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ミスジェンダリングに同意すること
私はミスジェンダリングされることにすら同意することができる。男性ではない私が男性として欲望され、ペニスを使ったセックスをすることに同意することができる。そこで私は男性として扱われていて、それは間違いなくミスジェンダリングである。 ミスジェンダリングは暴力だ。日常の会話のなかや書類のうえで繰り返されるミスジェンダリングに私は毎回律儀にちょっとずつ傷ついていて、そのような意味で暴力である。私がそのようなミスジェンダリングを受け入れることはない。 しかし私はその友人によるミスジェンダリングを受け入れる。友人は私がノンバイナリーであることを知っていて、ノンバイナリーであるということがどういうことを意味するかも知っていて、そのうえで男性の私を少し申し訳なさそうに欲望している。 私が男性として女性の友人とセックスをすること、それはバトラーがアルチュセールの呼びかけと主体化の議論を引いて論じたように、ジェンダーを引き受けることであるはずだ。男性に対するセックスの誘い(呼びかけ)に私が応える(振り向く)こと、それは私が男性として主体化されることにほかならない。 これはロールプレイなのだと私は私に言い聞かせる。人がベッドの上でだけ奴隷やご主人さまになり、日常では自由と権利を持った市民であり続けることが可能であるなら、ノンバイナリーの私がベッドの上でだけ男性になり、かつ日常ではノンバイナリーであり続けることも可能なはずだ。 ミスジェンダリングを受け入れ、男性のロールプレイをすること、それは私からの友人への贈与なのだと思う。もちろん、そこには十分な見返りがある。私は私で友人のことを欲望していて、それが満たされることは十分すぎる見返りだと思う。 しかしやはり、自分のジェンダー・アイデンティティを危険に晒してまで友人の欲望を満たそうとすること、それは私から友人への贈与なのだと思いたい。友人は何人かの男性と関係を持っていて、相手には困っていないはずだ。しかし私は友人の欲望を満たしてみたかった。私は友人のことを(他の何人かの友人たちと同様に)疑いようもなく愛していて、その証に何かを差し出したかったのだと思う。
他方で私はやはりノンバイナリーとして人に欲望されることを夢見ている。ベッドと日常が一致することを。可能かどうかはよくわからない。
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残酷な空想について
私が普段しんどいときにしている空想をリストアップしてみます。実際に書き出してみると、生きたまま長時間血を流すタイプのものはほとんどないなと思いました。血は苦手です。
・生きたまま土に埋められる。きちんと意識はあって、猿轡をかまされて。
・首を切られる。方法はギロチンや斧などさまざまではあるものの、いずれも一撃できれいに首が落ちる。首がころりと転がる。
・溶鉱炉で片足ずつ溶かされる。
・頭に袋を被せられて学校の屋上から突き落とされる。
・後ろから細いワイヤーで首を括られる。細くて首に深く食い込む。
・大きなビニール袋に入れられて、ゆっくり窒息させられる。はじめから空気がないのではなくて、少しの空気とともにいれられて、少しづつ酸欠になっていくのがいい。
・火���の火口に突き落とされる。
・男の人に鉄の棒で思い切り頭を殴られる。頭蓋骨がへこむ。
・たくさんの人が見ているまえで自殺させられる。方法は問わず、たくさんの人が私の自殺を見るためにそこにいることが重要なのだと思う。
・大きな生き物に丸呑みにされて胃の中で何日もかけて溶かされる。
・安楽死させられる。じたばた抵抗する私を男の人が押さえつけて注射を打つ。
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主体性が剥がれ落ちる瞬間――小さな死について
賢い人が(性的にも)大好きです。「賢い」ということの定義はいくつもあると思いますが、いろいろなことを知っていたり、物事を深く理解することができたりする人が大好きです。私は私が理解できる範囲の賢さしか愛せないというところに限界があるわけですが、ひとまず私は賢い人が大好きだ、とここではいっておきます。
だから、東京のわりと賢い人の集まりがちな大学に進学して、とても幸せでした。先輩のアパートに入り浸ってバタイユやウィトゲンシュタインについての話をしながらするセックスはとてもよかったです。たぶん、そういうちょっと古めの大学生像に憧れていたんだと思います。微笑ましいです、今は。
私は行為としてのセックスそのものはあまり気持ちいいと感じないらしいというのも、そのころ気づいたことでした。性器同士の触れ合いは確かに刺激的だけれど、それ自体が気持ちいいかというとそうでもない気がしていました。2021年の夏から抗アンドロゲン剤を飲むようになって、狭義の「性欲」みたいなものもかなり弱まったし、実際のところ20歳を過ぎてから誰かとセックスをすることはなくなっています。
セックスは気持ちいいというよりも、まず面白いです。腰の動かし方も面白いし、同じ動きを飽きもせず何分も続けるのも面白い。一番面白いのは、普段理性的な会話をしている人がオーガズムに達して痙攣している姿です。普段は思慮ぶかくて意味のあることしかしない人なのに、こんなに無意味で意味不明なことをしているのを面白がらずにいられるでしょうか。
バタイユはオーガズムを「小さな死」と呼びました。生と死が交錯する瞬間、それがオーガズムです。ほとんどの場合、そこから再び生に戻ってくることができるわけですが、それは死には違いありません。痙攣している間、その人は死に瀕しているのです。そこでは人間の主体性も一時的に失われます。腹筋を震わせて痙攣している人は一体何を考え、どんな主体的行為ができるでしょうか。その人はしばらくの間、痙攣していることしかできないのです。
だから、私は賢い人が(性的に)好きなのです。賢い人の賢さが小さな死のなかで失われているのを見るのが面白いからです。その主体性が快感のなかに融けていくのを見るのが幸せだからです。
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暴力・猥談・性的合意
猥談が好きです。セックスそのものよりもたぶん猥談のほうが好きです。
猥談とセックスは暴力です。それは否定できません。他人の身体を勝手に触ることは性暴力だし、他人の性的経験について無理やり聞き出そうとしたりすることはセクシュアルハラスメントです。それらの暴力は人を傷つける可能性があるものです。だから、猥談とセックスには合意が必要です。ここからする話は合意のある猥談とセックスの話です。
猥談とセックスは合意があっても暴力です。自分の身体のなかに他の人の身体が入るという事態は、それだけで十分に暴力的ではないでしょうか。行為への合意があっても、痛みや身体的なリスクは常につきまといます。また、性的経験の告白は多くの場合、聞き手を動揺させます。嫌悪感を催させたり、話し手に対する欲情を引き起こしたり、何らかの感情を喚起します。それがどのような感情になるかは、合意のうえで話を聞いてみないとわかりません。
猥談とセックスに共通している暴力性は、それが人を変化させうるものだということです。猥談を聞いてしまった人は聞く前の人と同じではいられませんし、猥談をしてしまった人は話す前の人と同じではありません。会話に参加した人の主体性、そしてその人たちの関係性は決定的に変化してしまいます。
猥談とセックスにおいて求められているのはこの暴力なのではないか、ということがこの文章で主張したいことです。過度な一般化を避けて「私が猥談に求めているのは暴力によって変化させられることなのではないか」というべきかもしれません。セックスの場合はもっとわかりやすいはずです。
私が求めているのは猥談の暴力によって変化させられてしまうことです。知るはずのなかったことを知らされ、思い浮かべることのなかったはずのことを思い浮かべて、それまでとは違う私に生成変化することです。(ここまででわかるように、これは厳密にいえば会話一般に認められる特徴でもあります)人間がなしうる行為、人間同士がもちうる関係性、人間が生成変化することのできる非人間的なもの、その多様性を思い知らされることを期待しています。それに憧れてしまう私はもうもとの私ではありません。
猥談を語ることも聞くことも暴力です。その暴力性を認識して、合意したうえでその暴力を交わすやりとりが楽しいと思っています。
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ノンバイナリー的セックス、あるいは異性愛でも同性愛でもない何か
18歳のころ一度だけセックスをした大学のサークルの先輩に「やっぱり男とするセックスもいいね」と言われたことがありました。その人はたしかパンセクシュアルで、女性同士で付き合うことが多かったからそのようなことを言ったのだと思います。「いいね」と言っているのだから褒め言葉です。
でも私は素直に喜べませんでした。私が男であることを前提に「男とするセックスもいいね」と言われるのはミスジェンダリングだからです。たとえ私のペニスがその人のヴァギナに入っているとしても、それは私が男であることの証明にはなりません。
私がその人の胸の上で「それ、微妙な気持ちになるからやめてください」と言ったらその人はすぐに謝ってくれました。べつに、ミスジェンダリングしたくてしているわけではないのです。
どう言えばよかったのでしょうか。「ペニスを入れられるセックスもいいね」とでも言えばよかったのでしょうか。なんだか表現が具体的すぎてちょっと面白くなってしまう気がします。
この出来事が示しているのは、男でも女でもない人がセックスをするという事象について私たちは表現する言葉を持っていないということです。女と女、男と男、男と女がセックスをすることは一般的な常識となっています。同性間でのセックスがこの世界に存在するということはホモフォビックな人々でさえ(その行為を非難することを通じて)認めることです。
でも、男でも女でもないアイデンティティ(男でも女でもないという表現とノンバイナリーという言葉が完全に同じものを指すわけではないですが、便宜上ここからはノンバイナリーと呼びます)をもつ人がセックスをするということについて、私たちは言葉にすることが困難です。私たちは男あるいは女しかセックスをする主体として考えたことがないからです。それはジュディス・バトラーの言葉を引くなら、ノンバイナリーな人のセックスというものが「理解可能性のマトリクス」の外にあるからだといえるでしょう。
実際には私がしていたようにノンバイナリーな人々はセックスをします。それは一見同性愛的に見えたり異性愛的に見えたりするでしょう。また、そこでは身体違和との関係でさまざまな葛藤があるかもしれません(私にはありました)。でも、そこで行われるセックスはノンバイナリーの人のアイデンティティを身体の形に還元するものではありません。ノンバイナリーの人はセックスをしても、誰とどのようなセックスをしても、ノンバイナリーの人であり続けます。そのセックスがその人をレズビアンの女性やヘテロセクシュアルの男性にしてしまうことはありません。(初めてのセックスを「男になる」とか「女になる」と表現し、性的経験をジェンダー規範の達成と結びつける人がいますが、そういうものがノンバイナリーの脅威になるのです)
この前提を確保したうえで、私たちはノンバイナリー的なセックスというものを発明しなければなりません。それはもしかしたら同性愛や異性愛にとても似たものかもしれないし、あるいは性器���触れることなく行われるものかもしれません。とにかく、ノンバイナリー的なセックスというものは空虚な記号でなくてはなりません。ノンバイナリー的なセックスはそれをしている人がノンバイナリーであるということ以外なにも意味しません。ジェンダー・アイデンティティとセックスを切り離すこと、それがノンバイナリー的なセックスの唯一にして最大の目標なのです。
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虐待を受けることを選びとる――2022年の私にとってのマゾヒズム
SMの経験がある友人たちの話を聞いて、子どものころの怖かったことに向き合うためにマゾヒズムが役に立つのではないかと思いました。親からのいわゆる虐待(客観的にどの程度虐待といえる状態だったのかはわかりませんが、精神的・身体的な暴力がありました)や、学校でのいじめなどの記憶に大人の私が対処するために、マゾヒズムの概念や実践が役に立つのではないかと。
じっさい私は狭義の性的なことに関心をもつ前からマゾヒスティックあるいは残酷な空想(手足を拘束されたり、大きな怪物の胃の中で消化されたり、野外に裸で並べられて順番に鉄の棒で頭を割られていくたりなど、「リョナ」に近い部分もあったと思います)に魅せられていたし、それが心の支えにもなっていたように思います。今もそういった空想に生かされている自覚があります。自分を生につなぎとめておくために残酷さを夢見ることが必要なときがあるのです。
私はいまのところ、SMの実践をしたことがありません。18歳のころにセックスをしていた人が首を締めてくれたことがありましたが、冷たい手がくすぐったくてだめでした(ちなみにジャーナリスト志望だったこの人はのちにSMコミュニティのフィールドワークをすることになります)。20歳をすぎると人とセックスするような関係性になること自体なくなってしまって、だから私はずっと憧れているだけです。SMを実践している/していた友人たちがSMに救われたり救われなかったりする話を聞きながら。
私がマゾヒズムに憧れているのは、それが虐待の再演になりうるからなのだと思います。大人になるまで生き延びることのできた私が、自分の意志で権利と行為能力を手放し、無権利・無能力の状態に(それがプレイであるかぎりあくまで疑似的に)戻れるのがSMなのではないかと思っています。圧倒的な何か(それは子どものころの私にとっては両親だったし、一般的なSMの文脈ではご主人さまでしょう)に屈服させられ、その気まぐれのままに扱われ、生かされ、殺されることを夢見ています。
ここまでの文章でわかるように、私が望んでいるのは服従することではなく支配されることです。服従するためには私が主体である必要がある(フーコー的にいうなら主体になることは服従とイコールである)のですが、支配されるためには私が主体である必要はありません。例えば石は人間に服従しません(できません)が、人間は石を支配できます。川に投げ入れたり、ぶつけて割ったりすることが自由にできます。石はそれを拒否できません。私はその石のように扱われたい。
人間の私は苦痛から逃れようともがくでしょう。子どものころの私が「ごめんなさい」と繰り返して許してもらおうとしたように。実は私は苦痛を求めてなどいないのです。求めていない苦痛が否応なしに与えられることを望んでいるのです。
たぶん私の求めているものは一般的なSMとは少しずれているのでしょう。私が求めているのは苦痛=快楽ではなく絶望=安心です。たぶん根幹にあるのは希死念慮で、最終的には私は安心して殺されたいのだと思います。自由な私は死を望みつつ、死を選びきれません。だから私は自由を捨てて、何物かに身を委ねて殺される以外に死ぬ方法がないのだと思います。
実際には殺してくれる人を見つけることは現行法下では難しいだろうし、私が安心して殺されることのできるような人を見つけるのはもっと難しいでしょう。だから、私はそのずっと手前で満足するつもりです。殺してもらえなくても支配してもらえればいい。支配してもらえなくてもたまに私の意思を否定してもらえればいい。それで、誰もそういうことをしてくれる人がいないので私は一人で空想しています。この空想を現実にできたなら、もう少し安心して生きられるのかもしれません。
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