Tumgik
lin-zoh · 3 years
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ありがとうございました
ここの文章を読み返す気には到底なれないのですが、145個も書いてきたって我ながらすごいですね。その都度悩み苦しみながら綴っていた覚えもあるし、泣きながら書いた言葉もありました。そういったものを誰でも読めるところに置いておかなくてはならないというのは強い抵抗感があるものの、言葉には責任を持ちたいと思うので、変容したことがあったとしても、そして忘却してしまったことがあったとしても、ここはタイトル通り消さないことにしました。
でもこれは、皆さんがどのように受け止めておられるか分かりませんが、私は文字に起こされる言葉に詰められたものがすべて、というスタンスでここを書いていた訳ではありません。消極的な話をすればチェリー・ピッキングも無意識に行われていたかもしれないし、パターナリズムに対する反骨精神なんかもどこかに転がっている。そしてなにかひとつを言葉にしたことによって、選ばれなかった言葉が葬られてしまっている。すべてを知った気になるというのは、どう考えてもその対象を見下げているし、特にインターネット上でのテキストのみのやりとりではなおさらであると思います。これは私のものさしですが、何もかも「わからない」と思ってから考え真摯に向き合うことこそが、一番謙虚な態度であると思っています。
それにしても、ここを4年以上続けた結果、物事を中途に投げ出すという答えに至るとは思っていませんでした。結局平行線でしか話が進まなかったことが原因だと感じます。と言うことは私の努力不足も祟ったのかもしれません。しかしそれもまた私の人生で、この言葉を他者に対して使うのは乱暴だと思うし自分に覚悟を付与するために選ぶ言葉なのですが、自己責任を自覚して、色々感じ選び取っていこうと思います。
いつもくどくど話していますが、様々な思いはあれど、関わってくださっている皆さんにはまっすぐ強く感謝しています。おかげで、随分成長することができました。お付き合いしてくださるのであれば、またあちらでお会いしましょう。それでは。おじぎおじぎ
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lin-zoh · 3 years
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たとえば方々で謝りまくっている人を見ると、ときどきこの人は何やっても謝れば済むと思っているタイプの人なんじゃないかと思うことはありませんか。
でも先に断っておきます。ごめんなさい。
一旦話をまとめる方向に持っていく努力を止めようと思います。どうやらこの場には何らかの予定調和が働いていて、私はそれに気づかずその通りに動いていて、気がついた後もそれに従って、そして今、これはおかしい、と思った地点にいます。 私は今年の6月に28歳になりました。所説あるのでしょうがキリストが死んだ歳らしいです。となれば私にも、聖書とまでは到底いかなくとも自分で作ってきたものさしがある程度形成されていてもおかしくない。今回それに気づき、それを懐から取り出して眺めたとき、やっぱりおかしいと思いました。
きちんと目と目を合わせて言葉を交わし向き合うこと、その肝心なことが何一つ為されていない状態で、私が私の一生を捧げるようなことなど。
親切に根気強く付き合ってくれている方々がいて、行くべき道を照らしてくれているのですが、いつか「こう言いなさい」という示唆があったあたりから、どうやら誰も冷静でないということが分かりました。そこから、昔に私がこちらに書いた言葉を真正面から受け取って滋味深く味わってくれていたのが理解できて嬉しくもあったのですが、それ以上にびっくりしました。有難くて、驚く。変な感覚でした。
しかし負担でした。なんでそんなことを言わされなくちゃいけないのだろうというのが率直な感想でした。気持ちがあっても、強いられると不思議と心がしぼんでしまうことがわかりました。これは誰もがそうでは無いのかもしれませんが、私の場合はそうでした。そして与えられる情報が増え状況も移り変わって、考えなくてはならないことも、言葉に落とし込みたい気持ちや話したいテーマも増えました。そしてこれこそが、今の私のものさしが許す自由であるのだと思いました。
この段階で私が何かを決断する必要性を感じなくなった、ということです。
しばらく占いからは距離を置くことに決めました。関わってくださった方なしには絶対にここまで来られなかったので、とても感謝しています。これからは一週間に一回確認する程度にして、自分の目盛りで価値基準を計って確かめていこうと思います。これからも色んな人がいて色んなことを言ってくれる場面がもしかしたらあるのかもしれませんが、とりあえず何の罪悪も背負っていないことだけは確かなので、相変わらずただのファン、推し活ってやつを楽しもうと思っています。
若干ここを畳むことを考えています。まだ考え中ですが、続ける意味がちょっと分からなくなったので、まあ残すか、消すか放置、あとは旧世界に引きこもろうと思っています。
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lin-zoh · 3 years
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ラケットは人を傷つけるためにあるんじゃない
フェアプレーじゃないよなあというのは、慢性的なストレスではあります。
結果論的に「この距離と関係が守れてよかったのかもしれない」みたいな、過去から見通すと不思議すぎる縁もありますが、当然そういった繋がりばかりではありません。なぜ私ばっかり行間を読まされてそれに誠実に対応し続けなければならないのか。それをやりたいと心から思うことができれば引き受けますが、私の味方のようでいて実のところ背後に存在する誰かのために顎で使われようとしてるんだなと思うと途端に萎えます。もちろん間に挟まれて困っていることも想像が及びますが、やはり直接会って話せない原因にもなっているという問題意識も拭えません。そしてどんな立場なのか知りませんが金払って会いに来いと言っていた人には、心に棲んでいる松岡修造さんが「寒い…」と口走ってしまうレベルでした。あくまで私の心の修造さんですが。
私にはこれを書いている意味がよく分かりません。日本語を話しているのに通じていなかったからです。壁打ちだからかもしれません。壁打ちなのですが、だとしてもムーンボレーや白鯨そして零式ドロップショットも練習していて、さらにはダンクスマッシュや破滅への輪舞曲、百八式波動球なんてものをぶち込まなくてはいけないシーンもある。そしてそれに疲れ、飽きたところもあります。
ずっと一人でディスプレイと向き合っている立場なのでよくわかりませんが、「なんか私を置き去りにして勝手に盛り上がっている」というのが素直な感想です。私は変わらず心から好きなミュージシャン達のファンでいるだけです。そしてそれで幸せです。あと、もちろん大好きなことは変わらないのですが、こちらからMAX一方的に意思表示しないとやりとりが持続しない羽生くんのことも分からなくなってきました。これ以上誰に、何を求めなくてはならないのかも分かりません。求めることにも、求められることにも疲れました。
いつまでも若くないことも承知してはいるのですが、いよいよ自分が結婚したいのかどうかもわからなくなってきました。家族は欲しいと話しましたが、私の人生はハードモードだし、子どもは好きだけどその子もハードモードな人生を送るかもしれないと思うと気が重いし、あと自分自身が子どもを飼っているところもあるので、その子の思いを果たさなくてはいけないお花畑に今いるのだなという実感です。そしてやっぱり、自分には普通のレールに乗ることが難しいのではないかという気持ちが強いです。
でも結局ここまで来て、誰とも直接綿密に話ができていないというのがわだかまりですね。それをよしと思えた人もいるし、悪しき、と思う人も私にはいました。羽生くんが「最善」という言葉を使っていてハッとしましたが、私も決して正しさなんかではなく、ずっとそれを望んできたんだなあと気づかされました。そして今は、あくまで私の話ですが、最善を尽くした結果なるようにしかならないんだろうな、と思っています。
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lin-zoh · 3 years
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忘れずにいるすべをなくした
占いを読んでいたらどうやら雲行きが怪しいので何か言うことを求められてるのかなと思って書いてます。
随分ねぎらいの言葉をかけてもらっているように感じるのですが、何らかの負担を抱えていたり、特に胸を張って頑張っていると言えることは恥ずかしながら無いです。申し訳ないけれど、イイカゲンで、意欲ややる気がないのは他の誰でもなく私です。というか、何度もお話していますが、何か事を起こそうみたいな気持ちはすっかりなくなってしまいました。ツイッターも匿名掲示板も、私の人生にはもう必要ないみたいです。
特定の誰かの話をしてるんだなというのも察せられるのですが、誰のことかもわからないし、鏡に映っていない人物の話をしているのだなという感想で、ちょっと謎です。で、まあいっかと思っています。
とはいえ風呂敷拡げまくって放置は本当に無責任と言うか、情けない振舞いだとも思うのですが、キャパの大きくない私が存在しない方が、私がかこっている好きな人たち以外も参加しやすくなると思うので、理念?に賛同?してくれる人が、もしいてくれるのならもっともっと輪が広がって大きなことができるんじゃないかなと思います。そっちの方が楽しそうじゃないでしょうか。あとは、もう本当に、漫画も描けていない状態の私が変に目立ってしまう意味が不明です。
これは常々考えていることですが、人を変えようとするなんて随分おこがましいことだとは思いませんか。だからこそ、ありのままを見つめて愛することができる、そういう人と付き合っていこうと思っています。自らに絶望し、誰かに影響を受け、より高みを目指して恒常的に変われないまま流転するように変わっていくことを望んで、私は今ネクストステージにいるような気持ちでいます。まあ先述したように胸を張って何か頑張っていると言えるわけでは無いのですが、とりあえずは一方的に、草野さんと藤くんに贈りたいと思える言葉をひねり出そうとする日々です。羽生くんは、もう、晴明神社また行ってきます。それぐらいしかできることがない。
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lin-zoh · 3 years
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Tumblr media
たとえば膝をついて、その言葉を聞けないこと。
はてしないと思うのは、きっと距離だけではないでしょう。ニュースを聞いて自分がどう感じたか、あるいはあなたが今どんな風な思いでいるかどうにか考えてはみても、わざわざそれを書き連ねたいとは思いません。時間に詰められたもの、共有できないものすべてを突き付けられて、甘んじて受け入れるだけ。
ただいつも思うのは、あなたが感謝の言葉を尽くしている人達は、あなたが幸せならなんでもいいはずだから、どんなに突き詰めても最終的にはあなた次第だと言うこと。悔しいという言葉に込められたものと、最善という方針が心に残りました。頑張っていることは当の昔から知っているし、私はずっと、見えない、わからないということを見つめている。目が離せないのは、あまりにもすべてが輝いて見えるから。
それがあなた自身なら一番いいのかもしれない。でも、あなたが休んで、考えて、また立ち上がらんとするとき、心を守ってくれる人が、私じゃなくていいからそばにいてくれますように。
明日、ダイゴマンナイトに行ってきます。
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lin-zoh · 3 years
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あなた以外知らないでほしい
以前藤くんに宛てて確か5通目にあたる手紙を3度ほど送ったのですが、その都度宛所に尋ねあたりませんと判を押され結果的に届きませんでした。羽生くんには塊のように各所から届いている膨大なファンレターを映像で見たことがあるので、届いたとしても探し当てられないだろうなと思います。草野さんには一度だけ送って、言葉とその内実もきちんと届いたように思っています。
ワールドワイドウェブに書いてしまうと、その人にだけ届けばいいと思って投げた言葉であっても、そういうふうには取り扱ってもらえないのだと学びました。言葉だけでなく、態度もだと思います。情熱も冷淡も相手によって使い分けるのに、総合的に勘定されてしまう。友達によって話題が変わるのと同じで、相手によっては他の親しい人達と同じように扱う必要性を感じないことがあります。
この話はしたことがありませんが、中学生の頃遅刻をして一人で通学路を歩いていた時に、憔悴しきった気持ちで「BUMP OF CHICKENの良さが分からない人とは付き合いたくない」と思っていました。そのときの心境や、自分が歩いている姿を何故か遠めに、色濃く思い起こせます。そしてそのときの気持ちが変わっていないことからこうなったのだとも思います。私にとって藤くんは、BUMP OF CHICKENは、どれだけ重要な位置を占めていることでしょう。
藤原基央さんという人を知っているなどと豪語していい身分ではないと思います。だとしても藤くんが何を考え、思っているのかずっと知りたかったし、いつもそれに心動かされたし、たずさえていた。最近は、忘却していた藤くんが言っていることに自分の頭で考えを伝わせてたどり着いて、きっとこれは同じところに来たのだと気づいた時くやしさと同時に嬉しかった。どうしてこんな話をしているのか、分かりません。どれだけ悲嘆に暮れようが、言われる通り私は恵まれているのだというだけの話かもしれません。YouTubeで繰り返し聴いている大好物がリリースされるのがもうすぐで、映画も友達と観る予定があって、スケートのシーズンも始まって、GPFのチケットもエントリーしている。そして、すみっコぐらしをポップコーン片手に観ることも決まっている。
やっぱりまた届かないかもしれないけど、藤くんに手紙を書こうと思います。草野さんには写真を添えたい気持ちがあるのでしばらくしたらあっちに書きます。羽生くんには、自信は無いけれど、それらしい言葉を見つけることができるのであれば、ここに書きます。
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lin-zoh · 3 years
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以前・以後
断っておかなくてはならないことがあります。
昔私が一人で企画し立ち上げたことは、ご存じのように完結させられませんでした。なのにどういうわけか方々で評価してくれた人たちがいたように思っています。そしてだからこそ、今があるのだと思っています。それはとても有難いことなのですが、あれと同じようなことをもう一度やることは、できません。
理由は病気です。私は今、なるべくストレスや負荷のかかることを避けて過ごすことを第一としています。5回入院したうち最後の入院は慣れないアルバイトに従事していた最中発症しました。退院した後は労働を課さず、4年ほど安定して暮らしていますが、無理が祟るとまた気が狂うのかもしれない。最たる恐怖体験です。それに安定している今でさえ可能な限り症状だけはひた隠し、人前では正常を演じているところがあります。
あのスレッドを立ち上げたときの私は病気ではありませんでした。火事場の馬鹿力みたいなものも発揮していたように思います。そして、そういったステータスにおいても遂行することはすごく苦しかったし、できなかった。
最近、ようやくと言ってもいいのかもしれませんが、自分が人生に何を求めてきたのかをゆとりを持って考える機会が増えました。その中で無くなってしまったものもいくつも数えられます。なのに今、不思議な充足感があります。まだまだ足りないものも痛感するけれど、そういう認識でいられることにも希望を感じる。やっとここまでの道のりを肯定できるようになったのだと思います。
怒りに任せて言ったことと捉えられているかもしれませんが、私が身の丈に合わないようなスポットライトを浴びたりすることは望まないし、体調を崩すようなリスクを背負ってまで恩を売ったりもしたくない。アイデアに著作権は発生しないし、そもそも大した提言もしていないので、やっぱり心の余裕のある人が集まって、何かやるのであれば、頑張ってほしいと思っています。特にそれが、何か素敵な意味を持つのだとしたら。
こんな私は無責任に映るかもしれませんが、健康で文化的な生活という、最も守るべきもののためです。ただ、もしも無理なく、あくまで無理なく役に立てることがあるのであればお声がけいただければと思いますが、何もかも仕事では無いので、気持ちの無いことはできないこともお伝えしておきます。そして、見守ってくださってる皆さんに、お詫びと感謝を、心から述べたいと思います。ありがとう。ごめんなさい。
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lin-zoh · 3 years
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思考は文字にでもしない限り目には見えません。そして文字や言葉に置き換えたとしても、受け手の解釈や時間の経過によってその時の思いそのままに再現は行われない。忘れ去られていくものも多いはずです。しかし本当はどうなのでしょうか。見えないもの、当人にしか分からない思い、そして忘却してしまったものは、無かったことになってしまうのでしょうか。
「お天道様は見ている」という人が時々いますが、そうでなくとも起こったことは降り積もるものだと思っています。あの日何時間歩いたか、湯舟に沈み何を考え続けていたのか、何を話して楽しかったのかちっとも思い出せなくても、それは意識にのぼらないだけで確かに存在し蓄積されている。ただそれが自分の内部なのか、それとも外にあるのかは、少し考える余地が欲しいなと思います。それでも、今考えていること、感じていること、行っていることは、インターネットの履歴なんてものが無くても何もかも記録されているのかもしれない。そのくらいに思っています。そして私はそれを、肯定して生きてゆきたいと思っています。
しかし、その考えを採用することによって悪行すべてを取り締まれるわけではありません。深夜にお菓子だって食べるし、確かにある気持ちを、たとえば誤魔化すことはできても打ち消すことはできないし、あるいは形骸化してしまっているものを無理に課したりすることも非常に難しい。特に私は精神を損なった立場にあり、それがすり減ったことによりその実在を感じることが止められません。思考と言うのは、これはいつか映画で観たイメージですが、金色の揺れる煙のような一本の線が続いているようなものだと思っています。あれは杖で記憶を抜き取るシーンだったけれど、それがひたすら途切れることなく流れていく。考えることを止めない限り。
とはいえ、考えるだけがすべてではありません。知らないと話にならない。自分で一生懸命考え抜いたつもりでも、とっくの昔に先人が同じ答えを出していたりする。最近何もかも勉強が疎かになっているけれど、図書館が開館するので、大好きな秋だし、少しずつですが、しばらく読書を楽しみたいです。でも本当は、はやく羽生くんのことだけで頭がいっぱいになって何も手につかないような日が来たらいいのにと思っています。今度何度目の参拝か分からない、晴明神社に足を運んできます。あなたが確かにそこにいたんだという思いだけで、私がどんなに幸福な気持ちになるか、ほんとうは伝わってしまったらいいのにな。
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lin-zoh · 3 years
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ななひかり
インターネットというものは、つくづく説得や交渉には不向きなのだなと思います。
9年、自分を取り巻く環境が随分変わってしまったように思います。最初はたった一人だったのに、いつの間にか凄い人たち、様々な分野のプロフェッショナルに囲ってもらって、支えてもらっているのだと実感ではなく体感している。それに対して恐れ多すぎると思いながら、どこかぽかんとしています。
しかしそういった環境の変化で、自分自身に何等かの身に覚えがない箔が付いてしまったことも分かります。そしてうねるような力の動きがあるのであろうこともどことなく、けれど確かに知覚できる。それ自体にも恐ろしさを感じますが、同時に虚しさも去来します。
渡會さんはもう私じゃなくて周囲の意見や風向き、自分の進退にしか興味が無いのだと思います。みんなこう言ってくれているから大丈夫だろう、という楽観論でしかない。相変わらず内省の浅い立ち回りだなと思いました。元々雑にしか見積もってなかっただろうけど、今に至っては私のことなんてついぞ何一つ見えなくなってしまった。彼は、彼のことが好きな私が好きなだけだったのだと思います。
面倒くさいのでSNSは確認していません。新曲を聴いて出た結論として、お願いがあります。私抜きで、私の死んだ心が遺したもので、どうか、どなたか彼を救ってはくれませんでしょうか。私にはもう、それができません。悔悟の念が結局一ミリも見えなかったし、私自身の心が癇癪と諦めとしてしか作用しません。こんな心持ちで何かを打ち出し立ち向かおうとすることは、中途半端な結末しか生まないだろうと思うのです。何かに取り組むなら本気でなくてはならないのに、彼の選んだ言葉は、何の効力も持ちませんでした。
私の名が馳せるようなことになんてならなくていいし、善人でも正論にも美談にだって映らなくていいので、私以外の、心に余裕のある人が助けてあげてほしいです。もちろん彼を呪ってはいません。ただただ、私に一切関係の無いところで、勝手に幸せになってほしいのです。
私がいる・いないという違いだけで、あとのことはどうとでもなると思います。アイデアも使いまわしたらいいだけだと思います。最後になりましたが、いくら周囲の人が意見をくれたり正しい道を照らしてくれても、結局はパーソナルな問題だなと痛感している次第であります。これについては本当に、客観性に根差していない考えで申し訳ない気持ちになりますが、どうしようもありません。昔好きだった人のことも、今好きな人のことも、究極まで突き詰めると1対1の関係であることには変わりありません。馬鹿な自分に従う他ないのです。感謝の念は絶えないし、可能な限り傾聴しているつもりでもありますが、どうしても個人の感覚、そしてそれを見つめることを止めたりすることができないのです。
私が今回一番つらかったのは、あの時確かに守ったはずのFoZZtoneが亡くなったんだな、と身につまされたことでした。それだけで何もかも十分すぎました。私が愛し抜くべく、あの日情熱を燃やしていたのは、FoZZtoneのためでした。
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lin-zoh · 3 years
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源泉
何か書くことを期待されているようなのでキーボードを叩いていますが、3時間ほど悩みながら歩いて出た結果が「何も溢れ出てくる言葉がない」ということでした。
インターネットでしか付き合いが無いのでもしかしたら気付いておられない方も多いかもしれませんが、私は自他ともに認めるマイペースです。これは長所であり短所です。私は私のリズムで世界と均衡を保ちあっています。そしてインターネットでしか付き合いの無い、ましてや言葉をひとつも交わしたことのない人と、繋がりを持ちたいと思うことはあっても、何か人生を根こそぎ変えてしまう可能性がある決断を下そうとはとてもじゃないですが思えません。これはマイペースと言うより、一般論だと思います。一般論という言葉を使ったのは自分の言葉を正当化するためではなく、頼むからみんな落ち着いてくれ、という切実な気持ちで配置しました。
ただこういった状況を招いてしまったのが自分の振舞い、具体的に言うと一番最近書いたポエムに起因しているとすれば、それは無責任な発言だったのかもしれないとは思います。どんなふうに捉えてくださっても構いませんが、私の思いはあれ以上でもあれ以下でもありません。そしてこの文章が付け加えられることもお伝えしておきます。
もっと言うと、私は未だに50%くらい自分が病気で自分にしか見えないものが見えてるからこうなってるんじゃないかと思っています。藤くんが目に見えて傷ついていたときに40%になった時もありましたが、最近やっぱりフィフティーフィフティーだなと思っています。そして残る50%の正気を信じて、いつもあなたたちと向き合っています。
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lin-zoh · 3 years
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誰にも関係ないエゴ
人生が狂ったという表現は必ずや不適切ですが、随分人に揉まれてきたな、とは思います。目先の大きな怒りから解き放たれたことによって、ついこの間までは相当条件の中に埋められていたのだということに気付きました。恵まれた苦境を堪えながら乗り��えてきたようには思いますが、自分が何を欲してここまで生きてきたのかということについては、随分摩耗していました。
色んな視点があるな、と思いました。たとえば今私が何かを期待されていること。私がやりたいと思ってきたこと。そして、私の人生に求められていること。もしかしたら、全部違うのかもしれません。
あの時と言ってることが違うと思われるかもしれませんが、やっぱり私はどうにかして漫画が描きたいと思いました。生活習慣と症状と多分環境と能力の欠如によって集中して机に向かうことも難しいのですが、描きたい。できるなら仕事にしたいけど、困難なように思うので誰かに読んでもらえるだけでもいい��夢なのです。ただの無謀な願望なのかもしれないとも感じますが、子どもの頃から育ててきた、忘れられない思いなのです。
今私は、退院後もずっと続いている「歩行病」と自ら名付けた症状に憑りつかれています。家族は理解してくれているのですが、不審に思われないよう人気のない部屋や区域を選んで、他者を扮する独り言と対話し考えながら無限に歩き続けるという奇怪な症状です。それによって生まれる発想も不思議とあるので無下にはできませんが、どうしても自制が効かず、多くの時間を犠牲にしています。そちらに囚われると集中力も奪われる。図書館やカフェに場所を移さないと、読書や、ものによっては漫画を読むことさえままなりません。そしていざ肝心の漫画、絵の練習をしようにも、やはり筆を折ってしまっていた間に落ちた、絵を紙に落とし込む力の再獲得に苦心する。それにより、気が付くと席を立っていることも大いにある。
大きな病気になり、体質にも悩まされ、やりたいことをも阻害される。極めつけに人間関係に至ってまで病的に感じられたとき、私には一般的な、普通に生きることが難しいのではないのかと思わずにはいられません。「普通って何?」といった問いもあるかもしれませんが、少なくとも私は3人「普通が1番」と話していた人を知っています。その人たちと比較しても私は該当しない。もちろん私は私の答えを探してこれからも生きていくつもりだし、自分の人生を悲観するようなことはありませんが、誰かの期待に沿えるような命であるかについては、様々な観点から、どうしても疑問に思います。
漫画を描くことについては、妥協案はあるなと思っています。たとえばひたすら時間をかけて粘り強く完成させるとか、画が描けないにしても原作を担当できる能力をつける、など。だけどやっぱり、ほんとうはすべて自分でこなして仕事にしたかった。やっぱり今も、面白い漫画を描くための練習や勉強や取材がしたいです。幸い今の私は働かなくても生活に困っていない。勇気を出して、取り組むチャンスなのかもしれません。そして、もし私のことを大切に思ってくれて、暮らしを共にしてもいいと思ってくれている人がいたとしても、今の私にはこういったエゴや不安が強く再来していることをお話しておきたいです。加えると、私も私の大切な人にとって、何らかの道の妨げであったり、日々のテンションが下がるような存在になり下がりたくはないと思っているのです。
1本目はこんな感じですが、こんな感じで2本目へと続きます。
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lin-zoh · 3 years
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OLD WORLD
https://qsjd9t3nfdn8.blog.fc2.com/
もうひとつブログを始めました。ここと切り分けるのは、さして読む必要性のないものを書こうと思っているからです。その理由はあちらの記事に書いたので、お時間のある方だけお付き合い頂ければ嬉しいです。よろしくお願いします。
そしてこちらにも、書かなくてはと思っているものが3本ほど頭の中にあるのですが、どうにも整理が難しく時間がかかるかもしれません。まだまとまっていない24時間テレビの感想も、3本の内の最後に書こうと思っているのですが、手前の2本の内容が重めになるかもしれません。
自分の存在がどのように見つめられているからこんなことになっているのかについて、いくら考えても何一つ自己肯定感には結びつかないのですが、一つ始まりを迎えるにあたり、自分の人生を、俯瞰でも客観視でもなく、距離を置くような感覚で見つめなおすことができました。そういった話を、重くはなってしまうけれど、真面目にできたらいいなと思います。
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lin-zoh · 3 years
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しごと
めっっっっっっっっっちゃ気が晴れました。心も軽いです。想像以上に下記の件が生理的にキツかったんだなと感じざるを得ません。色々書きましたが、あれはあくまで彼一人に向けたものなので、「誰も私のことを語るな」と言う風にも読み取れるかもしれませんが、普通にかまってくれる分には単純に嬉しく思っているので、そこらへんは取り違えなきようお願い申し上げます。そしてこんな扱いづらいポンコツのことを考えてくれて、ありがとう。
ここまで気が軽くなると、たくさんお世話になった人たちのためになることがあれば、私に役に立てることがあるのであれば取り組みたいと思います。もちろん能力が足りない可能性もあるし、一体何を求められているのか、やはりアイデアを期待されているのかもしれませんが、正直何をやればいいのだろうと思っています。困っているようで、考えているようでもいて、どこか清々しい気持ちです。また始まりに立ったのだなと思います。ここまでしんどいしんどいと思ってやってきたし、自分ばっかり抑圧されてると思っていたきらいもあったのですが、そんな私に辛抱強く付き合ってくれている人がいたことも大きな事実として実感しています。以前転がされているとも書きましたが、もしかしたらプロデュースみたいなものだったのか?とも思うようになりました。もちろん私には私の感情があるので意向に沿えないこともあるし、インターネットで全てのコミュニケーションを完結させようとする限りこれからも溝が生まれる場面があるかもしれませんが、きっとそれしか手立てが無いのだと思って、これまでと変わらず私もその都度本気で向き合っていこうと思います。
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lin-zoh · 3 years
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渡會さんへ
これを書こうと思ったのは最近交友が復活した、あなたと私を出会わせてくれた友達に、あなたの話をする機会があったからです。怒り狂っていた感情が過ぎ去り、おそらく多少の冷静さを取り戻したのですが、これまで書いてきたことを撤回するつもりはありません。
私が何に怒っていたのかを話してもいいですか。私はしばらくあなたのSNSや活動を見ていなかったし、見ようとしなかった時期もあったし、またこれか���も、見ないつもりでいます。そして今も見ていません。ですが、多少は動向が分かっていた方がいいだろうと判断していたときの、ちょくちょく様子を伺っていたときの調子が、気に食わなかったことがたびたびありました。
ときおり私は、自分を形容される言葉に違和感を覚えることがあります。なんだか都合よく解釈されているなと感じることもある。たとえそれが誉め言葉であったとしても、会って話もしていない人達に私の何がわかるんだろうなと思ってしまいます。想像は勝手だから言葉を与えずそのままイメージを浮かべていてくれるだけでいいのにと思います。そしてそういうときにこそ名前が必要なんだと思ってもいます。
多分私は正しさを追い求めて何かをしたことなんて一度もありません。正しさというのはどちらかというと客観性に根差した考え方ではないかと思っているのですが、異論は認めます。しかし少なくとも、私の判断はいつも自分の納得のために下しているつもりでいます。その納得の為なら辛いことはあったとしても耐えることもできます。しかし自分でないことを求められるようなことや、限界を感じるような無理だけはできません。
もう好きでない人からの好意は扱いに困ります。あなたももう私のことを脳裏から追い出したかもしれませんが、それが正解です。私はあなたとうまくいかなかったあとも、たくさんたくさんうまくいかないことがあった。死ぬのかってくらい辛かった時期もあったし、これからも不安なことがたくさんある。あなたの振舞いは、私が覗いた言葉の真意がどうであれ、そういうものの重みを理解していない軽薄な言動だった。長い年月とそこに降り積もった想像が及ばないところにある気持ちがあることを尊重してほしかった。
大団円と言っていたのは他でもない私だったのに、わざわざお金を払って彼のライブに行くこと、話したいことも無いのに彼の目の前に立って話すことが、もうできません。頑なに、泣きそうになりながら拒絶していましたが、それも仕方がないよなと思います。私が事あるごとに「舐められている」と思ってしまうようになったのは、事の始まりはここがきっかけかもしれません。一回り以上年下だから、自分のファンだから。そういった立場の違いで無下な態度をとられたんだろうなと思うと、未だにうんざりするし、それはそれで引きずってしまっていることではあります。
ゴッチには申し訳ないなと思います。でもゴッチが応援してくれていたからこそ頑張れていたところもあった。もう終わった話で、何か始まったわけでもなかったけれど、好きだった記憶はきちんと残ってるし、あとは、私が残したものをうまく活用できるなら利用してくれてかまわないです。めちゃくちゃ気持ちが荒れたけど、友達に良かった思い出を話したおかげで、やや心が落ち着きました。もう知らんとは思っているけれど、頑張れ、とは思っています。私も相変わらずうまくいかないことばっかりだけど、頑張ります。
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lin-zoh · 3 years
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ここ一年くらい怒りっぽくなっている自覚があります。これでも外に逃がしたりしてはいるのですが、判断として落とし込まないといけない場面もあるので、実質的に悪くない人たちにまで当たってしまっている可能性もあります。それに対しては、情けなく、そして申し訳なく思っています。
私が9年間通底して怒っているのは、ひとえにまともに向き合って会話ができていないことです。ひたすら行間を読まされる。それが喜びであったり、言葉にできない感覚を宿してくれることもあるのですが、結局ただのファンとしてしか扱われていないこと、肝心なところが変わらずここまで来てしまったことには憤懣しています。悲しみもある。長い年月です。もし本当にみんな私と交流したいと思ってくれているのであれば、病気が原因でないのであれば、何故ここまで一徹して直接的なコミュニケーションができないのか。私はずっと不思議でした。そして考えた結果、一つ自分なりの、結果論めいた解釈を見つけました。
私に送ってくれた数々のメッセージは、あくまで仕事上のものでした。仕事というとあまりに味気ない響きがして事務的なので、Works、と読んでください。それらは私の人生を彩り、満たし、どんな地獄を見ようとも生きていてよかったと思わせてくれるものばかりでした。だからこそ最も大切に思っていた夢さえかなえられずにいても、この世に未練が無いとさえ思わせてくれていたのだと思います。けれどそれらは、あくまで仕事上のものだった。私は必ずそれらに対しお金をペイしていた。これからもそう。私たちの関係は、ここで完了しているべきなのだと思ったのです。
これは怖い判断ですが、この関係のままなら会えなくていいということです。そしてもう、みんな私から解放された方がいい。
これは常々考えている私感ですが、たくさんの人から恋愛としての好意が向けられている状態を自分らしいとは、とてもじゃないですが思えません。言葉を選ばず言うとキャラじゃない。私は貶されて笑っているくらいがやりやすく、息がしやすい。そしてやっぱり、誰かを傷つけたり誠実であれないことが、どうやら想像以上に苦しいと学んだのです。舐められることなく、信頼される状態を保つことこそが、おそらく今私の唯一のプライドです。それこそが私らしさだと今は思っています。
大切なものはそんなに無いのです。愛する家族と、多様な友達と、たった一人のパートナー。それらとの日々を彩るたくさんの音楽。まあ趣味は他にもたくさんあるっちゃあるのですが、加えてみんなで目指すことのできる面白いものがあれば、サイコーだと思いませんか。これは、いつか私の仕事、あるいは仕事じゃなくても役割になればいいなと思っています。そしてもしその延長線上で、出会って、関わることがあるのであれば、プロフェッショナル同士として向き合えるのであれば、それも夢があっていいかなと思っています。
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lin-zoh · 3 years
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日曜 昼下がりのラジオDJが
高らかに告げた 5月のヘビーローテーション
それは 音と言葉で
意味ではなく
窓から差し込む陽光の暖かさと
きみといる部屋を 映し出してくれた
何時に目を覚ましたとしても
掃除機はきちんと 毎日かけるよ
広くはない部屋
円卓には赤いチェックのテーブルクロス
花瓶にコスモス コーヒーサーバー
花や 星を 愛でる心で
きみのことを 考えているのかな
きみの家族が 微笑むように
わたしもきみのことを 守れたらいいのに
きみがあまりに立派で 寂しくなっても
ここにいてって 言ってくれたら
欲しいものなんて
ちゃんときみに 話せるくらいのものしかないんだ
そう望み続ける
意志こそが ほしいんだよ
電車に揺られる
きみへの 気持ち
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lin-zoh · 3 years
Text
近所のスーパーでウォーターサーバーの勧誘にあって、「持ってますか?」って聞かれたから「持ってます!」って言って「メーカーどこですか?」って尋ねられたので「持ってないです!!!」と伝えて去った    
おわり
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