろうと思っていたが、実際二十分位で済んでしまい、その日本人を探す事に。
まず一緒に住んでるタクには電話し繋がらず、取り敢えず家がある方向に向かって車を進ませるかと話していたらタクから折り返しの電話。 「おいっす~」相変わらず調子の良いタク。「そっちどんな感じ~?」 「おっす~」釣られて自分たちも返してしまい、変な感触。「いや実は、その一緒に住んでる日本人探してるんやけど、今家おるん?」 「ジュンさん? いや、居ないね」とタク。「なんか携帯をまた修理しにステスク行ったよ」 「おお、マジか」ちょうどステスク手前に居た自分たちはそのまま探しに行くことに。「ありがとう。因みにどこらへんか分かる?」 「そう、あの携帯を一階と地下で売ってるところあるやん、ちょっと奥んところの。」とタク。
「オッケー、了解。じゃあまたー」と了解してしまった自分は電話を切り、皆と予想を立てる。自分は一階と地下という情報を基に考えると路面店ではなく、銀行裏の建物の中だろうと思い、そこへゾノさんと探しに行く。建物の中でゾノさんと二手に分かれ、探し始めた五分後、ゾノさんから着信。
「見つけました。番号55のショップです」とゾノさん。
すぐに向かい、状況をケンさんに報告する。ケンさんは忘れた上着を取りに家に向かっており、「向かうとき連絡するからちょっと待っといてくださいって伝えてくれや」とのこと。 修理がまだ終わってないらしく、一緒に待つ間にゾノさんからジュンさんの話を聞く。昨日買ったiPhoneがまた壊れて修理に来たそうだ。何かとトラブル続きな旅だそうで、トビリシに辿り着くまでにも香港とニューデリーでの出会いや話も色々あるそうだ。運もその分良いらしい。
今回、こうやって簡単に見つられたのも何か引き寄せたのか、引き寄せられたのか。 その後、珈琲シバきジュンさんの荷物を取りに行って二時過ぎトビリシを出発。良い感じの予定通り。
トビリシを出るころ、タクミから連絡���「どう見つけれた?」 「バッチリ確保しました~。ありがとう。」と自分。「行ってくるわ~」
「いってら~」とタクミ。 向こうにカンジからはもうバトゥミで待っているとのメッセージが。気が早い。彼もウキウキしているのだろう。 バトゥミまで六時間弱かかるのだが、軽自動車のUZUFitでは無茶も出来る訳じゃなく、六時間強掛かって、バトゥミ入り。 道中、二回犬が高速道路に飛び出してきたり、眠気に打ち勝てない気がしてきたり、運転ってのは意外と疲れる作業だったと改めて思った。 一回目ももちろん危なかったのだが、二回目はタイヤが滑り前の車とぶつかりそうになった。
バトゥミでは渋滞にハマり、ちょっとケンさんはイライラしていた。 ホステルのおじさんを呼び出し、案内してもらい、着くころにはカンジと愛犬ヘイリーが宿前で待っていた。また大きくなったヘイリー その後、カンジ君の音頭で飲み会が始まり、西ジョージアご飯を味わいつつ、久しぶりに聞くカンジの話や皆の合の手を見てると楽しく、良い時間だった。結局、明日早朝出発だと言うのに、二時半まで飲み続け、翌朝カンジ君が来たのは朝七時過ぎ。本当は六時半集合だったのだが、まあ仕方ないだろう。


自分は六時半にはもう起きていたのだが、カンジ君が来るまで二度寝。その時も身体の中にアルコールを感じていた。
バトゥミからその畑まで二時間ちょっと。山道を村々を通り抜け、途中シュアヘビという村で小休憩。お腹に何か入れようという話になり、メグルリハチャプリとお茶を飲む。その時、興奮有り余るカンジ君はどっかから手に入れてきたチャチャを持ち出してくる。ショットグラスをカフェの主人から貸していただき乾杯する。結局付き合ってしまうゾノさんと自分。朝にはチャチャ三杯とハシというスープを飲むと二日酔いから完全復活するという話で、皆飲み会の翌日とかはそれで仕事をしているとかなんとか。ただの迎え酒な気もするが、身体に気力が巡る感覚はある。気合十分でワイン収穫に挑む為、車に乗り込み、出発する。道中、一曲カンジ君のカラオケを聞き、畑に到着。着いたはいいものの、車が上まで上がらない。あともうちょっとの所で登らなくなってしまったのだ。残りの四人で押し上げ何とか駐車する。ヘイリーははしゃいでるのか、走り回っている。急な斜面にある畑で、ぶどうは美味しかった。

着いた頃は、十一時辺り。早速仕事を始める。けども、三時間ちょっとで車に積める量、限界に到達。 二時か三時には終了と言われ、何だか肩すかしを喰らった。横にある建設途中の建物の三階にあがり、休憩する。そこでチャチャの効果が薄れてきたのか、ソファに腰かけた瞬間、少しの間、眠っていた。






その畑がある村は元々カンジの師匠の先祖が治める地域だったらしい。カンジの師匠の家系は元王族で、オスマン帝国が攻めて来た時に城を壊され、その跡地にモスクを建設されたそうだ。今もまだ残るしっかりした石積みの城壁の上にモスクやイスラム文化は残っており、コーランが流れてきた��師匠の先祖は戦って殺されたそうだ。



休憩の後、文化として収穫の後は畑で集まってご飯を食べたり、宴会的なのがある様なのだが、師匠のところは人手もあまりないのと、ぶどうの収穫の後は、すぐに潰して甕に入れるのが好ましいとの理由で、ご飯はなしでそのままワイナリーに帰り、ブドウを潰す予定だったのだが、やはり師匠が何かしら作ってくれて簡単��宴会を開いてくれる。4、5年物のワインを飲み、ご飯を食べ、最後に珈琲まで出してくれる。ジョージアの客人に対するおもてなしは手厚く自分は居心地が少し��く感じる。自分の気持ち的にはカンジ君がお世話になっている師匠のところへ手伝いに来たわけで、客人のつもりで来ていない。と言う訳にも行かず、しっかりもてなされた。

その後、ワイナリーまで戻り、ブドウを潰してクヴェブリという埋まった壺にブドウ汁を注ぎ、五パーセント位の潰した皮や種を入れ、その日の作業は終了。昔ながらの製法でブドウを潰すので、なかなか時間がかかり、終わったのは十一時辺り。





そこから師匠の奥さんが作ってくれたご飯とワインで宴会。ジョージア流の宴会では乾杯の時は音頭が終わるまで話を聞いていなければならず、加えそのワインも一気に飲み干さなければならない。 と言う事で、終わって飲み干せば、急いでご飯を食べ、また一気というループが一時間半続き、宴会は終了。

その後、用意してもらった部屋に行き、ベランダでこそこそ喋って朝五時就寝。部屋にはクイーンベット一台だけで、ケンさんと少し恥ずかしくなりながら、並んで寝た。
翌日、今日もまた収穫に行くのかと思いきや、ぶどうがまだ熟しきっていないということなので、収穫は延期に。カンジ君がいつまでも起きてこず、師匠の息子に竹はどこで手に入るかと聞くと俺持ってるぞと。庭を見せてもらうと竹林がなっており、そこから一本太めのやつを切っていただく。車に乗せると笹の葉で一気にジャングル。そのあとまたコーヒーを頂き、ワインを買って、二時過ぎにカンジ君と分かれワイナリーを出発。やけに寂しそうなカンジ君とヘイリーに見送られた。
コブレティの方まで行き、昼飯を食べる。観光客に有名な大衆食堂らしく、賑わっている。 西側のジョージア飯は味付けが変わっており、また新たな味わいで美味しい。ムツヴァディという豚肉の串焼きは肉が漬け込まれて、柔らかく美味しい。他にも、スープなんかはもっと辛かったり��かったり。その食堂ではビールがなくなっていたのがとても残念だった。





その後、クタイシから一時間下にあるヴァ二という所から東側にある天然温泉に皆で向かう。
車には竹が積まれ、ケンさんは左側のミラーが見えず、追い越すときや道路に出るときは自分がチェックしなければならず、気が休まらない。高速道路では車に乗り疲れたのか、ちょくちょくウトウトしてきてしまう。そんな時は健さんも同じように眠たくなっているようで、二人で何とか高速道路を乗り越えた感じがある。
夕方、日が沈む前に温泉に到着。先客も居ないので、さっさと服を脱ぎ捨て湯につかる。 気持ち良すぎて、自分はテンションMax。先輩らからも興奮してんな~と言われる。 上は空で、西の方じゃ太陽が沈みそうで、空が赤黒く染まっていき、月も南側に顔を出してきた。 ビールを開け、乾杯する。硫黄交じりの源泉が湧く温泉で、湯温は四十度辺り。長湯できるわけです。


そこから一時間半位、暗くなるまで湯に浸かり、人が続々と集まってきたところで日本人は退散。そのままクタイシに向かい、ゲストハウスで一泊。
夕飯はクタイシで人気のヒンカリ屋。華金だということもあり、街中では若者が騒いでいる。さすがクタイシと思える程、不良感が強い。子供な自分はすっかりビビってしまい、何だかハマらない。何が楽しいのかよくわからない。
ホテルに着いて、気疲れでちょっとやられてしまった。



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ジョージア凱旋帰国
ジョージアに帰ってきた二日前。九月25日。
長かった旅(旅と言えるのか)から帰ってきた。遠路はるばる、クタイシ空港にて足を地面に着けるとき、少し緊張というか、安堵というか、物悲しさというか複雑な感情が身の回りに張り付いていた。
そこから予約したバスに乗り込み、トビリシまでまた爆睡。いつものことだが、二日経っても今ジョージアでUZUに住んでいる仲間と一緒に居ても、自分が今ここジョージアにいることに現実味が湧かない。凱旋帰国と言える程、皆が帰りを待ち望んでくれていたわけではないですがUZUにいるメンバーは鍋を作って待っていてくれた。早く会いたかったのにいざ目の前にすると何をどうやって喋っていいのか分からなくなってしまっていた。



九月27日 16:29。
既に腸にダメージを受けている。ケンさんは血便気味だそうだ。一日目はビールとワインで乾杯。二日目はビールとウォッカ、三日目は何だかんだでビール、四日目、イベントでビールにワインにチャチャ、終了時刻は朝四時。今日は渡辺さんが来るようだ。腸を整えないと色々と活動も行えない。そもそも体が持たないけれども、これらの飲み会から逃れることはもはや出来ない。昨晩、朝三時頃、ケンさんはしれっと逃げようとしていると先輩たちが逃げるなとまた引き留める。
そんな時は自分が犠牲になるのが定番なのだが、その時ばかりはケンさんを見逃してはくれず、おまけに先輩らはケンさんよりも年上で、逃げるに逃げれない。もっとヒートアップしていく先輩たち。酒は危険。
UZUは任されてくれた彼らによって、よりお洒落な雰囲気ができていた。来る人も変わりつつあり、彼らのUZUでの活動もより楽しさが増している様に見えた。そりゃしんどいことも面倒な事もあっただろうけど、良い影響をUZUに与えてくれたのは良いなと思っている。これからももうしばらくこれを続行していたい。来年の一月二月にはその人たちも日本に帰らなければと言う、また誰か捕まえないと自分がエジプトに行けなくなるし、また自分の作る雰囲気に戻したくはない。




ただ単に行ってほしくないと思うところもある。気が合う様な気もしているし、彼らとの生活も楽しいと思う。彼らが自分の事をどう思っているのかはわからないが。
裏のお店計画もまだ進んではいない。来週の月曜日からだろう。
土曜日はまたラーメン。それに加えてロシア人の服屋さんがUZUで一日出店したいそうで、その準備も進んでいる。DJの先輩も帰ってきて、豚骨を茹でる準備を始めだした。
ジョージアのUZU Houseでも無駄な戦力になりつつある自分である。新たにリーダーをやってくれた仲の良い二人の姿を見ていると、自分はやっぱり彼らと友達でもなかったかなとふと思ったり、何だか浮いてるのか、嫌われているのか、仲間外れにされたような変な感触がある。そもそも同じ立場に居ないから、話せないことや共有出来ない事があるのだろうか。向こうはそんなことも考えていない気もする。二人で全てを共有出来るから、他と共有しようとは思わないのだろう。加えて、年下の自分に敬語を使う場面もある気がする。そんなに付き合い辛いだろうか。
そんな感じで浮いてる訳です。
今回の旅、前半はおばあちゃんの見送りから始まって中盤ケンさんとの濃いエジプト挟んでの後半ドイツで先輩に会うのとお金を作ってジョージアに帰るという全部で二ヶ月の移動だった訳ですが、心は今頃どこを彷徨っているのでしょうか。まだ自分の所まで辿り着いてないようで、落ち着かぬ日々を過ごしている。
九月29日
今日は土曜日のイベントの翌日。金曜日に寝なかったからか目が覚めたのは16時に差し掛かった時だった。良く寝れたのはまあ良いのだが、一日何も出来なかったなと起きた瞬間から思い、またがっかりする。昨日の豚骨スープの残りとパスタで二郎系を作って食べ、その後は一日だらだらと過ごす。
もうドイツを離れて一週間。また会いに行きたいと思うものの、ドイツに行くことが出来るのはまだまだ先の話になりそうである。それに一週間ばかりでまた会いたいなんて女々しい事言ってられないと自分は思うのだが、狂っていきそうな気配も自分から感じている。二三年前に付き合った彼女の家まで行く徒歩七分でさえ、面倒に感じていた自分が今ドイツまで休み��ケンさんから貰って飛んでいくことはまず無いだろう。その時も何故UZUを離れられなかったのかわからない。ずっと入り浸ってしまうからなのか、うつつを抜かす自分に危機感を漠然と感じるからなのか、自分は今までロクな恋愛なんてしてこなかったなと思い出す今日の暇。昨日ケンさんに訊いたのだが、自分みたいなずっと傍に居てやれない男が恋愛した場合、「最終的には女に捨てられる未来しか待っていないから、ちゃんと良い思い出作っとけよ」だそうだ。相手が求める最終的なゴールや形は全く考慮していない。から最後は捨てられるでしょう。一瞬「まあそうよな~」と空想するが、良い思い出さえも残さなければ、自分には本当に何も残らないなと思い、ちゃんと行動に移しておこうと考えを改めた。前ならいつかダメになるならもう別れてしまった方がいいんじゃないかとか考えたが、その考えは最近は出てこなくなったと思う。
急に何の話を始めだしたのかと思ったそこのあなた、良いことあったんですよ、ドイツで。 最近はそれをジョージアで長い知り合いの女の人に話して恋バナを楽しんでいる。
これもケンさんの受け売りで学んだが、この諸々の感情の揺さぶられ方も新鮮で楽しいなと思えている。普段生きてて可愛いなとか綺麗だなと思う人はごろごろ居るが、わざわざナンパしようとならなかったり、お近づきになろうとしない中、良い人とそういった関係になるのは大変奇遇で喜ばしい事で良いなと。鼻の下伸ばしながら書いている訳ですが、そんなこともいつまで続くのか。お互いの人生でやるべきことや訪れること、そんなことを考えると早く心を強くしておこうと思う次第です。傍から見てても気持ち悪いだけですからね、鼻の下伸ばした無精ひげ生やした男なんて。
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エジプト旅行記2
アレクサンドリアに着いてまず宿に歩いて向かう。バス停から宿まで一時間強。着く頃には汗でぐっしょり。シャワーを浴び、何も上手くいかない旅。何も楽しい思えることが転がっていない。これが旅なのか。二人してイライラを落ち着かせる為に一時ボーっと��る。 歩く選択をしたのが良くなかった。いつまで俺を歩かせる気だとめちゃ怒られた。




その後洗濯機を借りたのだが、洗濯槽下の排水パイプがガッツリ外れている。その為気づいた時にはキッチンから廊下まで水浸し。排水口も隣の風呂場にしかなくて、三十分かけて床をきれいにしていく。水を掃いても掃いても傾斜があるトイレとキッチンに戻ってくる。そらそうだ、水だもの。
健さんは早く外出したいのか。腹が減ってイライラしているのか、こんな所で時間をつぶしていられないという。その通りである。がオーナーから後々文句言われるのも嫌だったので急いで掃いた。取り敢えず近所の酒が飲めるというギリシャレストランへ。
何本かビールを飲み、ご飯を食べたのち、宿に帰って眠りました。
エジプト四日目。
まだ四日目かと少しがっかりする。気持ちはもうジョージアに帰りたいと少しどころか、がっつりホームシックになりかけていた。
チェックアウトは十二時頃、掃除のおばちゃんがやってきて、掃除するから出て行けと急かす。健さんはまだ寝ている。適当におばちゃんを相槌を返し、準備を始める。
おばちゃんは違う部屋のシーツを剝がし、洗濯機にぶち込んでいる。使った者としてこれは壊れているよと伝えたのだが、話を聞かない。気が付いたらスイッチを入れている。
案の定自分たちがホテルを出るころ、おばちゃんは床をせっせと掃いていた。馬鹿なのかと思ったが、もしかしたら毎日これをやっているのかもしれない。
取り敢えず不安になり、近くのネットが使えるカフェに移動。どうするのか作戦会議。
自分たちは休む暇もない移動に疲れていた。何処か安いところでゆっくりしたかった。その中で面白い人も知り合いたかった。
もっと西側に行くのか、東側のナイル川沿いの植物が生えているところを狙うのか。ナイル川沿いに安めのAirbnbで地域文化体験ツアーなるものもやってるところを見つけたので接触。健さんはヒッピールートか~と気が乗ってい���い。
その場所はナイル川沿いのフウワという町。その町の田舎で文化を伝えるツアーとかもやってる所らしい。
しかしオーナーのおじさんは もうそこには住んでいないと言っている。今はフルガダという紅海沿岸、北西のほうにある町に住んでいて、そして今はアレクサンドリアに来ているとのこと。
やることも移動する場所も決まっていないので、取り敢えず会ってみることに。
息子が待ち合わせ場所に来てくれ、そのままホテルまで連れて行ってくれる。連れてかれたホテルはこれぞ良いホテルって感じでとてもゆっくり出来た。映画で見たような良いホテルに自分は落ち着かない。
ロビーでお父さんと話す。お父さんはナイル川沿い地域を盛り上げる活動をしていたそうで、観光客が来たら色んな体験やらツアーとかもしていたようだ。自分たちもやっていることを軽く説明し、なんかできないかと相談する。相談と言っても、今この時点で何も計画に移れないのだけど。
お父さんはフランス語はぺらぺらにしゃべれるのだそうだが、英語はちょっとらしく、詰まれば息子が通訳として会話をつなげてくれる。
その息子がまた賢いのだが、今通っている学校はエジプトで学年の上から2000位までに入らないと今の高校には行けないらしい。第一、高校が基本的に少ない。一つ県に一つか二つしかないらしく、勉強できる奴は滅茶苦茶頑張ってその高校に行き、大学にも行くそうだ。お金も大分いるそうだ。
その後、散歩に連れて行ってもらい、アレクサンドリアの歴史を聞く。あの大昔のアレクサンドロス大王が作った港町で、今の横にある海底には遺跡があるらしい。また大きな図書館があるとかで、まあ大きかった。
最後にお茶を飲んで、そこで別れた。ご飯も一緒に食べようと言ってくれたのだが、自分たちは酒を飲みに行くことに。この日は前日とは違うBarに足を延ばす。一軒目は潰れており、近くにあったBarに入ると、えらい雰囲気がいい。店員のおじさんは優しく、店主のおっさんは顎で何飲むのか問うてくる。
お通しの魚のフライも美味しいし、自分たちには嬉しい限り。



翌日、チェックアウトの時間で起される。いいホテル過ぎて寝れなかったのだ。
おじさん達は既に出発した後だったようで、自分達もロビーまで取り敢えず出る。
アレクサンドリアに来たが情報を一切持っていない訳ではない。頭に情報がある訳ではないが、アレクサンドリアに来て楽しかったと話す一個上の兄ちゃんが今UZUに住んでいるのだ。その兄ちゃんが言うにはエジプト日本科学技術大学なるものが車で一時間かかるところにあるというのだ。しかもそこにはホテルもあり、かなり安く泊まれるという話だ。買ったSIMでそこに電話してみるが電話に出ない。かなり怪しそうだが、どうなのだろうか。取り敢えずそこに行くだけ行ってみようと云う事になり、タクシーを呼ぶ。
着いてみるとホテル��泊まれるのだが、47ドルすると言われ、開いた口が塞がらない。暫く考え、また移動する。辺境の地に来てもモスクはあり、皆近所の兄ちゃん達はモスクに集まって来ていた。
見つけたドーナツ屋に入り、作戦会議。エアコンが効いている事が救い。
結局、もっと西側に行こうということになり、西の果て、リビア国境沿いの町、シワというところまで行くことになった。
シワまで遠い。砂漠のど真ん中にポツンとあるそのまんまオアシス。でも行く場所が見つかったのは幸いしている。このまま目的地を見つけられず空中分解していくのも、お互いの精神をすり減らしていくのも辛い。
ドーナツ屋の店主はやはり暇なのか、PS4で遊んでいる。新品のデカいモニターを買ったようだった。その店主にバスが止まる場所を教えてもらい、アレクサンドリアまで意気揚々と戻ったのでした。


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エジプト旅行記

エジプト二日目 バスを十時間程乗り、カイロが見えてきた。 デカい街だ。 何キロか先に見えるのだが、地平線端から端まで街の光で埋まっている。街が見えたと思ったが、違ったようだ。 また辺りは真っ暗闇

エジプトはマルサ・アラムというところにベルリンから降り立ったのだが、空港から隣町に行くにも、すでに大変。 事前に予約しとかないと目の前にあるバスには乗れないという。 歩いていけるかと聞くと高速道路に出るまで五キロあると。加えそこから車で1時間かかると教えられた。 歩きは無理かと断念し、タクシーを交渉。 25ユー��で隣町の予約したホテルまで連れて行って貰えることになった。高いのかどうかまだ全然わからないが、確実にぼられてるのだろう。 はじめに関しては致し方ない。 そこからタクシーで夕日を眺めながら、隣町まで向かう。

八時半には辺りは暗く、ドイツから遠ざかったことに少し寂しさを感じた。 姉さん達や先輩にまた会えるのだけど、もうちょっとゆっくりしとけば良かったかな〜とか思ったり。
ドイツでは17才の頃にとても影響を受けた兄さんにまた出会った。 出会えて嬉しい様な嬉しくないような。前回ドイツで会ったのが十八年か十九年。その時はケンジさんも横にいたのだが、穂くんから何だか嫌味を言われた覚えがある。彼が怒っていたのかどうか、もう覚えていないが、しきりに言っていた言葉は「羨ましい」とか。

言ってる事はわからないでもない。ただあの時自分はあの優しい兄さんに、勧められて来たドイツで再会し、沢山の文句を頂いた事にとてもショックを受けた。 そんな事も忘れ去った何年間だが、今回顔を見た瞬間にぶわぁと出てきた。 あの頃感じた悔しさや劣等感は特に出てこなかったが、自分の中で、兄さんの存在がそこまで大きくない事自体に少し悲しかった。
前なら尻尾振って後を追いかけていただろう。 そんなエジプト行き前日、ドイツにて。

エジプトはアフリカ大陸の北東部。北に地中海、東に紅海があり、真ん中をナイル川が流れている。 来る前は人類の起源がここにあるのかと神聖な思いで踏み入ったのだが、三日もすれば砂漠も飽きる。地平線の彼方向こうまで続く砂漠を眺めていると久しぶりにホームシックのような感覚。エジプトの都市、街はオアシスを元に作られている。マルサ・アラム国際空港に入国後、そのままタクシーで北上。八時ごろにエル・クセイルという町に到着し前日に予約していた宿で一泊。 その日の晩飯はサンドイッチ。

(サンドイッチ一つ10ポンド、ファラフェルだったりサラダとゆで卵が入っている。)
翌日、クセイルから移動するため、バス会社のオフィスへ十二時頃訪れる。 バスの時刻まで三時間あると言うので、まず銀行でお金を両替してもらうことに。今のレートは一ドル50ポンド弱。一年のうちに急激なインフレが起こったようで、自分たちには有難いタイミングでもあった。自分はSIMを手に入れたくて、お店の前で一時間半程待つが店主は一向に現れない。 エジプトの夏はラマダン時同様、日が沈むまで人々は活動しないようだ。 昼食はSIM屋近くの海鮮レストラン。

(米は醬油で炒めてあるのか、美味しかった。昨日のサンドイッチに比べると値段は張る。)
バスは一時間遅れで到着。 クセイルからはカイロまで十時間強。途中休憩三回挟み、日が変わった頃、遠くに端から端まで街灯が見えたときは一瞬感動したが、ただのどでかい県境に敷いてある検問だった。
(Go Busというバス会社で移動。値段はどのバス会社も似たり寄ったり。)
カイロについたのは一時前。バスが我々を下した先は考古学博物館が近くにあるダウンタウンロータリー。そこから宿に向かう。泊まった宿は老舗の有名な日本人安宿が上の階にある違う新しいほうの日本人宿。これも安宿。色んなレビューがあったけどもエアコンはガンガン効いていて寒かったぐらいだ。

(ロータリーでしばいたコーヒー、これは一つ80ポンドもしてビックリした。流石都会の中心地といったところだろうか。)
その後、すぐ近くにある隠された汚い通りにあるこれまた隠れたBarにてビールを買い込み、ホステルのベランダで飲む。まだ入国二日目だが、エジプトの移動に疲れている。十分に酔っぱらった所���寝床に入る。晩飯は酒。



(ロータリー近くの駐車場)
翌日、アレクサンドリアに向かうため、また十二時頃には昨日辿り着いたロータリーへ。そこで三時間待ち、アレクサンドリアへ向かう。アレクサンドリアへは三時間半。

(中央バスステーション・アレクサンドリア)
すでに疲れ果てている健さんと自分は、何とか予約したホテルへ移動していくもどうしてもイライラが募っている。ホテルへの道案内が下手で役立たずだと罵られるが、ここで言い返したところで何か変わるわけではないし、謝って歩き続けた。




道中、地元の子供に絡まれ、健史さんが連れていかれそうになる。それを何とか引っ張��返して、逃げるように歩き去る。
もう我々は疲れていた。エジプトの大きさを舐めていたし、バス移動にも体は悲鳴上げている。もうちょっとドイツのねえさん所でゆっくりしとくべきだったとか考えても後の祭り。もうあと何日寝るとジョージアなのかと指折り数え始めそうな状況なのである。アレクサンドリアでも中々、出会いやきっかけがつかめない。



(このBarはいい感じで地元客かエジプトの観光客で賑わっていた。とてもいい雰囲気。Barの名前はCap D’or Bar and Restaurant)
今回エジプトへ来た理由は四か国目の日本の家を作るため、まず自分が捨てられる場所を探しに来たのだ。姥捨て山ならぬ子捨て山をわざわざ自分から選択しに来たのかと思うと少し馬鹿馬鹿しい。それは親の仕事だろとも思ったが、捨てられる場所を自分で選べるというのも生き延びる点では、これもまた親の温情かと。。。 後に拾い上げに来てくれるということなので、まあ数か月の辛抱である。
まだ四日目。連日の移動続きによる腰砕けと目減りしていくお金を傍目に、自分たちのメンタルを保持していけるのか。ここからが正念場です。
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渦の家 ピットイン記
ベルリンから空を飛んで三時間、ジョージアはクタイシ市へ。空港の周りには山も見えたがどこか殺風景な印象であった。外に出ると暖かい湿った風が入り込んできた。
そこからバスに揺られ首都トビリシのFreedom squareに到着。

トビリシに着いた頃には空は薄暗くなる前のゴールデンタイムで街も人も輝いておりました。古い建物が立ち並びながらもそれに新しい建物が乗っかっていて融合している。そこらじゅうに坂や段差がある。トビリシは大きな谷の中にある街といったところでしょうか。大きな道は傾斜も少なくなだらかなのですが、少し横道にそれると急に急な坂が現れるのです。それらの坂を下りたところには川が流れていて、もちろん川の向こう側にも同様に街が広がっていました。上手に説明はできませんが、ブダとペストのような関係性も見えました。
今回は友人たちを訪ねることが目的だったので、事前情報もありませんでした。ジョージアと言われてもピンとこない方も多いと思いますが私もその一人でした。


何より今回はジョージアの調査ではなく、友人たちがトビリシでやっている“渦の家(UZU HOUSE)”というプロジェクトを見に行くのが目的でした。これはドイツのライプツィヒにある”日本の家(Das Japanische Haus)”の妹分のプロジェクトだそうです。
日���の家も渦の家もそれが週二回炊き出しをしていて、誰でもそこに来てよいというのです。時には音楽をしてイベントをしてと、色々な催しもあるそうです。
渦の家の彼らは元気そうでした。彼らが作り出すもの、流れてきている人、渦の家はそんな素敵な空間を作る場所になっていました。ゆっくりとした風が流れておりました。
この渦の家がジョージアに誕生したのはおよそ3年前で、現在とは違う街の中心でやっていたのですが、家賃の高騰に耐え切れず現在の中心部からは少し離れた民家の多い現在の地に引っ越したのだそう。その新しい家はジョージアの昔の大家族向けの家なのでしょうか。リノベーションしなくてはならないところがどこかしこに転がっているわけですし、本気を出せば新しい部屋も作れる。そういったものを直したりしながら大工作業を覚えて、さらに創造で空間ができていく楽しさが見えてなんだか羨ましく思う空間でした。人生を見つめなおしております。渦の家に住んでみたい方は常に探しているとか、、、



そしてジョージアの思い出となると、、彼らを訪ねた次の次の日から渦の家で何かフェスティバルに出店するということで合計10日いましたが、最後の二日以外はずっと友人と遊んでいる感じでした。

たったの十日でもその土地の顔や骨格がなんとなーくわかったということでしょうか。鼻の高い人が多く、目がぐりっとしていて大きな耳も大きな口も持っていました。土地が土地なだけに体もがっしりしていました。
ジョージアは地政学的にも不安定でロシアやヨーロッパ連合との関係の中で現在でも揺れているようです。変化を余儀なくされているこの街を歩くだけでも何か権力の臭いとうものなのか、何かエネルギーを感じたのは正直なところです。きっとここは昔から人が交々する一つのルートだったのだろうとも思います。何よりこの土地にある魂のようなものでしょうか、温泉好きには最高の公共浴場もあり、水源から出てくる熱いお湯には何か魂を感じました。
そしてジョージアはあまり税金が高くないということで、デジタルノマドをしている人も多いみたいです。そんな人たちの話やそんな人たちについての話も聞くことも見ることができました。旅をしながら生きるというのはなんとも現代の新しい生き方というしかありません。
そして帰りにはなんとトルコにもよることができました。いつか経由する飛行機が飛べなくなってイスタンブールに一日滞在しましたが、今回は7時間アンタルヤという町に。


ジョージアで、ある世界を旅し続けている韓国人の人と話していて、なぜ旅をしてるのかと聞いたら、「旅が何なのかを知りたいのさ」と言われました。飛行機で旅をするのは気も引けますが、またちゃんと旅をしたいなと心から思いました。変ないがみ合いのない世界であってほしいものですね。
いやはやイロコイ十日間でした。やっぱり旅はよいものですね。
















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初夏6月29日
二か月ごとの更新に毎回なっている。
ブログをやっている身で文を書かないのはどうなのだろうか。最近は文章が頭に浮かんでこない。思考を言語化するのが難しい。悩みは日々あるのだが、忙しさにかまけて浅くしか生きれていない気がする今日この頃。
二か月のうちにトビリシでは色々な出来事があった。新しい法案をめぐってのデモ隊と警察の衝突。
不謹慎だが毎日お祭り騒ぎで、内線ムードが漂っていた。パチモンのガスマスクを最近できた新しい中国の通販が宣伝していた。持ってたジョージア人曰く、ガンガン催涙ガスが入ってくるそうだ。
今回はまず消防車による放水と催涙ガスによる抑え込みだった。催涙ガスを持ち出すのが年々早くなる政府。 市民は徒党を組んで警察と乱闘騒ぎ。警察側も容赦なく、女だろうが子供だろうが殴りまくっていた。顔がぼこぼこになった女性は見なかった。
二週間以上に渡るデモ。主要な道路を塞ぎ、皆楽しそうだったし、血の気の多い若者は度胸試しに警察に向かっていきそんな若者はぼこぼこに締め上げられる。何人かの若い���本人はデモ隊に同情したのか、このきな臭い状況による興奮からか、自ら参加し皆の参加を促した。 自分はいまいちこの騒動に乗り切れなくて、参加できず常に外野だった。行った人から聞いた話だと、優しい雰囲気で平和ムードが流れていたとの事。市民にとっても外国人が参加してくれると嬉しいのか、どうか。
ロシア法と言われているが、取り締まる法案としては、スパイ法みたいな感じがしている。どのようにスパイ法なのかは具体的に説明できないが、要約すると、外国からお金をもらってる機関、団体はチェックするからねということなのではないだろうか。外国勢力は監視しておきたいということなのか。この法案が通った事によるネガティブな雰囲気暫くが街に漂っていたが今ではもう普通の日常が取り戻されたように思える。
トビリシの五月は梅雨で雨ばかりだった。そして明ければ茹る様な暑さ。最近はようやく落ち着いてきて、涼しい夜風が吹いている。UZUもだんだんと改造されている。屋根を取り付け、壁を切り抜き、地面を掘り返し、シアタールームを作ったり、カレー屋をスタートさせるべく、バーカウンターを設置したり。あといくつかの机と椅子があれば形にはなるだろうか。






五月の中旬、18日の朝九時頃にトビリシにおばあちゃんが日本から到着。DJの先輩が連れて帰ってきてくれた。ついた当日は少し休んだ後、木曜日だった為買い出しに中央駅市場へ連れていく。あくまで本人が望んだからだ。前日に部屋も作って、休める環境は作った。80歳にしては元気だと思う。体は健康そうだ。来てから一か月弱、毎朝腰が痛いと言い、ロキソニンを飲んでいたが、最近は調子が良いそうで飲んでいない。ゆっくりできているなら幸いだが、中々遊びにも連れ出せていないのが、気になるポイント。





こんなに暑いのに、わざわざ出歩かんでもいいでしょって話しているが、見せれるものは見せてあげたい。
一か月半住んでいるが、ジョージアというかUZUに慣れたように見受けられる。ジョージアに居るが、買い物や散歩は一人で行けるし、来てからスマホでマップと翻訳の使い方を教え、スーパーとかでも問題ないようだ。レジで値段を初めから知っているのにわざわざ小銭を手に出して取らせる事をやって、ジョージア人が噓をつかないかチェックしてると笑いながら言っている。二週間目ぐらいのときは、退屈に疲れたのかもう帰りたいと��いていた。韓国ドラマが見れなくなったことによる空き時間をどのように消費するのか戸惑っていたような気がする。UZUも基本的に木土以外はイベントもないし、無い日は改修工事で何かと忙しい。退屈や暇をどう潰すか、どう使うかと言った問題はいくつになっても訪れそうだ。終戦間際に生まれた祖母は時代が生んだ仕事人間なのか、昨年末まで働いていたし、仕事する事が好きだったと言っている。こんな孫を見てどう思っているのだろうか。
祖母が寝るのはだいたい十二時辺り、起きるのは朝八時とかで、その時間帯は自分たちは当たり前に起きていないので、一人で何かと色々やってくれる。ズボン縫ってもらったり、木曜日のイベントは仕切ってもらったり、ラーメンもよく手伝ってくれる。
ここにいる先輩達や友達も構ってくれるのでとてもありがたい。 来てからというもの、毎日おばあちゃんのご飯を食べれて幸せである、体重も増えた。
自分の話でいえば、自分はまだまだダメな人間だなと思い、修行中であると云う事を再認識するべきである。
まだまだ人に甘えているし、人に何かしてあげれる余裕もない、気を引き締めないと。
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ハレ便り Mai. 2024
ご無沙汰しております。
こちら仕事も少しずつですが落ち着いてきました。気づけば今の会社で働き始めてもう三年目のベテラン戦士になりました。これを機に何かレベルアップをと、攻めの姿勢でカウンセリングの資格を取りにいくことにしました。
すこし前置きになります。私はドイツの大学で教育学を学び、本当になんとか卒業したもののやはりペーペーでした。大学卒業と同時に社会教育士の資格をもらえ、仕事もすぐに見つかりました。しかし資格というのはまさにその響き通り死角だらけで実務経験もない私は恥をかくしかありませんでした。教育についての知識や理論は学んだのですが、目の前の困っている人に何もできません。さらに上手な言い回しもできない外国人の私を誰が認めてくれるでしょうか。ドイツ語のことわざで「冷たい水に飛び込み (ins kalte Wasser springen)」なんて言葉もありますが、まずは経験を積むしかないと、冷たい水で泳いできました。溺れかけたこともありましたが、皆さんのおかげで助かり、少しずつですがその冷たい水にも慣れてきて、今回の資格奪取の道を選びました。

はい、前置きが長くなりました。最近では日本でも「リカレント教育」という言葉もあるそうですが、成人教育ですね。そういう場はもちろんですが、それを認める雰囲気がどんどん出てくればいいですね。今回学ぶカウンセリングのテクニックはドイツ語では "Systemische Coaching" というものです。言葉で行くとコーチなのですが、内容的にはカウンセリングに近いような気がします。具体的なことはさておき、その手法を手にすればクライアントの悩み解決を直接サポートすることができるようになるということで、まさに魔法のような手法でございます。そして私は公式に相談所を開くことができるのです!
先週二回目の講義がありました。約一か月毎に週末に講義があります。私も長いことそういった座学に参加することがなかったので本当に頭の血管が詰まりそうになりました。
自己紹介から始まってまた出会いです。今回は開催場所もLeipzigということで新しい人たちとの出会いでございます。しかしこういうイレギュラーなことをすると、また違うドイツの社会が見えてきます。自分が毎日顔を合わせている職場の同僚やその失業者達とのカオスな社会とは並行して、ライプツィヒという都会の中で生きる人たちのオープンな社会が存在するのはなんともおかしな気分になりますが。資格獲得までは二年間かかります。いやはや色んな意味で楽しみです。
上記しましたが、単純なのですが世界には本当に人がたくさんいるなと感じます。袖振り合う縁なんてものもありますがやはり、かなりの確率で人と出会っているのであります。そもそも数字化することで理解をしようとはしているのですが、時にその意味をなさないことを感じます。すれすれのところで人と人は会わないこともあるし、合わないこともある。いやはや四十路も見えてきた私にこれからどんなことが、そしてどう生きていきたいのだろうか、そんなことを思わせてくれた週末でありました。
交々、これを読んでくれてあなたと私も見えないコミュニケーションを取っているのです。どうぞこれからも交々していきましょう。



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ぱんだ魚
つい先日まで学校の授業の一環として10週間の実習に行っていたのでそのことを書こう。前回の実習先が高齢者施設のデイセンターだったので、全く違ったグループを対象に関わりたいと思っていた。そこで子供に関わる公園を実習先に選んだ。公園といってもただの公園ではなくて、従業員が配置されている公園である。私の生まれ育った高知県高知市にも交通公園という公園があって交通ルールについて教えてくれるおじさんが働いていた。皆さんの育った環境にもそんな公園があっただろうか? 実習先は交通ルールに特化した公園ではないが、大きな遊び場に加えて幼稚園くらいの小さな建物が敷地に4つほどあって、室内外で遊ぶことができる。色んな種類の自転車の貸し出しがあって親御さんのためにコーヒーも飲めるようになっている。朝9時から夕方5時までは大人がいるので、いつでも地域の子供や親は遊びにきて公園を利用していいのである。街中に住む彼らにとって大きな空の下、見知らぬ子供達と出会えるいい機会だし、親御さん同士も仲良くなるともあるようだ。こんな公園をコペンハーゲンの自治体は26個もっていて、中には自然に特化した公園や、DYIみたいなことに特化した公園などさまざま。
そのうちの一つの公園が私の実習先ということ。公園で実習なんて面白そうだし、配置されている従業員というのが私の勉強する心理運動療法士の先輩ということもあって選択に迷いはなかった。主に私のやった具体的な実習中の仕事とは、そこによく遊びにくる幼稚園の子供たちの発育を促すようなプログラムを実施するというもの。
プライベート幼稚園を運営する方と仲良くなり、毎週火曜日に彼らの3、4歳の子供のために音楽を使って心身ともに発育できるような20分ほどのプログラムをやることになった。前回の実習からお年寄り向けのプログラムは作った経験があるので、子供を対象に設定して学校で学んだ理論を盛り込めば何かしら子供たちが体を動かして楽しく、尚且つ人として成長できることに貢献できるだろうと思っていた。自分は教育テレビに出てくる歌のお姉さんとか、お兄さんとかというキャラでは無いと思っているが、子供は嫌いではない。むしろ好きな方である。甥っ子と遊んでいる時は自分は遊びの天才?子育ての才能があるな!なんて思うこともある。
しかし子供に俺のデンマーク語が通じるのか?もし怪我でもさせてしまったら、なんて色んな心配事が頭をよぎった。
『まあこれ実習だから』
という先輩の言葉もあって大船に乗った気持ちで挑んだのであった。まずテーマを決めて、子供たちに楽しい時間を過ごしてもらいたい!楽しいだけではなく彼らの体をしっかり刺激して、体を使わないと脳の働きも活性化しないので、私はテーマを海に絞ってプログラムを作ってみた。
内容はこんな感じ↓
まずは自己紹介がてら子供らに自分の名前と好きな魚、もしくは海の生き物を言ってもらってプログラムがスタートする。たら、しゃち、くろこだいるときて、ぱんだ魚。彼らの創造力には驚かされる。
『じゃパンダ魚ってどんな風に泳ぐのって?』 私が尋ねると面白い動きをしてくれるので、ウォーミングアップも兼ねてそれを他の子供たちと真似るのである。こうして彼らは自己決定について学んだり、自分の番では無いときは待つということなど社会的スキルを体を使って遊びながら学ぶのである。少なくとも私はそんなことを彼らに学んで欲しいと思ってプログラミングする。
次に海なのでサーフィンをやることにしてみた!もちろん室内なので水は無いが、あると想定して子供たちにビート板を配り、パドリングから板に乗る動作を私が先導する。一連の動きを通してバランス感覚や前庭感覚を鍛える。慣れてくると子供達も
『あ、あそこに大きな波がきてる!』
とか言ってくれる日もあるのでできる限り彼ら個人の意見が集団に反映されるように私はタコのようにその場その場で柔軟に対応する。すると彼らのモチベーションに繋がるのである。
最後は子供達にヒトデになってもらって穏やかな音楽に合わせて大きなチュール、つまり大きな穴の空いた生地を波に見立て子供達の頭上で動かして、サーフィンで高まった彼らの覚醒レベルを下げるアクティビティを導引。短い間でもじっとヒトデのようにゆっくり寝ていられない子供もいる。そういう時はとても難しい、幼稚園の先生たちも参加しているので、
『ヒトデよ』
と言ってくれるがそれでも集中力が切れたのか?はたまたヒトデになるのが難しすぎるのか?立って部屋の隅に移��したりする子供もいた。まあ私もそうなると彼らの好きなようにさせるしか無いかと思う。でも時には自分の意見ややりたくないこともやらないといけないのが人生だったりすので、ここでのプロとての介入はとても悩ましい所だ。
日本の幼稚園だと先生は無理矢理でも子供を参加させようとするかもしれないが、これがデンマークのやり方なのか?自己決定をとても重視する傾向がある気がする。
とまあ、私が実習でやったことはもちろんこれ以外にもたくさんある。時には私のデンマーク語の理解に苦しんでた子供もいたが、彼らと触れ合った結果、子供に関わる仕事に就くのも悪くないなと思えた10週間であった。
さあ、私の学生生活も夏休みを除くと半年くらいと大詰めだ。大阪弁でいうところの必死のパッチで毎回セメスターを乗り越えてきた。まるで勝ち越しが決まるかは千秋楽に持ち越された力士のようだ。卒論で何を書こうか?そろそろ下準備を始めようと思う傍、目先のテストに集中せねばと思う今日この頃。予定は未定だが来月あたりに自分のバトンが回ってきたら、学期末テストのことを書こうと思っているので、

引き続きkomogomoの応援よろしくお願いします。面白いと思った人、記事はためにならないけど最後まで読んでいただけた方はコーヒーを私に寄付できますので、よろしくお願いします。次回はジョージアかドイツか?お楽しみに。
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四月の28日
文章書かずに早二ヶ月。二ヶ月前に比べたら、取り巻く状況は好転している。引越しも何とか三月には完了。それからは修理や解体やら、製作を住み始めてから続けている。

まず第一に修理に取り掛かった箇所はトイレである。睡眠と食は何だかんだでどうにかなる。しかし排泄が満足に出来ていなければ、ストレスも溜まっていくと考えた自分はまずトイレを修理した。トイレは便器が一つほっぽり出されており、それを設置し、排水口につなげ、水回りがうまく機能するように整えた。整えたと言ってもただ有ったものを使えるようにしただけだ。悠さん家の迷宮堂程、立派な改修工事はしていない。


次に取り掛かったのはガス、今のUZUは昔三家族位が住んでいたようで、ガス管が至る所に張り巡らされており、要らない部分を塞ぎ、新たにキッチンまで繋ぎなおした。この時、マティアスや色んな人からお前がやるべきじゃないと止められたが、俺がやらなければ他に誰がやると反対を押しのけ繋いだ。材料買い出しの時にジョージア人のおじちゃんたちに聞きまくってやってのけたのだが、彼らの反応はがんばれよと至って普通だった。ガス会社にも相談したのだが、「自分たちはやらない。おまえがやれ」とえらく簡単な答えをもらっただけだった。実際テープ巻いて繋げただけで拍子抜けだ。まだ少しガス管近くに行くと匂いがするのだけども。実際、そんな家はちょくちょくあるし、ちゃんと機能しているし、大丈夫かと思っている。

次は電気。電気は前も良く配線をつなげていたので、苦労することはなかった。でも、電気が来ているのか分からず、毎回触って確認する時にちょっと勇気がいる。
次は庭の整地と壁の破壊。庭の整地は健史さんがその時には居て、主導で動いていた。健史さんは細かい所にすごく厳しい。ちゃんと傾斜を付け、水が流れるように作っていた。自分は壁を破壊しまくっていた。破壊は楽しいのだが、気を付けないと余計な部分まで壊してしまいそうで神経を使った。一部壊し過ぎてもう一度壁を作り直した。
その後は、かまどを作り、これも健史さんに「完成をイメージしろ」と怒られながら一緒に作った。

かまどは前のUZUより大きくなり、熱効率も格段に上がった。ラーメンの時に使う麵を湯がくときに使う50Lの水を沸騰させるのが30分に短縮され、しかも薪の使用量も減った。これは格段に性能が上がっており嬉しい限りである。まだまだ修繕が必要なのだけど。
そんな中、ロシアから来た女の子が泊まり込みで壁に絵を書いてくれた。ふわふわした変な子だったが、彼女はここでの生活を楽しんでいたようだ。

そして迎えた一週間前のイベント、一発目のイベントは成功だと言える。前も来ていた人達がおめでとうと顔を見せてくれた。
ドイツから遊びに来ていたお姉ちゃんの影響もあったのだろう。とても楽しい夜だった。


ドイツからのお客として迎えたお姉ちゃん達との時間は、とても濃く、居なくなってからのロスも大きなものだった。どこどこに連れて行かなければだとか、何を食べさせるとか、来る前から興奮して色々話し合った。結果は、だいたい考えてた事は出来たと思われる。



UZUの修繕はまだまだ続く。女子トイレを今改装中で、その他使われていない場所をどんどん作りこんでいかなければならない。オーナーはこの場所を五か月前に買っただけで近所の事やこの建物の事を何も知らないようで、いつかはこの場所を使って、ホステルをやりたいそうな。出来る限り、建物をゆっくりぶっ壊して、契約を延長させなければと思っている。
前と同じ事はやってられない。今考えているのはテラスに行くための階段をボルダリング的なもので作ってみようかと考えている。楽しそうだと思える。表のマーケット部分もカレー屋に作り直す計画もあるし、それ以前にUZUとして赤字を脱却しないといけない。新天地での活動は、すぐには黒字にならんものなのだろうか。
そんなこと言っても、家賃分くらいは絶対に稼いでおきたい。ずっと赤字では、自分たちの精神も侵されていく。
トビリシは四月中旬に入った途端に夏日が続いている。庭で火を焚きながらラーメンを作っていると日射病寸前だ。
日本から帰ってきて約八か月。日本は本当に合わないなと痛感している。日本の滞在期間は三ヶ月程だったのに、日本の方が辛く長かったようなイメージがある。反してこちらでの生活は、受けるストレスも一杯あるが、日々は充実しているように思えるし、過ぎていく時間の感覚は短い。
何よりやらなきゃならないことがある。それに尽きる。
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ハレ便り April. 2024
ご無沙汰しております。
最近の報告でございます。こちらは相変わらず失業者支援の仕事。彼等との触れ合う日々で思うことは、今のいる社会はいわゆる"SDG"なドイツ社会とは少し距離ができ始めている、ということであります。
先日ラジオで今年さらにウクライナから150万人から300万人の難民が流れ込んでくる可能性があると流れておりました。私のサポートしている失業者はそういったことも含めて国の難民政策に敏感で、次の日は早速議論になっていました。彼らは自分たちの失業保険財源をどこぞの避難民に取られてたまるか、と心配し警戒をしているようです。そして見るも見事に外国人排他的立場を取っていくのです。

以前にも書きましたがドイツでは失業保険は生活保護のようなもので、暮らしていくだけのお金はけっこう簡単にもらえるのです。彼らの多くは自分で何かを仕事を探す、という意識は少なく、その生活水準を維持することでやっきになって、単純な論理で大衆政治のえさになっているわけです。特に私が担当している人は長期失業者、二年以上仕事が無い、というものが前提です。彼らの立場もわからなくもないのですが、問題があれば誰かのせいにしている人も多く、なんともエゴな匂いがぷんぷんしてたまらないわけです。
しかしこういった社会の現実を間近で見れるのは良い機会だとも思っています。
移民や難民はこれから日本でも解決すべき課題になっていくでしょうし、ひきこもりなどを始め、夢や生きがいを見つけられない若者はすでに日本では問題になっていますものね。
ドイツ人で外国人排他の立場を取っている人を私がサポートするというのは面白いものです。彼らは裏で私について何を言っているのかわかりませんが、私を個人的には受け入れてくれているように見えます。しかし彼らと政治の話をし始めると私は参ってしまいます。
そして移民や避難民については、彼らの文化に触れられることを純粋に楽しんでいます。先日新しくきたリビアからきた青年は内戦で両足がぶっ飛んだそうです。敬虔なイスラム教である彼はことあるごとに私をイベントに招待してくれます。今年は少しですが一緒にラマダンをしました。ラマダン中のモスクにも連れて行ってくれました。そのラマダン時の彼らのお祈り、一体感はすさまじいものでした。イスラム世界、そして宗教が支えているものを見た気がしました。普段は非常にだらしない彼ですが、モスクではまったく違う表情をして、各方面に支持を出していておりました。彼はこのドイツ現世社会ではなかなか使い物にはならないのかもしれませんがイスラム世界では期待のホープといったところでしょうか。普段から全然違う話しをしているのに何かあるごとにアッラーで話を纏めてくる辺り、スケボー大好きな友人が何かあるごとにスケボーで例えていたことを思い出してしまいます。彼は私をイスラムの世界に連れて行ってくれます。ラマダン後の現在も断食を続けさらにレベルの高いパラダイスに行くことが夢であると語っておりました。
宗教というのは人の支えにもなるし、逃げ場にもなる。人間の社会は今まで長い間宗教とともに生きてきたわけで、現在の宗教はまさに資本が信ずるものになっているのである、と彼は悲しそうにしていたわけです。
こんな感じが近況報告です。十人十色、サポートしている人はもちろん、それぞれが重たいリュックを抱えて精一杯生きているのだと日々痛感しているわけです。
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ドイツ大麻合法化決定!2024 年3月
"ドイツ連邦議会(下院)は23日、大麻の所持を合法化する法案を可決した。"
ドイツの連邦議会(上院)では既に可決されていたこの法案。そして最後にドイツにある16の州のボスたち(日本で言う県知事)が集まって州の意見を述べる連邦議会 (日本で言う参議院のような機能)でも大麻所持の法律を通すことで可決!
2024年3月22日記念すべき瞬間である。

ドイツでは大麻はどんな扱いだったのだろうかというのを私の実体験から言うと、合法でしょってなぐらいにパーティーや公園に行くとふわっと臭う。少数ではあるが、完全に大麻がNGな人にもあった。しかし完全なるグレーゾーンであった。ベルリンではかなり大麻にゆるかった。クラブではもちろん、バーでもふわっとあの独特のにおいが漂ってきたことがある。多くのドイツの大都市では町を歩くとディーラーが集まっている場所がある。西の都市に行くと大麻の樹脂ハシシも良く売られているとか聞いたことがある。もちろん大麻が合法なオランダとドイツは陸で繋がっているので、行き来も簡単である。
そもそもドイツ連邦の基本法では大麻所持や売買は罪であるのだが、それぞれの州法では少量の所持に関しては罪にならないという矛盾も存在していた。つまり基本法で罰せられそうになっても、州法で逃れることも可能なのであるということ。
しかし違法は違法であった。ドイツのバイエルン地方では大麻に関しては厳しいと言う話も良く聞いていた。高速道路で尿検査などがあり、捕まったケースなど。それはビールの会社の利権を奪わせまいとロビー活動しているという話もある。その流れもあって合法化された今もバイエルン地方の保守CSU(ドイツキリスト今日民主同盟)は国を訴えるとしているとか。
現在わかっていることは、4月1日から大麻が実際に合法化される。具体���には、25gまでの所持では罰せられなくなり、三株までの栽培が許されること。ここからはまだ決まっていないというが、7月からはカンナビスクラブたる会員制のお店ができて、そこで会員になれば買うことができるという。もちろん医療用でも医者が処方できるようになるそうだ。いやはやどんな風に社会に浸透していくのか楽しみである。2021年に現在の政治の与党連立ができたときには既にその連立の公約には大麻の合法がはっきりと述べられていた。いや、民主主義拍手である。
ドイツに来たの一つの理由は社会が変わるのを見てみたいというものであった。いやはやこの瞬間、そしてこの変化を見れるのは楽しみである。アメリカでも禁酒法があったというし、当たり前が変わっていくと言うのを見れるのは感慨深いものである。
参照イカです。
ドイツで愛される(?)一曲です。
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比較文学より無職
無職日記を書くことになった。最後にK O M O G O M Oブログに投稿したのは、2023年の11月だった。あの時はまだイタリアの大学で仕事があった。
12月末にそのボローニャの仕事をひとまず終え、ベルリン、ドイツに戻って以来、既に8件以上も面接を受けた。今年の1月にはブレーメン大学とボンの財団にもわざわざ行き、2月のベルリン映画祭の前は名の知れた映画プロダクション会社にも招かれ面接をした。が、今でも無職である。
30代半ばを過ぎて、人文学研究以外、まるで仕事経験がないと、他の職にももうつけないようである。大学での本格的な事務ももちろん、映画制作も経験がないから、結局採用されなかったのです。がっかり・・・。
年が明けて、東京での英語の非常勤講師の話と日本での観光ガイドの話は断った。ベルリンで人手不足のドイツ語講師や学校の先生にも関心あるのだが、私が卒業した人文学で最もマイナーな比較文学科卒業ではその道もなかなか難しいという・・・。

私が卒業したベルリン自由大学の比較文学科はペーター・ションディという文学研究者の名をもつが、彼はホロコーストから生き延びれたユダヤ人であった。戦後ドイツのナチズムの痕跡がのこるドイツ文学科・人文学科を革新したいという願望からその学科を確か1968年につくった。だが、有名な詩人パウル・ツエーラーンと親友だったこのションディは、その後間もなく、ベルリンのハーレンゼー湖で溺水死した。自殺とされた。その理由はドイツ社会においてユダヤ人の存在が満足できるまで革新することに対して無謀感によりものだったという。彼はうつ病だったそう。悲しい話だが、ベルリンのインテリの間ではよく知られた出来事だった。その暗い影より、私の両親は私がそこで勉強することに猛反対だった。そんな私は有望と言われフランスで政治経済を学んでいたのだが、その比較文学科に移ってしまった。当時を思い出すとなんだかすごい引力でそちらに惹かれたのだ。
その暗い学科を無事に卒業し、さらに国際的で明るいイギリスの比較文学科で博士号まで四苦八苦し獲得したにも関わらず、誰も予期していなかったブレクジットによって英国は閉ざされ、ドイツ国籍の私でもビザが必要となってしまった・・・。コロナ渦後になんとか見つけたあのイタリアの大学の仕事でも、結局、日本語の文語と旧字が読めず、実力不足とされて長持ちしなかった。そして今また無職になってしまった。ドイツ文学や英文学・仏文学を卒業していたら困らなかった学校の先生の道も塞がっている。
イスラエル戦争で新しく火のついたドイツの無条件のユダヤの支援義務に、あるいは反ユダヤ傾向に、まるでペーター・ションディの亡霊が今でもドイツを彷徨っている気になってしまうのだ・・・
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能動的リラクゼーション
少し今日はテイストを変えて、読者の方がリラックスできる音声を配信すること。これは私が学校で習った療法テクニックで能動的リラクゼーションと言う。オランダ人のEdmund Jacobsenさんが飲み薬に頼るのではなく、オルタナティブな療法として研究をして広まり精神科医や一般の人も今日では日常的に使うようになっとのこと。 思考や感情が身体に悪影響を及ぼすことがあるため、このガイド通じて体の細部に意識を向け直してほしい。私も寝る前に実践してみると深い睡眠が得られと感じる。実際は20分ほどの音声録音で、冒頭で13分と言っているのは誤りである。リクエストが多ければこういった私の学校での学びをここでシェアする回も増やしていこうと思う。なので下のリンクから私にコーヒーおごってもらえれば更にいい仕事ができるので、これからもよろしくお願いします。 コーヒーを奢る↓ https://www.buymeacoffee.com/yamaden888f
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一月13日夜中。 トビリシに帰ってきて二日が経つ。健史さんはドイツに置き去りに。パスポートや財布、全てが入ったトランクを盗られたのだ。ジョージアのUZUは追い出しにかけらている。それもあり、二人で急いで戻って場所探しや次の動きに入ろうとしていたのだが、健史さんはまたLeipzigにとんぼ返り。健史さんが一番ショックだろう。
トビリシの街は未だにクリスマスの飾り付けがキラキラと華やかに光っている。クリスマスの飾りつけは年々量が増え、範囲も拡大されているようだ。 そして風邪を引き始めている。夜中に悪寒で目が覚めたのだが、夢が絶望的だった。簡単に言えば、健さんに捨てられる夢だったのだけども、「捨てられる=人生終了」の自分は、そこからの展開も辛い。まず皆に別れの挨拶の後、日本に帰って両親の死を看取ってから自分も逝くのかと考えると、もう落ちて落ちて、這い上がってこれない。おまけに外は寒い。腹は痛い。あと二週間で家もない。もうダメだ。 おまけに二月から独りきりになる可能性もある。それだけは避けなければ、俺は完璧に終わる。この状況で独りきりの冬のトビリシ滞在。こうなると自殺の未来しか見えない。助けてくれる友達は自分は持っていただろうか。そんなことよりUZUが無くなれば、自分の存在意義も同時に消滅する。どうすりゃいい。
二月6日。 あれから何日か経ちましたが、何とか生きています。UZUを出る時に自分の魂も置いてきたような感覚があります。燃え尽き症候群とかを聞きましたが、それとも違う気がしています。火はまだ消えていませんが、持ってるガスをどの方向に向けて噴射すればいいのかわからない。 今住んでる家はとても快適。ベランダもあるし、じゃんけんで勝ち一人部屋もゲット。けれども、部屋に一人で居ると、アッと言う間もなく、暗く深い穴に落ちて行ってしまいそうで、全然ここでの生活に慣れない。 だから自分はあんまり家に居ない。とにかく毎日物件を探しに外をうろつき、夜はお姉ちゃんの飲み屋に行き、朝四時五時まで飲んで帰るか、ジョージアに住んでる先輩の家か、家族の家に行って飲んで帰る生活が続いている。 燃え尽きてなんて居られない。そんな余裕は今残されていない。
二月13日。 人は所狭しと住んでいる、気分は地上げ屋。住むおばあちゃんや家族をどう追い出して自分のものにするか。中心地に面白い場所なんて皆無どころか、一つの家に二家族、三家族と住んでいる。こんなところでマジで見つけられるのだろうか。UZUの意味について、最近考えている。前から考えたりもしていたが、何が大切なポイントで、意味がある活動だったのか。 ただ中心地に場所があることに意味はない気がするし、掛かるお金もまたそこにはあるし、掛かってくるお金があるなら、回収しなければいけなくもなる。そこらのバーやカフェ、クラブと同じものを作るのはUZUとして面白くない。 自分が思い描く場所としての在り方は、そこから感じる「可能性」が大切だと思う。 人と繋がれる。場所がどんどん面白くなっていく。その活動に参加できていると感じれるか。 最近は悠さんの事を、街を歩き回りながら考えている。何を思って日本の家を作ったのか。活動においても何が根底にあったのだろうか。本人はよく「暇だったから」と答えていた。 「暇」。暇になるには。都市での生活において難題だけど、まず生活するのにお金がかかってはいけない。 人と繋がれるとはどういうことか。場所の雰囲気ももちろんあるが、そこらのお洒落なバーやカフェなんかに行って友達なんて出来る事は少ない。もちろん運が良ければできたりもするが、コミュ障の自分にはどだい無理な話で、そこにはやはり「暇」がキーワードになりそうな気がしている。 正確に調査したわけではないので断言はできないけども、UZUに来た人たちは何かを求めて来たものの、一度は暇だと感じたのではないだろうか。近くの人と退屈しのぎに話しだすみたいな「暇」が生み出すコミュニケーションがそこにはあると思う。 場所への参加。やはり前のUZUは綺麗な廃墟だった。外から見れば今にも崩れ落ちそうだけども、中に入れば庭になった空き地。でも廃墟。皆好き勝手にアイデア次第で何か作り出したり改造したり出来る。自分の活動が場所に反映されるということはやはりその場所が好きになる一つの要因だと思う。 参加できるかどうかの雰囲気づくりは大切。その雰囲気にも、暇が大事な要素になると思う。イメージする暇な時間は自分達はだらっと椅子に座って太陽を浴びている。その時間は空想する時間でもあるし、人と深く会話出来る時間だと思うし、共に活動するきっかけでもある。伴って自分たちの余裕が必要。受け入れられているかどうかは、自分の力量次第。最近余裕ないからな~。できるだろうか。 まだまだ場所探し続行中。これからもUZUやるしか自分にはないし、それ以外の事も自分にはまだ考えられない。我々の人生の為に。
二月18日 タバコを吸うとえずく。のどに何か絡んでいるような感じである。飲み方は先日から変わっていないのだが、大丈夫かと心配になる。まだまだいけるけども。 今年はおばあちゃんがジョージアに来ると話をしたんだけども、今になって飛行機に乗るのを怖がっている。 ややこし過ぎて一人では乗れないと。これは無理にでも来させないと今年のビックイベントが一つなくなる。でもピストンするのもどうかと思っている。それぐらいやってあげるべきだろうか。今年で八十一辺りだと思うが、まだ元気である。意見が欲しい。 やはりUZUがないと人にも会えなくて、良くないなと思っている。女性とも出会えないし。 早く見つけ出したい。
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ani no hanayome in China 2024
今回は旅なんてモノではない、ご招待されました。
兄が中国人の方と結婚されまして、私たち家族もご招待されたわけでございます。これがきっかけで初めての中国。
親父とオカンとあたし、中国語はゼロ。入管だけ乗り越えれば、というところでなぜか私だけ入国できず。これ教科書どおりのオチか、、、と思ったがただ30分ほど待たされただけだった。

南京空港出口には義理の姉になる方とブラザーが迎えに来ていた。ここからさらに内陸部に走るという。空港に降りたところにローソンがあり、そこには日本のものもあり、日本のようなものもあった。そのローソンでは豆乳やコンポタージュスープもあったが美味しくはなかった。途中のサービスエリアで食べたソーセージはなんだか八角の味か微妙。いやそれでも新しいモノや味にわくわくした。ここは中国、うまいものを食ってやらーーー!
空港から三時間ほど走り九華山の近くの町に到着。その夜はホテルにチェックインして、近くのレストランに行ってチンジャおロースーやうまい鳥スープなどなど回転テーブルを楽しんだ。早速うまかった。
次の日には姉(義理)の実家訪問である。向こうのお父さんは料理をするのが好きということで早速私達に振舞ってくれた。ゲストが来た場合には最低限でもそのゲストの数よりも料理を作るということが礼儀らしい。飯はもちろんうまかった。
新しい親戚になる挨拶を済ませ、街に出て旅の疲れを癒してくれようとマッサージを受けた。二時間二千円くらいだったか。マッサージ師はみな女性。そして親も並んでマッサージを受ける。あるマッサージ師はうちの兄が男前だと連呼した。なんだかそうやってけっこう直接男前だとか言う人もちょくちょく見た。
私についてくれたマッサージ師はなぜか足の指をすりすりしてきた。そして彼女を見るとマスクをつけながら韓国流の指で作るハートを見せてきた。あれは何のサインだったのか。
それから向こうの親戚が現れてお食事会に発展。とても小さなコップが机の上に置かれていて、そのコップで白酒というものを飲むらしい。乾杯は聞いたことのある人は多いと思うが、中国では本当に一気に飲み干すのだ。またおもしろいことは乾杯は誰かを指名する(できる)ということ。
もちろん乾杯を通して親戚同士の挨拶になるのだが、それらやり取りを見ていると、年上の家族から挨拶が始まったりして、わかりやすい上下関係を見せてきた。もちろんゲストの私達はいつも一番奥に座らされていた。順番は日本も同じであった。

結婚式当日には嫁を迎えに行くという儀式なのかゲームあった。花婿が花嫁の実家に迎えに行くというもので、その途中には親戚一同がドアを閉めていたり、ゲームをクリアしないといけないとか邪魔が入ったりするのだ。その儀式のために結婚式前日義理の姉さんの家をパーティーモードにするのだが、それも家族みんなで一緒にやったりと、楽しませてもらった。思えば結婚式はほぼ参加したことが無い。
そして結婚式の衣装は流行の明時代、なんて言われても想像がつかないであろう。写真を見て欲しいが本当に豪華であったさすが中国。

そんな日々が続いた中国、、、細かいことは書けないし、わからないことばかりだが、食べに食べ、飲んだ。朝のホテルのオードブルから始まって、毎日ご飯のご招待。
乾杯の儀式も辛い。だがそれ以上に、美味いものがテーブルの上にあるのに箸が進まなくなっている自分を見ているのも辛かった。中国の油に完全にやられました。とほほです。
中国までたった二時間三時間、ドイツまでに比べたらまじで近い。いやー日本に住んでもっと中国とか台湾とか韓国に行きたいわぃ。ってかなんでドイツにいるのか、なんて思っている間に中国旅行記は終わった。中国、なめてました。











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kokoro no tabi- 2024
兄が中国で結婚式を挙げるということで久しぶりの帰郷になった。上司も理解してくれて一ヶ月の有給をもらえる運びとなった。有給を実家で過ごせるなんて贅沢、私のような小市民にとってそれはひとつ小さな夢を達成した気持ちであった。円安の影響もあり、私も華族の仲間入り同然である。そんなことを考えていたらあれよあれよと帰国の日は近づいていた。
今回の帰郷を何か一言にまとめると家族である。遠くに住んでいると会うことも極端に少なくなるし、冠婚葬祭には顔を出すのは難しい。それが自分にどんな意味なのか、と言うのを改めて感じ考えた時間にもなった。家族と時々会えるのはお肌にもきっと良いのだ。
今回は甥っ子との対面もあった。甥っ子に会ったときに何か不思議な気持ちを持った。何かを感じたというか、言葉にはできないものであった。甥っ子はもちろんだが、父になった兄を見るのも祖父母になった両親を見るのもなんとなく感慨深いもので,,次の世代を担う、育てる彼らを見て何か生きる意味を見た。
昔の友だちもある種、家族みたいなものである。一緒にいたら当時の気持ちが甦る。見た目とか職業とかいわゆるその形はそれぞれ変わっているのだが、その本質的なものは当時の彼らが見え隠れをする。みんなキャラクターを持っているということだが、それぞれは経験を重ねて少なからずの変化も見られた。そんな彼等の一部もせっせと子育てをしていた。子どもも色々と面白いことを言う。そういったものを聞くのも見るのも悪くない。

細かいことはさておき、そんな日本滞在で、なんというか暖かった。
旅もした。やはり自然は美しかった。色んなところで良く晴れていた。あのフジヤマも見た。あれは流行とかではなくやはりあの形がきれいであった。東京近郊ならどこでも見える、見えるっていうくらい、結構どこでも見えた。

フジヤマー
そして今回はまた瀬戸内に足を伸ばした。尾道からずっと日本海側をゆっくりとごとごとと電車で友人達を訪ねた。最後は九州の門司から大阪へと瀬戸内海を通って船で戻る。幸せなことに電車船で通った瀬戸内海を上空から望むことができた。船で貰った地図を見ながら上空から拝見。その美しさはもちろん、その地図の正確さに驚かされた。空から見る瀬戸内の島々は雲と折り重なってなんとも不思議な景色でものであった。あっぱれ。たくさんの温泉に入れたし、おなか一杯の有給休暇になった。



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人間関係パート2
みなさん明けましておめでとうございます。いつもkomogomoブログに遊びに来てくれてありがとうございます。昨年はイタリアからのゲスト投稿があったり、オリジナルメンバーにも様々なチャレンジが起こりあっという間の一年だったように振り返っております。個人的には2022年のダークな年を乗り越えて、23年は不安を抱えたまま大学へ復学。どうなることやらと思っていましたが新しい学年の友達ができたり充実した実習期間があったり、無事に一年を終えることができたと思っております。新年一発目の投稿ということもあるので、今日は何だか真面目な話になりそうですが、最後まで読んでもらえると嬉しいですね(*´ω`*)
今年の初投稿は寒波が到来中のデンマークから。国内の北部地域は氷点下15度を記録したり、雪の影響で高速道路に閉じ込められた車のニュースとか自然の恐ろしさを改めて感じている年明けです。夏は凄まじく暑かったり、水災害も多かったヨーロッパ。異常気象も普通になってきたか?自然と言えば日本の地震のニュースもそうですね、未だに避難生活が続いている方もいるようですね。中東で勃発した戦争、まだまだ終わりの見えないウクライナ戦争。デンマークは戦闘機でウクライナ政府を援助をしてます。こんな状況で世界はどうなるのか?そんな不安な気持ちで毎日生きているのはkomogomoメンバーだけではないと思いますが、実は世界では思った以上に明るいニュースがあったりします。IEA(International Energy Agency)によると例えば太陽光エネルギー自給率の上昇。このままいけば、2030年には最も自給率の高いエネルギー源になるかもしれない。そして今komogomoメンバーの一人も訪れている中国の二酸化炭素排出量がおそらく23年を皮切りに下降に向かうのではと言われている。電気自動車の普及率も2022年度に比べると世界的に35%上昇したとのこと。大きな戦争のニュースは常に耳にしますが、GPI(Global Peace Index)によると84の国が例年に比べて平和になったらしい。例えばリビアは紛争などが減少し大きく平和な国へと進化したことなどなど、世界には明るいニュースが溢れているようです。
年始の余談的な話はこの辺りにして、本題へ。
前回の人間関係を読まれてない方はまずは、こちら先に読んでもらえると内容がクリアになるかと。
私の学校でのグループワークはその後どうなったのか?その後しっかりと舵を切り直すことができたのかということですが。いや、結果的には残念でした。
何で?いくつか要因はあるが論文を書くのに必須のテキストを誰も持ってなかったことは大きなダメージだった。論文を書いたことのある人はわかると思うが、論文に必要な分析の仕方、議論の仕方というのが存在する。分析なら分析のテクニックがあるわけだが、私たちのグループは時間に追われていたことと、テキストがないことからそれらを完全に無視して、フリースタイル。ある理論に無理やり情報提供者(ここでは軍人)の経験を擦り合わせていたり、論文に関係のない理論が独り立ちしていたり。はあ…振り返ると辛い。
今回の課題ではとくに現象学的に問題を情報提供者の立場に立って私たち書き手のバイアスを最低限に抑え再現することが求められていたが、バイアス入りまくりの課題を完成させていた。結果は当然のごとく、メンバー全員不合格。(グループワークだが、個別に評価が下される)提出日前日の朝4時まで粘っても内容が伴っていなかった。
振り返るとプランニング、内容理解、メンバー構成、メンバーの状態などよく言えば私たちのグループはポテンシャルに満ち溢れている。提出課題をベースにした口頭試験後に追試が言い渡されたメンバーは改めて、グループワークがいかにカオスだったかを思い知らされた。
その後疲労満点の体に更に鞭を打ち、私はテキストを購入して最近子供が生まれたばかりのメンバーと二人で授業後に残って勉強し追試に望んだ。やっぱり4人で課題を進めていくことに限界を感じていた。モチベーションも違う。アル中だったメンバーは追試直前で休学を決めたし、二児の父のメンバーは相変わらず追試の勉強にそこまで時間を避けない。
それから約2週間後、何とか追試に合格した私と居残りで勉強したメンバーだったが、二児の父のメンバーは追試にも不合格だった。怒涛のテスト期間だったがようやく合格した私は何とか気持ちを落ち着かせて年を越すことができたのである。
卒業まであと一年。グループワークにおいて自分の意見を主張することもそうだし、焦らずしっかり計画を立てることがとても重要だと改めて気付かされた!また私の学校での話、誰かへのインタービュー、komogomoメンバーの日常を伝えながら今年も低空飛行を続けていきます。何はともあれコモゴモを本年もよろしくお願いします。

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