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不思議なノートの話
さて、こうしてTumblrでせっかく記事が書けるので有効活用していきたいと思います。実は、先日振興会事務局の古い資料などを整理していたところ、一冊のノートが出てきました。
「カイセンノキオク」
とだけ題されたそれは、持ち主が特定できない謎のノートでした。題名もおそらく「海戦の記憶」「会戦の記憶」「開戦の記憶」など何通りかの意味が想像できますが、なぜカタカナて記されているのか、分かりません。会に1番長くいる事務員の西山さんも見たことがないといいました。
昔の職員の持ち物かと思いましたが、何にせよ表面にも裏面にも記名が無いので中身を見てみようということになり、第一発見者の私がまず読んでみることになりました。
驚くべきノートの中身
ノートの中身は万年筆のようなペンで記された手記のようでした。丁寧な文字でした。しかし、その内容は艦娘たちの戦いの様子を記したものでしたが全くの「でたらめ」でした。棚瀬のことのように書かれているものの我が棚瀬群島の記録には無い戦闘や部隊、民間人の損害が記されていました。戦記小説だろう。そう思いました。まだ艦娘が登場しない1951年から始まり、2020年までのことが順序なく記されていたのです。しかし、不思議なことに気付きました。全てのページの上の余白に記されていた1番最初の日付は1985年4月7日から始まっています。最初の日付の時点で艦娘が登場しており、本当にこの日付で書かれたものであれば、深海棲艦が現れる1989年以前に書かれたことになり、この作者は深海棲艦と艦娘の登場を予見していたことになります。しかし、それは戦記小説として後から書かれたものという見方もできるでしょう。実際私もそう考えました。しかし、内容にもおかしな点が見られます。それは、作者の知るはずのない個人情報が含まれていたことです。そして1番驚いたのは、私の名前も登場することです。例えば、2013年7月7日のページ。私についてはこのように記されていました。
「2013年7月7日
5日、橋上艦隊、母港に帰港する。通常の哨戒作戦のはずであったが不意の遭遇があったと見え、食堂のオヤジ曰く死傷者が出たのだという。艦隊旗艦依田兵曹長は敵弾破片により軽傷。中島一等兵は初陣であったようだが残念なことであった。仲間に担がれて帰港した時にはすでに虫の息で、7月6日未明、息を引き取る。享年16歳。二階級特進で水兵長に任じられる。夏島村の出身だから船で故郷へ遺体を帰すという。夏の暑い時期だ。腐らぬうちに、綺麗な死顔のうちに故郷の親元へ返してやりたいものだ。」
私は言葉を失いました。実際、この日は私の初出撃の日でした。そして艦隊旗艦は依田兵曹長(現在は中尉)でした。その情報は、当時橋上の艦隊に居た人間でなければ知ることのできない情報です。ともかく私は、万沢軍港に勤務している依田中尉を訪ねました。
中尉は私の来訪を歓迎してくださいました。挨拶もほどほどに私は件のノートを中尉に見てもらいました。中尉は興味深そうにノートを読んでいました。そして、中尉は他のページを開き、6名の人物が実在の人間であることを教えてくれました。こうして、1週間の簡易調査で、ノートに名前が登場する人物のうち、実に61名が実在することが明らかになりました。勤務地も異なり、全員を知る共通人物も居ませんでした。また、「カイセンノキオク」と題されたノートが私の持っているこのノートの他に4冊あることが判明しました。私はこのノートが、ただの戦記小説であるとは考えられなくなりました。しかし、いつ、誰がなぜこのようなノートを残したのか、根本的な疑問は解決されていません。これからも解決されるとは考えにくいでしょう。しかし、少しでもこのノートの謎が解明されることを期待して、私はこのノートの内容を少しずつ公開することにしました。振興会長も、登場する人物に掲載の許可を得ることを条件に公開の許可をくださいました。もし何かご存知の方がいらっしゃいましたらお手数ではありますが下記までご連絡をいただきますようお願い申し上げます。
連絡先
棚瀨市満野町124-7
棚瀨艦娘振興会事務局 中島コウ
電話 満野局64番(振興会事務局代表)

▲南船県梅島郡の遠景(昭和92年3月・中島尋撮影)この地域にも艦娘は居ます。
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自己紹介
私の名前は中島コウ。棚瀬海軍の元下士官です。現在は予備下士官として棚瀬市満野町にある艦娘振興会で事務のお仕事を仰せつかっております。はい、元艦娘です。あまり詳しいことを書いて問題になるのも申し訳ないので、通常国内で許されている部分や講演会などでお話しする部分だけを記します。
名前…中島コウ
本名です。日本とは違って、棚瀬では片仮名の名前が多いのです。
年齢…23歳
72年…西暦1997年生まれです。夏生まれなのでコウと名付けられました。
出身地…棚瀬群島棚瀬県万沢郡夏島村
万沢軍港の沖合24kmにある夏島という島で生まれ育ちました。人口14,300人の小さな島です。

▲夏島の浜辺。夏島の子供は海と共に育つと言っても過言ではありません。(2016年3月 夏島村相賀浜)
経歴
2004年4月 夏島村立夏島尋常小学校入学。漁師の娘だったので身体は丈夫な方でしたが、本などを読むことが好きでした。
2010年3月 尋常小学校卒業。先生からは学費不要の第一女子高等師範学校の予科部を勧められましたが実家に余裕がなく、夏島村役場で道路課の事務員に就きました。
2011年12月 在郷軍人会の小沢さんが自宅にやってきて艦娘候補生に志願しないかと誘われました。迷っていましたが何故か課長にまで話が伝わっていて志願することになりました。「受かるはずがない」と思っていたのに、ある日出勤したら「退職届」を渡され「おめでとう」と言われました。何の感慨もなく艦娘候補生に受かったことを知りました。
2012年6月 万沢海兵団入団。海軍三等水兵。厳しく、また慣れない環境で大変でしたが、水泳だけは得意で、都会から来た子の課業後の特訓に付き合っていたので「姉さん」と呼ばれていました。
2012年8月 万沢海兵団修了。海上歩兵学校(艦娘学校)初等科入校。海軍二等水兵。ここで初めて艤装に触りました。初めは海に立つという未知の世界に戸惑い、転んでばかりでしたが教官の艦娘に助けられながら感覚を掴んでいきました。
2013年6月 艦娘学校修了。海軍一等水兵。駆逐艦籍に編入。南船県芝内郡の橋上港にあった橋上警備艦隊に着任しました。橋上は故郷の島を思わせる場所で、部隊の規模も小さかったので和やかな雰囲気が特徴でした。
2014年1月 海軍上等水兵。
2015年6月 艦娘学校中等科入校。初等科時代の座学の成績がよかったので艦隊司令官の推薦で入校しました。
2015年8月 海上歩兵学校中等科修了。海軍水兵長に昇進し巡洋艦籍および万沢第2水雷戦隊編入。規模も任務も橋上とは比較にならないほどではありましたが、先輩たちの指導でなんとか順応しました。
2015年12月 橋上警備艦隊時代の司令官の紹介で知り合った方と結婚。
2017年6月 二等兵曹。
2018年2月 子供を授かったため陸勤を命じられ万沢鎮守府用地道路部勤務。
2018年8月 出産のため休暇。
2019年3月 予備兵籍編入。海軍予備一等兵曹。
こうして私は14歳で海軍に入隊し、約6年10ヶ月在隊していました。結婚と出産を機に予備兵籍に入りましたが、艦娘として海を駆けた日々は今でも私の中で大切な思い出として残っています。娘も2歳となり、いろいろな言葉を覚えて、またこれからも成長していくのでしょう。尋常小学校を卒業した時、一女高師へ進んでいたら今とはまた違う未来があったかもしれませんが、私は艦娘になって良かったので悔いはありません。しかしこの子には自分の未来は自分で��んで欲しいと思います。
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ご挨拶
はじめまして
棚瀨艦娘振興会の中島コウです。
広く皆さんに艦娘、特に棚瀨群島の艦娘について知っていただくためにここに記事を書いていこうと思います。残念ながらTwitterでは文字数に制限があり、思ったことを思った通りに伝えられません。なのでTwitterからリンクを踏んで登録せずとも閲覧できるTumblrで情報を発信してゆきたいと思います。
棚瀨艦娘振興会とは
棚瀨艦娘振興会とは、建国直後の1946年4月1日に設置された「棚瀨海軍援護会」が元になっています。海軍に入隊した女子の支援を目的としてこの援護会が1950年女子将兵援護部を創設。以降長年にわたり同部が海軍女子将兵や女子軍属を支援してまいりました。1989年に世界各地でいわゆる深海棲艦が出没し被害が出るようになり、人類は1997年にはようやくこれに対抗できるようになり、この深海棲艦と戦う海軍女子軍人を「艦娘」と呼ぶようになりました。当振興会は「尋常ナラザル特別ノ配慮ヲ要スル」艦娘の援護を専門とする部「棚瀨艦娘振興会」として1997年に女子将兵援護部から分離して設置されました。以降23年間にわたり海のいくさひめたちを縁の下から支えています。
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