kuzume-h
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破瓜の季節
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kuzume-h · 8 years ago
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暗夜は長い
 一松の額に、赤い点が痛ましく色づいているのに気づいたので、思わずカラ松は声を上げた。  夕餉も終わった、夜だ。その日は、厚い雲が、月と藍色の空を覆い隠し、その灰色の雲の色で、どこか薄暗い、陰鬱な雰囲気になっていた。一松の部屋は、そうでなくても、暗いので、月がいなくては、ほとんど暗闇も同然だ。唯一、外界への入り口、と云えるような豪奢なひとつの窓が、辛うじて、薄い光を部屋に届けるのみであるが、十分とはいえない。
「何か用か、」という声は乾いた手触りだ。冷たさ、そっけなさもないが、温みも甘さもない。平熱だった。しかし、そこに、綿が纏うように、倦怠感があった。おそらく今まで寝ていたのだ。湯浴みもしていないのに、ほとんど就寝の姿だった。  ベッドの足元には制服のジャケットや、ワイシャツが乱雑に丸められている。羽毛布団の端に絡まるようにして、一松の、薄く白を上からまぶしたような淡さの、葡萄色のパーカーが絡まっているのも拾ってやって、すぐ横にある椅子の背もたれにかけてやった。皺になっているだろうが、どうせ明日には新しいものが用意されている。 「用がなくちゃ来れねえのか、この部屋は」  羽毛布団とシーツの間に潜っていた一松の手が、まだすこし、湿り気を残した、温いカラ松の手を掴んで、「そうはいってない、」と答えた。ベッドの中に引き込まれるのを、一松の目の色で察した。ので、力を抜いてなすがままにシーツの海に倒れ込めば、一松が下敷きになって、かすかに呻いた。ふたりは、身長は同じだが、体格差がある。  動というよりは静、で、運動を好まない一松の身体は六つ子のなかでも華奢だった。トド松はあれでも、多少は鍛えているし、着やせする性質だった。一松だって、痩せぎすというわけではなくても、カラ松や、十四松と並べば頼りなく、見えた。
 息苦しくない位置を探して、そこにおさまった一松が、深い息をつくのを見て、一松の顔の横に肘をつき、見下ろした。 「こんな時間に寝るな」 「つかの間の休息だ」  続く、例の、奴らとやらの話をほとんど聞き逃して、カラ松は鼻から息をもらす、吐息のような声で相槌を打った。 外に出ない一松は肌も白い。やはり、額の、右がわ、眉頭の上あたりに、赤いにきびがひとつ、できていた。ちょうど前髪で隠れるところだ。それのまわりを、指でなぞると、違和感を感じるのか一松は僅かに首を振って、カラ松の戯れを制止した。 「にきびが、」 「そうか」 「これのせいでもっとブスになるな」  一松はひくりと眉を動かしたが、とくべつ言葉を紡ぐことはなかった。もともと美醜にこだわりもないほうだ。自分の身の手入れを怠るくらいには。  しかし、少し、反論の意味も込めているのか、肩に添えられた手に力が入って、血管が浮き出る。それを見て、カラ松は少し、顏を顰めた。羽毛布団が滑り落ちて肩までみせる。白からのぞくのが、青い寝間着ではなく、肌色だったからだ。 「また素っ裸で寝てやがる」 「楽なんだ」 「せめて湯浴みしてからにしろよ、」
 ああ、と呆けた一松は、忘れていた、という顔で、カラ松の顏を見た。この様子だと、湯浴みもせずにこのまま寝て、朝、乱雑なシャワーで済ませる羽目になっていたのだろう。 「このブスも治せ、トド松とチョロ松がうるせえだろ」  にきびを手のひらで叩いてやると、赤い点の感覚があるのか声を洩らす。それか、アイドルの顔の管理、に厳しいあのふたりの小言を思い返して、息を詰めただけかもしれない。  羽毛布団一枚を隔てた、下の、一松の足が、起きようという意志で蠢くのがわかったので、カラ松は身を起こしてやった。下に丸まる布のなかに下着はなかったので、完全に裸ではないはずだ。カラ松の推測通り、ベッドから出た一松は辛うじて一枚、下につけているのみだったが、全裸では、なかった。  今さら、弟の裸ごときで、動揺する性格でもないが、一松に関してだけ、カラ松のなかの平常は、ときおり揺らいだり、した。一松は部屋から出る素振りを見せずカラ松を見つめた。すこし居心地が悪く感じる。 「さっさと入って来いよ、」 「兄さんは部屋に戻るのか」 「え、ああ。おう」  一松は少しの間、首の裏を掻きながら、斜め右上を見て、思案しているような顏をした。それから、すこしうつむいて、首筋を晒す。首をかいていた手が細かい動きをして、かすかに金属の音を立てた。器用に片手で、常につけているペンダントの鎖を外したのだ。 「カラ松兄さんを見込んで頼みがある」 「は?」 「これが何か知っているか、」  目の前に垂らされたのはつい先ほど一松が首から外したものだ。 「何って、」 「俺の心臓だ」 「いや、お前、それ何だかの末裔とかって、」 「心臓なので、奴らに渡ったら死ぬ」  カラ松に、無理やり掴ませた、一松の心臓とやらは、持ち主の手のひらで温かい。一松の妙な勢いに押されてカラ松は頷くしかできなかった。一松の目には、先ほどの静などは搔き消されて、動が渦巻いて、カラ松を逃がさんと揺らめていている。 「これは結界だ」 「お、おい!」  ベッドに押し倒されたかと思えば、厚い羽毛布団にくるまれて、外が見えなくなる。布越しに、一松の体温が感じられるだけだ。 「俺が戻ってくるまで、ここで、守って待っていてくれ」 「はあ、」  器用にも、カラ松の顔あたりを探し出して、脣が押し付けられる、感覚がする。湿った息が羽毛布団を通り抜けて、すこし、カラ松の額を撫でた。  どこから出ているか分からない力強さは解けて、扉のほうへ向かう足音がする。ペンダントの鎖が指先に絡んでいるので、それを解きながら、一松に聞こえるくらいの独り言を呟いた。 「待っててほしいなら回りくどくいってねえで素直に云えばいいのになあ!」  返事はなかったが、笑うような息の揺らぎが、聞こえた気がした。夜は長くなるだろう、おそらくは、朝も。
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kuzume-h · 8 years ago
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知らない睫毛
一松は、兄の睫毛が存外長かったので、驚いたことがある。精悍な顔立ちであるので、睫毛よりも、高い鼻、厚い唇、形の良い濃い眉毛に、目がいくのだ。  白いレースのカーテンは朝日を潰さず、まっすぐな線となって兄、カラ松の横顔を照らした。その時、生い茂る睫毛の青さを、見た。髪よりは暗い色の睫毛は、陽の当たり方によって、青さが際立つ。重そうな睫毛だった。水をも弾く、力強いそれは太く、隣り合った毛との間を狭くして、より、鬱蒼としているように見せていた。  寝ているためか、陽のせいか、健康的な肌の色は蒼白い。睫毛が一本、頬のところにひっついている。蒼白い肌が、濃い睫毛を目立たせた。乾いている肌に、ぴったりとついている睫毛は、指でなでるだけでは、取れなかった。毛一本をつまむのも難しい。完全に振り切れぬ怠惰な睡魔のせいか、指の動きも鈍い。  悪戦苦闘しているうちに、不機嫌そうな眉毛の下の、くっきりした目が、薄く開いたので、さっと指を引っ込める。過剰なスキンシップを、好まないだろうと思ったので。  しかし意に反して、カラ松は、固い眉を解いて緩め、小さく笑った。掠れた声はなかなか、聴く機会がない。舞台でも、コンサートでも、気を許すプライベートの時間さえ、低く濡れた声がぶれることはないからだ。
 カラ松があくびをひとつ、のんびりと口を開けてする。口の中は熟れているように、赤い。それを見ると、夜に吐き出したものがもう溜まり、じくじくと下腹部を突くのが嫌だった。我慢のできない子どものように思われるのはごめんだった。年なんて変わらない癖に。産まれた順番で、兄弟の序列というのはきちんとできて、それが自らに馴染んでいる。カラ松も例外ではなく、時折、十も離れた弟のように見てくるのが、不服であった。 「おはよう、」と気の抜けた声で云われる。それに答えたが、頭のなかは素数を数えるので精いっぱいだった。それを見て、カラ松はまた、笑った。歯を見せる笑いはかわいらしかった。��人びた顔が少し、年相応に緩む。しかし、その中に兄らしい、弟を揶揄う、色があった。 「寝起きだと、妙な事言わなくて、静かでいいな、」 失礼な、と言葉を返す前に、カラ松の目元が赤いのを見る。変な気になる赤を見てしまえば、辛うじて、「兄さん、」と呼ぶ事しかできない。口のなかで潰れた声は、届いていないのか、気のゆるんだ、きょと、という目がこっちを見つめる。居心地が悪いので、言葉を促すと、「案外、お前、睫毛が長いな、」と、つい先ほど自分がカラ松に対して思っていたことを云うので、笑みがこぼれた。
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kuzume-h · 8 years ago
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眠れぬ日は続くか
 カラ松が死んでから、いくらか、時間が経った日のことである。社員寮の与えられた一室に、明かりがともっていたのに、一松が気づいたのは、胸ポケットから取り出した鍵を穴に差し込んで、ほとんど回した後だった。完全に回り切っていないので、鍵はあの独特の音を発さない。一松は息をひそめて、板一枚の向こう側に意識をやった。この部屋には何にもないのだ。物盗りならば、獲物を見極める才がない。居直り強盗になってしまっては困ると、部屋を探る気配がないか窺ったが、なにも音はしなかった。妙に栓がゆるい、水道の水が、定期的に滴を落とす、不愉快なリズムだけがかすかに聞こえる。一松は一瞬、戸惑った後、思い切って鍵をまわしきり、ドアを開けた。
 部屋のなかには、薄汚れた灰に似合わない、白いものが、床に転がっていた。色のない部屋のなかで、その白と、すこしの紫とが、強烈な色を発して、いた。よくみると、ひとである。知らない人間だ。白いジャケットを腹にかけて、そこからのぞくワイシャツは暗い紫色で、ところどころ、陰のせいか、乾いた血の色のようにも、見えた。大して長くもないが、すっとのびた脚を包むのも白いスラックスで、唯一灰色なのは、上等そうな靴下のみであった。足を組んでいて、浮いた方のつま先が、たまに意思をもって揺れているので、起きているのだとわかる。
「おかえり」
 まるで妻のように平然と、しかし温かみの感じられない声で、一松を迎えた。その人間の顔は分からない。白いボルサリーノで、顏を覆っているからだ。手を頭の後ろで組んでいる姿はちっともリラックスしていない、力のこもったような形でもあったが、いつ寝てもおかしくないようなゆるみも、どこかに感じられた。一松は目の前の情報量の多さに、適当な言葉を見つけられず、ただ一言、「だれ、」と尋ねた。
「カラ松が死んだのはお前のせいだ」
 侵入者はまるで回答になっていない言葉を吐いたが、一松にはそれで、何者なのかの察しがついた。明らかに堅気でない者が放つ気配は、間違いなく殺気である。
 カラ松。一松の工場によく視察とやらに来ていた人間で、彼もまた堅気でなく、マフィアの構成員のひとりだった。彼は死んだ。おそらく抗争の中で。ひとを苛立たせる、妙な色気のあるやつだった。それの毒牙にかかったのは、おそらく何らかの運命に導かれての事だった。あれが、他の男を、同じように翻弄するだろうというのは、目の奥の光を見ればわかった。そのような意志がなくても、男は勝手に駄目になるのだ、あれを前にすれば。侵入者もそうなんだろうと一松は察した。それから、彼が、それなりの地位にいる者であろうというのも、スーツの具合で、悟る。
 俺を殺しに来たのだ。一松はすべてを理解して、そう、思った。
  侵入者は、一松が覚悟していたその時に、殺害を実行することはなかった。「しばらくここにいる」と、それだけを伝えた。名は名乗らず、何故だかいつも、顏が見えなかった。それは、光の当たり方であったり、ボルサリーノの鍔がかかって見えなかったり、という感じで、顏の一部分はたまに見えても、全容を目にすることはできなかった。
「班長さん、今日は元気?」
「ぼちぼちです」
 暗い声で云えば、相手は白んだ声で相槌をうつ。イキがいいのを殺したいから、俺がいくらかマシな体調と心持の時を待っているのだろうか、とぼんやり思う。たまに見える目は光っていて、餌食は弱るのを待つ顏だった。
 一松は、重苦しい部屋のなかで、変に陽気なアロハシャツを身に着けたりもする、ちぐはぐな侵入者と、ときおり世間話なぞもした。一松がたまに拾ってくる、一週間前の新聞だったり、雑学だったり、その日の飯も文句だったりした。この上なく平和な毎日であったが、自分がいずれ死んでしまうという恐れが拭い去られることはない。侵入者はいつだって殺し時を狙っていた。侵入者は包丁棚の中の刃物の本数、ガラスの灰皿の置き場所、トンカチの入った工具箱を最近下駄箱の上に移動したこと、丈夫な縄を購入したことなどを、教えてくれた。
 「アイツがしょうもないマフィアになったのはね、俺のせいなの」
 そう、話してくれたことがある。その瞬間、一松の腹の熱が一瞬にして沸いたのを、自覚したが、それがどうしてそうなったのかまでは分からなかった。
「俺は嫌だったよ、こんなこと、ネ」
 男の操る語は日本語であった。語尾のイントネーションには中国人のような匂いを感じた。歩き方はイタリア人のようだったが、笑い方は卑屈なアメリカ人だった。顔の全容が見えれば侵入者のことのすこしも分かるのか、分かりたいと思ったことなんてないけれど。
 「眠れない」
「眠れないですね」
 一松はせんべい布団のなか、侵入者は壁に寄りかかっていつも眠るが、寝息を聞いたことも、ろくに寝たこともない。カラ松が死に、たまの同衾も一切なくなってから、一松は不眠症に逆戻りしてしまっ��。しかし、数年の時のなかで、少しでも眠る方法を、見つけ出したのである。
「こういう時はね、思い出すんです」
「何? あいつの肌の温度?」
「そうじゃなくて……料理の匂いとか……、カラ松、朝起きるの早かったから……」
「へえ」
 とだけ、侵入者は云った。重労働のあとのセックスは身体に悪く、朝、身を起こすのさえ困難だ。カラ松は颯爽と起きて、コーヒーと、不器用な朝食を用意してくれていた。それは、一時期料理に嵌っていた時の、わずかな間だったが、嬉しかったのを覚えている。あの料理の匂いはいつまでも忘れないだろう。睡魔はこないが、言葉に重みが出ているのが分かった。水を吸い込んだようにもったりとした声音は、すこし、眠れそうな印なのだ。
「ほかに何かもらった?」
 急に気を取り戻して、侵入者は起き上がり、こちらに詰めよってきたので、一松はすこし、驚いた。義務的な睡眠も、逃げ出してしまった。一松は諦めて、箪笥の一番下の、奥の箱を取りだした。煌びやかな西洋の菓子箱も、カラ松にもらったものだ。それをみて、侵入者の、唇の端が震えるのを、見た。箱を開けると、何枚かのメッセージカードと、薔薇の死骸、それから押し花が、無造作に詰め込まれていた。一松はそれをひっくり返して床に広げる。
「気取り屋、」と、侵入者は一枚のメッセージカードの中身を読んでいった。そうだ、カラ松は男くさい、気取り屋だった。それが苛立ちと、どうしようもない情欲とを湧かせるので、厄介だった。ごみを捨てるような仕草で、侵入者は手の中にあったものを菓子箱の中に放る。それから、きらと光るひとつのリングに、目をつけた。
「これは?」
「何枚目かのメッセージカードに入ってました」
「これ、ペアリングだ。俺が一緒に買いに行ったから」
 わかる、と侵入者は苦苦し気にいった。もう片方の指輪を、一松は知らない。そもそも、それがペアリングであったことさえ、知らなかったのだ。
「アイツはこのペアリングと一緒に死んだ。俺はずっとこれを探してた」
 空想の、死の情景が浮かぶ。侵入者は白いスーツを赤黒く汚して、カラ松のこと切れそうな身体を横抱きにして、支えている。カラ松の手か、首には、リングが光っている。侵入者はそれと一緒に葬ってやる。
 そんな映画的な最期なわけがないだろう。ここは現実だった。目の前であっけなく爆散してしまったのかもしれないし。一松はすこし、具合が悪くなったので、それ以上の空想をやめた。
「俺のだと、思っていたから……」
 侵入者の言葉を、一松は聞き逃し、聞き逃したことにも気づかなかった。一松は空想から抜け出すと、固まる目の前の男に目を遣る。
「これ、頂戴」
「ダメです」
 一松は危機感をもって、侵入者の手の上の指輪を取り戻して、握りしめた。恨めし気な牙が、一松を射貫く。「こんなにいっぱいあるんだから……」と侵入者は云った。
「えっ?」と一松は聞き返したが、それ以上、彼は何も云わなかった。不穏の気配を
まとって、「寝る」と、壁に戻っていった。一松は数秒、壁の男を見つめてから、自分の布団のなかに戻った。
  息苦しさと、水っぽさを感じて、一松は目を覚まし、ぎょっとした。侵入者が、一松の上に上がって、汗か、涙か、わからないものを滴らせながら、一松の首を絞めていたからだ。息苦しさの他、喉に固いものが詰まっているような感覚と、指が食い込む痛さ、気管にまで届く指の感触はおぞましく、いよいよ予感が本物になっていた。一松は無意識のうちに身をよじらせて、逃れようとした。荒い息はふたりのもので、侵入者の泣き声は、どこか情事を勘違いさせ、隣室の工員が、よくない勘違いをしないか、と、案じた。カラ松とのセックスの時には塵とも浮かばなかったことだ。生命の危機よりも必死なセックス、セックスよりも余裕がある生命の危機は、アンバランスで、ガタついていて、どうしようもない人間の証だった。
 がむしゃらに振った腕のうち、右手が侵入者の頬を張り、首に巻きつく手は力を失った。一松は吐く直前の嗚咽を洩らしながら、息を吸った。喉が不格好に鳴る。加害者のほうはというと、前髪を乱し、やはり目のあたりを隠して顔の全容を見せないようにしていて、泣き、うずくまる。額が胸に押し付けられる。今も、癇癪の熱は止まぬらしく、熱い。そこから熱が伝わって、伝染するようだったので、一松は必死で深呼吸した。暴力を有するのはもうごめんだった。
「殺せるわけないんだよ……、お前が死んだら地獄行きだ、そうしたら……お前はカラ松と会うんだろ……」
 その訴えは鮮明だった。夜に響く水道のしずくよりも、響いて、一松の耳に届いた。一松は、目の前の男の、「元気?」という言葉が単なる世間話の���環であったこと、寝る前の、遺品を見せたのが、今回の火種だったのに、気づく。まるで自分の事みたいに。
 一松は「そう、」と間抜けな相槌を打った。侵入者とは違って、腹の中に火種は放られていないのだ。
「あの指輪を頂戴……それか、俺を殺せよ……」
 嗚咽の合間に訴えられたが、一松は首を振った。どちらも、嫌だった。その様子は想定内とばかりに、侵入者は笑った。喉がひきつったような、いやな、病的な笑いだった。
「お前が俺より癇癪持ちで、暴力的なこと、知ってる……、どうすれば、いいかも」
 厭ァな声は、おそらく本来商売に使っているんだろうなというように、艶やかで、恐ろしい声音だった。一松は胸が高鳴った。のどが絞まる。そっと二人の横に置かれたのは、おそらく侵入者の私物である、ダガーナイフだった。
「いいか、よォく聞けよ……」
 身を起こして、侵入者は一松の胸倉をつかんだ。ぐっと持ち上げられる。力が強く、とても抗えない。侵入者は声を潜めた。一松以外に聞かれるのはごめんだというように。
「アイツが俺を守って死んだ。五月三日、何故だか浮かれていたカラ松は防弾チョッキを着ていなかった。仕事のあとのことを、考えている風だった。腹立たしい浮かれ具合だった。悪い予感がした。……車を乗りこもうとして、ちょっとの間、手薄になったとき、俺が撃たれそうになって……アイツは俺を引っ張るのでもなく、突き飛ばすのでもなく銃弾と俺の間に割って入った。俺を守ったんだよ、何も考えずに。そうして死んだ。俺に死んだ魂と長い人生をプレゼントして」
 ぱっと胸ぐらの手を離されて、一松は床に倒れ込んだ。後頭部にこすれた畳が痛く、一松の正気と狂気を呼び起こした瞬間、一松は起き上がって、足元にいた侵入者を突き飛ばした。容易に転がる身体が今はただひたすら憎かった。お膳立てされた舞台だ。一松は横のダガーナイフを、弾き飛ばされる前に掴んで、馬乗りになる。ナイフを向けるべきは心臓なのに、手が震えて、先が、いったいどこを向こうとしているのか、分からなかった。荒い息と殺意だけが先行して、うまく事が運ばないことに涙が出た。
「本当にクソみてえなプレゼントだよッ! 俺は、俺はメッセージカード一枚もらえなかった!」
「黙れ!!」
 咆哮とともに振り下ろしたナイフは、顏の横の畳に深々と刺さるのみで、頬に傷さえつけられない。それは、人殺しのひの字もない人生を送ってきた一般人らしかったし、侵入者の、先ほどの主張に同感したからでもあった。自分を置いて、他の男が、地獄で待つカラ松に会いに行くなど、耐えられなかった。ナイフを握る手はまだ震えたままで、手は呪いのように柄から離れない。喉が痛い一松は、そのままぐったりとして、息のみを、した。しんとした静謐な一時のなか、不意にがたりと音がした。玄関の方だ。一松と侵入者、ふたりではっと顏を上げる。玄関の横、台所の上のガラス窓が少し開いていて、ひとり、男の顔があった。目が合うと、ヒイ、という声を洩らして、逃げ去った。誰だか分からないが、勘違いしませんようにと、一松は虚ろな目のまま、祈った。
他者の目も気にしない。恐慌から逃れた侵入者は、ひとり、つまらなさそうな顔に戻って、身体の上の一松をどかす。いつの間にか飛んでいたボルサリーノを拾い、かぶる。乱れた服を、手でいくらか整えて、本棚の端にひっかけていた白いジャケットを羽織る。恨めし気に、菓子箱からあふれていたメッセージカードまで踏んでいって、玄関の扉に手をかけた。もう、戻ってこないという、確信めいた予感が一松のなかにあった。かろうじて上半身だけ、起こして、一松は白い背にぶつける。
「クソみたいなメッセージカードなんて何万人にも送ってる。代わりに死ぬなんて、よっぽどだ」
 メッセージカード一枚もらえないと云った男を、慰めるための言葉ではなく、恨み言のようなものだった。愛されていなかったと勘違い染みた悲しみ方をされるのは腹立たしいし、何より、カラ松が、目の前の男に心臓をささげたと云うことが、ショックだった。ひとつっきりの、指輪が、虚しく見えた。
「俺はそう思わないね」
 カラ松が義務感で守り、そのままうっかり死んでしまったのだという疑いをのこした冷たさで、男は切り捨てた。鉄製扉の閉じる音は、すべてを断ち切る勢いだった。
  ****
 「実松班長、チョット」
「一松ですけど」
 だれと間違えているのやら、イヤミが一松の肩を叩いて、他の工員の目につきにくい隅に招く。就業時間中だというのに、珍しいことだ。一松が続いていくと、イヤミはすこし、嫌そうな顔をしたあと、一松の額に、手の甲を触れさせた。気障な香水が香り、顏をしかめる。
「熱はないみたいざんすね」
「は?」
「最近、変な噂が出回ってるざんす。チミが、変な薬ヤッてるだとか……」
「はあ?」
 一松の、図星を突かれた威嚇ではなく、ただ不名誉な噂に対する怒りに、イヤミはううんと唸る。それから、頷いた。
「単なるうわさざんす。そんなタマじゃないざんしょ」
 少し小馬鹿にした声音は、一松の生来の、臆病さと突発的な奇行を嗤っている。不愉快でならなかったが、一松は口を閉じた。
「ただ、おかしいのは本当ざんす。近頃、独り言が大きいとか、暴れてるとか、居もしない人間に話しかけてるとか……あの妙ちきりんなマフィアがいなくなってから、変ざんす」
「ちょ、ちょっと待って、居もしない人間って何? そんな覚えないんだけど」
 イヤミはちょっと、恐ろし気に目を震わせたあと、一松の全身をみたり、額をこんこんと叩いたりした。
「ただの雑談らしいざんす、天気の話、飯がまずいとか、変な雑学披露? アホな独り言ざんすねえ。昨日なんか、部屋で騒いでて、心配した隣室の工員がのぞいたら、部屋にひとりで、包丁構えたチミが睨み付けてたって、洩らした工員が泣いて騒いでたざんす、うるさかったざんすよ」
 本当に覚えていない? と聞かれ、一松は縦にも横にも、首を振れなかった。その行為に覚えはあったが、一人だったという自覚はない。あの男の存在が欠落して、外野で語られている。胸打つ鼓動は早く、このまま死んでしまいそうだった。
「あ、あのさ、イヤミ、上に連絡って取れる……? カラ松の後任とか、いないの」
 質問に答えない、一松の問いに、不審げだったが、イヤミは答えてくれた。
「いるけど、前ほどこっちにはこないざんす。それどころじゃないざんしょ、最近お上も大変らしいざんす。連絡取れるっていうのも担当止まりざんすよ、きっと」
「じゃ、じゃあ、ボスとか、そういうのに、イヤミ、会ったことある?」
「あるざんす。ボスだとかなんだとか、赤いワイシャツがいけ好かないいやーな男だったざんす。あんな妙ちきりんなボスなんて……ン、いや、彼奴は日本支部の頭だったとか……」
 ボスの心当たりに、不安なところがあるのか、イヤミはすこし、記憶の糸を手繰り寄せたあと、首を振ってきっぱりと云った。
「ウーン、覚えてないざんす。まあ、本当の首領が、たかがこんな真っ黒なだけの工場にくるわけないざんす」
「あ、そう……」
「へんなこと考えてないで、ラインに支障でないようにちゃんとまわしてチョーよ。繁忙期が過ぎれば休みもあるざんす、ちょっと休めば頭の具合もマシになるざんしょ」
 そういうと、イヤミはさっと、鼻の下をハンカチで押さえて去っていった。自分がしばらく風呂に入ってないのを思いだす。
一松は、ラインの流れを確認し、黒い紙が挟まったバインダーを抱えながら、不安は取り除かれなかったな、と落胆する。一松は、あの侵入者の存在が、自分の頭が行かれたために現れた幻想だというのを、飲み込めずにいたし、信じられなかった。侵入者の声は小さく、低い。一松と、まるっきり違う声というわけでないのを、奇妙に思いながら聞いていたのを覚えている。一人だと勘違いする要素はある。昨晩、一人で包丁を振り回していたのを目撃した、という工員の話も、心当たりがあった。工員が部屋の中を覗いた時、目が合ったのは侵入者ではなく一松で、目が合った瞬間、逃げ去ったのだから、身体の下にいた侵入者の姿が目に入らなかった、というのもあり得るし、ダガーナイフだって、知識と照明がなければただの包丁だろう。
そうこじつけて、一松は息を吐いた。なにより、地獄の苦しみを受けている男が、自分以外にいるというのは、腹立たしくもあり、救いであるのだ。今も眠れぬ男が、まだひとり、どこかにいるのを、一松は心の底で、願っていた。(了)
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kuzume-h · 8 years ago
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傲慢な女
創作BL・創作百合
わたしが家としている、安い宿は壁が薄いので、隣の人間がどのような者か、なんとなくわかってくるのだが、その日泊まった人間は、どうにも奇妙であった。 男は、彫りが深いが外人とはいえないくらいの顔立ちで、髪が長かった。なにか作業するには、髪を結ばなくては鬱陶しいだろう。見目の悪くない男だった。 「二泊三日、ふたり部屋で」 「後からお連れさまが?」 「いいえ」 従業員は不可解な顔をしたが、男が重ねて「ふたりぶん払いますので、もちろん」といったので、頷いた。このころは繁忙期とは程遠いゆるやかな時期で、融通がきいたのだった。鍵を渡されると男は大層でかいスーツケースを引っ張って部屋に向かっていった。 「さきさん、あんまりお客さんのことじろじろ見ちゃあ、駄目よ」 カウンターから出てきた女子高生が声を潜めてわたしにいった。 「見てないよ」 「見てたよ」 そういいながら女子高生は、従業員の証である緑色の��プロンを脱いでわたしの膝に乗せた。白きタートルネックに緑色のエプロンは映えていたのに。 「これから映画観に行くの、さきさん、よろしくね、お土産買ってくるからね」 女子高生は、5度目の万引きをする中学生の顔でいった。最近悪い男と悪い遊びを覚えた女子高生は、よく宿の仕事を抜け出して遊びに行く。その時仕事を押し付けてくるのは、わたしがもう数年ここに住み着いていて、殆ど従業員と変わらないのだとでも考えているのかもしれない。 「わかったよ」 可愛い子に弱い。わたしが緑色のエプロンを着てカウンターに立つと、「私より似合うよ、さきさん」と笑った。それから、青い唇を誤魔化すように口紅を塗り「さっきのお客さん、お隣だけど、変���ことしちゃ駄目だからね」と失礼な忠告してくる。わたしは答えなかった。女子高生は笑う。すると長い髪が揺れた。あれは偽物の髪だ。可愛いボブだったのに、ウイッグというのか、最近では、かつらをかぶっているようになったので、胸まであるロングストーレトを気取っている。女子高生は、長い髪を、首に巻きつけるような仕草をしながら従業員専用出口に向かっていった。風で髪が飛ばされて、タートルネックから覗く肌を見せるのを怖がるように。
数時間も働いていると、他に見つかってしまって、わたしは緑色を剥奪される。 「安津子ッたら! ねえ、さきさんも甘やかさないで下さいな。あの子ったら……」 女子高生の母親は頭の上から湯気を漂わせながら、泡をひとつひとつ潰すように愚痴をこぼす。あんまり一緒にいると、矛先がこちらに向いてしまうので(わたしは女子高生の共犯者なのだから)、早々に自室へ戻った。
宿の壁は薄い。寝台に寝転んで目を閉じると、隣の部屋の様子が脳内に浮かんでくるほどだ。音で全てが再生される。 わたしはその瞬間、大きいスーツケースと、一人なのにふたり部屋をとった男が妙に気になった。そうなるとどうしようもなくなって、無意識に、息をほとんど止めるようにして、いた。隣の音はより鮮明になる。
ぎし、ぎ、ぎい、ぎし、ぎし、 ぼふ、かつん、ぎ、ぎ、ばふん、すー、すう かち、かち、かちかち、ぱっちん
男が歩いて寝台に向かう。(隣の部屋は寝台周りが一層酷いので、床が鳴る音でどこを歩いているかなんとなくわかる。)乱雑な仕草で寝台に座ると、部屋に置いてある、サービスのビール瓶一本、サイドテーブルに置いたあと、寝台の足元に置いてあったあの馬鹿でかいスーツケースを寝台にのせる。重みのあるそれで、寝台は揺れただろう。それから手元か、具合のいい場所まで引っ張って、シーツとこすれる音がした。 わたしには、その後の、軽い、カチカチとした音の正体が掴めなかったが、おそらくスーツケースの、ダイヤル式の鍵を開けている音だとわかることにはばこん、とスーツケースが開けられていた。
「…………、……」 「………………」 「………………」 その間、なんの音も声もしなかった。じいっと、あの男がスーツケースを見つめて動かない様を思うとなんだか不気味だった。わたしが、その、背筋の寒くなるような雰囲気に耐えられず、起き上がろうとした時、咳が一つ聞こえた。わたしは思わず動きを止めた。
「ほこり、ほこりが酷い」 「安いところですから」
ひとりのはずの部屋からは、もうひとり、男の声が聞こえた。きっと咳の主だ。男は驚かずに言葉を返す。まさか、スーツケースのなかに人を隠していたというのか? なんのために? 宿代を誤魔化すためならば、男はふたり部屋なんて頼まないだろう。男たちの真意が見えず、わたしは音がならない程度に喉を鳴らした。
「腹が減ったんだけど」 「何かルームサービスでも」 「こんなところにそんなサービスあるかよ」 「ありますよ」 「へえ、でもヤだ」 「どうして」 「もう、スーツケースに入るのは嫌だ」
男は答えないで黙った。しんとしたなか、不意にビール瓶を開ける音と、呑む音が聞こえた。
「なんか買ってこいよ」 「どこに?」 「ここに着く前、パン屋があった。そこで甘くないの、買ってきて」 「なんでわかったんですか」 「匂い、あと、穴が空いてたからそこから見てた。アレ、もう壊れかけてる」 「そんなはずありませんよ」
咳の主の最後の言葉は、男を嘲笑する色合いが濃く、こちらがいたたまれなくなるような、苛立ちを覚えるような、具合だった。男はその言葉を否定する。それから、ごそごそと何かを探ったあとに、立ち上がり、部屋の扉の前まで来た。 「部屋からは」 「出ない。わかってるよ。愛してる」 「ええ、僕も」 扉が閉じて、足音がわたしの部屋の前を通る。階段あたりまで行くとさすがに音は聞こえなくなって、静謐が下りた。咳の主の呼吸音が聞こえる。アレは生きているのだろうか?
わたしはその時、隣の扉をこじ開けてしまいたいという衝動に駆られた。今まで、どんな奇抜な人間が隣に泊まっても、こんなに興味が惹かれるということはなかった。 隣の部屋がわの壁を見る。真っ白だが、ところどころ茶色いシミで薄汚い。もう何十年も営業しているこの宿は、年相応の姿だ。 壁の前に立つと、もういよいよという気持ちのみに支配される。とうとうわたしは壁を叩いて見ることにした。 コンコン、よりは、カッカッ、に近い音で壁を叩く。 咳の主は答えない。わたしはもう一度叩く。カッカッ。これで応答がなければ諦めるつもりでいた。 「開いてるよ」 咳の主は答えた。わたしは部屋を出て、隣に向かった。
隣の部屋は、わたしの部屋を全く同じ作りだ(それは当たり前のことだが)。見慣れた内装のなか、寝台の上だけが異質だった。 寝台には、あの男が持っていたスーツケースが、開いて置かれている。中は黒々としていて、どこか艶を帯びていた。そして、わたし側から見て右側、そこが最も異様、現実離れしている。スーツケースの右側からは、男の上半身までが、生えていた。ちょうどへその上あたりまでが見えている。腰や尻、足はどこにもみあたらない。折りたたんでしまえるような場所もない。
「驚いた?」 咳の主は茶目っ気がたっぷりのった声で聞く。わたしは声を出すことも、首を縦に降ることもできなかった。 「驚くに決まってる、俺も最初は驚いた」 咳の主は自分の問いに自分で答え、ひとつ、あくびをした。口のなかは濡れていて艶かしく、彼が生きているんだということを証明している。 わたしはいくらか衝撃から抜け出せていたので、じっくり咳の主を眺めることができた。連れの男よりもだいぶ若い。男は二十代後半あたりの、出来上がった精悍さがあったが、咳の主はまだ若い。20代前半、いや、20歳になったばかりのような若々しさだ。まだ大人になりたての、純朴さがあった。しかし、この内、例えば咥内だとか、言葉遣い、目つきなどは、男と同年代のようにも感じる。見た目と中身が不一致だ。 「鞄から生えてる人間は珍しいさ、おい、姉ちゃん、アメリカにでも連絡するか? 見世物小屋か? それともどこかの研究所? あの、もしもし、鞄から生えてるビックリ人間を発見したんですが、おいくらで買い取っていただけます? ……くるのは金じゃなくて救急車だな、うん」 咳の主はまくしたてたあと、一気に消沈して肩の力を抜いた。それから、わたしのつま先から頭のてっぺんまでじっくり見て、「あんたは金に困ってなさそうだから、俺を売らない」と呟いた。その通りだった。 「でもあんたは欲しいものがある。金じゃあ手に入れられないものだ。そのためにこの鞄がいる。違うか?」 それは初耳だった。わたしにはもう欲しいものなんてない。あと手に入れるべきなのは天国への片道切符だけ。安寧な生活以外望むものはなかった。 「そんなものないって顔してるな。え? アンタはあれだ、受付にいた女……あの長い髪の……あの女! あれが欲しい」 「ちがう、彼女が欲しいなんて考えたことなんかない。」 「違う、違う。アンタが欲しいのはあの女自身じゃなくって、あの女の幸せな生活だ。男運がなさそうな顔してるもんなア。首の傷に気づかないのは間抜けだけ。ここの客は間抜けばっかりみたいだけど」 わたしは否定できなかった。女子高生が、悪い男にあそばれていて、暴力を振るわれているんだろうということは、事実だったからだ。ロングヘアーのウイッグは傷を隠すためで、タートルネックも同様、赤い目はよく泣いているからだ。彼女は現状から抜け出せないでいる。地獄の生活から。わたしはすくいだしたかった。しかしはわたしは何も持っていない女だった。 「当たりだな」 「どうして分かるの?」 「この鞄はもう壊れかけなんだ。だから外のことが漏れてきて、見える。俺の体はもう成長を止められない。それに、もうこの鞄に相応しくない。」 咳の主の言葉の意味がちっともわからない。しかし、彼は気にせず言葉を続ける。 「あんたは鞄が欲しい。俺は鞄から出て生きたい。ウィンウィンだろ」 スーツケースの口をコンコンと叩くと、咳の主は笑った。わたしは聞きたいことがあった。 「それであの子は救われる?」 「全てから隔離される。全部見なくてよくなるし、暗い鞄の中は居心地よくて眠りやすい」 わたしは女子高生の目の下の隈を思い浮かべた。化粧でごまかせない不眠の証をみていつも心を痛めていた。 「どうして外を出たくなったの?」 「セックスしたくなったから」 明け透けに咳の主はいった。真顔で言ったので、それが本当のことだと、思わせる。 「下半身はどうやったって出てこない。おれは間抜けにも上半身しかこんにちはできないんだ、セックスもクソもない」 わたしは何の言葉も返せなかった。咳の主はハッとした顔をした後、嫌な顔で「処女には刺激的な話だった」と、笑う。わたしはそれを無視して、「あの子の幸せが欲しい」と願った。 「願えばいい。明日目が覚めたらお望みのものが隣にあるだろうさ」 咳の主は、目的の会話は終わった、とばかりに口を閉じる。 わたしは、咳の主のような格好ですごす女子高生の姿を思い浮かべ、それでも愛らしさは変わらないな、と思った。平和に生きられる生活を送らせたい。わたしの願いはただひとつだった。それが彼女の求めていない形だとしても。 「安心しろよ、願いが叶ったら、鞄から抜けだせる。永遠じゃない。あんたの場合はそうだな……、女が、外でも平和に生きられるところに到達したら、女自身が自覚するだろ、きっと。出るべき時は本人しかわからない、おれみたいに。」 「君はなんで鞄に閉じ込められたの?」 咳の主は一瞬、口を閉じて固まった。それから緩やかに糸を吐くか細さで息を吐いた。 「おれはひどい浮気性だった。國弘……恋人はそれに耐えきれないと何度も言った。おれはそれを無視して、女とも男とも寝た。ある日目が覚めたら、俺は鞄の中だった。あいつは長い旅になると言った」 それから咳の主はすこし恥ずかしそうな顔になる。 「あいつの願いはきっと"浮気をやめて欲しい"ってやつだ。その通りになった。もう他に目移りなんでできっこない。だから鞄から出られる」 わたしが何かを言う前に、咳の主は壁に掛けてある時計をみて、少し大きい声で「もう戻れ」と言った。 「もうあいつが帰ってくる。あんたがいるのをみられたら面倒だ。俺はもう浮気しないんだからな。変な疑いかけられて喧嘩したくない。安心しろ、鞄はあんたのものになる」 咳の主に追い出されるような形でわたしは部屋の扉のノブに手をかけた。最後に聞きたいことがひとつあった。わたしはできるだけ早口で、簡潔に聞いた。 「あの子はわたしを恨むかな?」 「最初はな。でも時間が解決する。ストックホルム症候群なんて外野のヤジだから気にするな。もう行けよ」 扉を閉めて、自分の部屋に飛び込むと、ちょうど階段の方から音がした。革靴の音は、あの隣人の男のものだった。わたしは男が部屋に入ったのを聞き届けてから、部屋を飛び出して一階のロビーに向かった。ふたりの会話をこれ以上聞くのは、なんだか気が引けた。
深夜を見計らって部屋に戻ると、隣はしんとしていたが、それもつかの間の出来事だった。しばらくすると鳴き声が聞こえた。震えていて、濡れていた。國弘という名前の男が、咳の主の名前を呼んでいる。はるかと呼んでいた。名を呼ばれるたび、咳の主は必死に、うん、うん、と答えている。泣き声交じりだった。 わたしはヘッドホンをして、クラシックをかけた。目を閉じて、あの子のことを考えた。あの子の幸せを。 * * *
「あら、さきさん、おはようございます」 「おはようございます」 「その鞄、さっきのお客さんの忘れ物かしら?」 「いいえ、いただいたんです」 驚く母親に、わたしはタグを見せた。「親愛なる隣人へ」おそらくはるかさんの字だろう。確かな重量のあるそれをわたしは大事にもつ。 「へんなひと」 「ええ、本当に。それからわたし、今日から、他を回ろうと思って」 「えっ、そんな、急に」 「ええ、急に。突然沖縄に行きたくなったんです」 「そうなの……、」 母親は残念そうな、どこか縋るような目でわたしをみたが、曖昧に微笑んで、目をそらす。誤魔化すように、わたしは尋ねた。 「この、スーツケースのひとなんですけど」 「ああ、連れは後から来ませんなんて言っておいて、チェックアウトの時には知らん顔でひとり増えてたの、まあ、あの方は、ちょっと困ったような顔をしてた気がしたけど……変な人」 母親は繰り返してそう言った後、はっとして、「ごめんなさい、彼が何か?」と問う。わたしは「いえ、それが聞きたかったんです」とだけ答えた。 「それでは。長い間お世話になりました」 「こちらこそ。アッそうだわ、安津子を見かけたら声をかけてくださる?昨日出ていったっきりなの」 「ええ、見かけたらかならず」 「お願いしますね」
鞄が泣いている。わたしにはどうすることもできない。それがすこし、悲しかった。 「さきさん、さきさん」 すすり泣くような声はあの時の、隣人の声のような艶かしさを持っていた。 「あこちゃん、苦しくない?」「ええ」「何か見える?」「いいえ」「匂いはする?」「なにもしないわ」 「ねえ、さきさん、わたし怖いのよ」 「大丈夫、あこちゃんは幸せになれるから。もう少しの辛抱だから」 鞄はそれきり黙り込んだ。はるかさんもかつてそうだったのだろうか? それを知るすべはない。 わたしは夢想する。彼女が鞄から抜け出す日々を。この鞄が別の、誰かに譲渡される瞬間を。
國弘 くにひろ 浮気性な恋人に悩んでいたところフィリピン人に件の鞄をもらった。 帰って来たある日恋人が鞄から抜け出していて焦ったが恐れていた事態は起こらず。旅行は続行。黒髪。攻め。
遙 はるか 浮気性。性格も良くない。口がよく回る。鞄事件で浮気性は治った。鞄にいる間は成長が遅れるので、國弘とは微妙に年の差があるように見える。受け。
さき 金持ち。安津子な幸せを願っている。傲慢。自分だけが安津子を救えると思っている節がある。
安津子 割とやばかった。ヤバイ男に捕まりヤバイことに手を染めかけていた。近々風呂に沈められる羽目になっていたのでセーフ。母親は継母。でも関係は良好だった。心残りはそこ。
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kuzume-h · 9 years ago
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杯交わせ、気狂い着ぐるみ、屋敷にて
 〇一先生のなごみ回ジェイカラ
・不死と化け物
➀男の帰還
 死んだはずの庭師、カラ松が、死体安置所と化した部屋から出てきたとき、新たな屋敷の主人である(または、正しき屋敷の主人という)一松はさして驚かなかった。というのは、カラ松がそう思っただけで、実際の一松は吃驚していた。しかし、一松は昔からとっさに反応ができない男で、しかも鉄仮面が基本装備になっていたので、表情のわずかな動きからにじみ出る動揺が、わかりにくかったのである。
「お前が不死身なのは別にいいんだけど、蘇生まで時間がかかりすぎだろ。もうとっくに腐ってると思ってた」
「ああ、いや、ちょっとした旅行をな」
 訝し気に見てくる鉄仮面の男に、カラ松は「君にも秘密のひとつやふたつ、あるだろう」といった。血で汚れた服を脱ぎ捨て、半裸になったカラ松は、背中の傷があったところを擦りながらウインクをした。カラ松の仕草と口調に、一松は不愉快そうに唇の端をひきつらせたが、深く追求することはなかった。
「帰還した祝いでもしようじゃないか! ……あいにく二人しか、いないようだが」
 カラ松はしっかりとした足取りで、歩いた。行き先はおそらくワインセラーだろう。一松は猫の鳴き声に押されるように、後を追った。イヤミ邸殺人事件、被害者松野カラ松。殺された男は死の底から帰還した。彼の背中に、剪定ばさみの傷は、ない。
 ②わたしは着ぐるみでも気狂いでもない
 もともと引きこもりがちであった一松はここのところ、ますます自室にこもりがちになってしまっていて、ともに食事をとることも少なくなっていた。絶食状態ではないかと気を揉んだが、厨房の冷蔵庫のなかから食べ物が減っていることに気が付いたので、カラ松は一松の分の食事も、冷蔵庫のなかにいれることにした。すると朝には、皿が洗われて食器棚に戻されている。
 粗暴な素振りが目立つ一松が、案外律儀で、真面目な気質も持ち合わせていると気づいたのもこの頃だ。彼はさまざまな思念が複雑にかみ合って立ち上がっている人間だということを、カラ松は出会った時からかぎ取っていた。彼を放っておくのが、得策なのは図りかねていたカラ松は、時折ドア越しに声をかけてコミュニケーションを取ることで、距離を測っていた。
雷がひどい夜の日、カラ松は寝付けずにいた。雷の轟音や、雨の、荒く走るような音のせいでもあったが、なんとなく目がさえていた。洋灯を片手に屋敷のなかを歩く。この屋敷はおおきく、なんとなしに歩くだけなら外へ出なくても済むのだ。窓は大きく日光もよく入る。日課の散歩は、寒くなってきた今では室内で満足している。
 猫屋敷と呼ばれるだけあって、イヤミの時とは違い、ねこが多い。一松が連れ帰ってくるときもあるし、カラ松も追い出さない。石を投げられ昼寝を邪魔される野良猫などは、安寧の処を見つけたとばかりに屋敷に住み着いた。屋敷からは絶えず猫の鳴き声がした。
 足元にじゃれつく猫の戯れをうまくかわしながら、一松の自室の傍まで来たとき、カラ松は今までに聞いたこともないような鳴き声がするのに気付いた。屋敷にいる愛らしい猫とは違う、野太く、低い、化け物を思わせるような唸り声だ。それが一松の部屋から聞こえるので、カラ松はドアの前で立ち止まった。汗で滑る洋灯の取っ手を持ち直し、二、三度ノックする。返事はない。カラ松は一度、ノックをして、数秒待っても音沙汰がないのを確認してから、おそるおそるドアノブに手をかける。かぎはかかっていなかった。
 古い屋敷だ、ドアの軋む音は、遠くの落雷よりも大きいのではないか。カラ松は部屋の中を照らした。部屋のなかは思ったより整頓されていて、本棚からはみ出した本と、空の猫缶がいくつか転がっているばかりだ。部屋もベッドも桁違いに大きい。その、ベッドには、小山のような、塊と描写してもおかしくないほどの大きい生きた「何か」がいた。カラ松は洋灯を高く持って一歩進んだ。すると足先に何かがカツンとぶつかる。見覚えのある鉄仮面だ。カラ松は無意識に一松の名を、呼んだ。塊が動くので、カラ松はもう一度、名を呼んで、それに近づいた。
「一松……一松か?」
「……」
「どうした、何が、」
 赤ずきんが狼に近づく、無垢な無防備さで来るので、耐えきれなかった塊は跳ね起きた。そして唸り声をあげて壁のほうへ逃れる。洋灯で照らされた塊は、美女と野獣を思わせる大きな獣だった。煌々とひとみが、チラチラと光る。大きな猫だ、意思の疎通が可能な、人大きい猫がいる。そして、彼は一松だった。
 鉄仮面をしていない一松からはあふれる動揺が手に取るように分かる。耳や尾が動くのにも怯えずに、カラ松は静かな声で「俺も眠れないんだ、ホットミルクで、深夜のお茶会と洒落込もうじゃないか」と云った。
******
「ハハ、最初はリアルな着ぐるみでもきているのかと思ったぞ」
 厨房のテーブルの椅子にちんまりと座る、一松を見ながらカラ松は笑った。指先でつまむようにして、小さいマグカップでホットミルクを飲もうとしていた一松は、量が少ないのに、ひどく熱くて、舌の先をやけどした。諦めてマグカップを机に置いて、舌の火傷をごまかすように「もっと驚くかと思った」といった。カラ松は対して減っていない一松のマグカップをちらりと見てから「驚いたさ」と返す。
「そんな風には見えなかったけど」
「お前だって生き返った俺を見たとき、驚かなかったじゃあないか?」
「驚いたよ」
「そうは見えなかったが」
 その言葉を最後に、ふたりの間に沈黙が降りたが、ふたりともいやな気分ではなかった。雷と、激しい雨の音が心地よく聞こえるくらいだった。カラ松はマグカップに二杯目を注ぎながら口を開いた。
「お前の秘密っていうのは、その姿か」
「まアね」
 ひくひくとひげを動かしながら一松はうなずいた。一松らしさというよりは、人間らしさをすべて削いでしまって、大柄な猫となってしまっている。
「最近、これが抑えられなくて、部屋に閉じこもってたんだ。この姿じゃあ、クソ松だってひっぱたけない。爪あるし」
 やさしいのか、やさしくないのか分からないことを云った。この爪が頬をひっかく瞬間を想像して、カラ松は背筋が凍った。痛いのは得意ではない。カラ松が、ふわふわした喉元を眺めていると、一松はおもむろに口を開いた。のぞく舌を見て、「やっぱり舌も普通のねこみたいにざらざらするんだろうか」と関係のないことを思う。
「クソ松の秘密って何」
「ン?」
「なんでお前、死なないの?」
 俺は、自分の秘密を教えたけど、とカラ松は口を開くのを促す目で見つめてくる。カラ松は気の抜けた声で「ああ」といった。
「フフン、やっぱり気になるか? 俺の人生はかなりスパイシーでディープ、波乱万丈だったから、映画化して東宝あたりで」「あ?」「……まあ、それは後々考えていくことにしよう」
 飲み干したマグカップを置いて、カラ松は身を乗り出し、一松を指先で呼ぶ。一松は一瞬、戸惑うような仕草を見せた後、カラ松のほうに身を傾けた。猫目が興味深げに大きく開いてるので、そっけない態度が振りであることが丸わかりだった。
「俺はあらゆる世界線を飛び回れるんだ。死んだ瞬間、俺は目が覚める……目を開けると知らないところにいる。俺は今までの俺じゃあなくて、新しい年齢だとか、職業だとかを与えられてそこで人生を歩み始める。それを長いこと、産まれてからずうっと繰り返してるのさ」
 聞き耳を立てる者がいるのだという顔でカラ松は声を潜めた。カラ松の唇の動きを注視していた一松は、聞き終わると椅子の背もたれに(もちろん、壊れてしまわないようにそうっと)身を預けて、うろんな客を見る目でカラ松を見た。その眼は気狂いだと云っている。少し気分を害したカラ松は、カラのマグカップを奥に押しやった。
「いっておくが、気狂いじゃあないぞ」
「そこまでいってないだろ……、信じがたいけど、いや、信じるよ」
 信じる、信じると自分に言い聞かせるように呟く一松は、肉球を自分の頬に押し付けて頷いた。口からのぞく猫の歯が愛らしい。
「アンタはずうっと転生し続けるのかな」
「俺は望む世界のために長い旅を続けているんだと思う、いずれ落ち着くところがあるはずだ」
 カラ松はあくびをひとつ、した。そろそろベッドに戻る準備をするかと席を立った瞬間に、一松が「ねえ」と口を開いた。
「じゃあ、なんでお前は、死んだのにまだここにいるんだよ」
「さあな」とカラ松は間髪入れず、語尾にかぶせるように早口になった。
「実は死んでいなかったの��もしれない。……現場に死体を放置して帰ってしまうマイペースなポリスたちだったようだから、な。まあこの話はもういいじゃないか、そろそろ草木も眠るのだし、俺たちも寝よう」
 そういうとカラ松は、眠いという態度とは裏腹に張りのある動きで部屋を出た。誤魔化された気がしないでもなかったが……まあ、いいか。一松は大きくあくびをして、鼻をひくつかせた。耳が動く。明日は久しぶりに人間に戻れそうだった。
 ③深い眠り
 大きな屋敷でふたり暮らしを始めて1年とすこし過ぎたころ、うっかりカラ松は死んでしまった。敷地内の、時計台に上って、動かない時計針に腰かけてギターを鳴らしていたら、あっさりと落ちてしまったのたらしい。ばかなやつだな、と一松はため息をつくほかなかった。こんなやつ、もうどうでもいいや、と思わなくもなったが、夏場に臭うのはいやだなあという気持ちで、屋敷に連れ帰ることにした。
 カラ松の部屋のベッドに寝かせてやることにした。豪奢な天蓋付きベッドは死体安置所にするにはもったいなかったが、どうせ使うのはカラ松のみであったので、しょうがないと思うことにした。潰れた頭は扱いに困ったが、どうにか大部分は連れ帰ることができた。猫の姿になっていてよかったと思う。ふうっと息をついて勢いよく椅子に腰かけ、ぺしゃんこにして、もちをついてしまい、痛む腰を撫でながら、カラ松を眺めた。
 死体を眺めていると、そこでようやく実感と、残念な気持ちが湧いて出てきた。お互いコミュニケーションがうまい人間ではなかったから、たった一年じゃ満足できるほどの関係を築くことも、ふれあいを楽しむこともできなかった。加えて一松は、カラ松に対して手を上げるのが早かったので、それも拍車をかけて、ふたりの距離が縮むスピードは亀より遅かった。それでもかまわないと思っていたのは、カラ松がこんなにも早く死ぬとは思わなかったからだ。もう少し周りに気をつけろよ、と一松は毒づいた。死ね、ああ、いや、もう死んでるんだった。クソ松。
 一松は悲し気に一声鳴いたあと、猫たちとともに部屋を去った。弔いはしない。焼骨もしない。もしかしたら、最初の殺人事件みたいに、死にきれていないかもしれないと、思ったからだ。
 ④腐らぬ肢体
 転生してしまったあと、カラ松の身体がどうなってしまうのか、聞いておけばよかったと後悔した。いまだ腐らぬ彼の身体は、みずみずしささえ感じられる。まあ、カラ松だって乗り捨ての身体のことなんていちいち気にしないし知らないのかもな。身体を拭いてやって、一応朝ごはんを置いといてやる。それを数か月くらい、ずうっとやっている。
 もう、新しい場所で、新しい身体で気ままに暮らしているのだろうか、もしかしたら、望む世界とやらに到達して悠々と一度きりの人生を謳歌しようとしているのかもしれなかった。せめて、メッセージがほしい、一松はそう願った。
 ここのところ、一松は人間の姿に戻れなくなっている。カラ松が死んで半年がたとうとしていた。
 ⑤確約された目覚め
「猫の姿も板についてきたな」
 食卓の、定位置に座っているカラ松をみて、一松の尾はふくれあがった。5年前の姿のまま、カラ松は美しい手つきでナイフとフォークを使っている。テーブルの上に置いてあるのは一松が奮発したステーキだ。コイツ勝手に喰いやがった。
「そんな顔をするな、ほら、食事を楽しもうじゃないか」
 カラ松の持っているグラスと、ワイン瓶を奪い取ってから、一松は向かいの席に座った。ふたりとも酒が強いとは言えない。酩酊した匂いのなかでの曖昧な会話などごめんだと思った。
「ながアい旅だったな、なんで戻ってきた?」
「俺の住む世界が、ここだったというだけさ」
 カラ松は唇の端のソースを指で拭って、なめとった。一松から目線をはずして、空を見つめる。つけあわせの、ポテトを一つ、口に入れて咀嚼する。ゆっくり飲み込んでから、ナイフとフォークをテーブルに置いて言葉をつづける。
「俺は生を絶たれて、しばらくの間、意識がなかったんだ。目が覚めたら死んだときと同じ場所! 今までの経験からしたら異常事態だ。これまでに転生しないなんてこと、なかったんだからな。俺は何かの間違いかもしれないと思った。今回は運悪く死にきれていなかったのかもしれないと。でも……今回のことでわかった。あんな高いところから落ちて、無事に済むほど俺も丈夫じゃない。俺はここにいるべきなんだろう」
 カラ松は立ち上がって、厨房から、ワイングラスを持ってくる。一松の前に置かれたワインボトルを手に取って、二つのグラスに注いだ。
「一松、二度目の帰還を祝ってくれないか」
 言いたいことがなくなったわけじゃない、疑問が解消されたわけでもない。罵倒は軽く見積もっても100個以上はあるし、頬は千回張っても足りないくらいだ。しかし、一松は全部を飲み込んで、グラスを手に取ることにした。人間用のワイングラスは、いまの一松には小さすぎて、指先でつまむようにしてもたなくてはいけなかった。
「それに、これから長い付き合いになるだろうブラザーと、杯を交わしたい」
 一松は、酒の勉強を始める間もなく7年間幽閉されて今に至る。いまだに酒の旨さがよくわからなかった。しかし、今日の酒はもう味わえないだろうと、忘れることはないだろうと、思った。
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kuzume-h · 9 years ago
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始まらぬ掌編
ただの設定萌え
下に追加していきます。
➀第一巨躯:愛しき俺のキュクロプス
ジャックがはじめて、天に続く豆の木を見たときと、同じ顔をしている。屋根に頬杖をついてあくびをするのは憎くもいとおしい兄だ(いとおしくも憎い兄とも、いう)。いまや、不要物の墓場となってしまった裏庭に、己の寝台だとでもいうような顏をして座り込んでいる。衣類はもはやちりとなってしまっているのだろう、どこにも見当たらない。兄は素っ裸である。
「目が覚めたときからここにいたのさ」
 次兄は、落ち着き払っていった。おもしろがっている風でもあった。大きすぎる目玉は、まるで黒い太陽だ。ぐるりと動くたびに地球の破滅を思わせ、居心地が悪い。
他の、ニートにしてはアクティブなクソ共は外出をして人生を謳歌しているようである。このデカブツを見つけたのは自分が最初というわけ��。それが、幸か不幸か、よくわからないが。
 俺が手を伸ばして、目の下あたり、下まつげの先に触れると巨体はびくんと動いた。大きくなっても、俺が小さくても、怖いものは怖いらしかった。今なら俺は、お前が指を振るだけで遠くに行ってしまうというのに。太い眉は八の字になって、黒い太陽がふたつとも、俺の行動を注視している。その日差しから逃れるように、目をつぶって、俺は大きな頬によりかかる。温かい肉壁は、この上なく、やさしく俺の身を迎えてくれた。母の胎内、ゆりかご、腕のなか。はたまた、女の膣! いりまじる柔らかさにはすべての情や、欲、愛が浮かんでいる。俺の求めていたものとは、まさしくこれなのではないか。俺は昔から並外れてわがままであったが、それはあんまりにも大きかったので、隠すほかなかった。すべてを手に入れたい俺は中途半端に諦めてそれにより未練が産まれ、未練による歯がゆさが呼んだ更なる欲求を殺すために対して欲しくもないものを腹に詰め異物を飲み込んだが故の嘔吐感に嫌気がさし、うまく発散のできぬ自分にほとほと呆れ死のうとは思ったが死にきれず自己嫌悪の渦に飲み込まれて生き地獄、つまり面倒くさい男なのであった。すべてがほしい、この男じゃあなきゃイヤだ。でも、そう主張するには、素直が足りなかった。
俺の名を呼ぶ、おおきく、紫とピンクがまじりあう唇、白い皮が立ち上がっていた。それを、跪いて触ってみる。ふかふかとしていて、しとりと温かく、かさついていた。王女に傅く小人のような仕草で、その大きい下唇に、口づけた。
巨躯をもって生まれなおしたカラ松! こころもすべて、躰にあわせて大きくなっただろう。俺を潰す手のひら、吹き飛ばす唇、噛む歯、踏む足をもって生まれなおした。
今なら俺はお前を正しく愛せるのだろう。どうか、長らくそのままでいてくれよ。俺を飲み込んで腹でとかす、その時まで。
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kuzume-h · 9 years ago
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畜生、生き血を啜れ
 淫猥に思えるほど、無節操に、派手な色が乱立したテントは、夏祭りの清涼さに飽きた者たちをかき集めるのに役立っていた。一松も��のひとりである。夏であるというのに、学校を出たのはもう暗くなり赤提灯が艶っぽく闇夜で浮かぶ頃だった。遅くまで勉強をしていたのだ。真面目な一松は宿題も欠かさずにしていたし、予習復習だって、やらなくてはいけない状況に身を置いていたので、人一倍勉学に励んでいたが、成績は今ひとつであった。「腹が満足していないせいなんだよ」と、一松は友人ねこにこぼす。いつだって一松は満足できていなかった、食に関するすべてを。腹が減っては戦もできぬのに、一松は腹ペコのまんま、2Bの鉛筆という刀を振りかざしていた。学校という戦場は、己の身に合わない。自分にお似合いなのは、黒い路地裏、ゴミの匂い、腐ったものの間で生き抜くねこたちの寝床だ。しかし周りが赦さなかったのだ。一松はうんざりしていて、耐えられなかった。逃げたいという欲求と、繁華街の安っぽいネオンのような色合いのテントが、一松を引き込んだ。
 テントのなかは広く、中にいる人間は一松のように疲れ切った者か、好奇心を抱いている者の、二通りしかいなかった。そして皆、同じような、つまらなさそうな顔をしている。一松は舞台のように、少し段上げされた、広くへらべったい箱の上にいる女をみて、同じような顔をしてしまった。横の半紙には、わざとか癖か、判断つかぬ具合の乱雑な文字で、「おぞましき! 蛇女の生卵のみ」とあったが、どう見ても絵具を肌にぬりたくった女が、形相ひどく、卵を殻ごと飲み込もうとしてえずいているだけの、陳腐にも届かぬものだった。蛇女は、それから数分をかけて卵をのもうとしたが、口の中で殻が割れ、その破片で喉をやったらしく、せきこんでうずくまった。とても、人前に出せるような代物ではない。一松は蛇女の気分になって、恥ずかしくなり、いたたまれなくなった。舞台の上手から、男が走って、女をぐいと引っ張り奥に押し込んだ。それから、客たちに深々と頭を下げ、半紙を破いて去ってゆく。上の方に取り残した半紙がぺろりとぶらさがり、その下には「家畜天使」などという物騒な文字が見え隠れしていた。羽を背負った、性病でも持っていそうな、厚化粧の「元美女」などが出てくるかと思うと、一松はもう家に帰ってもよいような気がしたが、不思議と足は動かぬままだった。「まあ、家には帰りたくないし」と一松は額の汗を拭いながら自分に言い聞かせた。熱のこもったテントのなかで、汗をかくのは自分だけではない。そしてその汗が、また暑さをこもらせていた。白ランの、上のボタンをはずして、すこしの風を受けようと入り口に近づいて、一松は腕を組み、天使をまつ。
 しかし、家畜天使というのはなかなか出てこず、もったいぶらせていたので、先ほどの蛇女とは扱いが違うんだろうなと思わせた。おおがかりに、ひとを後ろに下がらせて、座長を思わしき男が重々しく出てくる。ぴんとしたスーツは、どこかちぐはぐだったので、格好つけるためだけの安物であることはすぐ��見えた。長々とした演説が始まるのかと思いきや、男は言葉もうまくないらしく、そうそうに舞台袖にひっこんだ。これでは何のために出てきたのかわかりやしない。一松は呆れかえった目で座長の背を見送った。それから、ずる、ずる、と耳障りに金属が床をこする音が、座長の引っ込んだ反対側からしたので、一松やほかの観客たちはそちらに顔を向けた。女と、男数人で引っ張ってきた檻は、安っぽさで建設された見世物小屋にしては、なかなか重厚な色と、音だった。その中には、ひとがいるようだったが、うすっぺらい風呂敷でおおわれて、よくはわからない。風呂敷から透ける、ひとの姿には、期待させるような匂いがあった。一松は思わず、観客に認められたぎりぎりまで、前に出た。他の者も同じようで、いつのまにか檻の周りにはひとが集まっている。この見世物小屋には、こんなにひとがいただろうかと、言えるほどの人数だった。ひとが密集したせいで熱はますますこもり、学生服は身体に吸い付いた。しかし、それの不快感なども、忘れてしまうほどの興奮がなぜか、あった。引き込まれるように、見世物小屋中のひとが檻の前に集まると、横にいた、先ほど半紙を破いた男が、真剣な表情で声をひそめ、「座長が、田舎の林に堕ちているのを見つけた、正真正銘本物なのです、これが、海の向こうの毛唐なんぞに見つかれば、解剖されて死んでしまうことは、明白なのです、どうぞみなさん、ご内密に、わたくしたちだけの秘密として見ていただきたいのです。」と語った。観客どもは魅入られたかのように首を縦に振り、檻から視線を動かさない。男は眉を片方だけくいっとあげ、いやな笑みで観客を見てから、風呂敷に手をかけた。「人を馬鹿にする笑みだ、」と一松は視界の端に男を見止め、思ったが、布ずれの音に首を動かされ早々に視線を戻した。
 檻のなかのものは男だった。ろくに飯も食っていないのか、骨が出ていて痛痛しく、悲愴だ。羽は大きく、元は白であったのだろうが、黄ばんで、ところどころがわけもわからぬ緑で汚れており、美しいとはいいがたい。羽の根元は、肉が盛り上がっていて、特殊メイクには思えぬほどの、生々しさがあった。太った者特有の、肉離れのような白い筋が、根元から放射状に広がって伸びている。重たげなそれを背負って生きるのは、辛いことであろうと察するのは容易であった。
男の、隈滲む不満げなひとみは、求めるものを食べられぬ者特有の、餓えと、許しを請う媚びた目つきだ。一松にはその眼に覚えがあった。いやいやながら、檻の間から差し出される薔薇を口に含み、咀嚼する、天使とも呼べぬ薄汚い生き物をみて、一松以外の観客は感嘆する。唇の端から垂れる薔薇を含んだ唾液はまるで血だ。オォ、という重なる声に一松はなんとかいってやりたくなった。お前らには、この天使さまとやらが、草を嫌がって食べているのがわからないのか? コイツが求めているのはもっと、生臭くて、滴るような……。一松は舌にこびりつく、薔薇の花びらを眺めて思った、血の滴る生魚を! 
一松の好物は生き魚だった。手の中で跳ねもがく魚の腹から食い破って、こびりついた川のしずくでのどを潤したかった。血の滴る刺身で腹を満たしたかった。コイツもそうなんだろう。檻の中で求めてもいない薔薇を食らう畜生を見て確信する。生を喰いたがっているのは、俺と同じなんだ。貪欲な目は獣じみていて、朝、洗面台の鏡でみる自分の目とそっくりだった。「お前は何が食べたいの」
「生きた鳥、」と、畜生の唇は確かに、そう、動いた。
一松 いいところのお坊ちゃん、進んだ学校には勉強についていくのがやっとくらいなのに、周りはもっと、もっと、という。憂鬱すぎる。生き魚を食べたいが、機会に恵まれず、いつも腹を減らしている。トト子ちゃんにもらった廃棄の生魚を食べて腹を下した。
カラ松 見世物小屋の商品 天使というには汚すぎて、人間というには浮世離れしすぎていた。仕事では薔薇を食べさせられるのが不快。鳥を生きたまま食べる、ていうかもっと生き鳥食わせてくれたらクールビューティ俺を世界に届けられるぜ
トド松 見世物小屋の裏方。でかい鍋で飯つくったり狩りしたりしている。狩りなんかを一松がやってくれるようになってからは機嫌がいい。仲のいいものを兄さんと呼んで慕う。カラ松といっとう仲が良い。
チョロ松 見世物小屋の経理担当。いつも苦しい、火の車だが、余裕があるとちょっとごまかして懐に入れとく。神経質で、眼鏡からのぞく目はきょときょとと、百目鬼かと思う(一松談)
おそ松 商品ではないが裏方でもない。いつの間にかいて、いつの間にかいなくなっている。そのうちついうっかり座長を殺して、なんとなく自分が跡を継ぐ。「生きてりゃ何とかなるよォ、お前、死ぬなよ」
十四松 おそ松が座長になったあたりで入った。狼男というよりはおとなしく、犬男程度。でも暴れるし、言葉は話せるが意思の疎通は難しい。一松と組んで舞台に上がることができるようになった
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kuzume-h · 9 years ago
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墓場の猫みてわが身を改めよ
 花屋の前に立っていると、中の女性店員がどうぞ中にはいってみてみなさいと招き入れてくれた。外からみても、店内は花で埋まってしまって、人のはいる余地などないようにも思えたが、入ってしまえばそのようなことはなく、女性店員と自分くらいなら、なに、自由に歩き回ることができた。天井まで蔓がめぐり、暗い。照明が葉で覆い隠されていた。しかし、その葉は薄いらしく、緑色を宿してわずかな光が降りてきていた。それがまた、足元からはいあがるように密集している花花を妖艶にみせており感嘆した。花屋というのは、苦しいほど、花たちのための空間づくりであった。パーマのきつい女性店員は背が低く、唇がとても厚い。売り物たちとはかけ離れた相貌は商品を引き立てるためのものか? ぎょろりとした目はこちらを射貫いた。甘い声で女が話しかけてくるので、静かに、うしろにさがりガラス戸に手をかけた。婿を探しているのだという。女の背にはいつのまにか、女と同じような顔をした醜い巨大な花がこちらを、口を開けてみていた。「結婚するならだれでもいいのか?」「ええ、ええ、そうよ、そうしないとわたし死んでしまうのよ、死んじゃうのよ、そんなのってイヤ」「では、無理です」ガラス戸は逃走を認めるかのように簡単に開いた。がらりという音は福音のようでもあった。なんらかの不思議な力や不運で戸が開かない事態にならなくてよかった!自分の恵まれなさは自覚しているのだ。一息、休憩をするために入った喫茶店はだいぶ古風であった。からんがらんと歓迎する音、新参を厭う音が同時に鳴った。閑古鳥の泣いている店はどこにでも座ることができる。カラ松は一番近い、テーブルへ向かった。
 
ふうと息をついて、右手にふれる椅子を引いて座った。もう授業が始まるのである、教室の時計針は予鈴を、3分前に鳴らしているぞと威圧してきた。カラ松は針の怒りに肩を縮こまらせて椅子に座ると、ぎしり!と床が鳴くので、心もち、体重をかけぬよう気を付けて座りなおす。ここの床は底から腐っているのだ。数週間前も、3人ほどがうっかり床をおとして2階に落ちてしまった。幸い足が星屑になるくらいで済んだのだが、全治3週間は勉学を仕事と唱える学生にはつらいものである。親も先生も「足を空に飛ばすなよ」と口を酸っぱくして言う。わかっているよと今日も尻を浮かして座っているのだ。黒板側の引き戸が「先生が来るぞ」とカタカタ教えてくれるので、教室にいる生徒は皆、背を張り、前を向いた。しかし、のそりのそりという足音は、鬼のような担任のものではない。担任の足音はもっと、地獄のシンバルのようにやかましいのであるから、生徒たちはこれから開くであろう戸のほうに目を向けた。がらがらがら……と開いて熊のように姿をあらわしたのは8階の保健室にいる養護教諭であった。みな、死に神だの、悪魔の使いの下っ端、箱舟を破壊した前科者、など、ひどい言いようである。そんな悪い先生ではないと思うのだけどな、といつも心内で反論するのだ。いつも部活動で世話になるのだが、手つきはとてもおだやかで、うっかり縋り付いてしまいたくなるようなやさしさを持っている。それにあの先生は日光樹の若葉を練った塗り薬をつくるのがすこぶるうまいのだ、あれは大抵、生臭さや、鼻の先をつつく青臭さがつきものであるのだが、先生のつくるものにはそれがない。それどころか、どこか病みつきになるような甘さをまとっている。それに「効き」が良いのだった。先生は名医だなと褒めるたび、彼は苦笑いをするが、その頬のしわさえやさしかった。カラ松は養護教諭を好ましく思っていた。「今日は担任の鬼瓦先生が地獄山の防人業で出張なので、僕が代わりです。ではみなさん、倫理の教科書を開いて。美しい小口切りの切り方の求め方、116ページからです、これは計算が複雑ですが、清少納言の公式を使えばなんてことはありません、では18番くん、問題を読んで……」 倫理はおそろしく問題文が長い。カラ松は早く問題文を読み終ればいいのにと思った。他の生徒たちには理解されないが、眠気をさそう養護教諭の低く腹に響くような声は甘美で、ずうっと聴いていたいくらいなのだった。これはもはや歌、音楽に等しいとさえ思う。カラ松は粗雑な発音で問題文を読むクラスメイトにうんざりとして、足で床とたたん、と踏んだ。すると、アッと思う間もなく、床がぼろりと剥げ、椅子が後ろ足から落ちていく感覚がしたので、カラ松は目を見開いた。ぽかんとした生徒たちの中で焦った風に手を伸ばす養護教諭が目に入る。それだけで、落ちゆく体のなかで、心が浮かぶ。
 
高揚する気分の色めきが鎮まると、視界はよりいっそう明瞭に鮮やかに、なった。「ですので、金平糖のとげは40前後を基本にしています。それ以上ですと幼児がケガしてしまいますし、それ以下ですと、金平糖の規格から外れて銀平糖になってしまうので……」声は疲労でかすれており、墨切れした筆のようにかさついていた。目の下のクマはくっきりと、これ以上にないくらい濃い。それは工場と同じくらいの暗さであった。最も、この工場で黒以外など、製造品である金平糖くらいである。ベルトコンベアにのせられ流れていく金平糖はさながら、夜空に流れる天の川といった風である。金平糖の、削れた粉が、作業員の服について、きらきらと輝いている。そのなかでも、作業着が一番輝いているのは、カラ松の隣で何度目かになる、工場の説明をしている班長であった。猫背をむりにのばし、左手で支えるバインダーなどを見もせずにすらすらと言葉を連ねられるのは、暗記するほど何度もしていることだからである。カラ松は頭もよくなければ記憶力もまるでなかった。班長は、もはや必要ないであろう説明を、カラ松が忘れるたびに何度もやらなくてはならない。この工場を任されたのは、それほど大変な業務がないこと・班長という、カラ松のお守り役がいること・いざとなれば、カラ松と工場長に罪とかぶせればどうにでもなること。これらの条件がそろっていたので、カラ松は、日本の、秋田の山奥という辺鄙な場所まで回されたのである。「班長さん、その真っ黒な紙に何が書いてあるのかちゃんとわかるのか?」ちらりとカラ松と、バインダーに挟まれた黒い紙を見て班長はうなずいた。「そうっすね、読めます」「フゥン?」信じる気のない相槌に、班長はすこしむきになったようにさっとバインダーを差し出して、黒紙を指でたたいた。「ここから、金、平、糖、の、保、存、方、法、と、場、所、に、つ、い、て……ほら、ちゃんと読めますよ」「なんだかウソみたいだ」班長は、胸ポケットに差さっている、あまり使ってはいなさそうな三色ペンをとりだし、黒インクのノズルをぐるぐると回して差し出した。ペン先からインクがぽたりと、黒いしずくとなりふたりの足元に落ちた。粗悪な製品らしく、ちょっとだけ青と赤がいりまじっている。カラ松はペンを受け取ると、黒いインクでスーツと手を汚さないように気を付けながら、黒紙に自分の名を書いた。まだ彼にも教えてないものであった。それから、インクで濡れたところを息で乾かした。そうして、紙に完全になじみ、不純物の赤と青のインクが文字の形を成していないのを確認してから、班長にバインダーごと返した。受け取った班長は、「ふん、」と息をもらしながらじっと、カラ松が書いたところを読んだ。「へえ、カラ松っていうんだ、俺と名前似てる」 くん、と唇がチェシャ猫のように曲がる。カラ松は刹那、その顔に見入ってしまって、ティアドロップと暗い照明にかくされた、ひとみがきゅうんと細くなる。班長は、それに気が付くことなく、バインダーを小脇に抱え、「そろそろ会議の時間では?」という。その顔からは、もう疲労以外の何も、見えるものはなかったのでカラ松は残念に思った。溶けた砂糖ですべりやすい、鉄製の階段をふたりでゆっくりと降りる。「そういえば、班長さんの名前は?」ざらつく手すりは粗砂糖をまぶした棒飴のように、べたついた。それを、撫でるようにやさしくつかみながらカラ松が問うと、班長はぐるりと後ろを向く。「俺の名前は、」班長が口ごもったので、不思議に思って顔を覗き込もうとしたとき、ついうっかり、カラ松は足を滑らせた。班長の唇が横に伸びて、一文字めを発する瞬間にぶつかる。だから彼はろくに反応もできぬまま、何が起こったかわからない、名前を口のなかに含んだまま、あっさりと落ちていった。鉄製階段は恐ろしく長い。塔のなかのようならせん階段の、中心に吸い込まれるように落ちていき、カラ松もまた、なんの反応もできないまま、ぽかんと見ていた。
 
気づいて、あわてて階段を降りる頃には、もう一松は頭の下から、赤を散らしていて、ひろく濃く、広がっていた。床がでこぼこで、血もそれにならい伸びていく。その凹凸のせいで、影ができ、遠目からには薔薇の花びらを散らしたかのようであった。「如何し様」とは誰に向けたものでもなく、口について出た言葉だ。人間、静謐な焦燥のなかでは音に等しい無為な言葉を吐いてしまう。心臓が耳の横に生ったようである。それほど、太鼓の音はやまず、カラ松の胸を叩いた。うう、とうめいてカラ松は頭が潰れた一松をみる。血の匂いや生臭さが何故か感ぜられない。もしや一松は、揶揄っているのではないだろうか? そうだ、きっと馬鹿にしているんだ、俺があわてて名前を呼んで、揺れ動かすのを待ちかまえ哄笑するつもりでいるのだろう、獣のような歯がざらりと、整列するさまをカラ松は描き出し、期待をして、そろりと忍びよった。血を踏まぬようにそっと、そばにしゃがみこみ、カラ松はその背を見た。常に猫背である背は、ぴんとまっすぐ張っていて、見たことがないほどだった。その背は、呼吸のために動くことはなく、しんと黙ったままであったので、カラ松の心臓はまた、大きく鳴り始めた。「う、ア」とカラ松はわずかに喘いで、そっと顔を覗き込む。一松の顔は完全に生を停止した顔であった。蒼白い白目、自我のない口元、鼻血で赤い鼻! カラ松はこの顔を、前に一度見たことがある。町から少し離れた屋敷で、殺人事件があり、その死体を発見したのが、カラ松であったのだ。屋敷の周りは木々が生い茂り、カラ松はときたま、こっそりそこを好んで歩いていた。みどりの匂いも、虫の音も、心地よいものであったので。屋敷の外には、焼却炉がある。それの傍に、ごみのように打ち捨てられていた。弛緩した四肢は弱弱しく、そこらに落ちている枝よりも力がない。かくんと肩側に倒れた顔は血だらけであったが、表情は深々とカラ松の目に焼き付いた。目を開けて死んでいるそれは、あっさりと死ねなかったことを示している。寝ているなんて、勘違いできなかった。明らかに、生を絶たれた者の顔であった。ごっそり抜けた腹からは見たこともない臓物が生々しく、わずかな光にあてられ存在を主張している。昼間であるのに、バスローブを身につけており、赤と、水でうすまったピンクで染め上げられていた。謎めいた魅力が見え隠れしており、カラ松は見入っていたが、奥のほうから、人間の気配がしたので、カラ松はその場から逃げだした。その者が肉切り包丁のような、大きい刃物を手にしていたからである。その大男は、カラ松を追いかけてきたが、林を抜けて町に近づくと、もうけもののような気配は掻き消えていた。そののちの新聞では、殺されたのは屋敷の主人であったということ、たびたび起きていた行方不明事件の被害者の遺体が屋敷にあったこと、殺人犯は今も捕まっていないこと、が書き連ねられていた。3か月、騒ぎ立てられたその事件は、今ではもう音もたてずひっそりと忘れ去られている。カラ松はその、屋敷の主人の死体を脳裏に思い描き、ぞっとした。自分の足元で転がっている一松が、間違いなく死んでいると、気づいてしまったからだ。「俺は悪くない」と、呟いても肯定してくれる言葉などかけられるはずもなく、ただ、無人の家が、分家のくせに本家の芽を摘みやがってと責め立てるばかりである。カラ松はうっかり泣きそうになり、ぐうと唇をかんで耐えた。でも、本当に俺は悪くないじゃないか! この一松坊ちゃまといえばいつもカラ松をいじめるばかりでやさしくしてくれることなんてなかった。今日だってそうだったのだ、右の手首をぎゅうとつかむなり、理路整然とはいいがたい言葉を投げかけられて、もう、うんざりだったのかもしれなかった。手を振り払って、逃げようとしたとき、一松はあっさり階段から落ちていった。白い制服が血に染まるまで、そう時間はかからなかった。カラ松は無意識に爪を噛む。これからどうなるかは容易に想像できたし、考えたくはない。死んでしまった者のために、生者である自分が今以上に虐げられるなどごめんであった。じとりとした汗は首にまとわりつく。カラ松はシャツの襟を開け、学生帽を脱いで階段のてすりのところにひっかけた。自分のこれからの生活を優先させるのであれは、やることはひとつであった。カラ松は、もう動かなくなってしまった一松の頭の下に脱がした白ランを敷いて、足首を持ち、ずるりと引っ張った。あまりひとの寄り付かぬ、蔵の傍に穴をあけて放り投げてしまえば、容易には見つからぬと考えた。夏の暑さと、焦りで袴が足に絡みつくようであった。額につく玉汗をぐいと拭って、息をついた。夕刻というのに、だれもいない。家の者など、ひとりもいないのは異様であるのだが、皆用事が重なったのであろう。好都合であった。外にも、だれも通らないうちに終わらせてしまおうと、死体を蹴り転がした。 地道に死体を転がして、蔵についたころにはもう白い制服は緑と泥にまみれ、気高く美しいあの姿はどこにも見えなかった。まあ、死んでしまえばそのようなものも気にしないだろう。不要なものである。カラ松は蔵に立てかけてあった、さび付きのスコップで穴を掘る。それなりの深さになればよかったし、泥で着物がよごれるのは勘弁だったので、早々に、満足する深さまで穴は広がった。そこに、一松をおとす。土をかけるのは、掘るよりも楽な作業であった。目立たぬように、白い砂もさらりとかけて、カラ松は思いつく限りの偽装工作を行った。頭のいいほうではなかったので、穴は随所随所にみえたが、それに気づくことすらなかった。慣れない作業で軋む腰をさすりながら、家に戻ることにする。廊下の血などやることは山ほどあるのだし……。カラ松が背を向け、二、三歩歩いたところで、うしろからニャアと鳴くものがあった。振り向くと、黒いねこがいる。一松の墓穴の上で、耳を掻いている。そういえば、一松はねこがすきだった。ねこも、一松が好きだった。あれには、死んだことがわかるのだろうか。カラ松を見て、もう一度ニャアと鳴くねこに呼応するかのように、カラ松の良心が泣いた。動けなくなったカラ松の足元を、ねこがするりと懐く。頭と背をこすりつけるさまは、真夜中に布団に潜り込んできた一松を連想させ、カラ松は震えた。泥で汚れたこの手が、弟のようにかわいがっていた一松を突き落としたという事実を、いまさら、噛んで飲み込んだのだった。なつくねこを振り払い、走って逃げようとしたカラ松の背を、声が追いかけてきた。「殺したね、埋めたね、なかったことにしようとしたね」「ちがう……」「かわいそうな先生は夏の土の下で腐るね、愛してたのに……」「お、おれも、」「だめだよ、ちがうからね、先生はかわいそうだね、でも、あんたも」
 「かわいそうだ」といったのは一松である。それから、かわいそうなとんぼの残骸を端に寄せ、カラ松の煙草を嫌がって「消せ」といった。前までは自分だって喫煙者であったのに、いつの間にやら禁煙に成功し、その反動か今では立派な嫌煙家であった。一本を大事にしなくては、懐は冷えるばかりであるが、いとおしい弟の願いならばと、カラ松はまだ対して短くもない煙草を携帯灰皿のなかに放り込んだ。妻と子の前でも煙草は吸えぬので、実家にいる間はとも思ったがしょうがない。「あれはどうなの」「あれ?」「子ども産���れたんだろ、ふたりめだっけ?」「三人めだ、男の子だぜ、俺に似てりりしい産声を聞かせてくれたぜ」「アッそ、お盛んだね」「仲が良いといってほしいな」 ハッという笑い声は吐息にも似て、カラ松は耳の先が少し赤くなるのを感じた。小ばかにした笑いは、しばらく会わぬ間に洗練されたような声音だった。「上の子は、もう小学生でな、最近見かける中学生がかっこいいって、早くなりたいなんていうんだ。俺に似て、クールを追い求める男になっていくんだろうな……、そろそろ尾崎のすばらしさも知ってもらおうと」「それはやめろ。……そういえば、中学校っていえば最近近くでいやな事件あったな、養護教諭捕まったんだよ」目を丸くするカラ松をみて、一松はニヤニヤと笑いながら、事件を話してやった。「でっかいビルに入ってる中学校の養護教諭、日光樹の塗り薬にイケない薬練りこんで、生徒に使ってたんだよ。あれ、くせーじゃん、でもそういうんじゃなくていい匂いもしてさ……、それで生徒も抵抗しないで使ってて、周りが気づいたころには、生徒はラリッてるし、全部手遅れ。生徒が養護教諭庇って担任刺したりしてさ、けっこう大事だったんだけど」「それは……」「お前も気をつけろよ、変態なんてどこに潜んでるかわかんないし」 きょとり、と半目ではあるが、面妖な輝きのある目がこちらを見る。ねこのようだ。果たしてこの弟は、このようなひとみの輝きを持っていただろうか? しばらくこの弟の顔も見ていなかったのだ、内側の細かい部分から溶け出して、記憶にあるのは薄れた輪郭のみであった。もう、ろくに実家に顔も出さずにいてしまって、七年にもなる。祖母の葬式というのは、もはや帰りづらいとすら思っていたカラ松にとって良い機会でもあり、また気の重い出来事でもあった。家族との間に齟齬があったわけではない。あるとしたら……目の前の、この弟のみだ。カラ松は手持無沙汰になった指で爪をはじき、沈黙に耐えた。ふと、光がさえぎられるので、カラ松は顔を上げた。一松がのびをして立ち上がったところであった。「トイレ」「ああ」「テメエもいくんだよ」「えっ」「連れション」強引な手で引っ張り上げられて、立ち上がる。連れ込まれた先はちゃんと便所であった。薄汚れ、色の禿げた水色のタイルが哀愁ただよわせていた。そのなかで喪服は濃い色で存在していた。尿意もないが、と手洗い場の鏡をぼんやりと眺めていたところで、また腕を引っ張られた。「あっ」「ぼんやりしてんじゃねえぞ」便座のほかにはなにもない個室は成人男性がふたり入るには狭い。しかしそんなことにも構わないで、一松はカラ松を個室に押し込めて内側から鍵をかけた。「なにを、」「いいことしよう」そうしてぐいっと押し付けられた唇は、感情を持たないのを匂わせるほどに冷たいものだった。文句をいうためにひらいた口のなかに入り込む舌も、冷たい。でもそれは、氷を口に含んだ直後のような熱さと冷たさが同居する心地よい冷たさ、ではなかった。芯から冷え切り、乾いた舌は、嫌悪を感じるほかない。一松の肩をつかんで押すと、存外簡単に離れた。ぱたりと口の端にたれた唾液すら、気持ちが悪い。生臭さ漂うそれに、息をつめた。「なにを!」「大きい声出すなよ……別に、前にも、やったじゃん」「そうじゃなくて、なんで今」「待つの飽きたし、」「飽きたとかじゃないだろう!」「なに、なんでそんな怒ってんの? 結婚してからもアンタが家出るまでやってたことでしょ、今更なんだよ」 その通りである、一松とこのようなふれあいは初めてではなかった。それこそ、結婚してから何度かしたし、カラ松が拒んだことなどもなかった。今、拒んでしまったのは、目の前の一松がなんだか別人のように感ぜられたからであった。「……」「いや?」「いや、そういうのじゃ……」「そういうことでしょ、なんで? 子どもできたから?」重ねて聞く一松の顔はどこかかなしそうな、捨てねこかのような表情だ。「お前は、お前が……。一松じゃ、ない」苦し紛れの言葉に、カラ松は自分でも何を言っているんだと次の瞬間には胸の内で責めたが、なぜだか、しっくりくる気もした。七年という期間、会わない間に一松はだれかに成り代わられたような、違う匂いをさせていた。「ふうん」一松は馬鹿にするのでもなく、相槌をうつと、閉じたままの便座に腰を掛けた。足で肘をささえ、頬づえをつき、上目にカラ松を見た。白いワイシャツや、スラックスから覗く足首、ベルトの余った腰は、前の一松よりもはるかに違いすぎた。こんなにしなやかな、人間味のない細さではなかった。カラ松は自分のなかのたわごとを、すでに信じ始めていた。「お前……」「先生はね、うっかり死んじゃったから、俺が成り代わってあげたんだ」「は?」「路地裏でね、転がってたんだ。先生、野良ねこごときを庇って阿呆にやられたんだね、もう死んじゃいそうで、俺が頬を舐めてもほとんど反応してくれなかったんだよ」「……」「先生がさ、成り代わってっていうからさ、俺、先生になったんだよ」小窓から入り込む日差しは鋭く、カラ松と一松の影をつくりだす。一松の影からは、存在しえない尾が揺れているのを見止め、息をのんだ。「先生は何よりも兄弟が好きだったし。だるまおとしみたいに、下を抜いたら下がってくるやつが必要になるんだって、よくわかんないこと言ってたけど、心配してたのかもね。アンタのことも気にしてた、カラ松のことがよくわからないって」カラ松が視線を落とすと、革靴が4つ、目に入る。つま先の汚れたほうが自分だ。現実逃避するように、タイルの溝を見つめるが、一松に成り代わったねこの言葉は、それをおしのけて理解を強いてきた。「俺の役目はさ、あんたたちを先生のかわりに見送ることだよ。先生にはお世話になったンだ、あのひとの跡をつぐ。……でも、そうだな、カラ松のことは、先生に申し訳ないけど好き勝手したい。先生をあんなにしたアンタのことをもっと知りたい」一松の手のぬくもりは生者のものではない。カラ松はそれから逃げながら、囁くように聞いた。「一松の、その、身体は、」細まる糸目はきっと成り代わる前のねこのものなんだろう。黒い線のような瞳孔にどきりとした。「ないよ、俺がもらってンだから、先生の体は、今は俺のもんだ」蒼白い、不自然に冷たいねこの体は、一松の体だったのだ。カラ松は震える手で頬を撫でた。「好きだった、アンタが捨てた男の体だよ、俺がちゃんと使ってる」「す、捨ててなんか」「捨てたんだよ、七年もほったらかしにしといて、何言ってンの?」声音が一松のように低くなって、小ばかにするようにカラ松の耳をくすぐった。「女も先生も大事にできると思ったの、アンタ、そんな器用な方じゃないでしょ。……先生、女みたいに嫉妬するの、知らなかった?」立ち上がったねこに、力強く抱きしめられて、耳をちぎられるかと思うほど噛まれれば、身体は死体のように力を失ってずるりともたれ掛かる。細さのわりには力が強く、芯がしっかりしていたので、ねこはよろけることなくカラ松の体を受け止めた。いつの間にか泣いてしまっているカラ松は、涙と嗚咽の間から一松の名を何度も呼んでいる。それに慰めの言葉をかけるのでもなく、かといって返事をするのでもなく、ねこは黙って聞いていた。ねこは、一松に成り代わってはいたが、泣いているカラ松が求め呼んでいるひとが自分ではないことを、理解していた。どれくらい長いこと、そうしていたか、カラ松の頬が乾いた涙でざらついたころ、チョロ松が呼びに来る。焼骨が終わったらしかった。よろりと自力で立ったカラ松を放っておいて、ねこは先に便所から出た。チョロ松の説教を流し聞き、頼りなさげな柳のような雰囲気でトイレから出てくるカラ松を待った。チョロ松はぎょっとしてカラ松の体を支えたが、自分で歩けるとわかるや、じゃあ、さきに行ってるからと足早に戻ってしまった。ねこも、カラ松をもう見ずに歩き出す。後ろからは気配がちゃんと感じた。ねこは一松らしからぬ、ぴんとした鋭い口調で言った。「俺、最期まで成り代わるぜ」
        夢[ゆめ]
1. 現実と空想の境目。現実のなかの空想。空想の中の現実。
2. 深層で願っていることを表層に浮き上がらせるもの。願望の映像化。
3. このようなものほど、起床時に覚えていることは少ない。
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kuzume-h · 9 years ago
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むかし話
おそらく中学か高一あたりで書いたゆる〜い創作BLを見つけたので。昔の文章を恥ずかしく思わないくらいには成長していない…… タイトルは「車の下」でした サンバイザーにはさまれた、買い物リストの端が、窓からはいる風でちらちらとはためいている。視界の端で物が動くのは煩わしいが、すぐに慣れた。さきほどの段差でずれたサングラスを人差し指で、押し上げる。浮かんだあくびを、噛むようにがまんした。 まっすぐに走っていると、右手がわに、いつも(妻が)利用しているスーパーが姿をあらわす。ずいぶんと空いていたが、あえて、屋上の駐車場に止めることにした。入り口を過ぎ、屋上駐車場へつづく道へ、入った。 屋上は、下も空いていたので、もっと空いている。今入ってきた自分のほかには、3台ほどしか、車はなく、狭い方であるはずの駐車場は、とても広くみえた。てきとうなところにとめて、サンバイザーにはさまっている買い物リストをとった。サングラスを眼鏡に替え、財布と携帯、渡されたエコバックを持ったのを確認する。運転中に我慢したあくびをしつつ、ロックをかけた。鍵は、ジーンズの右がわのポケットにいれた。 腕時計で時間を見つつ(16:27)入り口へ、ゆっくり大股で向かう。入り口に一番近いところに、赤いマークXがとまっている。 なかには人がいた。ゲームに熱中しているらしい一人の男は、暗めだが、染めたとわかる色合いの茶髪だった。長すぎず短すぎず、大学生のような髪型は、男に似合っていた。しかし、前のめりになり、垂れた髪からのぞく顔は、茶髪より、黒髪の方が似合うのだろうな、と思う顔立ちをしている。俳優が、役作りのために染めたようで、すこし見慣れない違和感のようなものを感じた。薄い、タイトなTシャツは、男が貧相な体ではないことを教えてくれた。筋肉隆々というわけでもないが、腹がでていたり、風が吹けば飛んでしまいそうな体つきではない。スキニージーンズの組まれた脚も、バランスのいい、細いものだった。ゲームに熱中している男は、無意識にくちびるを噛んでいる。血は出ていないようだが、歯の食い込んだ、紫の上にピンクをのせたような唇は妙に、艶かしい。 ふと、男が顔をあげた。視線があう。怪訝に目を細めたあと、ひっそり笑った。弧をえがいた唇の、あかく滲んだ歯の痕をみて、視線を頭ごと前にずらし、入り口に向かう。入り口に入る間際、ふりかえると、マークXの下には、猫がいた。視線に気づいたかのように、のっそりと姿をあらわし、向こう側へかけてゆく。茶ぶちのふてぶてしい顔をした猫は、去りぎわ、自分をみて、鼻をならすような鳴き声をあげた。風が吹く。 窓を締め切っていたはずのマークXからは、男の笑い声が聞こえた。 気のせいだろう。 ・・・・ スーパーは、車が少ない割には、ひと��いた。主婦や、この近くの高校の生徒が、それぞれの物を買おうと、散らばっている。カートを列からひとつ、引っ張り出す。買い物リストは、自分の手の、中指から、手首までの長さで、書いている数も、少ない量とはいえない。カートの上と下にカゴをおいて、メモを見つつ、買い物をはじめた。試食を避けつつ、日用品や、調味料、つまみや酒を入れていく。ソースなんかは、どれでも同じものだと思うのだが、妻にとっては違うらしく、口を酸っぱくして、指定したメーカーのものを買ってこいといっていた。そういうものなのだろう。指定メーカーのものを選びだしていれていくと、どんどん緑色のカゴは、なかが埋まっていく。 ぐるりとスーパーのなかをまんべんなく、まわったと思うころに、ほとんどのものを買い終わった。レジに向かおうとしたところで、アイス売り場が、目に入った。甘いものが好きな妻の顔が浮かんで、財布を開く。買い物用の金のほかに金はあったので、買っていこうと、思った。モナカやソーダアイス、いろんな種類があるなかで、カップアイスを選ぶ。期間限定のスイカアイスは、妻が、CMを見て興味深げに見ていたものだった。このカップアイスシリーズは、ほかのアイスと比べ、値が張るので、うちの冷凍庫のなかにこのカップアイスを見たことはない。たまには、いいだろう。妻もきっと喜んでくれるだろうと思った。クーラーボックスに手をつっこんで、カップアイスを手に取る。ボックス内を照らす照明で、左手の指が、光った。 サンタの背負っている袋くらいにふくらんだエコバッグを、なんとか左手にもち、屋上への階段を登りきる。ひとつふたつのアイスが、この重さに大きな影響を与えているとは思えないが、たかがアイス、されどアイス。大した重さもないカップアイスを買ったのを、後悔するくらいには、重いものだった。肩が痛い。なぜ、自分はわざわざ屋上にとめたのだろうか。 黒のアベンシスの、助手席の足元に、ふくらんだエコバッグをおく。ダッシュボードの上の、セブンスターと100円ライターをとり、ドアを閉めて一本を口に咥え、火をつけた。一本吸ったら、帰ろう。そう思った瞬間、ポケットの携帯が震えた。名前をみると、妻だった。 『書き忘れちゃった、洗濯用の洗剤と消臭剤。使ってるの、わかるよね?……うん、それ。ごめんね』 電話を切る。吸いきった煙草を、携帯灰皿にいれて、小さめにのびをする。書き忘れといわれたときは、勘弁してくれと思ったが、洗剤と消臭剤くらいなら、いい。軽いものだ。助手席がわのドアを開けて、ダッシュボードの上の財布をとった。はやく買って、家に帰ろう。アイスも溶けてしまう。 しかし、アイスのことは、赤いマークXをみて、すぐに抜け落ちてしまい、足をとめた。マークXは、まだとまっていた。長い間とまっているだろうに、運転席の人間はどうしているのか。男は、ゲームに飽きたらしく、席を後ろに倒して、仰向けになっていた。片手を頭のほうにやっているので、その手がわのTシャツが、上にあがり、腹とへそがみえた。 目は、まぶたの下に隠されていて、半開きの口からは、舌がみえる。その舌と、さきほどの、唇の赤い噛み痕をおもいだし、腹の下が重くなるような気分になった。そして、胃の上あたりにも、かきむしりたくなるような、眠気のような怠さをまとった、むずがゆいものがたまる。 無意識に唇を舐めた。 男が身じろぎをしたので、��すます、めくれて露わになった腹をみて、おもわず、ドアに手がかかる。音がして、手応えがあった。鍵のかかっていない、無防備なドアは、簡単に開いた。 目をあけた男は、視線だけを動かし、ひびわれたくちびるが震える。発せられた男の声は存外低い。そう思ったが、普通の男は、みなこんなものだろう。自分の想像上の男の声が、高かっただけだ。不快なほどざらざらした声でもなく、ごく普通の、青年の声だ。不快も愉快もなかった。男は体を起こし、髪に隠れ気味になった瞳が、大きく緩慢にまばたきをする。 眼鏡をかけて矯正されたはずの視界は、めまいのように、裸眼のときのように、ぼやける。肩を掴み、シートに押しつけ、車に入って、男の上に乗り上げた。抵抗するように肩を押してきたが、それでも覆いかぶさると、悲鳴のような、声をあげた。その声は、平生の声よりも高い。ダッシュボードに置かれてあった、聖書がおちる。ドアを閉め、動きを封じるために男の上に乗ったまま、ロックをかけて、すこし長めの前髪を、掴んだ。髪をひっぱり、上向かせると、噛みしめていたくちびるが半開きになる。それに口をつけて、舌をひっぱりだすと、男は眉をひそめて胸を押してきた。力は弱いわけではなかったが、男は早々に力尽き、なすがままに、体の力を抜いた。これ幸いと男の両手を左手で押さえて、もう片方で腰をつかみ、もう一度くちびるをかむ。腰にある手を、シャツのなかへくぐらせると、そのなかは思いのほかに熱かった。そのうち、汗がにじんでくるだろう。シートに、汗がにじむさまを想像すると、よりいっそう、下半身が重くなっていく。 下から抜けだせないもどかしさにうめき、息をもらす男の息づかいを聞きながら、高校のとき、同級生と、たわむれの延長線のような雰囲気で、ベッドの上に倒れこんだことを、おもいだした。 同級生のなかには、「そういう」感情をひきおこすための雰囲気や色香が、女よりも、艶やかに息づいていた。同級生と行為をしたが、そういう意味で好きになったわけでなかった。その雰囲気と色香に、あてられたのだ。 男と同級生も似ている。とくに、くちびると匂いが似ていた。 力強く照る太陽が、車のなかに入りこむ。光は熱かったが、この男ほどではないなとおもった。うつぶせにして、さっきよりもきつくシートにおしつけた男はどこもかしこも、熱い。まるで、血液の代わりに炎が流れているような熱さであった。ティーシャツがうらがえしになってふたりのしたじきになっている。気づかなかったが、男は、レディースのネックレスを首にかけていた。それのトップを、男の口におしこむと、おもったよりも素直に、咥えた。いくらかおとなしくなったので、腰を引き寄せると、シートにすがりついた。耳のうしろにくちづけ、もはや頭は、組み敷いている体に向いていて、買い物や妻のことなどは抜けおちている。こんなに興奮したのははじめてだった。男の息もひどく荒い。 考えを放棄して、ただ目の前に没頭しようとしたその直前、視界の横に、自分の黒いアベンシスがみえた。 車の下には、猫がいる。 主人公……27歳/新婚/無口/高校時代に男と経験有 男……21歳/大学中退/ヒモ/不倫/ゲイ
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kuzume-h · 9 years ago
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三篇
怪異系派生ごちゃまぜ一カラ
➀車掌一松×平社員カラ松
 父母、おそ松、一松、十四松は、東京赤塚区からは遠く離れた、父の故郷である、辺鄙な田舎へ引っ越していった。十四松はそこで職に就き、おそ松と一松はニートを継続。他の3人は、東京で過ごし続けることを決めた。働くことに意味を見出していなかったカラ松が、一番はじめに社会人として、早々に3人暮らしからも抜け出した。みな、それぞれ、壁はあれどうまくやっているようだった。……カラ松以外は。
 ある日、田舎へうつった実家から連絡がくる。東京組は予定を合わせて帰郷(家族のいるところがふるさとである)を決めるが、カラ松だけが、仕事の都合で遅れてしまうことになった。ブラック企業と名高い会社に勤めるカラ松は、半ばあきらめていたので、ひとりで後を追うことにした。
 夜中も過ぎて、カラ松は早朝に出発することにした。早朝の新幹線、長期休暇ともかぶらぬので、空いていた。寝不足で、ぬるまった頭は睡魔の愛撫を抵抗もなく受け入れるので、カラ松はうっかり寝てしまった。
ふと目を覚ますと、そこは新幹線ではなく、見覚えのない古びた電車であった。カラ松が疑問を持つ間もなく、鬱鬱とした、低い声の車内放送が、人身事故による停車を告げている……。
②怖いうわさのホラービデオジェイソン×バスケ部員カラ松
 カラ松は、レスキュー隊の兄、おそ松と二人暮らしである。仕事のほかにも家を空けることの多い兄のせいで、カラ松は今日もひとりであった。そんなカラ松の、ひそかな趣味は、映画を観ることである。学校帰りに、レンタル屋に寄ることが多いが、その日はお小遣いが渡されたばかりであったので、古本屋によって中古のビデオを買うことに決めた。ワゴンの中で、金魚すくいのように無秩序に、散らばっているビデオの山の下のほうには、真っ黒なパッケージがのぞいている。カラ松は思わずつばを飲み込んだ。最近学校で噂されている、観た人間が消えると噂のビデオにそっくりだった。肉屋の加工場のような、生臭さ漂う部屋の奥に、人影が見える。見えるはずのないひとみに、射貫かれた気分になったカラ松は、いつの間にかそのビデオを買っていた。
 想像に反して、安っぽいホラー演出、陳腐なゴア表現は、カラ松を落胆させた。観るのは一度きりだな……、そう思ってリモコンをテレビに向けるが、電源が消えないことに、気づく。ブラウン管からは、あのパッケージと同じ、加工場が永遠と映されている。カラ松はどうにかして消そうとするが……。
③白ラン一松×チャイニーズマフィアカラ松
 今はもう使われていない、バス停でひとを待つ、白い制服の少年と、最近、大型ひき肉マシーンで恋人を失ったカラ松。ふたりは互いに話をしたり、聞いたりした。森の奥にある底なし沼。会う約束をしていたのに、どうして彼は真夜中に大型ひき肉マシーンを作動させてそこに飛び込んだのか?背中にそろいの虎を飼う少年とカラ松。いつも同じ時間にいる少年は、決まった時間にならないと現れない。恋人に似た目をしている。カラ松は恋人を愛しきれなかった。半分しか、好きになれなかった。半身を失っていたから。転機は嵐の夜に訪れる。
初めて名を呼んだ気になったが、口はその名前を生み出すことに、慣れきっていた。つまり、そういうことで、ある。
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