Tumgik
lioninpassage · 1 year
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2023-02-10
今日読んだところ:
「パリ――一九世紀の首都」〔フランス語語草稿〕 C ルイ=フィリップあるいは室内(I~III)
事務所内では現実的なことがらしか考慮しない私人は、彼の室内においてさまざまな幻想を抱き続けることを求める。この欲求は、彼が自分の事業の関心に、自分の社会的機能についての明晰な意識を結びつけようとは思わないだけに、なおさらさしせまったものとなる。(p. 41)
就職して社会化されちまった各位~! 商品価値(使用価値)の代わりに愛好家にとっての価値を付与した蒐集物で室内を埋めつくす……身に覚えがありますね……(ドイツ語版草稿のときにも同じことを言ったが)
フーリエがすでに予見していたように、市民の生活の真の枠組みは、事務所やビジネス・センターの中に求められる傾向がますます強くなっているが、その生活の虚構としての枠組みは、個人の家の中に構築される。(p. 44)
IIの探偵小説のくだりは、ドイツ語版草稿で読むよりわかりやすくなっている気がする。『モモ』のなかの灰色の集合住宅の中には私的な生活の痕跡って一切なさそうだもんな。
余談。 波線を長音符の一種として用いるの、一部の場を除いてはやらないようにしているんだけど、そろそろ抗いきれないかもしれない……「あー」と「あ~」だともう、ニュアンスが違うんだもん……
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lioninpassage · 1 year
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2023-01-25
今日読んだところ:
「パリ――一九世紀の首都」〔フランス語語草稿〕 B グランヴィルあるいは万国博覧会(I・II)
万国博覧会は、商品という物神への巡礼の中心地である。〔中略〕最初のそれ〔万国博覧会の前身の全国産業博覧会〕は、1798年にシャン・ド・マルスで開催されたが、「労働者階級を楽しませたい」という望みから生まれたもので、「彼らにとっては解放の祝祭となった」。一番の顧客は労働者たちだ。娯楽産業という枠組みは、まだ確立しておらず、民衆の祭りが、そうした枠組みを提供していた。(p. 38)
フランス革命はカトリシズムを公共空間から追放したが、祭りの時と場は必要で、結局その空いた玉座に物神が入ったということか。
2022年のハロウィンに韓国の梨泰院で事故が起きたことについて、それと日本の渋谷のハロウィンの狂騒にも触れながら「現代の若者に残された祝祭がもはやハロウィンくらいしかないから、そこに集中してしまって過度な騒ぎようになるのでは」と言っているツイートを見かけて、結構説得的だなあと思った。最近はちょっとイベントごとがあるとものすごいひとが詰めかける気がする。2022年の六本木のクリスマスマーケットもひとが多すぎて、行ったのにどこにも並ばずに日比谷のほうに移動した……そちらは入場有料で人数制限もしているからまだましだった、食べものを買ったあと席を見つけるのに苦労したけど。つまりわたしもクリスマスマーケットに行ったし、ハロウィンも、渋ハロに参加したいというわけではないが仮装(して飲酒)はやってみたいなあと思うもんな(飲酒で正気を失ってみたい願望だ……つまり、普段あまりにも正気でケをやっているから、正気を失うことが許されるハレの祝祭を求めている?)
イベント参加だけじゃなくて、飲食物とか日用品も、バズったら一気に需要が高まってすぐに忘れられる、その落差とスパンがどんどん極端になっている気はするが。
個人は、娯楽産業という枠内でさまざまな気晴らしにふけるが、その内部で、彼は密集した大衆の一構成要素でありつづける。この種の大衆は、遊園地のジェット・コースターや「回転装置」や「芋虫」に乗って、すっかりはしゃいで楽しんでいるが、そのことによって、産業的あるいは政治的プロパガンダの側が期待をよせることのできそうなまったく反動的な服従への訓練を受けているわけだ。(pp. 38-9)
そうなんだよね、ハロウィンとかクリスマスも、たぶん少数で集まって楽しく過ごすことで満たされるのとは違う欲求がある。大勢の一部になるという欲求。安心できて、そして危険な。
ドイツ語草稿のほうでも今回でも、後半のところはよくわからなかった……動物‐女性‐男性の構図と、モードとフェティシズムについて。モードが欲望をかきたてるからにはそこにセックス・アピールがある、しかしそれはモノという非・有機的なものに結びついている、ということ?
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lioninpassage · 1 year
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2023-01-23
今日読んだところ:
「パリ――一九世紀の首都」〔フランス語語草稿〕
序章
A フーリエあるいはパサージュ(I・II)
参照している岩波の���訳(1993)はドイツ語部分とフランス語部分をそれぞれ数人のグループで共同翻訳しているとのことだが(『パサージュ論』の原著はドイツ語とフランス語半々くらいで構成されているとのこと)、ドイツ語草稿のほうが手触りが好みだった気がする……原文の違いに由来するのか、訳者が違うからかはわからないけど。でも、単語レベルの訳し方かなあ。
この〔前世紀の〕歴史観が固有に残すものは、《文明史》と呼ばれ、人類の生活形態や創造を一つ一つ目録に収めてゆく。そのようにして、文明の宝物殿の中に収蔵された財宝の数々は、以後はいつまでも身元を保証されたものになる。この歴史観では、これらの財宝は、存在していることだけでなく継承されてゆくことも社会の恒常的な努力のお陰であるという事実を軽視しているが、この努力によってこれらの財宝はさらに奇妙に変質するのである。(序章、p. 30)
残そうとする努力によって残されたものだけが歴史になるし、その「残そう」は常にその時点での現在からのまなざしで出来ている。
協働生活体(ファランステール)は、道徳性がもはや何の効力もない関係の体系に人間を連れ戻すはずであった。〔中略〕それだからフーリエは美徳ではなく、情念が原動力となる社会の効果的機能をあてにしようと考えていた。諸情念の歯車装置、機械情念と陰謀情念との錯綜した結合によって、フーリエは集団心理をあたかも時計仕掛けのように考える。フーリエ主義的調和は、この歯車状に連結された運動の必然的産物である。(A-II、p. 35)
フーリエのことちゃんと勉強したことないけど、めちゃくちゃ気が合うかもしれん……わたしも人間の徳とか倫理とかに全然期待していなくて、そういうのがなくても回るように社会を設計すべきだと思っている……
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lioninpassage · 1 year
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2023-01-19
今日読んだところ:
「パリ――一九世紀の首都」〔ドイツ語草稿〕 VI オースマンあるいはバリケード
これで「パリ――一九世紀の首都」〔ドイツ語草稿〕は読了。 ……わからんまま終わっちゃった!(そうなることは予期していたが)
とはいえこの節は、マルクス主義理論に関わるところがわたしにとってはよくわからんポイントになっていて、部分ぶぶんで言っていることはわかる……かな。
16世紀に科学が哲学から解放されたように、19世紀にはこの生産力の発展のために、造形の諸形式が芸術から解放されたのである。口火を切ったのは、技師による構造物としての建築であり、これに写真による自然の再現が続くことになる。空想の産物が商業グラフィックとして実用的なものになる兆しが見え始める。文学は文芸欄で適宜モンタージュ編集される憂き目を見る。こうした生産物はすべて、商品として市場に出ようとしているが、まだ敷居のところでためらっている。パサージュと室内空間、博覧会場とパノラマ館はこのためらいの時代の産物である。(p. 27)
建築ってもはや完全に技術の領域にあると一般的には認識されている(と思う)んだけど(建築学は工学部に入っている)、西洋の伝統からすれば芸術の主要ジャンルなのだよなあといまだにちょっと新鮮に思う。 その移行をもたらしたのが近代の建築技術なわけで、日本の(近代)芸術ジャンルに最初から建築が入っていないのは、この移行後に「(近代)芸術」が成立したから……なのかな。
ブログ記事のヘッダーに、特に深い意味はないけど良い感じのそれっぽい綺麗な画像を置くのはきらいなくせに(だから一時期noteのフォトギャラリーに置いていた写真を下げてしまった……この話長くなるし全然読書日記じゃないから別に書きました)(ヘッダーに画像を置いてアイキャッチ効果を高めたりブログの内容を示唆したり見栄えという点から完成度を高めたりする行為を否定するものではないです、わたし自身も結構やっているし、やりたいことはひとそれぞれ)、テクストは好き勝手織り合わせようとしてしまう。
フランス革命以降のフランス史、いまだに頭に入っていない……というか一度入れたはずなんだけど忘れちゃったな。復習しよう。
いつも『失われた時を求めて』を頭のなかで参照しながら読んでしまうんだけど、時代としては『レ・ミゼラブル』のほうが近いんだよね、と確認したら、井上究一郎って『レ・ミゼラブル』も訳してるのか……! めちゃくちゃ仕事してる……。
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lioninpassage · 1 year
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2023-01-18
今日読んだところ:
「パリ――一九世紀の首都」〔ドイツ語草稿〕 V ボードレールあるいはパリの街路
今日読んだところ(特に前半)、ほとんどわかってない……ボードレールも弁証法もわかってないから……
後半のほうがまだ何の話をしているかわかった気がする。
遊歩者の最後の旅、それは死出の旅である。その目標、それは新しいものである。〔中略〕新しいものは、商品の使用価値から独立した質をもつ。それは、集団の無意識が生み出すさまざまな形象(ビルト)には譲り渡すことのできない仮象の輝きの源であり、モードが飽くことなくその代弁に当たる虚偽意識の精髄である。〔中略〕こうした仮象の生み出したものこそ、ブルジョワジーがその虚偽意識を満喫している「文化の歴史」の幻像(ファンタスマゴリー)なのである。芸術は、自らの使命を疑い始めていて、「有用性から離れえない」(ボードレール)ことをやめて、新しいものを最高の価値にしなければならない。( p. 22 )
歴史(進歩史観?)=より新しいものがより価値あるもの、ということ?
非画一主義者たちは、芸術が市場の思いのままになることに反抗し、「芸術のための芸術」の旗印のもとに結集する。この合い言葉から、芸術を技術の発展から守る総合芸術作品という構想が生じる。総合芸術が自らを讃えて執り行う聖別式は、商品を美化する気晴らしと対をなすものである。両者とも人間の社会的生活を無視している。 ( p. 22 )
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lioninpassage · 1 year
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2023-01-10
典型的な三日坊主になってしまった……! めげずに再開していきたい。
今日読んだところ:
「パリ――一九世紀の首都」〔ドイツ語草稿〕 IV ルイ=フィリップあるいは室内
この頃、生活の場の実際の重点は事務所に移る。現実性を失ってしまった人間は、自分の部屋に自分なりの逃げ場を作る。/『建築家ソルネス』〔イプセンの戯曲〕は、ユーゲントシュティール〔1900年前後の独に現れた芸術様式〕をこう結論づけている。その内面性を根拠にして技術に対抗しようとする個人の試みは、破綻せざるをえない、と。(p. 18)
寮住まいをしている友人たちのことが思い浮かぶが、わたし自身も、自分の根拠地として今住んでいる家の自室を整えたいという気持ちと、しかしわたしはここにいつまで住んでいるんだろう(わたしの家ではないのに)という気持ちが両方ある(生みの親かつ育ての親であるところの両親が購入して所有している家ではあるが、いつまで母が父と、父が母と一緒に住みつづけようとするのかわかったものではないし、わたしにとって「親のもの」はわたしのものではない)(だから最近ただいまって言うのをやめようと思っているんだけど、気をつけていないとつい言ってしまう)。
彼〔室内の居住者〕は物の美しき変容を自らの仕事とする。彼には、物を所有することによって物から商品としての性格を拭い取るというシジフォスの永久に続く仕事が課せられている。(p. 18)
わたしは推しのグッズをまあまあ欲しがってしまう人間で、しかしせっかく所有しているものをしまいこんでいては意味がないなと思って結構部屋の中に飾っているのだけど、去年の晩秋あたり、部屋で考えたり書いたりしているときのノイズを減らそうと思って多少片づけた(推しのグッズをノイズと表現するのは心苦しいが、考えごとから気を逸らしてしまうもの、という意味で……)。やっぱりちょっと頭がすっきりした。
本文そのものの読解とは関係ない話ばかりしている。
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lioninpassage · 1 year
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2023-01-03
今日読んだところ:
「パリ――十九世紀の首都」〔ドイツ語草稿〕 III グランヴィルあるいは万国博覧会
「パリ――十九世紀の首都」自体は、すでにちくま文庫か何かで(おそらくフランス語草稿を)読んでいるはずなのだけど、あんまりちゃんと覚えていない。でもこの節は非常に印象に残っている。特に「娯楽産業は人間を商品の高みに引き上げる」(p. 14)。
万国博覧会は商品という物神の巡礼場である。(p. 13)
佐藤道信『〈日本美術〉誕生』は、日本の美術用語(と制度)が産業ひいては博覧会との関わりから成立していく過程を描いていたけど、(近代)芸術にとってそれは本質的に辿らざるをえない過程だったのだろう。
万国博覧会は商品の交換価値を美化する。博覧会が作る枠組みのなかでは商品の使用価値は背後にしりぞいてしまう。万国博覧会は幻像空間(ファンタスマゴリー)を切り開き、そのなかに入るのは気晴らし〔Zerstreuung〕のためとなる。〔中略〕人間は、自分自身から疎外され、他人から疎外され、しかもその状態を楽しむことによって、こうした娯楽産業の術に身をまかせている。(p. 14)
ソシャゲ(を中心に展開するコンテンツ産業)に時間とお金と思考の大半を割いてしまっているわたくしには耳に痛いな……せめて正気でありたいが(p. 14-5「彼〔画家グランヴィル〕は全自然を、広告――この広告という言葉も当時生まれたものである――が商品を展覧に供しはじめたのと同じ精神で、展覧に供してくれる。彼は狂気のうちに死んだ。」!)、その「正気」というものも結構疑わしい近代の産物のようで。
モードこそは物神としての商品をどのように崇拝すべきかという儀礼の方法を指定する。〔中略〕モードはどれも有機的なものと相対立しながらも、生ける肉体を無機物の世界と交わらせる。生ける存在のうちに、屍の権利を認めているのである。無機物的なものにセックス・アピールを感じるフェティシズムこそが、モードの生命の核である。商品崇拝はこのフェティシズムを自らのために使うのである。(p. 15)
「生ける存在のうちに、屍の権利を認めている」がよくわからない……。
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lioninpassage · 1 year
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2023-01-02
今日読んだところ:
「パリ――十九世紀の首都」〔ドイツ語草稿〕 II ダゲールあるいはパノラマ
対物レンズの意義はますます大きくなるが、それは、新しい技術的および社会的現実に直面して絵画や版画による情報に含まれる主観的色合いがいかがわしいものと思われるようになるにつれて、はっきりしてきた。(p. 11)
写真は客観であるという幻想
写真は、まったく役立たないか、あるいは、絵というかたちで一人の客にしか役立たなかったような人物、風景、事件をいくらでも市場に提供しうるようになったのである。(p. 12)
絵が注文によって描かれるというのはもちろんわかっていたつもりだけど、そうか、注文主という一人の客さえいれば、絵は描かれるのか これは結構絵という芸術形態に大きく作用しているような
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lioninpassage · 1 year
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2023-01-01
昨年末に年賀状を書きながら、新年を詠んだことがないから新年の句もほとんど目を通したことがないなって歳時記をめくっていて、「読初」という季語を見つけた。 それで、2023年の読初を何にするか大晦日と元日の間ずっと考えていたのだけど、やっぱりベンヤミン『パサージュ論』から始めることにする。
2023年の目標の一つが、『パサージュ論』を毎日ちょっとずつ読んで、読書日記をつけることです。 読みおわるところまではめざさない。自分にとって適切なペースで、でも休まず続けたいと思っている。
ちなみにわたしが読もうとしているのは岩波(1993~)の単行本全5巻なのだけど、もう岩波現代文庫にも岩波文庫にも入っていたのだね。 大学に入ってすぐの頃、背伸びして古本屋さんで買ってもらったも��。ようやく手をつける……。
今日読んだところ:
三島憲一「『パサージュ論』のテクスト成立過程の素描」
「パリ――一九世紀の首都」〔ドイツ語草稿〕 I フーリエあるいはパサージュ
ゾラも未読なんだよねえ。
〔フーリエは〕協働生活体(ファランステール)によって人間を道徳の不要な状況に引き戻そうというわけである。(p. 8、括弧内引用者補)
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